1840年の明日5月1日にイギリスで世界初の郵便切手「ペニー・ブラック」と「2ペンス・ブルー」が発行されました。
この2種類はどちらもヴィクトリア女王の彫像風の横顔で当時の造幣局の彫刻部長が市庁舎訪問を記念メして作成したメダルを原型にしていて台地が黒と青、肖像が金と銀の違いがあるだけでほぼ同じデザインです。ところがペニー・ブラックは台地が黒いため消印は赤色にしなければならず、この赤いインクが表面にニスなどを塗って加工すれば容易に洗い流して再使用することができたため1年後に赤茶色の台地の「ペニー・レッド」に変更されました。それでもペニー・ブラックは1年間に11回も印刷されていて最終版は通常の図版で印刷した枚数では不足したためペニー・レッド用の図版を黒で刷った2種類があり、12種類の切手が存在しています。
ペニー・ブラックは横12列、縦20行の240面で1シートでしたが、これは当時の通貨が12ペンスで1シリング=1行分、20シリングで1ポンド=1シート分だったことに由来します。このシートは初日に30万枚以上と爆発的に売れて31年後の明治4(1871)年に発売された日本初の竜紋切手が1年掛かって売れた枚数と同程度です。そのためペニー・ブラックは意外に残存数が多いので希少価値はあまり高くなく、むしろ売り上げが少なかった「2ペンス・ブルー」や珍しい赤インクの消印が押されている使用済みの方が高値で取引されているようです。
郵便制度は情報の伝達手段として古今東西で発達しましたが、中でも古代インカ帝国では文字を持たなくてもキープと言う結縄で情報を伝達し、南アメリカ大陸の山岳地帯を縦に貫く街道を整備してチャスキと呼ばれる飛脚を宿場ごとに置いてリレー方式で結び、1日当たり240キロを走ったと言われています。ただし、それは皇帝への情報伝達手段であって市民が利用できる郵便制度ではありませんでした。日本では江戸時代から飛脚制度が整備されて参勤制度で1年ごとに江戸に住む大名は飛脚を抱えて国元との情報交換に努め、藩士もその飛脚を利用することができました。庶民でも江戸と大阪の定期便を運営する飛脚問屋ができましたが、それ以外の地域は個人で依頼しなければならず宿泊費や食費を含む経費は全額負担しなければならず多くは各地から大坂や江戸へ産品を運ぶ御用商人に書簡や送金を依頼していました。一方、ヨーロッパではバチカンがヨーロッパ全土に広がった教区を支配するため教皇の命令を伝える使者が頻繁に往復するようになり、教区内で情報を周知する組織制度として住所と言う概念が確立すると商業の発展により商取引の情報伝達が頻繁になったことで依頼すれば配達される郵便制度に発展しました。
近代郵便は1516年にイタリアの名門一族がヨーロッパ全土に文書の送達組織を設立したことを契機としますが、あくまでも私企業による運営だったのをイギリスの郵政学者・ローランド・ヒルさんが郵政事業を国営化して大量の郵便物を一括配送することで必要経費を分割する均一料金制度を提唱して国民にも実現を待望する声が広まったため政府が採用して発行したのがペニー・ブラックと2ペイン・ブルーでした。
- 2023/04/30(日) 15:28:04|
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「よし、これでロシア軍の占領を阻止できる」深夜に魚沼市内の鉄筋コンクリート製の建物を宿営地にしている富士普通科教導連隊に01式携帯式対戦車ミサイルの弾体を届けると受けつけた陸曹長は珍しく満面の笑顔になった。富士普通科教導連隊は特科や機甲科の教導隊と同じく富士学校に入校する幹部学生に陸上自衛隊の普通科部隊としての教範通りの運用を展示することを任務にしているため最新で最高の装備品を保有している。当然、化学兵器や放射能に汚染された地域で活動する戦闘防護衣も全員に供与されていているため陸上自衛隊はロシア軍の砲撃によって刈羽原原子力発電所が損傷を受けて放射線量が上昇している柏崎市地域での任務に投入したのだ。つまり最後の切り札を切ったことになる。
「ウチも山岳戦闘では引けを取るつもりはありませんが装備品では全く敵いませんわ」ドライバーの陸曹は若い隊員に受け取った01式携帯式対戦車ミサイルを確認させている陸曹長の迷彩服の胸に縫い付けてある古びたレンジャー記章を見て皮肉を投げ掛けた。富士学校はレンジャー教官を養成する幹部レンジャー課程も実施しているが日本アルプスを訓練場にしている第13普通科連隊の「クレージー13」としては断崖絶壁のザイル登攀や岩場での行動などの技量では勝っても劣ることはないと自負している。それでも装備品に関しては北部方面隊への優先配備に続いて西部方面隊も重視するようになったため最新の武器は日本列島の両端に送られて東部方面隊は最終組の中部方面隊の前に東北方面隊と分け合って=奪い合っている。おまけに東部方面隊管内でも首都圏防衛の任務を標榜する第1師団が優先されるためどうしても骨董品店化せざるを得ない。おまけに第12師団は空中機動師団を自称しながら東部方面航空隊と第12ヘリコプター隊が保有するCH―47輸送ヘリコプターの機数では宇都宮駐屯地の東部方面特科隊の火砲などを日本海側へ空輸するには限界があった。
「うん、平地での戦闘は俺たちに任せて後を頼むよ。アンタたちのところにロ助(ロシア軍)が現れるのは俺たちが全滅した後だろうからな」「それじゃあ俺たちの出番はありませんね」陸曹長の返事に込めた覚悟を聞いてドライバーの陸曹は本当に出番がなく有志の勇士たちから配送を引き継ぐ運送業者で終わることを願いながら相槌を打った。
「前方、ロシア軍の装甲車」「弾数に限りがあるんだ。殺って効果が大きい目標を探せ」翌日の夜から普通科教導連隊の戦闘が始まった。二日月の漆黒に近い闇の中を柏崎市内に潜入した普通科教導連隊の隊員は無限軌道=キャタビラによって踏み荒らされた水田の中にある公共施設の駐車場に並んでいるロシア軍の大型車両を発見した。
隊員が「マルヒト」と呼ぶ01式携帯式対戦車ミサイルはアメリカ軍のFGMー148ジャペリンが射手と弾薬手の2名1組で使用するのに対して照準装置の改良によって1名で操作できる。ところが昨日届いた11・4キロの予備弾1発を含めて35キロになる荷物を1人で運ぶことになり、結局2人1組で予備弾2発になった。陸上自衛隊としては小型車両で射程距離の2500メートルまで接近して発射することを想定していたようだが、暗夜に暗視眼鏡を装着して無灯火で操縦してもウクライナ軍のゲリラ攻撃に苦しめられて改良を重ねたロシア軍の監視装置を掻い潜るのは至難の技で、数キロは徒歩での移動にせざるを得なかった。
「あった自走砲だ。あれなら損失する意味は大きい。上手くすれば車内に置いてある弾丸が誘爆して周囲の装甲車も破壊できるかも知れない」「そうだな。あれにしよう」2人は小声で話を決めると背中から17・5キロの01式携帯式対戦車ミサイルと予備弾2発を下ろして発射準備を始めた。ここで問題になるのは01式携帯式対戦車ミサイルはエンジンの熱を感知する赤外線誘導方式なので駐車して長時間が経過している戦車・自走砲・装甲車では目視照準になり、命中精度が落ちることだ。それでも普通科教導連隊は富士総合火力演習で1000メートル以上の距離に立てた木製の標的に全弾を命中させているので練度は十分だ。
「1両が爆発すると隣りの奴が狙いにくくなる。3発あるから1両おきに狙え」先任の陸曹が弾体が入った発射筒を設置して戻った射手の陸曹に指示を与えると「自衛隊みたいに揃えて停めてないなァ」とぼやきながら取り外した発射機を操作した。発射筒を離れた位置に設置したのは噴射焔を狙って銃撃を受けることを避けるためでこれも教範通りだ。
「射撃準備よし」「射撃用意、射て」プシュッ。本来は単独で射撃するのだがここでは2人1組になっているので先任者が射撃号令をかけた。すると闇の中で二日月の弱い光をかすかに水面に宿した水田の上を弾体の噴射焔が次第に赤い点になって遠ざかっていった。
ズーン。「命中」「次を準備しろ」ズーン、ズバーン。一発目が命中した自走砲の上部ハッチから炎が噴き上がると2人が次の発射準備を始めている間に大爆発を起こして上部の旋回式砲台が吹き飛んだ。同時に駐車場で発砲焔が点滅したが盲撃ちの乱射だった。
- 2023/04/30(日) 15:26:49|
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明治37(1904)年の明日4月30日から5月1日にかけて日露戦争の開幕第1戦とも言うべき鴨緑江(上流の色が鴨の頭の濃緑に似ているためこう呼ばれている)の会戦が行われました。
日露戦争を始めるに当たり日本陸軍は朝鮮を兵站基地にするため明治37(1904)年2月12日に黒木為楨大将が率いる第1軍の第12師団を仁川から上陸させて朝鮮国王を威圧すると卓越した能力を見込まれて在朝鮮駐在武官に着任していた伊地知幸介少将(後の第3軍参謀長)が期待通りの外交力を発揮して2月23日に日本軍の駐留を認める日朝議定書の締結に成功しました(朝鮮の属国化を狙うロシアの在朝鮮駐在武官を巧妙に翻弄した)。すると第1軍は主力を3月29日に平譲の南の鎮南浦から上陸させて総員42000人が伊地知駐在武官が用意した宿営地で作戦準備を整え、4月28日に古くからを中朝の国境になっていた鴨緑江の中流・安東付近を渡って満洲に進出する作戦命令を発令しました。会戦は4月29日の午後2時から鴨緑江に橋を架け始め、敵の攻撃の中4月30日の深夜3時に完成させると第1軍の先鋒として第12師団が渡河を開始しました。
一方、ロシア軍は日本軍の満洲進出を阻止すべく24000人の兵力を対岸に配置していましたが日清戦争の鴨緑江の渡河作戦で日本軍が容易に突破した理由を「清国軍が弱体だったからだ」と舐め切っていたため(実際、清国軍は日本軍の猛攻に逃亡者が続出して総崩れになった)要所要所に分散配置していて防御態勢としては脆弱でした。
こうして深夜からの渡河作戦は夜明けと共に日露両軍の砲撃戦が始まりました。第1軍が参謀総長に送った報告によれば「5月1日の早朝にはロシア軍の砲兵陣地を制圧して渡河と同時に占領した」とあります。その後は午前7時50分から九連城のロシア軍陣地を攻撃して午後5時過ぎには首脳陣が逃亡してもぬけの殻になった司令部に入城しています。
この2日間の戦闘でロシア軍は1800人の死傷者を出したのに対して攻撃を受ける中での架橋作業を実施した日本軍は1000人で(土木作業や渡河操船中の工兵は敵弾に身体を晒すことになるため兵科別の戦死率が歩兵以上に高い)、それまでの同じアジア人の清国軍と同一視していた認識を改めざるを得なくなりました。実際、黒木大将の第1軍の満州侵攻に呼応する形で奥保鞏大将の第2軍が遼東半島の塩大墺に上陸して5月26日には半島の付け根の南山陣地を占領しています。
この後の満州における地上戦を見比べると黒木大将の第1軍、奥大将の第2軍、そして野津道貫大将の第4軍には大きな戦力差はなく、それでも各司令官の天性の軍才と強運、組織経営者としての参謀の活用によって勝機を引き寄せ、勇猛果敢な攻撃と艱難辛苦を耐え忍ぶ精神力によって圧倒的に不利な戦況を逆転させ続けたのに対して乃木希典愚将の第3軍だけは有能な伊地知少将を参謀長に迎えながらヨーロッパ式土木建築の粋とも言うべき旅順要塞に歩兵銃と銃剣で突撃を繰り返す愚の骨頂の正面攻撃で日露戦争における全戦死者55655人(戦傷病死者を除く)の4分の1に相当する15400人を殺しています。日本陸軍には「あと1人」の大将がいなかったのでしょうか。
- 2023/04/29(土) 15:20:01|
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「今日は01式の弾体を40発だそうです」「今回は10師団からかァ。新発田の30普連(第30普通科連隊)まで届けてもらいたいものだな」「流石に戦場に配達にいく勇気はありませんよ」群馬県と新潟県の県境の湯沢町に配置されている安川和也1尉は運送業者や宅配便の運転手の有志の勇士たちが大型トラックで運んでくる食料や消耗品、武器と弾薬を受けつけ、自衛隊の車両で滝ヶ原駐屯地から魚沼市と南魚沼市内に展開している富士普通科教導連隊に届けていた。新発田市内の第30普通科連隊は郡山市と会津若松市経由で補給を受けているが、山岳地帯の出口が新潟市になるためロシア軍の監視が厳しく武器・弾薬だけでなく食料や医薬品も欠乏しつつあるらしい。この中継所では当初は同じ東部方面隊の1師団で首都圏の治安の維持に当たっている各部隊が中心だったが、最近は名古屋地域の第10師団になっている。第10師団でも金沢駐屯地の第14普通科連隊や三重県の久居駐屯地から北陸に移動した第33普通科連隊は高田駐屯地の第2普通科連隊に供与しているかも知れないが、富山県と新潟県の県境には古くからの交通の難所・親不知の海岸があるので陸路の輸送は難しいはずだ。
「これって対戦車ミサイルですよね。昔の戦争映画でバズーカ砲ってロケット弾を見たことがありますけど違うんですか」「あれは先祖なんだよ。今はかなり発達してるぞ」若い運転手は軍事物資を運搬すれば戦争法の文民保護の権利を失うことを承知した上で母国を防衛する自衛隊に協力することを志願しただけに戦争に関する勉強にも励んでいるらしい。
バズーカ砲が登場する戦争映画となると第2次世界大戦のヨーロッパ戦線(日本軍の戦車の装甲は重機関銃でも貫通した)や朝鮮戦争、ベトナム戦争が舞台の作品になるが、朝鮮戦争の映画は余りないのでおそらくベトナム戦争だろう。バズーカ砲は日本の真珠湾攻撃を口実にして第2次世界大戦に参戦したアメリカが北アフリカ戦線でナチス・ドイツの戦車の脅威に直面し、1942年に開発に着手した対戦車兵器だ。その最大の特徴は弾体に推進薬を搭載させたため砲身に火薬の爆発に耐える強度が不要になり、重量6キロと小銃並みの軽量にできたことだ。また一般的な対戦車砲が砲弾の衝突と炸裂で戦車の装甲を貫通していたのに対してバズーカ砲では弾頭内の炸薬を逆円錐形に凹ませることで発火熱量を一点に集中させるモンロー効果を採用していることも画期的だった。ただし、初速が遅く直進性が低い射ち放しの上、有効射程が150ヤード=137・16メートルと極めて短く、戦車に随伴している歩兵によって射手が危険に晒されることが欠点だった。そのため第4次中東戦争でエジプト軍がソビエト連邦製で射程3キロのATー3対戦車ミサイルでイスラエル軍の戦車部隊を撃破して以降は東西両陣営で精密誘導式の対戦車ミサイルの開発合戦が始まって現在も続いている。
「安全運転でクロネコ佐川のペリカン便に行ってこい」「40発あれば1個歩兵連隊を壊滅できるでしょう。装甲車から逃げ出せば小銃で狙い射ちですわ」日没後、安川1尉は宿営地で今日の運搬車両を見送った。安川1尉はこの山岳レンジャー部隊の指揮官なので配達は陸曹2名に任せることになる。有志の勇士たちが躊躇する戦場を一目で軍用車両と判る自衛隊のトラックで配達するのだから当然、夜間に無灯火で走行しなければならない。それでも暗視眼鏡を装着していれば視界は前照灯よりもかなり広く、野性動物が平気で前を横切ることを除けば安全性は十分に確保できる。仮に敵の監視要員が配置されていても街灯が消えた暗闇の道路を黒い車体が移動しているのはエンジン音以外に察知する術はない。
