fc2ブログ

古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

1月1日・志願して日系人収容所に入ったラルフ・ラソの命日

1967年の明日1月1日に対日戦争中にフランクリン・ルーズベルト大統領の大統領令9066号によって設置された強制収容所に日系人のふりをして入所したアメリカ人・ラルフ・ラソさんが肝臓病で亡くなりました。67歳でした。
現在の日本では同様に敵対していたドイツ系やイタリア系の移民は放置しながら日系人だけを強制収容所に収監したことを「人種差別」と断定的に紹介していますが、西海岸に居住する日系人だけが対象になったのには軍事的必然性がありました。
ラソくんは1924年にロサンゼルスで塗装業を営む両親の姉の下の長男として生まれ、日系人街=リトル・トウキョウの近傍で幼い頃に母親が病没したため父親に育てられました。市の中心地にあるベルモント高校に進学すると同級生には多様な人種が混在し、差別意識を持たないラソくんは誰とでも親しくなり、特に日系人とはフランクリン・ルーズベルト政権内にスターリン書記長が送り込んだ政治工作員の策謀によって反日感情が高まる中(日本でも同様に)、固い友情を結ぶようになりました。
ところが1941年12月8日に日本海軍が真珠湾を奇襲してフランクリン・ルーズベルト政権がヨーロッパ戦線を含む第2次世界大戦への参戦を決定すると艦載機の離発艦訓練に出ていた航空母艦以外の太平洋艦隊の艦艇の大半が壊滅して制海権を日本に握られたアメリカは本土西海岸への日本軍の上陸が現実の脅威となり、クリスマスの頃にはFBIの捜査官が令状も持たずに日系人の家に踏み込んで家宅捜査するようになり、1942年2月19日にフランクリン・ルーズベルト大統領が大統領令9066号にサインして西海岸地域に居住する日系人を遠く離れた内陸部に設置した強制収容することが決定したのです。そのためアメリカで生まれて市民権を有していた2世、3世も対象になり、アメリカ政府は罪を犯していない11万5千人の市民の正当な権利を剥奪して10カ所の強制収容所に収監する人道上の罪を負うことになりました。
当然、ラソくんの友人たちも対象になり、次々に強制収容所に送られて行くのを目の当たりにしていて疑問と怒りが抑えられなくなり、父親に「ちょっとキャンプに行ってくる」と断ると大きめの手荷物を持ってカリフォルニア州東部の荒野に向かう列車に乗り、オーエンズバレーにあるマンザナール転住センター=日系人強制収容所に入ったのです。収容所での入所手続きはほぼ自己申告だったため日系人には見えないラソくんも正式に収監が認められ、1万人が暮らす収容所の一員に加えられました。
収容所では兵舎のような作りでコールタールを塗った紙で目張りした宿舎で囚人のように常に監視の目に晒されながら生活しましたが、日系人たちは規律正しく前向きで自発的に荒れ地を開墾して耕作を始め、売店を開業し、新聞を発行し、子供たちの学校を開設してラソくんは後に「2年半の収容所生活で正しい社会性を身につけた」と語っています。
実際、ラソくんは1944年8月に兵役で収容所を出て太平洋戦線に従軍、1946年に除隊してカリフォルニア大学で社会学の学士号、同大学院で教育学の修士号を取得すると教育者として差別意識の解消とアメリカ政府の強制収容の責任追及に貢献しました。
  1. 2022/12/31(土) 14:18:31|
  2. 日記(暦)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

続・振り向けばイエスタディ354

「これは暴動だ」市ヶ谷地区の防衛省内局庁舎の地下にある中央指揮所では緊急事態を察知した担当の官僚に呼び出されて席についていた釜田防衛大臣が怒声を上げた。その様子を同じく呼び出された統合幕僚長と陸海空幕僚長は冷ややかに見ていた。釜田防衛大臣は海上自衛隊の特別イージス艦隊が弾道ミサイル破壊措置命令を受けずに独断で撃破したことにも激怒したが、保守系マスコミが「日本が守られた」と賞賛し、反日マスコミも批判はしなかったため記者会見では肯定的に評価した。続く日本人が同乗した爆撃機の編隊が日本海上空で消滅した事件では緊急発進した航空自衛隊の要撃機の位置が空対空ミサイルの射程距離に至っていなかったため原因不明と弁明したが、前回の在任中に幕僚長に迷惑を掛けられた航空自衛隊に対する嫌悪感は強まった。今回はその航空自衛隊が公然と独断専行で開戦の火蓋を切ったのだ。
「このベアはECM、電子戦型だと思われます。放置すればEP(電子戦防護)を実施しても北部方面隊のレーダーサイトは目潰しを受けて盲(めくら)の戦闘、座頭市になります」「盲は身体障害者を冒涜する表現だ。座頭市も同様で適切ではない。訂正しろ」航空幕僚長の説明に事務次官が横槍を入れた。盲目の座頭=按摩の市が杖に仕込んだ刀で悪人を斬る痛快時代劇の座頭市は昭和37年から1989年まで映画26作が公開され、昭和49年から54年まで4回テレビドラマ化されている。しかし、劇中で悪人が市を挑発・冒涜する「盲」などの台詞や座頭と言う職業呼称が差別用語になるため今では題名すら紹介されなくなっている。しかし、昭和世代にはレーダー情報を喪失した中での戦闘を理解するには適切な表現だ。
「それでは航空総隊が撃墜を命令したのか」「いいえ、現在、北空が調査していますが初弾については北空SOCやノースDC(北部防空指令所)も命じていていないようです。その後の北海道のレーダー・サイトを攻撃してきた護衛戦闘機については北空の命令で3高群が実施しました」「破壊措置命令は出していないぞ」再び事務次官が割って入った。
かつて戦前に思想犯弾圧を繰り広げた特別高等警察を統括していた内務省の官僚から敗戦後に創設された警察予備隊に転任した海原治は海外では国民によって選任された政治家が軍を指揮することを意味するシビリアン・コントロール=文民統制を背広を着た官僚が制服を着ている自衛官を屈服させることに歪曲し、防衛庁・自衛隊の主従関係を作り上げた。ところが栗栖弘臣統合幕僚会議議長が昭和53年4月に尖閣諸島の領海内に中国の漁船100隻が侵入して違法操業した事態を防衛庁長官に報告しようとしたところ秘書官の官僚が「事前予約していない」と面会を拒否したため組織構造上の欠陥を指摘したことで政治家も問題を認識した。そのため中曽根政権以降、首相や防衛庁長官と制服組=自衛官の面談が恒例化して現在では統合幕僚長と事務次官は同格とされている。一方、釜田防衛大臣は古い体質の政治屋のため海原の誤った文民統制を学習したらしく側近として取り囲み、日本限定の政治的常識を助言する官僚を重用してマスコミに叩かれる原因を作る自衛官を嫌悪・蔑視しているようだ。
「つまり3コーグンが勝手にロシア軍機を撃墜したんだな。それが切っ掛けでロシア軍が本気で攻めてきたら誰が責任を取るんだ」「すでに本気で攻めてきています。だからECMを仕掛けてきたんです」「次は地上部隊の侵攻です」第3高射群の略称も知らないらしい釜田防衛大臣の叱責に航空幕僚長と陸上幕僚長が公然と反論した。事態はこれ以上の防衛出動の先伸ばしは容認できない段階に至っている。今回のツボレフ95ベアの撃墜も対処療法に過ぎない。
「今度は航空自衛隊が撃墜したことを認めざるを得ない。若し今回も日本人が同乗させられていれば国民殺しの批判にどう言い逃れするつもりだ」「ご愁傷さまと手を合わせましょう。何なら全自衛隊で1分間の黙祷でもしましょうか」「君は制服組の最高責任者として大臣に進退を伺うべきじゃあないのか」事務次官の指弾に統合幕僚長が茶化したように答えると目つきを厳しくして本音を漏らした。それでも文官では武官との睨み合いに勝てそうもない。
「サハリン南部から大編隊が発進しました。速度と飛行形態からヘリコプターと思われます。機数は識別できるだけでも30機」「国後からも大編隊・・・サハリン中部からも編隊が、輸送機と思われます」釜田防衛大臣が事務次官の前置きに続いて統合幕僚長の更迭を宣告しようとした時、中央指揮所に航空総隊指揮所運用隊の説明が流れ、全員が大臣席の正面に設置しているモニター・スクリーンを見るとレーダー映像には北海道の北部に短い線(低速度)を引きながら南下しているRシンボルを冠した多くの航跡が目に入った。編隊は上昇しながら間隔を広げているのでこの機数では稚内の第3高射群には対応し切れない。
「ミル26だな」「あれはCー130程度のペイロードだから歩兵なら90名以上搭乗できる」「30機なら2800名、1個連隊と言うところだ」絶妙なタイミングの侵攻開始に茫然自失している釜田防衛大臣と事務次官を放置して幕僚長たちは淡々と専門知識を交換した。
  1. 2022/12/31(土) 14:17:20|
  2. 夜の連続小説9
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

12月31日・科学者で俳人で随筆家の寺田寅彦の命日

昭和10(1935)年の明日12月31日は日本の科学研究の最高峰・理化学研究所に所属して「天災は忘れた頃にやってくる」の金言を残した地球物理学から「金平糖の角の研究」や「ひび割れの研究」などの統計力学的な身辺の物理学的現象の研究が「寺田物理学」と呼ばれるようになった一流の科学者だった一方で夏目漱石さんの俳句の門弟として「吾輩は猫である」の水島寒月(猫の飼い主の教え子で戸惑いしたヘチマのような顔の理学士)や「三四郎」の野々宮宗八(小川三四郎の九州の同郷の先輩で理科大学で光線力学の研究をしている)のモデルになり、晩年には世情を科学的に分析した秀逸な随筆を発表した寺田寅彦さんの命日です。活躍の割に短命な57歳でした。
寺田さんは明治11(1878)年に東京で土佐藩の足軽の姉の下の長男として生まれました。この年の干支が寅で、誕生日も寅の日だったことが名前の由来だそうです。父親は18歳の時に高知城下で上士と郷士が全面対決寸前の一触即発にまで至った井口村刀傷事件で上士を背後から斬殺して自栽・切腹した兄を介錯したため(時代小説では坂本竜馬が介錯して刀の下緒を血で染めた名場面になっている)一時的に精神を病んで戊辰戦争には参加せず、学問で身を立てるべく土佐で勉学に励んだ人物でした。その影響で寺田さんは当時主流だった軍人ではなく科学者への道を選択したと言われています。
3歳の時、父親が38歳で死んだため祖母、母親、姉と高知の東久万に移住し、高知県尋常中学校に入学しました。そして明治29(1996)年に熊本の第5高等学校に進学すると英語を夏目金之助=漱石教授、物理学を大正から東京帝国大学の航空機研究を主導することになる田丸卓郎教授に学び、多大な影響を受けたことで両足に科学と文学の二足の草鞋を履くことになりました。ちなみに明治31(1898)年には夏目教授を主催者とする俳句雑誌を刊行しています。また在学中に土佐出身の軍人の娘と結婚しました。
明治32(1899)年に東京帝国大学の理科大学に進学し、在学中の明治35(1902)年に妻が病没しましたが、明治36(1903)年に首席で卒業すると母校の講師になりました。明治38(1905)年には再婚し、博士号課程で日本の物理学の両巨頭・長岡半太郎博士や田中館愛橘博士の教えを受け、明治41(1909)年には「尺八の音響学研究」で博士号を取得し、翌年1月に助教授になりました。
その3カ月後から地球物理学研究のためドイツに留学して明治44(1912)年に帰国すると水産講習所から海洋学の研究を嘱託され、大正5(1916)年には母校の教授に就任しますが、翌年に2度目の妻が病没しました。それでもその翌年には再々婚しています。2度の妻の病没を見ると慶事の後に哀しみが訪れる巡り合わせのようで寺田さんなら「天災は・・・」のような金言が作れそうです。
その後は大正13(1924)年から理化学研究所員を兼務し、昭和3(1928)年には帝国学士院の会員になっていますが、昭和10(1935)年に転移性腫瘍を発症して大晦日に亡くなりましたから昭和12(1937)年の第1回文化勲章には間に合いませんでした。ただし、第1回の受章者は各分野の最高権威だったので多分無理でしょう。
  1. 2022/12/30(金) 14:25:38|
  2. 日記(暦)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

続・振り向けばイエスタディ353

「ノース(北部航空方面隊)はベアをキル(撃墜)したのか」「ベアだけじゃない。エスコート・ファイター(護衛戦闘機)もキルした」航空総隊指揮所が第3高射群の3尉の独断でECM型ツボレフ95ベアを撃墜し、代わってレーダー・サイトを攻撃してきた戦闘機を迎撃したことの弁明を話し合っていた時、同じ事態に対処しているセンターSOC(中部航空方面隊指揮所)が確認してきた。各航空方面隊指揮所では広範囲に及ぶ航空戦闘の全体像を把握するため指揮所内のレーダー・コンソールの1台は隣接する空域の画面を受像している。そこで稚内から伸びた長い航跡がオホーツク海上空のR(ロシア)のシンボルの冠した航跡に命中したのを見ていたのだ。センターは当然、オホーツク海からレーダー・サイトに向かっていたRの航跡にも同様の処置が実施された続編も認識しているが先ず確認すべきはECM型ベアからだ。
「それではウチもキルする」「ノースはインターセプター(迎撃機)が間に合わない緊急措置だったんだ。センターは日本海上だからスクランブルで対応できるだろう」「ノースの決定はノースが下したんだな。オーバー(終わり)」センターSOCの運用幕僚は総隊指揮所の運用幕僚の作戦指導を無視して通話を切った。入間基地のセンターは横田基地の総隊司令部と距離が近いだけに何度か酒を飲んだこともあるが、防衛大学校の1期違いの兵器管制幹部のこの3佐は「ファイター(戦闘機)・パイロットの頭にはエレメント(2機編隊)の空中戦までしかない。戦術を思考できるのは状況を客観視しているウェッポン・コントローラー(兵器管制幹部)の方だ」が持論だった。この態度では空中戦までしかない戦闘機パイロットの自分には思いつかない「戦術」を講じるはずだ。総隊指揮所の運用幕僚が防衛部長に今の対話を報告すると司令官と幕僚長の席に歩み寄って小声で話し合ったが特に指示はなかった。
「センチュリー、ディス・イズ・ゴールデン420、ジュディ・ターゲット」「ラージャ」センチュリーでは入間基地を発進したRCー2電子情報収集機と佐渡島付近で合流した小松基地・第6航空団の護衛戦闘機6機の編隊長がロシア軍の目標をレーダーで捕捉したことを報告していた。シベリアから発進して東に向かい東北地方に接近しているECM型ツボレフ95ベアと護衛戦闘機4機はオホーツク海の編隊が地対空ミサイルで全滅させられたことは通報されているはずだが行動に変化はない。
「もっと接近させてタリー(目標視認)しろ」「ラージャ」ここでセンターSOCの運用幕僚がセンチュリーのゴールデン420を管制している兵器指令官に指示を与えた。通常の対領空侵犯措置ではアンノウン(国籍不明機)に最接近してパイロットが肉眼で確認するのが基本動作だが準・戦時の現在は敵の空対空ミサイルを警戒して接近は回避可能な距離に留めるようになっている。しかし、兵器指令官は声の主の運用幕僚が兵器管制幹部であることを察したので高度な戦術判断を期待して黙って従った。この運用幕僚は夜勤の時には階下の防空管制隊の待機室に顔を出してWAFが淹れたコーヒーを飲みながら若手の兵器管制幹部たちと談笑しているので「是非、次のウチの防空管制隊長に」と期待されるほど尊敬されている。
「距離100マイル(160・934キロ)、ノー・タリホー(視認できない)・・・ターゲットがセパレート(分離)した」「ラージャ」「ダクト(空中戦)しろ、AAM(空対空ミサイル)使用許可」「ラージャ、ゴールデン420、ダクト・スタート、ユース・AAM・OK」「ラージャ、キル・ターゲット」センターSOCの運用幕僚はヘッド・セットを装着して兵器指令官に指示を与えているのでパイロットには直接伝わり、復唱ではない返事をした。
「後尾の2機はRCー2を離れるな。4機は1対1で交戦する。先手必勝でロック・オンでき次第、AAMを発射しろ」空中戦が始まると会話は日本語になる。編隊長は航空自衛隊の演習では許可されない先制攻撃を命ずることに緊張と同時に開放感を覚えていた。
「フォーメンション・リーダー(編隊長)にスペシャル・オーダー(特別命令)、キル・ベア(ベアを撃墜せよ)・ユース・AAM(空対空ミサイルで)」「なるほど・・・誤射ですな」運用幕僚の直接の指示に編隊長は意図を察した。つまり空中戦で発射した空対空ミサイルが誤ってツボレフ95ベアに命中して撃墜したことにするのだ。
「可能であればタリフォーして機種を確認しろ」「ラージャ・・・見るまでもなく旧式爆撃機です」機種が爆撃機であれば対領空侵犯措置の警察権でも日本への攻撃を阻止するための緊急避難が成立する。機体の使用目的が武力行使ではないECM型では緊急避難の適用は難しいが、撃墜してしまえば内部構造は識別できない。ツボレフ95ベアであれば実際は他の使用目的への改造型が大半でも爆撃機と断定しても問題はない。
「ビンゴ(撃墜した)」「ビンゴ」「ビンゴ、キル・オール・ターゲット」ロシア軍は航空自衛隊が先制攻撃してくるとは思っていなかったようでAAMを射ち遅れて一瞬のうちに全滅した。
  1. 2022/12/30(金) 14:22:25|
  2. 夜の連続小説9
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

今度の海上自衛隊の情報漏洩は果たして罪なのか?

