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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

9月1日・杭の日

「心の傷だって 価値はある 悔いはないかい 燃えたかい それを自分に 訊いてみよう」。いきなり森田健作さんの「青春に悔いはないか」ですが、9月1日は「クイの日」でも哲学・宗教的な「悔いの日」ではなく、1993年に雇用労働条件の改善と人材育成を目的とする団体の東日本基礎工業協同組合が「9=く」と「1=いち」の語呂合わせから制定した「杭の日」で、土木工事関係者(自衛隊の施設部隊は不明)は基礎工事現場での殉職者の慰霊法要と安全作業を推進するための行事を催しています。
陸上自衛隊の施設科の隊員が新隊員後期課程で学ぶ施設基礎作業の中には「植杭(しょっこう)」と言う課目があり、最初は基本として重い木製の「掛矢(かけや)=大槌」で丸太の杭を打ち込みますが、興味深いのは杭を支える補助員の動作で始めの固定のため軽く打つ間は杭を手で支えていますが、勢いよく振り下ろす拝み打ち(正面での両手打ち。他には側面を回転させる振り打ちなどもある)になると危険防止のためロープで離れて支えます。続いてさらにもう少し高い杭を重い木製の固まりに4本の取っ手がついた「手用築頭(しゅようちくとう)」を4人で呼吸を合わせて打ち込みます。呼吸が合わないと上に高く突き上げ、膝を曲げて重みで杭を打ち込む動作の連続でバランスを崩してしまうため4人で運んでくる時も祭りの神輿のように調子よく「1、2、1、2」と歩調を数えながら歩きます。ちなみに手用築頭訓練用の杭は本当に打ち込むと抜くのが大変なので先が平らな丸太を土の中に埋めた石やコンクリートの上に立ててあります。
一方、野僧のように高度経済成長の建設ラッシュの時代に育った者にとっては「杭」と言うと地盤が軟弱な場所に重量物を設置したり、大きな構造物を建設する時に固い地層まで打ち込む支柱が思い浮かびます。
小学生の頃には学校の回りに鉄筋コンクリートの建物が建つと授業中に「ガシーンッ、ガシーンッ」と言う騒音が響いてきましたが、男子たちは興味深々で放課になると非常階段に出て作業現場をのぞいていました。すると高い支柱の最上部まで重そうな金属の固まりを吊り上げて落として打ち込むと「ガシーンッ、ガシーンッ」と言う大音響と地響きが起きて迫力があり夢中になりましたが、女子は怯えていました。
ところが鉄筋コンクリート製の建物などは全く建たないド田舎の中学校を終えて都市部の高校に入ると久しぶりに土木工事を見ましたが、杭を打つ音は「プシュッ、プシュッ」に変わっていて下校時に工事現場を覗き、作業員の小父さんに訊くと「高圧空気で打ち込むようになった」と教えられました。確かにあの大音響と地響きは市民に恐怖心を与えますから数年の間に改良を迫られ、急速に普及したのでしょう。
この他に杭と言うとロック・クライミングが趣味だったアラスカ人の彼女に見せられた岩壁に打ち込むハーケンが思い浮かびますが、長年にわたり日本最大と言われる絶壁の穂高連峰の屏風岩のガイドを勤めていた友人によると「人間の手足の長さに大差はないのでハーケンを打ち込む場所も決まっていまい、一度打ち込んだ場所は岩が脆くなっているので滑落などで衝撃がかかると抜け落ちてしまう危険性が高い」とのことです。
  1. 2021/08/31(火) 15:05:06|
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振り向けばイエスタディ2386

「ユーゴスラビアは寒いのかしら」結局、梢も今回の出張に秘書として同行することになってしまった。梢は正月休暇の間、常に寄り添って離れず、寝る時も腕枕ではなく抱き締めることを要求し、おまけに接続されている精神を利用した夢で出会ってから別れるまでの前編と再会して今日までの後編の名場面を毎晩上映されては「愛する者を死地に同伴するには大義名分が必要」と言う武人としての美学を撤回せざるを得なかったのだ。
「南西部のアドリア海沿いの地域は地中海性気候だから暖かいそうだけど、前回行ったサラエヴォやスレブレニツァは内陸だから日没後は冷えたな。それでも陸上自衛隊の戦闘服装だったから多少の気温の上下はあまり感じなかったよ」「今回は真冬だから防寒を厳重にしないとね。動き易い服装じゃないと足手まといになっちゃう。スキー・ウェアまでいかなくても大丈夫でしょう」オランダ人は男女ともに日本人がイメージするヨーロッパ人ほど平均身長は高くないので梢も市内の店で苦労なく服を買っているが、同行を決定したのは正月休暇明けなのでこれから用意しなければならない。こうしてベッドの上に梢の衣類を広げてみると夏物はスイスに行くので軽登山ができる程度に活動的な服装を持っているが、冬物は夜の散歩用のジャージとウィンドブレーカー以外は市街地に外出するウールのシャツとセーターやコートしかない。
「佳織に頼んで貴方と同じ半長靴を送ってもらおうかしら。靴屋の女性用はブーツばかりで作業用の編み上げ靴は置いてないのよ。半長靴なら貴方について何処へでも行けそうだもん」「言っておくが現地は対人地雷の除去が進んでいないようだから踏めば足首まで吹き飛んでしまうんだぞ。それはスリランカやアフガンスタンでも同じだが、絶対にワシの傍から離れるな」「はい」私の表情と口調が厳しくなると梢は真面目な顔をして隣りに寄り添った。これでは少し意味が違うが気持ちは通じているらしい。
「やっぱり真冬のアルプスは風景が全く違うわね」「氷河に雪と氷を補充しているんだろう」今回もミュンヘン空港からのルフトハンザでサラエヴォに向かった。窓からは厚い雪に覆われた真冬のアルプスの峰々が見えるが夏に眺めた巨大な岩塊とは姿が一変している。この大量の雪と氷があの氷河になるのかと思うと雄大な自然の営みにあらためて感激した。
「SFORのフーリング中佐です」サラエヴォ空港には1995年11月のデイトン和平合意を受けてデリバリッド・フォース作戦のNATO占領軍を改編した平和安定化部隊(SFOR)の中佐が迎えにきていた。迷彩服と階級章、ベレー帽を見る限りベルギー陸軍のようだ。
「国際刑事裁判所のモリヤ次席検察官です」「その服装はジャパン・グランド・ジエータイですね」「はい、モリヤ2佐です」敬礼の手は上位者が後に挙げて、先に下ろすのが世界共通の作法なので同じ階級同士では困ってしまうが、私が2佐と名乗ったところで同時に下ろした。
「こちらは秘書のアサト・コズエです。調査に同行させます」「判りました。よろしく、コズエ」続いて梢を紹介するとフーリング中佐は急に表情を緩めて嬉しそうに手を握った。やはり長期間単身赴任している上、民族浄化で多くの女性が犠牲になった地域だけに軍人の性犯罪の防止には極めて厳格に対処しているため手を握るだけで胸が時めくのだろう。
それにしても前回は国連の現地事務所の若い男性職員だったが、「国際刑事裁判所の検察官」と聞いていた私が陸上自衛官、それも2佐だったため処遇面で齟齬が生じ、案内するにも軍人的な行動に対応できず今回は同業者に依頼したようだ。またセルビア・ヘルツェゴビナ政府としてはデイトン和平合意を受けて設置された和平履行評議会(PIC)の下部組織の上級代表事務所(OHR)が実質的に統治していることを「民主主義に反する占領統治だ」と批判しているので国際刑事裁判所の私との接触を避けた可能性もある。しかし、カラジッチ大統領とムラディッチ参謀長の控訴審の弁護団が主張しているデリバリッド・フォース作戦でのNATO軍の戦争法違反の有無を現地調査しに来た私としてはその当事者に同行されるのは非常に困る。仮に今回の調査で重大な戦争法違反が見つかればスレブレニツェ大虐殺のオランダ軍PKOと同じくNATO軍を刑事告発することになり、検事として事実を究明するのが私の立場だ。
「この建物は明らかに空爆で破壊されていますが軍事施設だったのですか」空港からは中佐の案内でベルギー軍の下士官が運転する軍用車両でサラエヴォ市内を回った。すると徒歩だった前回は立ち入らなかった地区で崩落したレンガ造りの建物の残骸を見つけた。
「セルビア人の軍が銀行の2階に指揮所を置いていたので攻撃しました」「文民を避難させるための警告は」「軍人を逃亡させることは軍事的効果を低下させますから奇襲的に攻撃しました。それでも2階だけを狙ってミサイルを使っています」「要するに威力が大き過ぎたと言うことですね」「いいえ、建物の強度が不足していたんです」フーリング中佐は始めから防御態勢を取った。やはり控訴審に関する情報は平和安定化部隊司令部も把握しているようだ。
  1. 2021/08/31(火) 15:03:44|
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8月31日・ダブル不倫の果てにダイアナ元王太子妃が事故死した。

1997年の明日8月31日に野僧と生年月日が同じイギリスの元王太子妃・プリンセス・オブ・ウェールズ=ダイアナ元妃がパリ市内で交通事故に遭って死亡しました。したがって存命なら今年で還暦でした。
ダイアナ元妃は日本で野僧が生まれた1961年7月1日に名門貴族・スペンサー家の3女として生まれましたが、6歳の時に両親が別居、8歳で離婚したため弟と一緒に父親の親権に入って屋敷で育てられ、9歳から寄宿制の学校に入学してから16歳でスイスの女学院を退学するまで実家に戻ることなく成長しました。
そんなダイアナ妃は14歳の時に父親がスペンサー伯爵の卿位を継承したためレディの儀礼称号を与えられ、16歳で姉の元カレだったチャールズ王太子と初対面し、スイスの女学校を退学してイギリスに戻ってロンドンで1人暮らしを始めていた18歳の時に王室のパーティーでウィリアム王太子と再会して交際が始まったのです。この頃、王太子は婚期が遅れている中で友人の妻だった現在のカミラ夫人との交際を巡って両親=女王夫婦から厳しく叱責を受けていて「年上の人妻が駄目ならバージンの小娘なら文句はなかろう」と愛情よりも計算で手をつけたと後に報じられています。
それでも1981年7月29日に盛大な結婚式を挙げるとその美貌でイギリス国民だけでなく世界中の人々を虜にしてたちまちイギリス王室の表看板になり(この頃、イギリスに留学していた今上くんは華やかなダイアナ妃に憧れて類似品の女性外交官を皇后にしたらしい)、こうして始まった夫婦生活は1982年に長男、1984年に二男を儲けるなど当初は順調でしたが日本でも古来「後家さんの娘は3文安い」と言われているように両親が離婚して片親で育った娘は夫婦の機微を知らないため健全な家庭を築くことが難しく、ダイアナ妃も夫であるチャールズ王太子が当然としている王室の風習や女王の命令に反論し、家庭や育児の方針でも伝統と立場を重んじるチャールズ王太子の考え方を否定してまだイギリス社会でも賛否があった現代的な育児を勝手に実践するなど夫婦の亀裂は生じると同時に急激に広がり、1980年代の半ば頃からチャールズ王太子は自宅の宮殿には帰らずカミラ現夫人の元へ通うようになり、間もなくダイアナ妃も騎兵将校と不倫関係に入って離婚は時間の問題になりました。
ところが王室の醜聞にマスコミが飛びつき、ダイアナ妃の性生活を含む内情暴露やレオタードや水着の写真が世界中を駆け巡って平民のオナペットになると王室の権威が地に堕ちこるとを危惧した女王が裁定に乗り出して1996年8月に離婚が成立したのです。
離婚後のダイアナ元妃はパキスタン人の心臓外科医に続きエジプトの富豪の息子の映画監督と公然と同泊するようになって婚約を発表するとイギリスのマスコミは「イスラム教徒が王孫の義理の父親になる」と報じ始め、そんな中で事故は起きました。
そのため「イギリス国教会の首長としての権威を守らなければならない王室が諜報組織のMI6に背信者に堕したダイアナ元妃の殺害を命じた」と言う噂は「実行者」と自称する元隊員の告白を含めて何度も流れています。
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  1. 2021/08/30(月) 16:31:13|
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振り向けばイエスタディ2385

沖縄の八重山の離島でも年の瀬は迫ってきている。ただし、島の行事はウチナー正月(太陰暦)なのでカレンダー上では2月16日だ。それでも年賀状は出すので淳之介は夕食を終え、恵祥といりえを風呂に入れてから寝るまでの僅かな時間にプリンターで印刷した年賀状に短くコメントを書き加えていた。やはり印刷だけでは味も素気もなく、折角の年頭の挨拶が形式に堕してしまうような気がするのだ。
「今年の正月はお母さんとお義父さんは来ないかな」いりえを寝かせつけ居間の座卓で年賀状を書いている淳之介の前に座ったあかりが独り言のように呟いた。あかりにとっての義父と母(淳之介には逆)、祖父母がこの島に来て安里一家で年を越したのはいりえが生まれる直前の2016年の新年だからもう2年前になる。
「お義母さんには電話してるんだろう。何か心配なことでもあるのか」「来年は恵祥が小学校に上がるからヨーロッパの学用品を送るって。それからいりえは歩くようになるから気をつけないって」「そうだな。玄関を開けることを覚えると勝手に出ていってしまうぞ」この梢の指導に淳之介は父が日頃から言っている2人の精神をつなぐ赤い電話線が母子の間にも接続されていることを実感した。
「それから夏にお義父さんの仕事で一緒に外国へ行ったでしょう。年明けにも別の外国へ行く予定だって」「夏に行ったのはアフガニスタンだったよな。新聞やテレビではほとんど言わないけど色々と危ないことも起きてるみたいだ。それがお父さんの仕事だから仕方ないけどお義母さんを連れていくのは止めてもらいたいな」あかりがアフガニスタンの国名が思い出せなかったのは黒島では視覚障害者用の点字新聞を購読することができず、社会の動きはラジオとテレビの音声で聴くしかないので、どちらも取り上げなければ触れる機会がない。沖縄本島で暮らしていた頃は在日アメリカ軍のラジオ放送のAFN・パシフィック(1998年まではFEN)も聴いていたので沖縄のマスコミが取り上げない国際情勢や軍事に関するニュースも熟知していたが八重山までは電波が届かない。
「それは違うわ。お義父さんはお母さんを危険な場所に連れていくつもりはなかったけど、お母さんが無理に頼んだのよ。お母さんは命をかけて愛していたお義父さんと生きられなかったから、せめて死ぬ時は一緒にって願ってるの」「ふーん、愛知のモンチュウはそんな2人をどうして引き裂いたのかな」淳之介が父と暮らしていた頃には佳織が妻で母だったので梢との思い出を語ることはなかった。中学生になって連続ドラマ「ちゅらさん」を見て自分に流れる沖縄の血を自覚したことで別れた母の実家で暮らすことになり、高校生の時に雨の国際通りであかりと出会った。父と義母の関係を知ったのはそれからだ。それにしても息子の目で見ても義母は非の打ちどころがない父にとって唯一無二の伴侶であり、2人の絆は父が口にする赤い電話線どころか子供の頃に渡った本四連絡橋の吊り橋のメインケーブルよりも太く強固なのは間違いない。自分を産んだ美恵子なら会わずに反対するのも親の卓見であり、佳織も「家庭を守る妻」と言う視点からなら思案の余地があるが、梢はどう考えても反対する理由が思い当たらない。淳之介が黙り込むとあかりがその理由を察して口を開いた。
「お義父さんとお母さんが結婚を反対された理由を考えているんでしょう。お義父さんのお父さんのお兄さん、お義父さんの伯父さんが『沖縄人は民族が違う』『沖縄は島津の植民地だった』そんな土着民の子供が生まれれば『由緒正しいモリヤ家の血が汚れる』って反対してお義父さんの両親も従ったんだって」「そんな馬鹿な。俺が生まれる何年か前の話だろう。沖縄が本土復帰して10年は経っていたはずだぞ」あかりは説明しなかったがその伯父は中学校の教師で、父が海上自衛隊生徒に合格しながら断念させられて鳥羽にある商船高専を志望した時、「船乗りは港港に女を囲うフシダラナ人間だ」と反対している。仮に教え子が同じ進路を志望した時にも同じ指導をしたのかは判らないが、2016年に死んだらしいので確認の仕様がない。
「私たちが結婚する時、南城のお祖父さんとお祖母さんは反対したんでしょう。するわよね」「反対と言うよりも心配したな。だからお前を家に呼んで普通に生活できることを確認してからは応援してくれたよ。やっぱり沖縄の家族は最高さァ」淳之介の声が大きくなり、並んで寝いている恵祥といりえが驚いたように身を縮めた。
「でも私はお義父さんとお母さんに来てもらいたかったな。だってまだいりえに会ってもらっていないもの」「そうだったな。年賀状には家族4人の写真を刷ったけど本物を抱っこしてもらわないといりえも可哀想だな」淳之介の答えにあかりはユックリうなずいてから鼻をすすった。
「もう寝る時間だ。明日の航海が寝不足なってしまう」「ごめんなさい。私が変な話をしたから年賀状が書けなかったわね」あかりの詫び言に淳之介は軽い口づけで返事に代えた。
  1. 2021/08/30(月) 16:18:29|
  2. 夜の連続小説8
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振り向けばイエスタディ2384