「語り継ぐ人もなく 吹きすさぶ風の中へ 紛れ散らばる星の名は 忘れられても ヘッドライト・テイルライト 旅はまだ終わらない・・・」安川1尉に敬礼して運転席に乗り込んだ陸曹は暗視眼鏡を装着すると助手席の若い陸曹に「行くぞ」と声をかけて鼻歌を唄いながら車両を出発させた。この歌は国営放送の「プロジェクトX・挑戦者たち」の中島みゆきの主題歌「地上の星」のB面「ヘッドライト・テイルライト」でエンディング・テーマだった。無灯火で走行するには不似合いだが気分は理解できる。過去にも新発田への運搬車両がロシア軍の攻撃を受けて運転手と助手が戦死した。JR東日本の有志の勇士の運転手は避難者を運ぶために上越新幹線を運行していたがロシア軍の弾道ミサイルが新潟駅に着弾したのに巻き込まれて死亡した。JR北海道でも日本人工作員が破壊した線路で列車が事故を起こして運転手と避難者多数が死亡している。そのためJR北海道の有志の勇士が申し入れていた前線への補給物資の運搬列車の運行は中止になってしまった。一方、陸空自衛隊の輸送ヘリコプターもロシア軍の携帯式地対空ミサイルで半数が撃墜されて離島防衛用として西部方面隊に集中配備されている。
「・・・称える歌は 英雄のために過ぎても ヘッドライト・テイルライト 旅はまだ終わらない・・・」宿営地を出たトラックが幹線道路に出る前に一時停止して点灯した赤色灯を見て安川1尉も続きを口ずさんでみた。確かに胸に染み入ってくる。
- 2023/04/29(土) 15:18:44|
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昭和8(1933)年になって自動織機メーカーから自動車産業に参入した後発のトヨタを世界最大の自動車企業にまで押し上げた数々の名車を設計主査として生み出した長谷川龍雄さんが2008年の明日4月29日に亡くなりました。92歳でした。
長谷川主査は大正5(1916)年に鳥取県鳥取市で生まれ、昭和14(1939)年に東京帝国大学工学部航空工学科を卒業すると陸軍の複葉式練習機・赤とんぼやロッキードの全金属製のL-14スーパーエレクトラ旅客機をライセンス生産していた立川飛行機に入社しました。実在の三菱重工の設計技師を主人公とするアニメ映画「風立ちぬ」では軍用機を設計することが本意ではないような発言がありましたが、当時の日本では陸海軍以外に航空機の需要はなく映画製作者の思想的な脚色でしょう。実際、映画の主人公は敗戦後には防衛大学校の航空工学の教授になっています。
立川飛行機での長谷川主査は98式直接協同偵察機(武装して対地攻撃も兼務する偵察機)や金属製単葉翼固定脚の99式高等練習機、爆撃機の搭乗員の訓練用として採用されながら多目的に使用された1式双発高等練習機などを開発・実用化しただけでなく中島飛行機の1式戦闘機・隼のエンジンを換装して出力を強化することでプロペラを3枚にして速度を大幅に向上させた3型を中島飛行機に代わって受注生産しました。さらにエンジンとプロペラを前後に取り付けて2倍の出力を得る高高度でのBー29の迎撃に特化したキ94戦闘機の開発にも着手しましたがモックアップ(実寸大の木造模型)までで終わりました。この機体で特筆すべきは「TH翼(THは長谷川龍雄の頭文字)」と呼ばれる独特な主翼で、通常は空気を切る前部を厚く傾斜を大きくして後方は薄くすることで抗力と揚力を発生させますが(機体重量を超える推力を持っていたFー104は除く)、TH翼では全体に厚みがありフラップの効果を最大限に発揮させる設計思想でした。
そんな立川飛行機は敗戦によって航空機の需要を失うと電気自動車の製造に活路を求め、やがて後にダットサンと共に日産になるプリンス自動車(グロリア、スカイライン、チェリーを製造していた)を創業しましたが長谷川主査は参加せずに昭和21(1946)年にトヨタ自動車に入社しました。トヨタ自動車では初代トヨエース(トラック)から初代カローラ、初代パプリカ、初代セリカ、初代カリーナ、そしてトヨタスポーツ800などの設計主査を務め、常務取締役製品管理者に就任しましたが、主査の後継者を育てる上で1「常に知識、見識を学べ」2「自分自身の方策を持つべし」3「大きく強い網を張れ」4「良い結果を得るために全知全能を傾注せよ」5「物事を繰り返すことを面倒がってはならぬ」6「自分に対して自信=信念を持つべし」7「物事の責任を他人のせいにしてはならぬ」8「主査付とは同一人物であらねばならぬ」9「要領よく立ち回ってはならぬ」10「必要な資質=知識・技術力・経験・洞察力・判断力・決断力・度量・感情的ではなくて冷静であること・活力・粘り・集中力・統率力・表現力・説得力・柔軟性・無欲と言う欲」の十カ条を指針にしていたそうで野僧は自分自身の「現場指揮官の素養」の自学研鑽のポイントとするのと同時に曹侯学生の後輩たちにも伝授しました。
- 2023/04/28(金) 15:47:21|
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「ロシア軍の主力はゲリラ戦に熟練しているな」「全くつけ入る隙がありません」「マルヒト(01式携帯式対戦車ミサイル)は何時届くんだ」新潟で占領地域を拡大しているロシア軍の地上部隊にゲリラ攻撃を加えている陸上自衛隊は上がらぬ戦果と増え続ける損害に苦慮していた。第30普通科連隊は空襲や艦対地ミサイルによる攻撃で跡かたもなく破壊された新発田駐屯地は諦め、市街地に残っている鉄筋クリート製の建物を陣地にしているが(地下はない)、占領された地域に隊員を潜入させて一撃離脱の攻撃を加えても常に装甲車で行動しているため小銃では戦果はなく、現場指揮官の各中隊長が顔を合わせても出てくる台詞は「追加の携帯式ミサイルが届く時期」の話題だけだった。01式携帯式対戦車ミサイルは赤外線誘導装置を装備しているため命中精度が高く、誘導することなく射ち放しにできる特性があるが1基あたり2600万円と高価になり、普通科の対戦車小隊の縮小に伴って小銃小隊にも配備することになって調達数は1000基を越えても各駐屯地での備蓄は進まなかった。
「アメリカがベトナム戦争で相手をしたのは農民兵だったがロシア、ソ連はアフガニスタンの騎馬遊牧民だ。おまけに持っている武器はアメリカ製の優れ物だった。徹底的に苦しめられて敗北しても獲得した戦訓が絶大だったのは間違いない。完全に装甲化した地上部隊はその象徴だ」「本当に感心するほど徹底してますよ」樺太と北方領土から侵攻したロシア軍は所詮は守備隊に過ぎず、迎え討つのが陸上自衛隊の大半の戦車と自走火砲、最新式の各種ミサイルを集中的に配備している北部方面隊なので現時点では優勢を維持している。一方、新潟地区にはシベリアから極東軍管区の主力部隊が上陸してきたが、対処する第12旅団はマスコミの目につく東部方面隊であり、自民党が政権を失う直前に「世界的潮流」と扇動していた軍縮を実行していることを証明するために他の方面隊以上に戦力を削減されてしまった。北海道以上に広大な平原に戦車を横一線に並べて進撃してくるロシア軍に十分な対戦車兵器もなく小銃で立ち向かうのは日露戦争でヨーロッパの土木技術を傾注して建設した旅順要塞を銃剣突撃で攻略しようとした乃木第3軍やノモンハンの平原に蛸壷壕を掘って歩兵の小銃と銃剣、火焔瓶でソ連軍の戦車を迎え討った関東軍の再現になる。
「ウクライナではアメリカとNATOが携帯式対戦車ミサイルを潤沢に供与したんだよな」「確かジャベリンだったぞ」FGMー148ジャベリンは01式対戦車ミサイルの原型と言われるアメリカの陸軍と海兵隊が装備している赤外線誘導方式の対戦車ミサイルで、ウクライナ軍にも惜しみなく供与されて空挺作戦の失敗を受けて機甲部隊による侵攻を企図したロシア軍の戦車を次々に撃破した。是非とも同盟国の日本にも供与してもらいたいものだが石田内閣が防衛出動を発動せずに治安出動と海上における警備行動で対処している以上、現在の武力紛争は内政問題であり、「日米安全保障条約の対象にならない」と言うのがアメリカ議会の見解だ。その背景にはウクライナ侵攻における軍事支援に巨額の国家予算を遣ったことから「これ以上の予算支出は避けたい」と言う現実的な思惑もある。ところがロシアは中国の仲介で原油を売り捌いて戦費を穴埋めし、ウクライナ侵攻によってフル稼働している軍事産業が作る兵器を極東に回せば軍隊としての体裁は苦もなく整う。
「ところで柏崎の原発はどうなった」「あそこに上陸した部隊が新潟に来たんだから占領さらたのは判っているだろう。12特(第12特科隊)が砲撃を加えたが艦対艦ミサイルを射ち込まれて陣地の半分は破壊されてしまった。ウチの連隊の3個中隊が鯖石川で侵攻を阻止しようとしたんだが、はるか手前で砲撃を始めて原子炉建屋を破壊すると放射線量が急上昇したんだ」「やはり核燃料は空ではなかったと言うことだな」「それでも健康被害が出るような数値ではなかったぞ」どうやらこの中隊長も柏崎市方面に派遣されたらしく体験談的に判り易く説明した。石田政権ではロシア軍がウクライナ侵攻でも原子炉を攻撃して国際社会から批判を浴びている以上、同じ暴挙を犯したことを発表するべきだと主張する立野官房長官や双木外務大臣とマスコミが北朝鮮の弾道ミサイルによる若狭湾の原発銀座の破壊の時に過剰に不安を煽り立てた世論誘導が首都圏で繰り返されることを危惧する石田首相が真っ向から対立して自衛隊には柏崎市地区での戦闘を禁止して事実を隠蔽している。
「上越市の方はどうだ」「あっちは高田の2普連の担当だからこっちまで情報が伝わってこないよ。5施群(第5施設群)は関山演習場に続いてあちらこちらに陣地を作ったり、橋や道路脇の崖に爆薬を仕掛けたりと大忙しらしいがな」「交通築城って奴だな。前川原の同期に聞いたことがある」施設科部隊には地雷の敷設と排除や渡河などで普通科部隊を直接支援する戦闘施設と本格的な土木機材を用いて大規模な陣地を構築し、必要な箇所に橋を架け、道路を啓開する後方施設がある。船岡の茶山元3佐が所属していたのは後方施設だった。
- 2023/04/28(金) 15:43:28|
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4月20日に沖縄のロックン・ロールの創始者の1人・川満勝弘さんが沖縄市の自宅で急逝したそうです。78歳でした。
野僧の時代の蒲郡高校には生徒のフォークとロックのバンドが10以上あって、フォーク組はシンガー・ソングライターを気取って作品をヤマハのポプコンに投稿していましたが、ロック組は1972年に結成して1975年に解散した矢沢栄吉さん、ジョニー大倉さんのキャロルや1975年に舘ひろしさんや岩城洸一さんが結成して現在も続いているクールスを崇拝していて9月下旬の文化祭では暑い中、皮ジャンを着て熱唱していました。そのため野僧も耳で日本版ロックを憶えてしまいましたが歌謡曲のようにスローテンポで口ずさんでみると妙に演歌調なのに気づきました。
そんな野僧が就職家出して沖縄に赴任すると毎週末には飲み屋に行くようになり、そこで明らかに日本人が唄っていても高校時代に聴いていた日本版ロックとは全く異質で、むしろ本場アメリカのロックン・ロールに近い曲が有線放送で流れていました。
そのバンドの曲が流れるとシマンチュウ=沖縄県人の客たちが一緒に唄い始めるため興味を持って話を聞くと「コンディション・グリーンと言う本土復帰前の1971年に結成されたバンドで川満勝弘と言う宮古島出身のボーカルだ」とのことでした。その時、バンド名の「コンディション・グリーンはアメリカ軍の5段階の警戒レベル=ディフェンス・コンディションのうち外出禁止になる下から2番目のことだ」と説明を受けましたが、アメリカ軍と共通の航空自衛隊では段階に色を用いていません。
コンディション・グリーンの本場ロックン・ロールはベトナム戦争当時、出征するアメリカ兵たちが不安を忘れて熱狂したそうなので魂を揺さぶる力があったようです。その一方でコンサートに行った先輩の話ではステージ上で生きたハブの頭を喰い千切り、胴を振り回して血を客席に飛び散らすなど常識を外れた演出があったそうです。
現在の日本のマスコミは1995年9月に発生した在沖縄アメリカ軍の海兵隊員と海軍軍属が小学6年生の少女を強姦した事件を亡国県知事・大田昌秀が利用した抗議集会に主催者発表で8万5千人が参加して以来、普天間基地のヘリ墜落事故、辺野古移設反対運動などに参集する人数(実際は職業化している人間が大半)を過大評価して沖縄県民は「反米」と決めつけていています。そのため2018年にDA PUMPが「U.S.A」を唄った時もテレビ各局の報道バラエティー番組では「沖縄のグループなのに何故」と疑問を呈していましたが、昭和の沖縄では県民の大半が復帰前に生まれた元アメリカ人で本土を介さずにアメリカ文化に親しんでいたのでロックやポップスも本場直伝だったのです。それが根づいているからオキナワン・ポップスが生まれたのであり、そもそも昭和54(1979)年に「アメリカン・フィーリング」を大ヒットさせたサーカスも沖縄出身です。
川満さんはコンディション・グリーンが解散した後は沖縄市内でバーを経営していましたが、2009年に閉店を宣言して実際は2012年まで営業していたそうです。懐かしさを込めて冥福を祈ります。南無ミルクユガフ
- 2023/04/27(木) 15:50:35|
- 追悼・告別・永訣文
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新潟でも陸上自衛隊が苦戦していた。新発田駐屯地の第30普通科連隊は阿賀野市の大日原演習場は富士から展開してくる教導特科隊に譲り、県民が避難した新潟市から村上市にかけての市街地のビルの地下を陣地にしていた。ところが大日原演習場の富士教導特科隊の陣地は日本海上空での空中戦の直後に空襲を受けて壊滅し、続いて同時多数に発射された弾道ミサイルのうち海上自衛隊のイージス艦が射ち漏らした数発が射ち込まれて市街地も廃墟と化してしまった。部隊は弾道ミサイル攻撃が始まった時点で内陸部に移動していたが途中でロシア軍機の空襲を受けて損害を受けた。何よりもヘリコプターによる空中機動展開を標榜する第12師団は新潟と長野県内には3個普通科連隊を配置しているだけで戦車は消滅し、特科や施設などは北関東に集中している上、治安出動を維持するため日本海側へ移動できないままロシア軍を上陸させてしまった。こうなれば地の利を活かしてゲリラ戦を展開するしかない。
「ロシア軍の輸送機が新潟空港に着陸するようです」「インターセプター(要撃機)はロシア軍機とのドッグ・ファイト(空中戦)で手一杯です」「イージス艦は弾道ミサイルに備えて温存しなければなりません。艦対空ミサイルは射程距離が短いので届きません」「陸は・・・着陸態勢の輸送機なら携SAMでも落とせるだろう」「ラージャ」浜松基地から発進したFー15が日本海上空でロシア軍の護衛戦闘機と空中戦を始めた隙に先ほどパイロットがアントノフ124ルスラーンと報告した10機の輸送機が新潟空港への着陸態勢に入った。入間基地では中部防空指令所と階上の航空方面隊指揮所の間で矢継ぎ早に議論が交わされた。ヨーロッパの航空ショーに出品されたアントノフ124の商品カタログによれば離着陸距離は2530メートルとあり、新潟空港の第2滑走路は2500メートルなので30メートル足らないが、その程度は誤差の範囲なのだろう。X型に交差している第1滑走路は1314メートルだ。
「陸から回答、新発田駐屯地の30普連では弾薬庫に収納していた携帯SAMはすでに射ち尽くしてしまった。空港の監視要員に着陸した輸送機のタイヤを狙撃させるが空港周辺はロシア軍が占領しているので有効射程まで接近できない」ここでも武器弾薬の備蓄不足が露呈した。おまけに装備品の不在が致命的になっている。第12旅団の高射特科部隊は宇都宮駐屯地の第12高射特科隊だが93式近SAMと81式短SAMの1個小隊ずつしかない。千葉市の下志津駐屯地の高射学校には87式自走高射機関砲が8両、茨城県の土浦駐屯地の武器学校にも教材用が1両あるが主力は北海道で、第2高射特科大隊3中隊に8両、第7高射特科連隊の4個中隊に32両が集中配備されている。81式短SAMを導入した時、陸上自衛隊はL90高射機関砲の後継として国産で設置式の81式短SAMを選び、新設する基地防空隊用としていた航空自衛隊はドイツとフランスが共同開発した自走式のローランドを選んだのでこれを知ったマスコミは「逆じゃないのか」と困惑していた。結局、東芝の開発費を補完するため81式短SAMを採用せざるを得なって航空自衛隊も押しつけられたが、ローランドはフォークランド紛争や湾岸戦争でも威力を発揮したのに対して81式短SAMは演習の防空戦闘でさえ脆弱性と能力不足が指摘されている。あの時、航空自衛隊を「舶来趣味」、陸上自衛隊を「国粋主義」などと誹謗し合う前に運用の立場で真剣に検討するべきだったのは間違いない。
