4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効して日本が正式に独立を果たして2日後の昭和27(1952)年の明日5月1日に労働者の祭典であるメーデーのデモ行進を利用した学生運動の活動家たちが皇居への乱入を図り、阻止しようとした警察隊との攻防戦で死者、重軽傷者多数を出す惨事になりました。
明治神宮外苑で午前10時20分から開催された第23回メーデーでは労働者も日本国民として念願の独立を祝賀するべきところを国際連合加盟国の大半が講和条約を締結していてもソ連や共産党中国が署名しなかったことを不満とする共産党や社会党(当時)が警察予備隊の創設に対する「再軍備反対」や講和条約と同時に締結された日米安全保障条約への批判を加えて国家転覆を扇動していました。午後0時10分に式典が閉会すると参加者たちは学生運動の活動家たちが先導する形で東西南北と中央に分かれて皇居を取り囲むようにデモ行進を開始し、学生たちが「人民広場」と命名していた皇居前広場に乱入を試みましたが一般労働者の参加者たちは隊列を乱さなかったため、その場は計画=届出通りの順路で日比谷公園に向かいました。ところが日比谷公園では学生たちが共産革命の先駆けとしての皇居乱入を叫び、これに朝鮮戦争反対=李承晩政権の打倒を主張する半島人たちが呼応して公園にたむろしていた日雇い人夫などを巻き込んで2500人規模のデモ隊を新たに編制すると皇居前広場に向かって前進を始めたのです。
一方、警視庁は事前に学生たちの暴動を察知していて5600人を皇居の周囲に配置して雑踏整理を実施し、都内各署に10000人を待機させて待ち構えていました。そして皇居前広場に向かうデモ隊を先ず丸ノ内署員60人が制止しましたが投石や竹槍の刺突、角材による殴打で13人が負傷して突破され、路上に駐車していた外車を横転させ、放火しながら前進すると次は現在の機動隊に当たる予備隊(装備は通常の制服に警棒と拳銃だけ)と三田署、高輪署、水上署の470人が立ちはだかりましたが、周囲に野次馬が集まったため抗争に巻き込まれることを避けて車道を開放して皇居前広場に引き入れたのです。
皇居前広場に入るとデモ隊は二重橋を突破しようとしましたが警備に当たる丸ノ内署員と増援の予備隊と全面衝突になり、激しい投石に対して予備隊が発砲したため午後3時頃には車道まで後退させることができました。しかし、その後も乱闘が続いただけでなく桜門や祝田橋の警戒線が突破されるなどの戦況に野次馬が加わって8000人規模まで急増したため予備隊が発砲を開始して午後3時50分頃には皇居前広場から排除することに成功しました。この暴動でデモ隊側は死者1人、重軽傷者200人(デモ隊側の発表では死者2人、重軽傷者638人)、警察側は重傷者71人、軽傷者861人、放火された車両の消火に当たっていた消防隊員も暴行を受けて13人が負傷しました。
1232人の逮捕者のうち261人が刑法106条の騒乱罪で告訴されましたが、1審では一部が認められたものの2審では棄却され、16人が通常の暴力行為等で有罪になった他は無罪になりました。1929年にドイツで発生した血のメーデー事件では31人が死亡し、革命派は組織を禁止されていますから日本の対応は「甘い」と言うべきでしょう。

デモ隊がネクタイを締めて背広を着ている(時代だ)。
- 2021/04/30(金) 14:46:12|
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「でもブルカを脱がされただけなら夫や義父に鞭で打たれて痣ができるだけですが・・・」「貴女に罪はないのに罰を受けるんだね」岡倉のいたわるような態度に心を許したのか女性は胸に抱えている重荷を吐き出すように話を続けた。
「若い娘は裸にされて乳房や性器に触れられるんです。そうなると未婚なら純潔を失った。妻なら夫への貞操を破った重罪として見せしめに命を奪われることもあります」女性の説明に岡倉は怒りを露わにして開けた窓から顔を付き出した。
「それを占領軍に抗議したのか」「抗議した若い妻もいますが事情聴取で同じことをされた上、性行為まで強要されました」「それは許せんな」この呟きを現地語のダリー語にするところが岡倉の熟練の技だ。女性も「味方を得た」と信じたらしく1歩近づいた。
「それに怒った夫が押しかけると射殺されました。だからタリバーンに訴えたら報復してくれたんですが、逆に占領軍にタリバーンの協力者の村と決めつけられて攻撃されました」「あの空き地は報復の被害者の家があったんだな」岡倉の返事に女性は表情を重くしてうなずいた。
「でも私たちはタリバーンに感謝しています。タリバーンにいなければ私たちは異教徒から悪事を受けても泣き寝入りするしかありませんから。それはアッラーに対する背信でもあります」「アッラーが定めた悪事は糺さなければならないのがムスリムの義務だからね」岡倉がイスラム教の知識を披露しながら賛同すると女性は安堵した顔でもう一度うなずいた。
「今回は韓国軍の戦闘部隊が来ていなくて良かったな」女性と別れて車を走らせた岡倉は意外な見解を口にした。岡倉が韓国人の妻をもらったことは先ほど白状させているから、ここで韓国軍の残虐性を持ち出す理由が判らない。
「確かに韓国軍は朝鮮戦争では自分の国で『堅壁清野』作戦を実行しているからな。アフガニスタンで『必ず確保するべき拠点は壁を築くように確保し、やむを得ず放棄する地域は人員と物資を清掃して敵が留まれない原野にする』なんてことをやられては無人の荒野になってしまうよ」私は防府時代の行きつけのスナックのママさんが在日韓国人だったこともあり(有名作家の実姉)、朝鮮戦争についてもかなり研究していたのだ。
「流石に詳しいな。言葉が通じない外国で敵味方を識別するのには限界があるから表面上は温和なベトナムであれだけの残虐行為を繰り返した韓国軍ならアフガニスタンでは全て皆殺しにして回るだろう。今回は民生協力の看板を掲げて衛生隊と工兵隊を送り込んでいるが、それでもイスラムを冒涜するような行為が横行していて地元住民の強い反発を買っているんだ。工兵部隊も自衛隊がイラク派遣のサマーワでやったように地元の人間を雇用したんだが、イスラムの風習を無視しているから成果は上がっていないらしい」ここまで韓国軍の内部事情に詳しいことから考えると岡倉が結婚した相手は韓国軍の軍人なのではないか。私がアメリカ海兵隊に詳しいのは沖縄で知り合ったジュディ・アイランド軍曹のおかげではある。ただし、世界中の軍隊に詳しいと言っても世界中のWACと結婚している訳ではないから推理の飛躍だろう。
次の集落で岡倉は広くはない空き地の隅に四散して黒こげになった廃材が残っている施設の跡を見つけ、道端の木陰に腰をおろして水煙草を吸っている老人に声をかけた。すると無愛想に「マクタブ」とだけ答えた。
「これは学校だったのか・・・」どうやらダリー語で「学校」と答えたらしい。言われてみれば確かに狭い校庭に小さな校舎が建っていたような配置だ。発展途上国の小学校では日本のような遊具は設置していないから子供たちが走り回れる校庭があれば十分なのだ。
「学校を攻撃するのは違法じゃあないのか」「軍や戦闘員が使用していれば攻撃は合法な戦闘行為だ。逆に子供たちがいることが明らかなのに攻撃すれば重大な戦争犯罪になる」岡倉もウォー・ロー=戦争法は熟知しているはずなのでこの質問は意味不明だ。
「・・・」「玩具の飛行機にやられたそうだ」その時、老人が空を指差しながら何かを言って、と岡倉が表情を硬くして補足説明した。どうやら遠隔誘導式の無人の飛行機で攻撃したらしい。今回、アメリカ軍はソ連が侵攻した時、フガニスタンの抵抗勢力に供与した携帯式地対空ミサイルで自国軍機が攻撃されることを恐れて無人の誘導式飛行機での偵察や攻撃を繰り返している。しかし、カメラ映像では解像度がパイロットの肉眼に比べて格段に落ち、建物の外観や大きさだけで判断するしかなく集落内では目立つ学校や病院の誤爆が相次いでいる。
「となると違法行為ではないな」「何でだ」「戦争法には空戦法はない。だから航空攻撃には制限がないんだ。だから第2次世界大戦でも戦闘機の機銃掃射で民間人を大量殺害しただろう」「判っちゃいても腹が立つぞ」やはり知らぬ振りだった同期の怒声には苦笑するしかない。岡倉が高射特科を志望したのは航空機を落とすことが目的だったのかも知れない。
- 2021/04/30(金) 14:44:21|
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4月30日はフランス外人部隊が1863年にメキシコのカマロンで繰り広げた激闘と将兵の忠誠心を称える「カマロン記念」です。
フランス外人部隊は革命によって成立した共和国政府を守ろうと志願してきた一般の市民を兵士にした国民軍(それまでは用心棒の傭兵と領主が家臣や領民を率いていた)がヨーロッパ各地の転戦による死傷者の急増で産業の労働力も欠乏する事態に陥ったため1831年に士官はフランス人でも下士官以下は外国人の正規軍として成立しました。
ナポレオン3世の治世下のフランスはアメリカの南北戦争による混乱に乗じてメキシコを支配しようと軍を派遣しましたが敗退を続け、それでも1862年5月に占領に失敗した南部の都市・ブエブラを包囲していました。しかし、包囲の長期化によって物資と軍資金が欠乏したため現金300万フランと大量の補給物資を馬車隊で送ることを決定して外人部隊に警護を命じました。4月29日に馬車隊が出発すると指揮官のダンジュー大尉にマウデ少尉とヴィラン少尉が率いる62名の第3中隊が合流しましたが、この情報を知ったメキシコ軍は物資と軍資金を奪うため待ち伏せていたのです。
4月30日の午前1時に夜陰に紛れて馬車隊が宿営地を出発し、夜が明けた午前7時頃に朝食を兼ねて休止しているところをメキシコ軍が急襲したためダンジュー大尉は馬車隊から遠ざけてその間に出発させるため反撃と退避を繰り返しながらメキシコ軍をカマロン・デ・テヘーベまで誘引しました。そして3メートルほどの高さがある塀で囲まれた建物内に立て篭もり陣地戦を開始しました。
するとメキシコ軍に増援部隊が到着して完全に包囲したため降伏を勧告したのですが、ダンジュー大尉は「我々にはまだ弾薬がある。降伏はしない」と拒否し、戦闘を継続することで馬車隊を逃亡させようとしました。こうして午前10時頃から始まった戦闘では指揮官以下65名のフランス外人部隊が騎兵800人、歩兵1200人のメキシコ軍と互角に戦って陣地を死守したのですが、正午頃にダンジュー大尉が胸に銃弾を受けて戦死したのに続き、午後2時頃にヴィラン少尉も戦死した上、建物に放火されて午後5時頃にはマウデ少尉以下12名になっていました。そこでメキシコ軍は再び降伏を勧告したのですが回答代わりに発砲したため銃撃戦になってマウデ少尉と4名が戦死し、こうして生き残った7名は「武装解除しない」ことを条件に降伏したのです。この11時間にわたる戦闘の間に馬車隊は無事にブエブラに到着して物資と軍資金を届けることができました。
日本人はフランス外人部隊を金で雇われる傭兵と同一視しがちですが、祖国ではないフランスのために日本軍の玉砕戦の先駆けのような自己犠牲を発揮し、フランス人の軍隊以上の厳格な規律の下、フランスが行ってきた多くの戦争(主に植民地での)でも過酷な戦闘を遂行してきたため国民の敬愛を受けていることを知るべきです。
余談ながら現在、フランス外人部隊を志願するには国籍・人種・宗教に関係なく17歳以上・40歳未満の健康な男性が第1外人連隊(本部はコルシカ島にある)が設置する応募所に本人が赴いてアノニマと呼ばれる偽名で手続きします。初回契約は5年間です。
- 2021/04/29(木) 13:25:12|
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「今夜はここで野営だ」「お前は高射特科だから車中泊も野営かも知れんが、普通科のワシは天幕じゃあないと気分が出んぞ」その夜は4WAD車を山岳地帯の途中にあった細い脇道で泊まることになった。そこで私が緑色のレンズをはめた懐中電灯を頼りに対人地雷を確認しながら先導することにした。
「本物の地雷探しなんて久しぶりだな。気分は普通科連隊だよ」「200メートルくらいで良いだろう」運転席から顔を出して私が地面を照らしている懐中電灯についてくる岡倉は気楽に指示するが、踏めば片足が吹き飛ぶ危険を冒している私としては半分に値切りたいところだ。
停止した車体に私がドイツで購入してきた軍の放出品のバラキューダをかけて寝袋で眠った。バラキューダはスウェーデン製の偽装ネットで赤外線やミリ波レーダーの反射を植物と同程度に抑えるため夜間にレーダーや暗視眼鏡を使っても容易には発見されない。
「ここまで破壊されているとは・・・」翌日、市街地とは呼べない小さな集落に入ると岡倉は言葉を失った。以前、潜入した時にも訪れたようだ。舗装されていない道路の両側には石を積み上げ、土で塗り固めた壁に屋根を載せただけの民家が点在しているが、その間の空き地には以前は家があった痕跡が残っている。
「昔は朝から農作物を売る露店が並んで随分と賑わっていたんだ。家も道沿いに軒を揃えていたんだが今はポツンポツンとしか残っていない。こんな田舎の集落が破壊される理由はないだろう」岡倉は意外にも興奮気味な口調で十字軍=アメリカ軍とNATO軍の軍事行動を疑問の形で批判した。どうやら好感を抱くような思い出があるらしい。
「この村の市場でもタリバーンが監督に来ていたが、村人に心から信頼されていて恐怖心などは抱かれていなかった。それを勝手に敵視したのはアメリカのネオコンだ。俺は今でも9・11の自作自演説を否定し切れないでいる」岡倉が吐き捨てたアメリカ批判は少し常軌を逸している。これが私からアフガニスタンの調査の目的を訊き出すための誘導の材料であるとすればそれは甘い。私は日本では弁護士、現在は検事として法廷で相手が申請した証人に誘導尋問を仕掛け、こちらの証人が引っ掛からないように細心の注意を払っている。むしろ同期の岡倉の真情を疑ってしまうのはある種の職業病なのかも知れない。
「ワシはボスニア・ヘルツェゴビナにも行ってきたが、キリスト教徒のイスラム教徒虐殺は酷いものだった。十字軍の残虐行為を現在の兵器で再現しているみたいだったよ」「やっぱりお前は坊主だな。俺はベトナム戦争で韓国軍が農民に化けたベトコンを恐れて無差別に農村を皆殺しにしたことが再現されているように感じているよ」岡倉の見解は一理と疑問がある。確かにベトナム戦争では農民に化けた北ベトナム軍兵士が協力する農村を拠点にしたゲリラ戦で甚大な被害を与えたため追い詰められたアメリカ軍が1968年3月16日にソンミ村で無差別大量殺害を犯したことは今もマスコミが断罪しているベトナム戦史だ。勿論、岡倉であればそれに先立つ1968年2月12日にファンニィ・フォンキャット村、25日にハミ村で大半の女性を集団で強姦し、居合わせた村民を全て殺害した事件を知っていても不思議はないが、ここで殊更に韓国軍の犯罪とするのには違和感がある。
「韓国軍が残虐なのは元寇の時に対馬と壱岐の島民も犠牲になっているからな。朝鮮戦争では自国民を大量に殺害しているんだ。あれは民族性だよ」「そうとも言い切れんぞ。韓国人でも俺の女房の一家は愛国者だが反日ではない。日本の統治政策を肯定的にとらえている人物もいるよ」「お前、結婚したんだな。おめでとう」誘導には岡倉の方が引っ掛かった。しかし、諜報員の秘密を知った者が消されるのは映画やドラマ、小説や漫画だけにしてもらいたい。
