1960年代の高度経済成長で戦前から始まっていた環境汚染が急速に進み,ヘドロの海と光化学スモッグが日本の国土を覆い始めて国民の環境問題に対する危機感が最高潮になっていた昭和46(1971)年の明日7月1日に環境庁が設立されました。
戦前の殖産興業は軍事力の強化を目的にしていたため排水や排煙などは放置し、敗戦後は経済復興を至上命題として戦前以上に環境を傷めつけてきたので工業地帯の排水が流入する河川と近海の水質汚染が急速に進み、さらに工場の排煙と急増した自動車の排気ガスによる大気汚染も加わり、戦前から戦後までは原因不明・地域限定の奇病と見られていた「水俣病」「イタイイタイ病」「四日市喘息」「第2水俣病」も、昭和31年(1956)年に熊本県の水俣病の原因が有機水銀と正式に認定されて以降、明治末期から富山県神通川流域で発生し始めていたイタイイタイ病がカドミウム、昭和34(1959)年に四日市喘息が大気中の亜硫酸ガス、昭和39(1964)年の新潟県阿賀野川流域の第2水俣病も有機水銀と次々に「4大公害病」として認定されました。
環境庁は高度経済成長を推進した池田隼人内閣が昭和39(1964)年3月27日に設置を閣議決定した公害対策推進連絡会議を前身として佐藤栄作内閣が昭和42(1967)年に公害対策基本法を公布・同日施行して昭和45(1970)年7月31日に内閣に公害対策本部を設置する一方で招集した第64回国会=通称・公害国会に公害対策関連14法案を提出・成立させ、この日に総理府の外局として創立されたのです。
しかし、環境庁は前述の内閣公害対策本部、総理府公害対策室、厚生省の大臣官房国立公園部と環境衛生局公害部、通商産業省公害保安局公害部、経済企画庁国民生活局の一部、林野庁指導部造林保健課の一部を統合した寄せ集めであり、これらは各官公庁に寄せられる公害問題の苦情処理係に過ぎず、環境問題に関する専門知識は苦情に回答する程度に過ぎず、役所としての職務権限も他の官公庁と原因を自覚している企業が抑圧に向けて共同戦線を張ったため問題は眼前に山積していても手が出せない=打つ手がない状態でした。
ところがマスコミは新設の環境庁を「公害対策・環境保護の救世主」と胴上げのように持ち上げて全国各地の苦情と要望を搔き集めると本業は医者の大石武一環境庁長官に押しつけてお手並み拝見を決め込みました。すると大石長官は四日市喘息の原因を四日市のコンビナートの排煙による大気汚染、イタイイタイ病は神岡鉱山の湧水によるカドミウムに汚染された水稲とした判決を受け入れただけでなく、観光客の激増で建設が決定していた自動車道計画を中止させるなど自民党の政治家としては異例の活躍を見せたためマスコミは世直し大明神の如く崇めたか祀ったのです。
しかし、これが国民に環境庁の実力を過大評価、過剰期待させる結果を招き、世界的な環境問題の高まりに迎合して2003年にはさらに関連組織を寄せ集めて組織を膨らして内閣府の監督を受けない環境省に格上げされ、原子力規制庁まで傘下に置きましたが福島第1原発の放射能漏れでは何もできず、その後の地球温暖化問題では気象庁の暴走にアイドル環境大臣自らが追従して三流官庁の実態を広く晒す羽目になっています。
- 2022/06/30(木) 13:56:49|
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「これは本格的な艦砲射撃ですな・・・ウクライナを思い出す」説明に先立ち私が時間節約のため陸上自衛隊化学学校で渡された化学物質の詳細な分析結果の資料を見せると担当者の警視は事件後に第11管区海上保安本部との合同調査隊が撮影した現場の動画と回収した証拠品の画像を私の前に置いたパソコンに提示した。そこには大量の砲弾が炸裂して抉られた地表と千切れた手足や内臓が飛び出した胴体などの壮絶な映像に私はウクライナ東部地区で見たロシア軍とウクライナ軍の激しい砲撃戦の惨状を思い出した。私自身はカンボジアやコートジボワール、アフガニスタン、旧ユーゴスラビアなど多くの戦場の跡地を見てきたが、アフガニスタンと旧ユーゴスラビアは主に空襲、カンボジアとコートジボワールは銃撃戦だったので砲弾による徹底的な破壊はウクライナに重ねてしまった。
「中国海警の警備船は海軍の巡洋艦の塗装を変えただけの戦闘艦ですから艦砲射撃も本格的でした。おまけに魚釣島には岩山の他には遮蔽物がなくて機動隊員たちは地面に伏せる以外に身を守る術(すべ)がなく生きたまま肉体が四散したんです」提示している画像を喰い入るように見ている私に撮影場所と遺骸の身元を説明している警視は怒りを露わにしながら目を潤ませた。膝で千切れたこの左足は入署して5年目だった23歳の巡査のモノだそうだ。
「中国人の遺骸も破砕しているため有毒ガスの成分検査を実施できるだけの血液は採取できなかったのですが、この弾頭のおかげで先ほどの結果が確認できました」警視は何かの嫌がらせなのか一般人であれば間違いなく心的外傷症候群=PTSDを発症する残酷極まりない画像を見せてから事件の本質に関わる解説を始めた。
「この赤い布は落下傘の断片だね」「画像の隅に写っている岩の割れ目からはみ出しているのを発見しました。調査員も流石に興奮したようで現場写真を撮影する前に拾い出しています」後半の弁解は裁判での証拠確認でも交わされることがある。実際、手を触れる前の状態を確認できないことは証拠物件の信憑性を大きく低下させるのだ。
「もう一度、中に入れて発見時の状況を偽造・再現しなかったことを是としよう。この壮絶な現場を見ていて救われようがない気分になっている時にこの赤い布が目に入れば無意識に手に取ってしまうのは理解できる。この弾頭の外面に付着している砂粉や土は尖閣の岩質や土壌と一致するのかね」「はい、それは大丈夫です」次の弾頭の拡大画像を見た私の助け舟のような確認に警視は安堵したようにうなずいた。
「しかし、日本国の沖縄県警としては科学警察研究所に送って陸上自衛隊の化学学校に分析を委託するのが常識的な対応だったんだろうが、国際刑事裁判所的には在沖縄アメリカ軍に持ち込んでアメリカに分析させることで巻き込む選択肢もあったね。日本独自の分析では韓国が海外で喧伝している流れに抗ずることはできない。その点、アメリカの公的機関が証明すれば中国も反論できないはずだ」「なるほど・・・それが国際刑事裁判所の視点なんですね」現場検証の映像が終わって次の事件全体の時系列の記録のリムーバー・ディスクを準備している警視に声をかけるとあらためて感心したように返事をした。どうやら警察の体質として訴追理由の可否に関係なく日本の司法では皆無に等しい敗訴の屈辱を与えた弁護士に対する敵愾心を執念深く腹に溜めていたらしい。それでも現在は味方の検察官、しかも国際刑事裁判所で働いていることを実感したことで腹の一物が解消したようだ。
「問題なのは国境離島警備隊が戦時にも文民警察官と認定されるかだね」「我々は間違いなく沖縄県警に所属する警察官ですよ」今回の「尖閣諸島に中国の漁民が上陸した」との通報を海上保安庁から受け、離島国境警備隊が逮捕・連行するためにヘリコプターで出動したが抵抗されて催涙ガスを発射したところ弾頭に有毒ガスが装填されていて漁民が死亡したため、その報復に中国海警の砲撃を受けて国境離島警備隊も全滅した事件に私はヨーロッパにおける対テロ部隊にも感じていた戦争法上の疑問を再認識した。戦争法では識別章=階級章の明示、武器の公然携行、指揮官によって指揮される2名以上の集団、戦争法を順守した行動を戦闘員の認定要件としているが文民保護と治安維持に当たる警察官は除外されている。しかし、ヨーロッパの対テロ戦闘は治安維持の一線を越えているとしか思えず、沖縄県警国境離島警備隊の離島防衛は戦時になれば戦闘行動に他ならない。
「アメリカのSWATやヨーロッパの対テロ部隊は州兵、民兵とはやっていることに大差がなくても明確に区分しているが、韓国や中国が違法行為としてウチに提訴してくる可能性がないとは言い切れない。日本政府が治安出動している自衛隊を警察扱いしているのは正解だ」「それなんですよ。本当は沖縄本島でも自衛官を動員して警備を強化したいんですが、駐屯地で即応待機させているだけです」最後は現場としての愚痴になった。
- 2022/06/30(木) 13:55:39|
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安倍晋三政権が2018年12月25日に閣議決定して翌12月26日に通知してから半年が経過した2019年の明日6月30日に国際捕鯨委員会から脱退して翌7月1日から日本の領海と経済水域内での商業捕鯨を再開しました。
日本の捕鯨は江戸時代まで網の中に追い込み、勇者が暴れる鯨の背中に乗って銛で心臓を突いて殺す原始的な漁法でしたが、それでも享保年間から幕末までに21700頭を捕獲していて頭数の激減で近海での鯨漁は低迷していきました。そんな中、明治政府は日本の船舶の発達を見ながら遠洋での捕鯨を推奨しましたが当時は冷凍技術が不完全だったので折角の鯨肉は投棄して、世界の海で鯨の大量殺戮を繰り広げた欧米と同様に日本でも普及したランプ用の鯨油を目的にしていました。
ところが敗戦後にアメリカ式の肉食が普及しても豚や牛の増産は中々進まず、そんな中で国民に良質の動物性蛋白質を提供してくれたのは捕鯨船団が南氷洋から持ち返る鯨肉でした。こうして日本は最盛期には7つの捕鯨船団を南氷洋に送り込み、電灯の普及によって鯨油を必要としなくなった欧米の撤退も重なり、世界最大の捕鯨国になったのです。
その一方で欧米諸国は自分たちが必要としなくなった「鯨の保護」を主張するようになり、昭和23(1948)年11月10日に国際捕鯨員会=IWCを設立し、日本も独立後の昭和26(1951)年4月21日に加盟すると「人間並みの知能を持つ鯨(大脳の重量のみの比較、表面積は格段に少ない)を大量に殺戮する残酷な民族」として常に批判の対象=サンドバックにされたのです。実際、江戸時代の日本と同様の方法で捕鯨しているアラスカのイヌイットについては「民族文化の保護」を名目に黙認し、北大西洋の領海・経済水域内で捕鯨しているノルウェーについても無視しています。
さらに日本が厳格に自主規制しているにも関わらず昭和57(1982)年に商業捕鯨の停止決議を採択すると昭和61(1986)年には南氷洋での母船式捕鯨、昭和63(1988)年には太平洋でのミンククジラとマッコウクジラの商業捕鯨が停止されました。
これに対して日本は遠洋捕鯨の船団を有する唯一の国として鯨の生態を調査する目的の調査捕鯨は継続しましたが、オーストラリアは「調査目的で捕獲=殺害した鯨を食肉加工して国内で販売している」と2010年5月31日に国際司法裁判所に提訴して、2014年3月31日にはオーストラリア勝訴=日本敗訴の判決が出ました。しかし、オーストラリアは自国の対岸に当たる南極大陸の3分の1を領土、間の南氷洋を領海と主張していて日本の調査捕鯨は南氷洋を公海とする行為に他ならず、この提訴には国際連合の付属機関である国際司法裁判所に領土的野心を認知させる政治的策謀が絡んでいました。
この脱退について日本のマスコミは「第2次世界大戦前の国際連盟脱退と同じように国際社会での孤立化を招く」と過剰に危機感を煽りましたが、欧米では第2次世界大戦前には撤退していた捕鯨そのものへの関心が低く、さらに太平洋全域では鯨の急増によって餌になる魚類の減少が顕著でアジアや太平洋の漁業国では食料資源の枯渇が危惧されているため日本のマスコミは報じなくても安倍政権の決断は肯定的に評価されています。
- 2022/06/29(水) 14:56:06|
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「はじめまして国際刑事裁判所で次席検察官をやっていますモリヤニンジンです」翌日は沖縄県警だった。目的は今回の一連の武力衝突で中国が安全保障理事会の席で日本に対する常任理事国としての懲罰を宣言する理由にした化学兵器使用に至る尖閣諸島・魚釣島への中国漁民の上陸と離島国境警備隊の行動についての実態調査だ。事件後に沖縄県警と第11管区海上保安部の合同調査隊が現場検証で回収した催涙ガス弾の弾頭に残っていた毒ガスの詳細な分析結果については既に化学学校で確認している。
「モリヤ検察官の弁護士時代の活躍はウチでも伝説になっていますよ」本人の執務室で面談した担当者の警視は女性事務官が煎れてきたコーヒーを勧めながら開口一番に皮肉な社交辞令を口にした。私が沖縄県警絡みで弁護活動を実施したのは普天間基地の辺野古移設に抗議するデモ隊が基地の外柵フェンスを押し倒し、不法侵入として逮捕しようとした海兵隊員との揉み合いで活動家が負傷した事件で、デモの主催者が「海兵隊員による暴行」として刑事告発した裁判だった。沖縄県警としては刑事告発された以上、検察側に立っていたが素人でも判るような虚偽・捏造の証拠を不定期参加とは言えプロの自衛官が論証したのだから日本の裁判では滅多にない結果になった。しかし、沖縄のマスコミは「自衛官が法廷に参加するのは司法の軍事裁判化につながる」と事件とは別の批判を繰り返していたと後で梢から聞いた。
「実は私も沖縄県警には色々思い出があるんだよ」皮肉に皮肉を返せば感情的に調査に悪影響がありそうだが、これは過去の沖縄県警の体質に関する不信感なので、払拭するためにあえて口にして現状の説明を求めることにした。
「私が沖縄の航空自衛隊で勤務していた昭和50年代後半に音楽隊のコンサートが豊見城ホールで開催されて私は沖縄県警の機動隊と一緒に会場警備に付いたんだ」「それはご苦労さまでした」「お互いさまです」やはりジャブ的皮肉の応酬になってきた。
「ところがコンサートが始まって機動隊が待機車で弁当を食べ始めたのを見てデモ隊の男女の自家用車が猛スピードで突入してきて、私は通路に立ちはだかって阻止しようとして撥ねられたんだ」「よくぞご無事で」「一応、柔道2段だから車の上を越えて路上に落ちたが無傷だったよ」この合いの手は話の腰を折るために挿入しているらしい。
「すると待機車から出てきた機動隊員は逃走した車両を手配することなく座っている私に向かって『危ないことをするな』と怒鳴りつけたんだ。そこで私が『逃走時に死ねと捨て台詞を吐いたから殺意がある。殺人未遂事案だ』と反論すると警部補が出てきて『自衛隊の行事があるから若い連中は日曜日にも勤務しなければならないんだ。その気持ちを理解してくれ』と言われたんだよ」「それは拙いですね、先ずは『怪我はありませんか』でしょう」これで反応しないならば国際通りの公園の公衆トイレでレイプされた女性を保護して派出所に連れて行った時、応対した若い警察官は私が自衛官と知るとイキナリ「お前が姦ったのか」と疑って手錠を取り出した思い出話もある。それにしてもレイプ犯が上半身裸になって被害者に自分のTシャツを着せ、ワザワザ派出所に連れてくるはずがないだろう。
「あの頃の沖縄県警は幹部警察官の大半が本土からの派遣要員で、沖縄出身の若い機動隊員に本土式の日本軍のような精神教育をしていたんです。若い機動隊員たちは復帰後の学校教育で同じく本土から派遣されている日教組の教員に反日本軍・反米軍・反自衛隊の洗脳教育を受けていましたから内心では強く反発していました」「交通事故でも自衛官が不利になるように判定されて隊員は沖縄県警に怒ってたよ」「それは申し訳ありませんでした」私の回想に警視は唇を歪ませて軽く頭を下げた。兎に角、先輩は赤信号で止まっていて追突されてもブレーキ・ペダルを十分に踏み込まず停止灯が消えていたことが原因にされたのだ。
「現在は沖縄県出身の幹部警察官が主力になって次々に警察大学校へも入校しているので機動隊での精神教育も強烈な効果を発揮しています。郷土を守ろうとする士気は他県の機動隊にも引けは取りません」「朝霞の警察大学校ですか、懐かしいですね」私の返事に警視は陸上自衛隊時代に勤務したのかと推理したようだが、実際は航空自衛隊での体育学校への入校でレンジャー訓練を受けていた警視庁が創設を進めていたSAT要員と親しくなったのだ。
