1978年の明日1月1日はフランスの初期のロケット開発を指揮したジャン=ジャック・バール博士の命日です。
ロケット開発はソ連のセルゲイ・バーヴロヴィッチ・コロリョフ博士、アメリカのヴェルナー・マグヌス・マクシミリアン・フライヘル・フォン・ブラウン博士、日本の糸川英夫博士、中国の銭学森博士のような天才的指導者が必要なようで、世界で3番目に人工衛星の射ち上げに成功したフランスを先導したのはバール博士でした。
バール博士は20世紀が始まった1901年にパリで生まれ、1924年にパリ市郊外にあるバリサクレー大学の理工科の教育機関のエコール・ポリテクニ―クを卒業すると陸軍の砲兵学校に入営しました。バール博士は大学在学中から天文学に興味を持っていて1927年にフランスの航空工学と宇宙工学の権威・ロベール・アルベール・シャルル・エスノー=ペルトリ博士の講義を聞いたことでロケットによる上層大気の観測や惑星間飛行の可能性を現実のモノとして考えるようになり、その後は共同で研究するようになったようです。1935年には16キロの砲弾を射ち上げる対空用の軍事用ロケット=ミサイルが採用され、1939年に勃発した第2次世界大戦での活躍が期待されましたが、戦局は急転直下フランスの分割で停戦したため自由フランス地区に逃れたものの開発は停滞することになりました。
第2次世界大戦が終結してフランスの実力を誇大宣伝する虚栄心の権化・シャルル・ド・ゴール首相(後に大統領)が政権を握るとソ連とアメリカが始めた宇宙開発競争に参入することを表明し、バール博士に弾道技術・航空技術研究所で指揮を執り、宇宙空間にフランス製の人工衛星を参入させることを命じたのです。バール博士は戦時下でも独自に研究を進め、液体酸素とガソリンの混合液体燃料を窒素ガスで加圧してエンジンに送って推力にする重量100キロ・全長3.13メートル・直径26センチで25キロの重量物を高度100キロまで射ち上げられるロケットを開発して終戦後に再開した実験で7回発射して3回成功していたため1946年にはこれを大型化した重量3400キロ・全長11メートル、直径80センチで300キロの重量物を搭載して1000キロ飛行できるロケットを完成させました。ただし、実験で爆発事故を起こしたため揮発燃料はガソリンからアルコホールに変更しました。ところがド・ゴール大統領はソ連とアメリカに後れを取ることを嫌い、地上実験の結果、欠陥が確認されていたロケットの射ち上げを強行し、音速突破の衝撃波で空中分解する失敗を繰り返したため開発計画は中止になり、バール博士は宇宙開発から身を引いて航空機メーカーのコンサルタントに転職しました。
結局、フランス製の人工衛星・アステリックスが宇宙空間で地球の周回軌道に参加したのは1965年11月26日で、翌1966年9月26日には日本が糸川博士の指揮の下、ラムダ4Sロケットの発射実験を開始していますからこの情報を入手したド・ゴール大統領が「敗戦国・日本にまで負けられない」と厳命したのかも知れません。
- 2020/12/31(木) 13:18:40|
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翌日、出勤した安川3尉は中隊長の神田山1尉に教案を提出した。この教案は法律のプロであるモリヤ2佐のお墨つきをもらっているので、書簡にあった北キボールとカンボジアの「駆けつけ警護」の実例を追加しただけだ。
「そろそろ衆議院の特別委員会の審議も煮詰まってきたから、衆議院で可決された時点で実施しなければいかんな」受け取った教案に目を通すことなく神田山1尉は衝立の向うの席の飯田2尉にも聞こえるように実施予定を告げた。
5月19日に衆議院に設置された「我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会」での審議は全く噛み合わないまま進行しているが、宮沢政権がPKO法案の審議で野党の嫌がらせの粗探しに振り回されて初めて海外派遣される陸上自衛隊に手枷足枷を掛けた上、目隠しと耳栓まで填めさせた欠陥品の法律にしてしまった教訓を熟知する加倍政権は無用に長引かせることはないはずだ。むしろ今回のPKO法の改定は宮沢政権が犯した失策を国際常識に合致させる治療的処置とも言える。
「しかし、僕の教育内容を知らないで補足説明できるのか」「隊員も不安になった家族から説明を求められるようになっていますからそろそろ実施時期だと判断しました」神田山1尉の嫌味に安川3尉は準備していた理由を答えた。それにしても神田山1尉は自分の精神教育が中心演目で安川3尉の法案の解説は補足説明と考えているようだ。その割に今日まで自分の教育内容を説明していないのは共同作業の連携を損なっている。
「最初に国会に提出されている法案と改定案を解説するのか」安川3尉の理由に納得せざるを得なくなった神田山1尉はバインダーに綴じてある教案に目を落とした。教案の最初には「配布する法案等の一覧表を解説する」とある。そのための安川3尉の台本はモリヤ2佐にも送った連隊1科が配布した資料の一覧表をパソコンでデーター化して新聞の記事の内容を書き込んだものだ。安川3尉は何度も熟読しているがモリヤ2佐のような見解には至らなかった。おそらく神田山1尉も同様だろう。
「自衛隊法の任務から『直接侵略及び間接侵略に対し』を削除する改定はどう説明するんだ」神田山1尉は一覧表の最初に名前が出てくる自衛隊法に目を止めて質問してきた。ここは「俺はこう考えている」と説明するべきだが答えが出ていないことを自白したようなものだ。
「今回の安全保障関連法案は日米安保条約の実効性を確立するために自衛隊もアメリカ国土への武力攻撃に参戦できるようにすることを目的としています。それを存立危機事態と定義したので削除したということでしょう。防衛出動の条文も同様です」昨晩、モリヤ2佐の解説書を暗唱するほど熟読してきたので回答が口から流れ出た。これには神田山1尉は唖然とし、衝立の向うで飯田2尉は「ホーッ」と感嘆の声を漏らした。
「つまり今回の安全保障関連法案は日米安保条約の強化のために提出されたと言うんだな」「はい、あくまでも自衛権の範疇です」安川3尉の即答を受けて神田山1尉の目に敗北感が走り、続いて嫉妬と安堵が複雑に交錯した。
「マスコミは安全保障関連法案の目的をアメリカの戦争に協力するためだと口を揃えているが、自衛権の強化だと考えれば憲法の問題もクリアできるな」「自衛隊が参戦するのはあくまでもアメリカの国土に対する武力攻撃であって海外への軍事介入は含まれません」「それは何に書いてあったんだね」ここで飯田2尉が口を挟んだ。ここまで高度な見解を披露してしまうと「部内出身者は防衛大学校や一般(部外)課程出身者よりも優秀であってはならない」と言う陸上自衛隊内の能力序列に反してしまうため、あくまでも請け売りに過ぎないことを告白させるべきだと考えたようだ。
「知り合いの国際刑事裁判所の検察官に教えてもらいました」安川3尉も飯田2尉の質問の意味を察して神田山1尉の面子が立つように説明した。モリヤ2佐は一般(部外)出身なので防衛大学校を超えてはならず、意外に知名度が高いので名前を出せば逆効果になる可能性がある。そんな我が身を守る幹部自衛官生活の知恵も飯田2尉から習っている。
「君は部内出身の癖に凄い人を知ってるんだな。ならば納得できる。僕も教育で使わせてもらおう」飯田2尉の助け船のおかげで神田山1尉の目からは嫉妬が消え、安堵一色になった。結局、神田山1尉は立場上「政治的な問題は自分が精神教育で説明する」と大見得を切ったものの八方塞に陥って、師団の法務官に指導を仰いでいたが明確な回答はなく、国会の審議が紛糾して採決が遅れることを願っていたのだ。そこに思いがけない解決策を与えられたのだが、その情報源が国際刑事裁判所の検察官であれば何も問題はない。部下である部内出身者がそのような人物と交流を持っている経緯は訊かないのが得策なのも判っている。
- 2020/12/31(木) 13:17:03|
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昭和41(1966)年の明日12月31日の土曜日にテレビアニメの傑作「鉄腕アトム」の最終回193話が放送され、フジテレビ系列が視聴できた地域の少年少女が涙しました(当時、後発のフジテレビ系列の地方局は少なかった)
「鉄腕アトム」は言うまでもなく手塚治虫先生が昭和27(1952)年からアニメ終了後の昭和43(1968)年まで漫画雑誌「少年」に連載したSF漫画を原作とするテレビアニメで1963年1月1日から放送されたのでピッタリ4年間の長編でした。
「鉄腕アトム」は21世紀が舞台で(アトムが製作されたのは2003年4月7日と言う設定だった)、天才科学者の天馬博士が交通事故死した1人息子の身代わりとしてロボットを作ったものの成長しないためロボット・サーカスに売ってしまい、そこでお茶の水博士に救われたのです。お茶の水博士はアトムのために父親のエタノール(後から作ったので年下)、母親のリン(お茶の水博士の亡くした妻がモデル=アトムを作った天馬博士と同じ動機)、原作では弟でもアニメでは兄のコバルト(同型機として製作したはずが作業を急いだため少し鈍い)、そしてパンチラで人気だった妹のウランと言う家族を作りました。また主題歌に出てくる「7つの威力」とは「10万馬力の原子力モーター」と「どんな計算でも1秒でできる電子頭脳」「60カ国が話せる声帯」「超音波まで聴き取れる耳」「サーチライトの目」「足のロケット・エンジン」「尻のマシンガン」のことです。
物語は人間の心を持つロボットのアトムが悪事を働く人間を懲らしめ、悪者に操られるロボットを破壊することで思い悩むなどの手塚作品ならではの深い心理描写を織り交ぜながら展開し、最終話は太陽の膨張で地球が呑み込まれる絶望的危機に対して核融合を抑制するロケットを発射しアトムが護衛と確認のために同行しますが、隕石が衝突して弾道がずれてしまったためこれを制御しながら太陽に突入すると言う涙なしでは見られないものでした(「特攻隊賛美に通じる」と言う一部の有識者からの批判もあったらしい)。
「鉄腕アトム」は一貫して視聴率30パーセントを維持する不動の人気を獲得したため、毎日放送(現在のTBS)は「少年マガジン」が始めから「鉄腕アトム」に対抗するためにSF冒険作家の平井和正さんに原作を依頼し、月光仮面で人気を獲得していた桑田次郎さんの作画による「8マン」をチャンネルの関係で「エイトマン」に改題して昭和38(1963)年11月7日から昭和39(1964)年のこちらも12月31日まで火曜日に放送し、視聴率では首位の座を奪い取ったようです。一方、フジテレビは横山光輝さんが同じ「少年」に連載していた「鉄人28号」を昭和38(1963)年10月20日から中断を挟んで昭和41(1966)年5月25日まで93話を水曜日に放送し、こちらも「鉄腕アトム」と競い合わせています。
しかし、このように高い視聴率を維持していたテレビアニメが相次いで終了した理由は作品を輸出していたアメリカでテレビがカラー化したため白黒のアニメが売れなくなったこととアニメを幼稚な電動紙芝居と嫌悪していたスポンサー企業の経営者が類似した作品の乱立を容認しなかったためだと言われています。
「空を超えて ラララ 星の彼方 征くぞファントム ジェットの限り・・・Fー4(えふよん)ファントム(昔の航空自衛隊員が愛唱した替え歌)」
- 2020/12/30(水) 13:41:04|
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「オランダから封筒が届いているよ」「ウ、ウ、ウ・・・グスン、グググググ」安川3尉が演習から帰ると寝室に敷いた布団で眠りかけている穂高に添い寝していた聡美が低く声をかけた。すると案の定、ぐずり出してしまった。
「部屋の灯り消し 目を閉じれば 浮かぶ家の灯 愛しい人の笑顔 眠れ 眠れ・・・」安川3尉が咄嗟に口ずさんだのは久居の新隊員課程でモリヤ中隊長から習った消灯ラッパの歌詞だ。久居のベッドで消灯ラッパを聞くと聡美の笑顔ではなく裸体が浮かんで眠られなくなったが、名寄の官舎で駐屯地から聞こえてくるラッパは子守唄になっていた。やはり穂高も腹の中で聞いていたようで大人しく寝息を立て始めた。
「座卓の上に置いてあるわ」「・・・」折角眠った穂高を起こさないように着替えを持って居間に移動する安川3尉に聡美は無音に近い声量で説明し、返事はせずにうなずいた。
「返事は薄いなァ」脱いだ迷彩服を演習中の汚れ物と一緒に脱衣籠に入れて戻った安川3尉は座卓の上に置いてある国際郵便を持って意外な軽さに拍子抜けした声で呟いた。実はモリヤ2佐の性格から考えて教案の全面書き換え=独自の教案作成も期待していたのだ。
演習場では状況終了後に幹部テントで酒を酌み交わしたが、中隊長の神田山1尉も教案の作成には苦労していることを告白した。入手できる資料は安川3尉と大差ない上、政治的影響を考えると内容には慎重の上にも慎重を期さなければならない。1小隊長の飯田2尉や安川3尉のような部内出身者は1尉か3佐になって中隊長か連隊本部の科長になれれば十分だが、神田山1尉には連隊長=駐屯地司令と言う身の丈の野望がある。しかし、政権への支持を前面に押し出し過ぎると反発した隊員がマスコミに内部告発しかねず、逆に疑問を呈すれば部内で叱責を受けて将来への致命傷になる。そんな重い空気の中、今回は訓練幹部としての業務を優先して教育を免れた飯田2尉は苦笑しながら2人のカップに手持ちの洋酒を注いでいた。
「私は海外で勤務しているので日本国内の情報が入手できずに困っている。君に送ってもらった資料でようやく勉強を始めたくらいだ」モリヤ2佐の手紙の書き出しは夫婦で予想していた内容だった。それでもA4版3枚にビッシリとパソコンの文字が並んでいる。
「教案は特に手直しするようなところはない。可能であれば陸曹には今回提出されている法案と既成法で改定される条文を一覧表にして配布した方が教育効果は高まるはずだ」「新聞でも野党が質問した項目をバラバラに取り上げてるから読んでいても、どの法律の条文か判らないもんな」これは配布する資料を作成することで安川3尉自身も知識を整理することができそうだ。
「政治的な目的は中隊長が先に教育するとのことだが、教官として理解しておかなければならないのはこの法案と改定が自衛権の行使の範疇にあると言うことだ」「ゴクッ」思いがけない見解に安川3尉は生唾を呑んだ。どの新聞を読み、どの番組を見ても「今回の安全保障関係法は実質的な改憲だ」と指弾していて、それに賛成するか反対するかで番組を色分けしている。それを法律の専門家であるモリヤ2佐は「合憲だ」と断定している。安川3尉は無意識に正座に座り直して便箋の文字に見入った。
「国家存立の手段である自衛権は日本国憲法に明文化されていないから適用範囲は政治的判断によって決定される」これを反対派のマスコミは「解釈改憲の枠を超えた」と批判しているが、「明文化されていなければ枠は存在しない」と言うのがモリヤ2佐の見解のようだ。
「かつて日本はソ連と言う軍事的脅威と間近に対峙していたが、当時のアメリカは共産主義を敵視する世界戦略を明確にしていたから日米安保条約は抑止力として万全に機能していた。ところが現在のアメリカは冷戦構造の崩壊によって自由主義の盟主としての存在理由を喪失して、本来は次なる仇敵である共産党中国を放置してしまっている。しかし、中国は日本の経団連の産業支援によって経済力を強大化して、その潤沢な資金を軍事力と海外への影響力の拡大に注ぎ込んで世界制覇に向けて踏み出している。加倍政権はこの現実を直視して、日米安全保障条約の機能を最大限に発揮させるための具体的施策として今回の法案を提出したのだろう。その中核となるのはアメリカの国土が武力攻撃を受けた時、自衛隊も存立危機事態として一緒に戦うと言う集団的自衛権だ。これで日米安保条約はアメリカ兵に日本を守るために血を流させるだけでなく、自衛官もアメリカのために命を捧げる相互防衛義務になった。ただし、防衛義務を負うのはアメリカの国土への武力攻撃と言う点を見落としてはいけない。その点を理解した上で条文を読めば理解は容易なはずだ」「やっぱりプロだな」エア・メールの往復とは言えモリヤ2佐が資料を受け取って返事を投函するまで1週間はかかっていない。安川3尉は「自分が送った資料でようやく勉強し始めた」と言いながら独自の見解を確立しているモリヤ2佐に聡美の「法律のプロ」と言う評価に共感した。

