明治43(1910)年の明日12月1日に現在も山口県では完全無欠の唯一絶対神に祀り上げている吉田寅次郎松陰▲(「さん」欠く)の兄の杉民治(みんじ)さんの命日です。
民治さんは文政11(1828)年に萩城下がある阿武川の河口の三角州を形成している橋本川と松本川の対岸でも近所には足軽の伊藤俊助=博文さんの実家があった下級武士の居住地域の松本村で杉百合之助さんの長男として生まれました。幼名は梅太郎です。
杉家は足軽に毛が生えた程度の下級武士で藩士半農の生活を送っていましたが、祖父の杉七兵衛さんが極めて教育熱心で長男の百合之助さん、二男の大輔さん、三男の文之進さんの三兄弟に英才教育を施したため萩城下で学才が評判になり、大輔さんは山鹿流兵法指南役の吉田家、文之進さんは藩校・明倫館の教授補佐の玉木家の養子になりました。
そんな家庭に生まれ育ったため民治さんは2歳年下の虎之助(後の寅次郎)▲と共に畑仕事や家事に励みながら百合之助さんから論語の講義を受け(実際は暗唱)、成長すると文之進さんが実家に開設していた私塾・松下村塾に入門し、やがて藩校の明倫館に入校することになりました。それでも虎之助▲は病弱だった大輔さんの養子になり、山鹿流兵法指南役を相続しましたが民治さんは下級武士の杉家の跡取りであり、学才を発揮する機会は与えられず嘉永6(1853)年にペリー提督のアメリカ艦隊が浦賀に来航すると江戸湾防備のため相模に派遣されました。
ペリー提督は幕府=阿部正弘政権が国交樹立の申し入れの返答を1年後と通知したのを受けて1年後の再来航を宣言して帰国したため沿岸防備は継続され、杉さんも相模に留め置かれました。ところが実像は(多分)発達障害の偏執気質だった愚弟・寅次郎▲が江戸遊学で師事していた本当の天才・佐久間象山(出身地では「ぞうざん」)さんの扇動を鵜呑みにして安政元(1854)年に2度目の来航をしたペリー提督の艦隊への密航を企てて失敗したことで帰国を命ぜられ、人手不足の折から郡奉行所に勤めることになりました。しかし、この仕事も安政6(1859)年に寅次郎▲が江戸に送還されるとペラペラと老中暗殺計画を自白して斬首になったことに連座して免職になっています。
ところが万延元(1960)年に父・百合之助さんが56歳で隠居して家督を譲ったため復職すると文久3(1863)年には御蔵元役所本締役に就任し、慶応元(1865)年からは民政方御用掛、明治元(1868)年には民政主事助役を勤め、その功績で藩主の毛利敬親さんから「民治」の名を与えられました(正式な諱は修道)。
明治以降は東京の中央政府に参加することはなく明治4(1871)年の廃藩置県後は山口県権典事に就任して明治11(1878)年まで地方行政に携わりました。
公職を退いてからは明治13(1880)年に萩の乱の責を負って文之進さんが自刃して閉鎖されていた松下村塾を再興し、明治25(1892)年には敗戦後にキリスト教に乗っ取られる萩市内の浄土真宗系の私立女学校の校長に就任しています。
明治政府内でも無能振りを露呈していた毛利藩閥の権威を捏造するため実像に関係なく神格化された弟を持つとこのような余生しか許されなかったのでしょう。
- 2022/11/30(水) 14:22:21|
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「夏休みには函館や東京の聖堂に行きたいな」屯田局員=ダノンとエレナの交際はキスの頻度と濃度は高まっているものの清く正しく美しいまま続いていた。それでも夏が近づいて薄着になったエレナを見ると鼻血を吹きそうになる。やはりロシア人にとって日本の夏は堪えるらしく一般公開するのが腹立たしいほどの薄着なのだ。
2人は春には花見を兼ねて出かけた福岡市の空港の東側にあるはずのロシア正教=日本ハリストス教会の亜使徒ニコライ伝習所を訪ねている。ところがベテランのタクシー運転手も知らず、住所で探しても判らなかった。そのため5月の連休には朝一番の新幹線で神戸市の聖神降臨聖堂に行ってきた。すると大きめの民家のような小さな聖堂だったが、葱坊主のようなドームが載った塔があり、中のイコン(聖画)も本格的でエレナは感激していた。何よりも聖神降臨聖堂には神戸市と近郊に住む在日ロシア人が多くエレナは話しながら涙を流していた。
「東京や函館だと日帰りは無理だぞ。留学生は外泊できるのか」「聖堂に参拝するための旅行なら許されるわ。同学年の留学生たちも最後の夏休みだから日本で就職する娘(こ)以外は観光旅行のプランを立てているのよ」屯田局員としては「2人で泊まること」を再認識させようと思って確認したのだがエレナは全く気にしていないようだった。
神戸からの帰路、新幹線の中で屯田局員が泣いていた訳を訊ねるとエレナは今まで語らなかった身の上話を始めた。エレナのラチニナ家は帝政ロシアの時代は大地主だったがロシア革命で資産家や地主が迫害されると日露戦争で日本に割譲されていた南樺太に亡命して開拓団に加わった。父はそこで日本人として生れた。ところが1945年8月9日にソビエト連邦軍が樺太に侵攻してくると亡命者は国内に強制連行されて労働者や農民になった。ラチニナ家はカスピ海東岸の北カフカース地方に粗末な住居を与えられて原野の開拓を命じられたが、1991年12月にソビエト連邦が崩壊したため開拓した農地を私有地として自営農業を始めた。エレナが生まれた頃は平凡な農家だった。ところが1994年にロシア軍が進駐して独立派の摘発を始めると抵抗するゲリラとの戦闘が始まり、それが旧ユーゴスラビアのジェノサイト以上の住民虐殺に発展したことで父はエレナを自分が生まれた日本に逃がそうと日本語を学ばせ、モスクワの親戚が知らせてきた梅香学院大学の留学生に応募させたのだ。日本の報道ではチェチェン紛争は2009年に終結したことになっているが両親は「帰ってこい」とは言っていない。それは単にロシア軍が2008年に南オセチアでも同様の独立派の弾圧を始めたので手が回らなくなっただけなのかも知れない。
「東京と函館のどっちが良い。北海道の函館の方が涼しいのは間違いないな。東京は下関以上に暑いらしいぞ」「本当、朝の天気予報で東京の予想気温を聞くだけで熱中症になりそうよ」エレナが2人での旅行を当然視していることを確認した屯田局員は旅行計画の相談を始めた。屯田局員は東京には行ったことがあるが北海道は未経験だ。山口県人にとっての北海道はテレビで見た「北の国から」の舞台だった富良野や雪まつりの札幌までで函館に関してはヴィジュアル系ロック・バンドのGLAYの歌を聴くくらいだ。山口県ではラーメンでさえ博多の豚骨や長崎チャンポンであって札幌ラーメンではない。
「函館の復活聖堂は安政5年だから1858年にロシア領事館の礼拝堂として作られたんですって。今の建物は大正5年だから1916年に建て直したけど大きくはないみたい」「安政5年と言えば松陰先生が亡くなる前の年か」エレナの記憶力に感心するべきところを屯田局員は山口県の学校教育で植えつけられた余計な知識で気づき逃してしまった。
「東京の復活大聖堂はニコライ堂て言って日本ハリスト教会の本部が置かれているとても大きいらしいわ。建ったのは明治24年だから1891年だけど関東大震災で大きな被害を受けたそうよ。だから今の姿を見てみたいわ。東京の暑さは嫌だけど」結局、結論は屯田局員に出させるつもりのようだ。ロシアに「夫唱婦随」「亭主関白」の4字熟語に相当する言葉があるのかは知らないが(夫が主導権を握ることを意味する「ムーシュ・イズナ」と言う熟語はある)、エレナは今時の同世代の日本人の女子よりも控え目で、父を立てる母に似た雰囲気を感じることがある。ただし、金髪美女のエレナと典型的日本の小母さんの母では容姿は全く違う。そもそもテディ・ベア風の屯田局員は母親似なのだ。
「俺の夏季休暇は日曜日をくっつけた4日間だから移動の2日を外すと実質2日だけだ。北海道旅行には足りないかもな」「ダノンは仕事だもんね。私も今年は卒論を書かないといけないからハウステンボスは断ったけどゼミがあるからあまり長い旅行は無理よ」「東京で決まりだな」屯田局員の判定基準は現実的だがエレナはそれを優先する意味を理解している。おそらくロシアの農家の両親は日本の一般家庭と共通する生活感でエレナを躾けたのだろう。

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- 2022/11/30(水) 14:20:50|
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2008年の明日11月30日に我々世代には「夢の超特急」として憧れと誇りを与えてくれた初代新幹線0系の定期営業運転が終了し、同年12月14日の「さよなら運転」を以って姿を消しました。
新幹線0系は東京オリンビックが開催される10日前の昭和39(1964)年10月1日に東京から新大阪までの515・4キロの区間の東海道新幹線として開業し、逐次延長された山陽新幹線に接続してからは博多までの1069・1キロを結ぶ大動脈としての重責を担ってきました。0系は44年間に総計3216台が製造されて昭和61(1986)年までに38度の改良が加えられています。
東海道新幹線は高度経済成長によって首都・東京と商都・大阪を往復する旅客需要が急増しながらも高速道路は建設されていなかったため一般道での自動車による長距離移動は負担が大きく、旅客機は1機当たりの搭乗者数が少なかったため料金が割高でした。
そのため旅客が殺到していた国鉄は東京から大阪までの高速列車を実現する必要に迫られ、事故が発生する危険性が高い踏み切りを排除した高架式の専用線路による高速路線を新設することを決定したのです。折から昭和39(1964)年に東京オリンピックが開催されることが決定し、業務以外にも大阪と東京を往復する旅客需要が見込めるようになったため建設工事には巨額の予算が投じられることになりました。
一方、車両については「未経験の新技術は使わず、それまでに日本の鉄道が蓄積した実証済みの技術を組み合わせる」「将来に改良の余地を残す」を基本方針にして設計に着手しました。そうして設計された0系は広軌を採用して全長24・5メートル、幅3.38メートルと狭軌の在来線車両よりも5メートル長く、50センチ以上広い流線型準張殻構造で、高速安定走行を実現するために車輪の直径を拡大して車体の床の高さは南満州鉄道の「あじあ」号と同一規格の1・3メートルになりました。
しかし、0系の魅力は何と言ってもボールをはめたような丸みを帯びた先頭形状と丸い目のような接近表示灯(前方を照らすよりも接近を知らせることが目的)の愛らしい表情、そして白に青の線を引いた車体の塗装でしょう。これは昭和55(1980)年に登場した東北・北陸新幹線の200系では塗装が白と緑に変わり(外観上の目立つ変化)、昭和60(1985)年の100系では接近表示灯が細目のようになって先頭形状は丸みが抑えられて直線的になり、車体の青は紺色になりました。そして新幹線の代名詞だった「ひかり」「こだま」に「のぞみ」を加えた300系では先頭形状がガンダム化しました。以降は0型のイメージは消滅して性能だけを追求した未来志向の機械的な外観になりかけましたが、空気抵抗の研究によって700系からは再び丸みを帯びてきました。
野僧が春日基地で勤務していた頃、毎週のように愚息を自転車に乗せて公園に出かけましたが近くの春日公園では鹿児島本線で「ゆふいんの森」や「かもめ」「ハウステンボス号」などの特急列車を見せ、少し遠い白水公園では途中にある新幹線の列車基地で0系から400系までの歴代新幹線を見て親子で興奮していました。
- 2022/11/29(火) 15:21:49|
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屯田局員=ダノンとエレナは自然な流れで交際することになった。2人のデートは下関駅で待ち合わせて小倉や博多に足を伸ばすか、屯田局員の自家用車での県内のドライブだがミッション系女子大学の学生寮の門限が厳しいため、まだ清く正しく美しいプラトニックな関係だった。一方、エレナは時々デートをドタキャンされているが「郵パックの期日指定配達があって休日出勤する」と言う説明にかえって屯田局員に対する敬意を抱いていた。
「エレナ、日本海海戦の慰霊碑にお参りにいこう」「日露戦争の時の海戦ね」屯田局員は冬休みのハウステンボスでのアルバイトを終えて帰ったエレナに意外な提案をした。本当はエレナから「オランダの民族衣装を着ているのを見に来て」と誘われていたのだが、郵便局員にとっての年末年始は年賀状の配達で超多忙なので無理だった。
そんな残念な年末を屯田局員は国営放送の「坂の上の雲」を見て過ごしていた。さらに「坂の上の雲」で明治の日本海軍に興味を持ったためインターネットで古い映画「日本海大海戦」を検索して視聴したのだ。映画では海戦の後、海岸に流れ着いたロシア海軍の遺骸を住民が丁重に埋葬する場面があり、子供の頃に祖父や小中学校の授業で習った慰霊碑を思い出した。
「私も山口県内にロシア海軍の慰霊碑があるって聞いて調べてみたけど駅から遠くて行けなかったの」屯田局員の提案にエレナは真顔になって応諾した。この表情から推察するとエレナの親族の誰かが日本海海戦に参戦したのかも知れない。
ロシアは大陸国家と思われているがピョートル大帝自ら船大工になって造船を学んだように遠洋航海を得意としていて、江戸時代にも世界一周の探検航海を成功させている。そのためバルチック艦隊がユーラシアとアフリカの両大陸を迂回して大西洋、インド洋、西太平洋を縦断・横断して日本に到達したのは特別なことではなかった。ただし、司馬遼太郎が「坂の上の雲」で取り上げ、「日本海大海戦」も借用した「バルチック艦隊が対馬、津軽、宗谷のどの海峡を通過するか」と言う問題は航海の常識から見て議論の余地はなく半ば創作だろう。
「俺が調べたのは下関市豊北町の阿川と長門市の通(かよい)に萩市の須佐だけど他にもあるのかい」「豊北町の角島の八幡神社と萩市の見島にもあるみたい」「ふーん、ドライブ情報のサイトで調べたから見島の情報はなかったな。角島大橋は楽しみにして良いよ」話が決まったところで出発した。真冬の日本海側でも地球温暖化のおかげで雪の心配はない。それでも海からの風は冷たそうだ。エレナが着ている毛の裏地のロシア製のコートが羨ましくなったが、本人は邪魔そうに脱いで後席に置いた。やはりエレナが生まれ育ったロシアに比べれば日本でも山口県の冬くらいは温暖な気候のようだ。
屯田局員は今日の慰霊碑巡拝デートは美祢市を抜けて萩市から始めた。最初に須佐の海岸線を見下ろし、日本海を見渡せる小高い丘に建つ「日本海戦役漂着敵艦将卒収容地記念碑」を訪ねた。エレナは途中のコンビニエンス・ストアで買ってきた花を捧げ、屯田局員は線香を立てた。続いてエレナは石碑の前に跪くと在家の日本人が使う数珠のように短いロザリオを右手で繰りながら小声で同じ言葉を繰り返した。隣にしゃがんだ屯田局員は隣で頭(こうべ)を垂れて胸の中で祖母から習った念佛を唱えた。数珠は持ってこなかった。
「あの祈りはロシア語だろう。どう言う意味なんだ」「あれはハリスティアンの祈りで日本語なら『カミの子・主ハリストス(=イエス)、罪びとの私を憐れみ下さい』って言う意味になるわ」「ハリスティアンってロシア正教徒のことだね。クリスチャンとは違うんだ」先ほどのエレナの祈りは見惚れることが許されないほど真剣で厳粛だった。そこまで敬虔なロシア正教徒が何故プロテスタントの梅香学院大学に留学したのかは謎だが、その質問は別の機会にした。
「日本では『日露戦争で勝った』って言ってるけどヨーロッパでは違うのよ」「学校では明治維新で山口県の元勲が近代化を進めたおかげで日清・日露戦争に勝って一等国になったって習ったけどな」「ヨーロッパではロシアが講和に応じただけで負けていないって言ってるわ。実際、陸軍の主力はモスクワ周辺だったし、海軍には黒海艦隊が残っていた。あそこで日本が戦争を止めなければ後は連勝だったわ。大体、ロシアは日本を侵略するつもりはなかったのよ」山口県では幕末の倒幕と明治の富国強兵を否定することは厳禁で、小中学高校でも戦前同様の明治維新を徹底賛美する歴史を教えている。エレナのこの見解も梅香学院大学では口にしないように注意しておくべきかも知れない。山口県民の学生に聞かれれば爪弾きにされてしまう。
「今日は本当に有り難う。日本に来て以来の念願が叶ったわ」長門市通の大越浜にある「露艦戦士の墓碑」と下関市阿川の「露兵埋葬碑」を巡拝してから角島大橋を渡って下関市に戻り、学生寮に送るとエレナは助手席からキスをしてきた。しかし、残念ながら初めてのキスはファミリー・レストランで食べたビーフ・ストロガノフの味だった。
- 2022/11/29(火) 15:20:41|
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「テディから留守電が入ってるわ」エレナは梅香学院大学の学内を校門前のバス停に向かって歩きながら携帯電話の電源を入れた。すると数分前に屯田局員からの留守電が入っていた。
