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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

続・振り向けばイエスタディ245

その頃、A日新聞の社長以下の主要幹部たちは中国大使館に呼ばれていた。これから中国共産党の最高権力者からの言葉を大使から伝達されるのだ。社長以下は大使室に入ると壁に掲げられている最高権力者の巨大な肖像写真の前に整列して前屈運動のように腰を90度以上に折って最敬礼した。加齢で柔軟体操は苦しい社長としては中国共産党への絶対的忠誠心を示すために日本式の土下座をしたいところだが、それで中国式を要求されれば三跪九叩頭(3度跪いて頭を3回ずつ床に打ちつける)になるから前屈の方がまだ楽だ。
「社長、我が共産党は君たちA日新聞の中日戦争以来一貫して変わらない忠誠を高く評価してきたよ」中国式の応接セットに座った社長以下に大使は流暢な日本語で挨拶した。社長が大使館に呼ばれる理由は重大な政治的策略を伝達し、報道機関としての協力を指示する時か、重要な国家秘密を流し、大きな成果を上げたことへの賞賛と謝辞、そして期待に反した時の叱責だ。今回は社長だけでなく主要幹部も同席させたと言うことは重大な事案であることは想像に難くない。それにしても中国共産党のA日新聞に対する高い評価が過去形なのは大使の語学力から見て言い間違いではないはずだ。
そこに女性秘書が最高級の中国茶を運んできた。社長はこの東洋的美人の秘書に会う度に見惚れてしまうが、御用聞きに大使館に通っている社員から「来客の目にとまる女性は全てハニートラップの武器だ」と聞いているので成果を上げた褒美に抱けるとしてもそこは控えている。中国の配下である社長には今更握られる弱味はなく、諦めている回春が期待できるのだが、ハニートラップにかかった政治屋たちの末路を知っているだけに君子危うきには近づかずだ。
「A日新聞は偉大なるロシア革命によって労働者の理想郷が現実に建国されたのを見て我が国でも天皇が支配する君主制度を打ち破り、労働者をブルジョアジーの搾取から解放して、生産を平等に分配する理想の国家を樹立させたいと第3インターナショナルに参加したんです」中国茶で口を湿らせた社長は唐突にA日新聞の社史を語り始めた。これが大使にA日新聞の忠誠心を再認識させるための弁明なのは言うまでもない。
「A日新聞は明治政府の宣伝媒体だった創立期の論調を利用しながら満州の陸軍の南進を提唱してソ連への脅威を解消しながら蒋介石の国民党軍との戦闘に邁進させました。それは毛主席が望まれた日本軍と国民党軍の消耗戦です。さらにアメリカへの敵意を扇動して日米戦争に発展させて日本を敗北させました。これで天皇への忠誠心が消滅すれば焦土で革命が起こるはずでしたが原爆に邪魔されました」A日新聞が反核運動に熱心な理由を社長が自白した。
「ところがソビエト連邦は所詮ヨーロッパの国家であって人民は権利意識を国家への忠誠心よりも優先するようになった。それをなだめるためにゴルバチョフが欧米流の自由を部分開放するとソビエト連邦人民の権利意識は大炎上して理想郷で生活する至福を忘れてマルクス主義を放棄しようとした」本来は前置きに当たる社長の弁明が妙に熱を帯びてきたが大使は制止しない。大使は中国共産党の指令を正確に伝達することが職務であり、個人的に好感を抱いてもその内容に手心を加えることなど無理な相談なのだ。重い宣告の前に自己弁護を語らせておくのは中国共産党の常套手段でもある。
「その内部崩壊が中華人民共和国にも波及する危険性を正しく認識した鄧小平同志が天安門前広場に集まる反乱分子を実力で排除した時、我がA日新聞は日本人がリンチ殺人事件を利用して自民党政権に嫌悪感を植えつけられた70年大学園闘争と同様の学生たちによる騒乱だと報道して批判世論を抑えることに成功しました」「確かに日本はヨーロッパやアメリカの経済制裁には同調せずに天皇を我が国に旅行させて国際的立場の回復に貢献した。おまけに天皇は日本の侵略を公式に謝罪したから貢献は絶大だった。そう言えば香港の暴動でも同じ手法を使ったんだったな」再び肯定的評価が過去形になった。
「その他にも中日国交回復時の友好ブームや経済支援の演出、何よりもバブル景気が崩壊した後には人件費が安い中国への工場移転を推奨して現在の経済発展に大きく貢献しました」ここで社長の熱弁は現在に追い付いてしまい切れ目になった。
「諸君らが主導してきたA日新聞が日本における第3インターナショナルの実践者であり、我が共産党の最大の協力者であることは北京も認めている。しかし・・・」賛辞を口にしながら大使の目はヒマラヤからチベットへ吹き下ろす南風のように冷たくなった。
「諸君らも長年にわたって願望し、協力してきた日本を中華人民共和国の一部とするための軍事行動が一向に進捗しないのはどう言う訳だ。日軍(自衛隊)などは国民の支持を得られず軍にもなれない武器を持った模造品ではなかったのか」この叱責に社長は全身から冷や汗を吹き出して怖れ慄いたが高級幹部たちは腹の中で「八つ当たりするな」と嘲笑していた。
  1. 2022/09/12(月) 15:22:50|
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9月12日・九州男児を感涙させた「うまかっちゃん」の発売開始

昭和54(1979)年の明日9月12日に故郷を離れて暮らしている九州男児たちが口にすると人目をはばからずに感涙していたインスタント・ラーメンの「うまかっちゃん」が九州全域(沖縄県を除く)と山口県限定で発売されました。
「うまかっちゃん」は意外にもインスタント・カレーのイメージが強いハウス食品の製品です。当時、ハウス食品は昭和48(1973)年にインスタント・ラーメン事業に参入して「シャンメンしょう油味」や「たまごめん」「つけ麺」をヒットさせていましたが、福岡県古賀市にある工場から「社員がハウスの商品を食べない」「醤油味は九州人の口に合わない」「やっぱり九州人は豚骨味だ」と言う声が上がったためハウス食品福岡支店長が「ウチでも九州で売れる商品を作ろう」と本社に提案して開発が始まったのです。
しかし、当時は中華風味でなければ味噌、醤油、塩味の札幌ラーメン(本当は味噌=札幌、醤油=旭川、塩=函館)が主流だったので豚骨味は誰も知らず、急遽、九州男児で固めた開発担当者が帰郷する度に地元の名店を巡り、試作品を社内外の九州出身の女性に味見させて製品化に辿り着きました。商品名とパッケージは福岡出身のグラフィック・デザイナーの西島伊三雄さんの作品で、当初は「こらうまか」に内定していたのですが「語感が耳に残るから」とこちらに決まったようです
発売後は漫画「博多っ子純情」の郷六平と小柳類子を登場させるコマーシャルが大人気になった効果もあって販売区域内ではインスタント・ラーメンの本家・日清食品や地元最大手のマルタイを抑えて売り上げのトップに躍り出て現在も維持しています。
「うまかっちゃん」の販売区域は九州全域(沖縄県を除く)と山口県に限定されているため愛知県出身の野僧は航空自衛隊の防府南基地に入隊してBX=基地売店の「ラーメン各種(インスタントの銘柄のこと)」の看板を出している軽食店で食べるまで知りませんでした。しかし、九州人ではないので特に思い入れはなく食べ慣れている札幌ラーメンの味噌や塩とのローテーションに加えただけでしたが、基礎課程を修了して浜松に移動すると九州男児たちが禁断症状を発症して外出で市内のデパートやスーパー・マーケットを探し回るようになりました。それは沖縄に赴任しても同様でシフトの夜食に出るインスタント・ラーメンの「サッポロ一番」を千歳基地から来ている隊員が美味しそうに食べているのを見て九州男児たちは「豚骨ラーメンが喰いたかァ」と呟いていました。そこで野僧がそんな隊員たちの思いを業務隊給養小隊の担当者に訴えると築城基地の知り合いに頼んで夜食用のラーメンを交換する形(先に同数・同価格のインスタント・ラーメンを輸送機で送った)で「うまかっちゃん」を取り寄せて夜食に出してくれたのです。そしてシフト勤務者が出勤した月曜日の午後に「うまかっちゃん」を配って回ると箱を見た九州男児たちが駆け寄ってきて「今週はこれね」「来週も同じね」と質問責めにしたので「今週は特別に取り寄せたので毎週は無理」と答えると非常に落胆していました。ところが後で聞いた話ではシフトではない九州男児も食べてしまい「やっぱ美味かァ」と感涙しながら汁まで飲み干したそうです(中には器を舐めた奴もいたらしい)。
  1. 2022/09/11(日) 15:59:20|
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続・振り向けばイエスタディ244

「やはり内なる敵を何とかしないとな」東京では陸上自衛隊の田島3佐と警視庁の伊藤警部が密会を重ねて深刻な議論を続けている。場所は公園のベンチだ。韓国の前政権末期に海上自衛隊の対潜哨戒機が撃墜されて以来、参謀長を前政権の国防部長官に送り込んできた陸海空軍は改まることがない国民の反日感情を背景に平時としての武力行使を継続・激化させて、ついには対馬・海栗島の航空自衛隊のレーダー・サイトを地対地ミサイルで破壊して全島を占領した。一方、中国は韓国軍の執拗で悪質な挑発に自衛隊が冷静に対応して先端を開かないことで介入に踏み切り、安全保障理事会の常任理事国としての懲罰権と称する武力行使を繰り返したが自衛隊とアメリカ軍の熟練した連携対処で阻止された。同時に不法に持ち込んだ拳銃での内乱を発生させたが自衛隊の治安出動で沈静化している。つまり八方塞がりの現状だ。
「マスコミ、弁護士、教員、市民団体・・・奴らは国家が存亡の危機に陥っても自衛隊、警察、海上保安庁の活動を妨害している。外からの攻撃に対応するのに足元を心配するんじゃあ腹を括れないよ」田島3佐の嘆き節に伊藤警部は重苦しい顔でうなずいた。大手マスコミは戦端となった対潜哨戒機の撃墜で韓国側の「海上自衛隊側が先に攻撃したため応戦した」と一方的に断罪する発表を大々的に報道して国民の印象を決定づけた。以降、常に韓国側の発表を大きく取り上げ、日本政府の発表を言い訳のように扱って世論を自衛隊の防衛行動に疑惑を抱く方向に誘導してきた。中国に至っては必ず国名に「常任理事国の」を冠してその言動が国際連合としての意向であるかのように演出している。弁護士団体は航空自衛隊基地や高圧電線を破壊するために侵入した在日半島人を殺傷した自衛隊員や警察官を次々に刑事告発して対応に制約を加えている。防衛出動待機命令に基づく陣地構築も行政訴訟や補償請求によって停滞している。労組系の教員は子供たちに大手マスコミと同様の「日本が悪者」と言う偏向した洗脳教育を吹き込んでいるだけでなく学校として把握している自衛官や警察官の個人情報を敵対する組織に流して銃後の不安を生起させている。そして人権、環境、動物保護などの市民団体は防衛出動が下令されていないことを根拠に平時と同様の保護活動を行政に要求していて、中でも人権団体は銃の不法所持や発砲事件、破壊活動で国外退去になった在日中国人と半島人の処遇を「非人道的」とインターネットに英文で書き込み、国際人権団体に告発している。
「マスコミでもテレビはインターネットと言う対抗手段があるから政府としても総力戦で臨んでいるんだが役人が書く文章は面白くないから閲覧数が伸びないんだ。おまけに中国と韓国は国家が日本から帰国した人気ネット作者を雇って作成させているから勝てないよ。過激な画像や動画もふんだんに添付してあるからな」これは日本人女性のレイプ動画を流している愛国サイト「日本人女を慰安婦にしろ」の背後に国家があることを示唆している。
「大手新聞は長期契約だから過激な記事を載せても定期購読者は減らない。おまけに大都市の中心地にある社屋跡の借地料を収入源にしているから店頭販売数が減っても痛くも痒くもない」新聞が常識的な国民の批判を浴びるような過激な記事を公然と掲載するようになったのはバブルの狂乱景気で市街地の地価が急騰して借地料が販売収入や広告料をはるかに超えるようになってからだ。つまり今の新聞には怖いモノがないのだ。
「教職員組合は加入者が半数を切っているから子供たちへの影響は昔ほどではないが個人情報を流されるのは困るな」「隊員の娘の女子高生が半島人に拉致されてレイプされた事件があっただろう」「あの教員は身内に処断してもらったんだよな」伊藤警部の返事に田島3佐は無表情にうなずいた。名古屋市に隣接する住宅地で陸上自衛官の娘が隣家への道案内を頼まれて車の同乗し、山林に連れ込まれてレイプされた事件では警察が割り出した犯人の男性器に拷問した結果、担任の教員が校門で自衛官の娘を教えたことを自白したためこの教員にも意識喪失寸前の苦痛を与えて処分でした。本来であれば教員の妻子にも同様の凌辱を加えたいところだが、そこは踏み越えてはならない一線を保った。
「やはり倒すべきはマスコミだが組織が巨大だから手に負えないな」「赤報隊の事件も1回だけで終わったから犯人を割り出さないですんだが、記者を1人や2人殺(や)ったくらいでは組織は微動だもしないだろう」1982年5月3日の赤報隊事件ではA日聞阪神支局内で散弾銃を発砲して29歳の記者が死亡し、42歳の記者が重傷を負ったので多数の物的証拠が採取され、目撃者も複数いたから「逮捕は間近い」と思われたが2002年に公訴時効が成立した。
「ゾルゲ事件の時、どうして東條英機内閣は徹底的に抹殺しなかったのかな。あれだけ戦争を賛美していたんだからマックアーサーが廃止を命じてもおかしくはなかった」「結局、戦争協力者と言う実績とアメリカ的民主主義に守られたんだな」この公園も長居できる場所ではない。2人は半分残していた缶コーヒーを飲み干すと立ち上がって別々の方向に歩き出した。
  1. 2022/09/11(日) 15:57:55|
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フランスの映画監督・ジュスト・ジャカンさんの逝去を悼む。

