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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

3月1日・暴力団対策法が施行された。

自民党が1955年以来維持してきた政権与党から転げ落ちる直前の1992年の明日3月1日に海部俊樹内閣が都市部の大手マスコミの受けを狙って成立させた「暴力団員による不当な行為等の防止に関する法律=略して暴対法」を宮沢喜一内閣が施行しました。
野僧の高校に大変な美貌(あの時代に広瀬すずさんと瓜二つだった)で抜群のスタイルの1年先輩がいましたが地元のヤクザ屋さんの組長の娘だったので他の男子生徒と同様に見惚れるだけでした。ところが1年の後期に生徒会の役員になると何と生徒会長の彼女だったので素晴らしい人間性に接する機会を得て親の躾に感服するようになりました。
自衛隊に入ってからも沖縄では任侠右翼の親分に可愛がられ、士官になると春日=博多や浜松で地元ヤクザの組長や幹部と親しくなりましたから任侠業界の実態とルールには一般人や普通の自衛官よりは精通しています(特に浜松ではサラ金の依頼で取り立てにきていた組員に同業の金バッチ同士で兄弟分にされていました)。
この法律では取り締まりの対象を明確にする必要から「その団体の構成員が集団的に又は常習的に暴力的不当行為等を行うことを助長するおそれがある団体をいう」と極めて抽象的でその分拡大解釈が容易な基準で任侠業界に網をかぶせました。
東京のマスコミが任侠業界に牙を剥いたのは昭和44(1969)年に報知新聞(読売のスポーツ紙)が日本シリーズで読売巨人を破った西鉄ライオンズの主力選手が「野球賭博のために八百長をやっていた」との疑惑を報じ、任侠業界が芸能やスポーツの興行を差配していた福岡の土地柄を「暴力団と癒着」と批判したことを実例として長年にわたり売春や賭博などの法律で禁止されても止められない快楽や欲望を満たす業界を取り仕切るヤクザ屋と共存してきた地方の実情を頭ごなしに悪と決めつけるのを常としており、この法律も政権転落目前の宮沢自民党内閣が支持をつなぎ止める数少ない禁じ手だったのでしょう。
この法律が成立して以降、警察庁のキャリア官僚が地方の道府県警察本部長に赴任すると自分の経歴を飾るためこの法律による徹底取り締まりを厳命し、現場としては長年にわたり法律では関与でない対立や抗争を仲介し、親も見放した非行少年を雇って任侠の躾で凶悪化を防ぐなどの貢献を損なうことを恐れて躊躇していると職務権限を発動して強行し、共存・信頼関係を破壊する実績を上げたところで東京を帰っていったのです。
このため任侠業界も警察を「裏切り者」として敵視するようになり、興行経営や飲食街の監督料、売春や賭博などの取り締まりが強化されたことで収入を失い、それ以前には堅気と一線を画していた不文律を破棄して一般人を薬物や売春(売る側=女)の対象にしただけでなく素人がこれらの業界に参入し(特に不法在留外国人)、非行少年が凶悪化しても押さえが効かなくなりました。
野僧は沖縄で自衛官を「憲法違反」「米軍の飼い犬」「戦争屋」と批判する報道に晒され、市役所の職員による差別を受けてきたため自衛隊と同様に「必要悪(=現代の日本的には)」であるヤクザ屋さんを職業で否定するこの法律には反対です。祖父は全身に刺青を入れていたと言われる小泉純一郎首相が廃止に動かなかったことが残念です。
  1. 2021/02/28(日) 13:58:57|
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振り向けばイエスタディ2200

「久しぶりの母国はどうでしたか」1月5日にオランダに帰り、時差ボケ解消のため6日も休みをもらい、7日の木曜日に出勤した私に今回の帰国でフィリピンの現地調査を命じたモレソウダ首席検察官はとぼけた挨拶をしてきた。
「沖縄では休養できましたが本土は精神的にかなり疲れました。順番を逆にすれば良かったのですがフィリピンに寄るには位置関係が逆ですから」私の説明に日本地図は頭に入っていないモレソウダ首席検察官は理解できたのか不明の曖昧な笑いを浮かべてうなずいた。
フィリピンで佳織と過ごした時間は前川原の幹部候補生学校時代が甦ったような心地よい緊張感があって自衛官として満足している。続いて梢と安里家の両親で淳之介一家の雲島に行ったのは本当に休養になった。しかし、愛知県での1泊2日は梢も疲れたようでアムステルダムへの旅客機の前に新幹線や成田までの東急エクスプレスの車内でも手を握って眠っていた。
「それでは土産話を聞かせて下さい」挨拶が終わるとモレソウダ首席検察官は目でソファーを勧め、自分は立ち上がってコーヒーを用意した。
「フィリピンのダバオ・デス・スクワットの活動の実態はどうでしたか」これでは土産話ではなく業務報告だが同席者がいないので良いのだろう。リミッド次席検察官はベルギーで始まった2014年5月24日にブリュッセルのユダヤ博物館で自動小銃を乱射してイスラエル人の観光客と案内していた学芸員と職員を射殺したアルジェリア系フランス人の犯人の裁判を検証するため帰国していない。この裁判では起訴容疑を国内刑法の「殺人」から「テロ」に変更していて国際刑事裁判所の検察部としても大いに注目している。
「今回はダバオ市のズテルデ市長の全面協力を得て実態を視察できましたが・・・」「大統領候補に会えましたか」私の答えにモレソウダ首席検察官の目が大きく見開かれて奈良の大佛が瞑想を止めたような顔になった。
「はい、在フィリピン日本大使館の駐在武官(=防衛駐在官)の紹介で会うことができました」「なるほど。貴重な人脈ですね」モレソウダ首席検察官もその駐在武官がモリヤ佳織1佐であることは知っているので深入りはしなかった。
「さらにダバオ市警察署の署長とも面会して治安上の成果の説明も受けましたが、デス・スクワットが活動を開始する前は不衛生で昼夜の別なく麻薬の売人と売春婦がうろつく人間が住む場所ではなかったダバオが、今では夜の街を歩いていても全く危険を感じない平穏な都市に変貌しています。世界で最も治安が良い1000万都市と言われる東京の繁華街の裏通りよりも安心でしたよ」私の説明にモレソウダ首席検察官は興味深そうにうなずきながら大きなマグカップに並々と注いできた甘くて濃いコーヒーを口にした。
「さらにデス・スクワットの待機所も見学しましたが、参加している市民たちは殺人者と言う凶悪性は感じられず、むしろ治安の維持に対する強い使命感が伝わってきました。3人の若者を殺害した私の方が危険人物でしたね」「それは感じませんよ」最後の比喩が謙遜であることをモレソウダ首席検察官も理解してくれたようだ。デス・スクワットの待機所内で日本人の痕跡を発見したことは公式に確認していないので伏せておいた。
「ズテルデ市長の意向としてはコラリー・アキノ政権とグロリア・アロヨ政権が廃止した麻薬密売人に対する死刑を復活させれば市民による自衛処置であるデス・スクワットの活動を停止しても良いとのことです」「死刑の復活は人権団体が許さないわね」私の結論の報告にもモレソウダ首席検察官は険しい表情を崩さない。
「ヨーロッパの人権団体が何を言っても刑罰は国家固有の司法権ですから死刑を復活させることで非公式な市民組織による自衛処置殺傷が停止できれば結構なことではないですか」「それで収まらないことは判ってるのでしょう」私の正論に口の中が苦くなったのかモレソウダ首席検察官はマグカップの甘いコーヒーを多めに飲んだ。
「そもそもこの問題を国際刑事裁判所に提訴する自体が内政干渉、司法権に対する不当な介入です。本来であれば麻薬の取り引きは昔から国際犯罪ですから国際法で禁止するべきでしょう。そうすれば麻薬常習者を犯罪被害者にしておきながら製造者や密売人に死刑を科している東アジア諸国を批判している人権団体の自己欺瞞も明らかになります」「それをモリヤ検察官が国際連合に提案できれば良いのだけど」最後は皮肉で切り捨てられた。
「しかし、ヨーロッパでも死刑が適用できないテロリストを警察が銃撃によって殺害しています。ダバオ市警察の署長もデス・サミットの麻薬撲滅作戦を警察が引き継げば問題ないのかと言っていました。人権団体が提訴した時にはこの点を指摘すれば封じることができるのではないでしょうか」「テロは戦争犯罪と言う2人の持論ね」私とリミッド次席検察官は「テロは国内法ではなく戦争法=武力紛争関係法で取り締まるべきだ」で珍しく意見が一致しているのだ。
  1. 2021/02/28(日) 13:57:33|
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2月28日・吉田茂首相の「バカヤロー」解散

昭和28(1953)年の明日2月28日に吉田茂首相の数多くの逸話の中でもおそらく最も有名な「バカヤロー」解散の原因となった「呟き」と押し問答が起こりました。
野僧はこの時の国会中継の録音を持っていました(実家を改築する時に無断で捨てられた)。文字で「バカヤロー」解散と記述すると大きな怒声を浴びせ、激しい罵り合いになったたようですが、実際は吉田首相が答弁を終えて席に戻り、独り言で「馬鹿野郎」と呟いたのをマイクが拾って議場に流れたため、質問中の社会党右派の西村栄一議員が聞き咎めて冷静な口調で抗議すると吉田首相も誠実に陳謝して収まっていました。
事態の伏線としてはこの国会中に吉田内閣の池田隼人通産大臣がこれも有名な「中小企業の一部倒産もやむを得ない」「所得の多い人は米を、所得の少ない方は麦を喰うと言うような経済原則に沿った方に持っていきたい=貧乏人は麦を喰え」などの失言=暴言=名言を続発させたため野党が通産大臣の不信任案を提出して可決されて苛立っていたことがあります。この時も戦前から対立していた西村議員(吉田首相が戦争回避派で社会党の西村議員が軍部に同調していた)の執拗な質問に堪忍袋の緒が切れずに緩んだようです。
議事の内容としては西村議員が吉田首相の施政方針演説で「国際情勢は楽観するべきである」と述べたことの根拠を訊ね、これに「イギリスの首相とアメリカの大統領の発言を紹介し、私もそう信じている」と答えたため、「私は日本国総理大臣に国際情勢の見通しを承っている。イギリスの首相の翻訳を聞いているのではない」とやり返し、それに吉田首相が怒気を含んで「只今の私の答弁は日本国の総理大臣として答弁した」と反論したため「あまり興奮しない方がよろしい」と皮肉を込めて諌めたことで「無礼なことを言うな」「何が無礼だ」の押し問答になったのです。
この押し問答の最中に席に戻った吉田首相が「馬鹿野郎」と呟いた声が議場に流れ、質問中だった西村議員が「何がバカヤローだ。バカヤローとは何事だ。これを取り消さない限り、私はお訊きしない。取り消しなさい」と迫り、吉田首相は歩み寄った岡崎勝男外務大臣と言葉を交わした後、「私の発言は不穏当でありましたからハッキリ取り消します」と応じ、社会党の議員も「齢70過ぎて一国の総理大臣足る者が取り消された上から私は追及しません」と矛を収めたはずですが、これを吉田首相の追い落としに利用しようとした与党・自由党の非主流派の鳩山一郎さん(後の首相・由紀夫首相の祖父)や三木武吉さんが社会党右派と結託して懲罰委員会に付託する動議を提出させ、この動議が吉田内閣の曹洞宗の僧侶の広川弘禅農林大臣の裏切りもあって可決したため3月14日に解散に踏み切ったのです。この衆議院選挙では与党・自由党が吉田首相の主流派と鳩山さんの非主流派に分裂し、4月19日の投票の結果、主流派は205議席から199議席の少数与党になったためワンマンと呼ばれた吉田首相の求心力は急速に低下して昭和29(1954)年の造船疑惑を受けての退陣につながりました。
「バカヤロー」解散の実態は極めて姑息・陰湿・功利的で戦後最大の総理大臣である吉田首相が退陣に追い込まれた理由としては許し難い気がします。
  1. 2021/02/27(土) 12:08:08|
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振り向けばイエスタディ2199

帰宅して少し雑談を楽しんだ後、雄馬と雅代夫婦の車で新幹線に乗る豊橋駅に送ってもらった。例年、正月3ヶ日の豊川(とよかわ)市内は稲荷への初詣の客で混んでいるため豊川(とよがわ)の堤防で豊橋駅に向かうことにした。
「怒らないで聞いてくれますか」私が本宮山と同様に大嫌いな豊川から目を反らしていると雄馬が声をかけてきた。ルーム・ミラーで視線が合ったが目は真剣だった。
「伯父さんは愛大を中退して自衛隊に入ったじゃあないですか。祖父さんはいまだに『馬鹿だ』『親不孝者だ』って言ってますけど俺が見ても『勿体ない』って思います」「ワシは中学校の社会の授業で日本の産業が輸出入で成り立っていることを習って海上交通路の防衛のために海上自衛隊に入ろうと決意したんだ。ところが親父に自衛隊生徒の合格通知を破り捨てられてからは次第に近くに基地がない海上自衛隊に入れば就職家出できるって考えるようになった。ところが5回も2次試験で落ちたから最後に航空ならって受けたら合格したんだよ」「愛知大学が豊橋にあったから嫌になったの。遠くの大学の法学部なら卒業したはずよ」「それもワシが高校3年の時に家の改築をして貯金を使い果たした上にお前の母親が私立高校に進学したから自宅から通える愛知大学以外の私立大学には行けなくなったんだ」ルーム・ミラーの雄馬は私と梢の説明で長年の疑問が解消していくような顔になっている。しかし、今は同居している雅代にこれ以上、モリヤ家の異常性を聞かせるのは控えるべきかも知れない。
「もう1つ、伯父さんは沖縄に行ってすぐに梢さんと知り合ったんでしょう。それなのに淳之介を生んだ人と結婚した。その後、志織のお母さんとも結婚した。そして今はオランダで梢さんと暮らしてる。どうして最初から梢さんと結婚しなかったの。反対されたって沖縄なんだから関係ないじゃん」これは極めて拙い質問だ。正直に語れば雅代は愛想を尽かしかねない。
「お前さんたちはどうして知り合ったんだ」「俺は雅代が住んでいるアパートの下を通る度に胸がドキドキするから不思議に思っていたらベランダで洗濯物を干しているのを見て運命の人だってビビッて来たんだ」「私もビビッてきました」はぐらかすための質問で意外過ぎる慣れ染めを聞くことができた。これを利用しない手はない。
「ワシたちもビビッと言うよりもバチッて来たんだ。実際、運命の人だったんだがそんな相手を比吉が許さなかった。祖父さんは比吉に絶対服従だから沖縄にまで電話や手紙で『別れろ』と言ってきて、それでワシが悩み苦しんでいるのを見て梢が身を引いてしまったんだ」「あのままではこの人は自分で命を絶ってしまうって思ったのよ」「淳之介を生んだ女は強引な押し掛け女房だった。佳織は幹部候補生の同期で向うが惚れてくれたんだ」「ウチでは伯父さんみたいな堅物は絶対にモテないって決めつけてるけど逆なんだね」「生徒会長がモテない訳がないだろう」取りあえず比吉の伯父を悪者にして説明を終えた。それにしてもモリヤ家では小学生以来、中学校の3年間を除けば(それでも2回告白された)彼女が途絶えたことがない息子が「モテない」と思い込んだままらしい。
「伯父さんは金龍で俺の先祖の話をしてたけど詳しいの」「曾祖父さんも雄馬には先祖なのか」「だって会ったことないじゃん」今の若者の人間関係の分類基準に呆れてしまった。同世代の淳之介は先祖が生きているかのように身近に感じて暮らしている沖縄で育ったので真逆の感覚のはずだ。何にしても信仰心がない家で育てばこのようなものだ。
「ワシは高校時代から『どうしてモリヤ家はここまで腐っているのか』で悩んで研究していたから詳しいぞ。雄馬は跡取りになる可能性が高いから教えておこう」これも雅代に聞かせては、拙い内容だが、幸い雄馬は義弟の近野姓を名乗っているので影響が限定される。
「新城でも比吉は遠江や信濃と三河の裏街道だったから合戦で敗れた落ち武者が逃げるのに通ったんだ。ところが比吉で足跡を絶った武将が少なくない。つまり親父が言うとおりモリヤ家が比吉の村長(むらおさ)だったら落ち武者刈りしていたことになる。おまけに比吉の庄屋は年貢を納められない小作人の女房を妾にしたから夜逃げが頻発したそうだ。あの家が没落したのは祟りだな」流石に前席の雄馬と雅代は黙ってしまった。
「祖父さんの祖父さんも生まれて死ぬまで土地を売った金で廓通いしていたから貧乏のどん底、そこに見込まれて婿養子に入ったのが山形から中部電力に就職していた祖父さんの父親の永之進さんだ。山形の庄司家は庄屋じゃあないが村の代表で藩や他の村との交渉に当たるような非常に優秀な家系で、訪ねて感激したよ」私としてはここで雄馬に安堵してもらいたいのだが、あまり想像力が働く方ではないらしく特に反応はなかった。
「祖母さんのオイベ家は新居の関所の足軽頭で・・・」結局、豊橋駅に着くまで私と妹で合流した4つの血統の特別講座になったが、これで帰った意義ができた。
  1. 2021/02/27(土) 12:06:33|
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振り向けばイエスタディ2198

