昭和42(1967)年の明日11月1日に669平方キロメートルの琵琶湖に次ぐ220平方キロメートルの面積を持っていた八郎潟を干拓して造成した大潟村への入植が始まりました(現在の2位は4つの湖の合計220平方キロメートルの霞ケ浦)。
八郎潟は古くは日本海の離島だった男鹿半島の付け根に位置する汽水湖(海水と淡水が混じり合った湖)で、静岡県西部の浜名湖と同じく多くの海水魚と淡水魚が共存し、貝や海藻が豊富な上、小舟でも危険がない穏やかな漁場でした。ちなみに日本の内陸では唯一、北緯40度と東経140度の10度台の緯経線が湖の中央で交差しています。
八郎潟は平均水深が3メートル未満と浅いため江戸時代から海水の逆流が届かない北部から小規模な干拓が進められていましたが、湖全体の干拓となると表高20万石、実高40万石の秋田・久保田藩の財力でも手に負えず、技術的にも無理があったため干拓よりも原野の開墾を優先して江戸時代を終えました。
明治になると新政府は各藩が個別に取り組んでいた食料の増産を国家事業として行うことになり、奥羽越列藩同盟に与せず薩長土肥の反乱軍側に加わった久保田藩の貧窮を救済するため八郎潟の全面干拓が本格的に検討されるようになったのです。それでも土木技術は江戸時代にも遠浅の沿海を干拓した経験はあっても塩分を含んだ土を水田化しての稲作には成功せず、塩分に強い藺草(いぐさ=畳表の材料)や綿花などが栽培されていました。これでは米の増産にならず明治政府も本腰を入れることなく先送りにして大正、昭和の冷害による食糧危機に間に合いませんでした。
ところが敗戦後に占領軍が妙な理由から八郎潟の全面干拓を日本政府に強要したのです。それは日本の独立に向けたサンフランシスコ講和会議で開戦初頭に今村均大将が指揮する第16軍の攻撃によって9日間で降伏させられ、戦後の独立で東インド=インドネシアの植民地を失ったオランダを賛成させるために巨額の干拓技術の協力費を提供すると言う理由で、日本政府としても農地改革で耕作面積が縮小したところに徴兵されていた農家の2男・3男が復員してきて生じた余剰労働力の解消にもなる一石二鳥の妙案でした。
こうして昭和32(1957)年から工事が始まり、昭和39(1964年)に堤防工事の完成を祝す「干拓式」と称する式典が開かれ、大潟村が発足しました。しかし、実際は海水分を濃厚に含んだ土を脱塩しなければならず、八郎潟の湖口に水門を設置して調整池の水位を上げて満潮時の逆流を防ぎ、排水だけにする方法で淡水化を進めたのです。
こうして耕作可能になった昭和42(1967)年に全国から公募した入植者が移住して耕作を始めましたが、事業そのものの竣工は昭和52(1977)年になってからでした。
しかし、工事期間中は産業の主体を農業から商工業に転換する高度経済成長の真っ最中で、農家の2男・3男は街の工場に就職して労働者になり、さらに食生活の多様化による米余りで昭和45(1970)年からは減反政策が始まったのです。
ただし、大潟村は市町村別では秋田県内で最高の平均収入額を維持していて大規模農業の収益が商工業に勝ることを証明しています。
- 2022/10/31(月) 15:45:42|
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「お母さん、コンビニに新聞を買いに行ってきます」「新聞ならさっき読んでたじゃない」翌日の昼食後、梢は母に声をかけた。癌が末期になった父は完全に栄養点滴になっているので3食は母と交代で調理・喫食しているが今回は梢が後に食べて2時間は休憩だった。梢は午後から近所のコンビニエンス・ストアの店頭に並ぶ本土の新聞を買ってくるつもりらしい。
「本土の新聞が読みたいのよ」「何か違うのかね」「全く違うわ。本当はアメリカの新聞を読みたいんだけど普天間のBX(基地内売店)まで買いに行けないの」珍しく母は判り切っていることを確認してきた。母としては父の容態が急変した時に単独で対応することになるのを避けるため梢の外出には賛成できないようだ。
「ウチの沖縄2大紙では昨日のニュースで言っていた事故で墜落って仮説を勝手に膨らましてKLMが飛行前点検で発見した不具合を『ナビゲーション・ランプ(航法灯)の接触不良』って発表したのを『実際は致命的な故障を応急処置で発進させたことが原因』って決めつけているじゃない。まるで『それが原因で墜落した』って思わせる下手な小説よ」梢はオランダでモリヤと新聞を深読みして時事問題を議論する生活習慣が身についているため元教員の母よりも文脈の奥にある政治的意図を推理する読解力は鍛えられている。その眼力で見るとロシアはKLM321便を撃墜、若しくは強制着陸させた事実を公表する前に搭乗客の家族の不安を徹底的に煽り、諦めるまで追い詰めた上で生存を発表し、「生きているだけで満足」と言う浮かれ気分で原因を追及することを忘れさせる常套手段のように思われる。これは良くも悪くも忘れっぽい日本人の民族性を熟知した心理戦術だ。
「ついでに買ってくるものはないねェ。眠気防止に缶コーヒーでも買ってこようか」「夜食になるクッキーを買ってきて」梢が玄関で靴を履いて声をかけると見送りに来た母は現実的な依頼を返した。最近は鎮痛剤が強くなって父は意識を失っている時間が長くなり、夜間も介護ベッドの隣りに敷いた布団で仮眠し、寝息と心電計の信号音を聞いているだけになっている。主治医は死を迎えるために入院させる時期を計っているが90歳を過ぎている割に生命力が強く、意識が戻った時の思考力も全く衰えていないので、最近は母と「このまま自宅で死なせた方が良い」「心電計が止まってから病院に通報しよう」と話し合っていた。
「梢は全く不安そうに見えないな」「うん、かえって気合いが入ったみたい」母が夫婦の寝室に戻ると父は意識を戻していた。どうやら玄関での会話を聞いていたらしい。父も昨日、梢からKLMオランダ航空から受けた連絡を説明されてモリヤがこの時期に来日した理由が自分の遺言を聞き、最期を看取るためであることに深刻な責任を感じていた。父としては梢が日頃以上に快活に振る舞っているのが自分に心配を感じさせないための演技のように思われて妻に確認したのだが、意識を失っている間の会話でも同様らしく少し安堵した。すると再び意識が遠のき、妻が毛布を直してくれたことも気づかなかった。
「ただいま、クッキーを買ってきたよ」「お父さんは眠ってしまったさァ」梢が家に帰ると母は父の枕元の席で新聞を読んでいた。どうやら梢が指摘した記事を再読して問題点を熟考してみるようだ。梢は買ってきた本土の新聞4紙を見せてリビングに歩いて行った。介護ベッドが置いてある夫婦の寝室で一緒に読むには新聞は大き過ぎた。
「搭乗者名簿が載ってるわね。墜落事故の犠牲者みたい」リビングのソファーで新聞を読み始めると2枚目に搭乗者名簿が載っていた。最近の日本では個人情報の保護が過剰に厳格になっているためこのような一覧表の掲載も事前に家族の承諾を得るはずだが新聞から連絡を受けた覚えはない。仮に新聞社が戸籍上の妻である佳織の確認を受けたとすればモリヤがKLM321便に搭乗していて消息を絶ったことを知られてしまった。梢としてはモリヤが来日しながら佳織に会いに行かないことを申し訳なく思いあえて知らせなかったのだ。
「職業は佛教僧になってるわね。そうなるとKLMが発表したのかァ・・・オランダの感覚なら搭乗者の個人情報は読者の知る権利の範疇だわ」梢は昼のニュースを見たが搭乗者名簿は紹介していなかった。やはりテレビ局は長期契約の固定客=購読者を確保している新聞以上に視聴者からの疑問や苦情を懼れるようだ。梢は思わず苦笑してしまった。
「外務省が動き始めたのね。流石は双木大臣だわ」次の記事には双木外務大臣がいまだに公式発表を行わないロシア政府を強く批判し、ロシア国内の外交官に情報収集を命ずるのと同時にアメリカの国務省と国防総省、NATO軍にも情報提供を求めたことが解説してあった。敗戦後の日本人は外交と社交を混同していた外交貴族の時代のイメージで外務省の「外交官」を諸外国との友好関係を担う「友好官」と誤解しているが、中曽根政権以降は欧米並みに情報収集と外交工作を主任務にしている。双木外務大臣が乗り出せば次の展開が早まるかも知れない。
- 2022/10/31(月) 15:44:31|
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1913年の明日10月31日に東はニューヨークのタイムズスクエアから西はカリフォルニア州サンフランシスコ市のリンカーン・バークまでを結び、アメリカ合衆国本土を横断する自動車幹線道路・リンカーン・ハイウェイが全線開通しました。
1913年は日本では大正2年に当たり、大正天皇が青山離宮で献納されたダイムラー社の自動車に初めて試乗した年でダンロップが神戸に工場を開設しましたが、日本国内では明治29(1896)年に2輪車、明治31(1898)年に4輪車が持ち込まれても事実上、外国人専用でした。一方、アメリカでは1908年に発売されたT型フォードによって本格的な自動車社会が始まっていて、このハイウェイの完成で国民の自動車熱は更に高まり、新たな物資輸送の交通手段にもなったのです。
この時代の遠距離輸送の交通手段はアメリカでも鉄道でしたが、基本的に州単位の民間企業だったため州内で経営が成り立てば巨額の建設資金を投じてまで隣りの州と接続する意欲は乏しく(日本の私鉄にも通じる)、カリフォルニア州のサンディエゴから東海岸の鉄道を結ぶ大陸横断鉄道が開通したのは1919年になってからです。
リンカーン・ハイウェイはガス灯ヘッド・ライトの考案者で自動車の普及と自動車産業の振興のために全米各地で自動車レースを主催していた実業家のカール・グラハム・フィッシャーさんが「大洋から大洋を結ぶ通行無料の自動車専用道路の建設」を提唱すると建設計画を策定するに当たり、17台の乗用車と2台のトラックで予定ルートを試走するツアーを実施するなどの卓越した企画と演出を発揮して急速に建設の機運を高め、それに南北戦争による国家分裂の危機から守った英雄のエイブラハム・リーカーン大統領を記念する事業としての名目が加わったことで巨額の寄付金が集まり、既存の道路を改修・接続する形で驚くべき早さで完成しました(ワシントンのリンカーン記念館の序幕の9年前)。
ところがリンカーン・ハイウェイはニューヨーク州、ニュージャージー州、ペンシルバニア州、オハイオ州、インディアナ州、イリノイ州、アイオワ州、ネブラスカ州、コロラド州、ワイオミング州、ユタ州、ネバダ州、カリフォルニア州の13州を通っていますが、西部の州境は山脈や人が住まない荒野なので貫通を急ぐあまり無理なルートを切り開いた箇所も多く、1915年にコロラド州がロッキー山脈の難路・コロラド・ループを解消するなど各州が独自にバイパスの建設を進めると抜本的な修正を求める声が高まりました。こうして1923年に新たな大陸横断自動車道として国道30号線の建設が始まりましたが、この道路はリンカーン・ハイウェイと25パーセントしかルートが重複しておらず、5454キロあった全長が5057キロまで短くなりましたが、ウェストバージア州の北端を掠めるようになったため通過する州は14州に増えました。
この2本の道路の完成とトラックの発達によってそれまで州単位の地産地消、若しくは近隣大都市への持ち込み販売だったアメリカの1次産業の構造が気候が適した地域で大量生産した農産品を東西沿海地帯の大都市に運んで売り捌く大陸横断構造に拡大・発展して「アメリカを横切るメイン・ストリート」になりました。
- 2022/10/30(日) 15:27:29|
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「梢、東京のKLMオランダ航空さんから電話さァ」首里の安里家のマンションではリビングの固定電話が鳴り、眠っている父に付き添って雑誌を読んでいた梢に母が受話器を差し出して声をかけた。この言い方は相手が名乗った会社名をそのまま伝えたようだ。実は梢も朝9時5分に成田空港に着いたはずのモリヤから連絡が入らないことを不審に思っていた。モリヤは機体のトラブルで出発が1時間遅れることをアムステルダムからメールしてきていたので、久しぶりに国際電話料金を気にせず声を聞くのを楽しみにしていたのだ。
「東京にありますKLMオランダ航空日本支社の中園と申します。オランダ在住の佛教僧のモリヤニンジンさんが連絡先に指定されている安里梢さんですね」「はい、そうです」中園と名乗った男性社員は梢の返事を聞いて1つ息を呑んだ。顔は見えないが重苦しい雰囲気が伝わってくる。梢も受話器を握り直して深く息をした。
「モリヤさんが搭乗しておられる成田に午前9時5分到着予定の弊社321便がシベリア付近で連絡が着かなくなっています」「夫からは『飛行前点検で不具合が発見された』と聞いていますが事故ですか」梢の質問に中園は即答しなかった。
「オランダの本社としては最悪の事態を含めて可能な限りの確認を進めていますが交信が途絶える直前に妨害電波と思われる強烈な電磁波をアラスカのアメリカ軍が探知したとの情報をNATO軍から入手したようです」「1978年4月20日のコラ半島と1983年9月1日のサハリン上空でソ連軍が大韓航空機を撃墜したようなことが・・・」素人とは思えない梢の答えに中園は搭乗者名簿の職業欄に「佛教僧」と記入してあるモリヤニンジンと言う人物の素性を疑った。この反応は日常会話でこの情報を聞いていなければあり得ないはずだ。
「オランダとロシアは軍事的に対立していませんからそれはないでしょう。その後、321便から本社の運航統制室とオランダ航空当局に連絡を試みた形跡がありますから現段階では事故の可能性は低いと見ています。考えられるのは何らかの非常事態でロシア国内に緊急着陸した可能性です」「むしろ防空軍による強制着陸でしょう」覚悟を決めた梢の口調が冷静になると中園はかえって困惑した。中園の祖母は対米・対英戦で陸軍士官だった夫を失っても実家には帰らず、父親を含む遺児たちを育て上げた。それでいて反戦平和運動は「英霊を冒涜している」と批判していて、特に平成の天皇が中国と韓国、ヨーロッパや東南アジアからの国賓に日本軍の戦争犯罪を謝罪するのを「背信行為だ」と怒り心頭に達していた。
「それでは連絡先が他にもありますので」「はい、お忙しいところ長くなってしまって申し訳ありませんでした」「いいえ、今後は新聞社やテレビ局に情報を公表しますからマスコミの報道で確認して下さい」中園としてはもうしばらく亡くなった祖母を思い出せる毅然とした日本女性との会話を味わいたかったのだが業務には続きがあった。それにしても異国情緒を売り物している沖縄で古き日本の凛とした女性に出会うとは思ってもいなかった。
「終わったわ。有り難う」「KLMって今日、モリヤさんが乗ってくる飛行機でしょう」「うん、あの人が乗ってくる飛行機と連絡がつかなくなっているらしいの」「事故か・・・」梢の前に立って会話を聞いていた母に内容を説明すると父が意識を戻して弱々しく声をかけた。
「今のところ事故の可能性は低いみたいだけどロシア軍の基地に強制着陸させられたらしいわ」「さっきのニュースでは何も言ってなかったわよ」「お前はテレビのニュースを見ろ」父への説明に母が口を挟むと力がこもった口調で命令を与えた。母もうなずいたので梢が時計を見ると民放の昼のニュースの時間だ。梢はリビングへ出て受話器を置くとテレビを点けた。
「昼のニュースです。政府は先ほど緊急記者会見を開き、立野官房長官が日本時間の本日午前9時5分に成田空港港に到着予定だったオランダのアムステルダムを昨夜3時15分(日本時間)発のKLMオランダ航空321便が午前4時頃にシベリア上空で連絡を絶ったと発表しました。これを受けてオランダ航空日本支社も『ロシア軍がNATO軍司令部に対して領空侵犯として強制着陸させたと通告してきた』と緊急発表を行いました。なお、オランダ航空は321便が飛行前点検で航法灯の不具合が発見されたため出発が1時間遅れたもののフライトプランの時間の変更はロシア航空当局に通知してあり、領空侵犯には当たらないと説明しています。日本の外務省は過去にソ連軍やロシア軍が行った同様の事例に鑑み、在日アメリカ軍を通じて撃墜の可能性を含めて情報の収集を進めています。ここで外交安全保障担当の大村記者に話を伺います。大村さん・・・」ここで大村記者はソビエト連邦軍の系譜にあるロシア軍が民航機を撃墜しても「強制着陸させた」と発表してきた前科を解説した。
