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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

4月1日・連合軍によるスイス・シャフハウゼンの爆撃

1944年の明日4月1日に永世中立国スイスの古都シャフハウゼンが連合軍のBー24爆撃機50機によって爆撃され、60トンの爆弾で40人以上が死亡、200人以上が負傷し、街の大半が破壊されて500人以上が家を失いました。この爆撃でアメリカ政府は400万ドルの賠償金を支払っています。
連合軍側は当然、「ドイツのルートヴィヒスハーフェン・アム・フィンと誤認した=誤爆」と弁明していますが、爆撃が行われたのは白昼であり、シャフハウゼンからルートヴィヒスハーフェン・アム・フィンはBー24の巡航速度で1時間分の235キロ離れていて、ライン川の北岸なのは共通していてもスイスに点在する湖との位置関係を見れば50機のパイロットと航法士が揃って同じ過誤を犯すとは考えられません。
スイス軍は第1次世界大戦に続き第2次世界大戦でも中立を堅持し、ナチス・ドイツが同盟国イタリアへの交通路として鉄道や車両だけでなく、航空機による通過を強く要求してきても拒否しただけでなく連合軍にも協力しませんでした。実際、ナチス・ドイツがフランスに侵攻する際、迎撃を受けて回避のため領空侵犯したドイツ軍機を高射砲で撃墜した一方で、連合軍がドイツの各都市に爆撃を加えるようになるとスイス政府の再三の抗議にも関わらず領空侵犯を繰り返すようになったため強硬な対応を採りました。連合軍としては爆撃でドイツを通過した後、編隊を維持したまま旋回するにはスイスの領空を使うしかなく、占領したイタリアからドイツに向かうのにスイスを迂回するのは燃料の無駄であり、スイスの領空内は攻撃を受ける恐れがないので常習化していたのですが、ナチス・ドイツが中立義務違反と批判したためスイスとしては侵攻の口実を与えない必要が生じたのです(オランダ侵攻の口実もイギリス軍情報士官の活動確認による中立義務違反だった)。
こうしてスイス軍は1943年7月12日から13日の夜間にイタリアとフランスに接するヴァレー州を低空で通過しようとしたイギリス軍の爆撃機2機を高射砲で撃墜したことに始まり、1943年10月1日にはオーストリアに接するバート・ラガーツ上空でアメリカ軍の爆撃機を撃墜しました。逆に1944年9月5日にはドイツ空爆で損傷を受けたアメリカ軍のB-17爆撃機を護衛していたP-51戦闘機がスイス空軍のメッサーシュミットのBf109の迎撃を受け、空中戦の末に1機を撃墜してパイロットを死亡させています。結局、第2次世界大戦中にスイス軍は戦闘機によって6機、高射砲で4機の連合軍機を撃墜して36名を死亡させました。
この事態にアメリカ国内の政治家と軍上層部の間ではスイスを敵視して懲罰=攻撃を要求する声が高まっていたので(ナチス・ドイツは自軍機が撃墜されたことを中立国の正当な権利と認めた)、この爆撃は戦争法(=War Low)の趣旨には違反しても戦時の不可抗力を名目に違法にはならない確信的戦争犯罪だったのは間違いないでしょう。その証拠に連合軍は1945年2月22日にシュタイン・アン・ライン(テーガーヴィレン、ラフツ、ヴァルスも被害を受けた)、3月4日のチューリッヒとバーゼルや国際連盟本部があったジュネーブなどのスイスの都市への「誤爆」を執拗に続けています。
  1. 2021/03/31(水) 13:17:31|
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振り向けばイエスタディ2231

4月16日の2度目の強い地震が発生した直後に陸海空自衛隊が戦力を集中発揮し、民間企業も昼夜を徹して復旧作業に当たったため行方不明者の捜索や被災地の復興は想定以上に順調に進んでいる。それでもマスコミは自衛隊の活躍と何よりも加倍政権の功績を報道することは我慢ならないらしく東北地区太平洋沖地震でも後半には報道の中心に置き換えた被災者の個人的な苦情を地方自治体の不備として追求する粗探しを始めた。
「どうして避難所を利用しないんですか」テレビの現地リポーターは先ず益城町の常設産業展示場の駐車場に止めた私有車で生活している被災者を取材した。実は18日にこの駐車場で車中泊していた50歳代の女性3人が旅客機でも座席の間隔が狭く動作が制限されるエコノミー・クラスの乗客が発症しやすい静脈血栓閉栓症で救急搬送されているのだ。
「避難所じゃあ知らない人間に気を遣わにゃならんからに決まっとるばい」窓をノックされて開けて顔を出した中年男性は「当たり前なことを訊くな」と言う顔で答えた。現地レポーターとしてはこの回答では必ずしも視聴者の賛同が得られないことが判っているので「やっぱり気疲れしますもんね」とだけ相槌を打って別の車に向かった。こうして見ましても地価が安い田舎で必要性を考えずに作ったらしい2200台収容の広大な駐車場には1000台近い私有車が止まっていてかなりの被災者の家族が宿泊しているようだ。その理由が「気疲れ」であればマスコミとしては別の利用価値が思い浮かぶ。
「お子さんと運動ですか。やっぱりエコノミー・クラス症候群が心配ですもんね」今度は車の外で子供と遊んでいる女性に声をかけた。医師や保健所だけでなくテレビでも静脈血栓閉栓症=エコノミー・クラス症候群を予防するため運動を心掛けるように指導しているので、それを実践しているのであればもう少し切実な理由が期待できるかも知れない。
「また強い余震が起きても車に乗っていればそのまま逃げられるじゃない」同じ質問に女性は経験したことがない強い地震から子供を守る本能的な責任を口にしたが、その逃げる場所は考えていないようだ。この常設産業展示場には全町民が車両で避難しても収容できるだけの駐車場が確保できているが、常識的には災害時は道路の渋滞や2次災害に巻き込まれる可能性が高い車両は避けるべきだ。マスコミとしてはこれを肯定することは控えなければならない。
「やっぱり地震の時は恐かったですか」「夜中に私も主人も経験したことがない凄い揺れだったんだもん。だから子供を守ることだけを考えて、倒れたタンスから服を傍にあった箱に詰め込んで車で逃げてきたのよ」どうやら冷静な判断ができるような人物ではないらしい。家を出たのが深夜1時25分に発生した2度目の地震の直後であれば、停電した暗夜の道路で陥没や舗装の亀裂、倒れた電柱などの危険を回避できたのが奇跡のようだ。
「避難所っち言ってもイベント会場ばい、天井には派手な照明が提がったって壁はガラスの板だ。車の方が安全たい」次は還暦過ぎの男性だが呆れるほど冷静な理由を述べた。言われてみればこの避難所は1階は縦150メートル、横54メートルの展示用ホール、2階は副次的ホールと大小の会議室やレストランで、イベントの開催を目的にしているだけに体育館などに比べて装飾は派手だ。さらにレストランの調理機材は停電、断水、都市ガスの供給停止で使用不能になっていて自衛隊の炊き出しが実施されていた。
「それは今後も14日と16日の地震よりも大きな地震が起こると言うことですか。今のところ中は壊れてませんよ」「せからしかァ、起きるかも知れんたい」現地レポーターとしては被災者の不安を強調するための質問だったが男性の機嫌を損ねてしまった。
「何か困っていることはありませんか」やはり粗探しにはこの質問に限る。現地レポーターが駐車場を歩き回りながら相手かまわず同じ質問を連射すると期待通りの回答が返ってきた。
「町役場は避難所の中の人間だけが被災者だと思っているようで食事や入浴を駐車場には案内しないんだ」「県も健康診断を連絡しなかったから、たまたま知り合いから聞いた人が確認して判ったんだ」熊本県や益城町役場としては指定した避難所に収容することが業務の前提であり、車内泊しているのは個人の都合である以上、避難生活も自己責任と考えるのは当然だが、過剰な権利意識を蔓延させている平成マスコミは行政の問題にするらしい。
「年寄りだけを大切にして子供のことは親の責任だと全部押しつけている」平成になってからは少子化問題などに関して若い夫婦が子供を作らない理由を問われると「幼稚園から大学まで卒業させるだけの収入がない」「仕事を継続するのに預ける保育所が不足している」と答えるが、昭和の親は子供のために生活を切り詰め、子供も親の収入に見合った進路を考えた。公立であれば幼稚園から大学まで通わせても普通の収入があれば無理なことはないはずだ。東北の震災では美しき昭和の日本人を再認識したが熊本では醜い平成の日本人が顔を見せ始めた。
  1. 2021/03/31(水) 13:16:16|
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3月31日・ナチスの諜報戦の専門家・シェレンベルグ少将の命日

1952年の明日3月31日はナチス・ドイツの末期には国家保安本部長官として軍事と外交・政治両面の諜報と防諜を1人で掌握・指揮したヴァルター・フリードリヒ・シェレンベルク少将の命日です。それでも戦犯として刑死していません。
シェレンベルグ少将は1910年にフランスとの国境に近いザール地方でピアノの製造・販売を営む家庭の7人兄姉弟の末っ子として生まれました。母親は敬虔なカソリック教徒だったため幼少時から厳格な宗教教育を受けますが、4歳から8歳まで第1次世界大戦の中で育ったため逆に宗教に否定的な人間性が形成されたようです。1933年3月にボン大学から司法修習生選考試験に合格して司法修習を受けることになりましたが、合格から13日後の4月に1月に政権を奪取していた国家社会主義ドイツ労働者党=ナチスに入党しています。ただし、「政権与党に加入すれば何かと有利」と言う功利的な理由でした。
ナチスでは親衛隊に配属されてヒトラー・ユーゲンス(少年親衛隊)の歴史教育を担当するとカソリックを厳しく批判しているのを同じく根っからのカソリック嫌いの親衛隊保安部長官のラインハルト・ハイドリヒ中将が耳にしたことで気に入られ、翌年から政治上の諜報と膨張を担当する保安部に配属されました。そして1936年に司法試験に合格すると保安部本部の人事・財政担当のⅠ局に異動して1937年には内務省にも入省し、1938年に参事官に就任しました。これと同時進行で1937年に少尉に任官して以来、1938年に半年で中尉から大尉になったほかは毎年1階級ずつ昇任していきます。
第2次世界大戦が始まっていた1939年9月に親衛隊保安部が独立してハイドリヒ中将を長官とする国家保安本部が創設されるとシェルンベルク少佐はゲシュタポ局防諜部長に任命されました。その直後にドイツ国境近くのオランダ領内でイギリス軍の情報士官を逮捕し、これをオランダの中立義務違反として侵攻の口実にすることに成功しています。
その後、1942年にハイドリヒ中将がチェコでイギリス軍の特殊部隊に暗殺され、国防軍情報部部長のヴィルヘルム・カナリス中将が中立国への情報工作の失敗によってヒトラー総統の信認を失ったことで戦時下のナチス・ドイツの諜報・傍聴は親衛隊保安本部に一元化されることになり、シェルべルク上級大佐が単独で指揮することになりました。
大戦末期になると情報の専門家だけにナチス・ドイツの破滅を確信するようになり、親衛隊のハインリッヒ・ヒムラー長官にスウェーデンを仲介とするイギリスとの和平を提案し、自らスウェーデンに赴いて交渉に当たりますが間に合わず、敗戦後の帰路に潜伏していたデンマークで1945年6月に逮捕されて戦犯になりました。しかし、ニュルンベルグ継続裁判の大臣級審では親衛隊の最高幹部でありながらユダヤ人虐殺に関わる役職には就いていなかった上(諜報と防諜の能力が傑出していて専業化していた)、司法取引で他の被告に不利な証言を提供したため1949年に懲役6年の判決を受け、獄中では回想録「秘密機関長の手記」を記述して過ごしましたが、肝臓癌と診断されて1951年に釈放されるとスイスを経てイタリアで暮らし、この日にトリノで死亡しました。釈放後はカソリックに帰依し、教会に通う日々を送っていたようです。
  1. 2021/03/30(火) 12:51:22|
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振り向けばイエスタディ2230

震源地に近く猛烈な揺れに襲われた益城町では公民館や集会所も被害を受け、常設産業展示場が避難所に充てられている。このため自衛隊の炊き出し部隊や仮設浴場が活躍しているのだが、中越地震や東北地区太平洋沖地震も経験している他の方面隊からの派遣部隊の隊員には理解不能な状況が生起していた。
「おはようございます」「ご苦労さま」「ご馳走になります」朝食の準備が終わり、市役所の職員が送電がようやく始まった施設の一斉放送で声をかけると平均年齢が高い被災者たちが隊員に声をかけながら出てきて、正面玄関前の駐車場に設置した行事用テントの仮設食堂で列を作った。今は4月中旬なので外で食べるのも悪くない。
「あの人たちは何で車の中で寝てるんだ」配食が始まるとこの施設で行事やコンサートが開催された時に使うかなり広い駐車場に止めた自家用車から出てきた比較的年齢が若い人間たちが歩いてきて不満そうな態度で列の後ろに並んだ。それを見て仕事を終えて少し離れて休憩している調理担当の隊員たちは小声で話し合った。
「東北の震災の時は停電で暖房が効かない体育館は寒くて、みんな毛布に包(くる)まってたけど今はそうでもないよな」「中越の時は10月だったからこんな感じだったよ」「阪神は1月だったから寒かったぞ」平成になって続発する大規模災害でどの隊員たちも実践(実戦ではない)経験が豊富になっているが、1993年7月の奥尻津波地震、1995年1月の阪神淡路大震災、2004年10月の中越地震、2007年7月の中越沖地震、2011年3月の東北地区太平洋沖地震のどれを経験しているかで世代が判別できる。今回、遠方の方面隊は抽出派遣のため若い陸士はあまり連れて来られなかったが、経験や教訓は語り継がなければならない。
「あの人たちは避難所ではプライバシーが確保できないって拒否したんですよ」そこに市役所の職員が口を挟んできた。その顔には不満や立腹よりも困惑の色が見える。
「だった被災者だろう。緊急事態にプライバシーも糞もあるか」「足を伸ばして寝られる場所があるだけで有り難いって東北の人たちは言っていたぞ」「涙を流して手を合わせてたお婆ちゃんがいたな・・・元気かな」東北の震災には新米の陸士として参加した世代の陸曹は印象に残っている老女を思い出して鼻をすすった。
「ここでも高齢の方は同じ気持ちなんですが、バブル期に育っている世代は我慢を知らないんです。自分の車の中で過ごして何が悪いって言い出せばもう譲ることはありません」この職員は20歳代後半なので車から出てきた人間たちよりは年下だ。公務員が徹底的に敬遠されたバブル期に廃品回収のように掻き集めた職員を上司に持ち、その無能な仕事ぶりに苦労しているのが見て取れる。ここで怒っている若い陸曹も同世代だが、自衛隊は任期制なので陸曹候補生選抜試験に合格しなければ残ることはできず、合格すれば1年間の徹底的な教育を受ける陸曹は一般の公務員ほど能力の劣化は深刻ではない。その点、航空自衛隊はバブル期に航空教育隊が課程教育の達成基準を著しく落としたため、逆にバブル期入隊の空士を昇任させずに満期退職させることを航空幕僚長が指示しなければならなくなった。
「何だ、今日もオカズは切干大根に漬け物かよ。老人食ばかりじゃあねえか」「たまにはスクランブルエッグくらい作りなさいよ」「僕、エッグ・マフィンが好い」その時、配食場からバブル世代の家族が文句を言っているのが聞こえてきた。
「ちょっと行ってきます」反論しないように指導を受けている陸士は無視して小鉢への配食を続けているが、職員は唇を噛んで足早にその家族のところへ向かった。
「すみません、何か問題がありましたか」ここは民間の商店や食堂ではないので「ご不快なこと」とは言わない。すると夫で父親と思われる男性が相手を年下と見て高圧的な態度で口を開いた。
「毎朝、毎朝、同じようなオカズばかり出しやがって。こんなものを喜ぶのは年寄りだけだ。税金を払ってるのは俺たちなんだ。俺たちが喜ぶオカズを出せよ」「この子もご飯が不味いって食欲がなくなってるのよ。身体が弱って病気になったら責任を取ってくれるんでしょうね」「僕、車に帰ってポテトチップ食べよっと」両親の攻撃的な抗議を息子が阻害した。スナック菓子なら食欲はあるらしい。
「市としては衛生面を考えて十分に加熱できるオカズを自衛隊さんにお願いしています。高齢者に若い世代の高カロリーの食事を提供するのは健康管理上の問題もありますから避けざるを得ないと言う理由もあります」「それにこの食材は全国から届いている支援物資だ。貴方たちの税金では買っていない。要するに貴方たちは無料飯(ただめし)を食わしてもらってるんだ」職員の丁寧な説明にバブル世代の夫婦が感情的に反論しようとしたのを見て、現場指揮官の曹長が援護射撃を加えた。それでも「嫌なら喰うな」と言わないところは流石だ。
  1. 2021/03/30(火) 12:49:55|
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3月30日・自衛隊音楽隊の開祖・須摩洋朔1佐の命日