寺への墓参を終えて実家に戻り、両親と妹に仕事から帰っていた義弟とサッカーの練習を終えてきた雄馬と聡馬を加えた8人で近所の中華料理店・金龍で昼食になった。
「これが最後の晩餐・・・昼餉かァ」金龍は実家から徒歩で5分の距離だが、何も知らずに先を歩いていく両親の後ろ姿を見ながら私は小さく呟いた。妹には車内で「これが最後でもう帰ってこない」と告げたが、関心は遺産に向いていたので真意が伝わっていない可能性が高い。
「貴方が一宮の実家から出たいって思ったのは理解できるわ」感慨に耽っている私に梢が声をかけた。これは意外なほど冷淡な認識と評価だった。
「貴方は岡崎で広い地平線を見ながら伸び伸びと育ったのにこんな閉鎖的な土地に連れて来られては窒息してしまうわよね。それで海が見える蒲郡高校に逃れた。沖縄では半島も目に入らない海を満喫していたんでしょう」梢は両親との別れの宴になる昼食で後味を悪くさせないために前もって私の気持ちを代弁してくれたようだ。私は黙って手を握った。
「雅代、間に合ったか」「うん」金龍に着くと店内で若い女性が待っていた。雄馬が親しげに声をかけたところを見ると彼女かも知れない。ところがその上の存在だった。
「伯父さん、俺の嫁の雅代だよ」「雅代です。はじめまして」「嫁ってお前・・・」これでは叔父の死に続いて甥の結婚まで慶弔の連絡がなかったことになる。失礼を承知で全身を注視すると背は低く、体型は厚着なので判らないが、顔立ちには素朴な可愛らしさがある。
その時、女将のような貫禄がある中年の女性が声をかけて奥の座敷に案内された。畳の部屋には合わない赤い丸テーブルを囲んで座り、先に持ってきてもらったビールで男4人と梢で乾杯したところで私が雄馬と雅代に質問した。
「何時結婚したんだ」「去年の」「もう一昨年だよ」「一昨年の秋だよ」雄馬・雅代夫婦の呼吸は中々絶妙だ。一昨年であれば私はオランダに赴任していた。東三河では結婚式の招待者の往復の交通費を婚家が支払うのが常識なのでオランダからの往復では「招待されなくても仕方ない」と納得するべきだろう。逆に新婚旅行で呼んでやりたかった。
「淳之介は呼んだのか」「結婚式はアイツと同じでハワイでやったから無理って断られた」淳之介は婚家が交通費を払ってくれる常識を知らなかったのではないだろうか。この家では東三河の常識は全国共通と思い込んで丁寧に説明しないことが多いのだ。
「ハワイなら志織は」「志織はハワイにいるの」考えてみれば志織がハワイのノザキ家で暮らしていたことは知らせていなかった。これは私の責任だ。
「ハワイ大学を卒業してアメリカ海軍のパイロットになったぞ」「アメリカ海軍の」「パイロットなの」「凄ーい」この話題には志織の従兄妹と義従姉に当たる若者3人だけが反応した。すると父親が見覚えがある表情を浮かべて口を挟んできた。
「アメリカ海軍の飛行機乗りでは戦争に巻き込まれて戦死してしまうぞ。お前たち夫婦は・・・正妻の方だぞ。娘が危険な職業に就くことに反対しなかったのか」案の定の台詞だったが、今回は苛烈な援護射撃が加わった。
「自衛隊だって加倍が戦争法を作ったから同じだらあ」「任人の時、お父さんが反対したのは正しかったんだよ」「比吉の兄貴のおかげだ」モリヤ家の親子3人の的を外した連続射撃を義弟は困ったように静観し、切っ掛けを作ってしまった若者たちは小声でささやき合った。
「ワシは本来、今年の誕生日で定年なんだが憲兵士官(=警務幹部)に職種を替えて60歳まで延長した。憲兵は祖父さんの永之進さんが出征した時の兵科だから跡を継いだようで喜んでいる。敏秋和尚の養父の青山寛少将は歩兵だったからこちらも経験できた」私の反論に父親は困惑したように考え込んでから口を開いた。
「親父が憲兵だったなんて聞いたことがないぞ」「山形の永(ながし)さんに聞いたから間違いない」「憲兵って悪者じゃない」ここで母親が飛んで火に入る冬の虫になった。
「あれは戦後の映画やドラマが歪曲した虚偽の史実だ。思想弾圧したのは特高警察で、憲兵は法律を厳格に守って前線でも血気にはやる現場部隊の暴走を取り締まっていたんだ。兵隊から憲兵になるには品行方正、頭脳明晰、身体堅固な模範兵だったはずだから永之進祖父さんは優秀な人物だったんだろう」「堅物の親父だったのは間違いないな」「そんな優秀な親の息子の割にアンタたちは・・・だから胃癌で死んでしまったんだな。豊田から養子に入った敏秋和尚も胃潰瘍で死にかけたから他所の土地で育った優秀な人間はここには住めないんだ」ここまで徹底的に反撃すると流石のモリヤ家3人衆もうつむいて黙った。
「そんな訳で東三河の居心地が良い家族で、末永く幸せに暮らして下さい」私の永訣の辞を待っていたかのように料理が運ばれてきて全員が無口になって頬張り始めた。
  1. 2021/02/26(金) 13:11:51|
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2月26日・幕末の関東・上州の大親分・大前田英五郎の命日

明治7(1874)年の明日2月26日は「赤木の山も今宵限り」の国定忠治さんよりも18歳年上の兄貴分=後見人で大場久八さん、丹波屋伝兵衛さんと共に「上州三親分」、江戸町火消し「を」組の新門辰五郎さん、江戸屋虎五郎さんと共に「関東の三五郎」と呼ばれ、戦後間もない頃の髷を結って匕首(ドス)で斬り合った主人公の任侠映画(東映ヤクザ映画ではない)で脚光を浴びた大親分・大前田英五郎さんの命日です。
大前田さんは寛政5(1793)年に現在の群馬県前橋市大前田町の代々名主を務めている田島家で生まれましたが、父は博打打ちになっていて兄弟揃ってその後を追ってしまいました。大前田さんは幼い頃から「火の玉小僧」と仇名される暴れ者で、成長すると背が頭抜けて高く、怪力無双の巨漢だったため13歳で公儀FBI(=水戸領を除く天領と藩領を区別なく通行して逮捕できた)である関東取締出役の道案内を務めていた侠客の子分になっています。ところが15歳の時、父の縄張りで賭場を開いた現在の埼玉県本庄市仁手の侠客を父の配下と襲撃したところ別の人物を殺害してしまい2人で尾張まで逃亡しました。さらに尾張では賭博での勝ち=貸し50両を胴元の庄屋の屋敷に取り立てに行くと庄屋の妻が支払いを拒否したため殺害し、庄屋も殺害して箱根方面まで逃亡しました。すると尾張藩は迅速に追手を差し向けて2人は進退窮まったのですが、尾張藩が公儀=幕府に送った銀箱が箱根付近で奪われた事件を知って独自に捜査しました。そして強盗をつき止めて切った上で銀箱を届けると尾張での罪は免除された上で賞金を与えられたのです。これ以降、大前田さんは罪を犯すと尾張に逃亡するようになりました。
そんな大前田さんも賭博の罪で佐渡の金山に島流しになったことがありましたが、人足の仲間と櫓や櫂、舵もない小舟を奪って手で海面を掻きながら本州に渡り、島抜け=脱走に成功したと言われています。島抜けした後は下野国で侠客の一家を構えますが、やがて生まれ故郷の上野国に戻り、またたく間に縄張りを広げて前述の「上州三親分」に数えられるようになりました。大前田さんの組織の経営方法は独特で自分を慕って諸国から集まってくる侠客を縄張りに配置して経営を任せ、その上納金を集めることで堅気の庶民からのショバ代を軽くして絶大な支持を獲得したのです。現代なら大前田任侠チェーンと言うところでしょうか。
一方、上州で一世を風靡した侠客の国定さんが中風(脳卒中)で半身不随になったことを知った大前田さんは「中風は不治の病で医者や薬も効果がない」と自死を勧める手紙を送りましたが実行することなく捕縛され、関所破りの罪で磔になったのです。
そうして明治2(1869)年3月に天皇が江戸へ出て来て帰らなくなり(=東京の首都化)、明治5(187)年10月には群馬県に富岡製糸工場が開設したのを見届けた明治7(1874)年に生まれ故郷の大前田で82歳で亡くなりました。明治26(1893)年に亡くなった清水の次郎長さんでも73歳ですから任侠界では異例の長命です。
辞世は「あらうれし 行きさき知れぬ死出の旅」で、大前田にある先祖代々、親兄弟と一緒に埋葬されている田島家の墓所の墓碑に刻まれているそうです。
  1. 2021/02/25(木) 12:48:56|
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振り向けばイエスタディ2197

翌朝は寝坊してしまった。昨夜、母親が私は2階の箪笥部屋、梢は1階の客間に布団を敷いていたのだが、私が掛け布団と毛布を運んで2階の私の布団で眠ったのだ。そのため下での物音に気づかず夜勤を終えて帰った妹に起こされる羽目になった。
「兄貴、朝から姦ってないだろうね」「梢さん、はじめまして。妹のチャコです」相変らず豪快に襖を開けた妹は布団で抱き合って寝ている私たちに一方的にまくし立てた。妹は岡崎の保育園ではテレビ・ドラマの「チャコちゃん」の四方晴美に似ていると言われていて高校に進学してから自称するようになった(一宮町の小中学校では苛められたため自粛していた)。しかし、沖縄ではチャコちゃんシリーズは放送してなかったから梢は知らない。
「今日は東上へ祖父ちゃんと叔父さんの墓参りに行くんだらあ。乗せてってあげるから起きてご飯を食べん」「叔父さんの墓参りって何だ」「叔父さんは4年前の5月に死んだじゃん」4年前の5月であれば私は東京の陸上幕僚監部で勤務していた。例え実家と絶縁状態であっても連絡を受ければ祖父=師僧亡き後の法脈として葬儀に駆けつけたはずだ。これも祖父の時と同様に絶縁を親不幸と断罪するウチの親らしい報復だ。
「それなら起きんといかんな」「はい、貴方」2人で一緒に起き上がると妹は上下ともスウェットを着ている=姦っていないことを確認して自分の部屋へ歩いていった。
「おはよう。ユックリだったね。アンタらの好みが判らんから朝ご飯は梢さんに作ってもらいん。冷蔵庫の材料は使って良いよ」着替えて1階の台所に下りるとリビングでテレビを見ていた母親が声をかけた。その口調が妙に嫌味っぽいのは昨夜の批判を根に持っているのだろう。
「貴方は納豆で良いの」「ここのは市販品だろう。目玉焼きでも作ってくれ」母親の許可が出て梢が冷蔵庫を確認しながら相談を始めるとイキナリ割り込んできた。
「市販品ってオランダで納豆を作ってるの」「納豆と豆腐と味噌の大豆の加工品は梢が自分で作ってるよ。鰹節も自家製だ」「味噌も自家製だったら色が違うだらあ」「味もな」母親の確認を聞いて梢が鍋の蓋を開けると八丁味噌の赤黒い汁に豆腐と油揚げが浮いていた。
「卵を2つ、いただきます。それからフライパンを使わせてもらいます」「はい、どうぞ」梢の主婦としての優秀さを知って母親の口調が急に変った。目つきから敵意も消えたようだ。
「寝不足で運転して大丈夫か」「夜勤って言っても病院じゃあないから徘徊に気をつければソファーで寝られるんだよ」朝食を終えると妹の赤い車で中学生の時に小坊主をやった祖父の寺に向かったが、案の定、妹は再び一方的に話し始めた。
「お母さんが比吉の伯母さんに『兄貴が帰って来る』って言ったら、『それは親が死ぬ前に遺産を押さえに来るに違いないって』って言われて信じてるんだよ。『兄貴は弁護士だから勝てん』って悩んでたんだ」母親が比吉の兄嫁=伯母に盲従している人間関係が不変であることを聞かされて、その悪魔の血縁に引き裂かれた私たちの気持ちは絶望的になった。
「ワシはこれが最後でもう帰ってこないから遺産はお前がもらえよ」「そんな簡単に決めちゃあいかんよ。梢さんや佳織さんの意見だって訊かんといかんだらあ」「どっちも愛知県と縁が切れることは歓迎だよ」遺産分けとなれば長男の権利を強硬に主張するはずの美恵子とは完全に縁が切れているので気にしないで良いが、淳之介には私に代わる取り分があるかも知れない。
「ところで勝臣(しょうしん)和尚は病気だったのか」「勝臣(かつおみ)叔父さんは難しい骨髄の病気で2週間くらいの入院で死んじゃったんだよ。先生を定年してやっと本物の坊さんになれるって張り切っていたんだけど・・・」妹の説明で叔父の顔が浮かんだ。叔父は子供の頃から理数系が抜群で技術者志望だったのを檀家の意向で跡取りとして地元の高校の数学の教師になったため内心では反発を鬱積させていて反抗的な言動は同じ祖父の弟子としては我慢ならない点もあった。しかし、子供が親の都合で描いている志望を否定される苦悩を長姉である母親に説いてくれたのも叔父だった。
「妙法蓮華経如来神力品偈、諸佛救世者 住於大神通 為悦衆生故 現無量神通・・・」墓苑の裏山にある歴代住職の墓所で真新しい叔父の卵塔(楕円形の僧侶の墓石)とその隣りの祖父の卵塔の間で私は曹洞宗の高祖・道元が死ぬ前に唱えたと言う妙法蓮華経如来神力品の末尾にある偈文を唱えた。墓参の前に挨拶を兼ねて引鐘(いんきん=携帯用の鐘)と100円ライターを借り、線香を分けてもらうために庫裏に寄ると出てきた叔父の妻の美恵子さんから「また嫁さんが違うね。沖縄の人ならこちらが美恵子さん」と言われて気分が悪くなったが、祖父の苦笑と叔父の困った顔が浮かんで心穏やかに勤経することができた。
「やっと自分の幸せを掴んだぞ」「お祖父さん、お会いしたかったです」私と梢が手を合わせながら口にした言葉を後ろで聞いた妹は何故か鼻をすすった。この感情移入も相変らずだ。
チャコちゃん(四方晴美)チャコちゃん(四方晴美)
  1. 2021/02/25(木) 12:46:39|
  2. 夜の連続小説8
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2月25日・今治サッカーボール裁判の事故が発生した。

2004年の明日2月25日に愛媛県今治市の小学生が校庭でサッカーのゴール・キックの練習をしていて外に蹴り出したボールを避けようとして原付バイクを運転していた85歳の男性が転倒する事故が発生しました。男性は左脛骨と左腓骨を骨折して入院しましたが、自宅療養中の2005年7月10日に誤嚥性肺炎で死亡すると遺族が損害賠償を請求する裁判を起こしたのです。
子供たちが球技をやっている校庭を通る時にはボールが飛び出すのを予想して注意しながら通行するのが運転上の常識であり、それができない高齢者に原付バイクを運転させていた家族こそ監督責任を問われるべきでしょう。さらに自宅療養中の誤嚥性肺炎が死因であれば事故による骨折で身体が不自由になったことが直接の原因とは言えないはずです。ところが原告側の弁護士はこの事故が民法712条の「未成年者は他人に損害を加えた場合において自己の責任を弁識するに足りる知能を備えていなかった時はその行為の賠償の責任を負わない」に該当することを認めた上で714条の「責任無能力者がその責任を負わない場合において、その責任無能力者を監督する法定の義務を負う者は、その責任無能力者が第3者に加えた損害を賠償する責任を負う。ただし、その監督義務者が義務を怠らなかった時、または義務を怠らなくても損害が生ずべきであった時はこの限りではない」の「責任無能力者の法定の義務を負う者」である親(小学校ではない)の「損害を賠償する責任」を争点に裁判を展開し、前例のない公判に準備不足だった親側の弁護士を追い詰め、1審の大阪地方裁判所と2審の大阪高等裁判所は1000万円以上の賠償金の支払いを命じる原告側勝訴の判決を下しました。この賠償額についても85歳の高齢者の収入と余命から計算される金額としては不当に高額です。
幸いなことに最高裁判所は2015年4月9日に「サッカーのフリー・キックの練習は殊更に人を危険に晒す行為ではなく、ボールが校庭の外に飛び出すことは必ずしも予見はできなかった」と認定し、「親が24時間付き添って監督することは不可能である」「親は家庭で安全に関する常識的な指導を行っていた」として1審、2審の判決を棄却して原告敗訴の判決を下しました。
原告になった遺族がどのような経緯でこの弁護士を雇い、何を狙って裁判を起こしたのかは明らかになっていませんが、事故後、両親に付き添われて入院している病院に見舞いに訪れた少年に男性が「気にしなくても良い。気をつけて元気に遊びなさい」と励ましたと言う逸話が伝わっていることから考えると平成になって横行するようになった弁護士がマスコミを使って被害者への同情と加害者を非難する市民感情を扇動し(民事訴訟なので世論ではない)、高額の賠償金=弁護料をせしめる金銭目的の訴訟の強烈な悪臭がします。
アメリカは建国以来、市民が互いに正義を主張して譲らず裁判で公正に可否を決する訴訟社会と呼ばれてきましたが、現在は裁判が素人の陪審員による評決制のため弁護士の腕次第で常識では考えられない明らかに事実誤認の判決が下るようになっています。日本でも地方裁判所・高等裁判所まではその土壌が出来上がっているようです。
  1. 2021/02/24(水) 10:56:27|
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振り向けばイエスタディ2196