ヨーロッパ各地で続発していたイスラム過激派による大規模なテロは警察と治安部隊が厳戒態勢を敷いていることもあってパリ市内での警察官の銃撃やスペイン・バルセロナの自動車暴走テロなどだけで散発的になっている。ただし、イギリスでは5月22日に起きたマンチェスター・アリーナ自爆テロと6月3日のロンドン橋での銃撃テロに対して6月19日にイスラム教徒を標的にした自動車テロが発生したため9月15日にも報復の爆破テロが起きている。
それでも平穏な気分で年末を迎え、夕食後に私は同じ干支の梢とリビングのテーブルに向かい合って国際郵便での年賀状を書き始めた。来年の干支は戌=犬なので小学生から愛読している「のらくろ」にしたいところだが、のらくろは大尉で予備役編入なり、佐官ならモール大隊長でも復刻版の単行本は防府南基地からの引っ越しで箱ごと紛失してしまった。
「年明けにはまたセルビアに行くことになった」数枚目を同時に書き終えた梢と顔を見合わせた時、私は今日モレソウダ首席検察官から与えられた出張命令を伝えた。
「セルビアへは去年も一度行ったじゃない」「あれはスレブレニツァのジェノサイドの現場確認が目的だったな」私は国際連合特別法廷が審理していたユーゴスラビア内戦中にセルビア人の国家・スルスプカスの軍がレブレニツァでイスラム教徒を大量殺害したとする戦争犯罪の実態を確認するため現地に赴いた。あの時はイスラム教徒の死霊を連れ帰ってしまい空港からアムステルダム市内の西モスクへ直行して慰霊の礼拝をした=あくまでも「お祓い」ではない。
「大統領と参謀長の控訴審が年明けから始まるんだよ。2人ともイスラム教徒の虐殺はセルビア人に対する武力攻撃を阻止するための自衛処置だったと無罪を主張しているんだが、弁護団はNATO軍が実施したデリバリー・フォース作戦でもセルビア人の文民が大量殺害されたって言い始めだんだ」国際連合特別法廷で2016年3月24日に懲役40年の判決を受けたスルプスカのラドヴァン・カラジッチ大統領と実行犯として2016年12月17日に終身刑になった陸軍参謀長のラドム・ムラディッチ大将が控訴したため国際連合の規約に基づき審理は国際刑事裁判所が引き継ぐことになった。弁護団としては1審での罪状認定と量刑への不服を控訴理由にするだけでなく「ユーゴスラビア内戦を終結させる」と言う名目でNATO軍が実施したデリバリッド・フォース作戦での都市空爆やPKO部隊とは規模が違う本格的な地上軍を派遣して抵抗勢力を制圧した事実上の軍事占領を戦争犯罪と訴えることで国際連合側の訴追資格に疑義を与えようとする法廷戦術のようだ。
この戦術は第2次世界大戦後の極東軍事裁判所=東京裁判でも日本側弁護団が実施しようとしたが、裁判長=主任判事だったオーストラリア人のウィリアム・フレッド・ウェッブは狂信的白豪主義者で世界の支配者たるヨーロッパ人のイギリス・アメリカ・オーストラリアが緒戦とは言え野蛮なアジア人の日本に圧倒された事実が許せず、弁護団が提出した原爆投下や都市爆撃などの文民の無差別大量殺害の調査資料を証拠採用しなかっただけでなく弁論さえも拒否した。現在の国際刑事裁判所の判事にそのような強引な法廷指揮を期待することはできないので、モレソウダ首席検察官としても再度の現地調査を命ずることになったようだ。
「今度は私も連れて行ってくれるんでしょう」話に区切りがついたところで梢が身を乗り出して迫った。その目には相変らず拒否を許さない圧力が在る。確かに先日のアフガニスタンでは通訳以上の活躍を見せて多大な成果を上げることに貢献した。その一方で今回の旧ユーゴスラビアでは5つの民族(スロベニア人・クロアチア人・セルビア人・モンテネグロ人・マケドニア人)の4つの言語(スロベニア語・セルビア語・クロアチア語・マケドニア語)が使われているが梢が通訳できる言語はなく同行する名目が断たない。
「気持ちは有り難いが、今回は正式な公務出張だから通訳としての会話能力がないお前を連れて行くことはできないよ」「4つの言語ね・・・」私の拒絶に梢は唇を噛んだ。
実は私が拒否したのにはもう1つ理由があった。旧ユーゴスラビアは内戦終結後も領土はセルビア人のスルプスカが49パーセント、その他の民族のボスニア・ヘルツェゴビナ連邦が51パーセントに2分割されていて血みどろの内戦を教訓にした両国家が相互に融和と治安の維持に努めていると聞いている。とは言え前回の調査でも民族間・宗教間の本能的憎悪は根深く、アメリカによる侵略で湧いて出た傀儡政権を滅ぼして敬虔なイスラム社会を再建しようしているタリバーンのアフガニスタンとは別の危険性があるはずだ。梢の覚悟は私も理解し、心から感謝しているが、共に死地に赴くには大義名分が必要なのだ。
「若しもワシに何かあったら遺骨はお前が抱いて沖縄へ連れて帰ってくれ。墓は淳之介の島でも安里家に居候でも良い。お前を見守りながら待っているよ」「馬鹿、後を追うに決まってるじゃない」重くなった空気を払うために余計なことを言って泣かせてしまった。
  1. 2021/08/29(日) 15:30:32|
  2. 夜の連続小説8
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俳優・二瓶正也さんの逝去を悼む

8月21日に我々の世代ならウルトラマン(ウルトラセブンと共に全話録画していた)の科学特捜隊・イデ・ミツヒロ隊員役の名演技で深く記憶に刻まれている二瓶正也(まさなり)さんが誤嚥性肺炎で亡くなったそうです。80歳でした。
二瓶さんは独特の風貌からも判るように父親はドイツ人ですが、生年は日独伊3国同盟が締結された昭和15(1940)年です。その父親が大の映画好きだったため高校卒業後に東宝芸能学校の夜間部に入学し、昭和35(1960)年に東宝ニューフェイスになると大部屋俳優ながら次々に映画に出演し、昭和41(1966)年の特撮テレビ・ドラマ「ウルトラマン」のイデ隊員役で有名になるのと共にイメージが固定されてしまいました。当初、この役はキューピーちゃんで人気を博していた石川進さんだったのですが出演料で折り合わず、急遽、二瓶さんが代役になったのでした。
ウルトラマンの科学特捜隊は名称の通り科学警察組織でムラマツ・トシオ・キャップも1尉=大尉ではなく警部です。そんな科学特捜隊のイデ隊員は武器や装備品を手掛ける技術者でアラシ・ダイスケ隊員が持っているスパイダー・ショットを始めとしてケムラーを倒したマッド・バズーガ、怪獣の脳細胞を破壊するQXガン、スパイダー・ショットの強化型のニードルS80、ドラコやジェロニモを倒した閃光弾・スパーク8などの武器や怪獣が噴射する光線を遮断するバリア・マシン(投石などの物理的攻撃には効果がない)、ドリル式地中装甲車・ベルシダー(サンダーバードのThe Moleに似ている)、全宇宙語翻訳機・パンスペースインタープリターなどを開発しています。
その一方でインテリだけに怪獣・ジャミラの正体が行方不明になった宇宙飛行士であることを知って攻撃を拒否し、怪獣・ウーが孤独な少女・雪ん子の亡くなった母親ではないかと推察して幼い頃に母親を亡くした自分の生い立ちに重ねるなど心理的に葛藤する場面も多く、何よりも自分が開発した武器では怪獣に致命傷が与えられず結局、ウルトラマンによって決着をつけられることに無力感を噛み締めるなど非常に深い意味を与え、アラシ隊員とのボケと突っ込みやフジ・アキコ隊員との対話は漫才そのもので大人になっても鑑賞に堪えるドラマにしてくれました。
二瓶さんは同じ円谷プロ製作の特撮ドラマ「マイティ・ジャック」にも源田明隊員役で出演していますがイデ隊員ほどの存在感はなく、むしろ東宝の戦争映画シリーズで第1次世界大戦を描いた「青島要塞爆撃命令」の浜美枝さんが演じる中国娘をからかう警備の水兵や航空自衛隊浜松北基地が舞台の「今日もわれ大空にあり」の台詞がないパイロットでは顔や演技が記憶に残っていて、何よりも「太平洋奇跡の作戦・キスカ」で撤収艦隊の到着を諦めて海岸への集合を放棄する中村上等水兵の役は台詞が少なく登場時間は短くても存在感を発揮していました。
1969年に東宝を退社してからは映画やドラマの出演が減り、1980年代後半からは不動産業が中心になって晩年の生業はビルのオーナーだったそうです。感謝を込めて冥福を祈ります。合掌
  1. 2021/08/28(土) 14:37:27|
  2. 追悼・告別・永訣文
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振り向けばイエスタディ2382

「今年の正月休暇はハワイに来ませんか」モリヤ将補は合同忘年会の席で酌に来た第4高射特科大隊長に声をかけた。宴会場の床の前の座卓の辺には将官の両駐屯地司令が座り、向かって左右両側に上席から1佐以下の序列順で並んでいるので2佐の高射特科大隊長は部隊長としては末席に近い。したがって酌に来た頃にはモリヤ将補も少し酔っていた。
「ハワイですか。芸能人並みの贅沢な正月休暇の過ごし方ですが今からでは航空券が取れないでしょう」「確かにそうね」大隊長の反論にモリヤ将補も納得して軽く頭を下げた。
「それにしてもどうして私なんかをお誘いいただいたのですか。身に余る光栄ではありますが」大隊長としてはモリヤ将補が着任して久留米駐屯地に挨拶に訪れた時に所在部隊の長として同席した以外に面識がなく、この美熟女に海外旅行に誘われる理由が思い当らなかった。
「アメリカ軍のイージス・アショアの基地はハワイのカウアイ島の太平洋ミサイル試射場にあるのよ。私の実家はハワイだから今回の帰省を利用して私的に見学することになっているの。貴方も専門職として同行しないかなって思って」加倍政権や防衛省はイージス・アショアに関する情報を小出しにしているため大隊長もハワイの基地の存在は知らなかった。一方、モリヤ将補はアメリカ軍太平洋軍司令部の連絡官時代の人脈で私的な見学を実現していた。その経歴を思い出せなかった大隊長が恐いモノを見るような目で注視すると、それに気づいたこの美熟女はウィンクを返してくれた。
結局、ハワイに帰省した佳織は1人でカウアイ島西岸・バーキング・サンズの太平洋ミサイル試射場にあるイージス・アショアの基地を訪れた。本当は同行・見学を餌にモリヤ志織少尉を釣ろうとしたのだが、「間もなく軍用パイロットのライセンスを取得するとPー3Cでの地上配備の対潜哨戒機課程に移るので今回も帰省しない」と断られた。そこで父親のノザキ中佐を誘ったものの珍しく興味を示さなかった。やはりパイロットにとって地対空ミサイルは天敵であり、例え目標が弾道ミサイルでも近づきたくないのかも知れない。
「佳織、失礼しましたメジャー・ゼネラル・モリヤ(モリヤ少将)、ようこそ」今回は私的な見学と言うことで佳織は私服を着て民間航空で行ったのだが、リフエ空港には黒塗りの軍用車が迎え来ていて太平洋軍司令部で親しくしていた海軍中佐が待っていた。あの頃は同じ階級の2佐と中佐だったが、その後は昇任していないようだ。アメリカ軍の士官の昇任は立候補した3名を競い合わせて1名ずつ2回選び、選ばれなかった1名は予備役編入になって民間企業や大学の研究所などで経験を積まなければ復帰できない。そのため軍に留まることを優先して立候補しない士官も珍しくはなく、この中佐もその路線を選択したのではないだろうか。
「今日は私服だからVIP用の軍用車は拙いわ」「大丈夫、試射場長はクリスマス休暇で本土へ帰省していて軍用車は空いているんだ。ただし、ドライバーは当直の素人だよ」ハンドルが左右反対の軍用車に一瞬戸惑いながら運転手が開けた後席に乗ると助手席に座った中佐が活弁に事情を説明し始めた。昇任を諦めた中佐にとって佳織は外国軍の将官ではあっても旧友に過ぎないらしい。それは私服の佳織にとっても歓迎すべき非礼だ。
「試射場長にゼネラルからの依頼を報告すると『会えなくて残念だ。よろしく伝えてくれ』とのことだったよ」中佐に教えられた試射場長は太平洋軍司令部で会ったことがある元潜水艦艦長の海軍大佐で、このミサイル試射場が潜水艦搭載弾道弾(SLBM)の実験場として開設された海軍の施設であることを思い出した。
アメリカ海軍は1962年に各種の核兵器と弾道弾を開発するドミニク作戦の一環として潜水艦がカウアイ島沖の海中からポラリス・ミサイルを発射してイギリス領クリスマス島の上空3500メートルで爆発させた。その時に追跡レーダーなどを設置したのが太平洋ミサイル試射場の始まりだ。現在も軍用艦搭載の弾道弾迎撃ミサイルの改良実験を繰り返していてイージス・アショアもそれに含まれる。
「私としてはこの固定式イージスをワザワザ日本政府が購入する理由が理解できないんだ」護衛艦のCICに相当する戦闘指揮所を案内しながら中佐の活弁は続いた。
「忘れもしない2007年12月17日に護衛艦・こんごうがハワイ沖で標的の弾道ミサイルを大気圏外で迎撃することに成功している。それは世界でも我が海軍に次ぐ快挙だ。どうせ陸軍に配備するならTHAAMにするべきだね」アメリカ陸軍のTHAAMは航空自衛隊が装備しているPAC3が機動性を重視してミサイルが小型で射程が短いのに対して大気圏外での迎撃を目的にしているため弾道ミサイル迎撃用としては有効だ。アメリカ軍も2009年の北朝鮮の実験に際してはこの試射場に配備した。結局、今回の買い物自体、太刀が悪い素人のセールスマン=トランプ大統領の押し売りに素人の客=加倍首相が応じた結果に思えてきた。
  1. 2021/08/28(土) 14:36:15|
  2. 夜の連続小説8
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8月27日・世界初の安楽死基準の定式化・山内事件が発生した。

昭和36(1961)年の明日8月27日に世界で初めて安楽死の違法性阻却事由(刑事責任と問われない事由)の基準を定式化したと言われる裁判となる名古屋市の息子による脳卒中で5年間寝たきりの父親の毒殺事件が発生しました。
野僧が中退した大学は愛知県内にあったため法学の教授たちは条文の説明に名古屋高等裁判所の判例を引用していましたが、ノートが残っているので名古屋高等裁判所昭和37年(う)496号判決と言うところまで判ります。
事件は地区の園芸組合の会長や区長を勤める父親が昭和31(1956)年10月に脳卒中で倒れ、一時的に症状が軽減することはあったものの昭和34(1959)年10月頃に再発してからは全身不随で大小便の処理も家族が行う状態になり、昭和36(196)年7月頃からは食欲が急速に減退して衰弱すると共に上下肢が固まって無理に動かすと激痛を訴えるようになって、さらにシャックリが2から3時間止まらなくなると同年8月20日に主治医が「余命は7日から10日」と宣告したのです。
一方、被告人(山内耕明・当時24歳)は農家の長男として生まれ、昭和32(1957)年3月に地元の高校を卒業してからは病に倒れた父親を介助する母親に代わって1町3段の農地の耕作に励み、地元の青年団長を務めた真面目な人物で、昭和36(1961)年7月初旬頃から病状が重篤になった父親がシャックリの発作で呼吸困難になると息も絶え絶えに「早く死にたい」「殺してくれ」と叫ぶのを聞いて子供として堪えられない気持ちに至り、同年8月10日頃に「病苦から免らせることこそ父親への最後の親孝行」と考え、殺害を決意したのです。その後、被告人は名張毒ぶどう酒事件を参考にして同年8月27日午前5時頃に自宅に配達された牛乳に有機燐殺虫剤=EPNを少量混入し、それを事情を知らない母親が父親に飲まさせて有機燐中毒で死亡させたとあります。
昭和37(1962)年12月22日の判決で名古屋高等裁判所は検察が告訴した尊属殺人(死刑と無期懲役しかなかった)を適用せずに嘱託殺人と認め懲役1年、執行猶予3年と言う殺人事件としては最も短い量刑の判決を下す一方で、世界で初めて安楽死が違法性阻却事由となる基準を示しました。それは「1、不治の病に冒され死期が迫っていること」「2、苦痛が見るに忍びない程度に甚だしいこと」「3、専ら死苦の緩和を目的でなされたこと」「4、病者の意識がなお明瞭であって意思を表明できる場合には本人の真摯な嘱託または承認のあること」「5、原則として医師の手によるべきだが医師により得ないと首肯するに足る特別の事情の認められること」「6、方法が倫理的にも妥当なものとして認容し得るものたること」の6項目で1991年4月13日に神奈川県伊勢原市の東海大学医学部付属病院で発生した安楽死事件の裁判でも判例として採用されました(1998年11月2日の川崎共同病院安楽死事件では共通点が多い東海大学の判例を採用した)。
しかし、世界に先駆けて医療の発達が人間に突きつける生死の矛盾を直視する判例を提起しながら、オランダでは国民的議論により医師による安楽死と自死幇助が法制化されたのに比べて日本では医学界やマスコミが積極的に取り上げることはありません。
  1. 2021/08/27(金) 15:17:40|
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振り向けばイエスタディ2381

