明治19(1886)年の明日8月1日にロシアの極東進出に対する牽制と朝鮮・李王朝の改革派への威圧のために黄海を航行していた清国北洋艦隊の巡洋艦「超勇」「揚威」を除く戦艦「定遠」「鎮遠」、巡洋艦「済遠」、練習艦「威遠」の4隻が長崎に入港しました。
入港した「定遠」「鎮遠」の姉妹艦は排水量7355トン、全長94・5メートル、全幅18・4メートル、主砲305ミリ連装砲2基4門、副砲150ミリ砲2門のドイツ製装甲戦艦、「済遠」は排水量2355トン、全長75メートル、全幅10・5メートル、主砲210ミリ連装砲1基2門、副砲150ミリ単装砲1基のドイツ製巡洋艦、「威遠」は練習艦ですが、これは日本に対する示威と同時に「定遠」と「鎮遠」を修理できる大型ドッグが清国内にはないため長崎で整備を受けることが目的だったと言われています。
ところが8月13日になって清国の水兵500名が無許可で上陸すると大挙して長崎市内を歩き回り、泥酔して女性を追い掛け、商店の売り物を略奪するなどの乱暴狼藉を繰り広げましたが、中でも清国の売春宿とは全く違う日本の遊廓の格式を知らない一部の水兵が京都嶋原、江戸吉原、大坂新町と並ぶ長崎丸山に押しかけると待たせられたことに激昂して暴れ始め、建物や備品を破壊し、持ち出すなどの騒動を起こしたため通報を受けた丸山派出所の巡査2名が首謀者2名を逮捕して派出所に連行しました。すると市内の骨董品店で日本刀を奪った10数名の水兵たちが派出所を取り囲んだため巡査2名は警棒で応戦して逮捕すると濱町警察署に連行したのです。当時は外国人の粗暴犯を制圧するため日本人の警察官が抜刀することを恐れた外国公使の要求で外国人居留地の警察は警部以上が帯刀、巡査は警棒になっていました。
翌8月14日に長崎県知事と清国領事が会談して「清国水兵の集団での上陸は禁止する」「上陸を許す時は監督の士官を同行させる」との約定を取り決め逮捕者は清国側に引き渡されましたが、8月15日の午後になって300名の水兵が上陸すると棒を拾い、奪った日本刀で武装して派出所に押しかけ、巡査の目の前で放尿して注意されると一斉に襲い掛かりました。その集団暴行で1名が死亡、2名が重傷(1名は翌日に死亡した)を負ったため今度は人力車夫が清国水兵に殴りかかり、市民を巻き込んだ大乱闘に発展しました。通報を受けた警察は現場に急行しましたが清国水兵の人数が予想よりも多く(上陸禁止だった)、日本刀で武装しているため警察署に戻って帯剣して出直し、斬り合いの末にようやく鎮圧しました。この事件で清国士官1名が死亡して3名負傷(士官が同行しながらの蛮行だった)、清国水兵3名が死亡し50名余りが負傷、日本の警察も警部3名が負傷、巡査2名が死亡して16名が負傷、市民も10数名が負傷しました。
この事件を受けて長崎ではイギリスとフランスの弁護士を交えた話し合いが行われましたが、東京での井上聞多=馨外務大臣と中国公使の交渉の結果、責任の所在を明らかにすることなく日本側が52500円、清国側が15500円の見舞金を支払うと言う信じ難い形で決着しました。所詮、井上外務大臣はイギリスへの留学経験を毛利藩閥内で過大評価されているだけで外交能力は鹿鳴館社交レベルだったのです。
- 2022/07/31(日) 14:44:17|
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「上部構造物の破壊なら特科の榴弾砲で十分だ。中部方面隊に出番を譲れ」「陸の面子を立てろって言うんだな。お恥ずかしい」横田基地では日米空軍が原子炉封鎖作戦の具体化を検討している。そこに今回の封鎖作戦を統括している統合幕僚監部から銃剣道では禁じ手の側面刺突=横槍が入った。そのメール画像に映っていたのは統合幕僚監部でも航空自衛隊の幕僚だったが流石に気まずそうな顔をしていて陸の上司に強制されたことが一目瞭然だった。それを受けた航空総隊司令部の幕僚はそれ以上に気まずそうな顔でアメリカ空軍の面々に頭を下げた。するとアメリカ空軍の幕僚たちは顔を見合せて肩をすくめた。
「確かに上部構造物を破壊するだけなら空対地ミサイルや爆弾よりも砲撃の方が効果的だ。ミサイルや爆弾では外れた時には再発射、再投下が必要になるが、複数の攻撃機を上空待機させるのは無駄がある。その点、砲撃なら連射はお手の物だ」「命中精度もグランド・ジエー隊(陸上自衛隊)の特科は神業と言われているから百発百中だろう」アメリカ軍は第5空軍司令官が在日アメリカ軍司令官を兼ねて陸海空軍海兵隊の指揮権を付与されているように地域で統合運用しているので他の軍の知識を共有しており、日本的な縄張り意識は薄い。
「グランド・ジエー隊もFH70を使用しているから有効射程(命中精度を確保できる射程距離)は24キロある。対放射線防護を万全にすれば砲撃は可能だ」この口ぶりでは在アメリカ空軍の軍人たちはかなり本格的に陸上自衛隊も学習しているらしい。ただし、富士教導連隊が火力展示演習で披露する神業を陸上自衛隊全体の技量水準だと思うのは大間違いだ。1992年の秋に西部方面隊が春に着任した方面総監の命令による火力展示演習を日出生台演習場で開催したことがあるが、半年間猛訓練したにも関わらず特科や戦車の砲弾とAHー1攻撃ヘリの機銃射撃は標的から大きく外れ、普通科の突撃は全く揃わず、偵察隊はバイクで転倒した隊員が負傷して衛生隊が救護する場面まで展示する羽目になった。
「しかし、若狭湾の地形では特科の大砲が射程距離まで接近にするのに放射能汚染地域を通らなければならないだろう」「そうなると観測点の確保も難しいな」航空自衛隊の幕僚の見解にアメリカ空軍の幕僚は専門知識で同調した。観測点とは発射線から目標の間に設けて着弾位置を確認・修正する要員で、日露戦争の旅順攻略戦で日本陸軍が203高地を奪取したのは28サンチ榴弾砲=要塞砲で旅順港内のロシア艦を砲撃するための観測点の確保が目的だった。今回は射撃線よりも前方のより放射能汚染が濃厚な地域に隊員を配置することになる。
「やはり陸の面子だな」「陸でも特科を知らない人間の思いつきだろう」航空自衛隊の幕僚2人の日本語の指摘に日本人は即座にうなずいたが、アメリカ人たちは冷ややかな目で見回してから苦笑した。航空自衛隊はアメリカ軍によって創設されたと言われているが、実際は単なる操縦馬鹿で部隊を指揮・運用する能力が欠落していて真珠湾やミッドウェイなどの航空作戦を失敗させたにも関わらず自己顕示欲は異常に強く、自己演出だけは長けていた源田実が入隊したため海軍出身者の多くは嫌って海上自衛隊航空隊に流れ、実質的に陸軍航空士官学校出身者が組織の主流になった。さらに警察予備隊、保安隊、陸上自衛隊が陸軍の戦争責任を断罪する世論の中で創設・改編されたため殊更に陸軍色を排除せざるを得なかった反動で航空自衛隊を濃厚に陸軍色に染め上げたので組織内には戦前の陸軍に蔓延った派閥意識が意外に強い。その後、陸上自衛隊も公職追放を解除された陸軍出身者が集まって亡霊を招くように陸軍色に塗装し直したので、どちらも陸軍臭が鼻を衝くことがある。
「ならば海から艦砲射撃した方が照準は容易だろう。射程距離も大差ないはずだ」「それはそうだな。市ヶ谷に観測点の疑問を指摘するついでに提案してやれ」思いがけず航空総隊司令部は統合幕僚監部に専門外の観測点への疑問と海上自衛隊による艦砲射撃の提案を連絡することになった。すると対応した先ほどの幕僚も何故か快哉の笑みを受かべて聞いていた。
「アメリカ軍はBー52かBー2で投下する方針を変えるつもりはないのか」「Fー16・Fー2ブラザーズでは2000ポンド爆弾は2発しか搭載できない。炉心を封鎖するのに原発1基あたり何発の命中が必要なのかは明らかではないが、仮に10発とすれば最低でも5機が必要になる。その点、戦略爆撃機ブラザーズなら1機でも数10発は搭載可能だ」航空自衛隊の質問にアメリカ空軍は妙に論理的に説明した。航空自衛隊としてはFー16とFー2による協同作戦でもグアムから飛来するBー52やBー2の護衛でも出番があることに変わりはないが、内局から航空幕僚監部を通じて石田首相の意向の反映を指示されているのだ。
「いっそのこと広島市上空を飛行ルートにしてやりたいけどな」「ブルー・インパルスなら歓迎されるかも知れないが、Bー52では平和目的でも許されないだろう」今回の作戦は災害派遣の一環なのだが、マスコミの印象操作に掛かれば何ともならない。
- 2022/07/31(日) 14:42:53|
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1886年の7月31日は天才的ピアニストとしての活躍する一方で「シンフォニック・ポエム(交響詩)」と言う音楽分野を創始したフランツ・リストさんの命日です。シンフォニック・ポエムはオペラや演劇の付属音楽を物語の予告編的に独立させていた楽曲をリストさんが音楽外の詩的・絵画的内容を表現する管弦楽曲として確立しました。
リストさんは1811年にオーストリア帝国内のハンガリー王国ドボルヤーンのオーストリア人の居住区で貴族に仕えるオーストリア系ハンガリー人の父親とオーストリア人の母親の間に生まれました。このため地域と家庭で使われていた言語はドイツ語でハンガリー人を自認していながら終生ハンガリー語を習得することはありませんでした。
ヴァイオリニストの弟を持つ父親はリストさんに音楽的教育を与え、10歳になる前から演奏会を開くなど早熟な天才少年として注目を集めるようになると1822年にはウィーンに移住してベートーヴェンさんやシューベルトさんの師であるアントニオ・サリエリさんやピアノ練習曲の作曲家として名を残すカール・チェルニーさんに師事しました。そして1823年4月13日にコンサートを開くと耳が聞こえないベートーヴェンさん(1827年没)が出席して対面することができました。
さらにその年にパリ音楽院を受験しますが志願者が多いピアノ科は外国人を受けつけておらず、已む無くパリ在住のピアニスト兼作曲家の教えを受け、1824年にはオペラを作曲しています。そうして才気煥発し始めていた1827年に父親が病没したため15歳のリストさんがピアノ教師として家族を養うことになると教え子の伯爵令嬢と恋愛関係になり、身分違いで実らなかったものの後に続く女性遍歴の幕を開きました。
1831年に「悪魔に魂を売って演奏技法を買い取った」と賞されるヴァイオリニスト・ニコロ・パガニーニさんの演奏を聞いて感銘を受け、自分もピアノで同じ道を歩むことを決意して指を開き、伸ばし、鍵盤を叩く力を増す訓練を繰り返すとやがて「指が6本ある」と噂される超絶技巧を発揮するようになりました。リストさんがピアノの前に座って譜面もなく即興で演奏を始めると声で唄い、語り、訴えるように音色が聴衆の胸に響いてきたためコンサートでは失神する女性が続出しました。一方、超絶技巧で演奏する曲を譜面に記録しようと弟子たちが記憶を頼りに演奏を試みても再現できなかったそうです。
そのような有名ピアニストになれば女性関係も華やかになり、数多くの浮名を流しましたが、中でも6歳年上の伯爵夫人とは1835年に夫と離婚させてスイスへ逃避行して10年間暮らし3人の子供を儲けています(娘はリヒャルト・ワーグーナーさんの妻になる)。1844年に伯爵元夫人と別れると再びピアニストとして活躍し、コンサートで訪れたキエフでは公爵夫人と恋愛関係になり、結婚を望みましたがリストさんがカソリック信者だったため女性を離婚させることが許されず不倫は実りませんでした。
その後は宮廷の楽団の指導者になり、「神格化」されていきますが1861年にローマに移住してからは酒浸りの生活になり、ドイツに帰国してこの日のバイロイト音楽祭で娘婿のワーグナーさんの楽曲を聞いた後、急性気道閉塞と心筋梗塞で亡くなりました。
- 2022/07/30(土) 15:01:38|
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「やはり現用のヘイプウェイですかね」「だろうな」アメリカ軍では極めて異例な試行錯誤による破壊された原子炉を封鎖するコンクリート投下弾の開発が進んでいた。現代のアメリカでは軍に限らず巨大組織では日本で言う思想統一や周知徹底に相当する計画の立案が重要視されるためこのように場当たり的な研究開発は組織として未経験だった。したがって担当の専門家たちの議論も困惑が先に立ってしまう。
「時代の趨勢としてはGPS誘導かカメラ誘導になるが、命中精度の優劣ではレーザー誘導がトップなんだ」ヘイプウェイはベトナム戦争末期に採用されたレーザー誘導式爆弾だ。ミサイルはロケット推進するため炸薬の重量が制限されて対地攻撃用兵器としては破壊力が不十分なのに対して目標に向けて誘導できるヘイプウェイは「スマート爆弾(賢い爆弾)」と呼ばれて一躍注目を浴びた。しかし、ミサイルの大型化が進むと上空でレーザー・ビームを照射し続けばならないレーザー誘導方式の爆弾の開発は下火になり、投下した後は弾頭のカメラ映像で遠隔操作するカメラ誘導方式が取って替わった。さらに現在は衛星の位置情報を利用するGPS誘導方式が登場しているが、命中精度ではレーザー誘導方式が数メートルの誤差なのに対してGPS誘導方式は10数メートル、カメラ誘導方式は映像を見て操作している間に爆弾が落下しているため30数メートル以内の命中精度にすることは難しい。
「確かに破壊するなら10メートル程度の誤差は威力でカバーできるが、今回は封鎖ですから命中させなければ失敗だ」「1発で2000ポンド(約907キログラム)のコンクリートを注ぎ込むとすると何発で封鎖できるですか」現在、ヘイプウェイの製造メーカーでは炸薬を抜き、鉛剤を混合して水で練った速乾性のコンクリートを注入した封鎖用投下弾を試作しているが、中身が替わった後の重量の報告は受けていないのでこの技術者の見解は情報の継ぎ接ぎだ。製造メーカーとしては着弾した後に中身のコンクリートを原子炉内に注入する方法に苦慮していてまだ試作品は完成していない。第2次世界大戦中、アメリカ海軍は猫の水を嫌う性質を利用して爆弾の先端に入れて動きが尾翼に連動する爆弾を真面目に研究したことがあり、ベトナム戦争でも鳩が建物の屋根にとまるのに目をつけて「ピジョン・プロジェクト(鳩計画)」に着手している。あの時代であれば柔軟な発想で画期的な投下弾を開発したかも知れないが、今は株主を納得させることが企業の経営目的になっているので無駄になる可能性が高い研究開発が入る余地がない。これが第2次世界大戦中の日本であれば落下の衝撃で割れて中身が流れ落ちる陶器製の爆弾を開発したのかも知れない。
「ところで原子炉には上部の建造物が残っていたんじゃあないですか」「そうだったな。北朝鮮の弾道ミサイルは屋上を突き抜けて地下に達して爆発したんだった。地下室で核爆発は起きていないから上部建造物は残っているはずだ」計画的業務は役割分担を指定した上で筋道を立てた運営を進めるのでこのような基本的な抜けが発生する危険性は低い。現場のCBIRFは残っている上部建造物が作戦の妨げになることは認識しているかも知れないが調整機能が確立されていないので情報は届いていない。
「事前に破壊しておかないと拙いですよ」「在日アメリカ軍に連絡しておこう。通常の鉄筋コンクリート製の建物ならFー16の空対地ミサイルで十分だろう。下手に爆弾を使うと原子炉まで破壊しかねないからな」若手の設計担当者が唐突に気がついた問題点はペンタゴン=国防総省を通じてハワイの太平洋軍、横田基地の在日アメリカ軍司令部へ伝達された。
「Fー16・Fー2ブラザーズの登場かァ・・・」「タイミングが悪いな」横田基地では在日アメリカ軍司令部を兼ねている第5空軍司令部と航空総隊司令部では小松基地で待機しているCBIRFが1986年のチェルノブイリ発電所の原子炉爆発事故でソ連が実施した鉛入りコンクリートによる埋設を応用する対処方法を提案した時から上部構造物の破壊の必要性は議論になってきたが妙な難題を抱えていた。