エレナは来日してすぐに同級生に案内されて行った下関市内の大型スーパーでテディ・ベアのぬいぐるみを購入して以来、抱いて眠るほど可愛がっている。今日会った屯田局員の丸い顔と小さな目がテディ・ベアに似ていて嬉しくなってしまった。
それでもエレナは屯田局員と初対面ではない。当時の梅香学院大学は女子大学だったためエレナは留学生用の学生寮で暮らしていた。平日は留守の時間帯に配達するので会うことはないが、今年の夏休みにはバイクの音を響かせて走って来る姿を上の階の部屋の窓から見ていた。
ロシア人のエレナは当然のようにオーソドクス=ロシア正教徒なのでプロテスタントでも極めて攻撃的な「改革派」の梅香学院大学のキリスト教学には違和感以上の嫌悪感を覚えている。明治以降、戦前までの日本のキリスト教団は圧倒的多数の佛教徒と政府が国民を国家主義に洗脳するために信仰を強要した神道に対抗するキリスト教の統一教団としてカソリックからプロテスタントまで一体化していた。ところが敗戦後は若手過激派が旧指導者を「戦争協力者」として排斥するとヨーロッパで反体制を前面に押し出している「改革派」に同調して加盟した。その後、日本のキリスト教団は反体制で活動方針が一致する共産党と共闘関係になり、梅香学院大学もソビエト連邦や中国からの留学生を受け入れるようになった。
エレナはロシア人の留学生に学生生活で感じている疑問や不満を打ち明けたが、ソビエト連邦崩壊後に生まれた現代っ子たちは日本に長期滞在することを目的に留学しているので真面目に考えてはくれない。そのため家族や友人に手紙で訴えることになり、返事を心待ちにしていた。エレナにとって屯田局員は救いの便りを運んでくれるカミの使いでもあった。
「テディって屯田信彦って言う名前なのね。日本人は上が家族の名前だから信彦って呼ばなくちゃあ。でも何て読むのかしら」留守電を再生する前にエレナは着信データーを確認した。大学で日本語を学び、小学校で習う程度の漢字なら読めるようになっているが、田と信以外は見たことがない。それも日本史で習った織田信長からの2字抽出だ。
「読めないからダノブ、ダノンにしておこう・・・ダノン」エレナは勝手に屯田局員の呼び名を決めると立ち止まって携帯電話を操作した。事務室の前で会った屯田局員=ダノンは颯爽とバイクで走ってくる時と違って妙に緊張して言葉遣いも馬鹿丁寧だった。それでも初めてヘルメットを取った顔を見たが、意外に短髪で別の魅力を感じてしまった。
「エレナさん、遠慮なく電話させてもらいました。大学はまだ終わっていないみたいですね。声が聞けなくて残念です。僕の仕事は5時頃に終わります。また電話させて下さい」「ダノンって真面目ね。素敵だわ」屯田局員の留守電での口ぶりも日本人の女子大生には「肩がこる」「息が詰まる」と振られそうなくらい固いが、エレナは都市部に出ると頻繁に声をかけてくる日本人の若者たちの軽薄な態度と口調よりもはるかに好感を持った。都市部の若者たちは先ず「ハロー」と声をかけてくるがそこから先の英語が続かず、それを誤魔化すように親しげな態度をとって執拗につきまとい、油断すると身体に触れてくるのだ。それは他の留学生や夏休みや冬休みに梅香学院大学にも募集が来る長崎のハウステンボスのアルバイトで一緒になる九州各県の大学の留学生たちも同じことを言っていた。大半の日本人の男性はロシア人以上に礼儀正しく紳士的なので日本人特有の集団心理は謎だった。
「5時頃かァ・・・私から電話しちゃおうかな。ダノンは驚くわね」留守電を聞き終わったところでバス停に着き、留学生たちの列に並んだ。留学生用の学生寮は最寄駅とは逆方向にあるためバスの路線が日本人とは違うのだ。
「もしもし、エレナさん」「そうです・・・」部屋の置時計が5時を指すのと同時に電話をかけると屯田局員は即座に出た。屯田局員はエレナの番号を登録しているようで名乗る前に言い当てた。それでもエレナは屯田局員の日本語読みが判らないので返事ができない。自分で決めた「ダノン」と呼んでも屯田局員は理解できないだろう。
「私、貴方のことを何て呼べばいいんですか」「ミスター・ポストマンかな」屯田局員は外国人向けの英語の呼び名を考えたようでザ・ビートルズのヒット・ナンバー「プリーズ・ミスター・ポストマン」を採用した。この歌はカーペンターズもヒットさせているがアメリカ英語で郵便配達員は「メイル・マン」なのであくまでも外国曲のカバーだった。ただし、ロシア人にはどちらもピンとこない(ロシア語では「ポチトリアン」に近い発音)。
「私、ダノンって言う名前を考えたの。織田信長の真ん中から取ったのよ」「それは凄いな」「好いでしょ、ダノン」「はい、ダノンです」2人の交際は先ず呼び名からだった。
- 2022/11/28(月) 12:37:12|
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「エレナ、周りから何か嫌なことを言われていないか」「ロシアとの戦争のことね。大丈夫よ」山口県下関市の海辺の山村にある栗野郵便局の屯田局員は「ロシアと開戦間近」「ロシアは日本人を人質にした」と言う噂が広まっていることに悩んでいた。実は屯田局員の妻・エレナはロシア人なのだ。2人の出会いは新人だった屯田局員が関市内の本局での見習いを終えてようやく担当区域を割り当てられた頃だった。
「これは英語じゃあないですね」「郵便番号はお前の担当区域だから何とかしろ」「梅香学院には色々な国の留学生がいるから確認してみろ」屯田局員は配達する郵便物を確認していて英語ではない文字で宛先をつづった封筒を見つけて先輩たちに相談した。すると準備を終えている先輩たちは「冷たい」と思ってしまうほど簡単にあしらって出て行ってしまった。
「何だこの文字は、英語を引っ繰り返してるじゃあないか」子供が書いたような手書きの住所を注視すると通常のアルファーベットを反転させた文字が使われていた。英語圏ではない外国人も親族や友人には「日本では英語で」と連絡しているので問題はないが、この差出人は指導を聞いていないらしい。中国人も「日本では繁字体で」と指導しているが、それは日本の旧字体になるため困惑することがある。それでも漢字の原形を留めない簡字体よりはましだ。
屯田局員は担当区域の配達を終え、郵便ポストから回収した書簡を担当者に届けると先輩たちに断って梅香学院大学に向かった。梅香学院大学は担当区域外なので寄り道をして投函されている書簡の発送を遅らせる訳にはいかなかったのだ。
「これはロシア語ですね。ロシアの留学生は各学年に2人ずつ、8人いますから・・・」「ロシア語ですか」梅香学院大学の事務室に顔を出すと「郵便物か」と思って歩み寄った小母さんの事務員は思いがけない問い合わせに難しい顔をした。それでも文字の識別くらいはできるらしく留学生の名簿を持って来てロシア人の項を開くと本人が書いた氏名と照会を始めた。まだ若い屯田局員はロシア人女性と聞いて年末の国営放送の連続ドラマ「坂の上の雲」に登場するアリアズナの美貌を思い出した。アリアズナを演じているマリナ・アレクサンドロワはこの世のモノとは思えないほど美しく「是非、一度」と願っている。以前はテニスのマリア・シャロパワだったが、こちらは抱くには手強そうだ。体力勝負になれば勝てるはずがない。
「3年のエレナ・ラチニナさんね」「自宅の住所を教えて下さい。これから届けに行きます」「今は放課中だから呼び出すわ」事務員は屯田局員の内心を見通したような返事をした。
「外国語科3年のエレナ・ラチニナさん、外国語科3年のエレナ・ラチニナさん。事務室まで来て下さい。郵便物が届いています」学内一斉放送の呼び出しを聞くと屯田局員の胸は期待で膨れ上がってしまうが、担当区域内の外国人の女性は当たり外れが大きいので熊のような巨体の女性を思い浮かべて鼓動を鎮めた。
「こんにちは」屯田局員が事務室の前で目の前を通り過ぎる女子大生を眺めながら待っていると我を忘れてしまうような美女が早足で歩み寄って声をかけてきた。挨拶は流暢な日本語だったのだが屯田局員はロシア語が理解できたような気がした。目の前に立ったエレナは眩しいような金髪を肩で切り揃え、熊どころかチーターのように引き締まった身体をしている。身長は屯田局員と大差がないのでそのままキスができる。
「私に手紙を届けて下さったそうですが」「・・・あッ、住所が読めなくて確認に来ました」エレナはボンヤリ見惚れている屯田局員に呆れながら声をかけた。気がつけば屯田局員は封筒を両手で胸の前に立てていてエレナは顔を近づけて見ていた。
「私宛で間違いありません。従妹は小学1年生だから英語が書けなかったみたい」エレナの説明に屯田局員は「親が英語で住所を書いた封筒に入れれば済む話だ」と思ったがそれは日本的な配慮であり、何よりもそのおかげでエレナに会えたのだから有り難いことだった。
「エレナさんの名前と住所をロシア語で書いてもらえませんか。そうすれば次にロシア語の手紙が届いた時、エレナさん宛かどうかは確認できます」「判りました。待って下さい」エレナは屯田局員の依頼があくまでも業務上の必要性だと理解したようで、事務室に入っていくとロシア語と片仮名で住所と氏名を書いたメモ紙を手渡した。その紙には携帯の番号も添えてある。それを見つけて屯田局員は戸惑ったが、エレナは少しはにかんだように「貴方の電話番号も教えて下さい」と口にした。色白の頬が薄っすら赤くなっているように見える。
その時、次の講義の開始を知らせるベルが鳴り、エレナは「スパシーバ(ロシア語のありがとう)」と声をかけ、慌てた様子で廊下を歩いて行った。それでも数歩に一回振り返って小さく手を振って見せた。
結局、屯田局員はエレナの講義が終わった頃に電話をかけ、携帯電話の機能で番号を交換した。どうしてエレナが屯田局員に番号を教えたのかは判らない。多分、熊に似ているからだろう。

アリアズナ・コヴァレスカヤを演じるマリア・アレ久サンドロワ
- 2022/11/27(日) 14:56:20|
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「いよいよ全方位からの戦闘になるな」「2大軍事大国が総掛りだ」私の証言が在オランダ大使館から日本の外務省、防衛省に届くと横田基地の航空総隊司令部では陸上と航空の総隊司令部と海上の自衛艦隊、在日アメリカ軍と第7艦隊日本派遣隊による作戦会議が開かれた。今回は終了予定時間を設けない閣議のため双木外務大臣は出席できなかった。
「自衛艦隊は弾道ミサイルに対処するためイージス護衛艦4隻を日本海北部に配備している」「高射部隊は破壊措置命令が出れば即座に出動できるように準備を整えている」自衛艦隊司令官と航空総隊司令官の説明で海上と航空の即応体制の格差が明確になり、陸上の出席者は苦笑した。浜防衛大臣は治安出動命令と同時に海上における警備行動と弾道ミサイルの破壊措置命令を維持していたが、交代した釜田防衛大臣は準・戦時体制の長期化を批判するマスコミをなだめるため「最も影響が少ない」と判断した破壊措置命令を撤回した。北朝鮮が弾道ミサイルで若狭湾の原子力発電所を破壊した時は事前に宇宙ロケットの発射実験と通知してきたため発令しなかった。それでも航空自衛隊の高射群は基地で発射態勢を維持すれば即応体制なのだが、作戦計画で防御地点に機動展開することを前提にしているため動きが取れないようだ。
「いくらイージス護衛艦でも弾道ミサイルを全弾撃破するのは無理だろう」「それは当然だ。航空機なら同時に複数の目標を撃破することは可能だが、弾道ミサイルは1隻で1発を捕捉、追尾、撃破することで精一杯だ。勿論、1発を撃破すれば次の目標に対処できるぞ」自衛艦隊司令官の自信に満ちた答えに同席している第7艦隊日本派遣隊司令官もうなずいた。海上自衛隊はイージス護衛艦を8隻保有しているが、中国も日本を射程に収める台湾に向けた弾道ミサイルを配備しているため全艦を日本海に集中させることはできない。
「そうなるとロシアが5発以上の弾道ミサイルを同時発射すれば数発は着弾することになるな。核は使用しないにしても都市部に着弾すれば多くの市民が犠牲になるぞ」「狙ってくるとすれば先ず航空自衛隊の基地でしょう。特に自衛隊単独の基地が危ない」陸上総隊司令部の1佐の幕僚の見解に航空総隊司令部の1佐の幕僚が反論した。先制攻撃では航空基地やレーダー・サイト、高級司令部、通信網を破壊するのが軍事常識だが、日本の場合は都市部に被害を与えればマスコミの扇動を受けて国民の反戦世論が高まり、防衛戦争を阻止する亡国行動が期待できる。陸上自衛隊はこの手の政治的状況判断を得意としている。その点、航空自衛隊としては市民の被害は地元自治体の担当業務であって関与しても仕方ない余計な心配だ。
「それよりも問題なのはロシア軍が弾道ミサイルの次に襲来させる爆撃機や空挺部隊を降下させる輸送機に日本人の人質を同乗させると言う噂が本当だったことだ」航空総隊司令官が話題を換えると会議室の空気は一気に重くなった。陸海空自衛隊の席は暗く沈んでいるがアメリカ軍の席では怒りの炎が燃え上がっている。やはりアメリカ軍にとっての戦争はカミに代わって正義を実現する手段であって非人道的戦争犯罪は許し難い凶悪事なのだ。
「内局からは撃墜することなく強制着陸で対処しろと言う大臣の指示が届いている」「大臣からの撃墜禁止命令と言うことか」「しかし、日本人が乗っていると判っている敵機を撃墜できるのか」航空幕僚副長の説明に航空総隊司令部の出席者たちは小声で色々な感情が交錯する複雑な議論を始めた。以前からインターネット上ではKLMオランダ航空が「自死した」と発表した小森希恵の個人情報と自死理由の下卑た憶測やロシア軍に拘束された日本人の乗客たちの個人情報の暴露が飛び交っているが、オランダ人の乗客だけの解放が公表されてからは日本人の利用方法の分析が大盛況になっている。それを日本人としては唯一生還した私の証言が肯定することになった。釜田防衛大臣が過剰反応するのは至極当然だ。
「強制着陸にはシグナル・ブロー(警告射撃)や威嚇射撃が伴う。それで何とかするしかない」「操縦不能にして不時着させるのか。ロシア軍の編隊には護衛の戦闘機が随伴しているのだろう。ドッグ・ファイト(空中戦)しながらのそれは無理だ」日頃は思索を放棄しているかのように強気な戦闘機パイロットの幕僚たちの見解も悲観的だ。
「ロシア軍はウクライナ侵攻の緒戦でキーウを制圧するために空挺部隊を使用した。そこで反撃を受けてかなりの人員を消耗したはずだが、今回はどのくらい動員できるのかな」「ソビエト連邦軍は150個以上の空挺師団と自動車化狙撃師団を保有していたが、今の正規軍は28万人まで縮小している。しかし、予備役の空挺兵も確保しているようだから油断はできないぞ」航空自衛隊が黙ってしまうと陸上総隊司令部の幕僚が在日アメリカ軍=第5空軍の参謀と問答した。自衛隊では空挺部隊を精鋭中の精鋭「空の神兵」として厳しく訓練しているが、外国軍では一般市民のスポーツにもなっているパラシュート降下ができる特殊技能を有する隊員程度の位置づけなので予備役も珍しくはない。
- 2022/11/26(土) 14:44:19|
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「梢を・・・梢を・・・嫁に」宿舎のマンションに入った私は途中のコンビニエンスストアで買わせてもらったパンと牛乳をテーブルに置くと椅子に座ってスマートホンに淳之介が送ってきた留守電を聞き直した。機内でも一度聞いているが父の声が小さく酷くかすれていたためハッキリとは聴き取れず気になっていたのだ。梢の父・安里恵倫が亡くなったのは一昨日の夕方だったらしい。淳之介一家は間に合ったようだ。
淳之介一家は巡回診療に来た医師の「会わせたい人を呼んで下さい」と言う指示を受けた梢が連絡して駆けつけた。相変わらず観光客が少ないため4人分の航空券は簡単に取れた。
「俺ってオジイを待たせてしまうんだな」「待っていてくれるのよ」機内で淳之介が自分を責めるように呟くとあかりが訂正した。淳之介は南城市の母方の祖父・玉城松栄の時も到着した直後に亡くなって最期を看取る形になった。遠方に住む親族でも梢のように絶対に間に合わない距離であれば病状が重篤になった段階で来るか、始めから諦めて葬儀に参列するのだが、八重山の離島ではせめて死に目に間に合うのを祈るしかない。
「オジイ、あかりだよ。私も待っててくれたのね」空港からタクシーに乗って首里のマンションに着くと恵倫は呼吸は途絶えがちになっていてもまだ心臓は動いていた。あかりが枕元から手で額に触れると恵倫は酸素マスクの中で微笑んだ。
「梢を・・・梢を・・・梢を・・・」その時、恵倫がささやくようなウワ言を始めた。淳之介は義母の梢がこのウワ言を聞かせるために父をオランダから呼び寄せたことは知っている。その父は途中でロシアに拘束されて連絡がつかない。淳之介は「せめて動画ででも聞かせなければ」と思いスマートホンで撮影し始めた。
