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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

新右翼「一水会」の鈴木邦男元代表の逝去を悼む。

1月11日にこれまでの愛国者とヤクザの区分けがつかない任侠右翼とは一線を画し、言論人としても左翼との論戦を繰り広げたことで新右翼=理論派右翼と呼ばれた「一水会」の鈴木邦男元代表が亡くなったそうです。79歳でした。
「一水会」と言う名称は毎月第1水曜日に勉強会を開催していることに由来しますが、他の右翼団体が反ソビエト連邦・反共産党中国の裏返しに親アメリカなのに対して「アメリカこそ戦後日本を堕落させた元凶」と主張していて異色の存在です。
鈴木元代表は昭和18(1943)年に福島県郡山市で税務署員の息子として生まれ、父親の仕事の関係で高校生になるまでは東北各地を転々として育ったそうです。その間に母親が病気になり、生長の家の地方講師(息子は盾の会1期生)の祈祷で回復したため信者になりました。仙台市の東北学院高校2年だった昭和35(1960)年10月12日にテレビで社会党の浅沼稲次郎委員長が山口二矢くんに刺殺される中継映像を見て「同じ17歳の少年が社会のことを考えた末に人の生命を奪い、自決した」ことに強い自責の念を感じたそうです。そのため翌年の春休みに上京すると山口くんが加盟していた日本愛国党本部を訪ねて赤尾敏代表に教えを受けました。
そんな鈴木くんが高校卒業目前の聖書の授業中に右翼系文化人の著書を隠れて読んでいたのを教師に見つかり、取り上げられてストーブに投げ込まれたことに怒り、職員室で殴ったため校内の教会に懺悔に通うことを条件に半年遅れで卒業できたそうです。卒業後は昭和42(1967)年に1年遅れで早稲田大学政治経済学部政治学科に入学しますが学生運動が吹き荒れていた中、生長の家の学生道場に入って愛国教育を受けました。
その後は右派の活動家として共産革命を叫ぶ左翼活動家との抗争を繰り返し、学生運動を続けるために大学院に進学しますが、右派の全国学生組織内での路線対立で委員長を1カ月で退任させられると失意のうちに退学して仙台の実家に帰りました。
昭和45(1970)年に販売や広告担当者として産経新聞に就職すると盾の会1期生(「一水会」と命名した創設メンバー)のアパートに居候し、ここで毎月30冊の読書ノルマを自分に課して理論武装を進め、同年11月25日に市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部で友人の森田必勝さんが平岡公威さんに殉じて自決したことで「国士」を標榜しながら政治活動を捨てて就職した自分の変節を悔やみ、遺志を継ぐことを決意して「一水会」を結成したのです。
「一水会」は「売国奴」と断定した企業や政治家などに街宣車を乗りつけての嫌がらせで金品を奪う任侠右翼とは違いあくまでも精神・思想面での活動でしたが、昭和48(1973)年に防衛庁が催し物にストリッパーを呼んだことに抗議して会場に乱入する事件を起こしています。鈴木さんはこの事件で逮捕されて産経新聞を懲戒解雇されますが、かえって知名度が上がり、「元記者」と誤解した新聞や雑誌から記事の依頼が来るようになって右翼の論客として活躍するようになりました。「たかじんのそこまで言って委員会」の常連だった頃の視聴者(思想的には同調しない)として冥福を祈ります。
  1. 2023/01/31(火) 15:45:54|
  2. 追悼・告別・永訣文
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続・振り向けばイエスタディ385

「あれは日本の漁船だな」「12海里内です」志織中尉は日没後に副操縦士として千島列島沿いに太平洋側を哨戒飛行していた。すると後席のTACCO=戦術航空士たちが数隻の日本漁船が得撫(ウルップ=択捉島の北隣)島沖の海上で停船してしているのを発見した。Pー8ポセイドン対潜哨戒機ではオペレーターの下士官1名を含む5名(長時間の飛行では機上整備員や補助要員=雑用係、交代要員が加わることもある)の搭乗員のうち機長と副操縦士は運航士官、TACCO2名は戦術士官として同格で作戦行動では先任者が指揮を執る。
今回もロシアを無用に刺激しないため領海と主張している12海里よりも外を飛行しているから漁船が停船している理由は判別できないが、ウクライナ侵攻で経済制裁を受けて以降、日本漁船の北方領土近海での操業を許可していないので操業ではないはずだ。
「ロシア軍の小型艇が接近しています。臨検を受けるかも知れません」「日本のコーストガード(海上保安庁)に通報しろ」「ラージャ、ジャパン・コーストガード、ディス・イズ・US・ネービー(こちらアメリカ海軍)、オルカ(コールサイン=仮称)・スリー・エイト(888)・・・」TACCOの通話を背後に聞きながら機長と志織中尉は12海里ギリギリまで機体を接近させた。相手が航空自衛隊であれば無線による通告・警告に続き戦闘機が緊急発進してきて領空侵犯を阻止する要撃行動を始めるはずだ。ところがロシア防空軍は放置している。
1983年9月1日に領空侵犯した大韓航空機がサハリン上空で撃墜された時もソビエト連邦防空軍のレーダーは機能停止していたと言われている。しかし、日本に武力攻撃を加えていながらそれはないはずだ。仮にそうだとすれば日本は絶対に手出しをしないサンドバッグ国家と思われていることになる。むしろ殴られるのが好きなマゾヒスト国家なのかも知れない。
「ロシア軍の小型艇と漁船が接舷しているぞ。何か物資を受け渡ししているだろう」「いいえ、兵員が乗り移っているようです」後席の窓から超高感度望遠暗視眼鏡で確認した女性TACCOが叫ぶように報告した。実は運航士官の2名は漁船の位置を通過する時に操縦桿を切り、12海里内に進入して確認を容易にしたのだ。当然、ロシア軍が地対空ミサイルを発射してくる危険性があるので即座に離脱した。何かあれば操縦ミスで片づけることになる。
「漁船団と小型艇が離れました。小型艇は得撫島に戻ります。漁船団は無灯火で発進して速度を上げました」「我々に発見されたことは承知しているからな。追跡してコーストガードを誘導しよう」「ラージャ」今日の搭乗員では機長よりも先任の男性TACCOが指揮を執った。機長と志織中尉は指揮に従って暗夜の海面を逃走する漁船団を追跡した。その間に女性TACCOは無線機で根室海上保安部に位置や進路などの情報を連絡した。
「新月の暗夜に無灯火で航行されては危険極まりないですね」「よほど見つかりたくない荷物を積んでいるんだろう」根室海上保安部では小型高速巡視船・ふなしりを派遣していた。ふなしりは2012年に配属されたとから級巡視船の20番船で35ノットを超える高速度が自慢だが、月齢0の漆黒の海上を無灯火で航行してくる漁船団を発見してもチリヂリに分かれて逃走されては打つ手がない。
「ウチの探照灯だけでは不十分だからアメちゃんにも照明をリクエストしたいな」「飛行機のランディング・ライトは脚を下ろさないと点灯できませんよ。位置情報をもらっているだけで恩の字です」消灯している船橋では船長と副長を兼ねている航海長が双眼鏡で前方を注視しながら臨検要領を話し合っていた。
「前方500メートルに船団発見、20隻います」「探照灯、照射」レーダー員の報告を受けて船長は即座に命令した。同時に船橋の側面から探照灯の強烈な光線が前方を照らした。すると真っ黒い海面に漁船が立てる押し波(船首で掻き分ける波)が白く浮き上がった。
「停船命令」「了解、こちら根室海上保安部、巡視船ふなしり、本船前方の漁船20隻に停船を命令ずる。即座にエンジンを停止させなさい」航海長が通信機のマイクで停船命令を伝えると船長は双眼鏡が窓に接するほど身を乗り出して注視した。
「駄目だ。漁船はバラバラになって逃走を始めた。警告射撃伝達」「逃走すれば発砲する。停船しろ」カンカンカン・・・「漁船が発砲してきました」航海長が警告を言い終わる前に漁船の甲板に黄色い閃光がまたたき、船橋に弾丸が当たる乾いた金属音が響いてきた。
「あれはロシア軍を乗せている。応戦しろ」「VADSを使いますか」「構わん、エンジンを吹き飛ばせ」「甲板員に告ぐ、VADS射撃準備」ふなしりは戦闘機の20ミリ・バルカン砲を艦船用に改造したVADSを搭載している。船長としては2001年12月22日に九州南西海域で北朝鮮の工作船を追跡した巡視船が機関銃の銃撃を浴び、ロケット弾まで発射された事態の再現だけは避けたかった。そのためには圧倒的な火力を見せつける先制攻撃しかない。
  1. 2023/01/31(火) 15:44:51|
  2. 夜の連続小説9
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2月1日・無表情な喜劇王・バスター・キートンの命日

1966年の明日2月1日は演技中に全く表情を変えないことから「偉大なる無表情」「死人の顔」と呼ばれていながらチャールズ・チャップリンさんやハロルド・ロイドさんと共に「世界の3大喜劇俳優」と評されているバスター・キートンさんの命日です。
落語でも「出の顔」と言って噺家が舞台に登場した時には観客をなごませる笑顔を振り撒きくものですが、役者にとって顔の表情は手足の仕草・動作以上に感情の機微を表現する手段であってそれを封印しながら3大喜劇王と呼ばれるほどの人気を博したのには感心するしかありません。
キートンさんは1895年にアメリカのカンザス州ピクアで舞台芸人夫婦の長男として生まれました。本名はジョセフ・フランク・キートンです。両親はキートンさんが4歳になると「キートン3人組」を結成して舞台に上げ、父親が幼いキートンさんの脚を持って逆さに振り回す人間モップなどの荒っぽい演技で人気を獲得しました(今なら児童虐待です)。それでもキートンさんは泣くことなく喜劇を演じていたそうです。弟と妹が生まれると2人も加えて「キートン5人組」になりましたが、キートンさんほどの演技力はなかったようで再び「キートン3人組」に戻っています。キートンさんの「バスター=頑丈」と言う芸名はこの頃、階段から転落しても泣かないのを見た手品・奇術師が「なんて頑丈なんだ」と感心したことに由来します。
1917年にニューヨークへ出るとチャップリンさんをアメリカで売り出した映画会社で多くの作品に出演するようになって「キートン3人組」は自然消滅しました。初期の作品では後年の代名詞になる「無表情」ではなく笑顔や泣き顔、激怒した顔などの感情表現を惜しげもなく披露しています。
1918年には第1次世界大戦に出征したため映画界からは遠ざかりましたが帰国後はチャップリンさんの映画撮影所を買い取って独立すると初の長編映画に出演しました。それからは自ら脚本・監督・主演する作品を次々に発表し、「無表情」を役者としての個性とするようになっていきました。
しかし、映画産業の発展によって作品の規模、出演者の人数が拡大すると個人経営では対応できなくなり1928年に映画撮影場を売却して大手映画会社に移籍しましたが、分業システムや経営優先の映画製作に意欲が萎え、脚本の執筆や監督としての演出からは手を引き単なる間抜けな男のドタバタ劇に出演するようになり、次第に酒に溺れてアルコホール障害を患い、やがて破産して映画の表舞台から消えてしまいました。
その原因としては極端なハスキー・ボイスだったため本人の音声も流れるトーキー作品では観客に嫌悪感を与えると言う通説がありますが、1930年公開の「エキストラ」では美声とは言えないものの洒落た歌声と華麗なダンスを披露しています。
その後は役者ではなく監督や原案・企画、ギャグの演出などの裏方に回りましたが、1952年の映画「ライムライト」では老ピアニスト役でチャップリンさんと共演しました。1959年にはアカデミー名誉賞を授与されています。
  1. 2023/01/30(月) 14:16:27|
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続・振り向けばイエスタディ384

「一郎さん、戦っている自衛隊員を激励する歌って何が好いのかしら」岐阜県可児市の昭和一郎=島田信長元准尉のスマートホンに北海道の雪うさぎ=森田照子からメールが入った。2人は東北地区太平洋沖地震の後、仙台市が被災者と捜索や救助、復興、支援に当たっている自衛官、警察官、消防士、海上保安官、その他の職員を激励するFM放送を企画し、全国のローカルFM番組の人気DJを招集した時に一緒になった災害派遣の戦友だ。雪うさぎは北海道への帰路、宮古市に災害派遣されていた名寄駐屯地の第3普通科連隊を慰問して今の夫と知り合い、結婚するまで昭和一郎から多くの助言を受けていたので信頼関係は特に強い。
「そうかァ、雪うさぎは札幌ローズになるんだな」メールの文面によると雪うさぎは北海道知事の道北・道東地区の住民に対する避難指示を受けて札幌に移動したが、生命を賭けて任務を遂行している自衛官などを激励する番組への出演を依頼されて子供たちは愛媛県の義父に預け、札幌に残って放送を始めるようだ。札幌ローズと言うのは東京ローズをもじった命名だが、これは第2次世界大戦中の昭和18年3月からラジオ・トウキョウで放送していた英語番組「ゼロ・アワー」の女性DJがアメリカ軍、イギリス軍、オーストラリア軍の兵士の間で絶大な人気を獲得して氏名不詳にしていたため勝手に呼んでいた仮名だ。
「今の自衛官の大半は平成世代だから俺に相談されても困るなァ・・・」メールを読み終えて昭和一郎はスマートホンをテーブルに置いて腕組みしてしまった。昭和一郎の番組はDJ名でも判るように昭和歌謡が専門だ。確かに岐阜県内にも航空自衛隊はあるが飛行開発実験団と第2補給処なので現時点では戦闘に参加していない。守山駐屯地の陸上自衛隊も大都市・名古屋の治安維持が主任務なので、現時点では自衛隊を激励する特別番組は企画していない。
「と言って軍歌をバンバン流せば右翼の街宣車みたいだ。第一、信繁でも軍歌を好まないからな」昭和一郎は番組を始めて間もない頃、軍隊経験者のリクエストで8月に軍歌と戦時歌謡曲の終戦特集を放送したことがある。ところが戦後世代の聴取者から「右翼の街宣車のようだ」との抗議が殺到して市役所の担当者から「軍歌は禁止」と宣告されてしまった。それでも高齢者からリクエストが続いたため軍が公式に採用した軍歌と戦時歌謡曲の違いを詳しく説明して8月の終戦特集は続けていた。そんな昭和世代でも戦前派はこの世から消えてしまい、自衛官になった昭和40年代生まれの信繁でさえ日本の軍歌や戦時歌謡曲は好まない。
「軍歌なら明治の曲に限るな。戦時歌謡曲は止めた方が良い」昭和一郎は信繁が自衛官なのに軍歌や戦時歌謡曲を好まない理由を訊いたことがあるが「歌詞が嘘っぽい」と言うことだった。信繁は出征する夫や息子に親や妻が「死ね」と願うはずがなく、それを歌詞にして唄わせた時代が許せないと怒っていた。その点、明治期の軍歌は勇壮で力強く、死を描いた「戦友」にしても情感豊かで胸に訴えるものがある。
「オープニングは『雪の進軍』に限るな。あれは元気が出る」唐突に思いついた妙案に昭和一郎は自分で満足して顎が胸に着くほどうなずいてしまった。「雪の進軍」は日清戦争に従軍した永井健子軍楽長が作曲した明治28年の軍歌で大山巌元帥の愛唱歌だが、昭和に入ると末尾の「どうせ生きては帰さぬつもり」だった歌詞が「帰らぬつもり」に変更され、戦時中には「厭戦気分を煽る」と一般市民にまで歌唱が禁じられた。
「後は戦争映画の主題歌かな。先ずはポール・アンカのザ・ロンゲスト・デーだ」昭和一郎は曲調と知名度だけで選曲したが、この曲はノルマンディー上陸作戦を描いた映画「史上最大の作戦」の主題歌なので侵攻してくるロシア軍の応援歌になりかねない。
「渋いところでララ・アンデルセンのリリー・マルレーンもあったな」英語の楽曲の次はドイツ語になった。それにしても亡命後にアメリカのラジオ放送で唄っていたマレーネ・デート・リヒではなくドイツの番組が流したララ・アンデルセンを知っているところは流石だ。この曲はアフリカ戦線のイギリス兵にも愛聴され、捕虜収容所では両軍兵士が合唱していたと言う。
「そう言えばモリヤ小隊長が唄っていた『戦士の休息』は軍歌っぽいぞ。203高地の『防人の詩』は士気が低下する。後は信繁を見に連れていった宇宙戦艦ヤマトの『ヤマトより愛を込めて』、こいつは沢田研二だから却下。岩崎宏美の『聖母(マドンナ)たちのララバイ』・・・まてよ『銀河伝説』だったかな」映画の主題歌・挿入歌は使えそうだが多くは主題曲なので歌詞は入らない。それでも勘違いした「聖母たちのララバイ」はアメリカ海軍の原子力空母・ニミッツが真珠湾攻撃の前日にタイム・スリップするSF映画「ファイナル・カウントダウン」の挿入曲「ローレル&オウエンス」「ミスター&ミセスタイドマン」の盗作なので後から歌詞が入った。しかし、残念ながら「ビルマの竪琴」を思い出してロシア民謡でホームシックを誘う高等戦術にまで考えが及ばなかった。
  1. 2023/01/30(月) 14:12:35|
  2. 夜の連続小説9
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1月31日・これぞ「川筋者」の政治家・田中六助の命日