「ところでモリヤ検察官は名城慶文(けいぶん)警視を知っていますか」「ケーブンって少林寺のケーブンかね」「そうです。名城警視は現役時代、モリヤ弁護士の活躍を署員に紹介して昔の友人だと自慢していました」名城慶文は梢の高校の同級生で基地の少林寺拳法部に参加していた。私と梢がつき合い始めたことを知ると全面的に応援してくれたが、私の親の反対で引き裂かれたことで友情も途絶えてしまった。名城が地元の大学の法学部を卒業して沖縄県警に入ったことは知っていたが、私が少林寺拳法部を退部したので噂も耳にしていなかった。
- 2022/06/29(水) 14:54:55|
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大正5(1916)年の明日6月29日に尼僧を専門に40人以上を強姦し(巫女や一般女性も被害に遭っている)、司法で立件告発されただけでも強盗殺人3件、強盗強姦5件、強盗7件、窃盗9件(立件できなかった事件は他にも多数ある)の凶悪犯罪を重ねた大米龍雲師(曹洞宗で得度を受けた僧侶なので敬称を付けざるを得ません=道元師は善良な俗人よりも悪徳の出家者の方が上位と説いているため)の死刑が執行されました。
大米師は明治4(1871)年に浅草で生まれましたが幼い頃に両親が亡くなったため経歴は本人の自己申告に依るしかありませんが、近所の住民の情けで7歳になった頃に押しかけてきた親戚に家と土地を奪われて、人買いに売られて大分市の曹洞宗の寺に捨てられたと言っています。そのため本籍や本名は不明でそれが裁判で前科を隠すのに役立ち、初犯として短期間の刑期で出所を繰り返すことになりました。
18歳の時、養父の師僧が死亡したため寺を出て熊本の柔道家の内弟子になり3段の段位を取得すると折から勃発した日清戦争に志願して戦地では地雷を踏んで鼻を吹き飛ばされる負傷を負いました。戦争が終わって復員すると名誉の負傷兵として静岡県島田市(現在の=以降同じ)の寺を紹介されて住職になったものの曹洞宗が無料で譲ってくれた寺だけに檀家が少ない貧乏寺で(現在は兼務住職)たちまち生活に困窮してしまい、22歳で寺を捨てて出奔すると詐欺や窃盗の全国行脚を始めました。
そんな中、明治38(1905年)1月に兵庫県尼崎市の尼寺に押し入って72歳の尼僧を強姦・殺害して現金を奪って逃走し、同年6月に島根県松江市の男性の住職に詐欺を仕掛けると警察に通報されて逮捕されましたが尼僧の殺害は発覚しなかったため4か月の服役を終えることになり、これで自信を深めて犯罪行脚を再開したのです。
こうして大正2(1913)年4月に神奈川県小田原市の60歳の尼僧を強姦して海に突き落として殺害・貯金通帳と現金を奪い、同年夏に神戸の波止場で26歳の男性と口論になって殺害、同年秋には福岡市の民家に押し入り、飲食店を経営する女性を強姦して内縁の妻にしました。大正3(1914)年夏に内妻を連れて上京すると京橋で間借りして各地で犯行行脚を続け、同年9月には京都市の尼僧が叫び声を上げたため舌を手で引き裂いて大量の出血で窒息死させています。さらに同年11月には神奈川県鎌倉市の高齢の尼僧を殴りつけて現金を奪い、大正4(1915)年1月にも鎌倉市で21歳の尼僧を強姦して殺害し、同年7月に東京の杉並で69歳の尼僧を強姦して現金を奪って逃走した時、生存した尼僧の証言で年齢、身長、鼻が欠けているなどの特徴が確認されて全国に手配が回り、同年8月8日に内妻の地元の九州へ逃亡して到着した博多駅で手荷物を荷車に積んでいるところを張り込んでいた捜査員に取り押さえられたのです。
裁判では1審で死刑が確定しましたが判決を言い渡す裁判長に「面倒臭せえからさっぱりやってもらいやしょうぜ」と言い放ち、執行時には最後の煙草を吸い終わると「さあ、やって貰おうか」と言って刑場に進み、目隠ししようとする刑務官を「止せやい、くたばっちまえばどうせ何も見えねえんだ」と制した堂々たる態度だったそうです。
- 2022/06/28(火) 15:10:41|
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首里のマンションに到着して梢の兄・恵昇の位牌壇に熊本空港で買った銘菓・誉の陣太鼓と山中区隊長に渡された自家製の沢庵を供えて供養の読経を勤めた。背後には安里家の両親と梢、あかり、いりえの順で並んで座っているが、いりえの正座は折り目正しく坊主の息子として私の教育を受けた淳之介の躾が窺われる。この部屋にはあかりといりえ母子が寝ているようで隅には畳んだ蒲団が積んであるが、積み方が手で計ったように揃っているので視覚障害者のあかりが自分でやったらしい。航空自衛隊の毛布の畳み方を思い出した。
「佳織は元気だった」居間に移動していりえに土産のクマもんグッズを渡したが、考えてみれば沖縄には熊がいない。そこで私がスマート・ホンで検索した画像を見せながら説明した。続いて誉の陣太鼓を開けると茶話会になった。すると梢が真顔で訊いてきた。
「本土も意外に治安が保たれていて無事に過ごしているようだ。やはり治安出動した自衛隊を警察官として使っているのが効果的なんだろう」「沖縄でも石垣島と宮古島、与那国島の陸上自衛隊と久米島の航空自衛隊には警察官させてるよ。でも沖縄本島では反対運動が激しくて駄目だ」「自衛隊が出動した地域の警察官を本島に引き上げようとしたら『沖縄に住む中国人を敵視するのか』ってマスコミと教員が騒ぎ始めて・・・」「要するに中国に侵略してもらいたいんだね」私の見解に両親が興奮気味に反応したので水をかけるようにオチをつけた。言われてみれば那覇空港は今回利用した成田空港や羽田空港、熊本空港に比べて配置されている警察官の人数が少なく、モノレールの駅もホームにまでは手が回っていなかった。それでも梢が言う程度の犯罪ですんでいるのは北京からの「アメリカに日米安全保障条約を発動する口実を与えるな」と言う指令が沖縄在住の中国人に徹底しているからだろう。
「与那国や石垣、宮古、久米の自衛隊の家族は本土に帰ったのよ。淳之介さんの会社の離島便も本土に送る段ボール箱を満載したんだって」「それは対馬の自衛隊の官舎で妻が集団レイプされる事件が起きたから予防措置として避難させたんだ」「レイプって・・・」私の説明にあかりは困惑したように閉じていた目を開き、白濁した瞳を見せた。視覚障害者用に点字翻訳した本には綺麗事だけを記しているため、あかりはラジオでは聴くことがあるレイプと言う単語が実感を持って理解できないようだ。しかし、あかりは職場の宴席で酔い潰された梢が意識のないままレイプされて、脅迫を受けて結婚した同僚の娘なのだ。
「女性が本人の意思に関係なく暴力的に性行為を強要される犯罪だよ。対馬では漁船で侵入した男たちが官舎に押し入って家族を送り出して家事に励んでいた妻を襲ったんだ」「どうして・・・性行為って愛情を確かめて生命がつながるためにするんでしょう。私、淳之介さんに抱かれると凄く気持ち好いし、とっても幸せよ」両親と祖父母が聞いていて赤面してしまうような告白をあかりは自然なことのように口にした。
「淳之介はあかりが恵祥を産むために首里に来ている時、AVが止められなくなったじゃない。男の人には愛情とは別に性行為を抑えられなくなる欲望、本能があるのよ」「ワシの場合はあったんだけどな」「馬鹿ッ」梢の母親としての解説を聞いていて私はかなり早目だった自分の更年期に身を詰まされてしまった。おまけに今回の来日では佳織に妻として遠回しに求められても応えられず、30年ぶりに再開した中村昌代准尉の「バイアグラがジェネレックになった」と言う世間話に過剰反応してしまった。茶化したような呟きも実は悲痛な叫びだった。
「貴方だって愛情を確かめて生命がつながるために私を抱いてたじゃない。勿論、凄く気持ち好かったけどね」「お前も最高だった。まさに至福の時だったよ」確かに梢との性行為は一体感に酔いしれて2人で一緒に極楽往生したような心地だった。それでもあかりの告白は素直な真情の吐露だったが、私と梢の回想はその後の遠回りを見てきた両親には聞かせるべきではなかったかも知れない。案の定、両親は複雑な顔を見合わせた。
「イッぺエ、マーサイビン(凄く美味しい)だな」「本当、美味しいわ」「果物みたい、オヤツになるさァ」夕食で山中区隊長の沢庵を食べて全員が感嘆の声を上げた。段ボール箱の中には漬け上がった大根状態の沢庵が4本も入っていて、台所で切っている母親と梢が「口に合わなかったらどうしよう」と心配している声が聞こえていた。実は温暖な沖縄には漬物を食べる習慣がないのだ。ところが薄切りにした沢庵を口にした家族一同はその上品な味と心地よい歯応えに感激して食卓には無言で「パリパリ」と沢庵を噛む音が響き渡り、漬物を食べたことがないはずのいりえまで曾祖母と祖母=梢が作った料理には見向きもせず、沢庵でご飯を口に運び続けていた。この調子では首里と八重山の安里家で分配されてオランダに持ち帰ることはできないかも知れない。それにしても山中区隊長夫婦はスーパーなどに卸す市販品を作っている並みのプロ以上の凄技だ。これなら東北式茶話会のお茶菓子代りにしても大人気だ。
- 2022/06/28(火) 15:07:13|
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1993年の明日6月28日に春日基地の西部航空警戒管制団防空管制群の隊員の間ではステルス1佐の仇名(保全上、実名は非公開とします)で呼ばれていた第5高射群司令が沖縄で始めた趣味のハングライダーの練習中の突発事故で墜落死しました。
ステルス1佐は野僧が見習い兵器管制士官として西部防空管制群に勤務している時の群司令で背が低くてもスポーツマンで、そのため日に焼けて顔が黒く、何よりも現場と隊員が大好きな人でした。
防空管制群は地下25メートルの体育館並みに広くて暗い管制室にレーダーがいくつも並んだところですがそこへいつの間にか、どこからともなく群司令が現れるので若手幹部の間では当時ベールを脱いだばかりだった米軍の見えない黒い戦闘機=ステルス戦闘機になぞらえてステルス1佐と呼ぶようになり、それが若い隊員にまで広まったのです。
ある夜勤終了直前の朝、野僧が(レーダーの)監視係幹部についているといつの間にか前のレーダー員の席に白髪の隊員が座っていました。そこで野僧が「そこにいるのは誰だ」と声をかけると振り返ったのは群司令=ステルス1佐で「悪戯成功」と言う感じでニヤーッと笑いながら「お前は、レーダーの前にチャンと隊員を監視しろ」と叱られました。
家族を佐賀市内に置いての単身赴任だったステルス1佐は官舎で自炊の朝食を摂ってそのまま出勤しても群本部には誰もおらず、24時間体制の防空管制隊の控え室でコーヒーを飲んでから現場に来ては夜勤明けの若い隊員が眠そうにしていると「代わってやる」と言って一緒に監視業務につくことがよくあって監視係幹部は気が抜けませんでした。
そんなステルス1佐は第5高射群司令として沖縄に赴任すると防衛大学校時代からパイロットを熱望しながら「身長が低くてコンソールから外が見えない(本人の弁ではない)」と航空身体検査(甲=管制官は乙)で落とされた大空への夢を叶えるべくハングライダーを始め、元来がスポーツ万能なのでみるみる上達したそうです。
ところがこの日の練習中、突風にあおられた人を止めようと腰にしがみついて一緒に飛び上がってしまいました。上空で操縦者が「急いで高度を下げるから頑張れ」と声をかけると「もう駄目だ」と答えて落ちて逝ったそうです。操縦者は大柄だったようなのでステルス1佐の短い腕では腰に手が回し切れなかったのかも知れません。
野僧は事故現場が沖縄本島中部の高台付近と聞いて樹木のクッションで助からなかったのが不思議だったのですが高度60メートルが基地の煙突の高さと聞いて納得しました。
この悲報を聞いた西部防空管制群の若い隊員たちは「やっぱりGCIO=要撃管制幹部は地下にもぐってないと駄目なんだ、飛んではイケナイんだよ」と言って泣いていました。
野僧は見習い兵器管制士官時代、ソ連軍機に通・警告すると流暢なロシア語とアラスカ訛りの英語に喜んだパイロットが回答して談笑になったことがありました。そのことを聞いたステルス1佐は野僧に興味を持ったようです。これ以上は語れません。そしてステルス1佐は非公務の私的な事故死でありながら殉職に準じて空将補に特別昇任しています。奥さんは「武人にあるまじき無様な死に方をしながら不相応な栄誉」と固辞したそうです。
- 2022/06/27(月) 14:47:00|
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「貴方、お帰りなさい」「お祖父ちゃん、こんにちは」那覇空港では梢が孫娘のいりえを連れて出迎えていた。淳之介としては恵祥もあかりの補助を兼ねて同行させたかったようだが、島の小学校で唯一の高学年としての責任感から辞退したらしい。
「本当はあかりも来たがったんだけど何かあると危険だから家で待たせたわ」梢は事情を説明して顔を曇らせた。私は来日して以来、日本の新聞やニュースを詳しく見ているが国内での発砲事件は根絶できていないようだ。治安出動した自衛隊による家宅捜査で在日中国人と韓国人に配布されていた中国製の92式手槍は相当数押収されたが、持ち込まれた実数が不明なので手を緩めることができない。私が博多や長崎の夜の街を歩いている時も遠くで銃声を聞き、ホテルに帰って見たテレビではどちらも「コンビニ強盗が発砲」と字幕のニュース速報が流れていた。こうなると武器の供与による間接侵略ではなく犯罪の過激化に過ぎなくなる。
今回の来日では海外旅行用のキャリー・バッグは先に梢が沖縄に持ってきて私はスポーツ・バッグに衣類を詰めていた。本当はそのスポーツ・バッグと調査に赴いた先々で渡された資料を入れたアタッシュケースだけが手荷物だったのだが、熊本で山中区隊長から自家製沢庵が入った中型の段ボール箱を渡されたので1人では持てなくなってしまった。そこで梢が片手でいりえの手を引き、反対の手に私のスポーツ・バッグを提げ、私は段ボールの上にアタッシュケースを載せて両手で抱えて人影まばらな空港のロビーを歩き出した。
「沖縄でも発砲事件が続いているのか」「拳銃を使った強盗はかなり増えているみたい。後は拳銃で脅して女の子をレイプしたり、若い子たちの喧嘩が射ち合いになったり、昔は刃物でやっていたことに拳銃を使うようになってるわ」「要するにアメリカ風の犯罪になってるんだな」私の納得に梢は肩をすくめてうなずいた。ヨーロッパでも民兵制を敷いている国では市民は自宅で自動小銃や拳銃に弾薬まで保管しているから「銃社会」と危険視されているアメリカと大差はないが銃器を使った犯罪の発生件数は比較するまでもない。一方、沖縄は島津に支配された江戸時代に刀剣を取り上げられたため中国伝来の少林武術を唐手(とうでい)と呼んで護身術とした。だから沖縄空手の型には鎌や鋤などの農具を使った技もある。一方、昔の任侠映画では本土のヤクザが手にしている武器の出処を「不良アメリカ兵から買った」と説明する場面があったが、占領下の沖縄では憲兵隊の取り締まりが民間の日本人にまで及んだためそれ程でもなかった。むしろ地元のヤクザの抗争では隠し持っていた日本軍の武器を使ったらしい。そんな平和な沖縄で銃器が蔓延しては絶対に困る。
「それでも普天間のアスプレイに発砲した反基地運動の活動家がいたんだけど数日後に射殺死体になって発見されたんだって」「アスプレイは無事だったのか」「事故にはならなかったみたい」空港から首里に向かうモノレールに乗るといりえを挟んで座った祖父母の時事解説の対話が再開した。蔓延した中国製の拳銃が反アメリカ軍や反自衛隊の政治闘争に使用されたとなると単なる犯罪の過激化ではすまなくなる。