「これはこの人が作ったのか」夕食の支度が終わって父親が呼ばれると6人掛けの長テーブルの中央の妹夫婦の席に私たちが座った。テーブルには昔から変わらない母親の手料理が並んでいるが、父親は名前を覚えられなかった梢に視線を向けながら確認した。父親の唇には沖縄で買ってきた土産の黒糖の粉がついている。大好物だけで早速削って食べたようだ。
「ううん、私だよ」「そうか・・・」「梢さんが手伝うって言ったのをお祖母ちゃんが断ったんじゃあないか」母親の否定に父親は納得したが雄馬が事情を補足した。雄馬と聡馬はハワイで会った梢に好意を抱いてくれているらしい。当然、父親と母親は気まずそうに顔を見合わせた。
「取りあえず久しぶりに帰ってきたんだ。ビールで乾杯しよう」気を取り直した父親の音頭で母親がキリンの缶ビールとグラスが男4人に配ったが、私がもう1つ要求して梢に渡した。
「この人」「梢だ」「梢さんはビールを飲むの」「成人してるんだから問題ないだろう」1本のビールを2人で注ぎ合っていると母親が嫌悪感をアカラサマにして質問してきた。モリヤ家では母親と妹は酒を飲まないので女性の飲酒は非常識なのだ。
「沖縄のスナックで知り合ったのは梢さんだったね」「違う。梢は空港の旅行社で勤めていたんだ」父親が乾杯の音頭を取ろうとグラスを掲げているのに母親が間違った記憶を持ち出して喧嘩を売ったため待たすことになった。昔なら激怒したはずだが今は大人しく待っているのは立場が弱くなったのか気力が萎えたからなのかは判らない。
「乾杯」「チアーズ」「それって英語、教えて」父親の発声に私と梢が英語で唱和すると聡馬が興味を示した。聡馬はノンビリした性格なので子供の頃から「少し足らない」と言われていたが、先ほどのオランダ代表の知識を見ても興味を持ったことを調べる好奇心は強いようだ。要するに私にとっての祖父のような疑問に答える人間が傍にいなかったのだ。
「英語で乾杯はチアーズだ。言ってみろ」「チアーズ」「それではTの発音だ。CHだから唇を・・・」いきなり英語の授業になると父親と母親は不快そうに無視して食事を始めた。
「お前は梢さんと佳織の二股をかけているようだが、これからどうするつもりなんだ」食事を終えて雄馬と聡馬が自分の部屋に行くと少し酔った父親が毎度の肩が凝る口調で大上段から質問してきた。何時もは台所に逃れて聴き耳だけを立てている母親も今回は同席している。
「どうするもこうするもない。このまま運命に任せて流されていくだけだ。多分、梢に最期を看取ってもらうことになるだろう」「籍も入れない愛人が死ぬまで一緒に暮らしてくれるはずがないじゃない」今夜は母親もムキになって反論してくる。母親にとって梢は佳織を追いやって昔の関係を復活させた女の敵の愛人であり、息子を堕落させた悪女になるらしい。
「梢を籍も入れない愛人にしたのは誰だ。アンタらが無理やり引き裂いたんだろう」「そんな古い話を今更持ち出してシツコイ」「そんな恨み事は聞きたくない」私の一言に両親は共同で反撃した。そんな親子の対話に30数年前に若い私が実家で味わっていた怒りと苦しみを確認した梢は静かな口調で質問した。
「1つ教えて下さい。あの時、私の何が気に入らなくて交際に反対されたんですか。お会いしたことはなかったはずですが」「・・・」梢の鋭すぎる質問に両親は絶句した。息子でさえ父親を論破することが許されないモリヤ家では母親や妹=女が追求することは有り得ない。
「比吉が・・・」「比吉の伯父さんが反対したのよ」「比吉も会ったことないだろう」「沖縄は日本じゃあないから」「昭和47年5月15日に本土復帰しているぞ」追及は私が交代した。梢が歓迎されていないことは判っているが、これは私も長年胸に溜めてきた怒りでもある。
「お父さんは認知症なの。あまり追い詰めないで」黙り込んでいる父親の目が潤み始めた時、母親がすがるように告白した。先ほどから父親の回答が前にも増して外れていることには気づいていたがこれで納得できた。
「遠からず閻魔大王の前で生前の罪を裁かれるんだ。自分が犯した罪を自覚していれば地獄に堕とされても文句はないだろう」「どうして俺が地獄に堕ちるんだ」「息子の人生を散々に踏みじったんだ。それは殺生の大罪だ」この引導に父親は真剣に怯えた顔になった。こうなると蜘蛛の糸くらいは垂らしてやらなければならない。
「妙隆寺に行った時に閻魔さんに手を合わせて『反省しています。許して下さい』と願うことだ。佛教では罪を悔いた者は許されるはずだ」「閻魔さんにだな。本尊は良いのか」「本尊さんも見かけた石地蔵さんにも手を合わせるのは当然だ。信仰心がなければ救いはないよ」この父親の反応は認知症ではなく信仰心の欠落で昔から変わらない。最後に優しさを見せたことで母親も安心したような顔をしたが、私に言わせれば寺の娘の癖に信仰心を持たず、宗教嫌いの夫と比吉の実家に同調しているこちらの方が罪は深い。
  1. 2021/02/24(水) 10:54:43|
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振り向けばイエスタディ2195

「三河一宮に着いたよ」「判っちゃいるけど身体が拒否しているんだ」地獄に堕ちる下り坂のトンネルのような飯田線で現世の三悪道=三河一宮駅に到着したのだが、私は高校時代と同じく身体が座席から立ち上がることを拒否していた。年頭の飯田線は豊川稲荷への初詣の客で豊川駅まで満員だが、そこから先は参拝を終えた新城方面の帰宅者になるから次の三河一宮駅までの5分間に空いた座席に腰を下ろしたのが運の尽きだった。
「早く歩いてよ。案内してもらわないと判らないんだから」梢に引き摺られて三河一宮駅で下りても私の帰宅拒否は強まる一方だ。このまま違う場所に連れていって野宿したいところだが、本土の真冬で一夜を過ごす自信はない。仕方ないので嫌々渋々モリヤ家へ向かうことにした。傾いた日に照らされて影になっている本宮山が巨大な魔物に見える。「一歩でも遠く」と言う条件で進学した蒲郡高校からは本宮山が見えず別世界を満喫できたが、愛知大学からは魔物の全景が見え、それだけでも通学意欲は消滅した。
「トロイッ、その格好は何だ」十数年ぶりに家の門に入ると庭の隅で植え木の手入れをしていた父親がいきなり罵声を浴びせた。梢は驚いて握っている手に力を込めた。それにしても父親の口癖に近い「トロイッ」と言う罵声が妙に懐かしい。
「公務出張のついでの帰国だからこの服しか持っていないんだ。戦場を視察するにはこれしかないだろう。スーツなんか着ていれば狙い撃ちで戦死だぞ」私の反論に父親は黙って作業の続きを始めた。これが高校時代であれば「親に反抗する者は人間のクズだ」と論破すること自体を叱責したのだが流石にそれは控えたらしい。
「お父さん、任人が帰ってきたの」今度は玄関を開けて母親が顔を出した。すると梢は手を放して私よりも1歩下がった位置でうつむき加減に立った。
「はい、お邪魔しました。お元気そうで何よりです。土産は送ったと思いますが届きましたか」私は20年ぶりの再会にも感情を交えず、台本を朗読するように挨拶した。すると母親は小さな目で品定めするような視線を梢に向けた。
「そちらの人は」「オランダで一緒に暮らしている梢だ」母親が判り切っている確認をしてきたので、これにも必要最小限の説明をした。梢と暮らしていることは写真入りの転居案内で知らせており、淳之介の結婚式で会った雄馬と聡馬が説明したはずだ。
「2回目の離婚をしたのか」「モリヤ佳織1佐とはフィリピンで会ってきた。離婚をする予定はない」私と母親の問答を聞いて作業を終えた父親が割り込んできた。今回の帰宅については日程だけを知らせているので両親は人間関係については理解していない。
「それじゃあ愛人を連れて帰ってきたのか。前の嫁を知っている人が見たら再婚したと思われるぞ。訊かれたらどう説明するんだ」父親は混乱しているのか毎度の世間体を支離滅裂に叱責してきた。後で母親から父親が認知症を患っていると聞いて納得したが、会っておくなら最後のタイミングだったようだ。
玄関先での挨拶を終えて家に入ると介護士の妹は夜勤、トラック・ドライバーの義弟も長距離で息子の雄馬と聡馬が居間に寝転がってテレビでサッカーを見ていた。
「雄馬、聡馬、久しぶりだな」「伯父さん、おかえりなさい」「それって豊川の自衛隊と同じじゃん。格好良い」父親は洗面所で手を洗うと自室に引き籠り、母親は台所で夕食の支度を再開した。私と梢は相変らず寝転がっている兄弟を見下ろしながら談笑を始めた。梢は「手伝う」と声をかけたが「もう終わるから」と拒否された。やはり歓迎されていない。
「伯父さんはオランダに住んでるんでしょう。ヨーロッパの本場サッカーを見られるの」いきなり雄馬が球技嫌いの私に質問してきた。雄馬は小学校入学の1992年にJリーグができたので流行を熱狂的に追いかける母=妹の応援を受けてサッカー一筋で育ってきた。
「オランダもサッカー王国なのよ。マールディヴィジョンがプロのトップリーグね。私たちが住んでいるスフラーフェン・ハーグにもADOデン・ハーグってチームがあるわ。でも国際スタジアムはアムステルダムとロッテルダム、アイントホーフェンにしかないから外国との試合を見るにはそこまで行くしないわね」知識を持たない私に代わって梢が意外に詳しく説明した。オランダ語を習得して地元の人間とも交流を持つようになった梢が日本の野球談議のようにサッカーの話題を聞かされて詳しくなっても不思議はない。
「オランダってオレンジ色のユニホームのチームでしょう。パスが正確でトータル・フットボールって呼ばれてるんだよ。グエッ」さらに聡馬が高度な知識を披露すると雄馬に寝たまま腹を蹴られた。この家では父親が知らない知識を語り、答えられない質問をすることは「恥をかかせた」として厳禁されていたが、それはこの兄弟にも踏襲されているらしい。
  1. 2021/02/23(火) 13:19:11|
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2月23日・「風呂敷の日」

2月23日は京都ふろしき会、京都ふろしき振興会、東京ふろしき振興会の統合組織の日本風呂敷連合会が「223=包み」の語呂合わせで2000年に制定した「風呂敷の日」です。
坊主は風呂敷を使う機会が多く(葬儀や法事の引き出物などは風呂敷の方が紙袋よりも格式が高く見える)、野僧は中身の形や大きさに合わせて「包む」動作の方が道具としての個性だと考えているので「226=包む」で2月26日にしたいのですが、根拠・由来がない語呂合わせの「日」は言い出しっ屁に優先権があるので仕方ありません(「犬の日」も「ワンワンワン」の1月11日よりも「ワンワンワンワン」の11月11日にしたい)。
風呂敷と言う呼称は古来(正倉院にも収蔵されている)、衣服を包む道具として用いられていた布を室町時代になって風呂(風呂はサウナ、湯につかるのは湯屋)に入る習慣が広まると着替えを入れてきた布を床に広げて腰を下ろし、濡れた足で踏むようになり、「風呂に敷くから風呂敷と呼ぶようになった」とする説や茶道の夏季の点前で使う火鉢式の「風炉(ふろ)を包むのに使った」とする説などがありますがどちらも語呂合わせに近いようです。なお、現在確認されている中では久能山東照宮の東照神君・徳川家康公の遺品目録にある記述が最古のようです。
風呂敷の優れている点は前述のように中身の形や大きさに関係なく縛り方で梱包できることです。実際、風呂敷では箱から衣類や布団、一升瓶や果物などまで梱包することができる上、その縛り方の作法は外国人には日本の伝統文化として驚きと感激を与えるようです。野僧が在日アメリカ空軍に国内留学した際に世話になる兵員に土産として配ると始めは「安物のタペストリー」と思って小馬鹿にした顔をしていましたが、使い方を教えると喜んで愛用するようになりました(特にWAFが)。
逆に不慣れな者が好い加減な縛り方をすると手に提げている間に緩んで中身が落ちてしまうこともあり、野僧は小学生の時、祖父の寺の檀家の農家から供物に預かった西瓜を一緒にもらった風呂敷で包んで運んでいて落として割ってしまったことがありました。
野僧が子供の頃は風呂敷にも高級品から安物まで段階があって中身に合わせて使い分けていました。偉い人への贈答品などに用いていた高級品は無地なら生地が伝統的な織物で、多くの場合は本格的な染物でした。安物は薄い化学繊維で柄は印刷なのは今でも変わりませんが、当時は普段から持ち歩いて買い物した時に袋代わり使っていました。その他に家紋が入った風呂敷もありましたが、これは婚礼や葬儀などで使ったようです。
また、あの頃のドラマなどでは泥棒は手拭を頭から鼻の下にかけて耳の前で結び、唐草模様の風呂敷で包んだ盗品を背負って首にかけているのが定番でしたが、唐草模様は本来、古代ギリシャ発祥の吉祥紋として普及していたから泥棒も常用したのでしょう。
風呂敷は梱包以外の用途でも活躍していてカーテンがない部屋の窓に画鋲でとめて日差し避けにしたり、重い物や角ばった物の下に敷いて畳が切れるのを防いだりしました。航空自衛隊に入ってからはマフラー=スカーフにも重宝しました(法事の引き出物を包んだ濃紺の化学繊維の風呂敷を祖父の寺で大量に仕入れて隊員に使わせた)。
  1. 2021/02/22(月) 13:32:53|
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振り向けばイエスタディ2194