2000年の明日3月30日は警察予備隊ですでに創設されていた音楽隊を保安隊、陸上自衛隊で発展させ、今も耳にする多くの楽曲・号音=ラッパを作曲した須摩洋朔(ようさく)1佐の命日です。92歳の長命でした。
須摩1佐は明治40(1907)年に石川県羽咋郡志賀町で生まれ、大正14(1925)年に陸軍戸山学校の軍楽課程に入校して首席で卒業するとトロンボーン奏者として同校の軍楽隊に配属されました。対米英戦争が始まり昭和17(1942)年に南方軍軍楽隊が編制されると東南アジアに赴任し、昭和19(1944)年に南京で中支那派遣軍音楽隊が第2軍音楽隊に改編されると大尉で隊長に就任しました。ところが昭和19(1944)年10月に南方軍軍楽隊がマニラからサイゴンに移動中に輸送船が撃沈されて大沼哲隊長以下が全滅したためサイゴンに移動して第2軍軍楽隊と東南アジアで経験者を集めて南方軍軍楽隊を再建することになりましたが、それも束の間で敗戦を迎えたのです。
敗戦後は日本交響楽団(後のNHK交響楽団)にトロンボーン奏者として加入し、ソロも担当しますが、昭和26(1951)年に警察予備隊で将来の音楽隊とするべく総隊総監部仮分遣隊が創設されると当時は公職追放中だったため背広着用の講師として招聘され、自ら音楽要員45名(希望者は599名だった)を選考するとその年に越中島で開催された観閲式で演奏を披露しています。さらに保安隊を経て昭和29(1954)年に陸上自衛隊中央音楽隊が創立すると初代隊長に就任しました。
須摩1佐は戦時中からも多くの軍国歌謡を発表していますが、現在も陸空自衛隊(海上自衛隊は基本的に帝国海軍の日課号音を継承している)が使用している「起床」から「消灯」までの日課ラッパや以前の「栄誉礼冠譜」と「栄光」(昭和61年からは黛敏郎さん作曲の新「栄誉礼冠譜」と「祖国」に変更された)や「巡閲」などの儀礼曲も作曲しています。野僧が感心するのは「起床」や「消灯」のラッパは映画などでも流れて多くの国民が記憶している中で全く異なったメロディーを作曲し、それが違和感なく定着していることです。中でも国旗掲揚・降下時に流れ、隊員に姿勢を正すことが義務づけている「君が代」は「キーミーが代(は)、キーミーが代(は)、千代に八千代にさーざーれー、イーシーの、イーワオと、なーりてコーケのむーすまで」と歌詞が合うのには恐れ入ります。
また自衛隊行進曲「大空」は1964年の東京オリンピックの開会式で中央音楽隊が入場してくる時に吹奏したことで国民にも広く知られるようになりましたが、その後、帝国陸軍出身者の懐古趣味で先ず山口陸軍閥の膝元の航空自衛隊防府南基地でフランス製の帝国陸軍の行進曲「扶桑曲」と「抜刀隊」を使い始め、それで反発の声が起きないことを確かめて陸上自衛隊でも徐々に使用するようになり、今では雨の神宮外苑で有為な学徒たちを戦地に送り込んだ呪われた曲が陸上自衛隊の公式行進曲になってしまっています。
幸いなことに航空自衛隊は1994年に航空中央音楽隊の矢部政男准尉が作曲した行進曲「空の精鋭」が制定されたので防府南基地でも使用していません。陸上自衛隊も帝国陸軍への自縛を解消するため明るく晴れやかな名曲「大空」に戻すべきでしょう(警察の機動隊も使用していますがこちらは「Gメン75」の主題曲はどうでしょうか)。
  1. 2021/03/29(月) 12:48:41|
  2. 自衛隊史
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振り向けばイエスタディ2229

昼時、男性陣が地震で破損した自宅の片づけを切り上げて避難所に戻ると自衛隊の給水車が巡回してきた。こうなれば調理室からポリタンクを持ってきて注いで運ぶのは男性陣の仕事だ。
熊本市内では16日の地震で32万戸が断水したが昨夜の時点で26万戸の試験給水が始まったものの濁っていて飲用には使えないため当分は自衛隊の給水は継続される。
給水車の前に列を作っている男性陣が聞き慣れない爆音に顔を向けると何度もニュース映像で見ているプロペラ機が2機、空港がある東側の丘陵地帯に向かって高度を下げていた。
「あれがオスプレイだな」「沖縄の普天間から山口の岩国に来てるんですよ。そこから毎日ここまで通ってくれてます」若い陸曹が興味深そうに眺めている被災者たちに説明した。
「テレビや新聞では墜落事故を繰り返す欠陥品と言っていますが、それは開発段階の話で今ではフィリピンの超大型台風やネパールの地震でも大活躍して、被災地では絶賛されています。日本のマスコミは全く報道しませんがね」この陸曹は妙に詳しいが名札の「17普」が山口駐屯地の部隊であることは素人には判らなかった。
「それは知らなかったな。フィリピンの台風の時はレイテ島だから自衛隊の派遣は現地人の反発を買うって言う話ばかりだった」すると2つ目のポリタンクが満タンになるのを待っている高齢の男性が記憶を辿るように答えた。2013年に超大型台風30号で最大の被害を受けたのは第2次世界大戦の激戦地レイテ島だったのでフィリピン政府の要請を受けて加倍政権が自衛隊を派遣するのを南沙諸島の領有権問題を理由に関与を拒否された共産党中国が批判すると日本のマスコミも同調して就任1年が迫る加倍政権への批判を展開した。
「あの時もマスコミは日本が自衛隊を派遣するのは戦争中の記憶を揉み消すための宣伝だって批判してたな。今回と同じ論理だ」今思えばあれはアスプレイの活躍も隠蔽する一石二鳥、一挙両得の批判報道だったのかも知れない。
「オスプレイが配備されている普天間では本土から移住して反対運動をやっている活動家たちがオスプレイを墜落させようと着陸コースで金属片を着けた風船を飛ばしたり、操縦席のパイロットの顔にレーザー・ビームを浴びせているそうです。それでも日本の法律では嫌がらせ扱いなんですよ」「好い加減にしとけよ。だらがァ」相手が標準語を話しているとこちらも自然に合わせるのは九州人の特性だが、それでも興奮すると九州弁が出てしまう。
「日本のために、熊本のために命がけで飛んできているアメリカのパイロットたちを誹謗するようなマスコミは許せんな」相手をしていた男性がポリタンクを両手に持って建物の中に向かうと次の男性が交代した。陸曹としては被災者たちにアスプレイの説明をするのは職務ではないが極端に偏向したマスコミ報道に修正を加えるのは必要な広報活動だ。
「東京の新聞やテレビは『自衛隊のヘリコプターで足りている』『オスプレイは必要ない』だから宣伝だって断定しとるばってん本当に必要ないね」阪神大震災当時であれば、ここで迂闊にマスコミ批判を口にすればそれを取材に回っている記者に告げ口されることを警戒しなければならなかったが、東北地区太平洋沖地震の献身的な救援活動で国民との信頼関係が構築されてから入隊した世代の陸曹は疑うことなく素直に答えた。
「オスプレイの搭載量は自衛隊の大型ヘリのCHー47の2倍以上です。今は2機のオスプレイで南阿蘇村まで空輸していますがCHー47では4機になります。それに新たな緊急事態が発生して住民を避難させることになった時、オスプレイがあれば半分の時間で住民を避難させられるんです」陸曹が当たり障りのない模範回答をしたところで1本目のポリタンクが一杯になり、男性が重そうに置き換えた。
「そう言えば佐賀の原内がテレビで『災害派遣は有り難いが、オスプレイは遠慮して欲しい』って言っていたな」男性が返事をしないと背後から次の順番の男性が口を挟んできた。
「原内って民政党政権の時の総務大臣ですよね」今度は被災者が解説することになった。原内三博(はらうちみつひろ)は佐賀県選出の衆議院議員で、政権交代前からテレビの報道バラエティー番組で顔と名前を売っていたため雀山内閣と缶内閣では総務大臣を務めた。ところがテレビでは保守的で常識ある発言を弄していながら大臣としては在日外国人の参政権問題や放送事業への認可などでA日新聞寄りの軽率で売国的な言動を繰り返し、「所詮は尾沢一郎の門下生」と今では完全に化けの皮が剥がれている。
「佐賀の人間とって熊本の震災は対岸の火事なんだよ。今度の佐賀県知事も似たようなもんだ」「同じ肥州の肥後と肥前でも昔から敵対してるんだ」今度は被災者2人が若い陸曹を教育した。2015年1月に当選した佐賀県知事は航空自衛官の息子でありながらアスプレイの佐賀空港への配備反対を公約している。空挺隊員の息子の某首相を思わせるような人物らしい。
  1. 2021/03/29(月) 12:46:25|
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3月28日・「サウンド・オブ・ミュージック」のマリアの命日

1987年の3月28日は映画「サウンド・オブ・ミュージック」ではジュディ・アンドリュースさんが演じたマリア・アヴスタ・フォン・トラップさんの命日です。
野僧は映画とは別にアメリカのマリアさんの著書を原作とする連続テレビ・ドラマ「Die Trapp Familie(この題名はドイツ語)」も見ているので映画と事実の違いも承知しています。マリアさんは生活苦から著作物に関する権利を売り渡していたため黙っていましたが、ミュージカル「サウンド・オブ・ミュージック」は事実に反する展開や描写が多く、映画化が決まった時に訂正を求めたのですが変更されることはありませんでした。
マリアさんは1905年にオーストリア・ハンガリー帝国の首都・ウィーンで生まれました。間もなく母親が亡くなったため父方の親戚の家で育ち、9歳で父親も亡くなると全寮制の学校に入りました。1923年にウィーンの師範学校を卒業するとオーストリア民謡を唄う青年たちの合唱団に加わり、讃美歌を観賞する目的でミサに参加するうちにカソリックに染まり、ザルツブルグにある修道院に志願者として入りました。しかし、学校の寮と修道院では生活が違ったのか体調を崩すようになったため家庭教師を求めていたトラップ家に住み込みで勤めることになったのです。映画ではトラップ大佐が子供たちを軍隊式に育てていたように描いていますが、実際は男手一つで年頃の娘を含む7人の子供(映画とは違い実際は16歳の長男、14歳の長女、13歳の二女、12歳の二男、10歳の三女、8歳の四女、6歳の五女の順だった)を育てている理想的な父親で21歳のマリアさんが本格的に音楽を教え、一緒にサイクリングやバレーボール、ダンスを楽しんでいるのを見守り、子供たちが慕うのに合わせて恋愛感情を抱くようになり、1年後の1927年に修道院がある聖堂で結婚式を挙げました。この時、トラップ大佐は47歳でしたが、マリアさんとの間にも1男2女を儲けています。
1933年に金融恐慌の影響で資産を預けていた銀行が倒産して資産を失うとトラップ大佐は意気消沈・茫然自失しますがマリアさんは逆に気合が入り、オーストリア帝国時代には社交場として多くの宿泊客を泊めていた屋敷の部屋を神学生の下宿にして家賃収入を確保し、マリアさんと子供たちで合唱団を結成してオーストリア各地の行事で聖歌と民謡を公演して回る企画を提案したのです。この時、下宿の監督として住み込んでいた神父がイタリアで本格的に音楽を学んでいたため顧問として子供の声域に合わせた編曲や新作の作曲などを手掛けることになりました。こうしてオーストリアだけでなくヨーロッパ各地で公演するようになりましたが、1938年にオーストリアがナチス・ドイツを中心とする大ドイツ帝国に吸収されると長年仕えている執事がオーストリア・ナチス党員でありながら亡命を勧め(ここも映画とは逆)、アメリカから公演の依頼を受けていることを利用して神父と共に出国したのです。10番目の子供を妊娠中でした。
アメリカでは合唱だけが収入源になり全米各地を旅する生活になりますが、移動中に目にしたバーモンド州ストウの野原が気に入ってロッジ兼自宅を建て、そこで暮らしました。現在は1947年に亡くなったトラップ大佐と並んで葬られています。
JulieAndrews.jpg映画のマリアさん(本人は栗色の髪)
  1. 2021/03/28(日) 13:01:25|
  2. 日記(暦)
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振り向けばイエスタディ2228

「いい加減にしとけよ。だらがァ(いい加減にしろ。馬鹿が)」翌日、避難所の公民館で遅れて届いた新聞を一読した被災者の男性2人が一緒に大声を上げた。片方の男性は自宅の新聞のつもりで丸めそうになったところで踏み留まった。
「ヌシ(貴方)の新聞はどこね」「オイ(私)のは時時新聞たい。ヌシのは」「オイはA日新聞たい」どうやら丸めそうになったのは地元ローカル紙の熊本時時新聞、もう1人はA日新聞だったようだ。大声を上げた者同士で確認し合っているのを違う新聞を広げている被災者たちは苦笑しながら横目で見た。この元気はむしろ嬉しくなる。
「時時新聞は何ば言っとるっとね」「後ろの記事は支援物資が届いて良かったっち書いとるばってん、1面じゃあオスプレイを飛ばしたのを安全性の宣伝と言っとるたい」説明を聞いてA日新聞の男性が覗き込むと「露骨すぎ」「身内も批判」「同盟PR」「安全性宣伝か」と言う文中の見出しが目に入った。地方紙では自社で独自に取材しない海外や全国区の記事は「××通信」と名乗る報道媒体から買っているのでこれも東京発の記事だろう。
「A日はどげん言っとるね」熊本時時新聞の男性の確認にA日新聞の男性は答える代わりに1面を広げて見出しを見せた。すると「必要性疑問の声」「政治的な効果」と似たような内容であることが推察できる大小の見出しが載っていた。
「昨日、南阿蘇村の親戚からアメリカ軍のおかげで水を心配なく飲めるようになった。飯が腹一杯食えるようになったっち携帯電話があったたい。南阿蘇の人間は白水水源の水ば飲んじょるけん水の我慢はできんのじゃ。それが地震で濁って飲めんようになったばってん生温いタンクの水で我慢しとったたい」「水と食料を10トン運んだってラジオで言っとったばい」昨日は被災者たちもテレビの夕方のニュースでアスプレイの空輸を見ていたが、日頃から「事故が続発している欠陥機」「死者を大量生産している悪魔の飛行機」と聞かされているだけに事故を心配していた。ところが夜になって南阿蘇の親戚や知人から携帯電話で「食料と水が10トンも空輸されて避難生活が大幅に改善した」と聞かされて認識を改めていた。
「今の熊本の道じゃあ10トン車は走れんのは誰でも判ることたい。それをオスプレイは空を飛んで運んでくれるんだ。有り難いこったい」ここにアスプレイに詳しい自衛官がいれば本当は垂直離着陸運用でも23トンの積載量があるのだが、着陸するグランドの強度から10トンに抑えていることを説明されてさらに感心したはずだ。
「M日は相変らず『疑問の声』『の可能性』『ではないか』っち言い方で遠回しに批判しとるばい」2人の会話が盛り上がってきたところに隣りで別の新聞を読んでいた被災者が声をかけた。要するに「読まないのなら交換してくれ」と言うことらしい。
「せからしかァ、そう思ったのはヌシの勝手って態度たい」「どうせA日の記事の反応を見て自分も同調するんだ。そん時は『ウチも前に言った通り』って書くんたい」「従軍慰安婦の時と同じだ」大声2人組は空の椅子に交換に置かれたM日新聞の1面の見出しを冷ややかに眺めながら批判した。M日新聞はライバルのA日新聞が大正期にスターリンの世界共産革命戦略の道具と化して以来、世論を亡国の方向に誘導することを存在理由にして大々的かつ衝撃的な報道を専らにしているのに比べて常に後発で文面も断定することを避ける傾向がある。その辺りが九州人には臆病で卑怯に見えるようだ。
「マスコミは今回の災害空輸がオスプレイの安全戦の宣伝だと言っとるが、新聞やテレビが危険、危険と言い続けていることの方が嘘っち宣伝してもらった方がよか」「時時新聞も失敗したな。多分、南阿蘇に取材に入っちょる記者は地元の声で記事を書いたんだろうが編集部は東京の記事を優先したんだ。それじゃあ地元の読者に逃げられることが判らんのか・・・だらがァ」思いがけず始まった時事阿呆談に区切りがつくと2人は立ち上がって停電で自動販売機が使えないため代金と引き換えになっている缶コーヒーを箱から取ってきた。
「遅くなりましたが朝食の準備ができました」2人が缶コーヒーをすすったところに調理室から出てきたエプロン姿の女性が声をかけた。今回の地震は津波で低地の集落の中央にあった公民館が壊滅的な被害を受けたため比較的高台の学校を避難所にした東北地区太平洋沖地震とは違い調理室などが完備した公民館を利用しているので食材さえ配給されれば自活できる。
「昨日、地震で大きな被害を受けた南阿蘇村にアメリカ海兵隊のオスプレイ1機が水や食料などの支援物資10トンを空輸しました。オスプレイは主翼の角度を変えることで垂直に離着陸できます」当番になっている男性が並べた長い座卓の席で温かい朝食に口をつけるとテレビでは県内の地方ニュースが流れていた。悪意に基づく虚報で固めた全国ニュースでは気分が悪くなり、折角の手料理が不味くなるところだった。
  1. 2021/03/28(日) 12:58:28|
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3月27日・「ふしぎなえ」の元祖・エッシャーの命日