「殺されたのは本土から移住してきた元日教組の教員で普天間基地の移設反対運動の指導者だったみたい。今までもアスプレイが着陸してくると鉄片を張りつけた風船を大量に飛ばしたり、レーザー・ビームでパイロットの目を狙ったりしてたんだけど今回は集まっている仲間に拳銃を見せびらかせて『確実に落とす』って宣言してアスプレイに向かって弾がなくなるまで射ったそうよ。当たらなかったのかしら」「アプローチ(直陸)高度は低く見えるけど意外に高いから素人が命中させるのは無理だな。マグレで命中しても拳銃弾ではキャノピー(風防)を割るほどの威力はないだろう。しかし、その実行犯の殺害が問題だ」「両親が取っておいてくれた新聞を読んだけど『遺骸を発見』って言う第一報以外は年齢や学歴、経歴なんかの個人情報を続けただけで『最近、県内で頻発している拳銃を使用した犯罪に巻き込まれたのでは』と言う結論で終わっていたわ」私は佳織から今回の武力侵攻では中国が日米安全保障条約の発動を阻止することに万全を期していて、日韓の武力衝突が発生して以降、在日韓国人が自衛隊基地に抗議デモを繰り返しても在日アメリカ軍基地には近づかなかったと聞いている。おそらくその元教員は個人的に拳銃を入手して有頂天になり、英雄気取りで憎むべき宿敵・アメリカ軍のアスプレイを撃墜しようとしたため北京の意向を慮る(おもんばかる)在沖縄中国人組織によって処理されたのだろう。結局、中国共産党にとって外国人の活動家などは使い捨て自由の小道具に過ぎず、邪魔になれば意図も容易く破棄できるのだ。その元教員は70年代の学園紛争で毛沢東主義に洗脳され、崇拝する同志・毛沢東への忠誠一筋に中華人民共和国を理想郷とする教育を日本人の子供たちに施してきたのだろうが、長年描き続けてきた夢=中国共産党による日本統治が実現する直前で道を踏み誤って地獄へ堕ちたようだ。
- 2022/06/27(月) 14:45:21|
- 夜の連続小説9
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今年の5月17日は沖縄の日本返還50周年だったのでNHKはアメリカの統治下にあった時代から返還後の現在に至る沖縄の歩みを特集していました。この特集番組は沖縄支局が独自に制作しているようでNHK本局が保持している放送法に基づく公正中立性を完全に放棄して事実を大きく歪曲させた本土の大江健三郎(ノーベル文学賞作家)や沖縄の大田昌秀(琉球大学教授・沖縄県知事)などの売国奴=亡国の徒が拡散させた被害者史観に基づく反米反日の偏向番組になっていました。
今回の番組ではアメリカの占領政策は沖縄の軍事基地化だけを推進して住民の生活は放置していたかのように説明していましたが、11歳までアメリカ国籍だった亡き妻の証言(本人は母子家庭の安アパート育ち)では占領政府は沖縄の永久統治を目論んでいたため住民をアメリカ人化しなければならず、生活水準をアメリカ本土並みに豊かにすることで帰属意識を獲得しようと上下水道・電力・電話・テレビ放送や幹線道路・港・空港などの公共施設を整備し、アメリカ軍人の家族に提供する肉や果物などの食料品や衣類などの無関税輸入を住民にまで拡大したので、本土では庶民の家は汲み取り式だった時代に沖縄では離島でも水洗式トイレで、本土の庶民が「3種の神器」と呼んで憧れていたテレビ・冷蔵庫・電気洗濯機や電話器はどの家にもあり、扇風機ではなくクーラーでした。食生活も本土では薄い焼き肉が贅沢品だった頃に分厚いステーキで物価はアメリカ本土並みに安く、NHKが給与所得の格差で沖縄の住民が困窮していたと解説していたのは現実を無視しています。
また復帰後は「日本軍を恨む沖縄県民が反自衛隊活動を始めた」と説明していましたが、実際のデモ隊は本土から派遣された日教組や自治労の活動家と協力者が主体でした。
一方、NHKはこの余勢を駆って6月23日の沖縄慰霊の日に向けた(多分)沖縄支局制作の沖縄戦の特集番組を続けていますが、これは歪曲ではなく虚偽です。
野僧は日本返還10年後に沖縄へ赴任したため沖縄戦の経験者もまだ現役で働いていて男女を問わず極めて多くの人たちから体験談を聞くことができました(おそらく数百人)。
特集番組でNHKは沖縄戦では住民が日本軍に戦闘や作業に強制参加させられ、食料を奪われ、壕から追い出され、虐殺されたと断定的に報道していましたが、それは大田昌秀が琉球大学で沖縄のエリートたちに吹き込んだ第32軍が首里の司令部壕を放棄して摩文仁に移動した全滅に向けた戦争最末期に散見された事例を沖縄戦全体に拡大した歪曲を超えた悪意に基づいた誇張です(警察官が主導した島民の手榴弾による集団自決は緒戦の慶良間諸島)。
野僧は鉄血勤皇隊の生存者からも詳しく話を聞きましたが、士官は「生徒に人殺しをさせてはならない」と武器の使用方法を教えることさえも禁止して下士官や兵が「身を守るために」と隠れて教えてくれたそうです。戦闘中も弾薬や食糧を銃座壕に運ぶことが主任務でしたが壕の兵が全滅していたので「仇を討とう」と勝手に射撃したと言っていました。
また開戦までは全ての軍人たちは故郷に残してきた家族を想って陣地構築や訓練の合間に子供を可愛がり、老人の肩を揉み、戦闘が始まると負傷した住民を衛生兵が応急処置して背負って軍医のところまで運んだこともあったそうです。これも沖縄戦の真実です。
- 2022/06/26(日) 14:35:28|
- 時事阿呆談
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「モリヤさんも新隊員教育隊の中隊長だったんでしょう」山中区隊長が先に酔ってくると奥さんが横に座って長年陸上と航空の垣根越しに眺めていた私の自衛官人生に感じていた疑問点を質問してきた。どうやら部内紙・朝風で人事異動も把握していたようだ。
「はい、妻がCGS、航空で言うCSに入校したんで演習がない教育隊の中隊長になりました」「俺はお前の女房に会ったことがあるたい。隊友会で久留米の幹候校に見学に行ったんだ。他の連中は女の校長で大丈夫かって馬鹿にしていたが、俺はお前の女房なら只者じゃあないって思っていたよ。そしたらお前以上の大物だった」流石に山中区隊長の人物を見る目は鋭い。それでも奥さんは夫よりも妻を上位とする評価に私が気分を害することを心配したのか話題を変えた。やはり青森県出身の奥さんも九州男児の取り扱いが身についているらしい。
「モリヤさんがアフリカのPKOで裁判にかけられた時には2人で面会に行こうって話し合っていたんだけど・・・」「教育隊は駄目だ。大隊長の俺が教え子の面会に行くって説明しても群司令は旅行計画に印鑑を押さなかった。俺が政治問題に関わることを恐れたんだろう」「塀の外ではそんな騒ぎになっていましたか」私の他人事のような返事に山中区隊長と奥さんは呆気に取られた後に顔を見合わせた。しかし、淳之介は沖縄の玉城家に預け、佳織と志織はアメリカに行っていたから実際に他人事だった。それを聞くと作野曹長と中村昌代3曹が東京拘置所に面会に来てくれたことの有り難さが再認識された。今回、中村准尉にファースト・キスを与えたことはせめてもの恩返しになる。無意識に乳房を揉んだオマケ付きだ。
「それにしても裁判が終わったら弁護士になっていて主人ともキツネに摘ままれたような気分でした」「一体どうなってたんだ」「私は大学の法学部を2年で中退して自衛隊に入ったんです。だから拘置所で担当弁護士を教官にして猛勉強したらマグレで司法試験に合格しました」この件は2人にとって本当に謎だったようで私の説明を真剣に聞いていた。
「部外に受かるくらいだから大卒並みの実力はあったんじゃろう。頑張らしゃったな」ここで山中区隊長がグラスを捧げたので私も合わせ、奥さんの湯呑と3つで乾杯になった。
「それからの活躍は新聞で読んでました。テレビにも出てましたよね」「迷彩服で法廷に出ていたのには驚いた。あれは許されるのか」「弁護士の服装は法廷の権威を失墜させなければ自由です。私にとって法廷は戦場ですから戦闘服にしました」海外ではオランダを含め拡大陪審席として裁判がテレビ中継されるが、日本では開廷前に被告人を待つ裁判官と検察官、弁護人の撮影だけが許されている。確かにあそこで迷彩服は目立っただろう。
「お前や森田のように戦争を現実として研究していた奴がいたから自衛隊もお国の役に立ってるんだな」「それを育てたのは区隊長じゃあないですか」「俺は人間を育てることしか考えていなかった」やはり山中区隊長は教育幹部だ。今は愛媛に帰って蜜柑農協に務めているらしい森田曹候生も呼んで一緒に飲みたくなった。
「ところでお前、前の女房とはどうして別れたんだ」「げッ」山中区隊長は唐突にとんでもない質問を投げつけた。山中区隊長は銃剣道が得意だったのは憶えているが、この刺突は防具をつけていない部位への反則技だ。
「何でご存知なんですか」「ここ数年、定年退官して隊友会に入ってくる元陸自の幹部の中にお前と幹候校の同期って言う連中がいるんだ。ソイツらはお前が入校中に女房が起こした金銭トラブルを服務事故にされて成績が大幅に落ちた。今の女房に乗り換えて正解だったと教えてくれたんだ」おそらく酒席での話題とは推察するが個人情報の漏洩としてはかなり始末が悪い。少なくとも同期の佳織はまだ現役なので迷惑がかからないか心配になる。バブル期入隊の幹部候補生なので人罪とは言わないまでも人害が揃っているようだ。
「私がカンボジアPKOに行っている間に陸曹と不倫関係になりまして、円満な話合いで私が息子を引き取って離婚しました」「別れた夫に子供を押しつけるなんて最低の女ね」「もう死にましたからその辺で」私の説明に奥さんが女性として憤ったが美恵子はすでに死んでいるので鞭打たせるのは控えた。これは美恵子をかばったと言うよりも奥さんを守ったのだ。
「お世話になりました」「これはお土産よ。自家製の沢庵、評判良いのよ」翌日、私は山中区隊長と奥さんに熊本空港まで送ってもらって沖縄に向かった。すると奥さんは荷物を預ける直前に紐で厳重に括った段ボール箱を手渡した。受け取るとズッシリ重かった。
「俺が畑で作った大根で作っとるたい。知り合いに配っとるが美味いって評判が良かと。口に合わんかったらうしててくれ(捨ててくれ)」「沢庵は坊主の主食ですから助かります。向こうの日本人にも配らせてもらいます」思いがけない土産ができて大いに助かった。
「気っつけちいかにゃんばいた」最後は熊本弁で「気をつけて」と送られて別れることになった。
- 2022/06/26(日) 14:33:58|
- 夜の連続小説9
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現在、これまで映像化されたことがなかった司馬遼太郎先生の作品を松竹が「雨あがる」の小泉堯史監督で映画化した「峠・最後のサムライ」が大ヒットしているようです。
NHKはこれまで司馬先生の多くの傑作のうち明治100年の幕末ブームだった昭和43(1968)年に坂本竜馬と中岡慎太郎さんが主人公の「竜馬がゆく」、昭和48(1973)年に斉藤道三さまと織田信長公、明智光秀さまの「国盗り物語」、昭和52(1977)年に村田蔵六さんの「花神」、1990年に西郷南洲翁と大久保利通さんの「翔ぶが如く」、1998年に題名通りの「徳川慶喜」、2006年に山内一豊・千代夫婦の「功名が辻」の6作品を大河ドラマに、2009年から2011年まで「坂の上の雲」を年末連続ドラマにしていますが、「峠」は「花神」の後半で摘み喰した以外はドラマにしておらず(民放も)、大河ドラマに主人公の河井継之助さんが登場したのは2013年の「八重の桜」のワン・シーンと「花神(高橋英樹さんが演じた)」のそれだけです。
司馬先生は昭和37(1962)年から昭和41(1966)年まで「竜馬がゆく」を産経新聞の夕刊に連載したのに続いて昭和41(1966)年から昭和43(1968)年まで毎日新聞に「峠」を連載した頃、「読者にはこの2つをワンセットとして熟読しながら両者の立場を考え比べてもらいたい」と語っていたそうなので、これだけ恩恵に与かっているNHKはその後の大河ドラマの少なくとも2010年の「龍馬伝」に代えて福山雅治さん主演で実現する責任があったはずです。
実際、高知市内では産経新聞の夕刊に連載されていた頃には地元では配達されず、全国的にも少数派だったので観光客の増加も皆無に等しかったのですが、NHKの大河ドラマで放送されると主演の北大路欣也さんの人気も伴って観光客が爆発的に急増し、その目的が坂本竜馬の足跡を辿ることだったため地元では子供が言うことを聞かないと「竜馬さんが来るよ」と脅すような忌まわしき存在だった坂本竜馬が一転して郷土の偉人となり、その後も学園闘争の嵐の中で坂本竜馬を日本の革命家にした小説や漫画、ドラマが次々に発表され、司馬先生の創作=捏造に過ぎない情に厚く涙もろい自由奔放で豪放磊落な好青年と言うイメージが史実として固定してしまいました。
しかし、山口県出身の佐藤栄作内閣が主導した明治100年の頃には多くの国民も討幕を正義とする明治から戦前の洗脳教育の記憶が呼び覚まされていましたが、現在では同じく山口県出身の安倍晋三首相、奥羽越列藩同盟にとっての裏切り者・秋田県出身の菅義偉官房長官でさえ明治近代化150周年と戊辰戦争の勝利を誇示することを憚らざるを得ない歴史の再評価が進んでいて坂本竜馬の実像が悪徳武器商人に過ぎず、戊申戦争は武器を大量に売りさばくために画策した可能性が証明される日も遠くないかも知れません。
その意味では最新の西洋事情に精通していながらも武士としての義に殉じた河井継之助さんの生き様(「いきよう」と読む)を遅れ馳せながら学び直す必要があり、NHKにはその責任があるはずです(本当は司馬凌海先生、松本良順先生、関寛斉先生などの医師の視点で幕末史を描いた「胡蝶の夢」が見たいものです)。
- 2022/06/25(土) 15:14:19|
- 常々臭ッ(つねづねくさッ)
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「モリヤ検察官に面会です」「ワシにかね」西部方面隊総監部での調査を終えて佳織が予約してくれた熊本駅前のビジネス・ホテルに向かおうとすると監理部の陸曹に声をかけられた。私は前河原に入校した以外は九州で勤務したことがなく、建軍駐屯地に来ていることを知っている人物は思い当たらないので余計な確認をしてしまった。今回の九州での行動は前河原の幹部候補生学校長として勤務した経験がある佳織に一任していたが、幹部候補生学校では幕僚が万事お膳立てしていたこともあり細かい点で抜けが多かった。中でも移動時間が計算に入っておらず長崎市と熊本市では前日に移動して現地泊になっていたため2日連続で夜の列車になった。
「おう、久しぶりだな」「若しかして山中区隊長ですか」急ぎ足で警衛所に向かうと意外過ぎる人物が待っていた。それは一般空曹候補学生の卒業前の空曹候補者課程の山中区隊長だった。山中区隊長については梢とサン・シプリアンで展示飛行するパトルイユ・ド・フランスを見に行った時に「空想候補者課程の区隊長はブルー・インパルスの列線整備員としてウォー・ダウンを演じていたから基本教練が格好良かった」と話したことがある。しかし、会ったのは卒業以来40年ぶりで、私が第1教育群に転属した時には入れ替わりに那覇基地の南西航空警戒隊司令部の人事部訓練班長として転属していたのだ。
「今日はどうして」「俺は熊本の防衛協力会と隊友会の世話役をやっとるたい。そしたら総監部にオランダから元自衛隊の検察官が来るって聞いてこれは飲まにゃいかんって待っとったたい」山中区隊長は根っからの肥後モッコスで座学でも熊本弁丸出しだったことを思い出した。