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- 2020/12/30(水) 13:38:36|
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細川たかしさんが昭和50(1975)年のレコード大賞最優秀新人賞を受賞した「心のこり」と昭和57(1982)年のレコード大賞を受賞した「北酒場」を作曲した中村泰士さんが12月20日に、作詞したなかにし礼さんが12月23日に亡くなったそうです。
中村さんの作品は野僧が知っているだけでも昭和47(1972)年にちあきなおみさんがレコード大賞を受賞した「喝采」、秋田県人が絶対に出身者と認めない桜田淳子さんが昭和48(1973)年のレコード大賞最優秀新人賞を受賞した「私の青い鳥」やデビュー曲の「天使も夢みる」、さらに「三色すみれ」「花占い」など、五木ひろしさんの「そして・・・巡りあい」、佐川満男さんの「今は幸せかい」、高校の先輩がファン・クラブに入っていてレコードを買うことになった吉田真梨さんの「ひまわりの彩」などがあります。
中村さんは昭和14(1939)年に奈良県北葛城郡の歯科医の5人兄弟の末っ子として生まれ、中学校でブラスバンド部に入ってトロンボーンを担当したもののジャズを吹いてばかりいて、進学した高校にブラスバンド部がなかったため担任に作ってもらいながらロカビリーにはまって大阪や神戸を遊び歩いて退学になりました。それでも18歳で内田裕也さんや佐川満男さんとバンドを結成して芸能界デビューを飾りましたが、やがて作曲を本業にするようになったようです。野僧が奈良の幹部候補生学校に入校した頃、中村さんは出身地の奈良を拠点として活動するようになっていたため民間人の友人に講演会に誘われたことがありましたが、1995年に奈良県知事、翌年の衆議院選挙に出馬しましたから選挙権はなかったとは言え、断って正解だったようです。
一方、なかにしさんのヒット曲は先ず昭和45(1970)年に菅原洋一さんがレコード大賞を受賞した「今日でお別れ」と「知りたくないの」が浮かびますが「今日でお別れ」の甘ったるい歌詞は非現実的です。男女は憎み合うから別れるのであってここまで綺麗事の別れなどは有り得ないでしょう。このほかにも母親がボーカルの三條正人さんのファンだった鶴岡雅義と東京ロマンチカの「君は心の妻だから」、朝丘雪路さんの「雨がやんだら」、いしだあゆみさんの「あなたならどうする」、中学校の同級生が隠れファンだった由紀さおりさんの「手紙」、小柳ルミ子さんの「京のにわか雨」、アン・ルイスさんの「グッド・バイ・マイ・ラブ」、ハイ・ファイ・セットの「フィーリング」、黒沢年男さんの「時には娼婦のように」、そして野僧がファンだった岩崎良美さんの「赤と黒」と「あなた色のマノン」などがあります。
なかにしさんは昭和13(1938)年に満州で酒造業を営んでいた両親の次男として生まれましたが敗戦による引き上げで死線を綱渡りして、帰国後も経済的な困窮や家庭の不和などの辛酸を舐めたようです。そのためなのかコメンテーターとして出演していたテレビ朝日のワイド・スクランブルでは左翼色濃厚な発言が多く、両親が満州で事業に成功していながら敗戦で全てを失ったことで戦争を始めた母国を恨み、野心を抱いて移住したことさえも国策による強制と思い込んだ少年時代の屈折した感情は修復できないことを実感しました。2人の作品を口ずさみながら冥福を祈ります。
- 2020/12/29(火) 14:03:00|
- 追悼・告別・永訣文
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同じ頃、陸上幕僚監部法務官室付の佐藤知美1尉は安川3尉以上の無理難題に悪戦苦闘していた。法務官室としては安全保障関係法案に関する解説書を各部隊に配布しなければならず、その作成を指示されている。ところが法律に関する業務全般を担当している内局は異様に保全が厳格で、日頃は若い独身女性として親しく接してくる官僚たちも制服組を敵視しているかのように関係部課への立ち入りも制限されていた。
「この資料では新聞の読み比べと大差ないな。まとめることだけが君の仕事かね」週に2回は各方面総監部に配布している資料に目を通しながら法務官は嫌味を口にした。一昨年に交代した陸将補の法務官がその前に転出したモリヤ2佐と比較することはないが、この仕事を担当してから事務室の陸曹たちは「国立大学の法学部出身と言うから期待していたが私立大学中退のモリヤ2佐よりも数段落ちる」「国立大学でもローカルでは古い私立大学と大差はない」「司法試験に合格した弁護士と落ちた事務職配置の違いだ」などと陰口を叩き、それをニ村事務官が陸上幕僚監部内で吹聴して回っている。
「閣下は加倍政権が今回の安全保障関係法案を提出した目的をどのように考えておられますか」「それは何度か話したはずだ。中国の軍事力の強大化に対処するには日米同盟を盤石にするしかない。そのためには今までのように日本国内に駐留を認めて補給や整備の便宜を図るだけでは不十分で、アメリカ国内に武力攻撃が加えられた時には自衛隊も一緒に戦うことを可能にする必要があると言うことだ」確かにこの見解は資料の作成を命じられた時にも確認している。しかし、これは日本国憲法の解釈改憲の許容範囲を明らかに超えていて法学部出身者としては法務官個人の極論だと思っていた。
「閣下から内局の担当者に資料を提供するように要望していただけませんか」「私に内局の官僚に頭を下げろと言うのか」止むに止まれぬ佐藤1尉の懇願に法務官は語気を荒げた。小泉政権で防衛大学校出身の防衛庁長官が就任して以来、警察予備隊が創設された時に送りこまれた旧・内務省の官僚によって本来は「政治による軍の統制」を意味する「シビリアン・コントロール」を自衛官=制服組を官僚=背広組の下位に置くこととした異常な体質は解消されたが、組織内の権力を喪失した鬱憤を晴らすような嫌がらせが横行している。その標的にされているのが自衛官の中では絶対的な存在である将官でも下位の将補なのだ。
「失礼しました。今回はこれを配布させていただきます」佐藤1尉は法務官の厳しい目に息を呑むと印鑑を押して突き出したバインダーを受け取り、10度の敬礼に続く回れ右の動作を省略して逃げるように退室した。
事務室に入り、ドアを閉めると佐藤1尉はその場で動けなくなった。足が震え、背中には冷や汗が滲み、両目からは涙が溢れてくる。抱き締めているバインダーの下では鼓動が胸を中から叩いている。そんな佐藤1尉を陸曹2人は心配そうに、ニ村事務官は冷たい視線で眺めていた。
「大丈夫ですか」3人の中では唯一の男性の曹長が声をかけた。モリヤ2佐がこの場面を演じれば黙って歩み寄って優しく抱き締めるのだが、曹長には年齢相応の常識がある。何より曹長がモリヤ2佐と一緒に勤務したのは半年に過ぎないから「型破りな幹部」「自衛官の前に弁護士」以上の印象は持っていない。
「ごめんなさい。今見たことは口外しないで忘れなさい」佐藤1尉はズボンのポケットから取り出したハンカチで涙を拭うと3人を見回して「お願い」を指示した。これがニ村事務官に言っていることは本人以外は判っているが、肝心の本人は噂のネタができてほくそ笑んでいた。
「モリヤ2佐ならどうしたのかしら」佐藤1尉は決済を受けてきたバインダーをニ村事務官に渡して自分の席に座ると重い口調で独り言を呟いた。佐藤1尉にはモリヤ2佐のような弁護士としての活動がないため事務室長を専業にしている。事務室長としてのモリヤ2佐の仕事は必要最小限の労力で片づけていたことが明らかであまり敬意は抱いていない。
「モリヤ2佐は好奇心の固まりだったから国会の傍聴に通ったんじゃあないですか」3人の中では最もモリヤ2佐に長く接していたニ村事務官が珍しく適切な推理を口にした。ニ村事務官はA日新聞の佐々木記者との不倫が発覚した時、無料の弁護士としてモリヤ2佐に相談したのだが冷淡に扱われたため逆恨みしている。だからこの推理も人間性を揶揄している。
「それじゃあ仕事はどうするの」「裁判中は事務室に泊まっていたみたいですよ」ニ村事務官としてはこれも迷惑を被ったように感じていたから口調は嫌味だ。それでも佐藤1尉は難問を打破するヒントとして受け止めた。
「そう言えばモリヤ2佐は仕事中もテレビを点けっ放しにしてましたよ。本当に困った人でした」それは引き継ぎに来て目撃している。佐藤1尉は新聞のテレビ欄を確認した。
- 2020/12/29(火) 14:01:54|
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1837年の明日12月29日にエリー湖からオンタリオ湖を流れ、アメリカとカナダの国境を形成しているナイアガラ川で蒸気貨客船・カロライン号がイギリス軍の攻撃で沈没する事件が発生し、アメリカの抗議に対してイギリスは「予見される侵略を阻止するための先制的自衛権に基づく正当な戦闘行為」と主張しました。
1776年にアメリカが独立するとイギリス国王に忠義を尽くし、独立に反対していた植民地の支配階層は国外退去せざるを得なくなり、その多くは隣りのイギリスの植民地のカナダへ移住したのです。カナダは本来、フランスが開拓を進めていた植民地でしたが(「カナダ」と言う地名自体がフランス語)、1755年から1763年の7年戦争でイギリスが支配権を獲得しました。しかし、カナダ領内では新たに支配者として入植したイギリス人に対する反発は根強く、終戦時に強制したカソリックの禁止やイギリス国王に対する絶対的忠誠を軽減・緩和してフランス式統治と国内法の準用を認めるケベック法が1774年にイギリス議会で成立していました。
それでも日本の百姓一揆に類する農民の暴動が続発していた中、1837年12月にオタワ川の西岸のアッパー・カナダで発生した大規模な暴動の主謀者がアメリカに逃亡すると受け入れたアメリカ人たちは「カナダでも独立運動が始まった」と勝手に思い込み、アメリカ政府は不介入を表明したにも関わらず義勇兵を募集し、武器と弾薬を用意し始めました。こうした早合点をカナダ国内の反イギリスの過激分子も利用し、イギリス植民地軍の弾圧を受けると川を渡ってアメリカへ逃げ込み、武器と弾薬を受け取って態勢を整え、暴動を継続するようになったのです。
当然、イギリス植民地軍もこの問題を重視して国境であるナイアガラ川沿いにも海軍の守備隊を配置しましたが、すでに反乱軍化していた過激分子たちはナイアガラ川の中央にあるイギリス植民地領のネイビー島を義勇兵が待機し、武器・弾薬を補充する拠点として利用しており、この日もカロライン号がアメリカとカナダの港を2往復したことを察知した守備隊長の命令でアメリカ側の港に停泊していたカロライン号を襲撃して、乗員33名と乗客=義勇兵の内10数名を殺害して川に投げ込み、船体に放火して川に流したためナイアガラの滝に落下して破壊したのです。
アメリカ政府は自国領土内にあったカロライン号への武力行使に抗議しましたが、イギリスは前述の回答を返したため対立が続き、1842年の交渉でイギリスがアメリカ領内にあったカロライン号を襲撃したことにのみ遺憾の意を表明したことで両者が歩み寄りました(アメリカ側も義勇兵と武器弾薬の供給を阻止しなかった責任を認めた)。
この時、先制的自衛権行使の要件として「必要性の原則=反撃の軍事的必要性」「均衡性の原則=加える反撃と受ける攻撃の均衡性」「即時性の原則=反撃を即時に行う緊急性」が提唱され、長く国際法学界で議論されましたが第2次世界大戦後にナチス・ドイツの戦争犯罪を裁いたニュルンベルグ国際軍事裁判所が適用したことで国際法上の定義として確立しました。
- 2020/12/28(月) 13:32:20|
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「テレビを見ていると笑っちゃうわ」部隊では中隊が取っている複数の新聞の他にも連隊1科が連日のように幹部向けの解説資料を配布してくるため情報が溢れて教案作成どころではなくなっている。そんな重い気分とアタッシュ・ケースを抱えて帰宅すると穂高を寝かせつけて夕食の準備を始めている聡美が台所から声をかけてきた。
「笑っちゃうって安保関係法の番組だろう」制服を脱いでジャージに着替えた安川3尉はリビングのベビー・ベッドで眠っている穂高の寝顔を見ながら質問を返した。中隊長から教育を命じられて以来、聡美には民放各局の報道バラエティ番組の安全保障関係法案に関する場面を録画するように頼んでいるが、反対派の主張を鵜呑みにすれば戦争に巻き込まれる危険に怖れ慄き、賛成派でも夫が戦争に征く可能性に不安を積らせるはずだ。
「だって普段は自衛隊を敵視している社人党の党首やコメンテーターが口を揃えて『加倍首相は自衛官を殺す気だ』って怒ってるんだもん。いつから自衛隊の味方になったのかしら」聡美は野菜を切っていた包丁を持ったまま振り返ったので反対派に殺意を抱いているように見えた。確かに社人党の党首・徳島水子は帰化した在日朝鮮人だけに日本政府への批判には憎悪が籠っているのを感じるので半殺しにしてやりた気分にはなる。
「私の両親だって自衛隊の事故で隊員が死ぬと嬉しそうに『死んだな』って声をかけ合っていたからあの人たちが主張する反戦平和って人命を尊重することじゃあないのよ」聡美の両親は教育者として反戦平和運動に熱心に取り組んでいるはずだが、反対しているのは日本を防衛するアメリカ軍と自衛隊の行動であってソ連や中国の侵略は大歓迎なのだ。
久居の新隊員課程の精神教育でモリヤ中隊長から沖縄でデモ隊に対処していて突入してきた車に撥ねられ、助手席に乗っていた女に「死ね」と罵声を浴びせられた体験談を聞いたことがある。そのデモ隊は全国各地の都道府県教祖や自治労、運輸省労組が赤旗を掲げていたと言うからモリヤ3曹(当時)を撥ね殺そうとした女は教職員だったのかも知れない。尤も新隊員たちはその続きの読谷のアメリカ軍の通信所施設の前で座り込みをしている本土の男女の活動家たちが夜になると乱公パーティーを始め、それをアメリカ軍の赤外線カメラの映像で見た話の方に興奮してしまった。その活動家たちも夏休み中の教職員だったはずだ。
「でも官舎の奥さんたちも『新聞やテレビで言っていることは嘘っぽいけど、ご主人に質問してもあまり判っていないみたいだから現場の隊員に説明しないまま国会が勝手に法律を作っているのか』って少し不信感を持っている人もいるみたい」「それが俺の教育の目的だけど、奥さんたちがテレビを見て感じた疑問に回答できるほどの知識を与えられる自信はないな」1小隊長の助言の通り、最も隊員が関心を持っている条文を詳しく解説し、それを代表例にして「だから反対派やマスコミが言うことを鵜呑みにするな」と釘を刺す手法では奥さんたちは納得させられそうもない。ここはその前の防衛大学校卒の中隊長の精神教育に期待するしかないが、毎日の朝礼・終礼の訓示を聞いても理屈っぽく小難しいので悩ましいところだ。
「モリヤ2佐は日本の安保関係法案について研究しているのかなァ」夕食が始まり、テレビのニュースで悩みの種の解説を聞いていて安川3尉は唐突に法律の専門家を思い出した。モリヤ2佐からは先日も出産祝いとしてヨーロッパの木製の玩具が届いている。しかし、自衛官でありながら国際刑事裁判所の検察官を務める法律の専門家とは言え、オランダ在住が長くなっているので日本の国内法に関心を持っているのかは微妙だ。
「貴方が持っている資料を送って読んでもらえば素人よりはシッカリ理解できるんじゃあないの。だってプロなんだもん」安川3尉の独り言に聡美も同調した。モリヤ2佐が陸上幕僚監部の法務官室で開設していた部内専用法律相談所ではテレビに出演している人気弁護士たちと同様の回答が返ってくるため「流石はプロ」と評判だったらしい。安川3尉も中隊長の吾妻1尉から苛めに等しい不当な取り扱いを受けていた時に田島1尉を通じて相談したことがあるが、裏で凄技を使ったらしく吾妻1尉は駐屯地業務隊の糧食班長だった天野1尉と交代させられた。問題は教育の実施予定が国会の審議が終わって法律が成立した直後と指示されていることで、急いで資料を送らなければ間に合わない。