野僧が小学生時代に夢中になったトリックアートの絵本「ふしぎなえ」の作者・安野光雅さんは2020年の12月28日に亡くなりましたが、安野さんが俯瞰図法や陰影法による目の錯覚を利用して読者の固定概念を逆手に取るトリックアートに目覚める切っ掛けを与えたオランダの画家・マウリッツ・コルネリス・エッシャーさんは1972年の3月27日が命日です。
エッシャーさんは1898年に牛市場があるオランダ北部の酪農の中心地・レーワルデンで土木技術士と2番目の妻の5人兄弟の末っ子として生まれました。父親は明治11(年から18年まで日本政府の招請で来日し、大阪の淀川の護岸工事や福井の三国港のエッセル(エッシャー=Escherの読み間違い)堤などの設計と作業指揮を経験しています。
5歳の時、オランダ中部のアルンヘムに引っ越し(国土が狭いので遠くはない)、ここで中等学校まで通いますが、父親から土木工学と建築学を学び、ピアノを習いながらも絵画が最も得意で、「数学は丸で駄目だった」と本人が回想しています。1919年からはオランダ西部のハールレムの大学で建築学と装飾美術を専攻し、卒業後に装飾美術を磨くため美術学校に通い始めるとユダヤ人の版画家で画家のサミュエル・イェストゥルン・メスキータさんに認められて絵画や版画の修業に励みました。1924年にイタリアを旅行して知り合った女性と結婚すると1926年に長男が生まれ、間もなくローマに移住して1930年には抽象風景画の傑作とされる「カストロバルバ」を発表してイタリア美術界で存在を認められたもののファシズムの台頭で長男が軍事教育を受けるようになり、二男が軽度の結核にかかったためスイスに移住しました。しかし、スイスの閉鎖的な環境は性に合わなかったようで海に憧れるようになり、船会社に作品を船賃することを提案して、それが了承されたことでスペインまでの地中海の船旅が実現したのです。この船中で描いた48枚の作品は現在も傑作として高い評価を得ています。
スペインでは王宮のイスラムに支配されていた時代の同じ図柄が連続するモザイク模様を見て衝撃を受け、さらに結晶学者の兄から見せられた結晶学界の機関誌で同じ形の連続に美を見出し、1934年にベルギーに移住すると平面の正則分割(平面を同じ形で埋めていく画法)の論理的研究を本格化させれ、数学的な要素を加えた独自の作品を発表するようになりました。その後は難解な絵画に見る者が追いつくことで支持者が急増し、1950年代に入ってアメリカの雑誌で紹介されたことで若者の絶大な支持を受け、講演依頼が殺到するようになりましたが1960年代に入ると癌を患ってしまい1964年に講演のためアメリカに向かうと到着したカナダで倒れ、そのまま10度の手術を受けながら余生を送り、最期の2年間を過ごしたオランダの芸術家のための養老院で死を迎えました。
なお2002年にはオランダの王都・スフラーフェン・ハーグにある1879年から90年の王妃の宮殿がエッシャー美術館になりました(=オランダ出身のバン・ゴッホさんよりも高く評価されている)。日本ではオランダのテーマ・パークの長崎のハウステンボスのコレクションが充実しているようです。
エッシャーエッシャーさんの初期の作品
  1. 2021/03/27(土) 12:53:24|
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振り向けばイエスタディ2227

「グッド・ジョブ(ご苦労さま)」「オーッ、サンキュー(ありがとう)。ユー・トゥー(貴方たちこそ)」白水運動公園では運搬要員の陸曹の指揮官が着陸して後部ハッチを開けたロード・マスター(空中輸送員)に出発前に安川3尉から習った台詞で声をかけた。ロード・マスターは思いがけず若い女性海兵隊員で、弾けた笑顔に若い隊員たちは何故か頬を赤らめた。
「よし、整列。手渡しで送るぞ」先頭の指揮官の指示に隊員たちは一斉に1列に並んだ。段ボール箱を固定するベルトを外していたロード・マスターは「何が始まるのか」と言う顔で呆気にとられたが指揮官と別の陸曹が機内に上がると最初に運ぶ箱を手で示しながら「ア・リトル・ヘビー(少し重い)」と声をかけた。
「それ行くぞ。やや重」「やや重」「やや重」隊員たちは荷物の重さを注意喚起しながら箱を手渡ししていくとベルト・コンベアーのように流れていった。
「次は水だ。重い」「水だ、重い」「水だ、重い」食料品に続いて飲料水のペットボトルを詰めた箱になった。箱の大きさは食料品と大差はないが、重さよりも重心が不安定だ。それでも水の箱も同じ速度で流れていく。ロード・マスターは人間ベルト・コンベアーの見事な機能を機体側面のドアから眺めて感心している。列の最後尾は3名いて交代で積み上げているが、その並べ方も整然としていて立ち合っている村役場の職員も感激していた。
「グレート(素晴らしい)、ユー・アー・ナイス・ジョブ(見事な仕事です)」「ありがとう。グッドバイ」「グッド・ラック。シー・ユー・アゲイン(また会いましょう)」驚くほど短時間で貨物を降ろし終るとロード・マスターは後部ハッチを閉め、機体を1周回って外観を点検して側面のドアの下で見送っていた指揮官と言葉を交わしてから乗り込んだ。しかし、残念ながら陸曹の指揮官の英語力では賞賛の言葉も半分しか理解できなかった。
「何ば言っとうとたいッ(何を言っているのか)」陸上自衛隊がアスプレイが空輸してきた10トンの食糧と飲料水を車両で配ると避難所になっている公民館で受け取った男性職員は電力会社が停電している地域に差し向けた発電車両の電力で点けているテレビのニュースを見て大声を上げた。その声を聞いてロビーで中身を確認している村民もテレビを見た。
「あんな大きな機体が若しも住宅の上に墜落したらと思うと背筋が凍りつくような恐怖を感じます」アスプレイが飛来してから報道バラエティー番組で「悪魔の飛行機」と誹謗し続けていた現地リポーターはそのまま夕方のニュースにも登場して離陸した様子を忌々しげな顔と口調で解説した。発電車両の燃料を節約するためニュースまでテレビをつけていなかったのでこの現地レポーターが番組コメンテーターと一緒にアスプレイを誹謗し続けていたことは知らないが、ニュースの解説者も「加倍政権としてはオスプレイが役に立つことをアピールするのに震災を利用したんでしょう。ついでに普天間基地の必要性も理解されれば願ったり叶ったりじゃあないですか」と補足した。
「今、離陸したオスプレイが向かう山口県の岩国基地でも地域住民が抗議運動を行っています。山口テレビA日の江原さん」ニュースの画面は夕空を飛んでゆくアスプレイから基地のフェンスの外の歩道に首に赤い鉢巻をかけた10数人の男女が並んでいる映像に替わった。こちらでも地方局の若い男性アナウンサーが現地レポーターになっている。
「山口県岩国市にありますアメリカ海兵隊岩国基地前からです。こちらでも今回岩国基地がオスプレイの根拠地になり、その実績で将来的に配備されるのではないかとの不安が市民の間で広がっています」ここでデモ隊と呼ぶには少人数の集団がアップになったが、掲げている赤い旗には広島県自治R、広島県教Sと染め抜いてあるのが判った。それにしてもここは基地前ではなく滑走が沖合に移設された後の空き地の端に接する国道の歩道のはずだ。広島から出張してくる反アメリカの反戦平和団体が基地の前で反対運動を行えば「世界のアメリカ海兵隊キャンプの中で最高の友好関係」と賞賛されている岩国市民からの抗議が殺到するため人目を避けてコソコソと自己満足のための行事を催しているのだ。だから赤い鉢巻も頭に巻くことはできず飾りのように首にかけている。
「馬鹿野郎、オスプレイさんは人助けに来ちょるんじゃ。そんなところでお祭り騒ぎしちょるなら熊本へ行って人助けのために働けっちゃ」現地レポーターがオスプレイが日本に配備された時、岩国基地に陸揚げして組み立てた経緯の説明をしているとデモ隊の背後に停まった車の窓を開けて初老の男性が罵声を浴びせた。
「以上、岩国基地前からでした」男性を見て車を停めて怒鳴りつける人物が続いたのでデモ隊は慌てて赤い旗の竿を倒し、テレビも中継を切り上げた。テレビ局にとってはアスプレイがフィリピンやネパールの大災害で活躍したことに触れずにすんだのは幸いだっただろう。
  1. 2021/03/27(土) 12:50:50|
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3月27日・元祖軍神・広瀬武雄少佐が戦死した。

日露戦争中の明治38(1905)年の明日3月27日に広瀬武雄少佐が旅順港閉塞作戦で戦死しました。一般的には「軍神・広瀬中佐」と言われていますが、中佐に昇任したのは戦死後なのでこの記事の原則に従って存命中の階級で呼称します。
元祖軍神・広瀬少佐は後発の軍神・乃木希典愚将や山本五十六大将と同様に数多くの逸話が創作されていています(流石に捏造とは言わない)。例えば広瀬少佐が在ロシア駐在武官補佐官として勤務している時、酔っ払ったロシア兵に絡まれて得意の柔道の技で投げ飛ばしたのを見たロシア人が教えを乞うようになったのがロシアの格闘技・サンボの発祥とする風説は広瀬少佐がロシアへ赴任する以前にロシア正教を布教するため東京に移り住んでいた神学生が講道館に入門して持ち帰ったことが確認されています。また講道館時代、若い三船久蔵10段が稽古では全く歯が立たず上野公園で挑戦したところ不忍池に投げ込まれたと言う伝説も真偽不明です。ただ嘉納治五郎先生が可愛がっていたのは事実のようで戦死の悲報に号涙し、段位を4段から6段に特別昇段させて海軍から最期に手にしていた血染めの海図が贈られると柔道家の遺品として講道館殿堂に展示しました。得意技は俵返し=レスリングのサイド・スープレックスだったそうです。
広瀬少佐は慶応4=明治元(1868)年に現在の大分県竹田市で岡藩士の次男として生まれました。現在人口2万人弱の竹田市は文人画家の田能村竹田さん、音楽家の滝廉太郎さん、軍人としては広瀬少佐と兄の広瀬勝比古少将や敗戦時の阿南惟幾陸軍大臣などを排出し、彫刻家の朝倉文夫さんも竹田市で育っています。
ところが西南戦争で自宅が焼失したため飛騨高山に転居し、そこで教職に就いた後、6歳年上の兄に続いて当時は築地にあった海軍兵学校に入営しました。ここから講道館に通ったようです。明治22(1889)年の海軍兵学校を卒業すると軍艦・比叡や測量艦・海門に乗務し、航海中に清水港に寄った際、士官仲間と次郎長さんに面談しますが、座敷に入ってきた次郎長さんが居並ぶ士官たちを一瞥して「男は一匹もいねエな」と言い放つと広瀬少尉が立ち上がり、「1つ手並みを見せてやるから驚くな」と言い返して鉄拳で自分のみぞおちを50発殴ったため次郎長さんに気に入られ、意気投合したそうです。
日清戦争後はロシア語の習得に取り組み、次の敵としての情報収集ではなくロシアそのものを理解しようと努めたため人脈が広がり、海軍駐在武官・八代六郎大佐の補佐官として正式に赴任すると社交界でも人気を集め、海軍大佐の娘のアリアズナ・コヴァレスカヤさんと知り合って日露戦争中も中立国のスイス経由で文通を続けていました。
広瀬少佐の最期は第2次旅順港閉塞作戦で貨物船・福井丸に乗り込み、ロシア軍の砲撃が激しくなったため杉野上等兵曹に船底の爆薬に着火するように命じてボートに乗り移って待っていたもの戻らず、単独で船内を3度探しても見つからなかったため諦めて脱出している途中で敵の銃弾を頭部に受けて遺骸は暗夜の海に投げ出されたのです。
後にロシア海軍は福井丸の近くで日本の海軍士官の遺骸を収容し、陸軍墓地で丁重な葬儀を勤めて埋葬しました。この失敗を受けて連合艦隊はロシア艦隊の航路に機雷を浮設する戦術に転換し、太平洋艦隊司令官・ステパン・マカロフ中将を戦死させています。
アリアズナ・コヴァレスカヤ(坂の上の雲)NHK「坂の上の雲」のアリアズナさん
  1. 2021/03/26(金) 13:07:05|
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振り向けばイエスタディ2226

翌18日の熊本は天気予報の通り午前中は雨になり、安川3尉たちの黒川の捜索は中止になった。安川3尉は待機室で近藤2曹、吉田3曹と南阿蘇村の地図を囲んで今後の捜索について協議していた。昨日は運用訓練幹部に黒川の状況と可能な捜索活動について報告したが、鎮西司令部としては人員を費用対効果の優先順位で配分する方針に変わりなく、1名の捜索のための増員は考えていないとのことだった。この非情さも軍事組織の鉄則ではある。
「何よりも上流を堰き止めている箇所を破壊して溜まっている水を流さないと雨が上がっても迂闊に川岸に下りることができませんよ」近藤2曹は地図の阿蘇大橋から上流の黒川を指でなぞりながらレンジャー課程の助教も務めるベテランとしての意見を述べた。
「破壊すると言っても爆破する訳にはいかないでしょう。少人数で撤去できるような量ではありませんよ」今度は吉田3曹が反論した。確かに昨日も時間が許す限り下流を捜索したが、レンジャー訓練走路の障害物などは問題にならないほど岩石と樹木が折り重なり、剥き出しになった岩肌からは余震の度に石が落下してきた。
「親御さんの気持ちを考えると一刻も早く見つけ出して連れ帰りたいが・・・強いて言えば上流で川を監視する1名を増員してもらって無線で連絡を取りながら捜索することだ。川幅から見て増水しても川岸の高台に避難すればやり過ごせるはずだ」大学生の車が大量の樹木と岩石の下に埋まっているとすれば歩いて捜索しても発見できる可能性は低いが、2次災害を恐れて何もせずに放置することはレンジャーの誇りが許さない。雨が窓に散らしている水滴を眺めながら3人は重苦しい空気を噛み締めていた。
「安川3尉、今日は我々が南阿蘇村に向かいます。アメリカ軍のオス・・・元へ、アスプレイが物資を空輸してくるので受領して運搬する任務です。当分は南阿蘇村で宿泊することになりました」昼食から戻ると空輸支援に当たっている隊員たちが慌ただしく出発準備をしながら声をかけてきた。それでも昨日の訂正は憶えている。指揮官の部内出身の中隊長は幹部食堂で運用訓練幹部と話し込んでいたので代わりに申告を受けておくべきかも知れない。
「アスプレイが南阿蘇村へ下りるのか」「はい、高遊原(たかゆうばる)で集積されている貨物を搭載してカルデラを超えた南阿蘇村まで運搬するようです」この陸曹は事前説明を受けている内容を自慢げに披露した。高遊原駐屯地は益城町の熊本空港の一角にあり、西部方面航空隊が所在している。現在は全国から集められた自衛隊のヘリコプターや輸送機が続々と空輸してくる支援物資の集積基地になっているが、益城町が最大の被災地になったため道路が寸断されて陸路での輸送は停滞している。つまりアスプレイをトラック代わりに使うつもりらしい。
「雨はもう上がりそうだから飛行に支障はないだろう。住民と特にマスコミの前では規律正しい行動を心がけてくれ。英語で『ご苦労さま』は『グッド・ジョブ』だからアメリカ軍の搭乗員に声をかけてみろ」「はい、アスプレイの搭乗員に言ってみます」やはり指揮官が戻る前に運搬要員は出発していった。今回は東北での経験と聡美の英語講座が役に立った。
18日、Vー22アスプレイは沖縄本島の普天間基地から山口県の岩国基地に飛行し、そこで念入りな点検を受けた後、午後3時過ぎに高遊原駐屯地に着陸し、飲料水と食料を10トン搭載して南阿蘇村の白水運動公園に向かった。運動公園では行方不明者の捜索の取材に現地に入っていたテレビ局や新聞のマスコミ関係者が大挙して待ち構えていたが、高遊原から派遣された西部方面航空隊の隊員が「危険防止=安全」を理由に接近を禁じたため遠距離からの撮影と現地リポーターと称する人物の実況中継になった。
「物凄い爆音です。聞いているだけで恐ろしくなります」西からアスプレイの独特の空気を叩くような爆音が聞こえ始めると現地レポーターは望遠レンズでの中継を意識したのか大袈裟な説明を始めた。熊本県内では16日の地震で47万戸以上が停電しているのでこの中継を見るのは現地の被災者ではない。つまりアスプレイの特殊な飛行性能の恩恵を受けることがない安全地帯の視聴者に対する印象操作を始めたのだ。
「悪魔の飛行機と呼ばれているオスプレイが被災地上空に姿を見せました。まるで空から悪魔が襲いかかっているようです」アスプレイを「悪魔の飛行機」と命名したのは日本のマスコミであり、利用しているのは反アメリカ軍、反自衛隊の政治団体と活動家だけだ。
「あッ、翼が曲がって上空で停止しました。ここで墜落する事故が続発しているのですが今回は大丈夫なのでしょうか」白水運動公園で待機している隊員たちは真下から興味深そうに見上げていて特に退避もしていないが、テレビカメラはプロペラを上に向けて停止しているアスプレイだけを映しているので実況の信憑性を演出している。本当は救援物資を届ける天使なのだが、迫力があり過ぎるのは間違いない。
  1. 2021/03/26(金) 13:05:13|
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振り向けばイエスタディ2225