「石田総理は納得してくれたのかな」「Bー52やBー2は核攻撃を連想させるから使用させるなって話だろう」CBIRFの提案を受けてアメリカ軍が策定した戦略爆撃機によるコンクリート投下弾による封鎖作戦を浜防衛大臣が石田首相に説明すると作戦そのものではなく使用する機種に異常な拒絶を示したのだ。
「広島の小中学高校でBー52は核爆弾を投下するための戦略爆撃機だって習ったらしい」「あの頃の子供雑誌には北爆で爆弾の雨を降らしている写真が載っていたから『あの爆弾が原子爆弾になったら』って石田少年は怯えたんだろうな」「そこにFー16・Fー2の登場となればこっちでやれってことになる」航空総隊とすれば今回の災害派遣で自衛隊が活躍する場面ができて安堵しているがヒロシマ出身者の核アレルギーには困り果ててしまった。
- 2022/07/30(土) 15:00:17|
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文化11(1814)年の7月29日は太平洋上で遭難してアリューシャン列島(千島列島ではない)に漂着し、ロシア人に保護されたためシベリアを横断してサンクトペテルブルグに送られ、そこから予定外に日本人初の世界一周を達成して帰国することになった津太夫さんの命日です。ただし世界一周した日本人は4名なので津太夫一行になります。
津太夫さんは延享元(1744)年頃に現在の宮城県塩竈市の寒風沢島で生まれました。成長すると石巻と江戸を往復する御用船の水夫になり、若宮丸の水主(水夫の長で船頭=船長ではない)になっていた寛政5(1793)11月の航海で現在の福島県いわき市の塩谷崎沖で暴風に遭って漂流し、積荷の米を喰いつないで寛政6(1794)年5月にアリューシャン列島のウラナスカ島に漂着しました。ここで船頭は病死しています。
当時はアラスカがロシア領だったためロシア人に保護され、寛政8(1796)年12月に極東地域の行政庁があるイルクーツクに到着すると天明2(1782)年に漂着した大黒屋光太夫さんの神昌丸の水夫でロシア人女性と結婚して洗礼を受けたため帰国せずに日本語学校の講師になっていた新蔵さんと凍傷で片足を失って残った庄蔵さんと対面しました。ここで新蔵さんから洗礼を受けて日本語学校の講師になることを勧められ、14名の一行のうち4名が応じました。すると4名には住宅と高額の給与が支給されるようになった一方で断った津太夫さんたち10名は最低限の生活費だけになり、漁網の修繕や漁師の手伝いなどで生活費を稼ぐことになりました。そんな中、寛政11(1799)年2月に73歳のもう1人の水主が病死して津太夫さんが最年長になりました。
亨和3(1803)年3月に皇帝から出頭命令が届き、洗礼を受けて残留を決めていた4名を含む13名でシベリアを馬車で横断しましたが途中で3名が体調不良で引き返したため10名が4月27日に夏(雪がない季節)の首都・サンクトペテルブルグに到着しました。そして5月16日に皇帝の謁見を受け、帰国を希望した津太夫さん、儀兵衛さん、左平さん、太十郎さんの4名の帰国が許可されたのです。
ところが大黒屋光太夫さんはシベリアを引き返してオホーツク海から千島列島、根室、函館に向かったのに対して津太夫一行は遣日使節のレザーノフさんが率いるロシア初の世界一周探検航海の船団=艦隊で、6月16日にサンクトペテルブルグのクロンシュタット港を出航しました。余談ながらこの出航待ちの間に貴族の好意で熱気球に乗っていて津太夫一行は初めて空を飛んだ日本人にもなりました。
船団は大西洋を南下してイギリスに寄りましたが津太夫一行はアジア人の奴隷と思われて上陸は許可されませんでした。さらに大西洋を南下して南アメリカの最南端・マゼラン海峡を通って太平洋に出るとポリネシアのマルキーズ諸島に停泊するなど太平洋諸島を探検しながら文化元(1804)年7月にカムチャッカ半島のペテロパウロフスクに到着しました。そして9月4日に長崎に入港して12年ぶりに帰国を果たし、全ての手続きと取り調べを終えて寒風沢島に帰郷したのは文化3(1806)年2月下旬でした。
津太夫さんは文盲だったこともあり、豊富な海外事情をもたらした大黒屋光太夫さんほど評価されていません。

津太夫(「風雲児たち」より)
- 2022/07/29(金) 14:42:49|
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「神父さまは韓国の方なのにどうして日本側に立った歴史を学ぼうと思われたのですか」李神父の言葉を真剣に受け止めているはずの有真は予想外の質問を返してきた。これでは李神父の見解が単なる日本側の弁明の歴史観になってしまう。やはり幼い頃から母親に韓国側の「怨」に基づく反日史観だけを教え込まれてきた有真にとっては違和感を解消することから始めなければならないようだ。それを察した李神父は先ず冷めてしまった紅茶を飲み干した。
「どうしてもなにも事実は形として残っていたんだ。私は朝鮮戦争が開戦する直前に済州島で保護されて、ソウル市内の教会に預けられたから戦争で破壊される前の市内の情景も薄っすらと記憶している。当時のソウルは日本が整備した大通りにアメリカ軍の車両が行き交い、日本が建てた近代建築に李王朝時代の歴史的建造物が混在している不思議な情景だったよ。それも朝鮮戦争で一面の焼け野原になってしまったが、アメリカ人の神父たちは日本が作った街並みが失われたことを『惜しい』と残念がっていたんだ」「京都みたいな感じですかね」ここで有真が合の手を入れたが、李神父は苦笑しただけだった。
「それで戦争中にソウル市内の小学校に入ると李承晩の意向が届いていなかったおかげで日本時代の図書が破棄されずに残っていたんだ。だから光復前(独立前)の本を読むことができた。すると日本は韓半島(朝鮮半島)全土に幹線道路と鉄道を敷設して交通網を整備し、用水路と農地整備を進めて畑を水田に変え、電気と水道を巡らせて近代国家に転換させたことが判ったんだ。小学生だから政治や文化などの難しい話は判らなかったがソウルの不思議な街並みは日本が残していったことは納得できたよ」「それが朝鮮戦争で破壊されてしまったから今の韓国人は思い返すこともない。おまけに今の建物は自分たちが作ったから、まるで日本が韓国を植民地にして奪っただけで何も与えなかったみたいに言っている」「その通り」有真の意外な理解力に李神父も感心して大声で賛同した。実は朝鮮戦争後の復興も日韓基本条約の締結による巨額の経済援助を元手にしているのだが、李神父を含めた韓国人はそれを賠償金だと思っているので補足説明にはならない。しかし、賠償金は戦争の敗者が勝者に支払う懲罰金のようなものなので、日本が韓国に支払う理由はない。
「おまけに第2次世界大戦が終わって帰国した従軍慰安婦たちを『日本人を相手にした娼婦』と徹底的に差別して迫害した上、朝鮮戦争では置き去りにして死なせたのは韓国人だ。置き去りにされた慰安婦たちは今度は北朝鮮軍相手の慰安婦になって、多くは敗走時に殺されている。だから貴女が罪を償う理由はない。今の従軍慰安婦問題はA日新聞が韓国側を外交的に優位に立たせるために捏造した虚構であって貴女もそれで人生を滅茶苦茶にされた」厳しい口調だったがこれは李神父が有真に与えた許しと救いだった。
「カミは自覚なき罪も罪として罰せられる。自覚なく悪徳に耽っていたソドムやゴモラの人々を滅ぼしたように。しかし、罪を自覚して真摯に悔い改めるならば例えカミの本意を理解しない人間が許さなくても必ず救って天に生まれさせて下さる」李神父は有真が自分の言葉を深く受け止めたことを見て取ると救いの言葉を続けた。韓国のキリスト教会では伝統的な儒教や佛教に対抗するため広く国民に信じられている神話の古代史を否定することになる旧約聖書は避け、新約聖書の救いの教義ばかりを説いているが、李神父は育ててくれたアメリカ人の神父から「キリスト教は旧約聖書を基盤に成立している」と教えられてきたためミサの説教でも「カミの罰」「カミへの畏れ」を強調することが多い。
「貴女の罪は自ら母国の歴史を学ぶことなく我が国の政治的策謀に洗脳された母親の教えを信じたまま留学してきてその誤った歴史を理由に売春婦にされたことだ。その結果、宿った命を3度も殺してしまった」カソリックでは妊娠はカミが与え賜わった生命と言う教条主義により、レイプなどで妊娠した女性にも出産と育児を義務づけているが李神父は娘の知愛が未婚の母になっているので、有真の堕胎そのものよりも失われた生命を哀れむ気持ちを罪とした。
「これからどうしますか」聖職者が現実社会でできることには限界があるため告悔の秘跡では人生や生活に立ち入ることは控えるものだが李神父はあえて有真に問いかけた。確かに目の前の有真は頬を涙で濡らしていても日本で言う憑き物が落ちたように晴れ晴れとした表情になっているが、今後を誤れば元の木阿弥になりかねない。
「もう韓国にはいられません。でも日本に帰って母と暮らすのは嫌です。それに日本でも私のレイプ動画がインターネットで流れているそうです。どこかインターネットがつながっていない国はないかしら」「日本であまり人が住んでいない田舎を探すことでしょう。自然の中の清浄な生活が貴女を癒し、救ってくれるはずです。カミの加護が常に貴女に届くことを祈ります。アーメン」李神父の祈りを佐藤有真は跪いて受けた。
- 2022/07/29(金) 14:40:11|
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1794年の7月28日に正義感に溢れる勤勉実直な弁護士としてフランス革命後の民主政権を主導しながら革命の波及を恐れる周辺国からの圧迫で政権運営が行き詰ると冷酷非情な独裁者に一転して反対派の粛清を繰り広げたマクシミリアン・フランソワ・マリー・イジドール・ド・ロベスピエールさんが弟や20名の同志と共にギロチンで処刑されました。さらに翌日には70名、翌々日には12名が同じギロチンで処刑されています。
ロベスピエールさんは1758年にフランス北部の地方都市アラスで26歳の弁護士の父親と22歳のビール酒造の娘の母親の長男として生れました。両親が結婚した時に新妻=母親は妊娠5ヶ月でカソリックの頑なな戒律が社会規範になっていた時代では許されざる不道徳な子供であり、必ずしも祝福されて生まれたのではありませんでした。それでも両親は子作りに励み1760年には妹、1761年にも妹、そして1763年には弟が生まれますが、1764年に5番目の子供を出産・分娩中に母親が急逝してしまいました。
すると優秀な弁護士だったはずの父親は哀しみから逃れるためなのか葬儀にも出席せず、母親を失った子供たちを放棄して東へ15マイルのオワジ=ジ=ヴェルジェに荘園を持つ貴族の顧問弁護士になり、2度と子供たちと暮らすことはありませんでした。そして妹2人は父方の叔母に引き取られ、6歳と1歳の兄弟は母方の実家で叔母に育てられることになりました。ロベスピエールさんの情愛を理解しない偏狭な人間性はこの家庭の崩壊が原因と主張する研究者もいますが、妹たちが暮らす家は徒歩で行ける距離であり、祖父母と叔母も亡き娘・姉の忘れ形見として大切に育てたようですから強いて言えば頭脳と一緒に父親の性格を色濃く受け継いだのかも知れません。
ロベスピエールさんは成長すると「父親と同じ弁護士になって妹弟を養おう」と勉学に励んで学校では優秀な成績を収めるようになり、12歳になると王立の高等教育学校に入学するためパリへ旅立ったのです。そして8年間の寮生活を送りながら高度な学識と厳格な規律心を身につけ、卒業後はソルボンヌ大学に進学して弁護士の道に踏み出しました。その後はアラスで弁護士事務所を開設し、地方の有能な弁護士としての地位を固めた頃、フランスには革命の機運が勃興し、絶対王制に対抗する三部会が設立されると議員に当選して、革命後の政権での主導的立場を獲得しました。そして弁護士の立場から民主主義原理に基づく革命政権の確立を目指しますが、国内の反対派と国外の反革命諸国の圧迫で内憂外患の状態に陥り、足場固めとして徹底的な粛清を始めたのです。しかし、フランス革命は指導者もなく民衆や兵士の蜂起が連鎖的に拡大していった一揆的な内乱だったため立場ごとに異なる意見を調整・統一する機能が欠落していて、反対派と言う尺度で判定されれば個別の案件で該当して処罰の対象になってしまい、結果的におびただしい人数が処刑されてロベスピエールさんは恐怖政治の元凶になってしまいました。
1794年7月27日にロベスピエールさんが議会で演説すると反対派が「暴君を倒せ」と罵声を浴びせ、これを受けてパリ市内各所で暴動が発生し、逃げ込んだパリ市庁舎で逮捕されて革命裁判所で死刑判決を受け、翌日に執行されたのです。
- 2022/07/28(木) 14:24:09|
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「貴女は誰から従軍慰安婦問題を教えられましたか」女性=佐藤有真の罪の告白を聞き終えて知愛の父=李神父はいたたまれない気持ちを押し殺して質問を始めた。有真の年齢から推察するとA日新聞が済州島での女性の強制連行を告発した吉田雄兎(通称・清治=福岡県遠賀郡芦屋町出身)を「勇気ある告白」と称賛する植村隆記者の取材記事から始まる(いわゆる)従軍慰安婦問題を不定期に長期連載していた頃には生まれておらず、むしろ加倍政権がA日新聞の虚構を糾弾して社長が謝罪会見を行ってから中学高校時代を過ごしているはずだ。
「母です。母は韓流ドラマの熱烈なファンで『吹き替えではなくて生の声が聞きたい』って韓国語を勉強したんです。だから衛星放送で韓国のニュースを見ていました」「それじゃあA日新聞の虚偽報道の暴露も加倍政権による軍事政権と同じ言論弾圧だって思い込んでいたんだね」李神父の理解に有真は深くうなずいた。韓国では加倍首相が暗殺された時も新政権は国際儀礼に基づいて弔意を表し、大手マスコミも表向きはそれに倣ったが、在韓日本大使館が所在するソウル特別市の区長を含む地方自治体の長や言論人は加倍首相を口汚く罵る発言を繰り返し、それがインターネットで賞賛されて瞬く間に統一世論になっていた。実際、日本大使館や領事館に弔意の記帳に訪れた市民が帰路に暴言を浴びせられ、投石や暴行を受けたがマスコミは一切報じなかった。それは中国も同様だ。
「お母さんは貴女が今、韓国で受けている屈辱的な立場を知っているんですか」「屈辱的ですか。母は私が身を捧げて日本の罪を償っている聖女と呼ばれていることを誇りに感じているって言っています」「聖女・・・貴女が・・・随分、罪深い聖女だね」李神父は半ば呆れてしまい皮肉な口調で答えてしまった。すると有真は内心ではこの評価を自分に下していたようで救いを求めるような目になって李神父を見詰めてきた。
「確かにマグダラのマリアはエルサレムの娼婦だったが、イエスに出会ってからは身を売ることをやめて純粋に信仰に生きるようになった。マグダラのマリアは男たちに肉体を捧げて罪を償ったのではなく商売として欲望を解消しただけだった」この教示は大学の礼拝堂で学長を兼ねた司祭の告悔の秘跡を受けた時にも聞いた覚えがある。この後、司祭は過去を消し去って新たな信仰生活を送るように諭した。しかし、李神父の教示は予想に反する展開を見せた。
「貴女はありもしない日本の国家としての罪を口実にして男たちの欲望の捌け口にされていただけだ。そのありもしない罪を貴女に吹き込んだのは母親だ。貴女は3度も堕胎を受けて3人の命を奪っている。その原因を作ったのも母親だ」考えてみれば有真は母親に妊娠して堕胎手術を受けたことは伝えていない。1度目はカソリック系の病院でカルテを作らず隠蔽するように処置を受けた。2度目と3度目は同級生の女子学生が以前、秘かに中絶したと聞いた無認可の診療所だったが、こちらも韓国名で記した診断申込書の身元を確認もしなかった。