「今夜はウチに泊まるたい。ホテルはキャンセルしろ」「今からでは料金は返ってきませんね」「そんなセコかこつ良かばい」元自衛官の私としては公務出張中に個人的な知人宅で宿泊すると公私混同になりそうで心配だったが、国際刑事裁判所の事務を取り仕切っているヨーロッパ人たちは勤務時間以外の行動に目くじらを立てることはないだろう。
「モリヤさん、久しぶり。日本での活躍は新聞で読んでいましたよ。主人も『教え子だって』って自慢してました」山中区隊長の自宅は熊本市北区の西南戦争における田原坂の激戦地跡だった。山中区隊長は定年2佐で退官した後、兄から分けてもらった土地に家を建てて畑仕事に励んでいるのだが、今でも深く掘ると弾丸が出てくるそうだ。それは長岡や会津だけでなく関ヶ原でも聞いたことがある。出迎えた奥さんは初対面ではない。私が空曹候補者課程の時、同じ班の12人で山中区隊長の自宅に呼ばれて奥さんの手料理で酒を飲ませてもらったことがあった。あの時も「美人だな」と感心したが70歳を過ぎても変わらず美しい。
「区隊長、森田敬作って覚えていますか」「森田かァ・・・よく知っとるたい」少し酒が回ってきたところで今回の訪日で何故か名前を聞くことが多い同期について聞いてみた。森田曹候生は空曹候補者課程では区隊が違ったが、今回聞いたその後の活躍から考えると教育幹部一筋に第1教育群本部教育主任、航空幕僚監部人事教育部、第1教育群の大隊長などを歴任した山中区隊長が知らないはずがない。すると山中区隊長は顔に軽い嫌悪感を浮かべた。
「アイツは浜松の警備小隊長だった時に在日米軍基地の憲兵隊に国内留学して基地警備戦術を研究したんだそうだ。それを教育集団に認められて空教隊で課程教育の改革をさせるって話になったんだ」「それは無理でしょう」「そうたい。空教隊本部が断ったたい」私が第1教育群で勤務した時は空曹だったが教育内容に工夫を加えるとその場で全面的に否定された。そんな航空教育隊が本格的な改革を受け容れるはずがない。
「それで第3術科学校で警備課程を始めたんだが、俺は『お前は基地を戦場にするつもりか』『警備小隊員に人殺しの教育をするのか』って訊いたんだ」意外な発言が飛び出した。私も第1教育群では森田曹候生と同じく部隊での基地警備に役立つ実戦的な訓練を研究していたが、周囲の教育職の空曹たちから徹底的に弾圧されて陸上自衛隊に逃亡したのだ。
「すると『そうです。だけど殺すのは人間じゃあなくて敵です』と答えやがった。ばってん、今になると森田の警備課程ができたから航空自衛隊の基地が守られとるんだと思うようになっとるばい」「アイツは第7期一般空曹候補学生の最高峰ですね」ここで奥さんが私と山中区隊長のグラスを下げて焼酎のお湯割りのお代わりを作ってきた。
「俺はお前には困っとったたい。どう見ても幹部にしなけりゃ使いモノにならん頭で仕事をする奴ばってん、空候課程では風邪をこじらせて激務休ばかりだった。当然、成績は下げにゃあならん。そうしたら教育隊に来てすぐに部外で幹部になったって聞いたんで奈良で会えると楽しみにしとったら陸へ行ってやがった」「沖縄から奈良へ転属したんですか」どうやら私と山中区隊長の人事上の経歴はすれ違いの連続だったらしい。そう言えば市ヶ谷の航空幕僚監部と陸上幕僚監部も入れ替わりに近かった。
- 2022/06/25(土) 15:12:57|
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2021年の6月24日に香港では第2位の購読者数を獲得していた広東語・繁字体中国語の大衆紙・蘋果日報=英語名・アップル・デイリーが廃刊しました。この新聞名の由来は「もしアダムとエバが林檎を口にしなければ世界に善悪はなく、ニュースも存在しなかった」と言う非常に深い哲学的ものでした。
蘋果日報は香港がイギリスの錆びた鉄の女・マーガレット・サッチャー首相の失策によって共産党中国に奪還される2年と10日前の1995年6月20日に実業家の黎智英(ジミー・ライ)さんによって創刊されました。黎さんは1947年に広東省で生まれ、小学校卒業後に香港に移住して裸一貫から香港、中国本土、台湾、マレーシア、シンガポール、タイ、インド、韓国に2600店舗以上を持つ大手アパレルチェーンを創業しています。
そんな黎さんは1989年の第2次天安門事件に衝撃を受けて1984年に共産党中国への編入が決まっていた香港の民主主義と自由主義を守るためのマスコミの必要性を痛感して1990年に報道企業・壱伝媒を創設して手始めに週刊誌を創刊し、1991年には週刊誌の別冊を独立した雑誌にして1995年に満を持して蘋果日報を開始したのです。
黎さんは卓越した実業家だけに創業の動機は「民主主義と自由主義を守る」と言う高尚なものでも売れなければ企業として成り立たず、動機も達成できないことを自覚していて販売に向けた創意工夫を徹底的に追求しました。例えばほぼ全ての写真をカラー・大判化して日本のフォーカス、フライデーのように写真に興味を持った読者が文章で理解するこれまでとは真逆の発想の紙面造りを進める一方で編集者以外に有能なデザイナーやコピー・ライターを採用して大衆の気を引くための工夫を重ね、価格も10香港ドル(現在は1香港ドル=17.25円)と他紙よりも安価にしたので数年で1959年創刊の明報、1939年創刊の成報、1938年創刊の大公報、1948年創刊の文■報を追い落として1969年創刊の東方日報に次ぐ2位の販売部数を獲得しました。さらにネット版にも進出してこちらは現在も台湾から配信を継続しています(中国本土では閲覧不能)。
基本的には芸能人の動向や企業や政治家のスキャンダル、流行やファッション、世情の裏話などの娯楽色を前面に出していた蘋果日報ですが、政治的には一貫して反中国共産党を明確にしていて(バラエティで売っている日本のフジテレビに共通する)、鄧小平主席が「返還後20年間は維持する」と約束していた一国二制度ではなくイギリス式民主主義の永久継続を主張していたため香港特別行政区当局からは常に危険視されていました。
2014年の雨傘革命以降は学生の民主化運動を扇動していると断定され、デモ隊に潜入した人民解放軍兵士による破壊活動(黎さんの自宅にも火炎瓶が投げ込まれた)を口実にした法律の相次ぐ制定で取り締まりが急速に強化されると蘋果日報の記者がデモ隊に暴行され、社屋が放火・破壊される異常事態が頻発するようになり、黎さんは2021年2月に香港国家安全維持法違反容疑で起訴されて現在も拘留されています。
蘋果日報は広東語のため野僧でも判読可能で英語版のアップル・デイリーと併せてインターネット・ネットで閲覧していました。それも拙作小説の読者は納得するでしょう。
- 2022/06/24(金) 13:28:55|
- 日記(暦)
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九州での3日目は熊本県建軍駐屯地の西部方面隊総監部だ。やはり陸上自衛隊は元2等陸佐を将官の方面総監閣下や幕僚長閣下に会わせたりはせず、1等陸佐の防衛部長が対応した。それも挨拶だけで2佐の担当者に引き渡された。これなら作務衣に威儀細でも十分だ。
「九州防衛は色々と大変なようですね」西部方面隊は今回の中韓との武力衝突では作戦正面と想定され、実戦態勢に入っていることは警衛所の上に機関銃座を据え、歩哨が肩に吊った小銃に弾倉を装填していることでも判ったが、まだ犠牲者は出ていない。それでも昨日面談した対馬市の関係者から長崎県を含む地方自治体が組合員の執拗な反対で離島の島民の避難や防護施設の建設などに着手できず作戦準備が停滞していることを聞いてきた。
「九州は昔から中国人と韓国人の移住者が多い上、社会に組織が根を張っているので警察も捜査に手を焼いています。それでも治安出動した自衛隊の警察活動を拒否する自治体が多くて・・・。おそらく中国・四国地方の数倍の拳銃と実弾が持ち込まれているはずですが、摘発数は思うように伸びていません」小会議室で担当者はWACの陸曹が運んできたコーヒーを勧めながら丁寧に質疑応答を始めた。私が前河原と富士学校を終えて香川県善通寺駐屯地に赴任した翌年、超大型台風17号と19号が相次いで九州を縦断して甚大な風倒木の被害が発生した。そこで各県は陸上自衛隊に撤去作業の長期災害派遣を要請したのだが一部の地方自治体が拒否して所轄の消防に実施させたため本来の消火や救難が大きく滞ってしまったことを聞いている。災害派遣で起きたことが国土防衛・治安維持でも繰り返されているらしい。
「離島の住民避難が進まないと沖縄戦の悲劇が繰り返されることになりますよ」これは今回の来訪目的でもある戦時における文民保護の準備状況の確認だ。戦争法では文民=非戦闘員の保護は行政の担当で(敵味方不明の在日中国・韓国人も含まれる)、軍は攻撃時に文民の存在の有無を戦闘に支障がない可能な範囲で確認し、同様に避難に協力するところまでだ。しかし、国内戦となれば第2次世界大戦のように「国家のために犠牲になるのは国民としての本懐」と言う洗脳教育が行われていない以上、日本国民は漏れなく保護対象になる。
「実はその沖縄戦が住民避難を阻害する要因になっているんです」「あの悲劇を広報しても駄目ですか。住民が犠牲になった資料には事欠かないでしょう」意外な回答に具体的な利用法を提案したが担当者は複雑な表情で首を振った。
「実は沖縄の第32軍司令官の牛島満中将の御子息と呼ぶべきか、ガキと言うべきか・・・が鹿児島県内の教員を定年退職してからは反戦活動家になっていて、今も離島で『軍は絶対に住民を守ってくれない』『自衛隊の配備を断固拒否しろ』と言う巡回講演会を繰り返しているんです」陸上自衛隊の幹部としては帝国陸軍の著名な将軍の息子の裏切りに怒り心頭に達するのは当然だが私は別の類似例を知っている。
「沖縄根拠地隊司令官の大田実中将の息子も広島県内の教員から反戦活動家になっていたよ。養子に出た弟は海上自衛官として湾岸戦争後のペルシャ湾掃海隊司令を務めて海将補で退官したけどね」大田中将の反戦活動家の息子は山口県防府南基地の航空教育隊の班長だった時、官舎に日教組の組合員が配ったらしい講演会の案内が届いて存在を知ったのだ。前世は沖縄戦で戦死した海軍陸戦隊の中尉=元部下の私としては制服姿で聴講して徹底的に反論してやりたかったが、部隊で参加禁止が指示されてしまった。
「要するに住民が避難しなければ日本政府は自衛隊を配備して戦場にすることはできない。日本版の人の盾にするつもりなんだな」「おまけに県知事もマスコミの取材に対馬からの警備隊の撤退を対立の平和的解決の実例として踏襲すると明言していて積極的な支援は期待できない状況にあります」こうなると仮に奄美諸島や五島列島で戦闘が発生して住民が巻き込まれても文民保護を怠ったのは行政と言うことになり、守備する自衛隊だけでなく侵攻した中国軍と韓国軍の戦争責任までは不問に伏せられかねない。私は沖縄で勤務していた頃、多くの戦争体験者の話を聞き、自室を図書館と呼ばれるほど資料を収集していたので沖縄戦における住民被害についても熟知している。沖縄県と第32軍は当初、老人や子供は本土に避難させる計画だったがアメリカ海軍の潜水艦によって学童疎開船・対馬丸が撃沈されてからは拒否する県民が圧倒的になり、沖縄本島では主戦場を上陸する読谷と嘉手納から軍司令部を置く首里、側面攻撃が予想される小禄までと想定して南部と北部地区に避難させることにした。住民に多大な被害が出たのは軍司令部が摩文仁に移動してからだった。それまでは住民自らが志願して軍の支援に当たり、戦闘に参加していた。その意味では沖縄戦を住民が戦争に巻き込まれた実例とするのは適切ではない。本来であればペリリュー島や硫黄島のように住民がいない島を要塞化して徹底抗戦するべきなのだが、どう考えても無理だ。
- 2022/06/24(金) 13:27:10|
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昭和37(1962)年の明日6月24日の午後3時頃に航空自衛隊松島基地の第4航空団第7飛行隊の26歳で2等空曹の航空機整備員がジェット練習機・T-33A若鷹を操縦して約2400メートル滑走して浮上したものの約10メートルで墜落して機体は中破し、整備員は持っていたナイフで割腹自決を図りましたが致命傷にはならず逮捕された事件が発生しました。ただし、防衛庁が公式発表したのは整備員が自衛隊法第121条「器物破損」、出入国管理法の「窃盗・国外逃亡」、航空法「無許可操縦」の罪状で起訴された裁判の第1回公判当日の昭和37(1962)年9月10日になってからでした。
動機として整備員は昭和21(1946)年に宮城県へ引き揚げて来るまで南満州鉄道の職員だった父親の家族として暮らした「生まれ故郷のハルビンに帰りたかった」と証言していますが、このような軽率で単純な事件が2ヵ月半後まで公表されなかった理由としては「共産党中国への政治亡命を図ったのではないか」と言う疑惑から整備員の経歴や交友関係などの思想的背景の調査に時間を要したとする説(読売新聞)や仮に政治亡命が事実となれば政治問題化するのは必定なので国会の会期終了を待ったとする説(毎日新聞)、そして最も現実味を帯びている源田実元航空幕僚長が参議院選挙に出馬していたため航空自衛隊上層部に圧力をかけて発表を遅らせたとする説(朝日新聞)がありました。
確かに整備員は決行するに当たって松島基地では練習機として使用していても機体としては戦闘機のFー86F旭光の脚上げスイッチのリード・ワイヤー(電線)を切断して追跡を不可能にするなど素朴な望郷の念や「世間をアッと言わせたかった」と言う売名行為ではない周到で綿密な計画性を発揮していますから疑惑は払拭できませんが、マスコミは公判の経過や判決、その後の人生などを一切報道していません。
事件後、整備員は懲戒免職、上官の整備小隊長と飛行隊長は減給の処分を受け、第4航空団司令は進退伺を提出して7月1日付で空将補に昇任、7月31日付で航空幕僚監部付に発令されて9月11日付で退役したなど少なからぬ波紋を残しましたが、参議院議員に当選した元航空幕僚長の画策で航空自衛隊のブルーインパルスが昭和39(1964)年10月10日の東京オリンピックの開会式で国立競技場の上空に五輪を描くことが決定したため国民の関心はそちらに向いてたちまち風化しました。
おまけに昭和48(1973)年6月23日には陸上自衛隊北宇都宮駐屯地の航空学校宇都宮分校の自衛隊生徒出身の20歳で3等陸曹の航空機整備員がレシプロエンジン・プロペラの練習機・LM―1を操縦して離陸に成功しながらも消息を絶つ事件が発生していて「自衛隊機乗り逃げ事件」と言えばこちらを指すようになっています。
陸上自衛隊の事件でも整備員は最大航続距離1556キロのLM-1で「北方領土や北朝鮮への亡命を図った」との疑惑が流れましたが、航空自衛隊の方は日本からハルビンまで直線距離1450キロ、Tー33A若鷹の航続距離は2000キロですから到達は可能でした。しかし、T-33A若鷹はLMー1ほど操縦が容易ではなく飛行前点検でエンジンを始動させてスイッチ類を操作する整備員でも手に負えなかったようです。
- 2022/06/23(木) 14:38:32|
- 自衛隊史
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翌日は博多駅から白い車体が魅力的な特急・かもめに乗って長崎市に向かい、県庁の別館に移動してきている対馬市の市長と主要幹部、対馬市警関係者から実情を聴いた。すると対馬関係者以外は人払いしたこともあり内部告発の発表会と化した。