駐屯地の食堂で遅めの朝食を取った後、安川3尉と近藤2曹、吉田3曹の3人は南阿蘇村へ向かう西部方面隊の災害派遣部隊の車両に同乗して事故現場の阿蘇大橋があった場所に到着した。現場では遭難した大学生の家族が待っていた。ここまでの道路は舗装がひび割れ、破損や陥没によって寸断されていたため到着にはかなり時間がかかり、長時間待たせたはずだ。
「山戸です。息子を見つけて下さい。生きていないことは覚悟しています。でも我が家の墓に葬ってやりたいんです」「困っている友だちを放っておけない優しい子でした。どうかお願いします」稲沢の両親と同世代の両親に深く頭を下げられて安川3尉は黙って唇を噛んだ。安川3尉自身も穂高の父親になって我が子を失う哀しみは実感できるようになっている。
「本日は現場の捜索と同時に川岸の状況を偵察します。行動は日没前にここに戻ることとします。明日以降はこれから到着する部隊からも可能な限り増員したいと考えていますが、状況が許さないので期待に添えるかは判りません」「それは解っています。何よりも皆さんの安全を優先して下さい」安川3尉の説明に父親は平静を演じながら深くうなずき、母親は手を合わせて頭を下げた。この事故では2次遭難の危険が極めて高いため村の消防団や近隣住民による捜索は避けなければならず警察や消防が担当するはずだが、県の中心部が甚大な被害を受けて手が回らない現状を理解する両親は個人の感情を抑えて今も堪えているようだ。
「結構深いですね」「70メートル以上あるはずだ」「橋からは76メートルと言われていました」橋が崩落した道路から覗いた近藤2曹と安川3尉の会話に父親が補足した。日本アルプスを訓練場にしているクレージー・サーティーン=第13普通科連隊レンジャー隊員から見れば76メートルの谷ぐらいは溝のようなものだが、今回は強い余震が起これば岩塊が崩落し、上流の自然堤防が決壊すれば濁流に飲み込まれる危険がある。幸いなことに14日の地震発生以降、熊本県地方で雨は降っていないようだが、明日18日は午前中に通り雨の予報が出ている。
「河原に下りられる通路はありませんか」「対岸の橋の横にコンクリート製の階段がありましたが16日の地震で橋と一緒に崩落しました。渓流釣りで使う通路も幾つかありましたが、昨日私が下りようとしましたが全て途中で崩れていました」父親の説明で深い親心と厳しい状況を確認した安川3尉が顔を向けると近藤2曹と吉田3曹が駆け寄ってきた。
「ザイルで岩肌を下る。ザイルは25メートルが3本だから下まで届かないが手がかりはあるから問題ない」「レンジャー」「かかれ」「レンジャー」安川3尉の命令を受けて2人は肩にかけてきたザイルを外し、近藤2曹と吉田3曹が3人分を道路上に伸ばして点検すると端を結んで延長した。その間に安川3尉は畑の畔(あぜ)に立っている深い谷の危険を知らせる標識を手で押して強度を確認した。ここに括りつければ土に杭を打ち込むよりも信頼性は確保できる。崖から見下ろすと斜面に生えていた樹木が抜け落ちて岩肌が剥き出しになっている。その上に崩れ落ちた大小の岩や石が積もっていることから考えて岩肌の安定性=強度は期待できない。やはり他の連隊のレンジャー要員以上にザイルでの岩肌の登攀と降下に熟練しているクレージー・サーティーンの出番なのだ。
「岩肌が全て浮石状態だったんで腕力(うでぢから)だけで下りましたよ」「出っ張りに足を掛けると落ちてしまうから足裏の摩擦だけで体重を支えるのは流石に苦労しました」指揮官先頭の原則に従って先ず安川3尉が垂らしたザイルを使って河原に下りると近藤2曹と吉田3曹も続いてきた。しがみつくように生えていた樹木が剥がれ落ち、根によって割れ目が広げられていた岩肌は脆く、70メートルの距離でも難度は高かった。
「崩落した橋の上にも樹木と岩石や土がかなり積もっていますから強い余震が続いていると言うことですね」「足場が悪過ぎるから人数を増やしても下流に向かって歩きながら捜索する以外にできることはないでしょう」川の流れの上に覆いかぶさっている倒木の上に立ち、周囲を見回すと以前はイワナやヤマメ、ニジマスの釣りを楽しめる清流だったはずの黒川は自然堤防と言わず埋め立てたように樹木と岩石、土砂が積もっている。水が流れていないと言うことは上流でも倒木と土砂が堰き止めていることになる。それでは雨を待つまでもない。
「しかし、橋の構造物が残っていると言うことは大学生の車両もこの下に埋もれているんですかね」「この川の幅から見て車両が押し流されるほど流量はないんじゃないか」息子の大学生が車で橋を渡っている間に落ちたとすれば遺骸は車内にいる可能性が高いが、車体を発見するにも大型クレーンを設置できる場所はないので手作業以外に巨大な岩や太い倒木などを撤去する手段はない。さらに大量の堆積物を運び上げなければ川に流す以外に方法がない。
「これより川沿いに移動できる範囲を確認する」「レンジャー」「常に土石流から退避できる位置を確認せよ」「レンジャー」3人は障害物が続く川沿いを下流に向かって歩き始めた。
  1. 2021/03/25(木) 13:22:29|
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3月25日・野生のネイティブ・アメリカンの生き残り・イシの命日

1916年の明日3月25日は現在のカリフォルニア州一帯で西洋文明に触れることなく原始以来の独自の生活を維持していたネイティブ・アメリカン=ヤヒ族の最後の生き残りと言われているイシの命日です。イシはヤヒ族の人間を指す単語で個人の呼び名は部族以外には明かさない風習を守って最期まで誰にも教えなかったようです。したがって敬称はつけません。
ヤヒ族は遠い昔からカリフォルニア州北部のラッセン山麓の丘陵地帯で暮らしていたため大陸中央の荒野に阻まれて東岸で西洋人と接触した他の部族と交流することはなく、主に狩猟と採集、農耕を生業にしていたので海岸線に出る必要はなく太平洋岸から上陸した西洋人とも接触せずに推定3000人の部族で古来の風習を守ることができたのです。
ところが1860年代に始まったゴールド・ラッシュで金の亡者の西洋人(アメリカでは「開拓者」と呼んでいる)たちが大挙して太平洋岸に姿を見せたことで平和な生活は破壊されました。西洋人たちは非金属製の槍と弓矢しか知らないヤヒ族を銃や刃物で脅して居住地から排除し、食料を奪い、女性を強姦し、歯向かう者は手当たり次第に殺害したので家族単位で北部の山岳地帯に逃れましたが、安住の地を奪われたヤヒ族は数十年の間に次々に飢えと病に倒れ、イシの家族も死に絶えてしまったのです。
そうして1人で暮らしていたイシは1911年8月29日にカリフォルニア州北部の都市・サクラメントになっている集落の家畜の屠殺場に迷い込んでしまいました。この頃にはゴールド・ラッシュは終息して西海岸に居住していたのはある程度の教養を有する市民だったためイシは虐待されることなく保安官に引き渡されて保護され、「原始人の生き残り」と新聞が報じたため注目を集め、研究材料としてカリフォルニア大学サンフランシスコ校に引き取られて人類学博物館で生活することになったのです。この時点の年齢は50歳を超えていたと推定されています。
イシは西洋人の文明生活に驚くべき適応力を見せましたが、研究者としてはネイティブ・アメリカンの生活様式を維持してもらわなければ困り、微妙な立場に置かれたようです。イシは研究者の聴き取りに答え、ヤヒ族だけでなく交流があった他の部族の言語や風習、文化を詳細に説明しただけでなく若い研究者に弓矢の製作方法と射法を伝授して、これは現在もスポーツ化されて継承されています。このためイシは純粋なヤヒ族ではなく他の部族との混血児で、その血統が他の文化への適応力=精神的柔軟性を生んだのではないかと言う仮説も提唱されました。
そんな生活を送っていたイシはこの日に肺結核で亡くなりましたが、他のネイティブ・アメリカンの部族が民族として埋葬するため遺骸の返還を求めたにも関わらず西洋人の研究者たちは独断で解剖し、脳は標本としてスミソニアン博物館内の国立アメリカン・インディアン博物館に保管しています。この扱いを見る限り、西洋人たちにとってイシはどれほど親しく接していてもあくまでも研究材料であり、遺骸も人類であることを確認するため解剖するのが当然だったようです。
  1. 2021/03/24(水) 13:51:10|
  2. 日記(暦)
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振り向けばイエスタディ2224

松本から車両で移動した本隊は17日の早朝に集結地に指定された建軍駐屯地に到着した。派遣隊長以下の本隊の隊員たちは大規模な地震の続発で九州自動車道が通行止めになることを危惧していたが、4月14日の地震では福岡県の南関インターチェンジと宮崎県のえびのインターチェンジの間が全面通行止めになったものの懸命の修復工事によって15日には橋が落下し、路面陥没、のり面の崩落などで寸断された益城熊本空港インターチェンジから松橋インターチェンジの間を除く区間は開通していた。しかし、16日深夜の追い討ちで熊本インターチェンジの本道から料金所に向かうランプ橋(=連絡橋)の橋脚が折れて崩落する被害が出たので益城熊本空港インターチェンジで下りるしかなく、ここから先が全面通行止めのため発生した大渋滞でかなり時間がかかった。実は熊本インターチェンジの手前に北熊本スマート・インターチェンジ(本道に出口を接続しただけの簡易なインターチェンジ)の設置が決まっているのだが、熊本名物の地域住民の反対が収まらず先送りになったままだ。
「安川3尉と近藤2曹、吉田3曹のレンジャー3人組は行方不明者の捜索に当たってもらう」訓練場の指定駐車場では警衛所からの連絡を受けた連隊3科の運用訓練幹部(通称・運幹)が出迎えていた。運用訓練幹部は先遣隊としてヘリコプターで移動して「鎮西」と命名された統合任務部隊の作戦会議に出席して業務分担などの調整に当たっていた。今回の震災では発生15分後に熊本県知事から第8師団長に災害派遣要請が出されて以来、自らも地震の大きさを体験した西部方面総監以下の所属隊員たちが出動を覚悟していた中で16日の2度目が発生したため日の出と同時に総力戦を開始していた。したがって16日に発令された防衛大臣の災害派遣命令で集められた全国の派遣部隊には懸命に行方不明者の捜索と復旧工事に当たる西部方面隊では手が回らない業務を分担させることになっている。その中で行方不明者の捜索は時間を争う反面、強い余震が続く中では2次災害の危険性が高く、民間人には任せられない。それにしても移動に要した半日の間に被災者の所在確認を進めていたのは住民の生死さえも判らず闇雲に捜索せざるを得なかった東北の震災の教訓に違いない。
「ラジオのニュースでは行方不明者は南阿蘇村に集中していると言ってましたが」「あそこでは集落の裏山が崩れて住民が生き埋めになった。その土砂が余震で崩れてくるから捜索が進まないで困っているんだ。不幸中の幸いだったのが2度とも地震が夜間に発生したから住民は家にいて屋外で被災した人がいなかったことだ。しかし、大学生が1人、車で走っていて橋の崩落で深い谷底に落ちた可能性がある。安川3尉たちレンジャーには黒川の河原の捜索に当たってもらう。阿蘇出身の隊員の話では黒川は深い谷だから余震で石が崩落してくる危険性が極めて高いそうだ。それでもその大学生は14日の地震で断水して困っている同級生に白水水源の水を届けた帰りだったんだ。鎮西司令部でも『今でもそんな男気がある大学生がいるんだ』と何とか見つけたいと思っている。だから君たち山岳レンジャーに任せることにしたんだ」運用訓練幹部の説明に安川3尉は前川原から聡美と1泊2日で出かけた阿蘇旅行で白水水源の水を汲むためにバスで南阿蘇村へ行ったことを思い出した。あの時に渡ったア―チ式の橋が今回崩落した阿蘇大橋のようだ。確かにバスの窓から見下ろした谷はレンジャーとしての目測で80メートルから70メートルの間だった。
「補足すると阿蘇の谷川は崩落した岩塊と土砂で自然堤防ができていて水が溜まってきている。決壊すれば濁流が押し寄せることになるから常に退避場所を確認しながら捜索に当たってくれ」「レンジャー」運用訓練幹部の補足説明に安川3尉は無意識にレンジャー時代の返事をしていた。この大学生が遭難したのは16日深夜の地震の時だから昼前の出発前の申告で連隊長が「行方不明者の捜索」への期待を口にしたのは早過ぎるような気がする。おそらく冬季戦技教育隊長として課程修了生への期待と上級指揮官としての状況判断だったのだろう。
「我々は学校のグランドでヘリが空輸してくる物資の受領と運搬を割り当てられました」「どうやら12師団は空飛ぶ師団だと思われているみたいで『ヘリを使うのは慣れているだろう』って西方(西部方面隊)の担当者が言ってました」今回は各方面隊からの派遣隊員には体育館や隊舎の空き部屋が割り当てられ、幹部と陸曹、陸士も同室だった。安川3尉は南阿蘇村に向かう西部方面隊の車両に同乗することになり、それまでに荷物を宿舎に運んだ。宮古市では河川敷公園に野営だったので同じ寝袋でも建物の中と言うだけで一安心だ。
「今回もアメリカ軍がトモダチ作戦をやればオスプレイが見られますね」「アスプレイだ。テレビの発音は間違ってるから気をつけろ」災害派遣の活動開始を前に妙な高揚感を見せている隊員たちに安川3尉は聡美から習った正確な発音を教えて立ち上がった。それに近藤2曹と吉田3曹も合わせた。こちらは高揚感よりも覚悟が背筋を貫いている。
  1. 2021/03/24(水) 13:48:32|
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日本女性の限界を周知した小野清子さんの死去に思う。