海上自衛隊の自衛艦隊直轄部隊の情報業務群司令だったⅠ等海佐が特定秘密保護法と守秘義務を定めた自衛隊法違反の容疑で横浜地方検察庁に書類送検されました。
これまでも警視庁公安部は昭和55(1980)年の調査学校副校長だった宮永幸久元陸将補が在日ソビエト連邦大使館の駐在武官に自衛隊が持っている共産党中国に関する情報を渡したとされる事件以降、自衛隊の情報漏洩を摘発し、マスコミは「スパイ事件」として報道してきましたが今回の事件は全く趣(おもむき)が違うようです。
軍の諜報機関では「ミリタリー・トゥ・ミリタリー」と言う世界共通の不文律によって接触する相手も軍人(日本では自衛官)でなければならず互いが持っている情報の交換が基本です。そのため自衛官が外国の軍人に情報を漏洩した事件もこの情報交換だった可能性があります。ところが日本の国内法では諜報活動は非合法であり、そのため任務に従事する自衛官は公式の人事では退職しているので秘密情報を保有していること自体が「部外者」への情報漏洩に当たり公安警察の摘発対象になってしまうのです。実際、自衛隊の諜報活動は敗戦後も現地に留まっていた陸軍中野学校出身者から引き継ぐ形で海外ではかなり活躍していても日本国内では日蔭者として人目を避けて暮らさなければなりません。
一方、今回の情報漏洩は軍事評論家としてマスコミにも登場している自衛官隊司令官だった元海将が講演のために必要な資料の提供と疑問点の回答を元部下に当たる現役の海上自衛隊の首脳陣に寄せたため情報に精通している1佐に処置を指示したのです。ところがそれを受け取った元海将の講演に特定秘密に指定されている情報が含まれていることを何者かが告発したため事件になったようです。しかし、自衛隊の防衛秘密は添付資料を個別に指定している一部を除けば文書全体を一括して指定することが多く、日常の業務で無意識に口にしている事項が秘密文書からの引用であることは珍しくありません。特に野僧の場合、士官としての職種が兵器管制だったため対領空侵犯措置や航空作戦を学ぶ必要が生じ、オペレーションでの夜勤中に「秘」文書をノートに筆写して丸暗記しましたからうっかりキーが滑れば(パソコンなので口や筆ではない)、防衛秘密の内容を記している可能性はあります。その一方で野僧がブログで紹介することがある航空作戦は正式な文書は防衛秘密の「秘」に当たりますが、航空教育隊の新隊員用の普通文書の教程にそのまま引用されていてブログではこちらを採用していることにしています。
おそらくこの元情報業務群司令の1佐も日常的に防衛秘密に触れ過ぎていて何が特定秘密で何が防衛秘密の機密・極秘・秘なのかの識別できなくなり、特定秘密も例えば情報収集衛星の撮影画像はカメラの性能を秘匿するため漏れなく指定されるそうなので、日本周辺の軍事情勢の資料として元海将に渡してしまったのかも知れません。兎に角、記者会見した海上幕僚長が「どれが指定秘密なのか判らない」と答えているくらいですから元々が秘密保全には厳格だった自衛隊に上乗せした制度に無理があるのでしょう。
過去の実例から見て諜報要員の大半は問題が発覚する前に変死しているのでこの1佐は多分巻き添えで懲戒免職になって退職金がもらえないことに同情してしまいます。
  1. 2022/12/29(木) 15:38:18|
  2. 時事阿呆談
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

続・振り向けばイエスタディ352

「オホーツクのベアの護衛戦闘機が進路を変更しました。トップ(先端・稚内のコールサイン=仮称)とエクスト(番外・網走の同前)、ナッシング(何もない・襟裳の同前)に向かいます。1機はサハリンにリターン(帰投)」北部航空方面隊指揮所が航空総隊指揮所と稚内の高射隊によるロシア軍機の撃墜について協議している時、ディッパーは新たな事態を探知した。
「CAP(コンバット・エア・パトロール=戦術空中哨戒)中のフォックス6機に迎撃させろ。千歳、三沢、ホットスクランブル」先任指令官が矢継ぎ早に指示している声を聞いたノースSOCの司令官以下の首脳陣はスクリーンの航跡映像を注視した。入間から飛来するRCー2を護衛するために上空待機させていた第2航空団の6機のFー15は東北地方上空を南下しているので反転させても間に合いそうもない。そのため千歳と三沢に緊急発進を命じたのだ。
「ノーザン・エリア(北部航空方面隊空域)にアップルジャック(空襲警報の最高段階=赤)を発令、各サイトは基地防空を開始しろ」「稚内の3航空群に撃墜を命じましょう」「よし、殺らせろ」ECSで勤務中の3尉の独断によるロシア軍機撃墜と言う想定外の事態に運用幕僚の高射幹部はECMを未然に塞いだ戦功を誇示することもできず、総隊司令部の叱責に近い確認に平伏低頭しながら説明してる防衛部長を黙って見ていたが、SOCに焦りの空気が満ちて来たのを察知して意見具申した。すると北部航空方面隊司令官は即座に許可した。
「3高群、こちら北空指揮所、オホーツク海上空のロシア軍機4機を撃墜しろ。発射は自由射撃とする」「了解、網走方向の1機は射程距離ギリギリなので結果は不明ですが、4発を発射します」高射幹部が専用電話で北海道立宗谷ふるさと公園に展開している第3高射群指揮所運用隊のECSに連絡すると運用小隊長の1尉が応対した。昔堅気の1尉は配属直後の導入教育で会った永坂3尉が武勲を上げたことへの感激を腹の中で増幅させていたので、この命令には感謝感激だった。1尉は電話を保留すると顔を引き締めて先ほどから捕捉・追尾している航跡に目標番号を付与して4個高射隊に発射を指令した。
4機の起点になるオホーツク海の上空から稚内はこちらに向かってくるので空対地ミサイルとの射程距離の勝負だが、太平洋岸の襟裳岬を攻撃しようとすれば網走との中間にある紋別から北海道を縦断しなければならない。それでも稚内から網走の直線距離258キロに比べれば迎撃は容易だ。問題は送り狼になる樺太だが、稚内から島の南端までは43キロでも発進した基地は中央付近なので500キロ以上あり、射程外に出るまでに撃墜しなければならない。その戦術判断が現場の若い高射幹部たちに下せるのか。1尉自身も長年にわたりASPを実戦とする高射群で勤務してきたので逃げ回る標的機を追尾して撃墜するゲームには熟練していてもレーダー上に射程距離の円を描いて航跡がそこを通過する間に発射し、管制誘導して命中させる複雑な実戦は経験していない。その大役は稚内分屯基地の高射隊の永坂3尉と交代した2尉に託すことにした。それは技量ではなく現在上番中の射撃係幹部の先任順で決めた。
「今度は命令ですね」案の定、稚内分屯基地の2尉は無用な念を押したが、気分は理解できないことはない。次の瞬間、稚内市の4隅の展開地のLS(発射機)から炎を噴いたPAC3が突き上がり、白煙で大空に線を引いて消えていった。指揮所運用隊から連絡を受けた第3高射群司令や各高射隊長は指揮車両から下りて4発のPAC3が発射される光景を見ていたが双眼鏡でも上空での戦果は確認することはできなかった。
「ロシアン1機は国後にランディング(着陸)しました」第3高射群の防空戦闘は樺太に帰る1機はオホーツク海を迂回して射程距離内を通らずに失敗、網走も海面を超低空で飛行してきたため高射隊のレーダーでは追尾できずに失敗したが、遠軽駐屯地に展開している陸上自衛隊の第1高射特科群の改良ホークのレーダーが捕捉したことでロシア軍パイロットが動揺し、空対地ミサイルを発射することなく国後島に逃げた。
昭和62年12月9日に航空自衛隊が初の警告射撃を実施したソ連軍機による沖縄の領土(那覇基地や普天間基地、嘉手納基地の上空を含む)侵犯事件でも真上を通過されたため航空自衛隊のレーダーは航跡を喪失し、緊急発進して随伴しているFー4EJ戦闘機のSIF信号で位置を推定していたが、連絡を受けて迎撃準備を整えていた陸上自衛隊勝連駐屯地の第6高射特科群第324高射中隊のホークのレーダーだけは追尾していた。しかし、当時は演習以外のホーク部隊と航空自衛隊警戒管制部隊の情報の接続はなかったため事件後の検証資料として提供を受けることになった。陸上自衛隊恐るべし。
「ロシア軍がレーダー潰しに出たと言うことは本格侵攻が近いことになるな」折り合えずの緊急事態は第3高射群の活躍と陸上自衛隊第1高射特科群の助力で切り抜けたが航空総隊司令部と北部航空方面隊司令部ではこのロシア軍の動きを開戦の前奏と受け止めていた。
  1. 2022/12/29(木) 15:36:28|
  2. 夜の連続小説9
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

12月29日・極めて山口県的な海軍軍人・末次信正大将の命日

敗戦が9カ月後に迫る昭和19(1944)年の12月29日は日本を78年間で滅ぼした毛利藩=山口県の凶風を海軍で体現した末次信正大将の命日です。64歳でした。
末次大将は明治13(1880)年に陸軍の児玉源太郎大将と同じく毛利領徳山支藩で藩士の次男として生まれました。旧制・広島第1中学校から海軍兵学校に27期生として入営しますが、海軍では昇任などの人事に大きく影響するハンモック・ナンバー=卒業序列は114名中50番と平凡なものでした。沖縄出身の提督・漢那憲和少将と同期でした。
ところが卒業から5年後に日露戦争が始まり、終戦3年後に海軍大学校に入校すると首席で卒業して海軍兵学校での不利を挽回しました。この悪あがきは山口県人の得意技です。
卒業後は海軍砲術学校の教官になりましたが、「艦の中心線上に回旋式の主砲を配置して横方向に一斉射撃する」と言う個人的見解を上司に無断で学生に教育するとイギリス海軍が同じ発想の戦艦を建造したため先見性を評価されることになりました。これも山口県的「結果オーライ」です。
そのおかげなのか第1次世界大戦が始まった大正3(1914)年に渡英するとイギリス海軍の戦艦と巡洋艦に乗り込んで1916年5月31日から6月1日に行われた第1次世界大戦では唯一の主力艦隊同士の対決になったユトランド海戦も視察しました。この時、戦艦の変容と潜水艦の活用に関心を抱き、後に帝国海軍の対米戦略となるパナマ運河とハワイの閉塞、潜水艦による海上輸送路の破壊、西太平洋での潜水艦と小型艦艇による哨戒網の構築、日本近海に引きつけての艦隊決戦などの漸減戦略を構想するようになりました。
第1次世界大戦が終結して帰国すると大正8(1919)年に軍令部の作戦を担当する第1課長になり、大正11(1922)年のワシントン海軍軍縮会議に次席随員として同行し、加藤寛治首席随員と共に全権の加藤友三郎海軍大臣の締結方針を徹底的に妨害しましたが、この辺りも倒幕派と佐幕派に分かれて殺し合った毛利藩の幕末史そのままです。
そして結果が出ても服従しないところが山口県人で帰国後は軍令部第1班長(課長の上の作戦部長に相当する)に異例の大佐で就任すると国際条約として批准するための手続きを妨害し、海軍内でも東郷平八郎元帥や皇族の伏見宮博恭元帥を担ぎ出して昭和に入って陸軍が皇道派と統制派に分裂したのを先取りするように艦隊派と条約派の対立(と言うよりも艦隊派が一方的に攻撃していた)を生起させたのです。この対立は民間にも長く波及していて昭和19(1944)年の東宝映画「怒りの海」は艦艇設計の神さま・平賀譲中将を主人公にしながら海軍軍縮条約を日本の敗因として批判しています。
大正12(1923)年には少将として第1潜水艦隊司令官になり、実際に潜水艦に乗り組んで自らの戦術構想を実地に検証すると同時に改良を指示して帝国海軍の潜水艦の性能と技量、運用方法を飛躍的に向上させました。末次大将の軍歴ではこの第1潜水艦隊司令官時代が最も高く評価されています。
昭和12(1937)年の予備役編入後は山口県人らしく政界に進出しますが陸軍軍人の政治権力者から危険視され、昭和の陛下の信任もなかったため首相にはなれませんでした。
  1. 2022/12/28(水) 14:34:22|
  2. 日記(暦)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

続・振り向けばイエスタディ351

「本当に発射したのか」稚内分屯基地からPAC3が発射され、オホーツク海上空を飛行していたツボレフ95ベアを撃墜するとECSには各高射隊の展開地の中央になる北海道立宗谷ふれあい公園に展開している第3高射群指揮所運用隊から緊急連絡が入った。指揮所運用隊にはノースSOC=北部航空方面隊指揮所から事実確認と調査指令が入っていた。この高射隊では隊長以下の指揮所長を兼務する総括班長と各小隊長は防音性に優れる隊本部車のコンテナの中、射撃小隊と整備小隊の隊員は待機車で、屋外で時ならぬミサイルの発射を目の当たりにしたのは単独配置で展開地への接近経路と外柵側を警備している歩哨2名だけだった。当然、この歩哨が隊本部に連絡したので交代の幹部と空曹2名が待機車からECSに向かっている。
「このベアはECM機と言うことなので自衛措置として撃墜しました」「その声は永坂だな。指揮系統の命令を受けずにミサイルを発射した上、領空外の外国軍機を撃墜するとは・・・これは一種のクーデターだぞ。隊長は知っているのか」「隊長は隊本部車です。これはあくまでも自分の独断で、発射スイッチを押したのも自分です。ECSの空曹2名が誘導したのも私の命令です」永坂と呼ばれた3尉は指揮所運用隊の1尉に全責任を負う覚悟を示した。日支事変でも紛争拡大を狙う現地部隊の将校が日中の接触地帯に斥候に出て、両軍の陣地に向けて発砲することで戦闘を発生させる策謀が横行した。この3尉が防衛出動の発令を引き出すためにロシア軍機を撃墜したとすれば策としてはそれなりに高度だ。
「確かにECMを受ければEP(電子戦防護)で対処しても探知能力は落ちる。それに乗じて攻撃を受ければ稚内は真っ先に殺られる。お前が言う自衛措置も理解できないことはない。特にお前たちは敵のミサイルで破壊されたレーダーサイトを見ながら勤務しているんだからな」部内出身で教育隊の中隊長を経験しているベテランの1尉は3尉の弁明を「今時の若手幹部には珍しい気骨ある武人」と勝手に感激しながら受け止めた。その時、ECSのドアが開いて射撃小隊の2尉と空曹2人が入ってきた。
「永坂、隊長が呼んでいる。隊本部車へ行け」「鈴木1曹と伊藤2曹もです」「幹部の引き継ぎは省略する。管制係は撃墜した位置だけを申し送れ」2尉は3尉が譲った幹部席に腰を下ろすと3人を追い出すように指示を与えた。
「誰に断って発射した」梯子を登ってトラックの荷台に載せてある隊本部のコンテナに入ると高射隊長は壁際の長椅子から立ち上がって待っていた。開口一番は自分の管理者としての職責を侵害したことへの叱責からだった。3尉は姿勢を正したまま目を直視して答えた。
「自分の独断です」「お前は1発5億円のPAC3を勝手に使ったんだぞ。弁償できるのか」続いて指揮所長の1尉が嫌味を口にした。高射隊では後方職種=輸送幹部の管理小隊長が補給業務を担当しているが予算は総括班長の仕事だ。それだけに嫌味も予算に絡めている。
「発射に際しては周辺の隊員の退避を確認するのが手順のはずだ。今回はそれを怠っただろう」「どうもすみません」技術屋の整備小隊長の非難はやはり理屈っぽい。この人物が苦手な3尉は素直に謝罪した。航空機部隊では使用者のパイロットが生命を賭けて飛んでいるため整備員は聖職者に奉仕するような気分で仕事に万全を期す。一方、高射部隊では故障自体が点検で判明する不具合に過ぎないので緊張感はないに等しく、発射小隊は「有事に発射できなかったらどうするんだ」と整備小隊を批判し、整備小隊は「間違った使い方をして壊したに違いない」と射撃小隊への不信感を露わにする。元は発射要員の3尉が苦手なのは至極当然だった。
「お前の6高群の彼女は根室の事件で死んでしまったんだよな」「はい・・・」門外漢の管理小隊長は発言しそうもないので直属上司の射撃小隊長が口を開いた。
3尉は奈良の幹部候補生学校で大学を卒業して入隊した一般(部外)課程のWAFの同期から高射部隊について質問されて熱弁を奮った結果、高射幹部にしてしまった。同時に交際が始まり、日帰りで十分な京都や大阪に一泊で出かけて深く愛し合うようになって一緒に浜松基地の第1術科学校(2020年に統合された)の高射課程に入校した。部隊配置ではWAFが八雲分屯基地の第6高射群、3尉は千歳基地の第3高射群と隣り同士になり、交際は順調に進んでいた。その愛するWAFがPAC3の地上での爆発によって無残に戦死してしまった。第6高射群が全滅した現場には知床の環境団体に同行していた記者たちが早々に駆けつけ、収容が始まる前の遺骸を撮影したがWAFはECSの幹部席に座ったまま蒸し焼きになっていた。そのような悲惨な画像は新聞やテレビには使用できないが何者かがインターネットに投稿したため悲報を聞いた3尉もスマートホンを検索して焼けて唇が縮み、前歯が剥き出しになった死に顔を見てしまった。射撃小隊長は慟哭の淵に沈んでいた3尉が復讐心を燃え立たせるようになったのを見て日本人工作員への報復を危惧していたがこの事態までは想像していなかった。
  1. 2022/12/28(水) 14:27:48|
  2. 夜の連続小説9
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