「撃てないか」「はい、難しいです」連隊本部の特別命令を受けて狙撃手の陸曹2名が新潟空港から500メートルほど離れた位置にあるビルの最上階の割れた窓から着陸するアントノフ124を狙撃していた。ロシア軍は始めから新潟空港に強行着陸するつもりだったようで滑走路の周囲にはミサイルを射ち込んでおらず空港を見渡せる射座は確保できた。しかし、着陸前に下ろした車輪や操縦室の窓を狙うにはM24狙撃銃の800メートルの射程距離でも足らず、滑走中は空港ターミナルや航空救難隊の格納庫に邪魔されて姿を捉えることができない。海岸側や川岸はロシア軍の地上部隊が十重二十重に配置されていて遮蔽物がない分、容易に発見されてしまう。兎に角、ここまで接近できたのも奇跡だった。
「やはり着陸するにはギリギリの距離なんだな」「滑走路の端に着陸しています」1機目は見送り、2機目に狙いを着けたが、アントノフウ124の巨体は阿賀野川の対岸の住宅地の屋根を吹き飛ばすのではないかと心配になるほど低空で接近してきて、川を越えると即座にタイヤを着地させている。アントノフ124の車輪は胴体下部から出す左右2本の主脚には5個ずつ2列のタイヤ、機首の下の2本の脚には横一列に2個ずつ4個のタイヤが並んでいて多少の無理には耐えられそうだ。しかし、感心している場合ではない。
「4機目か、このまま増援部隊を展開させてしまうしかないのか」「携SAMの追加が届けば打つ手もあるんですけど」「中国軍は海上が東シナ海で阻止しているから九州に上陸される可能性は低いんだろう」常に冷静沈着な狙撃手には珍しく愚痴と苦情が止まらなくなった。
- 2023/04/27(木) 15:49:35|
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主戦場になった日本海で航空自衛隊は苦戦していた。先ず経ヶ岬、輪島、佐渡島のレーダー・サイトを失ったことで日本海側の監視がAWACSによる空中哨戒のみになって情報量が限定されている。次に小松基地が空対地ミサイルによって管制誘導装置を破壊されたため同時多数の緊急発進の離陸と帰還の着陸に対応できず戦闘機用基地としての機能を再開できていない。一方、百里のFー35と浜松のFー15は意外な問題に直面していた。それは空中戦によって発生した火器管制装置などの電子装置の不具合を航空自衛隊が整備できないことだった。航空自衛隊がアメリカ製の戦闘機などを導入する時、日本の航空機メーカーがライセンス生産するための契約を結ぶが、最高度の軍事秘密である電子装置についてはアメリカ製の輸入品で、ブラック・ボックスと呼ばれる実際に黒く塗装した容器を開封して内部を見ることも拒否している。そのため航空自衛隊はテスト・セット=検査機材で不具合を確認しても交換しかできないのだが、基地で保管する予備の在庫も内局の官僚が交した契約では脆弱な防護態勢を理由に認めておらず、戦時の特例処置は盛り込まれていない。その癖、アメリカは日本がFー2の火器管制装置を開発した経験を発展させて独自にFー15の電子機材の更新を計画するとアメリカ空軍よりも性能が劣る機材を使わせることで確保している優位性が失われるため政治的圧力を加えて阻止した。おまけに在日アメリカ空軍の三沢と嘉手納基地に配備している戦闘機はFー22なのでFー35専用の電子装置の在庫は持たないようだ。
「ロシアン・フォーメーション・アプローチ・オーバー・ジャパン・シー(日本海上にロシア軍の編隊が接近します)」「百里、ホット・スクランブル」「百里、インポッシブル・アラート(緊急発進不能)」「コレクション(訂正)、浜松、ホット・スクランブル」「ラージャ」入間基地の中部防空指令所はAWACSが捕捉した日本海を西進するロシア軍の編隊に緊急発進を発令したが、アメリカ国防総省は通常の秘密保全態勢にある百里基地へのFー35の火器管制装置の搬入に難色を示したため整備が間に合わず対処できなかった。そこで浜松基地から発進可能なFー15を全機発進させた。その浜松基地は大都市に所在するため昼夜間を問わずに発進する戦闘機の爆音に反政府系の市民団体が抗議運動を繰り返すようになっている。
「センチュリー(中部防空指令所のコールサイン=仮称)、ディスイズ・ゴールデン(第6航空団のコールサイン=仮称)、ロシアンの情報はないのか」「現時点では10機の周囲を20機が取り囲む形の編隊と言うことだけだ。爆撃機を護衛する戦闘機だと思われる」パイロットの確認に指令官は申し訳なさそうに答えた。通常は安定飛行に入った時点で指令官の方から目標機に関する情報を伝達するのだが経ヶ岬と佐渡島のガメラ・レーダー=J/FPSー5や輪島のJ/FPSー3Aに比べてAWACSのレーダーでは情報不足なため北部航空方面隊の男鹿分屯基地や西部航空方面隊の高雄山分屯基地の探知情報を確認していたのだ。
「ラージャ、爆撃機の護衛戦闘機を撃墜するなんて戦時中の陸軍航空隊みたいだな」「おッ、意外に勉強家だな」パイロットが戦史の知識を披露すると指令官が冷やかすように感心した。敗戦後の日本では日米開戦に反対した海軍は正、日独伊三国同盟を強行した陸軍は悪と言う偏見から昭和19年7月にサイパン島が陥落した後に始まった日本本土の都市空襲に対処したのも海軍航空隊だと思われてきた。それを参議院出馬に利用した源田実航空幕僚長が松山の紫電改部隊の活躍を過大に宣伝したため航空自衛隊のパイロットでも誤解している者が少なくない。しかし、実際に超高高度を飛ぶBー29を迎撃したのは全国に配置されていた陸軍航空隊であり、昭和20年3月に硫黄島が陥落してから随伴するようになった護衛のPー51ムスタングに対処したのも同様だった。そもそも戦争後半には旧式化していた零式艦上戦闘に執着して無理な改造を繰り返した海軍よりも各メーカーに開発を競わせた陸軍の戦闘機の方が高性能で完成度が高かった。パイロットの技量も両者が参加した航空自衛隊の評価では脱出して生還する陸軍の方が熟練者が残っていて海の藻屑と消えた海軍を凌駕していたらしい。
「ロシアンのファイターが展開したぞ。ドッグファイト開始だ」「ファイター(戦闘機)が護衛しているゲスト(お客さん)が何かを確認してくれ」「ラージャ、余裕があればな」指令官の依頼にパイロットは軽口で答え、空中戦に突入していった。
「タリホー・ゲスト(目標を視認した)。ゲストはルスラーンだ。グラマラスな美女だぜ」機数的には同等な航空自衛隊とロシア軍が空対空ミサイルの射ち合いからの空中戦を開始するとゲストである航空機は分散して回避行動を取った。それを目視したパイロットは機種がアントノフ124ルスラーンであることを報告してきた。アントノフ124はアメリカのCー5Aギャラクシーに対抗するために開発した姉妹機のアントノフ225が破壊された現在は世界最大の輸送機だ。それが10機揃って飛来した目的は地上部隊の急速な増強以外にない。
- 2023/04/26(水) 15:06:55|
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2023年は4月20日にマーシャル群島付近で台風1号が発生しましたが昭和31(1956)年の4月25日に台風3号が鹿児島県の大隅半島に上陸して本土への台風上陸最早(最速ではない)記録になりました。
この台風の異常さは2番目に早かった昭和40(1965)年の台風6号が1カ月以上遅い5月27日に千葉県の房総半島をかすめたことでも明らかで、地球温暖化で海水温が上昇して台風が発生し易くなっていると言われる今年でもまだ3号までは発生しておらず、1号も日本に接近もしていません。
台風3号は昭和31(1956)年4月16日に西太平洋のミクロネシア南部のカロリン諸島で発生しました。そのまま発達しながら北西に進み、4月21日にフィリピン北部のルソン島に上陸する頃には気圧935ヘクトパスカル、最大風速150キロノット=秒速75メートルの強力な台風に成長していました(通常、季節外れの台風は海水温が低いためあまり発達しない)。
台風3号はフィリピンに甚大な被害を与えると頼んでもいないのに進路を北東に転換して南シナ海を北上し、台湾の太平洋側をかすめて通過すると東シナ海に入り、24日の午前6時頃に宮古島を通過して沖縄、奄美諸島に沿うように北上を続け、午前7時30分に通常の進路のように九州を横切るのではなく種子島、屋久島の方向から大隅半島に上陸しました。
ところが気象庁・測候所が上陸して1時間半後の午前9時に「台風が消滅した」と発表したため「台風が消えた」と大騒ぎになりましたが、これはおそらく海水温が低い東シナ海を通過している間に勢力が急速に衰え、上陸直後に台風と熱帯性低気圧の分類基準である低気圧域内の最大風速が秒速17.3メートル=34キロノット以上を下回ったため台風としての指定を解除したことを誤解されたのではないでしょうか。
富士山測候所の大型気象レーダーが設置されたのは昭和39(1964)年、運用開始は翌年ですが、気象庁は昭和29(1954)から復帰前の沖縄を含む全国20カ所の測候所で気象レーダーを運用していますから「台風が突如消滅する」と言う異常現象を観測すれば世界的ニュースとして歴史に残ったはずです。
敗戦後の鹿児島県は毎年のように台風による甚大な被害を受けていてこの台風までにも敗戦直後の昭和20(1945)年9月17日と18日の枕崎台風(上陸した地名を冠した)、昭和24(1949)年6月18日から22日のデラ台風(占領下でアメリカ式に女性の名前を冠するようになった)、同年7月17日のフェイ台風、同年8月13日から18日のジュディス台風、昭和25(1950)年7月1日のケイト台風、昭和26(1951)年10月10から16日のルース台風、昭和29(1954)年8月16日から18日の台風5号(独立を果たして日本式に番号を付与するようになった)、同年9月10日から13日の12号ジュン台風(占領下の風習に慣れた国民の声で併用した)、そして昭和30(1955)年9月28日から30日の台風22号が大暴れしました。
- 2023/04/25(火) 13:48:44|
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「バターンの死の行軍は何キロ歩かせたんだっけな」「確か83キロを3日間だったと思います」日露双方に少なからぬ損害を出した戦闘の惨状を視察に来た3中隊長の安藤3佐は車座に座らさせられて小銃を構えた隊員に取り囲まれている73名の捕虜たちを見ながら1小隊長に訊ねた。1小隊長は部内出身だが半数近くが大卒者だった曹侯学生の最終32期生なので基礎課程から勉学に励む気風が身についていて戦史にも詳しいのだ。
「本間雅晴中将はバターン行軍の責任を問われて死刑になったんだよな」「はい、山下奉文大将の絞首刑と違って軍人としての名誉を認める銃殺でしたが、どう見ても敗北したマックアーサーの私怨です」本間中将は対米英中戦争の緒戦でフィリピン攻略を指揮したが、大本営陸軍部がマニラ占領を作戦目的と説明したためマックアーサー元帥の植民地軍が要塞化しているバターン半島に逃げ込むのを放置してしまった。すると大本営はフィリピン全土の制圧に作戦目的を変更したので難戦の末に占領した。ところが2万5千人と見積もっていた捕虜が7万6千人と3倍増した上、多くがマラリアや栄養失調の傷病兵だったため移送用のトラックを要求したが、トラックはマレー半島突進作戦を優先していて絶対数が足らず現地に乗り込んできた辻政信大本営参謀は「全員を処刑すればそれで済む」と吐き捨てて帰った。この事態に本間中将は重症者をトラックで搬送し、健常者と軽症者は鉄道がある区間以外は徒歩でマニラ近郊に開設した俘虜収容所に移動させた。しかし、到着したのは5万4千人で終戦後のB級戦犯裁判では「欠員は全て日本軍に殺害された」として訴追された。しかし、監視に当たった日本兵も捕虜と一緒に歩き、同じ食料を摂っていたので当時の戦争法では違法にならず、実際は監視の日本兵が少なかったため多くが脱走していて戦犯指定と軍事法廷の公判の方が違法なのだ。
「ここから矢臼別の旅団司令部までは90キロ以上あるからバターンで歩いた距離よりも遠いな」「しかし、あっちは熱帯の炎天下でしたがこっちは寒冷地です」1小隊長は3中隊長の口ぶりから捕虜を移送するトラックが手配できなかったことを察した。せめて別海駐屯地までならば30キロ程度で、八雲分屯基地と同じく航空自衛隊の1590メートル滑走路の計根別予備飛行場が併設されているので輸送機で移動させられる可能性はある。ただし、最近は弾薬や必要品の補給も途絶えがちだと聞いている。
「捕虜は帯広の警務隊に引き渡すんじゃあなかったかな」「それは戦争犯罪者でしょう」「いや、帯広の警務隊長はロシア兵は入管法違反の侵入者、銃刀法違反の犯罪者として漏れなく告発すると言ってるらしい」帯広の第121地区警務隊は第5旅団管内を担当しているため別海駐屯地にも巡回してくるので1小隊長も面識はあるが、それが現在の隊長なのかは判らない。理論的には日本が防衛出動を発令していない以上、ロシア軍に平時の法律を適用すれば警察権の行使の必然性が強まるはずだ。その一方で73名の捕虜でさえ円滑に処置し切れないとなると終戦後に自衛官が戦争犯罪者として告発される可能性も否定できない。戦死=殉職するのは任務を遂行した結果だから覚悟しているが絞首刑や銃殺で刑死するのは御免こうむりたい。
「医官がいないから死亡診断書を書いてもらえないな」「それで埋葬すれば死体遺棄罪です」「それはいかんな」3中隊長の駄洒落はふざけた訳ではなく八方塞りの空気抜きだった。
「2師団は旭川市内の小中学校を俘虜収容所に・・・言いにくいな捕虜にしよう」その頃、矢臼別演習場の第5旅団司令部では捕虜を担当する1部の幕僚たちが頭を抱えていた。自衛隊の常識を体現して部隊に徹底させることを職務としている1部の幕僚にしては珍しく帝国陸軍の用語を踏襲した防衛省の呼称を否定した。第5旅団ではこれまでも沖で撃沈されて海岸まで泳ぎ着いた連絡船の乗員を捕虜にしているが少人数だったので車両で帯広駐屯地に送って地区警務隊に引き渡してきた。それが部隊単位となると話が違うらしい。
「それは好い手だがこっちは演習場が広い分、周囲の自治体の学校では遠過ぎるだろう」矢臼別演習場は標茶町、中標津町、別海町、浜中町、厚岸町の境界線上にある面積1万6千8百ヘクタールの日本最大の演習場なので小中学校があるような集落までは遠く、警備と運営は第2師団と同じく第52普通科連隊3中隊の即応予備自衛官に担当させるにしても集団脱走や暴動が発生した時に増援を派遣するには不便だ。さらに別海町や中標津町は戦場になっているので「捕虜収容所は安全な地域に設置する」と定めている戦争法に違反してしまう。
「その前に敵味方12名の重傷者と73人の捕虜をどうやってここまで運ぶかだ」「鉄道隊があればな・・・」幕僚たちの議論が空回りし始めると最古参の曹長が独り言を呟いた。陸上自衛隊には国鉄労働組合のストライキが頻発していた昭和35年に習志野駐屯地の第101建設隊に蒸気機関車を運行する鉄道隊が創設された。しかし、ディーゼル機関車への更新が認められず6年で解散されたが維持されていれば戦時の輸送には絶大な力を発揮したはずだ。
- 2023/04/25(火) 13:47:33|