3月13日にどうやら「1964年の」と断らなければならなくなりそうな東京オリンピックの開会式で選手宣誓した小野喬さんの妻で地元開催の特典(当時の体操は技の難易度による採点基準はなく審判の採点だけだった)による団体銅メダルでも日本の女子体操では相原俊子さん、池田敬子さん、千葉吟子さん、辻宏子さん、中村多仁子さんと共に唯一(唯六か?)のメダリストになり、その後も体操界、スポーツ界、さらに政界でも君臨した小野清子さんが共産党中国の細菌兵器で亡くなったそうです。85歳でした。
小野さんは昭和11(1936)年に宮城県岩沼市で生まれ、秋田県秋田市で育ち、虚弱児だったため屋内でできる体育として体操を始めると天性の才能が開花して、昭和27(1952)年の福島・宮城・山形協同開催の国民体育大会に出場して同じく秋田県代表だった4歳年上の喬さんと知り合いました。その後も指導を受ける間に互いに恋心を抱き、昭和33(1958)年に小野さん(当時は大泉さんだった)が東京教育大学=筑波大学を卒業するのを待って結婚しました。そうして昭和35(1960)年のローマ・オリンピックに夫婦で出場し、この間に子供を2人出産しながらも28歳で東京オリンピックにも夫婦で出場したのです(喬さんはヘルシンキ・メルボルンと4大会連続出場)。
しかし、東京オリンピックの女子体操ではチェコスロバキア代表のベラ・チャスラフスカさんの美貌と抜群のスタイル、何よりも優雅な演技が絶大な人気を集め、さらにソ連代表のラリサ・ラチニナさんやポリーナ・アスタホワさんと美と技を競い合ったため完全に見劣りして3人の美しい金髪に対して(当時流行していた)黒髪にパーマを掛けて短く刈り上げた日本代表は曲芸の猿にしか見えませんでした。
野僧の祖父は旧制中学時代に器械体操をやっていたため東京オリンピックの女子体操に魅了されてしまったのか高価で分厚い写真集を秘蔵していました(当時、祖父は還暦目前だったので他の目的はなかったはず)。それを中学生の小坊主になってから発見した野僧も夢中になりましたが日本選手は最終ページに白黒の1人1枚のみだったのは正解でした。
その後の女子体操はメキシコ市オリンピックではソ連のナタリア・クチンスカヤさんとチャスラフスカさんの対決、ミュンヘン・オリンピックではソ連のオルガ・コルブトさん(この頃、コーチに性的関係を強要されていたことを告白している)、そしてモントリオール・オリンピックではルーマニアのナディア・コマネチさん(帰国直後に大統領の息子にレイプされ愛人されていたことが発覚した)などが人気を集め続けましたが日本選手は低迷を続け、世界の最高峰を維持している男子に比べ次のメダリストは出ていません。
東京オリンピックを最後に選手を引退してからの小野さんは体操の普及指導に始まり、体育保健の教育から文部行政に関わるようになり、1986年に参議院議員に当選すると政治家に転身して18年間の議員生活では国家公安委員長も務めました。兎に角、収集した名誉職を含めた肩書きの数が凄まじく今回喪主を務めた夫の喬さんがオリンピック4大会連続出場と金メダル×5、銀メダル×4、銅メダル×4の名誉だけなのとは対照的です。冥福は祈ります。
LarisaLatynina.jpg野僧が好きだったラリサ・ラチニナさん
  1. 2021/03/23(火) 12:44:56|
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振り向けばイエスタディ2223

「東北の時、お前は運送屋としての見解を述べていたよな」アメリカのテレビ局にしては珍しく報道番組が日本の地震特集になると杉本は東北地区太平洋沖地震の記録映像を見ながら妙なことを思い出したようだ。
「あの時、私は仙台空港の復旧を最優先するべきだったって言ったのよ。道路を復旧しても尺取り虫みたいにしか進めないけど空港の機能を回復させれば被災地の中心に空輸で迅速に物資を運び込むことができて補給拠点ができるのよ」「その発想が陸上自衛隊にはなかったんだな」「だけど米軍がやってくれたわ」実は本間のこの見解は輸送学校で担当教官だった下西3佐から習ったものだった。下西3佐は航空自衛隊第3術科学校の輸送幹部課程に入校したことがあり、有事の補給で空輸が果たす役割の重要性を強調していた。その下西3佐が東北方面隊総監部の幕僚になっていたため本間は非常に困り、杉本に助けてもらった。あれが本間がそれまで敵視していた杉本にかすかな好意を覚えた発端だったのかも知れない。
「プロの目から見て今回はどうだい」「仙台空港は海抜が低くて津波にやられたけど熊本空港は阿蘇の麓だから安心と言う訳にはいかないわ。前回と今回で一番被害が大きかった益城町にあることが不安材料ね。滑走路の強度は通常の地震には耐えられるはずだけど直下で断層が動いたとすれば亀裂が入ることもあり得るのよ」この見解も下西2佐の教育の成果だが、杉本は関知しない運送屋=輸送幹部の専門知識だ。ただし、下西3佐が輸送学校から転出した後任の担当教官が継続しているかは不明だ。
「夜が明けて滑走路の異常の有無が確認できれば航空自衛隊の輸送機が空輸を開始するわ。それよりも私が期待しているのはアメリカ軍のアスプレイよ。2013年11月の台風30号のフィリピンや2015年4月のネパールの地震では滑走路がなくても空き地に着陸して23トン(=航空自衛隊のCー1は8トン)の貨物を空輸したのよ。今回もアメリカ軍がトモダチ作戦を実施すれば実力を見せつけられるでしょう」本間の輸送幹部としての期待に特科幹部の杉本は渋い顔をして首を振った。
「駄目だな。ネットで見ている日本国内のマスコミ報道では相変らずアスプレイを開発段階で続発した事故だけで危険な欠陥品扱いしている。フィリピンに普天間から無着陸で飛行して被災地に着陸した活躍は全く報じなかった。ネパールの時は日本の国会で審議していた安保関連法案の援護になるから完全に無視していた」「でも目の前でアスプレイが大量の救援物資を運んでくれば市民がネットで配信するでしょう」この辺りの認識の違いは対地火力を集中発揮して敵陣地を破壊する特科幹部と物資を安全・確実に運び届ける輸送幹部の職務の差だろう。
「それは甘い。ネットで市民が投稿すればマスコミは先回りしてアスプレイがエンジン音を轟かせて着陸する映像を流して恐怖心を煽る。それに現地中継のレポーターが『恐怖を感じる』とでも言ってスタジオのコメンテーターが『何度も繰り返してきた事故が心配です』と解説すれば『危険な欠陥品』ってイメージか強まるだけだ。日本人にはアメリカ人のように疑問点を自分で調べる習慣がないからマスコミの言うことを鵜呑みにするのはお前も知ってるだろう」「・・・」本間も北京で体験してきた過激な反日デモを日本のマスコミが他人事のように軽く扱っているのを見て大学を卒業して自衛隊に入ってからも愛する中央道が命を奪われた天安門事件までは信じていた日本のマスコミ報道の実態を理解したが、まだ杉本のように冷め切った目を向けられないでいることを再認識した。
「お前がリクエストにアメリカが応えるみたいだな」食事を終えて台所で洗い上げをすませた本間が席に戻ると、報道番組は東北地区太平洋沖地震の記録映像の中でトモダチ作戦を取り上げた流れで関東大震災の時にアメリカのカルビン・クーリッジ大統領が実施した元祖トモダチ作戦を紹介していた。クーリッジ大統領は第1次世界大戦後、アメリカでは反日世論が激しくなっている中、植民地だったフィリピンに配置していた海軍の艦艇に支援物資を満載して東京湾に急行させただけでなく食料を積んで太平洋上をアメリカに向かっていた船舶に無線で引き返すように指示してこれもアメリカ政府が買い上げた支援物資にした。
番組の中ではホワイトハウスの報道官が熊本の震災に関する質問に「今回も信頼関係の強化のためにトモダチ作戦を踏襲するべきだ」と強調していた場面も紹介していた。
「確かに今回は被災地域が東北ほど広くないし、自衛隊の戦力の集中発揮が始まっているからアメリカ軍に期待するのはアスプレイの輸送力になるね」「それでも結果は俺の予想通りになるだろうがな」翌日、アメリカ政府からの申し入れを受けた加倍首相は即座に歓迎・感謝した。東北の震災の時、民政党政権は流石に断れないため回答を先延ばしにした揚げ句に目立たない離島を割り当てたが、今回は善玉・悪漢の配役はマスコミの演出次第でも準主役になるはずだ。
  1. 2021/03/23(火) 12:42:02|
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3月22日・夜間空戦のエース・リッペ=ヴァイセンフェルト少佐が殉職した。

1944年の3月22日にオーストリア貴族出身のナチス・ドイツ空軍パイロットでメッサーシュミットの双発戦闘機Bf110による夜間戦闘で51機の撃墜を記録したエグモント・ツール・リッペ=ヴァイセンフェルト少佐が定期飛行中の事故で殉職しました。
リッペ=ヴァイセンフェルト少佐はオーストリア帝国が第1次世界大戦で敗戦する4ヶ月前の1918年7月にザルツベルグで貴族のリッペ家の4人兄妹の最年長で唯一の男の子として生まれました。第1次世界大戦の敗北によってオーストリア帝国とハプスブルク帝政は崩壊しても地方領主である貴族が個人の資産を失うことはなくリッペ=ヴァイセンフェルト坊ちゃんもドイツ国境のオーバーエスターライヒ州(映画「サウンド・オブ・ミュージック」の撮影が行われた)の古城で育ち、年少時から登山などのアウトドア・ライフに熱中し、14歳からは狩猟と音楽、各種スポーツに親しみ、間もなくスポーツ・グライダーも始め、18歳で軍役に就く前にオーストリア陸軍航空連隊での基礎飛行教育を修了していました。
1936年に軍役で入営すると歩兵に配属されましたが、1938年にオーストリアが大ドイツ=ナチス第3帝国に吸収・合併されるとナチス・ドイツ空軍での操縦資格を取得して第2次世界大戦が始まった1939年には空軍に移籍されて少尉に任官し、1940年の夏に実戦部隊に配属されると双発の夜間戦闘機・メッサ―シュミットBf110に搭乗することになりました。双発のメッサ―シュミットBf110は複座式でレーダー手を兼務する通信員を同乗させていて暗夜にも敵機を発見・接近することができるためイギリス軍の夜間爆撃に対して大きな戦果を上げていました。日本軍でもサイパン島陥落後に始まったBー29による日本本土爆撃の迎撃で力を発揮したのは陸軍の2式複座戦闘機・屠龍(川崎重工)や海軍の前方上方30度に向けた斜銃を装備した月光(中島飛行機)ですが、性能的にはBf110が航続距離900キロ、最高速度540キロから560キロ、武装は7.92ミリ機関銃×4、20ミリ機関砲×2なのに対して屠龍は航続距離1500キロ、最高速度547キロ、武装は12.7ミリ機関銃×2、20ミリ機関砲×2と後部座席の旋回式7.7ミリ機関銃×1でレーダーは装備していませんでした。
戦功としては1940年11月中旬にオランダ北部のベルゲン基地から深夜に飛び立ってイギリス空軍のビッカースウェリントン爆撃機を撃墜したのを皮切りに翌年1月に2機目、3月に撃墜されて負傷したものの4月には撃墜を再開して夜間戦闘航空団の飛行隊長を歴任しながら撃墜数に基づく勲章の格を上げ、少佐まで昇任して1944年2月に戦闘航空団司令に就任しましたが、この日、ドイツ北東部のパルヒムからフランス北部のアティーズ=スー=ラオンへの定期飛行中に悪天候による視界不良と翼への着氷で高度を下げてベルギーのアルデンヌ山脈に激突したのです。
遺骸は「燃え」と言うよりも「焼け」尽きた状態で収容されてオランダのエイセルスタインのドイツ軍戦没者墓苑に埋葬され、1948年には同じく夜間戦闘の撃墜王のザイン=ヴィトゲンシュタイン少佐(デンマークの貴族)が隣りに改葬されてきました。
  1. 2021/03/22(月) 13:30:19|
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振り向けばイエスタディ2222

日本と13時間の時差があるニューヨークでは地震が発生した4月14日の午後9時26分は朝の出勤時間の午前8時26分、2回目の激震の16日の深夜1時25分は昼休み中の午後12時25分だった。そのため事務所ではテレビやインターネットに入った速報から注目していたが、日本からの中継映像は暗闇に病院や公共施設の僅かな照明が光っているだけなのでアナウンサーが原稿を読み上げているのを聴いているしかなかった。
「今度は熊本を大震災が襲ったのね・・・」東北地区太平洋沖地震の時に各国マスコミの「自衛隊の災害派遣を取材したい」と言う要求に中国と韓国が紛れ込ませた軍の諜報員を監視するため杉本と潜入・同行した本間は特に強い関心を示している。あの時、東北でも地震が発生してからかなり時間が経っていたにも関わらず通常の地震と大差がないような余震が続いていた。前回から28時間後に同規模の大地震が発生したとすれば女性アナウンサーが「オー・マイ・ゴッド(我がカミよ)」と呟いたように今度は熊本に神罰が下ったとしか思えない。
「熊本は日本の地震予知学会のハザードマップで危険地域になっていたかな」ここで岡倉が思いがけないことを口にした。この職場では松山千秋・裕美夫婦は三重県人、杉本は新潟県人、岡倉は小倉男の血をひく岐阜県人、松本は薩摩隼人の血をひく大阪府民、本間は愛知県人と不思議に出身地は日本の中央部に集中している。ただし、関東圏の人間はいない。
「九州は入っていないだろう。東北の地震の後、大分か宮崎の知事が『九州は地盤が安定しているから安全だ』で移住を呼び掛けて問題になったはずだ」「東北や北陸も入っていないぞ。昭和23年の福井地震、昭和39年の新潟地震は東京の人間に危険はなかったと言うことだ」松本と杉本が交代で答えると最も東海地震を身近に感じて育った本間は黙って口を結んだ。豊橋では本間が生まれる前から「東海地震の発生が迫っている」と言われていて、幼稚園から小中学校、高校では関東大震災が起きた2学期初日の9月1日に防災訓練が繰り返されて恐怖心を煽っていた。ところが東海地震の予知の設備が揃って予算が獲得できなくなると危険地域を東海沖、関西沖に延長して新たな観測機器の設置を進めていた。しかし、平成に入って大規模な地震が続発しているのはそれを取り囲むような地震予知上の安全地帯ばかりだ。
「ジャパニーズ・ディフェンス・ミニスター・コマンズ・ディサスター・ディスパッチ(日本の防衛大臣が災害出動を命令した)」地震の速報から別のニュースに移って1時間が経過した頃、アナウンサーが唐突に続報を伝えた。通常、文民が業務を命令した場合は「オーダー」を用いるが今回は軍隊用語の「コマンド」を使っている。
「もう自衛隊に災害派遣命令が発令されたんだな。初動の戦力の集中発揮だ」「それも大臣命令だぞ。東北の民政党政権とは大違いだ」「阪神の時もな」阪神淡路大震災ではマスコミの妨害的報道の実態を調査するため記者団に潜入した岡倉が補足した。東北の震災で民政党政権は北澤防衛大臣の全自衛隊への出動命令の上申を拒否して東北方面隊に限定しようとした。それをさかのぼる1995年の阪神淡路大震災でも社人党の首相は被害状況の報告を受けても並んでいる数字の意味が理解できず、自衛隊の出動を認めようとはしなかった。
「熊本城が崩れてる・・・」家に帰り、夕食の支度を終えた本間は食卓で杉本とテレビのニュースを見ながら重い口調で呟いた。画面では夜が明けてハッキリした熊本城の惨状が中継されている。築城の名手として名古屋城の日本最大の天守の石垣も手掛けた加藤清正の傑作が大きく崩落し、何とか残った扇勾配の4隅で建物が支えられている。
「熊本城は国宝の松本城みたいに板壁だから木造に見えるけど、中は鉄筋コンクリートだから持ち堪えたんだな」「名古屋城は中に入ると正面にエレベーターがあって白けたけど熊本城は期待させられた分だけガッカリ度は大きかったわ」杉本は震災で熊本城の天守の建物まで崩落しなかった理由として鉄筋コンクリートの構造を肯定したが、本間は豊橋の小中学校と高校の遠足で行った名古屋城での失望に重ねて揶揄した。本間が現役自衛官として最後に勤務したのは熊本市内の建軍駐屯地の西部方面隊総監部だった。建軍駐屯地と熊本城の間には多くの大学・高校や病院の建物が建ち並んでいるため隊舎の屋上からも大天守の上層階と屋根や鯱鉾が見えるだけだが、中心街を歩けばどこからも目に入り、慣れ親しんでいた風景だった。
「俺も熊本には前川原から遊びに行ったことがあるが、昭和38年に小倉が周囲を寄せ集めて北九州になるまでは九州最大の都市だっただけの風格があったな」「それでも熊本県人は自己主張が極端に強いからてんでんバラバラ、ハードは立派でもソフトは今一ね」どうも本間の熊本に対する評価は辛口のようだ。確かに自己主張どころか個性さえも常識を乱す悪事とされる東三河で育った本間から見れば4人が並んで歩き出すと前と左右に分かれて突き進み、1人は動かない熊本県人の気質は理解する気にもならなかったのかも知れない。
  1. 2021/03/22(月) 13:27:39|
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3月22日・童謡「さっちゃん」の作詞者・阪田寛夫の命日