「今日は女がブルカを着てないな」口が滑ったことを反省したのか黙ってしまった岡倉が道路に出てきた主婦と思われる中年女性の服装に気を止めて独り言を呟いた。ブルカはアフガニスタンのムスリマ(女性のイスラム教徒)が外出する時に着用を義務づけられている装束で、全身を布で覆うだけでなく目まで網や薄い布で隠す。ところがこの女性はブルカの下に着ている長袖のブラウスに長ズボン姿だった。岡倉は車をユックリ走らせると女性の横に停め、窓を開けて声をかけた。すると女性は迷彩服姿の私たちを見て怯えた顔をして後退さった。
「ブルカは着ていません。身体検査しないで下さい」「私たちは日本陸軍の士官です。占領軍ではありませんから安心して下さい。ブルカを着ていると身体検査されるんですか」岡倉が笑顔を浮かべてペルシャ語と思われる言語で話しかけると女性は安堵したように表情を緩めた。
「はい、武器を隠し持っていないかと人前で脱がされます。それは『女は肌と体型を晒してはならない』と言うアッラーの戒めを破ることになりますから女は家族から折檻を受けなければなりません」やはり岡倉に同行を求めたのは正解だった。
- 2021/04/29(木) 13:24:02|
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第1次上海事変の停戦が目前になっていた昭和7(1932)年の明日4月29日の天長節式典で韓国人テロ組織が日本軍の要人を狙った上海天長節爆弾事件が起こりました。
第1次上海事変は昭和6(1931)年9月に発生した満州事変で日本と軍事衝突していた国民党軍の19路軍の3個師団がイギリス、アメリカ、イタリアの共同租界とフランスの租界が在った上海に迫り、日本の工場や商店を残したままの支配を要求したため日本人居住地域を警備していた1000人の海軍陸戦隊との間で武力衝突が起こり、これに日本側は金沢の第9師団と久留米の混成第24旅団、中国側は2個師団と2個旅団からなる第5軍を増員したため事態は拡大し、さらに海軍が野村吉三郎中将を司令官とする初の空母艦隊を派遣し、陸軍も白川義則大将を司令官とする善通寺の第11師団と宇都宮の第14師団の上海派遣軍を増援に向かわせたため戦闘は本格化したのです。しかし、上海での利権が確保したい列強が仲介に動き、日本軍の撤退と国民党軍の後退、軍事的空白地帯の設定による停戦に向けて交渉が始まりました。
一方、上海では朝鮮半島に住む韓国人は日本の近代化を進める手厚い統治政策に満足していたにも関わらず中国共産党の革命思想に扇動された反日テロ組織が「独立運動」と称して活動しており、この軍事衝突を利用して韓国人の反日運動の存在を宣伝するため日本軍要人の暗殺を計画しました。すると日本軍は停戦交渉が最終段階になっていた4月29日に上海市内の公園で天長節の祝賀式典を開催することを決定し、これには上海派遣軍司令官の白川大将と派遣艦隊司令官の野村中将、第9師団長の植田謙吉中将、第3艦隊参謀長の嶋田繁太郎少将、重光葵駐中華民国公使が出席することになったのです。
当然、テロ組織がこの機を逃すはずはなく上海にある国民党軍の軍需工場で威力が大きい弁当箱型と投げやすい水筒型の爆弾を作らせ日本語が堪能な韓国人テロリストが実行犯になりました(当日、会場の公園への立ち入りは日本人のみに限定され、弁当箱と水筒以外の金属製容器の持ち込みは禁止されていた)。
こうして午前10時に式典が始まり、11時40分頃に締め括りとして21発の礼砲が発射されて海軍軍楽隊の伴奏で君が代斉唱が始まったところで放送装置が故障したため私服で警備に当たっていた軍人たちがスピーカーに向かって歩き始めた時にテロリストが観衆の列から駆け出して水筒型の爆弾を壇上に投げたのです。水筒型を使った理由は現在の韓国の歴史家は「陸軍の白川大将と植田中将だけを標的にしたため」と説明していますが実際は上海居留民代表の医師が即死し、重光公使は右足、植田中将は左足を失い、野村中将は片目を失明し、全身に108カ所の傷を負った白川大将は5月5日に停戦が成立したのを見届けた後、5月26日に亡くなりました。しかし、白川大将は昭和の陛下の意向を守って有利な戦況にも攻勢に出なかった和平の功労者であり、野村中将は日米開戦を回避すべく最後まで交渉に当たった駐米大使であり、重光公使は戦艦・ミズーリの甲板で日本政府を代表して降伏文書に署名した外務大臣です。逆に東條英機首相の腰巾着として戦争拡大を推し進めた嶋田繁太郎海軍大臣が無傷だったのは標的を間違えています。
- 2021/04/28(水) 13:42:10|
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「杉村2佐、よろしくお願います」「モリヤ警務官、お手柔らかに願いますよ」パキスタンとアフガニスタンの国境近くの集落で待ち合わせた私たちは友人を装って日本語で挨拶を交わした。岡倉は依頼通りにパキスタン国内で中古の4WD車を購入して、荷台には携行缶に入れた補充用の燃料を積んでいる。ディーゼル用の軽油とは言え直撃弾を受ければ大炎上だが、燃料の補給が難しい状況では当然の準備ではある。
「ジャパン・アーミー・ルテナン・カーノー、2パーソン(日本陸軍の中佐が2名)」「オー、グランド・ジエータイ。OK」国境にはオランダ軍の下士官が立っていた。運転席の岡倉が偽造の身分証明書を提示して身分を説明すると突きつけていた小銃を反らして手で進行を促した。やはりオランダ軍はイラク派遣など陸上自衛隊と同じ地域で活動する機会が多く、決してひけらかせない実力を熟知しているようだ。そう言う私も北キボールでは一緒に仕事をして大変な目に遭ったが勲章で帳消しになった。
国境を越えると「荒野」としか言いようがない風景が続く。剥き出しの岩山には樹木がほとんど生えておらず窪地だけを草が緑色に染めている。山肌を刻んだような道路を走っていくが斜面の下に黒こげの車両が投棄してあるのは間違いなく戦闘の痕だ。岡倉が4WD車でも派手な塗装の車両を選んだのは軍用車両と誤認されればゲリラの攻撃目標になるからだろう。
「地雷の除去が進んでいないから轍を走らないと危ないな」「ところどころに野生動物が死んでいるのは対人地雷を踏んだのかな」「国際刑事裁判所の人間が対人地雷を使用している可能性を考えるのか」相変らず岡倉は皮肉屋だ。1999年に対人地雷禁止条約が発効して17年になるが、それは生産を止めただけのことで紛争当事国は在庫を現在も有効に消費している。実は私も普通科の幹部だった頃には敵の接近経路の制限のために利用する方法を研究していたのだ。その一方でスリランカでは片足を失った多くの若者を見て対人地雷の非人道性も認識している。ただし、スリランカ軍の関係者は「コブラに咬まれた」と説明していた。
「最初は徒歩で潜入したんだぞ。その時、捕まって世話になったのがあの監視所だ。今は瓦礫だが」アフガニスタンに入ってしばらく走ったところで岡倉が以前は小屋だったらしい瓦礫を視線で差しながら説明した。材木が乏しい砂漠地帯の国では瓦礫になった建材は即座に持ち去られるらしく整地した家の跡に壁に積んであったらしい石が丸く瓦礫になっているだけだ。
「この壊れ方は砲弾が爆発したな。空爆の直撃なら地面に穴が掘れているはずだ」「流石は元普通科だな。アメリカ軍が侵攻する時に携帯ミサイルで破壊したようだ」やはり自衛官同士は話が弾む。存在そのものが秘匿されている組織の一員になっているはずの岡倉がここまで任務上の経験をあからさまに語るのは私も協力者に加えられたのではないか。しかし、今回はこちらから協力を依頼したのだから文句は言えない。
「少し停まるぞ。お前は坊主だろう。死んだ知り合いのためにお経を挙げてくれ」おまけに態度は幹部候補生学校の同期になってきた。確かに幹部候補生学校では研修先に慰霊碑があると教官から「いつもは黙祷だが今期は坊主がいるから。お布施はやらないぞ」と読経を命じられた。さらに70キロ山岳踏破行軍では区隊長から「道端の石地蔵に訓練の安全を祈願しろ」と命じられて、それが私には候補生が自分に課す試練になった。
「死んだのはムスリムだよな」「当然だ」「それなら帽子とサングラスを取って頭を下げろ」「なるほど」私の指示に岡倉は珍しく素直に従った。そう言えば幹部候補生時代、岡倉は「坐禅会に通っていた」と語っていたような気がする。
「スプハーナッ=ラー」岡倉が真面目な顔で頭を垂れたのを確認して私は隣の席で簡易なサラート(礼拝)の意志表明を唱えた。本当は地面に跪いて天を仰ぎながら勤めたいのだが、時間がない上、狙撃される危険もあるのでそこはお許しを願った。
「アシュハド アン ラー イラーハ イッラ=ッラー(アッラーの他にカミはないことを証言する)」を2回、「アシュハド アンナ ムハンマダン ラスール=ッラー(ムハンマドはアッラーの使いであることを証言する)」を2回、「ハイヤー アラッサ=ラー(礼拝のために来たれ)」を2回、そして「ラー イラーハ イッラッ=ラー(アッラーの他にカミはいない)」を1回。礼拝の定型句を詠うと岡倉も両手で顔全体を撫で始めた。これは私の慰霊目的の礼拝以上に本格的にイスラム教を学んでいるようだ。やはりペルシャ語を操り、イスラム圏で行動する以上、地元の人たちの信頼を得るためには必要不可欠な知識なのだ。
「発音は酷いが気持ちはこもっていた。イスラムのサラートになっていたよ。流石は坊主だな」礼拝を終えて車を走らせると岡倉は本人としては最大限の誉め言葉を贈ってくれた。実は現在の岡倉は知愛と言う妻を得て良き家庭人になっているのだがまだ告白してもらっていない。
- 2021/04/28(水) 13:40:52|
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内政ではマスコミ各社の常軌を逸した粗探しで袋叩き状態になっている上に選挙でも全敗を喫した菅政権ですが外交においてはマスコミが取り上げない成果が上がっています。
先ず粗探しについて述べれば共産党中国の細菌兵器の変異型による感染者数の急増と医療体制の逼迫により、政府が矢継ぎ早に対策を打ち出してもそれを説明する菅首相の記者会見で主に女性記者たちは「過去の対策の不備が原因ではないか」と新たな対策は無視して責任を認めさせることだけに固執しています。これでは共産党中国の武漢で前例がない劇症性の新型インフルエンザが爆発的に流行しているとの情報を受けて専門家と休む間もなく対策を模索していた安倍首相を1年前の「桜を見る会」の招待客数の問題で追及していたのと同様に菅首相も体調の悪化による退陣に追い込もうとうしているとしか思えません。そんな亡国マスコミにとっては許し難いことかも知れませんが、国際社会は安倍政権が目指した方向に動き始める兆候が見えてきました。
1つ目は中華帝国の再現を目指す共産党中国とその宗主国に臣従する韓国が日本を貶める道具に使っている国際連合教育科学文化機関=ユネスコの「世界の記憶遺産」に登録する手続きを事務局長の独断の決定から加盟国で構成する執行委員会の承認制とした上に他国の申請事案に異議を申し立てられる仕組みも導入するように変更したのです。日本のマスコミは異常に国際連合に肩入れし、中でもユネスコが好きですが、そのユネスコはソ連、現在は共産党中国が実権を握っていてアメリカと同盟国・日本の世界最高水準の民主社会を誹謗する情報を世界各国の教育界を通じて流布することに利用しています。特に77年前に終結した第2次世界大戦における日本の戦争犯罪を固定化することには熱心で2015年には極東国際軍事裁判所=東京裁判で戦勝国になった国民党が誇張した南京大虐殺を戦争の当事者ではない共産党も踏襲して記憶遺産への登録を強行しました。しかし、今回の変更で韓国が宗主国・中国の協力を仰いで朝日新聞が捏造し、それに韓国のマスコミが同調して外交問題化した戦時売春婦問題で踏襲するのを阻止した形になりました。
2つ目は共産党中国が自国の港湾から南シナ海、タイランド湾、マラッカ海峡、インド洋を通って中東の原油地帯とアフリカ大陸を結ぶ海路の制海権を奪取・堅持する一路一帯化戦略に対抗する日本とアメリカにオーストラシアとインドを加えた軍事同盟にインド洋の支配者・イギリスに続いて意外に軍事大国のフランスも参加することになったことです。ヨーロッパ各国は地元では紳士を演じる共産党中国に友好的でしたが、ここに来て実態を認識したようです。実際はドイツも協力を表明しているのですが、冷戦構造が終結して東西両陣営の最前線だったドイツはヨーロッパ全域の中央部になったため安全保障は治安維持のことになり、軍事力は異常なほど縮小されたので期待できることは僅かです。
今になって見え始めたこれらの動きは安倍首相の指揮の下、新世代の外務官僚たちが押し進めた国際標準の外交の成果なのは間違いありません。
- 2021/04/27(火) 13:36:25|
- 時事阿呆談
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「今度の出張の間、私はスリランカで待つわ」佳織と電話を交しながら出張の計画が固まってくると梢が意外ことを言い出した。本当はパキスタンで待ちたいのだろうが、アフガニスタンが対イスラム戦争の戦場になり、アジアまで出張している十字軍の拠点になってからは治安が急激に悪化して、軍事施設や外国軍の将兵を狙ったテロが頻発している。それでなくてもパキスタンはインドと共に女性が犯罪に巻き込まれることが多い国なので梢が1人で待っていては私には余計な心配にしかならない。その点、スリランカであれば治安は安定していて知人もいるから距離が近い分だけ一体感を共有できる。
「田島1尉の了解は取ったのか」「うん、ご主人は着任した大使の国内視察に同行してるから帰ったら確認して連絡をくれるそうよ」やはり手回しは万全のようだ。自衛官の妻なら留守番と言う役割もあるが、私は妻に家を守らせた経験は「無い」に等しい。美恵子は前川原に入校している間に無断で仕事を始めて私に服務規律違反の大失点を与え、続くカンボジアPKOでは不倫に溺れて家庭が崩壊した。一方、佳織は私の方が留守番を担当していた。梢なら留守番も完璧だが、可能な限り近くで待っていてもらった方が心強い。
「スリランカ佛教の寺院で貴方の安全を祈れば絶対に守ってくれるから安心して任務を遂行して下さい」「よろしくお願いします」この挨拶はお辞儀の代わりに強く抱き寄せた。梢の吐息を首筋に感じながら「若し梢と結婚していたならどのような自衛官人生になったのか」を考えた。少なくとも才能がない航空機整備員の仕事に悩み苦しみ、幼い頃から父親に吐き掛けられてきた「できないのは努力不足だ」と言う低級な精神論で自分を責め、破滅的に追い込んだ揚げ句に航空教育隊の交代要員と言う人事に飛びつくような軽率なことはしなかったはずだ。おそらく警務隊や調査隊に転換して部内の幹部として何事もなく航空自衛隊での勤務を全うして沖縄で定年退官を迎えたような気がする。多分、沖縄式に大家族を築いていただろう。兎に角、梢との子作り作業が大好きだった。
その頃、岡倉はニューヨークで出張の準備を始めていた。今回は「変人」の同期・モリヤニンジン2佐に同行するため過去に経験がない事態が発生している。何よりも服装が陸上自衛隊の迷彩服なのだ。しかし、岡倉は海外諜報要員になった時から自衛官としての身分を隠蔽しているため自宅にも自衛隊の痕跡は残していない。迷彩服は渡辺将補を介してワシントンの日本大使館の2等陸佐の防衛駐在官から提供を受けた。実はワシントンの日本大使館には将補が1人、1佐が2人(陸海空で固定していない)、2佐は陸海空3人の防衛駐在官が外交官として勤務している。幸い岡倉も2等陸佐だから名札を交換して特殊技能徽章を剥がせばそれで済む。
「貴方は陸上自衛隊のモリヤニンジン中佐と同期だったのね」聖也が眠った後、荷造りしている岡倉の隣りから知愛が妙な確認をしてきた。今回の出張は前回のベトナムよりもはるかに危険を伴い、初めて自衛官として行動するため知愛にも概略は説明してあるが、同行者の「モリヤ2佐」では人物が特定できなかったらしい。