12月28日・平重衡の南都焼き討ち。

治承4(1181)年の明日12月28日に日本史上、信長さんの比叡山焼き討ち、秀吉さんの根来寺焼き討ち、明治の廃佛毀釋と並ぶ大凶悪事(松永久秀さんの2度目はキリシタンの雑兵の仕業なので除外)・平重衡さんによる南都焼き討ちが起こりました。
奈良佛教と平家の対立は平治元(1160)年の平治の乱で勝利した平清盛さんが大和国を与えられると奈良の寺院が朝廷から受けていた特権を無視して統治を進めたことが発端でした。中でも聖武天皇が国家鎮護の発願で建立した東大寺と春日大社と並ぶ藤原家の菩提寺・興福寺は皇室と摂関家の権威を背景にして公然と反抗しただけでなく強力な武力で抵抗したのです。現代の日本人は「僧兵」と言えば武蔵坊弁慶さんを出した比叡山延暦寺の専売特許だと思っていますが平安時代には他の大寺院でも伽藍・寺領の自衛組織として僧侶に武装させた「僧兵」を置いていました。ただし、鑑真和上が伝えた奈良佛教の正当な佛戒では僧侶が武器を持つことは許されませんが比叡山の大乗菩薩戒にはありません。
ところが清盛さんが大軍を率いて福原から上洛した「治承三(1179)年の政変」で後白河法皇と関白が権力を失うと奈良=南都側の危機感が高まり、治承4(1180)年の以仁王の乱に呼応して園城寺と共に反平家側に加わったのです。しかし、以仁王の挙兵が呆気なく失敗すると園城寺には朝廷の法会への参加停止、寺領没収、僧侶を統括する僧綱の罷免などの厳しい処分を下したのに対し興福寺は親平家派の別当が選ばれ、寺内でも協調派が台頭したため軽い処分で済みました。
それでも以仁王の令旨を受けて源氏が挙兵すると再び園城寺と共に挙兵したため重衡くんが12月11日に園城寺を焼き討ちにしたのです。同時に清盛さんは妹尾兼康さんに500人の兵を与えて奈良に派遣しますが、前述の協調派の存在を念頭に武力衝突を控えさせたため僧兵に壊滅させられ、猿沢の池の畔に60人の首が晒されました。これを受けて清盛さんは園城寺から帰った重衡さんに出陣を命じ、奈良へ向かわせたのです。
奈良へは北と東から侵攻しましたが、南都側は東大寺の裏手の般若坂と平城山の奈良坂に柵を設けたためその攻防・争奪の激戦が始まりました。そんな激戦の最中、般若坂の頂上付近にある般若寺に本陣を置いた重衡さんが兵に暖を取らせるために始めさせた焚火の炎が折からの強い北風で燃え広がり、北は火元の般若寺から南はかなり離れた新薬師寺まで、東は東大寺と興福寺の東端から西は法華寺付近(航空自衛隊幹部候補生学校の所在地)に及び東大寺では離れた高台にある法華堂(=三月堂)や二月堂、境内が広い正倉院を除く大佛殿ほかの主要な堂宇が、興福寺も中金堂、東金堂、西金堂に五重塔、講堂など38棟の堂宇・伽藍だけでなく大佛や多くの佛像、菩薩像、諸天像、膨大な経典、宝物の大半が灰燼に帰しました。また寺院には多くの庶民が兵火を避けて逃げ込んでいて3500人余が焼死したと「平家物語」にはあります(「吾妻鏡」では100人余)。
この大凶悪事の佛罰は即座に下り、年が明けた1月14日に清盛さんの娘を皇后にしていた高倉上皇が崩御し、間もなく清盛さんも高熱に倒れ、閏2月4日に死亡すると平家は一気に凋落して4年後の元暦2(1185)年3月24日に壇ノ浦で滅亡しました。
  1. 2022/12/27(火) 14:27:03|
  2. 日記(暦)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

続・振り向けばイエスタディ350

「この間の爆撃機も海自が撃墜したらしいな」「バックファイヤー10機を一瞬にして全滅させたって聞いたぞ」第3高射群は根室地区での第6高射群の全滅と稚内地区でも日本人工作員が展開地を攻撃しようとしていたことが判明したため1個高射隊を稚内分屯基地内に、3個高射隊を警備が容易な郊外の開闊地に移動させている。
稚内分屯基地内に移動した高射隊の隊員たちは無事だった基地食堂での喫食の途中で地対地ミサイルによって破壊されたレドームと階下のオペレーションの残骸の前を通ることになり、先日は収容された隊員の遺骸を見てしまった。そのため地対地ミサイルの着弾を傍観者として閃光と爆発音で知ったことには歯噛みするほどの自責の念を抱いている。そのためECS(射撃管制装置内)の空気も重苦しくなっていた。
「その前のSS20もイージス護衛艦だったじゃあないか。本当に俺たちは弾道ミサイルを撃破できるのか」「湾岸の時の映像もアメリカが『スカッドなど恐るるに足らない』って宣伝するために作ったフィクションなんだろう。ペトリ(ペトリオット・ミサイル)を発射して上空で爆発してもスカッドの噴射炎は見えないし、自爆させればあんな映像は簡単に作れるよ」「判ってる癖に俺に言わせないで下さいよ」ECSには発射・管制係の空曹2名と発射の可否を戦術判断することになっている幹部1名が配置されているが、部内出身の3尉にとって2人の空曹は高射職種では先輩に当たる。3尉が担当する戦術判断は日頃の訓練ではASP(年次射撃)の単独の無人標的を撃墜することを前提にしているため多数の攻撃目標の中での選定や残弾数などを勘案することはなく、レーダーが捕捉すれば「射て」と許可を与えるだけだ。つまり空曹から見れば発射スイッチの前に押す人間ボタンのような存在に過ぎず、邪魔で無用な存在なのだ。実際、同様にPAC3を運用しているアメリカ陸軍では下士官2名のみだ。
「北警団(北部航空警戒管制団)から情報です。サハリンから発進したロシア機がオホーツク海上を東南東に向かっています」ここで管制係の空曹が一応は接続している三沢のディッパー(北部防空指令所)からの情報を3尉に報告した。
「東南東って言うことは北方領土に行く輸送機かな」「機種はベアらしい。爆撃機だ」「ウチのレーダーで捕捉できるかな」空曹たちは3尉を無視して興味本位な議論を始めた。稚内には千歳基地から第1移動警戒隊が展開してきたが、空曹が言うレーダーはあくまでも高射部隊のRS(レーダー装置)だ。航空自衛隊では高射部隊も警戒管制組織に組み込んで戦闘機による防空戦闘を補完させているが、海外では陸軍が地域防空に運用することが一般的でレーダーも独自に敵機を探知・管制する能力を持っている。特に航空自衛隊ではペトリオット時代はパッシブ式(反射数値による測定)だったアンテナをPAC2への換装に合わせてアクティブ式(電磁波の位相差による測定)に更新している。
「おっと見つけた。こいつだな」「護衛戦闘機が4機、くっついているらしい」「うん、いるいる。4機で取り囲んでいるぞ」空曹2人はレーダー画面でロシア軍機の航跡を確認すると交互に覗き込んで雑談を続けた。無視されている3尉は席から立って2人の肩越しに航跡を見た。
「何だって・・・こいつはECM用のベアで稚内と網走、襟裳に目潰しするつもりらしい」「やばいじゃん」ディッパーからの続報を聞いた空曹は身を乗り出してレーダーを覗き込んだ。根室には入間基地から第2移動警戒隊が展開する予定だが、青函フェリーで函館に渡っていても北海道内では日本人工作員が出没しているためまだ到着していない。
「よし、撃墜しよう」唐突に3尉が強い口調で言い切った。空曹2人は予想もしなかった台詞に耳を疑いながら顔を見合わせた。この3尉は空曹時代、かつてのナイキJでは「発射」と「管制」「整備」の3つに分類されていた職種のうち野外でLS(発射機)を設置し、ケーブルを持って車両の間を駆けずり回って発射準備する発射要員だった。ペトリオット以降、「発射」と「管制」は高射職種に統合されたが両者の間には相容れない近親憎悪のような感情があり、3尉がECSで勤務することも発射小隊の「管制」の空曹たちは「肉体労働者に何が判る」と陰で冷笑していた。その3尉が豹変した。
「しかし、破壊措置命令は出ていません」「我々は自由発射を命じられているんだ」「それは防出(防衛出動)が発令されてからでしょう」「そんなことを言っているから海上に先を越されるんだ。今の発射権限は俺にある。命令に従え」高射隊は即応体制を維持するためPAC3を発射可能な状態にしている。発射すれば周囲は噴射炎で危険なため人員による最終作業は不要だ。発射スイッチを押してレーダー上の航跡に向けてゲームのように誘導すればVT信管が作動する。確かに管制係の空曹は訓練通りに操作して目標を撃墜した。空曹を押しのけて自ら発射スイッチを押した3尉は「根室で死んだ同期の仇討ち」と言う本心は明かさなかった。
  1. 2022/12/27(火) 14:24:54|
  2. 夜の連続小説9
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

3匹目の黒猫=世果報(ゆがふ)がやって来た。

暖冬が一転して極寒になる前日の12月9日に小庵としては3匹目の黒猫がやってきて沖縄の守護尊「弥勒世果報(みるくゆがふ)」から「世果報(ゆがふ)」と名づけました。
小庵では野僧が主治医の診療所に受診した時、掲示板に「黒猫いりませんか」と言う貼り紙があり、やってきたのが亡き妻の魂が宿っていたかのように賢く優しく麗しかった黒猫の音子(ねこ)でした。当然、音子は深窓の令嬢のように育てたのですが、生まれた家が田畑のド真ん中だったため子猫の頃から広い土地を全力疾走し、庭木を身軽に登って育ったので発情期がくると雨戸の戸袋の僅かな隙間から脱走してイケメンのキジ虎の雄猫と結ばれてしまいキジ虎の一匹娘・若緒(にゃお)を生みました。
若緒は美雄美雌の両親の娘だけあってモデル猫にしたいほど美猫でしたが屋外飼いにするため避妊手術を受けさせていたので野良の雌猫の発情期で集ってきた野良の雄猫に性別不明で敵視されてしまい、追い回されて車道に飛び出して車に跳ねられて死んでしまいました。一卵性親子のようだった音子の哀しみは並みの人間以上に深く、その姿は見ていて野僧も妻を失った時の哀しみが甦り、1人と1匹で慟哭の淵に沈んでいました。
そんな時、下関市内で個人として野良猫の保護活動をしている女性から唐突に「子猫をもらって欲しい」と言う連絡が入り、否応もなしに捨てられていったのがキジ虎の寿来(じゅらい)でした。この名前は捨てられてきたのが7月と言うこともありますが、若緒の猫生が還ってくるように、そして若緒の分まで長生きするようにと言う願いを込めました。ところが寿来は保護されている多くの子猫の中で苛められていたらしく成猫の音子に飛びかかって両者の仲は険悪になってしまい、やがて音子の堪忍袋の緒が切れて寿来を追い出そうとしたのです。そこで野僧が寿来の身の上を懇々と語り聞かせ、母親として躾けて欲しいと懇願すると音子は理解したようで、庵内では自分の居場所を決めて過ごし、寿来が立ち入った時だけ叱責して適度の距離感を保ち、次第にその距離を縮めて家族になりました。ところがそんな時、若緒を追い回して殺した野良の雄猫が姿を現すようになって音子は後をつけようとしたのか車道で交通事故死してしまいました。
母親代わりを失った寿来の悲しみも埋葬している野僧の腕に飛びかかるほど激しく、それからは物憂げに1匹暮らしをしていましたが、隣りの屋敷に棲みついていた黒猫の子猫が寿来を迎えに来て一緒に出かけるようになって、そこで捕まえたのが黒猫の伽羅(きゃら)でした。ところが伽羅は寿来や野僧と同居人に全くなつかず、寿来と天井裏で激しく喧嘩するようになって姿を消してしまいました。
そして今回、やってきたのが黒猫の世果報(ゆがふ)です。世果報が来たのも寿来と似たような経緯で町内のリゾートホテルの駐車場の庭園にもう1匹の黒猫と棲みついていて(多分、捨てられた)従業員の女子たちが可愛がっていたのですが寮で飼う訳にもいかず引き取り手を探していて「黒猫好き」と思われた同居人に声がかかったのです(もう1匹の黒猫は前日に捕まって別の男性に引き取られた)。ところが今度は寿来が音子のような立場になっていて野僧としては常に頭を悩ましています。
お・世果報・22・12・16
  1. 2022/12/26(月) 15:28:21|
  2. 猫記事
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