「県は今になっても韓国や中国との対立を回避することしか考えていない」「現在も在日中国人の銃砲刀剣類所持等取締法による家宅捜索を自衛隊に担当させることを拒否しています」「先日は西部方面隊から申し入れられたやまねこ軍団を五島列島に配備する計画も潰したぞ。表沙汰にはなっていないが」西部方面隊は地理的条件が圧倒的に不利な対馬から撤退させて温存したやまねこ軍団=対馬警備隊を奪われれば東シナ海の制海・制空権の拠点となる五島列島に配備する作戦計画を立案したようだ。今回、佳織からは中国艦隊が奄美諸島に迫った時、陸上自衛隊は第1空挺団を輸送機と共に宮崎県の新田原基地と鹿児島県の鹿屋基地に待機させて中国側の攻撃目標が明らかになった時点で投入する作戦だったと聞いている。五島列島は平坦な土地が少ないので空挺作戦には向かないと言う戦術判断なのだろう。
「長崎県には危機感が欠落しているみたいだな。本島長崎市長は長崎への原爆投下は日本が犯した大罪にカミが下した罰だって公言したが、韓国が対馬に攻撃を加えてくるのも何かの罪だと思っているんですかね」私は若い頃、音楽隊のコンサート会場の警備をしていて猛スピードで突っ込んできた反対デモの活動家の男女が乗った車両に跳ね飛ばされたことがある。夏休暇で父親の実家に連行された時に中学校の教員の伯父にその話をすると「沖縄に自衛があるから悪い」と大江健三郎が主張する沖縄被害者歴史観を延々と語り始めた。長崎も反核・反戦平和運動の本場だから同様の論理を振り回しても不思議はない。
「ところが長崎県内ではマスコミと教員が『対馬で攻撃されたのは自衛隊の基地だけだ。軍事施設がなければ戦争は起きない』と喧伝していて、県や市の議会でも『対馬のように無抵抗で明け渡せば対立も平和的に解決する』と我々の思いを踏み躙るような意見が出ているんです」「山口県内に移住した北部の島民が羨ましいですよ」同じ反核・反戦平和運動でも「怒りのヒロシマ、祈りの長崎」と言われているようにヒロシマの反米デモに対して長崎ではキリシタンたちの教会での慰霊ミサが表看板になってきた。しかし、祈りで平和が守られるのであれば実際の投下目標でありながら築城の海軍、小月の陸軍航空隊の執拗な攻撃と前日の八幡空襲の火災の黒煙で視界が悪く投下を断念した小倉の方が佛神の加護が強く、身軽にして逃げるために投下された長崎は信心が足らなかったことになる。
「山口県内に移住した漁民が家財道具を取りに対馬に行って韓国人の在留者に殺害された事件があったでしょう。それについて対馬市や市警は長崎県内で意見発表しないんですか」これは茶山元3佐から届いた新聞で読んだ情報なので全国区で報道されていたが、対馬市関係者の発言を読んだ記憶はない。すると市長が難しい顔で口を開いた。
「そうしたいのは山々なんだが県庁や各市町村の自治労が反発すると避難民の処遇が悪化する可能性が高いんだ。その上、議会でも予算の配分に反対する議員が出かねないから控えざるを得ない」市長の説明に他の関係者たちも憤懣やる方ない表情になった。私が沖縄に赴任した時、転入届のために朝一番で那覇市役所小禄支所へ行くと受け付けてから後回しにされ続け、昼前になって受理されたことがある。その時は職場の先輩から「時間潰しになる本を持って行け」と助言されていたので怒りはしなかったが、手が空いた女性職員に雑談を吹きかけると「これは復帰時に本土から来た自治労の指導員に教えられた嫌がらせです」と正直に教えてくれた。やはり日教組を含む公務員労組は日本国内に巣喰う売国奴・亡国の徒なのだ。
「韓国のインターネット通販ではツシマヤマネコの剥製が売りに出ているんだ。ヤマネコは日本の天然記念物だから韓国人が殺した剥製を売買しても罪にならないと宣伝していたよ」「動物愛護団体の出番じゃあないですか」「そう思って連絡したんだが対馬は韓国の領土になったから介入しないそうだ」かつて韓国では「雉は日本の国鳥だから全滅させろ」と乱獲して海外の動物愛護団体に糾弾されたことがあった。また在オランダ大使館主催の花見の会で職員から韓国では「ソメイヨシノは日本の国花だから」と公園の植木を伐採して根まで撤去したが、「ソメイヨシノは韓国原産だ」と主張する植物学者が現れて「韓国原産の桜を国花にしている日本はやはり属国だ」と屈折した納得の仕方をしたと聞いたことがある。このままでは可愛いツシマヤマネコも絶滅させられてしまうかも知れない。
「我々は島民の生命を守ることを第一義として全島避難を決断したが、郷土を捨ててきてしまったのは確かだな」この席の憤怒と悔恨、無念さが入り混じった空気は長崎に投下されたプルトニウム爆弾以上の威力で爆発しそうだった。
- 2022/06/23(木) 14:37:09|
- 夜の連続小説9
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日韓のマスコミが「外交関係の修復に前向き」と報じている韓国の尹錫悦新政権は前提条件として「歴史認識の共有」を掲げていますが、これが絶対に歩み寄れない遮断壁・地雷原であることを示す裁判が続いています。
韓国の浮石寺が2013年2月に「倭寇や秀吉の朝鮮侵攻の時に略奪された」と称して対馬の観音寺から盗み出して持ち帰った観世音菩薩坐像の所有権の確認を求める裁判で大田地裁は「観音寺側が入手した経緯を証明できなければ所有権は認められない。したがって所有権は浮石寺側にある(浮石寺がこの観世音菩薩坐像を保有していた証拠は求めなかった)」と俄かには信じ難い判決を出しました。しかし、当時の韓国政府(朴槿恵政権)が盗品として日本に返還し、その上で「文化財は本来の所有者に権利がある」とするユネスコ条約に基づく返還交渉を行うための証拠物件として国立文化財研究所に保管させている処置を不服とする浮石寺が返還を求めて起こした裁判の控訴審で、対馬の観音寺の現住職が1審で敗訴した韓国政府側の特別参考人として出廷して「日韓の民法上、所有権は観音寺にある」「佛像は公然と所有してきた対馬の財産だ」「10年以上前に窃盗団に盗まれて不法に韓国に持ち込まれた事件の本質に立ち返るべきだ」「1日でも早く我々の手元に戻ってくることを願っている」と審理内容とは別次元の意見を述べました。
浮石寺の住職を首領とする窃盗団が観音寺から観世音菩薩坐像を略奪した時、日本政府(第2次安倍政権)は当然、即時返還を要求しましたが、韓国文化財庁は2014年に「倭寇や秀吉の朝鮮侵攻の時に略奪された蓋然性は高いが、断定は困難」とお墨付きを与えたため窃盗団は2014年11月にも同じ対馬の梅林寺から誕生佛と大般若経360巻を盗みましたが、逮捕された一味は取り調べの中で「日本から奪った文化財は韓国で高値になる」と盗品売買が目的であることを自白しています。
それでも浮石寺は「韓国の文化財を奪還した」と主張していますが、実際は韓国の李王朝が儒教を保護した反動で日本の廃佛毀釋のような佛教弾圧が行われ、韓国の僧侶たちが本尊や経典を後世に残そうと日本に送ったと言うのも史実であり、観音寺の観世音菩薩坐像の背面には焼けた跡があるのです。
実は日本国内には李王朝の佛教弾圧や中国の太平天国の乱、義和団事件、辛亥革命などで佛教寺院が破壊されると僧侶や信者が保護のために日本人に託して持ち帰らせた寺宝や経典がかなり、有名なところでは曹洞宗の大本山・總持寺の常照殿に安置されている世界で2番目に古い石頭希遷禅師(790年没)の即身佛がありますが、こちらも在日中国人が「辛亥革命の混乱の中で日本人に略奪された」と時々返還要求集会を開いています。
日本でも明治の廃佛毀釋と文明開化の欧化政策で破壊、遺棄されることを惜しんだ欧米人が母国に持ち帰った多くの佛像や佛画、日本画、浮世絵、工芸品などが文化財として博物館や美術館で保管・展示されていますが、感謝しても略奪されたとは思いません。
破壊の危機に陥っていた文化財を託されて保護したことを「略奪した」と史実を歪曲し、「奪還は当然の権利」と司法が認めるような相手と歴史認識を共有できるはずがありません。
- 2022/06/22(水) 15:31:31|
- 時事阿呆談
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翌日は春日基地の西部航空方面隊司令部に向かった。電車好きの私としては春日駅まで鹿児島本線で行きたかったのだが、佳織=モリヤ陸将補が調整しただけにビジネス・ホテルまで業務車1号が迎えにきた。おまけに到着するとそのまま2階の西部航空方面隊司令部に案内されて空将の司令官に挨拶させられた。しかし、作務衣に威儀細では自衛隊の作業服の乙武装に相当するのでかなり拙い。首都圏ではエライさんへの挨拶は佳織に任せていたのだ。
「モリヤ検察官の活躍ぶりは現役時代から聞いていますよ」申告のように机越しに対面した司令官は合掌して45度の敬礼をした私が直るとアメリカ式に手を差し出した。これが陸上自衛隊であれば私の元2等陸佐の階級に見合った接遇をするので陸将の方面総監が握手を促すことはあり得ない。妙に航空自衛隊が懐かしくなった。
「8空団の撃墜事件については総隊司令部で航跡記録と交信音声、中央病院で遺骸の状況を確認しています。こちらでは海栗島のレーダー・サイトの破壊と官舎が襲撃された事件についてお願いします」「はい、そのように連絡を受けているので西警団司令部から担当者を呼んであります」司令官への挨拶が終わると担当の監理部の2佐に先導されて2階の教場に移動した。教場にはコンピューター画像を表示する機材が用意してあり、男女の1尉が待っていた。
「西警団人事部人事班の立花1尉です」「防衛部運用班の豊田1尉です」先任順位はWAFの立花1尉の方が上のようで先に自己紹介した。この人選でも佳織の事前調整が適切なことが判る。おそらく豊田1尉が地対地ミサイルによるレーダー・サイトの破壊、立花1尉が官舎で妻たちが集団レイプされた事件を説明するのだろう。
「それでは時系列順に立花1尉から海栗島の官舎が韓国から潜入した男たちに襲撃された事件について説明させます」「連絡船の放火炎上事件の説明はないのかね」「そこまでご存知でしたか。実は隊員と妻たちの名誉を守るために当初は事件を隠蔽しようとしたのですが、インターネットに画像が投稿されてしまったので逆に犯罪被害者であることを強調するようにしています。オランダでも閲覧できましたか」「いや、別ルートからの情報で両方の事件の概要は掴んでいるよ」私の核心を明かさない回答に3人の現職自衛官は顔を見合わせた。実際は在オランダ大使館の河瀬防衛駐在官から入手したのだが、部内とは言えこちらも情報源を保全する必要がある。それでも国際刑事裁判所が注視していることは虚偽を弄していない自衛隊にとってもマイナスではないはずだ。
「それでは本題に入ります。事件は・・・」立花1尉は努めて冷静に説明を始めたが、インターネットからプリントアウトした隊員の妻たちが強姦されている場面の画像を1枚ずつ示しながら行為の具体的な内容では目に怒りを露にし、やがて言葉に詰まり、ついには涙を零した。男性としては性的刺激を受けることがあるレイプも女性にとっては肉体だけでなく人格さえも破壊される凶悪な犯罪であり、おそらく同世代の妻たちが味わった苦痛が我が身にも実感されているに違いない。その点、私は梢と佳織もレイプを経験しているので(美恵子が那覇市内で集団レイプされたのは離婚後なので無関係)苦悩の一部は共有できる。
「事件後、西部方面隊を通じて調整した結果、航空教育集団隷下の第3術科学校が入校学生用に契約している新日鉄の元社宅を借用できることになりまして早急に避難させることができました」「避難の決定が遅かったんじゃあないか。日韓の軍事的緊張が高まれば至近距離にある海栗島や見島が真っ先に狙われるのはイロハのイだろう」立花1尉が話をまとめようとしたので私は検察官ではなく自衛隊OBとして禅僧なら警策に当たる痛撃を加えてしまった。
「事件前に同じことを言ってきたOBがいました。確か第3術科学校の警備課程の・・・」「森田敬作か」「そうです。ご存知でしたか」私が立花1尉に与えた一打に防衛部の豊田1尉が反応した。それにしても今回の来日では妙に森田敬作の名前が出る。
「森田元2佐は韓国海軍が海自の対潜哨戒機を撃墜した直後に空教隊と3術校の教育職を使って海栗島と見島の警備の強化を提言してきたんです。森田2佐は警備の神さまと呼ばれていたそうですが陸上でも有名だったんですね」「私にそんな提言が届いたことを話さなかったじゃない。それを聞けば私なら実現に向けて真剣に考えたわ」今日の参加者は私が陸上自衛隊幕僚監部法務官室で勤務していた元2等陸佐であることは聞いていても森田定年2佐と同期の一般空曹候補学生7期出身とは知らないようだ。隊員の妻たちの性暴力被害を防ぐ方策を講じられなかった責任を自分に課したらしい立花1尉が豊田1尉に喰ってかかったおかげで今も後悔が残っている空から陸への落下(転身とは言わない)を告白しないですんだ。
結局、韓国の地対地ミサイルによるレーダー・サイトの破壊については撤退を優先したため遺骸の収容や現場検証などはできていなかった。
- 2022/06/22(水) 15:30:01|
- 夜の連続小説9
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2020年の明日6月22日に野僧も安居した福井県小浜市の發心寺僧堂の堂長・師家で、「見性(悟り)の人」として多くの著書を刊行しただけでなくドイツ、アメリカ、インドなど海外でも講演と坐禅を指導して多くの外国人の修行僧・参禅者を集めていた樵庵雪渓老師が遷化しました。実は2021年9月の某日、小庵の佛前コクピットに雪渓老師が座っておられたので「いよいよ遷化されましたか」と訊ねると相変わらずの笑顔を浮かべて消えてしまいました。おそらく世界各地の多くの弟子たちのところを回ってきて野僧の順番になるまで1年3カ月を要したのでしょう。
雪渓老師は昭和元(1926)年に野僧と同郷の愛知県岡崎市でも本宿(野僧の矢作とは逆方向)で生まれました。生家は四国の徳島藩主になった蜂須賀小六さんと同族で俗名の原田姓は發心寺の住職の養子になって改姓しました。
雪渓老師は新到(新入門)の野僧に「アンタなら戦争の話を理解してもらえる」と誰にも明かしたことがない戦争体験を語ってくれました。明治大学在学中に戦争が始まると海軍の主計軍属としてトラック島に派遣されましたが、ある日、アメリカ軍の艦載機の空襲で機銃掃射されて同僚たちと塹壕の中で伏せていると雪渓老師以外の同僚たちは全滅していて、その時に「唯一人生き残らされた自分が果たすべき役割」について真剣に考え、生死の本質を見極めると言う至上命題を与えられたそうです。
敗戦後に帰還して大学を卒業するとその命題を探究するべく佛門に入り、広島県竹原市の坐禅道場・少林窟で勝手に頭を剃って私度僧になりましたが、住職に發心寺を紹介されて正式に得度を受けて安居したのです。すると少林窟の創始者の允可を受けた弟子が浜松市の寺で坐禅を指導しているのとの噂を聞き、意外に衝動的な性格(良く言えば菩提心が爆発的に燃焼している)の雪渓老師は發心寺を脱走して浜松市に向かい入門しました。ここでの托鉢中に別の修行僧の何気ない一言で悟りへの1歩を踏み出して「牛、山に入りて水足り草足る。牛、山を出て東觸西觸」と見性を証せられました。
そんな雪渓老師は摂心(修行強化週間)の独参で野僧が「山の中や海岸で坐禅を組んでいると佛様の御姿を現して下さいます」と言ったところ「そんなのは幻だ、有り得ない」と即座に否定され、野僧が「坐禅を組んで『そんなものはない』と言う常識みたいなものを削り取ると精神が剥き出しになって、霊的なものを感知できるようになるのでは」と再挙したところ「それを信じるのなら發心寺の坐禅とは違う。ご祈祷をやる寺へでも行った方が良い」と言われたのです。単純かつ馬鹿正直な野僧はこれを適性判断・進路指導だと思い大いに悩むことになりました。
また野僧は長年茶道をやっていて發心寺の雲衲の中では唯一正式なお点前ができたため作務の空き時間などにお茶が好きな堂長老師に呼ばれて「茶飲み友達」をすることもありました。そんなある日、雪渓老師は「アンタは人生を楽しむことを知らんようだ。アンタを見ていると殊更に死に急ぐ若い士官たちを思い出す。ここでは楽しく過ごす術(すべ)を修行しなさい。こんなことを雲衲さんに言うのは初めてだ」と指導をされたのです。