「うん、モリヤヘンジンを知ってるのか」「冗談ばっかり・・・私も元法務士官よ。日本の陸上自衛隊から国際刑事裁判所の検察官に就任したモリヤニンジン2佐の名前は聞いているわ」知愛の説明に岡倉は前川原から今日までのモリヤ2佐に関する情報を思い出してみた。岡倉も大学時代から周囲に軍事オタクと呼ばれるほど戦史や軍事の専門知識に精通していて部隊の推薦図書の読みかじり程度の知識しか持たない陸上の部内部外の連中は簡単に論破していた。ところがモリヤ候補生は帝国陸海軍だけでなく外国軍、特にアメリカ海兵隊には異常に詳しく、戦史も古事記の神話から平安時代、戦国時代の合戦を経て戊辰戦争と明治以降の陸戦、海戦、空戦に至る日本史だけでなく中国の古代戦史から国共内戦、さらに中世から近現代のヨーロッパやアメリカの大小の戦争まで研究していて同期だけでなく教官も黙らせていた。確かに勉強家で暇があれば専門書に読み耽っていたが、その熱の入れようはやはり変人だった。任官してからは伊藤佳織3尉の断ち難い恋慕の情の訴えに不祥事を起こした妻を追い落とす作戦を立案した。その後は会うこともないままアメリカに赴任したが、北キボールPKOで暴徒を殺害して日本で刑事被告人として裁判を受けたことは日本版の海外ニュースで注視していた。
「お前はアイツの女房も知っているはずだぞ」「アメリカ太平洋軍司令部の連絡官だったモリヤ佳織大佐ね。アメリカ陸軍の指揮幕僚大学院を修了した同じアジアのWACのエリートとして憧れの存在だったわ」岡倉の質問に知愛は静かにうなずいた。
「岡倉中佐の軍服姿を見せて」最後に岡倉がハンガーにかけた迷彩服の「中業隊本部・杉村」の名札を確認すると知愛が目を輝かせて声をかけた。岡倉自身20年ぶりの制服だ。立ち上がって着替えると知愛は姿勢を正して挙手の敬礼をした。

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- 2021/04/27(火) 13:32:19|
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左右両派のマスコミの世論調査でも圧倒的多数の回答者が「実施は無理」「中止すべし」と口を揃え、「開催しなければ準備に投資した巨額の予算が回収できない」と言う大義名分も外国からの観客が受け入れられなくなって霧散している2021年東京オリンピックですが、陰湿そうな菅政権に反抗してまで異論を唱えるマスコミがいないため聖火リレーが始まってしまいました。しかし、その聖火リレーもオリンピック自体が東京と周辺の住民だけの行事に過ぎず、地方のマスコミが地元出身の選手を紹介して応援を呼びかけても活動しているのは東京なので実家がある限られた地域と出身校の関係者以外は興味を持たず、逆に聖火が回ってくる地方では共産党中国の細菌兵器でそれでなくても人手が足りないところに余計な仕事が入って迷惑この上ないのですが、明るいニュースがない地方マスコミも同調して白けきった歓迎報道を繰り広げているようです。
それにしても今回の東京オリンピックは開催前にマスコミ各社が「安倍政権憎し」で粗探しに励み、興味がない田舎者も「本当に大丈夫か」と心配になってしまうような多くの問題点が指摘されていましたが、中国の再起兵器の世界的蔓延によって1年間延期されたおかげで時間が十分にできたにも関わらず開催の可否だけを議論して急場しのぎの対策が決定していた問題についての再検証は十分に行われてこなかったようです。
例えば炎天下の実施が危険視されるマラソンと競歩を東京よりも涼しい北海道の札幌で実施すると言う決定は厚化粧都知事が異論を挟みながら笑えない冗談をマスコミに政治問題化されて退任した組織委員会の前会長に押し切られた形のまま放置されていますが、その結論通りに実施されるのでしょうか。その割に開催地の北海道の準備などは全く報道されず、むしろ細菌兵器の蔓延の方が注目されています。
種目についても以前、日本国内では異常に特別視されていても競技人口は少数で、地域の偏りも著しいベース・ボール=日本では野球が加えられたり、取り下げられたりと二転三転していて、同様に試合は跆拳道との違いが判らないため「型」ばかりが強調されて体操に似た種目なのかと思われている空手も消えたのか残ったのか判らなくなっています。
そして何よりも「1年前の予選の勝利者=代表決定者の権利を尊重する」と言う選手の出場資格が組織委員会の前会長の口から語られたため、それが日本代表だけに適用されるのか世界共通の基準として恥も臆面もなく過去の実績だけの選手団が集るのか全く報道されていません。現段階で各種目の世界レベルの大会が開催されたのは一部だけなので実力を維持するだけの練習を繰り返してきた選手が成果を披露する異常なオリンピックになるのでしょう。こうなると「世界記録が幾つ出るか」だけが注目点になりそうです。
ところで国際オリンピック委員会=IOCは異常な形でも開催に固執していますが、世界保健機関=WHOの見解はどうなっているのでしょうか。感染拡大を防止するには人の往来を制限するのが常識で、この時期にオリンピックを開催することに賛成するとは思えません。尤もWHOの黒幕の共産党中国も2022年には北京で冬季オリンピックを開催する予定なのでIOCに異論を挟むことは許されないのでしょう。
- 2021/04/26(月) 12:59:09|
- 常々臭ッ(つねづねくさッ)
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「杉村さん(岡倉の偽名)、少し困った依頼が入った」ワシントンの日本大使館防衛駐在官の渡辺将補に呼び出された松山1佐はニューヨークの事務所に帰ると韓国情勢について調べている岡倉を席の前に呼んだ。その顔は珍しく本当に困っているようだった。
「困ったって危険が伴うんですか」「それもある・・・」松山1佐は妻の裕美2曹が2人に運んできたコーヒーを勧めると自分も一口すすった。危険以上に困った依頼とは余程の無理難題なのかも知れない。岡倉も思案しながらコーヒーを飲んだ。
「実は国際刑事裁判所の日本人の検察官がアフガニスタンの現地調査に入るのに通訳を出してくれとフィリピンの防衛駐在官を通じて渡辺閣下に依頼してきたんだ」「その検察官はモリヤニンジン2佐、フィリピンの駐在官は佳織1佐ですね」岡倉も珍しく大声を上げたため長机で自分の仕事をしている杉本と本間、松本も一斉に顔を向けた。岡倉はモリヤ2佐・1佐夫婦とは幹部候補生学校の同期で、佳織1佐の不倫愛を成就させた攻略作戦の参謀だった。一方、松本はニンジン2佐と本間は佳織1佐と面識があり、松山1佐に至っては元上司と部下なのだ。ただし、個人情報は職場でも明かさないのが原則なので誰も口にはしなかった。
「しかし、国際刑事裁判所の検察官の公務出張であれば現地の国連の出先機関に依頼すればすむ話じゃあないですか」経歴上は唯一モリヤ夫婦と面識がないことになっている杉本が冷静な疑問を述べた。しかし、実際は杉本も本間に同行した香港の民主化運動の調査の帰りに寄ったフィリピンのニノイ・アキノ空港で佳織1佐に会っていた。
「それが国連にも秘匿しなければならない極秘調査らしい」「それはウチとしても興味が湧きますね。モリヤなら常識では思いもつかない問題を発掘するつもりかも知れませんよ」松山1佐の説明に岡倉は同期の感覚で反応してしまった。確かにモリヤニンジン候補生は航空から転換してきた変わり種で、大学を中退している割に一般の大卒者以上に雑学的知識が豊富だった。おまけに航空教育隊の班長で体育学校の格闘課程を修了しているため実技でも陸上の部内部外(自衛官の夜間部や通信課程出身者)に遜色なく異彩を放っていたのだが、当時の妻が起こした不祥事のため服務に大失点が付いて成績は下位に転落した。そんなモリヤ候補生は課題論文や討論でも型通りの発想しかない陸上の部内部外や本質を理解していない大卒者とは違う独特の視点で論述・発言して教官を困らせていた。
「問題は杉村さんの本当の素性を知っている人物と接触する危険性ですね」本当は同じ大学の後輩に当たる本間が何も知らずに問題点を確認すると本人を熟知している岡倉と松山1佐は顔を見合わせて苦笑した。
「アイツは私が別人を演じればその役柄を事実として対応してくれるでしょう。そのくらい洞察力が鋭い愛知大学が産んだ変人ですわ」「それじゃあ了解で良いな」本間はいきなり母校の名前が出て困惑したが、松山1佐も「変人」と言う評価に同意しながら承認した。
岡倉はペルシャ語圏の担当者としてアフガニスタンのアメリカ軍が撤退したことでタリバーンと残留したNATO軍の戦闘が激化している危険な現状は誰よりも熟知しているが、ここは同期から依頼を受けての任務遂行を優先した。
「貴方から依頼があった件、OKよ」数日後、佳織から「アフガニスタンへの極秘の出張に当たり依頼したペルシャ語の通訳が確保できた」との連絡が入った。それでも佳織は秘匿装置が付いていない電話での会話には不安を抱いているようで内容は必要最小限にしている。
「それは助かった。自衛官なら自分で危険を回避してくれるだろうからお荷物が随分軽くなる。有り難う」私としては懸案事項が一つ解決して心から礼を言ったのだが、佳織は返事をしなかった。しばらくの沈黙の後、佳織は口調を重くして言葉を続けた。
「実はその人はタイガー・ジェットなのよ」「タイガーって・・・やはりな」佳織の極限まで簡略化した説明でも一応は夫婦なので私には通じた。タイガー・ジェット・「シンイチロー」とは前川原の同期で大学時代はプロレス同好会で活躍していたらしい岡倉信一郎のリング・ネームだ。岡倉は高射特科から調査に職種転換して陸上幕僚監部内のどこかで勤務していた1尉の頃、突如として所在不明になり、痕跡を消すように同期名簿からも抹消された。私としては噂で聞く非公式な情報組織に配属された可能性を考えていたが、それが事実だったことになる。
「それじゃあ今回は陸上自衛隊の幹部2人が私的な好奇心でアフガニスタンを視察に行ったことにするから迷彩服の乙武装で来るように伝えてくれ」「それって絶対に無理よ。自衛隊じゃあ海外渡航許可が下りないでしょう」「向うで接触する海外の軍隊の常識では有り得ないことはない」私の反論に佳織は馬鹿な亭主を持っていることを久しぶりに自覚したようで呆れながら納得した。ただし、本当にそんな馬鹿な軍の士官がいるかは私も自信はない。
- 2021/04/26(月) 12:58:10|
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昭和48(1973)年の4月25日は日本の憲政史上、54日間の東久邇宮稔彦首相、62日間の第3次の桂太郎首相(1次、2次を加えると逆に安倍晋三首相に次ぐ2886日の長期政権)、64日間の羽田孜首相に続く65日間の短命政権だった石橋湛山首相の命日です。しかし、短命だった方が日本には幸いだったようです。
石橋首相は日蓮宗身延山久遠寺の81世・杉田日布法主が湛誓と名乗っていた明治17(1884)年に長男として東京で生まれました。1歳で父親が山梨県の山奥の寺の住職になったため甲府市内で母と2人で暮らしますが弟2人に妹3人が続々と生まれています。
明治22(1889)年に甲府市内の尋常小学校に入学すると3年生の時に父親の寺で同居することになり、甲府市から20キロ山奥の尋常小学校に転校することになりました。ところが明治27(1894)年には父親が静岡市内の大寺院の住職に就任したためさらに山奥の寺に預けられ、両親とは事実上の絶縁関係になりました。浄土真宗以外の宗派の高僧は佛戒を保っている形式を示すため離婚しなければならず、石橋首相も東京では有数の畳問屋である母の実家の姓を名乗ることになりました。翌年、甲府市の山梨尋常中学校に進学しましたが、2回落第したため7年間在学することになり、そのおかげで最終学年に札幌農学校でウィリアム・スミス・クラーク校長に「大志を抱かせられた」クリスチャンの校長が着任し、アメリカ的キリスト教の影響を受けることになりました。
中学校を卒業した頃に得度を受けて東京で第1高等学校の受験に2回失敗したため早稲田高等予科に入学して明治40(1907)年に早稲田大学文学部を首席で卒業すると新聞社に入社しますが、間もなく軍隊を志願して入営すると(大卒者は兵役免除だった)軍曹まで務めて除隊した後、さらに予備士官を志願して少尉に任官しています。予備役編入後はジャーナリストとして活躍するようになり、大正時代には民主主義を推奨し、昭和になると大陸進出に躍起になる帝国主義者を批判して加工貿易立国論を提唱しましたが戦争拡大を扇動する朝日新聞に対抗するほどの影響力は持たなかったようです。
敗戦後は昭和21(1946)年の衆議院選挙に自由党から立候補して落選したものの第1次吉田茂内閣の大蔵大臣として入閣して政治家の道を歩み始めました。大蔵大臣としては経済発展を阻害するデフレを抑制するためインフレ政策を進めますが占領軍とは何度も激しく対立したため国民からの支持を集めるようになりました。
そんな戦後の混乱も独立によって沈静化した昭和30(1955)年に自由党と民主党の合併によって誕生した自由民主党で初めて行われた昭和31(1956)年の総裁選挙で岸信介後の首相を破って当選し、12月23日に総理大臣に指名されたのです。しかし、就任後に全国10カ所を9日間で回る強行遊説に出て帰宅後に脳梗塞で倒れたためジャーナリスト時代、右翼の銃撃を受けて負傷した浜口雄幸首相に「療養で政務が行えないなら退陣すべし」と社説で迫った自身の筋を通して2月25日に退陣しました。
ただし、退陣後は日本政府やアメリカ政権の意向を無視して共産党中国に接近するなど鳩山由紀夫首相の前例のような迷惑な「元首相」になりました。
- 2021/04/25(日) 13:32:29|
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モレソウダ首席検察官から内密にアフガニスタンでのアメリカ軍とNATO軍の戦争犯罪の実態調査を命じられた私は慎重に計画を練り始めた。コートジボワールやボスニア・フェルツェゴビナでは予想以上に英語が通じないため市民からの聴取は一部の知識階層に限定されてしまった。今回のアフガニスタンは19世紀の後半から1919年の独立まではイギリスとロシアの緩衝国として支配地域が分かれていたが、英語がどこまで残っているかは不明だ。
「アフガニスタンで通じるのはペルシャ語のはずよ」本来は「機密」「極秘」「秘」の3段階がある防衛秘密の「極秘」に相当する今回の現地調査だが、梢は元プロの秘書として作戦会議に参加している。しかし、流石の梢も沖縄からアフガニスタンの旅行を申し込む客に対応した経験はなく、予備知識として勉強していた書籍やインターネットで得た情報に過ぎない。ソ連がアフガニスタンに軍事侵攻したのは私たちが高校3年の12月24日だったから社会人になった頃には紛争が続いていて旅行先になるはずがなかった。
「ペルシャ語かァ、流石に得意な奴は思い当たらないな」いきなり通訳の確保が難題になった。アフガニスタンにも国際連合の停戦監視団や復興支援機関が設置されているが、アメリカやEUの主要国を敵に回すことになる今回の戦争犯罪での告発を漏らすことはできない。
「自衛隊は独自にアフガニスタン情勢を調査してなかったの」腕を組んで考え込んでしまった私にコーヒーを運んできた梢が鋭い質問をした。やはり梢と暮らしていると適時適切にヒントを与えてくれるため考え込むのは入口で終わってしまい哲学者にはなれない。考えてみれば「恐妻は夫を哲学者に、悪妻は夫を宗教者にする」と言う金言を残したロシアの文豪・トルストイは史上最大の恐妻家と呼ばれ、その妻から逃れるために家出して死亡している。今はその真逆の生活をしているので自衛官としても坊主としても緊張感がない。