続・振り向けばイエスタディ349

「サハリンからロシア機、5機編隊がヘディング120(飛行方位120度)でオホーツク海に向かいます」「日本海ウェスト(西方)にもロシア機、こちらも5機編隊でヘディング090。どちらも速度から見てベア(ツボレフ95)とエスコート・ファイター(護衛の戦闘機)と思われます」日本人工作員の破壊活動によって根室に展開していた第6高射群が全滅し、ロシア軍の地対地ミサイルの攻撃で稚内と根室のレーダーサイトが破壊されて数日後の朝、ディッパー(北部防空指令所のコールサイン=仮称)ではロシア軍の新たな動きに直面していた。
ツボレフ95ベアは朝鮮戦争でも使用された4発ターボフロップ・プロペラの旧式機だが機体としての信頼性が極めて高く、多用途に改造されて元気に現役を続けている。宇宙ロケットのソユーズも同様だがソビエト連邦時代の堅牢を優先する工業技術は決して馬鹿にできない。
「このタイミングで2機が同時に接近するのはECM(電子攻撃)ではないでしょうか」「確かに可能性は高いな」ディッパーの階上のSOC(航空方面隊指揮所)では防衛部運用幕僚の兵器管制幹部が見解を述べた。運用幕僚には戦闘機パイロットや高射幹部もいるがこの客観的な分析は兵器管制幹部でなければできない。
「こちらを目潰しして次の一手を討ってくるのかも知れません」「陸自の北方(北部方面隊)と海自の大湊にレモンジュース(空襲警報の第2段階=黄色)を伝達」「殺られる前に撃墜するしかありません」運用幕僚同士の議論では航空作戦について無知なため蚊帳の外に置かれる高射幹部が珍しく危ない結論を出した。北部航空方面隊では2個高射群のうち第6高射群が全滅したため戦力は半減している。しかも警務隊と警察合同の現場検証で第3高射群が陸上自衛隊によって守られたのに比べて第6高射群が全滅した現場には民間人の私有車と狩猟用のライフル銃が残っていて自隊警備では工作員の破壊テロを阻止できなかったことが判明している。つまり手持無沙汰になった上、面目丸潰れだった。
「撃墜するって何を使うんだ。PAC3では届かないだろう」「海自のイージス護衛艦隊も弾道ミサイル対処の位置に戻っているからシースパローでは無理だぞ」勇ましく大見得を切った高射幹部に防衛大学校の出身期が近い戦闘機パイロットと兵器管制幹部が現実を説明した。
「大体、我々が対領空侵犯措置で警察権を行使できるのは正当防衛と緊急避難、逃走防止だけで武器を搭載していないECM機では違法になってしまう・・・防衛出動が発令されなければ何もできないんだ。各レーダー・サイトにEP(電子戦防護=以前はECCMと言っていた)を発令しろ」さらに戦闘機パイロットの運用課長が議論を締め括った。
石田政権では立野官房長官と双木外務大臣が「防衛出動を発令しなければ日米安全保障条約が発動できない」と即時発令を要求しているのに対して釜田防衛大臣は「ロシアの参戦を理由にすれば敵対行為として核兵器を用いる口実を与える」と反対していて石田首相や多くの閣僚も同調している。反対派を含む日本人の大半が読んだことがない日米安全保障条約では国際連合の介入が及ばない日本の領域への武力攻撃を発動要件にしているため、あくまでも常任理事国としての許容範囲内で武力行使している中国やロシアに対してはアメリカ軍の出動命令が発令できないのだ。仮に発動できるとすれば日本政府が中国とロシアの武力行使を「侵略」と認定して防衛出動を発令し、日本の国会が承認したことを根拠にアメリカの連邦議会にも発動を可決させるしかない。しかし、日本のマスコミは韓国軍の武力行使に中国が介入して以来、この規定を国民に周知し、信用度は皆無に等しい世論調査で「国民の意思」と喧伝しているのだから日本の内側から日米安全保障条約の弱点を突いていることになる。
「RCー2を2機発進させて日本海と北海道へ向かわせろ。エスコート(護衛)に小松と千歳のイーグル(F―15)を6機ずつだ」ディッパーとセンチュリー(中部防空指令所のコールサイン=仮称)が対処療法的に各レーダーサイトの電子戦対策を講じた時、航空総隊指揮所も迅速に動いていた。入間基地の電子作戦群が運用するRCー2電波情報収集機を発進させ、ロシア軍が実施する電子妨害をアカラサマに監視して格好の情報源にしようと言うのだ。
RC―2は2020年に導入された最新鋭電波情報収集機で、以前はYSー11旅客機(=航空自衛隊では輸送機)を改造していたが機材の大型化と機体の老朽化のため国産の大型輸送機Cー2に代替わりさせた。これが間近に迫ればロシア軍としても拙い事態になる。
「奴らはこちらを目潰しして何をやってくる気なのかな」「空襲のやり直し、輸送機を飛ばして空挺部隊の降下、毎度定番のヘリボーン(ヘリコプターによる部隊投入)・・・」「ついでにカモノハシ(ECー1電子線訓練機の愛称)を発進させてサハリンのレーダーを目潰ししてやりますか」航空総隊としても海上自衛隊に手柄を奪われ通しでは沽券に関わるらしい。
  1. 2022/12/26(月) 15:25:24|
  2. 夜の連続小説9
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

マスコミがどの口でほざく!防衛省のネット研究批判

防衛省が人工知能を使って交流サイト=SNSで世論を誘導する工作の研究に着手したことが明らかになりました。具体的にはインターネット上で影響力が強い「インフルエンサー」を無意識のうちに防衛省・自衛隊に有利な情報を発信する方向に誘導して平時の防衛政策への支持を拡大し、有事には交戦国への敵対心を扇動して国民の反戦意識を抑制し、厭戦気分を払拭するネット上のトレンドの創造を目標にしているようです。
そのため先ずAI技術を駆使してSNSにあふれる大量のビッグ・データを収集・分析して工作する対象を絞る全体計画を策定し、次にネット上で影響力が強いインフルエンサーを特定し、さらにインフルエンサーが頻繁に閲覧するSNSやサイトに防衛省・自衛隊側の情報を流して同調させ、無意識に有利な情報を発信させるように誘導してこれによってトレンドの創造に成功すれば爆発的な広がりになるようにSNSで情報操作を繰り返すようですが、防衛省は「企業のコマーシャルと同じ手法で違法性はない」と説明しています(現在のテレビやインターネットのコマーシャルでは視聴者が認識できない瞬間的場面で暗示を与えるサブミナル効果なども常用されている)。
これに対してマスコミは「防衛省が姿を隠して世論誘導を図るのは一般の投稿を装い宣伝するステルスマーケティングの手法であり、研究であっても日本国憲法が保障する13条の個人の尊重や19条の思想・良心の自由に抵触する懸念がある」と珍しく遠回しに批判しました。マスコミが遠回しにせざるを得なかったのは朝日新聞を中心とするマスコミ各社は保守政権を批判する際、投稿欄に読者の批判と肯定の投稿を掲載し、次第に批判の数を増やし、文章の批判の度を強くすることで批判世論が蔓延しているかのような雰囲気を演出し、そこに先ずは天声人語などの連載コラムで感情面に訴え、続いて社説で論理的に糾弾して些細な問題を政治疑惑に発展させる手法を常用しているからでしょう。
また朝日新聞は大正期にスターリン書記長が提唱した世界共産化戦略=第3インターナショナルの日本における政治工作機関に組み込まれて以来、ソビエト連邦の在日スパイのリヒャルト・ゾルゲさんと配下だった尾崎秀実記者が策謀するシベリア出兵のための兵力だった関東軍を南進させ、蒋介石総統の国民党軍との抗争を激化させることでアメリカの介入を招き、全面戦争に突入させて敗北の焦土の中で共産革命を成就すると言う戦略を報道面から推進していますから、あまり追及するとソビエト連邦の復活を企図するプッチン政権のロシアやアジアの共産化を目論む共産党中国が第3インターナショナルの頃から重視し、研究を進めていた人間の心理までも操る情報戦を急速に発展させ、電子科学技術も組み込んでゲームチェンジャー(これまでの考え方や事態の推移を一転させる役割を果たす事実、道具)の兵器化している現状を国民に周知されることを避けたのかも知れません。
中でも共産党中国は国防動員法によってコンピューターの操作や電子工学分野の多くの優秀な人材を人民解放軍に徴兵して新型機種の開発と対外破壊工作の研究・準備、中国国内外のインターネットのサイトやメールの監視などに当たらせているので日本も早急に防衛策を講じる必要があるのです。
  1. 2022/12/25(日) 13:35:24|
  2. 時事阿呆談
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

続・振り向けばイエスタディ348

「モスクワは何を焦っているんだ」シベリアのロシア極東軍管区司令部では想定外に頑強な自衛隊の抵抗に直面して当惑しているところにモスクワから日本本土への侵攻を督促する命令が届き、参謀たちは半ば怒りながら対応を話し合っていた。
「大体、北京は日本人は異常に戦争を恐れるから多目に兵隊を殺せば白旗を上げるって言っていたんだろう」「白旗じゃあなくて赤旗で我が軍を歓迎するって聞いたぞ」やはりモスクワはウクライナ侵攻と時間差で台湾に侵攻する計画だった北京と共同戦線を張る約束をしていたようだ。今回の日本への攻撃はアメリカが強行に台湾防衛を明言したことで北京は目標を旧・琉球王国の領土併合に変更したのだが、それも海上自衛隊によって阻止されたためロシア軍の出陣を要求したのだ。確かに中国は「琉球王国は属国だった」と言う歴史観を沖縄県内に蔓延させて「対馬は韓国領」と言い続けている韓国と共に「侵略ではなく日本に奪われていた領土を取り戻す歴史の修正」と主張している。実はロシアも樺太や千島列島のアイヌたちを利用して「北海道は内地の人間に奪われた」「内地人の領主によって差別・迫害を受けた」「明治政府の同化政策によって民族として抹殺された」と言う歴史観を喧伝し始めていた。
「それで日本人を爆撃機に乗せれば自衛隊は手出しできない。殺せば日本人が許さないって言うから実行したが無駄だった」「軍としては当然の処置だが日本なら有り得ると思ったんだがな」ロシアから見れば日本は日露戦争で多大の損害を受けた強敵だったが、スターリンの世界共産化戦略・第3インターナショナルの標的になってからは教育者やマスコミ関係者が政治工作員になって軍人を含む国民を洗脳し、シベリア出兵のための戦力だった満洲軍を南下させて国民党軍と戦わせることで毛沢東の共産革命を実現させた。しかし、本土決戦によって国土がドイツのような焦土となって国民にアメリカへの憎悪を燃え立たせたところへ解放者として進駐して共産化する最終段階は昭和天皇の聖断で頓挫した。それでも戦後も政治工作員によって親ソ反米意識を植えつけているので精神的には従属国のはずだ。
「モスクワとしてはこの間のショー・ザ・フラッグの失敗の弁解にブーツ・オン・ザ・グランドを北京に見せたいんだろう」この参謀は中々の日本通らしく9・11テロ以降、アメリカが日本に自衛隊の参戦を要求してきた時の謳い文句を英語で引用した。「ショー・ザ・フラッグ」は2代目ブッシュが9・11テロを受けてイスラム教徒の全てをテロリストと断定して「テロと正義の戦い」を宣言した時、日本にも「自衛隊を派遣しなければ敵と看做す」と脅しながら「旗幟を鮮明にせよ」と迫ったものだ。この時、小泉政権は海上自衛隊の補給艦と護衛艦の艦隊をインド洋に派遣して各国の艦艇に給油することで参戦の実績を作ったが陸上自衛隊はアフガニスタンに足を踏み入れなかった。そのため続くイラク侵攻では地上部隊の派遣を要求し、そこで用いたのが「ブーツ・オン・ザ・グランド(靴で地面を踏め)」だった。それでも陸上自衛隊がイラク国内で最も治安状態が良かった南部のサマーワに派遣されたのは中曽根康弘政権以降、アメリカとの連携を強めてきた外務省の功績だ。
「そうなると次は輸送機で空挺部隊を降下させることになるが・・・」「ウクライナの時にキエフ(今はウクライナ語でキ―ウ)を奇襲しようとして失敗したからな」「まだ地上軍はあの時の損害が回復できてないんだよ」2022年2月のウクライナ侵攻の緒戦でロシア軍は空挺部隊をキ―ウ地区に降下させて首都を制圧しようとしたが、予想以上にウクライナ軍の防衛態勢は実戦的で多くの輸送機が撃墜されただけでなく地上に降り立った将兵も包囲されて大半が拘束・撃破された。ロシア軍は予備役の空挺要員も確保しているが、現役復帰させて奇襲部隊に配置するには専門的な訓練を受けさせて練度を上げなければならず、部隊を再編成するまでには至っていない。何よりも現役復帰を志願する若者は皆無に等しいのだ。
「東京を制圧するには戦力不足だから北海道の首都の札幌を狙うんだな」「札幌ならサハリンと国後からヘリでやれるだろう」この地上軍の参謀はヘリコプターの航続距離と地図上の直線距離だけで提言して自衛隊の迎撃は考慮していない。当初の作戦計画では爆撃機によって航空自衛隊の千歳基地と佐度島以北の日本海側のレーダー・サイト、海上自衛隊の大湊地方総監部、陸上自衛隊の北部方面隊総監部と師団司令部を破壊して、間髪入れずに通常の将兵を乗せた輸送機を北海道内の空港に強行着陸させて武器を与えている日本人工作員と協力して地上戦を開始する予定だった。ところが爆撃機が全滅させられただけでなく工作員も治安出動している陸上自衛隊によって次々に摘発されて期待していた自衛隊への破壊活動は進んでいない。
「大統領閣下が命令にサインしている以上、実行するしかない。急いで新たな作戦計画を策定しろ」参謀たちの会話がボヤキから進まないので参謀長は叱責するように指示した。どうやらロシア軍の参謀機能はソビエト連邦軍時代の政治局員の介在の後遺症を脱していないらしい。
  1. 2022/12/25(日) 13:32:00|
  2. 夜の連続小説9
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

12月24日・大正自由主義教育の主導者になった澤柳政太郎の命日

昭和2(1927)年の12月24日は明治期に次官まで上り詰めた文部官僚から京都帝国大学の総長になるまでは強権を振り回していたもののそれで職を追われてからは一転して大正自由主義教育の主導者になった澤登政太郎さんの命日です。62歳でした。
澤登さんは慶応元(1865)年に信州松本城下で藩士の長男として生まれました。学齢になると長野開智学校下等小学校に入学して明治8(1875)年に東京師範学校付属下等小学校に転校し、その後は現在の日比谷高校に進学して(作家の尾崎紅葉さんや幸田露伴さんは同級生)、学制が改まった大学予備門を経て東京帝国大学文学部哲学科に入学・卒業しました。卒業後は同郷の文部官僚の誘いを受けて入省する一方で東京専門学校=現・早稲田大学や哲学館=現・東洋大学で心理学や社会学を講義し、おそらく大学の講義の教本の「心理学」と「倫理学」を出版しています。
続いて明治26(1893)年に京都の私立・大谷尋常中学校、明治28(1895)年後に群馬尋常中学校、明治30(1897)年に仙台の第2高等学校、その翌明治31(1988)年には母校・大学予備門が改編した第1高等学校の校長を歴任しました。
そして同年11月に普通学務局長として文部省に戻ってからは初等・中等教育の整備に尽力し、明治39(1906)年に文部次官に就任すると義務教育を4年から6年間に延長し、旧制高等学校を全国に増設して地域間の教育格差を解消し、さらに奈良高等女子師範学校と東北帝国大学、九州帝国大学を創設するなど明治期の文部行政に辣腕を奮いました。
明治41(1908)年に文部次官を退任すると明治42(1909)年に貴族院議員に勅撰され(華族ではないが勅命で選任される議員)、明治44(191Ⅰ)年に自分が創設を決めた東北帝国大学の初代総長に就任し、帝国大学としては初めて女子学生を受け入れるなどの先進的施策を採りましたが、大正2(1913)年に就任した京都帝国大学では学風刷新のため医科1人、理工科5人、文科1人の計7人の教授を総長の職権で退任させようとしたところその文科の教授が大学の自治運動の指導者だったため教授陣の反発を招き、逆に澤登総長が退任に追い込まれたのです。
退任後は当時、陸軍士官学校の予備校と呼ばれていた成城学校に招聘されますが、文部官僚・帝国大学総長の頃は「官尊民卑」の発想で私立学校を排斥していた態度を一転させ、官の拘束を受けない自由で独創的な私立学校教育を追及するようになり、いつしか大正自由主義教育の主導者と評されるようになりました。その代表例が大正6(1917)年に成城学校に新設した小学校を「新教育の実験校」と位置づけ、「国語教育では読みが先か、書きが先か」など全科目の伝統的な教育方法の効果と外来の手法との比較を実証実験し、多くの成果を上げて現在の学校教育に活かされています。
大正15(1926)年には熱心な佛教徒らしく浄土宗・天台宗・真言宗豊山派と智山派・時宗の連合大学・大正大学の初代学長に就任しましたが、昭和2(1927)年に国際会議出席のための外遊中に悪性の猩紅熱に罹患して帰国後に亡くなりました。遺骸は東京帝国大学に献体され、脳は標本として東京大学医学部に保管されています。
  1. 2022/12/24(土) 14:26:01|
  2. 日記(暦)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