「この資料はコピーを取って送っても大丈夫だな」夕食を終えると安川3尉はアタッシュ・ケースから大量の資料を出して秘密区分の確認を始めた。やはり連隊1科も上級司令部からの資料と新聞や雑誌からの引用で作成しているようで秘密指定はない。
「でも量が多いからエア・メールだと高くなりそう」すると隣りで目を覚ました穂高に母乳を与えている聡美がいかにも「官舎の奥さん」らしい台詞を口にした。年齢は若くても聡美の自衛官の妻生活はベテランの域に達しているから染まっても仕方ない。

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- 2020/12/28(月) 13:31:00|
- 夜の連続小説8
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1898年の明日12月28日にオーギュストさんとルイさんのリュミエール(=フランス語で「光」を意味する単語)兄弟がパリのホテルで世界初の有料映画「水をかけられた散水夫」を公開しました。映画としては10本程度が上映されたようで順番は資料によって差異があり、野僧は某テレビ番組の解説を採用しました。
この作品の内容は「散水夫が花畑に水を撒こうとすると別の男がホースを踏んでいて水が出ないためホースの先を見たところで逃げたので噴き出した水を浴びてしまい、怒って捕まえる」と言う上映時間は49秒(当時の17メートルの映画用フィルムの手動では50秒までだった)でも起承転結の物語が成立しています。この他にも「工場の出口」と言う仕事を終えた様々な女子工員の姿を描いた46秒の作品とする説や「ラ・シオタ駅への列車の到着」と言うリヨンに近いヴィルフランシュ・シュル・ソーヌ駅に蒸気機関車が到着する情景を正面から撮影した作品とする説があり、「ラ・シオタ駅」では迫りくる機関車に恐怖した観客が逃げようとして転倒する騒ぎが起こったとされています。
リュミエール兄弟は兄のオーギュストさんが1862年、弟のルイさんが1864年に肖像画家から銀板写真器を手に入れたことで写真館を開業していた父親の息子として生まれ、ルイさんは18歳から仕事を手伝っていたようです。すると独自に感光材や銀板フィリムの研究・改良に取り組むようになり、その成果が同業者の間で評判になると父親はそれらを製造する工場を開設して広く普及させました。
1894年に父親がパリでトーマス・エジソンさんが発明した連続写真のフィルムを覗き窓から見て動画として鑑賞するキネトスコープを体験して帰ると発明の才がある息子たちに研究を命じ、兄弟はフィルムを通した光線をスクリーンに投影することで大画面を映し出すことができる我々の時代の映画の技術を開発し(現在は画面映像になっている)、単独でしか鑑賞できないキネトスコープに代わる動画鑑賞の手段として完成させました。
この上映会は評判を呼び、商業的にも成功したようで1900年に開催されたパリ万博でも上映会を開いて来場した世界各国の人々に映画の魅力を発信する一方で、日本を含む世界各国に撮影隊を派遣して20世紀になったばかりの情景を動画として記録しました。
その後、兄弟は映画技術の特許を現在も続くフランスの大手映画会社のパテ兄弟社に売り、映画産業からは手を引きましたが技術者としての研究は続け、1907年にはそれまで赤・青・緑の3原色に分けたフィルムで撮影して重ねて現像していたカラー写真を単体で撮影できる実用カラーフィルムを開発し、発売を開始しています。
日本では映画はアメリカのエジソンさんの数多くの発明品の1つと言われていますがヨーロッパではリュミエール兄弟であり、この上映会が証拠とされています。映画を単に連続写真を見る器材とすればエジソンさんでも良いのですが、スクリーンに投影された大画面を鑑賞する技術とすればやはりリュミエール兄弟でしょう(ライト兄弟の動力式飛行機にも似たような齟齬がある)。実際、2人の映画を見て刺激を受けたエジソンさんは器材を購入して劇場作品の撮影所を開設しています。
- 2020/12/27(日) 13:15:04|
- 日記(暦)
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「現在の国会の審議を報じるマスコミは完全に反対派の扇動に回っているだろう。しかも都市部では自衛隊官舎に社人党の運動員が『安保法案が成立すれば夫や息子がアメリカの戦争に行かされて殺される』と言うチラシを配っているらしい」2、3日後、幹部室で中隊が取っている新聞の記事を念入りに読み込んでいる安川3尉に中隊長の神田山1尉が声をかけてきた。安川3尉は隣りで訓練幹部として次の演習の実施計画を作成している1小隊長の飯田2尉に小声で促されて立ち上がると衝立の横で姿勢を正した。
「したがって家庭で妻、実家で親が不安になってもそれを説得できるように正しい知識を与えることが目的だ」神田山1尉は安川3尉がかしこまっているのを目で確認すると話を続けた。それにしてもこの防衛大学校出身の中隊長は安川3尉が任官して1年に過ぎず座学の教官は初体験だと言うことが判っていないのか高度な達成目標を押しつけてくる。
「しかし、この問題は非常に政治的な色合いが濃く、中立を保つことは難しいのですが」「政治的な部分はその前の精神教育で私が実施する。君はあくまでも新たな法案の概要と既成の法令の改正点の解説で良い」救いの手のように「良い」と言われても無理難題であることに変わりはない。神田山1尉は中隊長になって初めて預かった新任幹部を鍛えることに熱意を燃やしているのかも知れないが、教育の成果を期待するのなら不要な重圧を与えるべきではない。
「まァ、健闘を祈る」「はい、最善を尽くします」安川3尉は10度の敬礼をして回れ右すると口の中で「だったらあんたが模範を示して見せろ」と置き台詞(「捨て台詞」ではない)を呟いたが、それはそのまま呑み込んだ。
「安川3尉は名寄で田島1尉の教えを受けたって言っていたが、あの人の座学は判り易かっただろう」席に戻ると飯田2尉が仏頂面をしている安川3尉に声をかけてきた。一般陸曹侯補学生の最後を飾った32期生出身の飯田2尉が名寄から松本に転属して、現在はスリランカに赴任している田島1尉を曹侯学生の先輩として尊敬していることは歓迎会で聞いている。
「はい、具体例が面白いので笑って聞いていると知らない間に要点が頭に残っている感じでした」「それだよ。陸曹は兎も角として陸士たちに条文を解説しても子守唄にしかならん。興味を引くと言うよりも我が身に置き換えて緊張感を覚えるような具体例で頭に知識を叩きこんでやれ」「なるほど・・・」安川3尉としては中隊長からの指示を受けて富士学校の資料や新聞の記事にある条文の法律用語の解説で正確な知識を与えようと考えていたが、曹昇任試験で自衛隊六法全書を丸暗記している陸曹とは違い受験勉強をあまりしていない陸士たちには眠気を誘う子守唄にしかならないはずだ。
「それから全ての法律を並べても頭のキャパシティー(許容量)を超えて器が引っ繰り返ってしまうから一番興味を持ちそうな条文を詳しく解説することだ。ほかの法案についてはそれを代表例として反対派の主張やマスコミ報道を鵜呑みにしてはいけないと釘を刺せば良いだろう」安川3尉は高校時代、聡美を守るために暴力事件を起こして父の会社への就職の推薦が受けられなくなり、止むなく新隊員として陸上自衛隊に入隊したが、久居のモリヤ1尉や名寄で田島1尉に接して「一般陸曹侯補学生は新隊員よりも頭1つ分能力が高く、新隊員出身者の感覚を共有しながら一段上からの指導を与えてくれる」と実感していた。本当は幹部になって田島1尉の下で薫陶を受けたいと願っていたが、飯田2尉がその代役のようだ。
「小隊長、戦争法の座学をされるそうですが大丈夫ですか」「滅茶苦茶難しそうですよ」次の演習が近づいて資材の確認と手入れが始まり、作業を監督するために資材庫に来ている安川3尉に陸曹たちが声をかけてきた。安川3尉はアルプスの雪が溶けると始まる長野県警と共同の遭難者の遺骸の捜索と回収に指揮官として参加し、「クレージー・サーティーン(第13普通科連隊の山岳レンジャー課程)」出身の隊員たちに引けを取らない能力を発揮して「やはり冬戦教」と心からの敬意を集めるようになっている。だからこの言葉も率直に心配してくれているのだが、逆に脳まで筋肉の体力馬鹿と思われているのかも知れない。
「『戦争法』って言うのは反対派のマスコミの造語だから自衛官は使わない方が良いな」「そうですか、だったら安保法でしたね」これも短縮し過ぎだが、前置きを長くすると休憩時間が終わってしまうので素通りした。
「安全保障関係法の問題は俺が富士学校に入校中に報道が始まったからズッと研究していたんだ。だから心配いらないよ」「自分の母親も心配して危なかったら早めに退職しろって言っています」普段は遠慮して会話には加わらない陸士も口を挟んだ。やはり新聞が紙面の大半を割き、テレビも放送時間の多くを使っているこの問題には隊員たちも強い関心を持っていることが判った。こちらの達成目標は重圧ではなくやる気を鼓舞した。
- 2020/12/27(日) 13:13:45|
- 夜の連続小説8
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「でも安川さんは新任の幹部自衛官なんでしょう。政治の決定に反対するような教育はできないんじゃないの」赤ボールペンでA5のメモ用紙一杯に駆けつけ警護を否定する意見を書き終わった私に前の席に座って覗き込んでいる梢が鋭い指摘をした。
「確かに・・・なりたて3尉殿は中隊長と訓練幹部の指導を受けて仕事を進めるしかないんだった」警務官配置のため延長されているが本来は今年が定年の私は善通寺の第15普通科連隊で過ごした新任3尉時代をスッカリ忘れていた。私も善通寺では崩壊向けて動き始めたソ連情勢の教育をしたことがある。私は防府の教育隊で座学の経験を十分に積んでいた上、ソ連については中学生の時からモスクワ放送を聴き、高校時代にマルクスの資本論を読破し、大学時代もロシア革命の再現を目指す学生運動の活動家と親しかったので予備知識は十分だった。その点、安川3尉は不慣れな初陣なのだから新隊員課程の中隊長だった私が足を引っ張って好いはずがない。どうやら梢のおかげで重大な過ちを犯さずにすんだようだ。
「そうなると肯定的な事例を書かないといけないが、北キボールの体験談くらいしか思い浮かばないな」私の独り言に北キボールの体験談が日本での刑事裁判と重なることに気がついた梢は顔を強張らせた。私が治安維持を担当するオランダ軍と暴徒に拉致された男女の日本人フリー・ジャーナリストを捜索して残酷に殺害された遺骸を発見し、車両の無線機で指揮所に連絡して現場に戻る途中で包囲している暴徒たちと遭遇して銃撃を加えた行動が当時の日本では殺人事件になったが、駆けつけ警護が正式な任務になれば何の心配もなく救援の要請に応えることができるはずだ。
「カンボジアで日本の警察官を警護していたのが自衛隊だったら隊員が犠牲になっても職務を遂行したはずよね」次のネタを思案し始めた私に無駄になった反対論を読んでいた梢がカンボジアで文民警察官が戦死した時のオランダ軍の行動を応用してヒントを与えた。
「ワシが指揮官なら負ける戦(いくさ)はしないが、自衛隊としては身をもって責務の完遂に務めるんだろうな」梢は沖縄時代の私が死を求めるようにデモ対処などの危険な任務を志願し、常に最前列に立っていたことを熟知しているだけに否定的な見解に困惑した顔をした。
「ワシ自身は今でも死を恐れはしないが、指揮官となれば隊員の生命、人生を預かっている。あくまでも費用対効果の計算で判断するのが近代戦の鉄則で、隊員を無駄死にさせることだけは指揮官の責任において絶対に避けなければならないんだ」「私、今でも貴方に何かあったら後を追うつもりで待っているわ。だから一緒に危険に立ち向かっている気持ちを実感できているの」この点が美恵子や佳織と違うところだ。梢は私と一体になって人生を歩もうとしているが、美恵子はあくまでも所有物として愛玩していたに過ぎず興味がなくなれば見向きもしなくなった。佳織はアメリカ的な感覚で理解できない陸上自衛隊の帝国陸軍的な部分を私に解説させながら西洋式の合理主義を教え込んだ。
「実例としては北キボールよりも知られているし、選挙ボランティアにもつながるから良いぞ。ここで隊員に『君たちなら戦うか』と質問すれば眠気覚ましになるよ」自衛隊の座学では教育の内容を隊員たちに理解させる前に眠らせないことが教官の技量なのだが、自衛隊は睡魔も規律心で克服すると思っている梢には意外だったようだ。
聡美と首が座った息子・穂高を連れて平成の大合併で広くなった松本市内を観光して回った大型連休が終わって演習が再開した中、安川3尉は幹部室で中隊長に声をかけられた。
「安川3尉、隊員に安保関係法案の教育をやってくれ」「私がですか?1小隊長を差し置いてはチョッと」「中隊長から命じられれば先ず『ハイ』と受け賜わってから質問するものだ」幹部室は中隊長室の手前を衝立で仕切って机を並べているので訓練幹部と副中隊長を兼務している1小隊長も同席している。1小隊長も部内出身だけに指導は実用的で少し古臭い。
「座学は2時間だから前半は中隊長の精神教育、後半の1時間を君に頼むとのことだ」「判りました。教育は陸曹だけを残して実施しますか」これは名寄で経験した教育方式で、教育対象を絞らなければ教官が内容のレベルを定められないための処置だ。
「陸曹に陸士への教育を任せるには問題が難し過ぎる。全隊員を対照にしよう」「はい、受け賜わりました」この返事は皮肉ではなく従順の発露だ。安川3尉が富士学校に入校していた昨年中にも加倍政権は安全保障政策の抜本的な改革を標榜していて東京から漏れてくる情報を教官が解説していた。その時に配布された資料は全てスクラップし、ノートも詳細に取っているが、今年に入ってからの国会審議は新聞やテレビ局によって解説が全く異なり、収拾がつかなくなっている。これはかなり高度な難問を与えられたようだ。
- 2020/12/26(土) 12:23:56|
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散歩から戻り、一緒にシャワーを浴びてからの夕食の後、もう一度テーブルに資料を広げて安川3尉の教案を熟読した。すると名寄の第3普通科連隊で参加した第1次イラク派遣の経験が盛り込まれた力作だった。
「ここまで徹底的な改革なんだな」教案の前半では今回の安全保障関係法案と現行法の改定の概要を説明しているが防衛省設置法、自衛隊法からPKO法、周辺事態法まで「自衛隊」と言う名称が出てくる法律の全てに及ぶと言う感じだ。
「任務まで変わってるぞ」教案を読み終えて関係する資料と照らし合わせると自衛隊法第3条の任務が変わっていた。これは入隊した時に教育隊で暗唱させられる根本教義のような条文だから変更したことを周知しないと間違ったままになる。
「要するに『直接侵略及び間接侵略に対し』が削除されるんだな。これは自衛隊って名前の由来みたいなモノだから『必要ない』と言えば無くても良い定義だが・・・ここに存立危機事態を当てるためなのか」存立危機事態は防衛対象が日本だけでなく「密接な関係にある他国=アメリカ」に拡大されているので自衛隊は日米防衛隊になる。国際的にも議論を呼びそうな変更だが、安川3尉が同封してきた資料は幹部向けの解説文書でも部内秘になっていないのでコピーを外国に送ってきても問題ないのだろう。
「防衛出動の定義も変わるんだな。これも同じ趣旨だぞ」自衛隊法76条の防衛出動も「我が国に対する武力攻撃(以下『武力攻撃』という)が発生した事態又は武力攻撃が発生する明白な危険が迫っていると認められる事態に至った」が削除されそこに「次に掲げる」を入れて「事態」に続けている。それにしてもこれでは散歩中に梢が口にした「自衛隊が自衛隊じゃあなくなってしまう」の通りで、私が考えていたPKOなどの国際貢献の拡充・強化ではなく日米安全保障条約を相互に武力攻撃に対処する相互防衛条約化することが目的になる。それは加倍首相の祖父・浜首相が1960年の日米安全保障条約改定で目指した対等な同盟関係の実現だ。
