2018年の1月1日午前2時に北九州市では唯一の本格的テーマ・パークだったスペース・ワールドが閉園しました。
スペース・ワールドが開園したのは野僧が幹部候補生学校を卒業して3月24日に福岡県の春日基地に転属した1990年の4月22日でしたが、下甑島での銃剣道の長期強化合宿に入れられた上、秋からは第5術科学校に入校したため行くことはありませんでした。その後、愚息1と父子家庭になって福岡県の芦屋基地の第3術科学校に入校したので気晴らしに連れて行こうと思ったのですが、同行させる女性自衛官が職場で「アトラクションの大半は小学生以上が対象だから幼児には無理」と聞いてきたので再び断念しました。それでも車で北九州市へ行くと車窓からシンボルのスペース・シャトルを見て「大きくなったらスペワ行こうね」と声をかけてきました(結局、愚息1は入場できなかった)。
スペース・ワールドは新日鉄が八幡製鉄所の広大な遊休地にユニバーサルスタジオ・ジャパンを誘致しようとして失敗したため開業した遊園施設なので娯楽に関するノウハウが欠落していて、東京ディズニー・ランドであればシンデレラ城に当たるスペース・シャトルの隣には製鉄所の錆びた廃炉が残っていて宇宙への夢を抱いてゲートをくぐった入場者を興醒めさせていました。また「宇宙に関する普及教育」と言う堅苦しい設立目的を掲げていたため本物の月の石の展示や宇宙博物館を設置し、アトラクションも宇宙飛行士の模擬訓練を体験する合宿のスペース・キャンプなどだったので「製鉄会社が作っただけに固い=つまらん」と陰口を叩かれていました。
それでも来客数が伸びない原因を探求して発想の転換を図り、1992年に映像に合わせて座席が激しく振動して臨場感を味わえる「スター・シェーカー」を開設したのを皮切りに1993年には宇宙としては無理があるウオーター・アトラクションの「激流アドベンチャー・惑星アクア」、1994年に世界最大の高さ60メートル、傾斜角60度と最高速度115キロを誇るジェット・コースターの「惑星ライナー・タイタン」、1995年には弱点と言われていた3歳以上の幼児向けの「わんぱくコースター・クリッパー」などの大型施設を毎年増設し、レビュー・ショーには一流デザイナーによる着ぐるみだけでなく吉本興業の芸人を出演させるなどの経営努力によって集客力が大幅に向上した一方で相次ぐ建設費の莫大な借財が問題になり、2005年に経営権をリゾート運営会社に譲渡したのです。しかし、集客力を維持するために新たな施設を建設し続けるしかなく、北九州市の人口減や長崎のハウス・テンボスに人気を奪われたことで借財の返済と経営の継続が困難になり、2017年12月31日での閉園を公式発表しました。
それから1年間は「なくなるよ!全員集合」と題した軽妙なCMを流して多くのファンが入場しましたが、蓄積した莫大な債務を解消するには「焼け石に水」ならぬ滴でした。
野僧は実寸大のスペース・シャトルを「日系人宇宙飛行士・エリソン・承次・オニヅカ中佐と縁が深い福岡県浮羽市に移設・展示するべきだ」と考えて市の観光課に提案したのですが「解体・運搬・建設・維持の費用が巨額になるため無理」とのことでした。
- 2021/12/31(金) 14:50:31|
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「今回の判決はジェノサイド条約の定義を具体化する判例としても有意義ね。これでカラジッチ大将も最高刑を維持すれば人道に対する罪の量刑が定型化されるわ」「終身刑ではなく最高刑ですね」私の返事にモレソウダ首席検察官はうなずいたがリミッド次席検察官は視線を背けた。
「確かにこの裁判以外でジェノサイド条約を適用したのはカンボジアのポルポト派クメール・ルージュとルワンダ難民虐殺だけですから法運用の具体化・補強は不十分です」「モリヤ次席検察官はカンボジアPKOに参加しているから2度目になるわね」モレソウダ首席検察官は意外なことを思い出してくれた。自衛隊の海外派遣の主幹は外務省なので国際連合や現地当局との事前交渉でも日本の政治情勢や国民感情を含む特殊事情を粘り強く説明して法律の前提にしている「安全地帯」を獲得している。そのため私もカンボジアではポルポト派が暗躍するタイ国境とは反対側のタケオで勤務していたのでジェノサイドの現場を目撃する機会はあまりなかった。強いて言えばベトナム軍の侵攻を受けて逃亡するポルポト派が虐殺した住民の遺骨の山くらいだが、頭蓋骨を展示物のように並べて晒していたポルポト派と自分で掘らせた大穴に殺した遺骸を投げ込んだ旧ユーゴスラビアのスルスプカ軍では残虐性の質が違うようだ。
「ジェノサイド条約は1948年の第3回総会に提案して法律担当の第6委員会での審議だけで採択した急ごしらえの条約です。通常は専門家を集めて数年を掛けて条文の一字一句を吟味し、適用事例を想定し尽くす国際法に比べれば中身が薄いのは歴然としています」「だから君の母国は調印しないのか」1948年12月9日の国際連合総会で参加56カ国の全会一致で可決された「集団殺害罪の防止と処罰に関する条約=ジェノサイド条約」はナチス・ドイツによる占領下でドイツ本国と同様のユダヤ人虐殺=ホロコーストが行われたポーランドのユダヤ系法律家・ラファエル・レムキンが提唱した新たな法概念で、ニュルンベルグ国際軍事裁判と東京の極東軍事裁判でも告訴事由として使用されたが、当時はまだ条約化されておらず未制定の法に拠る告訴と処罰として裁判の正当性に対する重大な疑問になった。そのため国際連合は条約化を急いだのだ。一方、東京裁判の被告だった日本はサンフランシスコ講和条約で判決は受け容れたものの中華民国の梅汝璈判事が捏造した南京大虐殺などの訴追事由については暗黙の否定をしているため現時点でも調印していない。
「日本が調印していないのは刑法が行為の発生を以って犯罪とするため共同謀議では犯罪として成立しないからだ」「平和な日本では重大で凶悪な犯罪の計画を練っていても罪にならないんだね。だから地下鉄サリン事件も防止できなかったんだ」いきなり四半世紀も前の事件を持ち出されたが確かに日本では松本サリン事件でオウム真理教に対する疑惑が強まっていてもマスコミは妻が犠牲になった化学実験が趣味の一般男性を犯人扱いしていた。それでも地下鉄サリン事件が発生すると警察と検察は捜査と立件を一気に押し進めたので、密かに手を着けながらそれを隠蔽する人身御供として一般市民への疑惑を漏らしたのかも知れない。
「ところで旧ユーゴスラビアは新型コロナ・ウィルス感染症が発生しているんでしょうか」リミッド次席検察官の嫌味につき合うのは適当して私は業務上の確認に切り替えた。オランダのニュースや新聞ではヨーロッパ全土の国別の感染者数を紹介することはあるが、どうしても関係が深い西ヨーロッパが中心になり、東ヨーロッパは国名と数字だけと言う扱いだ。おまけに旧ユーゴスラビアは連邦でありながら国名の呼称が統一されておらず英語放送のテレビでは聞き逃してしまう。むしろ最近は感染者数ランキングの発表に熱心で1位のアメリカが509万人、2位のブラジルが306万人、3位のインドは227万人、4位のロシアが89万人、5位の南アフリカは56万人らしいが発生源の中国が入っていないので今一つ信用はできない。逆に日本が人口に比して極めて少ないのは加倍政権の対策の成果のはずだが、茶山元3佐から届く日本の新聞では徹底的に批判されている。加倍首相の身体が心配だ。
「モリヤ検察官としては現地調査したい事案があるんですか」「はい、文民殺害の罪で事情聴取しているセルビア人士官からデリバリッド・フォース作戦後の地上戦でNATOがセルビア人の居住地域に砲撃を加えて避難してきた文民を無差別に銃撃したと言う証言が相次いでいまして現地調査したいんです」「私たちの公務は特例で国外移動も認められるけどモリヤ検察官にはムラディッチ大将の控訴審と来年のコートジボワールのバグボ大統領の裁判でも活躍してもらわないといけないから・・・」「本当はアフガニスタンにも行きたいんですがね」私の皮肉な答えにモレソウダ首席検察官は苦笑いした。昨年、モレソウダ首席検察官はアフガニスタンでのアメリカ軍とNATO軍の戦争犯罪の調査を発表してトランプ大統領を激怒させたが、それも新型コロナ・ウィルス感染症の影響で進展していないのだ。あの後、トランプ政権はタリバーンと和平合意している。
- 2021/12/31(金) 14:48:26|
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太平洋上の島の国家・キリバスが1995年1月1日に領土を2分していた日付変更線を移動させたため東側に位置する島の1994年12月31日がなくなりました。
キリバスは太平洋の中央の赤道上で東経・西経180度、つまりイギリスのグリニッジ天文台の東経西経0度の真裏に当たり、世界で最も早く日付が変わる国です。
しかし、350万平方キロメートルの広大な海域に点在するギルバート諸島の16の環礁、フェニックス諸島の8つの環礁、ライン諸島の9つの環礁、孤島のバナバ島で成立しているため1979年にギルバート諸島がイギリスから独立した時、アメリカからフェニックス諸島とライン諸島も割譲されて吸収したことでギルバート諸島から東に300キロに位置するライン諸島が日付変更線をまたぐ形になってしまいました。
その結果、キリバス政府は2つの日付を併用することになり、業務の実施月日や現地からの報告の日付は煩雑な確認が必要になり、文字によらない官公庁と役所の無線や電話での連絡は両方が平日の週4日のみに限定され、業務が大きく阻害されていたそうです。
意外なことに日付変更線は地上でまたぐことがないようにあえて太平洋上に設定されて以降はそれが通っている国家の所定で変更することが可能で、スペインの植民地時代のフィリピンは本国やアメリカ大陸の植民地と日付を合わせるため日付変更線が西側に引かれていました。また帝政ロシアの領土だった頃のアラスカは本国と同一にするため日付変更線がカナダとの国境に引かれていて、1867年10月17日アメリカが買収した時には帝政ロシアがユリウス暦を使用していたのでグレゴリオ暦との誤差も加わって10月6日から11日分の前倒しになりました。
一方、太平洋上のサモア諸島は日付変更線の手前の東経172度に位置しているのですが、最大の貿易相手国のアメリカと日付を同一にするため1892年7月4日に西側に移動させました。ところが近年はオーストラリアやマレーシアとの貿易額がアメリカを上回るようになり、2011年12月29日に再び東側に移動させたので12月30日を跳んで12月31日になりました。
キリバスの場合、経済的な利便性ではなく国内の業務の効率化のためですが、ライン諸島を取り囲むように日付変更線を移動させたことてそれまでフランス領ポリネシアが保持していた「世界で最も日付が早く変わる島」の地位を奪取し、6年後の21世紀の到来と合わせて島の名前をミレニアム島に変更しています。確かに2001年の1月1日の午後9時の報道番組で日本よりも3時間早いキリバスから「世界最初の2001年」と中継していた民放があったように記憶しています。
そんなキリバスでは昭和18(1943)年11月から翌年2月までの「ギルバート(キリバスの別称)・マーシャルの戦闘」で制海権喪失後は補給手段もなく少数分散残地されていた日本海軍の守備隊がアメリカ軍によって各個撃破=全滅させられただけでなく、1957年から1962年にかけてアメリカとイギリスが33回の核実験を繰り返していますから決して平和な南洋の楽園ではないのです。
- 2021/12/30(木) 15:35:39|
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「スイスは春節に中国人のスキー客が押し寄せたから大変なことになっているみたいね。レーア大尉もアストラゼネカの接種が始まって軍の仕事に追われているらしいから仕方ないわ」例年は日本の小中学高校の夏休みのような長期休暇を取るヨーロッパでも新型コロナ・ウィルス感染症の蔓延によって地続きの欧州連合=EU内でも私的事情による国外移動が事実上禁止されている。そのため私たちのスイス旅行も中止せざるを得なかったが、今回はレーア大尉の方から断りの連絡が入った。1昨年はノルウェー旅行、昨年は玉城松栄さんの初盆と佳織の依頼による前川原での特別講座のため日本に帰ったので3年連続で行っていないことになる。
「スイスはEUには加盟してないけれどアストラゼネカの予防ワクチンの薬事承認はEMA(ヨーロッパ医薬品庁)の判断を採用したみたいね」「その点は戦時を想定している国家の対応だよ。果たして日本の厚生労働省が同調するやら・・・無理だろうな」アストラゼネカ社は今年の2月1日にEUを離脱したイギリスの製薬会社だが、EMAは開発段階から情報を共有して5月から始まった最終臨床試験の結果を同時に承認してヨーロッパ各国の政府は国民に接種を推奨するようになった。私たちは優先順位が高い国際機関の職員として先陣を切って接種を受けることにしたが、血栓などの副作用に不安を抱く多くの国民は相変らず躊躇していて強制接種を検討している政府も出始めているらしい。
「平成に入って私たちが学校で受けていた集団予防接種の何万人に1人の副作用が問題になったでしょう。あの時もマスコミは厚生労働省や文部科学省と製薬会社が加害者みたいに報道してたじゃない」「公務員は責任を問われると過剰に懲りて再発防止だけを考えるようになるから加倍政権でも強制することは難しいだろうな。下手なことをすれば文部科学省のように学校新設の内部情報をマスコミと地検特捜部に漏らして足を引っ張りかねん」実はヨーロッパではA日新聞系マスコミの駐在員が加倍政権のPCR検査の対象者を入国者と濃厚接触者に限定するなどの独自の対策を「WHOの指導やヨーロッパの常識に反する」との批判を流布しているため感染拡大に有効な手を打てない一部の国では国民の不満を外に向けさせるのに利用している。外国でも足を引っ張っているマスコミが国内で黙っているはずがない。
「アメリカのファイザーとモデルナの薬事承認が10月とすれば日本では年明け2月、それから接種開始では普通のインフルエンザの大流行と重なって手遅れになりかねん」「来年のインフルエンザは大丈夫よ。家から出ないで人には接触しない。おまけに外出する時にはマスク、帰ればウガイに手洗いするんだから予防対策は万全じゃない」やはり梢には一本取られた。
「今年は夏季休暇が取れなくて助かりましたよ」「暑い中の仕事は能率が上がらないが仕方ないな」国際刑事裁判所が予防ワクチンを優先的に接種したのには理由があった。旧ユーゴスラビア内戦、特にスレブレニツァ大虐殺の戦争犯罪を裁く国際特別裁判所で2016年3月24日に懲役40年の判決を受けたセルビア人の国家・スルプスカのラドン・カラジッチ大統領と2016年12月17日に終身刑だったラドム・ムラデイッチ参謀長が控訴したため国際刑事裁判所が審理を引き継いでいるが、先ずはカラジッチ大統領の判決が8月20日に言い渡されるのだ。残るムラディッチ参謀長は今年の年末の予定だ。そのため例年はさらに暑いアフリカのガンビアに帰国するモレソウダ首席検察官とベルギーに帰国してからの行動は明かさないリミッド次席検察官も出勤している。
「でもオランダの夏は快適でしょう」「確かに日本の都市部に比べれば避暑地のようです」「そうですか。私には耐え難い暑さですがね」会合の場所もモレソウダ首席検察官の執務室のソファーではなく安全な距離が確保できる小会議室になって、ここでは定番の大量の濃いコーヒーは出ないので各人がペットボトルを持ち込んでいる。小会議室のエアコンはリミッド次席検察官の懇願で全開になっていて私とモレソウダ首席検察官は厚着をしているが、持論の地球環境問題よりも快適な職場環境が優先されるようだ。勿論、3人とも2度の接種証明書を携帯して机の上に提示しているのが、私には江戸時代の踏み絵を思わせて苦笑するしかない。