樵庵雪渓老師頂相
- 2022/06/21(火) 14:14:25|
- 日記(暦)
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翌朝、佳織とは新大阪駅で東西=上り下りに分かれたが、先に列車に乗る前、当然のように抱きついて唇を重ねてきたのは頭を剃った作務衣姿の私の立場を無視している。関西には本山や有名寺院が多いので偉い坊主が見ている可能性が高い。せめて威儀細を外して宗派を隠蔽させてもらいたかった。法然上人は弟子の親鸞とは違って自らは戒律を堅持した清僧だったのだ。
「警備の自衛官たちはあの大胆な女が陸将補閣下とは思わなかっただろうな」幸い下り方面はホームが違ったので目撃者はいなかったが、新型コロナ対策で空席が目立つ列車の中で私は今回の佳織の行動に呆れながらホームの売店で買ってきた週刊誌を開いた。
博多では佳織が予約してくれたビジネス・ホテルでチェック・インして、東区にできた福岡モスクで拜礼した後、夜は福岡地方裁判所での検事の司法修習中に通った居酒屋に顔を出してみた。博多の街も新型コロナ・ウィルス感染症と在日中国・韓国人による発砲事件の頻発で夜間の行動制限が厳しく、天神や中洲の屋台や飲み屋も開店休業状態だった。
「お客さん、見たことあるばい」威儀細を外して作務衣を着ている私がカウンターに座ると店主はお絞りを渡しながら遠慮なく顔を注視した。通ったと言っても10数年前で期間も2か月に満たないならから本当に記憶にあるのかは不明だ。何よりも坊主と言う先入観が推理を邪魔するはずだ。ところが接客のプロの頭の構造は常人の想像を超えていた。
「モリヤさんたい。裁判所に司法修習に来てたっしょ。今は何ばしよっとね」私は呆気に取られてしまった。確かに司法修習生そのものが珍しく、おまけに現職自衛官と言う変わり種だったので記憶に残っていても不思議はない。上に厚く積もっている別の記憶を搔き分けて埋もれていた記憶を掘り出したのだろう。
「今は自衛隊を退役してオランダの国際刑事裁判所で検察官をやってるよ」「そうとね。凄かばい」カウンターの中から生ビールのジョッキを手渡した店主は大袈裟に感心した。と言っても感情表現が率直な九州人としては普段通りなのかも知れない。
「オランダも海ッぺたの国じゃけんど魚を喰うっとね」「オランダも漁業は盛んだよ。ヨーロッパでは唯一、ニシンに酢をつけて生喰いにするんだ」「酢鯖みたいなもんたい」刺身の盛り合わせを作っていた店主は自分の言葉に身体が反応して作り置きしてあった切り身の酢鯖をガラスの冷蔵ケースから取り出すと数枚切って皿に載せた。
「こっちは漁師が中国の拳銃の持ち込みに協力しちょるって疑われて遠くまで行けなくなっとるばい。だから魚の種類が限られとると。まァ、滅多に客が来んからそれでもよかたい」「やっぱ美味か。最高ばい」店主の顔と口調が暗く沈んだので今度は私が大袈裟に賞賛した。昔から悪人になれない東北弁、堅物になれない関西弁、弱気になれない九州弁と言われているが、激励するのは九州弁に限る。その時、店の引き戸が開けられた。
「こんばんは。飲食店街の巡回です」「今日はお客さんがいますね」振り返ると迷彩服と防弾チョッキを着て鉄帽をかぶり、肩に短機関銃を提げた陸上自衛官が2人立っていた。自衛官は店主に話しかけながら私を注視している。この様子では職務質問を受けそうだ。
「こん人は元自衛隊の幹部で今はオランダの国際裁判所の裁判官をやっとるおマン(お前)たちの大先輩たい」「お名前をお聞きかせ願えますか」「元陸上幕僚監部法務官室のモリヤ2佐、今はオランダのスフラーフェン・ハーグにある国際刑事裁判所で次席検察官をやっている。今回は日本が巻き込まれている武力衝突の現地調査のために来日した」求められたのは氏名だったが手間を省くために必要事項を自己申告した。すると陸曹の方が「モリヤ2佐って現職の弁護士だった人だな」と陸士長にささやいている小声が聞こえた。
「身分を証明する物はお持ちですか」「パスポートならあるよ」それでも2人は手順を確実に踏むようで身分証明書の提示を求めてきた。昔の陸上自衛官気質なら元2佐と名乗られればその時点で最敬礼して、後は融通を利かせて気を煩わせるような手順は省略したはずだ。それだけ緊張感が高まっていることになる。
「なるほど・・・ご協力有り難うございました」私が立ち上がって頭陀袋から取り出した日本政府発行のパスポートを手渡すと陸曹は陸上自衛隊の70式制服を着た顔写真と現物の私を見較べて苦笑しながら返却した。意外なことに国際刑事裁判所では判事や検事、一般職員などの身分証明書を発行しておらず建物内に席を保有している事実が身分の証明なのだ。したがって日本では職務を証明する手段がない。
「モリヤ元2佐、我々後輩のためにも中韓の不当な武力行使の事実を確認して帰って下さい。敬礼」「お願いします」「ご苦労さま」2人は入口に整列すると陸曹の号令で吊れ銃の敬礼をした。それに対して私は合掌して自衛隊にはない90度の敬礼を返した。
- 2022/06/21(火) 14:12:02|
- 夜の連続小説9
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東北地区太平洋沖地震による記録上は前例がない大津波で福島第1原子力発電所が崩壊して放射能漏れによって避難生活を余儀なくされている3700人が「大津波の発生は2008年の東京電力の試算によって予見されており、その時点で国が必要な対策を指導していれば原子炉の崩壊と放射能漏れは防止できた」として14億円余りの損害賠償金を要求する訴訟で最初の最高裁判決が下りました。同種の訴訟は約30件起きていてこの判決は福島・群馬・千葉・愛媛での4つの訴訟の統一判断です。
この4つの訴訟の高等裁判所の判決では群馬以外の3つ訴訟で国の責任を認めたためマスコミは「原告勝訴が当然」と言う論調でしたが、最高裁は東京電力が試算していた津波は予測震源地の喰い違いから襲来した方角が異なり、実際の波高は最大14・5メートルとしていた予測規模をはるかに上回って主要建屋付近の水深は試算の2倍に達していたので「仮にこの試算に基づいた対策を講じていても被害を防ぐことはできなかった」とする極めて合理的な判断によって国の責任を否認し、原告の賠償請求権を棄却したのです。ただし、4人の裁判官のうち検察官出身の1人だけが「国や東京電力が真摯な検討をしていれば事故が回避できた可能性は高い」と根拠不明の反対意見を述べました。
これを受けて原告を国と東京電力が発生させた「人災」の被害者扱いしているマスコミは「福島では自分の店を経営して生活には余裕があり、子供の将来に夢を膨らませていたが、避難先では雇われの身なので収入は大きく減り、常に周囲に気を使う不自由な生活を送っている」式のお涙頂戴の愚痴紹介の記事で紙面と放送時間を浪費して、最高裁の判決の冷酷非情さを強調する印象操作を演出していました。
しかし、地震発生の予測と言えば駿河湾を震源とする東海地震は対策に巨額の予算を投じ続けてきながら半世紀近くが経過しても音沙汰はなく、地盤が安定している安全地帯と言われていた熊本で大地震が発生するなど、それを根拠に国が対策を講じなかったことに過失責任を求めるのは無理があります。また岩手県宮古市の湾の入り口には過去の津波被害を根拠にして小沢一郎(敬称不要)が建設利権で建設した地元では「万里の長城」と呼ばれている強大な防波堤が存在しますが、東北地区太平洋沖地震の大津波は易々と乗り越え、防波堤を過信して避難を怠った多くの住民が犠牲になりました。小沢一郎が東京電力の試算に目をつけて同様の巨大堤防を福島県の太平洋岸に建設していれば宮古市のように大津波が乗り越え、原子力発電所を破壊して放射能漏れが発生しても国の責任を問う訴訟は起こさなかったのでしょうか。ちなみに政権与党・民主党の重鎮になっていた小沢一郎は震災復興も利権にしようと同様の巨大堤防を東北地方の三陸海岸に建設させています。
結局、今回の訴訟は震災後、避難地域を回って粘り強く不満を煽り立ててきた共産党の戦果であり、マスコミに踊らされて恨み節を叫んだ避難者は可能な限りの同情を寄せてきた国民の目には「忘恩の徒」に堕ちてしまいました。震災後に過酷な運命に黙って耐える古き良き日本人を再現して世界中を感動・敬服させた東北人も今回の愚痴と恨み言を吐き散らす醜悪な姿に擦れ薄れさせてしまいそうです(朝日新聞が発信・拡散するでしょう)。
- 2022/06/20(月) 11:41:08|
- 常々臭ッ(つねづねくさッ)
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「佳織ちゃん、今日は愛しのダーリンと一緒なのね」墓参を終えると佳織が予約した観光ホテルにチェック・インしてから夕食をとり、建物の構造はそのままにして閉店したママさんの元スナックへ行った。訪問も佳織が連絡してあったようでママさんはカウンターで接客の準備を整えていた。スコッチの水割りで乾杯するとママさんがいつも調子で佳織をからかった。
「はい、日本が巻き込まれている紛争の実態調査で来日しました」「来日じゃあなくて帰国でしょう」オランダを生活基盤としている私の言い間違いをママさんは鋭く指摘した。しかし、今回の来日=帰国では今まで以上に違和感が付き纏っている。今朝も東京駅では新幹線のホームに武装した多くの自衛官が立っていて乗客が下車し終わると手分けして車内を確認していた。このような光景はテロが頻発していた頃のヨーロッパで見慣れているが、乗車を待たせる自衛官に黙って従っている日本人が不気味だった。
「ヨーロッパではどのように思われてるの。やっぱり日本が悪者よね」「始めは中国系のマスコミがA日新聞の現地記者に協力させて韓国の主張を全面的に喧伝してたけど日本の対応が冷静な上、公開している証拠も韓国側の否定の方が嘘っぽいから誰も信用しなくなっていきました。そこに中国の登場で完全に配役決定です」私の説明にママさんは安堵したように自分のグラスの酒を飲んだ。スナックを営業していた頃は酔うほどは飲まなかったが今回は少しピッチが速い。やはり商売ではないので気楽に酒を楽しんでいるようだ。
「貴方、今日は有り難う」私とママさんの会話を黙って聞いていた佳織が唐突に口を挟んだ。とは言え改まって礼を言われる理由が判らない。私はグラスの酒を飲みながら顔を見返した。
「今日、墓苑で古河に会っちゃったの」「古河ってあの古河なの。前にも会ったじゃない」佳織は私ではなくママさんに事情の説明を始めた。どうやらハワイから帰国した佳織を弄び、傷つけた中学校の担任は古河と言うらしい。
「帰ってきた頃の佳織ちゃんは典子に心配かけないように慣れない制服を着て痛々しいほど元気を出して中学校に通い始めたんだけどすぐに登校しなくなって。話を聞いた典子やお祖父さんが中学校や教育委員会に抗議しても『佳織が古河を誘惑した』って反論して生徒やPTAに噂を流したのよ。だから神戸の私立中学に転校させたんだけど・・・」「何年か前に1人で墓参りした時に今日と同じ場所で古河たちに会ってしまったの。だけど何もできなかった。そうしたら今日は旦那さんが一喝してくれたのよ。私は離れて見てたけど古河は怯えたような顔になって妻と息子の嫁から追及されていたわ」暗い過去の説明に佳織が今日の出来事を補足するとママさんは快哉を叫ぶ代わりにグラスで私に捧げ銃をした。
「お前は地獄へ堕ちるって宣告してやったんだ。罪状も遠回しに言っておいたから妻子も問い詰めないといられないだろう」「お坊さんに墓場で言われたら恐ろしい台詞ね。旦那さんのことだから裁判の判決みたいだったんでしょう」今思い返すとママさんの分析が正しいことが判る。「40年前にハワイから転校してきた女生徒にした罪」と時期と被害者を明確にされてしまうと言い逃れは難しいはずだ。ただし、私は判決を申し渡す裁判官ではなく公判で罪状を追求する閻魔王庁の検察官と名乗っておいた。
「だから今日の佳織ちゃんは妻の顔に戻ってるんだ。好い顔してるよ。写メを撮るね」ママさんは一気に捲くし立てるとカウンターに置いてあったスマート・ホンを取って私と佳織を撮った。その瞬間、佳織は顔を寄せて頬を密着させた。やはり酔っているのか少し頬が熱い。
「貴方、一緒にシャワーを浴びて」「それは良いけど酔ってないのか」「大丈夫」ホテルに帰ると佳織はロッカーに入っていたナイト・ウェアとタオルを持って声を掛けてきた。
実は私は今回の帰国に際して佳織と離婚について話し合うつもりだった。おそらく佳織は現在の事態が終結すれば陸将補を最後に退官することになる。その後、ハワイに帰る予定は変えていない。ハワイでの第2の人生に戸籍上だけになっている私との婚姻関係は不要と断ぜざるを得ない。勿論、梢はそのようなことを求めていないし、強硬に反対するはずだ。むしろこれは同期として出合った自衛官同士の戦友夫婦の定年退官だろう。
「お願い、貴方の手で私の身体を洗って下さい・・・性器も」先にシャワーで自分の髪を洗った佳織は思いがけない依頼を口にした。私は梢とは毎日一緒にシャワーを浴びるが、背中を手で洗うついでに乳房を揉む程度だ。一方、佳織とは子供がいたため特別な時だけだった。それでも佳織の目にあの頃以上の特別な力を感じて背中から丁寧に洗い始めた。
「貴方の手でアイツに汚された私の身体が清められていく、やっと私は救われる・・・」愛撫ではなく手で洗っているだけだが佳織は恍惚の表情を浮かべた。その夜は綺麗に洗った全身に唾液を塗る作業も追加されたが私の更年期は回復しない。やはりバイアグラが・・・・。
- 2022/06/20(月) 11:38:00|
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低温によって分子密度が高くなった空気が高温に向かって流れて風を起こすと言う自然界の法則に従ってシベリアで冷却された大気が大西洋の暖流に向かって流れ続けるヨーロッパでは有効な風力発電も日本では重大な環境破壊をもたらすだけでなく、安全保障の根幹である航空自衛隊の警戒管制網のレーダー波に障害を与えることが明らかになりました。
日本海に面しながら山に囲まれている当地では年間通じてそれほど強風は吹かないにも関わらず山頂に風力発電機が林立しているため昔は暗夜に星よりも多くの蛍が飛び交っているのが風物詩でしたが、今では強力な照明で風力発電機が浮かび上がり、その不自然な光が周囲も薄明るくしてしまうため飛んでいる蛍の仄かな光は搔き消され、足元の草地を探すが蛍観賞になっています(蝮の目も同様の光り方をするので要注意)。おまけに風力発電機は回転が遅くても大きく風を切るため昼夜間を問わず「ブーン」と言う不気味な音を立て続け、麓の集落では常に震動が伝わってきて生活環境は非常に悪化しています。
さらに日本海側は渡り鳥の飛行コースなので群れが風力発電機の回転翼に巻き込まれると無残にも叩き落とされて周囲には大量の死骸が散乱し、それを狙った猪や猿が集まってきて渡り鳥の季節が終わるとそのまま畑の野菜を喰い荒らす被害が始まります。
それだけの苦痛を撒き散らかしている割に日本では風力が弱い上に安定せず、建設前に電力会社や製造メーカー、建設業者、県や市の環境担当職員が熱心に宣伝したほどの発電量はなく、「使わない余剰分は販売すれば元手無しの安定収入なる」と言うのは空手形になっています。
一方、風力発電機がレーダー波に障害を与えると言うのは航空自衛隊で警戒管制レーダーを取り扱ったことがある者なら誰でも危惧する常識です。航空自衛隊でも西部航空方面隊と南西航空方面隊管内ではレーダー・サイトを設置している山や離島の標高が低いため探知距離が十分に確保できず、ましてや海岸線近くの山の稜線に高さ100メートルの金属製の構造物を設置してそれが回転して電磁波を帯びれば探知範囲を遮断するだけでなく海面で乱反射するレーダー波に篩(ふるい)を掛けるように識別して高速度で移動する航空機の反射波(最近はステルス性の強化で微弱になっている)を捕捉している探知能力に多大な障害を与えることは説明すれば素人にも判るでしょう。