「それで今回は駆けつけ警護を中心にするんだな」教案では1時間と言う限られた時間内で多岐にわたる安全保障関係法案に優先順位をつけて解説しているが、私が気になった自衛隊法の条文は政治的影響が大きいため現場の関心が高い「駆けつけ警護」に最も時間を割いている。
「駆けつけ警護」は自衛隊がPKO活動している地域で武装勢力から危害を受けた国際連合の職員や非政府組織(NGO)などが要請してきた時に駆けつけて救援に当たると言う任務だ。当然、武器の使用が認められる。
「これは多分、雑誌の請け売りだな」安川3尉の教案では「カンボジアで総選挙の監視ボランティアとして活動していた大阪大学の中田厚仁さんが殺害されたが、駆けつけ警護が認められれば隊員が同行して事件を防ぐことができた」と述べている。しかし、現段階では自衛隊に救援を要請できる状況の基準が明確になっておらず、中田大学生のように「殺害の噂がある」と言う段階で隊員を派遣できるかは不明だ。
「私は駆けつけ警護には反対だ」私は執務机から赤ボールペンとメモ用紙を持ってくると個人的意見を記述した。本当はパソコンで打ちたいくらいで教案の余白に記入するには長いのだ。
「日本人はカンボジアで文民警察官がポルポト派の残党の待ち伏せを受けて殺害された時、警護のオランダ軍が置き去りにして退却したことを卑怯・臆病と批判したが、あれが軍の戦闘行動の基本だ。若し自衛隊に警護の任務が与えられると例え劣勢な状況に陥っても退避することは許されず全滅するまで戦わなければならなくなる。また現在、南スーダンにPKOが派遣されているがアフリカの内戦は彼我双方が中国の支援を受けて正規軍並みの兵器を保有しており、日本のPKO部隊の軽火器では応戦は困難だ。何よりも現地指揮官に要請を拒否する権限を付与することが明文化されていない。君も現場指揮官の立場で考えてみなさい」「凄く難しい顔をしてるけどヤッパリ危険を感じるの」そこに洗い上げや洗濯を終えた梢が戻ってきて声をかけた。梢とは赤いケーブルで接続されているので考えていることは筒抜けだ。
「さっき話した通り加倍首相個人の信念を実現しようとしているような法改正だけど宮沢や海部、雀山や缶みたいな愚かな首相がこの法律を使って自衛隊を戦場に送ろうとしたらって考えると背筋が凍りつくような気がするよ」今回は自民党の首相2人も追加になった。海部は湾岸戦争の時の首相でアメリカに言われるままに巨額の財政支援をしながら全く評価されず、航空自衛隊の輸送機の派遣を決定しても実行できなかった。一方、宮沢は海上自衛隊の掃海部隊がペルシャ湾の機雷除去から帰国した時、帝国海軍のイメージを消すために軍艦行進曲の演奏を禁止して、それに怒ったアメリカ海軍の音楽隊が代わりに演奏する醜態を晒した。それに比べるとルワンダ難民の人道支援派遣を決断した村山富市首相は立派だった。
- 2020/12/25(金) 13:03:40|
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昭和59(1984)年の12月24日に「平成」の間に機能不全が悪化して破綻寸前に陥っている地方自治体の原因を作った美濃部亮吉東京都知事が死にました。80歳でした。
美濃部都知事は姓でも判るように天皇機関説を提唱し、軍部によって排斥された戦前を代表する憲法学者の美濃部達吉博士の長男です。ただし、美濃部博士は軍部と思想的に対立したため反体制左翼の学者と思われがちですが、実際は憲法学の王道を歩む保守的な学者であり、尊皇攘夷=神国思想の狂気に毒されていた軍部が「天皇は機関である」と言う法学的評価に過剰反応しただけで、美濃部都知事の亡国思想は父親の影響ではありません。
美濃部都知事は明治37(1904)年に東京で生まれ、東京師範学校付属の小中学校を卒業して宮城県仙台市にあった旧制・第2高等学校に進学し、昭和2(1927)年に東京帝国大学経済学部に入学しました。当時は大正デモクラシーの庶民の政治参加を求める気運にヨーロッパに留学した理数系の学者が持ち帰って京都帝国大学で拡散させたマルクス主義が結びつき、1917年(大正6年)のロシア革命によって労働運動が発生・激化していったため後発の東京帝国大学でも多くの学生が同調していました。
美濃部都知事も流行に乗り遅れることなく人間の精神性を認めない弁証法的唯物論によって社会を分析し、経営者による雇用を資本家による搾取と否定的にとらえ、経営者と労働者を対立的=敵対関係と断定するマルクス経済学に染まり、マルクスが予言している資本主義の崩壊を研究する学生生活を送ったのです。しかし、あまりにもマルクス主義を絶対的真理と信じ過ぎて相手構わず説教を弄するようになったため東京帝国大学経済学部でも反マルクスの立場をとる重鎮に嫌われ、父親が法学部の名誉教授を務めながら大学に残ることができませんでした。そのため父親が教授を兼務していた法政大学に就職し、戦後も経済学部教授としてマルクス経済学を教育する一方で、池田隼人内閣が進める所得倍増計画にもブレーンとして参画しました。
昭和35年から37年にNHK教育テレビで放送された「やさしい経済教室」に出演して父親が子供に語り聞かせるような優しい口調と学者らしからぬ整った風貌の「美濃部スマイル」で主婦層の絶大な人気を獲得したのです。そうして昭和42(1967)年の東京都知事選挙に社会党と共産党相乗りで出馬すると自民党と民社党が支持した立教大学総長と14万票の僅差で当選し、3期12年間の都政を取り仕切りましたが社会党と共産党を支持基盤としている以上、自治労には絶対服従で現在も残滓が見られる東京都の職員の異常な高待遇は美濃部都政の間に始まりました。また庶民の支持を維持するために潤沢な税収入を使って高齢者の医療費一律無料化などのバラ撒きを実行するとマスコミは「社会主義的福祉政策」と絶賛したため、それを羨望する住民の声に押されて税収が乏しい他の地方自治体も模倣しなければならなくなり全国的な財政破綻の原因になりました。
結局、東京都も過度のバラ撒きと公営ギャンブルの廃止に代表される硬直した財政運営によって美濃部都政末期には巨額の赤字を抱えることになりましたが、それでも都民=衆愚のマスコミの印象操作を鵜呑みにする軽率な投票行動は改まりません。
- 2020/12/24(木) 13:55:31|
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着任の歓迎会で木村1佐から日本の安全保障政策が一転するような法整備が進んでいることを聞いてはいたが、オランダ在住で国際刑事裁判所勤務では情報の入手は困難だった。インターネットで検索しても日本政府の公式サイトは審議中の法案についての解説は掲示しておらず、茶山元3佐に関係する新聞記事を送ってくれるように頼んだものの紙面の大半をこの問題に割いているそうで古新聞の回収のようになり、折り返しに郵便料金を送ることになった。そのため木村1佐を訪ねて国会審議の推移を確認するようにしたが、訪問の頻度が増えたので大使館では私が近藤1佐よりも好意を持っていると思われているらしい。
「ただいま」「おかえりなさい。安川さんから重い封筒が届いているわよ」そんな折、松本の第13普通科連隊の小隊長になっている安川3尉から分厚いA4版茶封筒の書簡が届いた。エア・メールなので切手は1090円分も貼ってあり(当時の500グラムまで)、梢も少し困惑した顔で置いてあるテーブルを手で差した。
「なるほど、中隊で安保保障関係法案の教育をするのか。守山でも田島2尉や松山3尉にやらせたな」ウガイを終えてリビングに戻り、中身の資料をテーブルに広げ、その前に書簡を通読すると「中隊長の命令で国会で審議中の安全保障関係法案の内容と成立した時に変更される点を教育することになった」とある。どうやら教案=レッスン・プランの添削の依頼のようだ。
「要するに中隊長を驚かせるような台本を書きたいんだ。と言うことは中隊長は防大出か部外だな」部隊では上手くすれば将官、順当なら連隊長や大隊長、下手を打っても連隊本部の幕僚にはなれる防衛大学校や一般(部外)課程出身者と叩き上げの部内出身者の間には「中隊長」と言う役職に腰かけと最終目標の違いがあり、内心では相容れない感情を抱いていることも珍しくない。私も人事管理上は一般課程(部外)出身だが、大学中退の特例のため守山や久居では航空から紛れ込んだ「特殊な部内」扱いされていた。そのためなのか部内出身の田島2尉とは曹侯学生の先輩後輩としてつき合い、むしろ東京6大学卒の松山3尉の方が懐かなかった。
「隊員教育は若手幹部としての自学研鑽だから甘やかす訳にはいかんが、隊員には十分な知識を与えてもらいたいしな」書簡に続いて教案を手に取ったが、梢の夕食の下ごしらえが終ったので確認は食後にして日課の散歩に出かけることにした。
「自衛隊が自衛隊じゃあなくなっちゃうみたいね」「確かに我が国の平和と独立を守り、国の安全を保つため直接侵略及び間接侵略に対して我が国を防衛することを主たる任務とし、必要に応じて公共の秩序の維持に当たる組織の枠からは完全に逸脱してしまうな」今回の問題は自衛官の私が自衛隊と言う職業が変質する過程をオランダから遠望しているのであって梢は立ち入ることを避けている。ただフィリピンの佳織とは連絡を取っているので私が木村1佐から聞いてくるのと同様の情報は知っているようだ。
「加倍首相としては日本がここまで国際社会に踏み出しているのに憲法の制約で必要な対応ができない状態を解消したいんだろうけど加倍政権が永遠に続く訳じゃあないんだ。雀山や缶みたいな首相の命令で国際紛争に派遣されれば自衛官が無駄死にさせられるのは目に見えているよ」私の見解に梢は表情を固くしてうなずいた。今のところ自衛隊の海外派遣では過労などによる病死以外に殉職者はいないが、カンボジアPKOでは岡山県警の高田晴行警部補が「戦死」している。高田警部補の戦死はPKO法の審議で自衛隊の問題だけが議論され、文民警察官については素通りさせたため、安全な日本国内と変わらない護身用の装備や防弾性を強化していない車両、オランダ軍に警護を依頼しながら非常時の対処訓練を実施していないなどの不備が重なった結果だ。ここで心なしか歩調が重くなった。
「もう1つ気になっているのは加倍首相が山口県人だと言うことだ。山口県人には特有の政治的判断があって、下手すれば国際社会で日本が地位を向上するためには自衛官が他国の軍人並みに戦死する必要があるって非情な計算を腹の中で弾いているのかも知れん」「それは常任理事国になるためと言うことね」加倍首相の風貌は真っ正直な好人物にしか見えないが、吉田松陰が私塾で扇動した「尊皇攘夷」の狂気を信じ込んだまま明治政府の中枢を占め、外国を全て敵視して国際社会に乗り出したことで不要な戦争を繰り返し、わずか77年間で日本を滅亡させたのが山口県人だ。
「それじゃあ貴方は反対なのね」「日本がここまで国際社会に踏み出している以上、日本人が危険に巻き込まれた時、自衛隊が対処するのは当然だろう。問題は海外で活動する自衛隊が国内法で雁字搦めにされていることだ。海外に出すなら守るのは武力紛争関係法だけにするのが政治の責任だ」私自身も海外で任務を遂行して国内法で刑事被告人にされる不条理を味わった。私の言葉に深い憤りを察した梢は腕を絡めて肘を強く胸に引き寄せた。
- 2020/12/24(木) 13:54:11|
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昭和23(1948)年の12月23日の午前12時20分にA級戦犯として木村兵太郎大将に2組目の吊首刑が執行されました。60歳でした。
木村大将はミャンマー軍司令官(「ビルマ」は日本のみの誤読)として敗戦を迎えたため実際はアウンサン(敬称略=スーチーの実父)がイギリス軍に内通して日本軍や日本人を襲撃したことで発生したミャンマーでの民兵殺害を日本軍の戦争犯罪とする歴史の歪曲で木村大将はこの罪で死刑判決を受けたと誤解されていますが現地軍の戦争犯罪はB級戦犯に相当し、東京・市ヶ谷の極東国際裁判所で死刑判決を受けた被告人では南京事件の責任を問われた松井石根大将だけです。一方、木村大将はミャンマー軍司令官としては告訴されておらず近衛文麿内閣の時に東條英機陸軍大臣の下で陸軍次官を務め、東條大将が昭和16(1941)年に陸軍大臣を兼務したまま首相になると事実上の空位になった大臣の職務を代行し、昭和19(1944)年7月22日に東條首相が退陣するまでこの職に留まったことによる高度の戦争責任を問われてA級戦犯になったのです。
木村大将は明治21(1888)年に陸軍軍人の息子として東京で生まれましたが、父親の転属先の広島で育ち、陸軍広島幼年学校に入営しました。その父親は日露戦争で戦死しましたが、その遺志を継ぐように陸軍中央幼年学校、陸軍士官学校へ進み、砲兵士官として軍歴を重ねながら陸軍大学校を修了してドイツ駐在武官の副官や砲兵大隊長、同連隊長を経験した以外は陸軍参謀本部や砲兵学校での勤務が中心でした。ところが昭和14(1929)年に中将で北支の第32師団長に就任すると翌年に関東軍参謀長に移動したことで東條大将と結びつき、昭和16(1941)年以降は前述のように陸軍次官として勤務することになりました。
そしてサイパン陥落を受けて東條内閣が退陣すると翌月末にミャンマー軍司令官に発令され、牟田口廉也中将によるインパール作戦が失敗した直後のミャンマーに赴任したのです。その頃のミャンマーではアウンサンが指揮する民兵による襲撃が頻発し、それまでは建国に向けて強い信頼関係で結ばれていた日本軍・日本人と現地人の間で流血の惨事が頻発していた上、イギリス軍が侵攻を開始して一気に劣勢に陥っていました。これを受けて木村軍司令官は戦意を喪失し、周囲の「首都・ラングーンを要塞化して死守しなければならない」「最前線に立ち、日本軍の威信を示し、士気を鼓舞するべきだ」と言う意見とは逆に日本人の文民を臨時招集してラングーン守備隊としながら本人と幕僚は飛行機でタイ国境近くのモールメインに逃亡したのです。この時、大使以下の日本大使館員や文民と傷病兵は置き去りにされたため徒歩で逃亡しましたが、多くはアウンサン一派によって殺されインパール作戦の戦死者1万8千人の4倍近い犠牲者が出ました。
辞世は「現身(うつしみ)は とはの平和の 人柱 七たび生まれ 国に報いむ」「平和なる 国の弥栄(いやさか)祈るかな 嬉しき便り 待たん浄土に」「うつし世は あとひとときの われながら 生死を超えし 法のみ光り」とご立派で軍人としての罪科を悔いているようには見えません。
- 2020/12/23(水) 13:38:11|
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ヨーロッパ各国がテロに対して身構えている中、今年はアムステルダム郊外のボス公園で開催された日本大使館主催の桜祭りに梢と一緒に招待された。2度目だった昨年は大使館員夫婦と一緒の観光バスだったが今回は木村1佐夫妻の公用車に同乗させてもらった。公用車では運転席の後ろの席から上位順に座り、最下位者は助手席と言う席順だが、和服の奥さんを男が挟むのは遠慮して自分でドアを開けて乗り込んだ。
「それにしても元外交官の両国際裁判所(=国際司法裁判所と国際刑事裁判所)の判事は当然としても、次席検事に過ぎない私が招待を受けるのはいささか僭越な気がします」今回も一般客とは言え正式に招待を受けたため好きではない現在の制服を着る羽目になった私は助手席で前を見ながら遠回しの嫌味を言った。
「近藤1佐がモリヤ2佐が出席していると陸軍の駐在武官との会話が円滑になるから正式に招待するようにと担当者に申し入れたんですよ」確かに自衛隊記念日のパーティーと桜祭りには近藤1佐の厚意で出席させてもらったが、陸軍軍人が多い駐在武官たちは陸上自衛隊の制服を着ている私に声を掛けてきて共通の話題で盛り上がった。