「判事部としては両被告が控訴審でも罪状否認で一貫していることを問題視していて、1審よりも重い量刑を言い渡す可能性が高いみたいよ」「そうなるとカラジッチ大統領に控訴したことを後悔させる判決が下りそうだな」「しかし、我々がEUの法的強制を受けないことを示すのと同時に過去の国際軍事裁判での量刑との均衡を図るためにも死刑を求刑したかったですね」私はこの大物2人の控訴審からは外れ、現場での戦争犯罪の裁判を担当しているので立ち入ることは避けて持論を述べた。小会議室でも席は壁を背にするように置いてあるのでリミッド次席検察官の話し声は大き目になるが、マスクをしているから飛沫感染の心配はない。それにしてもモレソウダ首席検察官の大きなマスクは特別注文したのだろうか。
- 2021/12/30(木) 15:34:33|
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「これで夜の散歩を再会できるね」「それでもマスクをはめた方が良いかもな」2人で最寄りの保健所に行って職場で申し込んだ2度目の新型コロナ・ウィルス感染症の予防ワクチンを射ち終えて梢は安堵したような顔で意外なことを口にした。最近のヨーロッパでは「アメリカ製の予防ワクチンの方が安全」と言う風説が広まって国民の接種が思うように進まず、政府としては都市封鎖している地域でも予防ワクチンの接種証明を提示すれば移動の制限を緩和する措置を取るようになっているが初体験のウィルスだけに油断はできない。仮にこのウィルスが中国が開発した細菌兵器なら感染させた相手が開発した予防薬や治療薬の裏をかく変異を繰り返すようにウィルスに手を加えることは十分に考えられる。
「貴方と一緒に夜の街を歩いていると昔、国際通りを歩いてアパートへ帰ったことを思い出すんだよ。やっぱり階段の上り下りでは代わりにならないわ」「確かに運動量は維持できてもストレス発散にはならなかったな」実は新型コロナ・ウィルス感染症の蔓延を受けてスフラーフェン・ハーグでも不要不急の外出の自粛が指導されていて、こちらに来てからの2人の習慣になっている夜の散歩を自粛しなければならなくなった。それでも夜の散歩は私のⅠ型糖尿病の担当医から指導されているカロリー消費が目的なので代わりに宿舎の階段で1階から最上階までの上り下りを繰り返している。梢がつき合ってくれて運動量はこちらの方が大きいとしても同じ場所の上り下りでは全く楽しくない。
「アメリカのワクチンはファイザーとモデルナだったよな」「ファイザーが4万4千人、モデルナは3万人の治験者で臨床試験するみたい」「ふーん、アメリカでもそんなに感染が拡大しているんだな」1月下旬の中国の春節で大挙して押し寄せた観光客によって持ち込まれた新型コロナ・ウィルス感染症はヨーロッパでも急激に感染が拡大しているが、アメリカでは中国人観光客が集中したニューヨークで爆発的に蔓延して深刻な医療崩壊が始まっているらしい。ワクチンの治験者にするには本人の意思確認が必要だが、そのような危機的状況では希望者が殺到したのではないだろうか。
「アフリカや東南アジアでは中国製の予防ワクチンの接種が始まっているそうよ」「だって中国製は成分や効果、製造工程の情報を公開しない上に国際基準の臨床検査を実施したことを証明しないから欧米は採用しなかったじゃあないか」接種の証明書を受け取って自転車で帰宅しながら後ろから梢が話を続けた。マスクをしているので声は聞き取りにくいが私たちは気持ちが赤いケーブルで接続されているので会話は成立する。
「アフリカはあれだけ中国に酷い目に遭わされてもまだ懲りないんだな。それだけヨーロッパの植民地支配が酷かったことの裏返しではあるがな」同じようにヨーロッパの植民地だった東南アジアは日本の占領下で政治機構と国土の整備、国軍の創設、学校教育や産業育成などの独立に向けた準備を進めていたため日本の敗戦後に再植民地化を拒絶してからの御っか建設は既定路線だったが、住民が家畜扱いされて文明から隔絶されていたアフリカでは第2次世界大戦で疲弊したヨーロッパの宗主国が無責任に手を引いた後からは支配地域を巡る部族抗争が頻発し、それに目をつけたソ連が争っている両者に近代兵器を与え、軍事教練を施して血みどろの大陸にした。ソ連が衰退してからは中国が取って替わり、現在でもアフリカの内戦で使用されている兵器の大半は中国製か北朝鮮製だ。それでも国家権力者にとっては中国の後ろ盾を失っては軍事力による政権基盤が維持できなくなるので餌を期待して命令に従う家畜のように言われるままに振る舞っている。その代表がWHOの事務局長の母国のエチオピアだが、アフリカ諸国も国際会議では1票を有するので如何ともし難い。
「結局、日本はアメリカ製が承認されるのを待って接種を始めるのかしら。母は私が今日摂取するって聞いて羨ましがっていたわ」「アメリカ製だけで必要数が確保できれば良いが、世界中から注文が殺到すれば製造が追いつかないだろう。多分、イギリス製を先行入手して医療関係者に摂取するんじゃあないかな」「医療関係者は大変だもん万全の対策を取って欲しいわ」梢の返事に私も前を向いたままうなずいた。出勤日に職場の窓から見るGGDハーグランデン病院は大きな建物の全室の窓に灯りがともり、玄関には絶え間なく人が行き来し、遺骸を運ぶ葬儀社の寝台車を含む車両が頻繁に出入りしている。建物の中では細菌兵器を相手とする壮絶な戦闘が繰り広げられていることはテレビなどで見て判っている。
「日本は加倍政権だから大丈夫だよ。多分、世界中のマスコミが察知できない独自のパイプを駆使して必要数の確保を進めているはずだ。問題はマスコミが足を引っ張らないかだな」流石に私も加倍政権が自衛隊の非合法組織が入手した中国の細菌兵器の情報をアメリカ政府に渡した見返りとしてアメリカとイギリスが開発した予防ワクチンを優先的に入手できることまでは知らなかったが、現在の欧米の政権よりは信頼できることを実感していた。
- 2021/12/29(水) 16:35:29|
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「四十九日が終わったから普門品は世尊偈に戻しても良いな」今日は週に一度の出勤日なので私の朝課は食事前になった。美恵子の訃報を伝えた淳之介から救済を懇請されたため職人を加護する千手観音に祈願することにしたのだが、美恵子の業障の深さを考えて毎朝欠かさず妙法蓮華経観世音菩薩普門品を全巻唱えてきた。そのため出勤日には30分早く起きしなければならなくなったがそれも前回までだった。
「恵心源信僧都、白骨の御文、カーン、白骨を観ずるに我とやせん 我にあらずとやせん・・・」私は床に座布団を敷いて勤経し、梢も後ろに座って唱和している。佳織は邪魔をしないように気を遣っていたが一緒に勤めたことはなく、美恵子に至っては完全に無視していた。そんな梢は同居生活が長くなり、最近は短い経文なら本を必要としなくなっている。中でも浄土宗式の十念は音程まで完全に一体化している。
「美恵子さん、浄土へ往生できたのかしら」「それは無理だな。アイツの業障は自己中心の人間性が原因だからそれを素直に自覚できなければ駄目だ。そんな性格じゃあないよ」朝課を終えてソファーで新聞を通読しているとテーブルに朝食を運んできた梢が声をかけた。今日も自家製納豆と味噌汁の和食だ。息子の懇願を受けた使命感で供養を勤めたが、私自身が美恵子と結婚したことで受けた数多くの苦悩は「死んで消えればそれで終わり」と済ませられるほど軽いものではない。交際中に感じていた愛情も美恵子にとっては理容師と言う仕事に理解がある相手を獲得するための努力に過ぎず、本気で愛したのは趣味や波長が合う矢田だけだったのではないか。矢田も私からの訃報に絶句してしばらく茫然自失していたようなので相思相愛だったらしい。そうなると矢田が葬儀に出席して霊前で真情を吐露してくれれば美恵子が真摯に反省する奇跡が起きるかも知れない。
「考えてみればワシはお前と一緒に沖縄のニライカナイ浄土に往生したいと願っているから美恵子に居座ってもらっては困るな。と言って西方浄土だと佳織のノザキ家は浄土宗だからもっと拙いな」「貴方も浄土宗じゃあないの」「否、ワシの念佛は放下著(ほうげぢゃく=捨ててしまえ)と唱えているんだ。往生を願っている訳じゃあない」手を合わせて食べ始めると私はあまり食欲が湧かない話題を始めてしまった。梢だから相手をしているが普通の家庭では食事中に死後の話をすれば「料理が不味くなる」と拒否される。それは法要の後の精進落としの宴席でも同様で、坊主に酌をしながら宗教的な質問をする檀家がいるが酒を飲み、肉魚を食べているのは破戒であり、教えを垂れることが許される状況ではない。
「矢田も再婚しているし、アイツが来ると迷惑する人間ばかりだ」私は唐突に小隊長時代に読んだ矢田の身上表の宗派欄に真言宗と記していたことを思い出した。死ねば肉体的苦痛や快楽を求める欲望は棄てられるが因縁による苦悩までは捨てることはできない。葬儀では坊主の引導で迷いを断つことになっているが、あの世で美恵子と再会すれば「お久しぶり」と声をかける気にはならない。どちらかと言えばその場で張り倒したいくらいだ。
「他にはどんな浄土があるの」「薬師瑠璃光如来は東方の浄瑠璃浄土だよ。モリヤ家の菩提寺の本尊は薬師瑠璃光如来だからワシの祖父さん、祖母さん、叔父貴に許されていれば親父が往生しているよ。アイツを往生させれば親父への嫌がらせにはなるな」確かに父親には美恵子との交際も禁止されたが、私の人生を狂わせたのは梢との結婚を伯父に相談してモリヤ家として執拗に反対したことだ。それにしても人の死に対して真摯な感情や思考を全く持ち合わせていないのは坊主としてあるまじき態度だ。
「12世紀頃のヨーロッパでは理容師が外科医と歯科医を兼ねていて剃刀で皮膚の病変した箇所を切除したり、浣腸から抜歯までやったんだって。その名残が包帯の白と動脈の赤、静脈の青のサインポールなのよ。だから美恵子さんは薬師瑠璃光如来になら救ってもらえるんじゃあないかな」「それは恐ろしいな。アイツは仕事には一生懸命だったけど医学の知識を理解できるほどの頭は載せてなかったよ。アイツにとって頭は髪の毛が生えれば十分だったからな」ここまでで食事と話題が切れ目になった。
「職場で私も予防ワクチンの接種を申し込めるんでしょう」「うん、本部に確認したけど希望者は大歓迎だそうだ」準備を終えて梢を抱き締めて濃厚接触すると自転車を押して厳寒に向かう私に確認してきた。ヨーロッパでは5月からの最終第3段階の臨床試験を終えたアストラゼネカ社の予防ワクチンの接種が始まったが、血栓を起こすなどの副反応の可能性が指摘されていて7月から最終第3段階の臨床試験を始めたアメリカのファイザー社とモデルナ社の予防ワクチンの配給を待って比較するつもりの市民が多いそうだ。そこまで慎重な割にマスクをはめている市民が相変らず少数派なのは何故だろうか。
- 2021/12/28(火) 15:27:32|
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2015年の明日12月28日は東北地区太平洋沖地震で初めて編成された陸海空自衛隊による統合任務部隊の指揮官を務め、7月1日の解組後の8月5日には陸上幕僚長に就任した君塚栄治陸将の命日です。63歳でした。
君塚陸将は昭和27(1952)年に神奈川県相模原市で生まれ、防衛大学校を卒業後は陸上自衛隊で野戦特科士官になって幹部レンジャー課程と空挺課程、指揮幕僚課程に入校し、アメリカ陸軍の上級砲兵学校と指揮幕僚大学院に留学しました。1995年に1佐に昇任して1998年に第10特科連隊長兼豊川駐屯地司令に就任しましたが、東海・北陸地方を所管する第10師団は「最後方部隊」と呼ばれて戦車や火砲、通信機材などの装備品の更新が「骨董品の展示」「耐久力の実験」のように遅れています。それでも数少ない特科連隊長の空席待ちでは宝の持ち腐れのような人事でも仕方なかったのでしょう。
2001年に陸将補に昇任して西部方面隊総監部幕僚副長、第1混成団長兼那覇駐屯地司令、陸上幕僚監部人事教育部長、中部方面総監部幕僚長兼伊丹駐屯地司令、2007年に陸将に昇任すると九州南部を管轄する第8師団長になっていますが、九州出身でもないのに九州・沖縄方面の配置が多いのは陸上自衛隊が作戦正面を転換したことによる人材配置のようです。実際、第1混成団長時代は在沖縄アメリカ軍との連携強化を推進し、これが後に東北地区太平洋沖地震におけるトモダチ作戦につながったと言われています。
そして2009年に東北方面総監に就任しましたが、野戦特科出身者は普通科に比べて陸上幕僚長レースでは不利な上、東北方面総監は就任した前例がないため「最後の一花」の定年待ちと噂されていたようです。ところが2011年3月11日に東北地区太平洋沖地震が発生すると民主党の菅(かん)直人政権は「自衛隊の活躍を抑制しよう」と東北方面隊単独の災害派遣を命じたため初動対処の全責任が圧し掛かることになりました。
結局、地震による市街地の破壊だけでなく大津波による被害も中継映像で放送されたため菅政権(枝野幸男幹事長は東北大学出身)も未曾有の大災害であることを理解して陸海空自衛隊の全力派遣を決定したのですが、過去に部隊単位の陸海、陸空、海空の統合運用と共同訓練は経験していても陸海空10万人を超える大規模統合部隊の編成と運用は図上演習すら実施したことがなかったので組織は到着した部隊の寄せ集めにならざるを得ませんでした。そのため統合任務部隊指揮所に派遣されている海空の連絡官は自己判断できる権限も明確になっておらず、会議が延々と続くためトモダチ作戦で参加した在日アメリカ軍の連絡官は「資料の配布ですむ報告は省略しろ」などと時間の大幅な短縮を要求して自衛隊が実戦に向けての具体的準備を怠ってきたことが明らかになりました。
それでも現場の献身的努力と仙台空港の迅速な復興などのアメリカ軍の適切な協力もあって災害派遣は着々と成果を上げて7月1日で統合任務部隊が解組されると君塚陸将は幕僚長として「もう一花咲かせる」ことになったのです。陸上幕僚長としては東南アジア各国を中心に海外出張を繰り返し、積極的に大規模災害の教訓を語りました。そんな得難い人材が若死にした原因は肺癌でした。
- 2021/12/27(月) 15:43:24|
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「玉城美恵子、今回で49日、7回目の公判だ。定めにより判決を下す」美恵子が死んで49日目に閻魔王府では判決の言い渡しが行われていた。日本の法要では数字の「0」を認識していなかった古来の風習で死んだ当日を1日目として数えるため48日目に四十九日の法要を勤めるが、生命が「無」に帰した死後の世界では「0」を理解していて1日後になる。獄卒の鬼に閻魔王の前に引き出された美恵子は汚れた下着を脱ぎ、極楽へ往生した亡者が着替えて残していった腰巻を巻き、白の死に装束を身につけていた。
「顔を上げろ」公判は7回目なので閻魔王の前では床に手をついて許されるまで顔を上げられないことも学んでいる。作法通りに緩やかに顔を上げると閻魔王は両手で広げた紙越しにこちらを見ていた。初めて会った時には「鬼のようだ」と思ったが、6回の公判で憤怒の形相は亡者に自分の生前の行状を直視させて反省を促す慈悲の表現であることを学んだ。そのおかげで生前は反省することを知らなかった美恵子も両親に始まり姉弟やモンチュウの恩情に包まれて育ちながらそれを裏切ってきた愚かさを思い知り、勉強が苦手だったが故に信じてきた沖縄の学校教育の偽善と虚構の実態を見せつけられ、何よりも自分を裏切ったと恨んできた矢田の真意を聞いて控え場所の闇の中で後悔の涙を流していた。
「どうだ、何か言いたいことはないか」閻魔王は紙を広げたまま机の上に置くと呆気に取られるほど穏やかな顔で声をかけた。しかし、この問い掛けは気を許した亡者が言い訳や他人への非難を弄すれば「懺悔は本心ではない」と判定する方便でもある。
「私は馬鹿だったさァ。あんなに回りに迷惑をかけてきたんだから罰を受けなければいけない。閻魔さまが決めた罰を受けます」美恵子の返事を聞いて背後に立っている鬼の安堵の溜息が聞こえた。鬼は控え場所の看守として公判を終えて戻った美恵子のむせび泣きを聞いていたのだ。