「梢を・・・梢を・・・嫁に・・・嫁に」「判りました。梢を嫁にもらいます。安心して下さい」「お、ね、が・・・」淳之介の代返を聞いた恵倫は吐息と生命を一緒に吐き出すようにウワ言を終えると首だけで小さく仰(の)け反って顎を落とした。同時に枕元に置いてある心拍計測器が「ピー」と甲高い警告音を響かせた。玉城松栄の時と同じように心電図の画面は光の点が直線を描いている。梢が心拍計測器の電源を切り、そのまま病院に連絡を入れた。寝室の隅で見守っていた祖母が歩み寄って体温が残る祖父の手を取った。淳之介は壁際で恵祥とあかりを脇に抱えて傍観者になった。
「叔父さん、もう連れてっちゃうのね。オジイの顔、初めて見たわ」家族がそれぞれの配置についた寝室の中央であかりが見えない相手と話し始めた。どうやら梢の兄・恵昇と亡くなったばかりの恵倫の魂魄と話しているらしい。視覚障害者として生れたあかりは恵倫の顔は手で触れた感覚で知るしかなかったが、魂魄になれば心で見られるので対面できるのだ。
臨死体験者の大多数は「死ぬと魂魄が身体から抜け出て部屋の天井から自分の遺骸と遺族の姿を眺めている」と証言しているが、恵倫は待っていた息子・恵昇の出迎えを受けたようだ。確かにあかりは首里のマンションに到着した時から恵昇が「とっくに死んでいるはずなのにモリヤさんとあかりの到着を待っていて困っている」と言っていた。
「恵昇が迎えに来てるのね。恵昇、お父さんをよろしく」あかりの会話を聞いていた祖母は目では見えない話し相手の位置に顔を向けると安堵したように声をかけた。しかし、坊主の息子と孫の割に霊感を持たない淳之介と恵祥は理解不能と言う顔で眺めているだけ、まさしく傍観者になっていた。あかりの霊能力はモリヤ坊主に「悪霊を呼び寄せる危険がある」と叔父以外との交感を禁じられているが、隣島のユタ(霊能者)の老婆が死んでからは何故かあかりに死者との仲介を依頼する島民が続出して淳之介も困っている。
「あかり、叔父さんに旦那さんが無事なのか訊いてみて」唐突に梢が困った島民のような質問をした。北東北のイタコや奄美・沖縄のノロとユタは死者との対話の仲介=口寄せばかりが有名だが、本来は葬儀の執行者であり、天地万物の神霊とも対話して天変地異の警告や栽培する作物の選択、漁場の指示なども行う預言者だ。口寄せも探しても見つからない物の在り処(ありか)を訊ね、手に負えない子孫への叱責を頼むなど死者と共存する日常生活の一部なのだ。
「大丈夫、もうすぐオランダに返される予定だって言ってるよ。これから2人で見に行くってさ」「お父さんは葬儀が終わるまでここにいてくれないと困るじゃない。お参りに来る人に失礼でしょう」「オジイが判りましたって、お前は恐いなだって」モリヤ坊主は葬儀は苦悩の原因である肉体を離れた魂魄を阿弥陀如来と対面させて極楽浄土に向かわせる儀式だと言っているが、病苦から解放された父との会話はそれを実感させる。
「そうかァ、淳之介が代わりに約束してくれたんだな。これで梢を嫁にできるんだ」動画とは言え安らかに死に逝く恵倫さんの顔を見て私は無事に生還した意味を噛み締めた。
- 2022/11/25(金) 15:18:25|
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「モリヤ2佐、おかえり」「これは駐在官自らお出迎えとは畏れ入ります」在外公館警備官の先導でオランダ王室や政府、国連や海外公館の公用車専用の駐車場に向かうと1台だけ止まっていた黒塗りの高級日本車の後席では河瀬直道防衛駐在官が待っていた。私が現役の頃は1佐の防衛駐在官と同乗する時には運転手の後ろの最上位者の席は遠慮していたが、今回は空けてあったのでそのまま座った。それでも国家機関である外務省の1等書記官に相当する1等陸佐と国際連合とは別組織の国際刑事裁判所の次席検察官では多分1等陸佐の方が上だろう。
「ロシア軍基地での待遇はどうだったかね」「一応、共同シャワー付きの士官用宿舎の個室を与えられていましたが3食は運搬食、常に当番兵が常に監視していて幽閉状態でした」私の説明に河瀬防衛駐在官も先ほどの記者たちと同様に落胆した顔になった。しかし、ここでは河瀬防衛駐在官を安堵させる続きがあった。
「それでも機長と副操縦士の取り調べに立ち会って司令部に出入りしていましたから色々な内輪話を聞きしました。私はロシア語がある程度理解できるのですが、奴らはそれを知らないから大声で話すんです。おまけに私の聴力は入隊時の身体検査で特別扱いされるほどですから筒抜けでした」「ウチ(海上自衛隊)ならソナー要員ですね」ここで河瀬防衛駐在官と私の不仲を知っている在外公館警備管が合いの手を入れた。前々任者の堺1佐、前任者の木田1佐は海上自衛隊と言うこともあって陸上自衛隊の私と気軽につき合ってくれたが、元連隊長の河瀬防衛駐在官は2等陸佐の私が対等な口を聞くことが我慢ならなかったようで、定年退官して自衛隊に関する用務がなくなってからは疎遠になっている。最近は大使館主催の桜を見る会や自衛隊記念日の祝賀パーティーにも呼ばれていない。
「ロシア軍は日本を攻撃することを決定していますね」「やはりな」「その時に爆撃機と空挺部隊を乗せた輸送機に日本人を同乗させると言う噂も本当です」「そうか・・・それは嘘だと思いたかったよ」私の痛撃2連打に河瀬防衛駐在官の返事は地の底に沈むほど重くなり、座席越しに見える運転手の在外公館警備官の肩と首は凍りついたように固まった。
「となると日本のインターネット上でロシアの非人道的戦術が流出しているのは・・・」「日本の世論を戦争反対に向けるための謀略だな」在外公館警備官が重く暗くなった車内の空気を払うように私にフリー・ジャーナリストが質問してきた内容を確認すると河瀬防衛駐在官が答えた。つまりオランダ在住の河瀬防衛駐在官の耳に届くほど日本では知れ渡っていることになる。それにマスコミが加われば日本の世論は「戦争反対」一色に塗り固められ、加倍政権の安全保障関連法の時のような高校生や大学生が参加する反戦デモが始まるかも知れない。そうなれば極度にマスコミ報道を気にする石田首相は腰が引けて身動きできなくなるはずだ。
「それでもロシア地上軍はウクライナ侵攻で空挺部隊を消耗しているので奇襲で拠点を占領する態度しか確保できないようです。これはウクライナの戦犯裁判で聞いた話ですが」「それは報告してもらいたかったな」河瀬防衛駐在官は不満そうに私の顔を見たが、私は日本大使館の職員=防衛駐在官の部下ではないので改まって情報を提供する理由はない。私が堺1佐や木田1佐に情報提供していたのは半ば遊びで訪ねた時の雑談の中のことで会わなければ機会はない。陸上自衛隊の気質から言って精査した報告でなければ逆に嫌われる可能性もある。
「それで日本人の客室乗務員が自死した原因は何なんだね」話題を換えるためなのか河瀬防衛駐在官は私が到着ロビーの囲み取材でA日新聞の記者から受けた質問をしてきた。河瀬防衛駐在官が日本で流れているらしい集団レイプと慰安婦の噂を知っているのかは判らないが、それでも現地で日本人が受けている取扱いの実例として説明することにした。
「客室乗務員の小森希恵さんはウラジオストックで売春宿を経営している日本人に性的興奮剤を盛られて正常な判断力を失ってロシア兵の性奴隷になってしまったようです。ロシア軍としても若い兵士の性暴力を防ぐための道具として黙認していたので公認の慰安婦になっていました。ところが売春業者が薬を替えると効果がなくなって正気を取り戻したため、それで・・・」「集団レイプではなかったのか。それにしても日本人の売春業者は許せないな」「谷茶満庫と言う名前です」「それは仇名だな」「いいえ、本名です」やはり河瀬防衛駐在官も今では禁止用語になっている谷茶の名前を受けつけなかった。
「さらに小森くんが死んだ後、日本人の妻が集団レイプを受けて自死未遂しています。その夫婦は私からロシア軍に『夫がロシア兵に復讐する恐れがある』と勧告して憲兵隊で保護されています」「それは適切な処置だ」河瀬防衛駐在官は賞賛してくれたが、このままではあの人たちは爆撃機と輸送機に同乗させられて攻撃を阻めば祖国を裏切り、撃墜されれば祖国に殺されることになる。私は一瞬も睡魔に襲われることなくマンションに帰り着いた。
- 2022/11/24(木) 14:35:14|
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昭和15(1940)年の明日11月24日は戦前の軍部の台頭による軍国主義の勃興と政党政治の混迷を収めることができず日本を破滅の道に進ませてしまった「最後の元老」・西園寺公望(きんもち)さんの命日です。90歳でした。
西園寺さんは嘉永2(1849)年に京都で五摂家(近衛・一条・九条・鷹司・二条)に次ぐ名門・清華家(三条・西園寺・徳大寺・久我・花山院・大炊御門・菊亭)の1つ徳大寺家の二男として生れました。2歳の時、同じく清華家の西園寺家の養子になりますがその年に養父が死亡したため家督を相続しています。このため西園寺家の当主でありながら徳大寺家の実父の影響下で育つことになり、その後は孝明天皇が設立した学習院で学び、11歳から宮中に出仕して後の明治天皇の近習になりました。この頃の西園寺さんは福沢諭吉さんの「西洋事情」を愛読して攘夷一色に塗り固まっていた公家には珍しく海外に強い興味を持ち、さらに剣術にも励んで公家とは思えぬ若武者に成長していきました。
慶応4(1869)年1月に始まった戊辰戦争では山陰道鎮撫総督、北陸道鎮撫総督、会津攻囲戦越後口参謀として各地を転戦し、自ら銃撃戦を交わしたと言われています。
明治になるといきなり新潟県知事に指名されましたが1年で東京に戻ると開成学校でフランス語を学び、西洋の法制度の勉強も始め、無断で京都に戻って私塾・立命館を開設しています。さらに公家の中で最初に散髪すると洋装で宮中に参内するなど欧州かぶれ振りを披露しつつ明治3(1871)年12月に官費でのフランス留学に出発しました。しかし、当時のフランスは普仏戦争の敗北とナポレオン3世の第2帝政の崩壊による混乱の中にありました。それでも西園寺さんはフランスの世情を傍観者として冷静に観察しながら明治13(1880)年に帰国するまで10年近くヨーロッパの知識、思想、文化を吸収、各国の上流階層に人脈を構築してソルボンヌ大学の日本人初の学士になっています。
帰国後は毛利藩の足軽出身の伊藤博文さんや足軽よりも下の軽輩出身の山県有朋さんの配下になりました。この2人は大久保利通さん亡き後の明治政府の実権を握っていたためヨーロッパの知識と人脈を有する西園寺さんは外交や法制で頭角を現し、公家的に責任を負わない立ち回りが功を奏してトップではない重鎮としての地位を確保しました。
そうして入れ替わるトップに重宝がられながら政権中枢で実力を蓄えていくと大正2(1912)年の桂太郎政権崩壊後の首班指名の元老会議に加えられ、体調不良を口実に政争に距離を置いていると大正11(1922)年に山県有朋さんが死んだため唯一の元老として大正から昭和初期の首相の人選を一手に担うことになりました。
しかし、明治の元勲たちは所詮、下層階級の成り上がりに過ぎず後継者を育成するだけの度量と能力はなく、先細った人材払底は如何ともし難く、西園寺さん自身の好みによる人選にも限界が生じ、切り札として起用した五摂家筆頭の近衛文麿首相も満州事変が勃発すると側近でソ連のスパイだった朝日新聞の尾崎秀実元上海特派員の政治工作に利用されて、国民党政権との停戦交渉は頓挫して武力紛争は拡大の一途をたどり、日本は破滅に向かって暴走を始めました。対英・対米開戦前に亡くなったのは幸いだったのでしょう。
- 2022/11/23(水) 14:48:04|
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「深夜なのに熱心なことですね」日本人の記者たちが周りに人垣を作ったのを見て私は呆れながら声をかけた。シベリアを現地の朝に出発して半日飛行してきたから私の体感時間は就寝準備を始める頃だが、時差があるオランダでは真夜中だ。それも自衛隊が眠気と安息感で歩哨の注意力が落ちる時間帯としている「払暁(ふつぎょう)」に当たる。
「国民はシベリアに拘束されている日本人の現状¥を知りたがっているんです」「現地で一緒に体験してきたモリヤさんのお話を伺いたんです」このような出迎えを受けたのは北キボールで現地人暴徒を殺害して陸上自衛隊初の実戦を発生させたことを社人党の徳島水子弁護士に殺人罪として刑事告発されて帰国した時以来だ。あの時は成田空港の到着ロビーの柵越しだったが罵声に近かった。それに比べれば今回の口調が紳士的なのは刑事被告人=犯罪者になった自衛官と国際刑事裁判所の検察官では態度に差をつけているようだ。何にしても日本語の中に身を置くのはやはり安堵感を覚える。ただし、癒しではない。
「3K新聞ベルリン支局の村正です。モリヤさんの現地での待遇はどのようなものでしたか」「私は士官用の宿舎に隔離されて食事も運ばれていました。したがって日本人の乗客と接触したのは亡くなった客室乗務員の葬儀の後と憲兵隊に保護された夫婦と面談した時だけです。日本人用の兵舎には立ち入っていません」いきなり期待している日本人に関する情報を持っていないことを宣言されて記者たちは突き出していたスマートホンを力なく下ろした。
「A日新聞パリ支局の岡崎です。亡くなった客室乗務員、小森希恵さんは自死だったと聞いていますが原因はご存知ですか」どうやらマスコミ各社は西ヨーロッパの支社・支局から記者をかき集めているようだ。A日新聞は戦前からソビエト連邦の政治工作機関として満州事変以降の大陸戦線の拡大などに暗躍してきた。その功績でモスクワ・オリンピックでは国営放送を差し置いて系列のテレビA日が放映権を与えられている。今回もモスクワから情報を入手しているのかも知れない。つまり私を用意しているスクープの発信源にするつもりなのだろう。
「それは亡くなった客室乗務員の個人情報の暴露に当たりますから私の口からは言えません。おそらくKLMが機長の記者会見をセッティングするはずですからそこで確認して下さい」「集団レイプされて慰安婦にされていたんでしょう」「アイ・ドント・ノー(私は知らない)」ソビエト連邦のアフガニスタン侵攻を受けて日本がモスクワ・オリンピックをボイコットして放映権を無駄にされたような私の回答にA日新聞の記者は反応で肯定させようとした。ここで驚いたような表情を見せれば「図星」と断定され、記事では私が認めたことにされてしまう。実際、A日新聞の記者は撮影しようとスマートホンを構えていた。
「フリー・ジャーナリストの清国です。ロシアは日本を攻撃する時、爆撃機や輸送機に日本人を同乗させて自衛隊の攻撃を封印することを考えているそうですが間違いありませんか」ここでスーツにネクタイ姿の記者たちとは服装と容貌が違う男性が人垣の向こうから圧迫感がある声をかけてきた。私は機内で梢たちからのメールと留守電を確認しただけで通話はしておらず日本でどのように報道されているかは確認していない。このフリー・ジャーナリストの質問が日本で周知されているとすれば警鐘をならす意味で認めるべきかも知れないが、事は重大に過ぎて軽々しく回答はできない。そこで私は驚いた顔を作った。
「それは恐ろしい話ですね。文民を故意に戦闘に巻き込むのは重大な戦争犯罪です。ロシアが日本に対する武力行使に踏み切るのは同じ国際連合の常任理事国である中国の懲罰に同調するためでしょう。それではロシア自身が戦争犯罪国になってしまいますよ」「ロシアと中国は既成の戦時国際法は否定して自分たちの論理を新たな戦争規範にしているじゃあないですか。それも彼らには正当な戦闘手段なのではないですか。失礼しました。読捨新聞ヨーロッパ支社の粟田口です」噂を拾って探るフリー・ジャーナリストだけでなく大手の新聞社の記者まで飛びついてくるところを見るとこの憶測は口コミ=ネット上でかなり広まっている可能性がある。
「そろそろ良いでしょう。モリヤ検察官はお疲れなのです」私が吊るし上げになりそうになったところで人垣の後ろから声がかかった。それはスーツを着た在オランダ日本大使館の在外公館警備管の1等海尉だった。防衛駐在官と在外公館警備管の人事は別枠なので防衛駐在官が河瀬直道1等陸佐に替っても任期途中の交代はないのだ。
「もう1つ、日本人の乗客、特に女性たちは無事なんですか」「1人だけ無事に帰ったモリヤさんが日本国民に説明するつもりはないんですか」私が在外公館警備管の前にできた人垣が割れた通路を通って歩き始めるとそれでも記者たちは喰い下がってきた。私としては日本が直面している全面戦争の危機を絶叫したい衝動と戦っているのだが、この事態に至っても記者たち=マスコミの関心は個人の安危を超えることはないようだ。
- 2022/11/23(水) 14:42:57|
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昭和45(1970)年の11月22日は戦前・戦中に諜報の枠を超えた情報戦や政治的謀略で活躍した岩畔豪雄(いわくろひでお)少将の命日です。