「いよいよ愛知県ね」「沖縄に1週間もいたから身体が寒さを忘れてしまったろう。風邪には気をつけろよ」今回の旅行で梢は12月25日に沖縄本島の実家に帰り、私が29日にフィリピンから合流した翌30日に八重山の淳之介の島に行った。そこで1月1日の朝まで過ごして沖縄本島に戻り、今日1月2日に名古屋行きの全日空の機上の人になっている。確かにフィリピンから沖縄本島に着くと日没後の風が冷たく感じたから愛知県との気温差は気をつけるに越したことはない。その上、沖縄では迎えてくれた人の心が暖かったが、愛知県では気温以上に凍りつかせるかも知れない。
「ここが岡崎の矢作南小学校なのね」私たちは中部国際空港から東海道線に乗り継いで西岡崎駅で下りた。西岡崎駅は私が防府で勤務していた昭和63年にできたので下りるのは初めてだ。この駅から我が母校・矢作南小学校は目の前、徒歩で5分だ。
「うん、懐かしいな・・・大松(おおまつ)が立ってるぞ」冬休み中の土曜日なので校門は閉まっているが校庭を見回すことはできる。大松は校庭の中途半端な位置に立っているが、これは「大正4年に明治天皇の大喪の意を表して当時の校庭の隅に植えた」と習った。
「あれッ、エンピツビャクシンがないな」次に目で探したのは卒業記念に植樹したエンピツビャクシンだ。普通、卒業の記念植樹と言えば桜か常緑樹の松に杉、県や市町村の木と相場が決まっているが、私の学年は文部省のドルトン・プラン=自主学習の研究指定校になったため異常に勉強熱心な児童が育ち、それを記念して原産地の北アメリカ東岸では昔から鉛筆の材料になっているエンピツビャクシンを理科が専門の1組の担任が選んだと聞いている。
「30年で3階の窓くらいの高さになるって習ったけど何かあったのかな」「植え変えたのかも知れないから一周回ろうよ」「うん、ついでに妙源寺の本多光太郎先生の墓参りもしよう」落胆している私を励ますように梢が提案した。本数が多い東海道線でも西岡崎駅に停車するのは普通列車だけなので一周回るのは丁度良い所要時間だ。
妙源寺は矢作南小学校の裏手にある浄土真宗高田派の名刹で、東京の芝・増上寺の黒阿弥陀は三河一向一揆の時、徳川家康公がこの寺で武力によらない沈静化を祈願して成就したため、徳川家の守り本尊として岡崎城内に連れ帰り、浜松、江戸へと遷座したのだ。
「サラサラサラ サラサラサラ 矢作の流れ耳に聞き 小さな胸の光太郎さん・・・努力努力努力 ああ僕らの博士」墓苑の奥にある本多家の墓の前で私は四誓偈と念佛を唱えた後に「本多光太郎博士の歌」を1番から4番まで歌詞カードなしで唄った。
「矢作南小学校の教育って凄いなァ。貴方の人格は矢作南小学校が作ったのね」「本多博士はウドンをウロンとしか言えないような足りない子供だったんだけど努力努力で世界的な物理学者になったんだ。努力することを当たり前にしてもらったのは間違いないな」本多家の墓碑は本多博士の意向で正面は法名ではなく俗名で、裏には人物の経歴が刻まれていて本人は「世界的物理学者」だ。私の頃には6年生が交代で掃除に来ていたが、その伝統は継承されていないらしい。やはり平成では個人の墓地の清掃を児童にさせることに批判があるのだろう。
「光が一杯降り注ぐ 矢作平野にこの校舎 『つとめてやむな』を心根に 仲良く学ぶ 鍛え合う 矢作南小学校」正門の前で校歌を1番から3番まで熱唱して駅に行くと丁度時間だった。
「ここが蒲郡ね」次は蒲郡駅で下りて蒲郡高校に行った。蒲郡駅から「蒲高通り」と呼ばれていた駅前中央通りを歩いて行くと残っている店と商売替えしている店が妙に気になった。私は市内の伝統校(名門ではない)の生徒会長だったため市民からも「会長さん」と呼び止められて生徒に対する苦情や賞賛、注文を言われることが少なくなかった。兎に角、蒲郡市長や市議会議員には蒲郡高校の生徒会長経験者が多いらしい。
「やっぱり爺ちゃん、婆ちゃんの店がなくなってるよ。生きていれば100歳を超えてるから当然だろうな」「高校を卒業してから36年かァ。私たちがあの頃の先生よりも年上になってるんだから仕方ないんだね」私が爺さんの槌を打つ音を響かせていた鍛冶屋の作業場が車庫になっているのを見て寂しそうに呟くと梢も同調した。その時間の経過にケジメ(=親との訣別)をつけるため今回は愛知県に来たのだ。
「東海の蒲郡 雲淡紅(ばら)に輝きわたり 寄せきたる春の汐 故郷のよき朝を・・・」同様に閉まっている正門の前で今度は蒲郡高校の校歌を1番から3番まで唄った。考えてみれば私が自衛隊の隊歌を暗記することが得意になったのも笛での吹奏を含めて徹底的に校歌を練習させた矢作南小学校の教育だ。その中で一宮中学校と防府航空自衛隊歌だけは記憶していても思い出さないようにしている。高校時代、東海道線で下校しながら車窓から本宮山が見えてくると地獄へ落ちるような気分になったが、その山麓の一宮へ行かなければならない。
  1. 2021/02/22(月) 13:31:33|
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2月22日・姫路城と名古屋城を守った中村進一郎大佐の命日

明治17(1884)年の明日2月22日は廃藩置県に続く廃城令によって急速に荒廃が進んでいた日本の城郭建設の至宝・姫路城と名古屋城を守った中村進一郎(諱は重遠)工兵大佐の命日です。
中村大佐は天保11(1840)年に土佐の宿毛の山内藩士(郷士ではない)・小野家に生まれ、幼くして中村家の養子になりました。当時の宿毛邑主(村長)は藩校に準ずる塾を開設して若い藩士と子弟に漢学だけでなく数学や測量学、武術も兵学から弓術、馬術、槍術、砲術、柔術、水泳術などの幅広い教育を進めていて、中村少年も入塾すると卒業後は23歳で指導役に抜擢されました。
それから5年後の慶応4(1868)年に戊辰戦争が起こるとこれに参戦しますが、江戸へ向かう本隊には加わらずに土佐へ戻り、枝胤として抵抗の姿勢を示していた高松と伊予の両松平家の追討軍に出征しました。さらに戦火が長岡や会津に拡大して奥羽越列藩同盟との内戦の様相を呈すると土佐藩も本格的に介入し、中村青年は宿毛の藩士で機勢隊を編成して奥羽の譜代の筆頭・庄内藩の降伏に関与しています。
明治になると新政府の兵部省に出仕して軍人になりましたが、宿毛で学んだ測量術が活かせる工兵士官を選びました。その頃、明治4(1871)年の廃藩置県に続き、明治6(1873)年には廃城令の太政官布告が出て陸軍の駐屯地になっていた35ヶ城を除く全国144ヶ城が破壊されることになったのです。城郭は江戸時代には普請方などの土木工事を専門とする藩士によって管理と修理が行われていましたが、廃藩置県によって藩士との主従=雇用関係が消滅したため城主=旧藩主個人の資産として自費で維持しなければならなくなり、中でも名古屋城や姫路城は維持に要する経費が莫大なため放置せざるを得ず、風雨に晒された漆喰の壁が汚損して崩れ、雨漏りで柱材や床板が腐り始めて倒壊も時間の問題になっていました。このため名古屋城は取り壊して金の鯱鉾は政府に売却して鋳潰して金貨にすることが決まり、姫路城は売りに出されて城下の商人が現在の数十万円で落札したのです。このことを知った中村中佐は日本が誇るべき歴史的建造物として陸軍の力で維持することを山形有朋▲陸軍卿に請願し、同時期に日本城郭に魅せられていたドイツ公使の要望も重なったためこの2ヶ城生は陸軍が維持管理することが決まったのです。このため姫路城内には中村大佐の顕彰碑が建てられています。
その後の中村中佐は明治6(1873)年の「征韓論」論争では同じ土佐藩士出身の後藤象二郎さんや板垣退助さんが西郷南洲翁に同調して強行論を主張したにも関わらず中村中佐は欧州視察から帰国した大久保利通さんや桂小五郎▲(さん欠く)、岩倉具視▲の慎重論に与しました。このため佐賀の乱や西南戦争では政府軍として制圧に当たり、この軍功によって明治11(1878)年に大佐に昇任して工兵第1方面(=日本を6つに区切った工兵の部隊単位で東京に所在した)の提理(長)になっています。
名古屋城は2022年末に現在の鉄筋コンクリートから木造による完全な復元を目指していましたが、文化庁・文化審議会の解体許可が下りず断念しました。
  1. 2021/02/21(日) 12:51:57|
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振り向けばイエスタディ2193

夕方の定期便は高校生を乗せて帰ることを目的にしているため石垣港に引き返して自家用船で戻ってくると冬場では日没後になる。私は「父親として息子の社会生活を確かめたい」と思い、あかりから帰港の予定時間を聞いて波止場で待っていた。やがて満月から欠け始めて1週間後の暗い海を小さな灯台の光が照らし、そこに白い船首波が見えてきた。間もなくエンジン音が響き、淳之介の自家用船が岸壁に横付けした。
「おかえり」「只今」淳之介はエンジンを止め、懐中電灯で操舵室と船体を確認すると干潮で低くなっている船から舫綱を投げ、岸壁に両手を懸けて這い上がり、舫杭に固定した。
「出迎え有り難う。寒かったでしょう」「オランダから来たんだ。冬とは思えないくらい暖かいよ」そう言う淳之介は合羽の下に厚着をしていて沖ではかなり風や波が冷たいことが判る。
夕餉は私たちが来ることを聞いた島民が届けてくれた魚と野菜であかりと祖母、梢が腕を奮った御馳走だった。小家族用の正方形の座卓に大人6人、子供1人では狭いので恵祥とあかりは脚を畳める小さなテーブルで向かい合って食べている。
「乾杯」「お前も酒が弱かったかな」乾杯は男女の区別なく500ccの缶ビールだったが淳之介だけは135ccだ。私はあまり淳之介と酒を飲んだことがないので、美恵子に似て弱いのかと思って訊いてみた。すると淳之介は首を振った。
「明日も仕事だから控えてるんだ。何時もは飲まないけど今夜は少しだけ・・・」「缶ビール1本くらいなら朝までには醒めるだろう」「朝礼の呼気検査で引っ掛かると給料が減らされる上に罰金なんだ。それにお客さんを乗せてるんだから酒気帯びの操舵はできないよ」淳之介の説明に私は感心しながら立腹してしまった。
昔から海の男は大酒飲みと決まっていて「身体の潮っ気はアルコールでしか流せない」とうそぶいていた。それが自動車の酒気帯び運転が「呼気のアルコール濃度」と言う本人では管理できない数字の基準で取り締まるようになったのを水上警察が準用し、船会社が自主規制しているのはギスギスした相互監視社会になった平成の日本を象徴している。然もここは沖縄だ。
「馬鹿正直なのはワシの遺伝子だから仕方ないが、あかりの息が詰まるような堅苦しいことばかりするなよ」「大丈夫、あかりは私の遺伝子だから淳之介とは一心同体よ」「私は淳之介さんを通して世界を見てるからお母さんよりも一体感は強いです」私の指導を梢とあかりの母子が混ぜっ返した。私の心配は美恵子に不満を与えた理由を言っているのだが、それは梢と結ばれなかった不幸が全ての原因だった。
「最近、尖閣では中国の海上警察の後ろに海軍の軍艦が控えてるようになったんだけど日本は海上保安庁の巡視船だけで取り締まってるんだ。どうして海上自衛隊も出動しないの」先に135ccの缶ビールを飲み終えて茶で料理を食べ始めた淳之介が唐突に真面目な質問をしてきた。おそらく私と祖父はビールに続いて島酒を飲む予定なので酔う前に訊いておこうとしたのだろう。しかし、それは私の酒の強さが判っていない。
「海上保安庁は陸海空軍海兵隊に続く第5軍に位置付けられているアメリカの沿岸警備隊と違って海上保安庁法の25条で『この法律のいかなる規定も海上保安庁又はその職員が軍隊として組織され、訓練され、又は軍隊の機能を営むことを認めるものとこれを解釈してはならない』と宣言していて、自衛隊法の80条1項に『内閣総理大臣は防衛出動又は治安出動の規定による自衛隊の全部又は一部に出動命令があった場合において、特別な必要があると認めるときは海上保安庁の全部又は一部を防衛大臣の統制下に入れることができる』と規定されていても陸海空自衛隊と同一の位置づけにはなっていないんだ。それだけじゃあなくてこの規定を理由に海上自衛隊との共同訓練も拒否している」「そうかァ、また外務省の弱腰外交だと思っていたが意外な理由だったな。それにしても自衛隊は軍隊ではないはずだが」私の長々とした息が詰まるような説明に淳之介の前に祖父が反応した。祖父も八重山の学校で勤務していたため現実を無視して反米反日親中を主張している沖縄本島の教職員組合とは認識が違う。
「国土交通省の官僚は運輸省時代に国労(国鉄労働組合)の相手をしていましたから日教組の文部科学省や自治労の総務省(旧・自治省)と同様に反日的なんですよ。それでも海上保安庁は海上における警備行動で軍用艦艇は海上自衛隊に任すしかないことを学習したから現場サイドでは協力意識が生まれているようです。実際、海上自衛隊の対潜哨戒機が尖閣付近を監視して情報を提供しています」私はイージス護衛艦・あまごの衝突事故の裁判で構築した海上自衛隊との人脈から尖閣諸島周辺海域では潜水艦も監視に当たっていることを聞いているが、息子と愛する梢の父親でも漏らすことは控えた。潜水艦の活動の漏洩は攻撃の危険性を高め、乗員の生命に関わる重大な防衛秘密なのだ。
  1. 2021/02/21(日) 12:50:50|
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振り向けばイエスタディ2192

淳之介は朝一番の巡航を終えて定期連絡船の客室の掃除と燃料補給やエンジンの点検などの出航準備に励んでいた。朝一番の巡航の仕事は新聞を離島に配り、石垣島の高校に通う生徒と病院にかかる老人を送ることだが冬休みに入ったのであまり仕事はない。すると乗船券の販売所も兼ねている会社の事務所から安里家の義祖父母と義母、モリヤの父が歩いてきた。
「オジイ、オバア、クヨナーラ(こんにちは=八重山方言)。お父さん、お義母さん、お帰りなさい」4人は予定通り朝のトランスオーシャン航空で石垣空港に到着し、タクシーで石垣観光港まで来たのだ。淳之介は油で汚れた軍手の甲で額の汗を拭うと手を振って声をかけた。挨拶を無意識に年齢順にするところは流石に沖縄育ちだ。すると父が挙手の敬礼をしたので淳之介も姿勢を正して海軍式に倣った。
「元気そうだな」「お父さんこそ」作業を中断して浮き桟橋に上がって出迎えた淳之介に父が声をかけてきた。父が手を差し出しかけたのはヨーロッパ式に握手しようとしたらしい。
「オランダから届いた荷物は島に運んであるから」「土産が先に行っちゃったんだね」「やっぱり土産かァ、開けないで良かった」淳之介と梢の会話も義理が必要ない母子のものだ。淳之介は結婚した時、モリヤ姓に続き玉城姓も捨てて安里姓を名乗ったのだから当然かも知れない。
「そう言えば1月1日に自家用船で帰る許可は下りなかったのか」「2日なら運休だから仕方ないけど1日は運航しているから会社の船を利用してくれってさ」淳之介の返事を聞いて事務所で会ってきた社長の顔を思い出した。漁師とトラック野郎を兼ねたような容貌の人物だが意外に手堅い経営手法を取るようだ。淳之介は自家用船を買う時、通勤と雲島周辺での船遊び専用にして家族を含めて石垣島に人を乗せてこないことを約束させられた。つまり定期船の乗客=会社の収入は確保すると言うことだ。
「自家用船は吹き晒しだし、揺れるから連絡船の方が良いよ」「親父としてはそれを体験したかったんだがな」父の言葉に淳之介は幼い頃から中学生で家を出るまで万事に率先垂範・苦楽を共にで育ててくれたことを思い出して深めにうなずいて頭を下げた。
「貴方ァ」淳之介が操舵する定期連絡船で竹富島、小浜島に寄った後、雲島の波止場に入ると白い杖と弁当を入れた袋を持ったあかりが待っていた。視覚障害者のあかりには母と義父、祖父母たちが乗っていることが判らないから日頃の習慣通りに満面の笑顔で叫んでいる。
「あかりとの母子の絆が切れちゃったのかしら」自分に気がつかないあかりを見て梢が少し唇を尖らせながら文句を言った。父としては夫の淳之介にしか意識がいかないあかりが愛おしいのだが、苦労して育ててきた母は嫉妬が先に立つようだ。
「あかり、オジイとオバア、それにお母さんと親父が来たぞ」船を接岸して舫綱を舫杭に縛りつけた淳之介は杖を頼りに歩み寄ったあかりに声をかけた。私たちが遠巻きにして2人の様子を見ていると梢とあかりは磁石が引かれ合うように梢に近づいた。
「お母さん、お帰りなさい」「あかり、お腹が大きくなったわね。年明けには臨月でしょう。何時、首里に来るの」梢の質問にあかりは唇を噛み、祖父母は困惑したように梢の背中を見た。私たちは今回もあかりが首里の祖父母のマンションに行き、恵祥と同じ病院で出産すると聞いている。ところがそうではないらしい。
「定期検診の時には八重山病院の産婦人科の先生が来てくれてるの。予定日の1週間前から八重山病院に入院することになってるわ」「それに合わせて私たちがこちらに来る予定よ」あかりと祖母の説明に梢は2人を順番に見回して最後に私を注視した。淳之介は積んできた荷物を受け取りに来ている役場の総合支所や郵便局、商店の店主に引き渡していて立ち合っていない。
「それはそれで良いんですが、どうして言ってくれなかったですか」私は梢と目で互いの安堵を確認してから疑問を代弁した。すると祖母は険しくはない真顔になって口を開いた。
「梢には母親としての心配を忘れてモリヤさんとの生活だけを考えさせたかったんです」「お母さんは女としての幸せを失って私の母親になったんだから、今は思いっ切り幸せを味わって欲しいの。無事に産まれたら私を誉めて下さい」祖母の答えをあかりが引き継いだ。
「何よりも私たちもこの島が気に入っているから来るのが楽しみなんだ」女2人の苦く重い話に祖父が一服の軽味を加えた。沖縄県は政府から恐喝している潤沢な財政支援で過疎が深刻な離島にまで立派な診療所を建設して医師を配置しているが、重度身体障害者であるあかりの出産への不安の解消になっていることを思えば「国税の無駄遣い」とは言えなくなる。
「やっぱり馬鹿なお母さんになっちゃった・・・ありがとう」両親と娘の想いを知って梢は涙をこぼして私の胸にすがりついた。その震える背中に手を当てながら振り返ると仕事中の淳之介が心配そうにこちらを見ていたので笑顔で手を上げた。
ち・安里あかりイメージ画像
  1. 2021/02/20(土) 13:19:09|
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振り向けばイエスタディ2191