2005年の明日3月22日は還暦が間近に迫った今でも口ずさむと甘く切ない想いが胸に湧いてくる童謡「サッちゃん」の作詞者の阪田寛夫さんの命日です。
1番「サッちゃんはね サチコって言うんだ本当はね だけど小っちゃいから 自分のことサッちゃんって呼ぶんだよ おかしいな、サッちゃん」2番「サッちゃんはね バナナが大好き本当だよ だけど小っちゃいから バナナを半分しか食べられないの 可哀想だな、サッちゃん」3番「サッちゃんはね 遠くへ行っちゃうって本当かな だけど小っちゃいから 僕のこと忘れてしまうだろうちゃ 寂しいな、サッちゃん」野僧も社宅で育ったため転勤シーズンになると別れと出会いが繰り返され、自衛隊に入ってからも懐いてくれていた幼い女の子が出発の時、母親に手を引かれて見送りながら泣いてくれた顔が胸に浮かんでしまいます。
また「サチコ」と言う女性を唄った歌には「愛は愛とて何になる 男・一郎まこととて 幸子の幸はどこにある 男・一郎ままよとて」の「赤色エレジー(あがた森魚さん)」や「幸せを数えたら 片手にさえ余る 不幸せ数えたら 両手でも足りない・・・幸子と言う名は皮肉だと」の「SACHIKO(ばんばひろふみさん)」などの「幸子」と言う名前とは逆に不幸になっている歌が多く、「幸子」と言う名前の女子は「サッちゃん」を自分の歌にしていました。一方、他の同級生の女子が自分の名前の歌にしていたのはベドバとダビデさん(イスラエルの男女ユニット)の「僕の胸にナオミ ナオミ・カムバック・トウ・ミー」の「ナオミの夢(原題もドリーム・オブ・ナオミ=ナオミはヘブライ語で幸せを意味する名前)」や「おお順子 君の名を呼べば 僕は切ないよ」の「順子(長渕剛さん)」などがありますが、「ナオミの夢」は1970年の歌なので本人以外は知らず、長渕さんは三河湾の篠島で行われた吉田拓郎さんのコンサートに前座出演して「順子」を唄うと「情けない歌を唄うな」とヤジを飛ばされ、「俺の歌を聞きたくない奴は帰れ」と言い返したため客が大挙して波止場に向かう騒動を起こしていたため唄えませんでした。
阪田さんは大正14(1925)年に大阪市住吉区の現在も大手化学メーカーを経営している裕福なキリスト教徒の家庭の3人兄弟の末っ子として生まれ、地元の私立小学校と府立旧制中学校、旧制高知高校を経て東京帝国大学文学部に進学し、卒業後は朝日放送に就職してラジオ番組のプロデユーサーとして制作に携わりましたが、やがて退職すると小説家としてデビューしました。その後は小説に限らず翻訳や児童書、随筆、童謡の作詞などを幅広く手掛けています。
「サッちゃん」は1959年にNHKのラジオ番組用に作曲した従兄弟の大中恩さんの依頼を受けて作詞した歌です。随筆作家の阿川佐和子さんは幼い頃、東京の阪田さんと同じ都営団地に住んでいて同業者として可愛がってもらったので自分がモデルだと信じていたそうですが、実際は阪田さんが大阪の幼稚園で仲良しだったのに引っ越してしまった1歳年上の少女との思い出を描いた作品だそうです。ちなみに作者不明のヨーロッパ伝来のピアノ練習曲(?)の日本語版の歌詞「ねこふんじゃった」も阪田さんの作品です。
三浦リカ映画「サチコの幸」の三浦リカさん(関係ないけど)
  1. 2021/03/21(日) 12:34:11|
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振り向けばイエスタディ2221

「諸官たちもニュースで見たように防衛大臣から全国の陸海空自衛隊に対して災害派遣と西部方面隊総監を指揮官とする統合任務部隊の編成が発令された。戦力を集中発揮して初動対処に当たると言うことだ」神田山1尉の要領を得ない説明を聞き取った飯田2尉は連隊本部の1科と3科に行って派遣計画の詳細を確認した後、隊員を中隊朝礼場に集めて今回の派遣について説明した。再確認を必要としていなかった他の中隊はすでに解散していて訓練場から消えた緊張感が一カ所だけ再燃した形だ。
「主力は西部方面隊だが全ての方面隊から人員・器材を派遣する。現段階では総数13000人になる計画だ。我が連隊も各中隊から抽出した要員で臨時派遣隊を編成する。今から名前を呼ぶ者は前に出るように。2小隊長、安川3尉」「はい、安川3尉」安川3尉は2小隊の指揮官から駆け足で中隊正面に進み、飯田2尉から聞いていた抽出される人数分が並ぶ最右翼の位置で回れ右をした。その間にも続々と名前が読み上げられているが、これは1科から階級別に割り当てられた人数に3中隊が選出した人員だ。独身者が中心なのは東北地区太平洋沖地震に匹敵する災害である以上、派遣の長期化が予想されるからだ。
陸上自衛隊では部隊行動は編制を維持するのが原則なので常識的には規模に応じて連隊、中隊、小隊単位で派遣されるはずだが、今回は抽出した隊員で臨時編成するらしい。これは派遣が長期化した時の部隊機能の維持を考慮したのかも知れない。
「やっぱり熊本へ行くことになった。準備が終わり次第出発する」朝礼が終わると派遣要員は出発準備に当たり、それ以外の隊員は必要な器材をトラックに積載する作業を開始した。衣類などを準備するため安川3尉も官舎に戻り、玄関で出迎えた聡美に手短に説明した。
第13普通科連隊の災害派遣部隊の主力は車両で中央自動車道、中国道、九州道の陸路で移動するが、先発隊は被災地に向かうヘリコプターが駐屯地に寄って搭乗させるらしい。安川3尉は車両隊の副指揮官だ。
「今回も宮古の時みたいに1カ月以上になるのかしら」「あの時は津波の被害が大きかったが、今のところ津波は来てないからな」安川3尉は聡美の質問に答えながら朝食を終えて居間のテレビの前で玩具で遊んでいる穂高の頭を撫でて寝室に向かうと、タンスから衣類などを出して巨大な演習バッグに詰め込んた。被災地に雪が舞った前回の3月の東北とは違いこの時期の九州であれば防寒用の衣類は必要ないので荷物は少し軽くなった。
「清正さんの熊本城は頑張ったわね」「よく持ち堪えたよな。流石は築城の名手・加藤清正が築いた城だ」荷造りを終えた安川3尉は遊んでいる穂高の向うのテレビに映っている現場中継の熊本城を見ながら聡美と話し合った。前川原からの日帰り観光で見上げた熊本城の大天守の石垣は大きく崩れ、建物が倒壊しなかったのが不思議なくらいだ。それでも鯱鉾(しゃちほこ)は両方とも欠落している。
「今回は土木作業になの、それとも被災者支援かな」安川3尉が穂高を抱き上げて頬ずりながら出征の挨拶=長男としての覚悟を訓示していると聡美は表情を引き締めて訊いてきた。これは妻としての覚悟のための予備知識になる。
「東北の時と違って今回は政府、防衛省から現場までの指揮系統がシッカリしているから俺たちが到着するまでに機能別の組織が確立しているはずだ。多分、被害復旧は西部方面隊が開始していて俺たちは手が回らない後方支援が割り当てられるんじゃあないかな。ただし、連隊長からはレンジャーとして行方不明者の捜索での活躍を期待していると言われたから、そっちの可能性もある」今の第13普通科連隊長の平畑1佐は北海道の冬季戦技教育隊長から着任していて同じスキー徽章と冬季レンジャー徽章を着けている安川3尉には特に目をかけてくれている。今回の人選も連隊長の指名だったことは1科で飯田2尉が聞いてきた。神田山1尉が口にしていた安川3尉の経験と土地勘の理由づけは1科長が会議の席で補足説明しただけだった。
「判りました・・・被災者のために頑張って下さい」安川3尉の説明に聡美は穂高を抱き上げている腕にすがるように身体を寄せてきた。三島由紀夫は小説「憂国」の中で青年将校が決起前夜に妻を性欲が尽きるまで抱く場面を描いているが、知覧の特攻平和祈念館の館長は「あれはポルノ小説だ」と吐き捨てていた。知覧の遊郭でも出撃前夜に特攻隊員たちの最期の相手になることを名誉とする女郎はいたが、多くの特攻隊員は初恋の人を想っての口づけや乳房に触れて母を思い出していただけで欲望に乱れることはなかったと言う。安川3尉も愛する家族との訣別に当たり晩節を汚すような気分にはならなかった。玄関でいつもよりも力を込めて抱き締めて念入りなキスをしたついでに乳房を揉んだだけで十分だ。考えてみれば昨夜に性欲が尽きるまで励んでいるのでこれ以上は必要なかった。
  1. 2021/03/21(日) 12:32:32|
  2. 夜の連続小説8
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振り向けばイエスタディ2220

「まだ指揮官は登庁しないか」非常呼集が発令されて1時間以上が経過して4時になると連隊指揮所の1科長から確認の電話が入った。どうやら部隊長会議を開くのに神田山1尉の到着を待っているようだ。その頃には営外者は全員が出勤し、営内の外出者も飲み屋で知り合った女性とホテルに入っていた1名を除き帰隊が完了していた。
「連絡はついているので官舎に寄って着替えているのかも知れません」説明する飯田2尉の表情も険しくなっている。幹部室の自分の席で話を聞いている安川3尉と2人の曹長の小隊長も渋い顔を見合わせた。曹長の小隊長たちも自宅から寝起きの妻の運転で出勤したため事前に情報が漏れる防衛出動訓練とは比べ物にならないほど遅かったが、それでも顔を揃えている。
「今、隊員を官舎に確認に向かわせています。もう少し待って下さい」飯田2尉が説明しているところに事務室で「中隊長、出勤」と言う声が響き、迷彩服を着た神田山1尉が入ってきた。一見して泥酔していて目が座り、足元がふらついている。飯田2尉は神田山1尉が目の前を通り過ぎて中隊長の席に座ったのを確認して報告した。
「0418、指揮官登庁。この時間をもって3中隊の呼集は完了しました」「了解」1科長は安堵したような声で返事をした。おそらく連隊長や副連隊長、上位者の科長たちから「まだか」と本人にはどうしようもない確認を受け続けていたのだろう。
「米軍では呼集がかかって3時間以内に登庁できなければ懲戒処分になる。まだ1時間を過ぎたばかりだから問題はない」席に座った神田山1尉は廊下の自動販売機で買ってきたらしいスポーツドリンクの缶の蓋を開けて飲むと言い訳にもならない説明を始めた。安川3尉はこの軍事ウンチクは名寄でアメリカ空軍の三沢基地に出入りしていた松山3佐から聞いたことがある。アメリカ軍では私的に非常呼集がかかって3時間以内に登庁できない場所へ行き、行動を取る場合には事前に部隊に通知しなければならず、無届けであれば理由・経緯に関係なく一律に処罰されるらしい。それも訓練なら階級剥奪と強制労働、戦時であれば軍事法廷への訴追、予備役編入などの極めて重い処分もあると言うからアメリカ軍が即応体制の維持を至上命題にしていることが判る。
「今から部隊長会議を実施する各中隊長は連隊会議室に集合せよ」先任陸曹が呼集の出勤・帰隊の状況を説明し始めた時、隊舎内で一斉放送が流れた。やはり神田山1尉が最後だったようだ。飯田2尉としては防衛大臣による災害派遣命令が発令された以上、東北地区太平洋沖地震の時と同規模の出動になることが予想され、部隊長会議の前に腹案の打ち合わせをしたかったのだが手遅れだった。神田山1尉は酒臭い息を吐きながら覚束ない足取りで部屋を出ていった。
「防衛省からです。防衛省はつい先ほど午前4時55分に陸海空自衛隊に対して災害派遣部隊の差し出しと統合任務部隊の編成する命令を出しました。統合任務部隊の編成は東日本大震災以来になります」神田山1尉が席を外すと飯田1尉は娯楽室とスマートホンでのテレビの臨時ニュースの視聴を許可し、幹部室と中隊事務室でも注視した。すると部隊長会議が始まって30分後に災害派遣行動命令を具体化する命令が報道された。
「会議室でもこのニュースは見ているんだろうな」「防衛省の命令は陸幕に方面と師団を通すから記者発表よりも遅れますからね」小隊長たちとしては災害派遣に出動することは覚悟しているので被災地の情報を知りたいのだが、西日本の熊本のこの時期の日の出時刻は起床ラッパが鳴る直前の5時45分頃だ。まだ夜が白み始めたばかりでは鮮明な映像は中継できず、テレビは市ヶ谷からの説明を優先していた。
「東北の時の民政党政権は始めは東北方面隊単独で対処できると思っていて、被災地が想像以上に広範囲で災害の規模が重大と判っても小出しの逐次投入だったが、今回は初動の戦力の集中投入の原則が判っている。流石は加倍政権だ」「兎に角、自衛隊を使いたくないと思っているのが見え見えで・・・我々も防衛大臣が長野県人だから恥をかかしてはいけないと頑張りましたが」「悪夢の民政党政権でも北澤大臣だけは出色でしたね」テレビのニュースが素人への説明を続けているため小隊長たちの会話も雑談になってきた。
「安川3尉には熊本に行ってもらうことになった」5時を過ぎて部隊長会議から戻った神田山1尉は幹部室で待機していた4人の小隊長と先任陸曹に無表情に説明した。それでも酔いは醒めてきたようで視線は定まっている。
「安川3尉は東北の震災では巨大津波の被害を受けた宮古市に派遣された。一昨年には前川原に入校していた。だから経験と土地勘の両方を兼ね備えている」「安川3尉だけに命令すると言うことは我が連隊の派遣は限定的なんですか」脈絡のない説明に困惑している5人を代表して飯田2尉が確認した。この理由が会議での1科長の説明の請け売りなのは誰にでも判る。
  1. 2021/03/20(土) 20:20:15|
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振り向けばイエスタディ2219