「お父さん、あの人が死んだら今度こそ後を追うから私が先に、一緒に逝くかも知れないわ」襖越しにニュースを聞いていた母が声をかけると梢は当り前のように決意を口にした。

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- 2022/10/30(日) 15:26:06|
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明治22(1889)年の明日10月30日に函館で積み荷の石油を下ろし、硫黄を積んで出航したアメリカの3本マストの帆船・チェスボロー号(全長62メートル・1461トン)が暴風に遭遇して流された青森県西津軽郡牛潟村(後の車力村、現在のつがる市牛潟町)の西浜中ノ森沖で座礁しました。
1年後の明治23(1890)年9月18日夜半に和歌山県串本沖で台風に遭遇したオスマン・トルコ海軍の木造フリゲート・エトゥールル号が遭難・転覆して656名が荒れ狂う海に投げ出されて587名が死亡・行方不明になったものの地元漁民の決死の捜索・救助と家族の献身的看護によって69名が救助された事件と同様に牛潟でも地元漁民は積み荷の硫黄で黄色く染まって異臭が立ち込める海に木造の小舟で漕ぎ出し、すでに岩木山には雪が積る季節になっている中で海に飛び込んで遭難者を救助しました。そして浜では大きな焚火の周囲で家族が打ち上げられた遭難者を必死に看護して、凍えている遭難者を妻たちが裸になって抱き締めて温めたのです。
しかし、近代的灯台が海を照らし、海岸付近に漁村があって学校や寺院などの収容施設が完備していた串本とは異なり、車力村は江戸時代に実家に居場所がない農民や漁師の末の子供たちが開拓・定住した集落に過ぎず当然のごとく無医村でした。さらに海岸には屏風山と呼ばれる40キロに及ぶ砂丘があり、牛潟の集落から海岸までは2キロ以上の距離があったため大波で舟が流されないように番をしていた漁師の急報で村人が総出で駆けつけても人手不足は如何ともし難く、健脚な佐々木兵次郎さんと鳴海寅吉さんの2人が64キロの道を走って青森県庁に通報し、救援を求めたのです。
結局、23名の乗組員のうち助かったのは4名でしたが、単純に生存率で比較するとエトゥールル号が656人中69名の10.5パーセントなのに対してチェスボロー号は27人中4人の17.4パーセントで数字上はより多くの人命を救っていることになります。
それでも4名は無事に帰国を果たし、その後の村人の捜索で全員が収容された19名の犠牲者の遺骸は村人によって手厚く葬られ、昭和45(1970)年には車力村牛潟の高山稲荷神社の境内の一角(以前のミサイルロード=現在のメロンロードから海に向かうと高山稲荷神社の手前)に十字架の慰霊碑が建立されました。
また車力村は1990年にチェスボロー号を建造したアメリカのメーン州バス市と姉妹都市になり、それを記念して長距離走(集落から駆けつける村人の姿とも青森県庁まで走った2人を記念しているとも言われる)と長距離泳を競うチェスボロー・カップ水泳駅伝大会が開催されるようになりました。チェスボロー・カップでは参加者が泳いだ距離の通算が車力からバス市までの直線距離5714.67キロに達するのが目標ですが2005年の平成の大合併でつがる市に併合されてしまったため開催が市役所の担当者の企画運営になり、果たして存続できるのか大いに不安です(2019年以降中止されている)。
余談ながら航空自衛隊車力分屯基地には2007年からアメリカ陸軍の弾道ミサイルを探知する移動型Xバンド・レーダーを運用する部隊が駐屯しています。

チェスボロー号遭難者慰霊碑
- 2022/10/29(土) 15:59:23|
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「判りました。収納庫から出して携行することを認めます」トルコフ中佐は機長を連行することを伝えた無線連絡で外国人の乗客が要求した手荷物の持ち出しの許可を求めていた。カンボジアPKOで接触した中国人民解放軍も同様だったが、ソビエト連邦軍の体質を受け継いでいるロシア軍も中佐がこのレベルの独自判断を許されていないようだ。
「私たちは補助に当たらせてもらいます。その方が早く終わるでしょう」するとヨーロッパ人女性のベテラン客室乗務員が申し出た。トルコフ中佐は困った顔をしたが渋々うなずいたのを見て客室乗務員たちは一斉に立って座席の上の収納庫を睨んでいる乗客のところへ向かった。私の数列前の座席には熟年夫婦と思われるヨーロッパ人の男性と女性が座っていて手荷物が多く、出発時には客室乗務員に収納庫に詰めさせていた。その損な役回りを自分で買ったのは小森希恵だった。小森希恵は一直線にここまで歩いてきた。
「手伝ってやりたいがな・・・」私は手荷物が重そうで苦労している小森希恵を見て「助けてやろうか」と思案していた。レディファーストのヨーロッパでも上流階層の人間は駅で赤帽に荷物を運ばせるように客室乗務員の仕事と割り切っていて手を貸すことは滅多にない。
私は通路への出口を塞ぐように立っている兵士の横顔を見たが目は好色に染まり、口元がだらしなく緩んでいた。あえて確認しなかったが股間は膨らんでいたかも知れない。確かに小森希恵が両手を差し出して伸び上がり、荷物を持って肢体を反らし、身体をかがめて座席に置く動作を横から見ていると日本人女性特有の形の良い乳房の膨らみや細くくびれた腰の線、豊かな尻の肉感が刺激的で私でも若い頃なら興奮しただろう。特に小森希恵は長い黒髪を後頭部で結い上げる日本の客室乗務員の髪形をしているので額から頬、うなじの線が際立つので尚更だ。満洲や樺太に侵攻したソ連軍の兵士は日本人の集落を襲うと生理がある年齢層の女性を散々に強姦した上で殺害したが、集落を見つけた時にはこのような顔をしていたのではないか。
「それでは日本人も兵士に続いて下りろ。下にトラックが止まっているから荷台に乗れ」ヨーロッパ人たちがタラップを下りてバスと思われる車両に乗り込んで出発する音が聞こえるとトルコフ中佐は口調を冷たくして残っている日本人の乗客に命令した。客室乗務員たちは再び補助しようとしたがトルコフ中佐が仕草で制止して前方に立っている兵士が通路を封鎖した。それにしてもここからの移動はヨーロッパ人がバスで日本人はトラックだ。
「モリヤ元中佐、貴方には士官待遇を与えます」日本人はトルコフ中佐が指示を与えるまでもなく呼吸を合わせて立ち上がり、通路に並んで先頭から前部扉を出てタラップを下りていった。私は奥側の最後尾だったが操縦室扉の前に立っているトルコフ中佐に呼び止められた。前を行く中年男性は立ち止まった私を振り返りながら扉から出ていった。
「私としては機長と副機長の取り調べに弁護士として立ち会いたいと考えている。ロシアではどうなっているかは知らないが、ヨーロッパでは弁護士が立ち会わなければ取り調べを始められない。ウクライナの戦犯裁判でも取り調べには弁護士が立ち会っているよ」するとトルコフ中佐は驚愕と困惑、嫌悪と憤怒を目まぐるしく顔に浮かべた。
「よろしい。貴方は当基地ではウクライナでロシア軍将兵を冤罪で訴追している国際刑事裁判所の次席検察官、法曹関係者として振る舞うと言うのですね。これから私の車で司令部に連れていくから上層部に申し入れれば良い」「私はウクライナに限らずコートジボワール、旧ユーゴスラビア、アフガニスタンでの戦争犯罪も現地調査しているよ。私が求めているのは正義だけだ」私としてはコートジボワールの公判でフランスが断罪するバグボ前大統領が無罪になったことで中立性を訴えたかったのだが、ロシアはアフガニスタンのアメリカ軍やNATO軍が起訴されていないことで「国際刑事裁判所は西側寄り」と疑っているので空振りだった。
「流石は元軍人の検察官ですな。まだ私は操縦室に立て篭もっている副操縦士を拘束しなければならない。座席で待っていて・・・」トルコフ中佐が言い終わる前に操縦室扉が開き、制服を着た副操縦士がアタッシュケースを2つ提げて出てきた。
外からは「高いな」「荷物を受け取って」「手を引っ張るぞ」「重いわよ」「痛い、痛い」などと約50名の日本人の老若男女が手分けしてトラックの荷台に乗り込んでいる音と日本語が聞こえてくる。妙に大きなエンジン音はこのトラックが旧式であることを推理させた。
案の定、ヨーロッパ系の外国人は下士官用の4人部屋、日本人は兵士用の12人部屋の兵舎が割り当てられた。一方、私は遠く離れた基地の外れにあるBOQ(士官用宿舎)の個室になったが、食事は運搬食でトイレ、シャワーも付いているので建物を離れる必要はなく、司令部上層部に強く申し入れた機長と副操縦士以外の搭乗者との接触は完全に遮断された。つまり東京拘置所と大差がない幽閉生活になったのだ。せめて健康のためジョギングは継続したい。
- 2022/10/29(土) 15:57:26|
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10月25日に衆議院本会議で行われた故・安倍晋三元首相に対する野田どじょう元首相の追悼演説を聞いて思わず落涙してしました。
この追悼演説は自民党では当初、これまでの対立政党の代表が行う慣例に背いて盟友だった甘利明元幹事長を起用する方針でしたが、それも国葬を拒否して海外のマスコミに安倍元首相が最も悲しむであろう「日本人が分裂している」との誤解を与える暴挙に出た立憲民主党・泉健太執行部に任せれば政治信条を異にしても慎んで故人を悼む美風まで政争の具にして現在、国会で繰り返している死者を鞭打ち、辱める暴言を口にする惧れは十分にあり、予防措置としては当然でした。しかし、野田元首相は立憲民主党執行部の方針に造反して国葬に出席したので自民党としても信用する気になったのでしょう。
そしてアッキー=昭恵夫人に抱かれた遺影が傍聴席で見守る中で始まった追悼演説の冒頭で野田元首相は前任者であるのと同時に政権を奪還された敗軍の将であり、何よりも1993年に初当選した同期であることを語って現在の立憲民主党内では要職に就いていない自分が追悼演説を行う由縁を説明しました。
野田元首相は当選して初めて当院した時、多くの記者に取り囲まれてフラッシュを浴びている安倍議員を見て「眩しい」と感じたと回想していましたが、そんな政界のスーパースターに対して田圃の泥の中に棲む「どじょう」を自称するようになったのかも知れません。
そして政権を奪還された後の皇居での認証式では前任の首相として認証状を手渡す役になり、それまでは控室で勝者と敗者の2人だけで待つことになったそうです。当然、控室は重苦しい空気に包まれたのですが、安倍元首相が立ち上がって歩み寄り、「お疲れさまでした」「野田さんは安定感がありましたよ」「あの捩れ国会でよく頑張り抜きましたね」「自分は5年で返り咲きました。貴方にいずれそんな時がやってきますよ」と声を掛けてくれたと密室での秘話を紹介すると議場にも鼻をすする音が聞こえ始めました。
その一方で安倍元首相が持病の悪化で退陣した時、野党だった野田元首相は街頭演説で「途中でお腹が痛くなっては駄目だ」と暴言を吐いたことを告白して謝罪すると演台で深く頭を下げたのです。こうして厳粛な追悼演説が進むとやがて口調を強くして「再びこの議場で貴方と言葉と言葉、魂と魂をぶつけ合い、火花散るような真剣勝負を戦いたかった。勝ちっ放しはないでしょう、安倍さん」と締め括り、最後に「戦い続けた心優しい一人の政治家」と評しました。ところが立憲民主党の刈り上げSMの女王はこの演説を称賛しながら最も重要な一節を「勝ちっ放しではないでしょう」と全く意味が違う紹介をしていて本当は真面目に聞いていなかったことを自ら暴露しました。
当選同期と言えば共産党の志位和夫委員長は参議院選挙の街頭演説中に訃報を聞き、「当選同期として大きな喪失感を覚えている」と人間味溢れる言葉を口にしましたが、安倍元首相の死後も全人格・全業績を完全否定する政治闘争を主導する党幹部の批判を受けて撤回してしまいました。結果、野田どじょう元首相は男を上げて政治家としての復活の兆しを示し、志位委員長と日本共産党はどじょうも棲まない凍てつく泥沼に沈みました。
- 2022/10/28(金) 15:11:29|
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「このKLM321便は我がロシア連邦の通過許可を受けることなく領空を侵犯し、退去命令に従わなかった。その罪科により当基地に強制着陸させました。したがって機長と副操縦士は主犯と共犯として取り調べますが、客室乗務員と乗客全員も参考人として事情聴取することになります。事情聴取では氏名と生年月日、所属する組織名と地位以外については証言を拒否することができます」ウラジミール・トルコフ中佐と名乗ったロシア軍の軍人は後に続いて乗り込んできた6人の武装した迷彩服姿の兵士が2本の通路の前中後に配置についたのを確認して説明を始めた。兵士たちは私がウクライナで手に取ったことがあるPP19短機関銃を胸の前で構えているが引き金には指をかけず、安全装置もかかっていた。
「それはジュネーブ条約が定める捕虜の回答義務だ。文民たる我々の事情聴取は任意でなければならず、完全黙秘が認められなければならない」トルコフ中佐がマイクを握ったまま乗客たちを見回した視線が向いた時、安全ベルトを外せない私は座ったまま大声で反論した。通路の兵士たちは内容を理解せずに単なる抗議と思ったらしく間近に立っている兵士は銃口を向けて威嚇した。文民ならこれで恐れをなして黙るはずだ。
「紛争地帯ではない地域で違法行為を犯していない文民に武力行使すれば戦争法違反だぞ」「乗客に銃口を向けるな」私の指摘にトルコフ中佐はロシア語で指示を与えた。ここまで専門知識を披露すれば坊主では通用しないのは当然だ。
「それでは貴方は黙秘権を行使するのですか」「それは質問内容によりますな。取り敢えず私の身分を明かしておきましょう。オランダのスフラーフェン・ハーグにある国際刑事裁判所の次席検察官のモリヤニンジン、国籍は日本国、生年月日は1961年7月1日です。軍歴も必要だろうからつけ加えれば元日本国陸上自衛隊の法務士官、2等陸佐、つまり貴方と同じ階級だ」英語で一気に説明すると乗客たちは妙な感嘆の声を上げた。
「身分を偽ればスパイ容疑で逮捕できたんだがな」「ここで自白されたんじゃあ調書の捏造もできん。流石はウクライナの戦犯裁判でロシア兵を追い詰めている特別検事だ」私の英語の個人情報の申告を聞いて後部の通路に立っている兵士2人が忌々しそうにロシア語で対話した。実は私は中学から高校まで欠かさず聴いていたモスクワ放送で習得したロシア語をウクライナの司法裁判で被告人や参考人になっているロシア兵たちの証言を聞くことで再生させている。同様にこの兵士たちも実際は英語に堪能で、理解できないと油断した乗務員や乗客の会話を聞き取って情報を収集するつもりらしい。私はカンボジアPKOで中国人民解放軍工兵隊と川の両岸から建設する橋の規格を巡る交渉で「中国語と英語しか理解できない」と説明しておきながら実は日本語に熟練した人間を出席させて自衛隊側の日本語での相談を盗み聞きしているのを見破ったことがある。それにしても私が坊主と申告すれば身分詐称でスパイ容疑をかけ、正直に国際刑事裁判所の検察官であることを説明しても調書を偽造してまで同じ容疑を立件するつもりだったようだ。やはりロシア軍にとって私はウクライナの司法裁判所で多くの将兵の有罪判決を獲得している私を殺しても飽き足らない不倶戴天の仇敵なのだ。これは覚悟を決めなければならない。明日の夕べはシベリアの野辺の草の下かも知れない。
「それでは皆さんを宿舎に案内しましょう。日本人以外の乗客が先です。案内の女性兵士の後についていきなさい」続いてトルコフ中佐は若い女性兵士がタラップから機内に入ってくると機内放送で指示した。おそらく日本人とヨーロッパ系が中心の外国人の乗客を隔離するのだろう。ところが立ち上がったヨーロッパ系の乗客たちは「荷物は持って行けないのか」「置いていくなら預り証を発行しろ」と口々にトルコフ中佐に声をかけ始めた。すると通路の中央に立っている兵士が歩み寄って背中を短機関銃で押すと怯えたように黙った。
