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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

2月1日・スペースシャトル・コロンビアが空中分解した。

2003年の明日2月1日に地球に帰還するため大気圏に再突入したスペースシャトル・コロンビアがアメリカ上空で空中分解しました。
スペースシャトルの事故と言うと日系人宇宙飛行士のエリソン・オニヅカ中佐が殉職した1986年1月28日のチャレンジャーの打ち上げ爆発事故が思い出されますが、チャレンジャーは空中実験機を改造して最初に完成した2号機でコロンビアは実験終了後に製作された1号機です(NASAの登録番号の順番として)。
チャレンジャーの事故は発射時に右側補助固体燃料ロケットの密閉用O(オー)リングがパイプの凍結によって破損し、漏洩した燃料にエンジンの噴出炎が引火したことが原因とされていますが、コロンビアも発射時に外部燃料タンクから剥落した断熱材の破片が左主翼の前縁に衝突して耐熱パネルを破損させたことが原因と推定されています。
コロンビアはこれが1981年4月以降28回目の飛行で1984年7月には日本人の女性宇宙飛行士・向井千秋さんが搭乗しています。ちなみにこの飛行は機体の不具合で18回2年間延期され続けて別の機体による飛行が先行して6回実施されていました。
この事故では現地日時の1月16日10時39分の発射から82秒後に前述の外部燃料タンクから剥落したスポーツ・バッグ大のオレンジ色の断熱材が左主翼の全縁を直撃して(事故後の実験では)15センチから20センチの穴が開きましたが飛行に支障がなかった上、NASAとしては何もできることがなかったため放置されました。その後、無事にスペース・ハブ(スペースシャトルに搭載する実験室)での科学実験を終えて帰還する時にこの穴から大気圏への再突入後は1450度に達する熱が侵入して機体を崩壊させることになったのです。
コロンビアは現地時間午前8時44分に再突入を開始して4分後に主翼の前縁のセンサーが過去に例がない張力の発生を探知し始めますが、これはフライト・レコーダーに記録されただけでした。そのままマッハ24、高度74キロから徐々に減速しながら高度を下げ、9分後にマッハ23、高度70キロでカリフォルニア州を通過しますが、地上の見物していた人々は機体が繰り返し閃光を放ったことを目撃し、やがて部品が空中に散乱していくのを確認しました。NASAでも油圧がゼロになって操縦不能に陥ったことを感知したため再突入から15分後にコロンビアに通報し、機長が「ロジャー(了解)」と答えたのが最後の交信になりました。
最終的に搭乗員の遺骸とコロンビアの残骸はダラス南東290キロのナカトーチェスを中心にルイジアナ州の西部からアーカンソー州の西部までの100キロの地域で2000点以上が回収されましたがインターネットへの出品や個人の秘蔵も相次ぎ、現在も当局が全体を把握するには至っていないようです。
余談ながらイスラエル人の搭乗員・イラン・ラモーン大佐はイラク原子炉を破壊する空襲に参加していたため「イラクによるテロ」と言う噂も流れましたが、この時は流石の2代目ブッシュ政権も利用しませんでした。
  1. 2021/01/31(日) 13:07:20|
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振り向けばイエスタディ2172

「ご機嫌が斜めだけど今年の隊員さん、今一(いまいち)なの」空幕輸送室から電話が入った夜、妻の秀子を相手に晩酌を始めると鋭い指摘を受けてしまった。森田3佐が北海道を希望する理由を伝えたことだけが成果だが、輸送幹部になって以来、空幕輸送室の人事には裏切られ続けているので毎晩の指定銘柄・六調子の半々の水割りも今夜は苦く感じていた。
「空幕輸送室から次の転属の調整が入ったんだが、2空団の管理隊長は防大出か部外出身のA幹部専用だから俺は対象外だそうだ」「そう言えば小牧の頃は年1回の東京出張があったけど芦屋に来てからは縁が切れちゃったみたいだから話も通じないわね」秀子は幹部候補生学校に入校中に「航空自衛隊が高知県に開設する土佐清水分屯基地には移動警戒隊が配置される」と言う情報を仕入れて兵器管制幹部になるように勧めたことがある。この情報収集と分析能力はやはり瀬戸内海を行き交う船を眺めつつ八十八ヶ所巡りの遍路との会話で日本全体の情勢を推察していた伊予人=愛媛県人の特性だ。
「それで輸送室はどこに行けって言ってるの」「防府南の教育隊の大隊長だってよ。航空自衛隊としては愛媛に一番近い郷土配置になるらしい」土佐清水分屯基地であれば地続きで距離も近いが輸送幹部の配置がないので対象外にするのが空幕輸送室の人事だ。その点、航空教育隊は航空幕僚監部が防府南基地の独善的で閉鎖的な体質を問題視していて他の職種の幹部を配置しているので割り込むのは簡単らしい。むしろ警備教育の第1人者であれば最適任者として空幕の人事の方から声がかかった可能性もある。
「自衛隊生活の最後を防府南で汚すことだけは我慢ならんよ」「でも愛媛の森田と松原の実家は定年後に住む家を用意するから帰って来いって言ってるんだよね」秀子が妙に乗り気になったのを見て森田3佐は益々苦くなった六調子を飲み干し、2杯目はかなり濃くした。
「それは兄貴の息子が農家を継ぐのを嫌がっているからだろう。俺は四国に帰る気はないぞ」「就職家出したんだもんね」森田3佐の吐き捨てた言葉を秀子は感情を交えずに受け流した。森田3佐は農家の次男だが、幼い頃から「家は兄が継ぐ」「高校を卒業したら家に迷惑をかけるな」と言われて兄は農業大学校に進学しながら弟は高校までしか許されなかった。その癖、蜜柑の収穫などの農作業では酷使されていた。四国にはない航空自衛隊を選んだのは「2度と帰らない」と言う覚悟の就職家出だったのだ。ところが秀子の実家の松原家から「娘に夜這いをかけて傷物にした。責任を取れ」と申し入れられて結婚したので縁が断てなくなってしまった。
「モリヤの奴も就職家出したって言っていたな」濃い六調子が効いてきて少し痺れてきた頭に曹侯学生の同期の顔が浮かんだ。考えてみれば「就職家出」と言うのはモリヤ曹侯生の造語の請け売りだ。モリヤ曹侯生は没落した旧家の次男の父親とそれに盲従する母親の家庭と本人が「現世の三悪道」と呼んでいた地元に我慢がならず京都の大学への「進学家出」をするつもりだったが父親の独断で地元の大学に入れられため、曹侯学生に合格したのを機に「就職家出した」と言っていた。それでも基礎課程の後に浜松の第1術科学校に入校して親が「帰ってきた」と思い込んだため一番遠い沖縄を熱望したと聞いている。
「何だ。お前は今頃になって愛媛が恋しくなったのか」「そりゃあ生まれ故郷だもん、老いれば懐かしくなるよ。それに北海道の寒さは年寄りには辛いでしょう」秀子から意外な本音が漏れ出した。3曹になって間もなく結婚した秀子とは北は北海道から南は沖縄まで全国各地を転属して回ったが、その根なし草のような生活を終えるとなれば故郷に帰ることを選んでも不思議はない。気がつくと秀子も1杯目を飲み終って目が潤んでいる。
「ヒョッとして定年離婚希望か。退職金を全部持っていかれると困るなァ」「北海道行きは良く考えてって言いたいだけよ。謙作は貴方と一緒で就職家出したんだから親が押し掛けるのは迷惑かも知れないでしょう」最近の森田謙作予備3曹は感情的になる母親よりも父親の職場に電話をかけてきて本音を語るようになっている。そのため蚊帳の外に置かれた秀子は息子を事実上の婿養子にした嫁憎しの感情に望郷の念が加わって夫が進める北海道行きに対する反発を募らせていたのかも知れない。
「俺にとっては防府の基礎課程と空侯課程の半年間は苦痛に耐える精神修養以外の何物でもなかったんだ。教育している班長連中に部隊のことを聞いても何も答えられずに『今の教育に集中しろ』って詭弁を弄しやがった。案の定、教育内容は部隊では全く役に立たない。だから自分で研究を始めたのはお前にも話したはずだ」「今度は大隊長だから少しは改革できるでしょう」「駄目だね。防府では改革を口にする幹部は課程教育に関わらないように隔離されてしまう。隊司令と群司令は古参空曹に取り囲まれているから実態を知ることはない」森田3佐の目に殺気が走ったため秀子は飲みかけのグラスに水を足して酔い覚ましにした。
  1. 2021/01/31(日) 13:05:50|
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1月31日・アメリカ軍で唯一!スロヴィク2等兵が敵前逃亡罪で銃殺された。

1945年の明日1月31日にエドワード・ドナルト・スロヴィク2等兵が南北戦争以降のアメリカ軍では唯一となる敵前逃亡罪での銃殺刑に処せられました。
敗戦後の日本では「陸軍で脱走すると一律に銃殺刑だった」と思われていますが、実際に銃殺になるのは戦地での敵前逃亡だけで平時の脱走は重営倉であり、それも軍事裁判での判決によりました。ただし、戦争が激化すると逃走する現場で射殺し、指揮官の判断で銃殺することもあったようですが、敗戦時に記録類が焼却されたための実態は不明です。
スロヴィク2等兵は1920年にミシガン州デトロイトで生まれましたが少年時代から素行不良で、12歳で早くも金属工場に盗みに入って逮捕され、その後も1939年まで少年鑑別所と娑婆を往復しながら過ごしました。それでも1942年の仮出所後は定職に就き、結婚して妻の実家に住むようになりましたが、結婚1年後に戦争の長期化によって差別対象のアフリカ系や敵性の日系人まで招集するようになった陸軍は犯行歴がある者を除外していた兵役対象を緩和したためスロヴィクさんも招集されることになったのです(日本なら赤紙が届く)。そうして1944年に出征するとテキサス州での訓練後にヨーロッパ戦線でもフランスとドイツ、占領下のベルギーの国境が接する激戦地の第28歩兵師団に配属されました。しかし、前線では仲間を誘っての敵前逃亡を繰り返し、10月中旬には砲撃戦中に部隊から集団ではぐれてやや後方のカナダ軍部隊に紛れ込むと6週間も居座った後、部隊に送り返されています。それでも中隊長の大尉が温情を示して軍規違反で告発しないと調子に乗ったスロヴィク2等兵は「前線は恐ろしいので後方に回して欲しい」「このまま小銃小隊に配属されれば脱走する」と訴え、「脱走すれば罪になるのか」と訊ねたのです。当然、大尉は「そうなるだろう」と答え、そのまま小銃小隊に復帰させました。すると今度は前線の監視に来ていた憲兵に「前線に送られれば逃げる」と書いたメモを渡し、それが大隊長の中佐の手に渡り、「これを破れば見逃す」と直接説得されたものの拒否して軍事裁判所にかけられることを希望したのです。こうして営倉に入れられると弁護官からも「原隊に戻れば起訴は延期され、やがて移動できる可能性がある」と説得されましたが軍事裁判への希望を取り下げることはありませんでした。
しかし、当時のアメリカ軍はナチス・ドイツで「防御戦の大家」と賞賛されていたヴァルター・モーゲル元帥との1944年9月19日から1945年2月10日までの長期激戦の最中であり、戦死者数はナチス・ドイツの28000名を大きく上回る33000名を出して軍首脳が敗北を認めるような惨状で、この前線に派遣される予定の第28歩兵師団では「赤い要石」を意味する部隊章を「血が入ったバケツ」と陰口を叩かれていました。このため軍事裁判では「前線に送られるくらいなら安全な刑務所に逃げた方が良い」と考える兵士を出さないための見せしめにスロヴィク2等兵を使うことが申し合わされていて、11月11日に有罪と銃殺刑が宣告されたのです。スロヴィク2等兵は助命の嘆願書をアイゼンハウアー最高司令官に送りましたが折り返しに執行命令が届き、この日の午前10時4分にフランスのアルザンヌの鉱山の村で銃殺刑に処せられました。24歳でした。
アメリカ陸軍第28歩兵師団アメリカ陸軍第28歩兵師団の部隊章
  1. 2021/01/30(土) 14:08:33|
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振り向けばイエスタディ2171

日本が安全保障関連法案の問題で騒然とし、巻き込まれた自衛隊が揉み苦茶にされていた頃、森田謙作予備3佐の父で航空自衛隊第3術科学校7科長の森田敬作3佐は個人的に悩んでいた。一般空曹侯補学生7期の森田3佐は大学中退で入隊したモリヤ2佐と同期だが高卒だったので2歳年下だ。このため次の転属が定年配置になる。
「森田3佐には異例の長期間にわたり従特技配置で頑張っていただきましたから定年配置は希望を適えて差し上げたいのですが、流石にこれは・・・」今日も7科長の電話に航空幕僚監部の輸送室から連絡が入った。空幕輸送室は輸送幹部の人事を統括しているが、森田3佐が幹部申告に書いた第2航空団管理隊長への異動希望に難色を示している。
「ご存知のように千歳の管理隊長はA幹部の配置に固定していて森田3佐は部内ですから・・・輸送室としては特例を作ることは避けたいんです」空幕輸送室の人事が直接顔を出す首都圏の輸送幹部だけを優遇し、そのしわ寄せを地方の人間に押しつけていることは明らかだ。航空自衛隊の輸送幹部は持ち駒が少ないため、1名が定年になるとその穴埋めに日本列島を縦断するような移動を命じることも珍しくない。おまけに輸送員の空曹は所詮は運転手であって学力が高いとは言えず、部内幹部候補生の1次試験に通らないため即戦力の小隊長が増産できず、不足分は准尉・曹長からの3尉候補者に頼っているので定年間近の小隊長が増えるのだ。
「本当は稚内の第18警戒群の基地業務隊長が第1希望なんだが、2000年に小隊長に格下げになってしまったから諦めたんだ。私の3術校7科長の職務を『苦労をかけた』と思うなら定年配置くらい特例を作れよ」「森田3佐はご夫婦とも愛媛県出身と伺っていますが、防府南の大隊長か、業務主任はいかがですか」空幕輸送室の担当者は幹部申告を見て考えていたらしい人事を提案してきた。防府南基地の航空教育隊には予備要員として教育職以外の職種の幹部配置があり、愛媛県出身であれば最寄り基地になる。それでも防府南・北基地の管理隊長は九州出身者の落とし所なので確保しておくつもりのようだ。
「防府南だけは嫌だ。あそこに配置された他の職種の幹部は勤務評定を教育職の下にされることは輸送室も知っているだろう。何よりも俺の警備課程は航空教育隊が訓練内容を改善しないから自分で研究したんだ。それを押しつけるなら定年前に依願退職するぞ」興奮して声が大きくなったため教官室の幹部と空曹たちが驚いたように顔を向けた。森田3佐は浜松の第1航空団管理隊で警備小隊長になり、そこで曹侯学生時代から研究していた警備戦術の訓練を始めると関心を持った団司令と基地業務群の後押しで在日アメリカ軍の三沢、横田、厚木、岩国、嘉手納と普天間の憲兵隊に国内留学して基地警備戦術を確立した。その頃、後に航空幕僚長になる基地業務群司令と「浜松の次は入間基地の警備小隊長、1尉になって日本大使館の在外公館警備官、帰国後は航空幕僚監部防衛部の警備担当、基地業務群司令が航空教育集団司令官になって設置する第3術科学校警備課程の準備と初代科長、そして航空幕僚長になって創設する警備教導隊の隊長として定年を迎える」と言う将来計画を立てていたのだが、輸送室は「輸送幹部として管理隊長にする」と頭から受けつけず、それどころか「輸送小隊長を経験していない」と基地業務を担当していない八雲の第6高射群第24高射隊の管理小隊長に移動させたのだ。
「そこまで北海道にこだわられる特殊事情があるんですか」「息子が旭川に住んでいるんだ。定年後は夫婦で牧場を手伝うつもりだ」「酪農ですか・・・と言っても北海道の3佐の配置は2空団の管理隊長以外にありませんし困りましたね。昔なら基地防空隊長もありましたが今は基地業務小隊内に編入されています」「移警隊長(移動警戒隊長)なら勤まるぞ。これでも空曹時代はエーシャン(警戒管制員)だったんだ」森田3佐としては本気の助け船だったが、輸送室は鼻で笑って受け流し、受話器から鼻息が聞こえた。
「だから輸送なんて職種は廃止すれば良いんだ。補給と職種統合すれば人数は揃うし、仕事のつながりも明確になる」電話を切って森田3佐は持論を大き目の独り言で呟いた。高射隊の管理小隊長は輸送幹部配置でも担当業務は輸送と車両整備、展開地の警備、補給と施設まで後方全般に及ぶため単なる運送屋の経営者ではない認識を学ぶことができた。その中で輸送の目的が補給物資の運搬であり、車両による移動はその手段の1つに過ぎないことを確信したが、運転の技量だけを誇る小隊内の輸送員には不評だった。
「後任の科長の浜松時代の1番弟子だそうですから我々は安心しているんですが、ご自身の移動は心配になります」「移動は3月の予定だから輸送室もない知恵を絞るだろう。人事情報は口外無用だから頼むぞ」電話を切ると主任教官を任せている警務幹部の2尉が声をかけた。空幕輸送室は7科長の後任も九州出身者の落とし所として輸送幹部に固定しようとしたが、森田3佐が断固拒否して浜松の警備小隊から部内に入った池内1尉を据えたのだ。
  1. 2021/01/30(土) 14:07:14|
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振り向けばイエスタディ2170