「もしもし、安川3尉です」4月16日土曜日の深夜、松本の安川家の固定電話が鳴った。安川3尉は先ほど愛した聡美を抱き締めている腕を解くと素早くリビングに出て受話器を取った。それは呼集系統の上になっている1小隊長の飯田2尉からだった。
「非常呼集だ。熊本でまた大きな地震があったようだ」「はい、判りました。昨晩酒を飲んでいますから駆け足で出勤します」「それは俺も同じだが、官舎から部隊なら道交法は適用されないぞ」飯田2尉は極めて適切な助言を与えると受話器を切った。確かに官舎から部隊までは駐屯地内なので一般道は通行しない。むしろ緊急性を優先するべきだろう。
安川3尉は受話器を持ったまま一度電話を切り、次の3小隊長の曹長に電話をした。こちらは自宅なので酒気帯び運転は避けなければならないが、年長者なので自己判断に任せることにした。すると聡美が起きてきた。
「穂高は起きなかったか」「ベルの音に驚いたみたいだけど目は覚まさなかったわ」「非常呼集だ。熊本でまた地震が起きたらしい」安川3尉の説明に聡美も納得したようにうなずいた。聡美は結婚前にはイラク派遣、名寄に嫁いでからは東北地区太平洋沖地震の1カ月に及ぶ災害派遣を経験しているので若くても腹は据わっている。
「いよいよ災害派遣ね」「先ず編成だな」「テレビを見ているわ」「お前は無理をするな。穂高を頼むぞ」会話はここまでにして足音をたてないように寝室に戻り、箪笥の引出しから来週着る予定の迷彩服と靴下を抱えてリビングに戻り、素早く着替え始めた。春になって下着で寝ているので所要時間は3分以内だ。
「これを飲んでいって。お酒が残っていたら危ないわ」着替え終って玄関で半長靴を履いて立ち上がると聡美が冷えたスポーツドリンクを注いだコップを差し出した。休日前の金曜日の夜だったので多めに酒を飲んだが、聡美との夫婦の営みも予定していたため残るほどではなかった。その分、聡美との快楽に酔ってしまったが。
「それじゃあ行ってくる」「うん、被災者のためにお願いね」コップを返し、軽く抱きしめてキスをした頃には下の駐車場からエンジン音が響き始めた。多分、大半の隊員も就寝前には酒を飲んでいるはずだが、飯田2尉の助言と同じ判断で車で出勤するようだ。
「4月16日の1時26分に14日と同規模の震度7の直下型大地震が熊本県中部の同地域で発生した。これを受けて2時45分に防衛大臣は西部方面隊総監を指揮官とする統合任務部隊の編成を発令したのが今回の非常呼集だ」安川3尉が出勤すると3中隊の幹部室では副中隊長を兼務している飯田2尉が指揮を執っていて現時点の状況を手短に説明した。幹部室のテレビが点いているが深夜にも関わらず臨時ニュースが暗夜の熊本からの中継映像に音声と字幕で被害情報を放送している。
「現時点での営外者の出勤状況は12名です。営内者は携帯電話で連絡が取れた者から逐次帰隊していますが、酒気帯運転にならないように注意喚起しましたからタクシーになります」中隊事務室と幹部室を往復している当直陸曹の説明では休日の土曜日の深夜だったこともあり、営舎外居住者の大半は飲酒して間もないため妻の運転での出勤になり、外出している営内者も同様にタクシーでの帰隊になる。航空自衛隊であれば非常呼集は日常的にかかるため慣熟しているが陸上自衛隊は年に1回の防衛出動訓練くらいなので、不意の発令で混乱が生じるのは仕方なく、先ずは連絡が取れれば後は服務規律違反=酒気帯運転の防止が優先される。
「それで中隊長には連絡がついたのか」「はい、ご自宅の電話には出られなかったので跳ばしてに副長にかけましたが、その後、携帯にかけたところカラオケの歌声が聞こえる店で出らしました」「呼集がかかったのは2時50分だから随分と遅くまで営業している店で飲んでいたんだな・・・その件は他言無用だぞ」どうやら当直陸曹は中隊長の神田山1尉が呼集系統図に記載させている自宅の固定電話に出なかったため飛び越して次の飯田2尉と陸曹系統の先任陸曹に連絡し、その後に携帯電話に掛け直したようだ。独身者が金曜日と土曜日の夜に羽を伸ばすのは酒気帯び運転の取り締まりが厳しくなって平日の飲酒を控えるようになってからの方が強まったようだが、自衛隊では事実だけで問題化するので非常呼集に応じられなかった失態は隠蔽しなければならない。おそらく間もなく連隊本部で始まる会議までに神田山1尉が出勤しなければ拙いことになる。
「中隊長は防大気分が抜けてないんですね」「防大出の独身幹部はそんなものだ。それにしても営外者の出勤は遅いな。奥さんが起きてくれないのかも知れんぞ。営内者も同じタクシーに乗り合わせで来ないと深夜の流しは出払ってしまうだろう」それでも飯田2尉はようやく始まった廊下を早足で通り過ぎる足音を数えながら今回確認した問題点を教訓として口にした。




 
  1. 2021/03/20(土) 14:30:51|
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3月19日・「東電OL殺害事件」の被害者の遺骸が発見された。

1997年の3月19日にマスコミが「東電OL殺人事件」と呼んだ事件の被害者・W邊泰子さんの絞殺された全裸遺骸が東京都渋谷区円山の安アパートで発見されました。
W渡さんは慶応大学を卒業して東京電力が最初に採用した女性管理職要員なので腰掛け的な存在だった当時の一般的な女性社員を意味するOLとはイメージが違いますが、警察の「被害者の女性は東京電力の社員」と言う発表を聞いた記者が短絡的に報じたため現在までこの事件名が使用されています。
そんな39歳で未婚のエリート女性が江戸時代からの花街の安アパートの空き部屋の布団の上で全裸の絞殺遺骸として発見された事件が世の男性たちの卑欲な興味を集めると本人の理知的な顔写真と同時に「昼は東京電力本社で幹部社員として勤務しながら夜になると円山町で客引きをする売春婦=街娼になり、毎晩のように不特定多数の男性と肉体関係を持っていた」と言う驚くべき事実が報道されたのです。そして娼婦の時の髪形を変え、華やかに化粧をした別人のような顔写真も公開されると「俺も客だった」と言う証言が雑誌や夕刊紙などに載るようになり、多くの事実と噂が明らかになりました。
それはW邊さんは会社では初のエリート女性社員として常にストレスに晒され、若い頃に上司である管理職の愛人にされて教え込まれた性的快楽を捌け口にするようになり、事件当時は極度の性欲依存状態だったと言うものです。さらに夜の商売時に寄っていた円山町のコンビニエンス・ストアではおでんの器にコンニャクと汁を並々と注いで購入していて、遺骸は極端に痩せ細っていたため「拒食症を患っていた」とも言われていました。
事件は安アパートの近くのビルの4階で不法残留の仲間4人で暮らしている第1発見者のネパール人男性の通報で発覚しましたが、警察の鑑定によって死亡推定日時は3月8日の深夜から9日の未明までとされ、精液が入ったコンドームや毛髪などの売春=性行為を示す遺留品も回収されて、この精液がネパール人男性のものと一致したため本人が否定している中で逮捕されたのです。そうして東京地方裁判所での1審で検察側はネパール人男性が当初「被害者とは面識がない」と証言していながら実際は客の1人であった事実で信頼性を否定する戦術を採りましたが、回収された体毛が別人の物だったため「疑わしきは罰せず」の原則で無罪としました。しかし、東京高等裁判所の2審では事件後にネパール人男性が「事件後、金回りが良くなったこと」と言う状況証拠も加えて逆転有罪・無期懲役の判決が出て上告審の最高裁判所も支持しましたが、再審請求の中で弁護側がDNA鑑定を要求し、その結果、遺骸の女性器内に残っていた精液がネパール人男性と一致せず、遺骸の陰毛に絡んでいた体毛や乳首の唾液と一致することが判明して犯行現場に第3者が存在したことが証明されたのです(なお現時点でも真犯人は判明していません)。
この結果を受けて再審が決定し、さらに遺骸の手の爪から回収された皮膚のDNAが精液と一致したため2012年10月法廷では検察も無罪に同意して即日結審し、11月に無罪判決が出たのです。なおネパール人男性は再審が決定して刑務所から出獄した直後に不法残留の罪で国外退去処分を受け、2012年6月にネパールに帰国していました。
  1. 2021/03/19(金) 13:31:03|
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振り向けばイエスタディ2218

「また熊本で大地震が起こったみたい」4月16日の夕方、帰宅した私に梢が緊張した顔で声をかけた。前回14日の地震は昼休みが終わったオランダ時間の午後1時26分の発生から5時間後に帰宅をしてニュースを見るまで知らなかったため梢がテレビの英語ニュースをハード・ディスクに録画して熊本の地震に関する場面だけを編集して見せてくれている。
「何時だ」「今、字幕と音声で速報が入ったから時差から言って・・・夜中の1時過ぎみたい」自転車をリビングの隅に停め、そのままテレビの前に行くと梢は固定電話の横に並べてある現地時間に合わせた置時計の日本用を見て答えた。
「大きいのか」「まだ具体的な情報は流れてないけど初めに『ビッグ・アース・クエィク』って説明したから大きいわね」「つまり大きな余震が発生したと言うことだ。東北の時も本震と変らない大余震が続いたからな」東北地区太平洋沖地震の時、私は災害派遣部隊が嫌がらせのような苦情を受けるようになり、弁護士の立場で対応するために被災地に赴くまで東京の陸上幕僚監部で勤務していたので点けっ放しにしていたテレビからの情報を否応なしに学習することになった。すると東北の地震では本震の震度7を超える余震が観測されていて、通常は大地震によって大陸プレートにかかっている負荷が発散されるはずが、逆に本震の衝撃によって他の位置にかかっている負荷まで連動したのではないかと推察する学者がいた。
「先ほど日本のクマモトで発生した大地震の続報です。今回の大地震の発生時刻は日本時間の午前1時25分でした。地震の規模は前回14日と同程度の震度7か、それ以上の強さだったと言う現地情報もあります」ニュースを読み上げるアナウンサーの顔は恐怖よりも困惑の色が濃い。やはり安定した大陸の上にあるヨーロッパでは大規模な地震は全くと言って良いほど経験がなく、恐怖よりも未知なる災害に対する困惑が先に立つようだ。
「前回の地震は熊本市内よりも益城町が酷かったんだよな。益城町には熊本空港があるから阿蘇山の外輪山の麓だ。地下を火道(=マグマ溜まりと火口をつなぐ溶岩の通過路)が貫いているはずだから大陸プレートとは別の負荷が蓄積しているのかも知れん」私は小学校6年の時に小松左京の「日本沈没」を買って熟読し、同級生にも回し読みさせたところ非常に盛り上がってしまって、文科系だった担任では質問に答えられず理科が専門の隣りの担任が大陸プレートやマントル対流を大陸移動説や日本列島の大陸から分離、さらに海溝や山脈を具体例にして判り易く説明してくれた。おまけに前川原では九州のアニマル大学(「鹿」児島大学と「熊」本大学に「鳥」取大学を加えた地方国立大学の愛称)の地球物理学専攻の同期がいて小学校でのトリビア=無駄知識を深化させてくれた。
「それでも熊本は阿蘇や雲仙の噴火の被災記録はあっても地震はなかったはずだ。やはり佛罰だな。今の知事が辞めて世界遺産の登録を取り下げなければ壊滅的な災害が続くことになるぞ」ニュースが同じ情報の繰り返しの後、次の話題に移ると私はウガイをするために洗面所に向かいながら自説を口にした。この知識は前川原で地球物理学専攻の同期が科学的に九州の災害を解説した時、別の文科系の同期が歴史的に補足したものだ。それを私は宗教的に断定した。
「中佐、クマモトの地震が続きますね」「あれは佛罰だから当分は鎮まらないだろう」今日も梢との散歩中に前回と同じ2人組の警察官に声をかけられた。オランダの警察組織は文民の国家警察(KLPD)と軍の憲兵の王立保安隊(KMar)があり、治安の維持は王立保安隊の担当だが、この警察官たちは防犯のために警邏(けいら=巡回)しているようだ。
「クマモトはブッダが罰を与えるような悪事を働いたんですか」「今、働いている最中だ」警察官が「罪」の話題に興味を持つのは当然だ。案の定、周囲を見回して異常の有無を確認してから2人で私を注視した。その点はプロの仕事だ。
「徳川ショーグンの時代に日本の支配を狙ったカソリックを禁教するとナガサキの信者が反乱を起こしたんだ。これを武力で制圧すると生き残った多くの信者たちがクマモトの天草に逃れた。そして天草の領主は信者を大切に保護して佛教への改宗を勧めたんだ。ところがナガサキ県知事がキリシタン弾圧を観光資源にしようと世界遺産登録を画策するとクマモト県知事も同調した。これを日本では恩を仇で返す人道に悖る罪とするんだ。あの知事は河川工事に反対して当選したそうだから遠からず多くの死者を出す大規模な水害が発生するはずだ。これをジゴージトク(自業自得)=ワット・ゴーズ・アラウンド・カムズ・アラウンドと言う」「・・・恐ろしい。原発は異常なかったそうですが」やはり地震や台風がないヨーロッパ人にとっては天災よりも人災の方が現実的なようで関心はそちらに流れるらしい。福島第1原子力発電所の事故の電源喪失は地震や津波よりも中越沖地震で水没防止用の台の上のバッテリーが落下したため対策として床に移動させたことが原因なので人災と言うよりも判断ミスだった。
  1. 2021/03/19(金) 13:29:05|
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3月19日・小松左京作のSF小説「日本沈没」が発売された。

関東大震災から50周年だった昭和48(1973)年の明日3月19日に日本のSF作家の最高峰である小松左京先生の傑作小説「日本沈没」が発売され、小学6年生だった野僧も購入して春休みに読みました。
この物語は1970年代の近未来が舞台で(と言ってもリニア式高速鉄道の建設が始まっていた)、「小笠原諸島の島が一夜にして海中に没した異常現象の調査のため深海調査船・わだつみで日本海溝の最深部に潜水した田所博士は海底に奇怪な亀裂が走り、強い水圧の中で乱泥流が発生していることを発見し、これをマントル対流の急激な変化と推理し、日本列島が沈没すると直感しました。その頃、伊豆半島の天城山が噴火したため政府が専門の学者を招集した会議の席で田所博士がこの直感を発言すると出席者たちは嘲笑しましたが、その中で戦後の政界の背後で力を奮う渡老人だけは隠棲する茅ヶ崎に燕が巣に帰って来なくなったことや植物の生育の変化から大規模な地殻変動の発生を予感していたため首相を自宅に呼びつけて日本人の脱出計画=D計画の策定と実行を命じたのです(名目上は人口の過剰増加に伴う海外への分散移住計画)。その後、京都と東京で強い地震が連続して都市機能が壊滅状態になる中で富士火山帯の火山が次々に噴火するなどの異常現象が頻発したことで国民の間に不安が広がったのを見てD計画に加わっていた田所博士はあえて雑誌やテレビで情報を暴露して予告を与えました。間もなく超大型コンピューターの解析によって日本列島の沈没が10カ月以内に迫っていることが判明したため首相が国会で正式に発表すると日本国民の脱出計画が実行に移されました。こうして日本列島はマントル対流に載せられた状態で四国から順番に太平洋に沈み、最後は関東北部の山岳地帯が大爆発を起こして姿を消し、母国を失った日本人は世界各地での暮らしを始めた」と言うものです。野僧がこの本を小学校で回し読みにしたため同級生たちは強い関心を持ち(エロシーンが1カ所ありますが許される小学校だったの読むことができました)、当時はまだ東海地震は世間話にもなっていませんでしたが、理科が専門の隣りのクラスの担任が大陸プレートやマントル対流の詳細な説明をしてくれました。冬休みに映画が劇場公開されると男女で揃って出かけましたが、今思えば集団デートでした。
東京大学の浅田敏教授(当時)が第14回地震予知連絡会の会合で統計学的に発生の可能性に言及したのは中学3年だった1976年8月23日のことで当然、2学期にはこの話題で持ち切りになりましたが、理科の教員の説明は新聞記事の請け売りだったため野僧が3年間控えていた岡崎の矢作南小学校で受けたドルトン・プランの封印を解いて詳細に説明すると「馬鹿の癖に妙なことは知っているんだな」と皮肉を言われました。
小松先生は昭和39(1964)年から執筆を始めましたが、本来は日本列島の沈没を序章として母国を失って海外に移住した日本人の姿を描く「日本滅亡・果てしなき流れの果てに・出発の日」と言う題名の長編小説にする構想だったそうです(一部は刊行されている)。しかし、出版社の意向で日本列島の沈没を中心とする上下2巻の独立した作品になり、上巻204万部、下巻181万部を売り上げる大ベストセラーになりました。
  1. 2021/03/18(木) 14:39:33|
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振り向けばイエスタディ2217