「乗客と乗務員の機外への退出には私の許可が必要だ。まだ許可を与えていない」その時、操縦室のドアが開き、肩に金線4本=機長の階級章が入った長袖のワイシャツを着た中年の男性が出てきてトルコフ中佐に声をかけた。本来であれば機長はタラップがかけられ、前部扉が開けられた時に立ちはだかるようにトルコフ中佐を迎えるべきだったのだが、それは男性の客室乗務員のチーフに任せていた。その後は「領空侵犯の主犯として取り調べる」と言われて鳴りを潜めていた。それとも機内無線でオランダの本社や関係当局に連絡を取っていたのかも知れないがこの様子では不調に終わったようだ。
「これはドゥーフ機長、ようやくお会いできましたね。このフライトがNATO軍の命令による偵察飛行だったとの嫌疑を払拭する反論証言を準備できましたか」トルコフ中佐は別人のように冷やかな表情になると前方の兵士に命じて最初に機長を連行させた。すると操縦室の扉が開いて副操縦士が脱いであった制服を差し出したので小森希恵が受け取って機長に手渡した。
- 2022/10/28(金) 15:10:20|
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明治28(1895)年の明日10月28日に日清戦争で割譲を受けた台湾の占領を指揮中だった皇族の北白川宮能久(よしひさ)中将が亡くなりました。48歳でした。
野僧などは皇族と言うと平成の天皇一家のように神道のトップの座を放棄して朝日新聞好みの反戦平和教に入信した腰抜けのように思ってしまいますが、明治から敗戦までは明治6(1873)年の太政官達で皇族男子は皇籍の継承や身心に問題がない限り軍役が課せられていて、陸海軍が人事上の配慮はしていたものの平時にも10名が軍に在籍中に病没・事故死していて、第2次世界大戦では2名の戦死者が出ています。中でも北白川宮家は能久中将の3男の成久大佐がフランス留学中に交通事故死し、成久大佐の長男の永久大尉は支那事変中に飛行機事故で殉職して3代揃って軍務中に没しています。
北白川宮能久大佐は弘化4(1847)年に伏見宮家の9男として生れましたが、1歳で既に崩御していた仁孝天皇の猶子(養子)として青蓮宮家の附弟(義弟)にされ、5歳の時には梶井門跡の附弟にたらい回しされました。安政5(1858)年に親王宣下を受けると今度は日光の輪王寺の門主の附弟にされて兄の青蓮宮入道親王を戒師として出家しています。こうして慶応3(1867)年に江戸へ下向すると徳川将軍家の菩提寺の1つ、上野の寛永寺貫主(もう1つは芝・増上寺)と日光の輪王寺門跡を継承しました。
ところが翌・慶応4(1868)年に戊辰戦争が始まり、徳川家が朝敵にされると幕臣と奥羽越列藩同盟の諸藩は京都の皇室は薩長土肥の反乱軍に乗っ取られた傀儡であり、東照神君・徳川家康公と天海大僧正の既定路線の通りに寛永寺貫主の入道親王を即位させて正当な皇室を樹立しようとしました(若しくは東西分国)。ところが肝心の15代将軍が朝敵にされたことで戦意を喪失し、江戸で創設していたフランス式軍隊を出動させることなく寛永寺で謹慎したため全面戦争には至らずに江戸を明け渡し、入道親王は仙台に移って忠誠を尽くして反乱軍を討伐することで結束した奥羽越列藩同盟の盟主になりました。
しかし、正義は敗れ、敗軍の将となった入道親王は京都に送られて実家の伏見宮邸で蟄居することになりましたが、明治2(1869)年に処分を解かれて皇籍に復帰すると明治3(1870)年末にはプロイセンに留学して語学研修と陸軍で訓練を受けた後、陸軍大学校に入校して明治5(1872)年には早世した弟の遺言で北白川家を相続しています。ところが明治9(1876)年末に夫に先立たれていたプロイセン男爵の娘と婚約して日本の皇室と政府に結婚の許可を求めましたが否認されて帰国を命ぜられ、再び京都での3カ月間の謹慎を受けたのです。
職務復帰後は最新の軍事知識を持ち帰った陸軍軍人として活躍し、明治25(1892)年に陸軍中将に昇任して熊本の第6師団長、明治26(1893)年には大阪の第4師団長になり、明治28(1895)年に日清戦争で割譲を受けた台湾を占領する征討近衛師団長として出征しましたが、現地でマラリアに罹患して台南で病没しました。
12月18日に戊辰戦争の東征大総督・有栖川宮熾仁大将に続き5人目の国葬が催され、朝廷から疎んじられた波乱の生涯と出征中の死から「明治の日本武尊」と呼ばれました。
- 2022/10/27(木) 15:44:49|
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トイレを出て座席に戻ろうとすると後部扉の窓にはシャッターは付いていなかった。通路を見ると客室乗務員たちは朝食を配り終えて前方で空き箱などの片づけをしている。私は座席よりも姿勢を低くすると這って後部扉に近づき、ユックリと身体を上げて窓から外を見た。すると数百メートルの距離にスホーイ27が1機随伴しているのが見えた。手前側の主翼の下のパイロンには空対空ミサイルを2発装着している。
「あの位置で見られていては下を覗くことはできないな。ワシが原因で撃墜されては閻魔さんも許してはくれないだろう」本当は基地周辺の都市などが見えるかと期待していたのだが、後部扉の窓から顔が覗いたのをスホーイ27のパイロットが発見すれば命令違反として撃墜しかねない。座席の窓を全て閉めさせていれば監視対象は前後の扉の窓だけになるのだ。
「大韓航空機の時、ソ連軍のパイロットは『目標機はナビゲーション・ランプ(航法灯)を点灯させているから民間機だ』『機内灯が漏れている窓の数は数百以上、大型旅客機だ』って報告していながら撃墜した後には『ウラーッ(万歳)』って雄叫びを上げたんだ」私は再び姿勢を低くすると私のロシア語力を知った自衛隊情報保全隊で聴かせてもらった1983年9月1日にサハリン上空で大韓航空機を撃墜したソ連軍パイロットと地上指令所の交信を思い出した。あの時、航空自衛隊は大韓航空機が航空路R20から外れてオホーツク海を横断していることを網走と稚内のレーダー・サイトが探知していた。そしてサハリンに接近すると要撃機が発進して撃墜するまでの一部始終を目撃していた。同時に周辺国の無線交信を探知している情報部隊は基地を発進した戦闘機のパイロットと航空管制官の対話から接近した戦闘機同士の情報交換、地上指令所への報告、撃墜命令、実行までの遣り取りをラジオ劇のように傍受していた。今見たスホーイ27と地上指令所の間で同じ対話が交わされていれば覚悟を決めなければならない。しかし、梢にもう会えなくなることだけは耐え難い。
「ノウマクサンマンダー・モトナンオハラーチイ・コトシャー・・・」私は厄除けに消災吉祥陀羅尼を唱えながら這って通路の手前まで移動し、その場に立って自分の席に戻った。前方で私を確認した小森希恵が会釈したので軽い合掌を返した。座席のテーブルにはサンドウィッチとサラダが入った弁当箱、温かいスープが入った蓋つきの紙カップと小さめの紅茶のペット・ボトルが置いてあった。周囲の乗客たちは手早く頬張っている人と緊張して食欲が湧かないのか開封せずに箱の蓋を眺めている人が半々だ。私も自衛隊時代の習慣で食べられる時に食べることにした。それにしても最期の食事は梢の手料理にしたかった。
「只今から当機はロシア軍の基地に着陸します。私とコパイ(副操縦士)は始めて着陸するので多少はリスクが生じるかも知れません。安全ベルトをもう一度確認して下さい。キャビンアテンダントも安全確保のため座席に着かせますから確認は自分でお願いします」久しぶりの自衛隊式早喰いで弁当箱を空にして冷めたスープを飲んでいると機長の機内放送が入った。通常、機長は乗客のパニックを避けるため不安を与えるような情報は口にしないものだが管制官との交信や上空からの確認で何か違和感を覚えたのではないだろうか。
「窓の開放許可は出ていませんからそのままにして下さい。間もなく着陸します」閉まっている窓の外ではエンジン音が大きくなってきたので高度はかなり下がっているようだ。千歳・新千歳空港の管制官は千歳基地の航空自衛官だが「世界で最も優秀な軍人の管制官」と賞賛を受けている。ところが一般的な軍人の管制官は運動性が良い戦闘機の誘導に慣れているため急激に速度や高度を下げさせる傾向があり、ここでもそれが起きそうだ。案の定、機長が注意喚起したようにKLM321便はあまり整備が行き届いているとは言えない滑走路に着陸すると民航機とは思えないほど激しく振動しながら前進し、エンジンを逆噴射して急制動した。航空自衛隊が政府専用機を運航することが決まった時、輸送機のパイロットが選抜されて日本航空でボーイング747への機種転換操縦訓練を受けたが「着陸が乱暴すぎる」と徹底的に叱責されて、目一杯に水を入れたコップをコンソール(計器表集約機)の上に置いて「外に漏れないように着陸しろ」と要求されたと言う。これではコップが引っ繰り返ってしまう。
それでも無事に地面に下りたらしいKLM321便は誘導路を通ってエプロンに着いたようだ。ただし外は見えないので音と経験による推測だ。エンジンが止まると窓越しに機体の周囲に大型自動車が乗りつけられロシア語の号令と多くの人間が走って移動する足音が聞こえてきた。どうやらこの基地のロシア軍が機体を包囲したようだ。間もなくタラップが掛けられると前部扉が開いて青い軍服を着た軍人が乗り込んできた。
「皆さん、私はロシア防空軍極東軍管区司令部のウラジミール・トルコフ中佐です。当基地にようこそ」英語を話し、妙に愛想が良いところを見ると自衛隊で言う渉外担当者かも知れない。
- 2022/10/27(木) 15:43:17|
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「お客さまにお願い申し上げます。ロシア軍から座席の窓を閉めるように指示がありました。戦闘機が接近して確認するそうです。閉めた後は安全ベルトを装着して下さい。ご協力をお願いします」KLM321便が次第に高度を下げて青みがかった黒一色に見えていたシベリアの大地が緑の樹木を識別できるようになった時、先ほど小森希恵と自己紹介した日本人の客室乗務員が日本語と英語、多分、オランダ語で案内した。
「いよいよ着陸かァ」乗客の大半は日本人なので乗務員の指示は業務命令として素直に従って窓のプラスチック製のシャッターを下げたが、一部のヨーロッパ人が質問している声が聞こえてきた。実は私も「接近して確認する」と言うロシア軍の戦闘機を見てみたいのだが民間機でも構わず撃墜した重犯の前科を持つ相手だけに余計なことは止めておいた。
「どこの基地かな・・・ベレンコ中尉が発進したのはチェクエフカ基地だったよな・・・あそこは戦闘機用だから旅客機を下しても対応できるとは思えないな」窓が閉まってしまうと本を読むか、考え事くらいしかすることがなくなるので私は後者を選んだ。幸い昨夜の寝酒の酔いは残っていない。10時間以上眠っていたのだから当然ではある。私は元航空自衛隊時代、仮想敵国・ソビエト連邦空軍の研究に励み、防衛大学校出身の整備小隊長を説明責めにして極東地区の基地を調べさせた。そこまで手を煩わせた以上、全て暗記することになった。その後、航空教育隊に転属して研究を継続しようと思ったのだが高度な質問は禁止され、自分で調べようとしてもソビエト連邦軍関係の専門書はどこにも存在しなかった。ところが陸上幕僚監部法務官室勤務になると海上と航空幕僚監理部の法務幹部や自衛隊情報保全隊と親密に交流するようになったため情報を更新することができた。その記憶を呼び起こすことにした。
「先ずチェルニゴフカ基地はヘリ部隊だったな、それでもスホーイ25も配備されているからジェット用滑走路はあるはずだ。ウグロヴェオ基地はスホーイ27が25機程度、コムソモリスク・ナ・アムーレ基地はスホーイ27が50機以上だったから外国人に見せることはないだろう」それは「我々を釈放するなら」と言う前提が付く。このままシベリアに抑留され、第2次世界大戦後の日本軍の将兵たちのように飢餓と酷寒で皆殺しにされれば秘密保全の必要はない。それにしても戦争終結後に戦争犯罪者ではない日本兵を長期抑留し、劣悪な生活環境と過酷な強制労働によって多くを殺害したソビエト連邦の罪をロシアが繰り返す可能性を否定できないところが恐ろしい。実際、ロシア政府はウクライナ紛争で拘束した捕虜を収容している施設の所在地は公表しておらず、「シベリアに抑留して厳寒期に凍死させたのではないか」と言う疑惑がウクライナの司法当局でも広まっている。そのためロシア軍の捕虜に情報提供による戦争犯罪の軽減の司法取引を持ち掛けているが、「女性の捕虜が集団レイプの上、慰安婦にされている」との証言はあっても現地軍の将兵は何も知らないようだ。
「それでベレンコ中尉のチェクエフカはミグ31、ここはミグ専用かな」今まで気づかなかったが他の基地はスホーイ・シリーズだが、この基地だけはミグ・シリーズだ。その理由も元航空自衛隊なら推理できる。要するにスホーイとミグはソビエト連邦時代には国営だったにも関わらず部品や整備機材の互換性や共通性に欠けているのだ。防府で「お前は2曹にはしない。幹部になれ」と宣告して私を幹部にした中隊長は空曹時代、岐阜の航空実験団で勤務していてベレンコ中尉が乗ってきたミグ25を分解したそうで、「工具が全く合わないで困った」「部品を力任せに締めつけてあって日本人の腕力では外れなかった」と語っていた。一時期、航空自衛隊は敵機役で戦闘機パイロットを鍛える飛行教導隊=アグレッサーに安価なスホーイ27を導入しようとしたことがあったが(本格導入を懸念したアメリカに反対されて中止した)、実現していれば実戦そのものの空中戦訓練が展開したはずだ。
「直轄の重爆撃機部隊の基地はツボレフ22バックファイアがあるベラヤ基地、ここはモンゴル国境のイルクーツクだから内陸過ぎるな。ウクラフィンカ基地ならツボレフ95ベアだし、第326重爆撃機師団司令部があるから我々を収容するには最適だぞ」元航空自衛隊として勝手な勝論を出したところで唐突に尿意を催してしまった。トイレは最後部の壁際だ。
「お客さまにご案内します。着陸までの所要時間は判りませんが、只今より朝食を配りたいと思います。開封しなければ着陸して当機を下りる時にも携帯できます」その時、再び小森希恵の機内アナウンスが流れた。通路を覗くと空色の制服にエプロンをはめた客室乗務員たちはワゴンに山積みにした弁当を窓際に座っている乗客に配り始めていた。
「もう我慢できん」客室乗務員が近づくのを待っていた私は安全ベルトを外すと立ち上がった。そして困惑したような顔でこちらを見た客室乗務員に手でトイレを差して「生理的緊急事態」を伝えた。何とか間に合った。
- 2022/10/26(水) 14:20:10|
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「この飛行機には危篤状態に陥った信者の最期を看取って葬儀を執り行う坊主として乗ってるんだよな」私が「後で」と回答を先延ばしにすると客室乗務員は目に困惑と不満の色を過ぎらせて元の定位置に戻っていった。その背中を見送りながら私は先ほどからの思案を再開した。それにしてもこちらが少し顔を前に出せば唇が触れる距離まで顔を近づけるのは無防備に過ぎるだろう。ヨーロッパでも酒と同じように宗教者への異性の誘惑はご法度のはずだ。