その夜は梢と国際通りへ飲みに出た。旅行社を辞める前に梢が探しておいてくれた今も営業している2人の行きつけのスナックで日本の歌を熱唱する予定だ。今回の旅行では旧式の冬制服以外は迷彩服しか持ってきていないので通り過ぎる歩行者の大半は敵意に満ちた視線を投げ、小さく「死ね」と罵声を浴びせる者も多い。何度か足元に唾を吐きかけられた。
「あれッ、モリヤ兄さん」周囲を警戒しながら歩いていると前から来た夫婦に声をかけられた。この「2佐」と「兄さん」をかけた呼び方をするのは元義弟の松真しかいない。松真と美代子夫婦には淳之介とあかりの仲人になってもらっているので、連絡は取っていたがオランダへ行ってからは疎遠になっている。
「やっぱり冬の帰省は沖縄か」「はい、遠州空っ風を避けてきました。夏は北海道、その他の旅行は大型連休です」この説明では松真夫婦はまだ浜松基地で勤務しているようだ。確かにシマンチュウと道産子の夫婦であれば入間から小牧までの基地が両方の中間地域に当たる。
「今日はあかりさんのお母さんと一緒なんですね」「うん、佳織は防衛駐在官としてフィリピンに赴任中だ。今朝まで一緒だったよ」「あかりのオカアはニイニの元カノでしょう。復活不倫は拙くないですか」美代子の指摘を事実で誤魔化すと松真が話をややこしくした。
「明日から安里家の人たちが淳之介たちの島に行くのに同行させてもらうんだ」「そうですか。俺たちがよろしく言っていたと伝えて下さい」何とか余計な事実は語らずにすんだ。ところがそうは問屋が卸さないのが玉城家だった。
「折角だからカッチンに行きましょう。奇数日は夕紀子ネエネがママだから会えば喜びますよ」松真は勝手に提案すると車道で手を上げてタクシーを止めてしまった。本当は懐かしいスナックで思い出の歌を唄うつもりだったのだが、相手が子供たちの仲人では仕方ない。
「ハイサイ、松真ねェ、美代子もねェ、モリヤも一緒ねェ、梢もいるさァ」玉城家3人娘の上2人が経営しているカッチンに入るとカウンターの中から夕紀子が声をかけてきた。夕紀子は私と梢と同じ年だが客も親しみを込めて呼び捨てにするのが沖縄流だ。
「4人ならカウンターに並んで座るさァ」今日のママさんの夕紀子が仕切るのでカウンターには男2人が並びその両側に女2人が座った。その時にはグラスを5つ並べ、水割りを作る準備をしていた。本当に手際が良く最早熟練の域だ。
「年末はお客さんが増えるからネエネと日替わりで頑張ってるのさァ。美代子も玉城家の嫁ならば手伝いなさいよ」「自衛隊は副業が禁止されてるんです」「給料払わなけりゃ良いのさァ」相変らず玉城家の女たちの会話のテンポは早い。頭の回転が鈍い美恵子だけが違っていた。
「松真のボトルは取ってあるからね」「美恵子ネエネは勝手に客に出しちゃったけどネエネたちは安心さァ」夕紀子が正面の棚の隅に置いてある松真のオールド・パーを持ってくると松真は私が思い出してしまった馬鹿な姉の落ち度を口にした。しかし、この名前は私の前では禁句だ。水割りを作っている夕紀子は松真を目で叱責し、私に小さく頭を下げた。
「オールド・パーは17世紀のイギリスで154歳まで生きた実在の人物なんだぞ」「有り得なーい」少し気まずくなったところで私がウンチクを始めると松真の向こうで美代子が年齢不相応な反応をした。このネタは自衛隊記念日のパーティーでイギリス軍の駐在武官から仕入れた。駐在武官は私にスコッチを勧めながら「以前の日本大使館では最高級のスコッチが飲めたが、今年はオールド・パーになってしまった」と民主党政権の事業仕分けを嘆いていた。
「これはイギリス陸軍の大佐から聞いた話だぞ」「そう言えばニイニはまだオランダねェ」「今回も海外出張を兼ねて2年半ぶりに帰国したんだ」「だから迷彩服なんですね」やはり補給員の美代子は官品の被服に興味を示していたらしく納得したように相槌を打った。
「それじゃあカラオケを始めよう」乾杯をすませると私から夕紀子に要求した。いつもならママさんが勧めるのを待つのだが今日はここをカラオケ店にするつもりなのだ。
「やっぱり英語の歌ねェ」「先ず『二見情話』からだ」「相変らずシマウタなんだ。相手は梢で良いよね」松真の推理は的を外している。帰国して外国語の歌を唄うのは自分の英語力を誇示したい人間で私のように長期滞在している者は郷愁で日本の歌を選ぶものだ。夕紀子が有線端末の機械を操作すると懐かしい二見の海岸(嘉手納から名護へ行く途中の東シナ海沿いにある岩場)の風景の映像と三絃の伴奏が始まった。
「二見美童(みやらび)や だんじゅ肝(ちむ)清(じゅ)らしゃ 海山ぬ眺み 他所(ゆす)に勝(まさ)てィゆ」「二見村嫁(むらゆみ)や ないぶしゃあしが 辺野古崎坂(へぬくざちひら)ぬ 上(ぬぶ)い下いゆ」この歌は男女が交互に唄うのだが、最後は合唱になる。
「戦場ぬ哀り 何時(いち)が忘(わし)りゆら 忘りがたなさや 花ぬ二見よ」涙涙涙・・・。
  1. 2021/02/19(金) 13:19:43|
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2月18日・戦後右翼の教祖・平泉澄が死んだ。

昭和59(1984)年の2月18日にアドルフ・ヒトラー総統のナチズムとほぼ共通する思想である以上、敗戦と同時に完全に抹殺しなければならなかった平田篤胤▲(さん欠く)の皇国史観を敗戦後も唱え続け、保守系政治家を時代錯誤な迷信の信者に堕した歴史学者・平泉澄(きよし)▲が死にました。89歳でした。
平泉▲は日清戦争が終わる明治28(1895)年の冬に福井県大野郡平泉寺村(現在の勝山市)の修験者から明治初期の廃佛毀釋・神佛分離令・修験道禁止令で改業した神主の跡取り息子として生まれました。出身地の地名になっている平泉寺は奈良時代に白山修験道の開祖である泰澄禅師(名前の由来になっている・禅師は皇室からの贈号で禅宗ではない)が創建し、平安時代からは比叡山延暦寺の末寺として天台修験の道場として発展していきました。比叡山の末寺らしく僧兵も多数抱えていて源平の合戦から戦国時代には北陸地区の武将の攻防に関与しましたが、越前一向一揆に介入することはありませんでした。江戸時代になっても白山修験の本山として越前・福井藩の帰依を受けましたが、白山の領有権を巡って加賀の白山神社と対立し、寺社奉行の裁定で山頂以北は白山神社、御前峰と大汝峰から南は平泉寺と境界線が引かれました。それ以降は平穏に共存していたのですが、明治になって廃佛毀釋を前提にした神佛分離令・修験道禁止令が発布されると平泉寺は廃寺になり、壮大な堂宇を取り壊して狭い社殿を建設し、多くの佛像・菩薩像を撤去した上で寺院時代の地名を冠した白山神社に改業しました(山口県の赤間神宮も本尊などの佛像の所在は不明になっている=おそらく海外に売却した)。
このような出自であれば親が保身のために跡取り息子に皇国史観を植えつけるのは至極当然で、地元の旧制中学校を卒業する目前の明治45(1912)年には白山神社の歴史をまとめた「白山神史」を編集しています(当然、修験道は否定的に論述している)。卒業後は金沢の旧制第4高等学校に成績優秀のため無試験で入学し、大正4(1915)年には東京帝国大学国史学科に進学しました。
東京帝国大学を首席で卒業して東京帝国大学院に進んでからは現在では迷信の神話に過ぎない皇国史観を強弁する新進気鋭の歴史学者として活躍し、皇族や摂関家の近衛文麿首相をはじめとする上流階層の有力者の信奉を獲得しますが敗戦で戦争犯罪者となることを畏れ、東京帝国大学教授の職を辞して(後で公職追放にもなった)地元に帰って平泉寺白山神社の第3代宮司になり、皇国史観を神道の教義とすることで「信教の自由」を統治原則としていた占領軍の追及を巧みに逃れました。
敗戦後は「神道の教義」と言う隠れ蓑を使って時代錯誤な皇国史観を復古趣味の保守系政治屋に吹聴し続け、日本政府が公式に判決を受け容れた極東軍事裁判=東京裁判の否定を否定しながら死ぬまで保守系史学界の教祖として君臨し続けたのですから戦後史の暗部の根源なのかも知れません。中でも福井藩主・松平春嶽さんの孫の永芳▲を靖国の宮司に送り込んで国家を滅亡させた大罪を連合軍が代わって処罰してくれたA級戦犯の合祀した策謀は昭和の陛下が「だから参拜していない」と批判しましたから大御心に背きました。
  1. 2021/02/18(木) 13:37:43|
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振り向けばイエスタディ2190

「お帰りなさい。貴方」那覇空港の国際線ターミナルへは梢が迎えに来ていた。台湾・桃園空港発の航空便なので帰国する日本人と来日する台湾人の見分けはつかないが、迷彩服姿の私を見る目の温度で識別できる。冷たい視線を浴びせるのは普天間基地機能の辺野古移設を口実に反米反日親中の世論操作が進む沖縄県民、熱い眼差しは中国に腰が引けているオバマ政権に代わって加倍政権への期待が高まっている台湾人だ。
「早目に来て国内線ロビーの支店で航空券を手配しておいたわ」「冬の観光シーズンだけど上手く取れたかい」「那覇・石垣の往復と那覇・名古屋の片道は大丈夫だった。問題は豊橋から東京までの新幹線ね」「1月3日だからな」私は防府に転属した時には実家と縁が切れていて本土の帰省ラッシュを経験したことがない。佳織の勧めで交流を再開させたのは守山なので自家用車だった。頼みの梢の元の職場の旅行社はホテルの宿泊と航空便や船便が専門なので鉄道の手配は不得手らしい。実家には1泊2日の予定だが、これを理由にキャンセルしたいものだ。
「旅行は充実していたの」「うん、佳織のおかげで調査の成果は十分だよ」「だからサッパリした顔をしてるんだね」今回も自然な流れで抱き締めてキスをした後、歩き出しながら会話が始まった。そんな様子を見て日本人の乗客の「アメリカ軍だったんだ」「日系人かな」と言うささやき声が聞えてきた。やはり公衆の面前で堂々とキスをする習慣は日本にはないようだ。
「私の本は母が使っている料理や県内旅行の解説書以外は全部送ったよ。貴方の本棚の空いたスペースに入ると思うけど」「これでマスマス生活が充実するな。楽しみだ」ナバオ市へ出発する前の軽い衝突を除けば平穏な時間を過ごし、仕事で十分な成果を得られたのは佳織の妻としての努力が有ったからなのは私も認識しているので梢と比較することは避けなければいけないが、やはり精神と言うより魂が密着以上の同体化している2人の関係には及ばない。
「それから大根おろし器や鰹節擂り器、それから刺身のツマをおろす大根千切り器を買って送ったから」「流石、これで我が家の日本料理の見栄えがよくなるぞ」私の返事に梢は肩をすくめて軽く笑った。今まで大根おろしは包丁を横向きに擦って作っていたが繊維が残ってしまっていた。自家製の鰹節は日本から持ってきた大工道具の鉋の刃を洗って削っているが出来栄えと気分は今一だ。刺身のツマは料亭の板前のように大根を薄切りにして細く刻んでいるもののやはりプロの仕事には敵わない。ヨーロッパの大根は紫色や赤色だが皮を剥けば白いので、むしろ長い品種ばかりではないのが問題だ。
「それにしても沖縄じゃああまり使わない調理器具がよく手に入ったね」「昔ならダイナハへ行けば本土の物は大概揃ったけど2005年に閉店してしまって・・・だけどメイクマンが頑張ってくれてるんだよ」「メイクマンかァ・・・三角お屋根 赤い屋根 お日さまニコニコ雲の上 小鳥たちも緑の風に 吹かれてる みんなで行こう 幸せ作ろう メイクマン」梢の説明に毎度のようにメイクマンのCMソングを口ずさんでしまった。すると梢も「みんなで行こう」からデュエットした。メイクマンは沖縄を代表するホームセンターだが私たちがつき合っていた頃は浦添市の国道58号線沿いにしかなく、梢のアパートで必要なことができるとバスに乗ってワザワザ買いに行ったくらい品揃えは充実していた。
「本土でも西日本のナフコ、東海地方のカーマってホームセンターがあるけどCMソングは憶えてないんだよな」「メイクマンのCMソングは沖縄県民なら全員唄えるって言われてるくらいだからシッカリ刻み込まれてるんだね」「お前と一緒にな」そう言って手を握ると梢は振り解いて腕を組んできた。しかし、防府のナフコには美恵子、名古屋のカーマは佳織と行ったのだが、印象に残っていないのが不思議だ。
「モリヤさん、いらっしゃい。娘がお世話になっています」「こんな幸せそうな顔は本当に久しぶりで親として感謝しています」首里の安里家に着くと両親が恐縮するほど丁寧に挨拶してきた。そんな両親の横で梢は何故か少し涙ぐんでいる。
「こちらこそ駆け落ちみたいに梢を奪い去ってしまって、大変ご心配をかけました」「私たちは梢の気持ちを聞いていましたから共犯者ですよ」私の答えに父は「シテヤッタリ」と言う自慢げな顔で笑った。寺の祖父は梢との結婚以前の交際に強硬に反対されて悩む私に「親孝行とは子供が幸せになることだ。それなのにモリヤ家の人間は親に服従することだと思っている。お前は自分が幸せになれると思うならその人と結婚して勘当されてしまえ」と忠告したがこの両親は祖父と親孝行の定義を共有しているようだ。
「梢、ウムヤー(想い人=沖縄でもあまり使わない方言)が帰ってきたんだ。傍を離れるな」「貴女は立派に自分の立場を守ったんだから取り返しなさい」「はい」両親の言葉に梢は私の傍らに歩み寄りながら涙をこぼしてうなずいた。
ね・純名里沙イメージ画像
  1. 2021/02/18(木) 13:35:41|
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2月17日・航空自衛官には信じられないハイジャック事件