年末に防衛大学校と一般(部外)課程の候補生を卒業させた直後に妙なニュースが飛び込んできた。12月19日に弾道弾迎撃ミサイル・イージス・アショアを陸上自衛隊に配備し、山口県と秋田県に基地を設置することが閣議決定されたと言うのだ。卒業式には市ヶ谷で顔見知りの陸上幕僚長が出席して宴席を設けたが話題にならなかったので、加倍内閣としては「大した問題ではない」と考えているのかも知れない。
部内課程の候補生たちを年末年始休暇で帰省させると久留米駐屯地の幹部会と合同で忘年会が催される。道路を隔てて隣接する久留米駐屯地には西部方面混成団の第5陸曹教育隊と第118教育大隊、西部方面特科連隊の第4大隊とその後方支援連隊、第4高射特科大隊とその後方支援連隊の高射直接支援隊などが多数所在するため宴席は賑やかになる。そんな中で今夜の主役は第4高射特科大隊の所属幹部たちになった。
「イージス・アショアですか。それを陸上が保有するんですね」「しかも山口県と秋田県に配備するって言うんだから驚きですな」乾杯が終わる前から宴席はニュースが報じる話題で盛り上がっている。階級序列で席についている幹部たちは自分と同格の高射特科の幹部を探し、専門知識を訊き出そうとしている。第5陸曹教育隊や第118教育大隊の中隊長・区隊長としても入校している陸曹候補生や新隊員に説明しなければならないので質問は真剣だ。
「イージス・アショアと4高特のミサイルじゃあどのくらい性能が違うのかね」専門は普通科でミサイルは素人の区隊長が高射特科大隊の小隊長にかなり間が抜けた質問をした。比較対象が航空自衛隊のPAC3であれば同様の任務で使用されているので適切だが、高射特科大隊の81式短距離地対空誘導弾は航空自衛隊の基地防空隊が保有する短SAMのことで、93式近距離地対空誘導弾は対空機関砲・Lー90の後継火器なので性能以前に問題外だ。
「イージス・アショアの性能についてはまだ資料が届いていないので正確には判りませんが、海上自衛隊のイージス・システムと比較すると射程距離は航空のPAC3の数倍、レーダー追尾の短SAMの10倍程度、近SAMだと15倍くらいだと思います。搭載している炸薬量、これは威力を意味しますが・・・」「難しくてよく判らんが凄いミサイルなのは判った」高射特科の小隊長が具体的な数字で説明をしなかったのは相手が素人だからではなく防衛秘密を保全したのだ。実際のイージス・アショアは地上配備のためミサイルを大型化できるので射程距離は大幅に伸びると言われているが、秘密指定された資料を見ても説明はできない。
「イージス・アショアを運用するとなると空自のレーダーと連携することになるんだろう。空自の指揮を受けるのか」こちらでは中隊長同士が同じ構図の質疑応答を始めていた。
「2009年に航空自衛隊の警戒管制システムが更新された時にミサイル防衛に関しては陸海空で情報を共有することになったから運用側としては装備の追加になるかな」「それでも発射命令は空自が下すんだろう」この中隊長も普通科だが以前、春日基地の西部防空指令所を見学して寒いほど冷房が効いた暗く広い地下室でスリッパを履いてレーダーを注視している隊員たちが演習場で陽に焼け、汗を流している自分たちと同じ職業とは思えず内心嫌悪していた。
「自分も防空演習で春日や入間のDC(防空指令所)で一緒に勤務したことがあるが、彼らは我々のような訓練ではなく実際に飛行している航空機を監視・識別して不審な機体に対処しているんだ。海上も同じだろう。だから誰が命令するかにこだわる必要はない」高射特科の中隊長の反論に普通科の中隊長は乾杯前に自分の前のビールを手酌して飲み干してしまった。
「それでは久留米駐屯地司令の西方混成団長、前川原駐屯地司令の幹侯校校長が到着されたところで久留米・前川原両駐屯地両幹部会の平成29年度、元へ29年の忘年会を開催します」本当は別室で待たされていた西部方面混成団長とモリヤ将補が席に着いたところで今回の司会を命ぜられた幹部候補生学校の総務課長が開式の辞を述べたが、よくある間違いを犯してしまった。やはり正面からモリヤ将補に見詰められると妙に緊張するらしい。
「17普連としてはむつみ演習場が狭くなるのは困るだろうな。ウチの高良台や3師団の餐場野も空自の高射隊があるおかげで随分使い勝手が悪い」乾杯が終わり、互いのグラスに2杯目のビールを注ぎ合ったところで西方混成団長が意外な本音を口にした。むつみ演習場は山口県と島根県の県境にある演習場だが、マスコミの報道では秋田市の新屋演習場と共に今回の配備予定地に名前が挙がっている。
「大体、朝鮮半島からの弾道弾を迎撃するのに本州の両端に配備するのがおかしいんですよ。目標が東京なら能登半島辺りで待ち構えるべきでしょう」これは禁句に近いが西方混成団長も出席した先日の久留米市の要人の忘年会では口にしなかったので本音に応えた本音のようだ。要するに加倍首相の山口県と管(くだ)官房長官の秋田県で引き受けたと言うことだ。
むつみ演習場むつみ演習場
  1. 2021/08/27(金) 15:15:55|
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8月27日・核兵器禁止条約が失敗する前例!不戦条約が調印された。

第1次世界大戦の終戦から10年後の1928年の明日8月27日に人類史上初の世界大戦を経験した厭戦気分で次々に成立させた平和を希求する国際条約が全く意味を為さず、第2次世界大戦を招来した失敗例の典型と言うべき不戦条約が調印されました。
不戦条約は第1次世界大戦の停戦に合意したベルサイユ条約に基づいて制定された国際連盟条約とフランス・ドイツ・ベルギーの国境線を画定し、国境付近に軍事力の空白地帯を設け、相互不可侵などの集団安全保障体制をイギリスとイタリアが保証するロカルノ条約をより拡大・発展させる目的で提案され、パリでの話し合いの結果、イギリス・フランス・ドイツ・イタリア・アイルランド・ベルギー・ポーランド・チェコスロバキア・南アフリカ・カナダ・アメリカ・オーストラリア・ニュージーランド・イギリス領インド・日本の15カ国が署名し、ソ連などの63カ国が批准したのです。
第1次世界大戦までの戦争はプロシアのクラウゼヴィッツ少将が「国家意思の強制行為」と定義しているように正義を主張する国家同士が雌雄を決する決闘と考えられていて、例え敗北しても恫喝に屈する臆病な国家より敬意を抱かれていたのですが、第1次世界大戦ではそれまでの騎士同士、軍隊同士の作法に基づく闘いではなく血みどろの殺戮が繰り広げられ、威力が増した兵器によって市街地にも被害が及び多くの文民が死傷する事態になり、「戦争は名誉ある正当行為」と言う概念が覆されることになりました。その一方で国家として独立を守る内向きには責任・外向きには権利を否定することはできず、「自衛権のための武力行使はこの条約が禁じる戦争ではない」と言う我々も聞き憶えがある論理も持ち込まざるを得なくなりました。
こうして制定された不戦条約は平和を希求する理想は高くても国際社会の実態は戦勝国は第1次世界大戦の戦費回収のため植民地を搾取して現地人の武装蜂起の火種を抱え、巨額の賠償金を負った敗戦国・ドイツではベルサイユ体制からの離脱を主張する政治勢力が台頭していて、さらに北中南アメリカ大陸を自国領としてヨーロッパ諸国の介入を拒否するモンロー主義を再開したアメリカは自分の南中アメリカへの軍事介入は正当化しながらヨーロッパの旧宗主国の軍の派遣は否定したため「侵略」を定義することができず、その結果戦争を起こした国家が自衛目的を主張すれば違反と認定することができなくなりました。さらに発生した戦争を解決する手段としての武力行使を否定して調停しか認めず、違反した国家への懲罰を経済制裁に限定したことで成立後にはかえって宣戦布告をしない非正規戦争の武力紛争や他国への軍事介入が頻発し、実効性が欠落した題目に成り下がって第2次世界大戦を発生させました。
この問題点は日本のマスコミが持て囃している核兵器禁止条約にも当てはまり、国際連合安全保障会議の常任理事国になる要件を核兵器による懲罰能力を保有する軍事大国としながら、その懲罰能力が機能せずに次々に核保有国が増加して、ソ連の崩壊によって核兵器が国家以外にも拡散した現状は条約=紙切れでは抑止できません。核兵器禁止条約を制定した市民運動=ICANは不戦条約の教訓は学ばなかったのでしょうか。
  1. 2021/08/26(木) 16:10:39|
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振り向けばイエスタディ2380

幹部候補生学校の教官たちは校長・モリヤ佳織将補の言動に戦々恐々としていた。幹部候補生学校に限らず教育部隊では自分も経験した教育・訓練の繰り返しなので学生を敷いているレールに乗せれば後は尻を叩いて走らせれば良く、問題意識を持つことは自分で余計な仕事を増やすだけなのだ。ところがモリヤ将補は海外勤務が長く陸上自衛隊の常識と言うレールを認めていない上、むしろ最先端の軍事常識を習得しているため迂闊に反論もできない。
「候補生たちを課程の途中で部隊実習に出している意味を考えなさい」今回は副校長と学校本部の各課長、学生隊長に教育部長の主要幹部の会合だった。議題は全国の普通科連隊から戻ってきた防衛大学校と一般(部外)課程の候補生たちの卒業に向けての確認だった。
「つまり部隊実習中に座学の内容を忘れていることに配慮した試験問題にしろと言うことですね」「確かに平成26年度に部隊実習が割り込むようになって学科の成績が急落しているからな」教育部長と学生隊長の常識的な理解にモリヤ将補は難しい顔をして首を振った。
「学科試験は候補生としての知的水準をクリアしていることを確認するために必要なレベルを維持しなければなりません。私が言いたいのは部隊実習の期間がここでの課程の延長になっているのに組織があえて導入した意味です。おそらく候補生たちは教育部の防衛学や学生隊の指導で想い描いていた防衛組織としての姿と安全管理や過去からのローカル・ルール、何よりも手駒の隊員の能力で手枷足枷を掛けられている部隊の演習や訓練のギャップに困惑しているはずです。そのギャップを理想と現実、建前と本音と割り切らせてしまうと我々の教育が無駄になってしまう。何よりも組織としても発展性を失ってしまうわ」「要するに部隊の現実とは別に理想は理想として探求する姿勢を維持することが幹部の勤めだと理解させる方向で指導しろと言うことですね」卒なくまとめた副校長の補足説明にモリヤ将補もうなずいた。この理想と現実、建前と本音のギャップの問題は結婚以来のパジャマ・ミーティングで常に夫が持ち出す議題だったのでモリヤ将補としては「多くの幹部たちが組織に飼い慣らされて単なる業務管理者になっていくのを阻止したい」と言う切実な念願でもあった。
「学科試験の他には持久走大会と武道大会、締め括りに100キロ行軍になりますが、閣下は出場されませんか」話題を換えた学生隊長の冷やかしをモリヤ将補は受けて立った。
「徒手格闘の大会があれば出場したいわね。私も日拳の黒帯だから簡単には負けないわ」確かに人事記録の武道段位の欄には幹部候補生学校で取得した剣道初段ではなく日本拳法初段とだけ書いてある。しかし、モリヤ将補が日本拳法に励んだのは夫と一緒に名古屋市内の道場に通っていた間だけで、その後は思い出した時に美容のために腰をひねる単独動作をするだけだ。つまり冷やかしにハッタリで応じたようだ。
「毎日、持久走に励んでおられるからそちらかと思いましたが」「あれは健康と美容のためのジョギングだから学生には敵わないわ。私が候補生の時には夫と喋りながら走るジョギング・デートが楽しみだったからあまり得意じゃあないのよ」「ご主人と言うとモリヤ2佐ですね。ここの同期でしたか」最近はモリヤ将補の夫が陸上自衛隊で唯一の実戦経験者として知る者ぞ知るモリヤ・ニンジン2佐であることも広まってきたが高級幹部の個人情報については取り扱いが厳しく、新聞やテレビで報じられた経歴以外はタブーになっている。
「それでは100キロ行軍は」「100キロ行軍か・・・」「こちらにもご主人との思い出があるんですね」学生隊長の確認に何故か頬を赤らめて視線を宙に漂わせたモリヤ将補を見て、副校長が呆れたように指摘した。これが並みのWACの高級幹部なら「所詮は女」と揶揄されるところだが、出席者たちはモリヤ将補のずば抜けた能力と海外での経験は十分過ぎるほど思い知らされているので「可愛い女=人間的魅力」として受け止めた。
その頃、部隊実習の間に校長が交代し、戻ってきた大学卒の候補生たちと部内課程に入校してきた候補生たちはモリヤ将補を見て感心していた。特に訓練の視察に赴くと姿を見つけた候補生たちから歓声が上がり本人も困っている。
「今度の校長、好い女だよな」「うん、顔だけじゃあなくてスタイルも抜群だよ」「美熟女って奴だ」モリヤ将補は相変らず自分の生活習慣を変えることなく夕方には学生に交じって外周走路を走り、本部庁舎の玄関前で夫直伝の念入りなストレッチに励んでいるからスタイルも見られているらしい。夏場の薄着でなくて良かった。
「単身赴任らしいぞ」「危ねェなァ、亭主は何者なんだ。モリヤ陸将なんて知らないぞ」かつて防衛大学校1期生で第8師団長・北部方面総監を勤めたモリヤ安弘陸将(森野安弘陸将)がいたが、防衛大学校出身の幕僚長が14人目(当時=15人目の後、現在は東京大学卒)ともなると後輩でも知らない者が出ても不思議はない。
ん・森野佳織イメージ画像
  1. 2021/08/26(木) 16:09:36|
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振り向けばイエスタディ2379