「しかし、自衛隊記念日のパーティーなら兎も角、桜祭りにはあまり駐在武官は来ていませんが」「それでも正式な招待の実績を継続しないと削除されてしまうのが外務官僚の仕事らしいんですわ」自衛隊ではそれほどでもないが、防衛省内局を含む中央官庁や地方自治体では予算の削減・圧縮が基本姿勢で、それは自分の業務の軽減にも直結するため嫌になるほど熱心に励んでいる。私は正式な招待と言っても送迎は防衛駐在官の公用車に同乗で、宴席も立食式なので特に必要経費が増える訳ではない。それでも削除したがるのは外務官僚にも民政党政権で袋叩きにされた後遺症ではないか。
「あれは警察なの」公用車が公園の奥の会場に着くと周囲には軽機関銃を持った制服姿の男たちが配置されていた。それを見て奥さんが木村1佐に質問した。
「民間の警備会社の社員ですね」「でも武器を持ってますよ。あれは本物でしょう」着任して1カ月弱の木村1佐に代わって私が答えると奥さんは日本の常識で質問を返した。
「海外では役所の認可を受けている警備会社は警察で正規の手続きを踏めば武器を携帯して使用することができるんです」「去年まではそれ程でもなかったけど今年はやっぱり警備を強化したみたいですね」梢と2人で説明すると奥さんは顔を強張らせて木村1佐を見た。それでも「自粛」と言う日本的発想にならないところは流石に国際標準の外務省だ。
「戸崎判事、いつもにも増してお美しくて見違えましたよ」今回は式典会場に張ってある巨大な行事用テントでも外国人の来賓夫妻たちの席と去年まで紛れ込んでいた大使館員と和服姿の妻たちが立っている場所の間の日本人の招待者の席でも最後尾の隅が割り振られた。すると最前列の在オランダの日本企業の支社長たちの中に和服姿の戸崎久仁子判事が座っていた。
「あら、今日はネクタイをしてるのね。別人みたい」「精一杯オメカシしています」戸崎判事は座ったまま上品な笑顔を見せた。公私の区別なく常に迷彩服で通している私しか見たことがない戸崎判事はネクタイを締めた制服姿に戸惑ったのかも知れないが、私もいつもは素顔に近い戸崎判事が髪を整え、念入りに化粧をしている和服姿には驚いてしまった。それでも日本女性としての表情や口調に違和感がないのはこちらも素顔=実像なのだろう。
「大変お待たせしました。それでは2015年桜祭りを開会したいと思います。開会に当たりまして在オランダ特命全権大使、道優(みちまさる)よりご挨拶を申し上げます。レディース アンド ジェントルマン・・・」毎度の如く日本的な開会式が始まったが、誰が見ても花見の宴には相応しくない。肩がこったがこの席ではほぐすことはできない。
「日本国、オランダ王国の国歌を斉唱します。ご起立願います。君が代斉唱」「君が代は 千代に八千代に・・・」前置き(前奏とは言わない)に続きカラオケが始まると今回も大使館員と妻たちは男女混声合唱団と化した。黙って聞いていると年々音量が大きくなっているように感じる。気がつくと前に並んでいる来賓たちも声を張り上げて唄っているようだ。やはり加倍政権になって日本人の愛国心はかなり高まっているのかも知れない。
「続きましてウィルヘルム・ヴァン・ナッソウ斉唱」「ウィルヘルム・ヴァン・ナッソウ ベン、イチェーカー ヴェン ダッチェン ブルーツ・・・」オランダの式典では不快な歌の連発に耐えなければならない。その不快感を薄めるため私は大好きな国歌を口の中で唄った。
「働くより楽した方が好い 立ってるより寝ていた方が好い 何にもしないのが 何より一番好いことだ オサラムームー 王さま万歳」これはNHKの人形劇「プリンプリン物語」の挿入歌だ。スリランカの国歌も大好きだがこちらの歌詞はサビしか判らない。

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- 2020/12/23(水) 13:34:01|
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昭和23(1948)年の明日12月23日に死刑判決を受けたA級戦犯としては唯一の文民だった広田弘毅首相の吊首刑が2組目として12時20分に執行されました(立ち合った巣鴨プリズンの花山信勝教誨師の証言)。70歳でした。
広田首相は明治11(1878)年に現在の福岡市中央区天神の石工店の息子として生まれました。旧制中学校まで進むと親に経済的負担をかけないために日清戦争の勝利で人気が高まっていた陸軍士官学校を志望しましたが、日清戦争で獲得した遼東半島を三国干渉で放棄させられた日本の弱腰外交に不満を抱き、外交官志望に転換して上京すると旧・福岡藩士を中心とする右翼政治団体(後に大アジア主義を提唱する)・玄洋社の初代社長の援助で第1高等学校、東京帝国大学予備門、そして東京帝国大学法学部政治学科に進学しました。在学中も玄洋社で薫陶を受け、大陸への視察旅行や日露戦争中には捕虜の通訳などを務めて外交官としての素養を磨きましたが、外交官の商売道具である英語が苦手で卒業後に受験した高等文官・外交官試験に失敗して、とりあえず朝鮮総督府に籍を置いて勉強に励み、翌年の試験には首位で合格して外務省に入りました(後の吉田茂首相と同期)。
外交官・外務省職員としては日露戦争後の明治40(1907)年に最初の任地として北京の在清国公使館に赴任し、ロンドンの在イギリス公使館勤務を経て本省に戻り、大正8(1919)年にワシントンの在アメリカ大使館に転属すると赴任途中にサンフランシスコの日系移民を訪問して大歓迎を受けています。アメリカから帰国すると山本権兵衛内閣で欧米局長になり、次の加藤高明内閣では敗戦直後の首相になる幣原喜重郎外務大臣の下でロシア革命以降は敵対関係にあったソ連との国交樹立を実現し(加藤内閣は共産主義者を取り締まる治安維持法も制定している)、大正15(1926)年にオランダ公使、昭和5(1930)年にはソ連公使に就任しました。ソ連公使としては満州事変の勃発に際して外務省が各国公使館に出した「政府の不拡大方針を説明せよ」と言う訓令を無視したため、その後の事態の拡大で外交上の信頼を失った中、ソ連だけは信用関係を維持できたと言われています。
しかし、昭和8(1933)年に斎藤實内閣の外務大臣に就任したところからA級戦犯への線路が敷かれ、外務大臣に留任していた岡田啓介内閣が昭和12(1937)年の2・26事件で退陣すると後任の首相に指名され、事件後の処置に当たったのです。ところが大不祥事を犯した組織として懺悔をしなければならない陸軍が「反乱の再発」を脅し文句に使って大臣現役制の復活や軍備拡張予算の要求などの開き直ったような暴挙を繰り広げ、さらに大陸の陸軍が政府の外交による解決の方針を無視して蒋介石国民党軍との戦争を本格化させたため軍国主義の発生を放置した罪科と東條英機大将の対米英戦争と同等の対中戦争の開戦責任を課せられる結果になりました。
城山三郎さんの広田首相の伝記小説「落日燃ゆ」では「刑の執行に当たりA級戦犯たちは絶筆を署名し、『南無阿弥陀佛』を唱えた後に万歳三唱したが広田首相だけは唱和しなかった」と述べていますが、前述の花山信勝教誨師は「全員が行った」と証言しています。
- 2020/12/22(火) 14:15:14|
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「加倍政権は国民の支持を確保できてるですか」在外邦人の投票所でもある大使館に出入りしながら選挙権を行使していない私は本当に日本の政治情勢に疎い。忘れた頃にヨーロッパで報じられる加倍政権は軍国主義の復活を目指す保守反動のタカ派で中国や韓国と激しく対立して多くの日本人は不安に感じていることになっている。勿論、私と梢はそんな報道を鵜呑みにはしないが平成に入って2度も政権交代を許した日本人の政治感覚は信用できない。
「国民の多くはマスコミの扇動に乗って政権交代を犯した結果、政治、外交、経済の全てに於いて日本を崩壊の危機に陥らせたことを反省してマスコミの政治報道を信用しなくなりました。むしろ若い世代は自分たちが受けてきた戦後の学校教育やマスコミ報道に疑いの目を向けて再検証しようとする気運が広がっているんです」意外な説明に私は手に持ったままだったサラダの皿をテーブルに置き、モーゼルの白ワインのグラスを掲げて乾杯をした。すると木村1佐も持ってきたグラスを掲げて応じた。漂ってきた匂いから本場のスコッチらしい。
「政権復活から1年半近くになりますが、民政党政権が犯した失策を次々に解決して目に見える形で成果を上げているので、自民党政権としては記憶がないくらい高い支持率を維持しています」それを正当に評価しない海外のマスコミはやはり中国資本に経営権を奪われいるのだろう。さらに海外ではA日新聞が日本を代表する報道媒体と思われているので疑問な点は現地駐在員が解説することになり、国内以上に偏向した否定的評価が紙面に躍ることになる。
「加倍政権としてはそれが一過性のモノではないことを確認したところで慎重に動き出したようで、今年に入って安全保障関係法案の審議で次々に本質的な転換を表明し始めたんです」「防衛ではなく安全保障と言うところが味噌ですな。早い話が国内ではなく海外での自衛隊の活動だ」木村1佐は私の指摘に意表を突かれたように生唾を飲んだ後、深くうなずいた。
「先ず現在は外務省が特措法を作成して国会の審議を経て可決されてから発令されている自衛隊の海外派遣を恒久法化して即応できる態勢を確立する」「それはPKOとルワンダの人道派遣やイラクの復興支援から海外での災害派遣も一緒の法律にすると言うことですか」「今のところPKO法は維持する方針だと答弁しています」私個人は法曹関係者として「自衛隊は自衛権の行使は日本国憲法第9条が否定する戦争に当たらないと言う解釈によって存在している」以上、例え国際社会の軍事行動に出遅れることになっても海外派遣にはあくまでも慎重であるべきだと考えているので賛同はできない。
「次に自衛隊が実施できる他国軍への支援に武器・弾薬の供与を加える」「今までは給水、給油、輸送、医療などの後方支援でしたよね。武力紛争関係法では武器・弾薬の供与は戦闘行為に準ずると言う解釈が定着していますから、踏み込んだ一歩が大跳躍になりますよ」つまり事実上の戦闘行為の容認であってこれも賛同できない。
「これは国会の政府答弁ではありませんが与党協議でPKO以外の海外派遣でも邦人救出や任務遂行の妨げになる事態を排除するために武器を使用できるようにすると言う方針が伝達されたそうです。私が日本にいた間はここまでですが、安全保障関係法の審議は続いていますから引き続き注視していく必要があります」ここまで説明して木村1佐がグラスに口をつけたので私も相伴した。それにしても加倍政権が復活して大使館で飲む酒も元の格式に戻ったようだ。
「日本ではほとんど報じられていないようですが、加倍政権が復活して間もなくアルジェリアの天然ガス精製所がイスラム過激派に襲撃されて日本の建設会社の社員が人質になった事件がありました。あの時、加倍政権はソマリアの海賊対処で派遣している海上の護衛艦の母基地の警備要員の陸上のレンジャー部隊を欧米の鎮圧部隊に参加させる方針だったんです。しかし、加倍首相がベトナム訪問中で指揮が執れず、警察庁の海外対処専門部隊を派遣するところまででした。事件後、ヨーロッパでは日本人の人質だけが意図的に殺害されたのは日本が鎮圧部隊に参加していないことを察知したイスラム過激派が見せしめにしたと言われていたんです。だから加倍首相としても自責の念を抱いているのかも知れません」「あの事件の時、私も護衛艦の艦長としてソマリアにいましたから陸のレンジャー部隊に準備の密命が伝達されたのを目の当たりにしました。モリヤ2佐は北キボールで暴徒を殺害して日本で刑事裁判にかけられましたが、この法律でそのような不条理な取り扱いを受けることが阻止できるのでしょう」やはり現在の自衛官は旧世代の島国の内向きの視点から大きく海外に視野を開かれているので加倍政権が標榜する地球儀的外交にも理解と賛同を寄せられるようだ。しかし、法律を取り扱うことを本業とする自衛官としてはこれらの方針転換が「憲法改定」を前提としなければ違憲状態に陥ることを危惧している。加倍政権に限らず歴代の政権は日本に憲法裁判所がないことを「悪用」しているのか「活用」しているのか。悩む前に高級な酒で酔いたいものだ。
- 2020/12/22(火) 14:12:58|
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昭和29(1954)年の明日12月22日に蔵前国技館で史上最強の日本人・木村政彦講道館柔道7段が韓国人的策謀家の元関脇・力道山(敬称略)と対戦しました。
このプロレスの試合は後世まで「昭和の巌流島」と呼ばれ、プロレスが真剣勝負である証拠とされてきましたが、実際は力道山の卑怯極まりない策謀が巡らしてあり、木村7段の敗北は不覚にもその罠にはまった結果でした。
木村7段は戦前の柔道界で15年間不敗と言う不滅の金字塔を打ち立て、「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」と謳われながら、敗戦後に占領軍によって武道が禁止され、生活に困窮している柔道家たちを救済するため同郷の師の牛島辰熊9段が始めたプロ柔道に参加したことからアメリカでプロレス界に入り、力道山が日本で立ち上げていたプロレス団体に勧誘されました。そして昭和29年にアメリカのシャープ兄弟が来日すると力道山とタッグを組んで全国各地で14戦の興行に臨みましたが、兄が身長197センチ・体重112キロ、弟が199センチ・119キロの巨漢のシャープ兄弟が170センチ・85キロの木村7段をなぶり者にして日本人の観客が「弱い者苛め」と怒ったところに176センチ・116キロの力道山が空手チョップで滅多打ちにして仇を討つと言う台本を演じさせられることに鬱屈した感情を蓄積し、新聞紙上で「真剣勝負なら俺の方が強い」と宣言したことでこの試合が企画されました。しかし、プロレスは本来、格闘を見せるショーであってレスラーは互いの技を身体で受け合いながら興行主が決めた結果になるように演じるのが原則で、この試合でも事前の話し合いで互いに勝敗を分け合いながら最終的には引き分けで終わる台本が決められたのです。それでも力道山は卑劣な策謀を用意していて、試合では木村7段は当身技禁止、一方の力道山は得意技の空手チョップのみ使用可と言う特別ルールを決め、さらにレフリーは子飼いのハロルド登喜さんを指名しました。
こうして「昭和の巌流島」と言う宣伝に熱狂した観客と視聴者が注視する中で始まった試合では中盤に突然、力道山が金的蹴りの反則を訴え、レフリーが木村7段に注意しているところに右ストレートのパンチを顎に入れ、続いて張り手を連打したため木村7段が諸手刈り=タックルで逃れたもののレフリーが引き離して再び反則を注意するとそこに力道山が願面に左掌底打ち、こめかみに右張り手、右前蹴りを入れ、木村7段がレフリーに抗議すると腹に前蹴りを加え、その防御のため両手が下がって開いた願面に張り手の連打を入れ、座り込んだ木村7段を殴る蹴るの打撃を加え続けて卒倒させたのです。その間、レフリーは反則である当身技を制止することはありませんでした。
この全国中継された流血の凄惨な試合によってプロレスの台本の存在は否定され、「プロレスは柔道よりも強い」と言う評価を与え、何よりも力道山は「最強の英雄」と言う虚構の称号を手に入れたのです。しかし、「(力道山の空手チョップ以外の)当身技は禁止」と言う特別ルールは試合前に新聞などを通じて観客や視聴者にも周知されていたにも関わらず一方的な暴行が非難されることはなく、不世出の武道家を惨めな敗北者として葬り去ったのは敗戦後の日本人が舶来品のプロレスに気移りしていたのかも知れません(そこが力道山の狙い目だったのでしょう)。
- 2020/12/21(月) 12:50:31|
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今年は3月に在オランダ大使館の防衛駐在官が交代になり、近藤1佐と同じく海上自衛隊の木村1佐が着任した。このため3月には送別会と歓迎会に招待された。
防衛駐在官の歓迎会は他国の駐在武官との人脈を構築する機会でもあるので心なしか控え目ながら大使館のホールでの立食パーティー形式だ。木村1佐は海上自衛隊の冬制服に白手袋をはめて腰には儀礼刀を提げている。私も今回は客として公式に招待を受けたため現在の陸上自衛隊の制服の礼装だ。今回は夫人同伴でないので梢は出席できなかった。