2014年の2月17日に365日・24時間不断の警戒監視と緊急発進態勢の維持を誇りとしている航空自衛官には信じ難い経緯を辿ったエチオピア航空機のハイジャック事件が発生しました。
この日の深夜2時30分(スイス時間=現地時間0時30分)にエチオピアのボレ空港を離陸したローマのフィウミチーノ空港経由ミラノのマルベンサ空港行きのエチオピア航空702便がスーダン上空でハイジャックされました。ハイジャック犯は31歳の副機長で機長がトイレに行くため操縦室を出たところで内鍵を締め、単独で操縦したのです。ハイジャックの目的については「軍事政権によって拘束される恐れがあるエチオピアからの国外脱出」でローマとミラノではなくスイスのジュネーブまで飛び、地上との交信で「エチオピアに引き渡さない」と言う確約が得られるまで空港上空で旋回を続けています。
ここで問題になったのは通常、領空内でハイジャックが発生するか侵入してきた場合、空軍が戦闘機を緊急発進させて外観の確認をした上で随伴し、政府の重要施設や原子力発電所などに意図的に墜落させようとした時には撃墜するのが慣例(国際法に空戦法はないのであくまでも慣習法)なのに対してスイス空軍は冷戦構造の終結後は「航空機による脅威は消滅した」として緊急発進を平日の午前8時から12時、昼休みを挟んで午後1時30分から5時までに限定していて夜間・早朝の緊急発進を拒否したのです(実際は基地内に待機要員を確保しておらず「非常呼集では間に合わない」と言う判断だったらしい)。
このため課業時間外の防空を委託されているイタリア空軍が緊急発進してスイス領空まで送り届け、領空内では同じくフランス空軍が引き継ぎましたが、両空軍とも緊急時の撃墜の権限は与えられておらず、9・11の時に「アメリカ空軍やニューヨーク州空軍が緊急発進して撃墜しなかったことが大惨事を招いた」と批判されたのと同じ事態が再発する危険性もありました。
結局、ハイジャック犯の副操縦士はボーイング767の2発のエンジンの片方がフレームアウト(燃焼室への燃料の供給が滞ったことでエンジンが停止する故障)を起こし、燃料が残り10分間分になった午前6時2分にジュネーブのコアントラン空港に着陸すると操縦席の窓からロープで脱出しましたが現地警察に逮捕されました。
事件そのものは1名の犠牲者・負傷者も出さず体調を崩した者もなく、エンジンの故障以外に機体の損傷もなかったのですが、目的地のイタリアからアルプスを超えてスイスまで連れて来られた乗客が怒ったのか逆に喜んだのかは不明です。
ベルリンの壁の崩壊から東西ドイツの統合とソ連の崩壊によってヨーロッパにおける東西冷戦構造が終結してからはそれまで地上戦の最前線だったドイツ連邦軍は存在理由を失い、安全保障は警察力による治安の維持に移行して、世界最強の機甲部隊を構成していたレオパルト2戦車は大半が海外に輸出されてしまいました(現在の保有数は陸上自衛隊並み)。同様に航空機なら数分で通過できるスイスでは空軍の存在理由が失われるのも当然かも知れません。しかし、あくまでもヨーロッパ限定の緊張緩和です。
  1. 2021/02/17(水) 11:43:55|
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振り向けばイエスタディ2189

ナバオ市からは1泊2日で戻り、翌日はマニラ市内まで出かけて2つ並んでいる国立博物館と美術館を見学し、パサイ市内でフィリピンの土産を買って翌々日には沖縄に向かった。梢と安里家の両親とは那覇で合流して八重山に行く予定なので同じ経路になる。
「色々世話になったな。おかげでナバオ市の麻薬撲滅作戦の実態を確認できたよ」「私こそ貴方の法務幹部としての実力を確認できて改めて敬意を・・・惚れ直しました」ニノイ・アキノ空港で見送る佳織は久しぶりに妻の顔に戻っていた。結局、私の男性自身が再起動(当にこの二文字の通り)することはなく夫婦の営みはなかったが、念入りなマッサージで快感を与え、腕枕で体温を共有することはできた。
「1つ訊いても良い・・・どあれほどの愛国者だった貴方がどうして日本嫌いになってしまったの。普通は外国暮らしすると祖国愛に目覚めるって言うじゃない」搭乗手続きまで時間があったので2人で入ったカフェで佳織が質問してきた。この店にはハワイアン・コナは置いていないのでフィリピン産のロブスタになったが苦みが強く佳織は好きではないそうだ。
「ヨーロッパでは国王に対する絶対的な忠誠が強制されている。まるで学校で習った戦前の日本みたいだ。おまけに日本人はエンペラー(=天皇)を神聖視していると決めつけてくるから始末に悪い。ワシも昭和の陛下であれば大声で万歳を叫んでやるが、今の天皇は許し難い言動が多過ぎて写真を地面に置いて土足で踏み躙りくらいだ」ここでコーヒーが運ばれてきた。
「先ずアイツは戦前の日本を戦争犯罪国だと決めつけている。オランダのインドネシアの植民地経営は近代化も進めたイギリスやフランスと違って搾取と弾圧だけだった。だから現地民は日本軍の進攻を解放と受け取って全面的に協力したんだ。ところがオランダの女王に会う度に全面的に謝罪しやがった。おまけに日本を裏切ってインパールから敗退してくる日本軍から武器弾薬を奪って軍人と文民の区別なく日本人を惨殺したミャンマーのアウンサンの娘にも同じことをやり腐った。その上、戦没者を戦争犠牲者だと思い込んで慰霊行事では父親の戦争責任を謝罪している」英語で強弁してフィリピン人にも聞かせたいぐらいだが目の前で佳織が考え込みながら聞いているので気を鎮めるため本当に苦いロブスタを口にした。
「これは噂だぞ。今の天皇の妻が幼稚園から大学までカソリックの英才教育を受けたことは有名だが、ヨーロッパ訪問では史跡の見学コースに必ず聖堂を入れて夫婦で礼拝しているらしい。息子もイギリスに留学している間、国教会の礼拝に参加していたし、女房の両親はオランダではクリスチャンとして教会に通い、夫婦で来やがった時には仲良く参拝したそうだ。アイツらは神道のトップだぞ。これを裏切りと呼ばずに何と言うんだ。平成に入って大災害が頻発しているのは日本の神々が怒っているんだよ。日本政府と皇室が廃佛毀釋を撤回して謝罪、賠償しない限り佛教は不関与だがな」後半はあまり親日的ではないヨーロッパ人が私の皇室嫌いを知って教えてくれた悪口に等しい噂話だが、日本で腹を立てていた今の天皇の言動を考えれば信憑性は低くない。マックアーサー元帥の甥から養子になったダグラス・マックアーサー2世駐日大使は昭和36年に離任する時、「日本人は陛下の姿を拜するだけで日本の魂を忘れない。危険なのは代が替わって10年後だ」と述べたが、それが現実になっているのだ。
「時間ね。おかげで納得できたけどオランダで反日には走らないよね」「海外で反日活動をやっているのは韓国系と中国系華僑、ヨーロッパ人の元捕虜と相場が決まってる。どちらかと言えばイスラム過激派と一緒にテロで皆殺しにしたいくらいだ。嫌いな日本でも山形と八重山には固い郷土愛を持っているから安心してくれ」「地域限定なのね」私の回答に佳織は苦笑いをして不味そうにロブスタを飲み終えた。壁に貼ってある解説によるとフィリピンのコーヒーはスペインの植民地時代に宣教師が持ち込んだ種を栽培して1880年には世界4位の生産量になり、上位のブラジル、アフリカ、ジャワの生産地がコーヒー錆病の蔓延で壊滅状態に陥ると単独首位になったが、1891年にフィリピンにも伝染した上、害虫や戦争、大型台風で壊滅的被害受けたことで現在は回復途上にあるそうだ。そのため世界の主要な4種類が生産されているのだがコーヒー錆病や害虫に強いロブスタが90パーセントを占めているらしい。
「貴方、お願い」搭乗口に入る前、佳織は直立不動の姿勢を取って声をかけた。折角の私服に似合わないが言いたいことは目を見て判った。つまり「抱き締めてキスをしてくれ」と言うことだ。私としては梢のところへ帰るケジメとして夫婦の習慣を放棄したのだが、佳織は権利として要求してきたのかも知れない。
「幹部自衛官が公衆の面前で良いのか」「何を今更」私の言い訳を佳織は呆れたように制すると顔を向けて目を閉じた。梢より身長が5センチ高いのでキスをする角度が違う。抱き締めても弾力よりも筋肉の硬さと逞しさを感じた。
  1. 2021/02/17(水) 11:42:30|
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2月17日・陸上自衛隊の設計者・辰巳栄一中将の命日

昭和63(1988)年の明日2月17日は占領軍司令部が朝鮮戦争の劣勢を挽回するため在日アメリカ軍を投入することを決定し、当時の日本国内で頻発していた共産革命を目的とする労働争議や半島人の暴動に対処するために警察予備隊を設立することになった吉田茂首相の部外委託で設計と初期工事を担当した辰巳栄一中将の命日です。93歳でした。
辰巳中将は日清戦争が終わる明治28(1895)年1月に佐賀県の商家の次男として生まれました(商家ですが弟も海軍大佐になっています)。
旧制佐賀中学校を卒業後、大正4(1915)年に陸軍士官学校27期生として修了すると島根県浜田に駐屯していた歩兵第21連隊に配属され、大正14(1925)年に陸軍大学校を修了して中隊長まで勤務しました。陸軍大学校での成績が優等だったため大正15(1926)年に教育総監部に転属になり、昭和3(1928)年に山東省で発生した第1次世界大戦後の旧ドイツ租借地の領有権争いに伴う蒋介石・国民党軍との武力衝突に名古屋から派遣された臨時第3師団の参謀として参加しました。
昭和5(1930)年からはイギリス駐在武官補佐官としてロンドンに赴任して帰国後は関東軍参謀兼満州国大使館付武官補佐官、参謀本部員などを歴任すると昭和10(1935)年にイギリス駐在武官に指名されて再赴任しました。翌年には親英米派として寺内寿一大将などの軍国主義者の陸軍上層部に排除された吉田茂大使が着任して(外務省の大使と陸海軍省の駐在武官は同格だった)蜜月時代が終わって急速に関係が冷却化していたイギリスとの協調に向けて共に尽力することになりました。
しかし、昭和8(1933)年に就任したナチスのアドルフ・ヒトラー首相の思想は平田篤胤と水戸学が説いた尊皇攘夷の狂気に共通するため吉田松陰門下の陸軍軍人は無批判に傾倒し、ヨーロッパではすでに英仏と独奥の間で第2次世界大戦が始まっていた昭和15(1940)年に近衛文麿首相の意向を無視した松岡洋右外務大臣の策略によって日独伊三国同盟が締結されたことで日本もイギリスと敵対することになり、昭和16(1941)年12月に日本が宣戦布告した翌年の夏に交換船で帰国しました。帰国後は東部方面軍参謀、第12方面軍参謀と本土の関東地方で勤務しながら昭和20(1945)年になって第3師団長として大陸に派遣され、現地で敗戦を迎えました。
敗戦後は公職追放を受けましたが占領軍司令部内のイギリス軍人脈からマックアーサー元帥の側近で諜報員でもあるチャールズ・アンドリュー・ウィロビー少将の知遇を得て、司令部中枢と日本政府に伝達される前から再軍備に向けた計画を策定し、公式に発令されると吉田首相に提示して組織編成や宿営地の選定、主に旧内務省から移籍させる幹部要員の人選(公職追放解除後の旧軍人を含む)などを進め、迅速な設立を実現したのです。海上警備隊=海上自衛隊では堀悌吉中将が同様の役割を果たしました。
その一方でアメリカの外交機密文書の開示で本来は日本単独で保持すべき自衛隊の内部情報をアメリカ側に渡していたことが発覚しており、政治的な必要性=取り引きがあったとは言えウィロビー少将の手先になっていたようです。
  1. 2021/02/16(火) 13:57:38|
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振り向けばイエスタディ2188

「市長の説明ではフィリピンが独立後も維持してきた麻薬密売人の死刑を1986年のコラリー・アキノ政権と2006年のグロリア・アロヨ政権が禁止すると治安が急激に悪化して国内に麻薬が蔓延した。その対抗措置として市民による自警団、ナバオ・デス・スクワットを組織して活動を後押ししたと言うことですが」「それをヨーロッパの人権団体は裁判を経ない死刑の執行と批判してますがね」署長は私に非難されることを避けるために自分から批判的見解を口にした。しかし、それは余計な勘繰りだ。
「ヨーロッパの人権団体がナバオ・デス・スクワットの犯罪者の殺害を批判するのならフランスがイスラム過激派のテロリストを警察戦闘部隊が殺害していることに対する見解を表明するべきでしょう。結局、ヨーロッパもテロリストを死刑にしたいが政治的にできないから警察が始末しているに過ぎない。イスラム過激派のテロは生命を奪うか、麻薬の蔓延は人格を破壊する。どちらも殺人に変わりはない。これはあくまでも個人的見解ですが」「いいえ、全く同感です」私の個人的見解とは逆にヨーロッパの人権団体は麻薬中毒者を暴力組織によって危険薬物を常習化させられた犯罪被害者扱いするようになっている。人権団体は麻薬患者は個人の快楽だけを追い求めるため危険性は低く、医学の発展と支援組織の充実で更生が可能になったと強弁しているが、麻薬は脳の中枢に作用するので常習性が極めて高く、禁断症状は人間の理性を喪失させ、高額の麻薬を購入するための犯罪も後を絶たない。その意味でもアジア各国が麻薬の製造者と密売人を死刑にしているのは極めて正当な法制度だ。このまま日本がヨーロッパに迎合して刑罰を甘くする方向に進めば遠からず危険薬物が蔓延するのは間違いない。
「あれは日本人だが観光客には見えないな」この日は佳織が予約したナバオ市内のホテルに宿泊するが、治安状況を確認するため2人で夜の繁華街に出た。すると東京の夜の繁華街の裏通りよりも平穏な飲食店街の居酒屋から日本語が聞こえてきた。店内を覗くと立ち飲みのカウンターで缶ビールを飲んでいる数人の男たちが目に入った。
「この店は止めましょう。あそこが好さそう」私が開け放しになっている戸口から足を踏み入れ、店主が下手な英語で「ウェルカム」と声をかけたところで佳織が迷彩服の裾を掴んで引き止めた。その様子を見て男たちも一斉に体をひねって顔を背けた。
「何か不具合でもあるのか。ならば無理にとは言わんぞ」私は佳織の異常な態度に事態を推察した。今日も午後から市内にあるナバオ・デス・スクワットの待機所を視察したのだが、ユニフォームにしているらしい揃いの赤いTシャツを着たフィリピン人ばかりだったにも関わらずソファーのサイドテーブルには日本語の雑誌が置かれていて、鼻をかんだティッシュを捨てながら覗いたゴミ箱には日本の煙草の空き箱があった。つまりナバオ・デス・スクワットに日本人が参加しているのだ。それに防衛駐在官の佳織も関与していることになる。それにしても隠蔽処置の好い加減さは如何にもフィリピンらしい。
「前回、来た時に入った店が美味しかったからそこに行きましょう」「だったら先に立って案内しろよ。店主に悪いことしちゃったじゃあないか」私は怪訝そうな顔を向けている店主に戦闘帽を取って頭を下げると佳織について歩きながら文句を言った。すると佳織は顔を強張らしてうなずいたがこちらは見なかった。これは隠し事を抱えている女の態度だ。一緒に暮らしていた頃には見たことがない。
「今日、初めて貴方の法務幹部としての仕事ぶりを見たけど妻として恥ずかしくなっちゃった」佳織の案内で先ほどと代わり映えがしない居酒屋に入り、同じような立ち飲みのカウンターでフィリピンのビールの代名詞・サンミゲルを飲み始めると佳織は真顔で話し始めた。しかし、先ほどの失策の隠蔽にしては話題が重い。誤魔化すのであれば会話を弾まして次々に話題を替えて混乱させるのが上策だ。
「いつもの時事阿呆談だったじゃあないか」私の返事に佳織は首を振って缶ビールを少し口に含み、何故か息を吸ってから話を始めた。
「私はハワイから帰ってから組織の一員として思考することしかできなくなった。国費留学してアメリカで学んだ最先端の軍事的知識を広める責任があるのに場の空気に圧迫されて口をつぐんできた。やはり貴方の無限大に飛び回る自由な発想が私の頭脳を活性化させて本質を追究する勇気を与えていたのよ」ここまで誉められる流石に気恥ずかしいが、朝の叱責に対する反省の弁と受け取れば腹の中で相殺できる。
「自衛隊はアメリカ、外務省はヨーロッパを規範としている。でも貴方はオランダの国際刑事裁判所で勤務しながらヨーロッパのキリスト教の論理を絶対的な正義とはしていない。貴方は自衛隊や日本の枠の中では収まり切れない人間なのよ」これでは相殺にお釣りが出そうだ。
  1. 2021/02/16(火) 13:56:26|
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2月16日・日本政府が国連で戦時売春婦問題の公式見解を表明した。