「雑談ばかりね。給料がどうした、女房がどうした、他に好い仕事がないか・・・」杉本が内蔵の録音装置に収録されている1週間分の音声を保存用にダビングし、常に入っている「ゴー」と言う燃焼音や焼却炉を開閉する機械音を除去すると作業員たちの会話が明解になった。それをさらに会話の部分だけに編集して本間に聞かせると同時通訳のように日本語で説明しながら内容を中国語で記述した。
「今回の出張は事前情報なしの飛び込みだから当たり外れは時の運だな」「スリルはあったが、殺されてもその場で火葬されるから後腐れはなかったよ」本間の解説が日常的な雑談の域を出ないので興味を持って聞いていた岡倉と松本は新聞で自分が担当する地域の記事を探し始め、松山1佐と杉本は自嘲するように軽口を叩き合った。
「今度は猥談よ。この間、抱いた女は柳腰で腰骨に手をかけて後背位で抱くと背中の線が絶妙だったって。こっちは豚女だったから騎乗位では重かった。でも巨乳で潰されたのは気持ち好かった・・・ですって」「多分、夜勤の連中だな。昔の職場の演習でも陸士が眠くなると陸曹が下ネタで目を覚まさせていたもんな」杉本は「昔の職場」と建前上は関係を断絶している「自衛隊」と言う名称を避けたが、内容を聞けば一耳瞭然だ。
「そう言えば春歌を教える奴もいたぞ。俺まで憶えてしまった。1つ出たホイのよさホイのホイ、1人娘とする時にゃ、親の承諾得にゃならぬ、ホイホイ」「2つ出たホイのよさホイのホイ、2人娘とする時にゃ、姉の方からせにゃならぬ、ホイホイ」「3つ出たホイのよさホイのホイ、醜い女とする時にゃ、ハンカチかぶしてせにゃならぬ、ホイホイ」やはり「昔の職場」の話題になると全員が興味を持ち、妙な春歌の唄い継ぎが始まってしまった。
「4つ出たホイのよさほいのホイ、好くない女とする時にゃ、他を想ってせにゃならぬ、ホイホイ」「それは違うぞ。横町の女とする時にゃ、ドブをまたいでせにゃならぬ、だろう」「それも違うぞ。よその2階でする時にゃ、音がせぬよに、だぞ」岡倉、松本、杉本で口論になったが春歌にはレコードや公式歌詞カードは存在せず、宴席での年長者から若年者への口伝えなので歌詞が変わっても不思議はない。それにしてもこれがセクシャル・ハラスメントを女性が嫌悪感を抱く言動や態度に変質させている日本の職場であれば本間と裕美2曹に告発されてしまうが、発祥国のアメリカでは地位を利用して性的関係を強要することなので裕美2曹も懐かしそうに笑っている。一方、本間は「聴取の邪魔になる」と注意した。
そう言う本間も愛知大学時代のコンパでは先輩の歌手・つぼイノリオの放送禁止のレコード「金太の大冒険」「極めつき・お万の方」「吉田松陰物語」を合唱させられていたので春歌は好きな方だ。お気に入りは「本願寺ブルース」だがネタは葬式佛教への揶揄なのでエロではない。杉本の意外な一面を知り、秘蔵のつぼイノリオのCDを家で公開することに決めた。
「これは・・・」数日が経過し、音声の解読が後半に入り、松山1佐と杉本が言っていた「当たり外れ」が「外れだった」と諦め始めた頃、本間が大きな声を上げて再生を一時停止した。
「このゴミは病毒研究所からだな、また病毒疾病工程だろう・・・病毒研究所は武昌区にある3つの細菌研究所の1つです」「そうか当たりだな」本間の説明に松山1佐がうなずくと杉本は立ち上がって本間の背後から内容を記述している用紙の手元を覗き込んだ。
「今回はコウモリか、見たことないぞ、これは南方の野生種じゃあないか、埃博垃病毒の時もコウモリだったが、あれはアフリカ産だそうだ」本間が作業員たちの言葉の内容を1つ1つ確実に翻訳していくと事務所の空気が張り詰めたように重くなった。
「そう言えば非典肺炎の時はハクビシンにタヌキだったぞ、中東呼吸徴の時は大きな一瘤ラクダで運ぶのが大変だったな・・・非典肺炎はSARS、中東呼吸徴はMERS、さっきの埃博垃病毒はエボラ出血熱のことよ」本間の単語の説明に重くなっていた事務所の空気が凍りついた。これらの感染症は動物が媒介していることは世界保健機関(WHO)も公式発表しているが、それが人間に感染した経緯は解明されていない。その媒介生物とされる動物を中国が集めているとすれば目的は1つしかない。幾ら7月まで香港人女性が世界保健機関の事務局長だったとしても伝染病の予防のために巨額の研究費を投じるほど中国は模範的大国ではない。
「そう言えばSARSとMERSは武漢市近郊が発生源だったな。MERSが突然、中東に飛び火して大流行したのは不自然だが、当時の事務局長(=香港人女性)は理由を説明しなかった」「砂漠地帯で使用する細菌兵器の実験だとすれば答えは明快だ」「エボラはジャングル地帯ですか」ここで岡倉と杉本と松本の3人が問題の本質を語り合い始めた。
「ところで俺たちは死んだ動物を触るのに普通の作業服で良いのか・・・と作業員が言い合っています」本間の解説で熱くなりかけた事務室の空気は重く冷たく、そして暗くなった。
  1. 2021/08/25(水) 15:21:41|
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アクション俳優の草分け・千葉真一さんの逝去を悼む。

8月19日に「手足が短く醤油顔の日本人には時代劇の殺陣(たて)しかできない」と言われていた中、超人的身体能力を駆使したアクションで世界に通用する演劇分野に発展させた千葉真一さんが共産党中国の細菌兵器で亡くなったそうです。82歳でした。
千葉さんのアクション、特に空手の技は出世作「キー・ハンター」の主題歌が流れている間の映像でも天上の鉄パイプに飛びついて回転し、敵の頭を飛び回し蹴りでなぎ倒す場面が頭に刷り込まれ、自分も少林寺拳法で組み演武を始めると「凄い」と感嘆するしかありませんでした。
少林寺拳法では千葉さん主演の映画「少林寺拳法」での突き蹴りの動作が重いため「所詮は役者、実際のアクションは本職にやらせている。2段は名誉段位」と揶揄していましたが、千葉さんは俳優になる以前の学生時代から創設間もない極真空手の道場に通って正式な検定を受けた黒帯で最終的には4段でした。さらにアメリカの格闘家の挑戦を受けてハワイで行われた直接打撃式の試合にも極真会館代表の大石代悟9段、芦原ケンカ空手の一番弟子(劇画「空手バカ一代」に登場する二宮のモデルは2人存在する)の二宮城光さん、大道塾塾長の東孝9段、極真会館の中村誠11段(誤記ではなく11)と共に出場して身長180センチ以上ある(千葉さんは176センチ)アフリカ系の相手に後ろ回し蹴りや前方回転しての踵落とし、2段蹴りなどを炸裂させて2回ノックアウトで勝利しています。このような実力は日本人よりも目が肥えた外国人に高く評価されてブルース・リーさんから共演の依頼を受け(本人の急死で実現しなかった)、サニー・チバの芸名でハイウッドで格闘シーンの演技指導をするなど日本では知られていない活躍を繰り広げていました。
千葉さんは昭和14(1939)年に武田鉄矢さんと同じ福岡県博多区雑餉隈(ざっしょのくま)で太刀洗飛行場の陸軍軍人の第2子の長男として生まれました(5人姉兄弟妹)。4歳で千葉県君津市に転居して敗戦を迎えると木更津市で成長し、中学生の頃に器械体操を始めると昭和27(1952)年のヘルシンキ大会で復帰を果たした「オリンピックで金メダルを取る」と言う大志を掲げ、高校3年生で全国制覇を達成して日本体育大学に進学しました。ところが2年生の時に跳馬の着地で腰と両膝を痛め、退学を余儀なくされたところで東映のニューフェイス募集のポスターを目にして応募すると見事に合格して俳優に転身したのです。
俳優としては「スタントマンなしで演じられる」「驚異的な身体能力を持つ」と評判になる一方で共演した高倉健さんから「アクション・スターはアクションだけと思われがちだから演技も磨いた方が良い」との助言を受け、「仁義なき戦いシリーズ」の汚れ役や戦争映画などにも出演して演技の幅を広げ、そして昭和43(1968)年に始まった「キー・ハンター」でアクション・スターとして不動の地位を固めたのです。
その後、「柳生一族の陰謀」や「魔界転生」などの時代劇にも出演して剣での殺陣(たて)にも挑戦しますが、千葉さん自身は「突いた拳を引く空手の癖が抜けないので斬った剣を引いてしまう」と意外な苦労を語っていました。心から冥福を祈ります。押忍(合掌では少林寺拳法になってしまいます)
  1. 2021/08/24(火) 14:27:22|
  2. 追悼・告別・永訣文
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振り向けばイエスタディ2378

武漢市内は古代から揚子江沿いの陸路・水運の中継地だったため考古学的に実在が確認されている最古の国家・殷代の城跡から見たくもないどころかこの機会に破壊したい抗日戦争の記念館まで史跡が多く、おまけに文化大革命で破壊された建造物を再建した模造品の文化財まで中国共産党推薦の観光名所になっている。2人は本物の史跡は興味を持って真面目に見学したが模造品の観光名所は時間潰しに粗探しに励んだ。
「ここは嫌なんだよね」「仕方ないでしょう。帰りの飛行機が明日なんだから。中国人のフリして唾を吐きまくれば良いのよ」今日は風景が売り物の東湖と湖畔にある桜花園と梅花園巡りに来たが、新潟県人でも日中国交回復を外交上の大失策と見ている杉本は田中角栄首相を嫌悪していて、それを記念して造られたこの公園だけは我慢ならなかった。
「大体、中国人は梅と牡丹が好きなんだろう。桜の花見なんかするのかな」「確かに武漢の市花は梅だから次に行く梅花園の方が大きいみたい。どっちにしても春じゃあなければ花は咲いてないわね」本間にとって日中国交回復は中央道を日本に留学させた契機でもあるため必ずしも否定的に見ていないが、第2次天安門事件から抱いている中国共産党への疑問・憎悪・敵意は現在の中国を知るに従って増幅・激化している。
「何なんだこの場違いな五重塔や鳥居は」「精密な模造品じゃあないわね」小高い丘に作られている桜花園に入ると頂上に建っている五重塔と通路に立っている鳥居が見えた。その五重塔は遠目に見ても日本の実物を復元したのではなく中国人が作った模造品であることが明らかだ。そもそも五重塔への参道に鳥居の組み合わせは日本の宗教・文化を否定している。
「桜花園と言っても本数はそれ程でもないぞ。多くて一〇〇本と言うところだな」「結局、田中角栄が贈った桜を植えた後、日本の友好協会が贈った桜を追加しただけね」通路を歩いて五重塔に来ると「日本の」と宣伝されることが許せない程の粗悪品で、周囲の桜も若木がまばらにしか植えられていない。それなのに田中角栄が贈った1本の横には不似合いに立派な記念碑が建っている。つまりこの公園自体が田中角栄と日中国交回復の記念公園であり、中国共産党が一押しの観光名所にしているのはアメリカで日中友好を喧伝し、日系アメリカ人に親中意識を抱かせるための政治工作なのではないか。
「やっとアメリカ合衆国に戻れた。こんなに疲れた旅行は初めてよ」「確かに機内でも一瞬も気を抜けなかったからな」2人はサンフランシスコ空港でニューヨーク行きのアメリカの航空会社の便に乗り換えるための搭乗手続きを終えると揃って大きな溜息をつき日本語で語り合った。その前に周囲を確認したのは言うまでもない。
「本来は領空を離れればその国の逮捕権や捜査権は及ばなくなるんだが、中華南方航空じゃあ機長の権限で中国国内と同じ目に遭うのは確実だからお前と話もできなかった」「ううん、手を握ってたから気持ちは通じたよ」杉本の嘆きに本間は身体を寄せて反論した。
昨日、杉本は観光名所巡りからホテルに帰る途中で再びはぐれたように別行動を取り、焼却炉がある建物内に仕掛けた録音装置を回収するため郊外のゴミ焼却場に向かった。前回は仮に拘束されても単なる不法侵入者であり、「廃棄物から転売可能な品物を探そうとした」などと言い逃れもできるが、今回は専門業者用録音機が発見されていれば海外の諜報要員であることが発覚しており、当然、生きては帰ることができずそのままゴミ焼却場で火葬されることになる。そのため無事に回収してホテルのロビーで待っていた本間と部屋に戻るとそのままベッドに押し倒して熱烈に愛した。本間の反論は身体にその余韻を保っているのだろう。
「ニューヨークまでのフライトは5時間だけど東海岸と西海岸の時差は3時間だから到着すると深夜ね」ユナイテッド航空機がサンフランシスコ空港を離陸すると本間は元輸送幹部らしい解説を始めた。今回は早めの夕食を取って搭乗したから5時間後でも消灯ラッパ=午後10時にはならない。ところが3時間の時差を加えると日付が変わってしまう。外で夜食を取ってから帰宅して寝ればナポレオン・ボナパルト並みの睡眠時間=3時間にしかならない。
「明日から先ずコイツの音声を保存用にダビングして、ダビングした方の雑音を除去する作業にかかる。それが終わってからお前に聞かせて会話の内容を解読すると言う手順だ。報告は俺がするからお前は寝不足を解消するために明日は休ませてもらえ」「だってェ・・・ありがとう」杉本の指示に本間は拗ねたように言い返したが、握っている手に少し力を入れて眠りについた。杉本は本間が立て始めた寝息を聞くと左手でジャケットの胸の内ポケットに収めている小型録音機を押さえた。アメリカ国務省から入手したこの録音機は超高感度であるにも関わらず空港の手荷物検査で「キー・ホルダー」と申告できる大きさと形状に作られており、発見されても専門家でなければ単なる落とし物として処理したはずだ。
  1. 2021/08/24(火) 14:26:05|
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上方落語の大名人・笑福亭仁鶴師匠の逝去を悼む。

8月17日に現代上方落語の大名人・笑福亭仁鶴師匠が血液の病の骨髄異形成症候群で亡くなったそうです。84歳でした。
野僧は中学・高校時代からテレビの「笑点」を欠かさず見る落語好きだったので大学に入ると落語研究会(いわゆるオチケン)の連中と親しくなり、慰問や学園祭、研究発表会=学生寄席で掛ける噺の相談を受けるようになりました。そんな落研の友人から「聴いてみろ」と仁鶴師匠の「時うどん」と「長屋怪談」のカセット・テープを渡されたのです。野僧は江戸落語の前座噺「時そば」は知っていたのであまり興味は持たずに聴いたのですが、江戸弁では単なる相槌になる台詞が関西弁では独特の可笑しさがあり、「長屋怪談」は江戸落語の三遊亭円朝師匠の怪談噺とは全く趣を異にする滑稽噺で熱烈なファンになってしまい、奈良基地の幹部候補生学校に入校すると大阪のなんばグランド花月で毎月開かれる寄席を聞きに通いました。
ところが関西圏以外では東京の偏狭な道徳観に毒されているため仁鶴師匠に限らず上方落語の師匠たちがテレビ番組にも出演して人気を獲得していることを白眼視する人間が多く、また上方落語は庶民の娯楽芸能として客を受けることを至上命題にしているのに対して江戸落語は伝統演芸を標榜して型にはまったまま発展を停止していることも格式として勝手な上下を付けているのです。このため仁鶴師匠の名人芸が関西圏以外で知られる機会は極めて少なく、32年間続いたNHKの「バラエティー生活笑百科」の「四角い仁鶴がまァーるくおさめまっせ」の名台詞で名前と顔が売れていました(古いところではラジオ番組「ヤングおー!おー!」の語り口も。必ず登場する掃除の小母さんは実在しない)。
そんな仁鶴師匠の噺家人生も上方落語ならではで門閥や師弟関係の枠の中でしか存在できない江戸落語では「危険な才能」として組織によって抹殺されてしまったでしょう。
仁鶴師匠は昭和12(1937)年に大阪の生野の鉄工所の経営者の息子として生まれました。このため高座の出囃子に「だんじり」を使うこともありました。定時制高校に通っていた頃、骨董屋で買った桂春団治のレコードを聞いたことで落語に興味を持ち、レコードと高座本による独学で噺を憶え、素人の演芸会に出演して芸を磨き、その仲間だった桂枝雀師匠が桂米朝師匠に弟子入りしたのを機に昭和37(1962)年に素人演芸会の審査員だった笑福亭松鶴師匠に入門し、翌年から吉本興業にも入社しました。実は笑福亭一門は松竹芸能の所属なのですが、落語と漫才、奇術に浪花節などを同格の演芸として寄席を組み立てる上方で目ぼしい噺家がいなかった吉本興業が素人時代から注目していた仁鶴師匠の移籍を松鶴師匠に懇願して実現したのです。
その後、仁鶴師匠は基礎から落語を修業し直してレコードで憶えた桂春団治風の早口に畳みかける芸風に落ちついた話芸の味を加え、上方落語の第1人者に成長していきました。
吉本興業としても定員900人のなんばグランド花月に8500人が詰めかける仁鶴師匠の集客力に敬意と感謝を込めて所属タレントの最高額の報酬を生涯保証していました。心から冥福を祈るのと同時に残った名人・桂ざこば師匠の長命を祈願します。合掌
  1. 2021/08/23(月) 15:35:15|
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振り向けばイエスタディ2377