私たちは海軍が手配したペンサコ―ラ市内のホテルにもう1泊した。明日はノザキ中佐とスザンナはフロリダ半島中央部のオーランドからハワイへの直行便に乗る予定だから見送ってから高速列車でアトランタに向かい、夜の搭乗まで市内観光するつもりだ。
「それにしてもアメリカ海軍はブッシュ親子が好きなんですね」夕食は市内で海産物が美味しいと言う地元の料理を楽しんだ。先ずはビールで乾杯すると私は先ほど見てきた海軍兵器博物館で気に入らなかったことを指摘した。国際刑事裁判所の検察官の私にとっては、ブッシュ父は国連と調整しながら湾岸戦争に勝利した名大統領でも2代目ブッシュは出来の悪い極めつきの愚息以外の何者でもなく、退任までにアフガニスタンやイラクを現地調査して対イスラムの第3次世界大戦を始めた戦争犯罪者として告発するつもりなのだ。
「確かに父ブッシュ大統領が第2次世界大戦中に操縦訓練を受けていた練習機だけでなく、息子ブッシュ大統領が対イラク戦争の終結を宣言するために空母・エイブラム・リンカーンまで操縦したSー3バイキングのネービー1(ワン)まで実機が展示してあったからな」ここまで詳細に記憶しているところを見るとノザキ中佐も腹に一物でなくても心に引っ掛かるものがあったのかも知れない。それでも呼び捨てにしないで「プレジデント=大統領」と肩書を付けるところはアメリカの軍人だ。
「ネービー1って・・・大統領専用機をエア・フォース1って呼ぶのは知ってるけど」「アメリカでは大統領が乗った軍用機を軍のトップのコールサインで呼ぶんだ。だから海兵隊のヘリコプターに乗るとマリン1、大統領専用機は必ず予備機と2機で飛ぶが、乗った方がエア・フォース1になる」私の説明に質問した梢よりもノザキ中佐の方が感心したようにうなずいた。
「日本の政府専用機もJASDF1(ジャスダフ・ワン)なのかね」「いいえ、首相が乗るとアキツ・アルファ・・・航空自衛隊ではコールサインは部内秘にしていますから聞かなかったことにして下さい」この情報は1992年に航空自衛隊が政府専用機を運航し始めた頃に演習の警備訓練の仮想敵として行った小牧基地で小耳に挟んだはずだ。何にしても盛り上がりかけた話題が中止されたためノザキ中佐は元の話題に戻した。
「父ブッシュ大統領は18歳で海軍の最年少パイロットとして太平洋戦線に参加したんだ。艦載雷撃機で128回出撃して1228時間飛行した上に2回撃墜された。だから殊勲飛行十字章にエア・メダル(航空作戦で武功を上げたパイロットに授与される勲章)を3個、母艦の艦長から1個の勲章を受けている。海軍が英雄として誇示するのは当然だろう。しかし、息子ブッシュ大統領はパイロットと言ってもテキサス州空軍だし、ベトナム戦争で粗製乱造していた時期に最下位に近い成績だったんだ」父ブッシュに関する説明が詳細なのに比べて息子ブッシュについては吐き捨てるように辛辣だった。やはりノザキ中佐は同じパイロットして父ブッシュには敬意を抱いていても息子ブッシュは嫌悪感を覚えていることが判った。実際、在任中には一部の言論人が「陸軍に徴兵されるのを逃れるためだった」と言う噂を流していた。
「ところで貴方たちは結婚を考えていないの」ロブスターや巨大な魚のステーキ、シュリンプ・サラダなどの大味な海鮮料理が運ばれてきて酒も進んだところでスザンナが唐突な質問をした。やはり私と梢の夫婦以上に仲睦まじい姿を見ても佳織の実父であるノザキ中佐の口からは娘との離婚を前提にした質問はできないのだ。それを察して辛い役柄を替わったスザンナは妻として梢並みに優れている。
「いいえ、私たちは今のままで十分です。多分、21歳で出会った恋人同士として共通の息子娘夫婦と孫を見守りながら暮らしていけば、やがて老いを迎えて来世での再会を約束して死んでいくんでしょう。その人生に佳織の居場所もありますよ。佳織は自衛官としての仕事に燃え尽きてから帰ってくれば好いんです。あと数年後です。でも定年後にハワイに移住する計画はもう1度話し合わないといけません」梢もノザキ中佐夫妻に会うことが決まった時から質問を想定して答えを考えていたようで珍しく自分の考えを明確に説明した。
「佳織にはハワイは生まれ故郷でしょうけど私には外国なんです。同じ外国なら住みたい場所は幾つもあります。これから伴侶と話し合っていきたいと思います」今のところ今後の人生の伴侶は梢になる。佳織にとっての私は帰還する母基地・母艦で良い。
「佳織を含めて貴方たちの考え方は私たちには理解できないけど、幸せそうなのは間違いないから見守るしかないようね」「今後とも親子としてお願いします」私の答えにノザキ中佐は目と口元に複雑な笑顔を浮かべてうなずいた。
「志織が帰った時には貴方たちもハワイに来なさいよ」翌日、オーランド空港で見送るとスザンナが母親の顔で私たちに声をかけた。しかし、ハワイとオランダの直行便はないはずだ。
  1. 2021/01/29(金) 13:33:55|
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振り向けばイエスタディ2169

「トムキャットですね」入隊式が終わると志織たちは教育課程が始まるので私と梢はノザキ中佐とスザンナと一緒に基地内にある国立海軍兵器博物館を見学することにした。すると玄関の前には実物のFー14トムキャットが脚を上げた飛行状態で展示してあった。
「しかし、丸腰ですね。最大の売り物のフェニックス・ミサイルを装着していないのは残念です」「日本がイーグルを買ったのは賢明な選択だったよ。トムのフェニックスが実戦で役に立たないことはイラン・イラクとガルフ・ウォー(湾岸戦争)で証明されている」確かにAIMー54フェニックス・ミサイルは極めて高価な割に戦績は芳しくない。イラン・イラク戦争では実際は高性能のレーダーによる早期警戒機的な運用をしていたので戦果はなかったとまで言われている。湾岸戦争でも200キロ超の最大射程では命中精度と速度が極端に落ちて易々と回避を許し、Fー15イーグルを選んだ航空自衛隊の判断が正しかったことを実証した。
「それでも現物が見られたのは喜ばしいことです」「君は若い頃にはイーグルに触っていたんだろう。だったらトムなんかどうでも好いじゃあないか」沖縄時代、嘉手納の空軍と普天間の海兵隊の航空機整備員たちと交流があったが、近親憎悪のように対抗意識を丸出しにしていた。特に空軍の連中は酒が入ると私が髪を短くしていることを「頭脳労働者の航空自衛隊=空軍の癖に野蛮人(=海兵隊)の真似をしている」と非難の集中砲火を浴びせた。やはりノザキ中佐も空軍気質は同一規格らしい。
「ゼロのモード21だな」「零式艦上戦闘機の21型だよ」多くの複葉機に続いてアメリカ軍の第2次世界大戦中の戦闘機に紛れて零式艦上戦闘機の21型が展示されていた。それを見てノザキ中佐はスザンナに、私は梢に説明した。
「これもロバート・ディマートの仕事なんだ」「パール・ハーバー(=真珠湾太平洋航空博物館)にあるのと同じね」零式艦上戦闘機の解説の看板を読んでノザキ中佐とスザンナが勝手に納得し合った。仕方ないので私も読み進めるとロバート・ディマートはカナダ人の第2次世界大戦中の機体の収集家で、ソロモン諸島のバラレ島で入手した8機の部品で3機に組み上げたうちの2機のようだ。思い出してみると私は浜松基地で52型、国立科学博物館で21型、知覧の特攻平和会館で海底から引き揚げたままの52型を見たことがあるから4機目の対面だ。
「君もゼロを見ていると日本人として誇らしい気分になるだろう。ここに並んでいるネービー(海軍)の戦闘機は歯が立たなかったんだからな」「いいえ、私は三菱重工のFー1戦闘攻撃機の劣悪な機体を扱ったことがありますから、同じ三菱が設計・製造した零式艦上戦闘機も評価していません。あの無敵と言われる強さはパイロットの技量が神技の域に達していたからで、熟練パイロットがいなくなった後半戦では弱点を露呈したでしょう。この防弾性が全くないピラピラの機体を見て下さいよ。出力が弱い栄エンジンで海軍の無理な要求を実現するために軍用機として必要な機能を削ぎ落としたんです」想定外の私の反論にノザキ中佐は黙ってしまった。すると私たちの後方で少し距離を置いて零式艦上戦闘機を見ていたアメリカ海軍の軍人と妻にも聞こえたようで前に出て機体を注視し始めた。これでは一緒に展示されているF4FやF6Fの肩を持ったことになる。そこでアメリカ軍機を叩き落とすことにした。
「ところで映画のトラトラトラやパール―・ハーバーでP40に零式艦上戦闘機が撃墜されましたが両者の性能を考えると信じ難いんですが」「あれは完全な虚構だ。開戦時のアメリカ軍にはゼロに対抗できる戦闘機はなかったよ。強いて言えばドイツのメッサーシュミットとイギリスのスピットファイアぐらいだろう」「日本軍もスピットファイアには南方戦線で痛い目に遭っています」実際にマレー・シンガポール作戦でスピットファイアに痛い目に遭ったのは陸軍だが97式戦闘機の運動性は零式艦上戦闘機に勝るので間違いとは言い切れない。
「見よあの空に 遠く光るもの あれはゼロ戦、僕らの隼人 機体に輝く金色(こんじき)の鷲・・・ゼロ戦 ゼロ戦 今日も飛ぶ」この機体はジャングルの中で発見されたので撃墜はされていないが神風(しんぷう)特別攻撃隊を含めて零式艦上戦闘機で戦死した多くのパイロットを慰霊するため敗戦後に放送されたアニメ「0戦はやと」の主題歌を低く唄った。このアニメは私が2歳だった昭和39年に放送されたが今でも主題歌が唄えるくらい真剣に見ていた。
「スカイホークのブルー・エンジェルスですね」「同時期のサンダーバ―ズはTー38だったよ。海軍もミラマーではTー38を教官機にしていたんだ」大ホールの天井には6機編隊の実機が吊るされているがノザキ中佐はそれも空軍に持ち込んでしまう。確かにカリフォルニア州サンディエゴのミラマー基地にはトップ・ガンがあり、Tー38の教官機は映画で見たことがある。
それにしてもこの祖父が孫娘の志織を海軍に入れることに賛成したのは余程の長期戦略・高等戦術だったはずだ。志織は母親に似て将来は提督になるかも知れない。
  1. 2021/01/28(木) 13:07:51|
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1月28日・合衆国コースト・ガード=アメリカ沿岸警備隊が創設された。

1915年の1月28日に国防総省管轄下の陸軍・海軍及び海兵隊・空軍の4軍を規定した合衆国法第10編とは別の第14編で国土安全保障省に属するアメリカ5軍の1つに加えられている合衆国コースト・ガード=アメリカ沿岸警備隊が創設されました。
日本の海上保安庁は英語名を以前は「マリタイム・セフティ・エイジェンシー」と直訳していましたが、現在は「ジャパン・コースト・ガード」に変更して巡視船の舷側にも大きく明記しています。しかし、運輸省の外局として創設され、現在は国土交通省に属している海上保安庁は海上保安庁法第25条で「この法律のいかなる規定も海上保安庁又はその職員が軍隊として組織され、訓練され、又は軍隊の機能を営むことを認めるものとこれを解釈してはならない」と宣言していて、自衛隊法80条1項に「内閣総理大臣は第76条1項(=防衛出動)又は第78条1項(=治安出動)の規定による自衛隊の全部又は一部に出動命令があった場合において、特別な必要があると認めるときは海上保安庁の全部又は一部を防衛大臣の統制下に入れることができる」と規定されていても陸海空自衛隊と同一の位置づけにはなっておらず、それだけでなく海上保安庁法第25条の規定を理由にして海上自衛隊との共同訓練も拒否しています(自衛隊は軍隊ではないはずだが)。
アメリカの沿岸警備隊は1776年の独立後に13州に来航する外国の商船から関税を徴収し、アメリカの商船を警護するために1791年に創設された税関監視艇部を前身としますが、独立後にアメリカ海軍は解散していたので唯一の海上戦力になっていました。このため当初の任務の他にも海賊や違法行為の取り締まり、船舶同士の抗争の仲裁、盗難船の捜査などの任務や灯台の管理などの業務が追加されて組織が拡大し、1798年の革命後のフランスとの宣戦布告なき武力衝突で海軍が再建されると有事には大統領命令で海軍大臣の指揮下に入ることが定められ、実際にこの武力衝突や1812年のイギリスとの局地戦に参加しています。
それでも財務省内に全く専門外の灯台局や蒸気船検査部(立ち入り検査担当)、人命救助部を設置して追加された業務を所管させていましたが、主任務が関税の徴収から外国商船の監視に移行したことで商務省に移管され、変則的な組織のまま20世紀に入ると船舶の発達に伴い交通量が急増したため専門外の商務省では手に負えなくなり1878年に専門部局として独立し、この日にウィリアム・ハワード・タウト大統領が合衆国コースト・ガード(USCG)=アメリカ沿岸監視隊の創設する合衆国法第14編に署名しました。その一方でこれまでの経緯から財務省の所管に戻り、1967年に運輸省が創立すると移管され、2003年に新設された国家安全保障省に再移管されて現在に至っています。
参考までに日米のコースト・ガードを比較するとアメリカは制服の隊員42190人(予備役7899人)、一般の職員8722人、補助隊員32150人でカッターと呼ばれる巡視船は84隻(巡視艇は多数)、航空機は197機なのに対して日本は制服と一般を合わせて職員数12916人で巡視船艇は435隻、航空機は83機です。補足すれば日本には港内や海岸、河川と湖池を所管する水上警察もあります(アメリカの警察は内陸のみ)。
  1. 2021/01/27(水) 12:51:08|
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振り向けばイエスタディ2168