9月6日に1974年公開の「エマニエル夫人」や1975年の「O嬢の物語」、1981年の「チャタレイ夫人の恋人」などの柔らかく美しい性描写の新たな映画分野=ソフト・ポルノを開拓したフランスのジュスト・ジャカン監督が亡くなりました。82歳だったそうです。
ジャカン監督は1940年8月にナチス・ドイツの占領政権が置かれていたフランス中部のヴィシーで生まれました。ヨーロッパでは1939年に第2次世界大戦が始まっていてフランスは1940年6月に占領されていましたが、両親はナチス・ドイツに同調するつもりがなかったらしく監督が生まれて間もなくイギリスに移住して終戦後に帰国しています。少年時代から写真と絵画を始めましたが本格的に取り組んだのは兵役を終えてからで、ファッション写真家として雑誌などで活躍し、その流れでコマーシャル・フィルムの撮影に手を広げていく中で映画界に進出して初監督作品として発表したのがタイ人の女優出身の作家・エマニュエル・アルサンさんの小説を映画化した「エマニエル夫人」でした。ちなみにこのシリーズは1969年にイタリアで初めて映画化され、その後も1975年に「続エマニエル夫人」、1977年に「さよならエマニエル夫人」、1984年にも「エマニュエル」が公開されています。
この作品が公開されたのは野僧が中学生になった年で、映倫は映像が美しく洋画では性交渉の場面は珍しくないので「18歳以上対象」の成人映画に指定しなかったものの制服を着なければ映画館がある街に行けない田舎では見ることはできず、色気づき始めたガキどもは週刊誌などの記事を持ち寄ってモデル出身の主演女優・シルビア・クリステルさんの美しい肢体に興奮していました。
その後、野僧は沖縄に赴任して亡き妻とリバイバル映画として見ることになりましたが、あらすじは「年齢差がある外交官と結婚した若妻は性モラルを否定する夫から自由奔放な性生活を勧められても同調できずにいた。ところが夫が先に赴任していたタイのバンコクに向かう旅客機の中でレイプされ、それを見ていた別の男性にもトイレで性関係を強要されたことで頑なに守っていた性モラルが壊れ始めた。そうして始まったバンコクでの生活では夫と同様に性モラルを放棄した有閑マダムに囲まれ、同性愛で快感を教えられたのを皮切りにして多種多様な性交渉を重ね、性の快楽を哲学的に考察する初老によって女性として開発され、最後は本人を賭けたムエタイの試合の勝者に抱かれて快楽の絶頂を迎える」と言うヨーロッパ的に難解な物語でしたが、裸身を披露している女優と映像が美しかったので最後まで見ることができました。ただし、亡き妻はエマニエル夫人が「ソフト・ポルノ」と呼ばれていることで「ポルノ」を誤解して日活ロマン・ポルノ作品「大奥十八景」を見に行ったため観客席の男たちの異様な熱気(=振り向いた視線)に怯えることになりました。野僧が同伴していなければ危ないところでした。
晩年のジャカン監督はブルターニュで妻と暮らしていましたが、映画製作は思い出話にして絵画と彫刻を楽しみながら過ごしていたそうです。冥福を祈ります。
  1. 2022/09/10(土) 15:40:18|
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続・振り向けばイエスタディ243

「屯田くん、対馬はどうなってるんだろうね」屯田局員が栗野地区でも奥まった山間の集落に行くと庭の井戸で収穫してきた野菜を洗っている夫婦が声を掛けてきた。井戸の脇に山積みになっている野菜の量から見ると軽4トラックの荷台では目一杯だったはずだ。それはこの夫婦が畑を耕し、種を蒔き、水を撒いて草を引き、収穫した農作業の成果であり、この地での耕作に熟練してきたことの証明でもある。そんな夫婦が今更のように対馬の耕作地を心配するのが農家の出身ではない屯田局員には意外だった。
「対馬へは郵便物が送れない状況は続いています。空港や港は韓国人が押えていて日本の飛行機や船が近づくと鉄砲を射ってくるから危なくて何もできないみたいです」「自衛隊が攻撃して奪い返せば良いんだ。やまねこ軍団も九州でお巡りさんの手伝いじゃあ身体が鈍ってしまうだろう」立ち上がった夫は腰に提げているタオルで手を拭いて広告の封筒を受け取りながら言葉を荒げた。陸上自衛隊対馬警備隊=やまねこ軍団は全島民の避難を見届けて撤退し、西部方面隊の直轄部隊として治安出動の警察業務に当たっている部隊を支援しているが、それは対馬島民が期待していたことではない。それではやまねこ軍団を対馬に踏み止まらさせて残留した韓国系島民を拘束し、救出名目で襲来するであろう韓国軍と死闘を演じるべきだったのかと言えばそこまでは期待していない。やはり庶民には自衛隊員に「生命を捨てて戦え」と命じるのは重過ぎる。できるのは無責任な扇動に呼応するところまでだ。
「そう言えば対馬ヤマネコの剥製が韓国のネットで売り出されていましたけど大丈夫なんですかね」「ヤマネコが・・・太郎は無事かしら」郵便物を渡した屯田局員が局長がインターネットの通信販売サイトで発見した対馬関連の情報を伝えると井戸のポンプの射出口で野菜の土を洗い流している妻が顔を上げて怯えたように答えた。そこに封筒を家の中に置きに行った夫が戻ってくると「お父さん、太郎が」と泣きそうな声で訴えたので、対馬ではヤマネコに名前をつけて可愛がっていたらしい。対馬に残留した韓国人は日本人が移住すると2度の元寇や1419年の対馬侵攻を再現するように略奪と破壊を開始した。ヤマネコ保護センターに展示されていた剥製が高値で売れたことに味を占めて、飼育されていたヤマネコを殺して剥製として売り出したのに続き、インターネットで注文を取って販売するようになっている。ヤマネコの剥製は韓国国内では対馬を奪還したシンボルとして人気を集めているのでサイトは継続しているようだ。この事実を一般市民から指摘された日本の動物保護団体は無視を決め込み、非難声明すら発表していない。所詮、反戦平和=反核団体が批判するのは今は昔話になったアメリカとの戦争であり、人権団体は日本国内で粗探しした不平不満であり、環境と動物保護団体は日本人による環境破壊や動物虐待であって中国や韓国が犯す問題行為には関知しないのだ。
「加光寺の和尚はこの戦争は細く長く続くって言ってるけど最近は戦争中とは思えないよな」屯田局員は配達を終えて栗野局に戻りながら色々考えた。加光寺の傍樹森蔵和尚はフランス外人部隊の下士官としてフランスが介入したアフリカ各地や東欧の武力紛争で多くの実戦を経験している。、その壮絶な戦争体験では小説や映画で描かれるような戦闘は長い駐留期間のホンの一部に過ぎず、マスコミ報道はその部分だけを取り上げるので平和な場所で読む者は誤解するのだと言う。しかし、屯田局員は今日もバイクで粟野地区内を走り回って郵便物を配達し、郵便ポストで回収した郵便物を持ち帰って宛先に発送する。この以前と何も変わらない日常を過ごしていると銃撃を受けたことの方がフィクションに思えてくる。傍樹和尚は戦地で「毎日同じように巡回していた街角で突然銃撃を受けて仲間が死んだ」と言っていたが一歩間違えば屯田局員が同僚たちに思い出話として「突然銃撃を受けて死んだ」と語られることになったのかも知れない。何も変わらない日常生活の中で目に見えない戦争の気配が漂ってきているのではないか。銃撃を受けた時には先ほど対馬の心配をしていた夫婦が住む集落に続く森の中の道をバイクで走らせていた。傍樹和尚が言う通り、この地域が日本に潜入する韓国軍特殊部隊の上陸地点なら目の前の風景のどこかに潜み、こちらに銃口を向けている可能性がある。あの時、身を守ったのは傍樹和尚に習った銃撃を受けた時の回避行動だった。
「お疲れさまです」「おう、屯田くん。今日は無事に帰ってきたね」栗野局は海辺の山村の栗野地区でも漁港の一角にある。そのため帰るには山の谷間から海が見渡せる別世界の風景に入り、列車が滅多に通らない山陰本線の栗野駅前の集落を抜けていく。その途中にある駐在所の前で軽のパトロールカーでの巡回から戻ってきた警察官が声をかけてきた。この警察官とは銃撃事件以来、戦友のような気分で接している。
「あれから危ない人間は来ていませんか」「若狭湾の原発を使った核攻撃が失敗に終わったから次は島根原発を狙うんじゃあないかって警戒しているよ」やはりプロの意識は違うようだ。
  1. 2022/09/10(土) 15:38:19|
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俳優・古谷一行さんの逝去を悼む。

昭和52(1977)年から翌年まで続いたテレビの横溝正史シリーズで主役の名探偵・金田一耕助を演じた俳優の古谷一行(芸名は「いっこう」、本名は「かずゆき」)さんが長年闘病していた癌で亡くなったそうです。78歳でした。
横溝正史シリーズが放送された昭和52(1977)年は野僧が高校に入学した年で、横溝作品を愛読ではなく熟読して相手構わず講義する同級生がいたためクラス全員が毎週土曜日の夜10時からテレビの横溝正史シリーズを見ることになりました(野僧は家でのチャンネル権を持ちませんでしたが父親が見ていたので助かりました)。するとその同級生は文庫本ではない横溝正史作品の単行本を持ってきて挿絵を見せながら「目の描写が多いから挿絵の金田一耕助は目が大きく映画の石坂浩二の方が似ている=目が細い古谷一行は駄目だ」と批判して友情でテレビを見ている同級生たちをガッカリさせました。ちなみに昭和52(1977)年の秋には松竹映画の「八墓村」が公開されましたが、「男はつらいよ」シリーズの看板役者・渥美清さんが金田一耕助を演じていたため角川映画の石坂浩二さんとテレビの古谷一行さんのイメージ・ギャップどころではない衝撃がクラスを揺るがしました(横溝ファンの同級生はノーコメントだった)。
実は野僧が最初に古谷一行さんのドラマを見たのは小学校3年だった大阪万国博覧会の年の連続テレビ小説「虹」で、主演の南田洋子さんと仲谷昇さんが演じる病弱な大学講師の男女2人ずつ4人の子供の長男役でした。補足すれば長女役は清純だった頃の小柳ルミ子さんだったと記憶しています。次は毎度の大河ドラマで昭和47(1972)年の「新平家物語」で平経盛役でしたが、2012年の「平清盛」や2022年の「鎌倉殿の13人」ほど各個人を掘り下げたドラマではなかったので平家一門の1人過ぎませんでした(「平清盛」で駿河太郎さんが好演した存在感が薄く文弱な経盛に重ねるとイメージが合いません)。次は1996年の大河ドラマ「秀吉」の竹中半兵衛ですが野際陽子さんが演じる明智光秀さんの母親に仕官を求められても断り、その理由を年上好で野際さんへの恋慕の情と説明しながら実は追っ手から逃すための演技だったと言う登場直後以外は毛利攻めの陣中で病んで伏せっている場面しか記憶にありません。
それ以降は火曜ドラマや土曜ワイド劇場の常連だったそうですが野僧には縁がなく、新聞の死亡通知に代表作と紹介されている昭和58(1983)年の「金曜日の妻たち」は航空自衛隊に入隊して那覇基地に赴任していたためテレビは亡き妻のアパートで見るしかなく、流石に「不倫のドラマを見たい」と言う雰囲気ではありませんでした。
映画としては「時代屋の女房2」の第1作では渡瀬恒彦さんが演じた骨董屋の主人・安さんで、第1作では主演した夏目雅子さんが病気で入院して名取裕子さんに代わったのに合わせて出演者が一新され、安さんも古谷さんになったようです。
古谷さんは2011年に肺癌であることを公表して以降、脳や胃への転移が続き、手術や放射線治療と並行して復帰に向けての鍛錬を続けていたそうですがそろそろ楽にして上げましょう。冥福を祈ります。
  1. 2022/09/09(金) 15:26:04|
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続・振り向けばイエスタディ242