「そう言えばブッシュ政権が対イスラムの戦争を画策し始めた頃、妙にリアルなアフガニスタン情勢の解説が部内で回覧されたな。あれはどう見ても現地レポートだった。ワシはパキスタンの防衛駐在官が決死の潜入調査を敢行したと見ていたが・・・」「だったら佳織に訊いてみなさいよ。佳織も香港の調査に潜入したみたいだから何か知ってるんじゃあないの」私の秘書とは言え公式には部外者の梢がここまで部内の情報に詳しいのには困ってしまう。それでもこの助言を採用することにした時には梢はフィリピンとの時差7時間から現地時間を確認して電話をかけていた。今ならフィリピンは仕事が終わって帰宅した頃だ。
「ハロー」「ミリタリー・アタッシュエー(駐在武官)、カーネル・モリヤ(モリヤ1佐)」「イエス、貴方ね」佳織は私の英語を聴き当てた。一時期はかなりヨソヨソしくなっていたが、年末に2人で過ごしてからは精神的な夫婦関係が復旧したのかも知れない。
「熊本の震災の話でしょう。私も自衛隊の災害派遣について確認されてるんだけど幕(ばく=陸上幕僚監部)に人脈がないから困ってるのよ」ところが佳織は一方的に用件を推理して自分の苦労を語り始めた。そこは長年離れていても通信回線がつながっていた梢とは違う。
「熊本の震災は5月一杯で西部方面隊も撤収したから今なら記録の整理も進んで佳織1佐が要求すれば喜んで提供してくれるはずだよ」「そうだね。建軍(=西部方面隊総監部)に知り合いがいないか探してみるわ」話は外れたまま進んでいく。それでも会話が弾んでいることを梢は隣りで嬉しそうに眺めている、ここで私は深く息を吸い、こちらの用件を切り出した。
「これは防衛秘密ではない国際刑事裁判所検察部秘密なんだが・・・」「それを普通の国際電話で話して良いの」流石に佳織の反応は陸上自衛隊の元通信幹部だった。確かに盗聴されていては極めて拙いが日本語と言う秘匿をかけ(梢が相手なら沖縄方言も使える)、目的には踏み込まないことで保全する。それは佳織もプロとして察知するはずだ。
「昔、部内回覧のアフガニスタンの現地レポートを読んだことがあっただろう」「うん、外務省の公式発表やフリー・ジャーナリストの投稿記事よりもリアルで感心したやつね」他にもペルー大使公邸へのペルー軍の突入やイラク情勢、リビア内戦など自衛隊では時折、非常に読み応えがある現地レポートが回覧されることがあり、佳織も当然、熟読していたようだ。
「あれを書いた人物がブナイジンだったらツージに紹介して欲しいんだ」「それって・・・」佳織は私の目的を確認しかけて口をつぐんだ。この呼吸は夫婦と言うよりも自衛官同士の意識の一致だろう。それでも自衛官を部内人、通訳を通詞に言い換えたのが通じて安心した。
「私は立場上知ってはいるけど今は部外者の貴方に協力してもらえるかは判らないわ。確認するから待ってね。期限は切れないよ」「はい、お願いします」始めは弾んでいた会話が次第に重くなり、最後は固定電話器に向かって頭を下げてしまった。それでもかなり無理な要望を承諾してもらえたのを理解した梢は安堵したように微笑んだ。

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- 2021/04/25(日) 13:30:42|
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1980年の4月24日にアメリカのジミー・カーター政権が前年11月4日にパフラヴィー前国王の癌の治療を目的とする入国を認めたことに抗議するイスラム革命軍の学生たちがテヘランのアメリカ大使館を占拠して大使館員と家族53人を人質にした事件が長期化して国民の不満が高まったことを受けて陸海空軍海兵隊の4軍共同で陸軍の対テロ特殊部隊・デルタ・フォースの初陣だったライスボール作戦が実施されました。
作戦計画では1「ペルシャ湾のオマーン領マシーラ島でデルタ・フォース93人を乗せたC-130輸送機6機と空母・ニミッツから発艦したRH-53大型ヘリコプータ8機(2機は予備)がイラン南部のタバスに設定したデザート1で合流し、RH-53の燃料補給をしてデルタ・フォースを移乗させる」、2「RH-53はテヘラン近郊のサッカー場=デザート2に着陸してデルタ・フォースはイラク国内に潜伏している工作員の車両で大使館に移動、突入して人質を救出する。その間に空軍のAC-130(C―130輸送機に銃器や火砲を搭載した攻撃機)とニミッツや空母・コーラル・シーの艦載機がテヘラン近傍のマンザリヤ空軍基地=デザート3を攻撃する」、3「デルタ・フォースと救出した人質をデザート2から(可能な場合は大使館に着陸する)RH-53で移動させてデザート3に強行着陸したC-141輸送機2機でマシーラ島に脱出する」と言う手順でした。
野僧は航空自衛隊士官としての本業は地上戦でも副業は輸送でしたからデザート1でRH-53に燃料補給した上で移乗させ、イラン空軍の基地に輸送機を強行着陸させる作戦計画には疑問があります。しかもRH-53は大型輸送ヘリのCH-53と同型機でも空母艦載の掃海用のため砂漠地帯の過酷な自然環境への対策は施してありません。
実際の作戦はC-130が午後6時にマシーラ島を離陸して、22時にデザート1に到着してRH-53を待っていると民間のバスが通ったため停車させて乗員と乗客を拘束しましたが、続いて来た燃料トラックは無視したため携帯式対戦車ロケットで破壊したものの運転手は後続車で逃走し、作戦がイラク当局に発覚した可能性が発生したのです。一方、RH―53は午後7時30分に発艦していましたが途中で激しい砂塵に巻き込まれて故障した1機は空母に戻り、もう1機は不時着して予定よりも1時間遅れた午前0時30分頃に到着しました。ところが1機が油圧系統の故障で飛行不能になったため作戦に必要な6機が確保できなくなり中止になったのです。ところが撤退するため離陸したRH-53が強風にあおられてEC-130に激突して両機とも炎上、8名が死亡・4名が負傷したためRH-53の全機を放棄してC-130で脱出する無様な事態になりました(イランは機体の残骸の写真を公開した)。おまけに放棄したRH-53の破壊が不十分だったため暗号書やイラン国内で活動する工作員に関する情報が流出する失策まで犯したのです。
その上、4月30日に発生したロンドンのイラン大使館占拠事件が6日間の攻防の末にイギリス陸軍特殊部隊・SASの突入で解決したためアメリカ軍とカーター政権の威信は地に落ちました。なお人質になっていた大使館職員と家族が解放されたのは1981年1月20日のドナルド・レーガン大統領の就任式の最中でした。
- 2021/04/24(土) 13:39:23|
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「モリヤ検察官には今回の控訴審から外れてもらいます」私はモレソウダ首席検察官に個人的に呼ばれて旧ユーゴスラビア内戦の控訴審から外されることを通告された。あれからも私は主犯2人に対する死刑の求刑を主張し続けていた。やはり今回の控訴審では旧ユーゴスラビア特別国際裁判所が下した有罪判決を維持することを主眼としていて、それを危うくするような訴追事由の変更は必要ないようだ。
「私も政治的な判断から言えばその結論も理解できます。しかし、この事件の背景にあるのは中世の十字軍の過ちを反省することなく近代兵器に持ち替えて継続しているヨーロッパ人の凶悪性です。その問題をバチカン以下のヨーロッパのキリスト教徒に突きつけるためには自分たちの信仰が犯した人道上の罪を突きつけて議論させるしかありません。ヨーロッパ人は議論によって本質に迫る文明人としての素養は持っているはずです」長い台詞を吐き終えて私は今日も出された巨大なマグカップの濃いコーヒーをすすった。
「その点は私も同感です。個人的には2013年にバチカンがアルゼンチン人の教皇を即位させたのもスペインやポルトガルがカソリックの布教を名目にして南アメリカを侵略して独自の文化を徹底的に破壊して民族を滅亡寸前にまで大量虐殺した大罪を糊塗するためとしか思えません」キリスト教の領域で暮らす異教徒同士になるとモレソウダ首席検察官もムスリマとしての本音を語ってくれる。今回の判断は公私の狭間で下した現実的な選択なのだろう。
「ポーランド人の教皇・ヨハネ・パウロ2世が中世のバチカンが犯した過ちを公式に認めて懺悔するミサを行ったことを世界中のカソリックが批判して後任にはポーランド人にとっては仇敵であるドイツ人を選んでいる。日本の長崎ではプルトニウム爆弾が浦上天主堂の上空で爆発したにも関わらずカソリックの信者は『原爆はカミの罰だ』と公言している。哀しくなるほど愚かなことです」私の宗教者としての見解にモレソウダ首席検察官が姿勢を正したので目の前に生身の大佛が現れ、自然に頭が下がった。
「これはモリヤ検察官だから言えることなんだけど・・・」私のカソリック批判で話に区切りがついたところでモレソウダ首席検察官が身を乗り出して声量を落とした。そうなれば私も身を乗り出すことになり顔が至近距離になった。やはりこの顔のアップは迫力がある。
「モリヤ検察官は国際刑事裁判所に加盟していないアメリカの非公式な推薦を受けて加盟国会議が選任したんだけど、始めはアメリカが我々の動向を探り、意のままに操るための工作員なのではないかと疑っていたんです」「はい、それは知っています」私も民政党政権では保守派の閣僚の靖国参拝を批判する発言を二村事務官の浮気相手の記者が新聞に載せたことで陸上幕僚監部が取り扱いに困っていたところに救難隊のように飛び込んできた異例の人事の背景については外務省の窓口から個人的に聞いている。外務省としては国際司法裁判所と国際刑事裁判所の判事の枠を高級官僚の栄転先として確保していれば良いので、向うから打診があった専門職の検察官については欲を掻かずに事務的に処置したようだ。
「ところが実務を見ていると極めて客観公正で軍の立場に理解を示しても西側の論理に同調はしない。むしろアメリカ軍やNATOの反イスラムの戦争には批判的な見解を公言している」「公言していますか。それは拙いですね」私が大袈裟に困惑した顔をするとモレソウダ首席検察官も黙って私を凝視した(恐い)。そう言えば以前は同じ日本人として個人的に私の執務室に顔を出していた元外務官僚の戸崎久仁子判事が来なくなっている。アメリカとヨーロッパとの関係を重視する外務省としてはコートジボワール内戦を巡るフランスの主張に消極的な私に批判的な評価が出始めているのかも知れない。
「そこで本論だけど・・・」さらに音量が落ちたので顔も近づいた。相手がモレソウダ首席検察官だから安全だが梢なら日頃の習慣で口づけする状況だ。
「私は遠からずアフガニスタンでアメリカ軍やNATOが繰り返している戦争犯罪を告発したいと考えています。イラクには多くのジャーナリストが入って問題を世界に向かって提起しているけどアフガニスタンについてはアメリカ軍が撤退を開始したことに目を奪われて欧米は実情を知ろうとはしない。だけど今もアフガニスタンやパキスタン北部では根強い支持を受けているタリバーンを敵としているアメリカ軍やNATOは協力者として疑った一般市民を拘束して拷問を加え、多くを殺害していると言う噂がイスラム教徒の間では流れているのよ。私も国際連合の人脈を通じて確認しているけど事実の可能性が高いわ。だから・・・」「アメリカの戦争犯罪を告発しますか。相手が大きいと武道家としての血が沸き立ちます」意外な展開に若い頃に熱中していた小兵が技で巨漢を倒す武道の神髄が甦ってきた。これは旧ユーゴスラビア内戦の主犯2人を相手にしている場合ではない。

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- 2021/04/24(土) 13:38:12|
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享保14(1729)年の明日4月24日に現在では晩熟(おくて)な硬派の「暴れん坊将軍」のイメージが定着している8代将軍・徳川吉宗さまのご落胤=隠し子を名乗った山伏の天一坊改行さんが斬首されました。
1970年のNHKの「男は度胸」では天一坊さんを志垣太郎さんが演じて無知な青年の悲劇として描いていましたが、それ以外の吉宗さまや大岡越前さんが主人公のドラマでは紀州で耳にした噂話を騙った確信犯で奉行に追及されて見苦しく動揺したことで虚偽が発覚すると言う展開になっていました。ただし、事件の舞台になったのは町奉行の職務権限が及ぶ江戸朱引き(江戸城下)の外の品川宿なので大岡さんは関与していません。また吉宗さまは「暴れん坊将軍」では独身と言うことになっていますが、紀州藩主になっていた宝永3(1706)年に最初の正室を娶ったものの死別したため女中に手をつけて長男の9代将軍・家重さんと二男の御三卿・田安家初代・宗武さんを儲けています。
天一坊さんの実像は判っていませんが、勘定奉行所で本人が申し立てた陳述内容では元禄12(1699)年に紀州の田辺で生まれ、母は和歌山城に女中奉公に上がっていて藩主だった吉宗さんと肉体関係を持ち、妊娠したため家に帰らされて天一坊さんを生んだとのことです。その後、母と一緒に江戸へ出ると間もなく母が町家に嫁いだためそこで育ちましたが、14歳の時に母が亡くなったため出家して山伏になり改行と名乗りました。
天一坊さんは幼い頃から母に「吉の字を大切にせよ」と教えられ、紀州の伯父からは「江戸へ出れば公儀からお訊ねがあるだろう」と言われていたことを重ね合わせて紀州藩主から将軍になった徳川吉宗さまの落胤と確信するようになり、「近い将来、大名に取り立てられる」と吹聴したため噂を聞いた浪人たちが集まって来ると自分が作る藩の役職を与えていたのです。
しかし、享保13(1728)年に浪人の1人が勘定奉行配下の関東代官に「品川宿の山伏・常楽院の家にいる天一坊と言う山伏が『自分は将軍の落胤だから近いうちに大名に取り立てられる』と吹聴して浪人を集めて役職を与えている」と通報したため問題が発覚し、関東奉行が上司の勘定奉行に報告すると老中の確認を受けた吉宗さまが「身に憶えがある」と答えたので本物だった時に失礼がないように極めて慎重に捜査を開始ました。
すると天一坊さんが「将軍と対面して脇差を拝領した」「幕府から扶持を受けていたが吉原で暴れたため打ち切られた」「このため寛永寺の宮様に仲裁を頼んでいる」「上野で将軍家の法事があったので参加して香典を献上した」などの事実無根の虚偽を口にしていることが判明したため郡役所に召喚して取り調べを行ったのです。その結果、偽物と断定され、将軍の血筋を名乗り、無用に浪人たちを集めた罪で死罪・獄門を申し渡され、この日、品川宿の鈴ヶ森の仕置き場=刑場で斬首されました。同時に家老予定者として武士の姓名を名乗っていた常楽坊さんも斬首され、重臣予定になっていた浪人は遠島、その他の浪人も江戸所払いになった上、品川宿の町年寄から名主まで処罰された一方で、最初に通報した浪人は褒美として銀5枚が与えられました。
- 2021/04/23(金) 14:11:31|
- 日記(暦)
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「おかえりなさい」「危ないから近づくな」ボスニア・フェルツェゴビナから帰った私はミュンヘン空港で出迎えた梢が近づこうとすると手で制した。私は男性職員の車でサラエヴォからスプレニツァに続きボスニア・ヘルツェゴビナ国内の惨劇の舞台になった場所を見て回ったが、それはまさしく現世の地獄だった。
「まだ背中に重みと冷気を感じるから救いを求める死霊を連れて来てしまったようだ。ワシは徐霊の陀羅尼を唱えているが、お前は心の波長が同調しているから憑依される危険がある」祖父から習った陀羅尼は僧侶としての法力を持たない者が唱えると逆効果になることがある。管長猊下から允可を授かっている私の「佛が佛に祈る」祈願は絶大な法力を持っているが、それでも慰霊を躊躇するほど内戦の犠牲者の怨念は深く強かった。