「ラスヴェガス基地に入隊した時を思い出すよ」青いアメリカ空軍の自衛隊で言う1種夏服に相当する夏の軍服を着たノザキ中佐は家族席で浮き浮きしたような顔で新任士官たち見守っている。式典は屋外で実施するのがアメリカ式だ。この学校では志織を含むパイロットだけでなく航空機整備士官と武器弾薬士官も養成しているので、式の最後に先輩に当たるパイロットが後輩たちのためにアメリカ海軍が保有する航空機とアクロバット・チームのブルー・エンジェルスが上空を通過=フライ・パスするのだ。ところで空軍パイトットの学校はアメリカ西部ネバダ州のネリス基地で、「ラスヴェガス基地」と言うのは陸軍航空軍として創設された時に「陸軍のパイロットになってラスヴェガスに行こう」と若者を勧誘した俗称だからノザキ中佐の頃には変わっていたはずだ。
式が終わるのと同時に背後から低空飛行のジェット音が迫ってきた。新任士官たちも整列したまま振り返っているから式の終了直後と言うのは絶妙な設定だ。背が低い志織は最後列なので憧れの眼差しを上空に送っている顔を鑑賞することができる。
「ふーん、シルエットはサンダーのファルコンの方が軽快だな」「でも塗装はネービーの方が上品だよ」やはりノザキ中佐は海軍への対抗意識を露わにしたが、スザンナは客観冷静な女性としての美的センスで答えた。案の定、ノザキ中佐は「ムッ」とした顔で私を見た。しかし、私も同感なのでこちらに振られても困る。海軍のブルー・エンジェルスはFー18ホ―ネットなのに対して空軍のサンダーバーズはFー16ファイティング・ファルコンだ。確かに尾翼が2枚のFー18は重々しくアクロバットには向いていない。その一方で白地に機首に青と赤の線、尾翼に軽薄な模様を入れているサンダーバーズよりもネービー・ブルーに黄色で文字を入れているブルー・エンジェルスの方が品格を感じさせるのは間違いない。
「ワシはブルー・エンジェルスに謝罪しなければならない過去があるんだよな」「貴方が謝罪するの」ブルー・エンジェルスを見送って呟いた私の独り言に梢は困惑した顔をした。ブルー・エンジェルスは私が小学校4年だった昭和46年10月に創立25周年を記念する極東巡回飛行の初回として愛知県の名古屋空港で開催された国際航空ショーで展示飛行することになっていた。ところが10月28日の訓練飛行で当時のFー4ファントムⅡ戦闘機の4機編隊がJ79エンジン2発のアフター・バーナーを点火して低空飛行すると「ガラス窓が割れた」と言う抗議が殺到して主催者の名古屋市が中止を申し入れたのだ。このため大平洋を飛行して来日してくれたパイロットたちは「日本には2度と来ないぞ」と言い残して飛び去り、実際に再来日は実現していない。
「愛知県人にはパイロットがアクロ飛行に命をかけていることが判っていないんだ。本当に恥ずかしいよ」私自身は浜松の第1術科学校に入校中にブルー・インパルスの墜落事故を目の当たりにしているので、華麗な演技が命がけであることは体験的に理解している。
「それを言ったら那覇空港での航空自衛隊の連絡機の事故の時の沖縄県民も恥ずかしいわ。貴方から事故の経緯を聞いていたから会社の人たちと大喧嘩しちゃったよ」梢の話は私たちがつき合っていた昭和59年6月21日に発生したTー33A連絡機の事故だ。Tー33Aの主翼に吊り下げたポットから漏れているチャフを発煙と勘違いした運輸省の管制官の停止命令で離陸不能になったパイロットは滑走路の延長線上にある市街地に墜落しないために空港の端に並べてあるコンクリート製のテトラポットに突っ込んで炎上して殉職した。私は事故の前日にそのパイロットと話をしていて事故を口汚く批判する報道と県や那覇市の関係者に対する怒りを電話で梢にぶつけていた。梢は事故現場に近い空港ビルで勤務していたので地響きのような衝突音と爆発音を聞いたと言う。
「次々と来るなァ、機種が多いんだな」ブルー・エンジェルスに続いてアメリカ海軍の航空機の飛行展示会が始まった。航空自衛隊でも防府北基地の航空学生の入隊式では築城基地を離陸したブルー・インパルスが通過するが、ここまで大々的ではない。ところで日本では「トリを取る」と言って主役は最後を飾るものだが、アメリカでは最初に登場するらしい。考えてみれば日本人は命日に故人を偲ぶが欧米では誕生日に思い出す。
「どう、航空自衛隊の血が目を覚ましたでしょう」「いや、海軍機だから眠ったままだよ」航空機整備員は部屋の中でもジェット音が聞こえると思わず上=天井を見てしまうが、次々と通過していく航空機を夢中になって見上げている私に梢が声をかけた。やはり梢はノザキ中佐の青い軍服を見て私の航空自衛隊時代が懐かしくなったのかも知れない。あの頃の航空自衛隊の夏の制服は灰色の上下だったが、今の洒落た水色の上衣と紺のズボンならばデートで着てくるようにリクエストしただろう。ただし、石が飛んできた可能性はある。
航空自衛隊怪僧記・森野2尉洒落ているかは疑問
  1. 2021/01/27(水) 12:46:21|
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振り向けばイエスタディ2167

9月に入ると私は第2次夏季休暇を取って梢とアメリカのフロリダ州ペンサコーラ基地へ行くことになった。と言っても旅行ではなくアメリカ海軍のパイロット課程に合格した志織の入隊式に出席するためだ。
「アトランタに着くのは明日の午後で、そこからペンサコ―ラ空港までは飛行機で2時間40分くらいだけど乗り継ぎの待ち時間が・・・」夜にアムステルダムを発つアトランタ行きのKLMオランダ航空に乗ると梢は到着後も空の旅が続くことを説明した。日程については何度も聞いているから機内で熟睡して疲れを残さないようにと言う注意喚起のようだ。そのため今回は毎度のエコノミー・クラスではなくビジネス・クラスにしている。考えてみれば2等陸佐の私が民間機で公務出張すればビジネス・クラスになるから私費の旅行でエコノミーにしているのがケチ臭いのかも知れない。ただし、国際線ではエコノミー・クラス症候群の心配もあってビジネスが取り難くなっているのも確かだ。
「向うではノザキ中佐夫妻と一緒になるのよね」「志織が夢を実現できたのはノザキ中佐の実戦的指導のおかげだから晴れ姿は見てもらわないとな。大丈夫、ワシとお前の関係については何度も説明しているし、お前は淳之介とあかりの結婚式で会ったことあるじゃないか」消灯の前に機内サービスでオランダの地酒でジンの元祖のイェネーハの缶カクテルを寝酒に飲み、洗面室で歯を磨いて戻ると先に帰っていた梢が小声で話しかけた。やはり佳織の実父と義母のノザキ夫妻に会うことと母親の佳織を差し置いて入隊式に出席することに躊躇いがあるようだ。
「佳織は公務出張以外ではフィリピンを出られないから志織の入隊式には出席できない。お前が代理なら志織も喜ぶよ」志織は梢と国際電話で何度も話していて、エリート自衛官で1等陸佐の佳織とは違い素直で明朗快活な人間性に母親以上の好感を抱いていることも聞いている。
「だから余計なことは考えずに堂々と胸を張って出席してくれ」「馬鹿・・・」励ましたついでに倒した座席に横になっている梢の乳房に触れると呆れたように呟きながらその手を握った。
「ルテナン・カーノー(中佐)・ノザキ、アンド スザンナ。お久しぶりです」「ルテナン・カーノー(2佐)・モリヤ アンド コズエ。ようこそ」入隊式に出席する家族のために海軍飛行学校が用意したペンサコーラ市内のホテルでノザキ中佐と妻のスザンナと再会すると極自然に応対してくれた。スザンナはハワイでは正装と認められているムームーを着ているが、海軍のパイロット要員の家族が集まっているホテル内では少し浮いている。一方、梢は木綿のワンピースなので違和感はない。むしろアメリカ空軍の半袖の軍服のノザキ中佐と今も愛用している旧式の3種夏服の私の方が白い軍服を着た海軍軍人たちの中で目立っている。
「今夜は孵ったばかりの雛鳥たちも1時間ほど開放されて家族と面会できるはずだから、先に夕食をすませておこう」「志織と会食と言う訳にはいかないんですね」この不満を込めた疑問に対するスザンナの説明によれば、パイロット要員は実際に搭乗員になるために身体の管理も受けるので栄養価も厳格に管理されることが理由とのことだ。それにしても卵ではなく孵ったばかりの雛鳥と呼ぶところが空軍パイロットのノザキ中佐らしい。
「ノザキ中佐は明日の式典には礼装ですか、それとも通常の軍装ですか」ホテルのレストランに入り、料理を注文したところで私は気になっていることを確認した。航空教育隊の入隊式でも自衛官の家族の服装は個人の判断で、壇上に並ぶ隊司令、群司令、大隊長と遜色がないような礼装をしてくる父親がいればスーツ姿で自己紹介されて中隊長よりも上の佐官と判り、困ってしまったこともあった。
「通常の軍装のつもりだ。主役は雛鳥たちで脇役は学校関係者、我々は観衆だからあまり目立つべきではないだろう」「それなら私も制服に白手袋にします」これを自衛隊では「通常礼装」と言うが説明する必要はない。中佐と2佐で話が決まるとスザンナが梢に確認してきた。
「コズエは明日の式にはどんな服装で出席するつもりなの。やっぱり和服」「オランダに比べるとフロリダは暑いから浴衣にしようかなって思っています」「中に襦袢を着れば浴衣も正装なんですよ」ここでは私が茶道の知識で補足説明した。
「ダディ、グラダディ、スザンナ、梢さん、ようこぞ」食事を終えてロビーで待っていると海軍のバスが到着し、次々に白い半袖の軍服を着た雛鳥たちが入ってきた。志織は3台目のバスで屈強そうなパイロット要員の中では極端に小柄で細身だ。それでも選抜試験の体力測定では女子の受験生の中で上位だったと言う。
「合格おめでとう」「ありがとう。ダディのように優秀な軍人で、グラダディのような立派なパイロットになります」志織の挨拶は私では単なる世辞になってしまうから本当に優秀な佳織に贈るべきのような気がした。
さ・モリヤ志織候補生イメージ画像
  1. 2021/01/26(火) 14:00:21|
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フランス女優・ナタリー・ドロンさんの逝去を悼む。

1月21日にフランス女優のナタリー・ドロンさんが癌で亡くなったそうです。79歳でした。野僧は劇場映画を愛した最後の世代ですが、ナタリーさんは顔や体型が大雑把なハリウッド女優とは違う端正で気品ある顔立ちと当時の日本人にはいない巨大な乳房への好奇心ではなく咽るような色香に魅了されただけでなく、名優・アラン・ドロンさんの妻=「人妻」と言うイケナイ存在として少し早熟な高校生たちを虜(とりこ)にしていました(他の人気女優たちも大半は結婚していましたが)。
野僧が高校時代にはレンタル・ビデオやインターネットはなく古い映画を見るのはテレビのロードショー番組や田舎の映画館のリバイバル放映を探すしかなく、映画雑誌のスクリーンやロードショー、キネマ旬報などを回し読みしている映画ファンの同級生の間で情報交換に励んでいました。そんな中でナタリーさんのファンは「『個人教授』が見たい」が口癖になっていましたが、海軍少年の野僧は海洋サスペンス作品の「八点鐘が鳴る時」が希望でした。するとテレビで「八点鐘が鳴る時」が放送されたのですが、同級生から借りた映画女優の写真集・シネアルバムで見たヌード・シーンがカットされていて半分落胆したのを覚えています。あの頃のテレビでは女優の「乳頭=乳首」を自主規制の基準にしていたようで洋画のベッド・シーンを放送してもその一点が映る場面だけは飛ばしていました。どうしても見ようと思えば深夜放送の映画でしたが野僧の家のテレビは両親の寝室にありましたから無理でした。
その後、沖縄に赴任して亡き妻と地下のリバイバル専門の映画館で多くの名作を見ることができるようになりましたが、その中に「個人教授」とナタリーさんのデビュー作である「サムライ(原題もレ・サムライ)」もありました。「個人教授」はパリを舞台に18歳の学生がたまたま知り合った25歳の女性と肉体関係を持つとその熟練した性技にこれまで女性抱いた経験を仲間たちに自慢していたことを恥じるようになり、虜になったと言う単なる恋愛映画ではない深い心理描写がありました。一方、「サムライ」はアラン・ドロンさんが演じる主人公の殺し屋がリボルバー式拳銃をナタリーさんに向けて警察官に射殺されると弾倉には弾が入っていなかった=警察官に射殺させる自死と言うラストシーンは強烈に印象に残り、フランス映画のレベルの高さを実感しました。
ちなみにナタリーさんとアランさんは互いに両親の離婚と再婚に絡む複雑な生い立ちが似通っていたことで共鳴しての結婚で(ナタリーさんは再婚)、今は俳優になっている男の子を1人儲けましたが、「個人教授」で女優としての地位を固めたナタリーさんが仕事に熱意を抱いたことで家庭を優先させたかったアランさんとの間で齟齬が生じて別居し、1年後の1969年に離婚しました(結婚期間は5年間)。その後は女優として幾つかの映画に出演しますが、1982年からは監督として2本の作品を制作しています。
ナタリーさんの死についてアランさんは「愛した人が世を去るのは常に辛い。ナタリーは最初の妻で唯一のドロン夫人だった(2人とも再婚はしなかった)」と述べています。以って瞑すべきでしょう。
NathalieDelon.jpg
  1. 2021/01/25(月) 12:46:11|
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振り向けばイエスタディ2166

「貴方宛てに差出人の名前が書いてない封筒が届いたわ。気持ち悪いわね」午前の仕事を終えて帰宅すると妻の泰代が薄気味悪そうに茶封筒を手渡した。参議院の特別委員会では採決が迫っているが通学バスの高校生や中学生との質疑応答でもネタ切れになっているので、気分好く昼食を楽しみに帰宅したのが台なしだ。
「大丈夫かな・・・薄いから発火物は入ってないだろうけど危険な薬物や剃刀の刃ぐらいは入るぞ」最近は東京都知事宛ての小包が爆発物して開封した職員が重傷を負った事件や封筒で毒物を疑わせる粉末が送りつけられる嫌がらせが頻発している。剃刀の刃は昔からの定番だ。小椋元3佐は封筒を指で摘まんで受け取ると窓からの日差しで透かして見たが中には紙片が入っているようで刃物や粉末の影は見えなかった。消印を確認すると名古屋市でも色々な会社や団体の本社・本部が集中している中区だから推理の参考にはならない。
「何かの怪しい広告じゃあないのか。俺はアダルト商品には興味はないぞ」隣りで泰代が覗き込んでいるので小椋元3佐は独り言を呟きながらハサミで上辺を切って中身を出した。すると「自衛隊員の家族の皆さまへ」と言う見出しから始まる社人党の広報紙だった。小椋元3佐としてはその場で丸めて捨てたいところだが、泰代が興味津々で覗き込んでいるので読まない訳にはいかない。いつもなら「興味があるならどうぞ」と譲るのだが仕方なく箇条書きのような短文の羅列を流し読みした。
「加倍政権は閣議で平和憲法の解釈を変更して、アメリカの戦争に自衛隊を参加させるための法律を成立させようとしています」これはバスの中で生徒たちが質問を始める時の冒頭の口上なので目新しいことはない。
「この法案が成立すると皆さまの大切な夫や子供さんたちは『日本の平和を守る』と言う入隊の動機とは関係がないアメリカの戦争に派遣されることなります」「その『日本の平和を守る』って動機を認めていない奴が良く言うな」腹立ちまぎれに文章を揶揄したが、泰代は下半分に印刷してある赤く染まった夕焼け空の下で幼い子供を抱き締めて泣いている母親の写真を黙って見詰めていた。これはベトナム戦争の頃の反戦ポスターで見たことがある。
「自衛隊員は自分たちを危険に追いやる悪法であっても自民党政権に反抗することはできません。だからご家族の皆さまが愛する夫や子供さんを守るために声を上げるべきです。戦争で愛する人を失う前に行動を起こす勇気を持って下さい」「カンボジアPKOの前の豊川市議会の選挙で共産党に投票した奴がいたんだよな」小椋元3佐はカンボジアPKOに豊川の第6施設群が派遣された時には春日井の第10施設大隊に単身赴任していたが、作手に帰ったついでに派遣直前の古巣を激励に行くと元上司の幹部たちがテレビや新聞の批判報道を鵜呑みにする隊員の指導に苦労している愚痴をこぼしてきた。
「日本社会人民党は平和と生命を大切にする政党です・・・それにしても社人党はどこでウチの息子が自衛官になっていることを調べたんだ」読み終って小椋元3佐は偽善的文章に腹が立つよりも社人党が「息子が入隊した」と言う個人情報を入手している事実に背筋が寒くなる思いがした。自分が1科長だった時の経験から言って自衛隊が社人党に隊員の個人情報を漏洩させることは有り得ない。泰代がまだ広報紙を見入っているので手渡すと熱心に読み直した。
「ねェ、今度の法律ができると自衛隊はアメリカの戦争に参加することになるの」小椋元3佐が台所で冷蔵庫から麦茶を取り出してグラスに注ぐと泰代がいつになく重い声をかけてきた。逆光になっている顔が広報紙の母親に重なった。
「新聞を読む限り、アメリカの戦争じゃなくて9・11みたいにアメリカの本土が攻撃された時に自衛隊も参戦すると言うことみたいだ」「でもアメリカのために立章や啓雄が戦争に征くのね」泰代は広報紙の母親役になり切ってきた。ここでBGMに森山良子の「愛する人に歌わせないで」を流せば完璧だが、社人党にはCDを同封する資金はないのだろう。
「日米安保条約でアメリカ兵に日本のために戦ってくれって頼むんだったらアメリカのために自衛官が戦うのは当然じゃあないか。アメリカ兵の母親だって息子を思う気持はお前と同じだぞ」「戦争が起こるからいけないのね」「起こらないようにするために俺や立章と啓雄は働いてるんだ」泰代の亡くなった父は敗戦時には中学生だった上、作手村は軍需工場から遠いので学徒動員も経験しておらず名古屋からの疎開児童の世話と食糧増産の畑仕事が戦争体験だった。そのため父親を尊敬する息子たちが陸上自衛隊に入ることも深く考えることはなかった。
「立章は跡取りなんだから自衛隊を辞めさせて家で農業をさせるべきじゃないの」「本人がそうすると言えば反対はしないが強制はしないぞ」自衛官の家庭に不和を発生させて士気を萎えさせることが社人党の狙いだとすれば多少は効果があるのかも知れない。
  1. 2021/01/25(月) 12:44:14|
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1月25日・巨大魚を逃した絵師・白川芝山の命日