「それでは浄土へ往生することは諦めるんだな」「死んで往くのは天国じゃあないねェ」「お前はキリスト教徒だったのか。ならばミノスの洋装に着替えなければならんが」閻魔王は美恵子の宗教上の無知を信仰心の欠落とはせず皮肉で嗜めるに留めた。ただし、キリスト教徒の死後の世界も「ゴー・ウェスト(西へ往く)」であって天上ではない。
「確かにお前はモリヤ念佛者が渡した引導のように『自覚なき罪』を重ねてきた。そして心から悔んで泣いて謝った。しかし、それだけで許してしまっては迷惑をかけた相手に恵まれたことになってしまう」この論理は現世の裁判でも問題になることがある。同じような過失で損害を与えても物件が高級品と安物では賠償額が違う。しかも所有者の金銭感覚に格差があれば損害に対する慰謝料の請求額も変わってくる。つまり美恵子は寛大で温厚な相手に迷惑をかけたから罪が軽くなることになってしまう。
「妙法蓮華経観世音菩薩普門品・・・カーン、爾時無尽意菩薩即従座起偏袒右肩合掌向佛・・・」「しまった。この時間帯だったか」その時、閻魔王府の天井から美恵子も聞き覚えがあるモリヤの声が響いてきた。先ほどまでは海面から昇る朝日に祈る淳之介に続き、雲島の御嶽に行って手を合わせているあかり、南城市の実家の母の勝子とモンチュウの長の松岳、那覇市内の日出子と夕紀子に矢田、そして出勤の途中で浜松基地の殉職隊員の慰霊碑の前で祈っているらしい松真の声が聞こえていた。毎日ではないが広東語の読経が混じるのは美恵子を本人が認識していないスパイとして香港に送り込んだ台湾陸軍の王茂雄中校かも知れない。どうやら閻魔王は判決の公平を期するため美恵子の功徳になる勤経の時間を避けて開廷したつもりが、日本とオランダの8時間の時差を考えていなかったようだ。
「モリヤ念佛者の勤経は圧迫感があるからな。終わるまで待つことにしよう」「長いと言ってもそのうち終わります」「しかし、四十九日法要として特別に長い勤経にするかも知れませんよ」閻魔王の判断に両側の席の書記が返事をした。モリヤは美恵子が一緒に暮らしていて肩が凝る、息が詰まると嫌っていた性分が変わっていないようで最初に「妙法蓮華経観世音菩薩普門品を全巻詠む」と決めると49日まで一度も欠かすことなく続けてきた。
「普通は途中で面倒になって短い経文にするものですがね」「まだ玉城美恵子への愛情が残ってるのかな」「そこが念佛者と証された所以なんだろう」モリヤの勤経が半ばを過ぎたところで少し待ちくたびれたらしい書記が雑談を始めると閻魔王が補足した。それでも本当は最も感謝し、謝罪しなければならない美恵子にとっては過去の嫌悪感を思い出させるだけの優しさの押し売りに過ぎなかった。そんな内心も閻魔王は見通していた。
「玉城美恵子には台湾の司法院(裁判所)と同様の罰を与える。六道を回って獄卒が指示する雑事を実施せよ。服役期限は玉城美恵子の態度を観察して別示する」肉体がない亡者に加えられる折檻では吹き出す血や切り刻まれる肉片も実体はない。その意味では温情判決だった。

連続ドラマ「エール」の閻魔王(橋本じゅんさん)
- 2021/12/27(月) 15:40:38|
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「寝る前に先にシャワーを浴びて・・・」「うん、そのまま先に寝てしまうかも知れないぞ」買ってきた酒類を全て飲み終えて心地よく酔いが回ってきたところで志織が声をかけた。淳之介とすれば先にシャワーを浴び終えてベッドの端で眠り込んでしまえば何事もなく朝を迎えられると言う算段を立てていた。
「淳ちゃん、入るよ」「馬鹿、何を考えているんだ」「だって脱いじゃったもん」淳之介が温めの湯でシャワーを浴びていると志織が入ってきた。当然、全裸だった。視覚障害者のあかりは動作が慎重になる分、運動量が不足するため食事制限はしていても身体はふくよかだ。一方、志織は鍛え抜いているだけに美しく引き締って性的魅力は満点だ。おまけに志織が小学校1年の時に別れているので成長段階は見ていない。
「確かに子供の頃には一緒に風呂に入ったけどな・・・」「でもあの頃の淳ちゃんのおチンチンには毛が生えてなかったよ」志織は淳之介の手からシャワーのノズルと取ると身体を洗いながら視線を淳之介の股間に向けた。実は淳之介は必死に意識を反らしているのだがこれでは徒労に終わりそうだ。すると志織は背後に回って淳之介の背中を洗い始めた。
「私、軍用機のパイロットでしょう。若し敵地に不時着して捕獲されたら収容所でレイプされる可能性があるの。実際、イラクで不時着した陸軍の夫がいるヘリコプター・パイロットが俘虜収容所で毎日のように看守の兵士にレイプされた体験談を聞いたわ。嘉手納なら東シナ海で墜落しても日本に救助してもらえるけど、インド洋のディエゴガルシアだと中国艦に捕獲されるしかないのよ」淳之介は妹がレイプされる可能性を示唆しているのだから持ち前の正義感を発揮して怒りを燃え立たせるべきだが、AVで見た女性兵士のレイプ・シーンを思い出して勃起してしまった。すると志織は驚いたような顔をして一歩後退さった。
「凄い。これが淳ちゃん自身なのね」「馬鹿、馬鹿、馬鹿・・・親父に怒られるぞ」志織の顔が好奇心に変わり、シャワーをかけながら手で洗い始めると淳之介は焦って叱責した。こんな時は志織も尊敬している超堅物の父を思い出させるに限る。
「ううん、ダディに『私のバージンを淳ちゃんに上げたい』って言ったら『避妊にだけは気をつけろ』って言って賛成してくれたよ」「馬鹿親父」常識を完全に逸脱した父の態度に淳之介は唖然としながら呟いた。こうなるとこちらも志織が尊敬している梢しかいない。
「俺はあかりと結婚してるんだ。梢さんが激怒するぞ」「ううん、梢も賛成してくれたわ。去年の夏に日本で会った時にあかりに説明したって言ってたよ」「そんな馬鹿なァ・・・」ここまで来ると唖然を通り越して茫然としてしまった。
「梢は心から愛していたダディにバージンを捧げられたからレイプされた屈辱にも耐えられた。男に捨てられてあかりを1人で育てることになってもダディの物に戻れた気がしたって言っていたわ。だから私が真剣にレイプされる可能性を感じているなら好きな人に抱いてもらうべきだって。ダディは梢とマミィからレイプされた経験を聞いているから許してくれたのね。でも1回だけだって念を押されたわ」本当は死んだ美恵子も那覇市街の裏路地で本土からの観光客に集団レイプされたことがあるのだが、別れたモリヤが知るはずがなかった。
「つまり親と女房公認の浮気って言うことか」「浮気じゃないよ。心の底から私を女として愛して」ここで志織は首筋に両腕を回して口づけしてきた。淳之介は無意識に堅い乳房を掴んでしまった。その瞬間、志織は身体を堅くした。
「私のファースト・キスも淳ちゃんに上げたんだぞ」「あれは奪ったって言うんだ」バスタオルで全身を拭きながら志織は石垣島の淳之介のアパートに遊びに来た帰りに空港で抱きついて口づけしてきた過去を自慢げに持ち出した。淳之介はハワイの高校生の軽い挨拶だと思っていたが、それでは帰国子女を早熟と決めつけて佳織を弄んだ中学校の担任・古河と大差がない。確かにアメリカ人女性は性行為を恥らうことなく積極的に楽しむ感覚を持っているので公然で大胆だが、日本人が考えるほど自由奔放ではない。むしろ「愛情の確認行為」としての愛情には強いこだわりがあり、その点は場の雰囲気で抱かれることがある日本人女性よりも固い。
「痛くても一気に入るからな」まだ罪の意識を感じていた淳之介はひそかに酔いで勃起しないことを期待していたが、本人の意思に関わりなく股間の淳之介自身は志織の全身を愛撫している間に勝手に臨戦態勢になった。淳之介の本格的な女性体験はあかりだけだが、こちらもバージンだった。だから女性として開発されていない志織に快楽を与えることが無理なのは判っている。それでも父から伝授された破瓜する時の心得はあかりでも実行していた。
「ホテルのダブルを予約するのはマミィがダディに抱かれた時の作戦なの」志織は裸のまま抱き締められながら意外過ぎる種明かしをした。若しかしてこの謎解きも美恵子の供養なのか。

イメージ画像(高塚省吾作「しのび舞い」)
- 2021/12/26(日) 14:09:10|
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大正15(1926)年の12月25日はカソリックとプロテスタントのキリスト教国では間違ったイエスの降誕祭(実際は昭和の陛下が崩御された1月7日)ですが日本では大正天皇が崩御した命日です。つまり大正元年は6日間しかありませんでした。
本来、過去の天皇の祭日の先帝祭は命日に変更されるのですが、大正天皇が病弱だったため明治天皇の7月29日の命日(即位は翌日)では酷暑の中の宮中祭儀と式典になるため慶応と合わせて45年間国民に親しまれてきた天長節の11月3日に移動し、その異例の措置は4月29日の「昭和の日」でも踏襲されました。ちなみに大正天皇はご自身の天長節でも本来の8月31日では同様の心配があるため10月31日に変更されていました。
大正天皇は明治12(1879)年の8月31日に東京の青山御所内の御産所で明治天皇の男女15人の子供の中の5番目で唯一生き残った男子として生まれました(女子も生育したのは4人のみ)。生母は明治天皇の侍女で手がついた柳原愛子(なるこ)さんで、明宮嘉仁(はるのみやよしひと)と命名されました。
大正天皇は生後1年以内に2回以上脳膜炎と思われる断続的な嘔吐や痙攣、意識不明などの症状で重篤に陥って極めて虚弱でしたが国難に際して公武合体による挙国一致を強く求めていた孝明天皇を毒殺してまで討幕を強行し、国家権力を握った明治政府の首脳たちがようやく生まれた皇位継承者を気遣う温情を持ち合わせているはずがなく将来の天皇、何よりも大元帥としての英才教育を準備しました。こうして少年期を迎えると本人の適性や志向を考えることなく最高水準の一般教養と帝王学としての専門知識の詰め込み教育と軍事知識と体育や教練が始まり、その結果、体調が悪化して療養している間に勉強が遅れ、回復すればその分を取り戻すために更に過酷な詰め込み教育を受けて体調を悪化させる悪循環の中で成長することになりました。
確かに大正天皇は実像とは別に神格化されている明治天皇や実際に現人神だった昭和の陛下と比較されて凡庸や虚弱と揶揄されることが多く、時には風説に過ぎない奇行を取り上げて「精神異常だった」と断定する歴史研究者もいますが、幼い頃に農家に預けられて真っ黒に日焼けしていたことから「黒姫」と仇名されていた九条家の姫との間に4人の健康な男子を儲けていて、明治天皇が他の男子の誕生を諦めて明治22(1889)年に皇太子になってからは沖縄県を除く全ての道府県を巡幸しただけでなく、韓国王室の即位礼に出席して皇室史上初めて海外を訪問した皇太子になっています。
また興味を持ったことに熱中する性分だったようで伝統的な和歌よりも漢詩を好んで多くの秀作を残し、フランス語や韓国語に凝って日常会話で用いるなど大元帥としての軍事知識と体育や教練を強要されなければ庶民の気持ちを理解する気さくな庶民派天皇になったかも知れません。実際、富士山麓での狩猟中にはぐれ、通りがかった青年に案内されて立ち寄った民家でお茶漬を御馳走になったりしています。
折角12月25に崩御されたのですからこの日をデモクラシーが花開いた大正の先帝祭の祭日にすれば、欧米(韓国も)の祝日が大正天皇の遺徳を偲ぶ日になります。

生母・柳原愛子さん
- 2021/12/25(土) 15:32:04|
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「首里に連れていってくれるんじゃあないのか」志織が運転するレンタカーは太平洋岸に出ると与那原で左折したが首里を通り過ぎて浦添に向かった。淳之介は昨日、石垣島から旅客機で那覇に来て南城市の玉城家に泊まったので、今夜は首里の安里家に泊まるつもりだった。
「首里には梢が連絡してくれたわ。今夜は私と飲みながら語り明かしましょうよ」「兄と妹の久しぶりの再会だから悪くはないな」「私がハイスクールの時に淳ちゃんのアパートに泊めてもらって以来よ」あの時は志織が未成年だったので酒は飲んでいない。何にしても日頃は連絡船を操舵している淳之介も今夜は助手席で空を飛ぶ船頭に任せるしかなかった。
「何で同じ部屋なんだ」現在は沖縄でも新型コロナ・ウィルス感染症が蔓延しているため飲食店の営業自粛が徹底されていて酒類とツマミは浦添市内のコンビニエンス・ストアで買い、志織が予約していたビジネス・ホテルに持ち込んだ。ところがその部屋はダブルだった。ツインであればベッドは別だが、ダブルでは一緒のベッドに寝ることになる。
「これしか取れなかったんだもん。淳ちゃんは私の嘉手納の海軍士官用の宿舎には入れないでしょ」フロントでは黙っていたものの2人でエレベータに乗り込むと淳之介が文句を口にした。それでも志織は淡々と事情説明を返した。
「八重山を通過する時、淳ちゃんの連絡船を見ることがあるよ。翼を振ってるけど気がついてる」「あの変な米軍機はお前かァ」ダブルの部屋に入り、ソファーのテーブルにツマミの総菜と缶ビール、缶カクテル、缶酎ハイを並べて乾杯すると志織から話し始めた。確かに淳之介が連絡船を運航していると上空を海上自衛隊やアメリカ海軍の対潜哨戒機が低空を通過していくことがあるが1機だけ主翼を上下に振るアメリカ軍機がいて不思議だった。ただし、アメリカ海軍のPー8ポセイドン対潜哨戒機はトランスオーシャン太平洋航空が石垣便で使っているボーイング737を改造した機体なのでエンジン音が同じで気にしないことも多い。
「やっぱり八重山でも中国の潜水艦が行動してるんだな」「海戦法では国際海峡や他国の管理水域内では浮上航行が義務づけられているけど、中国海軍は琉球列島の島と島の間を通過して日本やアメリカがどこまでなら黙認するかを検証しているから最重要監視海域になってるわ」「流石に俺が航行している水道は浅いから大型潜水艦は通過できないが与那国航路は危ないな。えひめ丸みたいな事故になったら助からないよ」「そうならないように私が守っているのよ」愛媛県の宇和島水産高校の実習船・えひめ丸がハワイ沖で急速浮上してきたアメリカ海軍の原子力潜水艦・グリーンビルに衝突されて沈没した事故は2001年2月10日なので淳之介が沖縄水産高校の実習航海でハワイに行く3年前だった。一方、中国の漢級原子力潜水艦が日本の領海を侵犯して海上自衛隊に2度目の海上における警備行動が発令されたのは淳之介が実習中の2004年11月10日だった。実際、最新の与那国航路の連絡船は700トンを超えているので499トンのえひめ丸や海上自衛隊の潜水艦・なだしおに衝突して自沈した第1富士丸の154トンよりも大きいが、それでも艦体で船底を破壊されれば一溜りもない。
そこからの兄姉の会話は2人共通の父の極めて特殊な人間性の謎解きや志織を生んだ母の佳織とあかりの母の梢の比較と父との関係で深く広く高く盛り上がった。中でも志織が祖父母のノザキ中佐夫妻と暮らして夫婦のあり方を学んだことで今は父と暮らしている梢に心からの敬意を抱き、佳織の妻としての態度に疑問を持っていることは意外だった。
「それにしてもあの超堅物の親父がどうして離婚前にお母さんと不倫関係になったのかな」淳之介は焼香に訪れた矢田に父から連絡を受け、強く勧められたことを聞き、それが死んだ美恵子にとって一番の救いになることを察していたと理解したが、同時に美恵子とは真逆の人間性だった父まで佳織と不倫関係になった理由への疑問が頭から離れなくなっていた。
「それはマミィがダディを逆レイプしたのよ。マミィが中学生の時に帰国して担任の教員にロスト・バージンさせられたのは知ってるでしょ」「そうなのか」思いがけない証言に淳之介は語気を強めてしまった。父親似で人一倍正義感が強い淳之介にとっては梢が職場の同僚にレイプされて無理矢理結婚させられた過去を聞いただけでも我慢ならぬのにこれは追い打ちだ。