「念佛でも良いよね」人々の流れから取り残された中洲のようになっていることに気がついた梢が後退さった距離を保ったまま確認してきた。
「弥陀の念佛だと『救ってもらえる』と思わせるかも知れないから不動明王の真言を唱えなさい」「はい、ノウマクサンマンダ・バーザラダン・センダーマーカラシャーダー・ソワタヤター・ウンタラタラター・カンマン・・・」梢に不動明王の真言は教えていないが、最近は厄払いに唱えることが多いので聞き憶えていた。ただし、不動明王の加護は徐霊と言うよりも破邪だ。
「帰りにアムステルダムの西モスクに寄るぞ。家に死霊を連れていきたくないからな」空港から地下鉄、鉄道に乗り継いだが梢とは安全な間隔を保っていた。それにしても死霊が霊感を持たない者には関わらないのは不公平ではないか。航空自衛隊でも戦場だった那覇基地で立ち合った全員が亡霊を目撃しても「何もない」と言い張る男がいたが、比較的空いている列車内で私が背負っている死霊に気づく者は誰もいない。確かに日本人が江戸幕府による長い天下泰平を満喫していた同時期に異端審問や魔女狩りの暗黒社会から大小長短の絶え間ない戦争、そして2度の世界大戦、現在の頻発するテロまで何度も国土を血で染めてきたヨーロッパでは死霊を気にしていては暮らしていけないのかも知れない。
「なるほど確かに死霊が貴方に縋りついているようです」創建式典で知り合った西モスクのウラマーは中に入らず玄関で待っている私を見て怪訝そうな顔をしたが説明を聞いて納得した。ボスニア・ヘルツェゴビナではモスクを見つけると入って礼拝してきたが、惨劇が大きく報道されたスプレニツァでは世界中からの寄付でモスクを再建できても多くの場所では建物だけでなく死霊たちも破壊・殺害されたまま放置されていた。
「その死霊たちはキリスト教徒に殺されたムスリムですからモスクで慰霊すればアッラーが迎えてくれるでしょう。どうぞ」ウラマーに促されて私は男性用の礼拝室に入り、壁にかけてある前回はなかったミスラブ(天国の入り口を表す模様)の前に跪いた。梢はドアがない入口の廊下で手を合わせて見守っている。
「アシュハド アン ラー イラーハ イッラ=ッラー(アッラーの他にかみはないことを証明する)」ウラマーが祈願を始めると私は背中にひれ伏すような厳粛な重みを感じたが、やがて歓喜して小躍りするような動きが起こり、踏み切って飛び立ったような軽い衝撃が続いた。これで死霊たちは佛教で言う往生ができたらしい。
「今後、彼らは北キボールの暴徒たちと同じようにアッラーに貴方の誠実な信仰を証明する役割を果たすことでしょう。貴方が自分の宗教ではなくモスクを訪ねて慰霊したことはイスラムを尊重する心の表明ですから」祈願を終えてモスクへの寄付を手渡すとウラマーは今回の慰霊の意義を評価してくれた。やはり一神教では日本のように「昇華した死霊自身が守護する」と言う考え方はしないようだ。これで安心して自宅に帰られる。
「被告自身が望んだ控訴審では主犯のカラジッチ大統領とラディッチ大将に死刑を求刑しなければなりません」出勤してモレソウダ首席検察官への報告で私は結論から切り出した。隣りで聞いているリミッド次席検察官は何度も聞いている私の死刑復活論に嫌悪感を顔に浮かべた。死刑を求刑すれば国際刑事裁判所がオランダに所在している以上、マスコミは批判報道を繰り広げ、弁護側は審理を戦争犯罪から死刑の可否に置き換えることは私も推察している。
「本来はA級戦犯への変更を先行させるべきですが、首席検察官が危惧される死刑求刑による公判の変質に別の口実を加えることになりますから今回は保留します」第2次世界大戦後のニュルンベルグと東京の国際軍事裁判では政治指導者や軍上層部を「平和に対する罪」で訴追してA級戦犯にしたが、「平和に対する罪」の法的定義が未確定であることもあり、その後の国際裁判では適用していない。しかし、サラエヴォとスプレニツァに限らず旧ユーゴスラビア全土で繰り広げられた十字軍の蛮行の再現は「平和に対する罪」以外の何物でもない。
- 2021/04/23(金) 14:10:07|
- 夜の連続小説8
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マルクス教による世界制覇を国家戦略としていたソビエト「マルクス主義」共和国連邦が1991年12月26日に崩壊し、中華人民共和国はマルクス主義の教義を変質させたことで経済発展を遂げたことでその論理破綻が明らかになったカール・マルクスさんの思想=狂気がソ連を知らない世代の間で流行しているようです。
その原因はマスコミが脚光を浴びせた時から野僧が指摘していた通りスウェーデンの発達障害のグレタ娘で、「過剰生産が環境破壊の原因」と言う根拠がない妄論を共産党中国が株式を買収しているヨーロッパのマスコミが「過剰生産は資本主義の弊害」に置き換えて批判したことで、それを否定するマルクス主義が脚光を浴びることになったのです。確かにグレタ娘は西側先進国を口汚く罵り、自然エネルギーへの転換を主張していながら最大の資源消費国で最悪の環境破壊を犯している共産党中国は全く批判していません。
野僧は高校時代に広島大学教育学部出身で日教組の活動家だった教師(後に広島大学教育学部の教授になった)の解説=指導と激励=監督を受けながらマルクスさんの資本論とエンゲルスさんとの共著の共産党宣言を読破しましたが、中学時代の小坊主生活で身につけた佛教が思想的基盤になっていたので洗脳には至らず、逆に教師との議論で答えに窮するまで追い詰める場面もありました。
マルクスさんの思想の問題点は先ず弁証法的唯物論に基づく社会に対する分析と評価です。弁証法的唯物論は戦後の日本に蔓延しているマルクス史観を例にすれば判り易いでしょう。要するに物的証拠と論理的説明で証明された事物だけを認める無味乾燥した歴史観で、戦前に国家神道への洗脳として学校で教育していた古事記や日本書紀の神話は完全に否定して「日本の歴史は石器や土器、住居跡などが発見されている縄文時代から始まる」=「それ以前は日本列島に人間は存在していなかった」と教育内容を大転換しました。しかし、間もなく昭和6(1931)年に発見されていながら神話を史実としていた歴史学界が認めていなかった人骨(の石膏型)を原人の骨と推定する説が昭和22(1947)年に提唱され、マルクス史観が自分たちの学説の誤りを証明することになったのです。
次は人間社会を強者の資本家が弱者の労働者を搾取すると言う対立構造だけで認識していることです。しかし、日本では江戸時代以降、経済学者・竹中平蔵が登場するまで店主と使用人は主従関係であるのと同時に一蓮托生の運命共同体であり、丁稚奉公した少年に読み書き算盤と商売のコツを教え、一人前に育てば暖簾分けする温かい人間関係が維持されていました。結局、大正時代から戦前の日本では第1次世界大戦後に花開きかけた民主主義がロシア革命に成功にしたマルクス主義と同一視され、庶民もまた本来は異質な両者を混同して「権力者を打倒することが民主主義の実現」と誤解して労働争議を繰り返るようになったため純粋に平和を願う反戦運動も革命を画策するマルクス主義者として摘発され、過酷な拷問によって嫌疑を認めて厳罰に処せられることになりました。
昭和の時代はソ連や過去の共産党中国がマルクス主義の限界・矛盾を世界に例示してくれていましたが、現在は「北朝鮮がマルクス主義国家だ」と教えるしかありません。
- 2021/04/22(木) 14:14:43|
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翌朝、サラエヴォからの同行した男性職員と一緒に公共施設の事務室に行くと湯茶接待もなく現地視察に連れ出された。最初は今も発掘と捜索が進む集団墓地だった。ただし、墓地と言っても大きな穴に遺骸を投げ込んで目印を立てただけだけの場所だ。
「これは20年前に埋設された遺骨じゃあないな」私は穴を覗き込んで作業員たちが慎重に掘り進めている遺骨を見ながら独り言を呟いた。土の色が染み込んでいる頭蓋骨は劣化が進んで迂闊に取り出すと崩れてしまいそうだ。スプレニツァは岩塩の産地なので特殊な土質なのかも知れないが、私の個人的で特殊な経験上、これは今回の虐殺の犠牲者ではない。するとそれが英語だったため案内した担当者と男性職員が顔を見合わせて目で説明を求めた。
「20年程度ではまだ白骨の状態だ。下手すれば毛髪が残っている場合もある」「やはりモリヤ検察官は憲兵中佐として鑑識の経験もあるのですか」私の説明に男性職員は経歴を調べていることを自白した。しかし、私の警務幹部は人事上の手続きだけで実務の経験はない。
私の祖父の寺の墓所の裏山には「三昧所(さんまいしょ)」と呼ばれる遺骸が筒型木製の棺桶で土葬されている場所があった。遺骸を埋めた場所は人間の養分を吸収して土が肥えるので見事な山菜が生える。そのため何も知らない都市部の人間が勝手に入って腐った棺桶の蓋を踏み抜いてしまうことがあった。それで慌てて寺に駆けこんでくると確認に行くのは小坊主の私の仕事だった。棺桶は中の半分は空洞で、白骨が膝を抱える形で泥として染み込んだ土で埋まっている。若い女性は黒髪が残っていることもあった。その経験から見てこれは遅くとも第2次世界大戦、それとも十字軍以降に虐殺されたイスラム教徒たちの遺骨ではないのか。
「それでも生き残ったムスリムの住民とDNAが一致する場合もあります」私の一方的な見解に担当者が反論した。旧ユーゴスラビア特別国際裁判所への提出証拠の説明を読んでも現地調査団がクロアチア人政府軍が虐殺したイスラム系住民の遺骸を掘り起こして生き残っている遺族たちから採取したDNAと照合する地道な作業を繰り返しているのが判った。現段階でも8000人以上と推定される犠牲者数に対して身元が判明したのが5300人超に留まっているのは家族が全員殺されたか、逃亡して所在不明になっていることが原因とされている。だから担当者が自分たちの仕事に絶対的自信を持っているのもうなずける。
「それは偶然に血がつながった先祖に辿りついただけじゃあないのか。現代の科学的鑑定結果も完璧じゃあないぞ。先ず状況を確認することが鑑識の基本だろう」素人の憲兵としては身の程知らずな再反論だが国際刑事裁判所の次席検察官の立場で黙らせてしまった。これは私が一番嫌いな対応だが英語での会話だと妙に高圧的になってしまう。
内戦が始まる前でも人口37000人弱だった小さな街を1日かけて念入りに確認した。この街はサラエヴォのように砲撃・空爆は受けていないが、セルビア人政府軍が市街地で銃撃を繰り広げたため建物や道路には無数の弾痕が刻まれ、街中に死の気配が充満していた。
「最後にモスクで犠牲者を慰霊したい」私は亡霊に会うたびに徐霊の陀羅尼を唱えていたが、日が傾いてくると気温とは関係なく後頭部から背筋が冷たくなってきた。こうなると日が暮れる前に正式に慰霊するべきだろう。
「本当にモスクで良いんですね。この街にはカソリックと正教会の聖堂もありますけど」昨日、到着してからの状況説明の時、担当者はムスリムのトルコ人であることを告白しているが、オランダから来ている私をクリスチャンだと思っているようだ(失礼な!)。
「現代の十字軍に虐殺された犠牲者の慰霊を悪事の首謀者に願う訳にはいかないだろう。私はムスリムではないが、ムスリムの慰霊のために日本やオランダのモスクで祈っているんだ」私の説明に担当者は半信半疑の顔をしながらロウソクのような塔=ミナレットが立っているモスクへ案内した。建物が新築なのは犠牲者と一緒に破壊されたことを物語っている。
モスクの中ではウラマーが日が傾いて沈み切るまでのサラート=礼拝を勤めていた。そこで私も担当者と一緒にウラマーの後ろで礼拝し、最後の節をつけた詠唱に合わせて日本語で礼拝の意志表明を唱え、「願此是功徳 平等施一切 同発菩提心 往生安楽国」と回向した。
「私は日本人の佛教徒ですが犠牲者の慰霊のために祈らせてもらいました」礼拝を終えて振り返ったウラマーに私が英語で説明すると担当者が通訳した。担当者も私がイスラムの作法に適った礼拝をしているのを見て感心していたが、礼拝の意志表明と回向は理解できなかったはずだ。
「それは有り難う。貴方の礼拝なら異教徒でもアッラーに意志が届くでしょう」私が差し出した北キボールの暴徒殺害で受けたイスラム裁判の判決文に目を通したウラマーは両手を広げて合掌している私に抱きついてきた。それにしてもムスリムの濃い髭面で頬ずりされるのだけはどうしても好きになれない。
- 2021/04/22(木) 14:13:33|
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4月14日に多くの大河ドラマで重要な脇役を演じてきた俳優・若松武史さんが1998年頃から患っていた甲状腺癌で亡くなったそうです。70歳でした。
若松さんと言えば何と言っても1988年の大河ドラマ「武田信玄」の武田典厩(てんきゅう)信繁役です。史実の典厩信繁さんは武田晴信=信玄さまの次弟で父親の信虎さんが自分を超えている兄を廃嫡して家督を継がそうとしたほど寵愛されていたのですが、ドラマでは兄の片腕に徹しながら第5次川中島の合戦で甥=晴信さまの長男の義信が上杉景虎さまの策略にはまった軽挙妄動で危機に陥った武田勢を必死に支えながら背中を槍で突かれて倒れた場面は「武田典厩、討ち取ったりィ」と叫び声と共に鮮明に記憶に残っています。他の大河ドラマにも1990年の「翔ぶが如く」では仇役の会津藩主・松平容保さま、1993年の「琉球の風」では島津藩の重臣・樺山久高さん、1998年の「徳川慶喜」では第2次長州征討で敗北した小倉藩主・小笠原長行さま、2010年の「龍馬伝」では坂本龍馬の土佐での剣術の師・日根野弁治さん、2013年の「八重の桜」では毛利藩士と共謀して討幕を画策する三条実美一派に対して孝明天皇に忠節を尽くした近衛忠煕さまを演じるなど貴重な名脇役でした。映画では野僧が高校1年だった1978年の「サード」に出演していたそうですが森下愛子さんの美乳ヌードばかりに熱中していて記憶にありません(アシカラズ)。ご冥福を祈ります。
続く4月16日には野僧の世代には懐かしいテレビのアニメを数多く世に送り出した愛知県名古屋市出身の漫画家・久松文雄さんが歯肉癌(発見が容易なので死亡率は低いそうです)で亡くなったそうです。意外に若い77歳でした=デビューは中学3年生。
久松さんは手塚治虫先生の弟子のアシスタントですから他の漫画家と編集者が「鉄腕アトム」に対抗してロボットが主人公の作品を発表してアニメ化の後を追ったのとは違い、未来から来た少年が主人公の「スーパージェッター」で人気を獲得しています。それにしても主人公が「ジェッター」なのに乗り物が「流星号」と言うのは時代を感じます。野僧などは今でも主題歌「未来の国からやってきた知恵と力と勇気の子・・・」が最後まで唄えます。また1967年には15少年漂流記の現代日本版のような「冒険ガボテン島」を発表していますが、こちらでは墜落したB-29の風防ガラスを沈めて海中基地にするなど時代を感じさせる場面もありました。
代表作はこの2つになりますが、判りやすい画風からアニメ放送された手塚先生の「ジャングル大帝」や白戸三平先生の「風のフジ丸(原作では石丸でしたがアニメのスポンサーが藤沢薬品だったため改名した)」と「サスケ」、円谷プロの特撮ドラマ「ウルトラセブン」「帰ってきたウルトラマン」「ウルトラマンA」「ミラーマン」「マイテイジャック」などを幼児・児童向け雑誌に連載しています。
その後は石ノ森章太郎さんと同様に歴史や人物伝の漫画を発表するようになり、中でも古事記をユーモアをまぶして漫画化した「まんがで読む古事記」で2011年の神道文化会賞を受賞しています。宗教が神道だと合掌ではなく音を立てない柏手になります。