「プロースト(オランダ語=乾杯)」「チアーズ(英語)」「ヅォン・ヴォエ(ドイツ語)「サンテ(フランス語)」「サルー(スペイン語)」「スコール(フィンランドを除く北欧3国)大使と木村1佐の挨拶に続いて乾杯が終わると会食と交歓になる。当然、木村1佐の前には各国の駐在武官が列を作ったが初対面の挨拶と自己紹介、グラスを掲げての乾杯だけで交代し、意外に短時間で解放された。するとホールの隅のテーブルで皿に盛ったサラダを食べている私のところへ歩み寄ってきた。相手は上官なので姿勢を正して出迎えた。
「はじめまして。国際刑事裁判所のモリヤ次席検事です」「こちらこそはじめまして。モリヤ2佐は在フィリピンのモリヤ駐在官のご主人だとか」この話題が出るのなら梢を連れてこなかったのは正解だ。近藤1佐は地元人脈として私の個人情報も申し送ったはずだが、流石に「元カノの私設秘書と一緒に暮らしている」とは言えなかったのだろう。
「はい、家内がお世話になっています」「いいえ、お会いしたことはないのですが、初の女性駐在官として活躍しておられるようなのでお名前だけは存じ上げていました」フィリピンの佳織とは相変らず音信不通だが、梢が時々連絡を取っていることは知っている。それとは別に昨年末には香港の雨傘革命の現地調査に赴いて行政区当局による弾圧の実態を報告したと近藤1佐から聞いた。私は磨いても削れるだけのただの瓦だが、佳織はやはり磨くほどに光り輝く金の瓦なのだ。その研磨に携われたことをせめてもの誇りとすべきかも知れない。
「モリヤ2佐も国際刑事裁判所では戦時国際法を実際に運用する軍の立場で公判を進めておられるそうで、私もお名前は存じています」木村1佐は自衛隊の階級は下位になる私に敬語を使う。これは国際刑事裁判所次席検事と言う役職に対してなのか単に性格なのかは判らない。しかし、大使館員に対しても同様の態度を見せれば防衛駐在官の権威に関わる。
「今日は制服を着て階級章をつけていますから1佐と2佐としての会話を心掛けましょう。敬語は不要です」おそらく年齢は私よりも下なので年長者として助言を与えた。私自身は1佐の佳織と夫婦として暮らしていた時も話題の公私で言葉を使い分けていた。
「実のところヨーロッパへの赴任と言うことで家族一同楽しみにしていたんだが、年明け早々にフランスで壮絶なテロが起こって緊張に変わってしまったよ」それは理解できる。ヨーロッパに住めば憧れの観光名所を巡り歩き、本場の料理を味わい、博物館・美術館で本物の歴史遺産と芸術作品を鑑賞できると期待するのは当たり前だ。それが無差別大量殺害と市街戦に近い制圧劇の舞台になったのだから恐怖に等しい緊張に変わってしまっても仕方ない。
「今のところオランダは通過されているだけですが、ベルギーとフランスではテロが続発しています。ベルギーの事件も実行犯はフランス在住でしたからアメリカに続く標的はフランスと見るべきかも知れません」「その見解を聞きたかったんですよ」再び丁寧語になってしまった。どうやら近藤1佐は私の特異な人間性を大袈裟に伝えた上に「取扱注意の危険物」とでも説明したようだ。余計なことを気にしながら対話をしていると防府南基地の初任空曹課程で女性自衛官の3曹に「××しろ」と命令口調を強制していたことを思い出してしまった。一方、前川原の幹部候補生学校で伊藤佳織候補生は「××しなさい」で通していた。
「日本ではアメリカ以外に海外の窓は開いていませんからヨーロッパのテロは9・11に比べれば伝聞情報の紹介に近い報道でした。むしろシリアの日本人拉致の方が扱いは大きかったです」「それは私もこちらに来て痛感しています。日本は1994年に自衛隊をルワンダ難民の人道派遣しましたが、我々はその大量の難民が発生した原因は何も知らなかった。アフリカでは第2次世界大戦後の植民地の独立で頻発した部族間の抗争にソ連が関与して、弓矢や槍を使っていた抗争を銃弾飛び交う内戦に発展させたんです。ソ連崩壊後は中国が引き継いでヨーロッパではアフリカ大戦争と呼ばれる壮絶な状況でした。今ではそれにイスラム過激派が介入しているからアメリカに同調して対イスラム戦争に参加したヨーロッパに飛び火するのは時間の問題だったんです」「そうなると加倍政権が進めている国際派遣の強化は危険を伴いますね」私の独演会を真顔で聞いていた木村1佐の一言で、今度は私が日本の政治情勢の講義を受けることになった。やはり日本とヨーロッパはアメリカよりも遠く離れているらしい。
- 2020/12/21(月) 12:48:14|
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2006年の12月20日に何の見識も持たない大衆の投票行動による選挙が本当に民主主義を実現するための制度なのかに疑問を感じさせた元参議院タレント議員で元東京都知事の青島幸男▲(=さん欠く)が死にました。年甲斐もない74歳でした。
青島▲は昭和7(1932)年に東京日本橋の弁当屋の次男として生まれ、敗戦後に旧制都立中学校に入学しましたが、学制改革で新制高校になったのを機に早稲田大学付属高校に転校しました。そのまま早稲田大学に進学して4年になった22歳の時、兄の婚約者に惚れてしまい悶々と悩むうちにガス自殺を図り、それで死ねなかったことで常識を喪失したのか奇行を繰り返すようになったため心配した兄が婚約者を譲り、3年後に結婚しました。さらに結核を患って就職を断念して大学院に進みますが、後年に作詞した「サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ」はこの時の「順当に就職できた者は断念して悩んでいた自分よりも気楽だ」と言う屈折した感情を表現したものでした。ただし、青島▲は大学院在学中に放送作家に転身しているのでサラリーマンの経験はなく「ニッポン無責任時代」などの組織の一員として懸命に働くサラリーマンを馬鹿にした一連の作品は傍観者としての嘲笑に過ぎず、サラリーマンが現実逃避に共感したのは勝手な思い込みでしょう。
その後、青島▲は放送作家の枠を超えて多方面で活躍しますが、これまでの裏方とは違い自分も進んで脚光を浴びるように立ち振る舞い、バラエティ番組などでの毒舌が四角四面の常識の中で暮らしている庶民の支持を集め、次第に実態不明の大物文化人的な扱いを受けるようになり、1968年に知名度が当選の条件だった参議院の全国区に出馬すると2位で当選しました。おまけに次の1974年の選挙からは街頭演説などの選挙運動を一切行わず、消費税に反対して辞職した直後の1989年の選挙で落選した以外は知名度だけで4回の当選を果たしています。
そして4期在任した鈴木俊一都知事の勇退を受けて行われた1995年の東京都知事選挙に出馬したのですがこの時も選挙運動は一切行わず、他の候補が今後の都政の所信の激論を戦わしている中、臨海副都心での開催が決定していた世界都市博の中止だけを公約にしてハワイで過ごしていました。そうして自民党、社民党、公明党、新党さきがけ、自由連合が支持した元官僚の候補に40万票以上の大差をつけて圧勝した直後に野僧は目黒の幹部学校に入校して青島新都知事の言動を目の当たりにすることになったのです。
東京では選挙が行われた4月8日の直前の3月20日に地下鉄サリン事件が起こり、陸上自衛隊化学学校が車内で除染作業を行ったにも関わらず事件当時はハワイで遊んでいた青島都知事は自衛隊違憲論と不要論を公言しました。また都市博も唯一の公約として中止を強行し、バブル崩壊後の大型工事として多くの社員を雇い、高額の資材を購入して準備を進めていた建設会社に大打撃を与え、倒産に追い込みました。
結局、青島都知事は無責任を売り物にしている人間に知名度だけで投票した東京都民の愚かさを体現していたのですが、この衆愚はその後の各種選挙でも似たような投票行動を繰り返しているので、人口による「一票の格差」は即座に否定されるべきなのです。
- 2020/12/20(日) 13:32:56|
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3月12日のオランダの英字新聞の朝刊に珍しく日本に関する記事が載っていた。それも民政党への政権交代で首相に就任し、アメリカとの同盟関係に亀裂を発生させた上で中国に擦り寄り、国政を混乱させて不況に陥っていた経済を奈落の底に沈めた雀山元首相の話題だった。
「馬鹿か・・・」朝課(朝の読経)を終えてテーブルで広げた新聞の写真入りの記事は「日本の元首相がクリミアを訪問」と言う見出しで、「日出ずる国からのゲスト」と補足する小見出しが添えてある。朝から吐き気を催す日本人の顔を見ることになって気が滅入ったが、元宝塚の端役だった妻の辛(かのと)が出ていないので何とか持ち直した。
クリミアは1年前にロシアが軍事侵攻して併合した。国際社会ではロシアの軍事侵攻が戦闘に発展せずに無血だったとしてもウクライナの領土であるクリミアの民族抗争に乗じて兵員を秘かに派遣し、現地ウクライナ軍を圧倒する規模になったところで降伏を勧告した手法を容認することはなく、国際連合でも制裁決議を採択し、天然ガスなどの輸入を禁止している。当然、日本も制裁に参加しているが、雀山はロシアのビザで訪問し、現地政府首脳との会談で「元首相」としてロシア寄りの発言を公式に記録させたようだ。
「結局、何がしたいのかしら」朝食を運んできた梢は私が熱心に読んでいる新聞を覗き込んで呆れたように呟いた。私が必死に読んできた記事を速読したらしい。
「ヨーロッパはロシアをソ連以来の敵だと思ってるからこれは怒るわなァ」悪戦苦闘しながら読み進んでいくと記事の文面には日本に対する不信と批判が下塗りしてある。ところが後ろで立ち見していた梢は読み終えて記事の要点を解説してくれた。
「在フランスの日本新聞社の関係者が『加倍首相とロシアのプーチン大統領は個人的に親密だから秘かに依頼を受けて訪問した可能性がある』って言ったそうよ」「それじゃあ日本政府が国際社会を裏切ったことになるじゃあないか。それは毎度のA日新聞だな」これで敵意が下塗りされている理由が判った。A日新聞は国内版では読者の反発を買わない表現に薄めながら世論を誘導する高度な筆法を弄するが、海外では日本に関する知識不足から生じる疑問を不信に替える歪曲した解説を加え、それが敵意になるまで継続する反日工作を繰り広げている。それは海外の首脳への取材で「日本ではこんな声があります」と実際には一部の反対者の個人的発言を批判的世論のように誤解させる質問を投げかけ、首脳の反論を「××が日本を非難」と報道する手法が典型だ。最近の韓国の政権が常用している告げ口外交は(いわゆる)従軍慰安婦問題を通じてA日新聞が伝授したのかも知れない。
ここまでで新聞を畳み、冷める前に朝食にした。今朝も自家製納豆だが、最近は梢が開発した生野菜と納豆の上に大根おろしと酸味のドレッシングをかけた和風サラダになっている。、
「加倍首相も大変だよ。ヨーロッパではA級戦犯の孫って言うだけで元ナチスみたいな見方をされて、国際標準の外交まで軍国主義の復活って報道されているもんな」「この間は加倍首相の顔にヒトラーのちょび髭を付けた中国の漫画が新聞に載っていたわ」オランダに来て間もなくドイツのメルケル首相が中国を訪問して、尖閣諸島を巡る加倍政権の毅然たる態度を「戦争犯罪国としての歴史を忘れてはならない」と批判したことはヨーロッパでも報じられていた。確かに加倍首相の祖父の浜首相は東條英機内閣の商工大臣だったことでA級戦犯として逮捕されたが、東條内閣を瓦解させた功労者であることが評価されて不起訴で釈放されている。日本では徹底的に批判されている1960年の日米安保条約の改定もソ連との戦争に備えてアメリカ軍を日本に常駐させ、国土と領海を戦場に使用する権利だけを列記していた条文を相互防衛の責任を明記した本当の意味の安全保障条約にしたのだ。
「それでも加倍首相は祖父の遺訓を実現しようとしているように見えるんだよ。浜首相は安保問題で退陣してからも全くイメージが違う弟を操って戦後政治を取り仕切ってきたから死んでからも孫に憑り移るくらいのことはやりそうだぞ」実際、昭和62年に90歳で亡くなるまで歴代政権の裏で影響力を保持し続けた浜首相は「昭和の妖怪」と呼ばれていた。
「政権交代の選挙の時、雀山は沖縄で熱心に遊説してたけど、マスコミは『最低でも県外』って言う公約が県民の投票で実現するって大々的に宣伝して中立な選挙報道なんて完全に忘れていたわ」「それでアメリカへ行って『トラスト・ミー(私に任せておけ)』て大見得を切ったが、八方塞になったところで『初めて在沖縄米軍の重要性が判った』と辺野古への移転を閣議で再度決定したんだったよな」「本当に馬鹿じゃあないかしら」雀山は東京大学工学部を優秀な成績で卒業してアメリカの名門大学に留学した秀才らしいが頭脳の機能が円滑ではないように見える。野党の議員であれば「始めに反対ありき」で学習を拒否することもあるのだろうが雀山は1955年の保守合同で自民党を創設した首相の孫なのだ。
- 2020/12/20(日) 13:31:31|
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昭和21(1946)年の明日12月20日に在日半島人(まだ南北の分断国家は成立していなかった)のデモ隊が暴徒化して首相官邸に乱入する事件を起こしました。
この事件は昭和21(1946)年11月10日に在日半島人が「在日朝鮮人生活権擁護委員会」を結成して「食料や生活物資の配給を日本人よりも優先しろ」と要求したことから始まります。しかし、当時は日本人でさえ餓死寸前の生活を送っていてその惨状を知った在アメリカ日系人が「せめて子供たちだけには」と呼び掛けて集めたララ物資(=学校給食の始まり)の第1便が横浜港に到着したのはこの年の11月30日ですから在日半島人の要求は無理無体に過ぎず、当時の日本政府は占領軍の命令を国会で承認して実務を実施するだけでしたから要求されてもできることはありませんでした。さらに働き手の大半が徴兵されていた北海道から東北、上信越、北陸、山陰、九州にかけての農業地帯では多くの在日半島人が労働力として雇われていましたから同胞として闇物資を入手することは容易だったはずです(この年は稲=米は豊作だった)。
ところが全てを日本の責任にして逆恨みする半島人の民族性がここでも発揮されて、この日に皇居前広場で開催された「朝鮮人生活権擁護全国大会」には全国各地から約1万人が終結し、出席していた沖縄県出身の徳田球一日本共産党委員長が扇動の演説をした後、「朝鮮人虐殺政策反対=生活物資を優先配給しないことを指す」などの決議を採択して閉会したものの午後1時30分になって参加者の一部が決議の「朝鮮人虐殺政策反対」や「吉田内閣は日本の敵だ」と言う「自分は外国人だ」と主張している立場を弁えないプラカードを掲げて国会と首相官邸に向かってデモ行進を開始しました。
そして30分後に首相官邸に差し掛かると警備の警察官の制止を無視して敷地内に踏み込もうとしたため警察官は扉を締めて阻止しようとしましたがプラカードや投石で暴行を加え、倒れた警察官から拳銃を奪った上、官邸内に乱入したのです。このため通報を受けたアメリカ軍の憲兵隊が首謀者たちを逮捕してデモ隊を解散させましたが警察官23名が負傷し、拳銃2丁が奪われる暴動になりました。
逮捕された首謀者は管轄権の関係で日本の警察に身柄を引き渡され、あらためて「在日朝鮮人生活権擁護委員会」の委員長以下10名を「暴力行為等処罰ニ関スル法律」違反で逮捕された後、アメリカ軍憲兵隊司令部に送致されて軍事裁判を受け、12月26日に全員に有罪判決が出て、翌年3月8日に国外追放処分になりました(徳田球一委員長はお咎めなしだった)。
戦前、在日半島人は朝鮮総督府の皇民化政策によって出稼ぎ的に日本に移住していましたが、能力不足や人間関係の不満から職場の上司や同僚を逆恨みして殺害する凶悪犯罪が後を絶たず、敗戦後は「自分たちは日本に強制連行された」と毎度の嘘偽りを大声で叫びながら「敗北したのは日本だ」と自分たちが戦勝国であるかのように振る舞い、占領軍も取り扱いを決めかねていたため野放し状態になり、暴動に類する大規模な抗争を繰り返して、この事件の後も続発させました。その癖、現在も居座り続けています。