「熊本で地震が起きた・・・大きいぞ」同じ頃(日本とオランダの時差は8時間)、日本の松本の官舎でも安川3尉が9時からのニュース番組で熊本の地震のニュースの速報を見て大声を上げていた。寝室では聡美が穂高を寝かせつけているが起こしてしまいそうだ。それでも自衛官にとっての緊急事態が発生したことは理解したようで襖越しに小声で返事をした。
「東北みたいに津波が来そうなの」「熊本が面してるのは有明海だからあれほど大きな津波は来ないだろう。今回は内陸の地震みたいだ」テレビでは字幕の速報に続いてアナウンサーがニュース原稿を読み上げ始めた。それによると地震が発生したのは午後9時26分で震源地は熊本県の中央部で震度は阪神淡路大震災や東北地区太平洋沖地震と同じ7らしい。
「只今、熊本局の屋上からの中継映像を流していますが、夜間のため市内に被害があったのかは判別できません。ただ停電しているらしく市内では緊急用以外の灯火は消えています」アナウンサーは画面の説明をしながら顔を恐怖に強張らせた。このアナウンサーも東北の震災で視聴者に衝撃を与えるような悲惨な場面を編集する前の現場映像を見ていたのかも知れない。
「9時31分、政府は総理官邸内の危機管理センターを立ち上げて管(くだ)官房長官を中心に情報収集に当たっています。なお加倍首相は都内で会食中でしたが現在官邸に向かっている模様です」ここでアナウンサーは横から差し出されたメモを読み上げた。この対応であれば首相官邸で国営放送のニュースを見ているだけで昼過ぎになって「大変なことじゃのう」と呟いた阪神大震災の時の首相や仕事時間中の午後2時46分に発生しながら錯綜する情報に混乱し、首相自ら福島第1原子力発電所に乗り込んで現場の活動を阻害した東北地区太平洋沖地震の時の首相のような汚点となることはない。
「9時40分、熊本県知事が陸上自衛隊に災害派遣を要請」「9時40分、熊本県知事が陸上自衛隊第8師団に対して災害派遣を要請した模様です」この続報は字幕が流れている途中でメモが差し入れられた。熊本県庁に詰めている記者クラブに対する公式発表が始まったようだ。
「もう災害派遣を要請したのか。よほど大きな地震だったんだな」阪神大震災の時、兵庫県知事が災害派遣を要請したのは早朝5時46分の発生から4時間以上が経過した午前10時過ぎだったが、これは県庁内の自治労の執拗な妨害があったからだ。その点、地震発生から14分後の午後9時40分では被害状況の把握も困難なはずだが、確認するまでもなく県内が壊滅的被害を受けたことが推定できる大地震だったことになる。
「晩鐘閣下は去年の8月に退官されたんだよな。出番なのに」映像は東京のスタジオと熊本局の屋上からの中継が交互に切り替わるだけになったので安川3尉は残っていた缶ビールを飲み干した。名寄の第3普通科連隊長として第1次イラク派遣の指揮を執り、幹部候補生学校に入校した頃、西部方面隊総監に着任していた晩鐘陸将は2015年8月に退官した。名寄では「将来の陸上幕僚長間違いなし」と評判だったので意外だったが、こちらの連隊では「ゴラン高原PKOやイラク派遣で活躍した髭の隊長に続いて政界入りする」と噂されている。
「やっと眠ったわ。貴方の気合が伝わったみたいで穂高まで興奮しちゃったのよ」アナウンサーが終了時間になったニュース番組の延長を伝えたところに聡美が出てきて隣りに座った。そのまま画面を注視したがテレビは屋上からの中継を流しながら電気や水道、都市ガスの被害や道路の通行止めなどを字幕とアナウンサーの音声で説明している。
「熊本へは久留米から何度も行ったよね・・・清正さんの熊本城が無事だと良いけど」「そうかァ、加藤清正も尾張人だよな」熊本県人が今も心から敬慕し、「清正公(せいしょうこう)」と家の守り神にしている戦国武将・加藤清正は豊臣秀吉と同じ名古屋市中村区の出身だ。加藤清正は圧倒的な武力で土豪たちを屈服させると熊本城だけでなく城下町や街道の整備と大規模な治水と水道網の構築などの事業を実施したことで絶大な人気を獲得した。そもそも本来は「隈本」と書いた地名を強い獣から採って「熊本」に替えたのも加藤清正だ。
「そんなに大きな地震だったら貴方も出動するんじゃあないの。北海道から東北に行ったんだから」「北海道と東北は隣りだけど東部方面隊と西部方面隊の間には東海・近畿・中国地方が入るから被害の規模によるな。明るくならないと判らないよ」聡美の意見は安川3尉も考えているが今、非常呼集がかかると酒気帯び運転になるので認めたくなかった。
「現段階では被災地から最も近い鹿児島県の川内原子力発電所、近隣の佐賀県の玄海原子力発電所、愛媛県の伊方原子力発電所に関する被害情報はありません」外から駐屯地の消灯ラッパが聞こえてきた午後10時10分に管官房長官の記者会見が始まり、世界中の最大の関心事である原子力発電所の被害について説明した。それであれば災害派遣に出動しても原発事故決死隊・センダイ50にはならなくてすみぞうだ。
  1. 2021/03/18(木) 14:35:34|
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3月17日・同日に仙台行きの全日空機×2がハイジャックされた。

昭和52(1977)年の3月17日に偶然としても逆の出発地から仙台空港に向かった全日空のボーイング727が2機ハイジャックされました。
先ずは昼頃に乗員7人、乗客36人が搭乗して千歳空港を離陸した仙台空港行きの全日空724便が津軽海峡を超えて下北半島に差し掛かった午後0時40分に乗客の若い男が客室乗務員にナイフを見せてコクピットのドアを開けるように要求しました。しかし、客室乗務員は搭乗した時から若い男を挙動不審と警戒していたため動じることなく「トイレはこちらでございます」とトイレに案内して閉じ込めようとすると(航空会社に務めていた亡き妻から聞いた対応策)激昂して立ち上がってナイフを突きつけました。そこで2人の対話を聞いて身構えていた乗客4人が飛びかかって男を取り押さえ、引き返す形で午後1時24分に函館空港に緊急着陸して駆けつけた函館中央署員に「航空機の強取等の処罰に関する法律=ハイジャック防止法」違反で逮捕されました。参考までに青森空港は昭和39(1964)年、三沢空港は昭和50(1975)年に開港していましたが。
犯人は27歳の岩見沢市在住の元国立大学で哲学を専攻していた元学生でしたが、「本を読んで思索するだけなら独学でもできる」と考えて大学を中退しましたものの当然のように行き詰まり、「これ以上、親に経済的な迷惑はかけられない」と考えて外国へ亡命するためにハイジャックしたと証言しています。どうやら哲学を間違って学んだようです。
続いて午後6時半頃に乗員7人、乗客173人が搭乗して羽田空港を離陸した仙台行きの全日空817便が、離陸から2分後の東京湾上空を上昇中に座席ベルトを外した若い男が拳銃(モデルガンの改造銃)を取り出して客室乗務員に突きつけ、「燃料が続く限り仙台と東京を往復しろ」と要求して隣りで新聞を読んでいた男性の乗客の頭を拳銃を持っていた手で殴りました。その衝撃で弾丸が発射されましたが機体に致命的な損傷はありませんでした。その後、男は意味不明の発言を続けましたが、客室乗務員としても拳銃が本物であることを確認したため刺激することを避け、コクピットには第一報を入れただけで機長などによる説得は実施しませんでした。当然、羽田空港に引き返して午後6時44分に緊急着陸しましたが、男は着陸する前に自分でトイレに立て篭もり、突入した警察がドアを開けると中で死亡していました。死因は青酸化合物を服用しての中毒死でした。
犯人は殺人未遂、窃盗、障害などで前科11犯の26歳の暴力団員で、手荷物からは具体的な犯行計画を記したメモが見つかりましたが、その一方でこの年の1月4日から2月中旬まで東京と大阪(1回だけ)で続発していた青酸入りコーラとチョコレート事件の目撃者が証言した犯人に酷似していることが判明したのです。しかし、本人が死亡したため追求・解明できませんでした。ただし、青酸を使った同様の事件も再発していません。
当時は連合赤軍によるよど号事件でハイジャック自体は知られていても日本で旅客機を利用する客層は上流階級が中心だったため「失礼に当たる」手荷物の持ち込み検査は極めて緩く犯行を起こすことは簡単だったのですが、昼頃に1度目が発生していながら取り締りを強化せずに改造拳銃の持ち込みを見逃したのは時代とは言え呑気過ぎるでしょう。
  1. 2021/03/17(水) 13:29:02|
  2. 日記(暦)
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振り向けばイエスタディ2216

「熊本で強い地震かァ・・・」結局、テレビで地震の発生時刻は日本時間の午後9時26分(約5時間前)、発生地が熊本県、マグニチュード6.5であることまで確認したところで散歩に出た。それでも携帯ラジオをポケットに入れて聴きながら歩くことにした。私自身は熊本に住んだことはないが、前川原の幹部候補生学校から建軍駐屯地の西部方面隊総監部を研修した時に西南戦争の古戦場の田原坂と熊本城に寄ったことがある。またハワイからノザキ夫妻が来日して祖先の墓所を訪ねた時にはスザンナの鬼海家を天草の下田南まで探しに行った。
「貴方が1日に西モスクでした話が予言になってしまったみたい」「日本の神さんが怒るって話だな。あれは坊主としてはかなり本気だ。天皇は毎朝、宮中賢所で『災厄は我が身に』って祈願してるんだ。平成になってからの大災害の頻度は異常だから神さんに嫌われていると考えるべきだろう。アメリカ式の統計学なら立派に証明になるぞ」答えながら平成になってからの大災害を思い出してみたが、3月に幹部候補生学校を卒業した平成2年の11月に雲仙普賢岳で噴火が始まり、3年の6月に大規模な火砕流が発生した。平成5年は1月に釧路沖地震、7月に奥尻島へ津波が押し寄せた大地震が起き、秋は異常気象による米の凶作で輸入したタイ米を食べた。平成7年は1月に阪神・淡路大震災、3月には人災の地下鉄サリン事件、平成12年の3月に洞爺湖の有珠山、7月には三宅島、そして9月には北海道の駒ケ岳が噴火した。平成16年は9月に浅間山が噴火して10月が中越地震、そして平成23年3月の東北地区太平洋沖地震で打ち止めにと願っていたが、まだ怒りは収まらないようだ。この他にも大規模な台風の襲来や豪雨大雪、厳寒猛暑の異常気象も毎年恒例になっていて、2度も起こった悪夢の政権交代も昭和の戦後にはなかった人災だ。
「貴方が災害除けを祈願してあげたらどうなの」「佛が佛に祈れってか。平成の天皇は東北の震災の犠牲者を慰霊する時にも手を合わせない。その癖、2013年にインドに行った時には嬉しそうに合掌して挨拶してやがった。つまり日本の皇室はまだ廃佛毀釋の過ちを改めていないんだ。そんな国のために御佛の加護を願うのは御免こうむるよ。八重山と山形の戸沢村と岡崎と蒲郡の地域限定なら勤めてるぞ」平成の天皇は京都の泉湧寺にある歴代天皇の廟所に参る時も手を合わせない。おそらく聖武天皇が国家鎮護のために建立した奈良の東大寺に加護を願う気持ちは持ち合わせていないはずだ。
「そう言えば熊本は長崎のキリシタン弾圧史跡の世界遺産登録に同調していたな。その天草では島原の乱の後に着任した天領代官の鈴木重成が兄の正三和尚と協力して復興に尽力した上、年貢を課すことを決定した幕府に抗議するため腹を切っているんだ。それをキリシタン弾圧として世界に宣伝しようとしたんだから神さんの前に佛罰が当たっても当然だ。下手すればこれだけじゃあすまないぞ」「・・・」私の口調が断定的だったため梢は黙り込んでしまった。これも予言になれば流石に畏怖を感じるのだろう。
「止まれ・・・中佐、ご協力を願います」今夜も住宅街の外れの交差点に立っている2人組の警察官に声をかけられた。とは言え私の身分は知っているので職務質問ではなく協力要請になる。私たちは素直に立ち止まり、自分たちの懐中電灯で顔を照らした。
「中佐、迷彩服が変りましたね。随分、コントラストが強くて目立ちますがどこの陸軍の物ですか」顔見知りの警察官は最近着始めた陸上自衛隊の古い迷彩服に興味を示した。確かにこの迷彩服1型は夜間の木立の中で月明かりに照らされた葉っぱの明暗を想定しているので草むらや市街地では「かえって目立つ」と批判されていた。
「日本のグランド・ジエータイの昔のタイプだ。昼間見るとお洒落な色合いだぞ」実は陸上幕僚監部法務官室の陸曹たちが交代してしまって制服や迷彩服の更新や調達を頼むことができず、単なる趣味で始めた旧式の制服の着用にも必要性が生じている。
「ラジオのニュースは日本のクマモトの地震ですか。日本は地震が多くて大変ですね」「ワシも神戸と東北の地震には出動したが、今回はオランダから眺めているだけだ」西モスクで囲み取材を受けたのは新聞記者だった上、私が寺院の名前を明かさなかったため(=明かせなかった)記事にならず、例の予言は知られていないようだ。
「トーホクの地震で日本人は避難所でも規律正しく順番を守り、全てを譲り合って世界に感動と教訓を与えてくれました」「熊本人と東北人は気質が逆だからな。肥後の引っ張りって言うくらい自己主張が強い土地柄だから・・・」足の引っ張り合いが熊本の県民性なので東北人の気質だけを日本の民族性だと思われていると困る。
「ところでクマモトに原発はないのですか」「鹿児島の川内にはあったはずだけど」「センダイはトーホクでしたよね」「別のセンダイだ」妙な説明で立ち話が長くなってしまった。
  1. 2021/03/17(水) 13:26:48|
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3月17日・実在した「快傑ハリマオ」・谷豊の命日

昭和17(1942)年の明日3月17日は戦中・戦後に映画やドラマ、漫画になり架空のヒーローのように思われていた「快傑ハリマオ(=ドラマの題名では造語の快傑・ハリマオはマレー語で虎)」の本人・谷豊さんの命日です。30歳でした。
「怪傑ハリマオ」は「月光仮面」に続く仮面のヒーロー(ハリマオは白のターバンにサングラスだった)として昭和35(1960)年4月5日から野僧が生まれる4日前の昭和36(1961)年6月27日まで日本テレビ系で放送されました(ドラマでは東南アジアの次にモンゴルが舞台になっていた)。
本物のハリマオの谷さんは明治44(1911)年に現在の福岡市南区五十川で理容師夫婦の兄妹妹弟妹の長男として生まれました。2歳の頃に両親がイギリス領だったマレー半島東岸のクアラ・トレンガメの中華街で店を開いたため一家で移住してここで育ちました。それでも就学年齢になると「教育は日本で受けさせたい」と言う父親の意向で単独で帰国して出身地の尋常小学校と高等小学校に入学しました。そして昭和2(1927)年に迎えに来た母親と一緒にソアラ・トレンガメに戻るとマレー人の友人たちと青春を謳歌し、喧嘩が強く男気溢れる性格だったため地域の親分的存在になって行きました。さらにマレー人との生活の中でイスラム教に帰依するようになりましたが、昭和6(1931)年に徴兵検査のため再び帰国すると身長が155センチだったため丙種合格で兵役を免除され、そのまま福岡の企業に就職することになりました。しかし、同年12月に父親が病没し、昭和8(1933)年には満州事変に怒った移住華僑が日本人も居住していた中華街を襲って病気で寝ていた幼い末の妹を殺害して首を切って持ち去る事件が発生したため昭和9(1934)年に母親が家族を連れて帰国したものの谷さんは入れ替わるようにマレー半島に向かったのです。現地で谷さんはマレー人の友人たちと盗賊団を結成して移民華僑を襲うようになり、昭和16(1941)年にタイ南部で逮捕されて服役するまでマレー半島中で暴れまわりました。
そんな昭和16(1941)年12月8日に山下奉文中将が指揮する日本軍がマレー半島に上陸すると陸軍参謀本部から諜報員として協力するように勧誘されて、刑務所から釈放された恩義から承諾すると盗賊団として諜報活動を開始しました。中でもイギリス軍が構築を進めていたジットラ・ライン陣地の工事の妨害では1カ月間喰い止める戦略計画が1日で突破される結果になり、マレー突進作戦と呼ばれる急速な進撃を実現しました。
しかし、快傑ハリマオもやはり人間だったようで日本軍に先行してイギリス軍が橋に仕掛けた爆弾の撤去を指揮している最中にマラリアで倒れ、マレー人としての誇りでイギリス軍が残置していった治療薬を拒否して現地の治療薬の犀の角の粉末だけを服用したため重篤に陥り、2月1日にマレー半島南端のジョホーバルの野戦病院に強制入院、2月17日には対岸のシンガポールの病院に転院されましたがこの日に亡くなったのです。
遺骸はマレー人の仲間たちが「イスラムの儀礼で追悼する」と連れ去ったため埋葬地などは不明です。ただし、戦死した軍属として靖国に合祀されてしまいました(冒涜です!)。
怪傑ハリマオドラマの怪傑ハリマオ
  1. 2021/03/16(火) 13:28:04|
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