岩畔少将は明治30(1897)年に広島県の瀬戸内海でも江田島の隣りにある倉橋島で生まれました。広島中学校(現在の国泰寺高校)から名古屋陸軍地方幼年学校に入営すると陸軍中央幼年学校を経て陸軍士官学校に30期として入校して大正7(1918)年に卒業すると新潟県の新発田の歩兵第16連隊に配属されました。士官学校の同期にはペリリュー島の守備隊長としてアメリカ海兵隊を恐怖させた中川州男大佐がいます。
大正8(1919)年にシベシアに出征して1年半にわたり対パルチザン戦を経験し、帰国後の大正10(1921)年には台湾歩兵第1連隊に転属すると陸軍大学校を受験しましたが、大正11(1922)年に山口陸軍閥の首魁・山県有朋元帥が死んだため山口県出身者が全員落とされる慶事が起こり、成績良好ではなかった岩畔中尉も合格しました。
大正15(1926)年に陸軍大学校を修了すると昭和3(1928)年に陸軍の物流を管理する整備局統制課に転属し、昭和6(1931)年に満州事変が起こると現地で関東軍参謀を兼務して満州国の建国に関与することで経済活動と政治的謀略の実力を身につけ、国内外・官民の枠を超えた幅広い人脈を構築しました。
昭和9(1934)年に東京に呼び戻されると整備局に復帰しましたが、昭和11(1936)年に陸軍省兵務局に移動して2・26事件の軍法会議を担当した頃から外国大使館の盗聴や郵便の盗察、紙幣や旅券の偽造の研究などに従事するようになったのです。
こうして昭和12(1937)年に「諜報、謀略の科学化」と言う意見書を参謀本部に提出すると参謀本部に防諜・謀略を目的に新設された第8課に異動し、兵務局内に地下諜報機関「警務連絡班」を創設しました。
さらに昭和13(1938)年には秋草俊大佐を校長に「後方勤務要員養成所=後の陸軍中野学校」を設立しますが、岩畔中佐自身は軍政の頂点・陸軍省軍務局軍事課に移動し、翌年には課長になりました。軍事課では登戸研究所を設立して第1次世界大戦後に急速に発達した欧米に大きく後れを取っている日本陸軍でレーザー銃や超大型戦車などの新兵器と生物化学兵器の開発を推進しましたが基礎科学力が伴わず、占領地で威力を発揮したのは中国の紙幣の偽札でした。
一方、スターリン書記長の謀略で日本が対米戦に暴走すると軍事だけでなく経済・産業でも日米の国力の格差を認識していた岩畔大佐はアメリカに派遣されて野村吉三郎大将と共に戦争回避のための日米交渉に当たりました。結局、日米交渉は松岡洋右外務大臣によって潰されて戦争に突入しましたが、戦時中に東南アジアでインド独立を支援した岩畔少将をイギリスがシンガポールでB級戦犯として裁こうと引き渡しを要求してもアメリカが拒否したのはこの交渉が両者の信頼関係を築くだけの誠実なものだったことの証でしょう。
敗戦後は吉田茂首相から自衛隊への参加を要請されましたが固辞し、むしろ京都産業大学を創設するなど経済・政治・文化・教育の分野を活躍の場にしたと言われています。
- 2022/11/22(火) 15:33:02|
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KLMスペシャル(特別便)はシベリアのロシア軍基地を離陸して半日飛行するとEU=NATOの防空圏に入った。ロシアの防空圏を出るまでは頼んでもいないスホーイ27が窓からは点に見える位置で追随していたが、今度はフィンランド空軍機なのでFー18のようだ。ただし、日が暮れているので機影は見えず、エンジンが噴出する排気炎が星とは違って動く光の点になって付いてくるのが判った。考えてみればフィンランドとスウェーデンはロシアのウクライナ侵攻を受けてNATO軍に加盟したのだ。元航空自衛隊の私としては機影は見えなくてもスイス空軍と同じFー18よりもスウェーデン空軍のサーブ39グリペンに依頼したいところだ。どうせならノルウェー空軍のFー16も加えて北欧3国空軍の3機種共演編隊も面白い。夜間飛行で編隊を組むのを見ればパイロットの技量や連携の熟練度は一目瞭然だ。
「当機は間もなくアムステルダム国際空港に着陸します。座席を起こしてベルトを確認して下さい」フィンランド空軍機の護衛を受けたままバルト海を南下して眼下に都市の明かりがヨーロッパの地図通りの海岸線を浮かび上がらせるとKLMスペシャルは高度を下げ始めた。機内アナウンスのドゥーフ機長の声にも安堵感が漂っている。本来は日本人の乗客を置いてきたことを自責するべきだが、ロシア軍からは「日本政府が迎えの飛行機を手配する」と説明を受けたらしい。有り得ない話だが、何もできない閉塞感の中では信じるしかなかったのだろう。それにしても往路で日本語のアナウンスを担当していた小森希恵は遺骸になって床下だ。
キュッキュッ、ガタンッ、ゴー、いつものようにタイヤが着地して機体に衝撃が伝わり、エンジンを逆噴射する音が機内に響くと乗客たちは一斉にスマート・フォンを掛け始めた。以前は「計器に障害を与える」と言って搭乗中は携帯電話の電源を切らされたが、現在は大声で周囲に迷惑をかけないように会話の声量を控える程度に緩和されている。それでも今回はスマートホンの電波までもロシアに傍受されているような気がして申し合わせることなく全員が自主規制していた。私も梢に電話しようと時差を計算しながら電源を入れると梢と佳織、淳之介と志織からのメールと留守電が入っていた。着信日付を見ると私がオランダを出発した日と今日に分かれているので、ロシア軍に拘束されていた間は控えたらしい。流石だ。
「只今、ドアが開きます。皆さまは手荷物を機内に持ち込んでおられますからドアを出る時、ボーディング・ブリッジ(伸縮式の渡り橋)を進む時には機体と機材に当てないように、他の乗客の迷惑にならないように気をつけて下さい」ヨーロッパの航空会社ではこのような子供向けのような注意喚起は珍しいが、上流階層の乗客たちも安堵と解放感から気分が高揚して先を争って外に出ようとする可能性を考えたのかも知れない。おそらく小森希恵は日本語でこのような注意喚起を口にしていたはずだ。アメリカの航空会社のハワイ便では日本が近づくと日本人の客室乗務員は和服に着替えるが小森希恵はどうだったのだろうか。私も何度かKLMで日本に行っているが記憶にない。手荷物に入っていれば遺品になってしまった。
「キエ、何故だ」最後に機体を出てボーディング・ブリッジを歩いていくと布製の壁越しに若い男性のオランダ語の絶叫が聞こえた。窓に歩み寄って外を見ると機体の下では貨物室からトレーラーに運んだ長方形の荷物=棺のシートを外している整備員が蓋の窓を開けて中を覗き込み、泣き崩れていた。これが小森希恵が同棲していた整備員のようだ。日本人の美意識では公私のケジメを殊更に付け、感情を押し殺して業務を遂行することを当然視しているが、悲報を聞いていたこのオランダ人の青年には愛する恋人と対面してその死を確認することが何よりも優先すべき重大事なのだ。それで失職しても後悔はないはずだ。
「小森希恵が彼の元に還るのは病院の検屍を終えてからになるから明日の午後だな」病院で日本で言うエンジェル・ケア(遺骸の洗浄と死化粧、死装束)を受ければロシア兵に屍姦されたことも判らなくなる。それにしても貨物室は動植物や果実などを積載しない限り暖房は入れないので遺骸は凍結しているはずだが、恋人の目には変わらぬ美貌が見て取れたらしい。
「モリヤさん、無事に帰られて何よりです」「他の日本人の乗客をシベリアに残して単独で戻ったことをどのようにお考えですか」いつになく念入りな検疫と税関の手荷物検査を終えて到着ロビーに出るとオランダ人の乗客たちがマスコミに取り囲まれていたが、日本の取材者たちは私を待っていたようで、スマートホンとカメラを突き出して押し寄せてきた。
「私がオランダに帰ったのはあくまでも国際刑事裁判所からの命令です」「それではシベリアに残りたかったと言うのですね」先ほど確認した私のスマートホンには梢の父・安里恵倫の訃報が届いていた。淳之介一家が首里のマンションに行った頃には祖父・恵倫さんが意識を取り戻すことはなかったが、遺言のようなウワ言は録画して送ってきていた。
- 2022/11/22(火) 15:31:58|
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昭和30(1955)年の明日11月22日に厳重に監視されている死刑囚としては日本で唯一の脱獄犯になった菊池正死刑囚の刑が執行されました。
菊地死刑囚は昭和5(1930)年に栃木県芳賀郡市羽村(現在の市貝市)で生れました。2歳の時に父親の酒乱が原因で両親が離婚すると兄と実妹と共に母親の下に残り、5歳になると再婚して妹が生まれています。菊地死刑囚はこの異父妹を兄として愛していました。
ところが母親が白内障を患って視力が衰えても義父は医者が勧める手術を受けさせず、菊地死刑囚は兄と懸命に働きましたが高額の手術費用には届かず、医者から「手術しなければ失明する」との診断を突きつけられたため犯行を決意したのです。
こうして菊地死刑囚は昭和28(1953)年3月16日から17日の夜間に約300メートル離れた資産家として評判だった女性が経営する雑貨商に押し入り、眠っていた49歳の女主人と71歳の主人の母親、21歳の長男、18歳の使用人の女性を持ってきたロープで縛り上げ、金品を物色しましたが現金2000円しか見つからず、そのまま4人の首を絞めて殺害し、女主人と使用人の女性を屍姦して逃走しました。
17日の朝に4人の遺骸が発見されると田舎で発生した凶悪事件に警察は全力で捜査を開始しましたが、屍姦された女性から検出された精液の血液型が2種類(生理中の被害者の血液の混入だったらしい)で複数犯と言う先入観にとらわれて捜査は難航しました。
ところが菊地容疑者が東京に住む妹を訪ねて使用人の女性の持ち物だった若い女性向きの腕時計を贈ったため地元出身者を訪ねてきた捜査員に発見され、真面目な孝行息子として捜査対象から外されていた菊地容疑者が事件から72日目に逮捕されたのです。
裁判では「母の手術代を得るため」と言う孝心が動機であっても4人を殺害し、2人を屍姦している残虐性を相殺するには至らず(「屍姦は残虐性の演出」と証言したが性行為に及べた事実で不採用だった)、昭和28(1953)年11月25日に1審の宇都宮地方裁判所が死刑判決を下し、昭和29(1954)年9月29日には2審の東京高等裁判所も1審判決を支持し、上告した最高裁判所での公判中に兄から「お前のせいで母親が苛められて大変苦労している」と叱責する手紙が届いたことで「一目会いたい」と言う気持ちが湧き、それが日に日に強まって今度は脱獄を決意したのです。その決意をどのように兄に伝えたのかは不明ですが間もなく1冊の本が届き、その背表紙には金ノコが隠されていました。菊地死刑囚はその金ノコで当時は鋳型製だった鉄格子を切断し、昭和30(1955)年5月11日の午後8時頃に脱走しました。
脱走が発見されたのは翌朝7時の巡回でしたが、菊池死刑囚の孝心は有名だったため即座に捜査員が自宅に赴き、本人が現れるのを待ちました。すると5月22日の午後11時過ぎになって本人が姿を現して逮捕しましたが、「一目で良いからお願いします」と涙ながらに絶叫したため10分間だけ屋内に入れ、母と実妹と対面させたのです。
昭和30(1955)年6月28日に死刑判決が確定し、花村四郎法務大臣が執行命令に決済していたため11月21日に刑場がある仙台刑務所に押送され、翌22日の午前11時半に執行されました。「おかやん、おかやん、助けてくれよ」が最期の言葉でした。
- 2022/11/21(月) 14:22:11|
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翌朝は国旗掲揚が行われて小1時間が経った頃に軍用車両が迎えにきた。私は自衛隊の作法で士官宿舎の使っていた部屋を掃除したが、顔馴染みになっている運転手の下士官は元2等陸佐の私が洗面所でモップを手洗いしているのを見て腰を抜かしそうになるほど驚いた。ロシアも社会主義国家・ソビエト連邦時代を含めて他のヨーロッパ諸国と同様に士官将校は貴族階級扱いで、生活上の雑事は召使に当たる当番兵の仕事なのだ。
「まだランナップ(始動点検)のエンジン音が聞こえてこないから出発までには時間があるんだろう。日本人の兵舎に寄ってくれ」拒否したのを奪うように下士官が運んだ荷物を積んで発車すると私は後席から判り易くユックリとした口調の英語で要望した。妻がレイプ被害に遭った浅野夫婦には昨日、保護されている憲兵隊の施設で面談したが他の日本人には基地聖堂での小森希恵の葬儀後に問答を交わした数人の男性以外に会っていない。不満や苦情を投げかけられれば受け止め、母国への伝言や要望があれば預かり、単独で戻るオランダに持ち帰りたい。しかし、下士官は前を向いたまま首を振った。
「お気持ちは理解しますが、士官宿舎からKLM機の搭乗タラップの下までお連れしろと言う命令ですから、それに背くことは軍人としてできません」「そう言う命令を受けているんだね」私は下士官の返事を聞いてポケットから財布を取り出し、日本円にすれば2万円相当のユーロ紙幣を取り出して顔の横に差し出した。
「これは・・・」「長いこと世話になったチップだ。賄賂ではないぞ」「しかし、軍務でチップを受け取ることは・・・」「それなら小遣いだ。さっきの要望を変更する。日本人の兵舎が見えるように経路を変更してくれ。ならば命令違反にはならないだろう」「・・・判りました」下士官はルーム・ミラーで私が微笑んでいることを確認すると片手で紙幣を掴み取り、ボタンを留めていなかった軍服の胸ポケットに押し込んだ。
下士官は要望通りに日本人の乗客が生活している兵舎地区の隅の雑木林に囲まれた兵士用の兵舎の横の道路を回ってエプロン駐機場)でエンジンを始動している旧・KLM321便の手前に停車した。ドゥーフ機長は制服姿で機体の脚部に取りついている整備員たちの仕事を注視している。ポンぺ副操縦士は操縦室でランナップを操作しているようだ。本当は私も元航空機整備員として参加したかったがトルコフ中佐に呼び止められて雑談を始めてしまった。
「整備員の腕は大丈夫だろうな」「我が軍の整備員は世界最高の技量を有している。ましてや当基地の整備員は大型機の取扱いには熟練している」「しかし、世界最高以上の神業を持つ航空自衛隊の整備員もミグ25を分解した時にはあまりに粗雑な作りに苦労したんだ。今回は逆に華奢なヨーロッパ製の旅客機だ。力まかせにボルトを締めて捩じ切ってしまわないだろうな」これは岐阜基地の航空実験団の航空機整備員だった第1教育群の中隊長の体験談の請け売りだが目の前の整備員たちの動作は洗練された航空自衛隊の熟練技に比べると無駄が目につく。
「どうぞ、搭乗して下さい」やがてドゥーフ機長が搭乗タラップの下に集まっているオランダ人の乗客たちに声をかけて階段を登っていった。すでに客室乗務員は機内で出発準備を始めているが機内食はロシア軍が提供するのだろうか。
「ダ・スヴィダーニャ」「何ですか」「グッド・バイ」「ああ、グッド・ラック」乗客たちが搭乗した後に私が階段に向かうとトルコフ中佐がロシア語で「さようなら」と声をかけてきた。気が緩んだところでこの言葉に反応すれば私がロシア語を理解していることが察知されてしまう。そうなれば出国を止められ、スパイとして取り調べを受けることになりかねない。その点、私は前川原で生まれながらの諜報員・岡倉がこの手の悪戯を常用していたので無意識に警戒していた。私が振り返って返事をするとトルコフ中佐は安堵したような顔で両手を差し出して握手してきた。それでもロシア人の挨拶・男同士のキスを避けるため身体を反らした。
今回は日本に向かう飛行とは逆に太陽を追いかける形になるため窓の外は明るいままで窓のシャッターを下さなければ仮眠できない。尤も離陸したのは朝なので眠気を誘うためにでも酒を飲む気にはならず、客室乗務員も機内に残っていた酒類は全て奪われているので勧めに来ない。
結局、往路と同じ機内放送を眺めながら昼食時間にロシアの携帯食のピロシキを食べ、床下の貨物室の棺の中で眠っている小森希恵の冥福を祈りながら過ごした。往路で出会った小森希恵は美しく凛とした気品があったが谷茶満庫に媚薬を盛られて正気を失い、ロシア兵たちの性玩具にされてしまった。そして何故か正気を取り戻したことで自ら生命を絶ったのだが、それを発見したロシア兵に屍姦まで受けている。これからオランダに到着すれば同棲している整備員の恋人と再会することになるが、それをどのような気持ちで待っているのか。小森希恵の魂魄が隣りに座っているような気がして居たたまれなくなった。
- 2022/11/21(月) 14:17:42|