嘉永3(1850)年の明日1月25日(太陰暦)は幼い渡辺崋山=登くんを入門させながらつけ届け(=月謝以外の礼金や進物)が滞ったことで破門したため嫌われ役にされ、絵師としての技量まで軽く見られている(歴史番組などでも名前を出さずに「町絵師」とだけ紹介している)白川芝山さんの命日です。
苦労の末に絵師として大成しただけでなく、蘭学者や江戸詰家老としても多大な業績を残しながら蛮社の獄の冤罪による国元での蟄居・謹慎中に藩主に類が及ぶことを恐れて自刃した崋山さんの伝記は戦前の修身の教科書に載っていたので現在も白川さんに対する悪評は史実になっていますが、当時の白川さんは作品を売る絵師と同時に門弟に絵を教える画塾も開いていたのですからつけ届けも正当な収入源であり、ましてや田原藩江戸詰の要職にある藩士の息子が生計を立てるために絵を習っているとは思わず、崋山くんも藩の恥になるような事情を口にするはずはなく、中川さん1人が「才能を見抜く力がなかった2流絵師」「金に卑しい守銭奴」と言う損な役を押しつけられている形です。しかし、白川さんは決して2流の町絵師などではなく江戸詰の要職にある藩士の息子が師事するに相応しい1流の画匠でした。
白川さんは宝暦9(1759)年に淡路島の富豪の家に生まれ、幼い頃から書を学び、その流れで絵画と徘徊を始めると島の外=関西圏でも名を知られるようになりました。書は唐の張旭さん風の草書を専らとし、画風は南画、長崎派、四条派など多岐にわたるので、特定の師について学んだのではなく各派の作品を模写することで画技を磨いたようです。実際、絵画作品を見ると確かな画力は感じるものの型どおりで独創性に欠け、やはり先人の模写で学んだ日本式正統派の絵師の域に留まっています。
天明2(1782)年に京都に上って白川宮邸での席画会で腕前を披露すると賞賛されて白川姓を名乗ることを許され、京都の四条東河に屋敷を構えました。さらに文化に改元して間もなく江戸へ下って麻布飯倉で画塾を開き、ここに崋山くんが入門しましたが、田原藩江戸屋敷があった三宅坂から麻布までは江戸城を3分の1周する位置関係であり子供の足で通うには遠く、やはり名声を慕う気持ちは強かったようです。しかし、当時の江戸では寛政の改革が頓挫した反動の庶民文化が満開で、役者絵の浮世絵や谷文晃さんの江戸南画が大流行していて京都の皇族や公家、寺社などの上流階層から受けた名声も通用せず、絵画の注文がない中では画塾の収入だけが生活の糧だったので得難き逸材の才能を見出して育成するだけの余裕はなかったようです。結局、江戸での白川さんは絵師よりも書家や俳諧師として活躍し、草書の書法の解説書や俳画を添えた句集を出版しています。
後半生は大阪の茶臼山に転居し、淡路島に帰って5年ほど暮らした後、再び京都に上って晩年を過ごしました。京都では画師と書家として復活したようで「皇都書画人名録」と言う人物紹介と格付けの書物に「画并書 南北一致 中川芝山 御幸町綾小路下」と名前が出ています。それでも墓所は淡路島の実家の菩提寺に在ります。
白川芝山みなもと太郎作「風雲児たち」より
  1. 2021/01/24(日) 14:07:29|
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振り向けばイエスタディ2165

今日の小椋元3佐は朝の登校が終わると新城市役所作手総合支所の会議室で開催される高齢者保健講座の参加者を集めるため旧村内をもう1周することになった。朝が早い老人たちなら小中学生たちの通学のついででも良さそうだが、マイクロバスの乗車定員は児童と生徒で一杯なので2度手間にせざるを得ない。
「隊長さん、また戦争になるのかのん」総合支所での講習の場合、乗車させるのは遠い集落から順番になるが、気が早い老人は「行き」に手を上げて止めると遠慮なく乗り込んでくる。そんな老女が運転席の後ろの席に座って三河弁で声をかけてきた。これでは毎朝夕に生徒たちと交わしている質疑応答の相手が高齢者になっただけだ。
「自衛隊がシッカリ守っていますから戦争にはならないでしょう」「だったら良いがのん。テレビで戦争の準備だって脅かすから怖くなるわ」どうやらこの老女はテレビの批判報道を鵜呑みにしているようだ。すると次の停車場でも老女2人が手を上げていた。
「勝ちゃん、隊長さんに何の話ね」「また戦争の話だらあ」この辺りまでは老人たちの行動範囲内なので顔を見合わせては時事放談に励んでいるらしい。それをバスの中にまで持ち込まれると運転手としては困ってしまう。
「隊長さんは自衛隊が守ってるから戦争にならないってよ」「私たちの戦争の時も日本は神の国だから絶対に負けないって言ってたじゃん」「いざッとなったら神風が吹くって教えてたぞん」何だか凄い話になってきた。小椋元3佐の亡き父は戦時中には陸軍船舶工兵で、終戦は守備隊として配置されていた日本海の隠岐の島で迎えた。隠岐の島では敵との戦闘になった時に備えて島民を本州に避難させ、陣地と同時進行で残った島民を巻き込まないための退避壕の建設に励んでいた。そして敗戦時には「樺太や千島列島の占守島にソ連軍が侵攻した」との情報を受けてアメリカ軍から指示を受けるまで武装解除は保留していた。そんな冷静で現実的な戦争体験を聞いてきたので、主に女性が語る「神州不滅」や「神風」と言う精神論には違和感がある。
「2度も戦争になるのは嫌だのん」「早くお迎えに来てもらわんといかんぞん」「もう、いつあの世に行っても好いのん」老女たちの話は悲観論になってきたが口調は元気なままだ。確かに「1度の人生で2度も悲惨な戦争を体験したくない」と言う気持ちは理解できるが、明治の日本人は1868年の戊辰戦争と1877年の西南戦争に続き、1894年の日清戦争と1904年の日露戦争と10年刻みで戦争が続いていた。何よりも老女たちが育った時代は1937年の盧溝橋事件から1945年の敗戦まで戦争が継続し、拡大していった。やはり空襲などで被害を目の当たりにしたことが厭戦感情の原因のようだ。
「お婆さんたちは豊川の海軍工廠が空襲された時は作手にいたんですか」小椋元3佐は自分の推理を確認するため質問してみた。すると予想した通りの反応が始まった。
「あの時は怖かったぞん」「本宮山の向うでドンッ、ドンッ、ドンッて爆発する音が聞こえたのん」「Bー29が通っていったから爆弾が残ってたら捨てていくって心配してたよ」「空襲警報が終わって旦那が本宮山に登ったら海軍工廠が火の海になってた」「新城から学徒動員で働いていた従兄が死んだけど遺骨は帰ってこなかった」この体験談は小椋家の義父母からも聞いているが、昭和20年8月7日に豊川海軍工廠を空襲したBー29の大編隊は豊川に沿って北上して浜名湖から太平洋へ離脱し、爆弾投下後に低空飛行からの機銃掃射で生存者を殺害したPー51戦闘機も海抜789メートルの本宮山が防壁になって作手村には飛来しなかったと言う。また空襲から1週間後に敗戦になったので遺骸の収容と身元確認は進まず、夏の高温で腐敗が始まったため埋設されたらしい。話が盛り上がってきたところで停車所についた。
「何だん。賑やかだのん」乗ってきたのは高齢の夫婦だった。最近は高齢者の運転を危険視する風潮が広まってきたため送迎バスを運行する行事などでは利用する人が増えている。夫は話を中断した老女たちに声をかけながら先に妻が腰を下ろした最前席に座った。作手では村だった頃から高齢者が集まる行事が盛んなので地区が離れていても交流はある。
「アンタは兵隊に行ったんだったのん」「うん、名古屋の連隊に出征しとった。陸軍上等兵だ」老女の1人が背後から声をかけると夫は前を向いたまま答えた。この老人に軍歴があることは高齢者の行事で送迎する間に聞いたことがあるが、軍隊経験者の安全保障関連法案に対する認識を聞いてみたいような気がした。
「アンタも戦争法には反対だらあ」「馬鹿なことを言うな。国を守る自衛隊が思う存分戦えるようにしないと日本はロシアや中国に奪われてしまうんだ。加倍さんがやっと本気になってくれたんだ。反対する奴は非国民だ」思いがけず老女が質問を代弁してくれたおかげで軍隊経験者の見解を聞くことができた。多分、亡き父も同じ意見だろう。
  1. 2021/01/24(日) 14:04:25|
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1月24日・大量強姦殺人犯・テッド・バンディの死刑が執行された。

1989年の明日1月24日にフロリダ州のライフォード拘置所で本人が死刑執行前に認めただけでも1974年から1978年の4年間にアメリカ本土の太平洋岸北部のワシントン州・オレゴン州・アイダホ州・ユタ州・コロラド州・フロリダ州ほか7つの州で15歳から25歳でストレートの髪をセンター分けにした美貌の女性30人を誘拐して強姦した上で殺害して遺体(屍姦も常習している)を遺棄したテッド・バンディことセオドア・ロバート・カウエルさんの電気椅子による死刑が執行されました。
バンディさんは1946年にバーモント州の未婚女性専門の産科医院で生まれましたが、母親が出生届にも架空の人物名を記して父親を明らかにしなかったため、婚外子を恥とする当時の社会的風潮を気にした祖父母の子供、母を姉として育てられました。
バンディさんは相手によって極めて真実味を持たせながら証言を全く変えため、記録に残っていない私的な事情は明確ではないのですが、祖父は家庭内では暴君で祖母は絶対服従していたとされる一方で、バンティさんが「祖父を尊敬していた」と語ったのを聞いた人物もいます。4歳の時、母親が祖父の家を出てワシントン州の従妹の家に転居し、翌年に結婚したため相手の男性の養子になりました。この新たな家庭や小中高校生時代についても相手によって証言が喰い違っているのですが、平成に入ってからの全てを社会の責任にする日本の大甘な人間観では「屈折しても仕方ない」と評価されるのでしょう。
1965年にワシントン州タコマの私立大学に進学したものの1年で中国語を学ぶためワシントン大学に転学しますが1968年に中退すると上院議員や州知事の選挙ボランティアに励み、心理学部に復学したワシントン大学を卒業して選挙に参加していたワシントン州知事の側近になっていた1973年からは最初に中退した私立大学の法律学校に再入学しました。そしてこの法律学校への在学を隠れ蓑(警察が捜査対象から除外した)にして犯行を重ね、裁判では自ら弁護士と務め、これを利用して(弁護士なので手錠を外され、図書室での判例の確認が許された)脱獄すると3件の犯行を追加したのです。
バンディさんの初犯については本人が口を閉ざしていた上、証拠隠滅と遺骸の投棄が極めて巧妙だったため不明ですが、「1969年にフィラデルフィア州で2人の女性を殺害した」と「1969年は未遂で1971年のシアトルが初犯だ」と別々の人物に証言しています。その後、前述のとおりの犯行を繰り返すのですが、驚くべきことにバンディさんは完全な多重人格者で、証言内容だけでなく口調から声色、表情などの容姿まで別人を使い分け、取材した記者だけでなく取り調べた警察官や検事までも「前回と同一人物であることの確信が持てなくなった」と証言しています。また女性を虜にする魔性の魅力を大量・濃密に発散していて死刑判決が下ってから大学卒業後の就職先の同僚との間に女児を儲け(看守に賄賂を渡して面会室で性行為に及んだ)、獄中で文通していた多くの女性が絶望からノイローゼを発症したそうです。その一方で死刑の執行の時、非番の警察官20人と何百人もの観衆が拘置所前で集会を開き、花火を上げて唄い踊って執行の発表を待ち、遺骸を載せた葬儀社の車両が出発すると大歓声が上がったと言われています。
  1. 2021/01/23(土) 14:04:22|
  2. 日記(暦)
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振り向けばイエスタディ2164

「小椋さんの息子さんは自衛隊に入ったんじゃあなかったっけ」「そうだ。2人とも10師団の普通科連隊にいるはずだ。そうなるとウチ以上にこの法律は切実な問題だな」得シタネが終わったところで茶山元3佐夫婦が気づいたとおり、作手では小椋元3佐が切実に悩んでいた。
「小椋さん、戦争法ができたら僕たちも戦争に征って死ななきゃいけなくなるの」今日も小椋元3佐は朝夕の登下校の送迎バスで中学生からの質問責めに遭っていた。特に下校時は授業中に教師が熱弁を揮う安全保障関連法案への批判に疑問を抱いた生徒の真剣な眼差しも加わるので回答を思案しながらの運転になり、少し危険だった。
「戦争法じゃあなくて安全保障関連法案って言うんだ。戦争を起こさないように日本の安全を保障するための法律だから大丈夫だよ。発車します」生徒たちが席に座ったのを確認してバスを発進させる前に運転席の後ろに座った男子に声をかけた。
「でも日本は憲法で戦争してはいけないって決められてるのに戦争するための法律を作るのは加倍首相が戦争をしたいからでしょう」小椋元3佐が自分の絶妙な回答に安堵していると通路を挟んだ最前席に座っている女子高生が反論してきた。本来、県立高校の生徒は村のバスを利用できないのだが、女子高生の安全確保を理由に中学校から乗ることは黙認されるようになった。それにしても高校生ともなると反論も中々手ごわい。小椋家では妻や娘と息子2人もこの高校の卒業生だが、田舎の県立高校には受験指導に批判的な県教組の活動家が配属されることが多いと聞いている。この女子高生が最近マスコミを賑わしている東京のデモ隊のアイドルのように洗脳されないためにはここで論破しなければならない。
「ごめんな。運転中の会話は注意力を邪魔するから続きは停車した時にさせてくれ」「はい、私が下りるのは終わりの方ですから待っています」小椋元3佐の答えを女子高生は素直に承諾した。この素直さを活動家の教師は洗脳に利用しているのだろう。小椋元3佐は頭の半分の注意力を運転に集中させながら残りの半分で安全保障関連法案を肯定するための論理を組み立て始めた。
「大体、俺は政治問題が苦手なんだよ。自衛隊はシビリアン・コントロールを受けてるんだから政治の決定に素直に従うのが務めじゃないか」口の中でぼやいたように小椋元3佐は和歌山の工業高校を卒業して自衛隊に入隊して以来、政治問題には不関与が信条だった。そのため定年前に第6施設群で1科長になった時、政権交代や対イスラム戦争に関する見解を求められても「当たり前田のクラッカー」な回答しかできず、群長に呆れられたことがある。
「戦争は日本が嫌だと思っていても攻められれば始まってしまうんだ。『日本は反抗しません』って宣言して乗り込んできた外国人が国民を傷つけ、財産を奪い去るようになったら日本は国家ではくなる。君はそんな国に住みたいか。それを防ぐために自衛隊があるんだ」小椋元3佐も反対派が弄する「自衛隊や在日米軍があるから攻撃目標になる」と言う詭弁ぐらいは知っているのでとりあえず迂回した。
「でも今まで平和だったのにどうして今になって戦争のための法律を作るんですか。やっぱりアメリカと一緒に戦争を始めるんでしょう」これで教師の洗脳教育の粗筋が見えてきた。要するに東北地区太平洋沖時地震の災害派遣で国民の支持と信頼を確保してしまった自衛隊を敵視することは控えて2代目ブッシュ政権が始めた対イスラムのような終わりの見えない戦争に巻き込まれる危険性を使って不安を煽っているのだ。
「ごめんな。続きは次の停車場にするよ」「はい、待っています」女子高生の反論は難問なので即答はできそうもない。幸いなことに停車場で生徒を下ろす時間だけならば一問一答だけで済み、続きは運転しながら考えることができる。
「アメリカは世界の自由主義を守るために巨大な軍隊を持っているんだ。日本が自由主義の国であれば守ってもらえる。それにアメリカがアフガニスタンを攻めた時も日本は海上自衛隊がインド洋で給油と補給をしただけで戦闘には参加しなかった。だから一緒に戦争を始めるとは言い切れない。逆にアメリカに守ってもらうために日本も可能なことを最大限にやると言うのが今回の法律の目的なんだろう」「でも憲法がなくなったら日本は暴走しちゃいそう」この女子高生の反論は回答に困ってしまう。自衛隊を退官しているので「日本国憲法及び法令を順守し」と言う服務の宣誓を守る必要はないが、ニクソン政権から自衛隊のベトナム派遣を要求された時に佐藤内閣が拒否した理由=口実は「(アメリカが押しつけた)日本国憲法が許さない」だった。それを思うと「自衛隊も日本国憲法に救われた」と言える。
ちなみに服務の宣誓の「日本国憲法云々」の一文は昭和45年11月25日に盾の会の三島由紀夫が市ヶ谷の東部方面総監部のバルコニーから下に集められていた隊員たちに「どうして自分たちを否定する憲法を守るんだ」と訴えたことを受けて昭和47年に追加された。
  1. 2021/01/23(土) 14:03:00|
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振り向けばイエスタディ2163