「加光寺さん、今日も国際郵便です」「英語じゃあないのによく配達できるね」山口県下関市でも長門市との境界線地域にある栗野郵便局の屯田信彦局員は今日も担当している加光寺の傍樹森蔵(ソバジュモリゾー)和尚に郵便物を配達していた。傍樹和尚は檀家には元自衛官と説明しているが実際はフランス外人部隊の下士官でそのため海外からの郵便物が多い。
「この地区で外国から郵便が届くのは数軒だけだから横文字の宛先を調べるくらいは業務の内ですよ」屯田局員は庭掃除をしている傍樹和尚に輪ゴムでまとめた封筒の束を手渡したが、一番上に国際郵便を括ってある。その宛先は英語などのアルファベットではなく調べて判ったアラビア文字だった。粟野地域には中国語の簡字体やハングル文字の手紙が届く元教員がいるが、アラビア文字の書簡が届くようになったのは傍樹和尚が来てからなので局長が宛先をインターネットで調べて確認した。その時、コピーを取ったので読めなくても形で照会している。したがって差出人が何処の誰かは判っていない。
「ふーん、ムハンマドはヨルダンに帰ったのか」傍樹和尚は輪ゴムを外して一番上の封筒を裏返すと差出人を確認して呟いた。この1通以外は新聞で広告が入らない周南市や広島市、京都市の佛具店と法衣店からの商品案内なので見るまでもない。それにしても一目見ただけでアラビア語を判読できる傍樹和尚の語学力には恐れ入る。
「そう言えば若狭湾の原子炉封鎖作戦が成功したみたいで安心ですね」「そうかな。ワシは次の一手が心配だがな」屯田局員は世間の話題を口にして次に向かおうとしたが気になることを言われてバイクのアクセル・レバーの手を放してしまった。屯田局員は傍樹和尚に雑談で教えられた銃撃を受けた時のバイクでの回避行動のおかげで対馬から移住している島民への生活支援手当を狙った在日半島人に実弾を発砲されても無事に回避することができた。事件の後、事情聴取を受けた栗野駐在所の警察官は回避行動の実用性に感心して「白バイの交通機動隊にも教育してもらいたい」と言っていたが本来、屯田局員には不要な戦闘知識だ。しかし、実際に命拾いしている屯田局員としては護身のために聞き逃すことはできない。
「これで放射能漏れを起こして韓国軍の核戦争対処部隊を日本国内に上陸させようとした作戦は頓挫した。関西圏への送電線破壊も自衛隊に制圧された。さて次はどうする」傍樹和尚は思いがけない質問に困惑している屯田局員の顔を覗き見た。
「これは元下士官に過ぎない拙僧の推察だが、韓国軍の特殊部隊を日本に潜入させて在日の破壊活動を強化するんじゃあないかな」「折角、警察と自衛隊が抑え込んで平和になってきたのにですか」「だから激化させるんだろう」銃撃を経験したはずの屯田局員が戦闘の本質を理解していないことに傍樹和尚は少し語気を強めて補足した。侵攻を企図する側が相手を混乱させ、困窮させ、危険な状態に陥らせて勝機とするのは国際常識だ。
「山口県、それも下関市では双木外務大臣が狙われる危険性が高いな。浜防衛大臣が健康を損ねて退任してから武力衝突の指揮を実際に執っているのは双木大臣だ。加倍首相に続いて双木大臣まで暗殺されれば石田政権は腰砕けになって無条件降伏しかねない」「双木さんは下関市に自宅がありますね」「日本海から潜入するとすればこの辺りが上陸地点だ」思いがけない見解に屯田局員は動揺してバイクの座席から地面に伸ばしている両脚に力を入れた。
加倍首相の暗殺犯は「韓国内で反共産主義を主導している」との売り込みで祖父の浜首相に接近してきたキリスト教系宗教団体への怨恨が動機と証言しているが、実際は母親の影響で本人も入信していた可能性も完全に否定することはできない。一方、双木外務大臣は東京での政務が極めて多忙で下関市の自宅に戻ってくることはないが、だからこそ狙う機会は迫っている。
2・26事件の後、山口県出身の寺内寿一陸軍大臣は建軍以来最悪の大不祥事を犯した責任を悪ぶれることなく政党政治家たちに「陸軍の意向に背けば青年将校の不満を抑えられない。お前も殺される」と脅迫して政府に陸軍大臣現役制(それまでは予備役でも陸軍大臣になれた)を呑ませ、大臣を推薦しないことで組閣を阻止する卑劣な政治手段を手に入れた。確かに日本の台湾防衛への関与を明言した加倍首相に続き、日中・日韓の武力衝突を指揮している双木外務大臣まで凶弾に斃れれば寺内陸軍大臣の恫喝に屈服して政治による軍の統制を放棄した戦前の政界と同じ醜態が再現されても不思議はない。その点、加倍首相は健康を害して退陣した時、地元の支持者から「参議院の双木さんと交代して解散を気にしないでユッタリと政治家としての人生を全うしなさい」と助言されたが「父は末期癌に侵されながら最期まで国家のために外務大臣、政治家としての職務を全うした。私もそれを倣うつもりだ」と決して死を恐れない政治家としての覚悟を示した。バイクで走り出した屯田局員は自分の郷土の血染めの歴史を再認識して流石に背筋が寒くなった。
  1. 2022/09/09(金) 15:23:59|
  2. 夜の連続小説9
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東西冷戦に幕を引いたゴルバチョフ大統領の逝去を悼む。

8月30日にアメリカと対等な超大国と思われていたソビエト連邦を数日のうちに崩壊させて第2次世界大戦後の国際社会に破滅の危機を強いてきた東西冷戦を終結させたミハイル・セルゲーエヴィチ・ゴルバチョフ大統領が亡くなったそうです。91歳でした。
ゴルバチョフ大統領は1931年にソビエト連邦でも気候が温暖なカスピ海と黒海の間に位置するスタヴロポリ地方プリヴォルノエのコルホーズ(集団農場)の農業技術者の家庭に生まれました。少年時代はヨシフ・スターリーン書記長の粛清の嵐が吹き荒れていた頃でゴルバチョフ家でも祖父がサボタージュの嫌疑を受けて投獄されています。さらに1941年6月に独ソ戦が始まると父親が出征し、スタヴロポリ地方はナチス・ドイツ軍によって占領されました。
1945年5月に終戦を迎えるとコルホーズでコンバインを運転しながら学校に通い、1950年には成績優秀によるスタヴロポリ市の推薦でモスクワ大学法学部に進学しました。大学では後に妻となる哲学科の学生のライーザさんと知り合い、また学生寮でチェコの民主化運動「プラハの春」の指導者になるズデネク・ムリナーシさんに影響を受けています。それでも在学中にソ連共産党に入党し、卒業後は連邦検察庁の国家試験を受験して内定を受けましたが不採用になり、帰郷して不正や汚職を探索して密告するボランティア組織のコムソモールに参加してやがてスタヴロポリ地方の書記になりました。そこからはニキータ・フルシチョフ第1書記のスターリン批判に共鳴しながら共産党内の階段を確実に昇り、スタヴロポリ市の第1書記、スタヴロポリ地方の第2書記を経て1971年には党中央委員に選出されました。この間にスタヴロポリ農業大学の通信課程で学び、科学的農業経済学者の資格を得ていています。
党中央委員としては1978年に急死した農業担当書記の後任になる一方でライーザさんと結婚すると1日12時間から16時間働く生活を始め、現地からの報告以外に天候気象や生育状況などを知らない中央の過度の関与によって収穫が減少していた農業問題の解決に尽力するなどの功績によって1980年には最年少で政治局員に抜擢されました。
1982年11月にレオニード・ブレジネフ書記長が死亡すると後任の同じスタヴロポリ地方のナグツカヤ出身のユーリー・ウラジーミロヴィチ・アンドロポフ書記長が硬直した18年間のブレジネフ体制で完全に行き詰ったソビエト連邦の抜本的改革に着手して、後継者として活躍し始めたところで病没したため保守派の巻き返しに遭いましたが、後任も死んだため1985年3月に54歳の若さで書記長に就任したのです。
ゴルバチョフ書記長は在任中にマルクス主義から社会民主主義に転換しましたが、それはソ連や東欧の市民には見せてはいけない理想郷を覗かせるようなものだったようです。
日本では今でも伊勢志摩サミットでの来日中の2016年5月27日に現職のアメリカ大統領としては初めてヒロシマの平和記念公園を訪問して献花したバラク・オバマ大統領の評価が高いですが、実はゴルバチョフ大統領もこちらは夫妻で1991年4月17日にヒロシマ、19日には長崎を訪問して献花しています。冥福を祈ります。
  1. 2022/09/08(木) 16:08:31|
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続・振り向けばイエスタディ241

「安川1尉ってスイスのレーア大尉を紹介した松本の教え子でしょ」「うん、ワシよりも田島3佐の教え子だけどな」夜の散歩を終えて一緒にシャワーを浴びてリビングで淳之介が送ってくれた八重山の泡盛を飲みながら雑談を再開すると梢は早速、本題を切り出した。梢は田島3佐が在スリランカ日本大使館の在外公館警備官だった時に世話になっているので私との関係は熟知している。むしろ安川1尉とは面識がないので説明の密度を濃くしなければならない。そうなると2尉の頃に小隊長として私の薫陶を受けた教え子を自称してくれている田島3佐は曹候学生の後輩にした方が判り易い。
「牧野弁護士は北キボールPKOの裁判の担当弁護士で、司法試験の受験勉強の先生、イージス護衛艦の事故の裁判では一緒に弁護した仲間だったわよね」梢は酔う前に雑談の登場人物の確認を始めた。言われてみれば法学部の教授が「ウチには司法試験に合格できる学生がいない」と嘆いていた地方大学を中退した私がその司法試験に合格したのは牧野弁護士の懇切丁寧、適宜適切な指導のおかげなので私こそ教え子だ。尤も牧野弁護士は私の指導経験を最大限に活用して息子を大学在学中に一発合格させたらしい。
「佐藤知美3佐と安川1尉は熊本大震災の災害派遣で会ったみたいだ」女性の佐藤3佐については私から説明した。梢は若い頃も「自分が一番愛されている」と言う自信を持っていたので焼餅を焼かなかったが、現在は佳織との関係もあるので慎重を期した。
「茶山さんの新聞の記事だと鉄塔の高い場所に登っていた隊員が拳銃で射たれたから警備の隊員が応戦したんでしょう。先に射った方が殺人未遂じゃない」「当然、生き残ったドライバーは殺人未遂の共犯者として刑事告発されているはずだ。おそらく名古屋の弁護士団体は津地方検察庁に加害者と被害者の2重構造を発生させて、混乱に乗じて共犯者の裁判を有利に進めることを狙っているんじゃあないかな」「確かに隊員の裁判では共犯者が被害者になっちゃうわね」梢も同居生活が長くなって検察官の秘書として必要な資質がかなり向上・充実している。元々が私よりもはるかに優秀な頭脳の持ち主なので当然と言えば当然だが。
「本来は自衛隊側が短機関銃の射程距離や命中精度なんかを数字で情報提供するべきなんだが、今回の裁判は被告の3曹は12師団所属、裁判は10師団管内、牧野弁護士も東京からの通いになるから法務官同士と牧野弁護士の連携が上手く機能するか心配だよ」「やっぱり陸上自衛隊ってお役所的なのね」梢の感想に私は苦笑いしてうなずいた。日本の官僚機構を作ったのは明治初期に日本を乗っ取った薩長土肥の中でも最も人材が乏しかった毛利藩閥だと言われている。毛利藩は幕末に尊皇派と佐幕派が激しく対立して藩内で殺し合っただけでなく、禁門の変や馬関海峡砲撃戦、幕府による毛利藩征討で指導者だった藩士の大半が死んでいたため新政府には残り滓しか送り込めなかった。そんな無能な人罪たちに行政を担当させるため毛利藩閥の長だった山県有朋が作り上げたのが縦割りと根回し、前例踏襲の日本的官僚風土なのだ。山県は日本陸軍を作った山口軍閥の長でもあるので両者が似ていても不思議はない。
私の刑事裁判では検察側の資料から引用しただけの弁論を受けて私が牧野弁護士に運用上の特性を解説して反論させていた。イージス護衛艦の裁判でも海上自衛隊の全面協力によるレーダーや操艦の実証実験で得た情報で海難審判の虚偽を立証した。おそらく法務官は傍聴席で裁判に立ち合うはずだが、弁護士に直接助言することは法廷を隔離するため許されない。その点、被告人は打ち合わせの振りをして幾らでもできた。
「乾杯」「乾杯・・・それにしても安川を1尉にした12師団は立派だな」裁判の話題は私自身が何もできないことを噛み締める形になったためここまでにした。丁度、泡盛も一杯目を飲み干したので梢が台所でお代わりを作ってきて再開する前に乾杯した。
「ワシは部外出身で2尉から1尉は一律の自動昇任だったが、部内は2尉から1尉になるのに全力投球するみたいだ。手段を選ばないと言っても良いかも知れないな」「2尉は小隊長、1尉は中隊長になるのよね」梢の理解は私との雑談を真剣に聞いている証左だ。具体的に説明しなくても小隊長の話題の登場人物が2尉や3尉、中隊長が1尉や3佐であれば頭の中で適切に分類する。曹長には先任陸曹と小隊長がいるが、その点は雑談中に確認してきた。
「中隊長になれば編成単位部隊長だから命令の決済権や補給と予算の請求権、施設の管理権が与えられる」「会社で言う課長や支店長ね」考えてみれば私は曹候学生出身なので3曹は一律の自動昇任、陸の幹部候補生はマグレで合格したが3佐にならないまま司法試験合格者の指定階級で2佐になったので必死になって昇任した経験はない。守山では副連隊長、久居では大隊長とどちらも2佐の上司に嫌われて不当人事と告発しても間違いではない取り扱いを受けたから、この特殊な世渡りも佛さんの救い、導きだったような気がしてきた。
こ・純名里沙イメージ画像
  1. 2022/09/08(木) 16:07:08|
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9月7日・アフリカ的独裁者の代表・モブツ大統領の命日