「ロシア軍はワシがウクライナの裁判に検事として参加していることをどこまで把握しているのか・・・」これが思案している問題だった。仮に今回の強制着陸が領空侵犯に対する警察行動だとすれば国際航空条約や戦争法の捜査対象は機長と副操縦士の2人だけで乗客は文民として保護される。実際、1978年4月20日の大韓航空機撃墜事件でも機長と副操縦士は取り調べを受けたが、当時は操縦室に乗務していた飛行整備士(=フライト・エンジニア)と航法士(=ナビゲーター)、乗客と客室乗務員は4月23日には出発地のフランスに送還されている。しかし、私の場合、ウクライナの法廷でロシア軍の戦争犯罪を追求して次々に有罪判決を獲得しているのでロシア軍にとっては憎むべき仇敵であり、飛んで火に入った夏の虫なのだ。ここがEU圏内であれば私が司法上の敵対者であってもそれが正当な公務であれば身分保障に何の影響も及ぶことはなく、批判には堂々と反論する機会が与えられるはずだが、ロシアでは国際法や国際常識が機能しないことはハリム・カサド・カマド・ハーン首席検察官の特別命令で現地調査に入ったウクライナで経験している。私はロシアが国際禁止条約を批准していないとは言え住宅地や郊外の子供の活動地域に仕掛けた対人地雷やブービー・トラップを何度も目撃して自ら撤去している。また市街地で狙撃を受けたが、それも元普通科職種の士官としての戦闘本能が銃口の発火炎に反応して即座に「その場に伏せ」の姿勢を取ったから回避できたが、あれがベルギーの法学者に過ぎないミジェル・ド・リミッド次席検査官であれば頭部に貫通銃創を負って即死していた。しかし、あの時、私は陸上自衛隊の迷彩服を着て防弾チョッキを身につけていたが、多くの戦場カメラマンも似たような服装だった。鉄帽は迷彩カバーを外し、黒く塗って前側には白く目立つように国際刑事裁判所の徽章を描いていた。迷彩服も両襟の2等陸佐の階級章は外して日本の検察官の徽章を装着していたのでサンクトペテルブルク条約などの戦争法では非戦闘員=文民だった。
「そうなるとこのまま坊主で通した方が安全そうだが、ロシアの場合は隠蔽したことがバレるとスパイ扱いされるからな。おまけに元自衛官となると完璧だ」これは中国にも言えることだが、どちらも日本国内では好き勝手に諜報活動を行い、工作員を送り込むだけでなく日本人を手懐けて数多くの売国奴を養成していながら外交関係が悪化すると企業の現地駐在員だけでなくウィーン条約で合法的な情報収集活動が認められている外交官までもスパイとして身柄を拘束する違法行為を繰り返している。ならば元自衛官、国際刑事裁判所の検察官として多くの国際紛争に直接関与してきた上、二重の職業を持つ私などは最適の配役だ。
「スパイとなると死刑か・・・シベリア抑留は御免だな。その前の拷問はもっと嫌だ」頭の中で思考は悪い方向へ進み始めた。第2次世界大戦後、ベルリンを占領したソ連軍は多くのナチス・ドイツの軍人を拘束したが根拠もなくスパイと疑うと人体実験を兼ねた自白剤の投与や過酷な拷問によって情報を聞き出そうとした。しかし、日本人には祖父の世代が体験したシベリア抑留の地獄の方が現実的だ。零下40度の酷寒の中、窓から見える果てしなく深い森の巨木を人力で切って、運ぶ悲惨な自分の姿が目に浮かんで背筋が凍りつく思いがした。
スパイは戦争法が定める戦闘員としての4条件に背くだけでなく、その活動の結果、敵対国に多大な犠牲を強いるため戦争犯罪を体現する存在として保護対象から除外されてきたが、現在は人道関係の国際条約で最低限の保護は与えられている。それでもスパイは存在そのものが戸籍などとは別の虚構の人格なので敵や所属する組織=国家が抹殺しても警察などの法的処理を受けることなく処理されると見る方が常識的だ。
「やはり下手に疑われるよりも公的な身分を明かした方が良さそうだな。坊主の方は副業だけど本物と言うことで通そう」見ているだけで陰鬱になる森林から目を反らして青い空を見上げながら私は結論を出した。日本政府を当てにできない私には国際刑事裁判所が所在地なのだ。
「お客さま、私はKLMオランダ航空でキャビンアテンダントとして勤務しております小森希恵と申します。実はオランダのニュースでお客さまの顔をお見受けしたことがありまして」「はい、国際刑事裁判所の次席検察官のモリヤニンジンです。本物の坊主でもあります」その時、通路での配置を解かれた客室乗務員たちが朝食の準備を始め、先ほど話した彼女から何かを言われていた日本人の客室乗務員が歩み寄って日本語で声をかけた。こちらも若くて綺麗だ。
- 2022/10/25(火) 15:33:42|
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原爆投下=敗戦から10年が経過した昭和30(1955)年の明日10月25日午前9時57分に広島市の平和公園とアメリカ・シアトルのピース・ガーデンにある広島は両手で頭上に、シアトルは差し出した右手に千羽鶴を掲げる原爆の子の像のモデルになった佐々木禎子(さだこ)さんが亡くなりました。12歳でした。
禎子さんは昭和18(1943)年1月に広島市楠木町(現在の広島市西区)の商店で生まれました。「禎子」は両親が「元気に育つ名前を」と店の客の姓名判断の先生に頼んでつけてもらったそうです。
昭和20(1945)年8月6日の原爆投下の時は2歳7ヶ月で、爆心から1・6キロの自宅の中にいて爆風で家の外まで吹き飛ばされましたが外傷は負いませんでした。それでも母に背負われて避難する時、降り出した放射能を帯びた「黒い雨」を浴びています。
避難所で母は体調不良を訴えましたが、幼い禎子さんは不快な様子を見せることなく過ごし、敗戦後は健康に快活に育っていきました。特に運動神経は抜群で中でも足が早く小学校に入ってからは徒競争とクラス対抗リレーの花形で、「中学校の体育の先生になる」と将来の夢を語るようになりました。
そんな昭和29(1954)年=6年生の運動会が終わった11月になると突然、身体に異常が起こり始め、11月下旬に風邪をひくと首や耳の後ろにシコリができたのです。シコリは徐々に大きくなり、おたふく風邪のように顔が腫れてひかないため年明けに近所の細川小児科医院に掛かりましたが症状は改善しませんでした。さらに1月中旬からは左足に紫色の斑点が現れ、1月18日と2月16日に原爆傷害調査委員会(現在の放射線影響研究所)で検査を受けました。実は禎子さんは昭和29(1954)年の夏休みにも被爆者の健康診断を受けていて結果は「異常なし」だったため、主治医を含む周囲は放射能障害の可能性を思考から除外していたようです。
しかし、2月18日に検査結果を説明する主治医からは「亜急性リンパ腺白血病」の病名と「あと3ヶ月、長くても1年はもたない」との余命を宣告され、2月21日に広島赤十字病院に入院しました。
禎子さんの発症と入院、闘病がラジオや少年誌で「悲劇の原爆被害者」として取り上げられると小中学高校での反戦反核平和=反米教育の教材になって多くの児童・生徒に知られるようなり(野僧も小学校で習いました)、そんな名古屋市の高校生が折った折り鶴が見舞い品として届いたのです。それを見た禎子さんは千羽鶴の意味を教えられると「1000羽折れば元気になれる」と信じるようになり、内服薬の正方形の包み紙で折り始めました。その懸命な姿に共感した他の入院患者も協力して8月下旬には千羽鶴が完成しましたが、症状は改善せず、禎子さんは「もう千羽折る」と言って作業を継続したのでした。
しかし、10月25日の朝に危篤状態に陥り、父から「何か食べたいものはないか」と訊かれると「お茶漬けが食べたい」と答えたため家族が用意したお茶漬けと沢庵を2口ほど食べて「お父ちゃん、お母ちゃん、みんな有り難う」と呟いて息を引き取ったのです。
- 2022/10/24(月) 15:13:18|
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「ロシア軍側は当機のフライトプラン(飛行計画)は受理していないと理由を説明しています」私は機長の説明を聞きながら窓から外を見るとすでに夜は明けていて抜けるような青い空が広がっていた。眼下には説明通りにシベリアの黒に近い深い青色の森林が果てしない大地を覆っている。続いて視線を後ろに移すと青い空に黒い点が目に入った。その点は白い線を引いているので航空機、つまり機長が言うロシア軍の要撃機のようだ。国際法の規定では領空侵犯した要撃対象機を強制着陸させる時には国際航空周波数での無線や発光信号による通告の後、1機が前方に出て左右の主翼を上下させて右に旋回することになっている。こちらの1機は逃走防止のため後方から監視に当たっているようだ。
「しかし、私はKLMの担当者が作成したフライトプランを確認しており、オランダ運輸当局が受理したからこのフライトをアサイン(任務付与)されたのです。オランダ運輸当局がロシアを含む上空通過国に対して通知するのは当然の手順であり・・・」機長はかなり言い訳がましい人物のようで乗客への説明が弁明になっている。それを聞いている私は非常に気になったことがあって一番近い位置に立っている客室乗務員を手招きした。
「お客さま、お呼びでしょうか」先ほどから変に私を気にしている様子だった30歳代の客室乗務員は慎重に歩み寄ると顔を近づけて低く声をかけた。この態度には「会話を他の乗客に聞かせたくない」と言う配慮があるようだ。実は私は航空自衛隊時代、空港で見送る梢の希望で制服を着て帰省していたのだが、搭乗した全日空機が上空で右エンジンの火災警報装置が点灯して那覇空港に緊急着陸したことがあった。その時、「これは落ちるな」と悪い軽口を呟くと後ろの席の女性客が悲鳴を上げて騒ぎ始めたので「大丈夫、このL1011トライスターは今まで1機も墜落していない傑作機だ。エンジンは1基でも動いていれば安全に飛べるようになっている」と説明した。すると客室乗務員が「今の説明を機内アナウンスでもう一度お願いします」と頼んだので「航空自衛隊第83航空隊の航空機整備員」と名乗って説明することになった(実話)。仮に頭を剃って作務衣を着た人間を坊主と理解する乗客がいれば「往生決定」「生者必滅」などの迂闊な発言でパニックになる惧れは無きにしも有らずだ。
「機長は弁明に夢中になっているようだがロシア軍機の命令に従っているのか。こちらも翼を振って従う意思を提示しなければ次は射撃だぞ」客室乗務員は予想外の質問に呆気にとられたが私はコクピットに確認するように促した。すると客室乗務員はポケットに入れていた機内用小型無線機で操縦室のドアの前に立っている男性のチーフに連絡した。チーフは客室を向いたままドアの横の電話機と取ると何かを話し始めた。
「お客さまに申し上げます。ロシア側の命令は極めて不当ではありますが、他国の領空内では相手国の軍の命令に従わざるを得ず、当機は強制着陸に応じることにします。今後はロシア軍戦闘機の誘導を受けていずれかの基地に着陸することになるでしょう」案の定、機長は意思表示を怠っていたようだ。機内放送の最後に機長は「大きく揺れます」と注意喚起してから左右の翼を上下させて命令に従う意思表示の機体信号を送り、ユックリ旋回した。
「お客さまは航空法規にとても詳しいのですね」「うん、色々あってね」客室乗務員は相変わらず私を宗教者としては認識していないようだが正体不明の不可解な人物として興味を持ったようで、用件が終わっても私の横に立って話の続きを待っているようだった。こうなると航空自衛隊時代の知識を披露したくなる。これでは必要な対応を忘れて弁明に夢中になっていた機長と大差ないが幼い頃からの慢性的な病気なので仕方ない。
「ロシア空軍は前身のソ連軍時代の1978年4月20日には老朽化した航法機材の故障に気づかずに領空侵犯した大韓航空のボーイング707を旅客機と確認していながら撃墜命令を出している。実際はパイロットの厚意で警告射撃と無線で警告を実施したんだが、大韓航空機が無視したから空対空ミサイルで撃墜されてコラ半島のイマンダラ湖の凍った湖面に不時着したんだ」これは私が高校2年の事件だが、モスクワ放送と家で購読していたA日新聞が「大韓航空機スパイ説」を主張していることに興味を持って研究したのでかなり詳しくなった。
「さらに1983年9月1日には空路R(ロメオ)20を逸脱した大韓航空の747がカムチャッカ半島上空を通過してサハリンに迫ったんだ。この時も戦闘機は大韓航空の室内灯が漏れる窓の数から「大型旅客機だ」と報告していたが極東軍管区防空指令部は撃墜命令を下した。今はロシアが国際連合常任理事国を引き継いだと言っても国際秩序を守る気は更々ないことは現状を見れば判るだろう」「お客さまの職業は・・・よろしければ個人的に教えて下さい」客室乗務員は持ち場に戻らなければならないらしくさらに顔を近づけたが、実はそれは機長の機内放送が始まって以降、私が真剣に思案している問題だった。
- 2022/10/24(月) 15:11:35|
- 夜の連続小説9
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翌日、モチースは私の職場まで航空券を届けてくれた。やはり40歳代半ばくらいの金髪女性だったが、接客業の割には度が強そうな黒ぶちメガネを掛けた小太りで、化粧っ気もなく常に美貌を保っていた梢とは全く印象が違った。それでも成田空港への直行便に搭乗することになり、私は「僧侶としての業務」を演じるため作務衣に威儀細を掛けてアムステルダム空港に向かった。本当は略法衣にするべきだが機内食で肉や魚が出ると日本人の乗客に「生臭坊主」と思われるので最近は伝統工芸の職人の制服になっている作務衣にしたのだ。
「機体のトラブルにより出発が遅れまして大変ご迷惑をおかけしました。予定より1時間遅れの午後9時15分発の日本国成田空港行きKLM321便に搭乗されるお客さまにご案内申し上げます。当機は間もなく搭乗開始になります。3番出発口にて担当者の案内をお待ち下さい。アテンション・プリーズ・・・」搭乗ロビーでは最初に日本語のアナウンスが入った。確かに多くはない乗客の過半数は一見して日本人だ。飛行前点検で不具合が見つかって再点検していたようで1時間遅れになった。以前、KLMは日本への直行便にはボーイング777などの大型機を使用していたが、日本が紛争当事国に準ずる指定を受けて観光などが禁止されると1日1便にしても搭乗者数が減少し、現在は中型のA330に変更している。モチースの説明では「このままではビジネス・ジェットになるかも知れない」とのことだったが、日本からの出国便の利用者はそれなりなのでこの機体を維持しているらしい。
「成田までは15時間50分だから到着するのは0105(1時5分)、それで時差が8時間だから朝の9時5分か。それで羽田までの移動時間が・・・」日本人の乗客は国民性を発揮して案内の女性の後ろを小学生のように列を作ってついていく。私は最後尾を歩きながら苦手な数字と格闘していた。結局、日本での航空券はオランダでは手配してもらえず、梢に頼んでも郵送では間に合わず、成田空港にある航空会社の窓口で当日券を購入することにしたのだ。
「後ろか、トイレが近いから便利だな」機内では一応とは言え新型コロナ・ウィルスの感染予防対策を取っているようで乗客は1人ずつ窓際の席に配置されていた。私は何故か後方の席だった。縁起でもないが旅客機の墜落事故では離着陸時に速度を失うと揚力を確保するために機体を引き起こすので後尾から地上に激突する。一方、上空から急降下すると機首から地面に突っ込む。このため数少ない生存者の座席の位置は両端になることが多い。ついでに不時着となると中央の非常口から主翼に避難できても飛び降りるにはあまりにも高く、主翼内の燃料が発火するか否かで生死が分かれる。やはり前後部の扉から滑り台で逃げる方が賢明だ。
「ビールはいかがですか。冷えたハイネッケンは美味しいですよ」アムステルダム空港は海沿いなのでKLMは離陸するとそのままデンマークの領空に入った。これから北極回りで成田に向かう。安定飛行に入った機内では同じEUに加盟しているデンマークの領空を通過中でも関税が免除されるらしくアルコホールのサービスが始まった。アメリカの航空会社では接客と語学力の熟練度を重視するため若くて美人揃いの日本の航空会社では考えられない超熟女の客室乗務員が勤務しているが、観光立国のヨーロッパでは両方を並立させて綺麗なベテランが多いようだ。それにしても国際慣習として聖職者にアルコールを勧めないものだが、私にはホステスのように誘ってきた。やはりヨーロッパ人には白の襦袢の上に作務衣を着て威儀細を掛けていても佛教僧=宗教者には見えないようだ。それを好いことに私は布施を断れない佛戒を保って1本もらった。実は久居で勤務している頃、坊主の真似ごとで托鉢していて婆さんに「坊さんも暑いやう」と言って頭鉢に冷えたビールを注がれたことがある。私は「不飲酒戒(ふおんじゅかい)」と「布施を断れない戒」にかけた公案と受け取って「南無阿弥陀佛」と念佛を唱えながら飲み干したが(破戒を許す阿弥陀信仰を表現した)、このそれなりに若くて綺麗な客室乗務員は単なる認識不足だろう。これが1人だけ乗務している日本人のクルーなら「破戒僧」と馬鹿にされたことを疑わなければならない。