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「モリヤ中佐、国際刑事裁判所から受けている貴方を明日の朝、オランダに帰るKLM便に同乗させろと言う要請を承認しました。まだ時間は確定していませんが出発準備をしておいて下さい」私は唐突にトルコフ中佐に呼ばれて予定外の通知を受けた。私としてはドゥーフ機長とポンペ副操縦士の取り調べが終わり、帰国することになれば残置される日本人の乗客と同居して処遇を確認し、自死した小森希恵やドゥーフ機長から聞いた日本人乗客の浅野望美の集団レイプを独自に調査するつもりだった。ロシア軍の憲兵隊にも捜査を要請しているが小森希恵が慰安婦にされた経緯に谷茶満庫が関与したとなると個人的に究明したい。その谷茶は「憲兵隊に逮捕されてどこかへ移送された」と司令部の軍人たちの雑談で聞いた。
「これは職務上の関心事として出発前に浅野望美さんと面談したいのですが」「浅野夫婦は基地内の施設に保護している。英語での会話なら許可しよう」どうやら日本語とロシア語通訳の谷茶は使えないらしい。あの時の私の工作をロシア軍が信じれば谷茶はスパイとして拷問を含む過酷な取り調べを受け、闇から闇に葬り去られる。と言うのは映画や小説、劇画の話で実際は最終的に在モスクワの防衛駐在官が照会を受け、認めれば捕虜、認めなければ拘束した側の胸算段になる。勿論、谷茶は自衛隊とは無関係なので取り調べを受けても認めるはずがなく、自白剤の人体実験のモルモットにされて悶絶の末に廃人になる可能性が高い。自白剤と媚薬は大脳の理性を司る部位を麻痺させる点では共通している。実はそれが狙いだった。
「私は生理中だったのでシャワーの前にナプキンを交換しておこうと思ってトイレに寄ったんです」浅野望美との面談はトルコフ中佐が立ち会って憲兵隊の取り調べ室で行われた。夫婦もこの建物の小部屋で保護されているらしい。男には生理に関する女性心理は理解し難いが、狭く混み合っているシャワー室で汚れたナプキンを交換するのが躊躇われたのかも知れない。
「それでトイレを出たら壁際に隠れていた兵隊3人が襲いかかってきて私を抱き抱えて屋上に連れて行ったんです。シャワーを浴びるために薄着だったから簡単に全裸にされて・・・」すでに憲兵隊の事情聴取を受けている浅野望美は感情を交えずに証言していたがここで言葉に詰まった。私は愛する梢と佳織が2人ともレイプの経験があり、性犯罪の被害者の気持ちは人一倍理解しているつもりだが、小森希恵の葬儀の後、「日本よりも妻を守らなくてはならない」と明言した夫に愛されてきたこの妻が負った心の傷は2人とは違う深さと痛みを与えているようだ。それでも時間が限られている以上、事情聴取を続けなければならない。
「それで加害者は何人でしたか」「・・・5人だったと思います」「全員、兵士でしたか」「はい、廊下で監視している兵隊でした」浅野望美の苦悩は理解するがこれは仕事なので私的な感情を刺し挟む訳にはいかない。むしろ冷淡に質問した方が受ける側も割り切ることができる。とは言え私自身は梢と佳織本人からレイプされた顛末を聞いたことはなくやはり胸が痛んだ。
「その後はつきまとわれるようなことはありませんでしたか」「私は柵を乗り越えて飛び降りたから駆けつけた日本人に助けられて医務室に運ばれました。その間に兵隊たちは上官に叱責されたんでしょう。宿舎に戻っても近づいてきませんでした。それに奥さんたちがガードしてくれましたから安心でした」現在は憲兵隊の施設内で夫に守られているのだから更に安心なはずだ。第2次世界大戦後、多くの日本陸軍の憲兵が捕虜虐待の罪で処刑されているが、アメリカ軍やイギリス軍、国民党軍は撃墜されて僚機が「脱出した」と報告したパイロットが見つからないと「現地を占領していた日本軍が虐殺した」と断定して指揮官を一律にC級戦犯に指定した。そこに憲兵隊が展開していれば同様の罪で告発している。それは捕虜収容所から脱走して行方不明になった将兵も同様で大半は冤罪だった。実際の憲兵は一般部隊が戦争法違反を犯すことを取り締まり、捕虜収容所の処遇を指導し、捕虜を加害・虐殺した将兵を逮捕していたのだ。ロシア軍の憲兵隊にも同様の分別と見識を期待したい。
「モリヤさん、オランダに帰られるそうで」「はい、国際刑事裁判所から業務命令を受けてしまいました」浅野望美との面談を終えて一緒に廊下に出ると夫が待っていた。通常であれば帰国の目途が立たない同胞を置き去りにして1人だけ居住地に帰る人間は許し難い裏切り者にされるはずだが、この夫の目には羨望や嫉妬、怨嗟や憎悪の色はない。
「あの時、篠塚さんが言っていた通り、モリヤさんには早くオランダに帰ってもらってロシアの不法行為と我々が受けている人権侵害を告発して日本政府に通知してもらわなければいけません」「そうです。本当にお願いしますよ」「おい、日本語での会話は禁止しただろう」私を挟んで反対側に立っていた妻が日本語で同調すると先に部屋を出て廊下で待っていたトルコフ中佐が叱責した。私はこの夫婦の言葉が日本人拘束者の総意と信じることにした。

「新・カラテ地獄変」より
- 2022/11/20(日) 15:18:31|
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「KLM機がロシア軍に強制着陸させられて1週間以上が経っているんだ。どこの基地に居るのかくらいは公表するべきじゃないか。外務省は把握しているだろう」「双木外務大臣」「調査に当たっている関係職員の安全を確保するためには軽々しく情報を公表することはできません。国民、取り分け身柄を拘束されている乗客と到着を待っておられるご家族や友人知人の皆さんには誠に申し訳なく思っております。この場を借りてご理解とご協力をお願いする次第です」湧水代表としては国民の批判がロシアに向かないようにするためには日本政府の対応を指弾するしかなく、それがかえってマスコミが取り上げない外務省の危険を顧みない情報活動を説明する機会を与えていた。本来は釜田防衛大臣もイランに潜入してロシアへの武器や弾薬、燃料の移送を調査している岡倉と間宮リンゾーの活動を補足するべきだが、その非合法組織の存在を知っているのは石田内閣では管前首相から引き継いだ立野官房長官と在アメリカ大使館からの報告を通じて察している双木外務大臣だけだ。
「それではせめて拘束されている日本人が無事なのかを答えて下さい」「これは私が答えよう」「石田総理大臣」湧水代表は双木外務大臣の頑なさを強調することで冷淡な印象を演出する戦術に転換したが、今度はそれを察した石田首相が手で制して答弁席に進んだ。
「先ほど外務大臣が説明した通り、ウクフィンカ基地では日本人の客室乗務員が自殺する事態に陥っているようですから政府として無事とはお答えできません」「亡くなったのは誰でしたっけ」「客室乗務員の小森希恵さんでしょう」自分を指名した質問に同じ派閥の双木外務大臣が割り込み、そのまま独演会にしたことに不満を溜め込んでいた石田首相は勢い任せに湧水代表の術中にはまってしまった。石田首相は今回の非常事態で実質的に指揮を執って実力を見せつけたことで「派閥の長と首相を譲り渡せ」と言う声が党内だけでなく国民の間でも沸き起こっている双木外務大臣には秘かに敵意を抱いていた。
「委員長、今の答弁で議事録から削除していただきたい点が2ケ所あります」「石田首相が満足そうに席に戻ると入れ替わりに立野官房長官が委員長席に歩み寄り、双木外務大臣が秘匿しながら石田首相が暴露したロシア軍基地と客室乗務員の氏名の削除を要請した。その前に秘書官に国営放送の国会中継のニュースでの使用を禁ずることを指示させている。
「しかし、内閣の長である首相の判断の方が閣僚の外務大臣よりも尊重されるべきでしょう。首相自ら公表した以上、それが石田内閣としての判断ではないのですか」「・・・それはそうですね。失礼しました」理にかなった予算委員長の回答に立野官房長官は意外に簡単に引き下がった。ここで議論になれば国会中継の視聴者にウクフィンカと言う基地名を思い出させ、記憶させることになる。外務省としてはアジア人が多いシベリアの地の利に乗じて基地周辺で諜報活動を展開している外交官たちの安全を守るためには基地を特定していることを秘匿しなければならなかった。小森希恵と言う個人名は今後、自死の事実が漏れ始めるとロシア兵の慰安婦扱いされたとの動機が低次元な関心を引くのは当然予想される。閣議では石田首相にもこの懸念は説明していたが、外見に寄らぬ軽率さは予想できない場面で発生する。
「それでは最後に確認します。ソビエト連邦軍は1978年4月20日に撃墜してイマンダラ湖に不時着した大韓航空機の機長と副操縦士は1週間程度拘束して取り調べましたが、乗客やその他の乗務員は交通手段が確保できた3日後には送還しています。あの頃はソビエト連邦と韓国は敵対関係にあったのでそれに比べれば今回のロシアの対応は東西冷戦時以上の厳しさを感じます。その原因は何ですか。そして無事に帰国させる具体的な手立てはあるのですか」「石田総理大臣」「外務大臣が答弁します」「手段は外交交渉だけでないでしょう。総理にお願いします」立野官房長官と双木外務大臣から叱責を受けた石田首相は腰が引けたようで答弁を譲ったが湧水代表は許さない。この醜態を国会中継の視聴者に晒すだけで効果は十分、さらなる失言を犯させれば万々歳だ。仕方なく石田首相は事前に送達された質問趣意書を受けて官僚が用意した台本を持って答弁席に向かった。答弁に割り込んだ双木外務大臣は台本なしの持論だったが石田首相にはそこまでの見識はなく、最近はマスコミが批判する台本の棒読みにならざるを得ない。その対策として台本の丸暗記に努めているが粗方忘れてしまった。
「ロシアは安全保障理事会で中国の我が国に対する常任理事国としての懲罰行動を一貫して支持しており、今回の処置も拘束した日本人の乗客を利用する可能性は否定できません。我が国としてはオランダ政府並びにEUとも緊密に連携を図り、強く全ての乗客、乗員の返還を要求し、併せて客室乗務員の自死に関する真相解明を要求する所存です」「今度は名前を言わないんですね」湧水代表は皮肉を返したが、その夜にはインターネット上に小森希恵の写真や福井県内の自宅住所、学歴を含む個人情報が氾濫した。
- 2022/11/19(土) 14:41:27|
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昭和27(1952)年の明日11月19日に敗戦後に津軽地方で続発していた半島人の暴動の第3弾・五所川原税務署襲撃事件が始まりました。
無謀にも対米対英戦争が始まると支那事変で既に徴兵対象者(いわゆる甲・乙種合格者)を招集し尽くしていたため身体に軍隊生活に支障がある丙種合格者や年齢期限を超えた男性にも赤紙=召集令状が届くようになりました。中でも肉体労働を専らにして栄養も十分に摂取している健康体の農夫たちは屈強な兵隊の宝庫で北海道から北陸までの穀倉地帯の男性は根こそぎ出征してしまい深刻な人手不足に陥りました。そこで政府は徴兵を行っていない朝鮮半島で工場や鉱山と同時に農業の労働力を募集し(韓国が主張するような強制連行はしていない)、多くが腹一杯食べられる農家の小作人になったのです。
ところが戦争が終わり、農家の息子たちが復員してくると小作人は不要になり、帰国しない者を温情で雇っていても報酬は減額され、不満を募らすことになりました。津軽地方にはそのような半島人が特に多く、五所川原市金木町の曹洞宗・U祥寺の住職は戦時売春婦=(いわゆる)従軍慰安婦問題で韓国の支援団体に多額の寄付をしただけでなく、請け売りを喧伝して安倍政権を批判したため文在寅大統領から感謝状を贈られています(門前に例の従軍慰安婦少女像を設置するため寄付を募っているらしい)。
この事件は昭和27(1952)年11月19日に仙台国税局が警察の協力を得て北津軽郡板柳町(当時)で半島人が経営する密造酒蔵を一斉捜査して関係者45名を酒税法違反で摘発し、妨害した半島人7名を公務執行妨害の現行犯で逮捕した上、証拠物件として密造酒約18000リットル、酒粕約1.5トン、その他の容器約200点などを押収したため地域の半島人たちが「生活の保障」と「職の斡旋」を要求して連日、板柳地区警察署と五所川原税務署に押しかけ、11月26日には約60名が税務署内に乱入して占拠する事態に発展しました。
この地域では昭和23(1948)年6月20日に五所川原市内のグランドで開催された小学校の運動会で出店などを取り仕切る香具師が半島人に袋叩きにされた事件を切っ掛けにして6月23日の深夜に市内の遊廓で報復を話し合っていた香具師たちを棍棒で武装した半島人が襲撃したため東北地方や北海道の香具師と半島人が終結して一触即発の事態に発展しました。また同じ昭和27(1952)年2月21日に隣町の木造警察署が暴行事件を起こした半島人2名を逮捕するとその日から即時釈放を要求する抗議活動を始め、23日には約70名が警察署内への乱入を図って阻止する警察官と揉み合いになり、応援に駆けつけていた弘前警察署の所員11名が木造駅で拘束される暴動が発生しています。
この事件ではこれらの暴動の教訓が活かされていないようですが、占領下の日本では残留している半島人に日本の法律を適用するかの明確な判断が示されておらず、半島人たちが「日本に植民地にされて戦争に引き込まれた被害者」を気取って違法行為を常態化させていても警察は逮捕権限を行使できなかったため占領軍憲兵隊の出動を仰ぐしかなく、津軽に限らず多くの半島人が住む地域は無法状態に陥っていたのです。
- 2022/11/18(金) 14:42:26|
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「ロシアと戦争になれば日本国内でウクライナのような惨劇が始まることになる。我々はこのような事態に陥ることを懸念して韓国、中国との早期和解を政府に要望してきたんです」国会の衆議院予算委員会では立権民衆党の湧水代表がロシア軍によって拘束されているKLMオランダ航空321便の日本人乗客への対応を質問していた。それでも内容は韓国が海上自衛隊の対潜哨戒機を撃墜したことを発端とする日韓・日中の武力衝突に対する石田政権の責任の追及だった。湧水代表は日本の47都道府県の中でも広島と沖縄と共に「赤(=左翼)の御三家」と呼ばれる京都が選挙区なので政治上の主張は共産党と大差はない。この質問も選挙区の支持者の多くが購読・視聴しているA日新聞の論説を台本にして系列テレビのニュースで賛同されることが目的で政治的見識がある訳ではない。
「内閣総理大臣、石田史雄くん」「委員長、私が代わりに答弁します」「それでは双木外務大臣」質問が終わって答弁になると腰を浮かせかけた石田首相を手で制して隣りの席の双木外務大臣が立ち上がった。石田首相は選挙区の広島でマスコミが報じ始めた「若狭湾の原子力発電所の破壊された原子炉の封鎖作戦にアメリカ軍の戦略爆撃機を使用したのはロシアへの攻撃の予行演習だった」と言う疑惑に同調する市民運動の拡大に苦慮していて答弁も無難な言葉選びに終始している。そのため双木外務大臣の指揮でロシア国内の外交官たちが危険を冒して収集している情報は活かされていない。ならば双木外務大臣自ら答弁するべきだ。
「我が国は韓国、中国の一方的な武力行使によって多くの自衛官、海上保安官、警察官、漁民の生命を奪われても一貫して正当な自衛措置のみを採ってきました。委員が言われる早期和解は韓国と中国が自分たちの犯罪行為を認めず、科学的検証結果さえも否定しているから成立しないのであって我が国に瑕疵はありません」「湧水くん」「相手が認めない以上、こちらの主張が正しいとは言い切れないのではないですか」「双木外務大臣」「委員は我が国の公的機関が実施した科学的鑑識・検証と根拠も示さない韓国と中国の批判のどちらを信じるのですか。私は我が国とアメリカの検証結果を信じます」湧水代表も流石に失言だったことを自覚したようで質問の趣旨を変えた。やはり論敵にするのは石田首相の方が良かったようだ。
「次の質問に移ります。ロシアはKLM機が飛行計画の変更を通知せずに許可を受けないまま領空侵犯したため強制着陸させたと説明しています。これが事実であればオランダ政府とKLMに対して抗議するべきではありませんか」「双木外務大臣」「在オランダ大使館が受けたKLMとオランダの航空当局の説明ではKLM321便はアムステルダム空港の飛行前点検でコーション・ランプの不具合が発見されたため1時間遅れで離陸しましたが、この変更をロシアの航空当局に通知していることはヨーロッパ圏の運航統制を担当しているEUの関係部局が確認しています。ただし、ロシア当局からの返信は確認できておらず現在も事実確認を継続しています」湧水代表はこの情報を知らなかったようで珍しく即答しなかった。今回も日本のマスコミは批判がロシアに向かうことを巧妙に避けながら拘束されている日本人の乗客の経歴や人物像などの個人情報や家族と友人の不安の声ばかりを報じて、外交交渉で解決できない石田政権や双木外務大臣への批判世論を扇動しているのだ。