1997年の9月7日はアフリカ的独裁者の代表と評されているザイール=コンゴのモブツ・セセ・セコ・クク・ンベンンドゥ・ザ・バンカ大統領の命日です。
野僧世代の多くは政治家としてのモブツ大統領は知らなくても世界各国への衛星中継で10億人が視聴したと言われる1974年10月30日のモハメド・アリとジョージ・フォアマンの世界ヘビー級タイトル・マッチ「キンシャサの奇跡」を実現した人物として名前を記憶しています(野僧は高校時代から政治家として研究していた)。
モブツ大統領は1930年に史上最悪の宗主国・ベルギーの植民地だったコンゴ北部のリサラのカソリック宣教師の公館の料理番と掃除婦の夫婦の息子として生れました。19歳で学校を退学させられると7年間軍務に就くことになり、除隊後は首都で会計主任やタイピスト、公安軍の機関誌の編集員として働き、26歳で大衆向けの日刊紙の編集長に採用されると1958年にジャーナリストとして知り合ったパトリス・エメリィ・ルムンバさんが創設したコンゴ国民運動に加入してベルギーとの独立交渉に参加することになりました。そうして1960年6月に独立すると初代首相になったルムンバさんの補佐官に抜擢され、さらに創設されたコンゴ軍の参謀総長に就任しました。
しかし、同年7月にベルギーの在コンゴ企業連合が駐留ベルギー軍を巻き込んで最も開発が進み資産が潤沢なカタンガ地区を独立させた結果、深刻な政治的混乱と経済危機が発生したため9月にクーデターを起こして政治的実権を握ると親米派のジョセフ・カサブブ大統領と結託して国家主義者のルムンバ首相を逮捕したことでアメリカが好感を持ち、1961年に自主的に民政に移行したことで支持を固めたのです。
1965年11月に再度のクーデターで大統領に就任すると憲法の無効化によって革命人民運動の一党独裁体制を確立しました。それからはサハラ以南アフリカの盟主としての地位を獲得するため国内だけでなく周辺諸国の反対派の粛清に邁進しましたが、第2次世界大戦後に独立させたアフリカ諸国が次々にソ連の支配下に置かれていくことに危機感を持っていたアメリカやヨーロッパは反ソ連を公言するモブツ政権を利用するつもりで巨額の財政支援を与え、国際的地位を保証したのです。ただし、モブツ政権がソ連と対立していた共産党中国に接近して軍事支援を受けたことが現在の一路一帯戦略につながるアフリカ支配=新たな植民地化の原因になりました。
その一方で独裁体制を固めたモブツ大統領はアフリカ民族主義を強め、1971年には国名をコンゴからザイールに、首都の名称をフランス語のレナポルドヴィルからキンシャサに、自分の氏名もジョセフ・デジレ・モブツからモブツ・セセ・ココに変更しています。そんなアフリカ的独裁政権も1996年にモブツ大統領が前立腺癌を発症してスイスの病院に長期入院した留守中に強権で抑圧していた国内外の不満や対立が次々に発火し、反政府勢力の暴動が国土の大半を制圧する大蜂起に発展したためモブツ大統領は内戦の再発を回避して31年間維持した政権を明け渡し、1997年5月18日にモロッコへ亡命して、その地で死亡しました。幕の引き方は立派でした。
  1. 2022/09/07(水) 15:37:09|
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続・振り向けばイエスタディ240

「日本の弁護士ってどうして政府の足を引っ張ることしかないのかしら」私と牧野弁護士の会話を台所で夕食の支度をしながら固定電話機に接続してあるスピーカーで聞いていた梢は夜の散歩の話題にした。梢は沖縄で反アメリカ軍基地闘争の先頭に立って次々に粗探しの裁判を起こしている弁護士をイメージしているようだ。
「ワシも日本では弁護士だったよ。人数が多い分、色々いるんだよ」私が陸上幕僚監部法務官室に所属する弁護士として参加したイージス護衛艦と漁船の衝突事故の裁判を沖縄のマスコミは批判報道を徹底していて弁護側の弁論は完全に無視していたらしい。勿論、一緒に暮らすようになってからは思い出話として経験した裁判の内容を説明することがあるが、訓練中の事故の損害賠償や公務災害認定などが中心であまり華々しい活躍はしていない。むしろインターネットで開設していた無料法律相談を通して依頼を受けた隊員の離婚調停の実例の方が盛り上がっている。中でもWACの陸士が妊娠したため上官が相手を問い詰めると数人の妻帯者の陸曹の名前を並べたためDNA検査を受けた大騒動は妙に熱を帯びていた。結局、父親候補になった陸曹たちは不倫が妻にバレて離婚を迫られた者、慰謝料を請求された者が続出して私の仕事が急倍増した。おまけにDNA検査の結果、父親は同じ職場の陸士と判明して幸せに結婚したが、新妻を味見した陸曹たちは揃って転属になった。一方、ある学校の副官室のWACが妊娠した騒動では校長ドライバーの陸曹が疑われたが実は陸将補の校長のお手つきで、妻に退職金で慰謝料を支払って離婚すると30歳年下の陸士と再婚して半年後に父親になった。校長と同年齢になっていた私としてはこの事例を詳解するのはかなりためらわれたが、梢には人生最後の性交を捧げているので「単身赴任で欲求不満のところに衣替えの3種夏服(半袖)で巨大な乳を見せられて我慢できなくなった」と弁明したことも羨望を込めて説明した。
「今の日本で指導的立場にある弁護士は70年代の学園闘争の活動家が大半だから反政府の政治闘争を本業にしてるんだよ。マスコミは弱者の味方の人権派と紹介しているがな」この見解は弁護士に限らず医師や大学教授から小中学高校の教職員、マスコミ関係者でも取材して番組を制作するジャーナリストなどの「知的エリート」と呼ばれる職業人全体に言えることだ。ロシア革命後の貴族や地方領主たちの帝政復活を目指す抵抗を制圧したスターリンは全世界をマルクス主義で統一する戦略・第3インターナショナルを宣言したが、その基本戦術として資本主義社会で指導的立場にある「知的エリート」の洗脳と扇動を指導した。日本では明治期にマルクス主義の本場だったドイツやフランスに留学していた科学者や医学者、法律家などが標的になり、帰国後に大学で教壇に立つと最新の学術で若きエリートたちを誘ってマルクス主義に洗脳した。だから創設期の日本共産党には地方ブルジョワ=富豪の子弟である大学生が中心で、労働者出身の党員が参加したのは大正7年に米騒動が発生してからだ。
「日本に限らずヨーロッパでも弁護士や医療関係者には『弱者の味方』って美意識があるからマルクス主義の労働者を資本家の搾取から解放すると言う虚構に心情的に同調するのは仕方ないだろう。マスコミも『社会の悪を暴く』って自己満足があるから政府こそ『社会悪の根源』と敵視するのは当たり前だ。その点、アメリカは職業人としてのプロ意識以上は踏み込まないから報酬に見合った仕事までだ」この話題は若い頃にも沖縄の新聞やニュースでインタビューを受けた医療関係者が政府の決定を批判しているのを見て何度も話し合ったことがあるが、同じ教員でも梢の両親と私の祖父は社会を肯定する保守派、父親の兄は完全否定する赤だった。さらに戦後生まれの母親の弟は教職員組合員でも政治には無関心だった。世代や担当科目などと思想傾向を分析し合って「花は色々、人も様々」と納得した。
「それにしても平成末期になって弁護士の法廷闘争の政治目的が具体的になってきたよな。例えば国政選挙の一票の格差は日本国憲法が保障する権利の平等に反するって行政訴訟があっただろう」「3倍まで合憲って判決が出たあれね」私が日本でも東京都下で投票権を行使していた頃、国政選挙の度に各都道府県の弁護士団体が「議員1人の当選に要する得票数が有権者が投じる1票の価値だ」と言う理解不能の論理で全国の選挙結果を比較し、人口が少ない地方と多い都市部では数倍の格差があることを問題視して、選挙の無効と是正した後の再投票を要求する行政訴訟を続発させた。それを受けて最高裁判所が出したのが「1票の格差は3倍まで合憲」と言う根拠不明の最終判断=判例だった。
「あれは自民党が強い地方の定員を削減して野党が強い都市部を増員することが目的だ。しかし、アメリカの上院議員の定員は1州に2人に固定されていて当選に必要な得票数は関係ない」「ボンズ(坊主)、今晩は」私の時事阿呆談が熱を帯びてきたところで警邏中の警察官に声をかけられた。安川1尉の裁判の話題は寝る前の酒を飲みながらにする。
  1. 2022/09/07(水) 15:36:05|
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9月7日・現在の入間基地で市民が殺害されたロングプリー事件

昭和33(1958)年の明日9月7日に戦前は陸軍航空士官学校、当時は在日アメリカ空軍ジョンソン基地(敗戦後、アメリカ軍が接収した直後に事故で殉職したエース・パイロットのジェラルド・R・ジョンソン大佐に由来する)でもあった航空自衛隊入間基地で基地内を通過していた西武池袋線の列車が銃撃されて、乗客の大学生が死亡したロングプリー事件が発生しました。
日本の警察当局は発生状況から「ジョンソン基地内で発射された銃弾が列車に命中した」と断定してアメリカ軍憲兵隊に捜査を依頼すると間もなく基地内で射撃訓練を実施していたピート・ロングプリー2等兵が「空射ちの練習をするのに実弾を抜くのを忘れた」と発生事実を認めたため身柄を拘束しました。しかし、この日、ロングプリー2等兵の所属部隊は射撃訓練を実施しておらず、空射ちでも列車に向かって射撃訓練することはあり得ないため、さらに追及したところ訓練とは関係なく個人的に銃を持ち出して入手していた実弾を込めて列車を射ったことを認めたのです。
当時の日米地位協定(日米と断っているが在外国アメリカ軍は当事国と地位協定を締結して所在する軍人にアメリカ東海岸と同等の処遇を保証していて現在の日米地位協定は諸外国の地位協定に比べてアメリカ軍に不利と言われている)では公務上の事件はアメリカ側に捜査・逮捕・裁判権が与えられていたため本人の家族や弁護士は勤務時間中だったことを根拠に「私的に射撃技量を向上するために実施した訓練」とするように空軍当局に圧力をかけましたが、日本では前年1月30日に群馬県の相馬原演習場でウィリアム・S・ジラード上等兵が金属ゴミとして高く売れる空薬莢を拾いに来ていた地元の主婦を呼び寄せて射殺した「ジラード事件」が発生していて、休憩中=公務外とする日本側の捜査・逮捕・裁判権の要求をアメリカ軍が拒否したため60年安保闘争の予兆のように反米世論が沸騰し、日本の前橋地方裁判所に殺人ではなく過失致死の罪状で起訴された公判の開廷直後だったので在日アメリカ軍としては慎重にならざるを得ず、上京する遺族の旅費と宿泊費から葬儀費用までを全額を支払い、基地司令自ら葬儀に出席して基地の所属隊員から集めた多額の弔意金を手渡しました。
結局、浦和地方裁判所は重過失致死罪で起訴されながら業務上過失致死罪で禁固10ヶ月の判決を出しましたが、前述のジラード上等兵の懲役3年・執行猶予4年の判決と比べるとジラード上等兵は主婦を至近距離からあきらかに狙って射殺している殺人罪に相当する極めて悪質な犯行なのに対してロングプリー2等兵は軽率な射撃遊びだったことは否定できず、ジラード上等兵の起訴事由と量刑が不当に軽く、ロングプリー2等兵は業務上過失致死罪としては日本人と同程度の量刑だったようです。
西武鉄道の車掌に聞いた話では池袋線の最終で入間基地内を通過すると線路上に若い男性が立っているので基地正門前の稲荷山駅に停車するため減速している車両を緊急停車させることがあったとのことです。基地内の踏切の脇には石地蔵が鎮座していますが、こちらは(不正外出で帰隊した)踏切事故で死亡した隊員の遺族が建立しました。
  1. 2022/09/06(火) 15:49:48|
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続・振り向けばイエスタディ239