「だからマミィは好きな人に抱かれた記憶が欲しくて久留米の幹部候補生学校で出会って好きになったたダディに抱かれる作戦を立てたのよ。だけど久留米ではキスまでだったみたい。それもマミィが奪ったんだって」「親父も変な堅物だからな」志織の説明に淳之介は酔いで痺れてきた頭の中で美恵子と佳織を比較したが、普通の男なら迷わず乗り換えるはずだ。そう思った瞬間、淳之介の胸に中学生の時に美恵子のアパートに泊まり、借りてきたAVを見ているのを見つかって口腔性交された悪夢が甦ってしまった。性行為が女性の身体に男根を挿入することであれば淳之介の初体験の相手は美恵子になってしまう。
- 2021/12/25(土) 15:18:37|
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朝鮮戦争が開戦する半年前の1949年の12月24日に韓国の日本海(韓国では東海)側南部の慶尚北道の聞慶郡(現在は聞慶市)山北面で朝鮮労働党の工作員や協力者を捜索していた南朝鮮国防警備隊=後の韓国陸軍の第2師団第25連隊第7中隊の第2小隊と第3小隊が集落にいた老人や女性と子供を含む非武装・無抵抗の住民に発砲して88人を殺害する事件が起きました。
この事件も第2次世界大戦末期に日本の朝鮮総督府や軍が本土へ撤退を始めた混乱に乗じてソ連が送り込んだ政治工作員が「金日成書記長を頂く北朝鮮労働党の下での朝鮮民族による統一国家の樹立」を喧伝して韓国全土で賛同者を集めていたことに危機感を抱いた李承晩政権や南朝鮮国防警備隊の上層部が戦時には軍事情報を通報し、破壊活動を行う惧れがある協力者を捜索・摘発した(いわゆる)共匪狩りの1つですが、韓国の近年の文民政権は李承晩政権と朴正煕政権から盧泰愚政権までの軍人政権の悪事を告発することを反日と並ぶ支持率獲得の手段にしているので日本が信託統治下で行った近代化の諸施策や国土建設と農業振興などは無視して全てが植民地としての搾取と略奪だったと否定する虚偽の歴史を国民に教育しているのと同様に決して史実とは言えない歪曲と誇大の発表の可能性も否定できません。しかし、他の住民虐殺事件では市民の反政府デモの武力鎮圧であれば暴動が通常の手段では制御できないほど過激化したなどの武器の使用を正当化する説明を加えて市民殺害の断罪を過剰行為への批判に置き換え、戦時下の住民虐殺であれば朝鮮労働党の宣撫工作が完全に浸透していて識別不能状態に陥っていた上、抵抗の動きを見せたなどの正否不明の理由を弄して「戦時下」と言う特殊事情で逃げようとします。ところがこの事件では「朝鮮労働党の工作員=共匪が住民を虐殺した」と公式発表していて最近まで学校で史実として教育していたのです。
これに対して自国を誹謗・非難することに熱意を注ぐことで金大中政権が始めた反国家=親北朝鮮の教育を受けてきた売国的若年層と文化人の支持を受けていた盧武鉉政権が2005年に成立させた「(北朝鮮との)真実和解のための過去史整理基本法」に基づく整理委員会が2007年に「韓国政府=李承晩政権の犯行」とする調査結果を発表すると2008年7月10日に59年と半年前の事件の遺族が「韓国政府が事実を隠蔽し、真相究明を求めた遺族を反国家行為者として逮捕するなど損害賠償権の行使を妨害してきたこと」を理由に時効の適用除外と損害賠償を求める裁判を起こしたのです。
1審では特例の除外を認めず「時効の成立によって国家の賠償責任は消滅している」として請求を棄却し、2審でも「事件から5年間の時効が成立している」として1審判決を支持したため原告が上告し、2011年9月8日に大法院=最高裁判所が「韓国政府が賠償請求権を行使できない状況に置かれていた原告の請求を時効の成立を理由に拒否するのは不当」として審理をソウル高等裁判院に差し戻し、2021年末現在も公判中ですが、盧政権の売国政策を継承する文在寅大統領としては来年5月までの任期の間に自分の手で決着をつけたいはずです。
- 2021/12/24(金) 14:12:55|
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「こんばんは」葬儀の後の会食は矢田が車で来ていたので宴席にはならず、松岳もスナック・カッチンのママを経験した屈強の女性軍団の相手をするのを避けて帰ってしまったため淳之介1人が取り残される形になった。そこに玄関から声をかけた女性がいた。
「はい、どちらさまですか」今回も勝子が立ち上がって廊下を歩いていった。すると向かい側の席で日出子と夕紀子は「若い子さァ」「ナイチャア口(標準語)さァ」とささやき合って、淳之介は玄関で始まる会話に耳をすませていた。
「淳之介の妹のモリヤ志織ですが父の名代として伺いました。お参りさせて下さい」「志織か・・・」意外過ぎる自己紹介に淳之介は絶句し、日出子と夕紀子も呆気にとられて顔を見合わせた。すると間もなく勝子に先導されて木綿色のワンピースを着て胸に父と梢がスリランカから送った猫目石のネックレスを飾った志織が入ってきた。
「志織ってモリヤと後妻の娘さァ」「アメリカ軍のパイロットになったって松真が言ってたよ」仕出し弁当と一緒に缶ビールを開けた日出子と夕紀子の少し大きくなった内緒話に迎えられた志織は喪主席に移動していた淳之介の前に正座して畳に両手をついた。志織は中学時代から居合道と茶道を続けているだけにハワイ育ちでも日本式の立ち振る舞いは見事なものだ。
「この度はお母さんを亡くされて・・・おかけする言葉も見つかりません」弔問の口上も本土の葬儀でも聞くことがない正統派でおそらく父の躾だろう。淳之介は志織が第7艦隊哨戒飛行隊に配属されたことは聞いているが、その時の説明では司令部と主力部隊は三沢基地に在り、嘉手納基地とインド洋のディエゴガルシア島に分遣隊を置いているとのことだった。この服装は普段着なので嘉手納基地から来たのかも知れない。
「香炭に火が点きました。どうぞ」兄と妹で堅苦しい挨拶を交わしている間に勝子が角香炉に灯明の炎で火を点けた香炭を寝かせて声をかけた。すると志織は立ち上がらず正座のまま拳を握った両手と膝で移動した。これも茶道の作法だ。
「淳ちゃんのお母さん、父から追悼の道歌を託されています。聞いて下さい・・・自覚なき 罪も罪なり 悔やむべし 閻魔の前では 泣いて謝れ・・・以上です」美恵子の遺影の前に座った志織は父から託された道歌を唱えるとこれもハワイで渡された数珠を揉み、手を合わせて背中を伸ばしたまま身体を前に倒して祈った。その形は父と同じだった。それにしてもこの痛烈な道歌には父が美恵子に対して抱いている想いが凝縮されているようだ。
「私は今、嘉手納に長期派遣されていて、この間オランダに電話したら梢から淳ちゃんのお母さんが亡くなって実家で葬儀があるから名代としてお参りしてくれって頼まれたの」焼香を終えた志織は喪主の前に戻って淳之介に事情を説明したが、妻の母である梢を英語式に呼び捨てにしたのには親しみの表現とは言え違和感があった。
「本当は朝から来たかったんだけど昨日から東シナ海でチャイナのサブが潜航したまま動き回っていてミッションのフライトだったの。昼過ぎにリターン(帰投)して雑務を片づけて来たらこんな時間になっちゃった。ごめんなさい」「サブって潜水艦(サブマリン)のことだな。ミッションのフライトは・・・」「作戦飛行よ。実戦態勢で監視していたの」志織は父や梢には通じる英語の専門用語が淳之介には理解されず確認を受けることになった。すると夕紀子が肩をすくめて「戦争さァ」と呟いた。
「志織さんはアメリカ軍のパイロットなんですよね」「はい、対潜哨戒機・ポセイドンに乗っています」「対潜哨戒機ってネービーの飛行機さァ」「那覇空港にもいるさァ」やはり姉2人は死んだ美恵子よりも成績優秀だっただけに理解も早い。ただし、アメリカ海軍のボーイングPー8ポセイドンと那覇空港=海上自衛隊沖縄航空基地の川﨑Pー1では機種が違う。
ここに松真がいれば飛行機談義と軍事問題の質疑応答に花が咲くのだが勝子、日出子、夕紀子は門外漢なのですぐに話題は尽きてしまった。何よりも志織は淳之介の義妹とは言え死んだ美恵子と別れたモリヤと後妻の間に生まれた娘であり、志織にとって美恵子は父を裏切った前妻に当たるだけに座は急速に白けてきた。
「淳ちゃん、一緒に帰ろう。私はBXのレンタカーで来たからタクシー代はかからないよ」話が途切れたところで志織が居住まいを正して提案した。
「しかし、今夜はここで・・・」「アンタは喪主を立派に勤めたから美恵子も喜んでるよ。首里まで帰るタクシー代が節約できれば助かるさァ」「伯母さんたちと一緒に寝たいねェ」志織の提案を受けて日出子と夕紀子は追い出しにかかった。2人としても母と3人水入らずで過ごすには黒一点の淳之介は邪魔であり、逆に若い癖に人一倍気を遣う淳之介をこれ以上疲れさせることを控えたらしい。やはり志織が乗ってきた乗用車はアメリカ軍のYナンバーだった。

イメージ画像(フライト中の志織)
- 2021/12/24(金) 14:09:03|
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昭和23(1948)年の12月23日午前0時1分に巣鴨プリズン内の処刑場で土肥原賢二大将はA級戦犯7人でも1組の4人の1人として吊首刑が執行されました。
土肥原大将は明治16(1883)年に岡山県岡山市で生まれますが、軍人だった父親の転勤で東京の青山小学校など全国各地の学校で学んだ後、仙台陸軍幼年学校に入営しました。一緒に刑を執行された板垣征四郎大将とは陸軍大学校は4期先輩でも幼年学校と士官学校は同期でした。したがって板垣大将と同じく日露戦争中の明治37(1904)年に陸軍士官学校を卒業して戦場に赴き、終戦後は国民の厭戦気分の中で肩身の狭い思いをしながら中堅幹部まで地道に昇任しました。
そんな軍が存在意義を発揮して国民の支持を奪還する好機と思われた第1次世界大戦もドイツの租借地・青島攻略の局地戦に留まりましたが、大戦中の1905年に発生したロシア革命を最大限に利用して共産革命の拡大阻止を名目にヨーロッパ諸国が中国の租借地から派遣したシベリア出兵に参加し、撤収後も陸軍は満洲に大規模な兵力を駐留させたのです。しかし、日清戦争の勝利を「大陸侵出の足がかりを得た」と考えた長州陸軍閥の野心を継承する陸軍は満洲の大部隊を南進させて大陸での利権獲得に踏み出す口実を探していましたが、ヨーロッパ諸国の第1次世界大戦後の厭戦気分は陸海軍の軍縮を大流行させてそれは極東の日本にも波及したのです。このため陸軍も満洲の大部隊を維持しながら軍事費を削減する難事業に取り組むことになり、結果的に戦力を使わないで敵を窮地に追い込み目的を達する長州藩士が幕末に弄した「謀略」が持て囃される風潮が蔓延し、その「謀略」で傑出した手腕を発揮したのが土肥原大将と板垣大将でした。
板垣大将が石原莞爾中将と共謀して柳条湖事件を発端とする満州事変を生起させ、自作自演の軍事行動で満州国を建国したのに対して土肥原大将は諜報と政治工作、世論誘導などの情報戦を専門とする特務機関で活躍し(北京語に堪能だっただけでなく方言の会話もできた)、昭和6(1931)年に満州事変が発生した時には奉天の臨時市長に就任して甘粕正彦大尉を使って清朝の愛新覚羅溥儀皇帝を脱出させるなど裏から関東軍の軍事行動を支援しましたが、その資金を個人名義で借金したため家族帯同で赴任していた現地では将官とは思えないほど切り詰めた生活をしていたようです。
土肥原大将は「謀略はテクニックではなく誠の心である」と語っていた通り現地では絶大な人望があり、連合軍でも中華民国=蒋介石政権がA級戦犯の指定と死刑を強硬に主張して譲らなかったのは万が一生き残って再び大陸に移住することになると蒋介石政権を打倒して再び満洲の独立を樹立しかねないと真剣に危惧したからだと言われています。
戦争末期の昭和20(1945)年4月には陸軍大臣になっていた板垣大将と入れ替わるように3長官の1つ教育総監に就任し、8月15日の深夜に阿南惟幾大将が自刃した時には後任の陸軍大臣に指名されましたが、前述のように「中華民国が連合国に提出したA級戦犯名簿の筆頭なっている」との情報が流れたのか下村定大将に変更されました。
辞世は「わが事も すべて了りぬ いざさらば ここらでさらば いざ左様なら」でした。
- 2021/12/23(木) 14:54:38|
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「君には会って詫びなきゃいけないと思っていたんだが、それが今日になってしまって・・・」香川県出身の矢田の宗旨はやはり真言宗のようで美恵子の遺影に向かって経本を見ながら不思議な経を唱えていたが、それを終えると喪主席に座っている淳之介に両手をついて額が畳につくまで頭を下げた。淳之介も初対面の元義父に合わせた。
「いいえ、矢田さんが玉城美恵子、母を愛していたことが聞けて俺も安心しました」淳之介が返し口上を述べているところに夕紀子が茶を淹れてきた。矢田も美恵子の夫として沖縄へ赴任してからはウチナー正月やシーミー祭に呼ばれていたので玉城家の家族とは面識がある。しかし、自慢の夫だったモリヤから美恵子を奪った矢田に対する家族の拒絶は厳しく、中でもモリヤを尊敬していた義弟の松真は帰省して会っても挨拶さえしなかった。一方、淳之介は沖縄に来て玉城家で暮らすようになると叔母や叔父から「美恵子は玩具にされて捨てられた」と聞かされたが、息子の目から見て玩具にしたくなるような魅力があるとは思えなかった。
「小隊長は自分のことを憎んでいると思っていたんだが、数年前に那覇駐屯地で再会した時には全くそんなことは感じさせないで、それどころか俺の人事上の処置を撤回するように隊長に言ってくれた。おかげで今では1曹だ」「父は俺が中学生になった頃、『母と結婚したことが間違いだった』ってハッキリ言いました。俺は沖縄時代に心の底から愛し合っていた女性に産ませなければいけなかったって。でも今はオランダでその女性と一緒に暮らしていますよ」「アンタの嫁のお母さんじゃない」淳之介の思わせぶりな説明に後ろから勝子が補足説明を加えたが、かえって矢田は困惑した顔になった。
「小隊長は善通寺駐屯地でも評判の愛妻家で、部隊では始めは『髪結いの亭主で贅沢してる』って言われていたけど、美恵子さんが好きで働いていることが判ると今度は『尻に敷かれてる』って馬鹿にされたんだ。それでも小隊長は平気だったよ」矢田の意外な裏話で玉城家の女性たちは美恵子がモリヤにかけていた迷惑が無断で就職したことと不倫だけではないと判り、美恵子の遺影を睨みつけた。父の松栄が生きていれば深く反省して落ち込んでしまうところだ。
「それは使命感です。父は使命感に火が点くと自分がなくっちゃうんです」「それじゃあ今のお母さんとは。次はウチの旅団長だって噂になってるけど」モリヤ佳織将補はWACで唯一の中々美人と評判な将官なので部内の機関紙などで紹介されると隊員たちは期待を込めて人事予定を決めているらしい。そろそろ移動の時期になったモリヤ将補の次の任地は全国の将補の配置先で勝手に人事発令されているのではないか。
「母とは戦友愛です。母との暮らしは自衛隊そのものでした」「小隊長は根っからの自衛官だからそれも幸せなんだろうな」「やっぱり床屋とは合わなかったのさァ」矢田の評価に日出子と由紀子は小声でささやき合った。確かにモリヤは美恵子が職業人として研究に励んでいた髪型や服装には全く関心がなく、これも使命感で突き合っていただけだった。モリヤにとって美恵子の理容師と言う職業は迷惑以外の何物でもなかった。
「それにしても小隊長はどうして今一緒に暮らしている女性と結婚しなかったのかな。モリヤ将補と離婚していないなら不倫じゃあないか。そこまで気持ちが変わらないなら結婚するべきだろう。ごめん、息子の前で拙いことを言ってしまったな」「大丈夫です。オランダに赴任する父に義母を連れていくように言ったのは僕と嫁ですから。義母の荷物を無断でオランダに送って手配した航空券を持って出発の前の日に3人で東京へ押しかけて義母を置いて帰ったんです」「美恵子以上の押しかけ女房さァ」日出子と夕紀子はこの顛末は聞いているが松栄がいつもモリヤに美恵子との復縁を頼んで押しつけたことを悔やんでいたのに比べても大胆かつ強引で、かえって痛快に感じて羨ましくなる。