「貴方、得シタネが始まるわよ」茶山元3佐が朝食後に庭の花壇を見ていると妻の静が声をかけてきた。茶山元3佐の朝は起床して廊下で自衛隊体操の18番からを実施して身体をほぐし、目が覚めたところで静が出してくれる茶を飲みながら新聞を読む。そうして読み終わった頃を見計らって運ばれてくる朝食を味わい、後は春から秋なら庭や倉庫で、冬場は炬燵で時間をつぶしていると朝の報道バラエティが始まる。
「モリヤさんが送ってくれたエーデルワイスを植える場所を考えてたのね。エーデルワイスってヨーロッパの高山植物でしょう。舩岡の気候では日陰の方が良いんじゃあないかしら」茶山元3佐が座卓の席につくと茶を持ってきて隣りに座った静が話しかけた。今年もモリヤ2佐はスイスに行ったようで土産物店で買ったエーデルワイスの種を送ってきた。
「先ず種を発芽させて苗にしてから植え変えるみたいだから当分は鉢で育てることになるな」「モリヤさんが説明を翻訳してくれたおかげで失敗しないですんだわね」静の答えに茶山元3佐もうなずいて熱い茶をすすった。モリヤ2佐は種の袋の裏側に記してある栽培上の注意事項を翻訳して同封してきた。それによるとエーデルワイスは標高2000から3000メートルの高山帯の石灰質の岩場を好み、栽培は温度管理を除けば容易で成長が早く、茎は20から30センチくらいまで伸びるようだ。
「袋の写真だと昔、早池峰山(はやちねさん)で見たハヤチネウスユキソウに似てるんだよな。あれは天然記念物だから庭に植えている人はいないぞ」エーデルワイスは日本名をセイヨウウスユキソウと言って花が咲く高山植物の代名詞になっているが、実際は岩手県の北上山地の最高峰・早池峰山に咲くハヤチネウスユキソウだけが近親種に当たる植物らしい。
「白い花がとっても清らかな感じがして咲くのが楽しみだわ」「この白いところは苞葉って言う蕾の葉で花じゃあないそうだ。真ん中の小さいのが花なんだ。ハヤチネウスユキソウの苞葉には毛が生えてたけどエーデルワイスは目立たないな」静が袋の写真を眺めながら感激しているので茶山元3佐は早池峰山から帰って調べた知識を披露した。
「特ダナが始まったわ。いよいよ安保法が参議院でも可決されるわね」司会進行の大倉雅明と東京大学卒の女性タレントに女子アナウンサーの3人が並んでいる背後では参議院の「我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会」の審議の模様が流れていて、それを見た静が少し身構えた。現在、茶山家でも安全保障関連法案は夫婦の関心事になっていて、静も得シタネが始まるまでに朝刊に目を通して番組を見ながら議論するようになっている。
「参議院では野党の追及が目立っているみたいな気がする」「少しは勉強したんだろう。一応は元政権与党だからな」安全保障関連法案は7月16日に衆議院本会議で可決して参議院に送られ、同じ名称の特別委員会での審議が始まったが、確かに「反対」以外になかった衆議院に比べて野党の追及も重くなったようだ。
「盆にも兄貴から追及されたもんな」「国会の質疑応答みたいだったよ」今年も8月の盂蘭盆会には帰省してきた息子一家と一緒に三戸の実家に行ったが、例年は菩提寺の法要が終わって帰宅すると終戦の日の式典の中継が始まっていてビールを飲みながらの昼食では死んだ父親の軍歴で盛り上がる。ところが今年はビールが入った兄たちは安全保障関連法案を戦争法と呼んで元自衛官の茶山元3佐を追求し始めたのだ。
「施設OB会でも、みんな詳しく判らないそうだ」茶山元3佐自身は現役ではないのでこの法案が成立しても直接影響はないが、兄たちでなくてもマスコミの「戦争法」と言う命名と危険性だけを煽る報道を鵜呑みにした国民は詳しく判らないまま不安をつのらせ、少しでも知っていそうな相手を問い詰めるようになっている。中でも自衛隊OBは格好の標的だ。
「モリヤさんが東京にいれば詳しく解説してくれたんでしょうけどね」「オランダじゃあヨーロッパで続発しているテロの方が現実の問題だよ」静と話しながら茶山元3佐は先日の書簡でモリヤ2佐が安全保障関係法案に触れていた短文を思い出した。モリヤ2佐は「法案が成立すると日米安保条約は相互防衛条約になり、日本の自衛隊は日米の自衛隊になる」と書いていたが、新聞やテレビではそのような解釈は見当たらない。春に法案の概要を解説した記事を送って以来、モリヤ2佐に自衛隊に関する新聞記事を送っていないが、別の人脈から専門的な情報を入手したのかも知れない。
「最近の野党は意味のない対案を提出するけど、あれって審議を妨害するためなんでしょう」「お前、鋭いな」テレビが自信の党が提出した対案と名前を覚えられない乱立野党の例外なく国会の事前承認を義務づける修正案の解説を始めたのを見て静は素人とは思えない見解を口にした。どうやら茶山元3佐が出かけている間も報道バラエティを真剣に見ているようだ。
  1. 2021/01/22(金) 13:24:45|
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振り向けばイエスタディ2162

「もう枯れちゃったから何も出ないよ」安川3尉が座卓で聡美が翻訳したレーア大尉の手紙とモリヤ2佐の葉書を読み比べていると義母が抱いている穂高に話しかけていた。穂高がTシャツの上から胸元を探ったようだ。この言葉に安川3尉は義母が大学時代には東京で同棲生活を経験し、結婚して娘と息子を儲けながら妻子持ちの同僚と肉体関係を持ったことを思い出して「枯れた」と言う乳房に妙な好奇心を覚えてしまった。義母の男性遍歴が思春期の聡美を深く傷つけたことを思うとこの乳房も原因の1つではないか。無意識に義母の乳房を注視してしまった。
「専門用語は自分で訂正してね」そこに台所でミルクを用意していた聡美が戻ってきて声をかけた。見上げるとTシャツを着た聡美の胸も同じような形で盛り上がっている。聡美は母乳で育てたため乳房の形が崩れていたが、卒乳してからは急速に復元してきている。
「お待ちかねのミルクがきたよ。お祖母ちゃんのじゃあなくて好かったね」「もうお母さんも出なくなっちゃったもんね」義母に哺乳瓶を渡しながら聡美も同調した。考えてみれば義母の乳房は触り慣れた聡美と似た形なのだろう。
「エーデルワイス エーデルワイス エーブリィ・モーニング ユー グリート ミー・・・」ミルクを飲み終えた穂高がウトウトし始めると義母は再び映画「サウンド・オブ・ミュージック」の挿入歌を唄い始めた。子守唄を穂高への英語教育にするつもりらしい。
「サウンド・オブ・ミュージックは子供の頃にビデオで見せてもらったけど同じような風景の土地に住めるとは思ってなかったわ」「私もアルプスの麓で唄うことになるとは思ってなかったよ」義母の言い方はどこか棘(とげ)がある。義母はハリウッドのミュージカル作品「サウンド・オブ・ミュージック」もトラップ大佐がナチス・ドイツのオーストリア併合に反抗して家族を連れて亡命した反戦映画として見せたのかも知れない。
「お義母さん、これがエーデルワイスの花ですよ。日本には自生していません」穂高が眠り、聡美が寝室に連れて行くと安川3尉は弾帯に付けたまま図納を義母に見せた。これも義理の息子としての気配りだが、義母は陸上自衛隊の装具品を突きつけられたように受け取ったようで一瞥しただけで視線を背けた。聡美不在では会話も成立しないようだ。
「松本は気温が低いから冷房が要らないわね」「名寄よりは暑いけど1年間久留米にいたから扇風機で大丈夫だわ」穂高が眠り、義母と聡美が交代で風呂に入ると座卓で酒を飲む大人の時間になった。よく冷やした信州の白ワインを飲むと母子の会話が弾みだした。
「それは名古屋が暑過ぎるんですよ。九州の久留米よりも暑いですから」「稲沢は名古屋ほどじゃあないわ」1人だけ缶ビールの安川3尉も話に参加しようとするが義母は素っ気ない。聡美は困ったように「そうだったわね」と相槌を打った。
「お義母さんは教師として生徒の男女交際をどのように指導していたんですか」母子の会話が滞ってきたところで安川3尉はモリヤ2佐が北キボールで暴徒を刺殺したような鋭く危険な質問をした。これは義母に悪意や興味本位から投げかけた皮肉ではなく、教え子にどのような意識で貞操観念を教えていたのかを問い正したいと言う真剣な詰問だった。義母も教師としてそれを感じ取ったようで座り直すとワインで喉を潤して向き合った。
「男女交際は人格を完成させる手段として尊重してきたわ」「だったら私が和也さんとつき合ったことに反対したのは何故。矛盾してるわ」「それは高校生が社会人と交際すると派手な金銭感覚や政治思想に染められる危険性があるからよ」聡美の非難に義母が「自衛隊」ではなく「社会人」と答えたところは流石の弁明だ。つまり自衛隊だから反対したのではなく社会人との交際は一律に禁止していたと言うことだ。
「大学生なら良いんですか」「大学生なら受験の助言が受けられるしょう」安川3尉の姉の鶴舞は短大時代に名古屋市内の学生運動に参加して大学生に肉体を弄ばれたことから貞操観念を喪失して家庭を破綻させて実家に出戻っている。
「お義母さんは大学に進学するまでバージンだったですか」義母が2人の追及を上手くあしらったような顔をしたところで本質を突く質問を発した。
「高校時代は受験勉強しかしなかったから・・・第1志望の東京の大学に合格した達成感と親の目が届かない解放感で男女が結ばれるのは自然な流れだったわ。親も同じ大学の男子なら将来は安心だって何も言わなかった」安川3尉の周囲では姉だけが短大卒だ。姉はバブルの崩壊後の長い不況の中で「保育士になりたい」と言う志望を実現するため親に無理を言って短期大学に進学した。義母の自己弁護に等しい弁明を聞いて安川3尉は自衛隊出身の作家・浅田次郎の「自衛隊で多くの人間を観察した人間学は大学の4年間では身につかない」と言う金言を実感していた。
大学に行かなかった人生の評価は死ぬ時に下すことにしよう。
  1. 2021/01/21(木) 14:08:06|
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1月21日・聖アグネスの命日=祝日

304年の1月21日に野僧の世代ならラムちゃん(「うる星やつら」ではない)やチャンちゃんを連想してしまう聖アグネスが殉教した日でオーソドクス(正教会)、カソリック、聖公会(イギリス国教会)、ルーテル教会などが祝日にしています。
聖アグネスちゃんは291年にローマの上流階級の隠れキリシタン(当時、ローマ帝国ではキリスト教は禁教されていた)の家で生まれ、非常に聡明で貞淑、抜群の美貌だったため13歳で帝国の高官だったセンプロニウス家から「息子の嫁に」と申し込まれました。聖アグネスが拒否すると皇帝に隠れキリシタンであることを告発したため「ローマの女神に供物を捧げるか(キリスト教は一神教)」「売春宿に売られるか」の二者択一を迫られ、どちらも拒否すると全裸にされて売春宿に引き立てられました。
ところがカミの霊力で髪が伸びて全身を包んだため裸身を晒すことはなく(衣服を奪った者は見たはずだが聖人伝では触れていない)、天使が取り囲んで守ったため誰も手を触れることができなかったのです。これを聞いて皇帝は火炙りを命じましたが、どうやっても火力が上がらず、何とか立ち上った炎は2つに分かれて聖アグネスを焼くことはできませんでした。そこで皇帝は剣によって刺殺することを命じ、これにはカミも抗することができず聖アグネスは13歳で殉教したのです。
殉教後に埋葬されたローマ市内のカタコンペ=地下墓地(現在はナヴォーナ広場がある)で数日間祈り続ける女性がいたため怪しんだ者が詰問すると「アグネスの乳母の娘」と名乗り、立ち去るように命じても動こうとしなかったため隠れキリシタンと看做され、石打ちで殺されました。この女性・エレメレンディアナさんも殉教者として列聖されました。
この逸話から前述の教会、教団では聖アグネスを純潔・少女・強姦被害者・夫婦(異教徒との結婚を拒否したためキリスト教徒同士の夫婦に限定される)・庭師(野の花を摘んだと言う逸話から)の守護者とされています。
古来、若くして(「幼くして」の方が適切か)純潔を守って殉教した聖アグネスはキリスト教では清純派アイドル的な扱いをされてきて、祝日の前夜に食事を抜いて就寝すると夢の中で将来の夫に会えると言う伝承が現在も小説や映画で描かれています。
またカソリックでは聖アグネスの祝日にローマにある観想派のトラピスト修道会は「アグネス」がラテン語の「アグヌス(=子羊)」に似ているため象徴とされている子羊2匹をバチカンの教皇に贈り、復活祭前の金曜日にその毛を刈ったウールで新たに任命された司教に与えるバリウム(儀式の時、肩に掛けて首に巻く帯)を作ります。
そんな聖アグネスの遺骸は前述のナヴォーナ広場に建てられた聖アグネス聖堂に頭蓋骨、同じくローマ市内のサンタニェーゼ・フオリ・レ・ムーラ聖堂に身体の遺骨が保管されています。
余談ながら日本でもキリスト教系の女子校で多用されているアグネスは英語読みで、母国のイタリア語ではアニェーゼ、オーソドクスではアグニア、他にもイネス、アニエスなどの名前でも呼ばれているようです。
アグネス・ラムアグネス・ラムちゃん
  1. 2021/01/20(水) 13:41:35|
  2. 日記(暦)
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振り向けばイエスタディ2161

「レーア1尉の手紙を訳しておいたよ。テレビの上に置いてあるから」穂高を風呂に入れて聡美に渡すとバスタオルで受け取りながら説明した。新聞などでは「キャプテン」に限らず英語の階級を日本語に訳す時、外国軍は戦前の日本軍式に「大尉」、自衛隊は「1尉」と使い分けているが、平成生まれの聡美にはあえて区別する理由が判らないはずだ。その一方で同じように漢字を使う台湾や中国、韓国の軍の階級は違うのだが新聞などは無頓着に日本軍式にしている。実際、日本軍の大佐、自衛隊の1佐は韓国では大領、台湾では上校だ。
「マリシャ(militia)って単語の意味が判らなくてお母さんに訊いたけど知らないみたいで英和辞典を引いたんだよ。そうしたら民兵のことだった。でも民兵が判らから国語辞典を引こうと思ったら『貴方に訊いた方が早い』って言われて・・・」風呂を出た安川3尉が冷蔵庫の麦茶を飲んでいると聡美は義母に手伝ってもらいながら穂高の身体を拭き、オムツをはめ、寝巻を着せながら困るような話を伝達した。この抜き打ちテストのような意地悪はどうやら義母の画策らしい。案の定、せせら笑いしながら安川3尉の顔を横目で眺めている。
「民兵ねェ・・・」安川3尉としては自衛隊用語であれば幹部候補生の受験勉強でかなり暗記し、アメリカ軍関係の軍事英単語も前川原で勉強したが一般の軍事用語にまでは手が回っていない。知っている知識を組み立てて推察すると森田予備3曹のように職業を持ちながら自衛隊の訓練に参加し、有事や災害に出動する予備自衛官のような存在のように思える。しかし、スイスでは国民皆兵制の一方で軍の大半が民兵であるとも聞いているので自分の中で断定はできない。
「ふーん、最初の自己紹介で出てくるんだな」蛍光灯の下の座卓の席で聡美が訳した手紙を読み始めると冒頭のモリヤ2佐との関係の説明でレーヤ大尉は民宿と農業と畜産業を営む民兵であり、夏にモリヤ2佐夫婦が宿泊していることが述べてあった。
「モリヤ中隊長が送ってくれたエーデルワイスのワッペンの出処はレーア大尉なんだな」レーア大尉の軍人としての経歴にはグラウビュンデン州民兵の山岳歩兵大隊バートレガーズ中隊の中隊長とあるから山岳兵徽章を送ってもらうことは可能なはずだ。安川3尉は弁護士徽章を自費で特注製作して制服と迷彩服に装着しているモリヤ2佐とは違いスイス軍の正式な徽章は勤務中に携帯する私物品の図納に縫い付けている。玄関に出るリビングの隅の帽子掛けにベレー帽と一緒に吊るしてある弾帯の図納を見てうなずいた。ただし、このベレー帽は日本官帽製帽社の自衛隊の略帽ではなく、聡美と一緒に出かけた札幌市内のミリタリー・ショップで見つけたアメリカ製のグリーン・ベレーだからモリヤ2佐の服装規則違反を非難することはできない。真面目な安川3尉もイラク派遣で会った外国軍の兵士がかぶっている本場のベレー帽と見比べると自衛隊の略帽はメーカーが作り慣れていないことが明らかで内心羨ましかったのだ。
「あちらから手紙を先にくれたのはモリヤ2佐が『自衛隊は筆不精が多いから文通が始まらないから』って頼んだのかァ。流石はモリヤ中隊長だな。俺も『手紙を出せ』って命令されても書いたかどうか判らないよ」この依頼をしたモリヤ2佐の真意は安川3尉を含む自衛隊員の文章能力の低さ=知的レベルを揶揄しているのだが、当たっているので素直に納得してしまった。
「陸上自衛隊では遊撃戦を体系的に研究し、教育し、訓練していない。だからスイス陸軍の山岳戦術を教育して欲しいって頼んでくれたのか・・・確かに名寄の演習の状況では冬戦教の遊撃戦も入っていたが、こちらの演習場での状況に山岳戦闘を入れようがないからな」ここまで目を通して安川3尉はモリヤ2佐からの葉書を読んでみた。オランダの葉書は日本の物よりもかなり大きいのでパソコンの日本語の文字数は意外に多い。
「陸上自衛隊の最大の欠点は演習を訓練の目的にしていることだ。演習の目的が実戦にあることを現実として考えている者は危険人物、異端者にされてしまう。しかし、僅かでも実戦で部隊を指揮する可能性を認める者は常に戦場で真に役に立つ戦術を自学研鑽する責任を忘れてはならないってか。久しぶりに中隊長の精神教育を聞いた気分だな」田島1尉からはモリヤ2佐が実戦を追及するようになった理由を航空自衛隊で緊急発進が増強態勢に移行する緊張感を日常的に経験してきたため部隊の任務遂行を全く考えていない航空教育隊に絶望し、意を決して陸上自衛隊に転換したものの「有事と平時」を「建前と本音」にしている現実に危機感を歯が折れるほど噛み締めていたからだと聞いている。その田島1尉は守山でモリヤ2佐の薫陶を受けながら自分なりの表現方法を追求して名寄と松本では中隊長として成果を上げていた。
「いつかはスイスに来て欲しい。酒を飲みながら話したいか。田島1尉がいる間にスリランカに行く予定だけど次はスイスと言うことになるな。こっちはモリヤ2佐がオランダにいる間にだな」今回は具体的な教育はなかったが、モリヤ2佐が田島1尉に続く指導教官を紹介してくれたことは判った。英語に堪能な聡美と結婚していることもモリヤ中隊長の尽力なのだ。
  1. 2021/01/20(水) 13:39:24|
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「ふしぎなえ」の作者・安野光雅さんの逝去を悼む。