オランダの私のところに日本の牧野弁護士から電話が入った。牧野弁護士は日本では私の北キボールPKOの刑事裁判やイージス護衛艦・あまごと漁船の衝突事故の海難審判の裁定を逆転して無罪判決を勝ち取った実績で官公庁や大手企業を中心に依頼が殺到していて時差を計算して電話を掛けてくる暇はないはずだ。旧交を温めるのなら休日で良いだろう。
「もしもしモリヤ先生、お久しぶりです」「これは牧野先生、こちらこそ失礼しております」「電話に出られたのは奥さまではありませんでしたが・・・」牧野弁護士は佳織と面識がある。アメリカ陸軍の指揮幕僚大学院留学から帰国した佳織と志織を連れて東京都下にある牧野弁護士の事務所を訪ねたことがあった。その時の会話が記憶に残っていれば電話に出た梢の声と口調で別人と気づいても不思議はない。
「あれは秘書兼通訳で家事担当の息子の義母です」「日本から連れていったんですか」「はい、一緒に暮らしていますよ」牧野弁護士の口調が離婚調停の事情聴取のようになってきた。今の牧野弁護士は行政訴訟などを専門にしているが、私の刑事裁判を担当するまでは普通の弁護士として離婚調停や民事訴訟、損害賠償訴訟なども手掛けていた。知人夫婦が離婚の危機となれば昔取った杵柄を手にするつもりなのかも知れない。
「ご心配なく。秘書は沖縄でもらい損なった嫁で、妻とも義姉妹の杯を交わしていますから公認の同棲生活ですわ」「やっぱりモリヤ先生は私の理解を超えていますね」前置きが弾むと日本時間では深夜になる私の帰宅時間に国際電話をかけてきた目的が判らなくなってくる。
「実は今回、陸上自衛隊から弁護の依頼を受けまして。私としては業務が立て込んでいるので断ろうと思ったのですが、ある方からモリヤ先生の教え子さんが絡んでいる事案と聞いて引き受けることにしました」「教え子ですか・・・安川和也2尉ですか」「やはりご存知ですか」私自身は航空自衛隊時代にも防府南基地に転属して後輩の一般空曹候補学生課程で3曹の班長を経験している。教え子と言えばこちらの方が密着度は高いのだが陸上自衛隊に転換してからは縁が遠くなってしまった。その点、安川2尉は久居の第116教育大隊で中隊長と新隊員の関係を超えて個人の重大な問題に介入しただけでなく名寄への部隊配置後も文通を続け、岩見沢での東キボールPKOの事前講習の時には旭川で再会を果たし、現在も交流を続けているので「教え子」と言われれば先ず名前が浮かぶのだ。
「安川1尉が指揮する4人の部隊が三重県の鈴鹿スカイライン沿いの高圧電線の保安用クレイムアを点検整備中に銃撃を受け、警備担当の隊員が反撃して犯人が死亡した事案はご存知ですか」「毎月1回、知人が日本の新聞を1ヶ月分まとめて送ってくれてるんだけど東北版だから詳しくは載ってなかったね。その前にも同じ場所で銃撃事件があったって書いてあったな」私は牧野弁護士が安川1尉と呼んだことに気を取られて説明が軽くなってしまった。安川が任官した時期を考えれば部内出身でもそろそろ1尉に昇任して中隊長なる頃だ。人事に泣かされ続けた私としては今回の裁判が始まる前に昇任させた原隊の温情が羨ましくなった。
「それで原告は死んだ銃撃犯の家族なんですか」「それが名古屋市内の弁護士団体なんですよ。要するに警察官職務執行法に基づく武器使用では逃走する車両を射つ場合、タイヤを狙って停止させることを優先しなければならないのに今回は短機関銃で車両の後部座席に連射している。これは殺意を持った戦闘行為だと言う論法です」「何だか懐かしいですね」牧野弁護士の説明に私は北キボールPKOで検察官が主張していた罪状を思い出してしまった。あの時の牧野弁護士は自衛隊や軍事行動に関しては素人で被告人である私が軍事常識と戦争法を詳細に解説して弁論していた。検察側も軍事のプロである私から見れば素人であることに大差はなく公判が回を重ねる毎に弁護側優勢になっていったのも当然だった。
「短機関銃の射程距離と命中精度を考えれば猛スピードで逃げる車両のタイヤを狙って射つなんて無理な相談だね。外さないように射てば車体の真ん中に命中するのは当り前だのクラッカーだ。私の裁判みたいに相手が素人なのを自ら暴露させる戦術も有効かも知れませんな」「やはりモリヤ先生に電話して良かった。あの時の経験が役に立ちそうです」私の見解を助言として受け止めた牧野弁護士は電話してきた目的を自己申告した。
「ところで牧野先生に安川1尉が私の教え子だって教えたのは誰ですか」「モリヤ先生の後任の陸幕法務官室事務長で今は大宮にいる佐藤知美3佐です。佐藤3佐と安川1尉は面識があるそうで、裁判に関する相談を受けて私の名前を出したようです。佐藤3佐は『陸幕から依頼が入れば受けて欲しい』と電話をかけてきました」佐藤知美3佐とは何通か書簡を遣り取りしながら前回の日韓・日中の武力衝突に関する調査で訪日した時に初めて対面している。私が日本に残してきた雑多な人脈は上手く噛み合って見事に機能しているようだ。
  1. 2022/09/06(火) 15:46:49|
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9月5日・義足のエース・パイロット=ダグラス・バーダー大佐の命日

1982年の9月5日は航空機事故で両足を失いながら義足で戦闘機を操縦して第2次世界大戦に参戦し、1941年までの緒戦で公認撃墜数22機、共同撃墜4機、不確実6機、撃破11機の戦果を上げたイギリス王室空軍のエース・パイロット=サー・ダグラス・ロバート・スチュアート・バーダー(アメリカ読みではベイダー)大佐の命日です。
バーダー大佐は飛行機が初めて実戦に投入された第1次世界大戦が始まる4年前の1910年にロンドンのシティ・オブ・ウェストミンスターで生まれました。幼い時期をインドで過ごし、11歳の頃に第1次世界大戦での多大な戦功によって独立軍種になっていた王室空軍の士官だった叔父の影響で空軍を志願するようになり、1928年に空軍大学に入学して1930年にパイロットとしてケンリー基地の第23飛行隊に配属されました。空軍大学校ではスポーツ万能の荒くれ者として有名だったようです。
1930年代は鉄骨に紙張りの複葉機から金属製で単葉翼の機体に移行する発展期で、航空機の開発と購入の予算獲得と操縦技術の誇示のため曲技飛行が盛んに行われ、バーダー少尉も花形でしたが、1931年12月14日にウッドリー飛行場で墜落して両足首から先を失ってしまいました。バーダー少尉は義足を装着しての歩行訓練に励み、航空機の操縦にも挑みましたが、航空機はスティック・レバー=操縦桿とラダー(方向舵)・ペダルで操縦するため足の感覚は必要不可欠であり空軍医療委員会から「パイロット不適格」の判定を下され1933年に退役しました。退役後はアジアの石油会社(現在はシェル傘下)の航空部門に参加する一方でゴルフに励んで身体能力を維持・向上させていたようです。
1939年になるとナチス・ドイツとの開戦を予見するようになり、王室空軍の中央飛行学校に合格すると復習課程を終えて1940年2月にダックスフォードの第19飛行隊に配属され、初めてスピットファイアに搭乗しました。当初は海上での船団護衛でしたが、間もなく第222飛行隊に基地内移動すると同年6月にダンケルク上空でドイツ軍機と交戦してコルディスホール基地の第24飛行隊長に抜擢されました。
この飛行隊はフランス戦線で多大な犠牲を出して士気が低く、バーダー大尉はパイロットを鍛え直し、パイロットたちも両足がない隊長に勝てない自分の不甲斐無さを噛み締めて訓練に励み、同年8月30日にはドイツ軍機12機を撃墜し(バーダー大尉は2機)、バトル・オブ・ブリテンでは1940年末までに67機を撃墜して戦死者は5名でした。
1941年3月からはフランス占領地のタンメール基地の戦闘航空団を指揮するようになりましたが同年8月8日に昼間爆撃隊の護衛中に味方の機銃で誤射されて脱出し(公式記録ではメッサーシュミット109との空中衝突)、ドイツ軍の捕虜になりました。
ドイツでは何度も脱走を試みたため古城を収容所にされましたが、イギリス軍は繰り返し交換用の義足を投下し、ナチス・ドイツ軍も敬意を払って帰路の安全を保障したと言われています。終戦後は1946年2月に王室空軍を退役して石油会社に復帰する傍ら趣味として飛行機を操縦して身体障害者の憧れであり続け、財政支援と合わせた身体障害者福祉への功績によって1976年に勲章を授与されました。
  1. 2022/09/05(月) 15:04:33|
  2. 日記(暦)
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続・振り向けばイエスタディ239

翌日、昭和一郎=島田元准尉が次の放送のため市内のローカルFM局に顔を出すとラジオ・メールが殺到していて、長いつき合いになっているアシスタント・ディレクターの女性がプリント・アウト(印刷)しておいてくれたメールは束になっていた。
「最近は老人ホームが新型コロナで入所者同士の接触を制限しているから僕のラジオのリスナー(聴取者)が増えているとは聞いてたけど、年寄りはメールができないからリクエスト数には反映されなかったんだよな」「どこかのホームでスマホの講習会でもやったのかしら」女性ディレクターは以前、届いたメールを先に通読していたが、昭和一郎に「自分宛てのメールを先に読むのは信書の秘密に抵触する」と叱責されて以来、プリント・アウトするだけにしている。このディレクターは平成になって間もない生まれなので昭和的日本人の美意識は知らないはずだが、家にはいない祖父の世代の昭和一郎の薫陶を受けたおかげで絵に描いたような日本女性に脱皮して幸せな家庭を築いている。
「ふーん、こうしてラジオ・ネームに目を通すと若い世代が多いようだね」「キラキラ・ネームですか」「それじゃあお手上げだが、今人気のタレントの名前を借りたのが多いな」説明しながら昭和一郎はメールの本文を速読し始めた。女性ディレクターが机の反対側の席で顔を観察していると表情が次第に険しくなってきた。以前も加倍政権が安全保障関連法案を国会に提出して大手マスコミが徹底的な批判を展開した時、教員に岐阜市内での反対デモに誘われた高校生から意見を求めるメールが届き、昭和一郎は市役所の担当者から政治的発言は禁止されていたため日時と市内の場所を指定して直接話し合う機会を設けていた。それは日韓日中の武力衝突でも繰り返されたのだが今回は理由が思い当たらない。
「市内の中学高校では今回の破壊された原子炉をコンクリートで埋設する作戦をアメリカ軍が北朝鮮を攻撃する口実だったと教育したらしい。最近はテレビでも自衛隊を悪者にする報道は目立たなくなっているが、学校の教員の洗脳教育は止められないようだ」「北朝鮮のミサイル工場の爆発はアメリカ軍が巡航ミサイルで攻撃したなんて北朝鮮と中国が後で発表した通りじゃあないですか」昭和一郎から受け取ったメールに目を通した女性ディレクターも口元を歪ませて非難の声を上げた。ただし、このメールを送ってきた生徒はスマートホンでの報道サイトが絶賛しているアメリカ軍のBー2の戦果と教員の見解があまりにも掛け離れているため先輩たちから申し送られている昭和一郎に助言を求めてきたらしい。
「三重県の鈴鹿山脈の高圧電線で陸上自衛隊が高架の上で銃撃されて犯人を射殺した時も市役所の職員や学校の教員が『自衛隊による殺人事件』ってビラを市内で配っていましたけど」「あの事件は結局、名古屋の弁護士団体が刑事告発したから裁判になっているよ。そんなことは新聞の隅に小さく載っただけだったがね」鈴鹿山脈を越える高圧電線電の保安用指向式散弾地雷・クレイムアの点検・補修のため松本から派遣されていた安川2尉以下の山岳レンジャーが高所作業中に鈴鹿スカイラインから銃撃を受け、田中1曹が上腕部裂傷の重傷を負い、逃走した犯人の車両を道路上で警備に当たっていた岡野3曹が銃撃して実行犯を射殺した事案は名古屋市の弁護士団体が「殺人罪」で刑事告発したため裁判になっている。しかし、防衛省・陸上自衛隊が依頼したモリヤ元2佐の盟友・牧野弁護士の「物的証拠は全て警察が管理しているから隠滅の可能性はない」と言う主張が認められて被告人となった岡野3曹は松本駐屯地内で生活し、形式的に警務隊の監視下に置かれている。
「本当は戦略爆撃機も災害派遣で活躍することがあるって話をしたかったんだが、これだけ同じ内容のメールが集まっているとこちらを優先しない訳にはいかないな」「政治色抜きで話せますか」市役所の担当者は「地方自治体は政治的中立を保たなければならない」と言う建前で政治色を帯びた発言を禁止しているが、実際は職場の公務員労組の批判や反戦平和運動に参加している市民からの苦情を懼れているのだ。また市内での懇談会の案内で終わりそうだ。
「この曲は平成の歌ですけどどうしましょう。学校で教員が教えている曲だそうです」「何って歌だい・・・中島みゆきのノーバディー・イス・ライトかァ、聞いたことないな」ここで女性ディレクターがメールに記されているリクエスト曲を採用するかを相談してきたが、基本的にフォーク嫌いの昭和一郎は知らなかった。そこでディレクターはパソコンを操作してインターネットでこの曲を検索するとスタジオのヘッド・ホーンに接続した。
「ノーバディー・イズ・ライト、ノーバディー・・・(16回)、もしも私が全て正しく とても正しくて周りを見れば・・・争う人は正しさを説く 正しさ故の争いを説く その正しさは気分が好いか・・・」この曲を反戦歌と聞いた昭和一郎は「挑戦者たち」の「地上の星」「ヘッドライト・テイルライト」以来、比較的好きになっていた中島みゆきに幻滅してしまった。
エリナ・86・5・28(FM沖縄)イメージ画像
  1. 2022/09/05(月) 15:03:15|
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9月4日・「スパイM=飯塚盈延が死んだ」とされている日