昭和60(1985)年の明日1月31日は五木寛之さんの代表作「青春の門」で描かれている遠賀川流域の筑豊炭鉱で働くヤクザと堅気の区分けがつかない荒くれ者たち=「川筋者」の気風そのままの政治家・田中六助さんの命日です。
現在は筑豊出身の政治家と言えば麻生太郎元首相になりますが、こちらは炭鉱を経営する財閥の家系であり、明治の元勲・大久保利通さんの息子の牧野伸顕伯爵の曾孫で吉田茂首相の孫に当たる名門の血統の学習院大学の卒業生なので「川筋者」には入りません。
田中さんは大正12(1923)年に遠賀川の源流がある福岡県田川郡上野村で布団屋の3男として生まれました。7ヶ月の早産だったため英彦山神社前の住人で豊臣秀吉さんの御前相撲で35人抜きした怪力無双の毛谷村六助さんにあやかって命名されました。
地元の旧制田川中学校から興亜専門学校=現在の亜細亜大学に進学すると海軍飛行予備士官として搭乗員になり、三重県鈴鹿航空隊で特別攻撃隊としての出撃を待ちながら後輩の指導に当たりましたが出撃命令が下らないまま敗戦を迎えました。
敗戦後は政治家を目指して早稲田大学政治経済学部新聞学科に進学し、昭和24(1949)年に卒業して日本経済新聞に政治部記者として入社しました。記者としては第3次吉田茂内閣で初当選ながら異例の抜擢を受けた池田隼人大蔵大臣担当になり、大蔵官僚出身の大蔵大臣として多大な業績を上げながら失言で退任に追い込まれてからも親交を保ち、昭和35(1960)年に日本経済新聞社を退職して衆議院選挙に出馬しましたが落選し、昭和38(1963)年に再出馬して当選を果たしました。再出馬に当たっては池田首相が強く根回ししたため当選後は宏池会に所属して大平正芳さんの側近になりました。
ここからが「川筋者」の面目躍如で池田首相没後の派閥の後継者争いでは佐藤栄作首相を利用して大平さんを会長にするとその後も派閥の力学を用いた謀略で暗躍し、昭和53(1978)年に第1次大平内閣が発足すると内閣官房長官に就任しました。官房長官としては口下手な大平首相の分まで喋りまくり、放言・失言・暴言を連発させてマスコミからは「おしゃべり六さん」と仇名されました。昭和54(1979)年の内閣改造では自民党筆頭副幹事長に移動しましたがロッキード裁判の報道が過熱している中、浜田幸一議員=ハマコ―のラスベガスでの巨額賭博事件が発覚するとヤクザ同士の手打ちのように引導を渡して辞職させました。
昭和55(1980)年に大平首相が急逝した後、宏池会の会長に鈴木善幸さんが就任すると渡世の義理を通して首相にはしましたが早々に見切りをつけ、続く中曽根康弘内閣で自民党の政調会長になると鈴木首相と同じく宰相の器ではない宮沢喜一さん潰しに躍起になりましたが、田中さんが亡くなって2年後の昭和62(1987)に就任してしまい、やはりこの国を亡国の憂き目に堕としました。
最晩年は持病の糖尿病が悪化して急激に体調が悪化しましたが、吉田学校の卒業生の退陣で組織が劣化して動脈硬化の症状を呈していた自民党で最期の悪足掻きのように策謀を巡らしながら亡くなりました。62歳でした。
  1. 2023/01/29(日) 14:44:05|
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続・振り向けばイエスタディ383

その日、東京ではモリヤ佳織将補の官舎に愛機・Pー8ポセイドンの定期検査のため厚木基地に来ている志織中尉が遊びにきていた。母子で料理を作り、続きは味わいながらの品評会にして酒も酌み交わしていた。今夜の酒は南洋風のラム酒とココナッツの味と香りを楽しめるリキュール・マリブの牛乳割りだ。パイロットだけに酒も栄養価を配慮している。
「マミィ、まだ日本は戦時態勢に移行しないの。私もインド洋で中国海軍の潜水艦を追っていたけど日本が石油ルートを太平洋航路に変更した上、沿岸のイスラム諸国が日本のタンカーを撃沈して環境破壊が起きれば今は黙認している中国の暴挙を絶対に許さないって声明を発表したからアフリカへの武器輸出の監視だけになっていたの」「イスラム諸国の声明は日本では報道されなかったわ・・・パン粉を多めにするのはニンジンさん式ね」志織中尉の説明に佳織将補は日本のマスコミの情報隠蔽を示唆したが、毎度のことなのでフォークで志織中尉が作ったハンバーグを口に運んで評価した。志織中尉はモリヤ坊主と暮らしていた幼い頃、台所でハンバーグを作っているのを見て手順を覚え、保育園の砂場の飯事(ままごと)で披露すると保育士たちが「美味しそう」と感心するほどリアルな仕草だったそうだ。その後、ハワイでは義祖母のスザンナから和洋食とハワイの家庭料理を習って腕を磨き、献立の幅を広げている。
「三沢に帰ってからは北太平洋でロシア海軍の監視に当たっているけど米日安保条約が発動されないからネーバル・ジエータイ(海上自衛隊)と一体化した行動が採れないの。だからジエータイのPー1がオホーツク海と日本海、私たちが千島列島沿いにカムチャッカ半島まで飛んでいるのに島1つを挟んだ24ノーティカル・マイル(海里=領海)を境界線にして別行動なのよ。これって変じゃない」実は佳織将補も在日アメリカ軍で勤務しているハワイの太平洋軍司令部時代の陸海空軍海兵隊の友人たちから同じ苦情を受けていて耳にタコができている。そのため人脈を動員して調査したありそうな裏話を説明することにした。
「石田首相が防衛出動を躊躇しているのにはとても日本的な事情があるみたい。志織は小学生からアメリカで育ったから日本の議院内閣制をあまり理解していないかも知れないけど、行政府の長の内閣総理大臣も国会議員であることが絶対条件なの。だから選挙区の有権者が落選させれば失職させることができるのよ」「ふーん、大統領制とは全く違うのね。イギリスと同じみたい」アメリカの大学を修了している志織中尉にとってはこの程度の知識はあらためて聞くまでもないが、母親の丁寧な説明に礼を尽くして無知を演じた。
「石田首相は宮谷貴一って言う首相の後継者を自認しているけど・・・」「宮谷ってグラダディ(グランド・ダディ=祖父)が嫌ってる売国総理ね。スポークスマン(官房長官)の時、A日新聞が歴史教科書の大陸への侵略を進行に修正させたって誤報を流して韓国と中国が外交問題にしたら謝罪の談話を発表したんでしょ。自分が首相の時も韓国を訪問して全斗煥大統領にA日新聞が捏造した戦時売春婦問題を持ち出されて、調査しても証拠は発見できなかったのにスポークスマンに謝罪させた。グラダディは宮谷がテレビに映ると怒り出すから私も嫌いよ。顔だって妖怪みたいで気持ち悪いじゃない」どうやら母国愛を堅持しているノザキ中佐はハワイのテレビ局が放送する日本のニュースで宮谷元首相が映ると怒り狂っていたらしい。当然、志織中尉には嫌っている訳を教えたので呆れるほど詳しいのは当然だった。
「その宮谷首相がPKO法を制定して自衛隊をカンボジアに派遣したのよ」「日本のPKO法は派遣地域で日本人が危険に晒されても自衛隊が救助どころか保護することもできなかったんでしょう。加倍政権が改定してやっとマトモになったってダディが言っていたわ」志織中尉は日本で安全保障関連法案が審議されていた頃には大学を卒業する直前だったが、オランダのモリヤ坊主、当時は2佐に解説を求めたようだ。佳織将補としては日本で報道を見聞し、当事者として審議を直視していた自分に質問してもらいたかったが、法律の専門家としてモリヤ検察官を選択したのだと納得することにした。
「その宮谷首相は石田首相と同じ広島が選挙区なんだけど、PKO法を成立させて自衛隊を海外に派遣したと地元で徹底的に批判を受けて『次の選挙で落とせ』って市民運動が起こったんだって。実際、広島では防衛庁長官が選挙で落ちて辞職に追い込まれているから国会議員にとっては現実の恐怖なのよ」「管(くだ)首相が辞めたのも選挙区の横浜の市長選挙で自民党の候補が惨敗したから横須賀選出の若手アイドル議員が次は総理が危ないって忠告したからだったわね」あの頃は志織中尉は三沢基地で日本のニュースは見ていて、アメリカ人の同僚に解説を求められるため独自に研究していたようだ。
「その宮谷が『絶対に自衛隊の行動を命令してはいけない』って厳命したそうよ。石田首相はそれを遺言みたいに守っているみたい」会食と酒席の話題としては面白いが真偽は不明だ。
  1. 2023/01/29(日) 14:42:45|
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1月30日・ベトナム戦争でテト攻勢が始まった。

1968年の明日1月30日にベトナム戦争で北ベトナムによるテト攻勢が始まりました。テトと言うのは太陰暦の元旦のベトナムでの呼び名です(中国の春節)。
ベトナムはカンボジア、ラオスと共にフランスの植民地で、日本が1941年12月8日に第2次世界大戦に参戦してイギリス、オランダに勝利した後もナチス・ドイツに降伏して成立したヴィシー政権を友邦として継続支配が認められていました。ところが1944年6月6日のノルマンディー上陸作戦によってナチス・ドイツに敵対するドゴール政権が主導権を握ると東南アジアでも日本と紛争状態になり、当然の結果として降伏しました。
日本の東南アジアでの統治政策は平成の天皇が謝罪を繰り返すような搾取や収奪ではなく近い将来の独立に向けての国家建設を主眼として政治制度や法律を整備して近代国家としての基盤を固め、学校教育を進め、現代医療を普及させ、耕作地や水路の整備と農業指導によって食糧自給力を向上させ、道路や水道、電気や電話を建設するのと同時に再びヨーロッパの植民地にならないように軍を創設して国防力を強化しました。
ところがドゴール政権の厚かましさで連合国に割り込んだフランスは日本の無条件降伏を受けて戦勝国気取りでベトナムの植民地支配を再開・奪還するつもりで軍を派遣してきましたが、陸軍中野学校出身者を中心とする日本軍の軍人が多数加わったベトナム軍は頑強に抵抗し、カンボジア、ラオスを巻き込んだインドシナ紛争に発展しました。結局、フランスはアルジェリアなどアフリカの植民地でも独立運動が始まったためベトナムから撤退せざるを得なくなり、長細い国土を北緯17度で2分して共産党中国の支援を受けた北ベトナムとフランスに後事を託されたアメリカの傀儡政権の南ベトナムとの間で1960年からベトナム戦争が継続したのです。
ベトナム戦争では北ベトナムが農村に武器や弾薬を備蓄し、農夫に変装した兵士が集結すると攻撃を開始し、撤退時も農村に潜伏するゲリラ戦術を常用したため正規軍との戦闘以外は考えていなかったアメリカ軍は開戦当初から劣勢に陥っていて、それを見て取った北ベトナム軍が南全土での一斉攻勢で勝機を掴もうとしたのがテト攻勢でした。
この攻勢では南ベトナムやアメリカの政府機関や公共施設、企業、軍事基地が攻撃目標になり、当時の首都・サイゴンではタンソンニャット国際空港やアメリカ大使館が北ベトナム軍ゲリラに占領されました。これに対してアメリカ軍は北ベトナムの都市へ大規模な無差別爆撃を実施して「アメリカ軍は文民を殺せないのが弱点」と思い込んでいた北ベトナム軍を驚愕させて攻勢の力を弱めました。しかし、アメリカ国内では反戦活動家=共産主義者が無差別爆撃を戦争犯罪と糾弾し、「戦争終結は近い」「正義=アメリカは勝つ」と信じていた支持派も実際の戦況を知り、戦争の正当性に疑問を抱くことになりました。
この攻勢自体は毛沢東主義を実践する北ベトナムが南の支配地域でカソリックの修道女を含む一般市民を路上裁判で親アメリカ=売国奴と断定して多数処刑していることに都市部の民衆が反発し(日本では報道していない)、ゲリラ戦の基盤を失ったことで各個撃破されて失敗に終わりましたが、宣伝効果は勝敗を決するほど絶大でした。
  1. 2023/01/28(土) 14:17:46|
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続・振り向けばイエスタディ382

「今回はマスコミにも我が国の領土内で行われている残虐行為の実態を認識していただくため現場から届いた画像を全面的に公開したいと思います。PTSDが心配な方は自己判断で見るのを控えて下さい」無意味に長引いた閣議を終えて立野官房長官は事前に召集していた臨時記者会見に臨んだ。閣議中に中国大使館が開いた記者会見のテレビ中継は視聴していて毎度の狡猾な印象操作は承知している。それを撃ち崩すだけの衝撃を与えるためには閣僚に配った現場写真の公開以外にないと考えたのだが情報の管理者である釜田防衛大臣は「国民の反戦世論を誘引する」と反対した。そこで双木外務大臣と2人がかりで論破して石田首相を渋々うなずかせたのだ。やはり大半の記者も茶封筒から出した画像を見て顔を背けた。
「画像番号1番は漁港で殺害された漁業組合長です。遺骸には手榴弾のブービートラップが仕掛けられていたようでそれを作動させた中国軍の兵士と一緒に吹き飛んだ様子が2番から5番の画像です」説明には壇上のスクリーンに投影した写真を見せることになるが、流石の立野官房長官も直視することは避けて原稿を読む振りをした。解説中に嘔吐すれば面目丸潰れだ。
「画像番号28番からは呂論町役場になります。先ず多くの手榴弾で破壊された1階ホールの住民課の状況です。続いて31番は庁舎の裏で殺害されていた職員と利用者の島民の遺骸です」31番からは陸曹が撮影した非常口の外で折り重なるように倒れている職員と利用者の遺骸だった。若い女性職員も目を開いたままの可愛い顔で写っている。
「38番は34番の女性の遺骸に仕掛けられていた手榴弾のブービートラップが爆発した結果です。この時、女性の目を閉じさせようとした隊員が巻き込まれて死亡しました」記者たちは遺骸とは言え顔は無傷の若い女性の写真に安堵していたのだが、それが無残に吹き飛び血液と千切れた肉片、脳漿や臓器などの内容物が四散している凄惨な光景になっていた。
「107番からは呂論空港です。警備員と事務所の男性職員は射殺されています」病院での高齢の入院患者たちの射殺された遺骸に続き、空港の画像になった。記者たちも流石に慣れてきたようで表情を変えることなく解説に合わせて用紙を繰った。
「ところが若い女性2名は待合ロビーのソファーの上で絞殺されていました」唐突に若い女性の全裸の写真になった。絞殺体なので今までの身体に弾孔が開き、貫通した側は皮膚が引き裂け、血みどろになっている悲惨な遺骸とは違う。その落差に男性記者たちは不謹慎ながら欲情を覚えてしまった。一方、女性記者は違う表情で目を反らしている。口にはしないが胸中では「自衛隊が女性を視姦した」と非難しているのかも知れない。
「184番は島内の牧場に作ってあった落し穴のブービートラップに落ちて死亡した隊員の遺骸です。隊員は運悪くうつ伏せの状態で落下したため全身に鋭利な刃物が突き刺さり、引き上げた時には死亡していました。建軍駐屯地に搬送してからの医官による検屍の結果、死因は心臓に刃物が刺さったことによる心停止、即死でした」死亡したのが自衛官だからなのか記者たちは冷ややかな視線で今まで以上に悲惨な遺骸を注視した。
「以上、321枚を配布します。どの写真も新聞、テレビ、各社のインターネット・サイトでの使用は任意としますが、あえて配布した趣旨を踏まえて画面の修正は控えて下さい」それからはFー2とAHー64の空襲による建物の損害、地上戦闘での日中の戦死者や捕虜、救出された島民の画像が続き解説だけで午後になってしまった。
「それでは質疑に移ります。手順はいつもの通りです」ここで司会進行の秘書官が声をかけたが、普段であれば会見の主導権を奪おうと即座に手を上げる記者たちが重苦しい顔で写真を収めた茶封筒を眺めている。やはり現場の惨状を共有して当事者である自衛隊を誹謗冒涜することが躊躇われるようだ。すると記者たちのスマートホンが一斉にメールの着信音を鳴らし始めた。
「M日新聞の三宅です。誠に申し上げにくいのですが、航空自衛隊の攻撃機が島内の集落を爆撃した法的根拠は何ですか」やはりメールは編集部からの質問の指示だった。編集部では中国大使館での記者会見から戻った記者の報告を受けて今回の自衛隊の行動を徹底的に批判して国民に反戦世論を扇動する方針を決定しているようだ。
「ご覧になったような島民の無差別虐殺を阻止するための緊急避難です。実際、F―2による攻撃で行動を妨害したことで島民が退避する時間を作られたのはご理解の通りです」編集部は対領空侵犯措置ではなくFー2を発進させて居住地域に爆弾を投下させた航空自衛隊の処置を追及させているのだが、それを口にする記者は他社を含めて誰もいなかった。
「中国は呂論島へ潜入したのは私的に日本に制裁しようとした将校と同調者だと言っていますが」「私的制裁でここまで殺るとなると本隊が来ればどうなるのか・・・」この答えで記者はPAC2の発射と中国軍輸送機の撃墜の質問のメールを読み上げなかった。
  1. 2023/01/28(土) 14:16:43|
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流石は戦車王国の傑作!レオパルト2が参戦