「父は親から自分の意志を持つことを禁じられて育ったから自分がないんです。父が言っていることはモリヤニンジンと言う人間ではなく僕と妹の父親、母の夫、陸上自衛隊の幹部自衛官、国際刑事裁判所の検察官としての立場からの意見しかありません。ところが義母は父の気持ちと一体化して全てに共感してくれる女性なので人生の掛け替えのない伴侶でした。でも親が許さなかった」「どうして」「祖父の兄が『沖縄は植民地だから原住民と子供を作ればモリヤ家の血が汚れる』って反対して祖父も服従したんです。義母は悩み苦しむ父が死を考え始めたのを察して身を引いてしまった。そこに現れて押しかけたのが玉城美恵子でした」淳之介はあかりから聞いている父と義母の逸話を正直に語ったが、父の伯父の沖縄を冒涜する発言には周囲のシマンチュウたちは不快感を露わにして拳を握った。
「矢田さん、よろしければどうぞ」淳之介と矢田の話に区切りがついたところで勝子がまだ手をつけていなかった自分の仕出し弁当の包装を整えて声をかけた。
- 2021/12/23(木) 14:53:23|
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昭和23(1948)年の明日12月23日の午前0時1分に極東国際軍事裁判所=東京裁判におけるA級戦犯の1人・板垣征四郎大将の死刑が執行されました。辞世は日蓮宗の信者らしく「今はただ 妙法蓮華と 唱えつつ 鷲の峰へと いさみたつなり」でした。ちなみに日蓮宗は「鷲山(りょうぜん)浄土に往生する」と説いています。
板垣大将は明治18(1885)年に現在の岩手県岩手郡岩手町で戊辰戦争終結後に秋田藩攻めの戦犯として江戸に送られた南部藩士を祖父に気仙郡長と女学校長を父として生まれました。明治30(1897)年に旧制・盛岡中学校(5年制)に入学すると3学年上には後に海軍大臣・総理大臣になる米内光政大将、1学年上には日本語学者の金田一京助博士や「銭形平次」の作者の野村胡堂さん、及川古志郎海軍大将、1学年下には歌人の石川啄木さんがいましたが、板垣大将はこれらの先輩や後輩たちとは別に明治32(1899)年に仙台陸軍幼年学校に入営して陸軍軍人の道を歩み始めました。
日露戦争が始まった明治37(1904)年に卒業・任官して出征しますが、無事に帰還してからは平時の軍隊らしい武人の本道からかけ離れた経験を積み、謀略の第1人者として頭角を現していくことになりました。大正5(1916)年に陸軍大学校を卒業して翌年に陸軍参謀本部所属で昆明駐在になると大陸の実情を詳細・綿密に調査し、大正8(1919)年には中支派遣群司令部の参謀になり、大陸で暗躍を始めたのです。中でも関東軍高級参謀だった昭和6(1931)年に石原莞爾作戦参謀(山形県鶴岡市出身)と共謀して柳条湖事件(関東軍が満州鉄道を爆破して国民党軍の犯行として先端を開く口実にした)を起こして満州事変を発生させたことは東京裁判でも戦争犯罪の平和に対する罪(この訴追を受けた者がA級戦犯になる)として告発されています。ちなみに共犯者の石原中将は連合軍が日本版ヒトラーと位置づけていた東條英機大将(南部藩の能役者の末裔)と対立して予備役に編入され、戦時下でも公然と批判していたため逮捕を免れています。
この満州事変の結果、日本軍は昭和7(1932)年に満州族の清朝の最後の皇帝・溥儀を立てて満洲国を成立させましたが、板垣少将はその中心的立場で万事を指揮して日本と言う国家や帝国陸軍ではなくその一部隊に過ぎない関東軍が国家を成立させ、事実上の統治を指揮すると言う世界史上例がない壮大な謀略が展開されました。
その後は昭和13(1938)年に中央に呼び返されて陸軍大臣に就任しますが、翌年には大陸に戻り、昭和20(1945)年4月に第7軍司令官としてシンガポールに赴任してここで敗戦を迎え、A級戦犯として逮捕されて東京に護送されました。
東京裁判では土肥原賢二大将と共に「1928年から1945年の侵略戦争の共同謀議」「満州事変における中華民国への不当な戦争」「アメリカへの侵略戦争」「イギリスへの侵略戦争」「オランダへの侵略戦争」「ソ連に対する張鼓峰事件の遂行」「ノモンハン事件」「1928年から1945年9月2日までの戦争犯罪行為」の最多の罪で訴追されていますが、極悪非道な策略を弄した参謀・辻正信大佐が「唯一心から崇敬していた人物」とされていますから罪状の適否とは別に至極当然な死刑判決だったのでしょう。
- 2021/12/22(水) 14:06:50|
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「続いて検察側証人だ・・・現世の裁判も中々面白いな」美恵子は裸の背中に今まで経験したことがない心地好い温もりを感じて目を閉じて恍惚の気分を味わっていたが、やがてそれが消え目を開けると千手観音が放っていた光は消え、傍らに立っていた巨大な足もなくなっていた。すると正面の閻魔王が声をかけてきた。その口調は妙に軽く唇が少し緩んでいる。
「美恵子、大丈夫か」「身体を捨ててここへ来れば病気の苦しみからは解放されただろう」暗闇から2人の男性が歩み寄ってきた。閻魔王の前の灯りに照らし出されたのは父の松栄と伯父の松泉で、2人とも白の死に装束を着て素足に藁で編んだ雪駄を履いている。
「オトウ・・・いつ死んだねェ」「去年の2月3日だよ」美恵子の驚いたような声に松栄は困ったような顔で答えた。松栄が癌で死んだ時、美恵子には連絡がつかず、死んで再会した「父も亡くなっている」と推理するのは容易でも心の準備ができていなかった。
「お前たちは安里淳之介に頼まれていることがあるんだろう」「ですが検察側と言うのには納得できません」「それはワシが現世の裁判に合わせてみただけだ」先ず松泉が閻魔王に確認した。やはり元鉄血勤皇隊の戦士で玉城家モンチュウの長は死後も泰然自若として閻魔王に対しても臆することがない。そこが沖縄式祖先崇拝の強みでもある。しかし、オランダでモリヤが立てた法廷戦術に乗ることにした閻魔王は肩の力が抜けてしまっているのかも知れない。
「お前は矢田と千手観音さまのお話を聞いてどう思った」「やっぱり私は馬鹿だったさァ。あんなに優しい旦那さんのことを大切にしなかったなんて勿体なかったよ」父の質問に対する美恵子の答えはどこか外れている。それでもアポロ11号で月面に降り立った二―ル・アームストロング船長の「1人の人間にとっては小さな1歩だが、人類にとっては大きな躍進だ」と言う名言を引用したくなるほどの前進だった。
「矢田だけじゃあなくてお前の両親や姉弟、何よりもモリヤさんの優しさを理解せずに裏切ってきたことを心から反省して閻魔王に懺悔しなければいかん」「何で伯父さんがここにいるねェ。伯父さんは人殺しだから地獄へ堕ちたはずさァ」折角、松泉が救われるための1歩に誘(いざな)っても美恵子は逆の反応をした。松泉は困ったように振り返って閻魔王と顔を見合わせ、松栄は哀しそうな目で美恵子を見詰めた。
「玉城美恵子、現世では個人情報の保護で非公開になっているらしいが、特別に見せたやりたい映像がある。淨玻璃鏡の前へ連れて行け」「はい」閻魔王の指示に獄卒の鬼が返事をして美恵子を立たせると脇に置いてある淨玻璃鏡の前へ移動させ、松泉と松栄も後に続いた。
「これは・・・」淨玻璃鏡には火焔に焼かれ、煮えたぎる大釜で茹でられ、刃に裂かれて悶え苦しむ亡者たちの姿が映し出されている。流石の美恵子も恐怖に固まって質問する言葉が出てこなかった。すると背後の鬼が感情を交えずに説明を始めた。
「これは八熱地獄だ。地獄には八熱地獄と八寒地獄に多くの小地獄がある。八熱地獄には殺生の罪を犯した等活地獄、殺生と偸盗の黒縄地獄、殺生と偸盗・邪淫の衆合地獄、殺生・偸盗・邪淫・飲酒の叫喚地獄、殺生・偸盗・邪淫・飲酒・妄語の大叫喚地獄、殺生・偸盗・邪淫・飲酒・妄語・邪見(誤った考え方)の焦熱地獄、殺生・偸盗・邪淫・飲酒・妄語・邪見・犯持戒者(尼僧を強姦する)の大焦熱地獄、そしてこれらに阿羅漢(佛教聖者)や父母の殺害を加える阿鼻=無間地獄がある。一方、八寒地獄にはアブタ地獄、ニラブタ地獄、アタタ地獄、カカバ地獄、ココバ地獄、ウバラ地獄、ハドマ地獄、マカハドマ地獄があるがこれらの名称は寒さだ唇と舌が凍りついて言葉にならないことを表している」ここまで説明した鬼は焦熱の情景が映った淨玻璃鏡を指差した。焦熱地獄では鬼が燃え盛る火焔の中に亡者を突き落とし、火焔で焙った鉄板の上に押しつけ、待ち時間には赤く熱した鉄の棒で滅多打ちにしている。美恵子が鬼の示した位置を注視するとそこには見覚えがある人物が鉄板に押しつけられていた。身体か焦げて煙を発し、全身を反らして悶え苦しんでいるが鬼は鉄の棒で背中を押さえつけている。
「これは知事さんじゃないね」美恵子の呟きに鬼は無表情にうなずいた。それは時事問題に関心がない美恵子でも新聞やテレビで見覚えがある沖縄県知事だった。その知事は沖縄戦では松泉と同じ鉄血勤皇隊でも通信員として司令部壕内で勤務しながら琉球大学の教授として歪曲した前線での戦闘の惨状を学生に吹聴し、沖縄県教職員組合やマスコミなどの社会的エリートの反日反米親中の政治主張を作り上げた。
「この亡者は政治的意図で虚偽の史実を沖縄県民に植えつけた邪見と妄語の罪で焦熱地獄に落ちた。探せば他にも生前は反戦平和を口にしながら国のために命を捧げた武人たちを誹謗した有名人たちが罰を受けているぞ」「伯父さん、ごめんなさい」また美恵子は床に額をつけた、松泉も広げた手を置いたが、それでも姪の裸の背中に触れるのには一瞬ためらった。
- 2021/12/22(水) 14:05:07|
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明治35(1902)年の明日12月22日に「年齢計算ニ関スル法律」が施行されて明治6(1873)年の太政官布告第36号「年齢計算方ヲ定ム」で公式には西洋式の満年齢を採用しながら実際は古くから使用されてきた暦による(いわゆる)「数え年」を存続させていた不徹底を改め、誕生日を起算日とする「満年齢」に統一することになりました。
それでも野僧が子供の頃は明治生まれの高齢者が元気だったので誕生日が来て年齢を申告すると「数えなら」と教えてくれましたが、単純に「1歳加算するだけか」と誤解すると「お母さんのお腹に宿った時からだから本当は10月10日だけど1歳足す」「国中が一緒に1月1日に1歳もらう」などと意義も補足説明してくれたものです。
ただし、この説明には若干の誤りがあり、1歳加算するのは妊娠期間ではなく「数え年」による年齢計算が始まった古代の日本には数字の「0」と言う概念がなく、それを確立したのは7世紀のインドの数学者・ブラフママグプタさんなので(残念ながら)世界共通年号になっているキリスト教暦やイスラムのヒジュラ暦、中国や日本の元号でも元年は0年ではなく1年で、翌年は2年になります。それは日本の佛教にも残っていて、亡くなった命日は0日ではなく1日になるため閻魔王府での7日毎6回の裁判を経て判決が下る7回目に勤める四十九日法要も48日目になります。さらに法要も亡くなった年が1年になるため1年後は一周忌と胡麻化しておいて2年後からは三回忌にして以降は1年加算した数字を重ねて実際の年数よりも1年早く回忌法要を勤めています。
暦や法事の回忌は「そんなものだ」と慣れれば大きな問題はないのですが、年齢は1月1日に生まれて正しく1歳になった子供と12月31日に生まれて生後数時間の新生児が1月1日で一緒に2歳になっては色々な点で支障がありました。特に公的な就学や兵役は満年齢でも地域の行事などは「数え」で参加資格が決まり、生まれた月によっては揉め事の原因になることもあったようです。
それも満年齢を徹底することで解決したのですが(と言うよりも納得せざるを得なかった)、誕生日を0歳とすることが妙な疑問を生みました。誕生日が0歳であれば翌日は0歳と1日、翌々日は0歳と2日に加算されていきますが、その日数を何時加えるかが問題になったのです。当時は自宅での出産が一般的でしたが、正確な時間を示す時計を所有している家庭は少なく、ましてや産婆が高価な携帯式の懐中時計を持っているはずがなく、起算日は定まっても時間までは確定できませんでした。そのため夜の11時59分に生まれても誕生日の午前0時を起算日とすることになったのですが、1分の誤差を気にするほど正確な時計は普及していなかったので親と産婆の話し合いで決まったのでしょう。
ちなみに天皇の誕生日の祝賀は唐の玄宗皇帝に倣って聖武天皇の天平元(729)年に始まっていますが(天長節になったのは19年後)、個人で最初に誕生日を祝ったのは織田信長さまで宣教師からクリスマスの説明を受けて模倣したと言われています。行事に出席した宣教師は「カミを畏れぬ所業だ」と母国の宣教会への報告書簡で非難しましたが、天長節の踏襲なら問題なかったようです。
- 2021/12/21(火) 13:04:49|
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「玉城美恵子、無事に葬儀が終わったようだな」「無駄なお金を遣ったさァ」美恵子の葬儀は死後数週間が経っていたので1週間に1度閻魔王の審問を受ける時には淨玻璃鏡で録画映像を見せられていた。遺骸が香港特別行政区の保健衛生担当者によって汚物扱いで処理されたため着ていたパジャマがそのまま死に装束になったことに怒ったが、それ以上に次級者として作業を指揮していた人物が客だったことに驚いた。次にあかりが閻魔王と美恵子の対面を感知して帰宅した淳之介に伝え、在香港領事館からの手紙を受け取った母の連絡にも冷静だったこと。淳之介と元夫のモリヤの対話が極めて冷淡だったこと。にも関わらずモリヤは毎夕に長い妙法蓮華経観世音菩薩普門品を勤めていること。そして淳之介から葬儀の日程を聞くと那覇駐屯地業務隊の矢田に連絡して「元夫として冥福を祈ってやって欲しい」と懇願したことを見ていた。
「矢田が来たさァ」葬儀が終わり、獄卒の鬼が美恵子を立たせて閻魔王の正面に移動させようとした時、淨玻璃鏡に南城市の玉城家の玄関前で中に声をかけている矢田の姿が映った。前回に見た録画映像ではモリヤの説得に矢田は立場を弁えて躊躇していたため美恵子はモリヤと同様に憎まれていると受け取っていた。だから意外だったが「自衛隊式の命令に従っただけだ」と納得した。矢田は台湾陸軍第9軍指揮部法務官の王茂雄中校と会うため沖縄を訪れたモリヤ2佐が那覇駐屯地に立ち寄った時に再会し、直属上司の駐屯地業務隊長に「美恵子との不倫を理由に昇任させないのは不当人事だ」と訴えた。そのため2回昇任して現在の階級は1曹だった。それを知れば計算高い美恵子は「自衛隊式の謝礼だ」と決めつけた可能性もある。
「この男がお前を夫から奪ったんだな」閻魔王は鬼を手で制止すると淨玻璃鏡に見入っている美恵子に声をかけた。これが現世の裁判であれば余罪を認めないように弁護人が意義を申し立てるところだが、この法廷では裁判官が質問しているので美恵子も素直にうなずいた。
「俺は人妻なのに世間知らずで、仕事に一生懸命なお前に本気で惚れていた。考えても見ろ、自分の小隊長の妻を奪って無事ですむはずがないだろう。だけど俺は仕事捨ててでもお前を奪うことを決めた。だからお前との生活は本当に幸せだった。なのに・・・」ここで響いてくる矢田の心の声が途切れ、美恵子が漆黒の闇の天井を見上げると重い声で再開した。
「お前は那覇での仕事に熱中して俺のことは全然気にしなくなった。あの頃、俺は追い詰められていたんだ。それで今の女房に出会った。お前にとって理容師は天職じゃない。髪と一緒に自分の人生を切り刻む破滅の業(わざ)だ。次に生まれ変わるなら理容師にだけはなるな」普段の美恵子であれば理容師を否定する発言を聞かされれば即座に激怒し、興奮して反論するのだが矢田の言葉には黙って聞き入っていた。やはり美恵子も矢田を愛していたのだ。