- 2020/12/19(土) 13:18:59|
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「恵祥は今年の5月で4歳でしょ」若い夫婦に国際電話での長話は経済的負担が大きいので一度切ってこちらから掛け直した。あかりは呼び出し音で恵祥が目を覚まさないように固定式電話の接続音で出たが第一声は梢からだった。
「そうだよ。島の兄弟たちの年の差から言えば少し遅いけどね」あかりの説明をモニターのスピーカーで聞いて私は梢と顔を見合わせた。確かに沖縄の子沢山には年子や中1年が多く、入学、卒業、受験が連続するので「慣れ」が先行してあまり緊張感=真剣味がないようだった。
「やっぱり雲島も子沢山の家が多いんだね」「ウチ以外は3人以上だよ。一番多い家は男女5人だから家族は9人なの」私も沖縄に赴任してシマンチュウの友人たちの兄弟が4人や5人も珍しくなく、中には女6人の下に弟の7人姉弟もあって、アメリカの統治下で避妊を禁ずるカソリックの影響を受けたのではないかと考えてしまった。尤も、その7人姉弟は父親が「男ができるまで」と子造りに励んだ結果と言うことだった。
「雲島は安心して子育てできる環境なんだね」「車は家と畑と港を往復するだけだから危なくないし、みんな顔を知ってるから恵祥が1人で歩いていても気がついた人が付き添ってくれるの。ハブもいないから安心して遊ばせられるわ」この環境ならば視覚障害者のあかりの育児に関する不安材料が解消されるのは間違いない。
「それに保育所は学校と一緒だから中学生と小学生がお兄さん、お姉さんになって面倒を見てくれるの。中学生は半分親みたいだけど。特に低学年の子が遊んでくれると恵祥も少し背伸びをするから凄く成長してきたわ」あかりの声に自信に似た力を感じて私も安堵した。しかし、子造りは勿論、子育てこそ夫婦の協同作業であり、淳之介の覚悟を確認しない訳にはいかない。そこで梢に手を差し出して受話器を受け取ろうとすると先に「淳之介に代わって」と伝えた。これは2人を結ぶ意思の紅いケーブルではなく阿吽の呼吸と言うものだ。
「あかりの話は聞いたがお前も2人目を望んでいるんだな」「はい、あかりと話し合って出した希望です」淳之介は妙に緊張したような口調だ。人生の転換点とも言える決定を父親に伝える息子の気分なのかも知れない。ただし、私は愛知県の父親にそんな感情を抱いたことはない。私にとって愛知県の実家は人生の足枷、進路の障害物以外の何物でもなかった。
「俺は志織って妹がいるけどあかりは1人っ子だろ。だから志織と暮らしていた頃の話を訊かれてたんだ」考えてみれば私には愚妹がいて、梢も若くして亡くなった恵昇兄の賢妹だ。その意味では今度の子供は女の子かも知れない。ところが淳之介は意外なことを補足した。
「恵祥は安里家の跡取りにするから俺にはモリヤ家の長男としてはもう1人男の子を作る責任があるんだよ」「誰もお前にそんなことは期待してないぞ。俺は愛知の実家とは縁を切ったから消えてなくなっても関係ない。梢や志織みたいな可愛くて賢い女の子が良いな」勢いで女子を希望してしまったが梢や志織のような最高の妹ならば大歓迎でも、何の断りもなく愛知県の実家の跡取りにおさまっている愚妹の出現だけは困る。ましてや玉城家の4人姉弟の3女で淳之介を産んだ美恵子の遺伝子が復活することだけは御免こうむる。話が拙い方向に流れ始めたので序幕まで戻すことにした。
「しかし、お前たちは5歳違いだから志織には兄と言うよりも一緒に暮らしてる小父さんみたいな感じだったんじゃあないかな」「あかりは2人目も首里のオジイとオバアのところで産みたいって言っているから恵祥が小学校に入る前じゃあないと預けられないだろう。だからこのタイミングなんだ」この返事を聞く限り、2人はかなり綿密で具体的な話し合いを続けてきたようだ。淳之介は志織のブラザー・コンプレックスは明かさなかった。
「島に帰ってくるのは産まれて半年後くらいかな。安里の両親もそのくらいなら頑張れるだろう」気がつくと私は同意していた。梢も隣りで笑顔を浮かべてうなずいているから夫婦の父母(両親ではない)は了解したようだ。
「首里のオジイとオバアは2回も島に来てくれてるから心配ないよ」「その時は恵昇伯父さんもついてくるよ」淳之介の説明に電話の向こうであかりが補足した。男同士の話が長くなったようだ。折角、こちらから掛けたのでもう1度、梢に代わった。
「それじゃあお医者さんともよく相談して慎重に頑張ってね」「この間、子造りしてたら恵祥が目を開けて見ていたんだって。見えないと困っちゃう」こちらでは私が電話をモニターしていることを知らないあかりいは母への秘め事を告白した。性行為は夫婦であれば「営み」と呼ばれる日常生活の一部ではあるが、若い日の梢にも重ねて愛しているあかりの痴話を聞かされると少なからず動揺してしまう。それにしても今日は久しぶりに在宅勤務にしていて本当に良かった。そうとも知らずに電話をしてきた淳之介との親子の血縁を実感した。

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- 2020/12/19(土) 13:17:28|
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「東京都知事が尖閣を買うって言った時、警視庁の機動隊が警備するようになるって評判だったけどあれが正解だったのかな」「あれは民政党政権でも野畑内閣の時だったな」やはり淳之介は八重山のウミンチュウとして尖閣諸島の問題や中国海軍の動向には強い関心を持っているらしい。その点、東京の住人だった私は野畑内閣が国有化したことで反日暴動が起こり、日本企業が破壊されたことに関心が移って具体的な対応については研究していなかった。
「確かに法的には適切な対応だけど警視庁の機動隊の規模と業務量を考えると常駐させることには無理があるな」「警視庁の機動隊ってデモの時に盾を持って出てくるだけじゃあないの」「お前も古いなァ」淳之介の認識は私が小学生だった70年代の学園紛争当時の物だ。多分、私が見ていた60年安保闘争から70年代の学園紛争、連合赤軍、連続企業爆破事件、成田空港闘争までのビデオの記憶に沖縄で反基地運動のニュース映像が重なったようだ。
「機動隊は行事の会場警備を担当すると1カ月以上前から隊員を配置して通行する車両や歩行者を調査するんだ。それで時間帯ごとに通行する車両と歩行者を分類しておいて当日に普段は通行しない車や人間を発見すれば不審者として重点監視する。そう言う地道な活動もやってるんだぞ」「すごいなァ」私が法務幹部人脈で仕入れた警察情報に淳之介は妙に懐かしそうな声で感嘆した。子供の頃に見ていた私と佳織がこの手の話題を夫婦の会話にしていた家庭の風景を思い出したのかも知れない。
「おまけに最近は災害派遣や遭難者の救助まで請け負ってるから手一杯なんだよ」「そう言えば東北の地震の時は警察も出動していたもんね」「おかげで東京の治安は悪化したけどな」東北地区太平洋沖地震が発生すると日本人は多大な犠牲者に対する「服喪」のような感情を抱いたが、不法滞在している外国人たち(特に中国人)は警察力の低下に乗じて犯罪を活発化させて都市部の治安は急激に悪化していたのだ。
「それじゃあ日本には離島を守る方法はないんだね」「自衛隊も治安出動が下令されれば警察官と同じ職務権限が与えられるから何もできない訳じゃない。だから航空自衛隊の対領空侵犯措置のように不法侵入が確認された時点で自動的に地域限定の治安出動に移行できるように法律を整備すれば良いんだ。それは海上自衛隊の海上における警備行動にも言えることだよ」日本では警察予備隊の創設時から野党とマスコミは一貫して「憲法違反」と存在を否定し、「自衛隊の行動は全て悪事」と断定し続けてきた。それは阪神や東北大震災への災害派遣でさえ一部のマスコミは「自衛隊の宣伝活動」と揶揄していたから現在も変わっていない。しかし、国民もようやくマスコミの歪曲報道の目的に気づき、自衛隊の必要性を理解するようになったのだから、そろそろ使える実力組織にするための法整備に着手するべきだろう。
「と言っても日本は島国だから国境の陸地は離島になるけどヨーロッパは地続きだから好くて川や山脈、下手すれば真っ平らな土地にフェンスが作ってあるんだ。それを軍隊が守っていると問題が起きた時には戦争になってしまうから条約で『国境から何キロ以内には軍隊を入れない』と取り決めるのが国際慣習になっている。そこで警察の国境警備隊を軍隊並みに強化して今では対テロ戦闘にも使っていることを補足しておくぞ」案の定、話が長くなってしまったので待ちくたびれている梢とあかり母子に代わった。
「恵祥は元気」「だいぶお話が上手になって毎日報告を聞くのが楽しみだよ」あかりの返事を聞いて梢は「祖母」の顔になったがそれは老け込んだ訳ではない。恵祥を育てているあかりも一緒に見守る大きな包容力と愛情が現れたのだ。
「そう言えば夏に写真を送ってくれたスウェーデンの木製の遊具をお父さんが流木で作ったよ。毎日庭で遊んでるわ」「流木かァ、それなら材料費は無料(ただ)ね」「おまけに表面がツルツルだから作る手間も省けたって」昨年の夏の北欧旅行では恵祥には「小さなバイキング」の絵本と木製の玩具、淳之介とあかりには金属製の食器セットを送ったが、玩具店の前の空き地には乗って遊ぶ遊具が展示販売してあった。私たちも気に入ったものの送料を考えれば諦めざるを得ず、写真を送って自主制作を督励したのだ。
「それで恵祥は相変らず肉を食べないの」「ううん、保育所の先生が給食の肉を残すのを『死んで肉になってくれた動物が可哀想だ』って教えてくれたおかげで、『ありがとう。ごめんなさい。いただきます』って手を合わせてから食べるようになったわ」恵祥は肉が殺した動物の身体であることを知って食べるのを嫌がるようになり、私が簡単な精進料理を教えて豆腐や納豆などを使ったオカズになっていたが成長期には栄養不足が心配だった。
「お母さん、私、2人目が欲しいの」母子の会話も盛り上がって益々長くなったところで唐突にあかりが出題した。これはこちらから掛け直さなければ答えが出ない。

スウェーデンの木製遊具
- 2020/12/18(金) 12:53:08|
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寛文20(1615)年の明日12月18日(太陰暦)は2代将軍・徳川秀忠公が侍女に産ませた隠し子で初代会津藩主になった保科正之公の命日です。
会津藩主は枝胤として松平姓を名乗り、会津三つ葉葵紋を許されていますが、正之公は複雑な事情を抱えて出自を隠さなければならなかった母子を正室と実子として受け入れ、養子を廃嫡してまで藩主を継がせた高遠藩主・保科家への恩義でその姓と家紋を守り、嫡男も継承したため松平姓を名乗り、会津三つ葉葵を着用したのは3代藩主からです。また保科家=会津松平家は御三家を差し置いて3代・家光公専用だった萌黄色の着用も唯一許されていましたから東照神君・家康公の息子たち以上の格式と信頼を得ていたことが判ります。
正之公は慶長16(1611)年に秀忠公が乳母の侍女だった小田原・北条家の遺臣の娘・静さんに産ませた4男です。ところが秀忠公は豊臣秀吉さんから近江・浅井(あざい)家の3女の江さんを正室に押しつけられていたため極度の恐妻家で、若い侍女に手をつけたことが発覚することを恐れ、側近の老中・土井利勝さまの手配で江戸城田安門の屋敷に住んでいた高田信玄公の2女で穴山梅雪さんの元正室の尼僧に預けられ、そこで養育されました(会津藩の系図では生母の姉婿宅で生まれたとしている)。そして元和3(1617)年に武田家の旧臣で信州・高遠藩主の保科正光さんの養子になり、そこで成長したのです。寛永3(1626)年に秀忠公の恐妻が死ぬと鷹狩りで立ち寄った寺で正之公の存在を知った異母兄の3代将軍・家光公の計らいで寛永8(1631)年には実父・秀忠公と対面を果たしました。それ以降は秀忠公の隠し子であることは「みんな知ってる内緒」にしながら将軍の弟として別格扱いを受け、また正之公は極めて有能な上、高潔な人格者であったため広く人望を集め、家光公が春日局の養育を受けていた頃の学友・お側衆から仕える幕閣たちを束ねる存在として重きを成していったのです。
寛永13(1636)年に高遠3万石から山形20万石に移封されましたが、高遠では正之公の善政を慕って3000人もの農民が山形へついていってしまったそうです。そして寛永20(1643)年に会津24万石に再移封されて幕末まで忠誠一筋を貫き、名門譜代の越後長岡藩・牧野家が辞任した京都所司代を押しつけられると天皇を自分たちの私怨と野望の実現に利用しようとしていた薩長土肥の過激派を取り締まる職務を懸命に遂行した故に怨嗟を一身に受けることになった会津藩ができたのです。
慶安4(1651)年に家光公が亡くなった時、まだ10歳だった4代将軍・家綱公の後見を依頼されたため正之公は大老職に就任して幕政を指揮することになりましたが、ここでも多くの業績を残しています。例えば浪人の増加を防ぐため大名の末期養子を緩和して跡継ぎがないことによる断絶を減少させ、亡君への殉死を禁止するなど人道的な政策を推進し、玉川上水を建設して衛生的な飲料水の供給を実現しています。何よりも明暦の大火では江戸城内に備蓄している兵糧米を庶民に供出し、焼け跡の区画割りではそれまで攻城に備えて狭くしていた道路を拡張し、水路を増やすなどの防火対策を講じました。そうして巨額の復興経費を民生に注ぎこんだ結果、類焼した天守閣の再建は断念したのです。

みなもと野郎作「風雲児たち」より
- 2020/12/17(木) 13:25:03|
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6時過ぎに久部良港を出航した淳之介は11時には石垣港に着き、昼の定期便に乗務して雲島に向かった。雲島の波止場ではあかりが弁当を持って待っていた。
「ただいま、無事に帰ったよ」「うん、さっき船道(ふなみち)の小父さんが貴方の船に会ったって教えてくれたよ」船道の小父さんは苗字の通り雲島のウミンチュウだ。外洋から石垣島と西表島の間の水道に差し掛かったところで漁をしている数隻の漁船に会ったが、その中の1隻が船道の快晴丸だったようだ。今日もあかりの手を引いて波止場のベンチで弁当にした。
「昨日の仕事は中止になって手当てが出なくなったんだ。悪いな」「今回はテレビを聴いていても中国の船が出てこないからカットされたのかなって思ってたけど・・・」「向うでキャンセルされたんだ。インタビューだけで良いんだって」淳之介の説明にあかりは出なくなった手当てよりも仕事をカットされたのではないことに安堵したような顔をした。
「会社は燃料代だけを受け取って手数料やキャンセル料は諦めたんだ。だから俺の与那国行きは実習航海と言うことになった。当然、手当はなし。それでも社長がポケット・マネーから1万円くれたから後でお前に渡すよ」会社としては連絡船の運航で便宜を受けている町役場に予算の無駄遣いを要求することは避けたようだ。業務の発注自体はマスコミから依頼されたのではなく、前回の取材で「間近で中国船を撮影したい」と要望したのに漁船しか手配できず、テレビ局の器材が積めないため急遽連絡船を呼んだ担当職員が手を回し過ぎた結果だった。会社も淳之介が不在の間、巡回定期船を運航する乗組員を確保する必要が生じ、社長自ら乗務・操舵したのだが、それも目をつぶることにした。
「テレビじゃあ自衛隊ができれば金が落ちるって話ばかりだっただろう」「そうね。町長さんが迷惑料を10億円要求したのに断られて土地を借りるお金を上乗せさせた話を詳しく説明していたわ。あとは小学生が増えれば昔みたいな運動会ができるって。でもあれは先生じゃあなくて親だったみたい」あかりは声でしか識別できないが、やはり教員は反対しているらしい。