野僧の津軽在住の頃と同様に暖房もなく厳寒に耐えているウクライナ軍は春季攻勢でロシア軍を領土から撃退させるつもりのようで欧米に対して戦車の供与を要求し、それに応えてアメリカはM-1、イギリスはチャレンジャーを提供することを決定していましたが、敗戦後は永久戦争犯罪国として日本以上に腰が抜けているドイツも旧ソビエト連邦と双璧を為す戦車王国としての傑作・レオパルト2を保有国の流用を含めて参戦させることを表明しました。ちなみにドイツが保有するレオパルト2は244両で(陸上自衛隊でさえ570両)、大半は部品共喰い用なので稼働するのは68両だそうです。
レオパルト2は日本がソビエト連邦軍の新型戦車・T-72の125ミリ滑空砲には全く歯が立たないライフル式105ミリ砲の74式戦車を採用して実際は無限軌道=キャタビラが外れやすい欠点になる姿勢変換装置などを喧伝していた1976年に採用されましたが、同時期に開発されたにも関わらず砲塔や車体前面の装甲は避弾傾斜をつけない垂直・直線の2重構造(当初は中は空だったが後にセラミック製タイルを挿入した)で主砲も120ミリ滑空砲とT-72を凌駕する一世代先行する傑作戦車でした。
実際、レオパルト2は西側諸国が次世代の戦車として遅れて開発・採用したアメリカのM-1、フランスのルクレール、イギリスのチャレンジャー、おまけにイスラエルのメルガバ、日本の90式、韓国のK-1=88(パルパル)などと比べても走行性能(速度だけでなく燃費や騒音、操縦性と旋回、不整地踏破力なども含む)や防御力(砲撃や対戦車ミサイル、対戦車地雷に対する耐久力だけでなく主に乗員の生存性)、攻撃力において遜色はなく完成度では最高峰の地位を堅持しています。また動力や車内空間に余裕があるため大幅な改造や付属品の追加・換装によって性能が格段に向上していることも世界各国が現在も新規採用している理由です。
レオパルト2はアメリカのレーガン政権がソビエト連邦との対決姿勢を公然化させていた1980年代に東西冷戦の最前線の防護壁・ドイツ陸軍の主力戦車だったので戦車王国復活の象徴になりましたが、1990年9月30日に東西ドイツの統一が実現し、1991年12月26日のソビエト連邦崩壊によって東西冷戦が終結するとドイツは最前線からヨーロッパの中央の安全地帯になり、「もう軍隊は不要、これからは警察で十分」と急激な軍縮を始め、不要・余剰になった兵器を次々に売却してレオパルト2も閉店大セールのように輸出するとスウェーデンが1990年代初頭に国産のS戦車の後継として採用し、以降はスペイン、カナダ、ポーランド、シンガポール(あの狭い国土に戦車が必要なのか?)、トルコが輸入しています。ただし、オランダは1979年に導入してドイツに次ぐ445両を保有していましたが現在はドイツと同様に輸出しています。またスイスも1983年に採用して1987年からはライセンス生産に移行しています。
その結果、NATO軍のアフガニスタン侵攻やトルコのシリア侵攻で使用されて抜群の戦闘力と防御力、何よりも信頼性を発揮したため「時代遅れ=年増」と言う風評が霧散して今回の「レオパルト2さん、ご指名」になったようです。
  1. 2023/01/27(金) 12:51:04|
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続・振り向けばイエスタディ381

「それでは江弦右駐日大使並びに中国人民解放軍駐在武官の朱武烈上校による記者会見を始めます」首相官邸では沈鬱な空気の中、一向に議論が進まない閣議が行われている頃、中国大使館では駐日大使と普段は顔を見せることがない駐在武官による緊急記者会見が開かれていた。中国は国際連合常任理事国の懲罰権の行使として日本に武力攻撃を加えているため外交関係は維持している。それはロシアも同様だ。日米安全保障条約は国際連合による仲裁が機能しないことを発動要件にしているのでこれが封殺にもなっている。
「昨日来、我が人民解放軍の部隊が鹿児島県奄美諸島の呂論島に不法侵入しているとの虚偽報道が繰り返されていますが、我が国政府の迅速かつ綿密な調査の結果、判明した事実を説明したいと思います」この前置きは予想していたので記者たちは無反応だった。
「先ず不法集団を指揮していたのはモン・ジュェチー(孟決起)、階級は少校、日本では3等陸佐に当たります。なお、我が共産党と人民解放軍の命令に基づく行動ではないので部隊ではなく指揮官でもありません。また階級も昨日で身分停止になっています。報道する時には十分注意して下さい」本論はやはり朱武官に代わった。朱武官も日本語は流暢で言葉づかいも丁寧だが眼光に威圧感があり、記者たちは注意されたことをメモした。
「孟は我が国が安全保障理事会で再三にわたり日本の大韓民国に対する不法行為を糾弾して懲罰権を行使しても責任を認めず、それどころか在日同胞の弾圧を続けていることに強く憤り、自分の部下たちへの愛国心教育のため中日戦争における日本軍の戦争犯罪を調べている間に私的報復を決意したようです。なお、孟は日本の大学への留学経験があり、そこで知り合った日本人たちが日本軍の戦争犯罪についてあまりにも無知で無関心だったことも報復の必要性としていました」「どこの大学ですか」この質問は無視されたが、ベビー・ブ―ム世代が大学に入る頃、全国各地に乱立した大学が少子化によって募集難に陥り、欠員の埋め合わせとして中国からの留学生を大量に受け入れているので名前を載せる必要はあった。
「それで孟は部下を扇動し、一部の部下が呼応して孟の私兵になり、実行に移したのです。実行手段については孟が手配した漁船に乗り込んで東海(中国語の東シナ海、韓国語では日本海になる)に出航したことまでしか判りません。ただ孟は兵士に56式歩槍を携行させ、射撃訓練や投擲訓練で横領していた実弾と手榴弾を大量に積んで行ったことは確認できています」自衛隊の呆れるほど厳格な弾薬管理を見慣れている記者は大量に横領で来た原因を質問したくなったが司会者の男性大使館員が冷たい視線で遮った。
「問題なのは日本軍、自衛隊の対応です。51名の不法侵入者に対して航空自衛隊は2機の攻撃機で島内の集落を爆撃した上、陸上自衛隊は2機の攻撃ヘリが捜索して掃討した。その後に地上部隊を派遣して生存者を皆殺しにしようとした。その冷酷な戦闘行動に人民解放軍少校だった孟も中日戦争の日本軍が目の前に現れたような恐怖を感じて投降したのです」朱武官はマスコミが現段階まで孟少校以下による島民の無差別殺害を報道していないことを利用した。統合幕僚監部と陸上自衛隊としては第42即応機動連隊が到着した時点から実況中継式にマスコミに情報を流して印象操作を封じようとしたのだが、町役場の惨状の映像を見た内局の官僚が「国民の反戦世論を誘発する」と反対して釜田防衛大臣も同意したのだ。
「そして我が人民解放軍は孟と行動を共にした兵士が出発前にメールを送った家族から通報を受けて今回の不法侵入を知り、輸送機を派遣して全員を拘束して強制帰国させようとしたのですが、自衛隊は地対空ミサイルで全機を撃墜して搭乗していた制圧要員200名を殺害しました。これは平時の不法行為に対する処置ではなく常任理事国に対する戦闘行動であり、我が国は断固抗議し、他の常任理事国と共に新たな処罰を検討します」記者たちは尖閣諸島の周辺空域に中国空軍の大編隊が襲来して航空自衛隊の全機緊急発進が間に合わず一時的に支配されたことは昨晩の南西航空方面隊司令官の記者会見で知っているが、司令官への責任追及と危機の言及に終始して終わっていた。一方、第5高射群が知念・那覇・恩納からPAC2を発射したことはJアラームが発令されていたため目撃した市民が少なく動画を撮影しなかったからなのか編集部へのメール投稿や電話連絡はなかった。
「航空自衛隊が爆撃したんだろう。対領空侵犯措置の警察権を越えているぞ」「陸も中国軍の幹部が怯えるほど残酷な殺し方をしたんだ。南京事変みたいに殺した人数を競い合ったのかも知れないな」記者会見が終わると記者たちは意に反して北海道へのロシア軍の攻撃に対処している自衛隊を賞賛する記事を書いていることへの鬱憤を晴らす絶好の材料を与えられて興奮気味に記事の下書を話し合った。それにしてもマスコミ関係者は先輩が捏造した南京事変の100人斬り競争を信じているようだ。今回も日本政府の記者会見は後手に回ったらしい。
  1. 2023/01/27(金) 12:49:54|
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そこまで一体にならなくても?護衛艦と巡視船が連続座礁

新年早々の1月10日の深夜0時10分頃に因島造船所でのアイラン検査を終えて航行試検中だった海上自衛隊の「雨」シリーズ=むらさめ級護衛艦の5番艦・いなづま(6100トン)が昭和18(1943)年6月8日に戦艦・陸奥が謎の爆枕を遂げた周防大島の南方2.5キロを航行中に座礁して緊急停止・投錨しました(戦艦・陸奥は広島県柱島の連合艦隊停泊地ではなく実際は周防大島の東方2.5キロに沈没している)。
ただちに艦内を点検したところ人的被害や浸水はなかったものの日出後に艦尾付近から漏れ出した油が海面に約30平方メートルほど広がっているのを発見して吸着マットで除去すると12時になって第6管区海上保安本部に「強い衝撃を感じた。自力航行できない」と通報しました。潜水員が水面下の艦体の外部を点検すると艦首のソナードームに亀裂と凹みがあり、左右の方向舵のうち右側の舵板がずれていて、左右のスクリューが損傷して特に右スクリューのプロペラの一部が欠損して可変ピッチ・プロペラの作動油が漏れていることが判りました。そこで海上自衛隊はパテで破損個所を塞ぎましたが油を止めることができず、油漏れが止まった1月15日に因島造船所に曳航されて修理を受けています。この間、現場近くの岩礁でいなづまの物と思われる艦底部の塗膜片や削れた跡が発見され、さらに海底から脱落したスクリューの羽根が回収されています。
かつて海上自衛隊と海上保安庁は「鯱(しゃち)と鮫(さめ)の仲」で潜水艦・なだしおの衝突事故の海難審判ではマスコミの批判報道を背景に証言を揉み消してまで海上自衛隊に有責裁定を発し、艦長の刑事裁判でも有罪判決を出させています。その理由としては海上保安庁が非軍事組織として創設され、共産革命勢力である国労に同調する運輸省労組の官僚・役人が指図していたため反自衛隊は信条であり、それに防衛予算を優遇する自民党政権への不満が加わって海難救助でさえ共同訓練を実施することはありませんでした。
ところが九州南西沖工作船事件で前回の能登半島沖工作船事件で海上自衛隊に海上における警備行動が発令されたことを打ち消すように単独で対処しましたが工作船に機関銃を乱射され、携帯式ミサイルまで発射されて能力の限界を自覚したところで中国の原子力潜水艦領海侵犯事件が起きて役割分担を認めざるを得なくなりました。これ以降は尖閣周辺海域などで共同対処していて両者の距離は急接近したと言われています。
それを実践したのか今度は1月18日の午前6時30分頃、新潟県柏崎市の椎谷鼻灯台の北西約1.1キロの海上で第9管区海上保安本部のつがる級巡視船の7番船・えちご(3100トン)が浅瀬に座礁しました。こちらも負傷者はありませんでしたが船底の損傷から浸水し、スクリューのプロペラが欠損しているため自力航行できなくなりました。
原因としてはパトロール中に灯台の消灯を確認するために接近して浅瀬に座礁したと説明していますが、この時期の新潟地域の日の出時間は午前6時50分頃なので消灯を確認するには海上だけに周囲が明るいような気がします。
この2つの事故で心配になるのはバブル期に海上幕僚長が訓示した「能力が劣る隊員が組織の中核になる危機」に海上保安庁も直面しているのではないかと言う余計なお世話です。
  1. 2023/01/26(木) 14:21:16|
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続・振り向けばイエスタディ380