実態は反自由主義の政治組織であるヨーロッパの環境団体も流石に「安全保障を犠牲にしてまで環境保護を優先しろ」とは言わないと思いますが(言えば一般国民から不信感を抱かれる)、日本の売り込み業者は問題の本質が判っておらず「経済産業省が通達した設置基準にそって建設計画を策定したのに」とまるで防衛省の言い掛かりのような反発を示し、マスコミも「環境保護を優先するべきだ」と同調していました。
結局、環境運動まで商売にしようとした経済産業省の官僚に安全保障と言う概念が欠落していることが原因ですが(下手すれば共産党中国の政治工作員の公務員労組が画策した可能性もある)、日本には適合しないヨーロッパ式の器材の導入については安全保障と環境への悪影響=逆効果を理由にして白紙撤回するべきです。
- 2022/06/19(日) 15:15:29|
- 常々臭ッ(つねづねくさッ)
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「実は貴方の持論は陸幕長が指示しているのよ」首都圏の次は福岡県春日基地の西部航空方面隊司令部と熊本県建軍駐屯地の西部方面総監部だ。すると土曜日の移動になったため佳織が同行し、伊丹市の伊藤家の墓所に参ることになっていた。今回の日本での私の行動は佳織に一任しているので利用者の意向を尊重する元プロの梢とはかなり違う。そんな訳で久しぶりに私服の佳織と新幹線の席に並んで座ることになった。ただし、今回は初体験のグリーン車だ。
「ワシの持論と言うと普特機(普通科・特科・機甲科)による正規戦は放棄してゲリラ戦に徹するって指示したのか」隊舎の正面玄関に掲げてある内閣総理代以下の写真で定年退官の申告をした東京大学卒の陸上幕僚長が代わっていないことを知ったが、やはり只者ではない。
「だからウチでもCGSの学生にゲリラ戦の研究させているのよ」「それじゃあウクライナ紛争の戦訓をもっと詳しく語らなければいけなかったな」ウクライナ東部地区ではロシア系住民が侵攻したロシア軍を支援してウクライナ軍はゲリラ戦を維持できなかった。日本では定年退職した日教組や公務員労組の活動家が多数移住している沖縄が危ない。
「ところで曹学の同期の森田敬作2佐って知ってる」「森田敬作って愛媛県出身の軍事研究家だな。アイツがどうした」唐突に思いがけない質問を受けて私は珍しく困惑してしまった。森田曹候生は一般空曹候補学生7期の同期だが同じ班ではなかった。それでも高校卒即入隊の割に軍事知識、中でも日本軍の戦史に詳しく同好の私と話が合ったのだ。
「実は戦時の新隊員教育を通達するための研究を始めたら航空では原案が固まっていたの。貴方から航空教育隊の無能ぶりは聞いていたし、地方協力本部長の時も悪評を耳にしていたから意外に思って調べてみたら第3術科学校警備課程の森田3佐が作定した私案だって判ったの。そうしたら貴方と同期だったのよ。部内なのに定年2佐になったけどやっぱり曹学って凄いのね」佳織=モリヤ将補は今更のように感心してくれたが、我が一般曹候補学生は2006年入隊の32期生で廃止されてしまった。一般曹候補学生は公立高校の普通科に在学しながら運動部に熱中して大学に進学できなかった頭が良い運動馬鹿が基本的な素材で、航空自衛隊では3分の1が部内幹部候補生で任官するほかアメリカ留学組や輸送機のロード・マスター(空中輸送員)、救難隊のメディック(救難員)になって大いに活躍している。
「残念ながら曹学を卒業してからは会ったことがないが、航空の警備を変えたのはアイツだったのか・・・現役中に会って話をしたかったな」私も陸上幕僚監部法務官室の出張では輸送機を愛用していて入間基地や行き先の基地に出入りしていた。するとゲートで対応する警衛隊員が急に気合が入り、目線が鋭くなったのを感じていた。それが同期の仕業と分かっていれば立哨している警衛隊員を抱き締めて頬ずりしてやりたかった(当然、WAF限定)。
「しばらく眠るから話しかけるな」「折角、帰国したんだから故郷の風景を眺めなさいよ」「ウルセーッ」浜松駅を通過して県境のトンネルを抜けたところで私が「現世の三悪道」と憎悪している東三河の風景を見ないように目を閉じるとその理由を知っているはずの佳織が嫌がらせのように声を掛けてきた。私が激怒したのは言うまでもない。
「親父が死んだからどうでも良いんだよ」「お義父さん、亡くなったの」「2019年の8月だったな」私もオランダで訃報を受け取っただけなので佳織には連絡しなかった。佳織が子供を私に任せてCGSに入校することを批判されたのが絶縁する原因だったのだが、実父のノザキ中佐と復縁する前に得た父親だっただけに私以上に思い入れがあるのかも知れない。
「あれは・・・また会うなんて」伊丹市の伊藤家の墓所に参り、墓苑のバケツや柄杓を返していると佳織が駐車場から歩いてきた家族連れを見て絶句して立ちすくんだ。その凍りついた顔を見て私も家族連れを注視した。それは私よりも10歳ほど年長の品の好い老夫婦とその子供や孫と思われる幸せそうな家族だった。
「中学校の担任か」私の推理に佳織は重くうなずいた。私は佳織本人からは詳しく聞いていないが、伊丹のママさんにハワイから帰国して転校した伊丹市立の中学校の担任・古河のアパートで補習授業を受けていて純潔を奪われ、調教のように弄ばれた過去を聞かされている。私はバケツを取りに来た息子と入れ替わるように通路で待っている家族に歩み寄った。
「私は閻魔王庁の検察官だ。お前は間違いなく地獄に堕ちる。それは自分が犯した罪の報いだから因果応報、自業自得と言うものだ」目の前に立った作務衣に威儀細を掛けた坊主を怪訝そうな顔で見ている家族に私は引導ではなく判決を宣告した。
「40年前、ハワイから転校してきた女生徒に担任として何をやったのか思い出しなさい。必要ならこの場で説明しようか」私は青ざめ硬直した古河を妻と息子の嫁が詰問している声を背中で聞きながら歩き去り、墓苑の外で佳織と合流した。
- 2022/06/19(日) 15:14:05|
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2017年の明日6月19日に北朝鮮で事実誤認=虚構の罪状によって労働教化15年の判決を受け、服役中に昏睡状態に陥って帰国したオットー・フレデリック・ワームビアさんが入院していたオハイオ州の病院で死亡しました。22歳でした。
ワームビアさんは1994年にオハイオ州シンシナティーでドイツからの移民家系の父とユダヤ人の母の間の3人兄弟妹の長男として生れました。2013年に高校を卒業式でスピーチを述べる生徒代表を務める優秀な成績で卒業し、バージニア大学に進学して商学と経済学を専攻していました。
そんな前途有望な青年が2016年になる冬休みに中国の観光ツアー会社の新年の祝賀花火などが売り物の北朝鮮での年越しツアーに参加して2016年1月2日の出国時に「宿泊していた国際ホテルの政治宣伝のポスターを盗もうとした」と言う容疑で逮捕されたのです。告発事由は「オハイオ州ワイオミングにあるキリスト教の友情連合メソジスト教会の指示を受けて1万ドルを受け取り、政治宣伝のポルターを持ち帰ろうとした」と言うものでワームビアさんがユダヤ教徒であることを知らない事実誤認以前の虚構であることは明らかでした。しかし、2月29日になって本人が記者会見して「私は人間であり、人生で最悪の過ちを犯してしまった」と敵対行為を認め、国家陰謀転覆罪の容疑で3月16日に最高裁判所が労働教化15年の判決を下して服役したのです。これに対してアメリカのユダヤ教団は北朝鮮を刺激しないことを優先し、オバマ政権(=バイデン副大統領)も同調したのでワームビアさんは放置されることになりました。
ところが2017年1月20日に就任した西洋花札(とらんぷ)政権はこの問題が根強い人気を持つオバマ政権への批判に利用できると気づき、6月に入って国務省の担当者が国連本部で北朝鮮の国連大使に接触すると「昏睡状態に陥っている」と漏らされため6月12日に医療団を派遣して意識がない状態のワームビアさんを連れ帰ったのです。
ワームビアさんの病状について付き添っていた家族は「激しく痙攣して人間ではないような唸り声を上げていた。髪の毛は剃ってあり、目が見えず耳は聞こえない状態で、腕と脚は完全に変形して足には大きな傷があり、ペンチで歯並びを変えたようだった。これは事故ではない」と証言していて、診断したアメリカの医師は「脳の大部分の細胞が損傷している。心拍停止によって脳に酸素が贈られなくなった時の典型的な症状だ」との所見を述べ、北朝鮮が主張する「ポツリヌス菌の感染による全身の神経麻痺」は否定して「拷問と頭部への殴打が原因」と推定しています。
それでも北朝鮮は「生命兆候が正常だったワームビアが帰国して1週間で急死したのは謎」と虚言を弄したのですが、それ以上に謎なのは北朝鮮の極悪非道な実態を目の当たりにしたはずの西洋花札大統領がわずか1年後にそれを指揮した国王と会談して意気投合すると対北朝鮮強硬派のレックス・ティラーソン国務長官を解任し、ジェームズ・マティス国防長官も辞任に追い込んでまで商談を進めようとしたことです。国家としての正義よりも商売第一の政治姿勢では国民に1期で落選させられても仕方ありません。
- 2022/06/18(土) 14:47:16|
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「化学学校法務担当教官の佐藤知美3佐です。以前は懇切丁寧なご指導を有り難うございました」CGS学生との座談会が予定外の戦術論に傾いてきた時、傍聴者席のWACの3佐が手を上げて思いがけない自己紹介をした。佐藤知美3佐とは面識はないが私の後任として陸上幕僚監部法務官室で勤務していた1尉の頃に加倍政権が提出した安全保障関連法案の部隊に配布する解説資料の作成と熊本の震災で直面した職務能力の限界に関する苦悩を綴った手紙が届いた。しかし、化学学校に転属した通知は受け取っていないのでその程度の相手のはずだった。何にしても普通科の幹部としては挫折した私には絶妙な助け舟ではある。
「ウクライナ紛争では双方が化学兵器の使用を告発し合っていましたが実際はどうだったんですか」聴講者の佐藤3佐が自分たちの議論に割り込んできたように感じたのか露骨に不快感を見せていたCGSの学生たちもこの質問には興味を引かれたようで黙ってこちらを向いた。
「残念ながら化学学校のプロの教官の質問に答えられるほどの経験はしてないよ。兎に角、双方が殺戮の限りを尽くしていて戦争犯罪が常態化していたんだ。強いて言えばウクライナ軍が拠点にしていた製鉄所や工場では砲弾や銃弾による外傷がない遺骸が多数確認されている。ただし、遺骸を収容したのは制圧したロシア軍だから検屍はできていない。私も逃亡に成功したウクライナ軍が撮影した画像で見ただけだ」「国際刑事裁判所として強制調査することはできないんですか」「告発された事実を当事者の同意の下で調査することが基本なんだ。それでも欧米では文民が告発すれば戦争犯罪も一般の刑事裁判所で審理するからそれほど重大な問題ではない。日本では判例がないがな」「そうかッ、軍法会議がなくても裁判できるんだ」やはりCGSの学生たちは日本国内で頻発している銃器による発砲事案を刑法や銃砲刀剣類所持等取締法で対処していることに限界を感じていて戦争法の適用を議論しているようだ。
「本当はモリヤ2佐の定年退官行事に参加したかったんですけどコロナの行動制限が厳しくて大宮からも来ることができませんでした。お会いできて感激です」座談会が終わると佐藤3佐は廊下に先回りして待っていた。私の両側には佳織=モリヤ将補と案内の担当教官の1佐が並んで歩いていたが佐藤3佐は立ちはだかるように止めて両手を差し出した。衛生学校の廊下では中村昌代准尉に背後から抱きつかれたが、そこまで親しい関係ではない。それにしても将補と1佐を無視して握手を求めてくるのは組織人として大胆過ぎる。
「ワシも実物に会えて嬉しいよ。こんな可愛い娘ちゃんだったらもっと熱心に手紙を書いたんだけどな。痛てッ」毎度の冗談を口にすると横から佳織が拳で脇腹を突いた。オランダで一緒に生活するようになった梢も日本の女性からの手紙には軽い警戒心を示していたが、私が回し読みさせるので今は特に違和感は持っていない。
「陸曹たちは転属したんだろうけど二村事務官はまだ居るのかね」「二村事務官は使い物にならないので私が法務官に要望して他の駐屯地に移動させました」私が2001年7月1日の定年退官行事で市ヶ谷に行った時、法務官室にも顔を出したが二村由美事務官を含めて知った顔は居なかった。私は経験豊富な岡田恵子事務官だったので弁護士との兼業でも円滑に職務を果たせたが、私でも手に持て余した二村事務官では若い佐藤1尉は足を引っ張られただけだろう。立ち話を終えてもう一度両手を握り合うと今回は何事もなく別れた。
「ダブルの布団は貴方が来た時以外は使わないからシングル2枚に替えたいんだけど・・・」「お客さんは来ないのか」「志織が厚木に来た時に泊まるくらいね」東京での最終夜、佳織と並んで寝ていると妙な話を切り出した。佳織は現在の事態が終結すれば退官してハワイに帰る。それまでに私の帰国がないことを実感しているのだろう。
「このダブルは守山で結婚した時に名古屋のデパートで買ったんだよな。20年以上使っているからそろそろ限界だね」「この布団で思いっ切り愛してもらったわ」「志織が生まれてからな」結婚した時に佳織の腹に宿っていた志織も20歳を過ぎているのだから布団としては綿が薄くなり、シーツの下のカバーも破れ始めているはずだ。
「貴方の愛撫は私を痺れさせたわ。今夜はあの時みたいに痺れさせて・・・」「前戯だけで好いんだな」「馬鹿・・・」私の余計な確認に佳織はかすれた声で返事をした。バイアグラを勧めた中村准尉ではないが、私は男性の更年期の標準的年齢になっているので始めから期待されていない。梢が一緒に寝ていて言うには性器の結合を性行為の目的にしているのは男性の射精本能であって女性は口づけから愛撫や性器の結合までの流れに優劣はないそうだ。男性の巨大な性器に快感を覚えると言うのも勝手な思い込みらしい。そう言えばアメリカ海兵隊の男性兵士との性行為を経験しているはずのジュディ・アイランド軍曹は私の粗チンでも快感に溺れていた。私も佳織の乳房の膨らみと弾力、体温や肌触りを久しぶりに堪能した。

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- 2022/06/18(土) 14:45:36|
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1928年の明日6月18日にバイキングの国・ノルウェーが量産している探検家たちの中でも一番星のロアール・アムンゼンさんが飛行船で北極海を横断中に消息を絶ったイタリアの探検隊を飛行艇で捜索中に二重遭難して行方不明になりました。
アムンゼンさんは1872年にノルウェー南東部のボルグで海運業を営む家庭の4男として生れました。1888年にノルウェーの探検家・フィリチョフ・ナンセンさんがグリーランドの横断に成功したことに感動して後に続くことを決意しましたが、母親にとっては家業を継ぐようにしか見えず、強制的に医学校に入学させられました。ところが21歳の時に母親が病没したため医学校を中退して船乗りになると4年後の1897年にはベルギーの探検船の航海士になって実習経験を積むことになり、南極海で氷に閉じ込められて予定外に極地越冬まで体験したのです。