「梢と再会したら先ず抱き締めてさば折り、熱烈なキスで窒息・・・そうか、お父さんの介護中だったっけ」ビールに続いて勧められるままにアルコホールを飲んだ私はホロ酔い加減で眠りについた。飛行機での海外旅行では時差解消のために熟睡するのが常識なのだ。
「乗客の皆さまに緊急事態を案内します」心地よく梢の夢を見ていると機長の機内アナウンスで起こされた。暗くしてあった機内の照明は通常の状態に戻っていて通路の所々に緊張した表情の客室乗務員が配置されていた。朝食の準備が始まるまで乗務員席で交代で仮眠していたようで化粧をせずに髪が乱れたままの人もいる。
「当機はシベリア東部上空を通過中ですが、9分前にロシア軍の戦闘機に捕捉されて只今、強制着陸を命じられました」機長の英語の説明の声は緊張でやや上擦っていた。
- 2022/10/23(日) 15:36:37|
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祖父=師僧は中学・高校で体操の選手だった割に徹底的に器械体操が苦手で嫌いな野僧は率直に敬意を抱いていたザ・ドリフターズの仲本工事さんが前日の交通事故による急性硬膜下血腫で10月19日に亡くなったそうです。81歳でした。
仲本さんは昭和16(1941)年に東京の渋谷で生まれました。両親はシマンチュウ(沖縄県人)で、本当は野僧が再婚するはずだった沖縄の女子はモンチュウ(同族)だったそうです。中学生の時に体操選手だった担任教員の影響で体操を始めて渋谷区の大会で団体優勝しています。都立青山高校に300人中7番の成績で合格すると1年の東京都の新人戦では個人総合4位になり、卒業まで活躍したようです。
大学は学習院大学の政治経済学部で昭和の陛下の次男・常陸宮妃で津軽家出身の華子さんは1学年上ですが面識があったのかは不明です。
学習院大学には体操部がなかったため元々得意だった歌で活躍しようと独学でギターを練習し、友人に誘われて入ったジャズ喫茶でステージに飛び入り参加したことでバンドに加入することになりました。このバンドでは加藤茶さんがドラムを叩いていました。続いてジェリー藤尾さんのジャズバンドの第2歌手に応募して合格しましたが、このバンドでは高木ブーさんがバンジョー奏者でした。高木さんは現在もウクレレ奏者として活躍していますが、あまり知られていない仲本さんの歌唱力を高く評価していました。
大学を卒業してバンドの第2歌手とギター奏者として活動していた昭和40(1965)年に高木さんが友人のいかりや長介さんから「ザ・ドリフターズのギター奏者も探している」と相談されたため2人で加入したのです。ザ・ドリフターズは昭和41(1966)年のビートルズの来日公演では前座を務めましたが、仲本さんはリード・ボーカル兼ギターを担当しました。
そうして昭和44(1969)年に「8時だヨ!全員集合」が始まるとザ・ドリフターズは音楽バンドからコントグループに路線変更しますが、仲本さんはコント劇では馬鹿正直ゆえにドジを踏む加藤さんに対して「要領よくリーダーに媚を売る小利口な奴」や「内心、何を考えているのか判らない理解を超えた奴」を演じていました。また抜群の歌唱力を持っていながらザ・ドリフターズが発売したパロデイー・ソングでは目立つ存在ではなく、加藤さんの引き立て役に徹していたように感じました。ちなみにいかりやさんによると仲本さんはギャグを考える抜群の才能があってもコントにあまり関心がなかったため工夫する熱意に欠けていたそうです。
しかし、野僧の記憶に残っているのは「8時だヨ!全員集合」で見せた鉄棒やマット運動の妙技で、黒ぶちメガネ(度は入っていない)をかけて運動は得意そうではない仲本さんが大車輪や空中回転を軽々と演じるのには思わず拍手をしてしまいました。
仲本さんは10月18日に横浜市西区の信号機がない横断禁止の交差点を横断中に乗用車にはねられて頭を強打したことが死因になりました。それでも1日半の昏睡時間があったため親族・友人が集まることができて看取られて亡くなったそうです。冥福を祈ります。
- 2022/10/22(土) 13:53:58|
- 追悼・告別・永訣文
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「父が貴方と話し合いたいことがあるそうなの」梢が末期の膵臓癌と診断された父の介護のため沖縄へ帰国って2カ月が経ったある日、久しぶりに電話を掛けてきた。これまでも休日を含めて毎日の葉書とメールは欠かさなかったが最近は強くなった鎮痛剤の影響で意識を失っている時間が長くなり、医師からは「遠からず会話が成り立たなくなると言われている」と聞いている。おそらく梢の父は死ぬ前に「今後の2人の関係をどう考えているのか」を私の口から聞きたいのだろう。私も梢に伝言を頼んだ感謝の言葉を直接伝えたい気持ちは日に日に高まってきている。私は現在、ウクライナ国内の司法裁判所で審理しているロシア軍による戦争犯罪の裁判に特別検事として不定期に派遣されているが、次の裁判はロシア軍に協力したロシア系ウクライナ人の国家に対する背信行為が起訴事由のため出番はなさそうだ。そのためハリム・カサド・カマド・ハーン首席検察官からも「今の内に休暇を取れ」と言われている。
「そうか、ワシもお父さんに会いたいから飛行機が取れ次第行くことにしよう」「私からオランダのツーリストの友達に電話しておくから貴方の都合と希望を説明してね。彼女は英語で大丈夫よ」私の返事に梢は安堵したように説明した。以前であれば愛知の父親の死に立ち会っていない私を自分の父のために呼ぶことを遠慮したかも知れないが、今では一心同体の連れ合いとして人生を共有しているので至極当然な展開なのだ。
「そうなると納豆作りは中止した方が良いかな。帰ってくる時、ワンパック買ってくれば再開できるだろう」唐突に生活臭が染みた話題になった。私たちは茶山元3佐夫妻の尽力で納豆菌を入手して以来、自家製納豆を作り続けているが、私が日本に行けば不在にしている間に菌が死滅する可能性が高い。梢が不在になってしばらくは台所に立つ意欲が湧かず、朝食はトーストとコンソメ・スープに納豆の手抜きで昼夜は外食していた。それでも次第に血糖値が上昇してきたため夕食は自炊の和食にしている。と言っても食材を買いに行く時間がないので自家製の納豆が大いに役立っている。梢の栄養価計算では納豆は小鉢1杯で1食分になるらしいが、私は昔から生卵に入れるのが好みなので、「このチャンスを逃す手はない」とこればかりを食べている。冬に路面が凍結して走れなくなるまでの夕食としてなら許容範囲のはずだ。
「ダッチ・ツーリスト、スフラーフェン・ハーグ支店のカッシュ・モシースです」翌日の昼休みに職場の固定電話ではなくスマートホンに梢が言っていたオランダの旅行社の友人から電話が入った。私たちよりも若い40歳代後半くらいのベテランらしい。
「先ほどコズエから電話がありまして、今回はアムステルダムから日本への航空券を手配させていただけるそうですね」「はい、行きの1人分をお願いします」モシースと名乗った女性は梢から概略を聞いているようで「イエス、イエス」と英語で相槌を打った。
「コズエが日本に行く時にも説明したのですが、我が国では日本は現在、紛争当事国に準ずる扱いになっておりまして、KLMの直行便は公務以外の搭乗を受けつけていません」「現在は他国からの武力行使を受けていないし、治安状態もかなり沈静化しているように聞いているがね。だから梢を帰省させたんだ・・・と貴女に言われても困るだけですな」「はい、国家が決めていることですから私共では・・・」モシースは言葉を濁した。オランダは立憲君主制なので戦前の日本ほどではないにしても国家の決定は国王の意志と言う感覚があり、批判することには多少なりとも躊躇が働くらしい。
「その公務と言うのは公務員や公的機関の民間人が請け負っている公式業務を指すんですか」「いいえ、私的な旅行や訪問を除く業務全般を意味します。民間企業でも業務上の出張であれば大丈夫です」「なるほど大変ですね」私も自衛隊時代の阪神淡路大震災や東北地区太平洋沖大地震の災害派遣では現地の実情に合致しない東京の意向に多大な制約を受けた経験があるので、判断基準が判らないオランダ政府の決定に従わざるを得ない旅行社の立場に同情してしまった。それにしてもここまで緩い基準であれば抜け道は幾らでも見つかりそうだ。
「それじゃあリリジョニスト(宗教者)が危篤の患者の最期を看取り、葬儀に参列するのは業務になるでしょう」「確かに尊いお仕事です」思いのほか簡単にモシースは同意した。日本の現状が紛争当事国に準ずるのであれば現地調査の出張命令を出すことも可能だが、流石の私も国際刑事裁判所でのカラ出張は避けたのだ。
「ならばブディズム(佛教)のボンズが沖縄の危篤状態にある患者を看取るため日本へ行くと言う名目で直行便を手配して下さい」「直行便はナリタ(成田)行きしかありませんが」「乗り継ぎはお願いできませんか」「日本の国内線はこちらでは・・・」日本人の旅行には全て旅行社が手配して渡されたチケットで移動する感覚があるが、欧米からの観光客は来日すると勝手気ままな旅を満喫していた。あれも日本式の特殊な行動形態だったようだ。
- 2022/10/22(土) 13:51:53|
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玉城美代子曹長が警衛隊長に上番した日曜日、玉城松真元准尉は再就職した新千歳空港で貨物の積み下ろしの仕事に当たっていた。新千歳空港は航空自衛隊の千歳基地と併用している滑走路の西側に新たに滑走路を増設したが、毎度の国土交通省の売国官僚の嫌がらせなのか千歳基地が見渡せる2本の滑走路の間に国際線のターミナルを建設して不特定多数の外国人の目に晒している。この日、玉城元准尉は国際線の担当だった。
ズーンッ、「何だ」ドーンッ、「自衛隊ですか・・・玉城さん」乗客が受付で預けた荷物を詰めたコンテナを旅客機の腹部の収納庫に積んでいると突然、滑走路の向こうの基地から爆発音が響き、数秒後に違う音色の爆発音が続いた。搭載作業に当たっている社員たちには航空自衛隊OBが多いが、最も新しい玉城元准尉に声をかけた。しかし、仕事を中断して確認することはできない。貨物の重量バランスは飛行中の機体の安定に直結するので離陸から着陸までの間にコンテナの固定が外れることになれば操縦に多大な影響を及ぼすのだ。
「3号コンテナ、よし」「了解、玉城さん、シェルターの向こうから黒煙が上がってますよ」「化学消防車が向かったな。あそこには燃料は保管していないはずだが」3号コンテナの搭載が終わり、元幹部自衛官の現場監督に報告すると次の作業を指示する前に基地で発生した異常事態を解説した。通常はOBでも任期満了退職した元航空機整備員の若い社員たちが次のコンテナに向かう合間に声をかけ、返事を受けるだけだが今回は手招きされた。玉城元准尉が歩み寄ると主翼の下に並んでいるコンテナのタグ(トレーラーで牽引する荷車)の向こうに立ち上る黒煙が見えた。少し位置を変えると緑色の蒲鉾のようなシェルターの横に航空自衛隊の化学消防車が停車して消火を開始していた。雑草や建物などの火災であれば普通消防車が出動するはずなので燃料や油脂分が発火・炎上したのは間違いない。一瞬、玉城元准尉は警衛隊長として勤務している玉城曹長がこの非常事態に適切に対処できているかを心配したが、こちらの仕事をおろそかにすることはできない。
「続いて4号コンテナ、実施します」「よろしく」玉城元准尉が無意識に姿勢を正して挙手の敬礼をすると現場監督も当たり前のように答礼した。この機体の搭載作業中には銃声とまた別の爆発音が聞こえ、ボーディング・ブリッジ(伸縮式の通行路)を渡って機内に乗り込む外国人観光客たちは窓から基地の写真を撮っていた。
事件後、基地内のシェルター付近の現場では千歳地方警務隊が、基地外では警務隊から通報を受けた警察が実地検分=現場検証と警衛隊員の事情聴取を進めていた。警備職の警衛隊は内務班から呼集された営内者と交代し、警衛隊長と警衛副長も出勤した警備小隊の曹長と1曹が代行して警務隊で事情聴取を受けていた。管理隊長は基地司令への報告を優先したが、こちらも副司令と司令部幕僚たちからの尋問になっていた。
「この男が銃を構えたから先に発砲したんですね」「はい」「貴方たちは伏せた姿勢で狙っていたんですね」「はい、脚を狙っていましたが外れて胸部に当たってしまいました」「それで即死か」基地の外ではキャブオールで現場に向かった警備職の高田3曹と段野士長がパトロールカーで駆けつけた2人の警察官の事情聴取を受けていた。自衛隊で言う滑り止めがついた礼装用の白手袋をはめた警察官は遺骸から短機関銃を取ると弾倉を外して実弾が装填されていることを確認した。次に高田3曹に見せて「自衛隊の物か」と訊いたので「多分、ロシア製のPP19でしょう」と答えた。続いて警察官はボール大に膨らんでいた男の上着のポケットからは手榴弾を回収したので高田3曹は訊かれる前に「こちらもロシア製のPGP5じゃあないですか」と説明した。するともう1人の警察官がバインダーの記録用紙に書き込んだ。
「こちらの2人が手榴弾(しゅりゅうだん)を投げようとしたから2人が発砲して射殺したんですね」「2人とも腕を狙ったんですが自分は頭部、段野士長は胸部に当ててしまいました」「それで手元で爆発したっと言う訳ですね」最初の男も手榴弾の爆発で擦るように背中をえぐられいるが、手元で爆発した2人に比べれば人間の形を留めている。こちらの2人は右肩から先と頭部が吹き飛び、互いの手榴弾の破片が突き刺さって服と身体がズタズタになっている。それにしてもほぼ同時に爆発したと言うことは呼吸を合わて安全ピンを抜き、同時進行で投げる動作の途中で射たれ、倒れて手を放れた手榴弾の安全レバーが外れて爆発したのだ。
「そうなるとサブマシンガンと手榴弾はロシアから密輸入されたことになる。やはり北方領土200海里内でのカニや鮭の漁獲権と引き換えの武器持ち込みが再開したようだ」警察官はあえて自衛官に聞かせるようにロシアによる反日暴徒への武器供与の手法を説明した。これは連合軍と称しながら事実中はアメリカの占領下にあった敗戦直後にソ連が北海道の分離独立を画策した共産主義革命の模倣・踏襲・再現だった。
- 2022/10/21(金) 13:47:51|
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昭和59(1984)年の明日10月21日は沖縄戦で県民と運命を共にした島田叡知事とは反対に「全て泉が悪い」と言う口汚い批判しか聞かない泉守紀(しゅき)沖縄県知事の命日です。当時としては(憎まれっ子)世にはばかった86歳でした。
泉知事は明治31(1898)年に現在の山梨県大月市(三遊亭小遊左師匠の出身地)で教育者の3男として生れました。父親の赴任先だった鹿児島県の旧制第7高等学校から東京帝国大学法学部に進学し、大正12(1923)年に卒業して内務省に入省しました。内務省では青森県庁を初任地にしてその後は全国各地の警察畑を巡り歩き、入省から20年が経過して北海道庁内政部長の職にあった昭和18(1943)年7月に沖縄県知事の辞令が届き、7月26日に着任しました。
官選の沖縄県知事は江戸時代に琉球王国を支配していた元島津藩士だった初代の大迫貞清知事が従属国扱いして以降、県民を日本人=同胞とは見ないで侮蔑し、独自の伝統文化を江戸時代の日本よりも遅れた過去の遺物として否定して、中央から命じられ予算を与えられている近代化も県民の反発を口実にして手を着けずに半世紀が経過していました。
ところが泉知事は着任早々沖縄の文化や歴史の勉強を始め、離島を含む現地視察を繰り返すなどの積極姿勢で多くの県民に好感を与えたのですが、沖縄の旧家では中国式に便所で豚を飼い、人間の糞尿を餌にしているのを見て嫌悪感を抱くと一転して「沖縄は遅れている」「だから沖縄は駄目だ」と公言するようになったのです。さらに仕事に厳格な泉知事が沖縄出身の職員が酒の臭いをさせて出勤するのを許さなかったことなどへの反発から県庁内での悪評も広まって評判は地に墜ちました。このため着任して半年で転属を念願するようになり、大蔵官僚だった実兄に人事工作を依頼し、1年半の在任期間中に9回出張して3分の1の時間=半年間を県外で過ごしています(戦時中なので用件は有ったはず)。