武漢市内を歩いている間にはぐれた演出で杉本は郊外にあるゴミ焼却場に向かった。残された本間はにあらかじめ決めて置いた順路を歩き、仕事が終われば終点から逆行してくる杉本と再会するのを待った。勿論、監視カメラに映っていることを前提に杉本を探すような態度も演じなければならないが、それ以上に杉本が戻ってこないことへの不安が雑踏の中を見回す視線や表情に演技以上の迫力を与えていた。
「彼女、可愛いね。俺とつき合わない」武漢市でも漢口地区のアメリカ軍の空襲で焼失した外国租界の跡地に建てられた繁華街を巡る順路も後半に入り、胸に不安が充満してきた本間が百貨店のロビーのテレビの前で画面を注視していると突然、背後から抱きつかれて耳元で声をかけられた。それは間違いなく杉本だった。
「駄目よ。私は彼氏を待っているの。貴方の相手はできないわ」本間は首筋に回された腕を両手で押さえると声を震わせて英語で拒絶した。するといきなり耳たぶを噛まれた。
周囲の中国人たちはアメリカ軍の迷彩服を着た女性が同じアジア人の男性に抱きつかれた光景に遠巻きにして何かを言い合っているが、ヨーロッパ系の男性は口笛を吹き、隣りに立っている女性の肩を抱き寄せた。この反応であれば監視カメラを見ている中国人も2人が容姿はアジア人でも欧米の人間であることを確信したはずだ。
「どこへ行っていたの。探したのよ」「お前こそどこではぐれたんだ。俺は見たいところがあるって言っておいただろう」盗聴機で聞かれていることを想定して英語で口論も始めた。市内全域に設置してある監視カメラを何人の係員で確認しているか判らないが、これだけの群衆から不審者を個別に抽出し、追跡することは不可能だ。それでも欧米や日本の常識を打ち破る驚異の施策を実行するのが中国共産党なので念には念を入れた方が良い。
実際、中国では10億人を超える人民に海外から届く膨大な郵便物を例外なく開封して中身を確認している。そして中国共産党が人民に隠蔽している第2次天安門事件やチベット大虐殺、劉暁波教授のノーベル平和賞受賞、新疆ウィグル地区での民族抹殺などに関する書簡や新聞記事を発見すれば没収する。それは小包で送った割れ物の緩衝材に使用しても同様だ(中国の新聞に交換されていた=体験談)。さらにインターネットの投稿や海外へのメールも完全に監視下に置かれ、中国共産党が公式発表していない内部情報を書き込んでいるサイトへは手段不明の妨害を加えている(体験談)。中国共産党はその専門要員を人民解放軍に徴兵することで確保しているので、欧米や日本のように人件費の制約は受けない。
「それで仕事は終わったの」「うん、アメリカへ帰る前に回収に行く」百貨店を出てホテルに向かって歩きながら2人は英語で手短に会話した。流石に歩行者天国になっている道路に盗聴機は設置していないようでスマートホン型探知機も電波を感知しないが、有線で送信している可能性も否定できない。実は杉本もゴミ焼却場の作業員の会話を聴取するため焼却炉がある建物内に超高感度の小型録音機を設置してきた。本来は盗聴機にして本間に傍受させれば現場で情報収集できるのだが、逆に中国当局に盗聴器の電波を探知されることを警戒したのだ。中国が常に戦時体制下にある国家であることを2人は深く認識している。
「この部屋にも監視カメラが設置してあるな。バス・トイレにもだ」夕食を外で取り、予約していたホテルにチャックインすると2人は部屋の中も確認した。やはり当然のように監視カメラと盗聴器が確認できた。ただし、アメリカの旅行社が手配したホテルだけに監視カメラは素人には発見が難しい天井の角で、盗聴器も外見ではマイクの位置を確認できなかった。ここで本格的に捜索を始めると監視カメラの担当者が「プロの仕事だ」と察知して通報を受けた警察の尾行を受けることになりかねない。
「覗かれていても子作りに励むのか」監視カメラの位置と盗聴器の電波の存在を確認して杉本はカバンから2人の下着を出してシャワーを浴びる準備を始めている本間に声をかけた。相手は仕事とは言え誰とも知れぬ人間に見られ、聞かれていることが判っていて性行為を始めることには少なからず抵抗がある。
「監視係に見せてやれば興奮して何か反応するかも知れないじゃない」「俺はAV俳優じゃあないぞ・・・」本間の大胆過ぎる答えに流石の杉本も呆れてしまった。しかし、これは本間の発案ではなく香港の盧暁春が自分のマンションに盗聴器と監視カメラが設置されていることに抗議するための当局の監視員への嫌がらせだった。盧暁春は仕事で知り合ったヨーロッパ系の男たちをマンションに招き、監視カメラの視界の中央で抱かれていた。盧暁春の美貌なら監視係も興奮したはずだが本間では効果は薄い。その分、インターネットに盗撮AVとして流出する可能性も低いが、あれはネット大国・韓国からの投稿が中心らしい。
盧暁春8イメージ画像・盧暁春
  1. 2021/08/23(月) 15:34:11|
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漫画家・みなもと太郎先生の逝去を悼む。

野僧が高校時代=昭和54(1979)年から愛読している超長編歴史漫画「風雲児たち」とその続編の「風雲児たち・幕末編」の作者・みなもと太郎先生が8月9日に心不全で亡くなっていたことが明らかになりました。まだ若い74歳でした。
みなもと先生の「風雲児たち」の面白さは「膨大な資料から絞り出した雫を作品した」と賞される司馬遼太郎先生でさえ読者=出版社を納得させるために主人公を正当化・美化して敵対する者は仇・悪役にせざるを得なかったのに対して短所・欠点もそのまま本人の個性として紹介し、その強烈な個性で巻き起こす失敗を苦笑につなげる絶妙な展開と緊迫した場面で登場人物が上方漫才風のボケをかまして失笑を誘うユーモア・センス、何よりも歴史の教科書などに載っている肖像画の特徴を誇張して極めて魅力的な風貌にする卓越した画力です(1、2巻の戦国時代は小早川秀秋くんの馬鹿面以外はそれほどでもない)。ちなみに村田蔵六さんの出身地の鋳銭司の郷土史研究会に「風雲児たち・幕末編」の登場している場面をコピーして送ったところ陶製の人形にしてくれました。
みなもと先生は自分の作品を明治以降の学校教育で教えられている薩長土肥は絶対正義の先進的文明藩、徳川幕府と奥羽越列藩同盟は天皇に背いた賊徒で欧米の脅迫に屈服した過去の遺物と言う一方的な歴史観を離れて「庶民の目線」で巨大な時代の潮流の中で人々が何を考えて何を為したのかを描きたいと語っていました。実際、賄賂政治と誹謗の限りを尽くされてきた田沼意次さまを柔軟な発想で幕府の赤字財政を立て直し、アイヌを救済しようとした名宰相として再評価される切っ掛けを作り、杉田玄白さんの影に埋もれていた前野良沢さんや薩長土肥の歴史観では存在を葬られていた幕府の外交交渉の立役者・岩瀬忠震さんの業績を世に知らしめたのも「風雲児たち」シリーズでした。
みなもと先生は昭和22(1947)年に京都市で生まれました。本名は「浦源太郎」でペンネームは苗字を外して名前の最初の漢字を訓読にしています。2歳の頃から絵を描き始め、中学の3年間は漫画を描いて過ごして京都市立の高校の美術科に進学しましたが、大学の美術科は漫画を見下していたため進学は考えず、当時の漫画家は20歳までにデビューするのが常識だったので上京して出版社や漫画家宅でデニューの方法を尋ね歩き、20歳と半年で昭和42(1967)年に少女漫画雑誌の「りぼん」の別冊に作品が掲載されて常識内でデビューを果たしたのです。
「風雲児たち・幕末編」は昨年から肺癌の闘病に入ったため休載していて未完になりましたが、みなもと先生の歴史観では「尊皇攘夷」を表看板にしながら欧米の武器を使って倒幕し、政権を握っても尊皇攘夷の狂気のまま外国を全て敵と見て戦争を繰り返した明治以降の日本は司馬先生が「描けない」「書いたらワシは死ぬ」と語っていた昭和の軍国主義への伏線・助走に過ぎなかったのでしょう。作品が読めず本当に残念です。
ちなみにみなもと先生は一時期、創価学会の会員であることを公表して子供向けに教義を漫画にしていましたが、作品化するための研究で創価学会だけでなく日蓮宗の教義の矛盾を痛感して脱会しています。したがって心から冥福を祈りますが題目は唱えません。合掌
みなもと太郎自画像みなもと太郎先生自画像
  1. 2021/08/22(日) 15:14:38|
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振り向けばイエスタディ2376

「監視カメラがない場所がないな」「盗聴機の電波も感知しない場所がないわ」団体ツアーではない2人は武漢天河国際空港から都市間鉄道で武漢駅に着いたがプロの目で見ると駅の構内の高所には漏れなく監視カメラが設置されている。各カメラの受像範囲を考えると人間が歩ける場所は全て視界に入っているようだ。本間が盗聴機の発信電波を認識するスマートホン型感知器の電源を入れると即座に反応した。
「これは別に俺たちを監視している訳じゃあないだろう。外国人に開放しているから厳重に警戒しているんだ。その点、お前は迷彩服を着ているからかえって安全かも知れないな」「それは甘いわよ。中国共産党にとって外国は全て滅ぼすべき敵であって、人民は外国と戦うための道具に過ぎないから敵が堂々と乗り込んできたって殺す準備を始めるだけよ」本間のこの冷め切った見解は身も心も捧げていた中央道が第2次天安門事件で消息を絶ち、母親から死を示唆する手紙を受け取ったことで愛知大学で植えつけられていた中国共産党を敬愛する気持ちが疑念に換わり、現在の職務の同志=親友と思っていた台湾国軍の王中校(=中佐)が香港に潜入していた工作員・盧暁春(ルー・シァォチュン)=本名・鄭祖賢(デン・ウェンリー)が闇に葬られたことで確信になった。中央道は父親が文化大革命の犠牲者であっても祖国愛は失わず、むしろ民主化することで多様な価値観を発現させ、それを共産党が統制して発展させる日本的社会体制を目指すようになっていた。あの時、中央道が天安門広場に向かう前に投函した手紙には「集っている学生たちも熱烈な愛国者たちだ」と書いてあった。盧暁春については大陸から流入した国民党員の迫害で両親を殺された孤児を養女にしたことを告白した王中校に追跡調査の結果を聞かされたが、それが本間が抱いていた確信を憎悪にした。
「プライバシーって概念を持ち合せてない国家だからトイレにも監視カメラと盗聴機が設置してあるぞ」「それは女子トイレも同じよ」「要するに陰口や独り言も聴き逃さない。中国共産党を批判する者は根こそぎ逮捕するって見せつけているんだな」手荷物を駅のコイン・ロッカーに入れ、市内を散策する前に公衆トイレに入った杉本は感心したように嘆いた。
「外国人が抗議しても『そんなものは設置してない』って言い逃れするだけで、下手に喰い下がって『中国の国情に不満なら退去せよ』と開き直られれば我慢するしかないよね」「俺としては仕事をする服装に着替えたいんだが、公衆トイレが駄目となると困ったな」杉本はニューヨークで武漢市内の日常を紹介する市民のインターネットへの投降映像を注視していたが、目的は背景に映る街中でゴミを収集している清掃作業員だった。勿論、市民生活を紹介する映像で目立つようにゴミの収集を映すはずはなく商店街の遠景ばかりだったが、杉本は卓越した画像処理で拡大して着ている作業服を特定して、ニューヨーク市内の労働者向けの専門店で類似した作業服を購入していた。今回はそれを着て武漢市のゴミ焼却場へ潜入するのだ。
「マックやケンタッキー、後は外資系コンビニのトイレを確認しよう。いくら中国共産党でも外資系のチェーン店にまでは強要できないだろう。やったらマスコミが叩く口実になる」「それも甘いわよ。建物はアメリカの規格通りに作っても共産党の指示を受けた業者が設置すればそれまでじゃない。業者が疑われれば店員にやらせれば済む話よ」「凄げえ国だな」杉本も本間の反論に納得はしたが、着替える場所が見つからなければ困るので、昼食としてアメリカの外食チェーン店を回ることにした。本来は現地の料理を味わうのも旅行の醍醐味だが、アメリカ人の中には地球の果てにもアメリカの外食チェーン店があり、ハンバーガーが食べられると信じている者も多いから違和感はない。その点、日本にあるアメリカの外食チェーン店は日本人の嗜好に合わせて生野菜を入れた商品を置いているため来日したアメリカ人には不評だ。
やはりアメリカ資本の外食チェーン店のトイレには監視カメラと盗聴機は設置されていなかったが、その分、店の前には監視カメラがレンズを向けて客を監視していた。そこで杉本はスポーツ・バッグに入れていた清掃会社の作業服に着替え、上に着てきたジャンバーを羽織った。
「声をかけられたら判らなくても『チェシュオァ』って答えるのよ」「何だそれは」「トイレのことよ」席に座って待っていた本間は戻ってきた杉本に簡単な中国語を教え、視線をトイレの入り口の札に向けた。前に座った杉本が振り返るとそこには中国の簡易字体で「厠所」と書いた札が貼ってある。つまり「カワヤのトコロ=便所」と言うことだ。
「確かにそれだけ叫んで小走りに逃げても怪しまれないな」杉本は苦笑しながらうなずいたが、潜入に失敗すれば捕獲され、治安当局に引き渡されて拷問を伴う取り調べを受け、殺害された後はゴミとして焼却場で処理される。つまり2人にとってこれが最期の晩餐ならぬ昼餉になる可能性がある。杉本は平静を装っている本間の目が湿り気を帯び、声が鼻にかかっていることを察したが、そこに注文品を運んできた若い店員に無理な愛想笑いをした。
  1. 2021/08/22(日) 15:12:16|
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8月21日・地方自治体首長の巨人・平松守彦大分県知事の命日

2016年の8月21日は江戸時代には中津・杵築・日出・府内・臼杵・岡・森の8つ小藩と島原・延岡・熊本の飛び地や旗本領、天領に分かれていたため県としてのまとまりに欠ける大分県の特色を逆手にとり、統一規格により生産量を確保するよりも各市町村に独自の特産品を創造させる「1村1品運動」を提唱してそれまでの地方自治に新たな指針を示した平松守彦大分県知事の命日です。92歳でした。
平松知事の大分県知事になってからの業績を見ると地元で生まれ育った郷土愛の権化のように思われますが実際は逆で大正13(1924)年に大分県大分市で生まれ、旧制中学校を卒業するまでは暮らしていても熊本の旧制・第5高等学校に進学し、新制・東京大学法学部を卒業して昭和24(1949)年に通商産業省(前年までは商工省・現在の経済産業省)に入省しています。通商産業省では敗戦後に効率的復興を果たすため政府が各産業を調整して過当競争と過剰生産を抑制し、国内の消費に見合った製品を流通させることで資源も節減する通産省統制派として頭角を現しました。さらに日本にまだコンピューター産業が存在しなかった昭和34(1959)年に重工業局電子工業課補佐に就任すると家電メーカーに進出を促し、税金の優遇と補助金で強力に支援するだけでなく国内企業にアメリカのIBMよりも安価で貸し出して償却された機材も全て引き取る日本電子計算機会社を創設するなど富士通と日立製作所、NECと東芝、三菱電機と沖電気の日本の3大コンピューター・グループの創設に大きく貢献しています。
こうして中央官庁の官僚として実績を積み上げていた昭和50(1975)年に大分県の副知事に就任すると全ての面での東京圏から関西までの太平洋ベルト地帯との格差に愕然として地方自治に身を転ずる決意を固め、昭和54(1979)年に知事に就任すると中央官庁で培った高所からの広い視野と敗戦後の産業の復興で習得した行政手法を発揮して前述の「1村1品運動」などの画期的な施策を次々に推進していきました。
「1村1品運動」は稲作に不向きな山村の大分県日田郡大山町の農協が「梅栗植えてハワイへ行こう」と提唱して梅と栗の生産を進めて収穫を出荷するだけでなく、梅干や梅酒、栗甘露瓶詰などに加工するなどの創意工夫で収益を挙げていることに平松知事が着目して全県に拡大したのです。この他にも別府湾岸の大分市に臨海工業地帯を建設し、大学を誘致するなど6期24年の在任中に中央官僚時代の人脈も最大限に活用して大分県の活性化と魅力発信に尽力し、かつては九州の県を訊かれると福岡、熊本、長崎、鹿児島、宮崎、佐賀、大分と7県の名前は答えられても場所となると大分と佐賀は判らないほど影が薄かった大分県の存在感を大いに高めました。
平松知事は「国がやるべきは通貨、国防、外交のみ。福祉、教育、農業などは地方にやらせておけば良い」「地方でも地域・集落が特色を出して競い合えば良く、知事はトップセールスに励む」が政治信条でした。この金言は市民団体やマスコミと共謀して東京=都市部限定の論理を社会環境が全く違う地方の田舎に強制している現在の中央官庁の官僚を叱り飛ばせる大物の地方自治体の首長がいなくなったことを実感させます。
  1. 2021/08/21(土) 15:05:23|
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振り向けばイエスタディ2375