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1792年の明日4月25日に「革命政府がオーストリアに宣戦布告した」と言う知らせを受けたストラスブール市長の要請を受けて革命軍のルジェ・ド・リール工兵大尉が「ライン方面軍のための軍歌」を翌26日の朝までに完成させ、26日に自ら唄って披露すると感激した市長は譜面を印刷して各方面に配り、後にマルセイユの義勇軍がこの歌を唄いながらパリに入城したことから革命歌「ラ・マルセイエーズ」になり、1796年7月14日に国民公会=革命政府の中央機関・立法府が国歌として採用しました。
そのため歌詞を日本語に訳すと「征こう祖国の子よ 栄光の日だ。我らに向かって暴君の 血塗れの旗が掲げられ 血塗れの旗が掲げられ(繰り返し) 聞こえるか戦場の 残忍な敵兵の咆哮が 奴らは汝らの元へ来て 汝らの子と妻の喉を掻き切る」と言うもので同様に独立戦争の時、捕虜交換の交渉のために乗り込んだイギリス艦に「ボルティモアのマクヘンリー要塞を砲撃している間は下艦させない」と拘束され、夜通し鳴り響く砲声を聞きながら迎えた朝に窓から見た要塞の城壁に翻っている星条旗を謳った1931年3月3日以降のアメリカ国歌「星条旗」(それまではイギリス国家「ゴッド・セーブ・キング」の曲に別の歌詞をつけた「マイ・カントリー・ティズ・オブ・ディー」だった)や共産党中国の抗日戦争中に元は映画「風雲児女」の主題歌だった国民党軍第5軍第200師団の部隊歌を義勇軍が借用していた国歌「義勇軍行進曲」よりもはるかに血生臭く、この歌を誇らしげに唄うフランス人の神経を疑ってしまいます(大山巌元帥が陸軍の儀式用に好きな謡曲を採用しただけの「君が代」を国歌にしている日本人も似たようなものですが)。
ところがこの歌詞の「暴君=tyrannie」が世襲制の君主を指すためナポレオン・ボナパルトさんが1804年5月に皇帝に即位すると国歌をもう少し穏当な革命歌「門出の歌・自由への賛歌」に変更し(この歌にも「暴君は棺の中へ」と言う言葉が出てきますが「ラ・マルセイエーズ」ほど刺激的ではありません)、ナポレオン皇帝が失脚して処刑されたルイ16世の弟がルイ18世として国王に即位してからも1830年の7月革命で退位するまでは演奏・歌唱が禁止され、さらに1852年にナポレオン皇帝の甥が共和制の大統領からナポレオン3世として皇帝に即位するとまたもや禁止され、それは1870年の普仏戦争に敗北してプロシア軍の捕虜になって廃位されるまで続きました。
ただし、廃位後に3度目の正直で成立した共和制の政権も「ラ・マルセイエーズ」の詩的に醜悪で余りにも過激な歌詞を敬遠して国歌として復活させることを躊躇していましたが、他に国家行事で演奏・歌唱するのに適当な歌が見当たらないため1879年に正式に復活させ、以降は第2次世界大戦中のナチス・ドイツによる占領が終わった4度目の共和制と1958年のアルジェリア紛争を利用してシャルル・ド・ゴール将軍が政権を打倒した5度目の共和制でも維持されて現在のフランス憲法の第1章・主権、第2条には「国語はフランス語である」「国旗は青白赤により構成される3色旗である(オランダも縦の同色ですが)」「国歌はラ・マルセイエーズである」「標語は自由・平等・博愛である」「原理は人民による人民のための政治である」と明記されています。
- 2023/04/24(月) 15:30:03|
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1小隊長は4個分隊を3つに分け半分の2個分隊を降伏したロシア兵の拘束、1個分隊を周辺の警戒、残りの1個分隊は道路上で2小隊の生存者が実施している負傷者の救護に合流させた。駐屯地の医務室から派遣されている衛生隊員は中標津中学校の中隊本部に残っている。
「ギブアップするか」するとロシア兵の拘束に当たった分隊長が訳が判らない英語で声をかけた。どうやら「降参するか」と言いたいらしい。しかし、英語で「降伏」は「サレンダー」であって「ギブアップ」では「(私を貴方に)進呈します」と言う意味になってしまう。何よりもロシア人にとって英語は学校で習う外国語なので日本人と大差がない。
「手榴弾を持ってるぞ」「危ないところだったな」段差の下では2個分隊が分隊長の英語が通じたのか不明のまま拘束の手順を始めた。分隊長2名が小銃を構える中、陸士5名がロシア兵が足元に放り出した小銃を集めて周り、陸曹は手で背中を押して地面に伏せさせると背中を膝で押さえて身体検査を始めた。先ず銃剣を提げている弾帯を外して手で上衣のポケットを確認すると腰の左右のポケットには1個ずつ手榴弾が入っていた。ロシア兵は最初に指揮官を射殺したので手榴弾を投げたのは自己判断になる。やはり戦場での人間の心理は理解不能だ。
「2小隊の生存者は何名だ」「今から確認します。2小隊、集合」1小隊長はロシア兵と自衛隊員の遺骸が散乱している道路上で生存者を捜し、見つければ敵味方に関係なく救護している隊員たちの様子を眺めながら2小隊1分隊長の古参陸曹を見つけて声をかけた。すると陸曹は生存者を捜すことに熱中していたようで我に返って大声を出した。
「2列横隊に整列、気をつけ。右にならえ。直れ。動けない生存者は人員確認後に申告しろ。番号、始め」「1、2、3、4、5・・・」古参陸曹の指示で集って来た2小隊の隊員たちも『気をつけ』の号令で意識が戻ったようでそこから先の動作は自衛官だった。
「10」「1欠」10名で2列横隊の最後尾は後列が欠員になっていた。つまり指揮官になった古参陸曹を加えれば1個小隊の半数を切る20名と言うことだ。それを確認した古参陸曹は全員を見回した後、重い口調で声をかけた。
「生存者を申告しろ」「近松2曹が手榴弾を蹴ろうとしたようで右足を失っています」「意識は」「あります。激痛に耐えています」「佐藤3曹が背後の全身に破片を浴びて出血が止まりません。意識はあります」「村田士長は顔に破片が当たって両目と鼻が傷つきました」「酷いのか」「もう両目は見えないでしょう。鼻も欠けてしまいました。頬も裂けて歯が見えています」この会話を聞いて1小隊長は出入りする保険屋の小母さんたちの間でもイケメン=色男と評判だった村田士長の男も認める端正な顔立ちを思い浮かべて唇を噛んだ。
「小隊長は・・・」「あちらで亡くなっています。先任も隣りで一緒に死んでいます」古参陸曹の確認に若い3曹が横隊で道路を横断していた小隊の中央付近に折り重なって倒れている数体の遺骸を手で示すと後列は一斉に顔を向け、前列は揃ってうつむいた。
「気をつけ、第2小隊、列外8名を除き松村1曹以下20名集合終わり。列外者は池永1曹、近松2曹、佐藤3曹、山下3曹・・・」「個人名は後で報告しろ。作業再開」古参陸曹の報告を受けて1小隊長は救護の再開を命じた。道路上でロシア兵の生死の確認と救護に当たっていた2小隊の47名が10発以上の手榴弾を投げ込まれた後に銃撃を浴びたのだが、その割には半数以上が生き残ったんのは奇跡に近い。やはり最初の手榴弾を発見した時点で陸曹たちが「その場に伏せ」の号令をかけ、全員が反応したおかげだろう。死亡、負傷したのは至近距離で手榴弾が炸裂した者ばかりで運・不運の問題だ。銃撃も段差の下から身を乗り出して発砲しているので手榴弾による負傷者を救護に向かっていた隊員だけが損害を受けた。
「273本、273本、こちら2731(ふたななさんひと)、2731、感明送れ」「こちら273本、安藤だ」1小隊長が無線で中隊本部を呼び出すと中隊長の安藤3佐が出た。中隊長への報告は迫撃砲による掩護射撃の最終弾着以来になっている。
「国道272号線を中標津に向かって徒歩で移動中の200名の敵部隊を制圧しましたが双方に戦死者、負傷者が多数出ました。2小隊長の戸田3尉も戦死しました」「そうか・・・残念だ」中隊長の重い返事に1小隊長は長めの間を置いた。
「我が方の負傷者は重傷が8名、ロシア軍は重傷が4名、捕虜が73名です。移送のためにトラックと衛生隊の派遣を要請します」「捕虜か・・・多いな」今度は中隊長の声がかすれた。重傷者12名を移動させるのは衛生隊のアンビランス(軍用救急車)でなければ無理だ。日本軍であれば自決用に手榴弾を渡して置き去りにするところだ。一方、捕虜は矢臼別演習場の第5旅団司令部に引き渡すのが基本だが人数が多く一般的な73式3トン半トラックなら4台必要だ。訓練幹部を兼務する1小隊長も会戦後の処理を演練したことがない。
- 2023/04/24(月) 15:28:28|
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「コイツは俺が射ったんだよな」北海道規格の馬鈴薯畑1つ分、約100メートルの境界線の土手に潜伏していた2小隊は横一線に広がった隊形を維持したまま銃を構えて前進を始めた。すると迫撃砲の砲撃が始まって逃げようとして射殺された若いロシア兵たちの遺骸が前のめりに横たわっていた。至近距離からの命中弾なので迷彩服の背中には貫通した穴が開き、噴き出した血で赤く染まっている。この位置に穴が開いていると言うことは胸部に命中させたことになり射撃検定では中央の最高得点を獲得できるが喜ぶ気分にはならなかった。
「背中に破片を浴びてちゃあ助からないな」「81ミリでもこんなに威力があるんだな」少し近づくと今度は背中に爆発した迫撃砲弾の無数の破片が刺さった穴が開いた兵士の遺骸になった。こちらの背中は火焔で焦げて血の色は判らなかった。
「生存者はいないか」「1名、息があります」「こっちにも1人、意識もあります」「よし、鈴木士長は残って監視しろ」「逃走すれば発砲しても良いですか」「それは無理だろう」分隊長の1曹は先に報告した陸士長に指示を与えたが確認には別の3曹が答えた。それでも分隊長は「許す」と答えて分隊を前進させた。
「酷ェなァ、人間の形をしてないぞ」辿りついた国道272号線のアスファルトで舗装された路面にはL16・81ミリ迫撃砲の砲弾が直撃して抉れた爆発孔と衝撃で浮き上った割れ目、ヒビが広がっていた。その爆発孔の周囲には千切れた手足が飛び散り、腹が裂けて内臓がはみ出した胴体が散乱していた。滴り落ちた血が路面のヒビに沁み込んでいる。それでも2小隊の隊員たちはここまでに逃げながら射殺された兵士に始まり、転がっている首など次第に凄惨になっていく遺骸を見て来たので意外に冷静だった。ただ硝煙と加熱された血が入り混じった地獄の底から漂ってくるような臭気には吐き気を催してしまう。
「200名位いただろう。全滅したのかな」「隊列は前後1メートルとすれば単純計算で200メートルになる。2基の迫撃砲で両側から攻撃したから中央付近の兵隊は逃げられたはずだ」その200メートの幅に広がって散乱している遺骸を踏まないように捜索している隊員を指揮している陸曹2人が声をかけ合った。
「手榴弾だ」「こっちもだ」「こっちにも」「その場に伏せーッ」その時、対向2車線の道路を横切りかけた数人の隊員が叫び声を上げ、分隊長が条件反射的に号令をかけた。その声を聞いて隊員たちも条件反射的にその場に伏せた。この動作の早さは目にした外国軍を驚かせているが何名かは4秒の爆発までに間に合わなかった。ロシア軍のPGD5手榴弾の改良型の信管は0秒から13秒まで作動時間を調整できるが、これが3・2秒から4秒の固定式の標準型なのかは判らない。ちなみに0秒でセットするのはブービー・トラップとして使用する場合だ。
バーン、報告して伏せた隊員のすぐ脇でレモン大の手榴弾が爆発した。手榴弾は地面で爆発すると空気圧が上方に流れるため破片は緩やかな弧を描いて飛散する。したがって至近距離で爆発すればかえって伏せている兵士は助かる可能性がある。その一方で日本軍では戦友に被害を広げないため上に蔽いかぶさって伏せた美談が教育されたためそれを実践する兵士が続出した。今回の隊員たちはそんな昔話は聞いていなかったので基本動作通りに左脇から半身になって横たわり、両足を開きながら伏せる前に足元に投げ込まれた手榴弾が爆発した。
「ギャーッ」「グォーッ」「ギェーッ」伏せ遅れて破片を浴びてしまった隊員たちは絶叫した。ロシア軍のPGD5手榴弾は1954年にソビエト連邦軍が採用した旧式だが言い換えればロングセラーになる。その理由は1発の価格が5アメリカ・ドルと極めて安価なことにある。それでも爆発すれば350個の破片に分裂して25メートル以内であれば致命傷を与えられるので費用対効果は十分なのだ。報告した隊員も上になっていた右足の膝から先が吹き飛ばされていた。伏せ遅れたのは周囲の隊員が伏せたのを確認していた陸曹が多かった。
パパパパパ・・・、そこに道路脇から銃撃が始まった。銃弾は損害を受けた分隊に両脇から駆け寄っていた隊員たちに浴びせられた。一度は降伏したロシア兵たちは2小隊からの銃撃に続いて迫撃砲弾の着弾が始まった時に反対側の道路脇の段差に退避して反撃の機会を伺っていたらしい。ロシア兵は鬱憤晴らしのように連射で銃撃してくるが2小隊としては兵士が士官を射殺した光景を見ていなかった隊員が発砲と判断して応射したのだった。
パン、パン、パン・・・、すると今度は100メートルほど離れた木立の中で閃光が点滅し、1秒おかずに銃弾が道路脇のコンクリート製の段差に当たり始めた。それは1小隊だった。1小隊は路上の2小隊に損害を与えないように精密照準による単射で発砲している。身を乗り出して路上に弾丸をばら撒いていたロシア兵は1小隊の存在に気づく以前に予想もしていなかったようで応戦もせずに小銃を放り出して両手を上げた。
- 2023/04/23(日) 15:11:58|
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ロシア軍は航空自衛隊による制空権が不安定になると道東の広大な平原に点在する市街地や集落にスホーイ25攻撃機とカモフ52攻撃ヘリコプターで空襲を加えた後、ミル26大型輸送ヘリコプターの往復便で大規模な歩兵部隊を送り込んだ。ところが輸送ヘリコプターが次々に撃墜されたため千島列島の離島航路で運航させていた連絡船を動員して車両などの運搬を始めたが、接岸できる港湾施設が標津漁港と根室港にしかないため大半は待ち構えている陸上自衛隊に撃沈された。それでも極東軍管区司令部にはスタリーンが日本の敗戦直前にアメリカのトルーマン大統領に言明した留萌と釧路を結ぶ線より北東半分の奪取を狙うモスクワから侵攻命令が届いて食料や弾薬の補給が途絶えた歩兵たちは徒歩で進軍を開始した。
別海駐屯地から展開している第27普通科連隊3中隊は中標津町の郊外の標津町から続く農地と草原の中の一本道=国道272号線で200名ほどのロシア軍と遭遇した。ここまで約20キロの道程を歩いてきたロシア軍は接敵行進(敵を警戒しながらの行進)ではあっても足取りが重く、小銃も力なく抱えていて速応射撃できる状態にはない。何よりも兵たちはうなだれていて周囲を警戒している様子がなかった。
「網走でも食料が欠乏して投降者が続出しているそうですが、標津でも食料が手に入らなかったようですね」「網走の戦訓で食料品は全て撤去しておいたからな」「はい、分け前にあずかりました」3中隊は県道272号線を両側から挟むように2個小隊の80数名を配置しているが、北側の牧場の木立の中に潜伏している1小隊では小隊長と小隊先任陸曹がロシア兵たちの哀れな姿に困惑しながら分析を交換していた。これから中隊が装備するL16・81ミリ軽迫撃砲を射ち込んでから一斉射撃で制圧する手順になっているが、最前線の第5旅団でも弾薬の節約が始まっているので迫撃砲は省略するかも知れない。
「射撃準備」無線で2小隊長と攻撃手順を確認した1小隊長の音声を発しない仕草の号令を見て4人の分隊長は土手で寝射ちの姿勢をとっている分隊員を回って指で狙う目標=兵士を指示した。どの目標も歩いていることに精一杯で自分の運命に気を留める余裕はなさそうだ。