さらに昭和19(1944)年7月にマリアナ諸島サイパン島がアメリカ軍の手に落ち、フィリピンにも迫って沖縄への脅威が高まってくると第32軍は県民の本土疎開を沖縄県に要請=命令しましたが、8月22日に那覇国民学校の児童と介添者を乗せた対馬丸が奄美諸島沖でアメリカ海軍の潜水艦に撃沈されて1484人が犠牲になると県民を説得することなく難色を示すようになり、県民の大半が沖縄本島に残ったまま激戦に巻き込まれ、多くが犠牲になった責任も指摘されています(疎開を拒否したのは沖縄県民)。
そして昭和19(1944)年10月10日にアメリカ機動艦隊による大空襲を受けると県庁や県警本部に登庁することなく官舎の防空壕に籠り、10日夜には地上部隊が上陸してくることを懸念して県庁機能を防空壕施設が充実している普天間の中頭地区地方事務所に移転することを決定して実際に移動したため沖縄県が空襲被害の復興を放棄したような印象を県民に与えました(実際は不便ながら事業は進めていた)。
結局、昭和20(1945)年1月12日に香川県知事への転出が発令されますが、これも敵前逃亡との事実無根の批判を浴びせられています。実際は「第32軍との対立で陸軍から内務省に交代人事の圧力が加わった」と言うのが真相のようです。
- 2022/10/20(木) 15:15:33|
- 沖縄史
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「ポンッ、ポンッ・・・バーンッ、バーンッ。別の2名が手榴弾を投げようとしたので射殺しました」「そうか、正当防衛だな・・・手榴弾も持っていたか」続いて残った2人を射殺した銃声2発と4秒後に爆発音が2回、そして報告が入った。「手榴弾」は音読みで統一して「しゅりゅうだん」と呼ぶことも多いが、自衛隊では「てりゅうだん」と湯桶(ゆとう)読みにしている(=訓と音の組み合わせ。逆は重箱よみ)。
「こちらの監視カメラでは他に人影は見当たらないが、撮影範囲から外れた草むらに潜んでいないか」「キャブオールで近づいて確認してみます」「不審者が生きている可能性があるから手前から徒歩で接近しろ」警衛副長は無線機でキャブオールの隊員に指示を与えながら警衛隊長と基地当直幹部が不在になっていることに気づいた。一般的な基地警衛規則では職務執行の権限を警衛隊長に与えていても空曹への権限拡大を避けて不在時の代行者を規定せずに基地当直幹部の指示を仰ぐことにしていることが多い。つまり警衛副長が戦闘を指揮し、民間人と思われる3名を殺害させたことは規則を逸脱した越権行為になる。
警衛副長は防府の新隊員課程を卒業して第3術科学校の警備課程に入校する時、班長連中から「戦争ごっこのプロにされる」と嘲笑されたが、実際は課程主任を兼務する7課長の森田敬作3佐がアメリカ空軍の横田基地憲兵隊で学んだ基地警備戦闘に警察の機動隊の警備手法を加えた日本版航空陸戦隊課程だった。午前中は警察官職務執行法や刑法などの警備関係法令だけでなくベトナム戦争のゲリラ戦術や日本の成田紛争、最近のテロ事件などの警備史の座学を受け、午後からは基本教練と警棒・徒手格闘、ラッパや交通統制など練習の他には隊舎地区と雑木林での捜索と捕獲の警備訓練の繰り返しだった。空曹になってからのアドバンス(上級課程)ではそれらの指揮と弛まぬ研究を叩き込まれたが、そのプロの仕事が今回は行き過ぎたのかも知れない。銃を向け、手榴弾を投げようとした人間を射殺した行為は正当防衛と確信しているが、手順としての確認が不十分だった可能性はある。
「パラパラパッパッパー(何かが起きッたー)、パラパラパッパッパー」その時、一斉放送のスイッチを入れた雑音に続いて非常呼集ラッパが響いた。聞き慣れている呼集ラッパと違って調音2回の「訓練冠譜」がないので実動と言うことになる。管理隊長が基地司令から指示を受けて基地当直室に帰ってから多少時間が経っているが、警衛隊長の玉城曹長から新たな事態の報告を受けていたのだろう。それを続報として基地司令に連絡していたのかも知れない。
「増加警衛、ゲートを両側入門にする。1人は出門側の車線をセフティ・コーンで封鎖しろ」「はい」警衛副長は監視カメラの映像でキャブオールが現場に到着したのを確認してから増加警衛の隊員たちに指示を与えた。大規模な基地では正門ゲートを入出門用の両開きにしているが(小規模な基地は片側半開き)、正門前の道路事情が赦せば非常呼集が発令時は両側から進入させることもある。これが警備職であれば士長クラスでも「××します」と申告してくるのを受けるだけですむのだが、全員が増加警衛では事細かな指示が必要不可欠だ。
「そう言えば隊長は警務隊に連絡してくれたかな・・・」警衛副長は増加警衛を倉庫に連れていったセフティ・コーンを3個持たせて出門側の車線に並べさせるのを指導しながら大切なことに思いが至った。本来はクレイムアを作動させた直後に消防小隊と衛生小隊と一緒に警務隊にも連絡しなければならなかったが、映像とは言え火だるまになって死んでいく侵入者の悲惨な姿を目の当たりにしているとこの2つしか思い当たらなかった。そう言えば現場に急行する消防車と救急車のサイレン音は耳にしたが、その時はキャブオールの戦闘指揮に掛かり切りでそれどころではなかった。警衛副長が電話すると案の定、警務当直には連絡が入っていなかった。
「これは中国製の拳銃ではないな」「おそらくロシア製のPP19サブマシンガンでしょう」自宅宿直の警務当直の1曹は呼集された隊員たちに巻き込まれることを避け、外柵の外の現場に直行してキャブオールの隊員たちに合流した。警務当直は投げ損なって地面で爆発した手榴弾で損壊した不審者たちの遺骸の写真を撮りながら最初の遺骸が握っている銃器と手榴弾に気がついた。銃器は中国が日本国内に大量に持ち込んで在日中国人と半島人に内乱を起こさせようとしたM92拳銃=92式手槍ではなく自衛隊のM9に類する短機関銃だった。
「この手榴弾も自衛隊やアメリカの物ではないな」「これもロシア製のPGP5のようです」「今の警備の兵隊は凄いね。そんなに勉強してるんだ」警務当直は見たこともない銃器の名称を次々に口にする警備職の若手空曹に感服したように声をかけた。その後、シェルター付近の現地検分=現場検証でも短観銃と手榴弾が発見されたので侵入者はFー15戦闘機の破壊と同時に警衛隊員をおびき寄せての殺害を狙っており、今までの破壊工作から一歩踏み出した本格的基地攻撃だったことが推察された。玉城曹長が自責の念に思い悩んでいる場合ではなかった。
- 2022/10/20(木) 15:13:31|
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2014年の明日10月20日に1939年の冬戦争でフィンランド軍がソ連軍機甲部隊を撃破したモッティ戦術を日本で再現する最精鋭部隊・第3普通科連隊が駐屯する北海道名寄市で唯一の映画館だった第1電気館が閉館しました。
名寄市は旭川市の北、稚内市の南に位置しますが、広大な北海道だけに道北最大の都会・旭川市まで列車で1時間以上かかり気軽に映画を見に行ける距離ではありません。
そんな名寄市民と自衛官にとって数少ない娯楽施設(第3普通科連隊所属だった愚息1も「ハート・ロッカー」を見たそうです)だった第1電気館は名寄駅前のアカシア通りを右=北方向に進み、5丁目の角を左折して350メートルほど歩いたところにあり(すでに取り壊されている)、150席前後の小規模な映画館でしたが閉館当時に名寄市の人口は3万人を切ったのでこれでも中々満席にならなかったのかも知れません。
日本の常設映画館は明治36(1903)年に東京浅草の電気館が最初とされています。それまでも演芸場などで臨時に上映することがあったので「○○座」や「××劇場」と言う映画館の名称はその名残です。もっとも大規模な映画館では客の入れ替えに時間がかかるため映画と映画の間にいわゆる幕間としてステージで歌手の歌謡ショーや演芸などを上演していたので劇場でもありました。確かに昔の映画館にはスクリーンの前にステージがありました(公開初日に関係者が挨拶するのにも使う)。
日本の映画館は戦時下になると子供向けのアニメ映画まで戦意高揚を目的にした戦争映画ばかりを上映することになりましたが、他に娯楽がなかったため敗戦時にも全国で空襲を免れた845館が残っていました。昭和21(1946)年に外国映画の輸入が再開されると娯楽に飢えていた国民が映画館に殺到し、昭和30年(1955)には5184館、昭和31(1956)年は6123館、昭和32(1957)年は6865館、昭和33(1958)年は7067館、昭和34(1959)年は7400館と2年で1000桁が1つ上がる規模で急増しましたが、日本映画が左翼映画人による娯楽性を無視した亡国・売国の偏向作品に堕ちた上、あらたなレジャーが普及し始めたこともあり昭和35(1960)年の7457館をピークにして減少に転じました。
それでも敗戦後の15年間で娯楽として映画が根づいていたので現象の速度は比較的緩やかで、野僧が在学中は人口8万人の蒲郡市内にも映画館があり入学時の春休みには独身の熟女教師が教室でアフリカ系の生徒にレイプされ、性交の快楽に溺れる「さよならミス・ワイスコフ」が上映されていました(高校の教員が人種差別の映画として推薦した)。
その後、さらなる娯楽の多様化やレンタル・ビデオの普及によって映画館の減少が進みましたが1993年の1734館を下限として上昇に向かい、2010年には3412館、2015年は3437館と昭和45(1970)年前後の水準に戻しています。ただし、現在はスクリーン数なので必ずしも映画館の建物の数ではありません。
やはりインターネットの普及で映画を気楽に視聴できるようになったことで逆に大画面、大音響での映画の醍醐味を鑑賞・堪能する本質的魅力に目覚めたのかも知れません。
- 2022/10/19(水) 14:23:02|
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「コンコン1、こちらヒグマ。8号のクレイムア1基を作動させた。侵入者は焼死したようだが延焼しないように初期消火を実施せよ。なお、消防車と救急車の出動を要請したから現場に誘導しろ」警衛副長は黙り込んでしまった玉城曹長ではなく基地当直幹部の管理隊長に目配せしながら巡察車両・コンコン1に指示を与えた。このキタキツネに由来する可愛いコール・サインは隊長の趣味で、娘のお気に入りだったヌイグルミの名前だ。
「それにしても一瞬であそこまで誘爆・類焼すると言うことはやはり相当量のガソリンを持っていたんですね」「やはりシェルター内に流し込んで放火するつもりだったんだな。警衛隊長が言う通りだ」管理隊長は玉城曹長を元気づけようと最初の説明を賞賛したが、本当は最初期の第3術科学校警備課程の出身者としての卓越した指揮能力と研究心を高く評価して早期昇任させた警衛副長の見解なのは判っていた。やはり森田敬作定年2佐の直弟子は違う。
「当直幹部、基地司令からお電話です」その時、警衛隊長の電話が鳴り、増加警衛(他の部隊からの増員)の空士がためらいがちに受話器を取って取り次いだ。管理隊長は少し困った顔をして玉城曹長の肩を叩くと大股に歩いて受話器を受け取った。
「基地当直幹部の市安3佐です。ご連絡が遅れましたが只今、緊急事態が発生して警衛隊が対処しています。はい、その通りです。白昼堂々3人が基地に侵入して8号シェルターに接近しました。はい、当初は逮捕、若しくは銃によって制圧するつもりでしたが、巡察車両が到着する前にシェルターのフェンスに到達したのでクレイムアを作動させました。はい、すると携帯していた燃料、おそらくガソリンが誘爆して3人に燃え移りました。はい、3人は死亡した模様です」管理隊長は説明しながら「警衛副長から第1報を受けた時点で基地司令に報告するべきだったか」と思案したが、当初は「不法侵入者3名を発見した」と言う報告だったので通常通りに対処すれば下番時に口頭説明すれば済む程度の事態だった。それが急展開した結果、3名の人命を奪う重大事態=準戦闘になったのだ。
「はい、これから当直室に戻ります。えッ、非常呼集を・・・」周囲には聞こえないが管理隊長は基地司令から叱責まではいかない注意を受けているらしい。確かに現在も防衛出動待機命令は継続しているので隊員は日曜日でも非常呼集に即応できる態勢を維持しなければならないが、ここまで長期化すると緊張感が薄れ、「休日くらいは」と待機が怠機になる者も出かねない。今日の非常呼集はその確認・検証の意味も持ち、呼集に応じられなかった者はかなり重い懲戒処分を受けるはずだ。昭和の時代の第2航空団管理隊長に加藤軍平(本名)3佐と言う妙な人物がいたが、越後長岡藩・牧野家の家訓「常在戦場」を隊長の統率方針にしていた。それを知る者は今の管理隊にはいない。
「8号付近の基地外で3名の不審者を発見、銃を持っています。距離100メートル」管理隊長が鳴り続ける問い合わせの電話に当直空曹が四苦八苦している基地当直室に戻った頃、警衛所では新たな事態が生起した。基地外の周回道路で現場に向かったキャブオールがフェンス際に立っている男3人を発見した。3人はクレイムアの作動で持っていた荷物が発火し、それが身体に燃え移り、助けようとした2名も火だるまになった惨劇を茫然として見ている。フェンスに梯子を掛けてないので侵入者は人力で乗り越えたらしい。それが発見が遅れた理由だ。
「そこで下車しろ。こちらから警告を放送するから逃走しようとすれば精密射撃で脚を射て」「了解」精密射撃とは通常は寝射ちの姿勢で照準して正確に狙う射撃だ。やはり「今回は基地外なので警察権の行使の範囲内に留め、手順を踏む必要がある」と言う判断だ。
「基地外にいる不法侵入事件の共犯者3名に警告する。こちら千歳基地警衛隊。君たちはすでに包囲されている。君たちが銃器を携帯していることはカメラ映像によって確認している。武器を捨てて投降せよ。逃走すれば警察官職務執行法に基づき武器を使用する」警衛副長はシェルター地区のスピーカのスイッチを入れるとマイクで警告を放送した。監視カメラから距離があるためシルエットでしか見えないが、茫然と立ち尽くしていた男たちが慌てて周囲を見回し、キャブオールを見つけた1名が短機関銃を向けたのが判った。
「射て」「はい・・・ポンッ・・・すいません、倒れましたから身体に当たったようです」無線機からキャブオールで向かった若手空曹が射撃した音声と報告が聞こえた。脚を狙ったはずが致命傷を与えてしまったらしい。航空自衛隊の実弾射撃訓練は警備職でも年1回なので射撃技能は本番でも発揮できるレベルまで身につかない。
「基地当直室の電話は話し中で連絡がつかないわ。私が行ってくる。良いでしょ」警衛副長が対処を指揮している間に基地当直室に報告の電話をかけていた玉城曹長は何故か1曹の警衛副長に許可を求めてきた。緊急事態におけるプロと素人の能力格差を自覚したようだ。
- 2022/10/19(水) 14:21:17|
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2003年の明日10月19日は各省庁の苦情処理係を寄せ集めて設置された環境庁の三流官僚たちにマスコミ受けする政策手法を教えて立場と能力を勘違いさせた初代・大石武一長官の命日です。医学博士だけに94歳の長命でした。
大石長官は明治42(1909)年に現在の仙台市民会館付近で政友会院外団員、仙台市会議員、後に衆議院議員になる父親の長男として生れました。仙台男子師範学校付属小学校から旧制・宮城県立第2中学校、旧制・第2高等学校に進学しますが、中学校では庭球、高校では野球に熱中したものの結核性の肋膜炎と腹膜炎を患って留年しています。大学は父親の強い勧めで東北帝国大学医学部に入学して昭和10(1935)年に卒業、昭和15(1940)年には同大学院医学博士課程を修了しました。
戦中戦後は仙台の大学の付属病院や国立病院で勤務しますが、昭和23(1948)年に第1次吉田内閣の農林政務次官だった父親が病床に大石長官を呼び、「立派な政治家になって私のやり残した仕事を仕上げろ」と告げて2時間後に死亡したため、孝行息子の大石長官は幼い頃から動植物が好きで植物学者志望だった自分に医学部進学を強要しておきながら次なる方向転換を遺命にする横暴にも服従して父親の死亡に伴う補欠選挙に立候補して当選しました。