「ここで特別に弁護側証人のお話をうかがう。オン・バザラダルマキリキリさまどうぞ」閻魔王は矢田の言葉が終わると鬼に美恵子を中央に移動させ、暗闇に向かって丁寧な口調で声をかけた。すると正面にだけまばゆい光を放つ巨大な人物が歩み寄ってきた。美恵子が見上げようとすると鬼が「手を着いて頭を下げろ」と叱責した。
「ワシはお前たち職人を守護する役割も担っているオン・バザラダルマキリキリだ。オランダのモリヤニンジン念佛者の依頼を受けて出廷することにした」巨大な人物も本名の真言で名乗ったが一般的には千手観音と呼ばれている菩薩だった。観世音菩薩は必要に応じて姿を換えるので今回は背中に1000本の手を生やして理容師の商売道具を持って来たらしい。
「今も元夫から言われたようだがワシからも宣告しよう。お前は床屋に不適格だ」「床屋じゃあない・・・」美恵子が条件反射で反論すると鬼が裸の背中を杖で打ち、紫色にミミズ腫れになった。それにしても切り立った巨岩で囲まれた控え場所にいる他の亡者たちも奪衣婆に死に装束を脱がされて腰巻1枚だが、便と尿で汚れたこの下着は何とかしてもらいたい。
「お前の仕事は客のためではなく自分の技量を誇示するために励んでいただけだ。だからモリヤ念佛者が髪を短くすれば気持ちが冷め、最新の流行を試させてくれる矢田に乗り換えた。お前は最期まで床屋は料理人が自分の味を固持してそれを好む客だけを相手にするのとは違うことを理解できなかった。それでも折角のモリヤ念佛者の頼みだから、1つお前の仕事が人の魂を救った実例を証言しよう」ここで千手観音の巨大な足が閻魔王の方向に向き直した。
「玉城美恵子が台湾で暫緩刑(=執行猶予)を受けて刑務所内で囚人の床屋をやっている時、死刑を執行される直前の散髪を命ぜられた。玉城美恵子がいつものように仕事をするとその死刑囚はその出来栄えに喜んで笑顔になり、そのまま穏やかな顔で死んで逝った。確かに多くの人命を残酷な手段で奪った凶悪犯だが、罪は死を持って償ったんだから笑顔にさせた玉城美恵子の仕事は評価してやるべきだろう」「有り難うございます」美恵子が柄にもない礼を叫んで陶板を敷き詰めた床にひれ伏すと千手観音は光を放つ巨大な手の中指で背中をさすった。
- 2021/12/21(火) 13:03:42|
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12月20日は明治12(1879)年のこの日に青森県の尻屋埼灯台で日本初の蒸気式霧笛が始動したことを記念する「霧笛の日」です。
霧笛は視界が届かない濃霧の中で音声によって位置と方角を知らせる装置なので温暖な地域では聞く機会は少ないのですが、野僧も霧が発生していた冬の朝に蒲郡駅に下りて船同士が霧中信号(正式には霧笛とは別)を鳴らし合っているのを聞いたことがあります。
灯台に設置されている霧笛は霧信号所が運用し、灯台の照明と同様に鳴らしている長さと間隔が信号所ごとに違っていたためそれを識別すれば発信地点が特定できたようです。しかし、船舶レーダーや衛星式位置測定装置¬=GPSの発達・普及によって音声によって位置や存在を知らせる必要性が低下したため海上保安庁は2010年3月31日に北海道小樽の日和山灯台の霧笛を停止して公的な霧笛は姿を消しましたが、漁協や船舶の霧中信号は存続しているのであの独特の響きを耳にする機会は残っています。
一方、下北半島でも太平洋側に突き出した岬の突端にある尻谷崎灯台は明治9(1876)年に東北地方初の灯台として高さ30メートルのレンガ積みで建設・開設され、翌年には日本初の霧鐘が設置されましたが、西洋式の鐘を鳴らす機械の振動が灯台の照明装置に障害を与えるため明治12(1879)年のこの日に蒸気式霧笛に更新されました。また明治16(1883)年10月24日の午後8時30分のみぞれが降る夜、灯台のガラスを突き破って隕石が落下しています。さらに明治22(1889)年には光を放つ方向を自由に調整できる特殊なレンズに交換され、濃霧の時には光が届かない遠距離は避けて近距離に光を集中させることができるようになりました。そして明治34(1901)年には日本唯一の方形2個のレンズに交換されたのと同時に自家発電のアーク照明による日本初の電気式の灯台になっています。ちなみにこのアーク式照明が点灯したのも12月20日ですが薩長土肥の明治政府によって会津から移封された斗南藩士の多くが凍病死した下北半島のこの時期の厳寒を思うと建設に当たった作業員の労苦は想像するに余りあります。
そんな尻屋崎灯台は第2次世界大戦中に陸戦規則と海戦規則では禁止されていても空戦規則が存在しないためアメリカ軍が空襲を加え、灯台の照明装置から発電施設まで破壊し尽くされ、勤務していた標識技手が殉職しましたが(機銃掃射だったので灯台の建物は残った)、終戦後の昭和21(1946)年から破壊されたはずの灯台が光を放つのを灯台職員全員と近隣住民、沖合を航行する漁船や貨物船の乗組員が目撃し、それで遭難を回避した船舶も出たため殉職した技手が灯す「怪火(あやしび)」や「幻の灯台」と呼ばれました。この怪奇現象は同年8月に信号所の屋上に仮の照明を設置するまで続きました。
野僧も車力で勤務している時に恐山参拜と下北観光の一環として尻屋崎を訪れましたが、家族は灯台よりも近くの草原に放されている寒立馬(かんだちめ)に夢中になり、間近まで行きながら立ち寄りませんでした。家族は島根県で日本一の高さの出雲日御碕灯台に登ったことがあるので「どうせ高所恐怖症の親父は登れないだろう」と思ったのかも知れません。確かに鹿児島県の都井岬で見た日本在来種の野生馬との比較は興味深かったですが。

尻屋崎の寒立馬
- 2021/12/20(月) 14:26:47|
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結局、淳之介は祖母の意向に従って1人で南城市に帰り、母親である玉城美恵子の遺骨なしの葬儀の喪主になった。南城市役所は香港特別行政区が在香港日本領事館に交付した死亡診断書の翻訳と内容の確認に手間取り、受理までに時間を要したが、その分、淳之介もコロナ下での航空機移動に必要とされる手続きや検査を終えることができた。
葬儀に参列したのは母の勝子と長姉の日出子、次姉の夕紀子にモンチュウの長の松岳だけで浜松に住む松真は都道府県をまたぐ移動が禁止されているため出席できなかった。松真としては航空自衛隊の輸送機を申請していたが、公務出張ではないため万が一の事態を懼れる関係者によって却下=拒否された。ここでも事故防止が輸送幹部の判断基準らしい。
「玉城美恵子は地獄へ堕とすって閻魔大王が言ってるんだけど、和尚さんのお経で何とかできますか」今回は白のワイシャツに黒のズボン、黒のネクタイを締めた淳之介は座敷に設けられた祭壇の遺影に手を合わして数珠を揉んだ導師に丁寧な挨拶をした後、真顔で問いかけた。導師は意表を突かれたのか日出子が出した茶の湯呑を落としそうになった。
「それは誰から言われたんですか」「僕の妻は視覚障害者なので健常者には見えない世界が見えるんです。今回も死亡の通知が届く前に知っていました」淳之介の説明が真実味を帯びているので導師は顔に焦りを浮かべながら茶の湯気をすすった。
「我が浄土真宗では阿弥陀如来が死者を迎えに来て極楽浄土へお連れいただけると考えています。ですから玉城美恵子さんが閻魔大王に会うことはないのです」「阿弥陀三尊が来迎されるのは自分の罪業を悔やんでお願いした念佛者だけで後悔も反省もしない者は対象外でしょう。それに妻はすでに玉城美恵子が閻魔大王のところで裁判を受けているって言っています」導師の逃げ口上に淳之介は厳しく反論した。淳之介は松泉の葬儀の後、聞いたことがなかった浄土真宗の経典に興味を持って父に質問すると自分のパソコンでデーター化しているらしく印刷した浄土三部経と現代語訳を送ってきた。その中の観無量重経の知識が導師に炸裂した。
「私は浄土真宗の僧侶として葬儀の形を整える以上のことはできませんが、ご心配なら本土の専門のお坊さんを探して相談してみるべきかも知れませんね」浄土真宗は曹洞宗と同じく死後の世界は認めておらず、葬儀や法要は遺族に生者必滅の無常の理を認識させるための縁(よすが)と考えている。そのため心霊現象の相談や遺族の「本当に成佛・往生できたのか」と言う不安には取り敢えず「心の迷い」で応じて、それで納得しなければ「逃げの一手」で回避する。この導師も基本通りに対応したようだ。
「葬儀の前についでに言えば僕の親父は違う宗派の坊主ですが三重県では津市の専修寺に通って浄土真宗高田派の勉強に励んでいました。だから僕の念佛も村田静照和上式に大声です」「はい、ご自由にどうぞ」略式の葬儀のため祭壇の前に敷いた座布団に座った導師に淳之介が声をかけると半ば無視して鐘子(けいす)を叩き始めた。
「南無阿弥陀ブッ、南無阿弥陀ブッ、南無阿弥陀ブッ、南無阿弥陀ブッ・・・」葬儀の間に何度か唱える念佛で淳之介の大声は換気のために網戸にしている窓から外へ響き渡り、坂道沿いに建ち並ぶモンチュウの家にも聞こえていた。そのためモンチュウたちも50歳代半ばで先立った不肖の姪のために手を合わせていた。
「すみません。ごめんください」葬儀が終わり、導師が帰って遺族が仕出しの弁当を開けて会食を始めようとした時、玄関から来客の声が聞こえてきた。葬儀は肉親だけの略式のため案内状は出さず、新聞に荼毘広告も載せなかったので弔問客はいないはずだ。
「はい、ただいま」やはりこの家の住人である勝子が返事をして立ち上がった。新型コロナ・ウィルス感染症の拡大を受けて沖縄県でも訪問販売は事実上の禁止になっているので、強いて言えば市役所の職員が来た可能性が高い。
「貴方は矢田・・・さん」「矢田って美恵子の元旦那さァ」「モリヤの次さァ」玄関から勝子の凍りついたような声が聞えてくると姉たちが小声で確認し合った。そこに勝子に案内されて矢田が淳之介と同じ服装の矢田が入ってきた。善通寺で美恵子と矢田が不倫関係になった頃、淳之介は幼児だったので会った記憶はないが、実際は官舎の近くの路上に停めた車内で矢田が美恵子を愛撫しているところをのぞき見したことがある、
「君が淳之介くんか・・・立派になったね。今日はモリヤ2佐から国際電話でお参りするように勧められたんで恥を偲んできました。手を合わせさせて下さい」矢田は喪主の席に戻った淳之介に挨拶をすると香典を供え、まだ香炭の火が残っている香炉で焼香し、美恵子の遺影に向かって手を合わせた。その哀しげな顔には電話で聞いた父の冷淡な口調と比べて美恵子への真摯な愛情を感じた。哀しんでくれる人がいることを美恵子が知れば何かが変わるかも知れない。
- 2021/12/20(月) 14:20:04|
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天平勝定5(940)年の明日12月20日に5度の渡航失敗によって盲目になりながら「佛教の正統な戒と律を伝える」との発願を貫いた鑑真和上が現在の鹿児島県南薩摩市坊津町秋目に上陸し、日本本土に足跡を記しました。
鑑真和上は688年に唐の揚州で生まれ、14歳で得度を受けて632年に即天武后が現在の山西省に創建した大雲寺に安居すると18歳で菩薩戒を受け(釋尊伝来の佛戒よりも緩い)、20歳で長安に上って翌年に具足戒(佛弟子としての戒)を受けると律宗と天台宗を修め、南山律宗の継承者になりました。
その後、鑑真和上は揚州の大明寺に住持しますが、742年に遣唐使に同行した留学僧が佛教による国家鎮護を発願した聖武天皇が正統な佛戒と律(戒は自己規制、律は集団としての決まり)の継承者を招聘していることを伝え、人材の斡旋を依頼すると多くの弟子たちの中に志願者はおらず、日本が佛教の新たな聖地になると確信した鑑真和上自身が渡海することを決意したのでした。ここからの事績は井上靖さんが名作「天平の甍」で詳細・感動的に描いています。
1回目は翌743年の夏でしたが唐に残る弟子たちが鑑真和上の海外渡航を阻止しようと港の役人に「日本人の僧侶は海賊が化けた偽物だ」と虚偽の密告をしたため捕縛され、出港はできませんでした。2回目は半年後の744年1月で周到な準備を整えて出航しましたが途中で激しい暴風に遭いベトナムとの国境に近い明州に引き返しました。3回目はそこからの再渡航でしたが、鑑真和上の海外渡航に反対する者の密告で日本人留学僧が逮捕されて失敗に終わりました。こうして大明寺に引き戻された鑑真和上の元に死亡をよそおって脱獄に成功した日本人留学僧が訪ね、監視が厳しい江蘇や浙江からではなく台湾の対岸に位置する福州からの渡航を提案したのです。ところがこの計画を嗅ぎつけた弟子が朝廷に密告したため4度目も失敗しました。そして5度目は748年6月に浙江から出航し、船山群島で風待ちをした後、11月に日本に向かいますが今度も激しい暴風に遭い、14日間漂流して南シナ海の海南島に漂着したのです。海南島では大雲寺に住んで最新の医術や薬学を教えながら1年を過ごしますが、老体への過労や慣れない南方での生活で両目を失明してしまいました。
そんな753年に遣唐使大使が大明寺を訪ね、あらためて渡航を要望しましたが、毎度のごとく朝廷の知るところになり、出航に当たって遣唐使大使の1番船ではなく遣唐副使の2番船に乗船させて11月16日に出航しました(この船団も4番船は行方不明になっている)。11月21日に沖縄本島に到着し、南風を待って12月7日に屋久島に到着、12月18日に出航して20日に坊津に上陸を果たしました。
上陸後は大宰府の観音寺に戒壇院を創建して(続いて東大寺と下野の薬師寺にも)日本に正統な佛戒と律を伝え、唐招提寺を創建して律宗を伝教し(律宗は佛弟子として戒と律を探求・実践する宗派。現在の奈良市内の古寺の大半は後に真言宗に吸収された真言律宗)、天平宝字7(763)年5月6日に唐招提寺で遷化しました。
- 2021/12/19(日) 15:26:12|
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「お勤めしないの」「アイツを救うお経が思い当たらないんだ」淳之介からの電話を切った私が執務机の前の本棚に祀っている内佛の前で腕を組んで考え込むと梢が怪訝そうに声をかけた。南城の玉城家モンチュウの長・松泉さん以降、元義父の松栄さんに愛知の伯父に父親と近親者の訃報が続き、朝課では佛教の興隆と世界の鎮護、生活の平穏や健康上の悩みを伝えてきた友人と知人の病気平癒と長命の祈願し、晩課では有縁無縁の先亡者の供養を勤めていた私の勤経も普通の坊主と同様に追善供養が本格化してきた。それでも最近は友人の子供たちの学業精励と志望成就の祈願にも励んでいるのでやはり祈祷坊主の方が近い。
「松泉さんや松栄さんは弥勒世果報(みるくゆがふ)に『ニライカナイでの生活をよろしく』って頼めば良いけどアイツが浄土に往生できるとは思えない。伯父と父親は三悪道のどこかだろうから六道の地蔵菩薩に『面倒見てくれ』ってお願いしていたが、最近は反応が軽くなったから何とか往生したんだろう」父親の葬儀は祖父の寺を継いだ従弟が導師を勤めたらしいが、外面(そとづら)が異常に良かっただけに「優しい伯父さん」と思われていたらしく不似合いな戒名がついている。そんな大甘な法要では息子が立てた志を踏み躙り、描いていた夢を破り捨て、育てていた愛を引き裂いた殺生の罪を犯した自覚なき悪人が救われるはずがない。ましてや父親が絶対服従していた伯父は主犯なので地獄へ直行のはずだが、過疎地の中学校の教員として社会のために貢献していることを相殺すれば三悪道と言うところだ。父親も定年後は地元の区画整理事業で営業マンだった頃の手腕を発揮したらしいので兄弟仲良く一緒の場所に堕ちたのだろう。何よりもモリヤ家は庄屋時代から菩提寺を粗末にしてきて養子に入った祖父の永之進が先祖の供養に励んだのも一代限りだったらしい。それでも閻魔王府で見せられる淨玻璃鏡で自分の勝手な言動がどれほど周囲を傷つけ、苦しめていたのかを後悔し、懺悔することで赦されたのかも知れない。しかし、美恵子は反省するとは到底思えない。