「自衛隊だ。攻撃するぞ」分隊長の拳を突き上げる「射猊準備よし」の仕草を確認した小隊長は口の中で警告を発した。陸上自衛隊は治安出動による警察権の行使として武器を使用するため発砲する前には警告を与えなければならない。それは網走市内で食料を奪うためスーパーマーケットやコンビニエンストアに押し入っているロシア兵を狙撃している第28普通科連隊の隊員も同様で、小銃を構えて引き金の第1段階を圧すると口の中でこの台詞を吐いてから第2段階を落としている(銃の引き金は構造上、2段階で落ちる)。
「射撃用―意」パーン、「スダヴァサヤ(降伏します)」「スダヴァサヤ」小隊長が「射て」と叫ぶために息を止めた瞬間、数人のロシア兵が士官と思われる人物を射殺して同時に他のロシア兵たちは小銃を放り出して「スダヴァサヤ」と訴えながら両手を上げた。
「射撃中止」パーン、パーン、1小隊長が射撃中止を命じるとそれを遮るように道路の向こうの畑の土手に展開している2小隊から銃声が響き、道路上のロシア兵が次々に倒れた。同時に立っていたロシア兵も路面に伏せて小銃を構え、発砲を始めた。
「小隊長、射ちまず」「射て」パーン、パーン。この事態に1小隊も応戦して戦闘が始まってしまった。2小隊が放った銃弾は道路を越えて1小隊に飛んでくるが、それはお互いさまだ。それにしても低地から射っているため路上に伏せているロシア兵には命中しない。
ヒューン、ズーン。パパパパ・・・。間もなく1小隊長の要請を受けた軽迫撃砲が射撃を開始して砲弾が正確に路上に着弾した。そうして砲弾は道路に沿って炸裂して1小隊長は観測員を兼ねていたが修正の必要はなかった。
「2小隊が突撃を敢行する。1小隊は掩護及び逃走の阻止に当たる。友軍相撃に注意しろ。最終弾着、5秒前、4、3、2、1、今」ヒューン、ズーン。1小隊長の秒読み通りに砲弾が空気を裂く音が上空から聞えてきて道路上で火焔が湧き上がり、一瞬を置いて飛散する無数の破片が悲鳴のような音を引きながら頭上を通り過ぎていった。
「2小隊、突撃に・・・進め」それが静まるのと同時に道路の向こうから2小隊長の突撃の号令が聞えてきた。日米協同訓練でアメリカ海兵隊は「陸上自衛隊の普通科連隊は敵陣地の破壊が不十分でも突撃を敢行する傾向がある。それは日本軍伝統のバンザイ・スピリッツ(万歳突撃の玉砕精神)か」と酷評するが、今回の迫撃砲による攻撃は戦果十分なはずだ。おそらく2小隊は「突撃」と言いながら徒歩で接近して生存者を確認することになる。実際、路上ではドラマ「坂の上の雲」の旅順攻囲戦でロシア兵が日本兵の生存者を探していた場面の再現のような光景が上演されていた。ただし、役柄は逆転していた。
- 2023/04/22(土) 14:08:41|
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4月16日に野僧が高校時代から御著書を拜読していた高野山大学の学長にして高野山真言宗の総本山・金剛峯寺の412世座主=宗門の管長、さらに日本佛教会の会長を務められた松長有慶猊下が入寂されました。93歳でした。
不思議な法縁で多くの高僧・名僧と面談したことがある野僧も猊下とは直接話したことはありませんが、紙一重だったのが2008年4月に日本佛教界の会長に就任されて間もなく北京夏季オリンピックの聖火リレーの日本での出発が前回の冬季オリンピックが開催された長野市の善光寺であることが発表された時です。その年の3月にチベットでは僧侶に変装した人民解放軍の兵士が中国系住民の店舗を破壊して商品を強奪しただけでなく店主を暴行・殺害する事件を起こして、その鎮圧との名目で介入した武装警察部隊が佛教寺院を封鎖して僧侶を大量虐殺したのです。野僧は脱出したチベット僧を保護したタイ人の僧侶から「共産党中国の国家行事に佛教寺院が利用されることを阻止して欲しい」と強い要望を受けたため日本佛教協会に連絡したのですが、猊下は和歌山県の自坊に帰っておられて不在でした。それでも電話で対応した同世代の僧侶から「猊下も密教の立場からチベット佛教を敬愛しておられて今回の事件には深く憤っておられる」と説明を受け、善光寺の僧侶たちにチベット僧が携帯電話で撮影し、タイ人の僧侶が送ってきた迫害と虐殺の動画と画像のDVDを送って内部から拒否・反対運動を起こすように扇動しました。
猊下は昭和4(1929)年に高野山の数多い塔頭の1つ南院の住職で高野山大学教授の長男として生まれ、自坊で別の僧侶を戒師として得度を受け、敗戦後に高野山大学に進学して昭和34(1959)年に東北大学の大学院研究科博士課程を修了しました。
昭和43(1968)年に高野山の補陀洛院の住職になり、高野山大学の教授になると昭和52(1977)年から2年間、インドの最北部でヒマラヤ山脈に囲まれたラダック地方の佛教文化調査の隊長として赴いています(続いてモンゴルも予定されていました)。
帰国後は昭和58(1983)年に高野山大学の学長に就任して以降は前述の重責を担っていかれました。その中で特筆すべきは2011年12月25日に弘法大師空海猊下と伝教大師最澄猊下が大楽金剛不空真実三摩耶経=般若理趣経の貸借を巡って断絶して以来、1200年ぶりに比叡山延暦寺に登られて天台宗の半田孝淳座主と面会されたことです。
真言宗では現在も僧侶が勤める密教の陀羅尼は法力が強過ぎて用い方を誤ると危険なため檀家信徒が家庭で唱える経本には収められておらず、中でも欲望を肯定し、燃え立たせることで大きな力を発揮すると説く理趣経は文章で理解すると道を誤りかねないため、弘法大師は秀才タイプの伝教大師に読ませることを躊躇されたのでしょう。
松長猊下の御著書もそのような傾向があり、一般向けの集英社「佛教を読む」「高僧伝」では各宗派の高僧が自分の宗派の根本経典や宗祖の伝記を詳細に著述していますが、松長猊下の「秘密の扉を開く・密教経典理趣経」「空海・無限を生きる」では理趣経を読んでいない者には世間話や伝承の紹介と思われるような内容になっていました。一方、学術書の岩波文庫「密教」では本質が解き明かされていました。感謝と崇敬を込めて百拜。
- 2023/04/21(金) 15:53:57|
- 追悼・告別・永訣文
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「国後島をミサイルで攻撃できないかな」矢臼別演習場に埋設したコルゲート・メタルの第5旅団司令部では兵棋(敵味方を意味する駒)を並べた道東の地図を眺めながら幕僚たちが呟いていた。戦車や火砲などの重装備を陸揚げできないロシア軍は国後島から攻撃ヘリコプターを飛ばして執拗に攻撃してくる。当初はジェット攻撃機のスホーイ25だったが第5旅団に編入された第1高射特科群第303、304高射中隊の改良ホークが撃滅した。ところが改良ホークはこれで射ち止めになったため第5高射特科隊の11式短SAMに代わったが射程距離約10キロと能力が劣るので選手交代した攻撃ヘリコプターに返り撃ちになることが多く普通科の隊員の携帯SAMの方が戦果を上げている。そのためロシア軍はウクライナ侵攻で消耗した残存戦力から使える兵器をかき集めているようで当初は最新鋭のカモフ52だったが、最近は一世代古いミル28が主力になっていてそのうちアフガニスタンで活躍したミル24が登場するのではないかと言われている。しかし、戦力で圧倒している現状を維持するためにはこちらも第5旅団に編入された北千歳の第1地対艦ミサイル連隊の88式地対艦誘導弾で国後島の航空基地とミサイル陣地を破壊して元から断たなければならない。
「88式の射程距離は200キロから150キロだから87キロの根室からなら十分届きます」「その言い方は連立与党だった社民党がソ連への脅威になると批判したのを封印するための詭弁だろう。ここでは200キロとハッキリ言えば良いんだ」3部の特科の幕僚の見解を部長が訂正させた。新潟に襲来したロシア艦隊も艦隊艦ミサイルを地上攻撃に使用したらしいが、1発で艦艇を撃沈する威力があるのだから地上での破壊力も十分だ。むしろ動かない地上の施設なら全弾命中だろう。対米英中戦争末期、航空機による体当たり攻撃を発案したのは陸軍の方が早かったが、固定目標なので搭乗員は突入直前に脱出して落下傘降下する手順だった。ところが回避行動をとる艦艇を目標とする海軍は命中するまで操縦する必要があり、搭乗員に犠牲を強いる極悪非道な戦術になって臆病と呼ばれることを嫌う陸軍も模倣した。
「問題は防衛出動が発令されてない現状で敵基地攻撃が容認されるかです。石田内閣も連立与党との神学論争だけで終わってしまって国会での議論は有ったのか無かったのか・・・」「正大党の場合、防衛問題を日蓮の立正安国論で『南無妙法蓮華経を唱えることが安全保障だ』と考えるから話が噛み合うはずがないんだ」この1部の幕僚は防衛大学校の研究課程に入校した時、連立与党の正大党の背後にある巨大宗教団体を敵視する日蓮宗系の過激派団体の折伏(勧誘)を受けているので批判はしても思考形態は同じ穴の狢(むじな)に過ぎない。
「おまけに野党は看板は替えても社人党の非武装中立論だから本音では防衛力を持つこと自体に反対だ。結局、海上にトマホークを持たせるかって予算の話になるはずだったが・・・」「そこまで行かなかった」今度は4部の幕僚たちが予算に絡めて嘆き節を続けた。
「しかし、各種ミサイルの追加が届かないようでは戦力は先細りです。叩ける間に叩き潰しておかないと道内でゲリラ戦を展開する以外に我々にできることがなくなります」部下の幕僚たちの嘆き節を受けて4部長が旅団長と副旅団長、旅団幕僚長に問題提起すると3人は顔を見合わせてて目だけで議論した。数秒後、旅団長が決断を下した。
「次にロシア軍が攻撃ヘリを飛ばしたら緊急避難として基地を破壊する」「しかし、領域外への武力行使は・・・」「北方領土は我が国固有の領土だろう。日本の警察予備隊が警察権を行使して何が悪い」旅団長が先祖返りして警察予備隊と自称したのは治安出動で戦闘を遂行している現状に対する自嘲気味な皮肉だ。
「問題は航空のFー2のように空対艦ミサイルと搭載していたからロシア軍の空対空ミサイルに殺られた何でことにならないように防空態勢も万全にしておかなければならん」「航空の基地警備隊が携SAMを持っているはずです。警護を要請しましょう」旅団幕僚長の指摘に3部の運用課長が答えた。入間基地からレーダーを破壊された根室分屯基地に展開していた第2移動警戒隊はロシア軍の参戦が確実になった時点で釧路演習場に移動したが、ここには陸上自衛隊が陣地を構築しているため網走や稚内と同じく基地警備隊は分屯基地を守っている。
「国後からヘリと思われる航跡が6機発進した」数日後、第2移動警戒隊からの防空情報が道東に配置されている陸上自衛隊の各部隊に伝達された。第1地対艦ミサイル連隊は夜間に矢臼別演習場の陣地から根室分屯基地に移動したが途中にある第6高射群の各高射隊が全滅した展開地跡では戦死した隊員たちの亡霊が整列して出迎えてくれた。
「目標ロシア軍国後島航空基地、距離87・4キロ、個別目標1中隊格納庫4棟、2中隊燃料タンク5基、3中隊と4中隊はミサイル陣地」JTSQーW4=指揮統制装置では航空自衛隊の偵察機が撮影した画像を元に目標の位置を入力した。したがって全弾命中だった。
- 2023/04/21(金) 15:52:20|
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1965年の4月20日は弁護士が本業で検事としては経験不足だったにも関わらず司法省での政治的立ち回りの功で指名されたアメリカのジョセフ・キーナン主席検事に代わって極東国際軍事裁判所=東京裁判の検事団の実質的な指揮を執ったイギリス代表検事・アーサー・ストレテル・コミンズ・カー検事の命日です。
カー検事は1882年にロンドンの西の端にあるメリルボーンで劇作家と劇場の衣装デザイナーの息子として生まれました。オックスフォード大学で法律を学んで弁護の資格を取得し、数多くの裁判で勝利したことで名声を獲得して王室の顧問弁護士になっています。第1次世界大戦では海軍予備士官に志願しましたが軍需省に配置され、終戦後は復興賞でも活躍し、政界に進出して自由党の国会議員になって、ヨーロッパに於ける第2次世界大戦の終戦直後の7月5日に行われた総選挙でチャーチル政権に取って代わった労働党のクレメント・リチャード・アトリー政権から極東軍事裁判所のイギリス代表検事に指名されて1946年2月2日に来日しました。
ところが極東国際軍事裁判は連合国間の対立で被告となるA級戦犯も知名度だけで10名を選定しただけで開廷の準備も本格化していませんでした。そこでカー検事はキーナン主席検事に国際検察局の再編成を提案してアメリカ、ソビエト連邦、オーストラリア、ニュージランド、中華民国、フランス、オランダ、インドの、アメリカ領フィリピンの検事で新設された執行委員会の議長に就任して指揮を執ったのです。
先ず着手したのがA級戦犯罪の指定でしたが、改めて4月4日に29名が決まったものの裁判の対象期間の対米英中戦争が始まった時点で現役ではなかった石原莞爾中将、真崎甚三郎大将、田村浩中将は除外されました。続いて4月18日に遅れてソビエト連邦の代表検事が来日すると天皇の訴追を求めない代わりに実業家2名を含む5名の追加を求めたため梅津陸軍参謀総長と重光外務大臣の2名を採用し、アイウエオ順に荒木貞夫陸軍大将、板垣征四郎陸軍大将(絞首刑)、梅津美治郎陸軍大将、大川周明先生(精神異常で免訴)、大島浩陸軍中将=ドイツ大使、岡敬純海軍大将、賀屋興宣大蔵大臣、木戸幸一内大臣、木村兵太郎陸軍大臣(絞首刑)、小磯國昭陸軍大将=首相、佐藤賢了陸軍中将、重光葵外務大臣、嶋田繁太郎海軍大将、白鳥敏夫イタリア大使、鈴木貞一企画院総裁、東郷重徳外務大臣、東條英機陸軍大将=首相(絞首刑)、土肥原賢二陸軍大将(絞首刑)、永野修身海軍大将、橋本欣五郎陸軍大佐、畑俊六陸軍大将、平沼騏一郎首相、広田弘毅外務大臣(絞首刑)、星野直樹内閣書記官長、松井石根陸軍大将(後にB級戦犯に変更されたが絞首刑)、松岡洋右外務大臣、南次郎陸軍大将、武藤章陸軍中将(絞首刑)の28名が指定されました。しかし、この人選は日本の軍国化に果たした役割=戦争責任を必ずしも反映しておらず検事を派遣した国々が日本の国内情勢に関心を持っていなかったことが判ります。
こうして起訴状の作成、公判を主導していきましたが、日本の東南アジアの植民地解放はヨーロッパにとってはそれが侵略であり、戦勝国のアメリカが繰り広げた非人道的文民虐殺は不問に伏すことになり、裁判としての正否の評価は現在も大きく分かれています。
- 2023/04/20(木) 16:15:07|
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北海道東部では第5旅団が勇戦している。航空自衛隊が緒戦の損害で千歳基地のFー15の2個飛行隊と百里基地と浜松基地に展開している生き残ったFー35とFー15で能登半島以北の日本海も防衛しなくてはならなり制空権は不安定になっていた。そのため知床半島から住民が避難した後、知床半島から釧路、根室半島に配置した高射特科群の改良ホーク、高射特科隊の11式短SAM、さらに普通科連隊の携帯SAMで国後島から襲来するロシア軍の攻撃機と攻撃ヘリコプターを迎撃していた。ところが内局の官僚が財務省に予算請求する弾薬の数量は弾薬庫に保管できる1回の会戦程度のため全弾を射ち尽くすのに時間はかからなかった。ロシア軍はそれを待ちかねていたかのように手持ちのミル26大型輸送ヘリで地上部隊を侵攻させたが、それでも揚陸艦や大型フェリーを持たないため戦車や自走砲などの戦闘車両を揚陸させることはできないでいる。一方、第5旅団は地域住民が避難する前から日本最大の矢臼別演習場に旅団司令部の陣地を構築していて北部方面隊も道北での阻止が成功したのを確認して第7師団の3個戦車連隊のうち1個連隊を投入して第5戦車隊に合流させた。