野僧が小学校1年の時に発表されると小学校の図書室で大人気になり、低学年が借りられないため担任の先生が自費購入して(後年、担任に訊いた)教室に置くとこれも奪い合いになり、一緒に見るように指導された傑作絵本「ふしぎなえ」の作者の安野光雅さんが12月28日に亡くなっていたことが1月16日に明らかになりました。94歳でした。
「ふしぎなえ」は俯瞰図法や陰影法による目の錯覚を利用して読者の固定概念を逆手に取る不思議な絵による絵本で、表紙から「厚い本の表紙が閉じかけ、開いているの両方に見える」不思議な絵でした。中身はそれ以上で例えば「屏風のように床に置いてある連続した四角形のつながりが気がつくと伏せた状態になっていて、屏風の向うに駆けていった人物が曲がった部分から出てくる」「石積みの壁が何故か階段になっていてそこを登ってくる人物が違和感なく描かれている」「道路に巨大な蛇口から水を流すと奥行きを表現する俯瞰図が気がつくと上下になっていて流れてきた水が上から蛇口に注いでいる」など拙い文章では紹介できないような傑作ばかりでした。そのため担任の先生が言った通り友だちと一緒に見るとさらに不思議さが増し、飽きることはありませんでした。
野僧は極めて垢抜けた画法と登場する人物や街並みが外国風であること、何よりも一言も台詞がないことから外国の作品だと思っていましたが、防府の書店で愚息の絵本を探していて見つけた時に初めて作者名を知りました。おまけに安野さんは大正15(1926)年に防長2カ国に減封された毛利藩が江戸の幕府の目を逃れて領有していたと思われている島根県津和野の旅館の息子として生まれ、昭和15(1940)年からは山口県の宇部工業学校の採鉱科に入学していました。敗戦後は無資格で徳山市(現在の周南市)の小学校の代用教員になり、そこから山口師範学校の研究科に通学して美術教員の資格を取得すると昭和24(1949)年からは東京の三鷹市の小学校や明星学園(私立の小中高校)武蔵野市の小学校で約10年間教員として務めながら玉川学園出版部で図書の装丁の仕事で画力を磨きました。この頃に手がけた明星学園の国語部のテキスト「にっぽんご」は野僧が中退した大学でも使用していました。その一方で画家としては二期会に所属していましたが(野僧の山形の叔父も同人)、教員と副業に忙殺されて出品が滞るようになって昭和35(1960)年に脱会しています。そのためなのか昭和35(1960)年に35歳で退職して本業の画家になり、昭和36(1961)年にフランスを旅行して見たオランダが誇るマウリック・コルネリス・エッシャーさんの建設不可能な構造物や無限を有限に封印した図形などの作品に安野さん自身が「呪いにかかった」と言うほどの影響を受けて昭和43(1968)年に発表したのが「ふしぎなえ」でした。
「ふしぎなえ」は世界中で絶大な支持を集め、安野さんは国際的人気画家になりましたが、細密な線描と薄い色合いの作品と同じように繊細で淡々とした生き方を変えることなく、量産はしないが不足もしないように作品を発表したため、野僧も作者名で探すようになったおかげで「ふしぎ」シリーズなどに出会うことができました。感謝と敬意を込めて心より冥福を祈ります。合掌
ふしぎなえ(表紙)ふしぎなえ(安野光雅)

  1. 2021/01/19(火) 12:45:31|
  2. 追悼・告別・永訣文
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振り向けばイエスタディ2160

「・・・山に初雪降る頃に 帰らぬ人となった彼 2度と笑わぬ彼の顔 2度と聞こえぬ彼の声・・・」義母は昔のフォーク「小さな日記」の3番で涙ぐみながら唄い終わるときまり悪そうな笑いを作った。平成生まれの安川3尉はこの暗い歌は知らないが、フォーク・ソングは宴会の2次会で行ったスナックのカラオケで古参陸曹たちが熱唱しているのを何度も聞いたことがある。両親や義父母から古参陸曹たちの戦後生まれの昭和世代にとってフォーク・ソングは青春の思い出を重ねて唄うソウル・ソングなのかも知れない。
「ごめんなさい。カラビナを見てたら昔を思い出しちゃって・・・」「大学時代の恋人のことね」「うん、山で死んじゃったから」聡美の問いかけに答えながら義母の頬に涙が一筋つたわり落ちた。聡美が穂高を抱き上げると義母は安川3尉の顔は見ずに話し始めた。
「聡美は知ってるけど私は東京の大学時代、同級生と暮らしていたの。彼は山岳部で山に行って無事に帰るとカラビナを1つ私に手渡すのを習慣にしていた。私はそれに山の名前と標高と日付を書いた札を付けて紐に通して吊るしていたんだ・・・」この情景もフォーク・ソングの世界だ。若い男女が一緒に暮らすボロ・アパートなら天井の照明は裸電球でなければいけない。
「だけど3年の冬に剣岳で・・・」「帰ってこなかったんですね」先ほどの思い入れを込めた唄い振りで推理していた安川3尉の感情を交えぬ言葉に義母は深くうなずいた。
「彼は卒業したらそのまま私と結婚できる企業に就職しようと3年で山岳部を引退して4年は就職活動に専念するつもりだった。だから夏に谷川岳、冬に剣岳に挑戦したの」「大学に入ってから山を始めたとすれば3度目の冬で剣岳はかなり無謀ですよ」ここでも感情を差し挟まずに評価した。松本に来て本格的な登山を始めた安川3尉の聞きかじりの知識でも夏の谷川岳は無茶だが、それ以上にアルプスやヒマラヤを踏破した一流の登山家でも遭難することがある冬の剣岳を舐めていたとしか思えない。
「実力でポンッとW稲田大学に入った名寄の松山中隊長みたいな人は別として、必死に受験勉強して大学に合格した人は自分がトップだって思い込んじゃうことが多いから『卒業記念に一番難しい山に登っておこう』って軽く考えたのね」「夏の谷川岳で成功したから自分がトップ・クライマーだって信じちゃったんだな」聡美は家を出る前、母親から危険な職業に就いている男を家で待つ女の苦しみの実例としてこの話を聞かせられた。しかし、陸上自衛官として安川3尉が取り組んでいるイラク派遣や災害派遣などの任務や冬季戦技教育隊などの訓練は大学の山岳部以上に過酷であっても不安を感じたことはない。それは陸上自衛隊がその過酷な任務や訓練を実施するまでの体力や技量の練成を怠らず、綿密な計画を立てて段階を踏んで臨んでいるからだ。それを思うと大学生風情が自分の実力を過信して日本でも最高の難易度を与えられている山に登り、アパートで待つ恋人=母親を哀しみのどん底に突き落とし、将来への夢を奪ったことが娘だけでなく女として許せなくなってくる。
「山頂付近の氷壁から滑落した彼たちの遺骸はバラバラで私は対面できなかったの。だから無事に帰るように祈っていた陶器の蛙を2階の窓から道路に投げつけて砕いたのよ」「僕も春先には遭難者の遺骸や遺品の回収に行きますが、絶壁から滑落した遺骸は悲惨です。人間の形を留めていないことも珍しくありません」いまだに遺骸と対面できなかったことが不満そうな義母をなだめるため安川3尉は体験談を説明した。実際、ビルの屋上から飛び降りた自死者の遺骸でも頭から落ちれば頭蓋骨が割れて脳が飛び散り、足からならば胴体にめり込み、背中からでも身体が折れ曲がる。平らな地面でもそうなるのだから岩場に落ちれば木端微塵だ。それにしても祈りの対象だった陶製の蛙の置物を部屋の窓から道路に投げつけて割る義母の性格は恐ろしい。聡美が似なかったことを感謝した。
「俺は似たような話を漫画で読んだことがあるよ」「お母さんの恋人が山で死んだ話のことね」日が翳って義母が穂高を連れて散歩に出かけると安川3尉はリビングで取り込んだ洗濯物を畳み始めた聡美に話しかけた。
「姉貴に借りた『生徒諸君』って少女漫画で、大阪から転校してきて主人公のナッキーの恋人になる沖田って奴が山から帰るとカラビナを渡すんだ。それで沖田は冬の穂高で死んでしまう」「あの頃の大学の山岳部員は似たようなことをやっていたのよ。本人は縁起担ぎかも知れないけど遺品になった時は辛いよね」安川3尉としてはドラマのような悲劇が義母の創作であることを期待したのだが聡美は全く疑っていない。やはり似ていなくても母と娘は通じ合っているようだ。
「クライム エヴリィ マウンテン、サーチ ハイ アンド ロウ、フォロウ、エヴリィ バイウェイ、エヴリィ パス ユー ノウ・・・」すると下から見事な英語の歌が聞こえてきた。これは映画「サウンド・オブ・ミュージック」の挿入歌だ。どうやら子守唄らしい。
  1. 2021/01/19(火) 12:43:06|
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1月19日・原子力空母・エンタープライズが佐世保に入港した。

1968年の明日1月19日に当時は世界唯一の原子力空母だったエンタープライズが長崎県のアメリカ海軍佐世保基地に入港し、猛烈な反対・抗議運動が発生しました。
当時はインドシナ紛争にフランスが敗北したことで東南アジアの共産化を畏れるアメリカが軍事介入したベトナム戦争が発生していて、日本の反対派は在日アメリカ軍基地を拠点と見ていたためエンタープライズの入港は佐世保基地の機能強化と考えたのです。
さらに長崎は小倉に投下する予定のプロトニウム爆弾を逃げる途中で捨てた被爆地のため反核運動の聖地であり、県内の佐世保基地に原子力を利用するエンタープライズが入港することは被爆犠牲者の魂魄に対する冒涜と受け取られました。
アメリカ政府(ジョンソン政権)は佐藤栄作内閣に1967年9月にエンタープライズを佐世保のアメリカ海軍基地に寄港させる計画を伝達し、11月2日に閣議決定で受諾しました。アメリカ政府としてはベトナムへの軍事介入にも必然性があったので、佐世保基地の機能強化と乗組員の完熟を遠慮する理由はありませんでした。
これを受けて朝日新聞を筆頭とするマスコミ(当時は全紙一斉の状態だった)は国民には原子力を利用するエンタープライズの恐るべき攻撃力を強調しながらそれがベトナム戦争で発揮されていることを喧伝する一方で長崎に原爆を投下したアメリカがそれを強行することを「罪の意識の欠如」と感情的な反発を扇動しました。こうなれば反戦平和と反核兵器運動を表看板にする反米親ソ連親中国の学生運動や日教組、自治労、当時は存在した国鉄労働組合などは活動家・組合員を総動員して準備を整えながら待ち構えたのです。
そうして1月15日に佐世保に向かう法政大学の中核派の学生200人が飯田橋駅まで無許可でデモ行進したため警察と衝突して131人が逮捕され、5人が起訴されましたが、罪状は角材やプラカードを「用法上の凶器」とする凶器準備集合罪でした(初の適用の判例になった)。続いて16日には博多駅前で待ち構えていた警察と福岡市内の全学連の学生との衝突が起こり、17日に九州大学構内に宿泊して乗車に成功した反共産党系=武力革命派全学連の800人が鳥栖駅で積み込んだ角材で武装して佐世保駅で下車し、アメリカ軍基地への引き込み線を進撃したものの警察に阻止されました。18日には佐世保市民グランドで開催された抗議集会に47000人が集まる一方で反共産党系全学連1000人が佐世保基地につながる橋の突破を図りますが阻止されています。そして19日にエンタープライズが入港し、21日には干潮で浅くなった海岸から中核派の学生が基地内に侵入しますが即座に逮捕されました。結局、エンタープライズは23日に出港しました。
野僧はこの時のデモ隊と警察機動隊の衝突の記録ビデオを見たことがありますが、デモ隊の角材には5寸釘が打ち抜いてあり、それを警察官の首筋や背中に向けて振りおろしていました。さらに重武装した警察官を突き飛ばして真冬の海や川に転落させ、数人がかりで抱えて投げ込んでいましたから明らかに殺意がありました。学生運動の活動家によると警察官や自衛官を殺すと革命に参加したような気分になるそうなので完全に狂っていたのでしょう。そんな参加者たちが列車で帰ると催涙ガスの臭いを嗅いだ乗客や車掌から労をねぎらわれたと言いますからマスコミの世論誘導は徹底的だったようです。
  1. 2021/01/18(月) 13:38:07|
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振り向けばイエスタディ2159

安川3尉は夏季休暇を利用して同じ第3中隊のレンジャー隊員で登山家の渋谷1曹に連れられて穂高連峰の屏風岩東壁に挑戦してきた。クレージー・サーティーンの山岳レンジャーを名乗る以上、日本アルプスの踏破歴は必須で、ほぼ垂直に600メートルの高度を誇る屏風岩を踏破しておけばとりあえずの箔にはなる。何よりも息子に名前をもらった山への挨拶だった。
「安川3尉、スイスから手紙が届いています」「へッ」渋谷1曹の私有車で上高地から戻り、中隊長の許可を受けて携行した個人用天幕や飯盒などの演習用具を返しに中隊に寄ると事務室で中隊当直陸曹が声をかけてきた。夏季休暇中は3中隊でも不測事態対処要員として3分の1は残留させているが実際は草刈り作業に励み、中隊当直陸曹は先に休暇を取った人事係陸曹と2人で事務室の電話番をしている。
「キャプテンって1尉のことですよね。スイス軍の軍人からのようです」当直陸曹が差し出した封筒を受け取ると住所と部隊名は英語で書いてある。裏を見ると差出人はキャプテン・アレクサンダー・レーアとあるから当直陸曹が言う通りスイス軍の大尉らしい。それでも住所に駐屯地や部隊名の記述がないのは不思議だ。
「スイス軍にも知り合いがいるんですね。山岳レンジャーの本場じゃあないですか」「いや、知らない人だよ」渋谷1曹が興味深そうに封筒を覗き込んだが安川3尉には心当たりがない。住所のグラウビュンデン州バートレガーズも読むのがやっとだ。安川3尉の答えに陸曹3人が怪訝そうな顔になったが「中を読んでみれば」と言われても読解する自信がないので家に持ち帰って聡美に翻訳させることにした。自宅には夏休みを利用して英語の教師の義母も来ているからかなり高度な文章でも安心できる。
「渋谷1曹、お世話になりました。次回もよろしく。それじゃあ帰って嫁に訳させるわァ」「穂高くんによろしく」「英語が得意な奥さんにもよろしく」善は急げ、行動吉日の安川3尉がガイド兼指導員だった渋谷1曹に会釈をして事務室を出ると、その背中に渋谷1曹と当直陸曹が声をかけてきた。独身の渋谷1曹は休暇に限らず3連休ができると上高地に行って屏風岩の下で野営して希望者を指導しているので登山愛好者の間では「屏風岩の主」と呼ばれているらしい。実際、今回もハーケンを打ち込む岩の裂け目が脆くなっている場所を適切に指導してくれた。屏風岩は難易度よりも高さと知名度で人気があるため挑戦者が多く、登攀(とうはん)ルートは手足の長さに大差がない以上、同じ場所にハーケンやクライミングチョック(中で先端を開く金具)を打ち込むことになる。そうなると体重は支えられても滑落などで衝撃が加わると抜け落ちる危険性があるのだ。そんな渋Ⅰ曹は「ガイド料で儲けている」と言う噂も聞くが、今回は燃料代と飲食費は折半、ガイドは無料だった。
「ただいま。穂高から帰ったぞ」官舎の玄関を開けると安川3尉は大声をかけた。最近は穂高の昼寝の時間が決まってきて今なら大丈夫なはずだ。すると聡美が機嫌が良さそうな穂高を抱えて廊下に出てきた。穂高を挟んでキスをするのが習慣だが今日は義母が来ているので軽くした。
「そう言えばオランダのモリヤ中隊長さんから葉書が届いているわよ」玄関を上がり、すぐ脇の水周り室の洗濯カゴに汚れ物を放り込んでいると聡美が声をかけてきた。それではスイスとオランダから同時に国際郵便が届いたことになる。モリヤ2佐の葉書であれば文章は日本語だが偶然の一致にしても不可解だ。
「おかえりなさい。避暑にお邪魔してます」リビングに入ると義母が扇風機を網戸の前に置いて涼んでいた。座卓の上に麦茶が並んでいるところを見ると母子で話が弾んでいたようだ。
「スイスから手紙が届くって」「届いたよ」聡美はその麦茶の奥に置いていた葉書を手渡しながら説明したが、交換にスイスからの手紙を手渡した。つまりスイス軍のレーア大尉はモリヤ2佐の紹介で手紙をくれたようだ。
「手紙は英文だろうから読んで教えてくれ」「英文の手紙が届いたの。素敵」聡美に翻訳を依頼すると義母が割り込んできた。しかし、軍人からの手紙を読ませるには思想傾向が不適格なので、難解な単語の質問に留めるべきだ。それにしても義父母は双方の不倫が発覚してから10年以上、世間と職場の体面のために仮面夫婦を演じているが孫の顔を見に来るのも単独行動だ。
「これってカラビナ・・・」聡美がハサミで封筒の上辺を切って手紙を読み始め、安川3尉が岩登りに使うカラビナ(ザイルと身体に装着する固定具のハーネス、ハーケン、クライミングチョックなどを結ぶ時に使う金具)を玩具に穂高に与えると義母がかすれた声で呟いた。その凍りついたような表情に安川3尉は困惑したが、聡美は事情を知っているらしく黙って見詰めていた。
「小さな日記につづられた 小さな過去のことでした・・・」義母は穂高が口に咥えたカラビナを取り上げると似合わない歌を低く唄いながら頭を撫でた。 
カラビナ登山用カラビナ
  1. 2021/01/18(月) 13:35:16|
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振り向けばイエスタディ2158