続・振り向けばイエスタディ347

「結局、ウクライナ侵攻の時にイランが輸入した兵器をロシアに売り戻していると言う噂はアメリカの勝手な決めつけだったんですね」岡倉とペルシャ語圏担当の後任・間宮リンゾーは在ワシントン防衛駐在官・帖佐将補の命令でイランに潜入している。日本に向かっていたKLM321便がロシア防空軍によってシベリアに強制着陸させられた事件を受けて外務省は在ロシアの外交官が入手していた「拘束した日本人を爆撃機に同乗させて人の盾にする」と言う情報が実行段階に入ったと見て開戦時期の推定のため双木外務大臣が統合幕僚長に自衛隊の諜報員の派遣を要請したのだ。岡倉が所属する自衛隊の非合法国際情報組織=諜報機関の隊員たちは公式には退職しているが以前は陸海空幕僚長、現在は統合幕僚長が秘密裏に人事を管理しているため60歳の定年を設けている。岡倉や杉本は定年にはまだ数年あるが現在の日本が韓国、北朝鮮と敵対しているため韓国語による情報収集に専従していて現地人脈を含む引き継ぎを進めている。すでにリンゾーとはアフガニスタンに潜入していた。
「あの時は少数の悪徳高級将校が自分の部隊の弾薬や燃料をロシアの業者に横流ししていただけで国家は関与していなかった」「今日会った政府のエライさんは『イラクとの戦争の時、ソ連がサダーム・フセインを支援していた。ロシアはその罪を償っていない。だからイランがロシアを支援することはアッラーが許さない』って言い切っていました」「イランがロシアから武器を買っているのはアメリカがヨーロッパまで巻き込んで武器を禁輸させているから他に最新兵器の入手先がないからだ」「それは僕も軍のエライさんから聞きました」イランの政治体制は欧米的な組織制度とは異なり、イスラム教の指導者を最高位に置き大統領は行政の長に過ぎない。その点では神道の長である天皇を国家統合の象徴にしている日本に近いがイランの最高指導者は政治的強権も有している。また国民によって選出される「善良で良心的な」イスラム知識人86人による専門家会議とイスラム法学者12名による監督者会議が行政・立法・司法の三権を監視・指導しているところは共産党が三権と軍を支配している中国やかつてのソビエト連邦に似ている。そのため岡倉が会わせている人物の肩書は大学でペルシャ語を専攻しただけのリンゾーには中々理解できないようだ。
「それにしてもイラン人が親日的なのには驚きました」「ロシアが日本を攻撃したら背後から襲うって言ってただろう。あれはイスラム式社交辞令だから真に受けるなよ。それでも親日的なのは間違いないな」リンゾーが目で説明を求めたので岡倉は顎で姿勢を正させた。
「日本では『日露戦争で日本が勝ったおかげで帝政ロシアの南下政策が止まったから』と言われているがヨーロッパでは『日露戦争はロシアが停戦に応じただけ』と思われてるから有り得ないな」「アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領の調停のおかげですね」リンゾーは優秀な生徒のようで岡倉が考えていなかった史実の側面を指摘した。確かに日本人の多くは日本軍が大勝利と喧伝し、それを山口陸軍閥が実権を握っていた明治政府が歴史として教育したため史実を誤認しているが、残存戦力=継戦能力を比較しても日本陸海軍は武器・弾薬・人員・予算を完全に消耗していた一方でロシア陸軍は100万人の主力がヨーロッパ圏に残っていて海軍も最強の黒海艦隊が手つかずだった。その意味では日露戦争の最大の功労者はセオドア・ルーズベルトに仲裁させた金子堅太郎と停戦条約を締結した小村寿太郎外務大臣だろう。
「やはり出光の日章丸の原油買いつけが大きいようだな」「出光ってアポロステーションですよね」ここでリンゾーは変に話の腰を折って自爆した。出光興産による日章丸での原油買いつけは第2次世界大戦後、イランが保護国だったイギリスの大手石油会社が独占していた油田や精製施設と原油採掘権を1951年に国有化を宣言したことでイギリスが艦隊を派遣して海上封鎖した。ところが出光興産の出光佐三社長は実弟である専務を内密にイランに派遣して日本政府に無届で購入契約を結び、1953年に日章丸を「サウジアラビへ向かうと」と虚偽の航路申告した上で出航させ、新田辰夫船長の指揮で夜間にイギリス艦艇の監視や多くの機雷を回避してイランに接岸するとイラン国営になった精製所のガソリンと軽油を持ち返った。イラン人の出光社長の英断と危険を顧みぬ新田船長と乗組員たちの勇気に対する敬意は日露戦争の日本海海戦の海軍軍人以上のものがある。その後も日本はイランに合弁企業による石油コンビナートを建設するなど決してアメリカの属国ではない存在感を認められている。
「昭和の男たちの話を聞くと何だか熱くなりますね」「俺も昭和生まれだぞ」「ハンゾーさんと冷たいビールで乾杯したいところですが残念です」リンゾーはホテルの冷蔵からミネラル・ウォーターのボトル2本を取り出すとアフガニスタンでイギリスの諜報機関MI6のジェームズから聞いた岡倉の偽名を口にして手渡した。イランでは1979年のイラン革命によってイスラム原理主義が国是となってからは外国人にも禁酒が強要されているのだ。
  1. 2022/12/24(土) 14:24:42|
  2. 夜の連続小説9
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

12月23日・吉展ちゃん誘拐殺人事件の小原保死刑囚の刑が執行された。

昭和46(1971)年の12月23日に敗戦後に続発した幼児を誘拐して殺害した上で親に身代金を要求する凶悪事件の先駆けになった「吉展ちゃん誘拐殺人事件」の小原保死刑囚の吊首刑が東京拘置所で執行されました。38歳でした。
小原死刑囚は昭和8(1933)年に福島県石川郡石川町の農家の11人兄姉弟の10番目として生まれました。10歳の時、アカギレから細菌が入って骨髄炎を起こして手術を受けると骨が曲がって右足がいわゆる跛(びっこ)になり、そこで手に職をつけるため仙台市の身体障害者職業訓練所の時計課程を受講して市内の時計店に就職しましたが肋膜炎を患って実家に戻り、やがて時計ブローカーを始めると窃盗や横領を繰り返すようになり、前科を重ねていきました。
東京で暮らすようになっていた昭和38(1963)年3月31日の夕方に台東区の入谷南公園の公衆便所で水鉄砲に水が入らず困っていた幼児を見つけ、その水鉄砲がアメリカ製であることに気づいて身代金誘拐を思いつき連れ去ったのです。殺害方法については警察での供述では「連れ立った後に寺院の墓地へ行き、そこでベルトで首を絞めて殺した=殺意があった」、弁護士への説明では「アベックが来たので騒がれないように口を押さえたら死んでいた=過失致死になる」と全く異なり裁判でも争点になりましたが、遺骸を墓碑の下の遺骨を入れる空間に押し込みました。
建築業を営む被害者の両親は「子供が行方不明になった」と捜索願を出しましたが、4月2日の夜に犯人=小原死刑囚から身代金50万円を要求する電話が入り、警察は3年前の「雅樹ちゃん誘拐殺人事件」で犯人が誘拐を報じる新聞を見て衝動的に殺害した悲劇を繰り返さないためにマスコミに対して報道自粛を要求しました。その後、小原死刑囚は4月7日に身代金50万円を奪うまで9回電話を掛けてきて声を録音されました。
4月7日の身代金の受け渡しでは母親が私有車で指定場所に向かったにも関わらず捜査員は徒歩だったので時間差が生じ、母親が置いて立ち去った身代金を奪って逃走する犯人にすれ違いながら現場への到着を優先して見逃す失態を犯しています。
それから連絡は一切なくなり、マスコミは警察が提供した犯人の声をテレビで流すなど全面協力し、ついにはボニ―ジャックスルが「返しておくれ今すぐに」と言う犯人に宛てたレコードを出す騒ぎになりましたが事態は動きませんでした。
2年後の昭和40(1965)年3月11日に捜査本部は解散し、8人の専従捜査員が捜査を継続すると事件後に巨額の借金を返済していたことから賽銭泥棒で逮捕・服役していた小原死刑囚が浮上し、地道なアリバイ崩しと「落としの八兵衛」の異名を取る平塚八兵衛刑事の心理的動揺を誘う事情聴取で自供を引き出して遺骸も発見されたのです。
裁判では国民の圧倒的な断罪世論を背景に昭和41(1966)年3月に1審で死刑判決が出ると11月には2審が控訴棄却、翌年10月に最高裁が上告棄却して死刑が確定したのです。首に縄を掛けられてから執行官に平塚刑事への伝言として「真人間になって死んで逝きます」、そして「茄子の漬物美味しゅうございました」が最期の言葉でした。
  1. 2022/12/23(金) 14:49:56|
  2. 日記(暦)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

続・振り向けばイエスタディ346

「釧網線は中央の川湯温泉駅を終点として釧路と網走方向の南北に運行することにします」「網走方向では石北線で旭川へ向かうことになる。旭川も避難対象地域だからそこで足止めされることにならないか」北海道庁は避難指示の発令に先駆けて道東の行政機関である根室・釧路・オホーツク(網走を所管する)の各振興局にJR北海道の釧路運輸車両所と警察の釧路方面本部、陸上自衛隊の第5旅団との避難計画の策定を指示していた。ただし、振興局は広大な地域に少数の住民が分散している北海道の特性から設置されている道庁と市町村の取次機関と言うべき行政組織なので実務では傍観者になっている。案の定、振興局は住民の道南への移動、JR北海道は列車の運行を基準にした腹案を提言したため早速議論になった。
「根室地区ではすでにかなりの住民が自主避難していて振興局としては少し安心していたのですが、ここに来て関東方面の都市部の環境団体がやってきて知床の保護を訴え始めました。人数や身元の把握もできないので本当に困っています」「海外の紛争地帯なら外務省と法務省が連携してパスポートの効力停止で渡航を禁止できるが国内では自粛要請しかないからな」「航空会社としては避難者を乗せる責任があるから運行停止にはできないんだよ」振興局長たちの役人的対話が雑談になってきたところで釧路方面本部の警視が口を挟んだ。
「環境団体と称している集団については各都市の空港から道東の空港への搭乗者名簿では男性の方が多いにも関わらず知床で活動しているのは女性が中心だ。つまり男性は道東内に潜伏していることになる。北海道内には漁船によって運び込まれたロシア製の銃器が多数存在するから発砲テロを開始する準備は整っていると考えるべきだろう」「そうなると列車が射たれる危険もありますね」JR北海道としては釧網線の列車による避難で最大の問題点は国後島からのミサイル攻撃と考えていた。国後島から地対空ミサイルが届くことは根室のレーダー・サイトへの攻撃で実証されている。その上、走行中の列車が銃撃されるとなると運転手が射殺されれば送電を切らない限り停車しないで暴走することになり、ニュースで見る短機関銃を乱射されれば多くの乗客が殺傷される。出席者が沈痛な顔で黙ると第5旅団司令部3部の運用幕僚の2佐が口を開いた。今回、第5旅団からは司令部の情報担当の2部、運用担当の3部、後方担当の4部から2佐の幕僚が出席している。このことからも陸上自衛隊が住民の避難と作戦を同列に考えていることが判る。この点が「作戦優先」を公言して地域住民を戦闘に巻き込んだだけでなく志願の名目で戦闘に参加させた帝国陸海軍との相違点だ。ただし、行政の方が防衛に関心を示さなかったため実績は無いに等しい。
「列車の前を偵察隊のバイク2台で先導させましょう。本当はヘリで上空から監視したいところだが有事に向けて燃料を節減しなければならないのです。偵察隊はレンジャー揃いですから素人が狙撃しようと潜伏していても兆候を発見して制圧できるはずです」「偵察隊って別海のレコーンのことですね」根室振興局長の確認に3部の2佐はユックリうなずいた。
「ところで道東と道北ではロシア軍が攻めてくる危険性はどちらが高いんですか」陸上自衛隊が会話に加ってきたところで振興局長の1人が過去に経験がない非常事態の説明を求めた。
「北方領土のロシア軍の配備状況については空自の偵察飛行や船舶や輸送機の運行便数で推定できますがサハリンについては不明な点が多く、どこまで作戦準備が進んでいるのかハッキリしません。侵攻作戦の常識から言って我が方の戦力を分散させるために2正面からの同時進行と考えるべきでしょう」2部の2佐の説明は出席者の見解の喰い違いの解決にならないが、事態が切迫していることを再確認させる効果はあった。
「この際、環境団体には知床の自然を守る人の盾になってもらいましょう。ロシア軍が日本人を爆撃機に乗せて自衛隊の攻撃を封じようとしているのに比べれば彼らは本当に勝手に来た志願者だからロシア軍に撃たれても文句はないでしょう。JRとしても余計な仕事を請け負う必要がなくなる」深刻な事態と言う認識を共有したところで振興局長の1人が流石に根室の振興局長は腹に溜めていた本音を口にした。
「公務員とは思えない極論ですな」「行政の保護責任の放棄は罪にならなかったかな」その極論を茶化すことで冗談にする。やはり上級管理職の世渡り術は緊急事態でも発揮される。
こうして策定された輸送計画が実行に移され、最近は特急以外に連結した列車を見ることがない道東の線路を長い列車が往復して多くの住民が疎開した。先導した陸上自衛隊の偵察隊は線路脇の森の中でロシア製のPP19短機関銃を持った男を射殺し、線路に人力では限界の大きさの石を運んでいた男たちを発見して脱線を防いだ。警察の照会の結果、やはり環境団体として女性たちと一緒に旅客機で来た都市部の反戦平和団体の活動家だった。年齢はバブル世代、70年代学園闘争の中で学生時代を送った連中の子供たちだった。
  1. 2022/12/23(金) 14:48:35|
  2. 夜の連続小説9
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

12月23日・A級戦犯・武藤章中将の死刑が執行された。

昭和23(1948)年の明日12月23日に対米英戦の開戦時の陸軍軍務局長に過ぎず、本来は「平和に対する罪」のA級戦犯(B級は通常の戦争犯罪、C級は人道に対する罪)になるような立場ではなかった武藤章中将の死刑が執行されました。57歳でした。実際、上司で1組として一緒に執行された東條英機首相は判決後に「巻き添えに遭わせて気の毒だ。まさか君まで死刑にするとは思わなかった」と詫びたと言われています。
武藤中将は明治25(1892)年に現在の熊本県益城郡菊陽町の地主の息子として生まれました。熊本の名門・済々黌中学校から熊本陸軍幼年学校に入り、大正2(1913)年に陸軍士官学校を25期生として修了しました。同期にはフィリピンで陸軍特別攻撃隊を指揮しながら軍用機で逃亡した富永恭次中将、インパール作戦の破綻を予見して師団を独断で撤退させた佐藤幸徳中将、全滅したアッツ島守備隊長の山崎保代大佐がいます。修了後は大分の歩兵第72連隊に配属され、大正6(1917)年には陸軍大学校に入校し、恩賜の軍刀を受けて卒業しました。卒業後は大正10(1921)年に陸軍士官学校の戦術教官に転属し、翌大正11(1922)年には陸軍次官の娘と結婚しました。
そして同年に教育総監部に移動すると翌大正12(1923)年に第1次世界大戦が終結したヨーロッパへの出張を命ぜられて現代戦の実像を視察し、大正15(1926)年にはアメリカへの出張を希望してさらに見識を深めました。ところが昭和3(1928)年の冬に赤痢に罹患して糖尿病を併発したことで体調・体力に不安を抱えるようになり、8月に少佐に昇任しても大隊長は希望せずに昭和5(1930)年に陸軍参謀本部に転属すると2部欧米課、1部兵站班、2部綜合班を歴任してから中支南支の視察と国際連盟脱退後の欧州視察を命じられました。
その後は陸軍省、関東軍、参謀本部を渡り歩いて昭和史の裏で暗躍することになります。陸軍省では2・26事件の処理を担当し、大不祥事を悪用して陸軍の政治介入を強める策略を巡らせ、関東軍では内蒙古への進出を画策し、参謀本部では盧溝橋事件や第2次上海事変、南京占領を大陸進出の足掛かりにするべく活動しました。しかし、これら策略も武藤中将の立場では上司である陸軍大臣・次官、満洲軍司令官・参謀長、参謀本部総長などの承認と決済、許可がなければ影響力の行使に留まり、もう1つの有罪理由とされた第14方面軍参謀長としてのフィリピンにおける文民と捕虜の加害・虐殺は山下奉文軍司令官が死刑になって罪を償っています。
武藤中将は相手構わぬ毒舌家、皮肉屋で人と組みすることを好まない傲岸不遜な性格だったため部下に「武藤ではなく無徳だ」と陰口を叩かれるほど嫌われていました。それでも能力があったため同様の野望を持つ人間には重宝されたのかも知れません。
また東京裁判では以前から敵対していた田中隆吉少将が検察側証人として陸軍内の暗部を暴露したことに怒り、「死刑になったら憑り殺す」と公言していて田中少将も武藤中将の亡霊に悩まされていることを告白しています。それでも辞世の句は「霜の夜を 思い切ったる 門出かな」「散る紅葉 吹かるるままの 行方哉」と闊達でした。
  1. 2022/12/22(木) 14:11:14|
  2. 日記(暦)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