「レーザー測遠機、目標捕捉」「目視確認」「前方、5300(メートル)海上、大型車両を乗せた連絡船の模様、標津(しべつ)漁港に向かっています」「射程距離に入った時点で攻撃する。船橋を狙え」「了解、射撃準備。装薬温度計確認。横風センサー確認。射撃制御機に入力」ロシア軍は島と島を結ぶ連絡船のような貨客船にトラックを乗せて標津町と根室市の港に運び込んでいる。それでも1隻に1台しか乗せられないので街外れの海岸線にまで前進した戦車に狙い射ちされていた。惜しむらくは90式戦車と10式戦車の120ミリ戦車砲の有効射程距離は約1800メートルとされているためこちらに来る目標でなければ逃げられる可能性が高い。本来であれば第5特科隊の99式155ミリ自走榴弾砲で砲撃するべきなのだが巨体が目立つため海上の警備艇に発見されると国後島から地対地ミサイルを射ち込まれる危険性が高く戦車の任務になっている。小型船の攻撃が本業の北部方面対舟艇対戦車隊は根室側に配置されていて96式多目的誘導弾が活躍しているらしい。
「距離1800.射程距離に入りました。装弾よし。照準よし」「連続3発射、射撃用意」「射撃用意」「射て」「射て」ズーン、ズーン、ズーン。防波堤から砲塔だけを出した状態で90式戦車は3発を連続発射した。数秒後、海上に浮かぶ黒い点が船に見え始めていた目標が炎を発した。船舶は正面の断面が小さい上、構造も堅牢なため砲弾や魚雷が命中しても舷側に流されてしまう。そのため海戦では側面を向け合って砲撃戦を交すのが一般的だ。しかし、ここでは到着する港の横で待ち構えているのだから正面からの射撃にならざるを得ず先ず船橋を狙った。
「2発命中、船体が右に曲がります」「側面に10発連続射撃」「装弾よし、装薬温度よし、射撃制御機に入力。射撃準備よし」「射て」「射て」ズーン、ズーン、ズーン・・・・「5発命中、乗せているトラックが炎上したぞ」車長の目視の確認に射撃手と操縦手も表情を緩めてうなずいた。90式戦車では砲弾の装填が自動化されているため74式戦車のような装填手は乗っておらずその分、弾薬の搭載量が増えている。
「グズグズしてるとミサイルが発射される。退避する」「了解、このまま海岸線を突っ走ります」戦果の確認は手短に終えて車長は安全確保のための退避行動を命じた。国後島からの地対地ミサイルだけでなく警備艇や上陸している歩兵も携帯式対戦車ミサイルを装備しているため存在を暴露すれば速やかに退避するのが原則なのだ。それにしても自衛隊の戦車は集中配備している北部方面隊でも戦車帝国・ロシア軍とは比較にならないほど少数なので演習の仮想敵として演じる以外、横一線に並んで地域を制圧し、占領地域の緊要所に配置されてトーチカになる本来の使い方をされるとはこの3人も思っていなかった。演習でも身を隠して敵の戦車を待つ自走対戦車砲扱いだった。ところがこの実戦では敵は戦車を持たず生身の歩兵が上陸している。移動手段のトラックでさえ届かず、ロシア軍の方がヨーロッパや北アフリカ戦線で戦車やトラックが活躍した第2次世界大戦と同じ時代の支那事変で「徐州徐州と人馬は進む」と広大な大陸を馬と徒歩で移動した帝国陸軍のような状態になっている。それはノモンハン事変でも戦車で攻めよせるソ連軍を関東軍は徒歩で配置について掘った蛸壷壕で迎え討ったが、停戦後の昭和20年8月18日に千島列島北端の占守島に上陸してきたソビエト連邦軍の歩兵上陸部隊だけは帝国陸軍の第11戦車連隊から痛撃を受けている。ただし、日本軍の95式戦車はアメリカ軍のM2重機関銃の12・7ミリの銃弾が貫通するような装甲で主砲は口径37ミリ、最高速度は時速40キロと言う戦車と呼んで良いのか判らない代物だった。それでも北部方面隊第11旅団は第11戦車連隊の勇戦を継承して「士魂」を合言葉にしている。ここでは第11旅団は参戦していないが「士魂」を発揮して占守島の仇を討ちたいものだ。
- 2023/04/20(木) 16:13:13|
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4月20日は日本ジャム工業協会が制定した「ジャムの日」です。その由来は食品の記念日によくある語呂合わせではなく歴史的経緯がありました(4を「し=ジ」、0を「無=ム」にしたのかと思いましたが)。それは明治43(1910)年の4月20日に長野県北佐久郡森山村(現在の小諸市森山)の2代目・塩川伊一郎さんが自作の缶入り苺ジャムを明治天皇と皇后、皇太子(後の大正天皇)と皇太子妃に献上して世間の関心を引き、その製法が広まったことで日本にジャムが普及・定着したからでした。
塩川さんは浅間山麓の農家でしたが高原地帯だけに稲作には気温が低く、慢性的に冷害に悩まされていました。そこで小諸に私塾を開講したアメリカ帰りの日本人牧師に相談すると果樹園芸を勧められ、桃の栽培を始めたのです。すると低温に強い桃は見事に育ち、塩川さんも肥料や害虫駆除などを工夫したおかげで生産は軌道に乗りましたが、そこで流通や過剰品の処分の問題が生じました。すると牧師はアメリカ式に缶詰にすれば長期保存が可能になり、果実に比べて運搬も容易だと助言したので家内工場で製造を始めました。
ところが今度は桃の収穫は夏の短期間で終わってしまうため工場の稼働期間も短いと言う問題に直面して新たな作物を探すことになり、果樹ではなく畑で栽培する苺を選んだのです。ただし、苺は桃のような果実の形を残した缶詰には向かないため煮潰したジャムにしました。そして日露戦争が始まった明治37(1904)年に塩川缶詰会社を設立して本格的に製造を始めましたが、苺は村内外の農家に副業として栽培させて生産量を増やし、摘果した苺は日持ちしないため村の子供を萼(がく・枝に提がる緑の部分)取り作業に雇って小遣い稼ぎにさせて苺ジャムの缶詰は森山村の主要産業になっていったのです。
その後、塩川缶詰会社の苺ジャムは品評会や博覧会で好成績を収めて知名度を上げて当時はキリンビールや月桂冠を経営していた明治屋が特約販売し、帝国ホテルにも納品するようになりました。さらに大正時代になると生産量と品質を向上させるため兵庫県鳴尾市に広大な苺農園を開設して茹でた状態で長野県に送るようにする一方で森山村よりもイチゴ栽培に向き、室町時代から良質な品種が栽培されていた近傍の御牧ケ原地区を開拓して苺生産の拠点にしました。こうして生産された高品質な苺ジャムは士官が洋食を好む海軍に8割が納入されたため(明治)両陛下御嘉納(奉納なので宮内省御用達ではない)に加えて海軍御用達の看板を掲げることになりました。
しかし、塩田さんが亡くなると(没年不明)奥さんが会社=工場を守っていましたが、満洲事変の勃発による金属回収令によって缶詰工場も統制下に組み込まれてしまい敗戦後に再建することはできませんでした。
余談ながら野僧は現役時代、全国の友人から色々な果物が届き、同僚が自家農園で収穫した果物をくれるため同居人と愚息2がパン食だったこともあり、ジャムと果実酒作りを趣味にしていました。ところが苺や葡萄、林檎や蜜柑、梨や桃はジャムになってもサクランボだけはどれだけ加熱しても煮潰れず、すり潰して混ぜることになりました。
- 2023/04/19(水) 15:03:55|
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「捕虜を戦時国際法違反で告訴するってか」「我が国も批准しているハーグ陸戦の法規慣習に関する規則の第1条及び捕虜に関する1949年8月12日ジュネーブ条約の第4条違反の戦争犯罪です」航空自衛隊の傍受要員を通訳にして網走で投降した捕虜8名の取り調べを終えた第119地区警務隊長の増田2佐は刑事訴訟法の司法警察職員として立件・告発の手続きのために札幌地方検察庁に赴いた。北海道内には7つの支部があるが道央の岩見沢、道西の滝沢は札幌地方裁判所の支部と共に閉鎖されている。
「それで告発事案は何だ」「標章の未装着です」「何だって・・・」警務隊長の説明に検察官は呆気にとられて机の上に差し出された茶封筒を開いて書類を速読した。そこには網走刑務所で盗んだ黄緑色の囚人用工場衣を着た捕虜たちの写真が添付されている。
「これだけなら罪状は軽犯罪法1条の15項、標章等の窃用にしかならんだろう。『官公職、位階勲等、学位その他法令により定められた称号若しくは外国におけるこれらに準ずるものを詐称し、又は資格がないにも関わらず法令により定められた制服若しくは勲章、記章その他の標章若しくはこれらに似せて作った物を用いた者』だ。あとは刑法第36章の窃盗及び強盗の罪、第235条の窃盗罪、『他人の財物を窃取した者は窃盗の罪とし、10年以下の懲役又は50万円以下の罰金に処す』」検察官は司法試験に合格した記憶力を誇示するようにスラスラと条文を暗唱した。ここに来る前に下調べしてきた警務隊長は検察官の機嫌を損なわないように黙って聞いていたが腹の中で「数年前に定年退官した警務幹部OBの某2佐も司法試験に合格している。現在は国際刑事裁判所の次席検察官だ」と呟いていた。
「日本国内では説諭(口頭注意)で済ませるような軽犯罪でも戦争法では重罪なんです。この戦闘員の条件が守られなければ戦闘員と文民が識別不能になって文民保護が阻害されます。先ず囚人に変装していると判断すれば諜報活動と看做して厳罰に処することが許容されます。ロシア軍が囚人服を着用しての戦闘行為を常態化すれば自衛隊としては同じ服装の囚人を敵と識別せざるを得なくなり、武力行使の対象になります」「現在の自衛隊の武器使用は警察官職務執行法の範囲内で容認されているんじゃないか。対象者の識別は基本動作のはずだぞ」この口振りを見ると検察官は自衛隊の警務隊が経験がない新たな仕事を持ち込むことを避けたいらしい。確かに北海道ではマスコミと共謀した弁護士たちが私有地に自衛隊が陣地構築することを阻止するための民事訴訟や強制避難に伴う損害賠償請求、自衛隊の武器使用の刑事告発を続けているため検察官も多忙を極めている。それでも日本では日本国憲法第76条で「特別裁判所はこれを設置できない」と否定されているため戦争法で戦闘員の司法機関としている軍事法廷は設置できない。日本では2・26事件の反乱将校たちの多くを銃殺刑にした弁護人なし非公開の特別法廷や戦地での軍規維持を目的として厳罰を常態化させていた判決から不条理な暗黒裁判と思い込んでいるが、実際は軍事行動の特殊事情を勘案して戦争法や国内法、軍規の違反度の軽重を判定するため戦闘員=軍人にとっては軍事法廷の方が有利なのだ。
「それでは受理はしておくが裁判の日程が詰まっているから起訴する時期は約束できないよ。戦時国際法では重罪でも国内法では軽犯罪なんだ」「はい、お願いします。それでは旭川の俘虜収容所は拘置所を兼ねることにします」江団別俘虜収容所から申し立てられた法的措置を終えて警務隊長は安堵したように補足した。おそらく起訴はしないまま捕虜交換で帰国させることになるだろう。下手すれば北海道をロシアに奪われれば投降したことを軍規違反としてロシア軍の軍事法廷に掛けられるかも知れない。
「戦闘中のロシア軍の殺傷行為を殺人罪と傷害罪で告発すると言うのか」「はい、我が国は防衛出動を発令していない以上平時です。したがって通常の国内法で禁じられている不法侵入、武器使用、器物破損、道路交通法違反、船舶法違反、そして治安出動している警察職員に対する武力行使、全て違法行為ですから捕虜ではなく犯罪の被疑者として逮捕、拘束したいと思います」数日後、同じく航空自衛隊の傍受要員の派遣を受けて捕虜の取り調べを終えた帯広の第121地区警務隊長の伊倉2佐が同じ用件で訪れた。ところが申し立てた見解は全く違った。検察官としてはこちらの方が共感・納得できる。その一方で対米英中戦争中、東海軍管区司令官だった岡田資中将は多くの文民が居住する大都市に対するアメリカ軍の無差別爆撃を重大な戦争法違反と断定し、脱出して拘束したBー29爆撃機の搭乗員を実行犯として処刑した。このため敗戦後にB級戦犯として有罪判決を受けて昭和24年9月17日に吊首刑を執行されたが、同様の認識を持ってアメリカ軍の搭乗員を殺害して敗戦後に刑死した日本の軍人は多い。検察官はここでロシア軍にとっては正当な戦闘行為を犯罪として刑事告発すれば日本が敗れた後、戦争犯罪者として断罪されないか大いに不安になった。
- 2023/04/19(水) 15:02:40|
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長徳元(995)年の明日4月19日は宮中の鍼博士(はりはかせ)として記録が残る医術書としては日本最古の「医心方(いしんぽう)」全30巻を永観2(984)年に円融天皇に奉呈したことで日本の医師の元祖とされる丹波康頼さんの命日です。
明治時代まで宮中や幕府の鍼博士・侍医・典薬頭の多紀家として存続し(「Jin・仁」に登場する公儀医学館総栽の多紀元琰さんなど)、昭和に入って俳優の哲郎さんを出した丹波家は丹波康頼さんが「医心方」を奉呈したことで朝廷から下賜された姓なのでそれまでの氏族は明確ではありませんが、渡来系の血脈を持ち、壬申の乱で大海人皇子=天武天皇の勝利に貢献した坂上氏とする説が有力です。また渡来前の大陸の系譜はキリスト教暦25年から220年まで続いた後漢の14人の皇帝の中でも傍流から即位して暗君第2位=ワースト2とされる第12代の霊帝まで遡る説もありますが、日本への渡来人の多くは中国皇帝の末裔を自称していましたから信用するに値しません。
丹波さんが務めていた「鍼博士」は大宝元(701)年に発布された大宝律令の医疾令と天平宝宇元(757)年の養老律令の医疾令に基づいて宮内省典薬寮に1名だけ置かれることになった従7位下相当の役職で30名の鍼生(はりせい)に鍼や灸、按摩を教育・訓練して検定試験で認定する職務も兼ねていました。初代は遣唐使で文宗皇帝の時代に留学した菅原梶成さんでした。
「医心方」は主に中国の「神農本草経」と「傷寒雑病論」と並ぶ古典的医術書の「黄帝内経(神話上の皇帝・黄帝の医術に関する質問に岐伯などの名医が答えている)」からの引用で医者の倫理に始まり、医学総論、各種疾患に対する療法、保健衛生、養生法、医療技術、医学思想、房中術(性行為の秘儀)を巻1に医学概論と薬名考、巻2は鍼灸編で孔穴主治(鍼や灸を施術するツボ)と施療、巻3に風病編(風の毒に当たって発症すると考えられていや疾病)、巻4に美容編、巻5に耳鼻咽喉眼歯編、巻6に五臓六腑、巻7に性病・諸痔・寄生虫編、巻8に脚病編、巻9に咳嗽編、巻10に積聚・疝か・水腫編(疼痛や浮腫み)、第11に痢病編(主に下痢)、巻12に泌尿器、巻13に虚労編(倦怠感)、巻14に蘇生・傷寒編、巻15に癰疸(腫れもの)・悪性腫瘍・壊疽編、巻16に腫瘤編、巻17に皮膚病編、巻18に外傷編、巻19と巻20に胆石編、巻21に婦人諸病編、巻22に胎教編、巻23に産科治療・儀礼(祈祷)等、巻24に占相編、巻25に小児編、巻26に仙道編、巻27に養生編、巻28に房内編、巻29に中毒編、巻30に食養編と詳細に解説していますが、内容的には黄帝内経を用いていた前述の鍼生に対する教育内容を文書化・編纂した解説書のようです。
その後、「医心方」は宮中で保管される一方で丹波家=多紀家で秘蔵・継承されましたが、正親町天皇が天文23(1554)年にもう1つの典薬頭・半井(なからい)家に下賜したため写本が広がりました。江戸期に京都の宮中と江戸の幕府で侍医を兼務した丹波家の秘蔵書が散逸していたため昭和57(1982)年に文化庁が半井家の正本を買い上げて国会図書館に収蔵し、現在は国宝に指定されています。
- 2023/04/18(火) 15:36:32|