「実は以前からモリヤ中佐に私の中隊で教育をお願いしたいと思っていたんですよ」心地よく酔いが回って梢が目で就寝を促した時、レーア大尉が後退を遮断するような話を持ち出した。
「お互いに秘密保全の義務があるから内容によるぞ」「先ずはご専門のウォー・ロー(戦争法)の教育です。我が国は永世中立国なので周辺で戦争が発生すると双方から疑いの目で見られてしまいます。だから将兵には戦争法に関しては十分な知識を与えたいんです」「なるほど。それは当然だ」スイスは第2次世界大戦では同盟国・イタリアとの連絡路としての通行や飛行による通過を要求したナチス・ドイツよりも空襲に向かう連合軍機の領空侵犯に撃墜を含む強硬な対処を堅持したため報復的な誤爆が繰り返された。
「モリヤ中佐は『テロ』と言う新たな戦闘についてはどのように見ていますか」「現段階では『テロ』は戦闘ではなく犯罪に類別されている。逆に犯罪であれば永世中立国も除外されない。むしろ国際機関が集中するスイスは標的になる危険性が高いと考えるべきかも知れない」私の見解にレーア大尉は一気に酔いが醒めたように真顔になった。
「スイスの警察にフランスやドイツのような対テロ専門の戦闘部隊があれば別だが、オランダ同様の小国では無理だろう。そうなるとセキュリティー・オペレーション(治安出動)で軍が対処することになる。それでも根拠法令は国内法だ」「まだ治安出動の訓練はやっていません」チューリッヒのテック曹長から聞いたスイス空軍の間延びした現状を考えるとスイス政府が「テロ」と言う新たな脅威をどこまで現実の問題としてとらえているのかは疑問だ。とは言え現場指揮官としても容易に答えが見つからない難問だろう。
「それから胸の徽章はマーシャルアーツ(徒手格闘)とバヨネット・ファイティング(銃剣格闘)のインストラクター(指導官)と言うことですから是非、ウチの兵士にも技を伝授してもらいたいと思いまして。武道の国の格闘技であれば極めて実戦的でしょう」「実戦性についてはワシ自身が証明してしまったが、一部の技は秘に属するんだ」レーア大尉には言っていないが私は北キボールで剣で襲いかかってきた暴徒をナイフで即死させている。しかし、私の精神構造は自分の殺人歴を誇示するようには出来ていない。日本の唱歌「冬の夜」の2番では「囲炉裏の傍で縄なう父は 過ぎし戦(いくさ)の手柄を語る 居並ぶ子供は眠さ忘れて 声も立てずに拳を握る」と唄っているが、「戦の手柄」とは殺人歴に他ならない。確かに戦前と海外では戦争の殺人歴は「手柄」だが、私は刑法犯罪者=凶悪殺人犯として長い裁判を受けただけに罪の意識が先に立つようになっているのだ。
「格闘の技が軍事秘密に属すると言うのは興味を覚えますね」「早い話が素手やナイフで敵を殺す方法は危険だから第3者には教えないと言うことだよ」私の説明にレーア大尉は納得したようにうなずくとテーブルに置いてある蒸留酒を空にしたグラスに注いだ。そのボトルを手に取って見るとやはりラベルの文字はアルファーベットだが綴りが英語とは違う。そうなるとスイスやドイツかオーストリアの地酒の可能性もある。
「やはり私の中隊での教育をお願いします」「それでは来年の夏に来るのに合わせて教育訓練を予定しなさい。次は2泊3日か3泊4日にしよう」私が快諾するとレーア大尉がグラスを掲げたので一緒に乾杯した。隣りの席を見ると梢と奥さんはテーブルに寄りかかって半分眠っている。私たちは苦笑すると手分けしてテーブルを片づけ、女性たちを寝室に連れていった。
翌日は予定通りアニメ「アルプスの少女ハイジ」の舞台になった山の牧場に向かった。アニメではペーターとハイジ、山羊たちはアルム・オンジの小屋の横の斜面を登って深い森の中の狭い山道を抜け、花畑を通りながら歩いて行くが、アニメの製作前にマイエンフェルトを訪れた日本の作画担当者たちは色々な場所を取材して回り、それをつなぎ合わせて経路にしているためアニメの風景を見るには数日かかりで歩き回らなければならない。幸いなことにレーア大尉は子供の頃からアニメを見て現場を探していたので今回はピン・ポイントで案内してもらえた。
「ハイジはこの斜面を裸足で歩いてたけど、怪我するよ」斜面の草地を歩きながら梢が呆れたように指摘した。確かに草地は岩盤の上に薄く積もった土に生えているため鋭い石片が散らばっている。だからここでも梢の軽登山靴が活躍している。
「沖縄のビーチと一緒で素足禁止だな」「あっちは珊瑚の破片だけど同じだね」沖縄のビーチでも珊瑚が鋭く砕けた砂のため素足は禁止、さらに過剰な日焼けが火傷になるのでTシャツを着るのが原則だ。いくらハイジが山の小屋で育っても足の裏が靴底のようにはならないだろう。
「それにこの長い山道をペーターはクララを背負って登ったんだよ」「クララのお祖母さんやロッテンマイヤーも登ったぞ」折角、アニメの情景の現場を案内してもらっても山登りが辛い年齢になっている私たちは別のことを実感していた。陸上自衛官として恥ずかしい。
ハイジ
  1. 2021/01/17(日) 13:53:31|
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1月17日・初代中華民国陸軍総司令官・顧祝同上将の命日

1987年の明日1月17日は辛亥革命当時から後の国民党軍に参加し、日本軍との武力紛争や国共内戦を経験し、陸軍総司令官を初代から4代、6代と3回務めた顧祝同1等上将の命日です(中華民国軍の士官の階級は大中少ではなく上中下)。
顧上将は1893年に清江蘇省准安府安東県の地主の息子として生まれ、1908年には日本の陸軍幼年学校に相当する南京陸軍小学校に入営しました。1911年に揚子江流域の武昌や漢陽で辛亥革命が始まると革命派が北京に向けて進軍する先遣隊に参加して初陣を飾り、清朝が崩壊して事態が終息すると陸軍小学校に復学しています。ところが朝廷の重臣から寝返って臨時大総統に就任した袁世凱さんは孫文さんなどが目指す共和制国家とは真逆に自分が新たな皇帝になったかのように振る舞い始め、これに反発する革命派が1913年に第2革命を起こすと再び従軍しますが失敗したため帰郷し、ほとぼりが冷めた1914年に湖北陸軍第2予備士官学校に入校して2年間学んだ後に保定陸軍管学校に進学し、1919年に卒業すると国民党軍士官として経験を積みました。
政権を握った孫文さんが満州の軍閥を屈服させるため1921年に北伐を開始するとこれに参加し、その後の国内統一の戦闘で多くの軍功を上げながら昇進しますが、1928年に国民党軍が山東省済南で日本人を襲撃し、これに対して日本軍が部隊を派遣した済南事件を受けて徐州へ撤退する敗北も経験もしました。それでも1929年には8個師団を指揮下に置く第16路軍総指揮官に就任しています。
さらに1931年に南京警衛軍長に任命されると第1次世界大戦の敗戦によって職を失った多くのドイツ軍人を招聘して第1次世界大戦で急速に発展したトートカ戦などの戦術を吸収すると同時にドイツ製の兵器を多数購入して国民党軍の近代化を進めました。そして1933年には毛沢東主席の共産党軍を討伐する北路軍司令官に指名され、毛沢東主席が「長征」と歪曲美化した敗走の追撃も実施しましたが、蒋介石総統、毛沢東主席、張学良さんによる政治的談合によって一介の軍人には戦う相手が判らなくなる中で日本は対米英開戦に合わせて国民党政府にも宣戦布告したのです。
1945年9月7日に日本が降伏すると毛沢東主席は対日戦争を一手に担わされた国民党軍が疲弊し、ソ連のスターリンさんの朝鮮半島統一の策謀でアメリカ軍の関心が国民党から離れている中で国土を奪取するための内戦を起こし、1946年に初めて陸軍総司令官に就任した顧上将が指揮したのは国共内戦でした。結局、国民党軍が戦争に明け暮れしている陰で農民を中心に宣撫工作を進めていた共産党軍を阻む力はなく、混乱の中の主要な職務のたらい回しで1949年6月から8月までの2カ月間、12月から1950年3月までの4カ月間に陸軍総司令官を歴任しましたが各地で敗北を重ね、毛沢東主席の人民戦術理論「点化した敵軍を人民の海に埋葬する」の通りに分断・孤立化させられた部隊が各個撃破され、陸軍総司令官のまま1950年に台湾に逃れたのです。
台湾では蒋介石総統の指示で中国内陸部の雲南省に抵抗拠点を作るため顧上将自身が現地に入りましたが成果はありませんでした。
  1. 2021/01/16(土) 13:35:03|
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振り向けばイエスタディ2157

「モリヤ中佐は昨年の夏はどう過ごされたんですか」奥さんの手料理を食べ終えて酒もビールからラベルが読めない蒸留酒になったところでレーア大尉が民宿の経営者として質問してきた。要するに「ウチを夏の常宿にするのなら昨年はどこで浮気をしたのか」と言う詰問だ。
「昨年の夏はフィンランドへ冬戦争のコッラーの戦跡を見にいったんだ。シモ・ヘイヘ少尉の記念館も見学してきたよ」「軍務でしたか。失礼しました」私の軍事研究や戦跡見学は個人的な趣味なのだが、欧米人の感覚では軍務になるらしい。
「シモ・ヘイヘ少尉は敵の殺害数の世界最高記録を保持する狙撃手ですから我が軍でも名前は知られています」スイス軍が知っているとなると陸上自衛隊がほとんど知らないことが恥ずかしくなるが、日本には村田経芳少将と言う自前の偉人がいるので仕方ない。
「日本にいた頃から戦力では圧倒的に劣るフィンランド軍がソ連軍の機甲部隊を殲滅したモッティ戦術の現場が見たかったんだ」「フィンランドは平原、我が国は山岳と地形は違いますが、遊撃戦の成功例として我々も勉強しています」これは安川3尉にも教示してもらいたい戦術論だ。日本では明治の政変で国軍を設立することになった時、当初は徳川幕府の軍事顧問になったいたフランスに各兵科の士官要員を留学させ、続いて普仏戦争で勝利したプロシアに変更した。本来はそこで学んで持ち返った近代的軍事知識を日本の国情に適応させた形に発展させなければならなかったのだが、文明開化に浮かれていた当時の日本ではヨーロッパ式が絶対視され、それを金箇条のように模倣して国内戦の役に立たない侵略専門の軍隊になってしまった。ところが陸上自衛隊も遅れて入隊した敗残兵たちが復活された帝国陸軍を金箇条とする体質に陥っていて、ヨーロッパ式に大平原で敵と対峙し、支配地域を争奪する正面戦闘を前提とした普特機重視の戦術の呪縛から抜け出せないでいる。
「前回、SG550小銃を見せてもらってスイス軍が精密射撃による狙撃を重視していることは判ったよ。518ミリの銃身長は軽量化と使用性を重視する他国の小銃よりも銃身が長いから命中精度が高いんだろうね」「訓練の名目で狩猟にも使っていますが、200メートルの距離でも兎を仕留めることができます」「それは腕も良いんだろう」私も善通寺の頃、射撃の強化訓練の指揮官として普通科式の射撃を徹底的に演練したが、ヨーロッパの野兎は大きいとは言え動く目標に命中させる自信はない。
「一度、君たちの射撃訓練に参加してみたいものだな」「明日はアニメのハイジの舞台になった場所に案内するつもりですから、ついでに狩猟はどうですか」」刃物でさえ取り締まりの対象になる日本の銃刀法が適用されない海外では、適切な監督者の管理下であれば銃と実弾を使用する狩猟はスポーツ的に実施できる。しかし、人間を3人も殺害している私が鹿や野生の山羊、兎や鳥を射ち殺すことを躊躇するのは変だが、坊主としては「自分のために殺させない」「殺すところを見ない」「自分のために殺した疑いがない」と言う不殺生戒の上をゆくを殺生は御免被りたい。それでもレーア大尉は我々に食べさせるために飼っている山羊を1頭つぶしたそうなので、すでに不殺生戒は保てていない。その一方で北キボールPKOではムスリムの調理員が「殺す前に山羊をハラールにしてくれ」と要求したため読経で生前慰霊したことがあるので今日も食べる前に山羊の供養をした。
「でも大角の旦那やかわいいのを射っちゃうのは嫌だな」私たちの会話が耳に入ったのか少し酔った梢が日本語で加わってきた。と言っても「大角の旦那」や「かわいいの」は日本のアニメの呼び名なので英語に直訳しても通じそうもない。そこで私が特徴を説明すると日本のアニメを見たことがあるレーア大尉は理解して回答した。
「アイベックス(=大角の旦那)は昔は狩猟対象でしたが、『肉に薬効がある』と言う風説で乱獲されたので現在は絶滅危惧種に指定されて狩猟は厳禁されています。マーモット(=かわいいの)は人気の獲物ですが、こちらも乱獲で減少しているため地域によっては保護の対象になっています」アニメで紹介されていた野生動物の身元が判明して私と梢は顔を見合わせたが、やはり乱獲されてきたことには心が痛んだ。
「ヨーロッパでは狩猟がスポーツだから動物を殺すことに抵抗がないんだろうけど、日本人は農耕民族だから体質的に狩猟は合わないんだ」「それでも戦争では他の民族以上に勇敢に戦いますよね」「それは日本人の精神が佛教と神道の二面性を持っているからだよ。神道は『戦争で死ねば神になれる』と説く狂気の信仰だから戦争に出征すると死にたくなってしまうんだ」これは敬虔な佛教国・スリランカに行って感得した見解だ。確かにスリランカ軍の将兵たちは南方佛教的「因果応報」の感覚で敵が殺さなければならない行動を取っていることに深く憤っていた。それが条件反射で3人を殺した私と言う日本人との違いだ。
  1. 2021/01/16(土) 13:33:32|
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下関市・東行庵の庵主和尚の遷化に思う。