20世紀に入った頃のヨーロッパでは大西洋から太平洋へ出る航路としてアメリカ大陸の最南端のマゼラン海峡よりも地球半周分近い北極海を抜ける北西航路の確立の要望が高まっていて(パナマ運河の開通は1914年)、アムンゼンさんも1903年に借金で47トンの鋼製機帆式漁船のヨーア号を購入して6名の乗員と共に出港しました。
その後、グリーンランドとカナダの間を抜けてパフィン湾、ランカスター海峡、ジェイムスロス海峡、キングウィリアム島とブレーシア半島の間のレイ海峡を航行しましたが、レイ海峡を通過することなくキングウィリアム島で2回越冬し、ここでイヌイットから犬ぞりの取り扱いや獣皮の加工方法などの極地での越冬に関する知識を吸収しました。
1905年の夏に離岸すると1905年8月17日にカナダ領北極諸島を抜けてボーフォート海に到達しましたが間もなく海面の凍結によって航行不能になり、氷上を800キロ歩いてアラスカ州イーグルから「北西航路横断成功」の電報を打ち、3度目の越冬の翌年の夏にベーリング海峡を抜けて太平洋に出ています。
北西航路横断に成功したアムンゼンさんは次の目標を北極点到達に定め、資金を集めてナンセンさんが使ったフラム号を購入しましたが、1909年4月6日にアメリカのロバート・ピアリーさんに先を越されたため独断で目標を南極点に変更して1910年8月にノルウェーを出航しました。この時、イギリスのスコット隊も南極点到達を目指していて両者は先陣争いを展開することになりました。
しかし、極地越冬の経験が非情な成否を分け、アムンゼンさんがイヌイットから習ったアザラシの毛皮を防寒衣にしたのに対してスコット隊は防寒性には優れても汗を吸って凍ってしまう牛皮のコートで、移動手段も犬ぞりに対してエンジン付きのそりや馬車だったためエンジンは故障、馬は餌不足で全滅して人力でそりを引くことになりました。
結局、アムンゼンさんは1911年10月20日に基地から4人の隊員と犬ぞりで出発して1911年12月14日に南極点に到達し、1912年1月25日に1人の犠牲者も出すことなく無事に帰還しましたが、スコット隊の5人は1ヶ月後の1912年1月17日に南極点に到達したものの帰路の3月29日までに全員が死亡しました。
- 2022/06/17(金) 15:10:12|
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結局、最終日は周到な調整によって私の現地調整に貢献してくれた佳織=モリヤ将補の希望に応えて午前中は衛生学校で初級幹部課程とAOCの幹部学生を対象にした講話、午後からはCGS課程の学生たちとの座談会になった。午後の座談会には化学学校からも聴講生として教官が参加することになっている。完全な準備不足だが私は話が制御できない「口下手」、人の6倍喋る「六口(むくち)な男」なので何とかなるだろう。
「諸官の先輩たちも2011年3月11日の東北地区太平洋沖地震の災害派遣では津波や土砂崩れで死亡した多くの犠牲者の悲惨な遺骸を収容したが戦場には異次元の壮絶な様相がある。災害は人間や動物だけでなく建物や道具などの日常生活の場を一律に破壊するが戦争では殺意を持って人間を攻撃、殺傷する。災害の遺骸は恐怖と同時に諦めの表情を浮かべているが、戦没者は憎悪と怨嗟がこもっている。私のこの手は北キボールPKOで殺害した3人の現地人暴徒の血に染まっている。だからイスラム教のモスクでの慰霊の礼拜を欠かしたことはない」ここで両手を広げて突き出して見せるのは講師としては初歩の演出だが、現職の自衛官ではないから口にできる必要な説明を補足した。
「東北地区太平洋沖地震の災害派遣では発見した犠牲者の遺骸を搬送する時、自衛官が手を合わせているのを新聞やニュースで見た首都圏のキリスト教の聖職者が知り合いの新聞記者に抗議したんだ。すると記者会見で質問された民主党政権の官房長官が『現場を指導します』と答えたから新聞が『被災地で自衛官が宗教活動』と書き立てて禁止されてしまった。しかし、戦場に限らず多くの人々が犠牲になった現場で祈りをささげるのは人間としての常識だ。念を押しておくとワシは退役したから政治的な発言も制限は受けないぞ」最後の決め台詞で困ったような顔をしていた衛生学校長は安堵したように隣り席の佳織を見た。同時に部隊の常識に染められている2尉と1尉のAOCの学生たちは一斉に溜息をついた。この反応を見る限り、戦時下にあるはずの陸上自衛隊では「動脈硬化」と揶揄された体質は改善していないらしい。
昼食は目黒駐屯地に帰って久しぶりに航空自衛隊の部隊食を食べた。定年退官でも特別昇任しなかった元2等陸佐としては極めて僭越なことに佳織と一緒に将官席で食べたが、献立は大半が幹部学生の隊員たちと同じとのことだ。食事が終わり、佳織の執務室で待機しているとCGS課程の担当教官の1佐が呼びに来て教場に案内された。
「講師を紹介します。オランダのハーグにある国際刑事裁判所のモリヤニンジン検察官です・・・」担当教官は講師と紹介したが座談会のはずなので座長の方が正解だ。国際刑事裁判所の所在地も間違っているから訂正しなければならない。しかし、自分よりも階級が低かった人間を講師・座長として奉らなければならない担当教官の気分も理解するべきだろう。
「これは座談会と言うことなので学生だけでなく教官や聴講生も自由に質疑応答することにしよう。先ず1つ訂正しておきます。私が勤務する国際刑事裁判所の所在地はスフラーフェン・ハーグで憲法では定められていないオランダの首都です」「オランダの首都はアムステルダムじゃあないんですか」「アムステルダムは憲法で定められている首都ですが、王宮や中央官庁、国際機関の大半はスフラーフェン・ハーグにあります」陸上自衛官にしては珍しく初一本の質問をしてきた2尉の学生を賞賛したくなったがレベルは中学校の地理の授業だ。昔から菓子を囲んで最初に手を出す奴は英雄、最後の1つを口に入れる奴は大物と言われているが、これで座談会も自由闊達な討論になりそうだ。
「座長は元普通科連隊の中隊長だったそうですが、ウクライナでの戦闘から陸上自衛隊が学ぶべき教訓はありますか」CGSには外国軍からの留学生も多いはずだが、中国が安全保障理事会で日本への懲罰を宣言して、実際に艦隊を派遣した時点で帰国させた国が多く大半は日本人だ。ならばこの質問にも本音で答えられる。
「今回、ロシア軍は1939年のフィンランド冬戦争の敗北に学んでいなかった。本来は始めから東部と南部地区の占領と併合だけを侵攻目的にするべきだったんだ。一方、ウクライナ軍はフィンランド軍の戦訓を学習して発展させていた。私は15万人に過ぎない陸上自衛隊が正規軍の編制を採っているのはミニチュアに過ぎないと思っている。だから中隊長時代も自転車による機動力を発揮するゲリラ戦を研究していたんだが、惜しむらくは私の駐屯地には自転車で移動可能な距離に訓練場がなくて実証することができなかった。本当は演習場まで自転車で機動して車両で移動してくる部隊を襲撃する訓練をやりたかったんだがな」おそらく陸上自衛隊の普通科の幹部では私1人だけの戦術構想をCGSの学生に語ることができただけでも佳織に感謝しなければならない。しかし、日本が直面している事態はこの課程学生たちが卒業して部隊で活躍するのを待っていてくれそうもない。
- 2022/06/17(金) 15:08:54|
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6月8日、国連総会では4月にリヒテンシュタインが安全保障理事会で拒否権を行使した常任理事国の理由説明を提案して決議されました。
この提案は安全保障理事会でのウクライナ侵攻に対する非難決議に当事国のロシアが常任理事国として拒否権を行使しても何もできなかったことへの抑止策ですが、今回はすでに弾道ミサイルの発射と核実験への非難決議が成立(共産党中国は棄権した)して経済制裁が実施されている北朝鮮が過去にない頻度で弾道ミサイルを発射していることを受けて追加の経済制裁が提案されていたのですが共産党中国とロシアが拒否権を行使したのです。
この理由説明は国連憲章の改定を伴っていないため強制力はないのですが、両国とも応じたのは「国際社会での孤立化は避けたい」と言う一応の配慮があったのでしょう。
総会では共産党中国とロシアとは別に70カ国以上が演説を希望し、大半は両国の拒否権の行使を批判したので193カ国の加盟国の大多数が白眼視している雰囲気が醸成され、その中で晒し者になった共産党中国は「政権交代ごとに揺れるアメリカの対北朝鮮政策に問題の根底がある」とアメリカの自国にはない選挙制度を揶揄し、北の国王を商売相手として優遇していた西洋花札(とらんぷ)政権と同じ民主党の北朝鮮の核施設の空爆破壊の直前で腰が砕けた栗金団(くりきんとん)政権と副大統領として小浜(おばま)政権の対中融和外交に加担した失策を挽回するために強硬な姿勢を取っている売田(ばいでん)政権の政策転換が原因と開き直りました。続いて今では悪役が板についているロシアは「これ以上の制裁は事態を袋小路に至らせる」と自分の立場を北朝鮮に重ねていました。
しかし、本質的な問題は共産党中国と現在のロシアはどちらも国際連合が創設された時の常任理事国の資格要件である第2次世界大戦における戦勝国=連合国だった国民党中国とソビエト連邦とは別の国家であり、中でも共産党中国は朝鮮戦争では義勇軍=志願兵と言う形式は採っていても韓国を支援する国連軍との戦争を行った敵対国だったのです。つまり連合国が戦火を交えた日独伊と同様の戦争犯罪国だったのですが、アルバニア決議案に基づいてこの事実を審議することなく1971年10月25日に国民党中国に盗って代わって国際連合に加盟しただけでなく常任理事国の椅子まで奪い取ったのです。
ロシアは侵攻を正当化するためウクライナ政府を「ナチスの再現」と非難していますが、ナチスと戦ったのはソビエト連邦であり、プッチン政権としては侵攻を正当化するのと同時に国民にソビエト連邦の栄光の歴史の再現を喧伝しているのかも知れません。しかし、過去のウクライナ政府は東部地区のロシア系住民がロシアのクリミア半島併合に呼応して分離独立を要求するデモを起こすと武力鎮圧しましたが、クリミア半島併合自体が事実上の軍事侵攻と不法占領であり、これに呼応することは国家に対する反逆に他ならず政府軍を派遣して鎮圧することは間接侵略に対処するための正当な国家権力の行使です。
第2次世界大戦は連合国の手前勝手な正義の強制に他なりませんでしたが、それでも血を流して守った「正義」は共有していました。やはり「正義」を持たぬ共産党中国やロシアのような非人道行為の常習犯が常任理事国として主導権を握ることは許されません。
- 2022/06/16(木) 15:39:03|
- 時事阿呆談
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「ここの先任助教は久居時代の曹学の後輩なんだ」「確かWACの准尉よね」「うん、中村昌代准尉だ」中村准尉と助教室で雑談して待っていると校長の副官から連絡が入り、衛生学校の正面玄関で官用車に乗った。中村准尉は助教室の廊下で見送っただけで玄関までは来なかった。やはり軽くイケナイことをしただけに佳織とは顔を合わせたくなかったのだろう。官用車が正門を出ると私から必要のない説明を始めた。
「校長が貴方のウクライナでの体験談を入校学生に講話してもらいって言っていたわ。だから思いつく場所を探したんだけど助教室に行ってたのね」中村准尉は副官室の陸士長のWACに連絡したので佳織が校長室の電話で私を探しても所在が伝わるはずがない。それにしても佳織が「どこ」を思いついたのかは謎だ。
「確かにウクライナは衛生隊の出番ばかりだったが、負傷者の応急措置と言うよりも遺骸の収容と埋葬が主だったな。医官よりも坊主の方が必要な惨状だった」「それならCGS(指揮幕僚課程)の学生にも講話してもらいたいわ。明日は予備日で開けてあるからお願い」唐突に講師の依頼を受けたが、私はCGS出身ではなく課程学生の知的水準が判らない。佳織が前河原の校長だった時に韓国研修が中止になった穴埋めとして2日間にわたって後輩の幹部候補生の前で講話をしたことはあるが、ぶっつけ本番の相手としては少し手強い(てごわい)。
午後からは国営放送の放送センターで韓国の竹島警備隊が何者かの襲撃を受け、警備隊員が全滅したと言う事件の虚偽を明らかにした映像の確認だった。正面ホールに入ると不思議に華やかな雰囲気が充満していたが、出迎えた中年の技術職の担当者は気難しそうで、華やかさを廊下に置き去って案内された部屋にはかつてはジェット戦闘機を見慣れていたはずの私でも手を触れるのをためらうような高度な電子機材が並んでいた。
「この映像は韓国政府が国内向けに公開した動画ですが、ニュースで使用するために解像度を増す加工を施したところ遺体が韓国側の説明する警備隊員の年齢層ではないことが明らかなので急遽警察に提供しました。すると行方不明になった漁民が所属する漁協に確認して複数の関係者が『本人だ』と断定したんです」この事件は真偽不明だったためヨーロッパのニュースでは取り上げられず、翌月上旬に茶山元3佐から届いた1カ月分の新聞で読んだのだが、国営放送の映像加工技術が国家を窮地から救ったらしい。
「先ず海面に漂っている水死体を発見したところからです」担当者は動画の再生速度を落として私と佳織に注視させると海面に黒い物体が漂っているのを発見した場面で停止させた。
「新聞の記事では『竹島近海で発見した』と書いてありましたが島の影は全く見えませんね」「太陽光が差している方向から推定してこの映像は南から北に向かって撮影しているのですが、韓国が発表した海域であれば振っているカメラが竹島を捉えていなければなりません」私の指摘に担当者も専門的に答えた。私もオランダの公判に提出する原告が用意した証拠映像の確認や弁護側の提出資料の分析に当たっているのでズブの素人ではない。
「続いて高速艇が水死体に接近しますがハッキリ見えるようには撮影していません」「大体、外洋で遺骸が漂っていれば鮫が集まって喰い荒らしそうなものだがそんな気配はないな」「確かに」これは午前中にジージョの遺骸の画像を見て学んだ知識だが今度は担当者が同意した。
「ここで小型ボートが水死体の回収に向かいますが遺体を引き揚げる作業や遺骸そのものを一切映していません」「韓国は防衛省がPー1の引き揚げ映像の遺骸が映っている場面を削除したのを編集はマスコミの自己判断だって批判したのよね」ここでようやく佳織が加わってきた。やはり遺骸の映像には嫌悪感を覚えるらしく口数が減っている。
「これで甲板に並べた遺骸の映像になりますが全員が伏せた状態で画像が極めて不鮮明になっていました。それを解像加工したところ後頭部は白髪混じりで、露出している手や首の肌も高齢者のものでした。加工前と加工後の映像を見比べて下さい」担当者は国営放送が独自に開発した技術を誇示したいのか同じ場面の繰り返しになる映像を再生した。すると加工前は遺骸がうつ伏せに置いてあることしか判らない映像が髪の色や水に浸かっていても高齢者特有の乾さついた肌の質感まで察知できる鮮明度になっていた。
「しかし、残念ながら公判の証拠資料としては加工した映像は採用されないんだよ」「それは警察の人も言っていました。だから告発は難しいそうです」これには佳織がうなずいた。
「もう1つ気になるのは映像が始まった高速艇が到着して捜索を開始した時間と撮影が終わった時間では日差しの方向から推定して5時間近くが経過していることです」「やはりな。火葬した遺骨を返したのも色々都合が悪い点があったんだろう」ここまでで日韓の武力衝突の実態は理解できた。明日の予備は現在の職務を統括する外務省と法務省に顔を出したい。
- 2022/06/16(木) 15:37:18|
- 夜の連続小説9
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