夏にタイから帰国した時、杉本が松山1佐に申し入れた中国湖北省武漢市への観光名目の調査旅行が年内に実現した。本間は愛知大学のギター部の友人に反戦歌として教えられたさだまさしの「フレディ若しくは三教街」が好きで、自衛隊に入る前から歌の中で描かれている漢口(ハンカオ)を訪れてみたいと念願していた。杉本としても漢口が編入された武漢市には職務上の興味があり、今回の旅行になった。
「今回の名前の発音はどうなるんだ」ニューヨークからサンフランシスコに向かい、そこで乗り換えた中国南方航空の武漢天河国際空港への便の機内で杉本は本間の耳に口をつけると意外なことを確認した。本間は困惑しながら杉本の耳に口をつけて返事をした。
「タイの華僑でも移住者だからアルファベット表記だけど、華僑も先祖が住んでいた出身地で発音が微妙に違うのよね」正確に言えばタイの戸籍はタイ語で表記するがアメリカに移住すればアルファベットになり、その綴りは自己申告だ。だから読みは某関係部署が偽造したパスポートの通りでも発音にはタイ語と中国語の余韻を加えなければ真実味が出ない。
「大体、今度の名前はお前がつけたんだろう。愛知家出身だからって岐阜城がある金華山ってのは安易だろう」「ジン・ファシャンって素敵じゃない。貴方の外国用の名前の金田の金を残したのよ」2人はアメリカ在住のタイ系と中国系の夫婦を演じるため英語で会話しているが、他人に聞かれては拙い話題のため交互に耳に口をつけている。
「それじゃあアメリカ式に巻き舌でズィン・フワンシャンって言うんだな」「かえって中国語を知らない方がタイからの移民ぽくなるから良いわよ」口論になって耳に吹き込まれる息が強くなると本間は妙な気分になり、左手で下腹部を摩ると右手は杉本の左手を握った。
「タイでは駄目だったけど今度こそ子供ができると良いな」「中国でできた子供じゃあ陸一心みたいな大地の子になるぞ」会話に保全の必要がなくなり、本間はそのまま話したが杉本の返事は微妙だ。「大地の子」と「陸一心」が山崎豊子の小説とNHKのドラマの題名と主人公であることを知らない者には単なる人物名と比喩だが、知っていれば日本人を疑われる。おまけに「陸一心」を日本語の音読で「リク・イッシン」と言ったのは拙い。やはり中国語で「ルー・イーシン」と呼ばなければいけなかった。
「大地の子かァ・・・」杉本の言葉に本間は無意識に日本語で呟いてしまった。本間にとって「大地の子」は大学時代に愛し合った少林寺拳法部の先輩の中国人留学生・中央道(ゾン・ヤオドウ)に勧められて強く感激し、自衛隊に入ってから放送されたNHKのドラマは全話を録画して感動的な場面の会話を暗記するほど熟視した。特に中央道の教師の父親も陸一心と同じように文化大革命で反革命の罪を着せられて辺境の学校に転勤したまま忘れ去られて帰っていないことを思い出し、第2次天安門事件で消息を絶った中央道がどのような気持ちで運動に参加し、人民解放軍が放った銃弾に斃れたのかを考えると車両の運行管理と隊員に安全運転だけを指導している輸送幹部としての職務が悔しくも情けなくなった。
「俺はタイで生まれ育ったから武漢どころか中国には詳しくないから今回の旅行については全てお前に任せるよ」本間の日本語の呟きを聞き、杉本が少し声量を上げて判り切っている台詞を口にした。中国有数の工業都市の武漢市は経済開放の象徴として多くの海外企業を誘致しているためサンフランシスコから武漢に向かう便の乗客は中国人の観光客とアメリカ在住の中国系華僑にヨーロッパ系のビジネスマンが混在している。杉本と本間はタイからアメリカに移民した華僑と中国系の陸軍軍人としてパスポートとビザを申請し、航空券を購入しているためアメリカ在住中国人たちの席にされている。周囲から聞こえてくる会話も英語と中国語が入り混じっていて日本語が違和感を持たれる危険性は高い。ましてや相手は今年の6月に国内だけでなく海外に居住し、外国企業や官公庁で働いている中国人にも必要な情報の通報を義務づける「国家情報法」を施行させた中華人民共和国なのだ。全員がスパイと思って間違いない。
「フレディに出てくるロシアやドイツ、フランス、イギリス、日本の租界は1944年12月17日の空襲の焼夷弾で焼けてしまったから残ってないみたい」「中国は連合軍側だったからアメリカとしても外国租界を狙ったはずだが、敵のドイツや日本と味方のイギリスやフランスを識別することはできなかったんだな」「日本陸軍も4式戦や2式戦を配備していたから低空からの精密爆撃はできなくて租界に大量の焼夷弾を降らせたのよ。3日間燃え続けたって記録にあるから日本の都市空襲よりも酷かったのかも知れないわ」本間は今回もアメリカ陸軍の迷彩服を着ているので軍事の話題は自然に映るはずだ。それでも本間は胸の中で「フレディ若しくは三教街」の歌詞の「貴方さえも奪ったのは 燃え上がる紅い炎の中を 飛び交う戦闘機」は日本軍機ではなくアメリカ軍機であることを納得していた。
  1. 2021/08/21(土) 15:03:01|
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8月21日・大流行歌手で正統派声楽家の藤山一郎の命日

1993年の明日8月21日は正統派声楽家の増永丈夫(たけお=本名)としても活躍していた大流行歌手の藤山一郎さんの命日です。82歳でした。
野僧は小坊主時代、明治生まれの師僧が戦前・戦中から戦後間もない頃の流行歌、大正生まれの祖母が戦後の歌謡曲を愛聴していたため昭和の戦後生まれの癖に両親世代の人たちが呆れるほど懐メロに詳く中でも藤山一郎さんと伊藤久男さんが大好きで、昨年の連続ドラマ「エール」では藤山さんが山藤太郎、伊藤さんが佐藤久志として登場していたのですが現在の一流ミュージカル歌手でも歌唱力は格段に落ちることを実感しました。
藤山さんは明治44(1911)年に東京日本橋の裕福なモスリン(毛織物)問屋の5人兄姉弟の3男の末っ子として生まれ、母親が音楽教育に熱心だったため幼い頃からピアノや声楽を習い、大正7(1918)年に慶応幼稚園に入った頃には楽譜が読めるようになったそうです。ちなみに画家で彫刻家の岡本太郎さんは幼稚園の同級生です。
大正13(1924)年に慶応大学普通部(現在の中学校に相当する)に入学すると後に東京音楽学校で助けられることになる音楽の教師からピアノを習う一方でラグビー部に入部して全国優勝を経験しました。普通部3年の時、慶応義塾の応援歌「若き血」が制定されたため全在校生を指導しましたが、上級生にも厳しい態度を取ったため早慶戦が終わった後、報復の苛めに遭ったそうです。
昭和4(1929)年に東京音楽学校の声楽科に進学すると間もなく世界恐慌の影響で家業が多額の借金を抱えたまま倒産し、藤山さんは自分の学費だけでなく家族の生活費も稼がなければならなくなり、東京音楽学校では禁止していた「校外の演奏活動」に該当するレコードの吹き込みを始めました。この時、本名を隠すために名乗ったのが「富士山(ふじやま)=藤山一郎」と言う芸名でした。こうして昭和6(1931)年から昭和7(1932)年にかけて40曲を吹き込むと古賀政男さんが作曲した「酒は涙か溜息か」や「丘を越えて」が大ヒットしたため東京音楽学校に「藤山一郎は福永丈夫だ」と密告する手紙が届き大問題になったのです。この時、流行歌を見下していた学校幹部が退学処分を主張したのに対して慶応大学普通部での恩師や声楽家としての才能を高く評価していたドイツ人や日本人の教授たちが強く擁護し、「レコード収入を全額母親に渡していたこと」を情状酌量して冬休み中の停学1カ月とレコードの吹き込み禁止の処分で決着しました。
こうして昭和8(1933)年に東京音楽学校を卒業するとビクターに入社して本格的に流行歌の歌手として活動を開始し、その後、テイチクとコロンビアへ移り、戦前の「男の純情」「東京ラプソディ」「青い背広で」、戦中の軍国歌謡、戦後の「長崎の鐘」「青い山脈」などを大ヒットさせ、ポリドールの東海林太郎さんと共に日本の流行歌手の双璧になったのです(東海林さん没後、日本歌手協会会長を引き継いだ)。
そんな華やかな活躍とは別に声楽家・増永丈夫さんとしても実力を発揮し、その功績で1992年にスポーツ選手以外では初めて生前に国民栄誉賞が贈られましたが、1993年8月14日にNHKの「思い出のメロディー」に出演して1週間後に急性心不全で亡くなりました。
  1. 2021/08/20(金) 13:53:40|
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振り向けばイエスタディ2374

「中佐、奥さん、久しぶりですね」オランダに戻って2日間休養した後、梢と夜の散歩に出ると巡回の警察官2人組に会った。今回は休養を含めると2週間以上の不在だったので私が夏季休暇でも1週間しか休まないことを知っている警察官としても疑問を抱いていたようだ。
「仕事で家内と一緒に中央アジアへ行っていたんだ。観光旅行じゃあないけどね」「奥さんと一緒なら仕事でも観光みたいなものでしょう」紛争地帯であるアフガニスタンの現地調査とは言わなかったのでEU圏外に関する知識に乏しい警察官は羨ましそうな顔で答えた。確かに佛教徒としてはタリバーンでも一部の過激派が破壊したバーミアンの巨大石佛の現状を見たかったが、あそこはアフガニスタン中央部の両者の争奪戦の舞台になっていて近づけなかった。
「それでも奥さんは日に焼けていませんね」この時期のオランダの日没は午後8時半頃なのでまだ明るく若手の警察官は梢の顔を見て疑問に思ったことを口にした。このような雑談での質問も警察官にとっては職務質問に準ずる情報収集の手法だ。
「イスラム圏に行っていたから布を顔に巻いていたのよ。おかげで染みにならなくて助かったわ」「オランダでは顔に布を巻かないで下さい。テロリストを警戒している連中が身構えますから」親しい警察官ならではの助言だが、そう言う2人もテロリストを警戒して巡回しているのではないか。オランダでは1998年に近衛兵の王立保安隊が陸軍から独立して対テロ部隊化されたが、主力はアムステルダムの国際空港などに配置されているそうで王宮や国際機関があるスフラーフェン・ハーグでもそれほど目立たない。
「そう言えば訊きたいことがあるんだ」「私に国際刑事裁判所の検察官の中佐に教えられることがありますか」「オランダの国内法の話だから頼むよ」ここでアフガニスタンから持ち返った疑問を思い出した。私の説明に警察官2人組は顔を見合わせて苦笑した。
「EU指令91号で銃規制の最低基準が定められているが、実際は各国の国内法で規制されているようだね。そこでオランダの銃器の所持資格と免許取得、管理と使用の基準を教えてもらいたんだ」実は今回、私はアフガニスタンに入国する前にパキスタンの市場の露店で護身用にアメリカ軍制式のM9=ベレッタ92拳銃と15発入りの弾倉を購入したが、出国後に同じ武器商人に無料同然の安価で買い取らせた。しかし、今後も紛争地帯に調査のため赴く可能性が高い以上、手元に1丁所持しておきたいと考えたのだ。当然、国際司法裁判所の検察官としてはオランダの国内法に基づく手続きを踏み、合法的に所持しなければならない。
「なるほど。簡単に説明しましょう」やはりベテランの警察官が説明役になった。私はメモ帳を持っていないのでスマートホンの動画を作動させて音声を録音することにした。
「我が国で銃砲を所持できるのは軍や我々のような法執行機関以外ではハンターと標的射手だけです。自己防衛は武器所持の正当な理由になりません。ハンターの狩猟免許はハンター安全講習コースを受講してテストに合格する必要があります。標的射撃用の銃は1年間射撃クラブの会員でなければなりません。重犯罪歴がある者、麻薬中毒と精神疾患の者は許可されません」「オランダは国民皆兵ではないからな」ここまでの説明で国民皆兵のスイスが軍用小銃や拳銃を自宅で保管させていることを思い出し、武器に対する認識の違いを実感した。
「市民が所持できる銃砲は連射可能な全自動の小銃は禁止、半自動銃と拳銃だけで1人5丁までです。所持を許可された銃砲は安全な場所に保管した上で毎年警察の検査を受けなければいけません。ただし、そのように合法的に所持している銃砲は暴力に対する理由のみ自己防衛の目的での使用は可能です」私の反応を受けて警察官は具体的な説明を続けた。つまり合法的に銃砲を所持している市民はテロリストとの銃撃戦も許されることになる。
「どちらにしても中佐はジャパン・グランド・ジエータイの士官とは言え我が国では在住の外国人ですから所持を申請することはできません」「まさか不法所持していないでしょうね」ベテランが説明し終えると若手が余計な確認をした。
「今のところワシは小太刀の真剣が護身の得物(えもの=道具)だ。幸いなことにオランダでは日本のような刃渡り6センチ以上の刃物まで武器扱いする馬鹿げた銃砲刀剣類所持等取締法ではないから規制の対象は銃砲だけだろう」「その技で1名を殺害しているんですよね。我が軍の士官と下士官を守るために」若手警察官の無礼を法律論で遠回しに叱責するとベテランもあえて私の北キボールでの戦歴を補足した。ベテランとは長年のつき合いなので私の個人情報を調べ、オランダ軍から勲章を授与されたことを知っていても不思議はない。
「ところで銃砲だけが規制の対象だとすると手榴弾や火炎放射器、地雷はどうなるんだ。スプレーとライターで火炎放射器は簡単に作れるぞ」「それは別の法律です」最後は笑えるように皮肉なジョークにしたが若手の警察官は真顔で答えた。今時珍しい堅物らしい。
  1. 2021/08/20(金) 13:52:34|
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振り向けばイエスタディ2373