呂論島に派遣された陸上自衛隊は翌朝まで島内の中国軍を捜索して5名を射殺する一方で投降してきた8名を指揮官の孟少校以下の12名と一緒にヘリコプターで建軍駐屯地に連行して捕虜とした。取り調べは西部方面警務隊が実施している。
「これが呂論島で行われた島民虐殺です」統合幕僚監部は「閣議に間に合わせるため」と言う名目をつけて内局・釜田防衛大臣を通さずに立野官房長官宛てで報告を届けた。昨日の事態発生は政権内でも情報共有されているので続報ではある。
「これは漁港で殺害された漁業組合長と派出所の警察官です」「ひッ」立野官房長官は陸上自衛隊が撮影した現場写真をA4判の茶封筒に入れて首相以下の参加者に配ったが、あまりにも凄惨な遺骸を見て女性の閣僚は悲鳴も上げられずに引きつった呟き声を口にした。漁業組合長は孟少校が仕掛けた手榴弾のブービートラックの爆発で上半身が吹き飛び、巻き込まれた兵士と2人分の肉塊になっている。一方、警察官は燃料タンクに被弾して炎上した車体で運転席に座ったまま黒焦げになっていて、その車体には無数の弾痕が残っていた。
「この高齢者は逃げているところを背後から射たれたようです。こちらも同様です。こちらの家は連射で銃弾を射ち込まれていますが中では住民が死んでいました。おそらく窓から様子を窺っているのを見つかったのでしょう」頭越しの報告に不快感を露わにして茶封筒に手をつけなかった釜田防衛大臣も周囲の官僚たちのただならぬ反応を無視できなくなり、画像を見たが即座に顔を背けた。閣議後に防衛省内局の官僚は「朝から大臣を不快にさせないため写真は見せなかった」と弁明したがそれも納得できた。
「これは町役場です。1階ホールは多数の手榴弾が投げ込まれて徹底的に破壊されていました。この女性職員の遺骸には手榴弾のブービートップが仕掛けてあり、隊員が1名巻き込まれて死亡しました」「これは町長の遺骸です。中国軍と会話中に射殺されたようです」「2階の各課のドアには手榴弾が仕掛けてありました」「この女性は島内一斉放送をした直後に射殺されています」立野官房長官は写真を確認しただけで裏面の解説を読み上げているが閣僚たちは悲惨な光景を見続けることになり、苦痛に耐えられなくなってきた。
「これは牧場に仕掛けてあった落し穴のブービートラップで死亡した隊員です」「もう止めてくれ。PTSDになりそうだ」画像が町役場に続き、岡元牧場で落し穴に落ちて刃物に刺されて死んだ隊員の遺骸のなると最高齢の閣僚が職務離脱を申告した。
「まだ半分にもなっていませんが・・・後で確認しておいて下さい。これが我が国固有の領土である呂論島で中国軍が犯した島民虐殺なのです」「この事態を見ても総理は防衛出動を発令されませんか」効果を確かめた立野官房長官が席に戻ると代わって双木外務大臣が石田首相に決断を迫る質問を投げ掛けた。それを聞いて閣僚たちは厳しい顔で石田首相を注視した。
「指揮官も捕虜にしたようだが本当に中国政府の命令だと証言しているのか」石田首相は手早く残りの写真を確認するとその中にあった空港で拘束された孟少校の写真に目を止めて確認してきた。すると釜田防衛大臣ではなく双木外務大臣が答えた。
「指揮官の孟少校は日本が中国の常任理事国としての懲罰に反抗しているため個人として日中戦争の犯罪行為に報復しようと志願者を集めたと証言しています。つまり侵攻したのは孟少校の私兵だと言うことになります」「そうか・・・」双木外務大臣としてはこの事態を石田首相に防衛出動を決断させる圧力にしたいのだが歴史に汚点を残すような嘘はつけない。双木外務大臣も選挙区の山口県内では絶対に口にできないが、吉田松陰の扇動を受けて討幕を実現した明治の元勲たちは「尊皇攘夷」の狂気に駆られて海外に乗り出したため外国を全て敵視していた。そのため朝鮮王朝の内紛への不要な軍事介入で日清戦争を発生させ、帝政ロシアの満洲獲得の野望に過剰反応した日露戦争にまぐれ勝ちすると、その虚言癖が対米英戦争を引き起こしてこの国を滅ぼした。戦前の尊皇攘夷・忠君愛国教育を受けた世代が消滅した今の日本では明治維新そのものを薩長土肥による反乱と捉えて否定する公正中立な歴史観が常識化していて、知性派の双木外務大臣も秘かに賛同しているのだ。案の定、石田首相は安堵したような顔で黙っている釜田防衛大臣に視線を送った。
「自衛隊は投降してきた中国軍の軍人を捕虜にしたようですが、治安出動中の準・警察職員として身柄を拘留するのは合法どしても、法務省としては駐屯地を代用刑事施設(留置場)とする法的手続きを踏んでもらわないといけません。さらに今後、どの段階で地方検察庁に送検して身柄を拘置所に移すつもりですか」ここで法務大臣が必要だが的を外した問題を持ち出した。おそらく法務省内でも現在の武力衝突を受けて戦時を想定していない日本国憲法に基づく現行法では対応できない国際法との齟齬を検討しているのだろう。それでも国際法は外務省の方が専門なので回答者は元防衛大臣の双木外務大臣になった。
  1. 2023/01/26(木) 14:19:51|
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1月26日・文化財防火デー=法隆寺金堂で火災が発生した。

昭和24(1949)年の明日1月26日に奈良県斑鳩の法隆寺の金堂で火災が発生して内陣と12面の壁画が焼失しました。この災禍を繰り返さないため翌年の5月30日に文化財保護法が制定され、この日が文化財防火デーになりました。ただし、その昭和25(1950)年7月2日には京都の金閣寺が寺僧の放火によって焼失しています。
法隆寺は18万7千平方メートルの境内に金堂と五重塔の西院伽藍と約350メートル離れた夢殿を中心とする東院伽藍があり、中でも西院伽藍は天智天皇9(670)年に焼失した後の7世紀後半に再建された世界最古の木造建築物群とされています。
金堂は外観が入母屋作りの2層3段式屋根なので2階建てのように見えますが内部に上層階はなく天井が高い1階建です。内陣には正面に本尊である釋迦牟尼佛と文殊師利菩薩・普賢菩薩の3尊像、東間に東方浄瑠璃浄土の薬師瑠璃光如来と日光菩薩・月光菩薩の3尊像、西間に西方極楽浄土の阿弥陀如来と観世音菩薩・大勢至菩薩の3尊像、東西南北には持国天、広目天、増長天、多聞天の四天王、さらに釋迦牟尼佛の3尊像の両脇には毘沙門天と吉祥天が控えています。このうち釋迦牟尼佛座像は頬笑みを浮かべている口元や杏仁形の目、図形的な衣紋の処理、首に3本の皺がないことなど平安期に成立し、鎌倉期に変貌を遂げた日本独自の佛像様式とは異なり、極めて大陸的です。
そんな金堂は満洲事変が勃発する前の昭和9(1934)年に着工しながら対米英戦争で工期は大幅に伸びていた解体大修理が終戦によって本格再始動していて、堂内の佛像は全て隣接する講堂に遷座して建物も上層部は解体されていました。
壁画についても取り外して保管・修復することが提案されましたが法隆寺側が信仰上の理由で難色を示したため当時の代表的日本画家・中村岳陵さん、荒井寛方さん、橋本明治さん、入江波光さんの4人による模写が行われ、それだけでなく京都の美術書専門店が原寸大の写真を撮影して4色刷りで着色複製しました。
法隆寺の金堂の壁画は江戸期に檀家制度による寺院の自立経営が確立する中、檀家を持たない官寺は困窮し、やむなく寺宝を一般公開することで収入を得たため全国に広く知れ渡り、明治以降は日本を代表する佛教美術の至宝として多くの外国人が拜観に訪れるようになっていました。
ところがこの日の朝7時過ぎに出火すると内陣と下層階が炎上し、午前9時過ぎに鎮火するまで燃え続けただけでなく消火活動の放水によって壁が崩落したのです。またこの工事に合わせて境内に消火用の溜め池が作られていて五重塔への類焼防止に役立ちました。
火災の原因については奈良地方検察庁が厳しく検証しましたが、法隆寺内の寺僧の諍いよる放火の噂はあったものの証拠はなく、模写に当たっていた画家が電源を切り忘れた電気座布団から出火したと断定されて法隆寺国宝保存工事事務所の所長以下3人と電気座布団の製造メーカーの社長が業務上失火と電気事業法違反で起訴されました。しかし、電気座布団からの失火も可能性の1つに過ぎず、検察側は公判を維持できずに業務上失火は無罪、電気事業法違反の罰金刑になりました。
  1. 2023/01/25(水) 14:08:52|
  2. 日記(暦)
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続・振り向けばイエスタディ379

「捜索が完了した地区名は北部の那真、東部の古郷、南部の麦家、西部の立中、最大集落の茶実地区は継続実施中です」呂論島の奪還作戦に当たっている第42即応機動連隊の派遣隊指揮官の福島3佐は死者の館と化している町役場で各分隊からの報告を受けると唯一破壊されていなかった町長室の電話で建軍駐屯地の西部方面総監部指揮所に連絡した。至近距離から胸部に銃弾を受けた町長の遺骸は血を噴き出しながら仰向けに倒れたようで、机の上に広げてある書類は真っ赤に染まっている。それでも右脇に置いてある電話機は飛び散った血痕が付いている程度でテイッシュで拭ってから使った。
「現時点で確認できている島民の死者は109名です。内訳は呂論町役場で町長以下の全職員と利用者の42名、徳邦会病院で入院患者のみ54名、医師と看護師は談話室に拘束されていましたが無事救出しました。空港で6名、漁港で2名、このうち1名は派出所の警察官です。漁港から町役場までの経路で5名、以上です」「・・・了解」電話を受けている総監部の幕僚は想像以上の犠牲だったのか即答しなかった。それでも救われる続きがある。
「島民の大半は漁船で沖永良部島と沖縄本島に逃れ、漁港から離れた集落の住民はギジと言う洞窟墳墓に隠れて無事でした」「それは良かった」「ただし、確認する手段がないので全員とは断定できません」日本政府は総務省に巣喰う旧・自治省の官僚が主導して地方自治体が保有する大量の文書を電子情報化する事業を強要したが、それは結果的に地方公務員の文書処理能力の低下を招き、大規模災害やテロ、戦争などの緊急事態で担当職員が不在になり、電子機材が機能しなくなった時の対応は遅々として進まない。その危険性は数年前、おそらく中国によって日本の電子機能が破壊されたことで学習したはずだが総務省は旗振り役だった立場上、後戻りするような対策は取らず、国内の電子情報企業に巨額の予算をバラ撒くことで収めた。
「死亡させた不法侵入者は26名、このうち12名は航空自衛隊と目達原のヘリによる空襲です。残り14名は捜索中に発見して銃撃戦で殺害しました。そして・・・」「ゴクリッ」福島3佐の声が重くなって幕僚も次の報告を察したのか生唾を呑んだ音が聞えた。
「我が方の戦死者は6名、このうち4名はブービートラップで殺られました。他の2名は銃撃戦です。負傷者は重傷が8名、任務継続可能の中軽傷者が19名です」福島3佐としては中国軍がブービートラップを常用し、想定外の損害を受けていることを教訓として訴えたのだが、幕僚は特に関心を示さなかった。確かにウクライナでの戦訓を学んでいれば特別なことではない。
「重傷者の処置は」「呂論島には南北に診療所がありますのでこちらの医師が駆けつけて応急処置してくれています。容態が落ちついてから徳邦会病院へ搬送する予定です。」「半分の損失だな」「・・・」戦死者と負傷者を数字で換算した幕僚の乾いた回答に戦死者の顔を知っている福島3佐は鼻息だけで返事して深くうなずいた。
「現時点で12名が投降しています。その中には空港で拘束した指揮官の少校と先任下士官の軍士長も含まれています」「指揮官が投降したのか」「輸送機で来るはずの本隊が航空自衛隊に全滅させられたので無駄死には止めたそうです」福島3佐も空港に派遣した部隊から「中国軍の指揮官が無抵抗で投降した」と報告を受けた時には困惑の前に驚愕したが、帝国陸軍の戦陣訓「生きて虜囚の辱めを受けず」には批判的なので非難するつもりはなかった。
「捕虜が出たんだな。法務官に代わる」「少校は部下にも投降を命じたのか」「中国軍では投降は軍規違反の重罪になるので自己判断に任せるそうです」法務官は本来、国際法が定める軍事法廷の判事を務める職務だが日本では憲法76条で特別裁判所の設置が禁じられているため自衛隊・自衛官が関係する裁判を統括している。一般大学法学部出身の法務官としては戦時の特別措置として軍事裁判所を開廷して文民殺害などの戦争犯罪を裁いてみたいのだが、防衛出動が発令されていなければ戦時ではない。
「捕虜はどこに収容した」「廃業したホテルの建物を無断で借用しています」「持ち主を含めて島民が避難してしまっていてはやむを得ないな」法務官は軍事法廷の判事として戦争犯罪を裁くつもりが平時の民事係争の発想で答えてしまった。その一方で福島3佐自身は孟少校には会っていないのでこれは事情聴取した派遣部隊指揮官の1曹からの請け売りに過ぎず、これ以上質疑応答の相手をするには心もとなかった。
「捕虜の取り扱いには十分に気をつけてくれ。敗戦後のBC級戦犯の中には筋肉疲労を訴えるイギリス軍の捕虜に灸をすえて拷問を加えたと有罪になった心優しい兵隊もいた」この他にも日本の敗戦によって立場が逆転すると欧米との文化・風習・道徳の相違から生じた誤解を捕虜虐待の戦争犯罪として告発された事例は非常に多い。日中も似て非なる隣人なのでかなり危ない。先ず中国人は儒教を生んでも守らなかった民族であることから指導するべきだろう。
  1. 2023/01/25(水) 14:07:18|
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1月25日・日露戦争地上戦の勝敗を決した黒溝台会戦が始まった。

明治38(1905)年の明日1月25日に日露戦争における地上戦の勝敗した黒溝台(こっこうだい)会戦が始まりました。
明治37(1904)年2月8日に戦端が開かれ、日本が2月10日に宣戦布告して始まった日露戦争の地上戦は乃木希典愚将の旅順要塞攻囲戦ばかりが有名ですが、実際は満洲を主戦場として明治37(1904)年4月30日と5月1日の鴨緑江会戦、同年5月25日と26日の金州南山の戦い、同年8月24日から9月4日の遼陽会戦、同年10月9日から24日の沙河会戦で日本陸軍が辛勝を拾い続け、ロシア陸軍は満洲軍総司令官のクロパトキン大将がお家芸の撤退戦略を常用したため沙河会戦以降は奉天の南で対峙しましたが、日本陸軍は深追いすることを避けて旅順攻囲戦で乃木希典愚将の第3軍が浪費して欠乏状態に陥っていた弾薬と兵員の到着を待って膠着状態に入っていたのです。一方、ロシア陸軍も当時はシベリア鉄道が単線だったため奉天で貨物を下ろした車両を返すことができず輸送力が先細りになって弾薬と兵員、食料や医薬品が欠乏していました。
そんな中、ロシア軍は消極的なクロパトキン大将に見切りをつけ、勇将・グリッペンベル大将に指揮権を与えて攻勢に転換させようとしましたが、前任の陸軍大臣として政界と軍内に豊富な人脈を築いていたクロパトキン大将は陸海満洲軍総司令官の地位を譲らずグリッペンベル大将は陸軍部隊の3分の1を与えられただけでした。それでもグリッペンベル大将が反転攻勢を企図して始まったのが黒溝台会戦です。
グリッペンベル大将は先ず世界最強のコサック騎兵による威力偵察を試み、日本陸軍の配備状況を探索するのと同時に可能であれば後方の兵站拠点の営口を襲撃して物資を焼き払うと言う大胆な作戦を独立ザカスピ・コサック旅団長のミシチェンコ中将に命じました。そして1月9日に奉天を出発したミシチェンコ中将の部隊は1月12日に営口に到着しましたが破壊活動は不十分に終わったものの8日間で日本陸軍の弱点を確認しました。
当時、日本陸軍は奉天の南側を塞ぐように鳥が翼を広げたような陣形を作っていて東側から黒木為楨大将の第1軍、野津道貫大将の第4軍、奥保鞏大将の第2軍、秋山好古少将の騎兵旅団と言う配列で、40キロの戦線を8000人で守る秋山旅団が弱点でした。
秋山旅団は同じ騎兵としてロシア陸軍の行動を「大作戦の兆候」と推察して満洲軍総司令部に再三警告しましたが、「凍結した大地では陣地を構築できない=攻勢はあり得ない」と受けつけず、焚火をして掘った地下壕に馬を隠し、溝とその土を盛った陣地に丸太で屋根をつけ、上に土を被せて凍結させた塹壕を構築して攻撃に備えたのです(陣地の構築方法は第2軍歩兵第34連隊の中隊長として参戦した曾祖父・青山寛少将の体験談)。
1月中旬にグリッペンベル大将は自分が指揮できる10万人の兵力で秋山旅団に襲いかかりますが、それでも満洲軍総司令部は前回同様の威力偵察と思い込み第8師団を増援に送っただけでした。結局、司馬遼太郎先生の「坂の上の雲」では「日本陸軍騎兵の父」になっている秋山好古少将の騎兵旅団は塹壕戦で耐え抜き、旅順から第3軍が到着したのを知ったクロパトキン大将が撤退を命じたためまたもや辛勝を拾うことができたのです。
  1. 2023/01/24(火) 15:25:55|
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続・振り向けばイエスタディ378