- 2021/04/21(水) 13:45:32|
- 追悼・告別・永訣文
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「モリヤ検察官は陸軍中佐と聞いていますが、やはりよく眠られませんでしたか」朝食を終えてロビーで待っているとサラエヴォに駐在している国際連合停戦監視団事務所の若い男性職員が迎えにきた。職員は私の寝不足な顔を見て苦笑しながら声をかけたが、私は死霊に怯えて眠られなかった訳ではない。
「このホテルでは強制妊娠が行われていたみたいだね」私はあえて「エスニック・クリーニング=民族浄化」ではなく行為そのものの「フォースド・プレグナンシィ=強制妊娠」と表現した。実は昨夜、停電になった部屋ではスマートホンでは録音できなかったから音声ではない女性の絶叫や嗚咽、呻き声が壁やベッド、床から響いてきて眠るどころではなかったのだ。死霊の声のような冷気は感じなかったので私の部屋で強姦された女性たちの怨念を私の霊感が察知したようだ。私はチベットで行われている強制妊娠については東南アジアの僧侶から送られてきた資料で熟知しているが、同じことが旧ユーゴスラビア全土で行われていたはずだ。
「確かにサラエヴォ市内のホテルではエスニック・クリーニングとして多くの女性がレイプされました」「女性たちは殺されなかったんだね」「やはり出産させることが目的ですから殺害しないで慰安婦としてレイプされ続けたようです」職員は男性なので淡々と説明するが、女性たちが味わった屈辱と苦痛は妻と娘を持つ者としては他人事では済ませられない。
「市街地についてはご自分で歩いて回ると言っておられましたから同行しませんでしたが、今日は車両で戦闘が行われた場所を案内した後、スプレニツァに向かいます」「とは言っても意外に英語が通じなくて昨日は銃撃の痕跡や砲撃と空爆で破壊された建物は確認できても市民からの聴き取りはあまりできなかったんだ」私の正直な告白に職員は再び苦笑すると軽くうなずいて先に立って歩き始めた。チェックアウトの手続きは別の職員が実施するらしい。
「あの滑走路を見つからずに横切るのは至難の業だったろう。800人と言う犠牲者数はかなり高い確率じゃあないのか」「逃亡に成功した市民の正確な人数は確認できていませんが、トンネルができるまで幾つも遺骸が横たわっていたようです」サラエヴォ市内の最後に空港の滑走路を確認したが、私が市民で逃亡を図るのなら暗夜に滑走路の脇の草むらを昼間の第5匍匐で前進する。それでもプロの狙撃兵であれば頭を上げただけで発見し、2度目には射殺している。しかし、一般人には焦りと恐怖を押さえながら地面を這って長時間前進し続けることは無理だろう。実際は虐殺が迫って滑走路を走り抜けようとした市民が多かったようだ。
惨劇の舞台になったスプレニツァはサラエヴォ市内から走行距離で約130キロあり、公共交通機関の復興が遅れているため車両で2時間半かかる。私は内戦終結直後のカンボジア、コート・ジボアール、スリランカを訪れているが、ここまで通ってきた街の惨状は別種の残酷さがあった。カンボジアはポル・ポトの意を受けたクメール・ルージュ=カンボジア共産党が反対派住民を手当たり次第に殺害したが、佛教国だけに運命に従順する諦めがあった。コートジボワールは経済面を含めて完全な独立を目指す政府とそれを阻止しようとする旧宗主国のフランスの支援を受けた反政府組織の対立に民族抗争も加わった内戦で訴追事由の「虐殺」は反対派に治安部隊が発砲したことを指していた。そしてスリランカは間接侵略が実態だった。その点、旧ユーゴスラビアは中世の十字軍の蛮行を近代兵器で再現したもので、目に映る風景が血染めの恐怖で覆われている。
「この風景はどこかで見たことがあるな」到着したスプレニツァは山脈と山脈の間を通る谷あいの街道沿いにできた街で、建物の壁に刻まれた弾痕に気を留めなければ日本でも見ることがある平和な山村の風景だった。
「スイスでは良くある風景だが、日本では・・・」単独行動では梢の助言がないので思考も滞りがちだ。幸せな依存体質ではあるが認知症が心配でもある。結局、地名は特定せずに沖縄以外のどこかと言うことで納得した。
「モリヤ検察官は陸軍中佐だそうですから安心して案内できます」スプレニツァで犠牲者の遺骸の発掘と身元特定に当たっている旧ユーゴスラビア特別国際裁判所の担当官は公共施設の一角に間借りしている事務室で私を迎えると私が着ている迷彩服を眺めながら声をかけた。これから軍人でなければ直視できないような場所に案内されるようだ。
「まだ武力抗争が起きていますか」「最近はアルテアも部隊を縮小し始めていますから目が届かない場所で小競り合いが発生しています。今のところ銃器を使用していないので武力抗争とは呼ばないで済みます」EU諸国が停戦合意から20年でEUFOR・アルテアを縮小するのは当然のように見えるが、私はこの内戦と大量虐殺が十字軍から続く宗教戦争と考えているので明らかに時期尚早だ。しかし、今回は自衛官ではなく検察官として来ている。

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- 2021/04/21(水) 13:44:18|
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1769年の4月20日に五大湖周辺の支配権を争っていたフランスとイギリスの抗争に介入してネイティブ・アメリカンとしての存在を示したオタワ族の個人名・オブワンディヤグ、イギリスの呼び名・ボンティアック酋長が他の部族によって殺害されました。
昔の西部劇では派手な鳥の羽根で飾った長い鉢巻を着けた酋長の指揮で裸馬に乗ったネイティブ・アメリカンの大群がヨーロッパ人の開拓者を襲撃する場面が定番でしたが、ネイティブ・アメリカンは合議制を取っていたため酋長は調停役に過ぎませんでした。
ボンティアック酋長は1720年に現在のデトロイト川の川辺にあった村でオタワ族の父と北米のネイティブ・アメリカンとしては4番目の人数を有していたチペア族の母の間に生まれたとされています。五大湖の北岸の現在のカナダ側のネイティブ・アメリカンはフランスと平和的に共存していて物々交換で交易も行っていました。
ところがイギリスが現在のアメリカ合衆国東岸からカナダにまで支配地域を拡大し始めると武力で屈服させてきた方式を継続したためでフランスだけでなくネイティブ・アメリカンとも激しく対立したのです。そしてヨーロッパでのイギリス、フランスにプロシアの三つ巴の対立の場外乱闘のように始まったのが1754年から1763年までのフレンチ・アンド・インディアン・ウォーでした。しかし、この戦争ではイギリスがアメリカ大陸の植民地の拡大に熱意を注いで海軍の艦艇を含む強力な軍備を送り込んだのに対してフランスはプロシアとの戦争を警戒していて軍備を動かすことは控え、海軍も大西洋に出さなかったため現地軍は弱体化して五大湖周辺から撤退することになったのです。その結果、イギリスは五大湖周辺の城塞と砦を奪取しましたが、イギリスの総司令官はネイティブ・アメリカンに対して侮蔑的な態度を取り、交易ではなく武力で農作物や狩猟の獲物を奪い取り、奴隷のように肉体労働を強制し、女性を強姦するようになったため周辺部族の怒りが燃え上がり、合議によってボンティアック酋長を指揮官としてイギリス軍が占領した城塞と砦を攻撃して排除するとフランスとの友好関係を復活しようとしました。
それでもフランスには劣勢を挽回する余裕はなく、イギリスが本国からの増援を受けた態勢を立て直して攻勢に転じると近代兵器には歯が立たず1763年に降伏し、1766年に和平条約を結びながら1769年のこの日にピオリア族に殺害されたのです。
その理由などはネイティブ・アメリカンが文字を持たなかったこと(ネイティブ・アメリカンのシンウォイアさんがチェロキー文字を考案したのは1821年)やオタワ族の居住地がカナダからアメリカの東岸の広範囲の地域に分散していることもあり伝承が詳細ではなく明確になっていませんが、イギリスの策略の可能性は否定できません。
その後、ボンティアック酋長を殺されたオタワ族は復讐としてピオリア族をネイティブ・アメリカンには珍しく大量殺害したと言われています(西部劇で描かれるネイティブ・アメリカンの凶暴性はヨーロッパ人開拓者による虐殺を正当化するための虚構)。
なお、五大湖畔にあるミシガン州にはボンティアック市があり、ゼネラル・モータースは1926年から2010年までボンティアックと言う車種を製造・販売していました。
- 2021/04/20(火) 13:47:43|
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「ボスニアに行くにはミュンヘン空港からエア・オーストリアでサラエヴォ空港へ飛ぶのが早いわ」「それで飛行時間はどのくらいだ」「ウィーンを経由するから3時間以上かかるよ」相変らず出張の手配は梢に任せっ放しだ。唯一、コートジボワールだけはフランス軍の軍用機を使ったため国際刑事裁判所の事務局に頼むことになったが、梢はそれが不本意だったらしくそれ以降の旅行や出張は元プロの熟練の技を存分に発揮してくれている。
「直行便がないと言うことは乗客が少ないんだな」「その分、便数も少ないのよ」今回は公務出張なので経費は国際刑事裁判所に請求するが、自衛隊のように切符まで用意してくれるほど仕事熱心ではない(自衛隊の場合は乗車券ではなく後払証=デザインは乗車券と同一だが鉄道会社が請求すれば後で予算を交付すると言う証明書)。
「内戦が終って20年になるけど治安は大丈夫なの」今回、梢はミュンヘン空港まで同行するが、そこから先は私の単独行動になる。やはり戦争未亡人になるよりは一緒に死ぬ方が希望らしい。
「今はEU各国が派遣している連合部隊が治安維持に当たっているそうだ。それでも民族間の紛争は散発してるみたいだ」私の説明に梢は表情を硬くした。ボスニア・ヘルツェゴビナでは1995年12月の和平合意以降、NATO軍を中心とするSFOR=多国籍軍が合意の履行=抗争阻止に当たっていたが事態の鎮静化を受けて規模を縮小し、2004年からはEU各国が派遣している部隊でEUFOR・アルテアを編成して治安を維持している。
「ヨーロッパでは民族紛争と言っているが、実態はイスラムの支配地域だった土地がエルサレムに向かう十字軍の経路になって延々と続いてきた宗教戦争だから、バチカンが十字軍の罪を認めて、イスラム教に許しを乞うてヨーロッパ人の意識を変えない限り本当の終息はないだろう。バチカンが認めなければならない罪はそれだけじゃあないけどな」固くなっていた梢の表情は重さも加わってかなり厳しくなった。これを緩めるには口づけしかない。私は荷造りしている演習バッグ越しに両手を伸ばすと頬を固定して唇を押し当てた。
「これは酷いな。空侯に入校中にサラエヴォ・オリンピックってのがあったはずだが見る影もないぞ」初日はサラエヴォのホテル泊で市内を調査した。サラエヴォ・オリンピックは曹侯学生卒業前の空曹侯補者課程で防府に入校していた昭和59年の2月に開催され、北海道や東北でスキーとスケートを愛好している同期たちは熱心に娯楽室のテレビを見ていたが、沖縄の私は関心がなかった。それでも女子フィギアのカタリナ・ヴィットをオカズにするために買った雑誌に載っていたサラエヴォの東欧の古都と言う風景は記憶に残っている。その古都は破壊し尽くされ、復興として新しい現代建築ばかりが目立っている。
私たちはオランダ軍のPKO部隊が訴追され、特別国際裁判所にジェノサイド=非人道的犯罪と認定されたスプレニツァの虐殺だけに注目していたが、サラエヴォでも1992年4月から1996年2月までの長期間、セルビア人政府軍とユーゴスラビア人民軍が市街地を包囲して互いに異民族の虐殺を繰り広げ、スプレニツァの8000人を超える12000人が犠牲になったのだ。特にサラエヴォ空港は滑走路が両者の境界線になっていて政府軍の支配地域に逃げ込もうとする市民を狙撃して800人が死亡している。
「何だか街全体に怨念が漂ってるようだな」日没が近づいて辺りが薄暗くなってくると路地の中に透き通ってはいても黒い人影が立っているのが目につくようになってきた。それは老若男女の区別なく孫の恵祥くらいの幼児もいる。これだけ残酷な殺戮を相互に実行できる民族間の憎悪は島国に住む単一民族の日本人には理解できない。
「祖父さんが言う通り供養するのは止めておこう」人影が発する殺意に近い怨念がこもった視線を感じて私は師僧でもある祖父の教えを守って供養は控えることにした。祖父は私が沖縄で見る戦死者の亡霊を供養する方法を訊ねると「中途半端に供養を勤めると他の死霊も救いを求めて集ってきてしまう。自分を守るための陀羅尼を唱えながら無視することだ。そのうち諦めて消えるだろう」と指導した。その後、得度を受けると修行の進捗を見極めながら供養の作法なども教えたが、サラエヴォの死霊たちの怨念はカンボジアやコートジボワール、スリランカとは比べ物にならないほど深くて強いようだ。
「そう言えばホテルの部屋の壁にも弾痕を修理した跡があったな。寝る前に読経しておいた方が良いぞ。悪夢にうなされてはたまらん」私は高校時代、知らない女性の幽霊が枕元に立つようになり、布団に入れて抱いたことがある。その時、服は脱がせられたのに乳房を揉んでも弾力がなく、掌が冷たく感じたのを覚えている。私の部屋で死んだのが若い女性であれば東欧美女の幽霊で試してみるが、むくつけき小父さんは御免こうむる。やはり昨夜、ベッドで梢の身体に触れた温もりを思い出しながら眠りたいものだ。触れただけなのが無念だが。
- 2021/04/20(火) 13:46:22|
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明日4月20日は明治4(1871)年3月1日(当時の太陰暦)に東京、京都,大阪に郵便役所が設置され、それまでの個人経営の飛脚から国家事業としての郵便制度が始まった郵便屋さんには多大なお世話をかけている野僧には祝日並みの記念日です。ちなみに初代・駅逓権正として郵便制度の創設に多大な貢献をして現在も1円切手になっている前島密さんの命日は大正8(1919)年の4月27日なのでこちらが由来ではありません(誕生日は太陰暦の天保6年1月7日=太陽暦の1835年の2月4日)。
当初は昭和9(1934)年に一般会計から通信事業特別会計が独立したことを記念して逓信省が太陰暦の3月1日を太陽暦に改めた4月20日を「逓信記念日」として制定しましたが、敗戦後の昭和24(1949)年に逓信省が郵政省と電気通信省に分割されたため「郵政記念日」に名称が変更されたものの昭和34(1959)年2月に郵政省を逓信省に戻す法案が衆議院で可決され、参議院でも可決することを見越してこの年の4月20日の行事は「逓信記念日」として実施しました。ところが法案は当用漢字(当時)にはない「逓」の字を用いることに慎重な意見が続出して立ち消えになりましたが、今も変わらぬ守旧派の権力体質で「逓信記念日」が継続され、現在の「郵政記念日」に戻ったのは中央省庁の改編で郵政事業庁が設置され、将来の公社化が予想された2001年になってからでした。当時はまさか小泉純一郎首相が登場して郵政民営化を強行するとは思ってなかったはずですが、現在は(中央の体質は別にして)民間事業なので記念日ではなくイベントとして「郵便の日」に変更するべきかも知れません。
日本の郵便事業は書簡や小包などを集配送する郵便だけでなく銀行や信用金庫、保険会社が出店しない離島や山奥にまで郵便局が設置されていることから郵便貯金や簡易保険も運営していて、その収益によって現在の低額の郵便料金が維持できています。実際、江戸時代の町飛脚の配達料金は目的地までの距離による計算だけでなく、飛脚本人の宿泊や食事などの代金も加算されて江戸から京都では1通でも現在の数万円に相当したようです(特別な早飛脚では所要時間は短縮されても料金も数倍になった)。このため遠距離の場合は目的地に物資を卸す商人などに預けることが一般的で便りを待つ側は荷駄が到着したのを見計らって受け取りにいっていたようです。