「その後、ロシアはKLM機がNATOの指令を受けた偵察機でシベリアの軍事基地の上空を通過して情報収集に当たっていたと主張していますが、これが事実であれば大韓航空機のようにす撃墜される可能性もあったのではないですか」「確かにロシア軍は拘束している機長に機体の貨物室から取り外したと称する高性能カメラを見せたようですが、立ち合った元航空自衛隊の弁護士が遠隔操作する機材が接続されていないことを指摘したため取り下げたようです」「元航空自衛隊の弁護士なんているのか」双木外務大臣の答弁に委員会室では呆れたような声が起こった。この情報も外務省は定例記者会見で説明しているがマスコミは「元航空自衛隊の弁護士」の活躍を披露するのを嫌って採用しなかった。当然、人物も特定していない。
「ここで1つ、残念な事実を補足しなければなりません。本当は午後の定例記者会見で発表するつもりでしたがこの場をお借りして申し上げます。委員長、よろしいですか」「手短にどうぞ」湧水代表が用意してきた台本では対応できなくなって読み返し始めると双木外務大臣は席に戻らず委員長に発言を求めた。
「実はKLMから321便に搭乗していた日本人の客室乗務員がロシア軍の基地内で自ら生命を絶ったと言う訃報が届きました。外務省では事情説明させるため職員を実家に派遣していますが、まだ遺族の意向が確認できていないので発生経緯や個人情報は控えさせていただきます」「名前くらいは良いだろう」「それを漏らせばネットで暴露されるぞ」双木外務大臣としてはロシア軍の実態を国民に周知するために許し難い原因を公表したかったがそれは控えた。
- 2022/11/18(金) 14:41:09|
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昭和18(1943)年の明日11月18日に創価学会では初代会長とされている牧口常三郎さんが改悪・治安維持法違反で拘束中の東京拘置所内で獄死しました。ちなみに創価学会では牧口さんの命日ではなく昭和5(1930)年のこの日に宗教教育論を述べた「創価教育体系」の1巻を刊行した事実を以って創立日としています。
牧口さんは明治4(1871)年に現在の新潟県柏崎市の渡辺家の長男として生まれ、6歳で親戚の牧口家の養子になったものの明治18(1885)年に尋常小学校を卒業すると職を求めて単身北海道へ渡り、小樽警察所で給仕をしながら苦学して明治24(1891)年に北海道尋常師範学校の3年に編入し、明治26(1893)年に卒業するとそのまま付属小学校の教員になり、その後は師範学校の助教授になっています。
日露戦争が終わった明治38(1905)年に師範学校を辞して上京すると東京府内の7ヶ所の小学校の校長を歴任しながら明治45年=大正元(1912)年には「郷土科研究」を刊行しました。大正5(1916)年頃から日蓮聖人に私淑するようになり、日蓮聖人の教義による世界統一「八紘一宇」や日本国体学などの過激な思想で陸軍大学校の学生に多大な影響を与え、結果的に軍国主義を扇動することになった田中智学さんの教えを受け(公明党が政権与党になるまで顕正会として防衛大学校研究課程=大学院に引き継がれていた)、そんな折、白金小学校に転勤すると近傍の白金商業学校の坊主の校長の折伏を受けて日蓮正宗に入信したのです。牧口さんの宗教観は立正安国論の「法華経に基づく人間改革を基盤に社会を変革する」を具体化して「宗教は体験する以外に判る手段はない。水泳を覚えるには水に飛び込む以外にないように宗教も勇気を出して自ら実験証明することだ」と困難を克服する実践を主張しています。
そして「創価教育学体系」1巻の刊行を機に翌・昭和6(1931)年に教職を辞すると宗教教育活動に専念して同年に「創価教育学体系」2巻を刊行すると明治36(1903)年に刊行した「人生地理学」を通じて親交を持つようになっていた新渡戸稲造さんや門徒のはずの柳田國男先生、犬養毅後の首相が参加して創価教育学支援会が設立され、念願の機関紙「新教(後の『教育改造』)」を創刊するなど大正デモクラシーの余韻の中で前途は開けているように見えたのですが、その後の日本では明治期に国民を洗脳して日清・日露戦争に勝利する基盤となった国家神道の狂気が再燃して神社への信仰・帰依が江戸時代の踏み絵化するようになり、違反者は共産革命の阻止が目的だった治安維持法が思想犯にまで拡大された改悪で特別高等警察に逮捕拘束されるようになっていきました。
牧口さんや戸田さんは昭和18(1943)年に機関紙「新教」で国家神道を批判したことで発禁処分を受けて監視対象になっていた中、日蓮正宗の本山・大石寺からの「神社のお札を受け取るように」と言う指導も拒否したため同年7月6日の伊豆下田での座談会の後に神社のお札を祀ることを拒否したことで逮捕されたのです。
牧口さんは1年4ヶ月後の昭和19(1944)年11月18日に東京拘置所内で栄養失調と衰弱で獄中死しましたが、偶然の一致なのか著書「創価教育体系」の発刊日でした。
- 2022/11/17(木) 14:23:10|
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「モリヤ検察官、今度は日本人の乗客の女性が自死を図ったそうです。兵舎の屋上から飛び降りたのですが3階建ての上、運よく立ち木の枝に引っかかって軽傷ですんだようです」「理由は何ですか」「それが・・・」小森希恵の葬儀の翌日、面談に訪れた私にドゥーフ機長は何故か申し訳なさそうな顔で報告した。私は日本人の乗客とはアムステルダム空港の待合室から強制着陸させられるまでの機内と先日の小森希恵の葬儀以外に面識はないが、女性は男性に同伴している10人前後だったように記憶している。
「実はロシア兵に屋上で集団レイプされたそうです。一番若い42歳の奥さんだったから小森希恵が死んで慰安婦の代わりとして目をつけられたのかも知れません」機長が即答しなかったのも理解できる。旅客機の機長に限らず輸送手段の操縦手には乗客を搭乗、貨物を搭載して目的地に運搬して下車・卸下するまでの管理責任がある。客室乗務員の小森希恵は管理者側の従業員だが乗客に対しては成田空港まで無事に送り届ける責任があるのだ。それが途中で性的暴行を受けて自死を図ったとなれば職務上の責任に責め苛(さいな)まれるのは当然だ。
「ロシア軍には兵士による犯罪として憲兵による捜査と逮捕を要求するべきでしょう。勿論、小森くんの件もですよ」「モリヤ検察官からもお願いしますよ。小森くんの葬儀も2人で要望したら実現したじゃあないですか」「それでは被害者の氏名を教えて下さい」「確か・・・ノゾミ・アサノでした」「朝の望みが自死を図ったのかァ・・・」現代の日本では親父ギャグとして揶揄される言葉の共通性で被害者の苦悩を思い遣っていて、私は葬儀後の乗客との議論で「日本よりも妻を守らなけりゃならんのです」と反論した男性の顔を思い出した。あの男性も40歳代半ばだったので夫婦としては釣り合いが取れる。私の推理が当たっていれば日本よりも大切な妻を凌辱された男性の怒りは理性を破壊するのに十分であり、加害者の逮捕よりも先ず憲兵による男性の身柄確保は必要不可欠だ。仮に男性が暴力に訴えれば監視に当たっているロシア軍兵士が武器を使用して負傷・死亡する最悪の事態は十分に考えられる。
浅野望美は他の女性たちとシャワーに行く前にトイレに寄った。まだ42歳の浅野望美には生理があり、今はその最中だった。しかし、生理用品は旅行用に1包をカバンに隠し持ってきただけで拘束が長期化すれば足りなくなるのは判っている。他の女性たちは年齢から見て閉経している可能性が高く心配を共有することができない。しかもこの兵舎は男性用らしくトイレの個室には汚物を捨てる容器は設置していないのでシャワー室のゴミ箱に捨てることになるが小森希恵が死んだ今、血で汚れた生理用ナプキンを捨てた対象者は1人しかいない。
「奥さん、これからシャワーを浴びるならその前に汚れても好いよな」浅野望美が廊下に出るとドアの陰になる両側の壁際で待っていた3人の兵士が下手な英語で声をかけてきた。浅野望美が意味が判らず立ち尽くすと1人が左手で口を押さえ、もう1人は脇から両手を回し、残りの1人は身をかがめて足を抱えた。そうして中央階段で屋上へ運んだ。
「判りました。我が軍の兵士の安全確保と無用な傷害事件の未然防止のための提言として受理しましょう」司令部の担当者を通じて呼んだ憲兵隊の大尉は捕虜に対応するため英語には堪能で、機長と2人で説明した事態と影響を理解して訴えを受理した。
「そうなると例の日本語通訳が必要になりますね」「そう思って呼んである。マ■コ・タンチャ、入れ」私と機長の申立書を読み返していた憲兵の大尉は事情聴取の時は私が座る席で立ち会っていたトルコフ中佐にロシア語で声をかけた。するとトルコフ中佐はドアに向かって命令口調で叫び、その声を聞いて小柄なアジア人の男が入ってきた。
「こいつが谷茶満庫か・・・」私は名前を聞いて傷心の梢を泥酔させて犯し、妊娠中にも関わらず激しく抱いて早産させ、あかりを視覚障害者にした当事者であり、ここでも小森希恵を慰安婦にして死に追いやった悪逆非道の人間であることは判っていた。1つ、不安だったのは淳之介の顔は私の希望に関わりなく産んだ美恵子に似ていて、それが私の純和風ではないシマンチュウとのハーフのイケメンにしているが、万が一、あかりの面差しに共通する点があれば我慢ならない。しかし、幸いなことに赤の他人のように類似点はなかった。
「マ■コ・タンチャ、お前に・・・」「タンチャ・マ■コは日本軍の対外工作員なんだ。昔は沖縄の旅行社で勤務して中国情報を探っていた。私が現役時代にはウラジオストックからロシア軍情報を送ってきたがどうしてロシア軍に出入りしているんだろう」トルコフ中佐が谷茶満庫を連れて憲兵の大尉の席に移動してロシア語で指示を与え始めると私は声を落してドゥーフ機長に英語で虚偽の説明した。これは私たちの前の机に盗聴器が仕掛けてあることを前提にしている。そのため振り返って谷茶満庫の顔を見た瞬間に驚いたような表情をトルコフ中佐には見せてある。谷茶満庫がどうなるかは閻魔大王が決めることだ。
- 2022/11/17(木) 14:21:11|
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兵士たちが家具のようなキリスト教式の棺を肩に担ぐのを待って私は前に立った。左手には鐘子代りのガラスの食器、右手には木の棒を持っている。日本の風習では葬列の先頭を僧侶が手引鐘(=携帯用鐘子)を叩きながら歩き、その響きで邪気を祓うのだ。宗派によっては鼓鉢(くはつ)と呼ぶ小太鼓とシンバルも加えた合奏の行列になる。
もう1つ、私には狙いがあった。自衛隊の葬列は「半歩行進」と言って歩幅を通常の半分以下にするが外国軍でも歩調を極端に遅くするのが一般的だ。この連中が小森希恵の遺骸に敬意を払うとは思えないので半歩で前を歩いて葬列の体裁を整えたかったのだ。
カーン、カーン、カーン、カンカンカンカン・・・「南無阿弥陀佛、南無阿弥陀佛・・・」食器を叩いたのを合図に私は念佛を唱えながら半歩行進を始めた。とは言え自衛隊の早足(徒歩)の歩幅は75センチでも坊主は2尺=60センチなのでそれほど違和感はない。
「小森さん、ありがとう」「先に日本に帰りなさい」「私たちが無事に帰れるように待っていて」聖堂の玄関前の通路では日本人たちが列を作って待っていた。ドアの外には霊柩車代りの粗末な軍用トラックが荷台を突っ込んでいて並ぶことができないようだ。監視役の下士官が困った顔をしているところを見るとそのままトラックで宿舎に向かうはずがドアのガラス越しに霊柩トラックを見てこの場所に立ち止まって当たり前のように整列してしまったらしい。
「俺たちのキエ、さようなら」「お前は好い女だったぜ」「制服、似合ってるぞ。素敵だ」「もう一度、バックから腰を掴んでやりたい」日本人が声をかけているのを聞いて兵士たちもロシア語で棺に呼びかけ始めた。これが魂魄を慰め、弔う言葉なのかは不明だが少なくとも冒涜する悪意は感じなかった。しかし、オランダの恋人には聞かせられない。
「モリヤ検察官、私たちはどうなるんですか」小森希恵の棺と兵士4人を荷台に載せたトラックが発車すると「帰るぞ。トラックに乗れ」と命じた下士官を無視して日本人の男性たちが私を取り囲んだ。殴りかかりそうな怒気を帯びた目つきだが私は敵ではない。腹に溜っている欝憤と不安が一気に噴き出して怒気を誘ったようだ。
「国際法上は明らかに違法ですが、ここではそれを告発する手立てが与えられていないから何ともなりません」男性たちも私の立場は理解しているので無力さの告白にも特に落胆することはない。やはり高い階層にある人たちはこのような事態にも冷静な判断力を維持している。
「私たちの間ではイラクのサダーム・フセインのように日本人を北方領土やサハリンの基地に配置して人の盾にするんじゃあないかって噂が流れています」「私たちがオランダに赴任する前に日本では自衛隊に敵基地攻撃能力を与えるって言う議論が起こっていましたから、それが実現していれば必要性はあるでしょう」私がオランダに赴任したのはさらに昔なのでその議論は茶山元3佐からの定期便の古新聞で読んだだけだが、潜水艦搭載型巡航ミサイルなどの「敵基地攻撃用兵器を導入した」と言う記事は載っていなかった。ただし、敵基地攻撃能力は航空自衛隊では対航空と誤訳しているカウンター・メジャーであり、違う目的で装備している空中警戒管制機=AWACSと空中給油機にFー2攻撃機を組み合わせれば実施する能力はすでに整っている。しかし、私はロシア軍がはるかに残酷な人質の使用方法を考えていることを知っていた。ロシア軍は中国の常任理事国としての懲罰を支援する名目で対日参戦する時、日本を攻撃する爆撃機や空挺部隊を降下させる輸送機に日本人を同乗させて自衛隊による迎撃を封印するつもりなのだ。この情報を事前に漏らせばダッカ日本航空機ハイジャック事件で服役囚を超法規的措置で釈放した時の福田赳夫首相の「人命は地球よりも重い」と言う公式見解を維持している日本政府は撃墜を命じることはできず、空挺部隊は落下傘で降下するまでもなく堂々と滑走路に着陸して悠々と占領できる。
「それも違法ですが現実的には暴力を恐れずに抵抗するか、人質になったら祖国のために死ぬ覚悟を決めるしかないですね。そのような事態が起きる時にはロシアと日本は戦争状態に陥っているんです。平時の人権を期待するのは無駄ですよ」「モリヤ検察官は自衛隊だったそうですから覚悟を決めているんでしょう。私は日本よりも前に妻を守らなけりゃならんのです」議論の相手の中では一番若い男性は覚悟を促す私に真顔で反論してきた。すると女性や議論に参加しなかった男性を聖堂から連れ出してトラックに載せた下士官が戻ってきて怒鳴りつけた。
「おい、いい加減にしろ。早くトラックに乗れ」「モリヤ検察官には早くオランダに帰ってもらってロシアの違法行為を告発してもらわないといけませんね。お願いしますよ」男性たちは下士官が歩み寄る前に自発的に歩き出した。その時、最も年配の男性が私だけに聞こえる声量の日本語で思いがけない依頼を呟いた。私自身は爆撃機に同乗させられれば上空で暴れて操縦桿を奪い、ロシア軍基地に突入して神風(シンプウ)特攻隊を再現するつもりだった。
- 2022/11/16(水) 14:05:10|
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昭和42(1967)年の明日11月16日に実母を殺害し、遺骸をバラバラに切断して雑木林に遺棄した凄惨な事件でありながら肉親の情を見せずに苦労ばかりを掛け通した母親に絶対服従し、商売の尻拭いを続けた姿から地元・大阪市住吉区では「孝行息子」と評されていた奥野死刑囚の吊首刑が大阪刑務所で執行されました。42歳でした。
奥野死刑囚は大正14(1925)年に風呂屋と雑貨店を営む家庭の1人息子として生れました。幼い頃から意志が弱く内向的な性格で強圧的な母親には絶対服従して育ちました。戦時下に大阪府立城東職工学校を中退すると漬物屋で店員として働き始めましたが間もなく「店の金を盗んで使い込んだ」として解雇されています。そして悪友に命じられるままに強盗殺人を手伝うことになり、共犯者として逮捕されると懲役15年の判決を受けて大阪刑務所に服役しました。服役中は「刑務所が始まって以来」と言われるほどの模範囚で昭和32(1957)年に仮出所しました。
出所して実家に帰ると母親が1人で漬物店を始めていましたが、元来が奥野死刑囚とは真逆の勝ち気で見栄っ張りな性格だったため商売は上手くいっておらず借金は20万円(1957年当時の大卒初任給は9200円)まで膨らんでいました。しかし、見栄っ張りで気位が高い母親は人に頭を下げるのを嫌い奥野死刑囚に借金に回らせました。
やがて奥野死刑囚は鉄工所に勤めることになり日中は工場の仕事、帰宅後は漬物店の手伝いで働き続けましたが工場の給料を全額渡しても商売は上手くいかず、母親はその責任を息子に押しつけて閉店後は小言を浴びせる毎日だったようです。この頃の姿が「孝行息子」と言う評判に結びついたのでしょう。