「これは酷いな・・・」茶実地区の商店街で中国兵を捜索していた第42即応機動連隊の隊員は町役場の庁舎の裏手で多くの遺骸を見つけて言葉を失った。漁港から町役場までの経路上でも数人の老人が射殺されていて男性は杖、女性は手押し車の取っ手を握ったまま前のめりに倒れていた。道路に面した幾つかの住宅の台所や洗面所の壁には小銃を連射した弾痕があり、中を確認すると住人が死んでいた。ところが町役場の裏手の非常口では高齢者の手を引いた女性職員や庇うように手を広げた男性職員が折り重なって倒れていた。おそらく1階の住民課の職員が利用者を非常口から逃がそうとしているところを中国兵に発見されたのだ。
「これじゃあ可哀そうだ」陸曹がデジタルカメラで現場写真を撮り終えると陸士長が目を開いたまま死んでいる同世代の女性職員の瞼を閉じさせようと眉に手を伸ばした。テレビなどでは掌で押し下げれば瞼を閉じるが、実際は大きく目を見開いた瞬間に死亡すると瞼の筋肉が収縮した状態で硬直して容易には閉じさせられない。時間が経過していなければ瞼を指で揉むか、掌で温めて硬直をほぐすことで閉じることもあるが、死後硬直が始まっていると本職の「おくりびと」=納棺師でもかなり難しい。多くの場合、特殊な接着剤を使用するらしい。
「やっぱり駄目か・・・」陸士長はテレビで見た通り掌で瞼を押し下げてみたが駄目だった。それを見た陸曹が瞼のマッサージを助言したので陸士長は高齢女性の手を握って横向きに倒れている女性職員を仰向けにした。その時、1個の手榴弾が足元に転がった。
「前川田士長が殺られた。ブービートラップに気をつけろ」遺骸に仕掛けてあった手榴弾が爆発して陸士長が即死すると死亡すると1階ロビーで陸曹から報告を受けた分隊長の1曹は階段で2階に向かう隊員たちに声をかけた。ブービートラップは1980年に国際連合総会で採択された「特定通常兵器禁止制限条約」と第2付属議定書で禁止されているが常任理事国であるロシアはウクライナの撤退を余儀なくされた占領地で多用して帰宅した多くの住民が犠牲になった。一方、中国はベトナム戦争で北ベトナム軍ゲリラと切磋琢磨して技術を進化させた本家本元だ。それを考えれば事前に注意喚起しなかったのは指揮官としての落ち度と言える。幸いと言うべきか呂論町役場の1階はロビーに続く広いホールをカウンターで仕切ったどこでも見る住民課で数個の手榴弾を投げ込んだようで滅茶苦茶に破壊されていた。そのため現場写真はカウンター越しに撮影しただけでブービートラップに掛かることはなかった。
「ドアにもブービートラップが仕掛けてあるぞ」案の定、2階の事務室のドアの内側にも手榴弾を使ったブービートラップが仕掛けてあった。それは安全ピンを抜き、安全レバーとドアのノブを紐で結んだ簡単な作りだが、ドアを開ければレバーが外れて隊員が中に入った頃合いの4秒後に爆発する。その他にも机で倒れ伏せている女性職員の遺骸には制服のベストに手榴弾を入れて紐を引き出しにつなぎ、姿勢を変えれば爆発する仕掛けが施してあった。これは殊更に女性に同情する自衛官の心理を利用したのか、逆に屍姦の趣味を狙ったのかは判らない。
「グエッ」同じ頃、集落の捜索を終えて牧場の牛舎に向かっていた別の分隊でも犠牲者が出ていた。草むらに人が伏せている形の物を見つけて近づいた隊員がジョン・ウェイン主演の1968年公開の映画「グリーンベレー」のように落とし穴に落ち、底に立ててあった刃物に突き刺されたのだ。中国兵は無人になった牛舎でスコップやツルハシ、ノコギリなどの道具を見つけると短時間で人間の背丈よりも深い穴を掘り、底に鋭利な刃物を立て並べた。ただし、映画では刃物ではなく竹槍だった。映画「グリーベレー」はあまりにも陳腐な戦場描写にベトナム戦争に従軍しているアメリカ兵の間ではコメディー扱いされていたが、実戦経験を持たず体験談を聞く機会もない自衛官にとっては教育映画になるのかも知れない。
「その場に伏せッ」・・・ズーン、続いて動揺した別の隊員が草の中に張ってあったワイヤーを足で引っ掛けた。隊員が大声で危険を知らせると間もなく手榴弾が爆発した。これはブービートラップと言うよりも対人地雷に分類され、第2付属議定書で同列に禁止されている。運よく引っ掛けた隊員が「地雷だ」ではなく「その場に伏せ」と号令を叫んだので周囲の隊員は条件反射で反応して4秒後に炸裂した破片を回避できた。
「これは服とズボンに干し草を詰めて作った人形だな」「こんな物に騙されて権現丸は死んだのか」落とし穴から遺骸を引き上げた後、伏せている人間と思って接近した物を確認するとそれは稚拙な人形だった。隊員たちは合せた手を怒りで震えさせた。確かに中国人民解放軍の戦術は欧米の軍事常識に基づく陸上自衛隊の演習では想定していない。陸上自衛隊の演習でも行進する時には対人地雷を警戒して車両の轍を歩くようにしているが、ワイヤー式起爆式の演習用模擬地雷は見たことがない。強いて言えば気が利いた補佐官がワイヤーだけを地面に張って隊員が足を引っ掛ければ「爆死」の状況を付与するくらいだ。
  1. 2023/01/24(火) 15:24:36|
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1月24日・脳障害者のリッキー・レクターの死刑が執行された。

1992年の明日1月24日にアーカンソン州の拘置所で42歳の脳障害者=リッキー・レイ・レクター死刑囚に致死量の薬物注射が執行されました。ちなみに死刑執行命令にサインしたビル・クリントン州知事は1年後には大統領に就任しています。
レクター死刑囚の罪は1981年3月21日に友人とアーカンソー州コンウェイにあるナイト・クラブに飲みに行ったところ友人がサービス料の3ドルが支払えず店員に入店を拒否され、口論の中で差別用語を吐きかけられたことに怒って38口径の拳銃で発砲し、倒れた店員の額と喉を殴打して死亡させたのです。この時の発砲で他にも2名を負傷させました。レクター死刑囚は友人を車に乗せて逃亡し、途中で置き去りにして徒歩で市街地を徘徊しましたが、姉と妹が合流して説得すると警察に出頭して罪を償うことに同意して実家で旧知の警察官と待ち合わせたのです。
ところが警察官から1名の殺人、2名の傷害では10数年の服役になると説明され、根は真面目なレクター死刑囚は凶悪な囚人と一緒に10数年間服役することに恐怖を感じ、逃れるために衝動的に背後から警察官に発砲し、倒れたところを頭と首を殴打して殺害してしまいました。そこで我に返ったレクター死刑囚は絶望して拳銃で頭部を射ちましたが致命傷にならず大脳=前頭葉の損傷による知能の著しい低下の障害を負ったのです。
日本の刑法39条では1項「心神耗弱者の行為は罰しない」、2項「心神耗弱者の行為はその刑を減軽する」と責任能力を規定しているため犯罪を実行した時点の精神状態や知能水準が裁判の争点になりますが、レクター死刑囚の場合は犯行後に拳銃で頭を射ち、大脳に損傷を負ったことが障害の原因なので該当しません。
一方、アメリカではレクター死刑囚が裁判を理解できないことが問題になり、開廷の可否を巡って判事・検事・弁護人の間で激しい論争が起こりました。それでも精神科医が「言語を理解し、会話が成立しているから裁判を受けることは可能」と診断したため弁護士出身で州の司法長官から就任したビル・クリントン州知事が「罪には決着を着ける必要がある」と裁判が始めさせると陪審員は疑いの余地がない証拠と証言によって有罪と評決し、相応する刑罰として死刑の判決を下したのです。
ところがアメリカでは死刑囚が自分の罪を理解して心から後悔するか、逆に恐怖に慄き心理的に悶え苦しみながら(肉体的には安楽死)死なせることに意義があると考えているので、罪どころか死の意味も理解できないレクター死刑囚の執行には全米で賛否両論が湧き起こり、執行まで10年を要しました。
レクター死刑囚は執行前の最期の食事としてビーフ・ステーキ、フライド・チキン、チェリー・クールエンド(サクランボの粉末の甘い飲み物)、ペカンパイ(コーンシロップとペカンナッツで作る甘いパイ)を頼みましたが、ペカンパイを手つかずで残したため看守が食べるように勧めると「後で食べるから残しておいてくれ」と笑顔で答えたそうです。
執行されるまで死刑の結果を理解できなかったまま逝ったレクター死刑囚は本人にとっては幸せだったのかも知れませんが多くの難題を遺しました。
  1. 2023/01/23(月) 14:54:49|
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続・振り向けばイエスタディ377

「呂論島に到着した。低空飛行で各集落の残存中国軍の有無を確認する」2機のAHー64は目標にしてきた沖永良部島のレドーム(レーダーを覆うドーム)を通過すると航空無線で西部方面隊総監部指揮所に報告した。呂論島と沖永良部島の間の海上には多くの漁船が白い線を引いて航行していたが脱出に成功した島民だろう。航空自衛隊が中国軍の輸送機の編隊を全滅させたことは航跡をモニター(管制を受けない飛行は航跡を看視して助言を与える)しているサンセットの空曹から聞いている。あの空曹はこの交信も傍受しているはずだ。
「お前は左回りだ。携SAMは持ってないようだが小銃で発砲されれば即座に回避できるように注意しろ」「了解」編隊長は僚機のパイロットに指示を与えると基本教練のように並んで高度を下げ、起点にした島の最北端の漁港に向かった。この漁港の並びには防波堤のように伸びた隆起した珊瑚礁が欠落して外洋に開けたトゥマイと言う観光名所があるが遊覧飛行ではない。
「航空自衛隊の仕事は意外に荒っぽいなァ」「集落の真ん中に命中させていますが実際は無差別爆撃でしょう」AHー64の座席は縦に並んでいるが前席は副操縦士兼射撃手で後席に正操縦士の機長が座る。そのため視界が利かない分、ヘルメットの動きに連動するカメラが設置されていて後席の機長はモニター画面を見ながら操縦する。そのモニター画面で確認しても爆発孔は集落の中央を通る道路に開いていても敵を殺傷したようには見えなかった。
「俺たちが到着するまで敵を威嚇して住民殺害を阻止することが目的だったからな・・・」「あッ、人影だ」機長が航空自衛隊を弁護するように呟くと射撃手が唐突に叫んで自分の操縦桿を操作した。後席のモニター画面ではヘルメットを向けなければ視界に入らない区域も前席なら見渡せる。そのため射撃手は本来は「ユー・ハブ」「アイ・ハブ」と言う申告の後に引き継がなければならない操縦を先行させ、機長は咄嗟に手を放した。
「島民か」「島民は集落の外に避難していて自衛隊が来るまで立ち入らないそうです。それでも敵は漁師に変装しているそうですから銃を持っているかで識別するしかありません」射撃手は高遊原駐屯地に給油のため着陸した時、第8飛行隊の知人から島民がスマートホンで連絡してきた中国軍の情報と島民の動向の説明を受けていた。
呂論町では中国の輸送艦隊が東シナ海で海上自衛隊の対潜哨戒機に全滅させられた時、進路から「徳之島の占領を企図していたのではないか」と推察し、殺害された町長が緊急事態の対応の研究を指示した。ところが新型コロナ・ウィルス感染症によって海外旅行が制約を受けていることで観光ブームが再現できると信じているホテルや民宿、飲食店や土産物店などの経営者たちが批判の声を上げ、避難訓練は実施できなかっただ。それでも大多数の島民たちは尖閣諸島周辺海域での海上保安庁の巡視船の撃沈や上陸した沖縄県警国境離島警備隊の全滅などのニュースを見て以来、危機感を共有していて地域独自で対策を検討していたのだ。
「瓦礫の陰に3・・・5人いる。銃を持っています」「攻撃しろ」「了解、アイ・ハブ・コントロール」立ち止まって見上げている人影の傍らの破壊された家屋の瓦礫の陰には5人が潜んでいた。5人が手に小銃を持っていることを確認した射撃手は機長の指示を受けると今度は丁寧に申告して操縦桿を操作した。一度、安全な距離を取り、接近しながら固定武装の30ミリ機関砲を発射した。当然、中国軍が射つ56式歩槍=中国製のAK47の7.72ミリ弾の有効射程400メートルでは勝負にならない。数秒で全員が遺骸になった。
「生徒と職員は避難したようだな」AHー64が各集落の清掃を終えると続いて4個分隊=1個小隊を乗せた5機のUH―60が島内4カ所に点在する小中学高校の校庭に着陸した。自衛隊としては日本では軍規厳正と報じられている中国人民解放軍もベトナムやチベット、新疆ウィグルなどではロシア軍と同様に女性を凌辱したことを熟知しているので高校や中学校の女子生徒や女性職員が毒牙にかかることを危惧していた。
実は両校とも呂論島では内陸部にあるため海岸線に沿って集落を襲撃した中国軍は自分の担当とは思わず放置したのだ。また中学高校でも緊急事態に対する研究に着手していて女子生徒の性暴力からの保護も課題になっていた。そのため町役場からの一斉放送を聞いて即座に職員の私有車で漁港に送り、漁船で沖永良部島へ脱出させた。これが首都圏や隣りの沖縄県であればPTAや教職員から女子を優先する処置を批判する声が湧き上がって手遅れになるのだが県境の手前で助かった。沖縄県では県知事が緊急事態を認めていない。
「この集落、那真地区で確認した遺骸は6体です」「上陸した人数が判らないから捜索完了が設定できないな」第42即応機動連隊は各学校から最寄りの集落に向かって捜索を開始したが、情報不足は否めない。仮にFー2の空爆とAHー64の掃討によって全滅させていたとしても人数が判らなければ残存兵力の潜伏を疑い続けることになる。
  1. 2023/01/23(月) 14:53:32|
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海水の高温化も人間が排出する温室効果ガスが原因なのか。

○○(=零輪=レイワ)に入ってから4年連続して過去最悪を更新し続けている秋太刀魚(サンマ)は今年も前年比2パーセント減の1万7910トンだったそうです。一方、同様に○○に入ってから3年連続で最悪記録を更新していた鮭(シャケ)は昨年の1.5倍の豊漁だそうですが、それでも最盛期の半分にならないそうです。
ところが北海道の近海では海水温が異常に上昇する海洋熱波と言う現象が頻発していて寒流の親潮を寸断して遮り、そこに暖流の黒潮が流れ込むため鰤(ブリ)などの南洋系の魚が進出して海洋生物の生態系が混乱と言うよりも変化しているようです。
不漁の原因としては共産党中国が太平洋全域に大型漁船の船団を展開して根こそぎの乱獲していることが上げられていますが、それ以上に強調されているのが毎度の地球温暖化の影響です。昨年は暦上の春から秋まで季節を実感させない異常な酷暑が続いたためテレビの気象予報士たちは我が意を得たりとばかりに「地球温暖化」の危険性に熱弁を奮い、それが全面的に人間の資本主義的大量生産、大量消費によって排出してきた温室効果ガスが原因と断定していました。ところが冬になると一転して大寒波が到来して耐寒生活を強いられるようになり、気象予報士たちも地球温暖化との矛盾を指摘されないように一切触れなくなっています(一部は苦しい言い訳を並べている)。
本州の西端である当地では例年になく早いこの時期に中国大陸から黄砂と一緒に有毒排出ガス=PM2.5が飛来していて黄砂の時は黄色く霞む風景がPM2.5では白い靄のようになっていますから資本主義と共産主義に関わりなく人間の工業生産による排出ガスが環境に悪影響を与えていることは実感できます。しかし西日本に限られるPM2.5の飛散範囲を考えると太平洋全域に温室効果を与えるほどとは考えられず、逆に地球規模で気温が乱高下する別の原因があるのではないかと疑ってしまいます。
日本では平成、欧米では21世紀に入ってからのマスコミ報道は中世カソリックが復活したかのように反対意見どころか疑問を呈することまでも徹底的に糾弾するようになっているため環境問題に関しても異議を挟むことは自殺行為になってしまうようです。それは数字を添えた学説でも例外ではなく気象学者たちは口をつぐんでいますが、温室効果ガスとは無縁の日本の弥生時代の気温は現在よりも高かったのは熱帯の植物の稲作が東北地方にまで広がったことでも明らかで、実際に発掘される種子などからも植物の分布が現在とは異なることが実証されています。また中世以降もマラリアと推察される熱病によって多くの人物が死亡していることでも温暖な気候が続いていたのは確かです。
仮に気温の乱高下が過去にも繰り返されてきた自然現象ならば対策は温室効果ガスの排出抑制とは別にあるはずで、何よりも食料の確保のため地域で栽培する農作物の品種の変更こそ最優先で研究・実行するべき問題です。そして生活習慣の工夫などは政治が主導するにしてもあらゆる分野の意見の集約が必要で、中でも環境問題の専門家としての自然科学者の責任ある見識の表明は不可欠なのでそろそろ前言を訂正する勇気と責任を発揮するべきでしょう。
  1. 2023/01/22(日) 13:59:20|
  2. 時事阿呆談
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続・振り向けばイエスタディ377