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「事情聴取するにもロシア語はなァ・・・」江団別俘虜収容者から「網走で投降してきた8名の捕虜を戦争法違反の戦争犯罪者として引き渡す」と連絡を受けた第119地区警務隊では隊長の増田2佐以下が困り果てていた。第119地区警務隊は東京の警務隊本部や札幌の北部方面隊総監部と北海道警などとの連絡を維持するため駐屯地に残っているが、旭川市は市長以下が揃って道南に避難しているのでロシア語の通訳を探そうにも誰もいないのだ。
「帯広はどうしてるのかな」「あっちは戦闘中ですから捕虜も多いでしょう」隊長の独り言に陸曹が返事をした。警務官は事情聴取する時、被疑者の緊張をほぐすため雑談を常用するが、その会話の中に事件につながるヒントがないか細心の注意を払っているから単なる独り言も聞き逃さない。現在、第121地区警務隊も同様の理由で平時には第5旅団司令部が所在する帯広駐屯地に残っているが根室方面は北方領土から空路と陸路で本格的に地上部隊が上陸して各地で戦闘が発生している。航空自衛隊第2航空団の戦闘機が日本海側に割かれるようになってからは国後島から飛来するヘリコプターの迎撃に孤軍奮闘していた第1高射特科群の303と304高射中隊も改良ホークを全弾射ち尽くしてしまった。それを見抜いたロシア軍は温存していたミル26大型輸送ヘリコプターで1回90名の歩兵をピストン輸送して普通科連隊と交戦した。それでも高射中隊は退却はせずに倶知安駐屯地から展開してきた北部方面隊舟艇対戦車隊が物資を運ぶ船舶に96式多目的誘導弾を発射するのを支援したがこちらも射ち尽くしてしまい今では93式短SAMの第5高射特科隊や各即応機動連隊=普通科連隊、第5後方支援隊などに編入されている。その点、第2師団は樺太の輸送ヘリコプターは緒戦の奇襲で大半を撃墜した上、地上部隊を乗せて来た大型フェリーも第3地対艦ミサイル連隊が刺し違えて撃沈した。現在は取り残された上陸部隊を兵糧攻めにしている。
「稚内署やオホーツク海側の警察署にはロシア語ができる警察官がいたはずだが・・・」「道警が撤収を命じましたから手遅れです。それにしても空き家の警備に駐在所くらいは維持しないと駄目でしょう」警務幹部の2尉の愚痴には別の陸曹が答えた。警察官で言えば巡査部長に相当する古参陸曹に指摘されるまでもなく北海道警も福島第1原子力発電所の放射能漏れで自治体単位で避難した地域の留守宅が窃盗被害に遭っていることを踏まえて無人になる市街地や公共施設の警備のために必要数の警察官を残そうと考えていたのだが、大量の避難民の不満の鬱積による犯罪の増加を危惧する札幌や函館の方面本部が警察組織の同行を強く要請したため治安出動している自衛隊に後事を託して移動した。
「と言っても札幌に避難した民間人の通訳を旭川に派遣してくれと要請するのは無理があります」「待てよ・・・航空の稚内のレーダー基地には小象の檻があったよな」「確かに、航空の高射群の陣地を破壊しに潜入した工作員をウチの予備自(予備自衛官)が射殺した時の現場検証の後、基地に寄って見ました・・・それが何か」2尉の愚痴の続きに隊長が反応して陸曹が受けた。実はこの陸曹が現場検証した第3高射群の展開地に侵入しようとした工作員を射殺したのは森田予備3曹で、今回の捕虜8人をハーグ陸戦規則第1条と捕虜に関するジュネーブ条約第4条が定める交戦員の条件に違反すると警務隊に申し立てた張本人だ。
「あの施設ではロシア軍の無線の交信を傍受しているんだ。1983年9月1日の大韓航空機撃墜事件の時、ソ連軍の地上司令部とパイロットの会話を日本政府が公表しただろう。あれはあそこで探知したんだ」「と言うことはロシア語がペラペラな隊員が北海道にいますね」陸曹の返事に隊長は満面の笑みを噛み殺したような不可思議な顔でうなずいた。問題は稚内分屯基地は第3高射群が迎撃サイル・PAC3を射ち尽くした後、弾道ミサイルを何発も射ち込まれて破壊されていることだ。当然、小象の檻も機能停止していて情報収集に当たっていた隊員が残っている可能性は低い。それでも千歳基地に残っていれば呼び出すことができる。少なくとも文民の通訳よりも問題はないはずだ。
「僕は聴取が専門で話すのは苦手ですよ。発音にも自信がありません」翌日、千歳基地に撤収していた小象の檻の住人=交信傍受要員の若い空曹2人が航空自衛隊の物資輸送のトラックに乗せられて旭川駐屯地にやってきた。やはり頭脳労働者らしく色白で体形も小太りで神経質そうな目をしている。この様子では最前線から今は安全な千歳まで後退できて安堵していたところを呼び戻されて腹を立てているのかも知れない。
「それにしてもトラックの荷台に半日座っているのは疲れました」「それは悪かった。警務のパトカーで送るべきだったな」どうやら不満なのは輸送機で運ばれてきた物資を宛て先まで届けるトラックに同乗させられたことらしい。やはり交信傍受要員はロシア軍に限らず周辺国の軍隊の本性を体感しているので国防の危機意識は一般の隊員の比ではないのだ。
- 2023/04/18(火) 15:34:53|
- 夜の連続小説9
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最近、野僧の世代には初期の日活ロマンポルノ女優を紹介する雑誌などで清楚な容貌と揉まれると指が喰い込む美乳が魅力的だった片桐夕子さんが2022年10月16日に亡くなっていたことが明らかになりました。70歳でした。
片桐さんは昭和27(1952)年に東京都豊島区で生まれ、商業高校を卒業して銀行に就職しましたが、高校時代の昭和42(1967)年に公開された映画「007は二度死ぬ」で日本人の浜美枝さんがボンドガールになったことから「女優になれば憧れのマカロニ・ウェスタン(イタリア製の西部劇)の俳優・フランコ・ネロさんに会えるかも知れない」と退職して昭和45(1970)年に日活に入社したのです。
ところが当時の日本映画はテレビの普及と番組の充実だけでなく敗戦後の映画人がソビエト連邦の策謀に乗って娯楽性を無視した政治的な作品ばかりを製作してきたため経営が悪化していて中でも多くの人気俳優を抱えていた日活は危機的状況に陥って政治色だけでなく芸術性も放棄した究極の娯楽=低俗路線のポルノ映画の製作を決定しました。
こうして昭和45(1970)年の「新ハレンチ学園」で女優としてデビューしていた片桐さんは昭和46(1971)年にポルノ作品「女高生レポート・夕子の白い胸」で初主演を飾ったのです。ちなみに芸名の片桐夕子はこの作品の役名でした。
その後は昭和46(1971)年に2本、昭和47(1972)年に10本、昭和48(1973)年に9本のポルノ作品に出演しましたが、昭和49(1974)年にはポルノ作品3本の他に日活の普通の作品「妹」で主人公の兄の林隆三さんにトイレで強制性交されるだけの役、さらに東映の任侠作品「安藤組外伝・人斬り舎弟」に出演すると昭和50(1975)年にもポルノ作品5本と松竹の「おれの行く道」とATGの明治の上方落語の桂馬喬師匠の伝記作品「鬼の詩」で妻役を演じて本格女優に転換していきました。
それからは一般作品とポルノ作品を両立させ、20歳代後半になって体形の衰えが目立ってきた昭和55(1980)年の「ズームイン暴行団地」のオペラ歌手役を最後にポルノ映画からは引退しました。そんな中、1979年公開で1980年のアメリカのアカデミー賞に出品されたエキプト・シネマ作品「月山」や1982年公開の柳田國男先生の同名傑作説話集と阿伊染徳美さんの「わがかくし念佛」を原作とする日本ヘラルドの「遠野物語」など多くの映画作品やテレビ・ドラマに出演していて本格女優として順調に活躍し始めたのですが、日活の監督と結婚・離婚したことで1985年から3年間アメリカで生活し、そこで知り合った年下のアメリカ人と1989年に再婚して子供を産んだものの離婚して英語が堪能な女優として日米を往復しながら仕事を続けていました。
野僧が片桐さんの作品で一番好きなのは昭和48(1973)年のテレビ・ドラマ「子連れ狼」の「乞胸おゆき」ですが、この作品は内容ではなく題名の「乞胸」が被差別者を指すためインターネットでも運営会社の自主規制で非公開になっています。残念ながら野僧は片桐さんのポルノ映画は見ていませんがグラビアではお世話になりました。冥福を祈ります。それにしてもどうしてここまで公表が遅れたのでしょうか。

子連れ狼・乞胸おゆきの片桐夕子さん
- 2023/04/17(月) 16:27:16|
- 追悼・告別・永訣文
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翌日、江団別俘虜収容所に網走周辺に展開している第28普通科連隊からトラックで8人の捕虜が送られてきた。網走市内を占領しているロシア軍では歩哨が自衛隊に投降したことが判明すると昼間でも単独配置を止めて複哨にした。ところが兵士たちは部隊の目が届かない場所まで来るとタオルを白旗にして2人揃って投降するようになっていた。
「下車したら整列しろ」「駄目です。コイツらは日本語が判らない」先ずトラックの荷台の下から即応予備自衛官の3曹に小銃を構えさせた予備1曹が声をかけた。すると荷台の最後尾で短機関銃を構えて座っている2曹が肩をすくめて説明した。
「カム・ヒヤー」「英語も駄目です。ゼスチャーでやるしかありません」この2曹も苦労しているらしく同情したように苦笑いした。その奥で8人のロシア兵が顔を見合わせて理解不能な言葉を交わしている。1991年12月26日にソビエト連邦が崩壊すると多くのロシア人女性が日本に出稼ぎに来て旭川市内でもロシアン・パブが営業していた。その後、シベリアでの石油と天然ガスの採掘が始まって経済が復興すると女性たちは帰国してパブは軒並み閉店したがあの頃、常連だった隊員であれば多少はロシア語を話せるかも知れない。とは言えロシアン・パブは高級店だったので安月給の若い隊員には縁がなく、当時の40歳台が30年後では65歳で任期切れの一般予備自衛官にも残っていないはずだ。
「こいつらは餓死寸前くらい空腹で餌欲しさに素直に従っていたけど今は腹が膨らんだから要注意ですよ」荷台の2曹は困惑している予備1曹に注意喚起すると右手で短機関銃を向けながら左手の仕草で「立ち上がれ」「下車しろ」と指示して8人を引き渡した。
「それにしてもこの服装は何だ」「大型フェリーを撃沈されて泳いで上陸した連中が多かったんです。ところが着替えが届かないから網走刑務所に残っていた囚人服を見つけて着替えたらしい。目立つから脱走防止用に良いかもな」最後に下車した2曹は予備3曹に小銃を突きつけられて整列している捕虜たちを見回して首を傾げている予備1曹に補足説明した。確かに派手な黄緑色の上下なら市街地では目立つことは間違いないが、これから野外作業をやらせるようになると春先の草原では迷彩効果がありそうだ。
「1時間前に遠軽と稚内からもオホーツク海上で拘束したパイロット9人が到着したが、あっちは幹部ばかりだから小隊長よりも上官で扱いに困っているんだ」「捕虜の取り扱いには詳しいんですか」網走を包囲していた部隊でも捕虜の取り扱い詳しい隊員がおらず、最初のロシア兵が投降してきた時には事細かに連隊本部に問い合わせながら対応していた。小隊長が幹部候補生学校に入校した時の校長はモリヤ佳織将補だったが、部内課程では教育内容の大幅な改定で原隊の若手小隊長たちからもらってきた課題論文や試験問題などの資料が役に立たなくなり、反発を抱く者も多かった。小隊長もそんな1人だったらしい。
「ウチには航空自衛隊の警備の神さまの息子がいてね。父親から戦時国際法英才教育を受けているから指導することになっているんだ」「そう言えば網走の航空の警備は奮戦していましたよ。占領しに来たロシア軍に大損害を与えた上、物資を積んで接近するロシアの漁船に機銃掃射を浴びせて撃退していました」どうやら小隊長が出勤した森田予備3曹にわざわざ声をかけたのは長い自衛隊暦でも経験や知識を持たない仕事を与えられて困り果てているところに連隊本部1科の陸曹から森田予備3曹の父親の説明を受けて身上票を読んだところ思いがけない拾い物と判ったのだ。先ほども森田予備3曹は小隊長に捕虜の階級の尊重、特に士官に対する処遇を説明して捕虜の士官たちを担当する上位の幹部を派遣するように連隊本部に要求した。
「分隊、止まれ」結局、予備1曹が先頭、予備3曹が後尾で挟む形で捕虜8人を校舎の正面玄関まで連れてきた。すると中から小隊長と森田予備3曹が出てきた。案の定、2人も捕虜たちの服装に困惑した顔で見回したが所見は森田予備3曹が述べた
「この服装は戦争法違反だな」「網走刑務所で見つけた囚人服らしいぞ」「いくらお揃いの服装でも階級章が着いていなければ戦闘服とは認められない」捕虜に関する1949年8月12日ジュネーブ条約ではハーグ陸戦の法規慣例に関する規則の第1款・交戦者、第1章・交戦者の資格の第1条で定めている「部下の責任を負う指揮官が存在すること」「遠方から識別可能な固著な徽章を着用していること」「公然と兵器を携行していること」「その動作において戦争法規を順守していること」の4条件を踏襲しているので日本の囚人服の盗用よりもロシア軍の階級章の装着を怠っていることで戦争犯罪になる。
「この8人は戦争犯罪者として扱うことになります。旭川地区警務隊に引き渡しましょう」森田予備3曹の見解に小隊長は何故か安堵したような顔をした。旭川駐屯地の地区警務隊は第119の部隊番号が冠されているので「消防の警察」と仇名されている。
- 2023/04/17(月) 16:23:47|
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1651年4月17日にオランダがイギリスのシリー諸島に宣戦を布告して以来、335年間も放置されていた戦争が1986年の明日4月17日に終結しました。
1651年のイギリスは1642年に勃発し、1649年1月30日に国王・チャールズ1世が処刑された清教徒革命の延長戦でオリバー・クロムウェルさんが率いる議会軍=革命軍と後にチャールズ2世になる王太子に忠誠を尽くす国王軍との間で内戦が継続していました。しかし、戦況は議会軍が圧倒的に優勢で国王軍はグレートブリテン島内でも南西の端の半島・コーンウォールに追い詰められていました。そしてコーンウォールも陥落寸前になると国王軍の主力は海軍だったので国王派貴族の領地だったコーニッシュ海岸沖のシリー諸島に脱出を図ったのです。
一方、当時のオランダは後にイギリスに奪われることになるインドや東南アジアの植民地を支配する絶頂期でしたが1568年から1648年までのスペインとの80年戦争ではエリザベス1世女王以降の歴代イギリス国王の支援によって勝利し、悲願の独立を果たした恩義があるため「友好関係を維持したい」と言う意思は明確でも「味方をするなら勝つ方に」と言う計算も働いていて事態を静観していました。そんな中、シリー諸島を拠点とする国王軍の艦艇がドーバー海峡を航行する商船に海賊行為を働くようになり、オランダ王室は海軍司令官を派遣して海賊行為の取り締まりと拿捕されたオランダの船舶の返還、奪われた積み荷の賠償を要求させたのです。海軍司令官は命ぜられた内容を要求した上で「受け入れられなければ宣戦布告する」と通告したとされています。
しかし、国王軍は敗北寸前だったため要求に応じることはできず結果として拒否することになり、ここでオランダは議会軍が支配する国家としてのイギリスではなくシリー諸島の国王軍に対して宣戦布告したことになりました。そして2カ月後の1651年6月に国王軍は降伏したため脅威がなくなったオランダ艦隊は要求を果たせないまま1発の艦砲、銃器も発射することなく1名の戦死者、負傷者も出すことなく撤退したのです。
この時、海軍司令官にはオランダ国王から宣戦布告する権限は与えられていなかったため単なる交渉上の虚仮威し(こけおどし)=ハッタリと看做され、国家が他国ではなくその一部に宣戦布告したと言う特異性も手伝って公式な交渉での通告だったにも関わらず放置されて、やがて伝説の類(たぐい)として忘れ去られてしまいました。