1月8日に下関市にある幕末の極悪非道なテロリスト・高杉晋作くんが芸者を囲っていた妾宅を死後に寺にした東行庵の兼務住職の庵主和尚が遷化したそうです。
野僧は庵主和尚に何度か書簡を送ったことがあります。それは大河ドラマ「龍馬伝」で下関市の経済関係者がNHKに圧力を掛けて(毎度の如く有力政治屋に陳情した)、高杉くんの登場シーンを異常に長引かせて主人公扱いさせたのに合わせて東行庵を下関市の観光名所にしようと画策し、当時は東行庵が借りていて劣悪な管理状態に高杉家が引き揚げた遺品の返還ではなく所有権を主張する民事訴訟を起こした時でした(東行庵は「無断で持ち返った」と主張していた)。
野僧は「高杉くんの没後に剃髪・出家して東行庵の初代庵主になった芸者の此の糸(通称・うの)さんはあくまでも妾であって、萩城下(現在の当主は福岡市在住)の高杉家を守っていた雅さんは本妻である以上、遺品は萩に置くのが筋である。住職であれば檀家の本妻と妾の間で遺産の相続の問題があった時に見解を示すこともあるのではないのか」と詰問し、さらに「テレビ・ドラマや下関市の歪曲した歴史の紹介資料では此の糸さんが高杉くんの最期を看取ったことになっているが、実際は病気が重篤になった時、萩から父親の小忠太さんと雅さんが駆けつけて看病に当たり、葬儀まで取り仕切っていて、此の糸さんは妾の芸者の立場を守っていた」「高杉くんは熱烈な愛妻家で、有名な写真も雅さんの求めに応じて長崎の上野彦馬の撮影局で撮って送った物だ」と殊更に東行庵の優位性を誇示する姿勢に疑問を呈しました。
その後、東行庵は下関市と結託して観光名所になるため管理状態が問題になった資料館を我々の市民税を使って市営の東行資料館に改築し、100メートルの距離に在る墓所での法要を日本国憲法の政教分離の原則によって関与できない下関市役所に代わって事実上は主催し、幕末を手放しで賞賛する山口県から福岡市に移住して史実を冷静に評価する正常な歴史観を知って祖先の凶行を反省するようになっている現在の当主を招聘するなど僧侶ではなく宗教法人経営者としての辣腕を奮ったのです(現在の当主は法要での挨拶でも高杉くんを誇示するような発言はしていない)。
山口県は山口県人で父親の晋太郎外務大臣は高杉くんに因んで命名された安倍晋三総理が在任中だった2018年に政府や他県は「明治近代化150年」としていた祝賀行事を「明治維新150年」に意味を替えただけでなく県内の各種行事でも殊更に戊辰戦争での勝利を誇示する演劇や資料展示を繰り広げました。このような時代錯誤を主導してきた下関市在住の直木賞作家は2018年の祝賀式典の直前に死亡し、今回、同様の役割りを担っていた東行庵の庵主和尚が遷化したのですから、今後は幕末に多くの有為な人材の命を奪った狂気と政権奪取のために繰り広げた数々の悪事、さらに自分たちの祖先が作った明治政府=大日本帝国が吉田松陰によって吹き込まれた尊皇攘夷の狂気で国際社会に乗り出した結果、必要がない戦争を繰り返した揚げ句にわずか77年間でこの国を滅ぼした大罪を直視して真摯に懺悔するべきでしょう。
  1. 2021/01/15(金) 12:59:40|
  2. 追悼・告別・永訣文
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振り向けばイエスタディ2156

今回も最終の宿はバートラガーツの温泉のアレクサンダー・レーア大尉の民宿だ。バートラガーツの温泉はオーストリアとの国境に近いブフェファース修道院が管理するタミナ渓谷から湧き、巡礼者たちが旅の疲れを癒したことで評判になった名湯なので4泊5日でスイス国内を一周する強行日程での旅行の疲れを癒すには最適だ。しかし、折角の夏休みを最終日に疲れを癒さなければならないほどの強行軍で過ごすのも日本人的で我ながら呆れてしまう。
「背中を流してやるよ」「うん、シャワーとは違う気分だね。お願いします」湯船に浸かる前に身体を洗うのは自衛隊でも教えている芋洗い式入浴のマナーだ。ここの浴場の構造は洗面器とタオルの使用を前提とする日本の温泉とは違い、石鹸をつけたブラシで背中を洗い、シャワーで流すようだ。私たちはシャワーを一緒に浴びるのは習慣にしているが、今回は床に座って互いの背中を手で洗い合った(下半身が元気なら・・・残念)。
「やっぱり湯船に浸かると疲れが取れるわ」洗った髪を頭の上でまとめてピンで留めた梢は首まで湯に浸かりながら癒しを実感している。一方、熱い湯が苦手な私は胸まででにしているが、梢の裸を目の前にすると気分だけはのぼせてしまいそうだ。
「日本ではお湯を飲んで身体の中から癒すって温泉も多いけどここは駄目かな」梢の感想に妙なことを思い出したが、湯船にコップは置いていない。ここの温泉も日本各地の温泉地と同様に湯源からの配管で地域内に供給されているため飲用には適さないのかも知れない。
「ババンババンバンバン・・・いい湯だな いい湯だな 湯気にかすんだ 白い人影 あの娘かな あの娘かな ここはアルプス ラガーツの湯」案の定、温泉と言えば定番の歌が出た。私の蒲郡高校の生徒会宛に自宅に近い私立高校から文化祭の招待状が届いたので遠慮なく見学するとデュ―ク・エイセスのコンサートが開かれていて、そこで憶えたのが名曲「女一人」と「筑波山麓合唱団」そして「いい湯だな」だった。
「昨年はスイス陸軍の山岳兵徽章を送ってくれて有り難う。日本の山岳歩兵連隊の小隊長になった教え子の任官祝いに贈らせてもらったよ」「日本の山岳歩兵連隊ですかァ」夕食になって私とレーア大尉はビールのジョッキ、梢と奥さんはワインのグラスで乾杯すると先ず昨年に手紙で依頼して送ってもらったスイス陸軍の山岳兵徽章の礼を言った。白いエーデルワイスを刺繍したその徽章の洗練されたデザインは素晴らしく私も欲しかったのだが、普通科の幹部としての経歴を考えると装着する資格に自信が持てなかった。
「教え子の部隊は日本アルプと呼ばれる3000メートル級の山々が連なる長野県の松本市に在って、インペリアム・アーミー(帝国陸軍)の時代からの山岳踏破訓練の伝統を現在のグランド・ジエータイ(陸上自衛隊)も受け継いでいるんです」「部隊ナンバーは」「第13普通科連隊です」「ナンバー13かァ・・・」ヨーロッパやアメリカのキリスト教徒がイエスを裏切ったイスカリオテのユダが13番目の弟子だったことでこの数字を忌み嫌うことは聞いているが、第13旅団管内には13がつく部隊ばかりだ。大体、日本人には音が「死」に通じる4の方が縁起が悪い。それでも北海道の帯広駐屯地に第4普通科連隊、九州の北熊本駐屯地には「死に」の第42普通科連隊がある。
「陸上自衛隊には帝国陸軍時代の歩兵連隊のナンバーを踏襲している普通科連隊もあるんだが、松本は50連隊だったから最近までは普通科連隊の総数を超えていたんだな(高知駐屯地に第50普通科連隊が創設されたのは2006年)」私の説明に中期防衛力整備計画での常備定員が152000人と言う陸上自衛隊の規模を知らないレーア大尉は困惑しながらビールを飲んで奥さんの手料理を食べ始めた。軍隊談議の手前で滞った話に区切りがついたところで私は以前から考えていた要望を切り出した。
「日本の山岳歩兵士官と文通してみませんか。彼は日本の最北限の最精鋭スキー部隊出身ですが、山岳歩兵としては初心者です。世界最高峰のスイス山岳歩兵の大尉から助言を与えてもらえれば本人も助かるでしょう」「私はドイツ語とドイツ語しか判りませんが」「本人はジョージ・ブッシュの戦争後にイラクへ派遣されています。妻は英語の通訳ですから大丈夫です」安川3尉の妻の聡美が名寄のホテルのレストランで外国人相手のウェイトレスとして勤めていたことは年賀状などで知っている。聡美の母親が高校の英語の教員だったことも考え合わせれば「通訳」と紹介しても間違いではないはずだ。
「日本陸軍は我々も勝てないかも知れないネパールのグルカ兵と対等に戦った唯一の陸軍です。私の方が勉強させてもらうことになるかも知れません」それはインパール作戦の山岳戦闘にイギリス軍の傭兵として参戦したグルカ兵が戦死した日本兵たちの貧弱な装備と痩せ衰えた遺骸を目にして恐怖と同時に敬意を抱いたと言う戦史の逸話だ。
スイス陸軍山岳兵徽章
  1. 2021/01/15(金) 12:57:23|
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振り向けばイエスタディ2155

「ユングフラウやアイガーが間近で見られる町のホテルを紹介してくれませんか」「来年はインターラーケンに行かれますか」チェック・アウトする時、前回も世話になった番頭さんのような副支配人にかなり厚かましい要望をした。昨日、ゴルナーグラードの山頂では展望台から4000メートル級のアルプスの主峰群を眺めただけでなくフィンデルとゴルナーの氷河を見て、何よりも最高地点の標高は3130メートルであることが判り、駅の3089メートルを更新して日本では7位の赤石岳の3121メートルを超えた感激で「スイスの最高峰を間近から仰ぎたい」「大氷河や地底の滝を見たい」と話し合っていた。それでも夏のスイスはホテルを個人で予約するのが難しいのは今回も痛感しているので副支配人に依頼してみたのだ。
「インターラーケンは我がシェルマットよりも小さな街ですが、登山者はベースキャンプ代わりの山村に前進して長期滞在しませんからホテルの予約はスイス国内の他の都市に比べれば容易です」これは人口の比較でシャルマットは6000人弱なのに対してインターラーゲンは5000人強らしい。それでも標高は565メートルなのでシェルマットの3分の1で、旧友・小椋元3佐が住んでいる愛知県の作手と同じくらいだ。
「それでは知り合いのホテルを紹介してもらう必要はないと言うことですか」「お客さまは短期滞在の上、国際刑事裁判所にお勤めと言うことですからインターラーゲンの観光協会に問い合わせれば手配してもらえるでしょう。ただ観光するにはそれぞれの山の麓の村まで登山列車や郵便バスで移動するのが一般的です」「郵便バスって何ですか」「我が国では郵政省が山奥の郵便物の集配に運航している黄色い小型バスに有料で同乗できるんです。郵便局の前が乗降場で、山道では優先車両なのでサイレンの代わりにロッシーニのウィリアム・テル序曲を流しながら走ります」「ジャーンカ、ジャーンカ、ジャカジャカジャカジャカ・・・」梢の隣りで副支配人の説明を聞いていて私の悪癖が出てしまった。副支配人は私の口唄に「我が意を得たり」と言う顔でうなずくと顎でリズムを取りながら鼻ずさんだ。
「ウィリアム・テル序曲」はロッシーニのオペラ「ギョーム・テル」の第4部「スイスの軍隊の行進」のことだが、私は高校時代にモスクワ放送でショスターコーヴィチが交響曲第15番の冒頭で使っているのを聞いたことがある。それにしてもこの極めて景気が良い曲は通行を周知するには最適でも運転手が興奮すると危険ではないか。昭和50年代の警察の統計によれば若者が車内でロックを聞いているとフォークよりも事故を起こす可能性が高いと言うことだった。
「やっぱりホテルとしては観光客を他所に譲る訳にはいかないよな」「でも面白い情報を入手できたわ」「郵便バスねェ、ジャーンカ、ジャーンカ、ジャカジャカジャカ・・・」ホテルのロビーを歩きながら再びウィリアム・テル序曲を口ずさむと多国籍の観光客たちは一斉に失笑し、ドアの前に立っている警備員まで笑顔で敬礼してきた。今日も迷彩服を着ているので日本国陸上自衛隊の2等陸佐としての品位を損ねたのかも知れない。
「郵便バスかァ・・・シェルマットには走ってないのかなァ」「要するにバスやタクシーが営業していないような場所の代替えの公共交通機関なんだろう。スイスの観光立国は行政が総力で取り組んでいると言うことだ」シェルマット駅前で黄色の車体に大きく「PTT」と書いた普通の郵便車両を見つけ、梢は少し落胆したように呟いた。私としてもウィリアム・テル序曲を流しながら走ってくる郵便バスに会ってみたいが、小型バスからタクシーまで電気自動車にしている静かな街でウィリアム・テル序曲は騒音問題になりかねない。やはりこの街で響いて好いのは馬車の蹄の音と客引きの声、素人が練習するヨーデルまでだろう。そう言えば今年はやっていない。
「日本ではウィリアム・テル序曲ほど景気が良い曲はないよな」列車が駅を出発してからも私の頭はウィリアム・テル序曲から離れない。ウィリアム・テル序曲がスイスの軍隊の行進曲と言うのなら敗戦後はパチンコ屋の曲になっている海上自衛隊分列行進曲「軍艦」になるが、瀬戸口藤吉軍楽師の名曲は重々しくてとても「景気が良い」とは言えない。強いて言えば昔、愛知県の香嵐渓のジンギスカンのCMで流れていた中華風の曲も似たくらい景気が良いが曲名を知らない(映画「ファンシイダンス」で修行僧の珍来が替え歌を踊りつきで唄っていた)。
「そうねェ・・・私だったらカチャーシーかしら」「確かに。チャンカチャンカチャンカチャンカ・・・」今度はカチャーシーになってしまった。この曲が出ると自然に両手が上がり、関節がくねり始めてしまう。おまけに梢までシマンチュウとして条件反射した。車内は満員だが私たちの他に日本人はいないので、民族音楽と舞踊を鑑賞するような視線を浴びてしまった。
「本土の民謡でも手拍子で盛り上がれる歌があるから暗い曲が日本風って言うのは間違ってるよ」周囲の嘲笑に気づいて無理に結論を出したが、それは大山巌が「君が代」を国歌にしたことに代表される田舎者の下級武士が作った明治政府が犯した失策の1つなのは間違いない。
  1. 2021/01/14(木) 14:07:12|
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1月14日・神戸事件の余波・錦旗紛失事件

慶応4(1868)年の1月11日に備前藩主の行列の前を酒に酔ったイギリス艦の水兵が横切ったことから銃撃戦になり、イギリス、フランス、アメリカ、オランダ、イタリア艦の陸戦隊が占領していた神戸の中心部の三宮神社前を明日1月14日に何も知らずに通りがかった土佐藩士が錦の御旗を奪われる事件が発生しました。
錦の御旗は源頼朝公が奥州に侵攻した時に使用したのが最初とされ(吾妻鏡)、鎌倉幕府の追討計画を側近に密告されて御所を追われた後醍醐天皇が笠木山に立て籠もった際にも掲げましたが(太平記)、その後は足利将軍家が天皇の治罰綸旨(懲罰追討)の勅命を受けた官軍だけが使用を許される軍旗でした。ところが幕末の錦の旗(御旗ではない)は慶応3(1867)年1月に孝明天皇を毒殺して15歳の皇太子を思うままに操るようになった策謀公家の岩倉具視さんが故事に倣って発案し、島津藩士の大久保一蔵(利通)さんが西陣織で製作して毛利藩士の品川弥二郎が旗に仕立てた非公式な偽物でした。それでも慶応4(1868)年1月4日から始まった鳥羽伏見の戦いで使用すると大政奉還で「幕府=徳川家への忠義」と言う大義名分を失っていた旧幕府軍は天皇の16枚菊に発砲して朝敵になることを畏れて士気を喪失する絶大な効果を発揮したのです。
これを受けて四国で薩長土肥と公家に対する屈服を拒否していた枝胤の高松藩と伊予藩の松平家を追討する土佐藩に貸与するため土佐藩士の本山茂任さんが7人の従者を引き連れて神戸港に来ると三宮神社付近を占領していたフランス艦の水兵に誰何されて、言葉が通じずに混乱しているところを拘束されて、櫃に納めたまま旗を奪われました。これが明治以降の正式な軍旗であればその事実だけで自刃しなければなりませんが(乃木愚将は西南戦争で軍旗を奪われたことを殉死の理由にしている)、所詮は偽物なので冷静に対応していて、事件そのものの解決に向けた交渉の中で返還を求め、取り戻すことができたのです。それにしても地域限定とは言え武力抗争が発生している緊急情報が京都から現地に向かっている使者に伝達されなかった事情は全く理解できません。
その後、偽物の錦の旗は村田蔵六さんの作詞、品川弥二郎さんの作曲と言われる日本初の軍歌・行進曲「宮さん宮さん」でも「宮さん宮さん お馬の前に ヒラヒラするのは 何じゃいな トコトンヤレ トンヤレナ あれは朝敵征伐せよとの 錦の御旗じゃ知らないか それトコトンヤレ トンヤレナ」と唄われ、明治になってからは兵部省の管轄下に置かれた靖国の就遊館に収蔵されました。
日本陸軍では天皇から授与された軍旗だけでなく下士官・兵が携帯・使用する歩兵銃にも菊の紋章が刻印してあったため神聖視され、物品として取り扱うことができませんでした(将校の軍刀や拳銃は私物だった)。それに比べるとこの時代の方が冷静だったようです。
余談ながらこの失態を演じた本山さんは特に責任を問われることもなく廃藩置県後に松山藩主を東京に移動させた後には県名を旧藩士には愛着がある伊予から土佐との藩境の石鎚山に由来する石鉄(いしづち)県に変更し、後任として県参事に就任しました。これに旧藩士は藩主の移動阻止と新参事の就任反対を叫ぶ激しい暴動を起こしています。
  1. 2021/01/13(水) 14:05:34|
  2. 日記(暦)
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