「今回は大きな収穫がありました」半月近くの調査旅行(?)から戻ると私は翌朝にモレソウダ首席検察官に報告するため梢を連れて出勤した。すると何時もの流れで私たちにソファーを勧め、毎度の巨大なマグカップにコーヒーを注ぎに向かったが梢に「砂糖は」と確認したので当然断った。昨夜は流石に2人とも疲れが出て夕食も外で済ませ、2人でシャワーを浴びると届いていた郵便物を確認するところまでで寝てしまった。そのためノートに手書きした記録は全く整理していない。だから今日だけは大量の濃いコーヒーは助かる。
「モリヤ検察官の自筆の英文を見るのは初めてじゃあないかしら。サインは時々見るけれどチャイニーズ・キャラクター(漢字)だもんね」前に座ったモレソウダ首席検察官はテーブルの上にノートを広げた。私のサインは正確に言えば「花押」なのだが、説明が長くなるので省略した。実は自衛隊でも合議(あいぎ)や決済は押印よりも花押の方が正式で、私も守山で中隊長になって命令の決済権を得た時から花押にしていた。
「パソコンで清書してからにしようと思ったのですが、先ずは成果報告を優先しました」「モリヤ検察官の文字には癖がないから読み易いわ。これで大丈夫。コピーをもらっておこうかしら」折角のお誉めの言葉だが要するに個性が出るほど英文を書き慣れていないと言うことだ。日本語なら学校で習ったままの「楷書の英文」と言うのかも知れない。
「この図の数字はプリント・アウトしてきた破壊された集落と家屋の画像と照合して下さい。これなら証拠として提出可能だと思います」「・・・確かに」アフガニスタンを出国してパキスタンのホテルに泊まった夜に眠い目をこすりながらデジタル・カメラの画像とノートに記録してきた計測値を照合して番号を振ってあるのでモレソウダ首席検察官も納得と感心を同居させた顔でうなずき、私と梢も顔を見合わせて倣った。
「それにしても一軒一軒の住人の個人情報まで詳細に記録してあって驚いてしまうわ」「タリバーンの全面協力のおかげです」結局、現政権の支配地域では案内した治安部隊とアメリカ軍やNATO軍の将兵たちは破壊された家屋を全て「タリバーンの犯行」と言い張り、私の質疑には応じず、写真撮影を制限し、巻尺での計測も許さなかった。一方、タリバーンは最初の集落の指揮官の名前を出すと全面協力してくれたので、治安部隊とアメリカ軍やNATO軍の戦争犯罪の証拠ばかりが集まる結果になった。
「モリヤ検察官はその服装で言ったんでしょう。アメリカ軍と敵対しているタリバーンがよく協力してくれたわね。前回は接触するのを避けて情報を拾い集めただけだったけど」「実は始めは私の迷彩服を疑がわれたのですが、助手席の梢がブルカを着けているのを見て気を許してくれたのでムスリマの下で働いていると説明すると味方だと思ってくれたようです」「梢のおかげね。有り難う」これで梢の大手柄も説明できたが、岡倉との調査の方が正攻法なのは言うまでもない。今回はタリバーンが宗教指導者としての分別を守ってくれたから成功したが、他の相手では危険性の方が高い。その点は梢にもやんわりと厳しく指導した。
「この証拠があれば上層部に反論できるわ」私の手書きのノートに目を通し終ったモレソウダ首席検察官はテーブルの上を滑らせて2人の中央に返した。つまり2人の成果を賞賛してくれたのだ。前回、モレソウダ首席検察官が別件の囲み取材でアフガニスタンにおけるアメリカ軍の戦争犯罪の刑事告発を示唆した後、アメリカのトランプ政権は大統領選挙でアフガニスタンからの早期撤退を公約にしておきながら戦争そのものは共和党の2代目ブッシュ政権の成果として肯定し、それを否定するモレソウダ首席検察官を入国停止にして公務でニューヨークの国際連合本部に行くこともできないようにした。それ以外にも加えてきた強硬な圧力に国際刑事裁判所の上層部は屈服し、モレソウダ首席検察官に刑事告発の断念を通告して公式に発表した。確かにあの時は刑事告発するにも証拠が揃っておらず、公判を維持することは不可能だったので断念せざるを得なかった。
「上層部としては前言撤回と言う印象を与えたくないでしょうから、新たな証拠を入手して慎重に検討した結果になる程度の期間を置く必要がありますね」「トランプ政権の任期が後半に入ったところで結論を翻させるように内部工作を進めましょう」モレソウダ首席検察官は既に腹の中で作戦計画を立案しているらしい。
「商売人の大統領は『儲からない戦争だった』で納得しそうですが、難敵はアフガニスタン侵攻作戦の指揮を執ったマティス国防長官ですね。誇り高き海兵隊大将のマティス長官としては自分の栄光の軍暦に傷をつけられることだけは容認できないはずです」「そんな根っからの軍人が利益第一の商売人の下で働けるかしら」モレソウダ首席検察官の大きな目が怪しく光った。流石に長年にわたり国際司法の世界に身を置いてきた人物の情勢判断は恐ろしい。
  1. 2021/08/19(木) 12:43:15|
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8月19日・アフガニスタンがイギリスから独立した。

2021年8月15日に2代目ブッシュ政権が9.11テロを日本の真珠湾攻撃と同じ手法で利用して始めた第3次世界大戦=対イスラム戦争でロシアとの国境付近のロシア正教徒の部族に武器を渡し、アメリカ軍とNATO軍が制圧した後に占領させて傀儡政権を成立させていたアフガニスタンがイスラム原理主義組織のタリバーンに奪還されて20年ぶりに独立を回復しました。
ムジャーヒディーン(民族名)の国であるアフガニスタンは古代からガンダーラ―が存在したインドやトルコと中国を結ぶシルクロードの中央アジアの中継地であり、戦略上の要衝だったため幾度も争奪戦が繰り広げられてきましたが、イスラム教の伝播に伴いペルシャ=イラン王朝の支配を受けていました。
そんなアフガニスタンの近代史においては18世紀初頭にホータキー朝がイランから独立して現在のアフガニスタンとパキスタンを支配したのが独立国家の成立です。ところが18世紀末になるとインドを支配したイギリスと南下を図る帝政ロシアがアフガニスタンで対峙するようになり、これを受けてイギリスが1835年に成立したパーラグザイ首長国にロシアの進攻を阻止する軍のアフガニスタン国内への駐留を要求しましたが、これを拒否されたため1839年から1842年の第1次アングロ・アフガン戦争が起こりました。この戦争では1840年までにイギリス軍=東インド会社の私兵が全土を制圧して新たなシャー=首長を擁立したものの各部族が蜂起して1842年には冬の峠を越えて敗走しました。イギリスとパーラグザイ首長国は関係を修復し1855年には相互の領土の保全を約した条約を結びますが、1866年に位を継いだ首長がロシアを厚遇するようになったため危機感を抱いたイギリスが1878年に第2次アングロ・アフガン戦争を起こしたのです。今回は第1次の教訓を活かして戦闘を優位に進め1879年には外交権を奪って保護国化し、領土を2分して南部を現在のパキスタンとしてインドに編入しました。
こうして20世紀に入るとアフガニスタンでも近代化に乗り出しますが、それに反対する保守派によって暗殺され、後を継いだ首長はイギリスが第1次世界大戦で疲弊していることを好機と捉えて独立を目指して第3次アングロ・アフガン戦争を起こしたのです。
この戦争はアフガニスタン側が旧領土に攻め込みましたが、イギリス軍が航空機を飛ばしてカブールを爆撃したことに驚いて士気が消沈し、長期戦を避けたいイギリス軍側と思惑が一致して1919年8月8日に講和条約を結び、8月19日付の発効で外交権が復活して独立を回復しました。
独立後は君主国家として第2次世界大戦後まで存続しましたが、1973年に首長のイタリアでの病気療養を狙った首相が起こしたクーデターで共和制に移行し、1978年のソ連によるクーデターで社会主義体制になり、その保護の名目で1979年12月24日にソ連軍が侵攻したことで抵抗する各部族との内戦が始まりました。
タリバーンは1989年にソ連が撤退=独立した後、混乱するアフガニスタン国内と言うよりもムジャーヒディーンを厳格なイスラムの戒律で統制した宗教指導組織です。
  1. 2021/08/18(水) 14:44:02|
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振り向けばイエスタディ2372

「貴様はジャパン・グランド・ジエータイだな。ここで何をしている」カブール市内ではホテルを取り、久しぶりにシャワーを浴びてレストランで食事になった。とは言え迷彩服以外に服は持ってきていないので長袖のワンピースに着替えてヒジャブを被った梢と2人で案内された席に着いた。すると同じく迷彩服を着たアメリカ陸軍の中佐が声をかけてきた。
「貴様は」「ISAF(国際治安支援部隊)司令部のトンプソン中佐だ」「自衛隊のMPオフィサー(憲兵士官=警務幹部)のモリヤ2佐だ」私が席で立ち上がると中佐はイスラムのヒジャブを被りながらも日本人の顔をしている梢を一瞥して手を差し出した。軽く握手しながら自己紹介したが、英会話の「ユー」は口調と表情で同じ階級の同僚として応対した。
「自衛隊はアフガンには来てないだろう。MPは必要ないぞ」「戦争犯罪を担当していてね。近いうちに戦争が終わるようだから、その前に実態を見ておこうと思っているんだ」嘘は言っていないが核心も語っていない。それにしてもここまで巧妙に英語で胡麻化すことができるようになった自分の語学力に感心してしまった。
「日本ではアフガニスタンの戦況をそのように報道しているのか」中佐はアメリカ軍の勝利以外の戦争の終結は考えられないようで、私も同様の認識で戦地に乗り込んできたと思ったらしい。下手すれば妻帯同の旅行気分と思われたのかも知れない。
「日本では第2次世界大戦中に大本営発表と言う公式報道があって『神国日本の軍隊がアメリア軍に勝った、勝った、また勝った』と国民に信じさせていたんだ。今はペンタゴン発表だよ。『カミの国アメリカの軍隊がテロリストに勝った、勝った、また勝った』だな」中佐の詰問にも正面からは答えず日本の恥部とも言える史実を披露した。その点、今の日本人は軍事や防衛については無知で無関心なので新聞やテレビの報道内容は目と耳を素通りさせている。
「それで貴様は現地を見てどう考えているんだ」「アメリカ政府が説明している民主化したアフガニスタンはカブール限定だな。それも崩れ始めた砂上の楼閣だ。貴様も愛する家族を哀しませないために無駄な抵抗をせずに撤退便に乗り遅れないことだ。そして無事に帰国したら戦争の実態をアメリカ国民に周知させて2代目ブッシュとチェイニー、ラムズフェルド、ライスの戦争責任を告発しなければならん。全員A級戦犯としてデース・バイ・ハンギング(吊首刑)だ」これで私が調査している戦争犯罪の被疑者がアメリカ軍とNATO軍であることを自白してしまったが、「話の勢いで敗戦後の日本人に蔓延している戦争アレルギーが刺激された」と言い訳できる展開ではある。案の定、中佐は難しい顔で黙り込んでしまった。
「貴様は佛教徒だな。だから我々の正義を完全には認めていないのだろう」「残念ながら妻を含めてイスラム教徒ではないぞ。日本人は訪れる土地の作法を尊重するんだ。アメリカ軍のようにWACがTシャツ1枚で街を闊歩するような危険なことはしない。あれではレイプされないのが不思議だ」再び正面からの回答は避けて今度は日本人の美徳を誇示してしまった。実際、カブールに到着して市内を車で回った時、非番らしいヨーロッパ人の女性兵士の2人連れを見かけたが、1人はランニング式のTシャツ姿で見事な巨乳を揺らしながら歩いていた。2人は路地に入っていったがレイプされてもイスラム法では性欲を刺激した過失で自己責任だ。
「中佐、ご注文の料理ですが」そこにワゴンを押して近づいてきたウェイターが声をかけた。載っている料理を見ると分厚いニューヨーク・ステーキをメイン・ディッシュにするアメリカ料理のコースでハラール(イスラム教の清めた肉)なのかは疑わしい。
「それでは失礼する」「折角のご縁だ。無事を願っているよ」中佐は梢に口元を緩めて会釈すると私の答えに首を傾げながら席に戻って言った。
日本人が愛用する「ご縁」を英訳するのは意外にややこしい。一般的には「fate」だがこれは「運命」と重々しく、逆に「chance(チャンス)」では軽い。「関係性」を意味する「relationship」は長々しく、短い「tie」の「結びつき」は少しニュアンスがずれる。そこで「テイク・ア・ブレイク(折角の)」に日本語の「ゴエン」を結びつけたのだから理解できなくても仕方ない。この迷訳に梢も苦笑していた。
「銃声だな」久しぶりのベッドで熟睡していた私は深夜に響いてきた連射の銃声に目を覚ました。音の大きさから考えて小銃の射程距離からは外れているが、梢にベッドから下りて床で伏せるように指示すると私は窓と窓の間の柱を掩体(=防弾用遮蔽物)にして窓に近づいた。
「本格的な銃撃戦にはなっていないが応射はしている。治安部隊の駐屯地が銃撃を受けたんだろう」応射している銃声が少数なので即座に反撃するアメリカ軍やNATO軍ではなく素人の寄せ集めの治安部隊と推察した。昼間に道路で会った歩哨も戦闘に巻き込まれているかも知れない。やはりカブールの治安回復を誇示するペンタゴン発表は大本営発表と同列だ。
アメリカ軍
  1. 2021/08/18(水) 14:42:53|
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振り向けばイエスタディ2371

私は前回、岡倉と訪れた集落の変わり果てた姿をタリバーンの若い男に手伝ってもらって巻き尺で計測し、デジタル・カメラで多くの画像を撮影して裁判に提出できるように証拠化すると最初に会った分かれ道に戻って他の男たちからも情報を収集した。
「やっぱりあの集落はタリバーンの協力者だったみたいね」男たちに見送られて出発すると助手席で自分が通訳した証言を記録した私のノートを確認しながら梢が呟いた。その言葉にルーム・ミラーで見ると男たちは道に広がって手を振るでもなく無意味にこちらを見ていた。
「タリバーンが破壊される前の住民全員の名前と家族構成に家業、亡くなった年月日、飼っていた犬の名前まで知ってるんだから積極的に支援していたのは間違いないわ」「否、タリバーンは日本で言えば村の駐在所の警察官のような役割を果たしていたからそれだけ密接な信頼関係を築いていたと考えるべきだな」私の見解は岡倉の請け売りだが、前回出会った女性はタリバーンが支配していた頃の厳格なイスラムの戒律によって保たれていた平穏な生活を懐かしみ、土足で踏み込んできた異教徒たちによって強制される「民主主義」と言う呼び名の破壊を憎み、タリバーンが再び戻ってくることを願っていた。その一方で案内した男は現政権の治安部隊に参加している兵士たちが志願した動機に理解を示し、アメリカ軍とNATO軍が実際は無差別殺害を繰り返している理由を「精神の弱さ」と冷静に分析していた。
「これからカブールに向かうんでしょう。現政権とアメリカ軍、NATO軍の支配地域だからブルカを脱がないと逆に危ないわね。どこが境界線なのか線を引いておいてもらわないと困るわ」私の請け売りにうなずいた梢はブルカの中で前を見ながら現実的な話をした。確かにタリバーンの支配地域ではブルカを被っていなければ叱責を受け、逆に現政権の治安部隊は協力者と疑ってブルカを奪うついでに衣服を脱がし、そのまま強姦される可能性がある。どう考えても宗教的動機で集り、殉教を恐れずに戦っているタリバーンと生活苦から逃れるために祖国を奪おうとする他国の力で成立した現政権の治安部隊に入った兵士では士気や規律心は比較するまでもない。こちらが「日本国陸上自衛隊の2等陸佐」と名乗っても言葉が通じなかったことにされればそれまでだ。東京の官舎で単身生活していた頃、押さえつけられている夫の目の前で妻が強姦されるAVを見たことがあるが実話になるのは耐え難い。
「迷彩服の兵隊が警備に立っているな。そろそろ現政権の支配地域に入ったようだな」私は30歳代から老眼は始まっているものの相変らず2・0の視力で前方の交差点に銃を持っている兵士を見つけると速度を落として梢に声をかけた。すると素早くブルカを脱ぎ、顔を出したヒジャプを被って首の回りを整えた。私もサングラスを外すと低速度を維持したまま兵士の前に車を進めた。当然、兵士は道路に広げた手を突き出して停車させた。
「アメリカ軍でもNATO軍でもないな。どこの軍だ」兵士は旧式のアメリカ軍の迷彩服を着てMー16を持っているが、話しているのはダリー語なので治安部隊らしい。
「日本陸軍の中佐よ」「中佐って・・・会ったことがない偉いさんか」梢の説明に兵士はしばらく考え込んでからMー16を持っていない左手をベレー帽に挙げた。どうやら小銃を携帯している時の銃礼を知らないようだ。それ以前にこの兵隊とは思えない緩慢な動作は基本教練も身についていない。おそらく戦闘用にMー16の操作方法と兵隊に見せるための挙手の敬礼と姿勢を正すことだけを教えて警備につけた寄せ集めに違いない。
タリバーンも「治安部隊は簡単に降伏して許しを乞う」と言っていたので戦況の悪化で脱走兵が続出しているのだろう。それでも治安部隊に入ったこの兵士は「飯が喰えるなら」と志願した貧困家庭の苦労人か、噂話にでも戦況を知らない無学な愚か者になる。どちらにしても非礼を叱責する気にはなれない。
「それじゃあ通るぞ」「はい」兵士は身分証明証やパスポートも確認することなく理解できない私の英語に返事をして通過させた。挙手の敬礼もしない。これでは準・軍隊の治安部隊の用を果たしておらず、実際にタリバーンと戦っているのはアメリカ軍とNATO軍だけと言うことになる。それも時間の問題だ。
「何だかイスラム社会じゃあないみたい」カブール市内に入ると風景が一転した。通りの店先にはアメリカ風の毒々しく低俗な看板が並び店頭には商品が溢れている。その前を闊歩する女性たちは薄着で身体の線や腕を露出し、すれ違う男たちは欲情剥き出しの下卑た視線を浴びせている。おそらく現政権への支持を維持するためにアメリカが大量に運び込んでいる物資を満喫し、マスコミが流すアメリカの大衆文化を享受している市民たちだが、タリバーンが復活すればイスラムの戒律を放棄した背信者として弾圧の対象になるのは間違いない。現段階ではそんな不安を感じさせない情報統制が加えられていると言うことだ。
  1. 2021/08/17(火) 13:28:15|
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8月17日・毛沢東暗殺未遂容疑で山口隆一が処刑された。