続・振り向けばイエスタディ345

「これを列車の屋根や窓に貼れ」JR北海道が道内各地に置く車両基地では北海道庁の避難指示を受けて道北と道東の住民を運ぶための準備に着手した。手始めは車両の屋根と窓の内側にオレンジ色に青色の正三角形を描いたジュネーブ条約第1追加議定書が定める「シビル・ディフェンス(文民防護)」の記章を表示することからだった。
北海道庁ではロシアが安全保障会議で中国の日本に対する懲罰制裁に参加する可能性を示唆した段階から武力侵攻に備える研究に着手していてJR北海道にも避難列車の運行ダイヤの策定を要請していた。このプラスチック製、裏面マグネットで貼りつけるシビル・ディフェンス記章も道庁が各市町村と札幌市の区を含む公用車用として大量に作成してJR北海道にも提供した。ただし、列車の屋根や外壁は軽量化と防錆のためステンレス製が一般的なので強力なビニール・テープで貼りつけなければならない。
「これって民間人用だってマークでしょう。赤十字じゃあないんですね」「赤十字は医療用や怪我人を乗せている救急列車になるんだとさ」車両の中央の窓にビニール・テープで記章のプラスチック板を貼りつけている若い職員が質問したので通路で作業を監督しているベテランが上司から聞いた知識を請け売りした。すると別の若い職員も参加してきた。
「白旗はどうですか」「あれは降参しましたってことだから避難とは違うんだ。今の知事は勉強家だから何かで調べたんだべな」確かに白旗は基本的に非戦闘行動の表示だが、戦闘員が降伏して敵の捕虜になる意味もあるので文民の避難列車には相応しくない。白旗の代わりに車両を白く塗れば雪中迷彩を施した軍用列車と誤認される危険もある。
「俺の祖父さんが言ってましたけどソ連軍は樺太で日本人の開拓村を襲って無差別に村民を殺しただけじゃなくて白旗や赤十字も無視して病院や救護テントを攻撃したそうです。そんな連中がこんなマークを知ってますかね」「知ってなくてもこのマークを付けた車両を攻撃すれば戦争犯罪になるんだと」「それでもウクライナでロシア軍が病院を攻撃したってニュースで言ってますよ」「アフガニスタンでアメリカもやったって言ってたな」「手が止まってるぞ」若い職員たちも北海道の危機には真剣に向き合っているようで質疑応答に熱中してしまった。それでもこの車両の窓に記章を貼りつける作業は終わって次に移動した。
「でも道北や道東に向かう下りに自衛隊が乗ったら民間人用じゃあなくなりますよ」「その時は剥がすんだな」次の車両の中央の座席に記章のプラスチック板の束を置き、ビニール・テープを伸ばしながら鋭い質問をするとベテランは苦し紛れに答えた。しかし、それではこの作業が無駄になってしまう。これでは自衛隊と北海道庁、北海道庁とJR北海道の連携不足が露呈した形だが、自衛隊は防衛出動待機命令が発令されて以来、道庁や市役所・役場の公務員労組の職員による妨害と情報漏洩に悩まされ続けているので連携には消極的で必要事項を伝え、質問に答えるだけだった。JR北海道も国鉄時代には日本での共産革命を策謀する国鉄労働組合の巣窟だっただけにその先入観から協力は求めなかった。
「1号列車は作業完了しました。いつでも出発できます」ベテランは掛けてある梯子で屋根に上り、作業を確認すると無線機で作業事務所の現場監督に報告した。JR北海道は大半がディーゼル車なので屋根が排気で汚れていて貼りつける前に拭き掃除した跡が残っていた。
「そうか、全員が行ってくれるんだな」「はい、全員に現在の状況を説明した上で意志確認しました」同じ頃、JR北海道本社では鉄道事業本部長が各運転所長から「職員は出発の指示を待っている」との連絡を受けていた。本部長としては昭和62年4月1日にJR(日本旅客鉄道)が発足して仕えた元運輸官僚の上司から聞いたイラン・イラク戦争での邦人救出に日本航空機を派遣しようとした時、パイロットやフライト・エンジニア、キャビン・アテンダント(客室乗務員)だけでなく整備員などの地上勤務員の労働組合までが「安全が確保されていない」と拒否したため(整備員は飛行する予定の機体の点検まで拒否した)、外国の航空会社に依頼した国辱的醜態を思い出していた。この列車はロシア軍の侵攻の危機の直面している地域から住民を避難させるために運行する。そのため運転士は無事に目的地に到着できる保障もないまま出発し、途中で攻撃を受ければおそらく満員になる乗客を保護する重い責任を負うことになる。本人に意志確認した各運転所長たちは対米英戦争末期に神風(しんぷう)特別攻撃隊の志願票をパイロットたちに配った上級士官のような思いだったはずだ。
JRが発足して間もなく半世紀、かつては北海道の共産化を公言し、革命闘争として過激な労働運動を繰り返していた北海道の国鉄の残滓は完全に払拭されているようだ。今の社員たちが抱いているのは鉄道マンとしての使命感と誇りだ。本部長は抑え切れない涙を流しながらインターホンのスイッチを押し、運行指令所に避難列車の出発を発令した。
  1. 2022/12/22(木) 14:09:29|
  2. 夜の連続小説9
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

続・振り向けばイエスタディ344

「道(どう)から道北、道東にお住まいの道民の皆さまに緊急指示が出ました。道内の公立小中学高校は本日の午後から休校とします。今後は各市町村の指示に従って速やかに避難して下さい。交通手段は札幌から終点まで往復する列車か私有車になります。私有車は道路の渋滞が予想されますので列車が利用できない地区の皆さまに限定します。対象地区は道北の稚内市、猿払村、豊富町、幌延町・・・です」ロシア軍の攻撃で稚内と根室のレーダー・サイトが破壊されると北海道庁は道北と道東の道民に札幌以南への避難を指示した。日本国憲法は政府に対してでさえ緊急事態の強権発動の権限を付与していていないので都道府県や市町村の地方自治体も指示以上の強制力を持つ命令は認められていない。そのため緊急指示を伝えるテレビ放送も北海道には来ない台風の気象情報と変わらなかった。
「照子、道が避難指示を出したぞ」居間でテレビを見ていた両親は2階の自室のパソコンで北海道での戦況を書き込んだインターネットを検索していた照子を呼び寄せた。階段を下りて居間に入ると両親はテレビの前で夫婦会議を開いていた。
「ワシたちは残って牧場を守るがお前は日和と周作を連れて叔父さんたちの家族と一緒に逃げろ」「お母さんは」「女が1人もいなくなったらお父さんたちは何もできないわ。私は残ります」これが短時間で話し合って出した結論らしい。つまり母だけを残して照子と日和、周作は叔父たちの妻と子供と一緒に避難させるつもりなのだ。
「私はここで謙作さんが還ってくるのを待つわ。日和と周作は旭川空港からなるべく西に向かう旅客機に乗せて愛媛のお義父さんにお願いするつもりよ」照子も階段を下りて居間に入るまでに考えた対応を説明した。しかし、緊急事態の中、民間の旅客機が運行しているのか、今から航空券が取れるのかは当然確認していない。
「謙作は稚内の航空の高射特科群の警備に行ってるんだったな。昨日、不審者を射殺したのは謙作の部隊の隊員だった」父も名寄駐屯地に所在する地対空ミサイル=改良ホークの第4高射特科群は知っているのでかえって間違えた。地元紙では昨夜の稚内のレーダー・サイトへの攻撃は朝刊に間に合わなかったため昼の航空自衛隊の高射部隊の展開地での不審者射殺を大きく取り上げていた。当然、個人名は伏せられていたが部隊名は載っていた。
「駄目だ。お前も樺太で日本の開拓団の女性たちがソ連軍に強姦された話は知っているだろう。お前もまだその対象になる」「私は対象外だから殺されるだけ」父の説明に補足した母は不思議な笑みを浮かべて肩をすくめた。広橋牧場では敗戦後に樺太から引き揚げてきた家族を住み込みで雇っていたが、機会を見つけては少年だった父に悲惨な体験と日本軍の勇戦を語って聞かせ、学校の共産主義に傾倒する教師の洗脳教育を打ち消してくれた。樺太と千島の日本軍は北部軍管区司令官・樋口季一郎中将の指揮の下、日本の敗戦によって生還・帰郷できることを知りながら侵攻してきたソビエト連邦軍に徹底抗戦し、北海道上陸を阻止した。
「いよいよ陸上自衛隊も出動するらしいから謙作は当分、還れないだろう。愛媛のご両親もお前が戦地に残っていては息子と2人分心配しなければならない」父はこの場所を「戦地」と呼んだ。今朝、道北を守備する第2師団や北部方面隊直轄の陸上自衛隊は名寄・旭川・遠軽・留萌・上富良野の駐屯地を出て各地に展開した。本来は防衛出動待機命令が発令された時点で陣地構築に着手しなければならないのだが土地の接収手続きは平時と変わりなく、打診すれば即座に反対派の弁護士や市民団体が介入するため今日まで先延ばしにしていたのだ。
かつては稚内に上陸したソビエト連邦軍は国道40号線を旭川に向かって南下すると考えられていた。そのため国道40号線が山岳地帯を抜けるのに車両が1列にならざる得ない音威子府の盆地が阻止の要衝、激戦地になるとされていた。ところが現在のロシア軍は戦車を中心とする機動部隊の侵攻に先駆けてヘリコプターによる奇襲戦術を常用しているため陸上自衛隊としても戦力を分散させざるを得ない。むしろ地対空ミサイル=改良ホークの高射特科群や機動力が欠落した81式短距離地対空ミサイル=短SAMの第2高射特科大隊だけではなく普通科連隊の携帯SAMも防空任務が期待されている。
「広橋さん、協力をお願いします」その時、玄関の前に4輪駆動車と思われる車両が横付けしたエンジン音に続き、2重扉の引き戸を開けた男性の声が聞こえてきた。両親と照子が出るとそれは完全武装した陸上自衛隊の2尉だった。
「この牧場は視界が良いので携帯SAMには最適なんです。隊員2名を配置させてもらえませんか。当然、攻撃目標になる危険性は生じますが」この口ぶりでは即応予備自衛官の自宅なのを知らない飛び込みの協力要請らしい。自衛隊に協力すれば文民保護の権利を失うことを説明する態度は立派だが、自衛官の家族としては「これで大丈夫なのか」と言う不安も否定できない。
  1. 2022/12/21(水) 14:48:06|
  2. 夜の連続小説9
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

続・振り向けばイエスタディ343

「自衛隊は北海道を守り切れるんですか」北海道知事は稚内と根室の航空自衛隊のレーダー・サイトへの攻撃の状況説明のため道庁を訪れた陸上自衛隊北部方面隊幕僚長に単刀直入に訊ねた。40歳代前半の若い北海道知事は埼玉県出身だが、高校生の時に両親が離婚したため大学進学を断念して青島だァ知事が退任する寸前の東京都庁に入庁した。そこで真逆の保守過激派の石原都政を学びながら大学の2部で地方自治を専攻し、卒業後は財政破綻した夕張市に派遣されて辣腕を奮ったことで市民の信頼を獲得して夕張市長に当選し、さらに知名度を拡大して北海道知事になった人物だけに戦争に向けて腹を括っているようだ。
「陸上自衛隊は韓国と中国の武力攻撃に際しても北海道の戦力には手を着けずに維持しました。現在のロシア軍は冷静構造の終結とソビエト連邦の崩壊で大幅に戦力を縮小している上、ウクライナ侵攻の長期化で消耗していますからかつてのような大規模な部隊を侵攻させる能力はないでしょう。我々が何としても守り抜きます」敗戦後の防衛問題を直視することなく黙殺している歴史教育やマスコミ報道では語る者はいないが、東西冷戦が激化してソビエト連邦の侵攻の危機が現実味を帯びた時期、日本政府はアメリカ軍の北海道への駐留を要請したことがある。しかし、アメリカ政府は「北海道は守り切れない」と拒否して三沢基地の空軍部隊を増強し、陸上自衛隊との日米協同訓練を開始することでお茶を濁した。今回もアメリカの海軍と空軍は海空自衛隊と協同行動を開始しているが地上部隊は津軽海峡を渡っていない。
「我々は道民をどこに避難させるかに苦慮しているんです。北は稚内から名寄、旭川、東は根室から網走、釧路、北見。この市だけでも北は40万人、東は36万人です。道路と鉄道が使える間に避難させないと沖縄戦を再現することになる」幕僚長は知事の深刻な顔を見て中国の細菌兵器=新型コロナ感染症が北海道で蔓延した時、テレビの報道番組に同世代の大阪府知事と代わる代わる出ていたことを思い出した。あの頃、幕僚長は埼玉県の朝霞駐屯地の陸上総隊司令部で勤務していたが、東京都の蔓延防止策で週末にも目の前の自宅に帰ることができなくなり、「政界の売女(ばいた)」と呼ばれていた都知事の厚化粧に腹を立てていた。
「沖縄戦では対馬丸事件で県民が船での疎開を恐れるようになって、当時の泉守紀知事が説得には消極的だったので沖縄本島在住の島民を県内の離島にも疎開させていませんでした」「それで第32軍は首里の司令部壕を中心に沖縄本島中部が戦場になると県民を北部と南部に避難させながら司令部を南部の摩文仁に移動させたから戦闘に巻き込むことになった。それだけは避けなければなりません」若い割に道知事は戦史に詳しいようで幕僚長の補足説明に深くうなずいた。むしろ新型コロナウィルス感染症の蔓延以上の危機に直面して同様の事態に対応した先人の教訓として沖縄戦を研究したのかも知れない。
「千歳空港は我々が警備することになりました。管制官は航空自衛官ですから戦争になっても任務を死守するでしょう。取り敢えず北海道南部に移動させて危険になれば千歳と函館、航空の八雲の空港からの空路、青函トンネルの新幹線で本州へ脱出させると言うのが常識的な対応ですね」「陸上自衛隊が千歳空港を守るなら安心だ。航空は基地警備だから範囲が限られる。その点、陸上なら地域全体を守ってくれるはずだ。仮に函館空港の国土交通省の公務員労組が職務放棄しても千歳から派遣してもらえば何とかなる」思いがけず道知事の防衛問題に関する知識の深さと高さ、広さを披瀝されて幕僚長は素直に感服した。
「本当は長崎県の対馬が全島民を本土に移住させた時から北海道でも同じ対応をするべきかを検討させていたんです。ところが対馬の人口は3万人でも北海道は530万人、受け入れ先を探すのも困難で総務省に相談しても受けつけられませんでした」総務省は福島第1原子力発電所の事故で民政党政権に命ぜられるままに3万3千人を避難させたが、自民党が政権奪還して以降、マスコミが共産党と協力して粗探しの批判報道を始め、自然現象=天災の大震災と津波による原子力発電所事故を人災とする損害賠償だけでなく避難生活の苦痛に対する精神的慰謝料を請求する訴訟まで続発させた。バブル期入省の無能な中央官僚にとっては「自分が迷惑する」と言う一点に於いて戦争と天災に違いはなく業務を拒否することに罪の意識はないようだ。現場の人間としては「国家の危機」で意識を一致させてもらいたいものだ。
「泉知事の後任で沖縄の島守(しまもり)になった島田叡知事は『断じて敢行すれば鬼神も之を避く』を座右の銘にしておられました。私はその覚悟です」「我々は終戦時の第5方面軍司令官で北部軍管区司令官の樋口季一郎中将の『城下の盟もまたやむを得ない』ですね」幕僚長が紹介した「城下の盟」とは敵が石垣の下まで攻め寄せてから結ぶ盟約=和睦のことだが、樋口中将は日本がポツダム宣言を受諾してからも千島列島と樺太でのソビエト連邦軍との戦闘を指揮して北海道上陸を阻止した名将だけに実感がこもっている。
  1. 2022/12/20(火) 14:09:57|
  2. 夜の連続小説9
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

12月20日・鰤(ぶり)の日

12月20日は国際的には「シーラカンスの日」ですが日本では「鰤」が魚辺の師走の「師」であることに掛け、「二つ(ふたつ)」と「○=輪(りん)」でこじつけた「鰤の日」です。ちなみに関西地方では鰤を「年寄り魚」と呼んで大晦日に食べる風習があります。
鰤はハワイを中心に太平洋を4つに分けると北西4分の1の海域に分布していて(他の3つには同属のヒラマサ)、黒潮=日本海流に乗って日本列島に近づくとそのまま太平洋岸を北上して千島列島に向かう魚群と対馬海流に乗り換えて日本海を北上する魚群に分かれ、水深100メートル程度の中層海域に生息します。魚体は1メートル前後、体重8キロ前後まで成長するので、比較的近海で獲れる鰤は背中の青、腹の白、中央の黄色の線の色合いも美しく、脂分が豊富で日本人には古くから親しまれてきた高級大衆魚でした。
鰤と言えば成長する=大きさに従って名前が変わる「出世魚」と呼ばれますが、野僧は全国各地に住んだおかげで単純に出世魚ではなく地方で呼び名が違う「地方魚」であることも知りました。現在では標準語とされている江戸=関東地方では40センチ未満をワカシ、60センチ未満をイナダ(精神科医の作家・なだいなだ先生のペンネームはスペイン語の「ナダ・イ・ナダ=何もなくて何にもない」に由来します)、80センチ未満をワラサ、それ以上をブリとしています。一方、食文化の中心地・大阪=関西地方では30センチ未満をワカサ、40センチ未満をツバス、60センチ未満をハマチ、80センチ未満はメジロ、それ以上は同じくブリです。ただし、どちらも食材としての呼称のようです。
ところが関西地方でありながら紀州=和歌山県では20センチ未満の幼魚をワカナゴ、30センチ未満をツバスやイナダ(関東地方とはサイズが違う)、40センチ未満はハマチ(関西地方とはサイズが違う)、60センチ未満がメジロ、80センチ未満をオオイオと呼ぶ一方で60センチ以上をブリと呼ぶこともあります。つまり関東と関西が不正確に混同しているようです。ブリの漁獲量日本一の出雲=島根県では20センチ未満をモジャッコ(京都・舞鶴の10センチ未満の稚魚と同じ)、30センチ未満をショウジンコやツバス(関西や舞鶴、和歌山と同じ)、40センチ未満をハマチ(関西とはサイズが違う)やヤズ、60センチ未満はメジ、70センチ未満はマルゴでそれ以上はブリです。
さらに太平洋側の三陸=東北地方では20センチ未満がコズクラやショッコ、30センチ未満がフクラギ、40センチ未満はアオブリ(ブリとの分別は不明)、60センチ未満はハナジロ、70センチ未満はガンドでそれ以上はやはりブリです。そして九州では20センチ未満がワカナゴやヤズ、40センチ未満はハマチ(北陸・和歌山・高知・島根と同じ)、60センチ未満はメジロ(和歌山や高知と同じ)でそれ以上はブリです。
こうして見ると成魚の鰤は全国共通で中間のハマチも多数派ですが、小魚の間は親しみを込めて愛らしい名前で呼んでいたようです。
現在では産卵した藻を回収する養殖が盛んですが(稚魚のモジャコは藻雑魚と書く)、生産地は九州と四国に集中していて中でも鹿児島県が全国総生産の3分の1、2位の大分県の倍近い4万5千トン近くを生産しています。
  1. 2022/12/19(月) 15:25:33|
  2. 日記(暦)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