民政党政権だった2010年に与那国島への陸上自衛隊の沿岸監視隊の創設と配備が決定し、翌年から調査費、用地取得、駐屯地整備と別に配備する航空自衛隊の移動警戒隊の器材の導入の予算が計上されると自衛隊の配備を公約にして当選した町長はマスコミの取材で「迷惑料」として調査費10億円の全額を要求し、防衛問題は「国が考えること」と言い放った。これに陸上幕僚長(大震災時の東北方面総監)が「白紙に戻すことも有り得る」と発言したことで「迷惑料」は撤回して公有地の使用料の上乗せで妥協したのだ。それでも与那国島で目撃したマスコミの取材の様子から町長も記者の誘導で禁句を吐かさせられたような気もする。
「今夜、親父に訊きたいことがあるからオランダに電話するぞ。お義母さんと話すことを考えておけよ」「はい、判りました」弁当を食べ終わって水筒の茶を並々と注いだコップを回し飲みしながら淳之介は思いついたことを伝えた。この時期は日没後の暗い海を自家用船で帰ることになるが、家族が待つ島への航路はレールが敷かれているように真っ直ぐ伸びている。
「親父、前に下甑島の航空自衛隊が不法上陸した中国人を捜索した話をしてくれただろう」おランダでは午後1時に淳之介から電話が入った。日本時間では夜の9時だ。
「与那国島に沿岸監視隊ができるって話のついでだったな」私もその話題には記憶がある。下甑事案は私が守山で勤務していた時に発生したが、捜索に参加した曹侯学生の教え子が感じた疑問を内線電話で訴えてきたため毎度の研究に手をつけた。与那国島の沿岸監視隊については陸上幕僚監部で話題になっていたところに淳之介から電話が入ったのだ。
「陸上自衛隊の沿岸監視隊って役に立つの」唐突に本題に入った。やはり淳之介の収入では遠距離国際電話の料金は負担が大きいのだろう。この質問は沖縄のマスコミ的な自衛隊不要論の影響が心配になるが、折角の電話なので専門的に教育を始めた。
「平時でも張り子の虎の役割くらいは果たせていたんだが、細川政権や村山政権で官僚が漏らした内部規則が中国に渡ったから今では何もできないことは知られてしまってるよ」「そうなると災害派遣だけかァ」「組織を作って装備を買うだけで法律の改定は後回しにするのが日本の防衛政策の基本だからな」今は所属しているだけになっている自衛隊の防衛政策に対する不満を口にしたがそれは感情論だけではない。
「ヨーロッパでも海外の紛争には軍を派遣しても刑法を根拠にする国内のテロには警察の専門部隊に対処させてるから本当は警察の機動隊を配備するべきだろう。しかし、沖縄県警では大いに不安があるな」私自身は沖縄で勤務している時のデモ対処で接した沖縄県警機動隊の若い員だけでなく幹部からも投げ掛けられた「自衛隊があるから休日にデモが起きる」との発言が不信感として払拭できないでいる。
- 2020/12/17(木) 13:21:55|
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2011年の明日12月17日に朝鮮労働党中央委員会総書記、朝鮮民主主義人民共和国国防委員会委員長、朝鮮人民軍最高司令官、朝鮮労働党中央軍事委員会委員長、朝鮮労働党中央委員会政治局常務委員、朝鮮民主主義人民共和国国家元帥、百戦百勝の鋼鉄の霊将の金正日第2代国王が急死しました。
金正日国王の生い立ちは真偽不明と言うよりも公式発表されている神話の世界と研究者の身も蓋もない史実が入り乱れているため語りたくないのですが、父親の初代国王はソ連のスターリン書記長が日本の敗北後に朝鮮半島を共産化するために送り込んだシベリア在住朝鮮人の工作員であり、そうなると朝鮮総督府には記録がない神話の白頭山ではなくウラジオストックなどの極東の都市で生まれたのでしょう。それでも白頭山には丸木小屋の生家が作られています。
2代国王は父王在世の間は表舞台に立つことがなく、肉声さえ公表されなかったため「会話が成立しない」との白痴説や妻を次々に変えていることから「加虐趣味で女性を殺害している」との異常性格説が実しやかに語られていました。実際は最初の妻(実際は愛人)の洪一茜さんとの間に長女・金恵敬さん(弟の金正恩くんに夫・張成沢さんが粛清される)、2番目の妻(同前)の成恵琳さんとの間に長男・金正男くん(金正恩くんに暗殺される)、3番目の妻(唯一の正妻)の金英淑さんとは次女・金雪松さんと3女・金春松さん、4番目の妻で在日朝鮮人の高英姫さんとは2男・金正哲くんと3男の金正恩くん、4女の金与正さん、そして秘書に手をつけた5番目の妻の金玉(キム・オク)さんがいますが、一夫多妻の円満な家庭だったようです。
2002年9月17日の小泉純一郎首相の北朝鮮訪問で鮮明な映像と首脳会談での対話が報道されると「卓越した国家指導者」と言う北朝鮮の宣伝が必ずしも虚構ではないことを実感させられました。その後は「映画好き」などの人間的な魅力も紹介されましたが、拉致被害者家族会の批判に掻き消されて悪役が定着したのです。
2代国王治世下の北朝鮮はソ連の崩壊と中国の改革開放路線によって社会主義体制を堅持していることの価値が急落し、財政支援が激減したため国内経済が破綻状態に陥っており、藁にもすがる思いで臨んだ日朝首脳会談では日本人拉致を認める恥辱と引き換えに日韓国交回復時並みの巨額の財政支援を期待したものの完全に裏切られ、身心とも衰弱して2007年の8月上旬に脳卒中で倒れ、8月15日の祖国解放記念日(韓国の光復節)の軍事パレードも欠席しました。そしてこの日、平壌市内の次女か3女の自宅で倒れ(多くの女性との家庭が円満だった証左)、緊急事態に備えて各地に作っている専用診療所の32号招待所(日本では女性をはべらずハーレムと紹介されていた)に搬送されましたが急性心筋梗で亡くなったようです。
ところが民主党政権の野田佳彦首相は来日中だった李明博大統領(金大中政権と盧武鉉政権の太陽政策が国民の支持を受けていることを嫌悪していた)と申し合わせたようで一緒に外交儀礼を放棄し、弔問どころか弔電も打ちませんでした。
- 2020/12/16(水) 14:03:10|
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「俺たちの仲間になりたけりゃ『どなん60度』を飲んでみな」記者の強引な質問に腹を立てた地元の男性はカウンターの中で料理を作っている店主に目配せした後、取材に応じる条件を示した。「どなん60度」とは与那国島特産の泡盛でアルコール度数は60度だ。透明な瓶では高濃度のアルコホールが揮発するため直射日光を当てないように編んだ芦で包んである。男性は店主から受け取ったグラスに自分の「どなん60度」を注ぐと記者の顔の前に突き出した。
「普通の泡盛は30度だから倍の強さだぜ」「いいえ、僕は結構です」「折角、注いだんだ。黙って飲みな」「いいえ、僕は取材に応じてもらえば十分で、仲間に入れてもらうつもりはありません」「1杯飲めば気持ち良くなってお前が頭の中で考えてることを正直に話し始めるぞ。こっちの本音が訊きたけりゃそっちも本音を話でことだ」グラスの強烈なアルコール臭が鼻を突いた記者は身を翻して逃げ出した。
「お客さん、注文の素麺チャンプル」「キャセルします」店を飛び出す記者の背中に店主が声をかけると外から返事が聞こえてきた。まだ食べていないから喰い逃げではないが、代金の何割かを払う責任はあるはずだ。店主は追い出した地元の男性たちに皿に盛った素麺チャンプルを見せたが本人たちもチャンプルを食べているので黙って顔を背けた。
「俺がもらうさァ」皿を持て余したような顔になった店主にテーブルの席から淳之介が声をかけた。淳之介もフーイリチー(麩のチャンプル)を食べているのだがこちらも好物だ。
「ニイニはシマンチュウねェ」「雲島に住んでます」最近は淳之介のシマグチ(沖縄方言)もネイティブになっているのでこの答えも特に疑われない。
「仕事は何ねェ」「連絡船に乗って島から島をミングッテ(回って)ます」「それじゃあターミナルに泊まってるオンボロに乗ってきたんだな」オンボロとは失礼だが、バブル崩壊後に経営難に陥った離島航路から外洋連絡船を中古で購入して引退させた老朽船なので仕方ない。
「マスコミが沖の中国船を撮影するからって呼ばれてきたんですが、今回は島の人たちのインタビューで番組を作るそうです」男性たちは年上なので言葉遣いが丁寧なり、それがかえって好感を与えているようで全員がカウンターで向きを換えて話に加わってきた。
「アイツらは取材って言っても自分たちの意見を押しつけてくるから俺たちの本音じゃあないのさァ」「結局、今みたいに金が目当てって言わせたいのさァ」男性たちは酔いも手伝って興奮してきた。淳之介もオリオン・ビールのジョッキに口をつけているが酔ってはいない。だから男性たちの言葉に遠い昔に父から聞いたカンボジアPKOの体験談が浮かんできた。
自衛隊にとって初のPKOだったカンボジアにはマスコミが殺到していたが、若い記者たちは日本軍による占領を経験している地元の老人たちに「日本が侵略して迫害を受けたカンボジアに再び日本陸軍が来たことをどう思うか」と質問していたと言う。ところが老人たちは「日本は植民地支配からカンボジアを解放してくれた」「日本軍は勇猛だった上、規律が厳正で、兵士たちは優しく接してくれた」「日本は建国するための準備として政治や経済制度を整え、国民を教育してくれた」と怒気を含めて反論し、「新しい日本軍が荒れ果てた国土の復興に来てくれたことに感激している」「大歓迎だ」と絶賛したのだ。
「俺たちだって自衛隊ができれば国からの予算が入るし、家族も含めて人口が増えることを期待してるのさァ。だけどその前に中国の船が目の前に停泊しているのを見ていれば駐在所の警察官2人だけじゃあ困るって考えるのは当然さァ」これが本音と言うものだろう。人間の思考を「イエス」か「ノー」の「オール・オア・ナッシング」で評価するのは父が嫌うキリスト教的な一神教の人間観だ。その一方で前回の与那国島出張の時に東京にいた父から電話で聞いた下甑事案を思い出した。下甑事案とは1997年2月3日の早朝に東シナ海に浮かぶ絶海の孤島の下甑島の旅館に言葉が通じないアジア人が4人現れたことから始まる密入国事件だ。下甑島も駐在所の警察官2人しかおらず、海が荒れていて鹿児島県警からの増援も不可能なため消防団が中心になって山狩りを始めることになり、島に所在する航空自衛隊のレーダー・サイトにも隊員の派遣を要請したのだが、ハイキングとしての野外訓練になって武装した隊員の出動を期待していた地元住民は裏切られた。逆に都市部のマスコミは「自衛隊の暴走」と受け止めて取材に乗り出しだが、地元の特殊事情を訴えられて無視することになった。淳之介は父親の職業を明かした上で下甑事案を具体例として平時の自衛隊の行動の限界を説明した。
「その島みたいにハイキングでも自衛隊がいれば密入国者も勝手なことはできないはずだ」「自衛隊がいるだけで災害が起きても安心だろう」翌朝、淳之介はこの島民の本音をマスコミがどう伝えるのか思案して帰ったが、案の定、記者の質問通りの金と過疎対策の欲得尽ずくにされていた。最近、父が語る世論の歪曲を実感する機会が増えているような気がする。
- 2020/12/16(水) 14:00:19|
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今回、淳之介は与那国島まで予備の連絡船の臨時船長として操舵することになった。とは言え完全な単独ではなく定期連絡船に追従するのだが、やはり外洋を航行するのは緊張する。
「淳之介、だいぶ腕を上げたな」島の西側にある久部良港のフェリー・ターミナルに接岸して船体を点検していると先に到着して乗客を下船させた定期連絡船の船長が声をかけてきた。
「今日はお客さんを乗せないで船長の後についていくだけでしたから気は楽でした」「いや、潮の流れを読みながらついてくるから安心と感心をしていたぞ」この船長には見習いの頃から世話になっているのでこうして誉められるのはこの上ない喜びだ。
「俺は石垣に帰るが、今夜は単独になるから十分に気をつけろ」片道4時間半の航路なので到着して港の近くの食堂で昼食をとればそのまま控え所で待っている乗客に声をかけて乗船を始めなければならない。日本の標準時刻を決める兵庫県明石市の東経135度から大きく西に外れている石垣島のこの時期の日没時間は6時40分過ぎだが、明るい間に石垣島に到着するには定時から遅れることはできないのだ。淳之介も久しぶりに準備を手伝った。
「東京のマスコミの連中は好き勝手な注文をしてくるぞ。『安全上できない』と拒否してもお構いなしだ。お前は若くて気が優しいから舐められると厄介だぞ」「大丈夫、父は東京の弁護士だって言ってやります」淳之介の返事を聞いて船長は操舵の腕だけでなく人間的にも成長したことを実感したようで肩を叩いて操舵室に入っていった。
「申し訳ないですがマスコミの皆さんが今回は島民に対する取材を中心にするから中国船の撮影は必要ないと言ってきたんです」定期連絡船が出航し、淳之介が受付の小母さんが帰ってしまった待機所で日没後の出航に備えて中国船が停泊する水域の海図を確認していると町役場の職員が訪ねてきた。どうやら会社に臨時便を依頼したのはマスコミではなく町役場だったようだ。町役場とすれば取材に来るマスコミ関係者は都会の便利さを常識にしているため離島の特殊事情に不快感を抱き、それが悪意を持った報道になることを心配しているのだろう。そのため前回、強い要望があった沖での撮影も気を回して手配したらしい。
「会社には連絡をしましたがキャンセル料を支払うことは無理なので・・・社長さんが貴方と話したいそうです」話の脈絡から見てこの同世代の職員は伝令なのかも知れない。おそらく社長は操舵室の無線で何度呼んでも応答しないので、タマタマ電話が入った町役場の職員に依頼したようだ。どちらにしても職員は淳之介にも説明する責任はある。
「もしもし安里ですが。話は役場の人から聞きました」「うん、トゥマンギッテルさァ(ビックリしているよ)」待機所の電話で会社に連絡すると社長が出た。普段の社長は標準語を使うように心がけているが、驚いたり困った時にはヤイマムニ(八重山方言)になる。今回は両方だ。
「お前に帰ってもらえば明日の巡航船に乗務させられるんだが、今からでは新月の暗夜を航海することになるからな」社長も船乗りなので月齢は知っている。今年は2月19日が新月なのだ。
「おまけに始めて舵を握る船を単独で外洋を帰らせるのは業務管理上も許されない。その船が引退した老朽船とくれば諦めるしかないな」社長はバブル崩壊後の本土の企業では常識化している利益追求最優先、社員は道具として酷使する経営手法からは完全に乗り遅れている。
「帰ってこい」と命じられることを予測していた淳之介はあらためて社長に敬意を抱くのと同時に本土の悪い面だけを模倣する沖縄本島とは違う八重山流の社会風習に感謝した。これが普通の若いウミンチュウであれば「俺、大丈夫です」とヤル気を披歴するところだが、淳之介は就職した時から「あかりを守る」と言う意識を抱いているので無理はしなかった。
「日中なら単独でも大丈夫か」「はい、心配ないと思います。日の出と同時に出航します」石垣島の標準時刻の日の出時間は7時10分過ぎだが南にある分明るくなるのはかなり早く、実際は6時過ぎには出航できるはずだ。
「運んでくる貨物があれば載せるんだが今のところ空船にするしかないな。燃料代役場持ちのお前の実習航海と言うことで納得しよう」話し終った社長はいつもの口調に戻って電話を切った。つまり今回は1泊2日の実習航海なってしまったようだ。
「やはり自衛隊を誘致する目的は迷惑料ですか」日没後、港に続く商店街の食堂で夕食をとっていると一見して本土のインテリ風の男がカウンターで酒を飲んでいるどう見てもシマンチュウの集団に質問していた。内容から取材に来ているマスコミ関係者なのは明らかだ。
「いや、このままでは島が中国に占領されてしまうから・・・」「それでは自衛隊が市町村協力費と呼んでいる迷惑料は要らないのですか」この質問がマスコミ得意の世論誘導なのは淳之介にも判った。マスコミとしては住民投票の結果がどちらになっても、自衛隊の誘致の目的はあくまでも予算の獲得と過疎対策にして中国の脅威は二の次にしたいのだ。
- 2020/12/15(火) 13:37:18|
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