「それじゃあ実際の従軍慰安婦はどうだったんですか」「簡単に言えば半島人の売春婦の日本の業者への転売だ。日本の売春宿の経営者が陸軍の依頼を受けて前線付近で開業したのが慰安所だから従軍と付ける必要はない。売春業者は日本から必要数の娼婦を連れてきていたが、補充が必要だと半島の妓宿(キーセン)で買い足した。だから半島人の女性を慰安婦にしたのは事実でも官憲による強制連行は捏造だ。仮に生理が始まる前の少女を売春婦にしたと言うのなら半島人の親が幼い娘を売ったに過ぎない」これは李神父が高校の教師だった頃、反日活動家の教師たちが開いた従軍慰安婦問題を糾弾する集会で述べた反論だ。
「でも日本の下関の団体が済州島で女性を強制連行して慰安婦にしたんでしょう」「私は済州島の出身だが、それでは私の父や兄たちは妻や姉妹が日本人に連行されるのを黙って見ていたことになる。おまけに当時の朝鮮半島の警官は大半が半島人だったから強制連行に共謀したことになる。有り得ないだろう」済州島での強制連行は吉田雄兎の講演をA日新聞が取り上げ、韓国のマスコミも報じ始めた時から李神父も調べてきたが、李承晩政権による共産主義者狩りから逃れた生存者たちは「島民の男性に対する侮辱だ」と怒りを露わにしていた。
「日本は朝鮮半島統治が大陸進出の足掛かりになると考えて、かなり丁寧な統治を施していたんだ。例えば灌漑用水や農地整備と農業指導でそれまでコーリャン米しか作れなかった半島で白米が食べられるようにした。おまけに冷害で米が実らなくなると同じく冷害に苦しんでいる日本から米を運び込んで半島人が耕作意欲を失わないように食べさせた。徴用工の問題も募集に応じた出稼ぎだったんだが、敗戦で日本の企業が契約通りの給与が払えなくなったから強制連行されたことにしている。調べれば簡単に判る事実だが韓日のマスコミが結託して虚構を史実化しているから貴女の母親のような自覚なき罪を犯す者が発生する」有真には韓流ドラマに狂った母親だけでなくKポップに浮かれる若者たちも予備軍のように思えてきた。
- 2022/07/28(木) 14:22:16|
- 夜の連続小説9
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中国明の元号・成化12年=日本の元号・文明8(1476)年の明日7月28日(太陰暦)に1406年から1469年までの63年間7代にわたって沖縄本島と周辺の島々を支配してきた尚王氏(分類上、第1尚王氏と呼ぶことが一般的)を追いやって即位し、第2尚王氏を成立させた尚円王が崩御しました。
第2尚王氏が編纂した琉球国史によれば尚円王は中国明の年号・永楽13年=日本の年号・応永22(1415)年に沖縄本島北西部の離島・伊是名島諸見村の農民の息子として生まれました。このため首里城の守礼の門の脇には国王が伊是名島の祖先の霊に向かって礼拝するための石造りの御嶽(うたき=祠)があります。
両親の農作業を手伝いながら成長して金丸と名乗りますが、20歳前後で両親を相次いで亡くしたため田畑を受け継いで5歳の弟も養うことになりました。ところが島が干ばつに見舞われても金丸の田畑だけは作物が実ったため村で共同使用している水源の水を盗んだとの疑いを受け、やむなく24歳だった中国明の元号正統3年=日本の元号・永亨10(1438)年に妻と弟を連れて島から逃げ出して沖縄本島北部の国頭村に移住しますが(この経緯は第1尚王氏初代・尚巴志王の祖父の伝承に類似しているので後世の模倣とする説が根強い)、やはり余所者として迫害を受けたため27歳で第1尚王氏の王都になっていた首里に移住すると国王の息子に仕官することができました。
すると当初は最下級の奉公人でしたが抜きん出た才覚を発揮したため次々に地位を上げ、中国の元号・景泰3年=日本の元号・宝徳3(1452)年には38歳で家臣の最高位に列せられ、仕えていた息子が国王に即位すると西原(沖縄本島中部=普天間基地辺りの太平洋側)の間切(まじり=行政単位)の領主になりました。
その後も国王の絶大な信任を得て地位はさらに高まり、中国明の元号・天順3年=日本の元号・長禄3(1459)年には貿易と外交・財務・防衛・港湾管理・造船を担当する重職に就任しましたが翌年に国王が崩御すると息子が即位し、金丸さまが帝王学を伝授することになったのです。しかし、若い国王は血気にはやり、奄美遠征を強行するなど無謀な暴挙を繰り返したため家臣の信頼を失い、中国明の元号・成化4年=日本の元号・応仁2(1468)年に54歳で金丸さまは領地である西原の屋敷で隠棲してしまいました。
ところが翌年に息子も崩御すると家臣たちは幼い国王の息子ではなく金丸さんを国王に擁立することを決定し、首里で尚円王に即位して中国清の元号・光緒4年=日本の元号・明治12(1879)年に日本政府が琉球王国への廃藩置県の適用を宣言するまで続いた第2尚王氏の410年間の歴史が始まりました。
現在の沖縄では琉球大学を中心とする歴史学界が史実に政治的解釈を加えて滅茶苦茶にしているため金丸さまの即位も従属する家臣を使った無血クーデター、国王を毒殺した王位乗っ取りなどと邪推していますが、農民の倅の木下藤吉郎が天下人の豊臣秀吉になった本土で人気の英雄譚の沖縄版=予告編と理解すれば素直に学ぶことができるでしょう。
- 2022/07/27(水) 14:52:44|
- 沖縄史
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その女性=佐藤有真(ユジン)は元従軍慰安婦支援団体の一部が愛国者団体を名乗ってインターネットに開設したサイト「日本の女を慰安婦にしろ」を見た大学内の男子学生たちに連日のようにレイプされていた。サイトには氏名や肩書は書き込まれていなかったが日本人留学生として目立っていた有真を狙っていた韓国人の男子学生にとっては欲望を果たす格好の手段を教えてもらったようなものだった。有真が1人で行動していると図書室やサークルの部室、トイレ、学生駐車場に停めてある乗用車の中、果てはカソリック系大学の象徴である礼拝堂の裏手でまで「慰安婦になって罪を償え」と声をかけられ、精液を注ぎ込んだ。
「これは拙い。日本政府が新型コロナ・ウィルス感染症の行動制限を緩和したから再び留学生を獲得するつもりなのに日本人の留学生を集団レイプしていると知られれば大失態だ」「それよりもカソリック系大学としての品格を失ってしまう」それでも有真を大学内でレイプした男子学生たちが動画を愛国サイト「日本の女を慰安婦にしろ」に投稿していることを卒業生から指摘された大学当局が取り締まりに乗り出したため大学内での慰安婦開業は終息した。その時、有真は妊娠していて大学が不祥事を隠蔽するために手配しているカソリック系の病院で最初の中絶手術を受け、告悔の秘跡を教えられて礼拝堂の告悔室で学長でもある司祭に罪を告白して許された。ところが性玩具を奪われた男子学生たちは閲覧者の振りをして有真の動画に「こいつは聖××学院大学の佐藤有真だ」「これは学内の礼拝堂の裏口だ」「慰安婦になって償えと言えば簡単に姦れるぞ」などと欝憤晴らしに個人情報を書き込むようになった。一方、「聖女」を気取る女子学生たちは有真をアカラサマに避けるようになり、学内だけでなく通学時も単独行動が多くなった。それは有真を日本大使館跡で開催された元従軍慰安婦団体の集会に誘った同級生たちも同様だ。そのため大学内では男子学生たちも学校当局に疑われることを恐れているため安全なのだが校門の前で客が待っているようになった。
「サトー・ユジンだな。俺の慰安婦になって罪を償え」客になるつもりの男は男子学生が書き込んだキー・ワードを口にすると有無を言わさず用意した慰安所に連れて行く。先日は一見して余暇は全てインターネットに使っていることが判る根暗そうな肥満体の中年オヤジだった。その日の慰安所は中年オヤジの高級ワンルーム・マンションだった。
「俺は慰安婦にされた日本人の女の中でお前が一番タイプなんだ」中年オヤジは有真の肩を抱いて部屋に連れ込むと焦ったような手つきで服を脱ぎながら妙な誉め言葉をかけた。有真が部屋の中を見回すと肥満用なのかシングルとダブルの中間くらいのベッドを中心に奥にはパソコン台とプリンターが載った衣装ダンス、手前には食卓を兼ねているらしい1メートル弱四方のテーブルと椅子が1つある。つまり来客は想定していない生活空間だ。続いて壁に目をやると投稿動画をプリント・アウトしたらしい有真のレイプ画像が並べて貼ってあった。大学内では単独のため男子学生は有真をレイプした時点でスマート・ホンの録画を開始し、喘ぐ表情や声、露出させた乳房などのアップを撮影して投稿していた。そのためなのか貼ってある画像は最初に日本大使館跡で集団レイプされた時に全裸で従軍慰安婦少女像の隣の空いた椅子に座らされた画像やその後に敷地の中で多くの男たちに次々にレイプされ、さらに「串刺しだ」と言いながら性器と口に同時に挿入されている場面が大半だった。至極当然なことだが有真は愛国サイト「日本の女を慰安婦にしろ」を見たことがない。自分をレイプした男子学生は「他にも在韓日本人の女たちが慰安婦になって罪を償っている」と言っていたが、他の日本人女性たちが同じような性行為を受けているとすればその切っ掛けは自分が作ったことになる。ならば「聖女」と言う尊称で自分を納得させてきたことは大きな間違いだ。
「さて脱がせてやろう」靴下まで脱いだ中年オヤジは突き出た腹の下に立派とは言えない男性器を埋没させたまま両手を有真の服にかけた。そして目を欲情と期待で異様に光らせながら鼻息も荒くボタンを外して有真も全裸に剥いた。韓国に留学するまで有真は在日韓国人の高校の同級生以外に男性との性的関係はなかったが、今では両手両足の指では収まり切れない。
「ネットじゃあ弾力や体温は感じられないからやっぱり本物に限るな」中年オヤジは意外に優しくベッドに押し倒すと有真の全身を手で撫で、パソコンのキーのタコがある指で乳首を摘み、女性器に差し入れてかき混ぜるように愛撫を始めた。
「これがユジンの汗の味かァ・・・美味しい、美味しい」続いて全身を舐め始めると不思議に可愛い歓声を上げた。それでも男性器は起っていないから焦りを胡麻化しているようだ。
「はい、動かないで」有真は股間に顔を埋めてワザとのように音を立てて吸っている中年オヤジに声をかけると今まで男たちに教えられた性技を駆使して男性器を立てた。今まで代金を受け取ったことはなかったが請求すれば喜んで払ってもらえるプロ=慰安婦の仕事だった。

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- 2022/07/27(水) 14:51:05|
- 夜の連続小説9
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昭和7(1932)年の明日7月27日は明治時代に公務としてではなく私的な無銭旅行で南極大陸を除く全ての大陸を回って「日本人ヒッチハイカーの元祖」と称される中村直吉さんの命日です。ちなみに本人は世界を飛ぶ「風船玉」と自称していました。
中村さんは慶応元(1865)年に土地柄を知っている者には信じ難いことに三河国吉田藩・現在の愛知県豊橋市の広小路呉服町で生まれました。
明治20(1887)年に福沢諭吉さんが元吉田藩士の実業家・中村道太さんと構想したアメリカ大陸への日本人移住計画を公表すると参加を希望しましたが、責任者だった井上角五郎さんが朝鮮王朝内の改革派が守旧派の排斥を図った甲申事件に関与した疑いで逮捕されたため渡航寸前で頓挫してしまいました。
それで諦めないところが両隣の遠州人と岡崎人から「根性無ししかいない」「周囲に順応するしか能がない」と揶揄されている豊橋=東三河の人間らしからぬところで、翌・明治21(1888)年に結婚直後の新妻を豊橋に残して単身でアメリカに渡ったのです。おまけに明治26(1893)年に一時帰国した以外は海外放浪を続け(一時帰国前はアメリカ国内、再渡航後はカナダを巡っていたと述べている)、日清戦争の3年後の明治31(1898)年になってようやく帰国しました。
帰国後は呉服町で帽子店を始める一方で政治活動にも参加しましたが、やはり閉鎖的な豊橋では息が詰まったのか36歳になった明治34(1901)年には帽子店は妻子に任せて10人の友人から援助でステッキ片手に世界一周の旅に出発しました。この旅ではアジア、中近東、アフリカ、ヨーロッパ、南北アメリカ、ニュージランド、オーストラリアの60カ国を訪れて、日本人として初めてアマゾンやアフリカの奥地を探検しています。また面会した王族や貴族や著名人などから街で出会った人々にまでサインをもらったため「世界各国旅行証明簿」と名づけたサイン帳には400人以上の署名があったそうです。移動中は軍服風の詰襟の洋服の肩に「ワールド・エクスプローラー(世界探検家)」と書いた白いタスキを掛け、馬車のヒッチハイクや貨物列車の荷役になっての無賃乗車、臨時雇い船員としての乗船が専門で、知り合った人(主に在留邦人)の家で旅行の話をすることで泊めてもらう無銭宿泊の常習者でした。そうして明治40(1907)年に帰国しますが、その3年前に行われた日露戦争はどこの国で見ていたのでしょうか。
帰国後は当時の人気冒険小説作家の押川春浪さんと共編と言う形で全5巻の「五大州探検記」を出版すると絶大な支持を集め、講演依頼や旅行記の執筆要請が殺到するようになりましたが、その割に豊橋での知名度は高くありません(銅像や記念館もない)。
その後は私設移民相談所を開設する一方で政治活動=民権運動にも意欲を見せましたが、昭和3(1928)年の豊橋市議会選挙に社会民衆党から立候補すると得票数5票で落選しています。やはり豊橋では評価されなかったようです。
そして南アメリカへの移民の渡航手続きのため上京して食べたカキ氷で心臓麻痺を起こして急逝したのです。満年齢で68歳ですから当時としては後期高齢者でした。
- 2022/07/26(火) 13:41:59|
- 日記(暦)
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神学校を終えた知愛の父=李神父はソウル郊外の小さな聖堂の神父になっている。韓国国内では金大中、盧武鉉両大統領は熱心なカソリック信者だったため反米的言動がキリスト教に影響を与えることはなく、むしろキリスト教系大学の学生が民主化運動を主導していた。ところが前政権で反米色が濃厚になるとキリスト教団内でも終戦直後にアメリカによって創建された教会は信者が遠ざかり、維持・経営が困難になっている。李神父はアメリカ系の修道会で洗礼を受けているのでそんな倒産寸前の教会を割り当てられたのだ。
「カミはこの一人子を賜ったほどにこの世を愛して下さった。それは御子を信じる者が永遠の生命を得るためである。ヨハネ3の16・・・アーメン」今週も日曜日の朝のミサには神父の妻=岡倉の義母と若い女性の2人しか参加していない。李神父が独特の節をつけて唱える新約聖書の一節も広くはない聖堂内に静かに響きわたった。カソリックの聖職者は妻帯できないが信者の離婚も許していない。だから李神父が高校の教師を辞めて神学校に入学する時も妻との関係をどうするかが修道会で深刻な論争になった。しかし、李神父はすでに男性更年期で性的能力を喪失していて、何よりも幼い頃に共産主義者狩りの住民虐殺の現場になった済州島で保護され、預けられたアメリカ人神父に佛教で言う小坊主のように育てられただけに修道士としての素養が身についているため拒否の判定を下せる聖職者がいなかったのだ。結局、自宅には立ち入らず、妻と生活を共にしないことを条件に聖職者になっている。
「神父さま、罪の告白をお願いします」ミサが終わると若い女性は妻が歩み寄るのを追い越すように李神父に近づいて泣き出しそうな声で訴えた。李神父が見返すと本当に涙ぐんでいるようだった。妻は女性の背後で立ち止まると夫と正面に立つイエスの像を見比べていた。