続・振り向けばイエスタディ342

日本海上でロシア軍がインターネットで日本人が同乗していることを公表していたツボレフ22バックファイヤーの10機編隊が突如として消滅し、その直後に稚内と根室のレーダー・サイトが地対地ミサイルによって破壊された翌日の朝刊の論調は両極端に分かれていた。A日新聞とM日新聞はロシア軍の動画の飛行服を着せられてバックファイヤーに乗り込む映像から人物を特定して「航空自衛隊がロシア軍機を撃墜?」「自衛隊に殺害された?日本人」と断定せずに非難する記事で1面を飾っていたのに対して読捨新聞や3K新聞は「防空の目は大丈夫か」「稚内と根室のレーダー破壊」とロシアの参戦に伴う危機的状況の発生を前面に押し出していた。昨日の日中に根室で発生した第6高射群の全滅が大々的に紙面に躍ったのは夕刊だけで、朝刊では2面以降の補足記事に押し出されていた。
「日本人が乗った爆撃機が全部消息を絶ったのはどう言う訳ですか」ロシア軍の参戦が現実になったのを受けて午前でも早い時間帯に首相官邸で石田首相による緊急記者会見が開かれた。しかし、海上自衛隊の通常型ミサイル護衛艦によるバックファイターの編隊の撃墜は自衛艦隊司令官の密命を受けた特別イージス艦隊司令官の独断なので事前情報を流した立野官房長官は結果で理解しても石田首相は何も知らなかった。当然、説明に中身はなく早々と質疑応答になったが記者の質問も推理・憶測の域を出ていない。
「夜が明けるのを待って調査を開始しましたから現時点では何も発見できていません」これ以上は答えられないことは記者も判っているので普段のような失望や嘲笑の声は上がらない。現在は陸海空自衛隊が被害状況と対応を隠蔽していて昨日の根室の高射部隊の全滅と稚内の不審者の射殺で現場に派遣された最寄り支局の記者は調査・取材できないでいる。
「根室で高射群が全滅した事件は何か判ったんですか」「警察が現場検証を進めていますが住民の避難を最優先しなければならない現状では人手不足です。あまりにも被害が甚大なので物証の採取にも着手できていないと報告を受けています」こんな時は記者の軍事的知識が欠落していることが有り難い。配置している高射部隊の片方が破壊され、もう片方は温存されたにも関わらず両方のレーダー・サイトが破壊された原因を追及されても石田首相には答えられない。
実際は稚内に展開している第3高射群は「根室の第6高射群が展開地で全滅した」と言う緊急情報を受けて安全な場所への移動を決定したが、新たな展開予定地に打診した直後に札幌の弁護士が拒否を申し入れ、インターネットに地図入りで「次の第3高射群の陣地」と書き込まれた。そのため移動準備を完了した状態で朝まで待機することになり、深夜に北からミサイル1発が飛来し、レドームが載った建物が破壊される光景を目撃していた。
「稚内と根室のレーダー・サイトが破壊されても大丈夫なんですか」「AWACSが飛んでいるから問題ありません」「AWACSが落とされる心配はないんですか」「戦闘機が護衛しています」「戦闘機で地対空ミサイルに対抗できるんですか」「・・・判りません」保守系の新聞社の記者はそれなりに勉強しているので質問も鋭い。空中警戒管制機のAWACSと言う名前を知っていただけでも恩の字の石田首相では対応できなくなった。
航空総隊では4機しかないAWACSを北部方面隊空域に固定することはできないため稚内に千歳基地から第1移動警戒隊を展開させることを決めたが、各航空方面隊に1個隊しかないので根室には入間基地の第2移動警戒隊を派遣しなければならない。
大型のCー2輸送機なら主要機材以外は迅速に空輸できるはずだが入間基地と根室の中標津空港の滑走路は2000メートルなので着陸できない。そうなると主要機材は陸路と青函フェリー、人員や付属品はCー1輸送機になる。かつてCー1輸送機が迷彩塗に装された時、網走のレーダー・サイトにROCP(要緊急補給レーダー部品)を届けるため網走空港に着陸すると管制官が「ソ連軍が来た」とパニックを起こしたことがあるが公務員労組の職員が多い地方空港が機能を維持しているかさえも判らない。
「最も重大な質問です。この事態に総理は防衛出動を決断されるのですか」「広島では移民による数万人単位の大規模な反戦デモが起こっています。ロシアと戦争になれば総理の地元の広島に2度目の核兵器が射ち込まれることを市民は真剣に恐れているのです」保守系の新聞社の記者の質問に反政府系の記者が勝手に補足して趣旨を変質させた。
広島では韓国との武力衝突以来、防衛出動待機命令、海上における警備行動の常態化、治安出動命令などの一連の対応を加倍政権の外務大臣だった石田首相が「好戦的な本性を現した」と非難する世論が湧き起こり、自宅が投石で破壊され、選挙事務所が放火されている。さらにデモの様子を見に来ていた高齢の後援者がデモ隊に取り囲まれて暴行を受け、重傷を負った。石田首相にとっては選挙での落選を待つまでもなく現実に身の危険を伴う決断になる。
  1. 2022/12/19(月) 15:24:03|
  2. 夜の連続小説9
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

続・振り向けばイエスタディ341

森田予備3曹と春木予備3曹は身体検査を終えると男2人を近くの空き家にある歩哨の指揮所兼待機所に連行した。堀井予備2曹は動かせない車両と後部座席の遺骸の番として現場に残った。失禁して裾まで塗れたズボンで歩きにくそうな運転手は背後で銃を突きつけながら付いてくる森田予備3曹を罵り続けている。
「お前は車内の人間に警告も与えず発砲、射殺した殺人犯だ」2人は両手を後頭部で組ませられているので振り返ることはできないが、運転手は身体を揺するようにして叫んでいる。どうやら先ほど堀井予備2曹から聞いた根室地区で航空自衛隊の高射部隊が全滅したのと同じ破壊工作の指揮官らしい。確かにあの時、森田予備3曹は後部座席越しに肩と頭だけが見えた男の動作が運転手と話している堀井予備2曹に銃口を向けたと確信して発砲した。実際、後部座席の男の遺骸はPP19短機関銃の握把を握り、引き金に指を掛けていた。しかし、運転手は警察官職務執行法7条が定める武器使用時の「犯人の逮捕若しくは逃走の防止、自己若しくは他人に対する防護又は公務執行に対する抵抗を抑止するため必要と認める相当の理由」を確認していないことを指摘しているのだ。ここまで法律に詳しいところを見ると70歳前後の年齢とインテリ風の容姿から元教職員や元地方公務員が疑われる。
「それを言うなら我々に弾倉1本分も実弾を発射したアンタの方が殺人未遂だ。あれも俺たちがプロだからよけられたが素人がビビって顔を上げたら死んでいたぞ」「反撃して射殺しても正当防衛が成立したな」運転手の罵りが癇に障ったのか代わりに春木予備3曹が反論し、森田予備3曹が補足した。森田予備3曹は陸上自衛隊に入隊した時、父の森田敬作定年2佐から「戦争で殺すのは人間ではなく敵だ」と教えられてきたが実際に「敵」を殺したのは当然初めてだった。現場指揮官の堀井予備2曹も後席の「敵」の遺骸を見せることを躊躇ったが、森田予備3曹はあえて自分の行為の結果を確認した。すると敵も白髪混じりの初老の男で顔には薄笑いを浮かべていた。どうやら自衛官を殺すことに快感を覚えていたらしい。
アメリカ陸軍の軍事史研究者のサミュエル・ライマン・アトウッド・マーシャル准将は戦闘を終えた将兵との対談取材で「前線では75パーセントの兵士が幼い頃から植えつけられてきた殺人を大罪として自己犠牲を賛美する倫理で身の危険が迫っても引き金を引いて敵を殺せなかった」と言う驚くべき事実を発見した。一方、日本の戦後にデモやテロを繰り返した学生運動の過激派は警察官や自衛官を殺害することをロシア革命で鎮圧に当たる皇帝=ツアーの兵士を打倒した民衆に自分を重ねる快感を味わうため罪の意識は全くなく、むしろ「ツアーの兵士を殺すことが革命=正義だ」と信じ切っていた。その点、戦闘員としての英才教育を受けている森田予備3曹は理屈抜きの条件反射で引き金を引いた。
「世界自然遺産の知床を戦場にするな」根室以上に国後島に近い知床半島では自然保護団体が道路を封鎖し、自衛隊の車両の前に座り込んで人の盾を作っていた。北海道東部を所管する第5旅団の作戦計画では防衛出動待機命令が発令された時点で知床半島に81式短距離地対空ミサイルの第5高射特科大隊を配置して国後島を発進するヘリコプターを撃墜する予定だったが、インターネットで「ロシアが参戦する」と言う噂が流れると道東の環境団体が中標津町に集結し、続いて札幌から増援が到着し、今では東京から環境保護が目的ではないことが明らかな集団が押し寄せている。おまけに多くのマスコミ関係者が取り巻いているため治安出動している陸上自衛隊による強制排除は釜田防衛大臣に禁止された。
「貴方たちも昨日のロシアの攻撃を見たでしょう。危険ですから速やかに安全な場所に避難しなさい」「この美しい知床がミサイルで破壊されることは絶対に許さない」第5旅団としては戦闘行動として夜間に配置につく予定なのだが現状では活動家を説得して自主的に退去させるしかない。そのため師団司令部の広報担当者が丸腰で代表者の女性と面談した。
昨日、根室半島の各所で航空自衛隊の高射隊のPAC3が次々に爆発する巨大な炎と爆発音、凄まじい黒煙を目撃した夜に半島の先端付近にあるレーダー・サイトにミサイルが射ち込まれて爆発するのを目の当たりにしたはずの女性は全く怯えた様子は見せない。
「貴方たちは日本が侵略されても良いのですか」「大自然に抱(いだ)かれているから日本なのよ。知床の大自然が無残な焼け野原になっては最早日本じゃあないわ」1970年から80年代の反基地や反原発、環境保護などの座り込みは夜間には大乱交パーティーになったらしいが、この知的な熟女は年齢的に対象外だろう。広報担当者は代表者の背後で殺気を帯びた視線を浴びせてくる女性たちに戦時中の記録映像で見る愛国婦人会を思い出してしまった。しかし、愛国婦人会が守ったのは「銃後」、この女性たちが守っているのは大自然、実際は自衛隊の防衛行動の妨害が目的だ。最早強制排除する時間はないので轢き殺してでも突破するしかない。
  1. 2022/12/18(日) 12:47:39|
  2. 夜の連続小説9
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

12月17日・昭和の陛下が選んだ最高の軍人・山梨勝之進大将の命日

昭和42(1967)年の12月17日は昭和の陛下が敗戦直後に行われた文芸雑誌の文人たちとの対談で「陛下に仕えた重臣や軍人の中で最も篤く信任した人物」を問われて「山梨勝之進」と即答された山梨勝之進大将の命日です。90歳でした。
山梨大将は明治10(1877)年に現在の宮城県仙台市青葉区八幡(生家の跡地は3分の2が宮城第1高等学校、3分の1が尚絅学院になっている)で元伊達藩士の長男として生まれました。そのためなのか同じ仙台市出身の井上成美大将と風貌が共通しています。
宮城英学校を経て海軍兵学校に25期生として入営し、明治30(1897)年の修了時は首席が後に言語学と民俗学の大家になる松岡静雄大佐で山梨大将は次席でした。海軍軍人としては宮城英学校で身につけた英語力を買われてイギリスで建造した戦艦・三笠の回航に参加し、帰国後は旧式戦艦(元々は機帆船の小型艦だった)・扶桑に航海長として乗り組んで日本海海戦に参戦しています。日露戦争が集結した明治39(1906)年に海軍大学校に入校し、翌年の修了後は舞鶴鎮守府参謀を経て同じく伊達藩士の息子の斎藤實海軍大臣の副官兼秘書官になり、首相だった山本権兵衛大将や後に首相になる岡田啓介大将と親交を持ったことで卓越した軍政家としての素地を身につけました。
その材料になったのが第1次世界大戦後の大正10(1921)年に締結された海軍軍縮条約で、主力艦の保有制限を決めるワシントン会議では加藤友三郎全権大使を補佐して条約の締結を実現し、帰国後は武闘派=艦隊派の強硬な反対に果敢に立ち向かって批准に漕ぎ着けました。続いて昭和5(1930)年に開催された補助艦の保有制限を決めるロンドン会議では中将の海軍次官でしたが、財部彪海軍大臣が全権大使だったため不在間の代行を勤め、武闘派が仕掛けてきた「統帥権の干犯」問題では「憲法解釈は枢密院の権限である」と軍人による議論そのものを否定し、加藤寛治連合艦隊司令長官に次ぐ武闘派の首魁・末次信正軍令部次長に「山梨のごとき知恵のある人物には敵わない」と言わしめています。しかし、武闘派の神輿だった東郷平八郎元帥や伏見宮博恭元帥からは「山梨は軍服を着ているのか」と揶揄されるほど嫌われ、大将に昇任した後は佐世保と呉の鎮守府司令長官を歴任して海軍大学校の同期の大角岑生海軍大臣によって堀悌吉中将と共に予備役に編入されました。この悪名高き大角人事について山梨大将自身は「軍縮のような大問題は犠牲なしには決まらない。自分が犠牲になるつもりでやったのだから少しも怪しむ(=不満に思う)ものではなない」と所見を述べています。
予備役編入後は平成の天皇を受け入れる学習院の院長になり(昭和の陛下の時は乃木希典大将)、「全人教育」を提唱した玉川学園の創立者・小原国芳先生を支援しました。また敗戦後は82歳から死の前年の89歳まで海上自衛隊幹部学校で年に1回、戦史の講義を行いましたが、午後1時から4時までの予定が毎回6時過ぎまで続き、その間、山梨大将は直立の姿勢を崩さなかったそうです。この講話は速記されて「歴史と名将」と言う題名で刊行されています。大量の蔵書は海上自衛隊幹部学校に寄贈されて現在は航空自衛隊目黒基地で同居しているため野僧は入校時に手に取りました(洋書と漢籍が大半でした)。
  1. 2022/12/17(土) 14:20:09|
  2. 日記(暦)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