「オール・クラウン、ホット・スクランブル、オリ□ン(緊急発進増強)20発令」築城基地に帰投する第8航空団のギャオス03が奄美諸島上空で陸上自衛隊のヘリコプターの編隊とすれ違った頃、那覇基地では中国空軍機の大編隊が尖閣諸島空域に出現したため第9航空団の飛行隊・マンタに全ての戦闘機による緊急発進が発令されていた。南西航空方面隊では第9航空団が唯一の戦闘機部隊のため即応力維持しながら飛行時間による点検・検査と両立させるのは至難の業だが、1週間交代で1個飛行隊の全機を武装・待機させることで対応している。
「クラウン01、スタンバイ」「馬鹿な、ホット・スクランブルだぞ」「着陸する旅客機がある。管制に従え」滑走路に向かうタクシー・ウェイ(誘導路)にはクラウンのFー15が発進前点検を終えた順番に列を作っているが、タワー(管制塔)の国土交通省の管制官は発進を許可しなかった。パイロットはこのような嫌がらせには慣れているもののコクピットから着陸してくる南側の空を見ても主脚を下ろせば点灯するランディング・ライトの光はなく、機影は点にもなっていない。この距離であれば千歳や小松、三沢、百里の自衛官の管制官なら着陸機を上空待機させて緊急発進を優先するはずだ。
「このままではガッツとトライ(パイロットのタック・ネーム=実在するが別人)は2人で大編隊に立ち向かうことになる。アイツらのことだから真正面から突っ込むんじゃあないか」先頭のFー15=クラウン010のパイロットは東シナ海上空でCAP(戦術空中哨戒)していて尖閣空域に指向された同僚2人を思い出していた。中国空軍は武力衝突以前にも村山政権が漏洩させた防衛秘密指定の内部規則の規定を確認する挑発飛行を繰り返して対領空侵犯措置の法的限界を検証した。民政党政権が提供したレーダーサイトや戦闘機の性能諸元の数値を確認した上で弱点を探るように空中戦をしかけてきた。それが今は事実上の戦時だ。
「テイク・オフ(離陸)したらタワーに突っ込んでやろうか」ようやく旅客機の機影が沖縄の明るい空に浮かび上がったのを見てパイロットは逆の方向にあるタワーを憎々しげに睨みつけた。国土交通省の労働組合員の嫌がらせは管制官だけでなくCAB=航空局も執拗で、スクランブル機が滑走路に出てからもライトバンによる滑走路の点検を中断せず、中央で車両を止めて下車したドライバーが何かを拾う動作を演じることもある。そのため3分以内に発進準備を終えても離陸までに10分以上掛かるのが那覇基地の緊急発進なのだ。
「別の編隊が低空で奄美方面に向かっています。ポジション(位置)、ノース27(北緯27度)、イースト125(東経25度、ヘディング090(進行方向90度)」「アルチュード(高度)は」「エンジェル(高度)3000(フィート=914・4メートル)、スピード500ノット(マッハ0・75=時速926キロ))」レーダーの画面ですでに尖閣上空に達している中国軍の大編隊に接近する2機のFー15を管制しながら那覇基地の位置にスクランブル機の航跡が集中しているのを見て苛立っているサンセット(南西防空指令所)で監視係の空士が大声を上げ、即座に識別係の空曹が確認した。
「この速度なら爆撃機かも知れない」「世論島に中国軍が上陸したと言う通報があっただろう。中国はギャオスが制圧したことを知らずに輸送機で占領部隊を送った可能性もある」サウス・ウェストSOC(南西航空方面隊指揮所)では尖閣での危急事態に意識が向かいFー2が任務を終えて築城基地に戻っている世論島での対処は忘れかけていた。府中基地の航空総隊指揮所でも北海道と沖縄の2正面作戦になっていて情報収集に追われているので中国軍が同時侵攻を加えてきた意図を推理する余裕はなかった。
「この位置ではクラウンを向かわせても間に合わないな。ギャオスの後続も駄目だ」「PAC2の射程距離内に入り次第、迎撃しましょう。稚内に展開している3高群がオホーツク海でECM用ベアを撃墜したじゃあないですか」「しかし、あれは職権乱用の規律違反で射撃係の3尉が逮捕されている」「構わん。射て」防衛部の運用幕僚たちの議論が熱を帯びて声量が大きくなるとそれを耳にした航空方面隊司令官が決断した。稚内でロシア軍のECM用ツボレフ95ベアを撃墜した第3高射群の永坂3尉は旭川駐屯地の地方警務隊に逮捕されて取り調べを受けているが「第6高射群の恋人が根室半島で殺された私怨」と言う本当の動機は語らず、「国家存亡の危機に対処するための独断専行」と強弁して聞く者を感動させていた。大日本陸海軍でも血気にはやる青年将校の純粋な訴えを自分の野望に利用した上層部は多いが、自衛隊の場合は必要な決定を回避している政権を動かし得ない無力さを自責している上層部にとって現場指揮官にこのような独断専行を繰り返させないためにはこの場で決断するしかなかった。数分後、知念、那覇、恩納の各高射隊から発射されたPAC2(PAC3は弾道ミサイル用に温存した)は輸送機の編隊を全滅させた。開戦初頭の輸送艦隊の二の舞だった。
  1. 2023/01/22(日) 13:57:57|
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合理的判断の何が悪い!福島原発事故の2審判決

2011年3月11日の東北地区太平洋沖地震で発生した推定14メートル超の波高の津波で破壊された福島第1原子力発電所の放射能漏れに対応する長期避難によって双葉病院の入院患者44名が死亡したことを東京電力が必要な対策を怠った業務上過失致死として当時の会長や副社長2人に禁固5年を求刑する刑事裁判で2審の東京高等裁判所の細田啓介裁判長は「10メートルを超える津波が襲来する予見可能性はなかった」とする無罪判決を下しました。最近の東京高等裁判所は石井浩裁判長がマスコミの断定的報道に迎合して自民党の国会議員が性的被害で売り出している自称ジャーナリストの言動に疑問を呈したことに自ら日本国憲法を無視して精神的慰藉料の支払いを命じるなど稚拙で軽率な判決が目に余りますが、今回は合理的判断が働いたようです。
すると案の定、新聞やテレビは損害賠償を請求する民事訴訟では全国の高等裁判所が東京電力の過失責任の認めて13兆円余の損害賠償を命じているのに対して刑事裁判では1審に続き2審でも無罪判決だったことを司法の判断の矛盾、見解の不統一と批判して刑事裁判が間違っているかのような論調で報じました。しかし、先日の最高裁判所が今回と同様の判断を下して請求棄却した判例は隠蔽しています。
そもそも金で方がつく民事裁判とは違い人間の罪科を判断する刑事裁判ではより明確な瑕疵がない限り有罪・有責としないのは常識であってマスコミもそれを承知の上で批判しているのは明らかです。東北地区太平洋沖地震の後、福島第1原子力発電所の放射能漏れ事故を含む東北地方各地の被災地には反政府系マスコミが取材名目で入り込み、被災者の不満や苦労を聞き出すと次は弁護士を連れて面会し、国や地方自治体の行政責任を喧伝して逆恨みを引き起こし、自民党が政権を奪還するのを待っていたかのように不満分子を組織化して訴訟を連発させています。ですからマスコミは始めから事実を報じるつもりなどなく、反自民党政権の世論を生起させるために保守的判断を下す司法も批判材料として利用しているのです。実際、今回の2審は1審では2002年に政府の地震調査研究推進本部が公表した「最大15.7メートルの津波が福島第1原子力発電所に襲来する可能性がある」と言う地震予測「長期評価」の信頼性を認めず、地震発生時にマスコミも「史上最大」「過去に例がない」と報じていた大地震の予見可能性を明確に否定して検察側も不起訴にしましたが、亡国活動家が司法に介入するために「司法と民意の乖離解消」と言う批判世論を背景に設置された検察審査会が「上告妥当」と決議したことで反政府弁護士が検察役を務めて始まり、40回に及ぶ公判が繰り返されたのです。
さらにマスコミは取材を受けた東京電力の社員が「上層部は地震の前に津波対策を真剣に検討していた」と回答していることを「津波が発生する可能性を現実のものと認識していた」と歪曲させていますが、東京電力も企業である以上、安全対策といえども経営を損なうほどの金額まで支出することは許されず、阪神淡路や鳥取西部、中越などの地震の発生予測が当たった例がない政府の長期評価を無視する口実を真剣に検討していても不思議はありません。日本にはまだマスコミ報道を鵜呑みにしている愚か者がいるのでしょうか?
  1. 2023/01/21(土) 14:15:13|
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続・振り向けばイエスタディ375

「目達原のAHー64に通知する。こちらJASDF(航空自衛隊)、8thウィング(第8航空団)のギャオス03(戦闘機のコールサイン=仮称)だ」呂論島の島民が鹿児島県の国分駐屯地の知り合いの陸上自衛官に連絡した情報は陸上自衛隊らしく指揮系統を通じて西部方面総監部にまで上がり、地上掃射のため佐賀県の目達原駐屯地からAHー64攻撃ヘリコプター2機が発進し、熊本空港に同居する高遊原駐屯地からは北熊本駐屯地の第42即応機動連隊の1個小隊を搭乗させた第8飛行隊のUHー60多目的ヘリコプター5機が上空で合流することになっている。しかし、AH―64の最高速度は365キロ、UH―60は265キロなので到着までに島民が皆殺しにされて中国軍が堅牢な建物を陣地にすることが懸念されていた。そんなAHー64のパイロットは思い掛けない相手からの航空無線を受信した。
「実は俺たちが先に呂論に向かうことになった。サンセット(南西防空指令所のコールサイン=仮称)からストレート(西部防空指令所=仮称)にオーダーが入ったんだ」「了解、アンタたちのFー2ならアッと言う間に到着してゴミ掃除してくれるだろう」「俺たちは大雑把だから後片づけを頼みよ」どうやら別の島民が那覇基地の航空自衛隊の知り合いに通報したらしい。こちらは航空自衛隊らしく指揮系統を無視して直接南西防空管制隊の事務室に電話したのだが舞台裏は誰も知らない。実は呂論町の町役場も漁港から銃声が聞こえ、それが連続していることを確認した時点で沖永良部島の警察署に連絡していた。沖永良部署も島内の派出所と警察官に連絡が着かないことで異常事態を確信して鹿児島県警に通報していた。するとこちらも指揮系統を守って九州管区警察局への報告を優先した。やはり航空自衛隊だけはアメリカ製だ。
「戦闘機が低空で接近してきます。攻撃態勢です」呂論島の集落で家屋を捜索している中国軍の指揮官の軍士がスマートホンで空港の孟少校に連絡してきた。日本に留学して帰国後に人民解放軍に入った孟少校が呂論島への侵攻の指揮を命じられた時、連隊の上層部は「日本軍(自衛隊)はいまだに戦時態勢に移行することが許されていない。国民も戦時中と言う意識を持っていない。気軽な仕事として日中戦争の仇を討ってこい」と笑っていた。確かに抵抗は一切受けず予定通りに町役場と空港を制圧した。ところが牧場に集めて皆殺しにする予定の島民は戦時の行動の熟練しているかのように完璧に身を隠している。そのため捜索に飽きた兵士たちは集落の路上で車座を作り、民家から奪った家電製品や貴金属を持ち寄り、食品を分け合いながら酒を飲み始めていた。そこに防衛出動が発令されていないはずの自衛隊が攻撃してきた。
「島民からの情報では屋外で行動しているのは敵だけだ。道路に沿ってブロー(発砲)しよう」「ラージャ、目視での射撃だから戦果の確認をお願いします」集落を通過したFー2は路上の6名を目視で確認して海上で旋回した。相手は兵士なので時間を要せば退避してしまう。そうなれば爆弾を投下して集落を破壊しなければならない。
「やはり退避したな。爆弾を1発使用します」「投下後にバランスを崩すな。JDAMだから一発必中だろう」「そうでした」やはり兵士たちは戦闘機が低空で通過していったのを見て退避行動を取っていた。第8航空団では防空戦闘をデニム、対艦攻撃をギャオスに割り当ててそれぞれ空対空ミサイルと空対艦ミサイルや対艦誘導爆弾を搭載して待機させている。ちなみにFー2には戦闘機としてはヴァィパー・ゼロ、攻撃機では対艦番長の愛称がある。今回は予備機として500ポンド(227キロ)爆弾4発を搭載していた2機を発進させたが、JDAMは91式爆弾誘導装置の赤外線に変わる精密慣性誘導方式で本来は対艦攻撃用なのだが、勿体ないだけでここでは重宝する。
「照準完了、アプローチ(接近)します」「ラージャ、コンテニュー(続行)する」道路に面した商店と小テインの間に逃げ込んだ兵士たちは路面に残した戦利品、中でも酒を眺めていたが、そこに黒い影が凄まじいジェット音を引き摺りながら通過し、空気を引き裂く音に見上げた瞬間、道路の中央で赤い炎が発生した。いくら堅牢な鉄筋コンクリート製の家屋でも500ポンド爆弾の直撃を受ければ掩体(防護物)の用は為さない。この集落の6名は遺骸も残さず全滅した。
「敵の姿が確認できなかったから荒っぽいが集落を丸ごと破壊してきた」「了解、今度は俺たちが低空、低速度で念入りに掃討しよう。地上部隊の降下はそれからだ」2機で8発の爆弾を各集落に配り終え、沿岸道路を高速度で走行していた軽4輪トラックもバルカン砲で破壊したFー2は奄美諸島を南下するAHー64に接触すると戦果を通知した。
「茶実地区は建物が多いから市街戦になるな。今頃、ウチの飛行隊は対地攻撃に武装転換しているはずだから援護には間に合うはずだ」「それは有り難い」説明しながらFー2のパイロットは奈良の幹部候補生学校の戦史の研究課題になったミッドウェイ作戦の敗因の1つ爆弾の対地用から対艦用への転換の可否を思い出したが陸の前川原では出題されそうもない。
  1. 2023/01/21(土) 14:13:41|
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共産党中国は人口が減少して首位から転落した。

共産党中国の国家統計局が2022年末の人口が前年に比べて85万人減って14億1175万人になり、推定14億1200万人のインドに世界最大の人口大国の座を譲ることになりました。日本の都道府県別人口としては約81万人の佐賀県以下の山梨県・福井県・徳島県・高知県・島根県・鳥取県が1年で消滅したことになります。
共産党中国の人口減少は同志・毛沢東の大躍進政策の失敗によって3635万人の餓死者を出して以来、61年ぶりで1979年から2014年まで実施された一人っ子政策の結果のようです。中国人の友人によれば一人っ子当時の中国では2人目を儲けた家庭には給与の減額や各種徴収金が割り当てなど(当時の共産党中国は基本的に同一賃金・無税だった)の生活を維持することが困難になる苛酷な仕打ちが加えられ、男性が複数の女性に産ませても同様の処置を受けたそうです。そのため友人は「どうしても妻に2人目を生ませたい」と日本への移住を真剣に考えていましたが、2014年に解除されてからは世代が変わったのか当局が予測=期待したほどの人口の増加は見られず、むしろ少子化が進んでここに来て減少に転じたようです。
日本でも同様に人口減少が政治問題にまで発展していますが、それは独自の社会保障制度、中でも年金は若年層が高齢者を支える構造になっているためピラミッド型の年齢構成でなければ1人当たり負担が大きくなり、企業だけでなく個人商店でも定年退職制度(個人商店では経営者の交代)があるため職場や社会での世代交代が必要不可欠になっているからです。一方、共産党中国では人口の減少は労働力の低下に直結し、全人民が国家公務員のマルクス主義では社会保障も国家が全面負担するため収入源は福祉の縮小で対処せざるを得ず、そうなれば西側社会に憧れを抱く若年層が不満を募らせるのは当然で共産党指導部は日本以上に切迫した危機感を抱いているはずです。
その一方で日本では「1人の方が気楽でよい」と言う結婚願望を持たない結婚適齢期の男女が激増し、結婚していても「今の収入では子供に自分のような教育は受けさせられない」「保育所に預けられなければ仕事が継続できない」などと子供を儲けない夫婦が一般化していますが、中国の都市部では「自分の収入を好き勝手に金を使って楽しむ権利がある」と公言してはばからない高収入の男女が横行していて、こちらも出産以前に結婚もしそうにありません。
それにしてもいつから結婚や出産・育児に数的基準を設け、その計算で結婚や育児は不可能と断定し、実際に踏み切らない軽率な人生観が常識化したのでしょうか。野僧たち昭和世代は「一緒に人生を送りたい」「同じ空間で暮らしたい」「毎晩でも抱きたい」と思えば結婚し、それで喰うに困れば2人で我慢するだけでした(野僧はそんな相手を親に引き裂かれた)。結婚すれば「親から受け継いだ生命・血統を引き継ぐ責任」を果たすため夫婦の営みに励み、生まれれば親は飢えても食物を子に与えてで育てはずです。中国では一人っ子政策で男子による家の相続制度が消滅したことが原因と言われていますが、日中が共に経験したバブル景気の狂気が人間の「情」を崩壊させたのかも知れません。
  1. 2023/01/20(金) 15:46:18|
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続・振り向けばイエスタディ374