1951年の8月17日の午後5時頃に北京の天橋刑場で日本人の山口隆一さんが毛沢東主席暗殺未遂容疑で主犯とされたイタリア人と一緒に死刑を執行されました。
事件は1950年10月1日に天安門広場で開催された第2回国慶節=中華人民共和国建国記念日の式典で毛沢東主席以下の共産党要人が並ぶ天安門に迫撃砲を発射して爆殺しようとしたと言うもので、主犯はアメリカのスパイとして監視対象だった上海生まれのイタリア人で母国の空軍士官学校を卒業後に国民党軍航空部隊の指導に当たる一方で日本の特務機関の工作員として活動し、戦後は貿易会社を経営していた56歳の男性でした。一方、執行時46歳だった山口さんも明治38(1905)年に東京で生まれ、5歳の時に三井物産に勤めていた父親の転勤で香港に住んだことで中国好きになり、京都大学を卒業して宮内省に入省しながら支那事変が勃発した昭和13(1988)年に実質的に日本海軍が運営している中国の海運会社に転職して北京で敗戦を迎え、ここで生活のためにアメリカ軍の駐在武官に情報を提供して報酬を受け取るようになったなど疑われるのに十分な経歴の持ち主ではありました。
しかし、事件そのものはかなり無理がある捏造で凶器とされる迫撃砲は主犯のイタリア人が国民党軍に売り込むために持ち込んだ廃品同様の代物の上、部品が幾つか欠落していて
武器としては使用不能でした。なお当局は欠落していた部品をバチカン使節団の司祭宅の廃材捨て場で発見・回収していて、裁判では「発覚を警戒して直前に組み立てる計画だった」と説明しています。山口さんを共犯者とする証拠とされたのは友人への書簡に同封されていた天安門広場のスケッチで天安門の上に線が1本引かれていて「これが迫撃砲の弾道を計算した図だ」と主張しました。ところがこのスケッチ自体が日本から輸入した消防車の放水訓練を描いたもので線は弾道ではなく放水だったのです。そして山口さんとイタリア人には隣人としての近所づきあい以上の関係はなく首謀者とされたアメリカ軍の駐在武官は事件の5ヶ月前に帰国していて2人を仲介し、指揮を執った形跡は発見できませんでした。
何よりも国慶節の式典では数万人の参加者が天安門広場に集まり、人民解放軍の観閲行進も実施されるので周囲には多数の部隊と兵士が待機していて迫撃砲の砲弾を目標に命中させられる距離まで気づかれずに接近するのは無理でした。
それでも裁判では有罪になり、即時執行が一般的だったので午後5時になったようです。当時の共産党中国の死刑は恐怖を和らげるための目隠しや頭から布を被せることもなく拳銃で後頭部を射つ方法でした。山口さんは兵士が緊張して1発目を外すと「落ちつけ」と声をかけ、2発目で絶命したそうです(イタリア人に立ち合った神父の証言)。
後年、周恩来首相は「この事件は間違いであった」と認め、2011年になって公安部の要人は香港の書籍で「アメリカを犯罪者にする目的だった」と目的を説明しています。
この山口さんの死刑執行は敗戦後に日本人が国外で処刑された「最初」であり、2010年に同じく共産党中国で麻薬密輸罪の4人が処刑されるまで「唯一」でした。
  1. 2021/08/16(月) 14:11:47|
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振り向けばイエスタディ2370

「止まれ」前回、岡倉と行った集落に向かうと峠を下った分かれ道で民族衣装を着た数人の男たちに遭遇した。左手を差し出して私を止めた男は右手には30発入り弾倉を装填したM16を持っている。ほかの男たちはM16やフランス軍のFAーMASの銃口を向けた。
「軍人だな。アジア人のようだがアメリカ軍か」「日本人です。日本陸軍の中佐ですが現在は国際刑事裁判所の検察官です」開けた窓からの男の質問がペルシャ語の方言とされるアフガニスタンのダリー語だったので助手席の梢がペルシャ語で答えた。
「その発音は現地人ではないようだが、ブルカを着用しているところを見るとムスリマなのは確かだろう」「いいえ、私も日本人ですがイスラム教の戒律とアフガニスタンの習俗を尊重するためブルカを着用しています」梢の説明は折角の変装を無駄にしてしまうが男は納得したようにうなずいた。私も北キボールで経験しているがイスラム教徒は嘘を禁ずる戒律がないため商売や交渉ではかなり悪どく相手を騙すが、個人のつき合いでは反動のように信義を重んじ、日本人の馬鹿正直さを知ると殊更に好感を抱いてくれる。
「それで国際刑事裁判所の検察官が何しに来た。ここが危険なことは知っているだろう」「実は夫のムスリマの上司がアフガニスタンでアメリカ軍とNATO軍が行っている戦争犯罪の告発を検討していて、そのための現地調査を命ぜられたんです」梢は秘書としては少し僭越なくらい積極的に説明した。梢自身はイスラム教徒に接したのはモレソウダ首席検察官とスリランカとアムステルダムのモスクのウラマーくらいだが、私がイスラム教に共鳴している面があるので同様の意識で接するつもりらしい。
「本当か。それならば案内しよう。ついてこい」男は興奮気味に梢に声をかけると背後で銃を構えている男たちに何かを説明した後、若い男と道端に停めている車に乗り込み助手席から上半身を乗り出して腕で発車を指示した。
「勝手なことをして怒ってる」「訳ないだろう。感謝感激雨あられだよ」思い掛けない展開に呆気に取られながら続行すると助手席の梢が声をかけてきた。ただし、ブルカを被っているので表情は判らない。確かに慎重の上にも慎重を重ねて行動しなければならない紛争地帯で、当事者に秘密に属する行動目的を告白するのは軽率の誹りを免れ得ないが、前回の調査で具体的な収穫が得られなかった私としては当事者に直接事情聴取し、現地説明を受けることは危険を顧みるまでもなく大きな収穫だ。本当は感謝のキスをしたいところだがブルカに阻まれた。
「ここは前回来た集落だな。完全に破壊されてるじゃあないか」男たちの車は前回、岡倉に案内された集落に入って止まった。あの時、岡倉はまばらになった家を眺めながら「以前は道路沿いに家が建ち並んで道端で農作物を並べた市が開かれていて、とても賑わっていた」と何時見たのか判らない過去の様子を語っていた。今回はまばらに残っていた人家も破壊尽くされて一面の瓦礫を爆弾か砲弾による爆発孔が抉っている。一瞬、岡倉が声をかけた女性の顔が頭をよぎったが辺りに人間の生活臭は残っていない。
「この集落はNATO軍が無差別爆撃を加えた後、包囲していた現政権の治安部隊が地上から攻撃して住民を皆殺しにしたんだ。切っ掛けはアメリカ軍の無人偵察機が数人のムスリマがブルカをつけて歩いている姿を撮影したため我々の協力者の集落と断定したことだった。しかし、撮影したのは森を隔てた別の集落で、完全な誤爆と冤罪による無差別殺害だ」「無人偵察機は似たような間違いを頻繁に犯しています」車を降りて案内する男の説明に若い男が補足し、それを梢が私に通訳した。アメリカ軍の無人偵察機=ドローンは小型なので搭載できる機材の性能が限定され、アメリカ本土で遠隔操縦するため動画の解像度が低く、戦術判断は不鮮明な映像から推理することになり、疑わしきは破壊するアメリカ軍的感覚で攻撃命令を下すからアフガニスタンの郊外には珍しい鉄筋コンクリート製の病院を軍事施設と見誤って爆撃したなどの誤爆事例はかなりの頻度に上る。
「我々は報復として治安部隊を攻撃したが多くの兵士は簡単に降伏して許しを乞うてくる。結局、彼らもムスリムであって生活のために治安部隊に加わっているに過ぎないんだ。だからアメリカの傀儡の現政権の上層部を攻撃目標と定め、アメリカ軍とNATO軍をこの国から追放するための戦闘を続けている」「ソ連軍とどちらが手強いかね」「ソ連軍は毒ガスを使い、森や街を焼夷弾で焼く危険性はあったが武器はアルカイーダが送ってくるアメリカ製には敵わなかった。その点、アメリカ軍やNATO軍は精神が弱い。だから正常な判断力を失って無差別殺害を繰り返すんだろう。今度もアッラーは勝つ」私の質問を梢が通訳すると男は瓦礫の上に仁王立ちになって熱弁を奮い始めた。現在も欧米と日本ではタリバーンを極悪人とする虚偽報道が続けられている。それを糺すためにもモレソウダ首席検察官を全力で支えなければならない。
  1. 2021/08/16(月) 14:10:15|
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8月16日・アイガー北壁日本人初登攀と遭難死

昭和40(1965)年の明日8月16日にモンブラン山塊のグランド・ジョラス、マッターホルンと共にアルプス3大北壁と呼ばれ1934年から1958年までに25回の挑戦を受け、13回67名には登頂を許したものの15名の命を奪ってきたアイガーの北壁に挑戦した高田光政さんと渡部恒明さんの日本人登山家のうち渡部さんが山頂から300メートルの高さから直下1400メートル墜落し、残った高田さんが救助を求めるための最短ルートとして山頂に登攀して成功を収めた栄光と悲劇が同時に起こりました。
渡部さんは昭和11(1936)年に福岡県飯塚市の生まれで29歳、登山は家業を手伝いながら高校の定時制に通っていた17歳から始めたので12年目でした。
標高3970メートルのアイガーはユングフラウ、メンヒなどのオーバーランド3山の北側で直下1800メートルの北壁が挑戦者を拒むように聳え立っています。山自体は1858年に他の連山を辿る南方向から登頂されていますが、北壁については1938年になって別々に登り始めたが途中で合流したドイツとオーストリアの登山隊がようやく初登頂しています(それまでの挑戦者は敗退させた)。
日本人では1963年に芳野満彦さんと渡部恒明が初挑戦しましたが渡部さんが100メートル付近から墜落して失敗、この時は深い雪の上だったため九死に一生を得ています。そして事故の10日前の1965年8月6日に芳野さんとマッターホルンの北壁の日本人初登頂に成功すると無謀にも相棒を高田さんに変えてアイガーに挑戦したのですが、山頂から300メートル付近で落石を受けて宙吊りになったためザイルの上になった高田さんがそのまま山頂に向かい救助を呼ぶ間に墜落して死亡しました。遺骸は麓で収容されて荼毘に伏され、遺骨は高田さんが抱いて帰りました。
このため高田さんが「自分だけが助かるためにザイルを切ったのではないか」と言う疑惑(行為自体は違法性阻却事由の「緊急避難」に該当する)と「渡部さんが骨折の激痛と救助の困難さを察して自らザイルを外した」と言う推理が登山家の間だけでなくマスコミにも書き立てられ、この事故を題材にした新田次郎さんの実名小説「アイガー北壁(短編14作と一緒に刊行された)」が大ヒットすることになりました。
アイガー北壁での救助は1957年にイタリアとドイツの4人の登山隊が挑戦し、イタリアの2人が山頂から320メートル付近で疲労のため動けなくなったため救助隊が山頂からザイルを垂らして1人を救助したのが最初で、もう1人は収容不能だったので2年間も宙吊り状態で放置され、登山者たちが脇を通って登攀し、下から観光客が望遠鏡で眺める名物として晒されることになりました。ドイツ隊の2人も行方不明だったのでマスコミはこぞって生還した1人に非難を集中させましたが、4年後に山頂付近で遺体が発見されて2人が登頂に成功していたことが確認されました。
アイガー北壁の山頂から300メートル付近の岩壁には生没年月日と日本語・英語で「われらの岳友渡部恒明ここに永遠に眠る」と記したパネルが日本人登山家の手で打ち止められています。
アイガーアイガー北壁(季節は春)
  1. 2021/08/15(日) 14:08:34|
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振り向けばイエスタディ2369

岡倉が潜入前に必要品をどのくらいの価格で調達していたのかを知らないので比較はできないが、おそらくかなり割高に前回と同様の品物を買い揃えることができた。
4WD車は元々が車嫌いの運転下手なので右ハンドルに拘ったため足元を見られ、中古の日本車を現地の相場の十倍の値段で押しつけられた。拳銃も祭礼の玩具売りの露店のように道端に並べている武器商人から買ったが、私が迷彩服を着ているため警戒され、梢がペルシャ語で交渉して何とかアメリカ軍制式でイタリア製のM9=ベレッタ92と弾丸を購入できた。本体に血痕がこびりついているところを見るとアメリカ軍の軍人の遺骸から奪った可能性もある。
「それじゃあ行くぞ」「はい、貴方とドライブなんて初めて」買った品物を荷台に積んで市場を出発した。私が戦地に赴く悲壮感を漂わせて声をかけると梢はそれを振り払うように明るく返事をした。この調子では荒井由美の「中央フリーウェイ」でも口ずさみそうだ。それでも服装はイスラムの装束になっているので雰囲気は久保田早紀の「異邦人」だろう。
「やっぱりパキスタンも左側通行なのね」市場から車道を北上すると正面にはヒマラヤ山脈の裾の険しい岩山が見えてくる。それでも梢は対向車が右側を通り抜けていくことに関心を示した。オランダの右側通行に慣れてからスリランカに行って久しぶりに左側通行を見た時は懐かしさよりも違和感を覚えたが、今回は運転手なので身体に染みついている日本式の方が有り難い。ただし、アフガニスタンは右側通行だ。
「国境検問所は現政権側の国境警備隊だが、それでも兵隊はイスラム教徒だろうからブルカを被らなければその服装で良いだろう」国境の検問所が近づき順番待ちの車列に加わると車内で最終確認した。アフガニスタンの現政権はタリバーンのイスラム原理主義の打ち消しに躍起になっているため女性のブルカの着用を禁止していることはヨーロッパの新聞でも好意的に報じられている。しかし、国民の大多数はイスラム教徒であり、兵士たちが治安部隊を志願したのもタリバーンに対する敵意や欧米式のキリスト教的民主主義への憧れではなく単に生活のためなのは前回の入国で確認している。だからパキスタンの市場で買ったイスラムの装束は兵士たちも見慣れた普段着のはずだ。
「軍人だな。どこの軍だ」検問所ではアメリカ軍の旧式の迷彩服を着た下士官が流暢ではない英語でが対応した。前回は歩哨が入国者のパスポートと車内を目で確認しただけだったが、今回は正式に入国手続きを踏むようになり、先ず迷彩服を着ている私の身分を確認してきた。
「日本陸軍の中佐だ。しかし、今回の入国は国際刑事裁判所の検察官としての公務が目的だ」下士官は私の階級を聞き、席で立ち上がるとベレー帽に手を掲げて敬礼した。私個人としてはPKOなどで海外に広まってきている「ジエータイ」と言う呼称を使いたいのだが、海外任務を経験していないであろう下士官を混乱させないために「ジャパン・アーミー」と説明した。
「UN(国際連合)ではないのですか」「詳しく説明すると長くなるが管理は受けても組織としては別モノだ」やはりあまり英語は得意ではないようで、私が日本のパスポートと一緒に提示した国際刑事裁判所の身分証明証を確認するだけで説明を聞いている様子はない。
「こちらの女性は」「秘書で通訳だ」「パキスタン人ですか。そうは見えませんが」「日本人だ」下士官は隣から梢が差し出したパスポートを確認すると入国のスタンプを押した。
手続きを終えて駐車場に戻ると肩にMー16を提げた兵士がついてきた。30発入り弾倉を装填しているところを見るとテロリストに応戦する準備はしているようだ。下士官が事務所から声をかけて私の階級と身分を知ったらしく妙に緊張した顔になっている。
「これは食料の缶詰めですね」「これは飲料水のペットボトルですね」「これは寝袋ですね」「これは毛布ですね」「このカバンは衣類ですね」「このタンクは燃料の軽油ですね」「これは・・・」兵士は真面目に荷台に積んである荷物を確認していくが今回も持ってきた特殊加工偽装網・バラキューダの段ボール箱を開けて固まった。
「これはスウェーデンが開発した植物と同じ量の赤外線とレーダー波を反射するように作られた偽装網だ。市街地以外に駐車して眠る時に車体に掛けておけば夜間に飛んでくる軍用機に狙われることもないだろう」「流石は日本陸軍です」兵士は軍事豆知識に感心したところで確認を終えた。おかげで拳銃と弾丸を隠した苦労が無駄になってしまった。
「ブルカを被った方が良いな。タリバーンは逃亡していたパキスタンとイランから国境沿いに支配地域を広げているんだ。だから国境警備隊の検問所は必要性を認めたタリバーンが放置しているだけでこの辺りはタリバーンの勢力圏だ」「判りました」私の指示に梢も緊張した顔で髪を後ろで束ねると膝に載せていたブルカを頭から被った。ブルカはヒジャブよりも大きいので窓からの風でなびくと視界を遮ってしまう。確かに性欲は全く刺激しない。
  1. 2021/08/15(日) 14:06:05|
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