昭和40(1965)年の9月4日は戦前の治安維持法に基づき共産主義革命活動を専門に取り締まっていた警視庁特別高等警察課のスパイとして極めて巧妙に立ち回り、日本共産党を壊滅状態に追い込むことに多大な貢献をした「スパイM=偽名の松村昇に由来する」こと飯塚盈延(みつのぶ)さんの命日と言うことになっています。
日本共産党は創設時から武力革命を党是として敗戦後も朝鮮戦争に呼応してソ連から供与された武器で占領軍を攻撃して日本の共産主義化、少なくとも南北分断を画策していましたが、70年代学園紛争を経て共産革命の気運が終息すると選挙による政権獲得に戦略を転換し、その宣伝材料として戦前の思想弾圧を内部調査して、軍国主義と戦争に反対して弾圧を受けた犠牲的平和の守護者を演じるようになりました。飯島さんはその信憑性は全くない宣伝の中で憎むべき極悪人役を押しつけられた被害者なのかも知れません。
飯塚さんは明治35(1902)年に現在の愛媛県西条市で生まれました。尋常小学校では「天才」と仇名されるほど成績優秀でしたが当時の一般家庭の経済力では進学できず、働き始めた大正7(1918)年に起こった米騒動で労働運動に関心を持ち、日本共産党としては初の労働者出身の党員になりました(それまでは富豪の息子の大学生ばかりだった)。すると党からソ連共産党がモスクワに開設したアジアの植民地での革命の指導者を養成する東方勤労者共産大学に派遣されましたが、日本共産党はソ連が作った革命の道具に過ぎないことを知り、帰国して警察に検挙されたのを切っ掛けに転向するとスパイとして共産党に復帰したのです。その後は革命資金を奪取するため共産党員に日本初の銀行ギャングを働かせるなどの過激な闘争によって警察に摘発させる口実を与えながら潜伏情報を流して組織の弱小化を進めました。それでも共産党員たちはソビエト帰りの飯塚さんを尊敬・信頼して疑念を抱くことはなかったようです。そうして一連の事件の捜査によって「昭和7(1932)年10月30日に熱海の旅館で幹部による地方代表者会議が開催される」との情報を入手した特高警察によって出席者全員が逮捕されて(共産党側が発砲して警察官が重傷を負った)、日本共産党は事実上壊滅しました。
飯塚さんは事件後「用済みになったから特別高等警察に抹殺される」と恐れて兄と一緒に満州で建設業を営み、敗戦後は革命組織として人殺しを厭わない日本共産党に報復されることを怖れて逃避生活を送り(日本共産党は真逆の見解)、その死が公式に発表されたのは昭和51(1976)年10月28日の衆議院本会議で公明党の矢野絢也議員の発言中に「反共の犬、犬が吠えている」と執拗に野次を飛ばしたことで懲罰委員会に付託された共産党の紺野与次郎議員が「特高首脳部はスパイ飯塚盈延に大金を与えて姿をくらませ、その後、飯塚は終生社会からの逃亡者としての生活を行い、待合に隠れ、北海道と満州を往復し、終戦後偽名で帰国して以来本籍を隠し、偽名を使い続け、元特高らに消されることを恐れ、一室に閉じ籠り、昭和40年酒におぼれて逃亡者として生涯を終えている。しかし、生地の本籍上の飯塚盈延はいまでも生きていることになっています」とまくし立てた反論でした(議事録では戦前の特別高等警察の思想弾圧を述べた極めて長い弁論の僅かな一部)。
  1. 2022/09/04(日) 15:06:34|
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続・振り向けばイエスタディ237

「不思議な光景ね。戦略爆撃機が平和のために活躍するなんて信じられないわ」岐阜県可児市では島田信長元准尉と妻の順子が居間のテレビで国営放送が比叡山ドライブウェイの山頂駐射場から中継しているアメリカ軍による原子炉封鎖作戦の特別番組を視聴していた。画面には京都方面の空に菱型の編隊を組んだ黒い点が4つ映り、それが大きく鮮明になってくるとBー2の翼がついた円盤のような不思議な機体であることが判り、通り過ぎて琵琶湖の向こうの山脈の向こうに姿を消した。すると東京のスタジオに替って日本政府が公式発表している作戦の概要やBー2の解説が始まって間をつなぎ、やがて戻ってきたBー2が通過する光景を中継する。その繰り返しで連続ドラマの昼の再放送や定時番組を潰した。
「爆撃機って熊本の空襲の時に焼夷弾を撒き散らしたBー29の印象しかないけど今度は原子炉の放射能を止めてくれるのね」「お前は赤ん坊だったじゃないか。それは親に聞いた話だろう。俺は防空壕に入らずに夜空を見上げていたが、夜空に伸びた照空灯の光の線がBー29を照らし出すと高射砲が射撃を始めるが、全く気にしないように焼夷弾を降らしていたな」島田元准尉は順子の感想の前に空襲の記憶の方を補足した。こうなると話が反れたまま発展してしまうのが元自衛官で現役のDJの習性なのは順子も解っている。
「俺はどちらかと言えばベトナム戦争の時の北爆の記憶の方が強いな。あれもベトナムの共産化を阻止するための正義の攻撃だったはずだが、ベトナム戦争はアメリカや日本のマスコミが言ってるような構造ではなかったようだ」「あの頃、貴方はベトナム戦争に反対している人たちが敵だったんだけど、どこかで勉強したの」「うん、モリヤ閣下に教えられた」夫婦の会話は反れたまま弾んできた。島田元准尉は地方ローカルFM局のDJとして公共電波に乗せて情報を発信するため放送前の事実確認を怠らない。大概は市の図書館に通い、インターネットで検索して調べているが、戦後史となると世に知られていない最高権威の世話になっている。それは今では陸上自衛隊教育訓練研究本部で部長を務めるモリヤ佳織将補の夫のモリヤニンジン元2佐なのだが、本人はオランダで暮らしているので東京のモリヤ将補を通じて問い合わせている。モリヤ元2佐によるとベトナムは第2次世界大戦でナチス・ドイツに降伏したフランスの植民地だったため他の東南アジア各地域のように独立に向けた政治機構と法制度の整備や国土建設と産業育成、何よりも国民の近代教育に着手することができなかった。ところがヨーロッパで連合軍の反攻が始まってベトナムのフランス軍が敵対すると一瞬のうちに放逐・占領して現地人の独立軍の育成に着手した。しかし、日本の降伏=敗戦が早かったため軍事組織は未完成の状態でフランス軍の再占領が始まり、多くの日本軍の将兵が独立軍の将兵育成と抵抗戦闘に参加した。この独立軍が建国したのが北ベトナムであり、南ベトナムはフランスによって樹立され、インドシナ戦争に敗れて撤退すると共産主義による統一を阻止するためにアメリカが軍事介入したと言うのが本当のベトナム戦争の構図らしい。ところが日本のベトナム戦争反対運動の活動家やマスコミは中国共産党の東南アジア支配を拡大することを目的にアメリカの軍事行動を妨害していたので島田3曹(当時)も北ベトナムを滅ぼすべき毛沢東の傀儡政権だと思っていたのだ。しかし、史実を知っても平和な名古屋で男女のデモ隊がギターを弾きながら反戦歌を合唱していた姿を思い出すと無性に腹が立ってくる。
「今回は鉛を混ぜたコンクリートを詰めた1トン爆弾で破壊された原子炉を埋めてしまう作戦だ。レーザー誘導の精密爆撃する成能はアメリカ軍のBー2がトップなんだろう」「ソ連はチェルノブイリではどうやってコンクリートを運んだのかしら」何度目かの間をつなぐ解説で「鉛を混入したコンクリートで原子炉を埋設する放射能の遮断方法はソ連がチェルノブイリで行った対策の踏襲・模倣だ」と聞いた夫婦は相変わらず違う視点から意見を述べ合った。この島田元准尉の見解は先ほどの順子の感想への回答になっているのだが、関心は別に移っていた。尤も夫婦の日常会話とはぞのようなものだろう。
「これで11回目になります。東京からの情報では現時点までBー2が投下した爆弾は全て原子炉内に命中しているそうです」テレビの画面は3ヶ所の原子力発電所にコンクリート詰め投下弾を投下し終えた3機のBー2が琵琶湖上空で編隊を組んで通過する光景が映っている。かつて中国の細菌兵器=新型コロナが急拡大して懸命の対応を続ける病院の医療関係者を激励するため航空自衛隊のブルー・インパルスが首都圏上空を編隊を組んで飛行したが、この3機のBー2の編隊は自ら人命を救う大きな貢献を果たしているはずだ。国営放送のアナウンサーはそのことには全く触れていない。島田元准尉は次の放送でこの事実を指摘しようと考えた。
「アメリカ軍ではこの作戦をホールインワン16と命名しているようです」「なるほどピッタリなネーミングですね」続く間をつなぐ解説で国営放送は妙に軽い話題でお茶を濁した。
  1. 2022/09/04(日) 15:03:48|
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9月3日・琉球王統の軍人・親泊朝省大佐が一家心中した。

日本が敗戦した翌日の昭和20(1945)年の9月3日に琉球第2尚王統出身の親泊朝省(ちょうせい)大佐が一家心中しました。親泊大佐は琉球第2尚王統3代の尚真王の長男でありながら策謀によって廃嫡されて浦添城に隠棲した浦添朝満王の直系です。
現在の日本人は平成の天皇が在位中に旧・皇軍を冒瀆し、軍人を侮辱し続けていたため武士を血で汚れた存在として近づけなかった平安時代の感覚を継承しているのかと誤解してしまいますが、明治政府はヨーロッパの王族が軍務を果たしていることを模倣して明治6(1873)年の太政官達と明治43(1910)年の皇族身分令で皇族の身体堅固な男子に陸海軍軍人になることを義務づけていました。なお、朝鮮の李王家も皇族に加えられたため王太子以下の男子が軍人になっていて、陸軍中佐だった国王の甥は広島で被爆死=戦死しています。
一方、琉球王家は日本に吸収される前に藩並みに格下げされているため華族扱いになり、この太政官達や皇族身分令は適用されませんが、親泊大佐は旧制・沖縄県立第1中学校(現在の首里高校)から熊本陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て大正10(1921)年に37期生として陸軍士官学校に入校して首席で修了しています。同期には隼戦闘隊長として勇名を馳せた加藤建夫中佐、山県有朋元帥の娘の3男で跡取り養子になった山県有光大佐(山口県の風習?)、毛利家の当主の毛利元道少佐(家督と公爵を相続するため退役した)、敗戦後、陸上幕僚長になる杉本一次大佐、陸上自衛隊幹部学校長になる井本熊男大佐(井本生徒を首席修了とする記録もある)、陸軍内の親ソ派でシベリア抑留中に志位和夫共産党委員長の叔父と共にスパイ=工作員教育を受けた種村佐孝大佐、2・26事件の首謀者として銃殺された村中孝次大尉などの歴史に名を残す人物が揃っています。
兵科は騎兵で昭和6(1931)年に満州事変が勃発すると朝鮮半島北部の羅南に駐屯していた騎兵第27連隊の小隊長として出征し、匪賊=馬賊討伐で連隊長が戦死する激戦を経験しました。昭和9(1934)年に大尉に昇任して豊橋の騎兵第25連隊で中隊長を務めてからは昭和11(1936)年に陸軍大学校の馬術教官、昭和12(1937)年に参謀本部副官、昭和15(1940)年に騎兵学校教官と戦時とは思えない平穏な軍歴を重ね、昭和15(1940)年に大陸の占領地の警備を担当する第38師団の参謀に転出したものの対米英戦が始まっていた昭和17(1942)年には中佐として陸軍士官学校教官、昭和19(1944)年からは大本営報道部員として勤務して大佐に昇任しました。この報道部員時代に名を残したのが、フィリピンにマックアーサー元帥が「アイ・シャル・リターン」したため大本営が戦意高揚の軍国歌謡曲「比島決戦の歌」を製作した時、歌詞に敵将のマックアーサー元帥とニミッツ元帥の名前を入れるように作詞者の西条八十さんに命じても拒否したため親泊中佐が即興で「いざ来いニミッツ、マックアーサー、出てくりゃ地獄へ逆落とし」の歌詞を追加して完成させたと言うものです。
親泊大佐は戦艦ミズーリ甲板でマックアーサー、ニミッツ両元帥が立ち会った降伏文書への調印が終わった翌日、妻と長女、長男を拳銃で射殺した後、自決しました。
  1. 2022/09/03(土) 15:05:53|
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続・振り向けばイエスタディ236