「この集落は蛻(もぬけ)の空です」「島から逃げることはできない。探せ」将校の指揮官・孟少校(少佐)は空港からも清軍士長以外の9名を呼び戻し、岡元牧場に兵士を整列させて島民を捜索し、殺害する部隊を編成した。そのうち19名を呂論島では人口が集中している茶実に投入し、それ以外の5つの地区に6名ずつ向かわせた。ところが奪った車両で到着した集落に住民の姿はなく一軒一軒を虱(しらみ)潰しに捜索しても無駄だった。各地区の指揮官の軍士たちはスマートホンで空港に移動した孟中佐に報告してきたが互いに困惑の言葉を交換するだけだった。孟少校としては外洋に浮かぶ狭く平坦な孤島に5000人の島民が身を隠す場所があるはずがなく、弾切れにならない限り6名でも皆殺しは容易だと考えていたのだ。
「鉄筋コンクリートの家屋が多いので手榴弾では破壊できません」「沖縄の民家は赤い屋根の木造建築じゃあないのか」別の軍士からの報告に孟少校の困惑は混乱になった。孟少校は作戦を割り当てられた後、呂論島の地誌について教育を受けたが、その多くは帰国した留学生の観光の思い出話に過ぎず、見せられた記念写真に写っていたのは呂論島と一緒に回った沖縄本島の民家だった。呂論島は平坦なため台風を遮る地物がなく民家を鉄筋コンクリートで建てて家の中で通過を待つ以外にない。そんな堅牢な家屋が手榴弾くらいで破壊できるはずがない。
市街戦では捜索を終え、潜伏していた敵を掃討した家屋や部屋の入口には塗料用スプレーで識別の目印を表示するのだが人民解放軍は野戦を専らにしているため孟少校もそんな知識は持っておらず、漁民を装って出航した時も準備しなかった。島内の工具店やホーム・センターで奪えば用は足りるが知識がないのでそれもしていない。
「病院には入院患者と看護師が残っています。処分します」「医師と看護師は残せ、使い道がある」続いて茶実地区にある病院に向かった軍士から報告が入った。隣りで話を聞いていた清軍士長は「看護師の使い道」を誤解して下卑た笑いを浮かべたが、孟少校は本隊が進駐してきた後の治療行為を期待している。孟少校が空港ターミナルに入るとロビーのソファーには全裸に剥かれ、股間に精液が溢れた美貌の女性たちの絞殺遺骸が放置されていた。それはロシア軍がウクライナで繰り返していた野性本能の発露なので、それを戦場の常識として学習している清軍士長を問責することは控えた。
「何をするんですか。傷病者に危害を加えることは戦時国際法で禁止されていますよ」病院では各病室に1人ずつ兵士が踏み込み、看護師に制止する暇(いとま)を与えずベッドに座っている患者を射殺し始めた。すると女性の看護師は悲鳴を上げることもなく銃口の前に立ちはだかり、日本語で叱責した。この病院は徳之島出身の医師が日本医師会を離脱して設立した医療団体が運営していて看護師たちの郷土愛を基盤とする使命感は極めて強い。
「指揮官に禁止されたからお前は射てん。どけ」「患者を守るのが看護師の使命です。あのお爺ちゃんはもう長くなかったけど、このお爺ちゃんは退院して家に帰る予定なの。その大切な生命を奪わせることはできないわ」兵士と看護師の会話は中国語と日本語なので噛み合わないが、お互いの立場で「殺」と「護」を果たそうとしていることは推察できる。看護師の「看」は「手で見る」を意味する漢字で患者との一体感は客観的に診察する医師よりも強い。しかし、高齢化が進む呂論島の病院だけに入院患者の大半は認知症も進む高齢者なのでこの緊迫した事態もベッドに座って黙って眺めているだけだ。患者たちの目には病室で上演されている寸劇に写っているのかも知れない。それも考えられないのが認知症なのだろうか。
「それじゃあ仕方ない。順番は狂うが他の患者から片づけることにしよう」兵士は全くたじろがない看護師を持て余し、銃口を隣りのベッドの患者に向けて発砲した。
「ご先祖さんに守られているような気分だな」「いつもは不気味なところだけどね」町役場の一斉放送を聞いて漁港を有する集落の島民たちは中国軍が来る前に漁船に乗り合わせて海に逃亡し、それができない集落の島民たちは岩礁や隆起した古い珊瑚礁に掘られたギジ=ヂシに身を隠した。ギジと言うのは呂論島では敗戦後に占領軍に火葬と墓地への納骨を強制されるまで行われていた遺骸を野晒しにする風葬で、白骨化させた後に海水で洗骨してから埋葬する墓所だ。そのため入口は狭く、照明はない。中には先祖代々の遺骨が多数安置されているが、マラリアが流行した時には患者を運び込んで死なせたため横たわった遺骨もある。当然、観光客を案内することはなく中国軍に発見される危険性は低い。
「その水中銃は何」「武器はこれしかなかったんだ。中を覗く奴がいれば射ってやる」真っ暗いギジの中で家族たちは声をひそめて雑談を始めた。平和な呂論島には魚をさばき、屠殺した肉牛を解体する刃物くらしか武器になる物はなく、唯一の飛び道具が海中でゴムの力で銛を魚に射つ水中銃だった。ただし、地上でどの程度の威力があるのかは試したことがない。
  1. 2023/01/20(金) 15:44:13|
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1月20日・「クロネコヤマトの宅急便」が始まった。

昭和51(1976)年の明日1月20日に大和運輸が「宅急便」を始めました。ちなみに2005年11月1日の会社分割で大和運輸は業務ごとに会社を分割しているので現在のヤマト運輸と分割以前の大和運輸は別会社になり、後者はグループとしてのヤマト・ホールディングスが継承しています。
「宅急便」はヤマト運輸の登録商標なので他の同業者は日本郵便のペリカン便や西濃運輸のカンガルー便、佐川急便の飛脚便、名鉄運輸の小熊便のような自社商標か一般用語の「宅配便」を使用しなければなりません。また大和運輸は昭和32(1957)年から「親子クロネコ」をロゴマークにしているので業務開始の時点で「クロネコヤマトの宅急便」でした。余談ながら野僧は車力の管理小隊長の時、当時のヤマト運輸の「日本のわがまま運びます」を小隊のモットーにしていたため親子クロネコのマークを小隊の部隊章にしたいと考えてヤマト運輸の青森支店に使用許可を打診したところ、野僧が航空自衛隊の輸送幹部と知った支店長が話を本社に上げてしまい(日本通運が独占していた外注輸送に喰い込む人脈を探していたらしい)、当時の小倉昌男代表取締役から説明を受けました。するとアメリカの運輸企業・アライズ・バン・ラインズと業務提携した時、父親の前社長が先方のリアルな「親子茶トラネコ」のマークが気に入って使用許可を受け、広報課長にデザインを命じたところ9歳の娘が描き写した親子クロネコに決まったとのことでした。ただし、不審者の悪用防止のため小隊の部隊章化は認められませんでした。
「クロネコヤマトの宅急便」は昭和46(1971)年に小倉昌男社長が就任すると1973年の第4次中東戦争によるオイル・ショックが起こり、燃料の高騰によって経営収支が急激に悪化したため起死回生の一手として郵便局の独占事業だった小包の宅配に参入したのです。しかし、当時は中小運輸会社に過ぎなかった大和運輸が国営の郵便局に対抗するには利用者に新たな魅力を提供しなければならず、そこで「翌日の配達」を売り物にしました。公務員待遇の郵便局員の勤務時間は昼間に限定されていて小包の移動も夕方から朝までは停止します。そこで大和運輸は24時間稼働する集配基地を各地に設置することで受け付けた小包を夜間にトラックで宛先地区の集配基地まで運び、朝には配達できる準備を整えて翌日に届けるサービスを始めたのです。さらに配達時間も夜間から早朝まで拡大するなど国営の郵便局には不可能なサービスを提供することで存在感を強化して、当初は関東地区限定だった業務範囲を次第に拡大して1997年には郵便局と同様に離島や山間部を含む全国で「クロネコヤマトの宅急便」を利用できる態勢が完成しました。
しかし、当時の自民党政権は郵便局を国債の安全な引き取り手として保護することに躍起になっていて大和運輸を急先鋒とする民間企業の参入を郵政省(荷物への書簡の同封の禁止など本来は適用外の郵便の基準を強制した)だけでなく運輸省(主に車両の構造基準と交通規制)も協力して法的制限で妨害し、大手百貨店の商品配達やコンビニエンス・ストアでの受けつけまで利用する念の入れようでしたが小泉純一郎政権による2007年の郵政民営化で表面上は沈静化しました。今ではサービスを競い合っています。
黒猫ヤマト

  1. 2023/01/19(木) 16:20:39|
  2. 日記(暦)
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続・振り向けばイエスタディ373

「島民は全く現れないな」「あの女、何か隠語を放送したんじゃあないですか」「確かに集合場所は中央部の牧場と言っただけで名前はアイツが決めた」町役場を無人にした10名と空港を蹂躙した40名のうち30名が岡元牧場で合流したが、島民は一向に姿を見せず、苛立だった兵士たちは秘書が放送した一斉放送を疑った。しかし、あの秘書も放送を終えたところで射殺したから尋問はできない。人民解放軍の銃殺は先ず心臓を狙い、死亡しない時に眉間を射つ日本軍式とは違い至近距離から後頭部を射つため弾丸が突き抜ける前頭部が裂け、脳漿が飛び散る。射殺を命じられた兵士は背中を向けて話していた秘書の飾り紐で束ねた長い髪に沿わせて銃口を上げ、マイクのスイッチを切った時点で引き金を落とした。マイクの手前の台に転がった頭は秘書室で命乞いした時に引きつらせていた目から眼球が飛び出して見る影もなかった。その遺骸も放送室の椅子に座らせたまま放置してきた。
「こうなると40人で手分けして日本人を探さなければいけませんが、意外に大きな建物もありますから日没までに終えるのは難しいでしょう」時間を気にする将校の指揮官に町役場要員だった軍士(下士官)が意見を述べた。中国では第2次天安門事件を共産党による一党独裁に反対する学生たちの政治的暴動と断定して再発防止のために人民への愛国心教育を強化した。中国共産党にとっての愛国心とは侵略者である日本軍を敗北させた国民党軍の手柄の横取りであり、日本の凶悪性を強調するため東京裁判で告発した戦争犯罪を誇張して詳細に教え込んだ。そんな愛国心教育を受けて育った世代のこの軍士たちにとって罪もない呂論島の5000人の島民を皆殺しにすることは南京で日本軍が虐殺した30万人の中国人に比べれば僅かであり、仇討ちには不十分なのだ。島民をこの広い草むらに集めたのも取り囲んで発砲し、遺骸をそのまま放置するためだった。勿論、遺骸の周りには詭雷(ブービー・トラップ)を仕掛ける。
「時間がかかれば日本軍が来る。それまでに輸送機を呼んで本隊と地対空ミサイルを運び込まなければ任務が達成できない」「失敗すれば党が許しませんよ」これが呂論島を占領する目的だ。呂論島には中型ジェット輸送機が離着陸できる1200メートルの滑走路があり、尖閣諸島への大規模な挑発飛行によって第9航空団の戦闘機を引きつけ、隙を狙って輸送機を強行着陸させる。呂論島に地対空ミサイルを配備すれば南西航空方面隊の防空エリアに障壁を構築して海上自衛隊第5航空群の哨戒飛行も遮断できる。そうなれば前回失敗した奄美諸島への艦隊の派遣と占領も成功する。手始めは航空自衛隊のレーダーサイトがある隣りの沖永良部島だ。
人民解放軍は開戦直後の奄美諸島制圧作戦を立案するに当たり情報収集に着手したが、那覇空港の国土交通省労働組合員や沖縄県内の日本人工作員に那覇基地の機能妨害を命じたものの航空自衛隊は長年苦しめられてきた日本人による敵対行動は織り込み済みだったので先手を打って万全の防空態勢を維持し、偵察飛行は実施できなかった。仕方なく偵察衛星で奄美諸島の8つの有人島を注視したが性能が劣り、解像度が低い上、アメリカ宇宙軍の妨害電波に遮断されて役に立つ情報は入手できなかった。そのため観光で奄美諸島を訪れた帰国した留学生や在日中国人に国家情報法を適用して情報を収集したが旅行案内の域を出なかった。中国の国家情報法は在外中国人にまで情報提供を義務づけてスパイ化する法律だが、事前に諜報活動を命じている訳ではないので成果は限定されるようだ。
「分担を決める。軍士(下士官)は集合」「これは町役場で奪ってきた地図ですね」「パナウル王国って何でしょう」指揮官は声を張り上げて中国語で呼びかけた。空港から来た兵士たちは苛立ちが緩んで退屈しのぎに放牧されている肉牛を56式歩槍で狙っている。将校である指揮官の命令を聞いた軍士たちが歩き始めたが動作に緊張感はない。空港から来た30名は清軍士長の黙認を受け空港内で若く美しい女性たちの肉体を堪能して来たので次は食欲を満たしたいようだ。その点、町役場では若い女性職員たちも迷わず射殺してきた。尤も航空会社に採用された選りすぐりの女性と町役場に地元就職した島の娘では容貌に格差があり、町長の秘書が最高の美人だった。空港の女性たちはまだ殺されず現地調達の慰安婦にされているはずだ。
「役場が襲われたらしいぞ」「町長以下皆殺しだそうだ」「駐在さんも死んだようだ」呂論島内では秘書の一斉放送を聞いた島民たちが緊急会議を始めていた。それは慶事凶事を問わず自然発生する島独自の情報網の作動だった。座長は沖縄で言うモンチュウの長(おさ)が勤めるが、高齢化し過ぎて頭の機能が低下した人物は聞き役に回される。
「中国軍となると手段を選ばないはずだ」「自衛隊はこないのか」「鹿児島の知り合いにスマホしたから連絡は着いとる」やはり隠語を用いるまでもなく「中国人民解放軍に占領された」と明言したことが最悪の事態の発生を周知していた。その頃、800キロ離れた佐賀県の目達原駐屯地からAH―64攻撃ヘリコプターが発進したが限界速度365キロでは3時間弱かかる。
  1. 2023/01/19(木) 16:00:53|
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NHKは責任を自覚しろ!「どうする家康」