「告悔室にいきますか?」「いいえ、カミの秘跡をいただけるような罪ではありません」告侮室とはヨーロッパの映画などで描かれることがある懺悔の部屋だ。カソリックでは罪を告白し、それを聖職者がカミの許しを与えることで浄化されるとしている。これが告侮の秘跡だ。ただし、犯罪行為を告白されて警察当局に通報しなければ聖職者が犯人隠避の罪に問われるため告白しないのが不文律である。
「それではこちらで紅茶を飲みながら話しましょう」そう言って李神父は聖堂の控室に案内した。聖堂の控室には壁際の事務机の外には古びた木製の椅子とテーブルがあるだけだ。李神父は事務机の横の棚の上に置いてある電気ポットで紅茶をいれて女性に勧めた。残った妻は聖堂の席に戻り、持ってきた聖書を読み始めているので女性の罪の告白が聞こえないように事務机のCDプレイヤーを操作して聖堂内に低くバロック音楽を流した。
「私がしていることが善なのか悪なのか判らなくなりました」熱い紅茶の湯気を吸った後、女性は汚物を吐き捨てるように告白した。この態度は日曜日のミサに通ってきて思い詰めたように祈っている姿とは別人だ。李神父も作法は知識レベルで明らかにクリスチャンではない女性の真剣過ぎる祈りに危ういものを感じていた。女性の韓国語は流暢でも娘婿のタイガー=岡倉と共通する癖があるので日本人かも知れない。
「私は日帝が戦時中に韓国人女性を強制連行して慰安婦にした罪を償うために韓国人男性に抱かれているんです」この問題は韓国内のマスコミは一切報じないが、街の噂を投稿し合うインターネットのサイトで見た妻から教えられたことがある。それは日本人の留学生が日本大使館跡で開催された従軍慰安婦支援団体の集会に参加していて、興奮した男性参加者たちに集団レイプれた事件を「慰安婦になって日本の罪を償った聖女」と持て囃していると言うものだった。実はミサの後、妻が残っているのは世俗を離れた聖職者としての生活では知り得ない一般社会の情報を教え、説教に役立たせることも目的の1つなのだ。
「私も日帝が生理が始まる前の少女まで親から奪って慰安婦にした人道に反する罪を許せませんでしたから私が同じ苦痛を味わうことで少しでも償えるならそれが日本人としての務めなのだと思っていました。でも・・・」ここまで一方的に話して女性は少し冷めた紅茶を飲んだ。砂糖は入れなくても好いらしい。
「それがインターネットに投稿されると次第に『日本の罪を償え』と言えば私を抱けると思った男性たちが大学の前で待っているようになって・・・3度も堕胎手術を受けて妊娠できない身体になってしまいました」この告白に李神父は立場を忘れて怒りを感じてしまった。すると女性は大きく息を吸って李神父の顔を注視しながら言葉を続けた。
「そんな時、大学で神父さまが従軍慰安婦や日本の植民地支配は嘘だって言っていると聞いてお話を伺いに通うようになったんです」カソリック系大学の学生たちは当然、李神父を親日派神父として口汚く批判していたのだが、この女性はあえて救いを求めたようだ。
- 2022/07/26(火) 13:40:06|
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2007年の明日7月26日は海上自衛隊を定年退官後、現在は海上自衛隊横須賀基地の付属施設(建物扱い)=旧三笠艦保存所になっている記念艦・三笠の初代艦長を務めた福地誠夫(のぶお)海将の命日です。103歳でした
福地海将は日露戦争が始まる直前の明治37(1904)年2月に東京で生まれましたが本籍は佐賀県です。旧制・麻布中学校から海軍兵学校に入営しましたが、病気で1年留学したため大正14(1925)年に53期生として終了しました。53期には皇族の伏見宮博恭元帥の息子の博信大佐や同じ佐賀県人で海軍過激派の元凶・藤井斉大尉がいます。また昭和10(1935)年に海軍大学校に入校しますが、こちらの同期には操縦技量だけの飛行馬鹿の代表・源田実(敬称・肩書不要)がいて砲術畑の福地大尉とは日常的に激論を戦わしていたようです。
盧溝橋事件の勃発を受けて海軍大学校を繰り上げ卒業すると駆逐艦・夕暮の砲術長兼分隊長として杭州湾上陸作戦を支援し、5ヶ月後には山口多聞大佐が艦長だった戦艦・伊勢の分隊長に転任しています。しかし、その後は本人が太平洋方面の艦船乗務を熱望していても昭和17(1942)年6月から昭和18(1943)年10月まで主に陸軍との折衝を担当した支那艦隊司令部の参謀以外は軍令部や海軍省の東京勤務が続き、敗戦も海軍省人事局員として迎え9月5日にポツダム大佐になりました。
敗戦後は復員者の引き揚げ船の運航、機雷掃海、航路啓開などの残務処理にあたりましたが公職追放で海軍を離れると民間の船会社に就職して「海の男」を維持しました。そして昭和28(1953)年に保安庁警備隊に1等警備正(1佐に相当)として入隊すると第2幕僚監部調査部長としてアメリカ海軍の情報システムを導入し、昭和29(1954)年に警備監補(海将補に相当)に昇任して第2護衛隊群司令、海上幕僚監部総務部長、昭和33(1958)年に海将に昇任して自衛艦隊司令、横須賀地方総監を歴任して昭和36(1961)年2月に定年退官しました。
退官後は日本海海戦の連合艦隊旗艦としてトラファルガー海戦でネルソン提督が射殺されたイギリスのヴィクトリー、独立戦争で活躍したアメリカのコンスティチューションと並ぶ世界3大記念艦を標榜しながら敗戦後は見る影もなく荒廃していた戦艦・三笠の修復工事が昭和36(1961)年5月に完成するのを待って初代艦長に就任しました。
戦艦・三笠は大正12(1923)年にワシントン海軍軍縮条約で廃艦になり、関東大震災で係留されていた岸壁に衝突して破損・浸水・着底したため再稼働できない状態(甲板の下は砂で埋め、コンクリートで固められている)にすることを条件に保存されていましたが敗戦によって占領軍に接収されて「キャバレー・トーゴー」になると残っていた備品の大半は持ち去られ、甲板のチーク材やガスバーナーで切断できる鋼材も粗方盗まれるなど原形を留めない状況でした。それを耳にしたアメリカ海軍のチェスター・ニミッツ元帥が著書の印税を寄付したのに倣い国内外の有志から巨額の寄付が届き、廃艦の部品を集めて外観だけは元の状態に近づけることができたのです。
- 2022/07/25(月) 14:45:28|
- 自衛隊史
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「貴方、北朝鮮が日本に対して犯した暴挙を韓民族の1人として謝ります」ニューヨークでは中国と韓国の対日武力行使に北朝鮮も加わったことに岡倉の妻・知愛が苦悩していた。敬虔なカソリック教徒の家庭に育った知愛は大韓航空機爆破事件の犯人の金賢姫が口に猿ぐつわを噛まされ、両腕を男性の警察官に固められて引き摺られるように連行されてきた姿を見て、人間の精神性を認めない北朝鮮から韓国を守るため陸軍を志願した。その後、雑誌記者として駐屯地の取材に訪れた岡倉と肉体関係を持つことになり未婚で聖也を産んだが、その頃になると韓国は経済の中国依存が強まり、南北融和=臣従隷属を掲げる金大中と盧武鉉政権によって民族統一が国是になった。軍内でも朝鮮戦争の再発を前提にアメリカ軍との連携強化を推進する常識的な高級幹部は排除され、民族主義者として南北融和を提唱していた異端的士官たちが急激な出世を遂げた。しかもマスコミが南北融和を扇動していたため北朝鮮を敵視する軍幹部の排除は国民の支持を集め、士官候補生の選抜試験の面接で北朝鮮への認識を訊かれて「同胞です」と答えなければ合格できない事態に至っていた。
「韓国軍は(反米反日親中を公然化させていた)前政権で陸海空軍のトップが交代で国防部長官になったくらい反米反日で固まっている。だから親米に転換した現政権になっても陸軍は地対地ミサイルで対馬のレーダー・サイトを破壊した」「あれも演習上の事故だって説明していたな。今回の伏線だったのかも知れないぞ」「そんな組織の士官だったことが申し訳なくて・・・ごめんなさい」知愛は中学生になった聖也が自室で勉強を始め、岡倉とリビングのテーブルの席でテレビを見ながらの雑談の中で真顔で詫びた。
「何を言っているんだ。お前は日本人の俺の妻、島村知愛なんだろう。韓国軍の変節と北朝鮮の参戦に怒るだけで十分だよ」知愛の謝罪に岡倉は苦笑を返しながら軽く受け流した。テレビのニュースは国際連合安全保障理事会でアメリカ大使が若狭湾の原子力発電所の破壊は北朝鮮の弾道ミサイルによる事実上の核攻撃であると明言し、精密な誘導装置は中国化ロシアが供与した可能性を排除できないと指摘した話題に長時間を割いている。この発言がニュースで流れるとニューヨークのチャイナタウンでは若者たちが路上を占拠したが無届のデモとして警察に排除された。一方、サンフランシスコでは中国系と半島系移民を支持基盤にする市長が警察に出動命令を下さないため州知事が州兵の出動を示唆し、それが伝わるとデモ隊は自主的に解散した。ところがチャイナタウンに隣接する商店街では拳銃を持った店主たちが歩道に姿を見せ、遅れて出動した警察と揉め事を起こしたと報じていた。
「中国はアメリカ社会を甘く見過ぎているよな。中国には損得以外の価値観はないから取り敢えず飢えない生活を保障してくれる共産党政権が支持されているが、アメリカには正義って言う別の価値観があることが理解できない。自由主義経済の盲点を利用して国家予算で企業を買収して合法的に社会を乗っ取ったつもりでも、それが悪意に基づく政治目的だと気づけばアメリカ人は許さない。アメリカにとっては正義を失うことが国家の破滅なんだ」「それに韓民族は心中するのね」ここで知愛が熱い日本茶を淹れて勧めた。酒は寝る前だ。
「聖也の中学校でも相変わらず中国系と半島系の生徒が日本人の生徒に嫌がらせをしてるんだけど、最近はアフリカ系や中東系の生徒が代わりに苛め返してくれるんだって」「国際会議ではアフリカの政府は中国の言いなりだけど国民は違うんだな」「中国が敵味方に関係なく武器を与えて軍事訓練したから民族紛争が内戦になってしまった。自分たちが母国に住めなくなったのは中国のせいだ。北朝鮮は軍事顧問として残酷な戦い方を指導したから同罪だって」知愛の説明に岡倉はニューヨークやワシントンのデモ隊に潜入していても最近は中国系の主催者は日本への批判の扇動を控えるようになっていて、それが不満な半島系の参加者が過激な主張を叫んでいることに重ね合わせた。
「聖也は大丈夫なんだな」「はい、聖也は貴方が柔道を始めさせてくれたおかげで掴みかかれたらその場で投げ飛ばしてしまうみたい。あれが跆拳道や空手だったら殴られた、蹴られたで本格的な喧嘩になってしまうけど身体を倒されるとそこで終わりなのね」岡倉は聖也が小学校の中学年になった頃、ニューヨーク市内に本格的な道場がある柔道を始めさせた。岡倉自身は大学時代にプロレス同行会でタイガー・ジェット・シンイチローのリングネームで活躍して以来、プロレス式(プロレス=プロレスリングは日本の造語)の筋力トレーニングを続けていて海外の任務では知り合ったゲリラ相手にプロレスの技を練習している。それでも聖也にはインテリ学生だった嘉納治五郎が日本古来の柔術の技法を体験的に分析、取捨選択して理論化した柔道を勧めた。何よりも柔道は危険な技を排除してあり、相手に怪我をさせる危険性が低いのも安心だ。一般人にとっての強さは身を守られれば十分なのだ。

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- 2022/07/25(月) 14:42:34|
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砂浜としてはオーストラリアのフレーザー島に次いで世界2位の長さのイーフ・ビーチを持つ沖縄県久米島で海亀が瀕死の状態で打ち上げられているのが発見されたそうです。
通報を受けた久米島ウミガメ館の職員が干潮で砂浜になる地点の網に駆けつけると餌の藻を食べに海岸にくる絶滅危惧種のアオ海亀が30匹以上漂着していて首や前ヒレの付け根に刃物で突いたような傷があり、すでに死んでいる個体もかなりあったようです。
沖縄では古くから海亀を食用にしていて、まだ海岸に上がった亀が海に戻る時に逆さにしておいて、日中の強い日差しで腹を熱せられて死ぬと夕方に持ち帰り、解体して刺身などにして食べ、腹以外の部位は剝製にして売ります。
海亀の刺身は赤身の魚のトロの歯応えを増したような味と食感で非常に美味しいのですが、海岸で呑気に甲羅干ししている姿や海面で前後のヒレを使って悠々と泳いでいる姿を見ると可哀そうで「もっと食べたい」とは言えませんでした。
その点、山口県の子供たちは小学校の社会見学で牧場に行くと黒毛の肉牛に餌をやって「可愛い」を連発していながら昼食に牛肉ステーキを食べて「美味しい」と歓声を上げ、食後に感想を訊かれると「あの牛からこんなに美味しい肉が10キロも取れると聞いて驚きました」と平然と答えますから恐ろしくなります。
確かに我々の世代も子供たちは蛙や蛇、バッタやトンボを殺して遊びましたが、野僧が沖縄で会った子供たちは素手で鶏を絞めてその場で焼き鳥にして食べても無用な殺生はしなかったようです。大人たちも庭で山羊の頸動脈を切って殺して解体してもあくまでも食用でした。したがって今回の事案も本土からの観光客が砂浜に上がってきた海亀を見て何の考えもなく軽い遊び感覚で持っていた刃物を振り回したように思われます。仮に地元の人が殺すとすれば食用であって頭数は必要最低限に留め、解体後は剝製に加工するため目立つ位置に傷をつけるはずがありません。何よりも満潮時には水没する場所に放置すれば衰弱した海亀が波で浚われる可能性が高く地元の人の食用目的ではないことは明らかです。
沖縄では地元マスコミがアメリカ兵の犯罪や法令違反ばかりを発信するため本土では比較的大人しくしている在日アメリカ軍もかつての支配者として我が物顔で振る舞っていると誤解されていますが、実際はアメリカ兵よりも本土からの観光客が起こす犯罪の方がはるかに多発していて悪質なのです。特に本土では沖縄=琉球を南洋系の異民族国家のように紹介することが多く、パスポート不要の海外旅行のような感覚で訪れる者も少なくありません。そんな連中が早朝に海岸に上がってくる海亀を見て残忍な衝動が沸き起こり、次々に急所を傷つけていったとすれば精神が病んでいます。やはり1995年に「まんが日本昔ばなし」が終了して「浦島太郎」を知らない世代が増えたことが原因でしょう。
尤も海亀は動物保護団体や研究者からも虐待されていて、行動範囲を調査するために電波発信機や最近はGPSによる位置記録装置を甲羅に装着して放流されますが、それはかなり大型で流線型にはほど遠い角張った形状なので、海亀が遠距離を泳ぐには負担が大きく過労で寿命を縮めそうです。

海亀虐待
- 2022/07/24(日) 16:01:24|
- 常々臭ッ(つねづねくさッ)
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「これは新兵器の開発とは言わないよな」「何と言えば良いんですかね」アメリカ軍が現地入りしたCBIRFからの提案を受けて放射能を流出し続けている破壊された原子炉を封印する特殊用具の開発に着手しているのは本当だった。CBIRFはこれ以上の放射能汚染の拡大を早急に阻止することを最優先して現有の兵器の改造で対処することを提案してきた。
「それにしても炸薬(爆発する火薬)に替えて鉛入りの錬りコンクリートを詰め込んだ爆弾って言うのは重量のバランスが難しいよな」「しかもレーザー誘導で原子炉に命中させるんですからなるべく通常の爆弾に近づけないと拙いでしょう」どうやらマックハウアー中佐が率いるCBIRFはソ連がチェルノブイリ原子力発電所の原子炉爆発事故で実施した鉛入りコンクリートによる密封を応用するつもりらしい。そのためレーザー精密誘導の爆弾の炸薬に替えて同量の鉛入り錬りコンクリートを詰めた投下弾の開発が始まったが技術的には意外に暗中模索になっている。レーザー誘導の爆弾そのものは実用化されて久しく何度も実戦で使用されているが、水で練った鉛を混ぜた速乾性のコンクリートを投下弾に詰めた場合の容量が炸薬に比べてどうなるのか。現時点では現用のレーザー誘導式爆弾を容器として転用する予定だが工場に設計図を渡すまで不眠不休になるのは間違いない。