自由民主党では憲法改定や再軍備を公言する鷹派の中曽根派に所属しましたが、大石長官自身は自然保護や軍縮、平和問題に意欲を見せる鳩派と目され、1960年代の高度経済成長で戦前から始まっていた環境汚染が急速に進み,ヘドロの海と光化学スモッグが日本の国土を覆い始めて国民の環境問題に対する危機感が最高潮になっていた昭和46(1971)年7月1日に環境庁が設立されると第3次佐藤栄作改造内閣で初代環境庁長官に指名されました。就任後は原因が特定されても症例の分析と研究が進んでおらず公害被害者としての認定が遅れていた有機水銀に汚染された水俣湾の魚貝類による「水俣病」、カドミウムによる「イタイイタイ病」、大気中の亜硫酸ガスによる「四日市喘息」、同じく新潟県阿賀野川流域の有機水銀に汚染された水稲による「第2水俣病」の患者を「疑わしきは認定する」と大幅に救済したことで世直し大明神の如く崇め祀られ、さらに観光客の激増と日本海側と太平洋側を結ぶ新たな幹線道路として建設が決定していた尾瀬湿原の自動車道計画を中止させるなど自民党の政治家としては異例の活躍を見せためマスコミに「公害対策・環境保護の救世主」と賞賛されたのです。
しかし、三木武夫内閣で農林大臣に就任したものの昭和51(1976)年の衆議院選挙で落選、翌年の参議院選挙では当選しました。ところが昭和53(1978)年に自民党を離党して新自由クラブから参議院選挙に臨みましたが再び落選して政界を引退しました。以降は晩年まで環境団体で主に大規模公共事業の反対運動に情熱を燃やしていました(野僧も熊本県の川辺川ダムや岐阜県の長良川河口堰の反対運動で現地に来たのをテレビで見たことがあります)。何にしても今ではヨーロッパの環境団体の国営日本支部になっている環境庁=環境省を国民が過大評価し、過剰に期待させることになった元凶でしょう。
- 2022/10/18(火) 13:11:15|
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「大きな荷物を持ってるわね。爆発物かしら」「250キロ爆弾の直撃に耐え得るシェルターを狙っているなら閉まっている扉の下から燃料を流し込んで放火する可能性があります。Fー15のジェット燃料に引火させれば爆発します」「なるほど・・・」玉城曹長は警衛副長と侵入者が映っている監視カメラの受像機の前に立ち、画像を注視しながら状況を分析した。
「おう、出番だな」そこに警衛副長が電話連絡した基地当直幹部の管理隊長が入ってきた。管理隊長は振り返って敬礼している玉城曹長に手を上げて応えるとカメラの前に並んで立った。
「音声でこちらが発見していることは伝えたのですが退去する様子はありません。あくまでもシェルター内のFー15を破壊するつもりのようです」「それで大荷物なんだな。しかし、シェルターの扉は飛行群のカード・キーと暗証番号を押さなければ開かないだろう」「おそらくガソリンなどを流し込んで放火するつもりなんでしょう。早く阻止しないと・・・」管理隊長の疑問には玉城曹長が請け売りで答えた。
「巡察車両で侵入者と同数の3名を急行させます」「今回は小銃と実弾を携帯させて下さい。後は鉄帽と防弾チョッキを着用させます」玉城増長が警衛隊長として指揮系統上の上司である基地当直幹部に報告すると横から警衛副長が補足した。
「実弾入り拳銃を持っている可能性があるから必要ね。許可します」「後は小銃と実弾を持った隊員を2名にキャブオール(小型トラック)で外柵の外の道路を確認させます」「どうして」「白昼堂々、監視カメラが設置されている基地に侵入してくる以上、敵は応戦する準備を整えていると考えるべきでしょう。下手すれば我々をおびき寄せているのかも知れません。おそらく拳銃以上に強力な武器を持っている。外柵の外に機関銃を設置している可能性も否定できない。そうなると警衛隊が保有している中で一番強力な武器で対処するしかありません」警衛副長の説明に玉城曹長は絶句し、管理隊長は満足そうにうなずいた。
「それから現時点でクレイムアの作動を準備します。隊長、営内者を呼集したいのですが」「うん、そうしてくれ」警衛副長は目で玉城曹長の許可を得ながら指揮権を代行した。すると警備職の若手空曹は警衛副長の指示事項を実施し始めた。
その手始めは警衛隊長が持っている実弾を収納してある金庫の鍵だった。若手空曹は玉城曹長から鍵を受け取ると警衛所の奥の書棚ロッカーの上の金庫の扉を開け、小銃の実弾の箱を取り出して中身の弾数を確認した。その間に警備職の空士が銃架の横の棚から小銃の弾倉を持って来て警衛副長の机の上で若手空曹と実弾を詰め始めた。ただし、若手空曹は小銃弾を横一列に並べて弾倉を押しつけて素早く装弾していくが、空士は指で詰めるので手間がかかる。
「よし、巡察車両で行く3名、鉄帽と防弾チョッキを点検」「異常なし」「小銃を渡す。銃点検」「1、2、3、シ―イ、5、6。異常なし」「実弾を渡す。弾数確認」やはり現場へは警備職の若手空曹と空士2名が向かうことになった。この隊員たちも警衛所内で管理隊長と玉城曹長に警衛副長が戦闘に発展する可能性を説明していたのを聞いていたはずだが当然のように出発準備を進めていく。これが第3術科学校の警備課程で「不沈空母・基地乗り組みの海兵隊員」として鍛えられ、使命感と言う覚悟を植えつけられた基地警備戦闘のプロたちなのだ。
「増加警衛の人たちも聞きなさい。警備職は今から侵入者対処に向かうのよ。不在になったゲートは貴方たちが守るのよ。それから半分は昼食を取ってないわね。残しておくから無事に帰るのよ」玉城曹長は出発の申告のため整列した3名の後ろで緊張した顔を向けている増加警衛の隊員たちにも声をかけた。この言葉にはどこか母心が漂っていた。
「侵入者、間もなくシェルターのフェンスに到着します。警告を継続していますが無視しています。巡察車両は間に合わないので8号3番のクレイムアを作動します」監視カメラ係の空士もキャブオールで出発させたため警衛副長が交代していた。千歳基地でも作動命令の権限は最初に使用した基地に習って警衛隊長になっている。そのため立ち会っている基地当直幹部の管理隊長も腕組みして怯えたような玉城曹長の顔を黙って見ていた。
「これで人が死んでしまうのね」「敵がです」「どうぞ」玉城曹長はすがるように管理隊長を見たが目つきを厳しくしただけだったので覚悟を決めた。警衛副長は呟くような玉城曹長の命令を受けて即座にスイッチを押した。その時、「プチッ」と口にしたのはご愛嬌だ。
ズーンッ、「クレイムア8号3番、作動」。ドーンッ「侵入者の荷物が爆発しました。炎上しています」「人間に燃え移ったようです。隊長(管理隊長)、元へ当直幹部、消防車と救急車を要請します」人間が火だるまになって転げ回っている監視カメラの悲愴な映像を報告しながら警衛副長は冷静に意見具申した。同じ映像を玉城曹長は「この惨劇を命じたのは自分なのだ」との自責の念に苛(さいな)まれて凍りついたように見ていた。
- 2022/10/18(火) 13:09:44|
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9月27日に東京で行われた国葬では岸田首相が無能ぶりを晒し、それにつけ入ったマスコミによる数字の操作=偽造の疑惑が極めて濃厚(事前に電話をかけるコンピューターに反対派の電話番号を入力しておけば簡単にできる)な反対世論を背景にした野党、特に立憲民主党の追及に呼応した市民団体を自称する政治組織が追悼行事の最中に会場付近でシュプレヒコールを上げる暴挙によって取材していた外国人記者が「日本人は分裂している」「安倍首相の支持基盤は必ずしも一枚岩ではなかった」と誤解する結果を招き、生命を賭して日本のために尽力した安倍晋三元首相の魂魄が安心して往生できない政治状況が生起し、現在も継続しています。
そんな10月15日の土曜日に山口県では国葬と同時期に県知事が表明していた県民葬が下関市の海峡メッセで催されました。ちなみに山口県の県民葬は1回目が佐藤栄作元首相、2回目は公選の山口県知事としては唯一の東京大学ではなく(京城大学卒)、亡くなる2カ月前まで6期在任した橋本正之県知事、3回目は岸信介元首相、そして4回目が経歴としては極めて異例の安倍元首相の父・安倍晋太郎元外務大臣です。
安倍元首相が暗殺された時、過半数が反対している国民は東京や現場になった奈良だけでなく全国各地に設けられた献花場や記帳所、遺影を飾った慰霊所に沈痛な面持ちで長蛇の列を作って長時間並びましたが、山口県ではそれまでの気象台が6月中旬に梅雨明けを宣言するほど雨が降らない異常気象が安倍元首相の訃報が伝えられた翌日から1週間弱の大雨になり、県民の多くが「天も泣いている」と潤んだ空を目で見上げていましたから県内が慟哭の淵に沈むと思われました。ところが遺骨を抱いた昭恵夫人が入場して県民葬が始まるとテレビ中継でも式場が国民葬以上に厳粛な追悼の空気に包まれたことが伝わってきましたが、喪主挨拶で昭恵夫人が「信じられないような思いの中で日々が過ぎていき、先日は立派な国民葬を挙行していただき、段々と実感が湧いてきて、本当にいなくなってしまったんだなと寂しさが増しているような日々です」と述べたように県民もようやく巨大な喪失感を事実として受け止めて涙が乾いた目に目薬を差したように癒えた哀しみを蘇らせ、あらためて慟哭させるような行事になりました。
その一方でNHK山口局を含む地元マスコミは主催者発表で80人から60人なので実際は20人程度の反対派のデモを東京並みに報道し(参加者が少ないのでカメラが振れず、10人ほどの参加者を固定して撮影していた)、新聞のインタビュー記事でも追悼の言葉を述べた回答者よりも「税金の無駄遣い」などの反対意見の方を多く掲載するなど「山口でも反対派がいる」と強調するような紙面造りをしていました。
それにしても森加計問題の時、東京の批判派に迎合する=指令を受けた広島と小倉の売国奴・非国民たちが昭恵夫人の選挙応援の講演を妨害しようと下関市に乗り込んできたものの会場周辺を屈強な支持者たちが固めているのを見て「下手すれば殺されて玄界灘に捨てられる」とビビッて退散しましたが、今回は追悼の式なので騒ぎを起こすことは控えて黙過したようです。
- 2022/10/17(月) 15:08:28|
- 時事阿呆談
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「警衛隊長は補給隊なのにどうしてそんなに警備に詳しいんですか」警衛所の食堂で昼食を取っていると食事の準備をしてくれた警備小隊のWAFの空士が真顔で質問してきた。玉城美代子曹長は警衛隊長につくと深夜の眠気覚ましの雑談で夫の玉城松真元准尉から習った警備の知識を披露しているので夫婦で一目置かれている。特にWAFたちはまだ警備職にはWAFの曹長がいないため玉城曹長を将来の目標にしてくれているようだ。
「ウチの旦那のお姉さんの別れちゃった旦那さんは陸上自衛隊の普通科連隊の幹部だったから、その人に警備戦闘の知識を仕込まれたみたい。お姉さんが離婚してからも連絡を取っているのよ」この説明はかなり省略しているので事実に反する部分もあるが、玉城元准尉が基地警備の知識を学んだ元義兄が航空自衛隊だったことや夫婦揃ってのダブル不倫と言う離婚理由は秘匿すべき個人情報に属する。
「玉城准尉もウチの小隊で航空機警備員って仇名されるくらい警備に詳しかったです。ウチの古手の空曹たちは3術校に入校していないから基地警備戦闘の教育を受けていないんです。だから玉城准尉が警衛隊長につくと若手の空曹や空士が影響を受けるから困ってました」「ウチの旦那は准尉になって警衛隊長につけなくなったことを残念がっていたわ」一般的な基地警衛規則では准尉も警衛隊長につけるのだが、人事上の取り扱いで幹部と空曹の境界線が不明確な面があるため勤務割を控えていることが多い。それにしても航空機警備員は義兄のモリヤ元2佐が空曹時代に那覇基地の警備小隊に付けられ、自称していた仇名だ。
「僕が3術校に入った頃の校長は将補のWAFでしたけど、やっぱ雲の上の人ですから空曹士の憧れは曹長です。いつまでもWAFの目標でいて下さい」「残念ながら私は後2ヶ月で付になるのよ。だってお婆ちゃんですもの」話が区切りになったところでWAFは自分の食事の準備を始め、隣りの席の空曹が相手を替わった。この空曹が言う第3術科学校長兼芦屋基地司令のWAFの将補は上品で清楚な美人だったこともあり、18、9歳の新隊員を含めて入校中の隊員にとっても憧れの的だったそうで、玉城曹長の補給隊の隊員も第3術科学校出身なので噂は聞いたことがある。一方、玉城曹長も「募集する地連(当時)の広報官は陸上だから美人はWACにしてしまう=WAFにはブスしかいない」と言われていた時代のWAFでも例外的な美人だった。実際、当時は「WAFの結婚相手の階級は美人度に比例する」と言われていたようにパイロットなどの若手幹部たちから上司に交際の申し入れが殺到していたが、隊員食堂で会うエキゾチックなハンサム・ボーイの玉城松真曹候生に惚れ込んで逆ナンパした。
「そう言えば今は陸上にWACの将補がいましたね。確かアメリカ陸軍のエリート・コースに乗って幹部候補生学校長をやっていたと思いますが。もう定年になったのかな」「あの人が旦那のお姉さんと離婚した相手の再婚相手なのよ。私も会ったことがあるわ」意外な展開に本来は早く食べて交代しなければならない警衛隊員たちも喫食を停止させてしまった。玉城夫婦が小松基地で勤務していた時、夏季休暇で北海道へ帰省した帰路を名古屋空港着にして守山駐屯地で勤務していた元義兄の官舎を訪問したことがある。その頃の玉城曹長は婦人自衛官教育隊での清く正しく美しい厳格な貞操教育の影響でダブり不倫で離婚した上、どちらも即座に再婚し、おまけに出来ちゃった結婚だった元義兄夫婦に嫌悪感を抱いていたが、夫から元義兄と元義姉の結婚の経緯や沖縄の両親と他の義姉たちの反応を説明されて好感に転換した。
「奥さんが将補なら旦那さんは陸将ですか」「2佐よ。司法試験に受かって弁護士になったの」「あの陸幕法律相談室のモリヤ弁護士ですか」「うん、そうよ」食事の速度は上がりそうもない展開だ。この世代ではモリヤ元2佐が北キボールPKOで現地人暴徒を殺害したことで刑事裁判の被告人になり、東京拘置所に収監中の猛勉強で難関の司法試験に合格した経緯は知らないはずだ。しかし、それはあえて説明する必要がない個人情報だ。
「警衛隊長、侵入者を発見しました。来て下さい」その時、廊下を駆けてくる足音が聞こえると勢いよく食堂のドアが開けられた。それは歩哨係の若手空曹だった。夜間であれば指向式散弾地雷・クレイムアの作動を覚悟しなければならないが、今は視界が届く昼間なので対応方法の選択肢の幅は広い。玉城曹長は湯呑の茶を飲むとWAFの空士に半分残っている料理の片づけを頼み立ち上がって警衛所に向かった。隣の席の空曹は足音で身構えて説明と同時に駆け出していたが、そこはプロと素人の違いと言うことだ。
「8号シェルター付近の外策を男3人が乗り越えました。8号はこの位置です」警衛所に行くと警衛副長の警備職の1曹がボールペンで机上の基地見取り図を示しながら説明した。千歳基地には弾道ミサイルによる奇襲攻撃に備えてFー15戦闘機を格納する耐爆格納庫が多数存在する。監視カメラにはその中でも市街地から遠い1基に向かう侵入者3人が映っていた。

ご本人
- 2022/10/17(月) 15:07:07|
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やや古い話になりますが9月29日に保育園の頃から読書好きだった野僧が自分で愛読していた絵本「そらいろのたね」や「ぐりとぐら」の絵を描いた山脇百合子先生(当時は大村姓だった)が亡くなったそうです。死因は「衰弱のため」とされていますが享年は日本人女性の平均死亡年齢よりも若い80歳なので「老衰」ではなかったようです。
山脇先生は日本の陸軍がマレー半島に上陸し、海軍がハワイ真珠湾を空襲する5日前に東京で生まれました。東京都立西高校在学中に絵本や童話の挿絵を描くようになり、上智大学を卒業してまもなく結婚しました。したがって結婚前の大村姓の作品は高校から大学に在学中に描いたものかも知れません。ちなみに山脇先生の絵本の大半はデビュー作の「いやいやえもん」以来、6歳年上の実姉の中川季枝子先生の童話なので姉妹作品と言うことになります。