世の中には「NHKの大河ドラマで日本史を学んでいる」と公言する人がかなりいますが、実際は前回の「鎌倉殿の13人」のように史実は正しく押さえている作品と若年層や女性の視聴者拡大を狙った軽薄な学芸会に分かれ、今回の「どうする家康」の出演者と脚本家は完全に後者です。野僧としては主人公が我が東照神君・徳川家康公なので一応見ていますが、2回が終わった時点であまりに滅茶苦茶な粗筋に怒り心頭に達しています。
先ずは冒頭で家康公を260余年の天下泰平を築いた「東照神君」と紹介したので、関ヶ原の敗軍の総大将でありながら自刃することなく生き恥を晒し、改易ではなく減封に留めてもらった大恩を弁えることなく逆恨みしている毛利領に棲んでいる者としては嬉しく思いましたが、その東照神君の髪型が武将とは思えない今風で、軟弱極まりない風貌と共に一気に興醒めしてしまいました。
そして嫁取りの場面では年上だった若殿=馬鹿殿の今川氏真さんの妾を押しつ受けられたと言う史実は完全に無視して槍の勝負で相思相愛の相手と結ばれる安っぽい青春物語になっていました。しかし、今川義元さんが氏真さんの妾を押しつけたのは東照神君に劣等感を与えるのと同時に妻には純潔を奪い、肉体を弄び、快楽に溺れさせた過去で精神的に縛って松平側の内応者とする戦国時代らしい深謀遠慮もあったのです。このことが後に織田信長公の命に従って妻と長男を死に追いやることにつながるのですから演じている女優のauのCMのかぐちゃんのイメージを優先した歪曲は軽率です。
そして第2話は岡崎市にある徳川将軍家の菩提寺・大樹寺が舞台で、「先祖の墓前で自刃しようとした」と言う逸話は登誉上人が「厭離穢土・欣求浄圡」の法語を示し、武将・為政者としての道を説いて思い留まらせたと言う続きとセットで伝承しています。ただし、番組ではそれに妙な人間模様を絡めて訳が判らなくなっていました。
そして問題なのは最後に大樹寺の山門前(現在の立派な鐘楼式山門は3代将軍・徳川家光公が全面改築したもの)で包囲している松平昌久さんの前に東照神君が1人で進み出て気迫で圧倒することになっていましたが、実際は攻撃を受けて僧兵を持たない浄土宗の寺院でありながら寺僧たちが甲冑を身につけて応戦し、中でも祖堂了伝和尚は山門の閂(かんぬき)を引き抜くと7尺(2メートル超)の巨体で振り回しながら鬼神の化身のように戦ったため敵兵は恐れを為して東照神君は生命を長らえたと伝わっていて、実際にその閂は東照神君から「貫木神(かんぬきのかみ)」の神号を与えられて寺宝として祀られています。祖堂了伝和尚はその後も宗旨である浄土宗の生きた守護尊として東照神君の帰依を受け、江戸に松平西福寺を与えられますから(関東大震災と空襲で焼失して現在は静岡市内に移設されている)出番がなくても良かったのでしょうか。
そして最後に太陰暦の天文11年12月26日生まれの東照神君を「本当は年明けの兎年生まれ」と言う虚言を弄しましたが、これは脚本家が下調べした時に太陽暦では1543年1月30日生まれなのを見て思いついたのかも知れません。ここまま史実を無視するのなら信じている視聴者のために「これはフィクションです」と字幕を入れるべきでしょう。
  1. 2023/01/18(水) 14:52:50|
  2. 常々臭ッ(つねづねくさッ)
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続・振り向けばイエスタディ372

上陸した指揮官以下51名の人民解放軍の兵士たちは清軍士長を指揮官とする40名が空港に向かい指揮官と10名は町役場に乱入した。途中で見つけた派出所には手榴弾を投げ込んで破壊し、覚束ない足で逃げようとする老人を射殺し、住人が顔を出して覗いた窓と壁にも銃弾を浴びせた。そんな銃声が近づいてくるのを聞いていた役場の職員たちは利用者と一緒に非常口から逃げ出していたが、裏手に回った兵士たちに射殺された。将校に指揮される兵士は保身のために規律心を維持する本能が働くらしく若い女性の職員にも食指を伸ばさなかった。
「君たちは中国軍だな」「そうだ。1872年に日本に併合された琉球を独立させるためにこの島を占領する」「それならどうして島民を殺した」「お前たち鹿児島県民は日本人だろう」町役場の2階にある町長室に立ち入った指揮官は執務机の向うに立つ町長に流暢な日本語で宣言した。町長は漁港から銃声が聞こえたため秘書に派出所に通報させても応答がなく、その銃声が連続した後、次第に接近してくるのを確かめながらこの事態を推察していた。対馬では市長の英断で全島民が本土に移住し、北海道でも道知事の指揮で道北と道東の住民の大半が道南に避難している。しかし、町長の立場で考えても呂論島に軍事的価値があるとは思えず、日中が開戦した直後に発生したインターネット上では「東シナ海海戦」と呼ばれている空対艦の戦闘で撃滅された中国艦隊が狙っていたのは徳之島だったと言われている。
「私の祖母は沖縄から来た人間に『沖縄は好いところだろうね』と訊いたものだ。それで『好いところだ』と答えると『あの時、負けなきゃね』と嘆くから相手が『戦争は大変でしたね』と慰めると『いや、薩摩にだよ』と言っていた。つまり我々も1609年に島津に侵略されるまでは琉球王国の領民だったんだ。君たちが敵国民の日本人だと思って殺したのは琉球人の血を引く呂論島民だぞ」戦時中に呂論島で生まれ、昭和28年の小笠原返還以降は鹿児島県人として育った町長自身は反日反米親中を公言して恥じない現在の沖縄県を嫌悪しているが、今は指揮官の行動原理に動揺を与える効果を期待してあえて体験談を披露した。
「呂論には来客を献奉(ろろんけんぽう)でもてなす風習がある。君たちも客人として島に来れば友好的に受け入れられるかも知れない」町長は指揮官が反応を見せないため無駄と思いながら説得を続けた。呂論島の「献奉」は宮古島の「お通り」と共通する接待儀礼で、先ず受け入れた家の主人が大き目の器(正式には朱塗りの杯、普段は丼ぶり)に焼酎(黒糖焼酎の有泉)を並々と注いで自己紹介した後、飲み干して底に残った数滴を掌に受けて頭に塗る。これを「髪=神に返す」と言う。それからは同じ所作を来客、出席者も繰り返して全員が飲み終わるまで続ける。最後は主人が「ご苦労杯」をもう一杯飲み干して終わる。
「何なら飲んでみますか。私が主人役を務めますから兵隊さんも集めて下さい」町長は軍人だった父が酒豪だったことを思い出して誘ってみたが指揮官は無表情に56式歩槍の銃口を向けると人指し指で切り替え金を連射に合せて引き金を引いた。
町長が椅子の高い背もたれに叩きつけられるように仰向けに倒れ、床に落ちると指揮官は遺骸を放置いて町長室を出た。すると秘書室には若い女性秘書が残っていた。町長との問答の間も手榴弾の爆発音が聞こえていたから逃げる場がなくここで震えていたようだ。
「殺さないで下さい。私は結婚するんです」秘書の訴えにも指揮官は無反応だった。56式歩槍を右手で持ち、左手で腕を掴んで立ち上がらせると床には失禁した尿が溜まっていた。それを見ても指揮官は無反応に島内一斉放送を命じた。
町長室と秘書室の2重扉を出て真っ直ぐに伸びる廊下に出ると2階を掃討した兵士たちが並んで待っていた。現代建築では強度を確保する鉄筋コンクリート製以外は合板製の建材で作られるため廊下に面する壁は室内で爆破した手榴弾の破片が突き抜けて穴だらけになっている。何人かの兵士はそれを受けて軽傷を負っていた。
「役場から島民の皆さまに連絡します。本日、呂論島は中国人民解放軍によって占領されました。これは人民解放軍からの命令ですから絶対服従です。今から町内立中の岡元牧場に集って下さい。各ホテルの町外の従業員の方たちも同様です」秘書は指揮官に命じられた内容を柔らかい表現に改めて放送した。放送室がある総務課も内部で手榴弾が爆発していて職員たちは直視できない悲惨な遺骸になっていたが、秘書は助かりたい一心で冷静に振る舞ったようだ。ただし、この命令の目的までは思いが至らなかったらしい。
呂論島は海抜98メートルの岩礁と隆起した珊瑚礁の内側に土砂がたまってできたため平坦で、集落は古い珊瑚礁の上に点在し、中央部の低地は砂糖黍畑と肉牛の放牧場になっている。51人で20.8平方キロメートルの呂論島の占領する人民解放軍が中央部の牧場に全島民を集める目的は戦争を理解しない日本人には想像もできない。
  1. 2023/01/18(水) 14:51:45|
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日本の警備業界の父・飯田亮(まこと)代表の逝去を悼む。

1月7日に学習院大学の同級生の戸田壽一さんと共に日本初の警備保障会社・日本警備保障=後のSECOMを創業し、最終的には取締役最高顧問を務めた飯田亮代表(業界内の呼び名)が亡くなったそうです。89歳でした。
野僧が浜松基地の警備小隊長だった時、AWACSの配備に伴って科学警備機材の導入が決定するとSECOMとALSOK(旧・綜合警備保障)の熾烈な争奪戦が始まり、野僧のところに両社の浜松支店長が豪華な菓子折りを持って訪ねてきて(箱の底に小判は敷いてなかった)機材の説明をしながら相手の売り込み内容と入札時の落札予定価格の情報を探りました。おまけに情報提供の見返りまで口にしたので野僧が「武人を金で籠絡できると考えるのは侮辱である」と不快感を露わにすると態度を改め、それからは人事部長が通って来てヘッド・ハンティングを始めました(支店長たちは在日アメリカ軍憲兵隊への国内留学と体育学校格闘課程を修了した経歴と知識に非常に感心していた)。最終的には東京の両社のトップからも電話がかかってきたので飯田代表と話したかも知れません。
飯田代表は昭和8(1933)年4月1日に東京日本橋の老舗酒問屋の5男として生まれました。高校は神奈川県立湘南高校で芥川賞作家の石原慎太郎さんと同級生なのでデビュー作「太陽の季節」に登場する遊び仲間のモデルの1人と言われています。学習院大学に進学してカナダ帰りの戸田さんと親しくなり、卒業後にイギリス航空に就職した戸田さんがイギリスの警備業界の話題(アメリカでは傭兵や武装警護員の派遣会社になる)を持ち返ると家業の酒問屋を辞めて昭和37(1962)年に日本警備保障を設立したのです。このタイミングは絶妙で昭和39(1964)年10月の東京オリンピックに間に合って選手村の警備を担当しました。
それまでの大半の日本の企業では社屋・工場ごとに社員の守衛を置いて警備に当たらせていましたが、多くの場合、年齢や健康上の不安で現場の仕事に自信が持てなくなった老社員で不審者や不測事態への対処能力は十分とは言えませんでした。そこに警備の専門職として委託で請け負う企業が登場したのですから企業も興味を持ち、さらに昭和40(1965)年4月から昭和46(1971)年12月まで放送されたドラマ「ザ・ガードマン」の製作に全面協力したことで存在と実力が周知されたのです。ただし、飯田代表は自社の警備員を「ガードマン」ではなく「ビートエンジニア=緊急対処員」と呼ばせていました。
こうして警備保障業が社会に定着すると昭和40(1965)年にライバル会社の綜合警備保障が創立し、大阪万国博覧会では一緒に参入してその後は科学警備機材の開発や家庭の緊急対処サービスなどの市場開拓で鎬を削り、中小の警備保障会社が警察の天下り先に甘んじている中、独自の路線で切磋琢磨しています。
野僧は退役後、警備保障会社に入社すると次期支店長要員にされましたが、天下っている警察OBが警備上の知識・経験・能力が自衛隊OBの野僧の方が格段に勝っていることに危機感を持ったため見切りをつけ、自衛隊OBだけの警備保障会社「安全保障・防人(さきもり)」を設立しようと考えたことがありました。敬意をもって冥福を祈ります。敬礼
  1. 2023/01/17(火) 15:30:57|
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続・振り向けばイエスタディ371

「何だ、聞いたことがないエンジン音だな」鹿児島県の奄美諸島の最南=県境の島・呂論島の沙花漁港では早朝から出漁した漁船が帰ってくる時間になって漁業協同組合の事務所に詰めていた組合長が聞き覚えのないエンジン音を耳にして波止場に出ていた。
呂論島は1970年代には空港がある離島として年間18万人もの観光客が押し寄せていたが、平成に入ってバブルの狂乱景気が起こると海外旅行が常識になって離島ブームは消滅した。そのため水産物は約5000人の島民では消費し切れずフェリーで奄美大島や沖縄本島に出荷しているが輸送料金が掛かる上、鮮度も落ちるので漁船の燃料代の確保にも苦慮している。さらに近年は東シナ海の漁場に中国の漁船が大挙して押し寄せて乱獲を繰り返し、海上保安庁も日中の武力衝突によって行動に制限を受けていて取り締まりが滞っている。それでも漁師たちは島民の貴重な蛋白源を確保するため出漁しているのだ。
「あれはウチの島の船じゃあないぞ、あんな形の船は国産にはない」パーン。組合長が漁港の防波堤の出入口に姿を見せた数隻の漁船の姿に困惑していると先頭の1隻から銃声が響き、弾丸が貫通した背中から血を吹きながらその場に崩れ落ちた。それを見て漁船の前部甲板から軍用小銃=56式自動歩槍(中国製AK74)を持った男が立ち上がった。
「先ずは警察だ。派出所はこの集落にある。この島で武器を持っているのは1人だけだ。警官を見つければ構わず射殺しろ。残りは空港と役場を制圧する。その前に木箱を揚げろ」波止場に接岸した漁船から上陸した漁民たちに先頭の船の船長が指示を与えた。漁民たちは全員が56式歩槍を持ち、腰の弾帯には長い弾倉を着けた完全武装だ。指示を受けて漁民たちは漁船の甲板に積んである重そうな木箱を手際よく陸揚げし始めた。この動作はどう見ても軍隊だ。
「これは弾薬と手榴弾だ」「5000人を皆殺しにするのに足りるかな」「足りなければ銃剣で刺殺せば良い」この大量の木箱には島民を殺害するための用具が詰まっているらしい。しかし、腰には銃剣を提げていないので、いくら中国人民解放軍が日本銃剣道連盟の技術指導を受けていても日本軍式の刺殺は無理だ。
「個人では携帯できないから交代で箱を担いで運べ。それも車が手に入るまでだ」やはり指揮官らしい先頭の船長の指示を受けて漁民たちは56式歩槍を吊れ銃すると重いはずの木箱を軽々と肩に担いだ。指揮官は「交代で」と言ったが全員が1箱を担いでいる。
「どの車もキーが差してないな」「これはさっきの老人の車だろう、持ってないか見て来いよ」指揮官が漁業組合の事務所を確認している間に漁港の駐車場に移動した不審な漁民たちは停めてある日本人の漁民たちの軽4トラックの車内を覗いたがどれもキーは差してなかった。その中で1台だけ少し高級な乗用車があり、それを組合長の車と推理した漁民たちは一番若い漁民に仕事を押し付けた。こうなれば若い漁民は木箱を地面に置くと波止場に転がっている組合長の遺骸に駆けていった。この軽4トラックの持ち主たちは沖で射殺して遺骸は魚の餌にした。
ズーン。間もなく波止場の方向から閃光が走り、破裂音が響いた。これは投擲訓練で聞いたことがある手榴弾の破裂音だ。そこに指揮官が歩いて来て険しい顔で漁民たちに声を掛けた。
「折角、仕掛けた詭雷(=ブービートラップ)が無駄になってしまった。あの音を聞いて警官が来るから射殺しろ。清軍士長(上級の下士官)が指揮を執れ」「はい、清軍士長が指揮を執ります」指揮を命じられた軍士長が漁民たちを漁港への入り口を取り囲むように配置につけると間もなく軽自動車のパトロール・カーに乗った警察官が現れ、至近距離からの銃弾を浴びせられて殉職した。1967年公開の映画「俺たちに明日はない」のラストシーンでは主人公のボニーとクライドはフォードV8で走行中に待ち伏せしていた6人の警察官に拳銃と自働小銃の一斉射撃を受けて殺されるがここでは警察官が逆の立場の主演を割り当てられた。
人民解放軍の兵士に戻った漁民たちは通りがかった車両の運転手を次々に射殺して移動手段を獲得すると2手に分かれて役場と空港に向かった。射殺した運転手の遺骸には動かせば爆発するように手榴弾の詭雷=ブービートラップを仕掛けた。それは手榴弾のピンを抜いて安全レバーを上にして置き、遺骸を腹這いに寝かせるだけの簡単なものだ。顔で身元を確認するために遺骸を動かせば安全レバーが外れ、4秒後には爆発する。
「我が人民ではないから楽しんでも良いんですよね」空港で警備員を射殺し、受付ロビーに乱入した兵士はカウンターの中で銃を突きつけられて怯えるグランド・パーサーの美貌に生唾を呑んだ。中国人民解放軍の軍規では強制性交は銃殺刑と規定されている。ただし、それは中国人でも共産党への忠誠心を抱く女性に限られ、1979年のベトナム侵攻や2008年のチベット大弾圧では妻や母親を含む多くの女性が人民解放軍兵士の凌辱を受けた。その下劣な蛮行が島内各所で始まった。それにしても野性化した男たちの行動は古今東西で共通している。
さ・パチーノ娘イメージ画像(新カラテ地獄変より)
  1. 2023/01/17(火) 15:24:39|
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