「晩課で勤めている広開甘露門施餓鬼文をアイツに回向するのが好いかも知れないが、四十九日までは公判中だからな。弁護のためには・・・」私の思考は坊主ではなく法廷戦術を練る検察官か弁護人になっている。これがプロの坊主であれば経典を読誦することが絶大な功徳なので閻魔王の心証を良くできると割り切れるのだろうが、私はそれほど単純で無責任な仕事はしていない。恵心源信僧都の往生要集では現代・現世の法廷のような検察と弁護のディベートが行われるとは書いていないから私は裁判官の閻魔王と直接対決していることになる。これではまるで裁判所からの指名で否応もなく誰が見ても真犯人の弁護を担当する国選弁護人ではないか。
「そうだ。理容師も職人だから千手観音の手を借りていたはずだ。観世音菩薩に職人としての仕事を評価しながら反省を促してもらえば少しは考えるかも知れん」誰も実在を証明する者がいない閻魔王府の裁判を真剣に考えている私に真顔でつき合っている梢はこの結論にうなずいた。「職人は千手観音の手を借りている」と言うのは航空機整備の仕事が上達しないことに悩む私に祖父が与えた激励の教示だが、美恵子に言っても「理容師の腕は私の実力」と鼻で笑って聞き流しただけだった。それでもウチには猊下手製の観世音菩薩像が祀ってあるから頼むしかない。
「観世音菩薩のお経となるとやっぱり観音経になるが、あれは妙法蓮華経だからなァ・・・」結論が出たところで今度は実施要領で悩むことになった。浄土真宗では開祖・親鸞は楞厳呪などの密教系の神呪を含む幅広い経典を唱えての和讃を遺しているが、自力を否定して修行や修学を怠っていた東西本願寺の子孫たちは門徒からの疑問に純化の立場で「浄土三部経だけを勤めよ」と答え、経典で阿弥陀三尊とされている観世音菩薩と大勢至菩薩を無視し、実際は蓮如の「御文章」を重用しながら他の経典を否定している。一方、我が浄土宗は法然上人が「選択」と宣言しているように多くの経典を認めながら浄土三部経を尊重する立場を採っているため幼い子供を亡くした檀家のために水子地蔵を祀っている寺も少なくない。しかし、妙法蓮華経を唯一絶対としている日蓮宗は宗祖が比叡山で反念佛闘争に同調していたため天台宗から破門されてからも衆生に広まっていた浄土宗の信者を奪うことに躍起になり、殊更に敵視して喧嘩を売ってきた。私自身は妙法蓮華経全巻の現代語訳を読破しているが、経典を信じた者が得た利益と信じなかった者が被った苦痛ばかりであまり信ずる気にはならなかった。それが晩年になって妙法蓮華経を信仰し始め、死ぬ時にも唱えたと言う道元の曹洞宗と距離を置くようになった理由でもある。
「と言っても延命十句観音経じゃあ短いし、大悲円満無礙神呪や龍樹菩薩讃準提陀羅尼も大差ない。アイツの功徳となると・・・やっぱ妙法蓮華経観世音菩薩普門品しかないか」観音経とは妙法蓮華経観世音菩薩普門品でも最後の偈文を指すが、私が持っている臨済宗と曹洞宗の経本にはどちらも妙法蓮華経普門品が全編載っている。勤経する功徳を美恵子の弁護にするのなら長いに越したことはない。幸い在宅勤務で時間は有り余っている。
- 2021/12/19(日) 15:24:43|
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昭和19(1944)年12月18日の漢口大空襲で飛行科志願兵=2等兵として入営しながら卓越した飛行技量と円満・剛毅な人間性で少佐にまで昇任し、第2次世界大戦末期の大陸戦線で勇名を馳せた若松幸禧(ゆきよし)少佐が戦死しました。
若松少佐は明治44(1911)年に現在の鹿児島県川内市で生まれ、昭和5(1930)年に陸軍の飛行科志願兵としてまだ複葉機で部隊としての体裁が整っていなかった飛行第3連隊に入営しました。昭和7(1932)年に下士官として操縦学生課程を修了すると所沢と熊谷の飛行学校に助教として配属され、昭和13(1938)年には陸軍航空士官学校に入校して卒業に任官しました。そして昭和14(1939)年9月にノモンハン事件が勃発すると加藤建夫大尉が率いる飛行第64戦隊に配属されて前線に向かいますが、到着して数日後に停戦になったため出番はありませんでした。その後は中国戦線を転戦し、昭和15(1940)年末から明野飛行学校で中隊長教育を受けて卒業後は飛行第85戦隊に配属され、昭和17(1942)年に大尉に昇任して第2中隊長になりました。
その頃、飛行第85戦隊は2式戦闘機・鍾馗を使用するようになり、国民党軍の義勇軍の名目で参戦していたアメリカ軍のP-40と対戦しましたが、2式戦闘機・鍾馗は戦後にアメリカ陸軍が実施した日本軍戦闘機の比較試験では「最高のインターセプター(迎撃機)」と評価され、零式艦上戦闘機を設計した三菱重工の堀越次郎防衛大学校教授などとは比較にならない中島飛行機の天才・糸川秀夫東京大学教授が「最高の傑作」と言っている名機なので全く寄せつけませんでした。また若松少佐は空中戦の間、無線を点けっ放しにして実況中継まで流し、地上に残っている搭乗員や整備員に戦況を知らせて士気を鼓舞したと言う逸話が残っています。そのため大陸戦線で大活躍する若松大尉には国民党軍から2万元の賞金を賭けられて、後に5万元まで吊り上がりました。
続いて飛行第85戦隊は陸軍が昭和19(1944)年10月の連合艦隊のフィリピン・レイテ湾突入を支援するために派遣していた4式戦闘機・疾風のうち9機を装備することになり、若松大尉も乗り換えました。4式戦闘機・疾風は戦時中に対戦したアメリカ軍からも「最高の日本軍戦闘機」と絶賛されていて若松大尉も「スピード、上昇力、旋回性、航続距離の全てが2式よりも良い」「無線も改良された」と高く評価しています。実際、第2次世界大戦中の最高傑作戦闘機と自他共に認めるアメリカ軍のP-51・ムスタングと対戦した時には「赤子の手をひねるがごとし」と日記に書き残していて、若松少佐の公式撃墜機数18機は全て戦闘機であり、半数はP-51・ムスタングでした。
この日、漢口では夜明けと同時に成都の基地を離陸したアメリカ軍のB-29爆撃機とP-51戦闘機200機による空襲を受けていて、第1波が終了してアメリカ軍が燃料と焼夷弾の補給に戻っている間に日本軍も給油と弾薬補給を実施していたのですが、アメリカ軍の第2波の方がわずかに早く、若松少佐は離陸中に10機のP-51の攻撃を受け、武昌第2飛行場から1キロに墜落して戦死しました。33歳でした。奥さんとの間に男女の子供がいましたが娘の春笑さんは昭和15(1930)年末(=明野入校と重なる)に2歳で亡くしています。
- 2021/12/18(土) 14:21:08|
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「親父、玉城美恵子が死んだみたいだ」ヨーロッパではイギリスのアストラゼネカ社の予防ワクチンの最終臨床試験の結果を固唾を呑んで見守っていた頃、在宅勤務している自宅に淳之介から訃報の電話が入った。それにしても産んだ母親の訃報を伝える電話まで呼び捨てにすることでも淳之介の美恵子に対する嫌悪感が判る。
「アイツは香港在住だろう。柄にもなく民主化デモに参加したのか。それとも得意の流行に乗って新型コロナに感染したのか」淳之介の死者を冒涜するような口ぶりに怒りよりも納得してしまった私もかなり酷い。ただし、美恵子が流行を追っていたのは理容とファッションで、病気は特に予防をしなくてもウィルスの方が避けて通っていた。
「香港の特別行政区から日本の領事館に火葬した遺骨が届いて、それに死亡診断書が付いていたんだけど外傷や病気を示す痕跡がないから心不全の疑いが強いってさ」「あの強心臓が機能不全を起こすかなァ。心臓に生えた毛が他の臓器に絡んで動かなくなったなら判らないことはないが」私の暴言の連射にスピーカーで聞いている梢は呆れたような顔をした。
「領事館は新型コロナで遺骨を送れないから先に連絡だけくれたみたいだ。オバアは遺骨なしでも葬儀はやるって言ってるけど親父は帰れないよね」「勿論、新型コロナのおかげで帰れないよ」別に新型コロナ・ウィルス感染症の出入国制限がなくても不倫の果てに離婚した元妻の葬儀に出る筋合いはないが、淳之介に声をかけられるとにべもなく拒否もできない。
「オバアが俺に喪主をやれって言ってるんだ。俺は嫌なんだけど玉城家とは絶縁しているし、他に肉親はいないから仕方ないね」「それは迷惑をかけるな」この詫び言は淳之介を美恵子に産ませたことだが、梢が産んでいればあかりとは双子の姉弟になり、結婚はできなかった。
「喪主をやるにしてもあかりは閻魔大王が『玉城美恵子は地獄に堕とす』って言ったのを見てるんだ。葬儀をやるのはそれを防ぐためじゃない。喪主の責任で何とかできないかな」私は淳之介が喪主に任命されたことで死後の裁きを真面目に考えていることに坊主として感心した。
「アイツの場合は罪よりも業障だから閻魔王としては地獄行きの判決は下せないはずだ。堕ちるなら三悪道だな。自分の欲求に執着して他人を傷つけて全く反省しなかったから餓鬼道だろう」「親父は閻魔大王になったみたいだね」「まだ判事はやっていないぞ」私も法曹界に身を置いて長くなるので気がつけば判決を下していた。冥界の裁判官は閻魔王だけでなく古代ギリシャのホメロスのオデュッセイアやダンテの神曲に登場するミノスがいる。私は日本では弁護士、オランダでは検察官として勤務してきたが、判事=裁判官は経験していない。私が判事になるのはおそらく来年の7月1日に定年退官する前に日本が戦争に陥り、日本国憲法76条2項の特別裁判所の禁止規定に関わらず自衛隊が戦争犯罪者や捕虜を独自に裁く軍事法廷が開設された時だろう。
「餓鬼道も苦しいんでしょう」「それは微妙だな。三悪道は業障の自覚がない悪人が堕ちる場所だからアイツは不満ばかりをつのらせていた人生の延長みたいなもんだよ。戦いが好きな人間が修羅道に堕ちれば明けても暮れても戦い続けることができるし、人間的な理性を持たずに欲望のままに生きている人間が畜生道に堕ちて動物になればかえって気楽だろう」「そんなものかな・・・」私の解説に淳之介は電話の向こうで口ごもった。確かにこれは極論だが美恵子との生活を思い返せば常に理容業しか頭になく、私や淳之介を傷つけても反省することはなかった。むしろ自分にとっての理容業がかけがえのない天職と公言して社会人としての常識は放棄していた。仕事馬鹿の範疇を超えたまさしく理容業の餓鬼だった。
「親父ならお母さんを救うお経を知ってるんじゃあないの」突然、淳之介は呼び捨てからお母さんに変更した。やはり自分を産んだ女が餓鬼道に堕ちることを放置できないですがろうとしたらしい。梢も真顔で私の答えを見守った。
「閻魔王府の裁判は7日毎に7回開かれる。だから7日毎の法要は遺族が佛教を学んでいると言う功徳を積んで弁護にしているんだ。しかし、アイツは信仰心を持たないから弁護にはならんよ」美恵子は防府で私が修行に通っていた寺のお庫裏さんに可愛がってもらっていたが優しいお婆さん以上の意識は持たず、点ててくれる抹茶と和菓子だけを楽しみについて来ていた。
「松泉さんやオジイの葬式に来ていた浄土真宗の坊さんが『阿弥陀さまは悪人も救ってくれる』って言ってたけど」「阿弥陀如来が救うのは自分の罪を後悔した人間だけだ。ウチの法然上人は9歳の時に土豪が屋敷を襲撃して弓矢を取って戦った殺生の重罪を救ってくれる阿弥陀如来への信仰を説いたが、浄土真宗の親鸞は性欲を我慢できずに女と姦った破戒を念佛で救ってもらおうとした。お前にそんな宗派を信じさせたくはないな。強いて言えば松泉さんとオジイに必死に頼んでアイツを反省させることだ」これが私なりの沖縄の祖先崇拝的往生要領だった。
- 2021/12/18(土) 14:18:51|
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連合軍は1945年2月13日のドレスデンへの空襲で爆弾によって屋根を破壊した後、焼夷弾で内部から火災を起こす戦術を検証し、ドイツの都市空襲で常用しましたが、同様に昭和19(1944)年の明日12月18日に木造家屋が多い日本の都市空襲では爆弾による破壊よりも焼夷弾を撒き散らして大規模な火災を発生させる方が戦果が上がることを確認して本土の空襲に応用した漢口大空襲が行われました。なお、漢口(ハンカオ)はさだまさしさんの名曲「フレディ・若しくは三教街」の舞台ですが、現在は嫌なことで世界の注目を集めた武漢市に含まれています。
「フレディ・若しくは三教街」は国籍不明のヨーロッパ系外国人(日本の占領後も残っていたので多分ドイツ系かロシア系)の若者と知り合った日本人女性の思い出話の形を採っていますが、漢口に住んでいたさださんの母親の体験談を元にしているそうです。
漢口は揚子江と夏水=後の漢水が合流する水運の中継基地として古くから栄え、明朝末期から清朝初期=日本の江戸時代初期には4大商都と呼ばれるようになりました。そして1856年に始まったアロー戦争で結ばれた天津条約でイギリスの租界が建設され、続いてロシア、フランス、ドイツ、かなり遅れて日本の租界も開かれて中国内陸部では有数の国際都市になったのです。
ところが日本軍が中国内陸部にまで戦線を拡大していた昭和13(1938)年6月に国民党軍が進撃を阻止するため揚子江の激流の堤防を破壊し、大水害によって数十万人の文民が犠牲になったことを受けて日本軍は漢口と広東の攻略を決定し、同年8月22日から攻撃を開始して10月27日に占領しました。これ以降は中国内陸部の戦略拠点として多くの部隊が集結し、劣勢に陥っていた国民党軍を撃破していましたが、蒋介石政権を連合国に加えていたアメリカとしては放置できなくなり、中国南部の成都に建設した航空基地に最新鋭機のB-29を配備すると現地指揮官兼国民党軍軍事顧問は大規模な空襲への参加を要請しました。しかし、B-29は昭和19(1944)年6月16日の八幡空襲を皮切りに満洲や台湾への空襲を主任務にしていた上、燃料や爆弾、銃弾をヒマラヤ越えで空輸していたため出撃は2週間に1回が限度でB-29飛行隊の指揮官は拒否しました。ところが新任のアメリカ軍中国・インド・ミャンマー方面軍司令官は中国戦線での日本軍の優勢を阻止する必要からB-29の作戦投入を命令し、航続距離を延ばすため爆弾ではなく焼夷弾を搭載して94機(焼夷弾を搭載したのは84機)が出撃したのです。
この攻撃に対して日本軍も戦闘機を離陸させて迎撃しましたが主力は南方戦線に投入されていて絶対数が少なく護衛の最新鋭戦闘機・P-51によって多くが撃墜されました。
早朝から午後2時30分頃まで続いたこの空襲で漢口には500トン以上の焼夷弾が投下され、中国人文民の居住地域を含む市街地の50パーセントが炎上し、3日間にわたって燃え続けて日本租界は焼滅しました。
「フレディ・若しくは三教街」の最後は「そんな夢さえも奪ったのは 燃え上げる赤い炎と飛び交う戦闘機」ですがこれはアメリカ軍の戦闘機の機銃掃射でしょう。
- 2021/12/17(金) 13:27:18|
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「玉城美恵子(ユーチョン・メイファイスー)、玉城美恵子・・・いたら返事をしなさい」その頃、香港の美恵子のワンルーム・マンションには白い感染防護衣を着て顔には防護マスク、手には防護手袋をはめた数人の男女が来ていた。渡り廊下には畳んだ担架を持った2人に消毒器材を背負った2人が控えているので物々しい雰囲気だが、その中の女性職員がチャイムを鳴らしても応答がないことを確認するとドアを叩きながら声をかけた。
「やはり死んでるな」「マスクをしているので死臭は判りませんが、感染からの日数を考えれば間違いないでしょう」防護マスクをしているので容姿は判別できないが、責任者と思われる男性の言葉に次級者が答えた。彼らは新型コロナ・ウィルス感染症=中国の細菌兵器に対処する香港特別行政区の保健衛生担当者たちだった。
「よし、鍵を開けよう」「管理人から借りてきたマスター・キーを出せ」責任者と次級者の指示を受けて女性職員が手に持っていた鍵を取り出して見せた。感染防護衣には細菌が侵入するおそれがあるポケットは着いていないのだ。