しかし、離島や山間部で舗装もされていない細い道路を風雨雪に晒され、野生動物を警戒しながらバイクで配達する郵便屋さんたちの苦労と責任は都市部の完備した道路を走り回っている同じ事業所の職員とは比較にならず、給与に大差がつけられなければ国家公務員に戻し、完壁な身分保障と人事制度を与えた上で使命感を期待するべきです。
余談ながらザ・ビートルズのヒット曲「プリーズ・ミスター・ポストマン」はカーペンターズがカバーして再ヒットさせましたが、「ポストマン」はイギリス英語でアメリカの郵便屋さんは「メイルマン」と呼ぶのが一般的だそうです。とアラスカ人の彼女とカラオケを唄いに行って教えられました。したがって人形劇「ポストマン・パット」も当然、イギリスの作品です。
- 2021/04/19(月) 13:03:05|
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「閣下はオランダでPKO部隊が訴追されている裁判をご存知ですか」翌週、佐藤知美1尉は警務隊本部と方面隊の法務官室から届いた九州への災害派遣から地元に戻った隊員が起こした交通事故の警察の処置に関する報告を法務官に説明するついでにモリヤ2佐から提供された話題を切り出した。モリヤ2佐は2枚目の便箋にギッシリ書き連ねていたので知識は十分だ。
「昨年に国会で安保関連法案が論争になっていた頃の部長等会同の席で耳にしたことはある」小類上部に押してある確認欄に押印の替わりにボールペンで花押を記してバインダーを差し出した法務官は唐突な質問に怪訝そうな顔を向けた。
「1審でPKO部隊の過失が認定されて政府の責任として損害賠償を命ずる判決が下っていて、現在は控訴審が行われていますが判決が覆る公算は低いようです」「ほーッ、詳しいね」モリヤ2佐からの情報は日本のマスコミは報道していないため法務官は率直に感心して見せた。
「このままPKO部隊の過失を国家の責任とする判例ができるとオランダ国内の裁判とは言え日本のPKO部隊の駆けつけ警護で類似した事態が席した時、模倣される恐れがあるのではと危惧しています」「意外に勉強してるんだな。立派立派」法務官は前任者が現職の弁護士のモリヤ2佐の活躍を自分の手柄にしていたのに比べて地方の国立大学の法学部を卒業したまま師団司令部の法務官室で事務処理だけを学んできた佐藤1尉では万事に見劣りして内心では不満を溜め込んでいる。実際は前任者も組織の常識が全く身についていないモリヤ2佐の言動に悩まされ、手を焼いていたのだが去った者を誹謗するような申し送りはなかったらしい。
「私個人としては訴追事由になっているスプレニツァの虐殺現場を確認してPKOに派遣される部隊への参考資料を作成したいと考えています」「つまり東欧へ公務出張したいと言うことかね」法務官の確認に佐藤1尉は悪ぶれることなくうなずいた。法務官としてはここは悩ましいところだ。折角、やる気を見せた部下の探求心を阻害したくはないが、自衛隊の制度に関する知識が欠落しているのも明らかだ。自衛隊では国内の出張でさえ旅費の請求が必要で、金額によって目的を使い分けることもある。ましてや海外出張となると自衛隊の派遣予定地域の事前調査くらいの必然性がなければ認められるはずがない。
「現地調査が必要なら在ユーゴの防衛駐在官に依頼することだ。まだユーゴに防衛駐在官がいないようならトルコから出張してもらうんだな」法務官が常識で却下するといつもは簡単に引き下がる佐藤1尉が不満そうに唇を噛んだ。息子しかいない法務官は娘に反抗された父親の気分を味わいながら席からその顔を見上げていた。
「でもモリヤ2佐は法律相談室の依頼人に会いに全国各地を飛び回っていましたよ」「彼は弁護士として本人の顔を見て話したかったんだろう。それに公務出張ではなくて自費での休暇の旅行だったはずだ。本当に旅行も楽しんでいたらしいが」上司と部下、将官と尉官の問答としてはここまでが限界だ。それでも佐藤1尉は深く息を吸うと想定外の確認をした。
「それでは私が自費で現地に行きたいと希望すれば休暇を許可していただけますか」「・・・本気かね。フランスやイギリスと違って東欧は日本と結んでいる航空会社が少ないから航空券も割高だぞ」「割高ってどのくらいですか」佐藤1尉の質問で法務官はこれが単なる思いつきであることを確認した。そうなればここは大人の対応で丸く収めるしかない。
「君の仕事に対する意欲は高く評価するが、まだ災害派遣の公務災害や損害賠償訴訟が起きないとは限らない。先ほど言った通り防衛駐在官に現地調査を依頼する手続きを取りたまえ」「・・・はい、私も個人の人脈で調査を進めます」佐藤1尉はその人脈に当たるモリヤ2佐なら「鼬(いたち)の最後っ屁=スカンクと同類の鼬も逃げる時に強烈な悪臭の屁を放つ」と表現する一言を口にすると高い音を立てて踵を引きつけ姿勢を正した。
「あ痛たたた・・・」ドアの前で回れ右をして10度の敬礼をして事務室に戻った佐藤1尉は苦痛に顔を歪めた。革が薄く踵が高いWAC用の短靴で音を立てるのは難しいのだが、勢いでやってしまい踵の骨を強打したようだ。踵を鳴らして気をつけするのは半長靴を履いての基本教練でやっているの経験がない訳ではなかった。
「今日は珍しく長かったですね」佐藤1尉が席に座ると陸上幕僚監部内の女性事務管たちの噂話放送局の法務官室現地レポーターになっている二村由美事務官が声をかけてきた。当然、これも毎度のインタビュー取材だ。
「今、オランダでPKO部隊の裁判が行われてるのよ。私は自衛隊のPKOの教訓になるはずだから現場を調査したいってお願いしたんだけど最寄りの大使館の防衛駐在官に依頼しろですって」「オランダってモリヤ2佐が転属しましたよね。だったらネタ元はモリヤ2佐ですか」「ギクッ・・・」普段は頭が働いていない二村事務官の鋭過ぎる推理力に佐藤1尉は絶句した。
- 2021/04/19(月) 13:00:44|
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昭和58(1983)年の明日4月19日に小牧基地・第1輸送航空隊所属のC-1輸送機2機が三重県鳥羽市沖3キロにある菅島の標高236メートルの大山に衝突する事故が発生し、乗員14名が殉職しました。航空自衛隊の輸送機の死亡事故は昭和32(1957)年3月4日に美保基地沖にCー46天馬が墜落して18名が死亡して以来でした。
この日、東富士演習場で陸上自衛隊第1空挺団の降下訓練が実施されるためC-1・6機が入間基地に向かいましたが、東海地方を低い雲が覆っていて視程3.2キロ、雲高850メートルで滑走路を挟んで対面する名古屋空港は民間機の発着を見合わせていました。ところが航空自衛隊はC-1に搭乗できる空挺隊員は45名のため入間基地と美保基地に小牧基地の機も加えなければ空挺団としての一斉降下ができず、「関東空域の天候は良好で訓練に支障がない」との連絡を受けて移動を強行したのです。しかも入間基地の天候も良好だったことから計器飛行ではなく特別有視界飛行でフライトプラン=飛行計画を提出し、運輸省(当時)航空局も判定基準内だったため許可しました。
こうして6機のC-1は15秒間隔で北に向かって離陸し、岐阜県の多治見上空で編隊を組んで南に向かい愛知県の伊良湖岬で東に進路を変更して静岡県の御前崎、沼津、神奈川県の横須賀の上空を通過して入間基地に向かう予定で飛行したのです。6機編隊のうち4番機は気象偵察の任務を負って先行ましたが伊良湖岬付近では視程1500メートル、雲高300メートルの有視界飛行の下限ギリギリだったため後続機に連絡したもののその頃、多治見上空で編隊を組んだ後続機は本来の飛行経路から西に1.3キロずれた伊勢湾上空を高度180メートルで飛行していて午前7時17分に1番機が菅島の大山の山頂に衝突して爆発・炎上したのに続き午前7時19分に2番機が「樹木との接触によって左主翼前部と胴体下部を損傷した」と通報した直後に山の中腹に墜落して機体は分解・飛散しました。そして3番機も機体が樹木に接触した衝撃を確認したためエマージェンシー・コール=緊急事態を通報すると浜名湖上空で編隊の到着を待っていた4番機が無事だった残存機に小牧基地に引き返すことを指示したのです(機長は1番機から先任順だった)。
小牧基地は即座に捜索隊を現地に派遣し、その日の午後に山頂付近で1番機の残骸を発見し、機長以下の乗員8名全員の遺骸を収容しましたが、2番機は広範囲に飛散していたため捜索は難航し、翌20日未明に4名の遺骸を発見、午前中に残りの2名も収容しました。
野僧は小牧基地の第5術科学校に入校中、事故の生き残りのパイロットに頼まれて基地内の慰霊碑で供養を勤めたことがあります。その時、「C-1にも航法レーダーが装備されているのに何故、前方の山に気づかなかったのか」を訊ねると「1番機は有視界飛行を維持するため気流が乱れている雲の下の低高度を飛ぶことになり、しかも伊勢湾は名古屋空港、小牧基地、岐阜基地、明野駐屯地と飛行場が多く非常に緊張するからレーダーまで見る余裕がなかったのではないか」「2番機は編隊長に続行するのが鉄則だから疑いもなく一緒に突っ込んだんだろう」との答えでした(三重県笠取山のレーダー・サイトは標高842メートルのため水平高度下になり捕捉できなかった)。
また菅島は対岸の渥美半島に近く、野僧が元航空自衛隊と知った地元の人たちは「濃い霧のような天候の中で海の方から気味が悪い爆発音が2回聞こえてきた」と語っていました。
- 2021/04/18(日) 13:49:43|
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「あれッ、モリヤ2佐から返事が来てるわ」佐藤1尉が残業を終えて都内の官舎に帰ると郵便受けに入り切らないほどの広告の封筒の中に横文字の国際郵便が混じっていた。佐藤1尉は熊本の震災の災害派遣を受けて法務官から「前任者のように派遣部隊の実情を把握して必要な支援を実施しろ」と命令されて現地に赴きながら何も成果がなく、その後は災害派遣中の公務災害や連休中の交通事故などの対応に追われていた。そんな中で愚痴を聞いてもらう相手が見つからず、この世の果てぐらい遠くの住人ならばと書いたのが先日の手紙だった。だから最後に助言を求めたのも書簡としての体裁を整えただけで本音では期待していなかったのだ。
「どうせ『甘えるな』ってご指導ね。坊さんだから説教かァ」自宅に入り、独身幹部用の2Kの狭い部屋の電灯を点けると広告の封筒は開けずに捨てて国際郵便を確認した。佐藤1尉は官品の茶封筒を送ったがモリヤ2佐はオランダの風景が印刷されている洒落た封筒だ。それにしてもこれほど早く返事が届くと言うことは愚痴を吐き捨てられたことに立腹したとしか思えない。佐藤1尉はペン立てのハサミで封筒を切ってA4版2枚の便箋を広げた。するとモリヤ2佐もパソコンで日本文をギッシリ詰め込んでいた。
「九州の震災に参加された由、心よりご労苦をねぎらいたく存じます・・・ウチのパパよりも若いはずなのにお祖父ちゃんみたいな文章を書くのね。そう言えば事務記録も古文みたいな単語を使ってることがあるわ」書き出しは穏当でも違和感がある。このまま年寄りを演じながら雷を落とすのかも知れない。
「ご書簡を拜読し、今回の地震で自身への自信を失っているように感じました・・・これって親父ギャグかしら。そう言えば報告文書でも駄洒落の連発だったよね」佐藤1尉は師団司令部で勤務していた時も周囲の3佐や1尉クラスの親父たちから言葉の音(いん)を重ねた駄洒落を聞かされ、笑わないとワザワザ説明を受けることになっていた。陸上幕僚管部法務官室に着任してモリヤ2佐が作成した書類を確認するとパソコンで作成していながら常用漢字にはない旧字体の漢字を使っていて言葉遣いも古文式だった。おまけに音が重なる単語を重ねるなど法務官が印鑑を押したのが信じられないようなフザケタ文章ばかりだったが、それでも必要な内容を適切に表現しているところは流石の文筆力ではないか。
「そこで1つ、情報を提供します・・・」2枚目の冒頭に妙にあらたまった言葉が記してあった。1枚目ではこちらから手紙で書き送った九州での苦心談に対する分析と相手の心理の解説を書き並べていたから文章の構成にも気を遣っているらしい。
「現在、オランダで1995年7月に旧ユーゴスラビア内戦で発生したスプレニツァでのイスラム教徒の大量虐殺にPKO部隊が関与した責任を問う裁判が行われていることは知っていますね・・・知りません」佐藤1尉も法務幹部として新聞や雑誌、テレビのマスコミ報道だけでなくインターネットでも自衛隊や外国軍の犯罪、過失に関する書き込みを閲覧しているが、ヨーロッパの話題はイスラムのテロが中心でこの問題には目が届かなかった。
「事件はスプレニツァ地域を警備していたオランダ軍PKO部隊がセルビア人政府軍に包囲され、補給も遮断されたため圧迫を逃れようと管理地域内にいたイスラム教徒を追い出した結果、大量虐殺が発生したと言うものです・・・これは酷いわ」佐藤1尉はカンボジアPKOの頃はまだ小学生だったので、オランダ軍PKO部隊が日本の文民警察官を警護中にポル・ポト派の残党の攻撃を受けたため見捨てて岡山県警の高田晴行警部補が戦死した事件は知らない。記憶にあるのはイラク派遣で自衛隊が活動したサマーワ地域を警備していたことくらいだ。実際はサマーワでも自衛隊の宿営地に迫撃砲が射ち込まれた時も放置していた。
「自衛隊も安保関連法でPKOに警護の任務が付与されたのでこの裁判については注視する必要があるでしょう。現在、オランダ法務省で入手した公判記録を秘書に英訳させているので送ります。日本語訳は自分で頑張って下さい・・・それは有り難いけど英語のついでに日本語にしてもらいたいわ」佐藤1尉は翻訳しているモリヤ2佐の秘書が元カノの梢とは知らないので、オランダ人の秘書の仕事だと思い直した。
「旧ユーゴスラビア内戦の戦争犯罪は国際連合の特別国際法廷でジェノサイドと認定する判決が下りましたが、主犯のラドヴァン・カラジッチ大統領とラドム・ムラティッチ参謀長が控訴したため国際刑事裁判所が引き継ぐことになりました。したがって野僧も近いうちにユーゴスラビアに行って実態を調査する予定です。当然、スプレニツァにも行きますから現地で犠牲者の供養を勤めます・・・これは私も行くしかないわ」佐藤1尉の自信を取り戻させるための情報提供のつもりが言い出した梢も想定してない事態になってしまった。この世代の女性は男性と旅行することに抵抗がないのだろうか。私には悪いことはできないが困るのは間違いない。
- 2021/04/18(日) 13:48:10|
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1945年の明日4月18日に従軍記者として北アフリカやヨーロッパ戦線を取材して高く評価されていたアーニー・パイルさんが東回りで帰国する途中に寄った沖縄での取材中に戦死しました。
パイルさんは1900年にアメリカ本土の東よりの中央部にあるインディアナ州のデイナ(今でも人口約600人の田舎)で生まれました。第1次世界大戦中に18歳の従軍対象年齢に達すると軍を志願しましたが終戦の数ヶ月前だったので予備役に編入され、戦場に出ることはありませんでした。そのためインディアナ大学に進学し、卒業後はワシントン・D・Cの「ワシントン・デイリー・ニュース」紙の記者になったのです。それからは平凡な新聞記者として仕事をこなしていましたが1939年に第2次世界大戦が勃発すると戦場の取材を志願し、1941年12月にアメリカが参戦すると従軍記者としてアメリカ軍に同行するようになりました。その中で1944年に歩兵の視点に立って1人称「I」で記述したレポート「犬の顔(doggyはミリタリー・スラングの陸軍)」でピューリッツアー賞を受賞しています。