「容器を強化プラスチック製にした方が着弾後の注入がスムーズになるように思いますが」「高々度から投下した後の外気圧の変化で容器が膨張と収縮を繰り返して破損しないか。むしろ中心部に少量の炸薬を装填して着弾直後に爆発、飛散させた方が良いと思う」「その爆発で炉心の破損が進めば逆効果です」CBIRFの提案は現用の爆弾の改造使用の可能性の模索に過ぎず、技術者たちも必要な基礎データーを持たずに検討に当たった経験がないので大学時代よりも中学高校で同級生たちと玩具に近い機材を設計しながら実際に使用できるかを話し合っていた時のような気分になっていた。あの頃も使用する部品の選択や構造などを好き勝手に提案し合って議論百出、延々と時間を使って設計図が完成して部品を買いに走るまでに創作意欲の半分は消耗していた。それでも時間の浪費とは思っていなかった。
「投下するのはBー2、若しくはBー52、三沢のFー16・・・」「ウチのFー2でやらせてくれ」コンクリート投下弾の設計図も完成していない頃から横田基地の在日アメリカ軍司令部では同居する航空総隊司令部と実行に向けた検討が始まっていた。レーザー誘導爆弾は投下前に航空機からレーザー・ビームを目標に照射・固定して投下した爆弾はそのレーザーを追尾しながら本体尾部の翼で方向を変えて目標に命中する。そのような機能を持つのは対地・対艦用の攻撃機や爆撃機が主だが、この選択肢にはそれぞれの思惑があった。
「ボンバー(爆撃機)なら大量に投下できるから効果は絶大だ。逆にFー16なら小松か浜松から発進して反復攻撃できる」「アメリカ軍のパイロットに放射能被曝させるくらいなら我が航空自衛隊が実施します」建前は別にしてアメリカ軍の本音は戦略爆撃機は現在、全機がアメリカ本土の基地に配備されていてグアム島のアンダーセン基地やインド洋のディエゴガルシア基地への訓練以外に長距離を飛行する機会がない。そのため今回の事実上の核攻撃でアメリカ政府が北朝鮮への懲罰を決定した時の予行演習として利用したいと言う現実的なものだ。それは三沢のFー16も同様でクリントン政権当時、北朝鮮の核開発を阻止するために第7艦隊に日本海で大規模な演習を実施させて注意を引きつけ、三沢のFー16が核施設を空襲・破壊する作戦計画が実行寸前だった。一方、航空自衛隊はマスコミが福井県、京都府、滋賀県の各知事からの災害派遣要請を受けて出動した中部方面隊が現地に立ち入ることもできず住民の救出どころか状況確認すらできないことを非難し、国会でも「福島第1原子力発電所の事故で民政党政権は最善を尽くしていた」と開き直った立権民衆党がフクシマ・フィフティーを引き合いに出して自衛隊の消極的姿勢を批判しているため、ここは華々しい活躍を演じたいのだ。
「確かにBー2やBー52であれば1度で3基の原子炉を埋設するほどのコンクリート弾を投下できるでしょう。しかし、Fー16だとウチのFー2と変わりません。ならば協同作戦と言うことで3基を分担して実施してはどうでしょう」航空自衛隊の出席者は市ヶ谷からの指示を受けているだけに簡単には引き下がれない。するとアメリカ空軍の出席者がボンバーの使用を持ち出した時点で航空自衛隊も秘かに想定していた妥協案を提示した。
「仮に大統領が今回のトモダチ作戦のついでに原因を作った張本人への懲罰作戦にサインすればグアムで荷物を積み替えて日本海を突っ切ることになる。JASDF(航空自衛隊)には護衛を依頼したい。Fー16・Fー2ブラザーズ(兄弟)の協同作戦はその後だ」グアム島のアンダーセン基地に核爆弾用の弾薬庫が存在することは周知の事実だ。国際法では違法行為に対する同程度の違法行為での復仇を認めているが今回はどうであろう。
- 2022/07/24(日) 15:56:58|
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2003年の明日7月24日は共産党から出馬・当選して2期を務めた=3期目は落選した黒田了一大阪府知事の命日です。92歳でした。
黒田知事は明治44(1911)年に大阪府北区大淀町で生まれました。実は明治以降の官選、敗戦後の民選を通じて初の大阪府出身の知事でした。
旧制・北野中学校、旧制・第3高等学校を卒業して東北帝国大学法学部に進学し、卒業後は母校の助手を経て満州国高等鉄路警護学校の教官として勤務している時に敗戦を迎え、5年間のシベリア抑留を経験しました。昭和25(1950)年に帰国すると大阪市立大学法学部の憲法学担当の助教授になり、昭和31(1956)年には教授に昇任して以降は大学内の学生部長、法学部長や日本学術会議「学問・思想の自由」委員会委員長、大阪護憲連合代表委員などを務めて革新勢力内で存在感を増していきました。
昭和46(1971)年の大阪府知事選挙では前年の万国博覧会の成功で圧倒的に有利と見られていた自民党の現職に挑戦する形になったため社会党と共産党の革新共闘が出馬を要請した人物が相次いで断り、革新共闘が崩壊の危機に陥ったところで「最後の切り札」として擁立されたのが黒田候補でした。このため黒田候補は告示の11日前になって社会党と共産党の大阪委員長と3人で記者会見を開き、「このまま出馬を拒むなら革新諸勢力の統一の機運は一気に崩れ、大坂の公害は深刻化し、世界の諸都市に先駆け大阪がゴーストタウンになる」と出馬に当たっての決意を表明すると「大阪に綺麗な空を取り戻そう」と公害対策だけに特化した選挙戦を展開して予想外の逆転勝利を収めたのです。
就任後は公約通りに先ず「ビッグプラン」と名づけた公害対策に乗り出し、地域の大気汚染と企業ごとの排出ガスの詳細な実態調査を実施することで地域の汚染原因になっている企業を特定して光化学スモッグが発生すれば該当する工場の稼働の削減を勧告しました。これによって黒田府政は大気汚染の低下を実感した府民からの絶大な支持を獲得しましたが光化学スモッグは工場よりも自動車の排気ガスの方が原因として大きく、不満を募らせた企業は郊外の他県に工場を移転するようになりました。
さらに黒田府政は「郵便ポストの数ほど保育所を」「15の春は泣かせない」をキャッチ・フレースにして保育待機幼児と受験戦争の解消を打ち出し、常軌を逸した数の保育所と府立高校を増設しただけでなく(府立高校は1973年度だけでも13校)、東京都の美濃部亮吉革新都政に倣って老人と身体障害者の医療費の無料化を実行しています。
しかし、1期目の後半になると同和問題への対応を巡って革新共闘は崩壊して昭和50(1975)年の選挙では社会党が対立候補を擁立して自民党との3つ巴の選挙戦になりましたが、環境対策の実績で共産党単独支持でも圧勝したものの議会運営では完全に行き詰まり、昭和54(1979)年の3期目は「公害対策は企業の生産性を圧迫する。メダカや蛍が府税を負担してくれる訳ではない」と公言していた自民党の候補に敗れました。
最後に如何にも大阪的な黒田知事の名言を1つ。「私のことを赤(=共産主義者)だ、赤だと言う人がおりますが、私はまっこと黒だ(黒田)です」
- 2022/07/23(土) 15:05:12|
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「本当に沖縄は大丈夫なのかしら」「うん・・・」最近、梢は寝る前に酒を飲んでいるとオランダのテレビ局も取り上げるようになった日本の若狭湾の原子炉の破壊と放射能漏れのニュースと解説を見ながら不安そうな顔で訊くようになった。言葉だけでの会話では原子力発電所がない沖縄を心配する意味が理解できないが、私と梢は赤く太いケーブルで精神が結ばれているので即答するのをためらうほど深刻に受け止めた。
「昔、貴方が教えてくれたとおり、在日アメリカ軍に手を出せばアメリカとの戦争になるから中国も迂闊に手を出せない。だから沖縄が日本で一番安全だって言うのは納得できるの。それから在沖縄アメリカ軍は日本じゃなくて台湾を防衛するために存在する。だから空軍と海兵隊が主力なんだって言うのも理解できるわ」「沖縄では絶対に口にできない理論だろうけどな」この安全保障理論は私が高校時代に地政学の入門書「悪の論理」「新・悪の論理」を読んで戦略と言う視点で世界情勢を見るようになり、大学時代に学生運動の活動家の友人に読まさせられた機関紙でソ連と中国の世界共産化戦略を学んだ中で導き出したものだ。私としては一般空曹候補学生に入隊すればプロにこの理論の正否を確認できると期待していたのだが、空曹には不必要な思索だったようで区隊長たちも明確に回答しなかった。それどころか自衛隊では戦略を考えるのは将官の仕事と役割分担しているらしく幹部候補生学校、富士学校でも披瀝する機会はなく、パジャマ・ミーテイングで私との戦略談義に励んでいた佳織は将軍閣下になった。一方、梢は私とつき合っていて沖縄のマスコミの反アメリカ報道を見ながら解説を受けたのだが、それを自分なりに熟成させてきたらしい。
「今回の北朝鮮の弾道ミサイルの発射が中国の指示によるものだとするとかなり焦っているのは間違いないわ。中国共産党指導部は異例の3期目の実績を挙げなければならないから日本が駄目ならやっぱり台湾、そうなるとアメリカ軍が駐留している本島には手を出さなくても八重山や宮古島を占領してから台湾に侵攻しないかしら」「鋭い」梢の素人としては高度な見解に私はモリヤ佳織将補閣下と比較して感嘆の賛辞を贈ってしまった。
「中国の狙いは一貫して台湾で、3期目の実績作りに何としても占領・併合しなければならなかったんだ。ところが民主党のバイデン政権がロシアのウクライナ侵攻を切っ掛けに台湾の防衛責任を明言するようになったから日本の部分占領に戦略転換したんだな。中国とすれば宣伝媒体に過ぎないマスコミを使った世論操作で簡単に民政党に政権交代させた日本人なら軍事占領しても宿敵のアメリカに占領されると飼い犬になって尻尾を振ったように手懐けられると見ていたんだろう」「おまけに数少ない強敵だった加倍首相が元自衛官に暗殺されたから日本は崩壊寸前と見切ったんだね」梢が補足した危ない意見は、私が出勤している間にインターネットで閲覧している世界各国の報道サイトで読んだ極論だ。そのサイトでは以前、天皇の姪の皇女が駆け落ち同然にニューヨークに逃避行したことも「日本の崩壊の予兆」と書いてあったそうなのでかなり悪意を持った組織が運営しているようだ。
「ワシとしては宮古島や八重山でも日本の領土が侵略されれば日米安全保障条約の発動要件になるから可能性は低いと見ているよ。ましてや在沖縄アメリカ軍の台湾派遣の妨害が目的なら断固阻止するはずだ。むしろ本土で失敗した武器の持ち込みによる内乱の方が危険性は高いぞ。今の沖縄には本土で定年退職した日教組や自治労の活動家どもが退職金で家を買って移住しているから在日中国人じゃあなくても武器を渡せば自発的に反乱を起こすはずだ。ワシたち世代以下の沖縄本島の人間は小中学高校で反米反日親中の洗脳教育を受けている上、マスコミも真っ赤で洗脳の濃度は濃くなる一方だから強力な支援者になる。おまけに県知事以下が自衛隊の治安出動に反対とくれば鎮圧は不可能。アメリカ軍基地を攻撃しないで街中のアメリカ兵を射殺すれば私的な刑法犯罪の被害者扱いで国際問題にはならない。これがワシが考えている最悪な事態だ」前回の訪日で私は若い頃に抱いていた沖縄県警に対する不信感は払拭できたが、同時に治安維持に関わる問題点も数多く見聞してきた。特に梢と名城慶文元警視の3人で飲んだ時、「中国は沖縄の本土復帰の時点から配下の労働組合を使って工作員を送り込み、反米反日親中の社会制度を構築してきた」と断定したのを聞いて納得する一方で中国の恐ろしさに背筋が冷たくなった。中国共産党は日本が敗戦すると上海に開設された日本人居留者の収容施設に党員を送り込み、毛沢東主義を教育した。そのため戦前に大アジア主義者として渡中した知識階層が帰国後は共産革命を主導するようになり、大学で洗脳教育を施したエリートたちが大手企業や教職員、官公庁と地方自治体の労働組合を革命軍化した。沖縄の本土復帰では現場の管理職が持て余していた労働組合員だけが赴任を熱望したため本土式業務の指導者が毛沢東主義を伝授し、沖縄を紅一色に染め上げていったのだ。
- 2022/07/23(土) 15:03:46|
- 夜の連続小説9
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今年の夏は6月中旬に気象台が「梅雨が明けたと思われる」と宣言して以来、夏本番を思わせる猛暑が続き、冬の大寒波・豪雪に対して天候気象が極端に振れています。
しかし、当地では安倍晋三元首相が暗殺された夜から降り始めた「涙雨」が上がらず、異常に早い梅雨明けで干上がっていた水田を潤していますが、高齢化が進んでいるだけに「気象庁=天気予報が梅雨明け宣言したからもう雨は降らないのだろう」と田植えを諦めた農家が多く、「あれが空梅雨の予報なら例年の梅雨明けまで待ったのに」と天を睨む=天気予報を恨む「悔し涙雨」になっています。
それにしても昨年の夏までは野僧世代が子供の頃には経験しなかった体温を超える気温になると気象予報士たちは「地球温暖化の影響が表れている」と断言して「温室効果ガスの排出抑制のために節電に努力しましょう」とシタリ顔で指導していましたが、今年の冬の大寒波は地球温暖化に反する現象であり、説明がつかなくなったのか今年の夏は6月中に40度を超える酷暑を記録しても「地球温暖化」を口にせず、逆に「熱中対策として冷房を積極的に使いましょう」と変節しています。
野僧はヨーロッパの環境団体が「地球温暖化」で騒ぎ始め、それを日本に持ち込もうとする連中をマスコミが取り上げ出した頃から「古代の日本は平均気温が高かった。だから熱帯の稲作を持ち込むことができた」「平安時代の寝殿造りなどの日本建築は密閉性が極端に低く、衣類の保温力も弱いので温暖な気候でなければ生活できなかった」「平安時代末期の平清盛、室町時代初期の一休宗純禅師、江戸時代初期の徳川家光公など温暖化によって日本にも伝染すると恐れられているマラリアに罹って死ぬか、死にそうになった歴史上の人物は数多い」したがって「温暖化は何度も繰り返されている気象現象である」と反論してきました。
その後のスウェーデンの発達障害=異常性格のグレタ娘を宣伝に使った環境団体の政治的立ち回りを見ていると温暖化の原因を経済活動で排出する温室効果ガスと断定する主張の背景には反自由主義経済=マルクス主義の影が見え隠れしていて、「地球温暖化」はかつての共産革命が資本家による労働者の搾取の打破を大義名分にしていたのに代わる新たな
表看板に過ぎないと確信するようになりました(最近は共産党中国の企業が電気自動車などの環境問題を利用した商品の販売に力を入れている)。
しかし、温室効果ガスが原因とは全く思わないものの天候気象が極端に振れているのは間違いなく、本来は気象学界は政治的に思想統一されることなく色々な視点から原因を究明して、気象学者が提出する学説を検討した上で社会に発表することで必要な対策を講じることがあるべき態度です。その気象学界が機能不全に陥っている以上、テレビで業界団体の御託宣を強弁してきた気象予報士たちが専門知識を持つ小市民として過去の「地球温暖化」や「温室効果ガス」の提言に執着することなく極端な気象現象の原因を探求し、マスコミでは無理ならば個人資格でインターネットなどに成果を発表し、原因が解消できなくても予報・警告を発信するべきでしょう。
- 2022/07/22(金) 15:22:50|