「開きました」「玉城美恵子、我々は香港特別行政区保健衛生部の者だ。入るぞ」女性がドアを開けると次級者が声をかけながら踏み込んだ。後には棒状になった担架を提げた2人が続いた。
「死んでるな」「就寝中に発症したのでしょう」「嘔吐に吐血、失禁に脱糞、この苦悶の表情・・・かなり苦しんだようです」次級者が居間兼寝室に入るとベッドの上には美恵子の遺骸が横たわっていた。シーツとパジャマの上衣には吐き出した胃液と血液が飛び散り、ズボンは下痢をして水状になった大便と漏れた尿で変色している。
「よし、運ぼう」「死後硬直が始まっているからバランスを取るのが難しいですね」「まだ腐敗していないだけ好いだろう」次級者の指示を受けて2人は担架を広げ、美恵子の遺骸をビニール袋で密封すると肩と足を持って移動させた。死後硬直で身体は伸びず、透明のビニール越しに苦悶の表情と吐瀉物、排出物で汚れたパジャマを見ながら抱えることになった。
「あの営業マンの接触者はこの女で最後ですね」「うん、奴は当局の指導を無視して営業活動を継続していたからどこかで感染して、あちこちに広めたんだろう。発熱して病院に来たから感染が発覚したが、接触者としては取引相手ばかりを検査していたからこの女に辿り着くのが遅れたんだ」玄関の外で責任者と女性は担架に乗せられた美恵子の遺骸を見送ると雑談を始めた。室内では次級者が2人の消毒作業を指揮している。
「問題はあの女が1回とは言え中国製の予防ワクチンを射っていることだ。日本では北京の指令を受けたマスコミが中国製ワクチンの緊急輸入を喧伝しているが、射った日本人が死んだとなると水泡に帰してしまう」「それでは焼却処分ですか」女性の答えに責任者は厳しい顔をして首を振った。中国国内では第2次天安門事件で大量に発生した遺骸を人民解放軍のトラックでゴミ焼却場に運び込んで隠蔽に成功したことはチベットや新疆ウィグル地区の民族弾圧でも踏襲されている常套手段だが、海外のマスコミが注視している香港では採用されていない。
「それも拙い。日本人が行方不明になると香港領事館が捜索を始めて余計なことまで探り出しかねん。昔は外務省のチャイナ・スクールの連中が北京の顔色を窺って適当に処理したが、上海の美人計(ハニ―トラップ=兵法三十六計の三十一計)事件以来敵意丸出した」「上海の美人計ですか・・・」若い女性職員は2003年の上海領事館の通信担当者が中国人女性と不倫関係になり、暗号に関する秘密情報を要求されて自死した事件は知らなかった。それでも香港特別区当局に勤めていれば来訪する海外要人に香港映画の女優を抱かせて弱みを握るハニートラップの噂は耳にするので特に疑問は持たなかった。
「我が方の誠意ある対応としては通常の病死と言う診断書をつけて遺骨を日本の親元に送ることだな。幸い沖縄出身と言うことだから北京に服従していることに香港と大差はない」「それでは検屍担当の監察医への手配はすんでいるのですね」女性職員の確認に責任者は妙な笑いを浮かべてうなずいた。先ほど地上ではワゴン車の後部ドアを閉め、エンジンをかけて走り出す音がしたので、玉城美恵子の遺骸は手配済みの監察医のところへ運ばれているようだ。しかし、どうせ偽装の死亡診断書であれば監察医も新型コロナ・ウィルスに感染する危険を払ってまで検屍する必要はなく、ビニール袋に密封したまま外見で記述するのかも知れない。そうすれば誰も直接触れることなく火葬場に運ばれて焼けば殺菌消毒も完璧だ。
「消毒は完了しました。続いて撤去作業に移ります」そこに次級者と消毒担当の2人が出てきた。室内からはマスクをしていても鼻を突くような刺激臭が漂ってくる。これから家具や衣類、雑貨まで全てビニール袋に密封した上で撤去して焼却するのだ。食器は消毒液に浸してから破砕する。玉城美恵子と言う人間が生きて暮らした痕跡は何も残らない。
- 2021/12/17(金) 13:25:03|
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2007年の明日12月17日に海上自衛隊の護衛艦こんごうがハワイ沖での弾道ミサイル防衛システム・SM3ブロックIAの運用試験で目標の模擬弾道ミサイルを成層圏外の高度160キロでの撃墜に成功しました。これはアメリカ海軍に次ぐ快挙でした。
野僧が青森県車力の第6高射群第22高射隊で勤務していた1998年8月31日に北朝鮮が弾道ミサイル・テポドン1号の発射実験を行いましたが、航空総隊司令部はアメリカ軍から事前情報を受け取っていたにも関わらず経ヶ岬のレーダーの周波数の秘匿のための探知範囲の制限の解除を忘れて発射直後に見失う失態を犯しました。一方、車力の第22高射隊はテポドンが射程距離内の東北地方上空を横切って岩手県沖の太平洋に落下したことを全く知らず、隊長以下は帰宅して夕方のニュースを見て驚く体たらくでした(野僧は三沢の兵器管制幹部時代の元同僚が「6高群は対処していたのか」と確認してきたので知っていました)。それでも誰も部隊に確認の電話をしてこなかったのが高射部隊です。
そんな頼りない弾道ミサイル防衛態勢に鉄壁の守りが存在することを内外に示したのが海上自衛隊でした。テポドンが日本全土を射程に収めていることに衝撃を受けた小渕恵三政権はアメリカ軍の弾道ミサイル防衛システムの開発プログラムに参加することを決定し、1999年8月に参加の了解覚書に調印してこんごう級護衛艦4隻に弾道ミサイル迎撃システムを搭載するための改修を実施することになったのです。こうして2007年3月に改修を終えた護衛艦こんごうが10月15日にハワイ沖に移動して11月6日にアメリカ海軍の巡洋艦が発射した標的2機の同時捕捉と追尾に成功し、11月15日には弾道ミサイルの標的追尾訓練でも成功し、そして12月18日にカウワイ島沖で模擬弾道ミサイルとして発射したスタンダードSM-3SAM艦対空ミサイルを成層圏外で撃墜したのです。これで搭載した防衛システムの信頼性だけでなく海上自衛隊の乗員の技量も弾道ミサイル防衛の任務を遂行するに足るレベルにあることが証明されました。ただし、2010年11月10日の護衛艦ちょうかいは失敗しました。
しかし、海上自衛隊のSM3と航空自衛隊の地対空ミサイル・PAC3の2段構えが我が国の弾道ミサイル防衛態勢ですが、PAC3は本来、陸軍用なので野外での機動性を優先している分ミサイル本体を軽量化するため射程距離と破壊力が低下して弾道ミサイル迎撃用としての性能は不十分です。むしろ車力と経ヶ岬に捕捉・誘導用のXバンド・レーダーを配置している終末高高度防衛ミサイル(=再突入してくる弾道ミサイルを成層圏外で迎撃する)・THAADを導入するべきでしょう。また航空自衛隊の運用は北朝鮮の発射実験の情報を受けて破壊措置命令が発令されると防衛省がある市ヶ谷基地に高射隊を展開させていますが、射程距離を考えれば入間、習志野、霞ヶ浦の基地から動かす必要はなく、むしろ移動中の事故や展開中の破壊活動(基地外からライフル銃で射てば破壊できる)の危険を回避するためには動かさないことが軍事的には適切です。
航空自衛隊の高射部隊は「運用職」を名乗っていても戦闘航空団や警戒管制団からは「一緒にするな」と毛嫌いされているような存在ですから海上自衛隊が頼りです。
- 2021/12/16(木) 14:35:25|
- 自衛隊史
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「玉城美恵子、よく来たな。待ちかねていたぞ」意識を失いながら苦痛だけは感じて悶え苦しんでいた美恵子は漆黒の闇の中に紅い灯りが点った空間に投げ出された。空間を震わせるように響いてきた声に顔を上げると正面の台の上には昔の琉球国王のような装束を着た赤い顔の男が座っていた。両脇には似たような装束の男たちが机の向うに並んでいる。美恵子は夢を見ているのかと戸惑いながら周囲を見回すと灯りの光が届くところ以外は漆黒の闇で、壁や天井が確認できないほど巨大な空間のようだった。かすかに川の流れの音が聞こえてくる。
「閻魔さまの前では手をついて頭を下げろ」その時、背後から恐ろしげな声が聞こえ、背中を杖で突かれて前に倒れ伏した。床は陶板を敷き詰めてある。視線を下げたまま振り返ると伸びた爪の先が尖り、脛に剛毛が生えた巨大な素足が見えた・
「無駄なことはよせ、この女が礼儀を弁えるのは客にだけだ。今は人間が作った細菌兵器で死んだ人間が溢れてくる。後がつかえているから裁きを始めよう。奪衣婆(だつえば)」「はい、ただいま」閻魔と呼ばれた王が暗闇に声をかけるとかすれた女の声が返事をして素足の足音が近づき、100歳はとうに過ぎている老婆が現れた。老女は背後に流している白髪を床に引きずり、はだけた胸には浮き出たあばら骨から垂れた乳房が揺れている。
「死に装束にしては随分と汚れてるね。上は血と胃液に痰だらけ、下は尿と糞だらけ、さぞや重かろう」奪衣婆はパジャマの襟を掴んで美恵子を引き起こすと力任せに引き剥がし、手で肩を突いて仰向けに倒してズボンを脱がせた。
「こんなに汚れてちゃあ抱えていく気にもなりゃしない。それにしても重たいねェ」奪衣婆は尿と下痢をした便で汚れた下着はそのままにして左手にパジャマを提げて閻魔王に頭を下げると裸にされた美恵子を残して闇の中へ消えていった。これから三途の河原に立つ衣領樹と言う大木の下で待っている夫の懸衣爺(かけえじい)に美恵子の死に装束になったパジャマを渡して枝にかけさせる。すると死に装束は戦前に犯した罪業の重さになって枝をしならせる。2人はそれを見て罪業の重さを計るのだ。それが昔の死に装束が薄い浴衣だった理由でもある。
「枝が折れそうだな」「予定通り地獄行きだね」懸衣爺と奪衣婆夫婦が美恵子の罪と行き先を確認している頃、閻魔王は背後に立っている獄卒の鬼に命じて美恵子を巨大な鏡の前に移動させた。鏡には50歳を過ぎた美恵子の汚れた下着だけを残した裸の全身が映っている。
「それは淨玻璃鏡(じょうはりのかがみ)と言ってお前の生き様(いきよう)と周囲に与えた影響、周囲がお前に抱いていた想いが映し出される」「私は悪いことなんかしてないさァ。回りが私を邪魔者にしたのさァ」美恵子の抗弁が終わる前に淨玻璃鏡には記録映像のような場面が映り始めた。闇の中から音声も響いてくる。最初は若い頃の両親が新生児を抱いている光景だった。
「目ばっかり大きくて不細工な娘だな」「あらッ、貴方に似て可愛いじゃない」「俺に似てるか。だったらチュラカーギ(美人)になるな」両親の顔は喜びに溢れている。美恵子は幼い頃から「両親は男子を望んでいたのに期待を裏切って女だった自分は必要なかった」と思っていた。しかし、松真が生まれると父は常に連れ歩くようになり、母も成績が良い姉2人と松真を大切にして劣等生だった美恵子には冷淡だったことを思い出して誤解を認めることはなかった。
「また漢字3文字の名前なの」「この子は俺に似て馬鹿そうだから字の練習になるように一番難しい漢字にしないとな。美恵子でどうだ」「日出子、夕紀子に比べれば画数は多いわね」今度は命名の場面になった。それでも美恵子は姉弟に比べて画数が多く、署名に手間取ることを逆恨みして、父が酔って口にする「ブスな赤ん坊だったから美に恵まれるように美恵子にした」と言う戯言を信じていた。したがってここでも反省はしなかった。
「もしもし、モリヤ候補生です。休暇中に申し訳ありません。誠に申し上げにくいことなんですが・・・」小中学高校時代の成績不振に悩む両親と激励の叱責に反発する美恵子、授業料が高額な理容学校に進学したため仮眠を削って個人タクシーの営業に出る父、モリヤと出会って結婚するまでの場面の後、モリヤが防府のアパートで美恵子が無断で理容師の仕事を始めたことを幹部候補生学校の区隊長に電話で報告している光景になった。背中を向けて電話しているモリヤの深刻な顔は初めて見るが、足元にまとわりつく淳之介を手で押しやっている自分に「昔は理容師の仕事に理解があったのに」「私の才能を潰す気」「誰が幹部になってくれって頼んだの」と不満を募らせていたことを思い出して怒りが込み上がってきた。すると鏡の映像は陸上自衛隊の制服を着たモリヤが会ったことがない自衛官たちに囲まれて厳しく叱責を受けている場面に変わった。声も聞こえるが、モリヤは「私の落ち度です」と繰り返すだけで日頃の雄弁さは封印していた。
「この女は罪ではなく業が果てしなく深いようです」美恵子が一切後悔・反省をせずに勝手な逆恨みだけを燃え立たせているのを見ている閻魔王に歩み寄った奪衣婆が報告した。

聖衆来迎寺・閻魔王庁図
- 2021/12/16(木) 14:33:50|
- 夜の連続小説8
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12月8日に一般的には少年サンデーに昭和45(1970年)から昭和57(1982)年まで長期連載し、アニメにもなった「ダメおやじ」、山口県では圧倒的購読者数を誇る毎日新聞の日曜版に昭和50(1975)年から2020年まで45年間の超・長期連載した「ぐうたらママ」、野僧にとっては落語漫画の傑作「寄席芸人伝」と週刊ポストに昭和53(1978)年から昭和61(1986)年まで連載したウンチク漫画「減点パパ」、そして未完になった洋酒のウンチク漫画「BARレモン・ハート」の作者の古谷三敏先生が亡くなったそうです。85歳でした。
古谷先生は昭和11(1936)年に満洲の奉天で寿司屋を営む板前の長男として生まれました。父親が満洲に渡って3年目に生まれた子供だったので長男でも三敏と名づけたそうです。父親は腕の良い板前でしたが大の博打好きで、警察に拘束されて1週間帰らなかった間に仕入れていた高級魚が腐って多額の損失を出し、やむなく北京から280キロ離れた渤海湾沿いの陸軍部隊の炊事係になったため最も近い隣りの市の日本人学校まで片道5時間かけて通学したそうです(後にできた分校でも2時間)。
敗戦で帰国して混乱の中で成長しましたが昭和30(1955)年に少女マンガ「みかんの花咲く丘」でデビューすると昭和33(1958)年からは手塚治虫先生の助手になり、昭和36(1961)年に独立すると少女漫画を連載した雑誌社の斡旋で赤塚不二夫先生の助手になりました。しかし、赤塚先生と古谷先生は1歳違いなので雇用関係や師弟と言うよりも兄弟・相棒のような間柄のアイディア担当で「おそ松くん」や「天才バカボン」に携わりました。そして昭和45(1970)年から「ダメおやじ」を連載すると少年漫画としては異例の長期連載になり、続いて毎日新聞の日曜版の「ぐうたらママ」でお茶の間にも進出しました。そして昭和53(1978)年からはビッグコミック誌に「寄席芸人伝」の連載を始め落語好きの高校生だった野僧も単行本を買って愛読しました。さらに通学中にサラリーマンが笑いながら熱心に読んでいるのを見て興味を持った「減点パパ」も単行本で熟読し、昭和57(1982)年に20歳で大学を中退して航空自衛隊に入った頃には立派なウンチク親父になっていました。教官や同期たちは大学で雑学も学んだと思っていたようですが、岡崎の矢作南小学校で身についた探求心で集めた知識をウンチク(後にトリビア=雑知識と呼ぶようになった)として語る快感を「減点パパ」で学習し、実践していただけで今も収まっていません。
そして何よりも「寄席芸人伝」は元々小坊主時代に師僧と一緒にテレビの演芸番組を見て落語好きの種が播かれていたため水と肥料を与えられたようなもので、蒲郡高校の生徒会長の時には文化祭で先代の三遊亭円楽師匠を招聘しました。さらに大学時代は落語研究会(おちけん)の同級生からアドバイザー扱いされるほどの落語通になりましたが、野僧は学資を稼ぐための肉体労働が忙しく、同級生から話を聞いた上級生が「取扱いに困る」と敬遠したようで勧誘は受けませんでした。NHKは番組化しないものでしょうか。
非常に多くの影響を与えていただいたことに心から感謝してご冥福を祈ります。合掌
- 2021/12/15(水) 14:30:20|
- 追悼・告別・永訣文
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