2016年の明日2月16日に安倍晋三政権がジュネーブの国際連合欧州本部で開催された女性差別撤廃委員会で杉山晋輔外務審議官(後の事務次官)が戦時売春婦=(いわゆる)従軍慰安婦問題の中でも「軍や官憲による強制連行」を完全に否定しました。これは日本政府の公式見解です。
日本の買春業者が中国内陸の前線にまで軍に同行して日本人や朝鮮半島の妓宿(キーセン)で買った半島人の売春婦を使って慰安所と称する買春宿を営業していたのは事実であり、この点は日本政府も公式に認め、謝罪していますが(本来は当時の合法的に金銭で売買しているので謝罪する必要はない)、戸籍上は戦前に死んでいる吉田雄兎(通称・清治=福岡県芦屋町出身・敬称不要)が「戦前に済州島で女性を強制連行して女子挺身隊に送り込んだが、実際は慰安婦にされた」との虚偽の著作と講演を朝日新聞の植村隆(高知県須崎市出身・同前)が事実と思い込んで大々的に不定期連載報道したことを韓国が日本に対する外交的圧力に利用して国際連合の人権委員会に提訴したため、独自の調査もない聴き取りによるクマラスワミ(スリランカ人でもキリスト教徒の人権活動家・同前)の「女性に対する暴力とその原因と結果に関する報告」とマクドゥーガル(アメリカのアフリカ系女性弁護士・同前)の「武力紛争下の組織的強姦・性的奴隷制及び奴隷制類似慣行に関する最終報告書」で一方的に断罪され、現在も韓国や中国は世界各地に(いわゆる)従軍慰安婦少女像を設置する時の碑文や声明などの反日行動の根拠にしているのです。
植村の虚偽報道を受けて新聞赤旗や毎日新聞などの左傾新聞と系列テレビ局や週刊誌も同様の断罪記事を掲載し、敗戦の夏には特集番組を放送するようになり、与野党の政治屋も批判世論を扇動されることを恐れて民主党政権の膨大で綿密な調査でも証明する資料が発見されなかった「強制連行」を否定はおろか疑問を述べることもなかったのですが、安倍首相は朝日新聞が主導する反自民党への世論誘導の結果、悪夢の政権交代が起こり、その亡国の3年によって日本が衰退したことを国民が自覚したことを見て取り、公然と朝日新聞を糾弾することに踏み切りました。
先ず衆議院選挙前の2012年11月30日の日本記者クラブ主催の党首討論形式の記者会見の席で朝日新聞の星浩記者の質問に応える形で吉田を「詐欺師まがいの男」と指摘したことから始まり、植村や朝日新聞の一連の戦時売春婦報道の虚偽を公式に否定して国民に周知したことで2014年の8月に訂正記事を掲載、同年9月に社長に謝罪会見させるところまで追い込むのと同時に韓国の朴槿恵政権の執拗な告げ口外交もそれを上回る政治力で圧殺して2015年12月28日には韓国側からの要求(外交的には双方の歩み寄り)で戦時売春婦問題の永久的かつ不可逆的な解決としての日韓合意に至っていました。
しかし、この問題を安全保障条約の常任理事国である中国も日本の外交攻勢を封殺する道具にしているためクマラスワミ報告やマクドゥーガル報告書の否定・訂正は実現しておらず、おまけにNATO軍司令部で勤務していたWACの連絡官(2佐)がマクドゥーガル報告書を肯定(実際は賞賛)する記事をホーム・ページに掲載する失態を犯しています。
栗田千寿2佐優等生だが馬鹿な2佐(人妻)
  1. 2021/02/15(月) 13:45:43|
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振り向けばイエスタディ2187

「それは軍人としての正当な任務遂行じゃあないか。どうして刑事告発できるんだ」「あの裁判は日本の一部の政治勢力とマスコミが結託した策略です。ところが現在のヨーロッパの人権団体はその一部の政治勢力と同様の主張を繰り広げていて、それをマスコミが世論にしているため政権も同調せざるを得ない状況に陥っています。その典型が死刑の廃止をEUの加盟要件にしていることでしょう。フィリピンもグロリア・アロヨ政権が2006年の6月24日にアムネスティー・インターナショナルの死刑の廃止宣言書に署名しましたが、あれはカソリックの政治的圧力の結果ではないですか」「流石に検察官の見解は核心を突いているな。我が国はマルコス政権の間は麻薬の密売人を中心に銃殺刑を執行していたが、コラリー・アキノは民主化を要求する人権団体を支持基盤にしていたから政権奪取後に改定した憲法で死刑を禁止した。ところが政権末期にはマルコス派の暴動が頻発した上、麻薬の密売が蔓延したため国防長官から政権を引き継いだフィデル・ラモスが死刑を復活させてジョセフ・エストラーダも維持していたんだ。そこに登場したのがコラリーのコピーの優等生だったアロヨだ。アロヨは欧米のマスコミに迎合した政策を進めたから欧米には評価されても国内は破綻していた。コラリーの息子も所詮は息子だ」やはり大統領選挙に立候補しようとする政治屋の弁舌は迫力がある。それでもコラリー・アキノ政権の実態が華僑を通じた中国共産党の傀儡であることへの言及を巧みに避けたところを見ると南沙諸島の領有権問題で中国と対立している現在のベニグノ・アキノ政権の代替えとして華僑勢力が担ぎ出したと言う政治解説に信憑性を感じてしまう。
そこからはヨーロッパでのナバオ・デス・スクワットと麻薬撲滅作戦に対する評価と予想される人権団体の動向やEU各国の態度などの質疑応答が続いたが、別の公務があるようで後ろの席で聞いていた秘書が小声で何かをささやいた。私もナバオ市警察本部に行く予定があるので話をまとめることにした。
「空港から市役所に来るまでに見たナバオ市の治安は驚くほど完璧で、市長の政策の成果が存分に現れていました。ただし、あくまでも私個人の見解です」「例え個人的見解でも国際刑事裁判所の検察官にそう言ってもらえると私としても安心だ。今日は会えて良かったよ。モリヤ1佐ありがとう。やはり君は素晴らしい女性だ」ズテルデ市長は立ち上がると大きく逞しい右手で私の右手を握り、続いて佳織の手を取ると頬を接した。私は羨ましいとは思わないが、佳織にとっては職務の一部なのだろう。しかし、梢に同じことをされれば不快に思うところだ。
「前回、来た時は公式訪問だったから日章旗が掲揚してあったけど今回はないわね」ナバオ市役所の公用車で警察本部に送ってもらうと警察署の広い敷地に入ったところで佳織が不満そうに呟いた。私も運転席越しに前を見たが、確かに玄関前の3本の掲揚竿にはフィリピンの国旗と市役所にもあったナバオ市の4コマ漫画(円を4つ割にして工場と船、椰子の島、花と果実が描いてある・中央の図は意味不明)のような市旗がはためいているだけだ。
「ワシは別に国連旗が掲揚してなくても気にならんけどな。私的旅行なんだから当然だろう」「それは判ってるけど、車を下りて敬礼したかっただけ」出発前に「自衛隊の常識が欠落している」と非難された私が社会常識を口にすると佳織は不機嫌そうに説明した。日本語の会話なので理解できない運転手は困惑したようにルーム・ミラーを覗いたが、この険悪な会話は今回の再会では普通のことになっている。
「相変らず強固な愛国心を持っているんだな。ご立派だよ」「貴方だって外国で暮らしているんだから祖国愛を持ってるんでしょう」「全然、平成の日本なんぞ糞喰らえだ」ヨーロッパの王国に住むと戦前の日本の「忠君愛国」が舶来品であることが実感される。東北人の血を持つ私は多大な犠牲を払って孝明天皇に忠義を尽くした会津を一夜にして朝敵に落とした皇室を許すことはできない。その一方で竜顔を拝して御稜威を実感した昭和の陛下だけを崇敬しているのだ、私の答えに佳織が絶句したところで公用車は所長と副官が待つ中央玄関についた。
「市長からモリヤ検察官には実情を隠さずに説明し、視察にも全面的に協力しろと電話がありました」署長室で面談すると署長は口が滑ったのかと思わせるような告白をした。本来であれば私的旅行の形式を取っているとは言え国際機関の調査に実情を隠蔽し、視察に非協力だった可能性があったことを自白する必要はない。ズテルデ市長以下のナバオ市当局が堅く身構えていた警戒心を反転開放させるだけの信用を獲得できたようだ。
「それは有り難い。私としてもヨーロッパにいるとキリスト教徒の教条主義に基づく先入観で歪曲した情報しか入ってこないので困っているんです。実態をこの目で確認させてもらえれば正しい判断ができます」「私もカソリックですがね」私の説明がヨーロッパのキリスト教への批判に聞えたようで署長は苦笑しながら補足説明した。
  1. 2021/02/15(月) 13:42:35|
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2月15日・伝説上の実在人物・渡辺綱の命日

万寿2(1025)年の明日2月15日(太陰暦)は渡辺氏の始祖とされる実在の人物でありながら多くの伝説・昔話に登場して妖怪を退治している渡辺綱さんの命日です。
綱さんは朝廷に対する反乱を起こした平将門さまが天慶3(940)年に討たれた後の坂東・武蔵国で嵯峨源氏(嵯峨天皇の血統)の長で「源氏物語」の光源氏のモデルとされる源融(とおる)さんの玄孫=曾々孫として生まれました。幼くして摂津源氏の源満仲さんの娘婿で仁明源氏(仁明天皇の血統)の源敦さんの養子になったため義母の実家の摂津国西成郡渡辺郷で育ち、後にここを領することになったため渡辺を通称としました。
成長すると満仲さんの息子の頼光さんに仕え、それぞれ単独の伝説が残っている足柄山の金太郎の坂田金時さんや卜部季武(うらべすえたけ)さん、碓井貞光さんと共に「頼光四天王」と賞され、その筆頭とされています。
当時の武家は清和天皇や桓武天皇などの天皇が側室にすることができない身分の女性に産ませた落胤に源氏や平氏を名乗らせていたため血統は高貴でも宮中の政務からは除外されて、「死」を怖れ、「血の穢れ」を忌み嫌う公家に代わって乱を起こした朝敵や夜の都を跋扈する盗賊を追討・処断することを職務としていました。このため暗闇に潜む妖怪も退治する英雄として描かれるようになり、武勇に優れた頼光さんと四天王は今昔物語などに個人やチーム頼光として繰り返し登場することになりました。
チーム頼光としては大江山の鬼・酒呑童子の退治が代表作ですが、「京の都で美少年や若い女性が行方不明になる事件が頻発するようになったため宮中は陰陽師の安倍晴明さんに占わしたところ丹波国の大江山に潜む鬼の仕業と判明し、頼光さんに追討を命じ、チーム頼光は山伏に化けて潜入すると鬼の頭目=酒呑童子に毒酒を呑ませて酔い潰し、首を討った」と言う武勇譚です。
一方、綱さん個人としては「大江山の襲撃から逃れた茨木童子が怨みを晴らすため若い女性の姿で源氏一門の館があった堀川の一条戻り橋で待ち伏せ、深夜になって通った綱さんに『馬で送って欲しい』と懇願して同乗したところで正体を表すと髷を掴んで飛び立ち、愛宕山に連れ去ろうとしましたが、綱さんが愛刀の『髭切り)』で腕を切り落として難を逃れました。その腕を頼光さんに見せたところ安倍晴明さんに相談し、『1週間以内に奪い返しに来るから忌み清めして誰にも会ってはならぬ』と託宣されたのですが、乳母が訪ねてきたため屋敷に上げてしまい、『都で評判の鬼の腕が見たい』と頼まれて応じたため奪われてしまう」と言う情に負けてしまう人間的な甘さも魅力にした物語で、舞台を羅生門にした謡曲にもなっています。
綱さんは光源氏のモデルと噂される超美男子の融さんの玄孫だけに当時は都の女性たちの憧れの的だったので強いだけではないヒーローになったのでしょう。
なお、源氏嫡流に継承されていた「髭切り」は満仲さんが筑前国三笠山の渡来金工師に作らせた長さ2尺7寸の太刀で、罪人の首で試し切りしたところ髭まで切れたため「髭切り」と命名されました。その後、綱さんが「鬼丸」に改名したと言われています。
  1. 2021/02/14(日) 14:28:03|
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振り向けばイエスタディ2186

「何で昔の制服なのよ」翌12月26日は土曜日でも佳織と一緒にニノイ・アキノ空港から国内便でナバオ空港へ飛び、ズテルデ市長と面会する予定になっている。そんな朝、制服に着替えると佳織は上官の顔で叱責した。これでは久しぶりに抱き締めて眠り、身体を愛撫した幸せな余韻は吹き飛んでしまう。
これはオランダを出発する直前に佳織から「ズテルデ市長は事実上の大統領候補になった以上、迷彩服では礼を失する」と言われた梢がガーメント・バッグ(スーツの携帯用梱包袋)に入れた制服を持ってきたのだが、中身はオランダで愛用している灰茶色の旧式だった。
「こっちの方が似合うから愛用してるんだ。オランダの防衛駐在官は海上だし、今の制服はアメリカ軍の猿真似って言われるからこっちの方が良いぞ」「完全な服装規則違反じゃない」「廃品利用と言ってくれよ。まだ着られるのに勿体ないじゃあないか」佳織も私が統合幕僚長からの3級賞詞をオランダで受賞した時の白黒写真を見て疑ってはいたが、幹部自衛官としての常識を信じてあえて否定していた。ところがこの2等陸佐=私は元々が取り外し式の自衛官としての常識を日本に置いてきている。
「私はダブルの旧制服は嫌いだったから今の方が好きだよ。ズテルデ市長には捨てるのが惜しくて個人的に使ってるって説明するしかないわ」「そうですか。ワシは国際刑事裁判所の検察官として来ているから自衛隊の規則に縛られるのは好きじゃあない・・・やっぱり迷彩服にしよう。フィリピンに冬服は暑いからな」自分の意見が正論と確信している佳織は私が反論してくると思っていなかっただけに完全にブチ切れてしまった。
「馬鹿なことを言ってるんじゃあないわよ。それで良いから黙りなさい」「制服を着ると女房が上官になるんだよな。ここは命令に服従する義務ですね」私は冷やかに答えると大袈裟な動作で姿勢を正し、10度の敬礼をした。その態度に佳織は背中に冷水を浴びせられた気がして口紅を塗ったばかりの唇を噛み締めた。
「ごめんなさい。言い過ぎたわ。お願いだからその服装で同行して下さい」「どうせ面会の後、市役所で着替えるんだろう。視察目的を説明すれば済む話じゃあないか・・・これは上官に反論してしまった。お言葉に甘えて完全な服装違反させていただきます」一緒に暮らしていた頃、私が佳織にこのような嫌味を投げかけることはなかった。毒舌は組織や社会に向けてオチをつけて放つ時事漫談だったはずだ。
「今後は迷彩服も旧式にしようかな。あれは目立つからお洒落だぞ」私は妻としての失言を後悔している佳織から目を反らして独り言を呟きながら窓際に歩み寄り、外の風景を眺めた。梢との生活では全てが肯定の中で融合し、和やかな気分で最善に向けて漂っていく。佳織自身もそのことは電話で毎回思い知らされているが、自分を変える教訓にはできていなかった。
「もしも貴方に 会えずにいたら 私は何を してたでしょうか 平凡だけど誰かを愛し 普通の暮らし してたでしょうか・・・だからお願い傍に置いてね ズッと貴方しか愛せない」 佳織が私の背中を見詰めながら耳をすますと小声でテレサ・テンの「時の流れに身を任せ」を口ずさんでいた。この替え歌は梢がカラオケで唄いながら「『今は』じゃない」と即興で言い替えたものだ。私にもこのような場面で梢の名を出さないくらいの分別はある。それは自衛隊の常識とセットにはなっていない。
「国際刑事裁判所のモリヤ検察官に会えて光栄です」「こちらこそ土曜日に出勤していただいて、市長以下の関係職員の皆さんに申し訳なく思っています」朝の国内線でナバオ空港に着き、出迎えていた公用車で市役所に向かうと市長室でズテルデ市長と面会した。ズテルデ市長自身もヨーロッパの人権団体がナバオ市の麻薬撲滅作戦を激しく糾弾し、それに迎合する政府が「人道に対する罪」として国際刑事裁判所に告発する動きがあることは承知している。それを受けつける検察官の訪問を受けているのだから緊張は隠せない。
「奥さんのモリヤ1佐には以前、会って非常に聡明な女性だと敬服しています。その夫である貴方もさぞや有能な方だろうと推察していますから今日を楽しみにしていました」「いいえ、私は彼女に置き去りにされた劣等生です。殺人犯として刑事被告人になっている間に猛勉強して司法試験に合格したから2佐になっていますが、それがなければ今も1尉でしょう」私の「殺人犯として刑事被告人になっている間」と言う告白にズテルデ市長の小さな目が鋭く光った。
「誠に失礼な質問ですが、貴方が殺人罪を問われた事件は」「アフリカでのPKOの取材に来ていた男女の日本人ジャーナリストを拉致・暴行・殺害した現地の暴徒3人を戦闘で殺害したことを左翼野党の党首が刑事告発したんです。ですから私はヨーロッパの人権団体の一方的な断罪に無批判に同調するつもりはありません」私の説明にズテルデ市長は身を乗り出した。
  1. 2021/02/14(日) 14:27:00|
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振り向けばイエスタディ2185