野僧が好きな「そらいろのたね」は「ある日、ゆうじがキツネに『ゆうじの宝物の模型飛行機と自分の宝物の空色の種と交換してくれ』と頼まれて、仕方なく応じたのでした。ゆうじが庭に種を撒いて水をやると翌朝に小さな玩具のような青い家が現れ、それを見たゆうじが『早く大きくなれ』と言いながら水をやると家は大きくなり、ヒヨコがやってきて『僕の家だ』と言って中に入っていきました。そこでゆうじが『もっと大きくなれ』と言いながら世話をすると家はドンドン大きくなり、猫や豚、さらにゆうじの友達まで集まって中で遊ぶようになりました。それでも家の成長は止まることなく、やがて街中の子供から森の動物まで集まってきました。そこに狐がやってきて巨大になった家を見て驚き、『模型飛行機は返すから家を返してくれ』と一方的に言うと模型飛行機を渡して家に入り、中にいた子供たちや動物を追い出して窓を閉め、内側から鍵をかけたのです。すると家が急激に成長し始め、空を覆うようになってゆうじが『おひさまにぶつかる』と叫んだ時、急に崩壊して消えてなくなってしまいました。後には気絶した狐が転がっていました」と言う話です。山脇先生のアッサリとした画風が物語の緊迫感を緩和して、最後に失神して転がっている狐には笑うよりも同情してしまいました。
一方、「ぐりとぐら」は「料理好きの野ネズミのぐりとぐらが食材を探しに森の奥へ出かけ、籠に団栗や栗を拾い集めて行くと道の真ん中に巨大な卵が落ちていました。ぐりとぐらは大喜びして『目玉焼きにしようか』『卵焼きにしようか』と話し合いましたが、カステラを作ることに決めました。そこで卵を家に持って帰ろうとしましたが大き過ぎて運べず、仕方なく道具を持ってきて森の中で作ることにしたのです。それでも鍋は大きくて運べないので引っ張ったり転がして何とか持ってきました。そして野外炊事を始めると匂いを嗅いだ森の動物たちが集まってきて楽しい会食会になりました。ぐりとぐらは2つに割った卵の殻で作った車に荷物を積んで帰りました」と言う話ですが、調理方法が詳細に具体的で流石は3児の母の作画でした。
愚息たちが幼児の頃、「ぐりとぐら」はシリーズで買っていて読み聞かせから自力の読書に移行するのに活躍しました。感謝を込めて冥福を祈ります。
- 2022/10/16(日) 14:27:14|
- 追悼・告別・永訣文
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「第2航空団補給隊、玉城美代子曹長以下23名、警衛勤務に上番します」次の日曜日の朝、第2航空団補給隊需品班長の玉城美代子曹長は勤務割の通り警衛隊長に上番した。平日であれば管理隊長に行う上下番申告は休日なので基地当直幹部になるが、今日は管理隊長が上番している。今までも玉城曹長が上番した日に管理隊長が基地当直幹部に就くことが多かったのは指揮能力への不安から勤務割を作成する担当者が調整してこのような組み合わせにしているのかも知れない。防衛出動待機命令が発令されて以降、航空自衛隊の多くの部隊では警衛隊とは別に基地警備隊を編成して重要施設に配置していたが事態の長期化に伴って縮小され、クレイムアの設置と警衛隊員に短機関銃と実弾を携行させることで対応するようになっている。
「玉城曹長、日曜日の警衛隊長は長いけどよろしく頼みます。受付や警備小隊のWAFにも気合いを入れてやって下さい」「はい、私も間もなく付ですから遺言代わりに今回は色々話したいと思っています」管理隊長は先ず平日であれば夕方に上番する警衛隊長勤務が休日は朝から24時間になる労をねぎらった。基地当直幹部は朝8時に国旗掲揚を指揮するが今日は日曜日なのでそれがなく、上下番の引き継ぎが終わり、当直室に集まった第2航空団を含む基地所在部隊の当直幹部たちの上番申告も受け終わっているので時間に余裕があるようだ。
「特に警備情報の申し送りはないがロシアの動向が気になる。飛行群と装備隊の武器小隊は基地内待機させる初動対処要員を増員している。非常呼集を発令する事態になる可能性も忘れないでおいてくれ」「はい、覚悟は決めています」管理隊長は2人で警衛所に入ると気さくに隊員たちに声をかけながら玉城曹長に指示を与えた。かつての管理隊長は輸送幹部として交通事故防止だけに固執して警備小隊には服務事故防止と警衛勤務の躾け以外に関心を示さなかった。ところが第3術科学校に警備課程が設置され、その存在意義が実戦的猛訓練として提示されるようになると輸送幹部課程に入校中に戦闘員としての使命感に目覚めさせる効果を生んでいる。特に第2航空団管理隊長は基本的に若手の3佐が配置されるので意識改革は早い。
「受付の長崎士長」「はい、長崎士長」管理隊長が出ていくと玉城曹長は警衛所でも正門側の受付席に座って背中を向けているWAFに声をかけた。すると長崎士長と呼ばれたWAFが回転椅子で回って振り返った。玉城曹長が空士の頃なら立ち上がって姿勢を正すところだが世代以前に教育隊での躾けが違う。玉城曹長は少し目つきを厳しくして長崎士長の顔を見た。
「貴女は口紅を差してないわね。受付勤務なら常識でしょう。すぐに差しなさい」「口紅は持って来ていません」「どうして。男性隊員が髭を剃るようにWAFが口紅を差すのは身嗜みなのよ。昼食の後にも化粧を直さなければならないでしょう」玉城曹長の指導に長崎士長は母親から叱責されている反抗期の娘のような顔になった。
「教育隊でもそんな躾けは受けていません」「貴女は婦教隊(婦人自衛官教育隊)が防府に行ってからのWAFだからそんなものね。WAF隊舎には外出用に置いてあるんでしょう。誰かに持ってきてもらいなさい。これは警衛隊長としての命令よ」「はい、長崎士長」玉城曹長は千歳基地では生活指導に当たるWAF先任空曹を兼務しているので「命令」と言われれば職場の上司以上の強制力がある。長崎士長は前を向くと受付の電話でWAF当直に連絡を入れて玉城曹長の命令を伝えた。その口調が不満を全く感じさせないのはWAF特有の「不満分子迫害」を回避するための予防措置だろう。婦人自衛官教育隊は当初、入間基地に設置されたが、この頃は興味津津の男性隊員に「新隊員には絶対に手を出すな=ナンパするなら部隊配置になってから」と言う厳命が徹底されていて清く正しく美しい宝塚のような雰囲気だったと言う。教育内容も試行錯誤の中で茶道や華道、書道に香道から和服の着付と日本舞踊に琴まで取り入れられて花嫁学校化していた。ところが1990年に防府南基地に移動してからは先ず指導に当たる空曹空士が野獣のような教育職の男性隊員の餌食になり、続いて入隊してきた新隊員たちも次々に試食され、やがて男女の新隊員同士の集団ナンパが繰り広げられるようになった。こうなれば女性としての美意識、躾を指導できるはずがない。
「綺麗よ。こんな綺麗な受付に出迎えられれば基地に抗議に来た人でも声を荒げることはできないでしょう」トイレの鏡で化粧を終えた長崎士長が点検を受けると玉城曹長は賞賛した。その後、玉城曹長は「興奮したデモ隊も女性警察官の前では大人しくなる」と警視庁が女性警察官中心の機動隊を創設した経緯を説明し、単なる躾ではないことを理解させた。実際、現在のヨーロッパで女性の政治家が増殖しているのはアメリカと違って男性記者が多数派のヨーロッパでは女性の政治家に対する激しい追及や厳しい批判は「紳士的ではない」と控える傾向があり、その結果、批判的報道に晒されない女性の政治家の支持・人気が上昇し、政党側も利用するようになったことが理由なのだ。そのような時事の話題も雑談の中でWAFたちに語った。
- 2022/10/16(日) 14:25:22|
- 夜の連続小説9
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1982年の10月16日に中国人民空軍の呉栄根上尉がミグ19=中国名J-6で山東半島・文登基地から北朝鮮経由で台湾へ亡命しました。
日本では戦闘機による亡命事件と言うと昭和51(1976)年9月6日にソ連軍のヴィクトル・ベレンコ中尉がミグ25で函館空港に強行着陸した事件くらいしか記憶にありませんが、共産党中国から台湾へは朝鮮戦争で撃墜されて捕虜になったパイロットの帰国拒否に始まり、1960年から1989年までに公表されているだけでも13回発生しています。ただし、使用した戦闘機はミグ25とは違ってJ-7=ミグ15やJ-6=ミグ17、J-7=ミグ19などの旧式機ばかりで軍事的価値はありません。
呉上尉は当局がこれまでの亡命者の動機を踏まえて「台湾在住の親族との再会を希望しているのか」と訊くと「先ず鄧麗君=テレサ・テンに会いたい」と答えたことで有名になりました。続いて呉上尉は「中国大陸には自由がない。我々は鄧麗君の歌を聴くこともできなければ録音することも禁じられている。自由世界なら誰でも自分の好きな歌を好きな時に聴くことができるのに」と答えたと言われていますが、当時の共産党中国は1979年の毛沢東主席の死によって5人組が失脚して文化大革命が終結したため「鄧小平体制に移行して改革開放路線を推進している」とされていて、1975年に死去した蒋介石総統が「遺命で息子の蒋経国総統に世襲させた台湾よりも民主化が進んでいる」と報じられていましたが、中国社会ではエリートである空軍士官がこのように考え、実行に移したことは台湾には絶好の宣伝材料、日本のマスコミは絶対に隠蔽しなければならない事実でした。
そのため台湾国防部は鄧麗君さんに面会を要請し(命令し?)、念願が叶った呉上尉は鄧さんが差し出した手を両手で固く握ってしばらく放さず、リクエストした「何日君再来」と「小城故事(邦訳名=小さな街の物語)」を唄うと「小城故事」の途中から一緒に唄い始め、歌詞カードなしで最後まで唄い切り、亡命時に述べた鄧さんへの想いが本心だったことを周囲に知らせ、盛大な拍手を受けたそうです。
「何日君再来」は日本でも戦前に渡辺はま子さんや李香蘭=山口淑子さんが唄ってヒットしましたが、実際は周拖さんが唄って空前の大ヒットになった上海制作の映画「三星伴月」の挿入歌で、1980年代初頭からは鄧さんが唄ったこの歌を中国共産党が支那事変の「坑日歌」として解禁したので爆発的なブームになり、鄧さんの知名度を一気に高めることになりました。ところが台湾当局が鄧さんの歌を大陸への宣撫工作に利用したため聴取が禁止され、ファンは地下に潜ることになったのです。
一方、「小城故事」は1970年代の台湾を始めとするアジア圏での大ヒット曲ですが、日本ではアジアの大スターである鄧さんをアグネス・チャンちゃんの二番煎じの輸入アイドルとして売り出した上、1979年には国交がないため制約が多い台湾の渡航許可証ではなくインドネシアのパスポートで入国しようとしたことを旅券法違反として国外退去にしたため全く知られていません。野僧は沖縄で仲良くしていた台湾人の女の子に教えてもらいましたが、カラオケはありませんでした。
- 2022/10/15(土) 13:52:32|
- 日記(暦)
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「航空は戦争をするのに色々と手続きが必要なんだね。ならば我々が初動対処を引き受けよう」「我が自衛艦隊はロシア軍の弾道ミサイルに対処するため日本海北部にイージス艦を常時展開している。随伴している通常のミサイル護衛艦と合わせれば輸送機全機を撃墜することくらいは片手間の仕事だ」統合幕僚長を含む陸空自衛隊の将官たちが双木外務大臣を交えて「ロシア軍の参戦に防衛出動の発令が間に合うのか」「防衛出動の発令前に奇襲攻撃を受けた場合に何ができるのか」を議論しているのを傍観していた海上自衛隊の提督が艦砲の一斉射撃を始めた。海上自衛隊は帝国海軍が甲板勤務と機関科、航空機搭乗員以外の士官は戦闘中も軍服姿だった伝統を継承して制服を着ている。今まではそれが防衛行動に参加していないかのような印象を与えていたが、この発言で立場が逆転した。
「現時点では弾道ミサイルに対する破壊措置命令は発令されていないだろう」「航空の高射ミサイルは大臣命令が発令されてから発射準備を始めるようだが、北朝鮮の弾道ミサイルが日本に到達するまでに要する時間は何秒だね」「・・・20秒前後だな」自衛艦隊司令官の質問に答えた航空総隊司令官の顔は苦渋に染まった。航空自衛隊の高射群は防衛大臣からの破壊措置命令が発令された時点で実動態勢に移行するが、それまでは「365日24時間、即応態勢を維持している」と言いながら実態は訓練待機と称する暇つぶしで、青森県に所在する第6高射群は北朝鮮の長距離弾道ミサイルが射程距離内を通過しても何もしなかったどころか何も知らなかった。戦闘機パイロットの航空総隊司令官としては実戦態勢を完成しつつある戦闘航空団や警戒管制団に比べて相変わらずの高射群には苦々しい思いを抱いているのだ。
「太平洋の輸送航路の船団護衛ではアメリカ海軍が戦闘規定に基づいて中国の潜水艦を撃沈しているが、あれも実際は海自も手を下しているんだろう」「海の上でのことは地上の人間が知る必要はありません」海上自衛隊が会議の主導権を奪うと統合幕僚長は釘を刺そうとしたが船団護衛を指揮している自衛艦隊司令官が一言で抜いて捨てた。その問答に双木外務大臣は苦笑いした。双木外務大臣が防衛大臣に就任した時、海上自衛隊はイージス護衛艦・あまごと漁船の衝突事故の海難審判が始まっていた。海難審判では前任の岩場防衛大臣が謝罪したことを過失を認めたと断定するマスコミの糾弾報道を背景にした国土交通省の海難審判部が海上保安庁に証拠を捏造させていたが、それを説明した当時の海上幕僚長は「海の上でのことは海に生きる人間にしか判らない」と司法法廷での逆転無罪獲得に向けて全力を尽くすことを宣言した。実際に司法法廷では逆転無罪を獲得したが、司法試験に合格している陸上幕僚監部のモリヤ2等陸佐を担当弁護士にすることに不満があったものの本人が海上自衛隊の生徒、航空学生、一般海曹候補学生、一般幹部候補生(部外)を5度受験しながら2次試験で落ち続けたことを告白して参戦できることに歓喜していたので、「何故、2次試験で落としたのか」が人事系統で問題になった。双木外務大臣の超優秀な頭では海上自衛隊の矜持が得心できたらしい。
「私(わたくし)も北空司令官には北海道、東北空域の制空権を確保するためには手持ちの2個高射群を稚内と根室に配置してサハリンと国後島から発進するロシア軍機に対処するべきだと分も弁えず提言したんですが、まだ実施されていないようですね」「私も総監の提言を受けて実施に向けて検討を命じたのですが、高射群が展開中にロシア軍の侵攻が始まった時に撤退が困難になると反対して、当初の設置目的通りに札幌と津軽海峡防衛に当たらせています」こちらは兵器管制幹部出身の北部航空方面隊司令官は対潜哨戒機パイロットの大湊地方総監の質問に航空総隊司令官以上に顔を苦渋に塗り込めた。大陸国家では高射部隊を国境付近に配置して自由発射権限(独自の判断で発射して撃墜する権限)を与えることで戦闘機による要撃が間に合わない奇襲攻撃に対処させている。一方、サハリンから稚内、国後島から根室までの距離では千歳基地から発進する戦闘機では間に合わないため有事には空中給油による上空待機で迎撃する作戦計画になっている。そのような応急措置を維持するよりも高射部隊を配置する方が現実的なのは軍事のプロでなくても判ることだ。
「空自は飛行機よりも組織が空中分解しているようだな。開戦に向けて意識改革が必要なんじゃあないか」「パイロットは命知らずに任務を遂行しているし、レーダー部隊は完璧に監視して冷静沈着に迎撃戦闘をコントロールしている。その割に高射部隊の体たらくは何なんだ」「何よりも地上戦を開始する陸上自衛隊に背を向けて逃げることが許されると考えていることが信じられないよ。高射群が戦闘部隊を自称するなら全弾射ち尽くせば地上戦闘に参加するのは当然の責務だろう」海上自衛隊の提督たちが「唯我独尊」の気風を発揮して会議の主導権を奪取すると何故か統合幕僚長を加えた陸上自衛隊の将官たちが追い討ちをかけた。実はこの主導権争いは今後の戦費の分配につながっているのだ。
- 2022/10/15(土) 13:51:00|
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