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「ボンズ(坊さん)、日本人は放射能を恐れていないようですが何か特別な防護方法があるんですか」若狭湾の原子力発電所3基が北朝鮮の弾道ミサイルによって破壊されたニュースはヨーロッパでも大きく取り上げられている。梢と夜の散歩に出ると立ち話になる巡回の警察官たちもテレビのニュースや新聞の記事の内容を確認してくる。ただし、沖縄には原子力発電所がないので梢はこの話題に参加できない。
「そんなことはないよ。福島の時も放射線が及ぶ範囲は自治体単位で移住したぞ」「それでも政府の指示が出るまで住民は黙って待っていたはずです。チェルノブイリの原発事故の時にはウクライナからの距離も考えずに放射能が風に乗って飛散してくる。放射能を浴びれば異常な遺伝子になる。白血病になって死ぬと大騒ぎしてドイツからフランス、フランスからスペインへ避難する人間が続出したんです。その点、日本人は常に冷静です」確かに福島県内の住民たちは無能極まりない民政党政権の場当たり的な対応を黙って待っていた。首都圏でもマスコミの扇動に乗った一部の市民団体を除けば不安そうな顔で話のネタにしていてもやはり他人事のように過ごしていた。あの時もアメリカを含む海外の政府は在日の自国民に放射線沃素剤の服用と行動制限、早めの国外退避を勧告していたが、ウクライナのチェルノブイリと比較すれば福島第1原子力発電所は至近距離になるのでそれも常識的な対応だったようだ。
「今回も政府が避難者の受け入れ先を決めるまで一時避難所で待っている。福井って言う場所は福島から近いのですか」「位置は全く違うな。福島は東京の北の太平洋側、福井は京都の北の日本海側だ」ヨーロッパ人に日本の場所を説明するには知名度が高い東京か京都を基点にしなければならない。今は旅行研究家の梢によれば最近は大阪も知名度が上がってきているらしいが、位置関係を理解するレベルではないようだ。考えてみれば私は沖縄に赴任した時、出身地を訊かれて「愛知県」と答えても誰も判らず、地図を書くと「名古屋に近い所だね」と納得された。それからはアメリカ兵相手に日本の地名の知名度を研究するようになったが、空軍なら三沢や横田、海兵航空隊なら岩国や厚木、地上部隊でもキャンプ富士などの本土の部隊を経験していると非常に詳しくなっていて在日アメリカ軍基地が所在する自治体は将兵や家族との友好関係を促進することが国際的知名度の向上に極めて有益であること実感した。それと真逆なのは山口県の防府市で最盛期には年間1000人を超える隊員を集めて3ヶ月程度の教育課程を実施していたが大半の隊員は教育隊だけでなく防府市に対しても嫌悪感を超える敵意を抱いて修了していた。その原因は山口県が誇示する「明治維新」が勝者の薩長土肥以外の土地の人間には郷土史上の凶事であって見る物聞く物全てでこの4文字を押しつけられれば「許せん」と憤懣を腹に溜め込むのは至極当然なのだ。
「福井県民は北陸人と言って気質が福島県民の東北人に近いところがあるから忍耐力が強いんだよ」「もう一度、言って下さい。両者の違いが判りません」私の英語の説明にベテランの警察官は困惑した顔で訊いてきた。私はオランダ人に理解できるように「ホクリク」「トーホク」と日本語ではなく「ノーザン・ピープル(北方の人)」「ウェスト・ノース・エリア・ピーピル(東北地域の人)」と意訳したのだが地図が頭に入っていない外国人は混乱しただけだった。それにしても日本の地名の多くは奈良・京都に権力が集中していた時代に成立したため琵琶湖がある滋賀県は近江、浜名湖の静岡県は遠江になり、琵琶湖から先は北陸、律令国名も近い方から越前(福井県)、越中(富山県)、越後(新潟県)で、越後の中では手前の方が上越だ。西日本でも九州が西国なのでその手前の山陰山陽地方は中国になった。したがって外国人相手の説明では意訳するよりは手書きでも地図を使った方が早くて確実だ。
「日本はウラニウム爆弾にプルトニウム爆弾が市街地で爆発した究極の核被害を2回も経験しているから放射能漏れくらい大丈夫と高を括っているのかも知れないな。ヨーロッパでは白と黒の両極端でしか判断しないから核爆発が起きれば全員が被曝者、放射線障害で健康を失って白血病になると極めつけている。同じ被爆者でも即死した人から今も普通の生活を送っている高齢者まで千差万別なことを理解できないんだ」「環境問題と一緒ね。ヨーロッパの人たちは現実を見極める前に評価を下して、その評価を証明するための証拠を集めるだけ。事実は何も分かっていない」ここで梢が厳しい顔で話に加わってきた。今回の訪日では私が首都圏と九州で調査していた1週間余り、梢は単独で沖縄に帰っていたが高齢化が進んだ両親とあかりといりえの4世代の家族で過ごして私の退官後に沖縄へ帰る決意を固めたようだ。
「核爆発と放射能についてはヨーロッパの反核市民運動が喧伝していることを鵜呑みにしないで客観的な研究資料を勉強することだね」「はい、ボンズの話を聞いて考えさせられました。警察官として勉強します」今夜はここまでにして敬礼と合掌を交わして別れた。
- 2022/07/22(金) 15:21:35|
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当地では安倍晋三元首相が亡くなって1週間が経過しても巨大な喪失感は晴れず、住民は降り続く雨を見上げながら「涙雨も尽きないな」と呟いています。
そんな安倍元首相の凶事を伝えるテレビのニュースでは志位和夫共産党委員長が街頭演説中に「安倍さんとは政治的立場は違っても同じ年齢、当選も同期なのでとても寂しい」と追悼の辞を述べた場面が紹介され、国際テロリスト・日本赤軍の重信房子最高幹部が主導した海外での凶悪テロを検察が証拠を入手できないことを利用して不当に軽い量刑を奪い取った顧問弁護士の福島瑞穂社民党党首がテロだけを批判したのとは対象的で野僧も感銘を受けました。そこで友人の共産党の市会議員に「投票結果は敗北でもインタービューで安倍さんへの追悼の辞を述べれば下関市民の見方が変わるはずだ」と助言すると「志位委員長は党中央で安倍を肯定する発言をしたと批判を受けている」と回答しました。実際、翌日のニュースからは志位委員長の発言の追悼的な部分は削除され、福島党首と同様にテロを批判する部分だけを流すようになりました。つまりテレビ各局は共産党から要望を受けて志位委員長の人間味を消すように印象操作したようです。その後も報道番組では多くの言論人が出演しながらも口にするのはテロに対する批判だけで、犯行動機が「元統一教会に対する怨み」と判明した時点で過去のカルト報道の焼き直しになりました。
新聞でも多くの言論人(大半は大学教授)が寄稿していましたが業績の評価と追悼的内容は極少数で、大半はテロへの批判と安倍首相の政治実績の功罪の客観的検証の提言でした。
それは岸田政権が国葬にすることを決定したことで更に強まり「国民に追悼することを強要する」と敗戦後の吉田茂首相(高知)を置き忘れて明治初期の元勲・伊藤博文首相(山口)、山県有朋首相(山口)、松方正義首相(鹿児島)の時のような認識を示して批判しています(大隈重信首相=佐賀と佐藤栄作首相=山口の2人は国民葬です)。
しかし、敗戦するために就任した鈴木貫太郎首相は就任直後に宿敵であるアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領が死亡すると短波ラジオで「今日、アメリカが優勢な戦いを展開しているのは亡き大統領の優れた指導があったからです。私は深い哀悼の意をアメリカ国民の悲しみに送るものであります。しかし、ルーズベルト氏の死によってアメリカの日本への戦争継続の努力が変るとは考えておりません。我々もまた貴方たちの覇権主義に対して今まで以上に強く戦います」と言う談話を発信し、多くのアメリカ人に感銘を与え、亡命していたユダヤ人作家・トーマス・マンは「ドイツ国民の皆さん、東洋の国・日本にはなお騎士道精神、人間の死に対する深い敬意と品位が確固として存する。鈴木首相の高らかな言葉の精神に比べて貴方たちドイツ人は恥しくないのですか」と大統領を口汚く罵ったヒトラーを批判しています。
鈴木首相は江戸時代生まれの最後の総理大臣であり、日清・日露戦争を経験した歴戦の勇士であり、2・26事件では反乱部隊に銃弾を浴びせられて死線を跨いだ人物だけに日本人としての古典的美意識を体得していたのでしょう。それ以上に平成の30年間で劣化・腐敗した大和民族の現状が如実に表れているようで情けない限りです。
- 2022/07/21(木) 15:13:10|
- 時事阿呆談
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「何か情報を掴んでいるのか」「どう考えても有り得ないだろう」「しかし、アメリカ国連大使の安全保障理事会での公的発言だぞ」安全保障理事会の議論がアメリカの大使の想定外の発言で空転を始めると記者席ではヨーロッパの記者たちが顔見知りのアメリカの記者を取り囲んで質問攻めにし始めた。ヨーロッパのマスコミも数日前に現地入りしたCBIRFが予測以上に高濃度な放射線で接近することができなかったことは把握している。そのような状況で放射能の流出を封印する特殊用具の開発に必要な情報を提供できるはずがない。
「アメリカ軍は冷戦時代から核爆発直後に被爆地で行動するための研究開発に取り組んできたんだぞ」「しかし、ソ連や共産党中国と違って人体実験ができないからな」アメリカの記者の説明に核保有国で常任理事国でもあるフランスの記者が皮肉を返した。アメリカでは第2次世界大戦中のマンハッタン計画のネバダ砂漠での核実験のカラー映像がニュース映画として公開されるとその神々しいような光景が「カミに代わってアメリカだけが手に入れた新たな太陽」として評判になり戦後も繰り返された核実験を見物するツアーが人気を呼び、多くの見学者が放射線を浴びて健康被害が社会問題化した。アメリカは終戦直後に広島と長崎で被爆者の身体を調査しただけでなく現地で活動した将兵にも放射線傷害が多発していて原子爆弾が絶大な威力だけでなく放射能汚染の危険も孕んでいることを認識していたが最高度の軍事秘密を保全するため国民の安全確保は放棄した。一方、ソ連や中国は放射能から人間を防護する装備や方法を実証試験するため核実験と並行して至近距離での陸軍の演習を繰り返したがやはり十分な効果はなく多くの将兵が死亡したらしい。それでも実態は完全に隠蔽している(実験直後に技術力の誇示として写真を公開したが結果は公表しなかった)。
「どちらかと言えば新用具の開発ではなく現有の装備品の転用の可能性の実験だな」「つまり放射能を無毒化する薬剤を開発したと言うことですか」「それに成功すれば開発した企業の株価が跳ね上がるから黙っているはずがない」ジュウゾーの推理は単に小休止の前にロシアの大使が口にした提案の流用だが松山1佐の認識はアメリカ社会の構造にまで及んでいた。この口ぶりでは松山1佐は独自の人脈からCBIRFが出発する前からアメリカ軍が開発に着手している特殊用具の情報を入手しているのではないか。
「結局、中国もロシアと同じ誤算を犯したんだ」安全保障理事会が閉会して職場に戻りながら松山1佐はジュウゾーに雑談的な教育を始めた。勿論、今日も在アメリカの中国系と半島系の移民が反日集会を開いている国際連合本部に近い公園を通り過ぎて周囲で憎々しげに眺めているヨーロッパ人の市民たちの様子を確認してきた。
「ロシアと同じって・・・ウクライナですか」「ロシアはクリミア戦争に侵攻したのに呼応して東部地区のロシア系住民が分離独立を要求してデモを起こしたのを見て国民の支持を失っていると確信したんだな。デモをウクライナ政府が武力鎮圧しようとすると住民はロシアが供与した武器で抵抗したからソ連時代のようにロシアへの併合を望んでいると判断したんだが、それはロシア系住民だけの民族意識で一般のウクライナ人はむしろソ連を憎悪していたから想像以上の激烈な抵抗を受けた。おまけにアフガニスタンとイラクから撤退したアメリカは他国の武力紛争に介入することを国民が許さないと踏んでいたんだが実際は逆になった。だから短期戦の準備しかしないで始めた侵攻が長期化して経済と政治で大打撃を受けた」ロシアのウクライナ侵攻はジュウゾーもアメリカで見ていたので松山1佐の認識は共有している。
「中国も加倍首相が元海上自衛官に暗殺されたのを見て自民党政権は支持を失っていると判断したようだ。在中国の日本のマスコミは『警察官も警護を放棄して暗殺に協力した』と言い触らしていたから共産党の指導者が耳にすれば『攻めるなら今』と思っても不思議はないな」ジュウゾーは中国国内の情報は聞いていない。最近は国務省のイラン担当者に接触する岡倉に同行して外出することが多いので事務所で日常的に行われている報告から始まる雑談的議論を聞き逃しているのかも知れない。
「それじゃあ中国は日本を簡単に占領できると思っていたんですかね」「少なくとも日米安保条約を封じれば自衛隊には単独で抵抗する能力や士気はないと考えていたんだろう。人数だけで比較すれば中国軍と自衛隊では単位が違うからな」確かに中国人民解放軍の140万人(公表していた2007年当時、現在は98万人としているが全部ではないことを認めている)に対して陸上自衛隊は15万人と10倍近い。戦闘機・攻撃機の機数も1800機以上(爆撃機も含む)に300機と比較にならない。何よりも日本のマスコミは蔑視する自衛隊を過小評価して国内外で広めているので軍事侵攻を企図している国家が赤子の手をひねるつもりになっても不思議はない。手を出してから痛い目に遭ったのも両国に共通している。
- 2022/07/21(木) 15:11:56|
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昭和47(1972)年の明日7月21日に犯行時18歳の少年が東京都渋谷区の銃砲店・ロイヤル鉄砲火薬店に立て篭もり、警官隊と銃撃戦を繰り広げた渋谷ライフル魔事件の犯人・片桐操死刑囚の刑が宮城拘置所で執行されました。
片桐死刑囚は昭和22(1947)年に東京世田谷区で父親は戦時中に徴兵を受けて陸軍上等兵になり、戦後は事業を起こして成功していた裕福な家庭の4人兄姉弟の末っ子として生まれました。小学生の頃から銃器や兵器に強い関心を示して軍事雑誌「丸」を熱心に熟読していましたが、父親は軍歴を有することもあって反対はせず、むしろ体験談や銃器の知識を語って興味を煽っていたようです。そうして中学生になると当時4500円(現在の18000円に相当する)の玩具の銃を買い与えました。その銃を手にして大喜びしている片桐死刑囚に父親は「大人になれば10万円(現在の40万円程度に相当する)くらいの銃は何時でも買ってやるよ」と約束したそうです。その一方で父親は「間違っても銃で人を殺すな。そんなことになれば殺すよりも先ず自分が死ね」との教訓を与えていますから単なる馬鹿親ではなかったようです。
ところが7歳年上の姉は自衛隊生徒=少年工科学校を受験して失敗した失意の弟を励まそうと中学校の卒業祝いとして35000円(現在の16万円程度に相当する)の本物のライフル銃と4000円の照準眼鏡を自分名義で購入して与えたのです。姉心だとしてもかなり危険な贈り物でした。
卒業後は自動車の整備工見習いとして働き始めましたが長続きせず、見習いを転々としながら18歳になると、先ず40日間の休暇を取って姉からもらったライフル銃を自分名義に換え、渋谷区のロイヤル鉄砲火薬店に行って4万円の水平2連式散弾銃と2000円の銃ケースを購入しました。ところが念願の銃を手に入れると仕事を辞めてしまい、自室で銃の手入れをして時間を過ごすようになりました。