アメリカ軍は4月1日に沖縄本島に上陸しましたが、本部半島沖の伊江島では3本の滑走路は3月中に日本軍の手によって破壊されていてアメリカ軍としては滑走路を修復し、九州からの特別攻撃隊を探知する固定式レーダーを設置するため4月16日に陸軍歩兵第77師団が攻撃を開始しました。一方、伊江島の日本軍は独立混成第44旅団の650名に滑走路と陣地を構築する設営隊を加えた2000名の将兵と男性有志を中心とする5000人の島民が残留していて(3000人は本島へ避難した)、標高172メートルのタッチュー=城山(ぐしくやま)以外は平坦な周囲22キロ、面積22平方メートルの小島の岩の窪地に身を潜めて激しく抵抗しました。戦闘は21日まで続き、日本側の将兵と島民は3名の捕虜以外は4706名が戦死し、アメリカ軍は218名が戦死または行方不明、902名が負傷し、戦車60両と自走砲6両が破壊されています。
パイルさんは16日の上陸から部隊に同行していて、この日は指揮官と一緒にジープに乗って伊江島のタッチューの南側の海岸に近い集落を抜けた時に日本軍の機関銃の射撃を受け、下車して岩かげに身を潜めましたが、銃声が止んだので状況を確認しようと顔を上げたところを狙撃されて弾丸が左こめかみを貫通して即死しました。死亡直後の遺骸の写真が公開されていますが、仰向けに倒れたパイルさんはヘルメットをかぶり、サングラスをはめたままで口から血が一筋流れ落ちています。
戦後のアメリカの占領下に那覇市内の「奇跡の1マイル」と呼ばれた大通りに映画館・アーニー・パイル国際劇場が開館したため「国際通り」と呼ばれるようになりました。
野僧は亡き妻と交際中に伊江島に行ってパイルさんが戦死した場所に建つ慰霊碑に参り、後にハワイを研修した時、太平洋地区戦没者墓苑・パンチボールのスペースシャトル・チャレンジャーの事故で死亡した日系人宇宙飛行士・エリソン・オニヅカ中佐の墓に参ると隣りはアーニー・パイルさんでした。
- 2021/04/17(土) 13:50:54|
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「おかえりなさい。今度はサトウトモミさんから手紙が届いてるわよ」翌日、オランダ軍のPKOのスプレニツァの虐殺に関する裁判について調べるため法務省にまで足を延ばして帰った私に台所から梢が声をかけた。しかし、先日のナカムラマサヨ以上にありふれた氏名に私は読み仮名だけでは全く思い出せなかった。
「誰かな・・・文字にも記憶がないな」いつものようにリビングに自転車を止め、ウガイのために洗面所へ向かいながらテーブルの上の手紙を確認したが今回は茶封筒だった。それにしても中村昌代曹長が淡い水色の便箋で手紙を書いてきたのはあべ静江の「水色の手紙」なら恋文、井上陽水の「こころ模様」なら寂しさのつれづれになるが、緑色のインクで綴る書簡はヨーロッパでは決闘の申し入れ状なので配達する郵便局員も緊張するらしい。とは言え中村曹長の人間性から考えて緑色は陸上自衛隊の色として愛用しているだけで、梢に決闘を申し入れた訳ではないだろう。ちなみに梓みちよのメランコリーでは「緑のインクで手紙を書けばそれは別れの合図なる」と唄っているらしいが私と中村曹長は世代が違う。それでは水色の便箋は涙色なのか。私には航空自衛隊の色だ。
「この住所は自衛隊の官舎だな」洗面所から戻り、一緒に置いてあるハサミで封筒を開ける前に差し出し人を再確認すると横文字でも見憶えがある首都圏の官舎の住所だった。基本的に幹部自衛官は公用の場合は職場、私用は自宅の住所を記するので後者の手紙のようだ。
「法務官室の佐藤知美かァ、だったら住所は判っているわな」中村曹長には安川3尉が自宅の住所を漏らしたが、前の職場の陸上幕僚監部法務官室であれば住所が判っても不思議はない。
「モリヤ2佐が東北の震災で災害派遣部隊と住民のトラブルの解決のため巡回したのに倣って私も九州の被災地に行きました・・・それは御苦労さん」書簡は手書きだった中村曹長とは違いパソコンの文字でA4版2枚にビッシリ書き綴っている。
「今回も倒壊した隣家の建材の撤去で土地に立ち入ることを拒否する住民や作業の優先順位を政治活動を理由に決めていると言う批判が数多くありました・・・隣同士で仲が悪いと困るな。反対派は自衛隊がやることは全て気に入らないから仕方ないぞ」文章は横書きでどう見ても公文書だが、内容は苦労話でやはり私用のようだ。
「しかし、残念ながら私では住民の苦情を聴き取るだけで仲裁することはできませんでした。部隊側も『東北の時は自衛官の弁護士だったが今回は連絡係か』とあまり期待してくれなかったようです・・・それは階級が下のWACの幹部だから苛めたんじゃあないのか、変な趣味の奴がいないことはないからな」私が佐藤1尉に会ったのは引き継ぎに来た1日だけだが、一般(部外)課程出身でも東京で見かける女子大生のような華やかな雰囲気は微塵もなく、模範的優等生として中学高校生活を送ってきたままのようだった。私が航空自衛隊で殊更に曹侯苛めの標的にされたのは自衛隊服務規則を厳守する四角四面の堅物で仕事以上に遊びも楽しんでいる普通の空士や若手空曹には「目障りだったからだ」と転属時の送別会で教えられた。佐藤1尉は入隊以来、法務幹部として師団司令部の事務室勤務で今回は陸上幕僚監部から来ながら使えないWACの幹部になってしまったので、ストレスが溜まっていた現場の中堅幹部たちの可逆趣味=サディズムの対象になったのかも知れない。
「私は地方の大学出身なのでゼミの担当教授から『ウチの大学では受からない』と言われていたので司法試験は受験しませんでした。これから私はどうすれば良いのでしょう。お忙しいこととは思いますが助言をお願いします・・・これなら佳織を紹介した方が良いかな。何とか自信を持たせないとな」私が中退した地方=愛知県の私立大学でも教授は「ウチの大学では司法試験に受からない」と嘆いていたが、それは過去の実績であって挑戦する者が続出すれば「下手な鉄砲数射ちゃ当たる」可能性もないとは言えないのではないか。しかし、佐藤1尉が牧野弁護士に入門して猛勉強しても司法試験に合格するとは思えない。私は拘置所に収監中の在り余る時間を全て受験勉強に傾注できたが、陸幕法務官室の事務室長の職務との片手間では無理だ。私はテーブルの席に座ると腕組みして思案を始めてしまった。
「だったら貴方が調べているPKOの裁判の情報を送ってあげれば良いじゃない。貴方が日本にいた頃には裁判が始まっていたけどマスコミは取り上げていなかったんでしょう。きっと今も同じよ。自衛隊にも影響がある裁判を先行して勉強していれば周囲の評価も上がるはずよ」動かない私に散歩の時間を告げに来た梢が助言を与えた。昨日、梢にはオランダのPKOの裁判の研究を始めたことを説明したが、すでに頭の中で知識として保管されているらしい。若し、佳織に同じ相談をしても一般(部外)課程の先輩としての体験談と教訓に留まり、このような助言にはならなかったのではないか。
- 2021/04/17(土) 13:49:11|
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2010年の明日4月17日は沖縄出身の絶海の孤島の生き地獄を耐え抜いた指揮官で自衛隊内や沖縄県の多くの人々が「本土復帰に伴い編成される第1混成団の長は他にいない」と待望されていながら帝国陸軍の残党が仕切っていた陸上幕僚監部の人事の失策で2代に回された桑江良逢(りょうほう)将補の命日です。
野僧は沖縄の所属部隊の教育図書で桑江良逢将補の著書「幾山河」を読み、深く感銘を受けて個人的に購入したのですが防府南基地からの引っ越しの際に箱ごと盗まれました。
桑江将補は大正11(1922)年に首里市で生まれ、旧制沖縄第1中学校から広島陸軍幼年学校に入営して55期生として陸軍士官学校に進み、12月に対米英戦が始まる昭和16(1941)年に卒業すると満州東部国境警備隊の第24師団歩兵第32連隊に配属されました。そして昭和19(1944)年になると戦力を温存されていた歩兵第32連隊から3月に1個大隊がサンパン島へ、連隊主力は8月に沖縄方面の第32軍に派遣されましたが、桑江大尉はそれに先立つ2月にフィリピン・ミンダナオ島から真東、パプアニューギニアから真北に引いた線が交差する太平洋中央のカロリン諸島ウォレアイ環礁=日本名・メレオン島守備隊の中隊長として赴任しました。メレヨン島は面積4・5平方キロメートルで東西南北が2キロに届かず、海抜2メートルの小島で砂地のため農耕は不可能、食料になる動物もヤシガニが最も大きく他はネズミやヤドカリくらいでした。そこに6426人(陸軍3205人・海軍3221人)の大部隊が配置されたため食料や水は輸送船による補給に頼るしかなかったのです。ところが昭和19(1944)年7月にサイパン島守備隊が自滅して制海権をアメリカ軍に奪われると輸送船は途絶え、守備隊は戦わずして飢餓に陥り、最終的には4800人(陸軍2419人・海軍2381人)が記録上は戦病死でも実際は大半が餓死、かなりの数の自死や殺害(多くは食料の奪い合い)も出て、昭和20(1945)年9月26日に陸軍786人・海軍840人の1626人が別府港へ生還しています。
そんな現世の地獄から生還した桑江大尉は昭和27(1952)年に警察予備隊に入隊すると防衛大学校の教官を経て北海道滝川の第10普通科連隊長に就任しましたが、沖縄の復帰が決まり、復帰後に沖縄に配置される第1混成団の基幹部隊として臨時第1混成群が北熊本で編制されると群長になりましたが(普通科連隊長から見れば格下げだった)、沖縄に移動した初代第1混成団長には陸軍士官学校の1期先輩が就任し、桑江1佐は副団長に甘んじました。この陸軍士官学校の卒業期別の管理に拘泥した人事には沖縄県民だけでなく自衛隊内でも批判の声が起こり、昭和49(1974)年に第1混成団長に昇格すると昭和51(1976)年まで務め、その後は昭和52(1977)年に退官し、県会議員に当選したのです。しかし、「幾山河」の中で桑江将補は沖縄出身でありながら郷土の防衛を原隊の第24師団歩兵第32連隊(6月23日の組織戦の終結後も8月29日まで糸満市国吉台の洞窟陣地で連隊長以下300人が生存して遊撃戦を継続していた)に託すことになった人事の方に若干の私怨を感じているようでした。
- 2021/04/16(金) 14:00:24|
- 自衛隊史
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「先ずはPKO部隊の裁判からだな」モレソウダ首席検察官から旧ユーゴスラビアでの現地調査の前にオランダで行われているスブレニツァの虐殺の政府とPKO部隊の責任を問う裁判の公判記録を研究するように勧められた私は日本大使館に防衛駐在官の近藤1佐を訪ねた。国際刑事裁判所の公判資料は担当する戦争犯罪や人道問題に限らず国際法に関する裁判が中心のためオランダ国内の軍に関する裁判は防衛駐在官の方が専門なのだ。
「今年も桜を見る会に参加させていただきまして有り難うございました」「秘書の安里さんのオランダ語は素晴らしかったですね。ウチの家内も勉強しなくちゃって気合を入れていました」防衛駐在官室に入って先ず熊本の震災の直前に行われた桜を見る会の礼を述べると会場でオランダ人の招待者と談笑していた梢の語学力を誉めてくれた。それでも一向にオランダ語が身につかない私としては黙って頭を下げるしかない。
「旧ユーゴPKOの裁判ですか。実は私も強い関心を持って注視しているんですよ」ソファーに向かい合って座り、オランダ人の女性事務員が紅茶を置いていくと用談が始まった。
「やはり自衛隊もPKOに参加している以上、参考にするべきですよね」「昨年に成立した安全保障関連法でPKO部隊の任務に駆けつけ警護が加えられたんです。つまりモリヤ2佐の頃よりも身近で切実な問題になっているんです」私も安全保障関連法については安川の馬鹿野郎3尉(私の個人情報を漏洩した)から隊員教育の相談を受けて多少は研究したが、やはり遠い国の政治問題と言う感覚で傍観していて両者が結びつかなかった。
「オランダ軍のPKOはカンボジアで日本の文民警察官を警護している時、ポル・ポト派の残党に攻撃されて劣勢と判断すると見捨てて逃亡していますから今に始まったことではないでしょう。しかし、私は地上戦を専らとする者として、その判断も軍事的合理性に適っていると肯定しています」陸上自衛官で元は普通科(現在は警務科)の私の見解に海上自衛官でも艦乗りの近藤1佐は難しい顔で紅茶を口に運んだ。
「モリヤ2佐が北キボールで暴徒と戦った時もオランダ軍と一緒だったんですよね」「はい、大尉と軍曹の2人でしたが、どちらも予備役からの招集で軍人としての意識は弱いようでした」「それでモリヤ2佐が1人で戦うことになったんですね」これは誉めてくれたらしい。オランダ軍の2人も暴徒の攻撃に応戦していたが、戦闘後の検証で遺骸や負傷の跡が見つからなかったことから考えると単に銃弾を浪費しただけだったようだ。
「この裁判の告発事由はスブレニツァを警備していたオランダ軍のPKO部隊がセルビア人政府軍の圧力を回避するために国連の管理地域からイスラム教徒たちを退去させたことが虐殺につながったことですね」「現地のPKO部隊は軽装備の上に400名程度の少人数だったから包囲している正規軍のセルビア人政府軍と戦うことは不可能で、おまけに補給路も遮断されて食糧にも事欠く状態だったんですよ」近藤1佐の説明にあの時、暴徒の銃弾が射ち込まれる小屋の中で阿部真理と久米浩の遺骸を前に怯えていたモールス大尉の顔が胸に浮かんだ。やはり窮地に陥れば任務を放棄するのがオランダの国民性なのかも知れない。第2次世界大戦でオランダは国境の街でイギリス軍の情報将校がナチスの親衛隊に逮捕されたことを「中立義務違反」として侵攻を受けると女王一家は海を渡ってイギリスに亡命した。同じように侵攻を受けたデンマークやノルウェー、ベルギー、ルクセンブルグなどの国王は自国内に留まって屈辱を噛み締めていたのだから国民性と言う見方もあながち間違いではなさそうだ。
「オランダでPKO部隊の過失責任を認める判例ができると日本の反対派は最近の市民団体が常套手段にしている法廷闘争を始める可能性がありますね」オランダの裁判は2014年には下級審でPKO部隊を派遣している政府の責任を認め、損害賠償を命じる判決が下っている。現在は政府側が控訴して裁判が続いているが判決が覆る可能性は低いようだ。私も2度参加している国際連合の平和維持活動=PKOは1988年にノーベル平和賞を受けているが、過去にPKO部隊が訴追された事例は思い当たらない。私が日本で刑事告発を受けたのは個人の犯罪としてであってPKO部隊と活動そのものではなかった。
「同じPKO部隊でもイギリス軍やフランス軍は重機関銃を装備した装甲車などの戦闘車両を配備していたから、私はむしろオランダ軍が軽装備で危険地帯に配置したことが原因と表明して、国際連合事務局やノーベル委員会の『戦闘は行わない監視員』と言う非現実的な認識を改めさせたいと考えています」「そうなると日本のPKOも必要な武器を持って派遣されるようになって駆けつけ警護にも不安はなくなる」私の答えに近藤1佐はうなずいた。日本では安川3尉も行ったイラク派遣で移動手段として装甲車を使った実績はあるが武装は取り外していた。そう言えばイラクのサマーワ地域を警備していたのもオランダ軍だった。
- 2021/04/16(金) 13:59:10|
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