「梢とも一緒にシャワーを浴びてるのよね」「あっちの方が先輩だな」佳織はマンションに帰るとシャワー・ルームの前で妙な確認をしてきた。私は演習から帰ると佳織と一緒にシャワーを浴びるのを楽しみにしていたが、それは若い頃に梢のアパートで始めた習慣で佳織はそれを引き継いだに過ぎない。その点、美恵子の裸身は鑑賞に堪えないので遠慮していた。
「本当、お腹は出てないけど全体にフックラしたみたい」「オランダでは人間も冬を越すために皮下脂肪が厚くなるんだ」洗濯機が置いてある洗面所で裸になりながら佳織が私の腹周りを確認したので根拠不明の生物学的原因を述べた。ハッキリ言われてしまうと困るが血糖値を維持するために運動は欠かしていない。しかし、最近は健康維持が目的になっていて体力練成とは言えなくなっているのも確かだ。
「君は相変らず鍛えてるな」「だって戦闘員だもん。地上で戦えなければ陸上自衛官じゃあないわ」「ワシは事務職生活が長いからな。今の戦場は法廷だよ」久しぶりに見た佳織の裸身は脂肪分が減って以前よりも筋肉質になっていた。梢の手で触れれば溶けてしまいそうな柔らかさは感じられない。それだけでなく精神面でも私と暮らしていた頃に培った陸上自衛官魂を堅持していることが判った。これなら組織が高く評価するのは当然だ。
「パサイ市内には本格的なサーキット・ジムがないから筋力トレーニングは貴方に習った色々な腕立て伏せと腹筋、自衛隊式ヒンズースワット、鉄棒で懸垂くらいしかできないのよ」「それでも立派なもんだ」シャワー・ルームに入ると梢にするのと同じようにボディーソープを掌で泡立てて佳織の背中を洗い始めた。何だか逆三角形になっているように感じるがそれも私直伝の武道式筋力トレーニングの成果らしい。
「ワシもオランダに赴任した頃、スケベニンゲン(音声の地名)の周辺でアメリカのボディ―ビル・ジムのようなサーキット施設を探したんだが、紳士的に襟がついた服を愛用するヨーロッパ人はアメリカ人のように肉体美を誇示する意識が弱いから独立したジムでは経営が成り立たないらしい」オランダ人のアントン・ヘーシンク十段はトレーニング器材で筋力を鍛えて日本柔道を打ち破ったが、あくまでも柔道の鍛練として取り入れたようだ。スフラーフェン・ハーグ市内にも柔道場はあるが、日本人の柔道2段がオランダ人に歯が立たないのでは東京オリンピックの再現になってしまうので近づいていない。ちなみにヘーシンク十段はオランダ陸軍参謀本部があるユトレヒト出身で兎のミッフィーと同郷だ。
「あれッ、下着と着替えがないな」シャワーを出て脱衣場を見回して余計なことを呟いてしまった。梢と暮らすようになってからは身の回りの世話を任せているので入浴時に旅行カバンから下着と着替えを用意するのを忘れていた。
「そうかァ・・・ごめんなさい」「いや、ワシのミスだから君が謝る必要はない。裸のまま失礼するよ」久しぶりに肌に触れ合って密着まで縮まった距離感が一気に遠のいてしまった。。幸い佳織は髪を乾かしていたので私だけが裸のまま寝室まで来たが、若しカバンの中を見れば荷造りも梢がしていることが判り、佳織の敗北感は決定的になってしまうところだった。
「夕食の前に晩課を勤めさせてもらうよ」佳織が夕食の支度にかかっている間に私は旅行カバンから携帯用の額に入れた内佛の阿弥陀如来の写真、数珠と戒尺、線香と蓋がついた空き缶を利用した香炉を取り出して低いクローゼットの上に並べた。クローゼットには佳織がアメリカに留学する前に撮ったと言う伊丹の伊藤家の家族写真とノザキ家の義父母に志織、そして守山時代の家族4人の写真の額が飾ってある。でき得れば淳之介一家の写真も欲しいところだが血縁がない親子なので無理かも知れない。
「カチッ、カチッ、カチッ、ジャニンニューリョーシー(若人欲了知)。サンシーイーシーフー(三世一切佛)・・・」私の晩課は施餓鬼と先亡者の追善供養なので臨済宗の広開甘露門施餓鬼文=曹洞宗の大施餓鬼文から始まる。晩課で勤める経文は暗記しているので経本はいらない。最近は一緒に祈っている梢も暗唱しているがそれを期待するのは酷だろう。
「久しぶりに貴方のお経を聞いたわ。母と祖父母の戒名も唱えてくれたのね」「ご縁がある人たちだから粗略にはできないよ」晩課を終えると気がつかない間に佳織が後ろで祈っていた。やはり妻としての資質・素養を完全に喪失している訳ではない。感激した私は携帯用内佛に手を合わせて低頭(ていず=深い礼)すると戒尺を置いて佳織を抱き締めた。
「起きないかな、起きなさい、起立・・・気をつけ、気をつけーッ、アテーン・ハッ」食後は数年ぶりのパジャマ・ミーティングになり、そのままベッドで抱き合って横になった。すると酔った佳織は私の下半身に手を伸ばして馬鹿な号令を繰り返していた。妻としては私の最後の女性の座を梢に奪われたことが無念なのは判るが無理な要求には応じられない。
ん2・森野佳織イメージ画像
  1. 2021/02/13(土) 12:24:23|
  2. 夜の連続小説8
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日加の俳優2人の訃報

俳優で声優の森山周一郎さんの逝去を悼む。
俳優としては大物悪役が多く、顔や演技よりも独特の声が存在感を発揮し、その分、声優としてはCMや情報番組のナレーションで強烈な印象を与え、大物俳優の吹き替えではレンタル・ビデオが始まって本人の声を聞くようになるとかえって違和感を覚えてしまった森山周一郎さんが2月8日に肺炎で亡くなったそうです。86歳でした。
森山さんは昭和9(1934)年に愛知県名古屋市で生まれ、戦時中に疎開した犬山市(近傍には陸軍各務ヶ原飛行場がありましたが疎開になったのでしょうか)で高校を卒業するまで暮らし、日本大学芸術学部に進学したものの中退して劇団に入り、当時の役者は映画会社所属が一般的だった中、芸能事務所を立ち上げて脇役として多くの映画に出演しました。その一方でテレビの普及で始まった洋画やアメリカ製ドラマの吹き替えでも活躍し、さらにアニメでも声優として博士や重臣、長老などの重い脇役を担当していました。
しかし、森山さんと言えばやはり吹き替えでフランスの名優・ジャン・ギャバンさんの「暗黒街のふたり」「地下室のメロディー」やイタリアの名優・リノ・ヴァンチュラさんの「冒険者たち」、アメリカのスペンサー・トレーシーさんの「ジキル博士とハイド氏」「大草原」「ニュールンベルグ裁判」、そしてテリー・サバロスさんの「狼の挽歌」「刑事コジャック」シリーズなどは定番でしたが、中でも「コジャック」は日本のドラマで森山さん本人が出演していても画面でサバロスさんを探してしまうくらい定着していました。
そして森山さんの主演作品としては宮崎駿アニメの「紅の豚」のポルコ・ロッソ役で「飛ばない豚はただの豚だ」と言う名台詞は強烈に記憶に残っています。感謝を込めて心からご冥福を祈ります。合掌

カナダ人俳優・クリストファー・プラマーさんの逝去を悼む。
映画「サウンド・オブ・ミュージック」でトラップ大佐を演じたカナダ人俳優のクリストファー・プラマーさんが2月5日にアメリカのコネチカット州の自宅で亡くなったそうです。91歳でした。
「サウンド・オブ・ミュージック」では相手役のマリヤさんが修道院の見習いだったため「7人の子持ちでありながら若い女性の純潔を奪った男の敵」と思われがちですが、実際のマリヤさんは1905年生まれだったので1938年のナチス・ドイツのオーストリア進駐の時には33歳、演じたジュリー・アンドリュースさんも当時30歳でした。
プラマーさんは1929年に曽祖父はカナダの第3代首相と言う名門家庭で生まれました。少年の頃はピアニストを目指していましたが、やがて舞台俳優に転身して1953年にハリウッドに進出します。そしてミュージカルとして大ヒットしていた「サウンド・オブ・ミュージック」の映画化は決まると抜群の美声で準主役を獲得したそうですが映画の中で聴く限り、音域が狭くそれ程とは思えません。
その後は「マルコムX」の牧師役くらいしか記憶に在りませんが容貌が変わっていて(目が細くなった)パンフレットの出演者名で気がつきました。冥福を祈ります。
JulieAndrews.jpg妻になるマリヤ役のジュディー・アンドリュースさん=30歳
  1. 2021/02/12(金) 13:21:16|
  2. 追悼・告別・永訣文
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振り向けばイエスタディ2184

「ヨーロッパの人権団体は麻薬常習者を犯罪被害者扱いするところまで暴走しているが、中国や東南アジアでは麻薬の製造者や密売人は死刑だ。麻薬が社会に及ぼす脅威や再犯率の高さを考えれば重度の常習者も死刑にするべきだろう」「それじゃあモリヤ2佐はルテルデ市長のナバオ・デス・サミットを支持するんですね」「それは実態を見なければ回答できん」結局、佳織が大使館に寄ったのは私を勤務中の山本警部に会わせるためだった。山本警部は警視庁の外事課で勤務していた頃から日本の国内法と国際法の齟齬(そご)に疑問を持ち、個人的に研究していた中で私を逮捕することになったらしい。ところがその刑事被告人が司法試験に合格して今では国際刑事裁判所の検事になったため教えを乞いたいと念願していたと言う。
「お疲れのところお時間をいただきましたが、長年の国際法に関する疑問を解消することができました」「個人経営の弁護士の法律相談は有料だが、検事は公務だから無料だ。防衛駐在官と在外公館警備官が指揮系統にないことは承知しているが、謝礼としてモリヤ1佐に協力してやってくれ」私は長時間に及んだ専門的で高度な質疑応答を締め括るに当たり、前の席で聞いていた佳織の顔を見て最後の要望をつけ加えた。これで夫婦としての体裁は整ったはずだ。
「貴方、ここではオランダで梢と暮らしているのと同じように過ごして・・・お願い」佳織の官舎のマンションに到着すると唐突に懇願してきた。結婚以来、常に成績優秀な同期で上官の同僚として振る舞ってきた佳織から懇願されたことはない。その真意を量りかねて顔を見ると何故か涙ぐんでいる。このように泣いたところは更に見たことがない。
「私は貴方のそんなリラックスしている顔を見たことがなかった。貴方は今、梢と夫婦として過ごしてるんでしょう。私もノザキの実家に帰るようになって父とスザンナの関係が夫婦と言うものだと思うようになった。貴方が梢に見せている夫の顔を私も知りたい・・・」梢と違い女性としては鋭い佳織の目から涙が零れ落ちた。
「それは止めた方が良い。ワシと梢の生活は君には耐えられない。亭主関白なんて許せないだろう」「でも梢はそれが幸せなんでしょ」「梢とワシはお互いの望むことが実現すればそれで満足なんだ。君のような冷静な計算は働かないよ」これが佳織に敗北感を与えることは判っているが「今更、夫婦の在り方を学習してもらっても得るものはない」とあえて冷たく突き放した。すると佳織は黙って歩み寄って胸に頬をつけてもたれかかってきた。
「まだ私を妻だと思ってくれてるなら願いを聞いて。貴方にとっての夫婦を知りたいの」ぞう言われても私にとっての夫婦像は自分の両親が完全な反面教師なのは間違いないが、理想としているのは梢の安里家と美恵子の玉城家の両親、ノザキ家の義父母も日本流とアメリカ式のベスト・ミックスが「素敵だ」とは思っている。
「それじゃあご要望に応えまして・・・」そろそろ眠くなってきたので余計なことを考えるのは止めて現在は梢との作法になっている通りにゆったり抱き締めた。続いて頬を両手で支えると数年ぶりの口づけを交わした。ついでに乳房を掴むのは若い頃以来の梢との習慣だが佳織にもやってみた。すると身体を固くした。
「走らないの。普通科を止めてしまったからね」佳織のベッドで仮眠して冬のフィリピンの日差しが翳ったところで散歩に出た。佳織も夕方のジョギングを習慣にしているようで散歩では物足りなさそうだ。やはり口づけを交わすと少し距離が縮まるのかも知れない。
「ここからは負んぶするぞ」佳織の苦情には梢との習慣で応えた。私がしゃがんで背中を向けると佳織は周囲を見回して歩行者や通行する車の運転手の視線を気にしながら背負われた。この点もハシャイで覆いかぶさってくる梢とは違う。
「帝国陸軍では長距離の速歩が基本で、負荷は背負う荷物の量で強化したんだ。ジョギングは縦紋筋を強化できても横紋筋は弱くなるから戦闘員には考えものだ」背中で相変らず周囲を気にしている佳織に久しぶりの講釈を垂れた。本当は梢をジョギングにつき合わせるのには無理があるため散歩にしているのだが帝国陸軍の史実に体育学校で習った知識を加えて反論にした。
「でも守山の頃、銃剣道には反対したけどジョギングは何も言わなかったじゃない」「陸上自衛隊の訓練を全て批判したら流石に首になるだろう。あの頃はまだ全国の連隊の中隊長巡りをするつもりだったからな」「それを断念させたのは私の入校ね」妙なことで佳織が沈んでしまった。確かに佳織が指揮幕僚課程に2年間入校したため久居の教育隊の中隊長に転属し、その後、アメリカ陸軍の指揮幕僚大学院に留学して普通科の人事系統から除外されてしまったが、それを責めるつもりはない。この辺りも2人の全てを肯定する梢とは違うところだ。
「だいぶ体重が軽くなったみたいだな。乳も縮んだぞ」「それは梢と比べてるんでしょ」沈んだ佳織を救い上げるために嫉妬を利用した。本当に不可解な夫婦関係だ。
  1. 2021/02/12(金) 13:17:37|
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2月12日・レトルトカレーの日

明日2月12日は昭和43(1968)年のこの日に世界初のレトルトカレー「ボンカレー」を関西限定で発売した大塚食品が制定した「レトルトカレーの日」です。
ボンカレーは今の連続ドラマの主人公がCMしていたオロナインの大塚製薬を中心とする大阪の大塚グループが食品部門に進出するため買収した企業の倉庫に大量のカレー粉があったためそれを処分できる商品として大塚化学(後の大塚食品)が開発しました。ちなみに健康炭酸飲料の「オロナミンC」は大塚製薬の商品です。
開発に当たり大塚グループではすでに家庭に定着している東京の大手食品メーカーの固形式インスタントカレーに対抗することは避け、過去に例がない全く新しい商品の開発を命じ、これを受けて大塚化学がターゲットにしたのが、子供の頃は家庭で母親が作ったカレーライスに親しみながら育っても進学・就職して1人住まいの自炊生活になって食べる機会を失い、たまに行く食堂で金を出してまで食べる気にはならない多くの独身男性でした。このため可能な限り手間をかけず誰でも簡単に食べられることを第1に冷蔵庫を持っていなくても常温である程度の期間は保存できる商品と言う方針が決まり、2年間かけて開発を進めたのです。その結果、1人1食分に小分けしたルーに肉や野菜も加えた調理済みの状態でビニール製の袋に密封して、袋のまま熱湯で3分間茹でるだけで食べられるレトルトカレーができました。
商品名の「ボン」は「美味しい」を意味するフランス語ですが社内会議では独身男性をターゲットにしていることを強調するため「チョンガーカレー」と言う案もでたそうですから流石は大阪のメーカーです。またパッケージやホーロー看板になっていた美貌の和服女性は時代劇の女流剣豪役(代表作は「くれないお仙」)で「日本版女性アクション・スター第1号」と呼ばれていた松山容子さんで当初はテレビのCMにも出演していました。
こうして関西から始まったレトルトカレーは翌年には名古屋に波及し、昭和44(1969)年に大手ローカル食品メーカーのオリエンタルが「スナックカレー」を発売しました。「スナックカレー」は商品よりも喜劇役者の南利明さんの「メチャメチャ美味いでかんわ オリエンタルスナックカレー たった3分ぬくとめるだけ 肉や野菜がいっぴゃあ入っとるで みんなウハウハ喜ぶよ オリエンタルスナックカレー ハヤシもあるでよ」と言う名古屋弁のCMが有名になりました。
そして後発になった東京の大手食品メーカーのハウスが昭和46(1971)年に発売したのが「ククレカレー」ですが、この頃には大阪万博で爆発的に売れた「ボンカレー」がレトルトカレーの代名詞になっていたため大苦戦を強いられ、CMに和田アキ子さん、佐久間真由美ちゃん(=「ケンちゃんトコちゃん」のトコチャン)、キャンディーズ、大場久美子さんなどの人気タレントを起用して何とか生き残りました。ちなみに商品名の「ククレ」は英語の「クックレス=調理要らず」を短縮した和製英語の造語です。
野僧個人としてはオリエンタルのスナックカレー(現在はマースカレー・レトルト版になっている)と「ハヤシもあるでよ」が一番好きで今でも通販で購入しています。
  1. 2021/02/11(木) 12:47:07|
  2. 日記(暦)
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