事件は昭和40(1965)年7月29日に現在の神奈川県座間市の山林で雀を散弾銃で射っているところを警察官に職務質問されて胸部に発砲、倒れたところを銃床で頭を連打して殺害し、応援に来た別の警察官にも発砲して重傷を負わせたことから始まりました。そして警察官の拳銃を奪うと通りがかった乗用車に乗り込んで逃走し、渋谷区のロイヤル鉄砲火薬店に向かったのです。こうして午後6時頃から従業員3人を人質にして店内に立て篭もると包囲した600人の警官隊と銃撃戦を開始し、約110発を発砲して警官隊や報道陣、3000人の野次馬を含む16人に負傷を負わせましたが、店内に催涙ガスを射ち込まれると午後7時20分に女性2人を抱えて出てきたところを逮捕されました。
裁判では1審の横浜地方裁判所が少年であることから無期懲役の判決を下すと「銃への関心は今なお尽きない。将来、社会に出て再びこのように多くの人々に迷惑をかけられないような刑、死刑にして欲しい」と嘆願したこともあり2審の東京高等裁判所では死刑判決になり、昭和44(1969)年10月2日の最高裁判決で死刑が確定しました。
「皆さん、ありがとうございました。お先に失礼します」が最期の言葉だったそうです。
- 2022/07/20(水) 15:03:30|
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「アメリカは腹をくくったな」「いよいよ日米安保条約を発動しますか」小休止に入った安全保障理事会の記者席で松山1佐は同行させている近藤ジュウゾーに小声の日本語で呟いた。ジュウゾーはアメリカの国連大使が日本の3基の原子炉の破壊を北朝鮮の弾道ミサイルによる間接的核攻撃と断定し、中国やロシアの関与を臭わせると周囲の記者たちが同調し始めたことに混乱していたが松山1佐の見解には冷静に反応した。
「いや、アメリカが日米安保条約を発動するには日本が防衛出動を発令していることが前提だ。問題は武器の持ち込みによる内乱が自衛隊の治安出動を招いて不法在留中国人の一斉摘発を受ける結果になったから次にどのような手を打ってくるかだな」「アメリカが敵に回るとなると在日アメリカ軍も狙われますかね」ジュウゾーが間宮リンゾーとアメリカに来たのは中国の細菌兵器=新型コロナ・ウィルス感染症が蔓延してからだったので、株式を買収した大手マスコミとインターネットを使った世論操作で充満させていた親中の空気が抜け始め、ウクライナ侵攻で公然とロシアを支持したことで破綻したのを目の当たりにしてきた。今回、中国はそれを踏まえて在アメリカの中国系と半島系の移民による数万人規模の反日デモを全米の大都市で発生させ、ホワイトハウスに「日米安全保障条約を発動すれば暴動に発展する」と脅しをかけきたが、最近はそれも行き詰まりを見せている。
「アメリカ国内では中国系と半島系の移民の反日デモで公園や公共広場が占拠され続けていることに対する不満は爆発寸前だ。そもそも日系を除くアジア系移民はアフリカ系よりも地位が低いんだ。だから今回はヨーロッパ系だけでなくアフリカ系まで本気で怒ってるんだ。ここで在日米軍に手を出せば暴動を起こすどころか銃撃されかねないぞ」「下手すれば全米のチャイナ・タウンとコリア・タウンは破壊されますね」「それはないな」ジュウゾーのアメリカ人による中国系と半島系移民の制圧を期待しているような意見に松山1佐は苦笑して首を振った。日本のマスコミはアメリカ国内で発生する銃撃事件や暴動を過大に報道して読者・視聴者に治安が悪いような印象を流布しているが、アメリカはあくまでも法治国家であり、強大な警察力で厳格に合法的な市民生活を守っている。アメリカの警察は規制による犯罪防止を重視する日本の警察とは違い市民の自由を尊重するため、犯罪の発生件数ははるかに多いが迅速に犯罪者を処断し、暴徒を制圧する対応能力については両者の比較は難しい。何よりもアメリカ国民(移民は除く)は護身と民兵になるための銃器を保有しているのだ。
「アメリカで市街地が破壊されるほどの事態に陥ったのは独立戦争と南北戦争くらいだろう。どちらも内戦だ」「日本のニュースではアフリカ系男性がヨーロッパ系の警察官に殺された時にも暴動が起きたって言ってましたが」「あれはデモを口実に集まった不心得者が商店に乱入して略奪を始めるだけで、日本的には暴動と呼ぶかも知れないが国際標準では集団窃盗に分類されるな」「それじゃあ抑止力にならないじゃあないですか」松山1佐の詳細な解説にジュウゾーは反日デモの制圧だけでなく在日アメリカ軍への攻撃に対する抑止も期待できないと感じて不満そうに答えた。ジュウゾーは一般(部外)課程出身の1尉なので思考はまだ青い。
「アメリカ人の正義感は恐ろしいんだぞ。不正義を目の当たりにして抑えないのは同罪、カミへの背信行為と考えるから銃を持ち出して射殺することも珍しくない。今、アメリカの国連大使が北朝鮮の核攻撃を明言しながら中国の関与の疑いも表明したからアメリカ人にとっては不正義を犯していることになる。そこに公園や公共広場を長期間にわたり占拠されている不満が重なればデモ隊に発砲する過激な人間がいても不思議はない。1人が殺ってヒーローになれば後に続くのはアメリカの国民性だな」「在日アメリカ軍に攻撃を加えれば完全に敵ですね」ジュウゾーの理解に松山1佐は安心したようにうなずいた。海外に駐留するアメリカ軍は「キリスト教の正義を全世界に実現する」と言うアメリカの国是を担い、自己犠牲を払って赴任している英雄的存在であり、国内で勤務する軍人よりも尊敬を集めている。そんな在日アメリカ軍の施設に攻撃を加え、軍人や家族に危害を与えれば多くのアメリカ人にとっては絶対に許すことができない不正義の大罪だ。カミの名に於いて処断することになる。
「ここで一件お知らせします、我が国は現地で対応に当たっているCBIRFの提案を受けて放射能を封印するための特殊器具の開発を始めています。数日中には実用試験を実施する予定です」「そんな馬鹿な、アメリカのCBR専門部隊が現地に入ったのは数日前じゃあないか」小休止を終えて議場の席に戻ったアメリカの大使はロシアと中国の大使が戻ったのを確認して唐突な案内をした。当然、2人の大使は反論の前に疑った。
「確かに急ごしらえの器具なのでどの程度の効果を上げるかは不明ですが、ロシアと中国、それに韓国の関与はお断ります」この案内は結論を言うためのハッタリかも知れない。
- 2022/07/20(水) 15:02:02|
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7月4日に「帰ってきたヨッパライ(ザ・フォーク・クルセーダーズ)」や「ケメ子の歌(ザ・ダーツとザ・ジャイアンツ)」と並ぶ昭和のコミック・ソングの代表曲「走れコウタロー」を昭和45(1970)年に大ヒットさせ、昭和49(1974)年には青春ソングの「岬めぐり(山本コウタローとウィークエンド)」もヒットさせた山本コウタローさんが脳内出血で亡くなったそうです。73歳でした。
新聞やテレビは山本さんの代表曲がコミック・ソングや青春ソングだったためアイドル的フォーク・シンガーの先駆けと紹介されていますが、やはり反戦歌から始まった日本式フォーク・ソングの歌手であり、学園紛争真っ只中の1970年前後に大学時代を過ごしているので死ぬまで反原爆闘争と環境保護活動に熱心だったようです。
山本さんは昭和23(1948)年に東京都千代田区で生まれ、日比谷高校では東京大学志望でも学園紛争で受験できず一浪して上智大学経済学部に進学しますが、やはり当初の志望を諦められず当時は東京大学の代用とされていた一橋大学社会学部に転学しました。すると日比谷高校からのフォーク・バンドのソルティー・シュガーとして発売した「走れコウタロー」が大ヒットして日本レコード大賞の新人賞を受賞しました。ちなみに「ソルティー・シュガー」と言うバンド名は高校時代のメンバーの佐藤敏夫(さとうとしお)くんが卒業時に脱退したため名前を残そうと「さとうとしお=砂糖と塩=ソルトとシュガー」の駄洒落にしたのです。また曲名と主人公の馬の名前「コウタロー」は山本さんの本名が山本厚太郎なので作詞したメンバーが借用したようです。
昭和46(1971)年にソルティー・シュガーは解散し、昭和47(1972)年に一橋大学を卒業しますが卒業論文は「誰も知らなかったよしだたくろう」でした。卒業後はソロ歌手として活動し(二浪してまで一橋大学に入学した意味が判りません)、昭和49(1974)年にフォーク・バンド・山本コウタローとウィークエンド(昭和51年以降はウィークエンドのみ)を結成するとデビュー曲の「岬めぐり」が今度は青春ソングとしてヒットしました。野僧は昭和52(1977)年に山奥の現世の三悪道から海辺の蒲郡高校に進学したため朝、列車の窓から岬が見えると無意識にこの歌を口ずさんでいましたがフォーク・バンドを結成している同級生たちからは「それは歌謡曲だ」と馬鹿にされました。実際、ラジオのDJやバラエティー番組の司会、俳優などの芸能人として活動していましたが、昭和61(1986)年に南高節(こうせつ)さんを誘って収益金を広島市に被爆者用の老人ホーム建設資金として寄付する「ヒロシマ・ピース・コンサート」を新型コロナ・ウィルス感染症で中止になった2019年まで開催してしました。
その後は環境問題にも関心を持ってイギリスに留学しましたが、ヨーロッパ式独善的環境保護運動の日本における広告塔になっただけのようです。
昭和62(1987)年からは32年間栃木県小山市にある白鷗大学の教壇に立ち、2019年には名誉教授になっています。高校時代の愛唱歌「岬めぐり」を聴きながら冥福は祈ります。
- 2022/07/19(火) 12:55:12|
- 追悼・告別・永訣文
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「北朝鮮は間接的核攻撃を実施した。これは国際社会の秩序を根底から破壊する暴挙であり、武力制裁の対象とするべきである」数日後の国安全保障理事会でアメリカの国際連合大使は北朝鮮への武力制裁に言及した。これまでアメリカはニューヨークの国際連合本部近傍の公園を含む全米各地で続けられている中国系と半島系移民による数万人規模の反日デモが暴動に発展することを恐れて正面から日韓、日中の武力抗争に関与してこなかった。しかし、今回の弾道ミサイルによる原子炉破壊は核兵器を保有しない国家やテロリストにも核攻撃が可能であることを実証した暴挙であり、決して容認できることではなかった。
「あれは宇宙ロケットが誘導に失敗して空中分解した部品が日本の原子力発電所に落下した事故であって責任の大部分は事前に通告を受けながら予防措置を取らなかった日本側にある」当然のように中国の国際連合大使は反論した。アジア圏内は言うまでもなくアメリカやヨーロッパでも中国資本が経営権を握っているマスコミが同様の論説を拡散しているが、最近は日韓、日中が公表している事件の証拠資料の検証を個人的に進めている各分野の専門家たちが日本側の説明の信憑性を評価するようになっている。さらに東アジアの移民が公園や公共広場を占拠し続けていることに苛立ちを積のらせてきたヨーロッパ系市民の方が危険度を増しているのでホワイトハウスとしても自縛を解くことを決断したようだ。特に大統領自身は今は亡き加倍首相が安全保障関連法によって日米相互防衛を実現した場面に副大統領として立ち合ったので内心には日米安保条約の発動には固い決意を抱いている。だから海軍にはアメリカのマスコミの目が届かない場所での戦闘を含む自衛隊との協同作戦を命じたのだ。
「我が国政府の専門部署の映像解析によれば破壊された3基の原子炉には数十センチ単位の精度で弾頭が命中していて周囲の施設には損害は及んでいない。また弾頭は原子炉の上にあった建物の屋根と階下の床を突き抜けて地下の原子炉に達しており、部品の落下による偶発的な事故とは絶対に考えられない」中国の反論に続き常任理事国と非常任理事国が丸い席の順番に意見を述べ終わるとアメリカの女性大使はスクリーンに画像を表示して説明を始めた。本来は先に動かぬ証拠を見せるべきなのだが、国際会議では腹の探り合いから始めるため最初に提起された問題に対する見解を披瀝させるのが一般的だ。
「さらに原子炉は内部での核反応に十分に耐え得る強度を持っているので爆発力を持たない部品の落下で破壊することは不可能であり、意図的に破壊したと考えるのが常識です」アメリカは日本政府から提供を受けた情報収集衛星の画像を使用したが「我が国政府の専門部署」と説明することで国家秘密の保全に配慮した。
「そこで1つ問題になるのは北朝鮮に弾道ミサイルを数十センチ単位の精度で着弾させる誘導技術があるのかと言うことです。これまで北朝鮮が当理事会の再三の中止勧告を無視して日本海や太平洋で繰り返してきた弾道ミサイルの発射実験では命中精度の飛躍的向上は確認できてもこのレベルにまでは至っていません。つまり高精度な弾道ミサイルを開発している第3国が技術を提供した可能性が極めて高いと言うことです」「その国も武力制裁の対象にするのか」アメリカの大使の見解にアフリカの非常任理国の大使が質問したが、議長の指名を受けていないので却下された。アフリカ諸国の多くは中国の武器供与と軍事指導によって民族紛争を繰り返した結果の勝者が政権を握っているので事実上の傀儡国家なのだ。
「我がロシア連邦はチェルノブイリ原子力発電所の事故で放射能の流出を抑える技術の開発に全力を挙げてきた。今回日本で発生した原子炉破壊の原因については議論と検証を継続するとしても放射能の抑制には全面的に技術提供する用意がある」アフリカの大使の質問が却下されたことで議論が中断した席で唐突にロシアの大使が提案した。ロシアは2022年2月24日のウクライナ侵攻以降、常任理事国の資格停止要求まで公然化するほど窮地に陥っていたのでここで疑いを招くことは何としても避けたいのだろう。
「それは放射能を中和するとか言う薬剤のことかな」「中和じゃあなくて無毒化だろう」「重水素だったかな」ロシアの大使の提案は常任理事国と非常任理事国よりも記者席が反応した。ヨーロッパではウクライナ侵攻でロシアの大統領が西側の経済制裁や軍事支援を牽制するため核兵器の使用をチラつかせたことで市民の間で核戦争への恐怖が流行していて、今回の原子炉破壊については福島第1原子力発電所の事故の時とは別次元の関心を呼んでいる。
「まさかロシア軍の核対処専門部隊を派遣すると言い出すんじゃあないだろうな」「狙いはウクライナでの中国への返礼のついでに日本を軍事占領することだ」ロシアを揶揄する会話には中国資本に買収されている新聞社の記者も加わっている。やはりアジア圏を席捲している毛沢東主義もヨーロッパやアメリカではジャーナリストまで洗脳できるほどの魔力はないようだ。
- 2022/07/19(火) 12:53:06|
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天久元(1204)年の7月18日に叔父・源範頼さまと同じ伊豆・修禅寺で2代将軍・源頼家くんが暗殺されました。満年齢で21歳でした。
頼家くんは坂東の武家の頭領としての地位を固めていた36歳の源頼朝公と正室(後の政子さん)の嫡男として寿永元(1182)年に鎌倉の乳母親の比企氏の舘で生まれました。そのまま幼少期を比企氏の舘で過ごしましたが後にこれが命取りになりました。
建久4(1193)年に富士山麓で行われた巻狩りに12歳で参加すると初めて鹿を射殺して御家人に後継者として認知され、建久6(1195)年には頼朝公が正室と姉の大姫を伴って上洛したのに同行して京都でも後継者として披露されたのです。その後は元服して(時期については吾妻鏡にも記述がなく欠落している建久7年から10年1月の間と推定されている)後継者としての教育を受けるようになり、建久9(1198)年には比企氏の娘に長男を産ませています。ところが建久10(1199)年1月18日に頼朝公が急逝したため17歳の若さで2代目の鎌倉殿(征夷大将軍を宣下されるのは3年後の建仁2=1202年)として坂東武者を統括することになりました。頼朝公は建久4年の巻狩りの最中に起こった曽我兄弟の仇討騒動を謀反と誤解した留守居役の範頼さまを謀反の疑いで殺しましたが、それで最高の中継ぎを失ったのでした。