それでも奥野死刑囚はこの年に洋裁の仕事をしていた女性と結婚しましたが漬物屋の借金は倍にまで膨らみ、連日借金取りが押し掛けるようになると流石に働く意欲を失ってしまい工場を辞めると母親に店を畳むように勧めましたが、相変わらず「お前は商売が下手だ」と奥野死刑囚をなじり、「そのうち何とかする」「そんな夜逃げのようなことができるか」とうそぶくだけでした。
そこで奥野死刑囚は母親を殺して家を売って借金を返すことを決意して昭和35(1960)年6月8日の夜に殺害すると遺骸を押入れに隠して妻を実家に帰し、翌日に行李に詰めようとしたものの足がはみ出るため鋸でバラバラに切断したのです。そして遺骸を詰めた行李と籠を持って母親の実家がある大阪府南河内郡美原町平生池に向かい雑木林に遺棄しました。母親は生前、「将来は実家の近くに家を建てて住みたい」と言っていたのでこれも少しでも夢を適えようとした孝心だったのかも知れません。
1年4ヶ月の逃亡の末、逮捕されると当時の刑法には子による親殺しを一律に厳罰に処する第200条「尊属殺人」が残っていたため1審で死刑判決が出ると控訴、上告も棄却されて昭和39(1964)年に死刑が確定したのです。
刑場では淡々と執行準備を待ち、首に縄を掛けられて床が落ちる直前、「母ちゃん、今逝くで、待っとれよ」と呟いたのが最期の言葉になったそうです。
- 2022/11/15(火) 15:01:43|
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小森希恵の葬儀は私が「機長から聞いた」と断った上でジュネーブ条約が規定する死者に対する宗教儀礼の実施を要求し、ドゥーフ機長が「僧侶として葬儀を依頼した」と説明すると基地内にあるロシア正教の聖堂で行われることになった。私は梢の父の葬儀に参列するために持ってきた正式な法衣に着替えて軍用車で移動し、神父の宗教士官に案内された控室で袈裟を掛けた。続いてオランダ人の搭乗員はバス、日本人の乗客はトラックで移動してきたが、最近はスウェット上下を着ているドゥーフ機長とポンぺ副操縦士、同僚の客室乗務員たちもKLMオランダ航空の制服の正装だ。聖堂の正面の祭壇の下にはキリスト教式の木製の棺が安置されていた。
「小森さん、苦しかったね。これで楽になっただろう。宗旨が判らないから浄土宗式に勤めるよ。今回は途中変更は困るな」私は棺の蓋を開けて死に顔を見ながら話しかけた。空色の制服を着て横たわっている小森希恵は数日間で目が落ちくぼみ、肌の手入れをしていなかったのか額には吹出物が出て頬もかさついている。それでも口紅だけは差していたが、首を吊ったらしく薄く開いた唇は欝血して少し腫れていた。顎の下の首筋には紐が喰い込んで痣になった赤黒い線が残っている。私は航空自衛隊時代、那覇基地の補給隊の資材倉庫で脚立から飛び降りて首を吊った知人の遺骸を下したことがある。その遺骸は骨が折れた首が異様に伸び、鼻からは鼻血と鼻水、舌を突き出した口からは涎が垂れ、支えるために抱えたズボンは大小便を漏らして濡れていた。あの悲惨な遺骸と比べればはるかに美しい。
続いて機長と副操縦士、客室乗務員が順番に別れを告げ始めると私は葬儀の準備を整えた。今回は葬儀用に香蓋に抹香を詰めてきたが香炭は2片入れてきただけだ。それでも拾ってきた木の板を盆代りにして食器に砂を敷いた香炉にライターで火を点けた香炭を置き、蓋を開けた香蓋を並べて棺の足側に置いた。その間に神父がキャンドルに点灯しておいてくれた。
「奉請十方如来 入道場 散華楽~奉請釋迦如来 入道場 散華楽~奉請弥陀如来 入道場 散華楽 奉請観音勢至 諸大菩薩 入道場 散華楽」先ずは「香偈」「三宝礼」「四奉請」から始まる。住職の資格を持たない私は葬儀の導師を勤めたことがなく、東京で僧侶見習いをしていた寺の葬儀で数回伴僧を経験しただけだ。それでも供養の想いが阿弥陀如来に届き、この聖堂にお招きできれば西方浄土にお連れいただけるはずだ。
「それでは念佛を10回唱えます。合掌して下さい」カーン、「南無阿弥陀佛 南無阿弥陀佛・・・南ー無阿弥陀佛 南無阿弥陀ブー」流石にロシア正教の聖堂には鐘子(けいす=佛事用鐘)はなく適当な鳴らし物も見つからなかったので神父に断ってガラスの食器と木の棒を持って来て代用した。やはり間の抜けた音だったが合図にはなった。
観経無量寿経に続いて「光明文」を唱え、声を合わせて念佛を始めると前回の十念では浄土真宗式の「ナマンダー」が混じった称名が見事に浄土宗式で統一された。すると聖堂の祭壇のキャンドルが強く光明を放ち、私の隣りに座っている神父が感嘆の声を上げた。私は北キボールの戦闘で殺害した現地人の若者3人の遺骸を運んできて並べ、夕日に向かって念佛を唱えた時も傾きかけていた太陽光が昼間のように明るくなり、集まっていた野次馬たちが怖れ慄いて拝礼したことがある。やはり佛が佛に祈れば直に通じるのだ。
「それでは順番に焼香して下さい」「帰命頂礼黒谷の円光大師の教えには人間僅か五十年、花に譬えば朝顔の、露より脆き身を持ちて、何故に後生を願わぬぞ・・・」焼香が最後になったため2片しかない香炭は燃え尽きる寸前だった。本来は職場の上司である機長から始めるべきだが私は導師と司会進行を兼ねているため英語の案内・説明を加える余裕はなく日本語で日本人の席の順に勤めさせた。それを見てオランダ人たちも作法を学んだようだ。
「請佛随縁還本国 普散香華心送佛 願佛慈心遥護念 同生相勧尽須来・・・君は今 スポット浴びたスターのように 滑走路と言うステージに 呑み込まれてゆく 君を乗せた 鳥が今翼はためかせて 赤や緑のランプを 飛び超えて行く・・・」葬儀の最後に「送佛偈」を唱えていて私の口からは無意識にさだまさしの「最終案内」の2番が流れ出た。小森希恵の世代では昭和のさだまさしのこの歌を知っているはずはないが、この歌詞はキリスト教の賛美歌、日本の佛教の御詠歌よりも客室乗務員の旅立ちには似合うはずだ。
「これで小森希恵さんの葬儀を終わります。皆さん、ご起立下さい。合掌、礼」本来はここで導師は退場するのだが、棺を運び出しにきた4人の兵士に通路を塞がれて待つことになった。
「上等兵が死んでるキエを見つけたんでしょう」「うん、制服姿にそそられて下ろした後、その場で姦らしてもらったよ。冷たいのも気持ち良かったな」すると4人は棺を重そうに持ち上げて身体の向きを変えながら許し難い事実を自白した。確かにウクライナでは屍姦された痕跡がある若い女性の遺骸を幾つも見たがヨーロッパでは意外に日常的な嗜好なのかも知れない。

クルド人民兵の遺骸
- 2022/11/15(火) 15:00:26|
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「実は客室乗務員の小森希恵が自ら生命を絶ったそうです。貴方にとっては同胞、私には部下でしたから・・・」流石のロシア軍も元航空自衛官で国際刑事裁判所の検察官の私が立ち会っていてはKLM321便をNATO軍の指令を受けた軍事偵察機とする証拠捏造や1時間遅れで出発した飛行計画の変更を受理していないとする過失を成立させることが困難になったようで、ドゥーフ機長とポンぺ副操縦士の事情聴取も中断している。それでも私は1日1度は面談して情報交換していた。ただし、私はロシア語が理解できることを2人にも伏せている上、シャワーが完備した士官用宿舎に押し込まれ、食事も運ばれてくるためこちらから提供する情報は全くない。そんな中、ドゥーフ機長が沈痛な顔で悲報を伝えた。
「やはりKLMの社員として日本人の乗客を守らなければならない責任感に耐えきれなくなったんでしょうか」私としては機内で会った全身から生真面目な雰囲気を発散していた小森希恵がトイレで聞いた慰安婦としての屈辱的な待遇を強いられれば死を選ぶのも当然だと思ったが、この部屋が盗聴されていることは前提条件なのでワザと的外れな推理を返した。
「彼女の常に前向きな人間性を知る者としては責任から逃れようとするとは考えられません。それにオランダで恋人と同棲しているんです。その恋人はKLMの整備員で発進した時、エプロンで手を振っていました」「そんな幸せを自ら捨て去るとなると・・・」私は小森希恵の意外な私生活を知り、それを破壊し尽くしたロシア軍に対する怒りが秘かに噴き上がった。
「ソビエト連邦軍は第2次世界大戦後に日本軍将兵をシベリアに抑留した時、『現地で医療・衛生業務を担当させる』を名目にして日本赤十字の従軍看護婦たちを同行させたんです。ところがシベリア奥地の収容所に分散配置すると先ず所長の将校が強姦し、続いて下士官、兵にたらい回しにして慰安婦同様の扱いをされるようになった。その一方で作業で負傷した日本軍将兵の治療(病気や衰弱した者は放置させた)にも当たらせることで看護婦としての使命感から自死をさせず、看護婦兼慰安婦としての崇高にして屈辱的な生活に耐えさせたんです。それで彼女たちの多くは日本軍が復員・帰国しても現地に残って地域住民の医療業務に当たり、若くして亡くなっています。小森くんも同様の目に遭ったのかも知れません」この史実を盗聴しているロシア軍将兵に聞かせれば先人たちが犯した罪の深さを考えてくれるのではないか。私はウクライナでもロシア軍の戦争犯罪を見てきただけにそれは切実で無駄な願いだった。
「私もロシア軍士官から事実を伝えられただけなので原因や状況は知らないんです。それでも遺骸をオランダに連れて帰れるように冷凍保存するように要望しました。モリヤ検察官は僧侶でしょう。できれば彼女のために葬儀を勤めてやって欲しいんです」「判りました。私は国際法を根拠に強く要求します。機長からもあらためて要望して下さい」私は内心では葬儀を勤めれば遺骸と対面できるので死因が推定できることを期待していた。
私は北キボールPKOで現地人暴徒に愛人と共に拉致されて散々に輪姦された挙句に惨殺されたジャーナリスト・阿部真理のホテルの食堂の冷凍庫に保管されていた遺骸に読経したことがある。あの時は阿部真理の霊が背後に立ち、「ウチは日蓮宗だ」と教えてくれた。一方、小森希恵が信仰している宗教は想像することも難しい。機長は「日本人の坊主」として私に依頼したようだが、オランダ人の恋人と夫婦同然の生活を送っているのなら教会に通って洗礼を受けているかも知れない。何よりも本人は果たして先祖代々が住む佛教の極楽浄土へ逝くことを願っているのだろうか。仮にキリスト教の神の国で恋人を待っていることを希望していれば坊主としては困ってしまう。しかし、キリスト教では自死者は地獄へ堕ちることが決まっている。やはり念佛を唱えれば往生必定の浄土宗の阿弥陀佛にお願いするべきではないか。
「モスクワはウチの機体でオランダ人の乗客と乗員を帰国させることを決めたようです」次にポンぺ副操縦士と面談すると意外な情報を聞くことができた。ドゥーフ機長は不定期にオランダのKLM本社に連絡しているためロシア軍も与える情報は必要最低限に制御しているが、ポンぺ副操縦士には比較的開け広げに現状を語っているらしい。それがドゥーフ機長に漏れてオランダ本国に伝わってもポンぺ副操縦士を処罰すれば済む話だ。
「そうなると日本人だけが残置されるんですね」私の返事にポンぺ副操縦士は重い表情で黙殺した。この態度は私には聞かせられない情報を腹の中に抱えていることを意味している。ところが私はそれを知っていた。作務衣姿で一目瞭然の私が司令部の廊下を歩いていてもロシア人たちは警戒することなくロシア語で会話を続け、通話状態が良好とは言えない電話ではかなり大きな声で議論している。そんな中で耳にした情報だった。
「日本人を爆撃機と輸送機に同乗させて人の盾にする」「足りなければロシア在住の日本人や旅行者も拘束する」小森希恵がこれを知ったとすれば自ら生命を絶ったのも納得できる。
- 2022/11/14(月) 14:02:16|
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1635年の明日11月14日にイギリスで152歳まで生きたとされ、スコッチ・ウィスキーのオールド・パーの名称の由来になったトーマス・パーさんが亡くなりました。
パーさんはグレート・ブリテン島南西部のシュルーズベリー地域の農家=庶民だったため前半生については領主や教会が作成した簡単な記録(戸籍ではなく領民・信者を把握するメモ書き程度)で1483年に生まれ、1500年ごろに兵役で出征したことなど以外は判っておらず、当時の人たちの平均寿命をはるかに超えた80歳で結婚して1男1女を儲けたものの2人とも夭折した後半生から世間の関心を引くようになり、105歳の時にはキャサリン・ミルトンと言う名前の女性に不倫の子供を産ませ、正妻が亡くなると122歳で再婚するなど保健医療が発展した現代でも常識では考えられない年齢と生活(特に性的面の)から祖父の生年のみが残って没年が記入されなかったため3代分の期間が1人のモノにされたのではないかとする推理が伝説とは別に定着しています。
ちなみに1509年から1547年に在位した悪王・ヘンリー8世の6番目で最後の妻・キャサリン・パーさんの父親もトーマス・パーと言いますが同姓同名の別人です。
それでもパーさんの驚異の長命が評判になると1635年にはそれを耳にした国王・チャールズ1世が謁見していますから引き合わせる前の調査は綿密に行われたはずで、存命当時から3代分説を証明する記録は見当たらず100歳を超えて子供を作る超人として国王にも認められていたようです。この時、チャールズ1世は宮廷画家だったピーテル・パウル・ルーベンスさんにパーさんの肖像画を描かせ、この絵はスッコチ・オールド・パーの裏ラベルになっています(方形で割れ目柄のボトルは愛用の食器を模している)。
謁見でパーさんは長命の理由を尋ねられて「粗食と節度ある生活」と答えていますが、王の元で暮らすようになると連日のように豪華な食事を供され、身の回りのことも召使が行うようになったため体調を崩して死期を早める(?)ことになりました。しかし、パーさんを検屍した御典医・ウィリアム・ハーベイ医師の所見では「実年齢は70歳未満」とされていて国王との対話でも歴代国王の治世を尋ねられて「15世紀のことは特に憶えていない」と答えるなど3代分説を裏づける事実が残りました。
それでも庶民としては極めて異例なことに政治家や芸術家などの国家に貢献した重要人物の墓所があるウェスト・ミンスター聖堂でも詩人や文学者のコーナーと言われる南翼廊に埋葬され、墓碑銘には「サロップ郡のトーマス・パー、カミの年(西暦=キリスト教暦)の1483年に生を受けた。10代のイギリス国王の御代に生きた。即ちエドワード4世、エドワード5世、リチャード3世、ヘンリー7世、ヘンリー8世、エドワード6世、メアリー女王、エリザベス女王(1世)、ジェームズ1世、チャールズ1世である。齢152、1635年11月15日、ここに葬られた」と刻まれています。
スコッチ・ウィスキーのオールド・パーはパーさんの長命にあやかって「健康に良い酒」と宣伝するために命名されましたが、明治6(1873)年に遣欧米使節団が持ち帰って明治天皇に献上し、元イギリス公使の吉田茂首相が愛飲していたことで有名です。
- 2022/11/13(日) 15:03:20|
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シベリアでは小森希恵が自ら生命を絶っていた。谷茶は相変わらず媚薬を飲ませていたが、1本目が終わって次の瓶になると薬効がなく意識が急速に戻ったのだ。谷茶は売春宿の常連客の中国人の貨物船の乗組員から中国本土の港町の裏通りの露店で調達した媚薬を購入している。ところがロシア人女性に売春させた罪で逮捕されて服役していたため媚薬を入手することができなくなり、今回の瓶は粗悪な不良品だったと言うことだ。
「どうして・・・」ある朝、ベッドで目を覚ますと小森希恵は自分が寝ている場所が理解できなかった。オランダではKLMオランダ航空の整備員の恋人と収入に見合ったマンションを借りて同棲している。ところがこの部屋は空港の控室のような飾り気がない空間で、ベッドも日本で言う1畳分の大きさで鉄骨が剥き出しの簡素な作りだった。それでも意識が鮮明になってくると恋人に見送られて出発した日本への321便に乗務していてシベリア上空でロシア防空軍の戦闘機に強制着陸させられて、この部屋に連行されたことを思い出した。
「ひッ」身体を起こした小森希恵は壁際に並んでいるベッドに男性が頭をこちらに向けて寝ているのを見つけて息を呑んだ。男性はアジア人のようで髪が黒く、顔も平面で肌の色は黄色い。厚い唇の口をだらしなく開けている。何よりも額には濃くて太い眉が貼りついていた。
「誰・・・」小森希恵は頭の前の方が痺れていることを確認しながら必死に記憶を呼び戻そうとした。ナチス・ドイツが旧プロシア貴族の女性たちを籠絡するために開発した媚薬は理性を掌る前頭葉を麻痺させて人間の動物的本能を剥き出しにする効果があった。谷茶が使用している媚薬は中国の漢方薬らしいが同様の働きをするのかも知れない。