マックハウアー中佐がヘリコプーターで小松基地に引き上げると在日アメリカ軍司令部として配属されているアメリカ陸海軍海兵隊の連絡官と統合幕僚監部から派遣されていた陸海空自衛隊の幕僚たちも退席して第5空軍と航空総隊の司令部要員だけになった。これが海上自衛隊であれば帝国海軍以来の伝統で士官は戦闘中も制服なのだが、航空自衛隊ではパイロットは緑色のつなぎ、その他は目的不明の迷彩服になるので雑然とした雰囲気になる。それにしても航空自衛隊の灰色地に細かい黒・茶・緑のモザイク模様の迷彩服はどこの風景に溶け込ませる効果を狙っているのだろうか。かつての灰色の作業服はコンクリートの色でエプロン=駐機場やランウェイ=滑走路での作業中に攻撃を受けて伏せた時の迷彩だった。建物の壁やブロック塀でも効果がありそうだが、最近は薄緑色(上空から見ると太陽光を反射した芝生に同化する)に塗装しているので期待はできない。
「アメリカがコンクリート弾を製造するのを待ってなくてもCHー47をダンプ・ヘリにすれば埋設できるんじゃないか。勿論、放射線量が安全な数値まで低下することが前提だが」「チヌークをダンプ・トラックに使うのか。それは面白いな」航空総隊司令部で運用を担当するパイロットの提案に第5空軍のパイロットが反応した。やはり余所者がいなくなると肩の力が抜けて日常的なくだけた会話になるようだ。
「CHー47Jならセンターフックに10トン吊り下げられるから特製投下弾10発分のコンクリートを投入できるぞ」「ダンプ・トラック方式よりも現実的だ」戦闘機パイロットの提案に現在は航空総隊直轄になった救難隊の運用を担当するヘリコプター・パイロットがプロとして補足修正を加えた。CHー47の機体下面には3つのフックがついていて梱包した10トンまでの貨物を吊り下げて運搬し、目的地で投下することができる。戦闘機パイロットたちは機体内に容器を設置してコンクリートを運び、それこそダンプカーが土砂を降ろすように機体の前部を上げた姿勢で傾斜させて全開にした後部扉から流し落とす方式を考えていたが、スリングで投下すれば重量で一直線に落下するので命中精度が上がり、機体内の気密を維持できるから放射線の影響も少なくなる。流石はプロの発想だ。
「それと投下弾の製造のどちらが早いかだ」「何にしてもチヌークの機体の遮断性で人体に悪影響が及ばないレベルまで放射線量が減少することが前提だ」「投下弾もスリングにした方が得策だな」「もう投下弾は必要ないだろう。ヘリ空輸隊に梱包方法を研究させよう」今回の封鎖作戦=ホールインワン16の戦果で放射能の減少が期待できるようになり、第5空軍と航空総隊の作戦立案にも選択肢と柔軟さが生まれ、議論は熱を帯びるよりも活況を呈してきた。
「放射線量が減少する前に追加の投下を実施するのなら500ポンド爆弾に変更してもらった方が良くないか。そうすればFー2で実施できる」「確かにジャパニーズFー16(=Fー2)の方がチヌークよりも搭乗員への放射線の影響は軽減できる」「2000ポンドの実績があるから500ポンドに応用するのは簡単なはずだ」「ライセンス生産を認めてくれれば順番待ちせずに日本のメーカーに作らせるぞ」原子炉破壊が発生した直後の作戦会議では日米双方で睨み合いを続けて現状確認と被害予想に終始していたが、今回は欝憤を晴らすように提案と議論が百出している。本来、事実上は紛争当事国である日本でも国内メーカーに爆弾の増産を発注して開戦に備えて備蓄を進めなければならないのだが、国会では売国マスコミに操られている立権民衆党などの強硬な反対で戦時予算が承認されず、メーカーの増産態勢は整っていても材料と部品の緊急調達は始まっていない。そこに災害派遣用の投下弾を発注すれば生産ラインが稼働し、続く爆弾の増産態勢にも円滑に移行できる。問題はアメリカの製造メーカーが新兵器ならぬ新製品の技術情報を日本に提供するかだ。防衛省の契約担当の官僚は能力、特に語学力が低く、アメリカ側が書類の文章に仕かけた罠に簡単に引っかかり、運用上の必要性から実施した処置で違約金を請求されることも珍しくない。
「そう言えばJASDFのチーム・コマキはハーキュリーズ・オリンピックで連覇していたんじゃあなかったか」今度は輸送機基地としての横田空港から第5空軍司令部に派遣されている輸送機パイロットが意外なことを言い出した。ハーキュリーズ・オリンピックとは世界中で採用・運用されているCー130ハーキューリーズ輸送機をアメリカに集めて開催しているパイロットやナビゲーター、ロードマスター、航空機整備員の技量を競う世界選手権で航空自衛隊小牧基地の第1輸送航空隊は参加翌年から完全制覇を続けていた。その後、中東やアフリカへの長距離輸送が続いたため参加を取り止めたがチーム・コマキの名は世界の空軍に轟いた。
「チーム・コマキのLAPES(物料投下)は神業だからレーザー誘導なしでも行けるんじゃあないか」残念ながら航空総隊司令部には輸送機パイロットがおらず誰も反応できなかった。
根岸士長(4高群)現在の航空迷彩服
  1. 2022/09/03(土) 15:04:38|
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9月2日・戦犯にならなかった支那派遣軍司令官・岡村寧次大将の命日

昭和41(1966)年の日本が正式に敗戦した9月2日は中国戦線で日本陸軍史上最大と言われる大陸打通作戦などを指揮しながら敗戦後の南京軍事法廷で無罪判決を受け、最高顧問待遇で蒋介石総統に協力した岡村寧次(やすじ)大将の命日です。
岡村大将は明治17(1884)年に元幕臣の息子として東京で生まれ、旧制・早稲田中学校を卒業後、東京陸軍地方幼年学校に入営すると陸軍中央幼年学校を経て明治37(194)年に第16期生として陸軍士官学校を卒業しました。同期には岡村大将を含めて三羽烏と呼ばれた永田鉄山少将、小畑敏四郎中将をはじめ東京裁判のA級戦犯として絞首刑になった土肥原賢次大将、板垣征四郎大将や最後の台湾総統の安藤利吉大将などがいます。
卒業後は首都防衛の任務を負って東京の六本木(敗戦後の防衛庁所在地)に駐屯していた歩兵第1連隊に配属され、明治40(1907)年からは陸軍士官学校生徒隊付に転任して中国からの留学生を担当するのと同時に中国の研究に取り組みました。
明治43(1910)年に中尉で25期生として陸軍大学校に入校し、大正2(1913)年に大尉で修了すると原隊の歩兵第1連隊に戻って中隊長になり、大正3(1914)年に参謀本部に転属して北京駐在を経験してからは大陸通として処遇されるようになりました。中でも昭和7(1932)年から上海派遣軍や関東軍の参謀、満洲国陸軍武官などを渡り歩き、国民党軍首脳に強固な人脈を構築しています。
昭和10(1935)年に参謀本部第2部長として中将に昇任すると仙台にあった第2師団長に就任しましたが昭和12(1937)年4月に満洲に派遣され、7月に盧溝橋事件が勃発して日中の本格化していく武力紛争の当事者になりました。さらに昭和13(1938)年に第11軍が新設されると初代司令官になって武漢攻略作戦で大活躍し、昭和16(1941)年に大将に昇任して北支那方面軍司令官に就任すると長引く大陸暮らしで弛緩仕切っていた軍の規律の引き締めに取り組み、大陸戦線での日本陸軍の内部崩壊を喰い止めました。こうして組織を建て直した北支那軍の総兵力41万人を以って昭和19(1944)年4月から12月まで実施したのがアメリカ軍のBー29による日本本土空襲を阻止するため河南省洛陽から広西省桂林までを縦に貫き、中国内陸の交通路を確保する大陸打通作戦でした。この作戦は目的を達成したので成功だったのですが、それ以前にマリアナ群島が陥落して太平洋側からのBー29による空襲が本格化して、必要性が薄れた中国内陸のアメリカ軍基地は奥地に後退したため戦略上の意味はありませんでした。
その後は第6方面軍司令官、支那派遣軍司令官に肩書は変わっても大陸に留まり、戦線の停滞により持久戦に転換し、現地の住民たちとも比較的友好な関係を保っていましたが、昭和20(1945)年8月に入って東京から「ポツダム宣言受諾」の方針が届くようになると敗戦が実感できない岡村大将は強い言葉で真意を問い質し、これが東京の徹底抗戦派の過激派将校に利用されたため、「昭和の陛下の聖断を厳守すること」を全軍に徹底して極めて規律正しく降伏したのです。その結果、戦犯を除く支那派遣軍の将兵は山田乙三大将の関東軍のシベリア抑留に比べれば多くが無事に帰還を果たしました。
  1. 2022/09/02(金) 14:09:44|
  2. 日記(暦)
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続・振り向けばイエスタディ235

「まだ閉鎖は不十分だ。コンクリート詰め弾を追加製造させて搬入される度に逐次投入するべきだ」CBIRFの派遣部隊指揮官のマックハウアー中佐は作戦終了後、ヘリコプーターで東京の横田基地へ飛び、在日アメリカ軍司令部での作戦会議で結果を報告した。会議には統合幕僚監部から派遣された陸海空自衛隊の担当者と航空総隊司令部の首脳陣も臨席している。
「RQー4の映像を見る限り、原子炉の埋設には成功したようだが・・・」「パイプが露出しているから内部の放射線が噴出する可能性は排除できない。勿論、流出量は大幅に減少するはずだが」在日アメリカ軍の高級幹部の呟きにマックハウアー中佐は語気を強めて反論した。英語における敬語は用いる単語や文章の変更ではなく語尾に「サー」を付けるのが基本形だが、今回は完全に省略していた。CBIRFとしては東北地区太平洋沖地震の福島第1原子力発電所の事故でアメリカ軍の参加そのものに消極的だった民政党政権=缶内閣に足を引っ張られていた時以上の成果を収めるつもりで来ているので、自衛隊は言うまでもなく身内である在日アメリカ軍司令部の上層部がこの戦果で妥協することは決して容認できないのだ。
「そのような少数の追加投下で効果が上がりますか」「次回からはヘリコプターによる手作業の投下になる。1機が上空でホバーリングしながらレーザーを照射して、もう1機から投下する。2000ポンド爆弾だから大型輸送ヘリになるだろう。兎に角、露出しているパイプの穴を封鎖しなければ駄目だ」マックハウアー中佐は航空総隊の2佐の幕僚の確認には丁寧に答えた。つまり今回の作戦で放射線量が減少すれば2000ポンド爆弾を搭載できる大型輸送ヘリコプターで接近することが可能になり、上空で後部扉を開けてロードマスター=機上輸送員が手動で投下すれば命中精度も格段に向上すると言うことだ。
「アメリカ軍としては今回のホールインワン16に製造した特殊投下弾を全て投入したから追加製造には時間がかかるだろう」「現在は対中国との戦争の危険が高まっている。だから通常爆弾の製造も中止できない」「戦略空軍としては今回のホールインワン16で遅れた分を取り戻すことを優先するはずだ」在日アメリカ軍の参謀たちはマックハウアー中佐の見解が区切りになったところで戦闘組織としての立場で反論を始めた。確かに今回の原子炉封鎖作戦=ホールインワン16はアメリカ政府が弾道ミサイルによる原子炉破壊を北朝鮮の新たな核攻撃と断定したことで始まった軍事作戦なので、軍の技術研究所と爆弾の製造メーカーも全力を投入してレーザー誘導式の鉛を混入したコンクリート詰め投下弾を開発・製造したが、本業はあくまでも殺戮兵器の研究開発と製造であって優先順位が低くなるのは仕方ないことだ。
「ところで北朝鮮に向かった予備機のBー2は何もしないで大戦果を上げたようですが、何をやったんですか」日本では災害派遣と認識されている原子炉封鎖作戦の会議が妙に殺伐とした雰囲気になってくるとマックハウアー中佐は軍人としての関心を示した。CBIRFも核と生物化学兵器による攻撃と事故に対処する軍の組織であって消防のように人命救助を主任務にしている訳ではない。日本では航空自衛隊のメディック=救難員を自らの危険を顧みず、嵐の海や吹雪の山岳で遭難者を救助する人命救助の英雄として賞賛しているが、実際は陸上自衛隊の空挺、レンジャーと海上自衛隊の潜水員の正規の課程教育を受けていて戦闘員としての能力も極めて高く、戦時には敵地に脱出・降下したパイロットを救出するため機銃掃射で地上の敵を制圧しながら着陸し、負傷していれば担架でヘリコプターまで搬送して応急処置をする。
「あれは謎なんだ。我々はJASDFが何かやったんだろうと思っているんだが、絶対に口を割らない。あれだけの大爆発を起こしたんだから液体燃料の弾道ミサイルを破壊したのは間違いないのだが、奴らもテポドン2を何回か射ち上げているから素人ではない。取り扱いには十分に注意するだろう。JASDFよ、本当に何をやったんだ」マックハウアー中佐の疑問には思いがけず在日アメリカ軍の副司令官が回答した。この口ぶりでは軍事秘密を隠蔽しているのではなく本当に原因不明の謎らしい。それにしても長距離弾道ミサイルが格納庫内で爆発して燃料貯蔵庫まで誘爆した大事故の原因がアメリカ軍をして現時点でも推察できていないと言うのは下手な小説並みのミステリーだ。
「発射命令が北京の指令を受けた書記長陛下の鶴の一声だったのは毎度のことだが、封鎖作戦の実施を日本政府が発表したのは当日の朝だったからかなり唐突な発射命令だったんじゃあないかな。そんな慌ただしい作業中に突発事故で液体燃料に引火した。そんなところで納得してくれ」在日アメリカ軍副司令官の顔が必ずしも冗談ではないことを見て取った航空総隊の幕僚長がなだめるように見解を述べた。しかし、幕僚長自身もこれ以上の推理を働かす情報は持っていない。この謎が憶測を呼び、敵対する者同士で相手の犯行とする疑惑を呼び起こし、それが憎悪にまで暴走するのは人間社会では当然の流れだ。
  1. 2022/09/02(金) 14:08:23|
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第117回月刊「宗教」講座・精進料理教室1時間目・胡麻豆腐