頼家くんは比企氏でわがまま放題に育てられ、頼朝公も自らが味わってきた源氏の凋落と流人としての惨めな経験は語ることなく、権力者としての振る舞いだけを教えたため権力を行使することで御家人が受ける影響に対する認識に欠ける面があり、頼朝公を支えてきた古参の御家人13人が合議制を敷いても提言には耳を貸さず、当主にもなっていない同世代の武家の息子たちと遊び感覚のような政務を始めたため鎌倉は大混乱をきたし、そこに北条氏を追い落として実権を握ることを狙う比企氏が暗躍したため抗争が頻発して多くの尽忠の御家人が命を落としました。中でも清廉潔白な人間性と明晰で冷静沈着な判断力で頼朝公に重用されていた梶原景時さんは他の御家人たちの妬みを買って排斥され、京都へ赴く途中に現在の静岡市清水区で地元武士の襲撃を受けて殺されました。
この頃になると3男の実朝くんの乳母の政子さんの妹が頼家くんを廃して3代将軍に擁立しようと策謀するようになって頼家くんは建仁3(1203)年に首謀者として頼朝公の弟で叔父でもある政子さんの妹の夫を殺害しています。
そんな建仁3(1203)年の7月に頼家くんは病気に倒れ、8月には重篤に陥ったため祖父の北条時政さんは朝廷に将軍の交代を願い出る一方で比企氏を襲撃して一族郎党を皆殺しにしました(嫡男は母親が連れて逃げていましたが10月に殺されました)。
病気から恢復してこの事態を知った頼家くんは激怒して時政さんの追討を命じましたが従う者はなく、逆に9月7日に追放されて修禅寺に幽閉され、約1年後のこの日、入浴中に北条氏の襲撃を受けて殺害されました(絞殺らしい)。よく似た人間性(武勇に優れるが政治力はない。大の女好き)の祖父の源義朝さんも平治の乱に敗れて海路で坂東に逃亡する途中に現在の愛知県知多郡美浜町の長田忠致さんの舘で入浴中に殺されています。
- 2022/07/18(月) 14:45:03|
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「根拠のない不安の扇動とは具体的にどのような報道を指しておられるのですか」編集部からのメールが途絶えた日本人の記者たちが黙ってスマート・ホンを睨んでいる中、ヨーロッパ系の記者が質問した。福島第1原子力発電所の事故ではヨーロッパのマスコミが先に放射能汚染の健康被害を過剰に扇動し、市民団体の日本産の農水産物の不買運動を発生させた。実は韓国、、台湾、フィリピン、マレーシアなどアジア圏の不買運動はそれの請け売りだったのだ。
「逆にあの時は何を根拠に福島県、我が国で発生していた程度の放射線が人体に悪影響を及ぼすと報道したのか訊きたいものだ」マスコミでは記者会見での逆質問はタブー視されているのでヨーロッパ系の記者は呆気に取られて隣りの席に記者を顔を見合わせた。
「あの時は日本国内でもマスコミ報道に迎合した大手スーパーが福島県産の農水産物の不売を宣伝し始めたが国民の批判を浴びて中止した。最も身近で影響を受ける日本人が冷静に判断しているのに遠く離れた海外のマスコミが机上の論理で危険を喧伝したことを自民党政権なら容認しなかった。実際、加倍政権はヨーロッパで輸入制限を実施している各国政府に実際の放射能の影響を説明して解除を実現したが、君たちも健康被害の報告は受けていないだろう」この説明に編集部から反論のメールを受け取っていた日本人の記者たちは困ったような顔で再びスマート・ホンを睨み始めた。そこで別のヨーロッパ人の記者が手を上げた。
「それでは当時の民政党政権の放射能対策は無駄だったと言うんですか」「民政党政権が改定した生活放射線の安全基準は原子力発電所を遠隔地に建設して万が一の放射線漏れ事故が発生しても影響から隔離されている首都圏で観測される最大値を上回る学術的な数値を当用しただけだ。実際に民政党政権がその安全基準を守るためにやったのは全国の原子力発電所を停止しただけで必要な電力量を確保するために火力発電所をフル稼働させることになった。ところがヨーロッパで環境問題が提起されると今度は火力発電所まで停止しろと言い始めた。日本の火力発電所は燃焼効率が極めて高いから排気中の炭素含有量は微量なんだ。それなのにヨーロッパの環境団体は性能が悪い自分たちの火力発電所と同一視して批判を繰り返している。批判するなら世界最大の炭素性ガス排出国だろう。我が国も悪影響が及んでいるが」話題が環境問題に偏ってきたので記者たちは本題を再確認した。
「大韓日報の朴です。日本政府が韓国軍の災害派遣を拒否しているのは両国が敵対関係にあると認識しているからなんですね」石田首相はヨーロッパ系に代わるアジア人の容姿の記者が韓国の新聞社とは気づかず挑発的な質問に戸惑ってしまった。この沈黙をマスコミは動揺と受け取り、テレビは石田首相の顔を大映しにして眼鏡の奥の細い目の黒目の動きを放送した。
「韓国は前政権末期から現政権に移行してからも海上自衛隊の対潜哨戒機の撃墜、航空自衛隊の緊急発進した戦闘機の撃墜とパイロットの射殺、竹島守備隊の襲撃と殺害事案の捏造、対馬海栗島のレーダー・サイトへの地対地ミサイルによる攻撃と隊員の殺害、続く対馬の不法占領と事実上の武力攻撃と侵略行動を繰り返してきました。これは通常の国家間であれば戦争状態と言えるでしょう。しかし、私は加倍政権の外務大臣として対立の極地に至っていた朴槿恵政権との外交交渉を担当して日韓合意を締結した経験から外交交渉による平和的解決を願い、信じてきました。ところが・・・」ここで石田首相は口をつぐみ、唇を噛んだ。やはり北朝鮮が弄している核攻撃を宇宙ロケットの発射実験の失敗との弁明を韓国が追認したことは過去の一連の事件とは別格の重みを持って受け取っているようだ。
「韓国はこれまで表向きはアメリカに同調して北朝鮮の核実験や弾道ミサイルの発射実験を批判してきても国内では南北統一が実現すれば北朝鮮の核兵器を共有できると言うのが国民の声だと聞いていました。今回の対応でそれが単なる風説ではないことを実感せざるを得ません」これは攻勢に出た記者に押されながら落とすはたき込み的答弁だ。すると隣りの席のアジア人の記者が代わって質問した。こちらも韓国系らしい。
「半島タイムスの白です。北朝鮮の宇宙ロケット発射の事前通告を受けていながら日本海側の原子力発電所を停止しなかった日本政府、石田政権の責任はどう考えますか」」「今回は事故に備えての弾道ミサイル破壊措置命令を発令していませんよね」白の質問に大韓日報の朴も勝手に補足した。この様子では韓国系新聞の記者は韓国政府が公式発表した「空中分解した宇宙ロケットの部品がしたことによる偶発的事故」と言う見解をあくまでも覆す気はないようだ。
「稼働中の原子力発電所の停止には段階を踏んでの長い時間を必要とします。緊急停止は原子炉の破損などの危険性があり最終手段です。今回、北朝鮮が宇宙ロケットの発射実験を通告してきたのは3日前なので到底間に合いませんでした」実は加倍政権でも今回の事態を危惧して原子力発電所の事前停止を検討したことがあったが結論は同じだった。
- 2022/07/18(月) 14:43:50|
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昭和38(1963)年の7月17日に神戸洋服商夫婦殺人事件の犯人で巧妙で執拗な法廷戦術で翻弄して法務当局を苦悩させた孫斗八死刑囚の吊るし首刑が執行されました。
孫死刑囚は大正15(1925)年=昭和元年になる4日前に日本の統治下だった朝鮮半島慶尚南道で生まれました。幼い頃に両親と一緒に日本本土に移住して貧困と差別の中で成長しますが(裁判での情状を求める証言)、学校の成績が良かったため昭和19(1944)年には広島工業専門学校=現在の広島大学工学部に進学することができました。
ところが日本が敗戦すると在日半島人たちは「敗戦したのは日本人で俺たちは違う」「俺たちは日本に植民地支配された被害者だ」と「三国人」を自称するようになり、占領軍も朝鮮半島南部の分離・独立と傀儡政権の樹立のために黙認したので日本の国内法を無視して警察に暴力を以って公然と反抗するようになったのです。そんな流れの中、孫死刑囚は占領軍キャンプに盗みに入って(三国人は盗難品をアメリカ製として闇市で売っていた)逮捕され、重労働6カ月の判決を受けたことで工業専門学校を中退して、折角乗った上昇気流を失って人生のどん底に転落することになりました。
事件は昭和26(1951)年1月17日の寒い夜に兵庫県神戸市生田区の洋服店に孫死刑囚がオーバー・コートを買いに現れたことから始まりました。孫死刑囚は以前この店で8000円のオーバーを買ったことがあり、店主はドンゴロス(麻袋を作る厚手の布)の上衣に労務者用のナッパズボンを穿き、裸足に女性用の下駄を履いているのを見て同情し、温かいゼンザイを振る舞い、近くの飲み屋で酒をおごり、身の上話を聞いたのです。そして「脱線せんと真っ直ぐ帰りなはれや」と言って別れましたが1時間後に孫死刑囚が再び店に現れ、応対した妻に「店主と話したい」と言ったので「もう眠っている」と断ると、勝手に部屋に上がり込んで店主を起こしましたが、熟睡していたため諦めたところで置いてあった鉄鎚が目に入って殺意が湧き、妻と店主を撲殺したと言うものです。
孫死刑囚は10日後に逮捕され、まだ永山基準がなかった時代なので「恩人2名を衝動的に殺害した」罪で死刑を求刑されました。そして昭和26(1951)年12月19日に神戸地方裁判所で死刑、昭和30(1955)年2月19日に大阪高等裁判所で控訴棄却、同年12月16日に最高裁判所の上告棄却で死刑が確定しましたが、ここから法学史に残る10数件の法廷闘争が始まります。先ず拘置所内の郵便通信に対する制限や検閲に関する刑事と行政の訴訟を起こして勝訴したのを皮切りにして、死刑についても「残虐な絞首刑は憲法違反だ」「現在の執行方法は縊首刑(いしゅけい=吊るし首刑)であって刑法が定める絞首刑ではない」と異論を唱えて後に自分が吊るし首刑になる刑場で模擬の執行を見学しました。これらの裁判が詭弁・屁理屈に近い判決で敗訴に終わると間もなく法務大臣が死刑の執行命令に署名・捺印してこの日の朝に執行されたのです。
執行の宣告を受けた孫死刑囚は「貴様ら騙し討ちにするのか、卑怯だぞ」と暴れたそうですが、実際に司法解剖された遺骸には通常の死刑囚にある眼隠しや手錠の跡はなく、腕を強く掴んだ指の痣や引きずった擦過傷、舌を噛み切ろうとした傷が残っていたそうです。
- 2022/07/17(日) 14:16:55|
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「北朝鮮は事実上の核攻撃を行った」中部方面隊の化学防護派遣隊とアメリカ海兵隊のCBIRFの調査報告を受けて石田首相は在東京の外国人記者を含むマスコミを招集して緊急記者会見を行った。イージス護衛艦・こんとうと経ヶ岬のガメラ・レーダー、車力のアメリカ軍のXバンド・レーダーが捕捉・追尾していた北朝鮮が発射した宇宙ロケット=弾道ミサイルの航跡と日本の情報収集衛星=偵察衛星の破壊された原子力発電所の画像の解析が完了し、空中分解した宇宙ロケットの部品の落下による偶発的な事故ではなく誘導された弾頭が命中し、強力な炸薬の破裂によって極めて堅牢な原子炉が破壊されたと判断したのだ。
「しかも韓国は北朝鮮の発表を肯定しただけでなく、それを利用して我が国に軍を派遣しようとした。共謀の疑いを抱かざるを得ない」石田首相は就任後に韓国で政権交代が行われ、マスコミが保守派と報じている新大統領との対話による関係修復に意欲を見せていたが、加倍元首相から新大統領が関係修復の条件としている「歴史認識の共有」が何を意味するのかを説明され、安全保障上の協力再開に留めている。今も表面上は冷静を演じていても最も恐れていた核攻撃が自分の政権下で発生したことに内心では鎮めようがない怒りを抱いているようだ。
「したがって我が国としては韓国軍が領土は言うまでもなく領空、領海に立ち入ることには断固たる排除を行うことを通告する」日頃の石田首相からは考えられない厳しい発言に記者席に困惑の囁きが広がった。特に韓国人の記者たちは怒りの表情を作ることも忘れていた。
「これらのことをご理解いただいた上で日本国民の皆さまに申し上げます」ここで石田首相は演台に置いた台本を1枚めくり、軽く天井を仰ぐと深く息を吸ってから口を開いた。日本人の記者たちは手に掲げているスマート・ホンを更に突き出した。
「政府は民政党政権、野畑政権下で改定された生活放射線数値の安全基準をそれ以前の国際標準の100ミリ・シーべルトに引き上げることを決定しました」この発言に外国人記者は特に反応しなかったが日本人の記者たちのスマート・ホンは一斉に着信のライトが点滅し始めた。編集部はこれが日本人にとって最大の関心事であり、追及すれば批判的世論を生起させられる急所と判断したようだ。ただし、福島第1原子力発電所の事故の時は日本のマスコミが全力で支えていた民政党政権だったので単純に国民の関心に応える目的だったが今回は攻撃材料だ。
「この新たな安全基準に基づく避難対象地域はこの一覧表の通りです。福井県南部と京都府北部の若狭湾沿岸、山を隔てて接する滋賀県北部になります。なお、一般市民が個人的に保有するガイガー・カウンターで測定した数値と異なっている場合があるかも知れませんが、政府としては3府県知事からの災害派遣要請で出動した陸上自衛隊化学防護隊が現地で測定した数値を判断基準としています」ここで石田首相は日本人の記者たちがスクリーンに表示した避難対象地域の一覧表にスマートホンを向けているのを壇上から見回した。
「避難者の受け入れ先については四国地方を中心に調整中ですが、対馬の島民を山口県が受け入れた成功例がありますから率直に期待しています。また、事態発生直後に多くの地域住民が自家用車で避難したため自治体も所在地が把握できておらず、健康診断などの案内連絡がつかない状況になっています。避難先で最寄りの自治体に申告をお願いします。以上です」「総理の説明は以上です。質問があればどうぞ」石田首相の説明が終わり、質疑応答に移ると早速、日本人の女性記者が手を挙げた。質問は予想できたがその通りだった。
「A日新聞の伊藤です。安全基準を引き上げると言うことですが、それは福島に比べて避難者が数倍増になるため、それを抑えることが目的ではないですか。国民の健康や安全よりも政府の都合を優先したのでしょう」「1989年4月1日の改定は当時、皆さんが福島原発からの放射線漏れによる健康被害を過剰に煽り立てて国民に不安を与えた結果、対策を求める世論が沸騰して窮地に追い込まれた民政党政権が数字を弄んで胡麻化しただけです。合理的根拠はありません」記者会見をスマート・ホンで傍聴している編集部もこの石田首相の強硬な回答は予想していなかったようで反論させる台詞のメールが途絶えた。
「それでも多くの国民は民政党政権が責任を持って改定した安全基準で不安を解消されて平穏な生活を取り戻してきたんです。新たな核の恐怖を目の当たりにしながら政府が国民の安全を守る責任を放棄するのには納得しないはずです」「国民を不安にしたのは貴方たちでしょう。貴方たちの論理で言えば広島や長崎で被爆した市民とその子供は全員が放射線障害で病気になっていなければならない。しかし、広島で生まれ育った私の周りの生存した被爆者の多くや残留放射能の中で育ってきた私も無事に人生を全うしています。今回は根拠のない不安の扇動は止めなさい」普段であれば首相による「言論封殺」としてマスコミ一斉の集中砲火を浴びて政治生命を失いかねない発言だが、今回は外国人記者まで沈黙した。
- 2022/07/17(日) 14:15:38|
- 夜の連続小説9
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