「目の焦点が合ってるな。これは拙いぞ」男性は唐突に目を覚ますと身を乗り出して手すり越しに覗いている小森希恵の顔を見て独り言を呟いた。男性は起き上がって一気に歩を進め、小森希恵をベッドに引き倒し、首を片手でマットに押しつけた。Tシャツ1枚から伸びている腕はオランダ人の恋人よりも濃く黒い毛で覆われている。こちらを見ている目は発情期を迎えた雌に群がる雄の野獣のような暗くて熱い光を放っていた。
「丁度、朝立ちしてるから使ってやるぞ。朝立ちや 小便までの 元気かな・・・ってな」男性は腕に力を込めて絞殺の恐怖を与えるとそのまま両脚を掴んで引き寄せ、下着を履いていない股間に年甲斐もなく朝立ちしている男根を突き刺した。
「お前は薬で正気を失っていたから憶えていないかも知れないが、ロシア兵の慰安婦になったんだ。これまでも何十回となく多くの男に姦られてる。今更、気取っても無駄だよ」谷茶は小森希恵に考える暇(いとま)を与えないように激しく性行為を続け、言葉で精神の強姦を繰り返した。小森希恵は谷茶の男根が深く女性器を突き刺された時に下腹部から快楽とは違う炎のような衝撃が後頭部に走るのを感じていた。この衝撃には記憶がある。やはり名前を思い出せないこの男性が言う通り、薬物で正気を失っている間にロシア兵の慰安婦にされて繰り返し性行為を受けてきたのだ。
小森希恵は福井県の郡部で生まれ育った田舎娘だが、小学生の頃に青春ドラマの再放送を見て客室乗務員に憧れ、京都の大学で外国語を学んだ。しかし、京都の私立大学には日本の航空会社からの募集はなく、求職雑誌で見つけたKLMオランダ航空に応募して合格したのだ。そんな苦労の末に勝ち取った職業人の誇りを踏み躙られ、女性として汚され、心から愛し合っている恋人を裏切ることになった。そうして快楽の衝撃に抗い(あらがい)ながら絶望の淵に沈んでいく小森希恵は別の生理現象に苦しむことになった。先ほど谷茶が口にした下卑た川柳のように目覚めたばかりの小森希恵も放尿の必要がある。ところが谷茶の下腹部と男根で中と外から膀胱を圧迫されるのでこれは拷問だった。
「おッ、やりやがったな・・・だったら俺もお返しだ」耐え切れなくなった小森希恵は挿入されたまま尿を谷茶の下腹部に吹きつけてしまった。すると谷茶は異様な笑いを浮かべて男根を抜き、膝立ちになって小森希恵に向って放尿した。全身が悪臭を放つ黄色い温水でずぶ濡れになった。男性たちの俗語では性行為の共有品にしている女性を誰でも使える「共同便所」と呼ぶが、小森希恵は正しく「便所」になってしまった。
「あーあ、俺たちのキエが死んじまった」その日の昼休み、シャワーを浴びようとした兵士が首を吊っている小森希恵の遺骸を発見した。凌辱の後、小森希恵はシャワー室で全身を洗い流したのだが、着替えを探してロッカーで見つけた下着と制服を着て髪を整え、ストッキングの足を縛って作った輪に首を入れて足を投げ出していた。通常、首吊り自死は台から飛び下りた衝撃で頸骨が折れて即死するが、最近はこのように頚部を締める窒息死が多い。当然、かなりの苦痛を伴うが現代人は飛び降りる恐怖よりも意識を失うまでの時間を耐える方を選ぶらしい。

劇画「滅びの笛」より
- 2022/11/13(日) 15:02:07|
- 夜の連続小説9
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「佳織ちゃん、古河は本当に地獄へ堕ちたわね。それも自衛隊に堕とされたんだから」市役所での手続きや撤去を依頼する石工店との業務調整を終え、ついでに菩提寺にも顔を出して思いがけず墓石のお精抜きが終わった佳織はホテルにチェックインしてママさんの元スナックに顔を出した。するとママさんは水割りを作りながら唐突に思いがけない話を口にした。
帰国して最初に転入した公立中学校の担任だった古河は慣れない日本語の授業に苦心している佳織に図書室で個人教授していたのだが、やがて自分のアパートに連れ込むようになると巧妙に籠絡して純潔を奪った。その後も若く美しい性玩具として弄び、心に癒すことができない深い傷を負わせた。その古河も市営墓苑に墓を所有しているらしく佳織は墓参して会ったことがある。ところが前回はそれを察したモリヤが歩み寄り、家族の前で「お前は間違いなく地獄に堕ちる」と宣告して「40年前、ハワイから転校してきた女生徒に担任として何をしたか思い出してみなさい」と理由も本人だけに判るように臭わせたのだ。
「それは東京では報道していなかったわ。どこで」「北海道の航空の基地で警備の地雷が爆発したじゃない。古河はガソリンを持って巻き込まれたから黒焦げになって死んだのよ」「あの事案は自衛隊でも航空の話だから死者の名前までは伝わってこなかったわ」航空自衛隊千歳基地でFー15を放火・破壊するためシェルターに近づいた侵入者に指向性散弾地雷・クレイムアを使用した事案については数回目と言うこともあってマスコミはそれほど熱心に報道せず、陸上自衛隊でも携帯していた銃器がこれまでの中国製の小型拳銃・92式手槍ではなくロシア製の短機関銃・PP19と手榴弾・PGP5だったことと放火と言う新手の攻撃手段ばかりが問題になって情報や議論もそちらに集中していた。その点、地元では元教員の市民が犠牲になっただけに新聞の地方版やローカル・ニュースが詳しく取り上げているようだ。
「古河は佳織ちゃんにしたことを家族に知られて家を追い出されたそうよ。奥さんも元教師、息子夫婦も教師だから教育者にあるまじき性犯罪を許さなかったのね。奥さんはインタビューに答えなかったし、息子さんは家を出た理由を『過去に犯した罪』って説明していたの」「それがどうして北海道へ・・・」結局、古河はモリヤの宣告を言い逃れることができず、家族の教師たちの追及に自白せざるを得なかったのだろう。父親と同時に教育者の先輩としても尊敬されていれば失望は憎悪に発展し、家に居場所がなくなるのは当然だ。
「本当は沖縄で反米軍基地運動に参加するつもりだったんだけど、北海道の友人に『叩くなら自衛隊だ』って誘われて変更したみたい。それで死んだんだからやっぱり佛罰ね」あの後、祖父は佳織がレイプされたことを学校に訴えて古河の懲戒免職を要求したが、校長は古河が教職員組合の活動家で反発すれば学校の業務を妨害する危険があると説明して結局、学年途中の転勤だけで揉み消した。定年退職して10数年が経過しても現在の国家非常時に反アメリカ軍・反自衛隊の活動に参加すると言うことは校長が危惧した妨害活動を起こす危険性は本当だったようだ。
純潔を奪われた時、古河は怯える佳織を男性との遊びに慣れた好色な娘のように扱い、乱暴に性器を貫いた。その癖、破瓜の出血を見ると異常に独占欲を燃え立たせ、全身を刺激して性感帯を探し、愛撫の反応を確かめた。つまり自分の思うままに弄べる愛玩動物・性玩具にしようとしたのだ。地獄に堕ちてもらわなければ納得できない。
「あの時、お祖父ちゃんは軍人時代の軍刀を持ち出して古河を殺して自分も死ぬって言い出したの。だからお母さんとお祖母ちゃんが必死に止めて、私は泣いちゃったのよ。あの罪を今頃になってあんな風に償うなんて・・・」「モリヤさんがいつも言ってる通り、世の中は因果応報なのね」話が区切りになったところでママさんが作った水割りで乾杯した。今日は少し濃い目なのか喉と頭が少し痺れた。そこで佳織は言わなければならないことを伝えることにした。
「実は私、自衛隊を辞めてハワイに行くの。その時、あの人と別れるわ」「・・・いよいよ籍を抜くのね。佳織ちゃんも若いんだからハワイで新しい出会いがあるかも知れないよ」意外にもママさんは離婚を予感していたようで自然に受け止めた。古河から男と言う動物の卑劣さを教えられて以来、男性に近づくことを避けていた佳織が前川原でモリヤと出会い、恋慕の情を訴えたのを受け止めたのは母の親友だったママさんだった。あの頃、モリヤには妻子があったが、それを奪うことも後押しした。その夫婦関係が終焉を迎えようとしている。
「モリヤさんは佳織ちゃんのために犠牲になってきたのよ。それがモリヤさんの愛し方だとしても私には痛々しくて見ていられなかったわ。モリヤさんに支えられてきた職業を辞めるなら踏み台の役も終わらせて上げなさい。それが佳織ちゃんの妻としての最後の愛よ」ママさんの言葉は水割り以上に胸に染みわたった。夫婦の別離は相手に対する憎悪が燃え立っていなければ実行できるものではない。しかし、佳織の場合は圧倒的な敗北感がそれを決断させた。
- 2022/11/12(土) 15:28:19|
- 夜の連続小説9
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1969年の明日11月12日に共産党中国で吹き荒れていた「文化大革命」の凶風で毛沢東主席の失政「大躍進」による国家崩壊の危機に懸命に取り組んでいた劉少奇同志が失脚させられ、番兵=紅衛兵からの日常的な暴行と虐待で死亡しました。70歳でした。
劉同志は1898年に5歳年上の毛沢東主席と同じ湖南省で生まれました。実際、2人の生家は20キロほどの距離なので同郷と言っても差支えないでしょう。
1913年に湖南省の省都・長沙の中学校に入学し、1920年に湖南省の中国社会主義青年団に入団すると1921年にはモスクワの東方勤労者共産大学に留学し、同年7月1日に上海で結成された中国共産党に入党すると1922年に帰国し、中国各地の労働争議を指揮して1927年には中央委員に選出されました。
1924年に中国各地の軍閥と袁世凱政権に対抗するために始まった第1回国共合作が1927年に崩壊すると国民党支配地域での地下工作に従事し、1934年の長征では延安に同行して毛沢東主席の指導体制確立に貢献しました。1935年12月9日に北京の学生が抗日よりも反共を優先する南京国民党政権に抗議するデモを起こすと指導者として派遣され、以降は崩壊状態に陥った組織の立て直しに当たり、存在感を増していきました。
支那事変の最中の1943年に延安に戻って党中央の書記に就任し、1945年4の第7回全国党大会では「党規約の改定についての報告」を発表してその中で「毛沢東思想」と言う造語を初めて用いています。
こうして1949年に共産党中国が成立すると副主席として毛沢東主席を支えましたが、やがて狂信的教条主義による政治運営によって産業や経済が破綻し、それを毛沢東思想の徹底と強化で挽回しようとした大躍進政策によって国家は崩壊の危機に直面したのです。
この事態に流石の毛沢東主席も責任を認め、1959年には劉同志に主席の座を譲って表舞台から退場しましたが、1966年に突如として造反有理を掲げる「文化大革命」を起こして反共産主義の名の下に現実的な経済政策を推進する実務派を次々に餌食にしていきました。その最大の標的になったのが「主席の座を奪った」ことにされた劉同志で、1966年に主席の地位と政治権力を奪われると1967年1月には紅衛兵が自宅に踏み込んで家族と共に暴行を受け、繰り返し妻と共に人民裁判に掛けられ、9月に妻を逮捕、息子たちを連行して1人された劉同志は持病の薬さえも与えられず、身体の洗浄はおろかベッドに縛り付けられたまま尿と便も処理されず、多くの歯が抜け落ちるまでの虐待が日常化しました。そんな1968年10月の中国共産党中央委員会で「党内に潜んだ敵の回し者、裏切り者、労働貴族」のレッテルを貼られて永久除名、党内外の一切の職務を剥奪されましたが劉同志はラジオでの発表の聴取を強制されています。
病状が重篤になった1969年10月17日に河南省の牢獄同然の地下室に移送され、その地で死亡すると遺骸は「劇症伝染病患者」扱いで汚物のように火葬されました。
名誉回復は鄧小平政権になってからの1980年2月の中国共産党中央委員会で、それを受けて火葬場に放置されていた遺骨は存命だった妻の手で海に散骨されました。
- 2022/11/11(金) 15:36:08|
- 日記(暦)
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本部長に「勧奨退職に応じる」と回答した佳織は伊藤家の墓を撤去し、母と祖父母の遺骨をハワイに連れて行くための手続きに伊丹に来ていた。防衛出動待機命令と治安出動が発令されている以上、年次休暇は取得できないので伊丹駐屯地・中部方面隊総監部への出張を名目にしている。世間ではこれを「空出張」と呼んで違法行為にしているが、異常に制限が多い自衛隊では他に代替手段がなくて旅費や宿泊費を自腹でまかなえば黙認される場合もある。
「すると墓地をハワイに移転するんですか」「一人娘の私が移住するので墓石は無理でも遺骨だけは連れていかないと墓を守ることができないんです」「ハワイまで移動させても墓を守るんですね」市役所の墓苑担当者は佳織が提出した撤去申請の書類を確認しながら理由欄に目を止めた。この口ぶりでは佳織の説明に感心・感動しているらしい。
「最近は遠方に住むようになった子供が『墓参が面倒臭い』と言って先祖代々の墓所を破棄する『墓仕舞い』が流行していて、市内の寺院でも墓所に空き区画が目立つようになっているんです。勿論、余所から転入してきた方の要望は少なくないので、こうして手続きしていただくと市としては助かります」「私はアメリカを含めて遠方ばかりで暮らしてきたから母や祖父母が住んでいる伊丹の家に帰ってくるのは嬉しかったわ。みんな亡くなってしまってからも墓参りすれば会って甘えられるような気持ちになった。だからお墓参りが大好きなのよ」「ふーん、お坊さんに聞かせて上げたい話ですね」佳織の間もなく元になる戸籍上の夫が坊主だとは知るはずがない担当者は賛辞で心を傷つけた。勿論、担当者に悪意はない。
「この墓石はこちらの輝心妙典信女さんが亡くなった平成元年に建立したんですね」「はい、母は癌告知を受けていたから生前に自分で市役所に申請して墓石も注文したんです」「そうだッ、もうすぐ自分が入る墓だって言われるから驚いたのを思い出しました」次は石工店の店主と墓苑の入口で待ち合わせて伊藤家の墓石の撤去の相談をした。伊藤家は次男だった祖父が戦争中に予備士官として伊丹に配属されると母の典子を妊娠中だった祖母も帯同した。そのため墓所はなく佳織が中学校で担任の古河に凌辱されて神戸市の国際学校に転校する時、大学までの学資と下宿代を確保するために持ち家を売却していて貧しかった。そのため先立つ本人が手配していなければ申し訳なくなるような質素な葬儀であり、墓所だった。
「それでも伊藤さんのお墓は年に数回はお参りしてありましたが、それも終わりですか」どうやら店主は時折、寺や墓苑を巡って自分が手掛けた墓石を確認しているようだ。
「はい、私はハワイへ移住して父と同居するんです」「ハワイでは墓石を彫る職人はいないでしょう。とても高くつきますが分解して送ってはいかがですか」「向こうでは組み立てる職人さんが見つかりません。店主さんが出張してくれますか」佳織の返事に店主は苦笑した。ハワイでは初期の移民が日本式の墓地にこだわって漢字の戒名で墓碑銘を記した木製の墓柱が建てられたが、2世の時代になると漢字が判読できず、記述することもできなくなって石板に英語の氏名に生年月日と死亡年月日のキリスト教式が一般的になった。ハワイのノザキ家とスザンナの鬼海家の共同墓所も漢字が苦手な父が英語の石板式に変更している。そこに塔のような日本式の墓石は迷惑だろう。強いて言えば英語の下に漢字で氏名を彫っても好いかも知れない。
「それで撤去した墓石はどうするんですか」「正直に言いますと採石にして建設会社に売却します。つまり建設工事の土台の敷石になります。だから必ず菩提寺さまに撥遣(はっけん=お精抜き)供養をお願いして下さい」佳織としては墓石の撤去は退職して日本を出発する直前に行い、その時は立ち会って見守るつもりだ。市役所の担当者は撤去を申請することなく放置されている墓所=墓石が多い中、正規の手続きを踏んだ佳織を信頼して期限は示さなかった。
「伊藤さんですか・・・お母さんとお祖父さん、お祖母さんの葬儀だけでしたよね」最後は伊丹市内の曹洞宗寺院だった。この寺は母が亡くなった時、伊藤家の宗旨を確認した葬儀屋に紹介されて導師を頼み、佳織が自衛隊に入って間もなく相次いで祖父母が亡くなった時には電話で連絡した同じ葬儀屋が手回しよく手配していて喪主は斎場での直前承諾だった。
「ご無沙汰して申し訳ありませんでした。こちらに家がありませんから法要は知り合いのお坊さんにお願いしていました」「それでも追善供養は勤めておられたんですね」佳織の説明に住職は「お布施を横取りされた」と言う本音は微塵も見せずに納得したようにうなずいた。
「実は私はハワイ在住の父と同居することになりまして墓所も移転しなければならないのです。それで・・・」「お精抜きですね。今から行きましょう」高齢でも妙にフットワークが軽い住職でその場で話が決まってしまった。それにしても魂魄を位牌や墓所から退去させる「撥遣」の本当の意義が判っているのだろうか。モリヤ坊主なら「居場所を失った母と祖父母はどうなるのか」を詳細かつ具体的に説明してくれるはずだが、本人こそシベリアで迷える魂魄になりそうだ。
- 2022/11/11(金) 15:34:32|
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