今回から月刊「宗教」講座はネタ切れにつき精進料理教室を開講します。戒律を持たない浄土真宗の門徒を除く日本の佛教徒が「精進料理」と聞くと寺で食されているはずの肉魚=動物性蛋白質を使っていない野菜・根菜・豆類だけを材料にした料理を思い浮かべますが、これは東アジア限定の戒律に由来するものです。
中国の南北朝でも南朝の梁の武帝・蕭衍(しょうえん)さんは「皇帝即菩薩(北朝=北魏の孝文帝は「皇帝即如来=絶対者」と称していた)」と呼ばれたほど深く佛教に帰依し、学び、実践していましたがある時、僧侶に「殺生戒を保っているはずの佛教者が動物の死肉を食べても良いのか」と質問したところ誰も答えられず、その結果、中国佛教では僧侶の肉食を禁じる独自の戒律ができて、朝鮮半島や日本でもそれを踏襲したため材料に肉魚を用いない「精進料理」が生み出されました。ちなみに東アジアの精進料理は修行僧の精力を低下させて不邪淫戒(女犯の禁止)を保つ副次的な効果も期待されて、植物でも精力を強める大蒜(ニンニク)や韮(ニラ)、辣韮(ラッキョウ)、葱(ネギ)、玉葱(タマネギ)なども材料として禁じられていて(最近は疲労を回復する食材として無視している)、禅寺の山門脇に立っている「禁薫酒入山門」の石碑の「薫」は匂いが強いこれらの野菜のことです。
一方、南方佛教では街中で托鉢して供養される食糧を口にするため材料を選り好みすることはできず「三種の淨肉」であれば食べることが許されます。この「三種の淨肉」とは「自分のために殺された生き物の肉ではないこと」「殺されるところを見ていないこと=助けなければならない」「疑いなくこの両者ではないこと」と言うもので、釋尊が般涅槃(逝去)された原因も南方佛教では豚肉による食あたりですが、東アジアの佛教では茸に改竄されています。
そんな訳で第1回の献立は精進料理の代名詞になっている「胡麻豆腐」です。最近はスーパー・マーケットなどでもパック入りで売っているようになったので有り難味が薄れましたが、野僧が小坊主をしていた祖父の寺では住職=師僧=祖父が法要の後に檀家に自慢の精進料理を披露することがあって胡麻豆腐は大人気でした。その後、全国各地の色々な宗派の寺に参学したため習った材料の量や作り方が混乱している可能性がありますからアシカラズ。しかし、京都の臨済宗の寺では参禅者に雲衲=修行僧が典座(臨済宗なので「てんざ」、曹洞宗なら「てんぞ」)で胡麻を擦る姿を見せても実際は出入りの料亭が納入していました。

胡麻豆腐・4人分程度(切り方次第)

材料
白胡麻・70から80グラム(安物の葛粉の時は黒胡麻でも可)
吉野葛粉(高級品ほど白くなる)・40グラムから45グラム
水・2カップ
醤油・大匙1杯
味醂・大匙1杯
好みで生姜(ショウガ)又は山葵(ワサビ)・少々

作り方
1、胡麻を擂り鉢で念入りに油が出るまで摺って味噌状にする(大量に作る本山や僧堂では電気ミキサーを使っていた)。
2、水を少しずつ加えながらのばす。
3、手拭や目が細かい笊(ざる)などで濾しながら鍋に搾り入れる(寺によっては水に浸して浮いた胡麻の皮を除いてから鍋に入れて水を足していた)。
4、葛粉を加えて中火にかけ、木べらでかき混ぜながら煮込む。
5、沸き立って底が見えるようになったら弱火にして十分程度加熱を続け、火を止めて金属製の型に流し込む。
6、表面が固まってくれば型のまま水に沈めて三十分程度冷やし、その後、冷蔵庫で十分に冷やす。
7、調味料を混ぜて付け汁を作り、好みによって生姜や山葵を擂り入れる。
8、型から出ない時はそのまま切れ目を入れて底に空気が入れば出る。

野僧は梁の武帝とは妙な法縁があります。法戦式で首座(曹洞宗だったので「しゅそ」、臨済宗なら「しゅざ」=修行僧のリーダー)を務めた時の問答の本則=主題が碧厳録冒頭の「武帝問達磨」の一節「廓然無聖(かくねんむしょう)」で、問答に先立って三方に載せた祖録(公案集)を掲げて「挙(こ)す。梁の武帝、達磨大師に問う、如何なるか聖諦第一義、磨曰く廓然無聖、帝重ねて問う、朕に対する者誰ぞ、磨応えて曰く不識、帝契(かな)わず江(=揚子江)を渡って少林に至り、面壁九年」と大声で叫んだのです。あれから35年以上が経っても思い出せるほど暗記したので他人のような気がしません。
117・法戦式(本則)「挙す!」(法戦式・本則)
  1. 2022/09/01(木) 16:00:48|
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続・振り向けばイエスタディ234

冷蔵庫に作り置きしてある食材を電子レンジで加熱して、同じくボールに入れてあるサラダを千切ったレタスに載せ、朝作ったコンソメ・スープを火にかければ夕食の支度は終わる。単身赴任の幹部の中には夕食も部隊で取って帰る者もいるが、モリヤ佳織将補は陸上自衛隊の女性自衛官の最高位にある者として入校している陸海空自衛隊の女性自衛官の幹部たちに家事を放棄しない範を示す必要があり、簡単でも自炊している。平成に入ってからの日本では女性の社会進出に伴って育児が「夫婦の共同作業」と言われるようになった一方で仕事優先を理由にして子供を持たない夫婦が激増している。その点、モリヤ将補はアメリカ陸軍の指揮幕僚大学院への留学に娘を帯同しているので防衛省・自衛隊としては家庭生活と両立できる職業としての宣伝材料にしたいようだ。ただし、モリヤ将補自身はAOC(幹部上級)課程には夫と交代で入校したが、2年間の幹部学校の指揮幕僚課程では夫が演習のない教育隊に転属して1人で子供たちを育てた。つまり両親が子育てに払う自己犠牲は夫が1人で担ったことになる。夫が自衛隊生活で演じ続けた損な役回りをプロデュースしたのは実はモリヤ将補なのだ。
「それにしても北朝鮮のミサイル工場はどうして爆発したのかしら」1人分の夕食をテーブルに並べて夫から教えられた習慣で手を合わせるとモリヤ将補はテレビを点けた。この時間は国営放送のニュースだ。するとアメリカ軍による原子炉封鎖作戦=ホールインワン16の成功に続いて北朝鮮の弾道ミサイル格納庫の爆発事故の解説が始まった。この問題は課業時間中に陸上自衛隊教育訓練本部長室で行われた将官会合でも議論になったが、点け放しにしていたテレビで見た立野官房長官の緊急記者会見でも具体的な説明がなく、原因の推理に終始した。本部長の音頭でアンケート式に披露した将官たちの推理では常識的に「作業事故」説が大半だったが、中には現体制に不満を持つ軍人による破壊や兵士の暴動、潜入したアメリカの工作員による攻撃などと言う奇をてらった意見も出て意外に受けた。モリヤ将補は意表を突いた見解を期待されていたが、周囲と同様に「作業事故」説を唱えて参加者を失望させてしまった。
「Bー2が空襲に向かっているんだから工作員を潜入させる危険を冒すはずがないわ。そうなると軍人による破壊や兵士の暴動になるけど可能性は低いわね」国営放送では「北朝鮮研究の第1人者」と紹介した国際派ジャーナリストに原因を解説させているが、日本の軍事のプロでも最高峰の将官たちよりは数段落ちる。それにしても夫とのパジャマ・ミーティングでかなり高度な雑学に慣らされているモリヤ将補は素人でも思いつく低レベルな見解を偉そうに語る解説者を真顔で見詰めながら感心したようにうなずき、話の区切りに「それはどう言うことですか」と補足説明を求めてみせる国営放送のアナウンサーの演技力には本当に感心してしまう。毎回のように第1人者と紹介する各分野の専門家の話を聞いていても決して訳知り顔にはならず、それでいて旺盛な好奇心を感じさせる視線は絶対に只者ではない。昔の夫ではないが坐禅を組んで「空っぽ」の境地を極めているのかも知れない。
「アメリカ軍も原因はまだ判ってないようね」結局、国営放送のニュースでも北朝鮮の弾道ミサイル格納庫の大爆発事故の原因の具体的な説明はなかった。唯一、判ったのは爆発の規模から見て格納庫内にあった弾道ミサイルには液体燃料が注入されていて、それが何らかの原因で発火したことだ。つまり北朝鮮は長距離弾道ミサイル・テポドン2号の発射準備を進めていたことになる。若狭湾での原子炉封鎖作戦を妨害する目的であれば信頼性が高く、即座に発射できる固体燃料の弾道ミサイルで十分であり、あえて液体燃料の長距離弾道ミサイルを使用すると言うことはBー2が発進したグアム島を狙った可能性も否定できない。
「そう言えばママさんの謎も解き明かさないと寝られないわ」モリヤ将補はテレビに続き、インターネットでも爆発事故の原因を検索してみたが、信頼が置ける軍事専門サイトでも無責任な推理は掲載していなかった。モリヤ将補はパソコンを操作していて唐突に夕方届いていたママさんからのメールを思い出した。ママさんは今日の原子炉封鎖作戦で関西上空を往復していたBー2の編隊を見て「空襲の幼児体験が甦った」と言ってきたが、同じ年齢の母親は高校の夏休みの宿題で家族の戦争体験の作文を書くことになって頼んでも「記憶がない」と答えてくれなかった。映画「火垂るの墓」や「少年H」で描かれて有名になった神戸の空襲は昭和20年の3月17日と6月5日の2回だが、3月13日から8月14日まで8回(7月10日は堺市)繰り返された大阪の空襲の巻き添えも受けている。
「そんなの簡単よ。典子はお父さんが軍人で伊丹にいたから空襲は直接受けていないけど私は大阪で育ったからも経験が豊富なのよ」ママさんのスマートホンにメールすると返事は即座に返ってきた。確かに祖父は陸軍士官学校出身ではない予備士官だったので戦時中は家族を連れて伊丹で勤務していた。北朝鮮の大爆発問題もこのくらい簡単に解明できれば本当に助かる。
  1. 2022/09/01(木) 15:56:38|
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