続・振り向けばイエスタディ340

「ここから先は進入禁止だ」根室で第6高射群の3個高射隊が全滅させられた頃、稚内の第3高射群の展開地にも不審な男たちが乗った4輪駆動車が近づいた。しかし、稚内地区は防衛拠点として治安出動している旭川駐屯地の陸上自衛隊第52普通科連隊第2中隊の即応予備自衛官が警備している。根室でも同様に帯広駐屯地の第52普通科連隊第3中隊が派遣されているが、細長い地形のためレーダーサイトと展開地が離れていて第6高射群は自隊警備とされていた。
「猟銃が載ってるな」「これから鹿を射ちに行くんだ。市内の仲間を迎えに行くところだ」停車させた分哨長の堀井予備2曹はは運転手が「寒い」と窓を開けることを拒否したためスモークを貼ったガラスに顔を付けて確認した。すると後席には猟銃でも長いライフル銃3丁が載っていた。
「危ない、しゃがめ」その時、4輪駆動車の後ろに立っている森田謙作予備3曹が声をかけ、構えていた89式小銃を発砲した。後部ガラスに小さな穴が開き、車内では後部座席に座っていた男がのけ反ってドアのガラスに後頭部を打ちつけて崩れ落ちた。
「糞」運転手は捨て台詞を吐くと急発進して前に立ちはだかった堀井予備2曹をボンネットに乗せたまま逃走した。森田予備3曹はその場で膝射ちの姿勢を取ると車輪を狙って発砲した。続いて春木予備3曹も同じように発砲した。すると4輪駆動車は両方の後輪が破裂して尻を振るようにして停車した。同時に堀井予備2曹は前に滑り下りて身を隠した。
バババババ・・・、運転席と助手席から下車した男2人は立った姿勢のまま短機関銃を連射し始め、森田予備3曹と春木予備3曹はその場に伏せた。頭の上を弾丸が通り過ぎ、熱い空気の塊りが続き、銃声が念を押した。それでも距離が近いので全てほぼ同時になる。
「射殺しても良いかな」「短機関銃だろう。もうすぐ弾丸(たま)が終わるよ」アスファルトの路上に大の字に伏せながら森田予備3曹と春木予備3曹は顔を見合わせて冷静に話し合った。男たちは2人を射殺しようと銃口を下に向けているがその間も無駄射ちは続いている。
一般的に短機関銃の弾倉の装弾数は30発だが、ロシアのPP19には円筒形で64発装弾できるスパイラル・マガジンがある。しかし、千歳基地で押収されたのを皮切りにして北海道内で摘発されているPP19は全て通常のボックス・マガジンで30発だ。
「そう言えば堀井2曹が背後にいるな」「運転席のドアの向こうで見ているよ」頭を上げることは命取りなので路面に顔を着けたまま前を見ている2人は射撃に夢中になっている男たちの背後で堀井予備2曹が迫っているのを確認して苦笑を交わした。
「しまった弾丸切れだ」「動くな。銃を捨てろ」助手席の男が引き金を圧しても弾丸が出なくなったのに気づいて嘆き声を上げると顔を向けた運転席の男の背後に出た堀井予備2曹が威圧するように声をかけた。素人ではないので銃口を背中に圧し付けたりはしない。
「銃を捨てろ。射つぞ」バーン、堀井予備2曹は未練がましく短機関銃を放そうとしない2人の顔の高さに銃口を向けると発砲した。すると先ほどまで森田予備3曹と春木予備3曹の上で起きていた現象が数百倍の迫力で発生した。至近距離の上、89式小銃の5・56ミリのNATO小銃弾と9ミリのマカロフ拳銃弾の違いは圧倒的だ。特に後頭部で発砲された運転席の男は銃口炎と熱風で左頬を焼かれ、左耳は銃声の轟音で聞こえなくなり、弾丸が引き裂いた真空の鎌鼬(かまいたち)で頬骨の肉が切れた。ただし、現代医学では鎌鼬は真空が原因ではなく突発的で急激なアカギレのような生理現象とする説が一般的だ。
「銃を捨てろ」「手を上げろ」「森田3曹は助手席(の男)を捕獲しろ。春木3曹は運転手だ」堀井予備2曹は2人が短機関銃を地面に落したのを確認すると両手を上げさせて森田予備3曹と春木予備3曹に捕獲を指示した。
「こっちへ来い。その場に腹這いになれ。両手両足を広げろ」2人の前に歩み寄った森田予備3曹と春木予備3曹は小銃を向けながら同じ指示を与えた。4人が4輪駆動車を離れたのを見て堀井予備2曹は落ちているPP19短機関銃を拾った。2人の発射弾数を数えていた堀井予備2曹は弾倉を外して運転手が27発しか射っていない=3発残っていることを確認した。
「お前、小便を漏らしたのか」「こっちもだ」「すみません」4輪駆動車から5メートル離れた路面に這わせた男たちの背中を膝で押さえながら片手で身体を検査していた森田予備3曹がズボンの股間が塗れていることを発見すると春木予備3曹も同調した。
「根室で空自の高射特科が全滅・・・こちらでも同じことをやろうとしたのかも知れません」森田予備3曹と春木予備3曹が社会的地位の高そうな初老2人の失態に苦笑していると歩哨所に無線で連絡した堀井予備2曹は驚くべき事態を知らされた。
さらに3人はその夜、サハリンからの地対地ミサイルで航空自衛隊のレーダー・サイトが破壊されるのを目撃することになった。
  1. 2022/12/17(土) 14:15:06|
  2. 夜の連続小説9
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

12月17日・アメリカ陸軍の軍事史研究者・マーシャル准将の命日

1977年の明日12月17日はアメリカ陸軍の軍事史研究者として第1次世界大戦からベトナム戦争、第3次中東戦争までを実地に検証し、単なる歴史的資料の編纂ではなく戦闘の法則を導き出し、現在も採用されている改善=戦闘力強化方法を提案したサミュエル・ライマン・アトウッド・マーシャル准将の命日です。77歳でした。
マーシャル准将は1900年にニューヨーク州で生まれましたがコロラドとカリフォルニアで育ち、テキサス州エルパソで高校に入学しました。1914年に第1次世界大戦が始まっていた中、1917年に徴兵でテキサス州サンアントニオの第90師団第315工兵大隊に配属されましたが、この年の4月6日にアメリカのウィルソン政権が参戦を決定し、6月にフランス戦線に派遣されて軍曹なりました。1918年11月に停戦=終戦になると自衛隊で言う部内幹部候補生のような新制度で士官学校に入校することになり、1919年に任官するとフランスに戻ってアメリカ派遣軍の復員を支援しました。
1920年にアメリカに帰還すると予備役に編入されてテキサス大学エルパソ校に進学して卒業後はエルパソの地方紙からミシガン州デトロイトの主要紙の記者になり、スペイン内戦の取材に派遣されました。この記事で全国的な知名度を獲得すると1939年9月1日の第2次世界大戦の勃発も取材してナチス・ドイツ軍の電撃戦(開戦直後の徹底攻勢)と機動戦術を解説した著作を出版してアメリカ陸軍に注目されることになりました。
1941年12月8日の日本海軍の真珠湾空襲を利用してフランクリン・ルーズベルト政権が第2次世界大戦全体への参戦を決定するとアメリカ陸軍は1942年9月に歴史的に重要な資料の収集を目的に軍事史センターを設立し、マーシャル少佐以下27名の士官を配置しました。マーシャル少佐の初仕事は将兵400名と軽戦車3両、対戦車砲4門の日本軍守備隊をアメリカ軍が将兵6470名を戦艦4隻、巡洋艦4隻、護衛空母3隻、駆逐艦16隻で支援しながら763名が戦死した中部太平洋のギルバート諸島マキン環礁の戦闘の調査でした。戦闘終結後、マーシャル少佐は失敗の原因を突き止めるべく生還した将兵たちとの対談取材を行い「前線では(アメリカ軍の)兵士の75パーセントは幼い頃から教え込まれた殺人を重罪として自己犠牲を賛美する倫理感から身に危険が迫っても発砲して敵を殺さない」と言う意外な事実が判明しました。
その後は同様の手法で体験談と本人の感想を中心に調査を進めて「突発事態に対する指揮官の判断」などの多くの戦争の法則を導き出すことになりましたがこの問題が主要テーマになり、兵士に敵を殺害させるための訓練方法の研究に発展しました。
その成果とされているのが「射撃訓練の標的の黒い部分を頭部と肩を際立たせる形にすることで人間を射つことに慣れさせる」と言うもので「殺人の罪悪感に起因する戦場パニックも軽減する」と言う副次効果も加わって現在もアメリカ軍や警察で使用されています。
第2次世界大戦末期にはヨーロッパ戦線に派遣されて同様の調査を行い、さらに朝鮮戦争、ベトナム戦争、第3次中東戦争、中東内戦などで「戦場での兵士による殺人」の実態調査を継続しましたが、1974年に故郷のエルパソに戻って亡くなりました。
  1. 2022/12/16(金) 13:57:45|
  2. 日記(暦)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

続・振り向けばイエスタディ339

「海上が弾道ミサイルを落としたんだってな」「それも4発全部らしいですよ」根室の廃校になった小学校には青森県の車力分屯基地から第6高射群の高射隊が展開していた。元小学校のフェンスは苛酷な気候で破損・倒壊していて熊避けにもなっていない。それでも歩哨は校門に2人だけだ。その歩哨たちは実弾を詰めた弾倉を装着して重くなった64式小銃は肩がこるため吊れ銃にしないで2脚を立てて地面に置いている。実はこの状態で歩哨を交代していた。
車力分屯基地は昭和51年9月6日にソビエト連邦軍のビクトル・ベレンコ中尉がミグ25戦闘機で海面スレスレの低空飛行で日本に接近して函館空港に強行着陸した亡命事件を口実にして津軽海峡を挟むように高高度・超音速用の地対空ミサイル・ナイキJの部隊を新設したので防空作戦上の意味は無いに等しい。その意味ではこの使われ方は至極当然なのだ。
「俺たちには破壊措置命令が出なかったですよね」「海上にも出てなかったらしいぞ、警備行動で射ったんだってよ」「俺たちには関係ねェッすね」海上自衛隊のイージス護衛艦がロシア軍の中距離弾道ミサイルを全弾撃破したと言う報告を受けて北部航空方面隊司令官は2個高射群をそれぞれ稚内と根室に展開を命令したが、車力の隊員にとっては海峡を渡れば自宅に帰ることが困難になり、出発前から不満が公然と飛び交っていた。そもそも高射群の隊長以下の隊員にとっては年に一度、アメリカへ渡って実施するASP=年次射撃で目標に命中させることが実戦であって本当の防空は戦闘機と警戒管制の仕事なのだ。当然、展開地での歩哨勤務も単なる門番に過ぎず会社の守衛よりも緊張感がない。
「何だ」バババババ「ワワワワ・・・」バババババ「ぐッ・・・」その時、1台の4輪駆動車が校門の前に停車すると助手席と後席の窓が開いて突き出した2つの銃口が火を噴き、歩哨を1名ずつ射殺した。後になった空曹の歩哨は足元の小銃を手に取るどころか地面に伏せることもなく立ったまま踊るように射殺された。
「よし、行こう」「ミサイルは野ざらしだ」「陸のは穴掘って埋めたり、土嚢を積み上げて駄目だったらしい」歩哨2名を射殺すると4輪駆動車から狩猟用ライフルに持ち換えた男3名が下り、通路を塞ぐように倒れている遺骸をまたいで校内に駆け込んだ。北海道だけにかなり広い校庭にはレーダー(RS)と箱型のコンテナ(射撃管制装置・ECS)を積んだトラック2両を中心に複数のアンテナが立ったトラック(AMG)や上空に向けてPAC3のコンテナを斜めに立てているトレーラー(LS)5両とPAC3のコンテナを6発ずつ積載した大型トラック4両、さらに中には3段ベッドが設置されている冷暖房完備の待機車2両、炊事車、トイレ車、隊本部車が並んでいる。広いとは言えこれだけのトレーラーとトラックが駐車していれば間隔はかなり狭い。おまけに長年使われていない鉄筋コンクリート製の元校舎は電気・水道と電話が撤去されているためトイレも使えず、寒さのせいなのか外で活動している隊員は1人もいない。
「あの立っている箱の中にペトリ(正しくはPAC3)の実弾が入っているんだ」「トラックに積んである箱にも入ってるぞ」「こちらは1発爆発させれば誘爆で全滅だろう」気温が下がり、草は枯れてしまっている校庭を見回しながら指揮官らしい運転手は助手席と後席の2人と話し合った。一方、殺す相談をされている高射隊の隊員たちは待機車の中で訓練待機の夜勤と同様に賭けトランプに興じている。高射用待機車は密封性が高いため至近距離の銃声にも気づかなかったようだ。それは隊長以下が詰めている隊本部車も同様だった。
「爆発に巻き込まれない位置から射て。弾頭の上部を狙うんだ」「信管って奴だな」「爆発するまで射ったら即逃げるぞ」「判った」指揮官の指示に2人は大きくうなずくと左右に25メートルほどの距離を置いて自衛隊で言う膝射ちの姿勢を取った。
スドーン、スドーン、スドーン、自衛隊の小銃よりも重い銃声が連続して響いた。数発目を射った時、立っているコンテナが閃光に包まれ、猛烈な爆風が炎と一緒に吹きつけ、身体を露出している3人は瞬間的に黒焦げの燃えかすになった。
第2次世界大戦中にアメリカが開発したVT信管=通称・マジックヒューズは目標に命中させることなく最接近して離れた瞬間に爆発する。そのため目標を巻き込んで破壊するだけの強烈な爆発力が必要でナイキJの原型のナイキ・ハーキュリーズには核弾頭も装着可能だった。PAC3の爆発力も当然、想像を絶するほど強烈で校庭くらいの面積は1発で軽く燃やし尽くしてしまう。案の定、炎と硝煙の中でPAC3が次々に誘爆を始め、指揮車や待機車も木端微塵に吹き飛んで炎上し、校舎で遮られた裏庭以外は車両の残骸だけが残る展開地跡になった。3人が乗って校門に駐車してきた4輪駆動車も黒焦げになったため現場検証した警察に自衛隊車両と誤解された。
この攻撃は根室に展開している3個高射隊に同時に行われて全滅したが、ロシア製のPP19短機関銃を持った実行犯たちも同様の目に遭った。
  1. 2022/12/16(金) 13:52:27|
  2. 夜の連続小説9
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

12月16日・三島由紀夫=平岡公威の父・平岡梓の命日

昭和51(1976)年の明日12月16日は作家・三島由紀夫=本名・平岡公威(きみたけ)さんの実父で、自刃後に「倅・三島由紀夫」を刊行してある意味情けない実像を周知することで神格化されることを防いだ平岡梓さんの命日です。82歳でした。
梓さんは明治27(1894)年に福島県知事や樺太庁長官を務めた内務官僚の一人っ子の長男として生れました。父親は地方への単身赴任が多く、東京の士族出身で大審院判事の娘の母親に育てられました。明治45(1912)年に開成中学校を卒業しましたが2浪したため神経衰弱気味になり、哲学書や文芸書を読んで紛らわしたようです。
大正3(1914)年に旧制・第1高等学校に合格すると東京帝国大学法学部法律学科に進みました。2浪なので卒業年次は違いますが第1高等学校からの東京帝国大学の同期生には岸信介後の首相がいます。また東京帝国大学時代、友人の友人として「目玉ばかりがバカでかい貧弱な1高生」だった後の公威さんの師・川端康成先生に会っています。
大正8(1919)年に高等文官試験に1番の成績で合格しましたが、志望した大蔵省は面接で断られ、農商務省に回されました。ここでも岸首相と同期でしたが官僚としての勤務態度=能力と上司・同僚からの評価は真逆でした。
大正13(1924)年に漢学者の娘と結婚すると現在の東京都新宿区四谷にあった陸軍軍医が建てた和洋折衷の豪邸で1階に両親と女中6人、書生1人、下男1人、2階に新婚夫婦の同居生活を始めました。ところが大正1(1925)年1月に公威さんが生まれると母親が「2階で赤ん坊を育てるのは危険だ」と言って奪い取り、妻を授乳に通わせながら人形遊びのように女児として育て始め、長女と二男が生まれて現在の新宿区信濃町の借家に転居してからも数軒離れた別の借家に転居した両親が公威さんを手元に留めました。結局、公威さんは学習院中等科1年になっていた昭和12(1937)年に梓さん一家が渋谷区松濤の洋館の借家に転居するまで両親と別居していたのです。
父親としての梓さんは女児として育てられている公威さんに蒸気機関車を間近で見せて迫力を体験させ、猫を可愛がるのを「女々しい」と嫌って捨てても次を拾ってくるので鉄粉を呑ませて殺そうとするなど常道を踏み外した教育を繰り返しましたが、ある時、いつも塀の穴から覗いているため見たところ近所の子供たちが相撲や野球をして遊んでいたのでそれからは相撲の相手をしたそうです。後に公威さんは梓さんとの対談で幼児からの別世界への羨望や悲哀が三島文学の底流にあることを認めました。
ところが公威さんが東京帝国大学生になると農林官僚の自分を見下している大蔵官僚にしようと躍起になり文学に反対して書きかけの原稿を破り捨てましたが、徴兵が近づくと形見として作品を求めるようになり職場の広報誌用の原稿用紙を与えようになりました。
そんな梓さんですから公威さんが本籍地の兵庫県加古川市での徴兵検査で妻=生母に伝染された風邪の高熱による血枕検査の結果を肺浸潤と誤診されて不合格になると大喜びで帰ったそうです。ただし、この愛国心が欠落した態度への劣等感も公威さんの晩年の「憂国」行動に影響を与えたとされています。
  1. 2022/12/15(木) 13:45:02|
  2. 日記(暦)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
次のページ