ところが1985年になってシリー諸島の自治体の議会で議長を務める郷土史家がロンドンに在英オランダ大使館に「シリー諸島とオランダは戦争中である」と言う地元の伝説を説明する書簡を送ったことで史実の検証が始まり、大使館によってこの伝説が事実であることが確認されたため議長がオランダ大使をシリー諸島に招き、宣戦布告が通告されて335年後の4月17日に和平条約に調印して戦争が終結したのです。
調印式典でオランダ大使は「シリー諸島の人々はいつオランダに攻撃されるか判らないと言う不安の中で335年間も暮らしていたのでしょう」とジョークを飛ばしましたが、その後に繰り返されたオランダとイギリスの戦争での被害は及びませんでした。
- 2023/04/16(日) 15:34:37|
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稚内に展開していた第3高射群がロシア軍が樺太から射ち込んでくる地対地ミサイルでPAC3、戦闘機や輸送機でPAC2を射ち尽くすと千歳基地に撤退したため警備に当たっていた森田謙作予備3曹も旭川駐屯地に帰ることになった。稚内分屯基地のレーダーが破壊されて派遣された第1移動警戒隊は隣りの猿払村にある鬼志別演習場に移動しているが、名寄駐屯地の第3普通科連隊の1部が陣地を構築しているため第52普通科連隊2中隊の即応予備自衛官には別の任務を与えられることになったようだ。
「森田3曹、俘虜収容所で勤務してくれ」「俘虜収容所って・・・」数日間、照子の実家の牧場で過ごして駐屯地に出勤した森田予備3曹に2中隊の2小隊長が新たな任務を伝えた。この小隊長は3尉候補者で任官して2尉で定年を迎えた予備自衛官だが曹長時代から小隊長だっただけに業務には熟練している。
「俘虜と言うのは捕虜のことだ。英語ではどっちも・・・キャプティブだが戦前の陸軍が俘虜と呼んでいたから公的にはこっちを使うらしい」説明しながら小隊長は一瞬、記憶を辿った。やはり英単語は説明用に調べたらしい。他にもプリズナー・オブ・ウォーと言う用語があるのだが「戦争による囚人」と言う表現には自衛官として嫌悪感を覚えたのかも知れない。
「それって何処にあるんですか」「江団別の小中学校に設置している」江団別は旭川市でも山間部の集落で江団別小中学校は市立の小中学校が市街地に集中している中で唯一遠隔地にあるから師団司令部の所在地に設置するには適当な場所だ。その一方で実家の牧場でも食材や日用品の欠乏に苦労していたので捕虜の処遇の確保が心配になる。
森田予備3曹は子供の頃から父の森田定年2佐がコレクションしているビデオで捕虜収容所が舞台の「大脱走」「戦場にかける橋」「ビルマの竪琴」「戦場のメリークリスマス」などを見て質疑応答していたので捕虜の処遇が戦争犯罪になることは知っている。実際、日本軍が対米英中戦争で設置した俘虜収容所ではオカズに海苔を出したことを「紙を食べさせた」と訴えられ、筋肉疲労を訴える捕虜に好意で灸を据えた兵士は「火傷させる拷問」として死刑になっている。しかし、開戦直後に東南アジアの日本軍の捕虜収容所を査察したジュネーブ委員会からはナチス・ドイツ軍やイギリス軍に比べて良好と評価されていたからこれも東京裁判で捏造され、敗戦後の亡国映画が喧伝した日本の戦争犯罪の1つのようだ。それでも第1次世界大戦の青島攻略で捕獲されたドイツ軍の俘虜4700人は日本国内16カ所の俘虜収容場に収監されたが、徳島県淡路島の坂東や兵庫県加西市の青野ヶ原では自治組織の活動やスポーツや芸術の趣味の奨励、地元住民との交流などジュネーブ条約以上の待遇を与えた一方で、久留米では所長の真崎甚三郎(皇道派の重鎮で2・26事件の首謀者)が俘虜を蔑視して劣悪な生活環境と苛酷な労働を容認し、監視兵による虐待を推奨したので必ずしも冤罪とは言い切れない。
「捕虜はどこで捕まってるんですか」「オホーツク海で撃墜されて脱出して漂流しているのを見つけて救助したパイロットが多いな。それから漁船で潜入していた斥候要員、それに網走に上陸した部隊で投降した兵隊も増えている」「パイロットなら幹部ですね。パイロットを士官にしているのは捕虜になった時に好い待遇を受けられるためだそうです」森田予備3曹の説明に小隊長は自分の人選が正解だったことを確認して満足そうにうなずいた。
森田予備3曹はその日のうちに他の捕虜収容所要員と一緒にトラックで江団別小中学校に移動した。この俘虜収容所の所長は旭川駐屯地司令の第2師団副師団長が兼務しているが、師団司令部も旭川市内の近文台演習場の陣地に移動しているため現場で管理・運営に当たるのは2小隊長のようだ。2中隊長は他の小隊が担当する任務があるため専任できないそうだ。
「本当は外柵上に蛇腹鉄条網を設置したいんですが陣地構築を優先しなければならないのでこのような貧弱な警備設備になっています」「学校の外柵は外からの侵入者を防ぐのが目的だからあまり脱柵防止の役には立たないよな」「この高さじゃあ熊と鹿除けだろう」江団別小学校では駐屯地業務隊の隊員が改修作業に当たっているがここでも資材不足が露呈している。俘虜収容所には定番の見張りの櫓は2階建ての校舎の屋上で代用するにしても本部にする職員室との有線回線を設置する野外電話機と電話線がない。おまけに校門に立哨する哨舎がないので取り敢えず竿に括りつけた市販のビーチ・パラソルだ。居室は教室につぶした段ボール箱を敷いて毛布と枕を配ったが、寝袋やシーツまでは手が回らなかった。食器は児童の給食用があったがシャワーは教職員用が1つしかない。
何よりも欧米の兵士たちは脱走を敵に人員と労力の負担を強いる戦闘行為と教育されているので躊躇することなく脱走を繰り返すはずだ。脱走を防止するために武器を使用することは合法だが、果たして1個小隊の40名で防ぎ切れるのか。
- 2023/04/16(日) 15:32:42|
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2018年の4月15日は数多くの戦争映画、軍隊映画で厳しい軍曹役を演じ、それが真に迫っていたため「ガ二ー=ガネリー・サージェント=2等軍曹」の愛称で呼ばれていた俳優のR・リー・アメイ(本物の)2等軍曹の命日です。74歳でした。
アメリカ海兵隊の階級章は兵の間は交差した小銃の上に鋭角の線が3本=上等兵まで積み重なり、下士官になると小銃の下に緩やかな曲線の線が提げ重なっていきます。ガネリー・サージェントは上が3本、下が2本で「最もバランスが良い」と言われています。
アメイ軍曹は第2次世界大戦が終わる前年の1944年にアメリカ本土の中央に位置するカンザス州で生まれましたが、正式なファースト・ネームの「ロナルド」は少女漫画の主人公と同じ「ロニー」と言いならされるため頭文字の「R」だけを用いるようになったそうです(カンザス州ではレーガン大統領の「ロン」にはならないようです)。
小学生の頃は通学中に祖父の猟銃で狩りをするような悪童で14歳の時にワシントン州に転居すると札付きの悪になって17歳の時に2度目の少年審判で「軍隊に入営するか、刑務所で服役するか」と二者択一を宣告されて海兵隊に入隊しました。本人としてはカンザス生まれの割には海軍軍人だった父親と同じ海軍に入るつもりでしたが募集のポルターを見て「軍服が格好良いから」と海兵隊を選んだそうです。
アメリカ海兵隊の新兵教育は厳しいことで有名ですが、アメイ2等兵は家庭で父親から海軍式の厳格な躾を受けていたため全く苦にならず(ウチの愚息1も同じことを言っていました)、入隊4年目の1965年から1967年まではカリフォルニア州サンディエゴにある新兵教育隊でDI(ドリル・インストラクター=教練教官)を勤めました。
1968年からは第17海兵航空支援群に転属してベトナム戦争に参戦すると何度も負傷して沖縄の普天間基地でも2度勤務しました。そして1972年にスタッフ・サージェント=3等軍曹に昇任して名誉除隊(正式な手続きを踏んだ除隊)しました。
除隊後はPTSD(心的外傷後ストレス障害)に悩まされながらも沖縄でパブを開業して失敗、フィリピンに移住して復員軍人奨学金制度でマニラ大学に入学して犯罪学と演技を学んでいる時、初めて出演した映画「ザ・ボーイ・イン・カンパニー・C(邦題・ヤング・ソールジャー・海兵隊員の青春)」を見たフランシス・コッポラ監督によって1979年公開の「地獄の黙示録」にヘリコプターのパイロット役で出演することになりました(テクニカル・アドバイザーも兼務した)。それから何本かの映画に脇役で出演した後、1987年公開の「フルメタル・ジャケット」に同じくテクニカル・アドバイザーとして参加したところ海兵隊教官の演技指導を見たスタンリー・キューブリック監督がハートマン軍曹役に抜擢して迫真の演技が絶賛を浴びたのです。
その後も60本以上の映画に出演する一方でアニメの声優、テレビの司会者などでも活躍すると2002年5月に海兵隊司令官によって過去には例がない退役者としてガネリー・サージェントに昇任されて役柄や愛称ではなく2等軍曹になったのです。葬儀後には海兵隊員によって棺が運ばれ、アーリントン国立墓地に埋葬されました。
- 2023/04/15(土) 14:55:34|
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「網走市内で捕虜を1名拘束しました」結局、陸曹と陸士長は市街地の外れに配置されていた歩哨を捕獲することになってしまった。弾薬の節約のために銃剣で刺殺することを決めた陸曹が背後に回り込み、陸士長が囮として前に姿を現すと歩哨は満面の笑顔になって立ち上がり、「スダヴァサヤ(降伏します)」と言って両手を上げたのだ。
「お前は着剣して背後から突きつけろ。抵抗したら迷わず刺殺しろ」「コイツは大丈夫でしょう。飯が喰うまでは素直に従いますよ」「油断大敵だ」陸曹は道路上にロシア兵を腹這いにさせて身体検査を終えると取り上げた携帯無線機、銃剣、実弾を詰めた弾倉を持ち、陸士長に指示を与えた。すると同世代の陸士長は妙に親しみを持ったような口調で答えた。確かにこのロシア兵には殺気以前に敵意すら感じない。
陸曹は覚束ない足取りで歩くロシア兵を小隊本部になっている郊外のドライブインに連行した。ロシア兵は食堂の建物が見えてくると目を輝かせたが、歩調を早める体力が残っていないようで前のめりなりながら前に進んだ。背後で銃剣を突きつけている陸士長は同情したような顔をしている。これでは何かあっても刺殺できそうもない。
「この服装は刑務所の囚人服だろう」「最近、ロシア兵はこの服に着替えています。刑務所に残っていたのを見つけたんでしょう」電力が届いていないので開け放しにしている自動ドアの中で小隊長が出迎えた。小隊長も報告としてはロシア兵の服装について聞いているが実際に見るのは初めてなので困惑している。ところが当のロシア兵はテーブルとイスが整然と並んでいる店内を目を輝かせながら見回している。そう言えば入口にあるガラス・ケースの中のサンプル食品の前で立ち止まって見入ったため横から手で押されていた。
「キャン・ユー・スピーク・ジャパニーズ・・・イングリッシュ」「イーダ(食べ物を)」「キャン・ユー・スピーク・イングリッシュ」「イーダ」小隊長はロシア兵を店内の窓から隠れた壁際の席に座らせると尋問を始めた。周囲には古参陸曹たちが腕組みをしながら聞き入っている。その人垣の外で連行してきた陸曹と陸士長が小銃を控え銃にして警戒していた。演習での捕虜は補佐官なので日本語の台本通りに質問するが流石に外国人なので英語にしたようだ。しかし、ロシア兵は「イーダ」と言う返事を繰り返し、次第に苛立った表情になってきた。
「イーダって何だ」「イエスのことじゃあないですか」「だったら英語で大丈夫なんだな」航空自衛隊ではロシア軍機に通・警告する警戒管制職種の隊員であればロシア語の「イエス・ノ―」が「ダー・ニェット」であることなら知っているが、陸上自衛隊では幹部でも日米協同訓練用に初級英会話の勉強をしているくらいだ。
「アイ・アム・ジャパン・アーミー、ファースト・プラトゥーン・リーダー、ルテナン・ナカムラ(私は日本陸軍の第1小隊長の中村2尉だ)」小隊長も初級英会話の域を出ないので自己紹介から始めてしまった。本来は捕虜の尋問で説明・回答する義務がある項目は戦争法で規定されているので余計なことを言うべきではない。
「イーダ、イーダ」「どうやらイエスではないようですね。どちらかと言えばイーダッて悪態をついているみたいだ」ロシア兵の目つきが引きつってきたのを見て小隊長と古参陸曹たちは困ったように話し合い始めた。実際、困っているが中隊本部どころか連隊本部にもロシア語が理解できる者はいないはずだ。
「食べ物をよこせって言ってるんじゃあないですか。イートだって」「なるほど・・・」「歩いてくるのに足がふらついていました」「そうか」そこに連行してきた陸曹と陸士長が助言した。2人もロシア語ができる訳ではないが観察した様子で推理したのだ。
「携帯食を1人分持って来い」小隊長は壁際に並べた椅子に座っている待機要員に声をかけた。すると陸士長が「はい、○○士長」と返事をして立ち上がり、積み上げている段ボール箱の中からOD色(オリーブ・ドラブ=暗緑色)塗装の大中小の缶詰と缶の日本茶、先割れスプーンを持ってきた。大中小は飯類、おかず、漬物のセットだ。網走市内では水道も使えないのでロシア軍は清潔な水も飲めていないはずだ。水筒も空っぽだった。
「スパシーバ(ありがとう)」陸士長がテーブルに缶詰を並べて先割れスプーンを置くとロシア兵は歓声のように礼を言った。鼻をすすったところを見ると涙ぐんだのかも知れない。そんな姿に優しい気持ちが胸に湧いてきた小隊長が頬笑みを隠しながら仕草で缶の開け方を説明するともう一度、「スパシーバ」と繰り返して缶を開け、スプーンで鶏飯を頬張った。
「ヴクシー(美味しい)」「オーチン・ハラショー(とても素晴らしい)」ロシア兵は感嘆の声を上げながら食べ続けた。自衛隊の野戦用携帯食は多国籍PKOの指揮所で開催された試食会で圧倒的支持を受けた世界で最も美味しい野戦食なので当然だが微笑まし過ぎる。
- 2023/04/15(土) 14:45:08|
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1986年の明日4月15日にヨーロッパで続発したテロをリビアの指導者・アンマル・アル=カッザーフィー大佐が指揮していると断定したドナルド・レーガン政権が制裁と言うよりも懲罰としてリビアを空爆しました。
レーガン政権はソビエト連邦がアフガニスタンでの苦戦によって財政が逼迫し、崩壊が迫っていると判断すると1982年にレバノン内戦に直接介入し、1983年10月25日にグレナダに侵攻するなど「世界の保安官(レーガン大統領の場合)」として行動するようになり、これに対してイスラム過激派は1985年10月7日にイタリアの旅客船をエジプトのアレクサンドラからポートサイドに航行中に乗っ取ってシリアのタルトゥースに向かったものの入港・入国を拒否されて乗客のユダヤ系アメリカ人を銃撃の上、海に突き落として殺害した事件を起こしたため翌1986年1月にアメリカがリビアに経済制裁を加え、3月には空母戦闘群をリビアのシドラ湾に派遣して3月24日にミサイル艇とレーダーサイトを破壊しました。すると4月5日に西ベルリンのディスコが爆破されて犠牲者の中にアメリカ人が含まれていた事件が発生したためレーガン政権がアル=カッザーフィー大佐の殺害を目的とするエルラドラ・キャニオン作戦の実施を決めたのです。
ところがアメリカがNATOの主要国に参戦・協力を求めるとレーガン政権の他国への武力行使に批判的な当事国ではないフランスやスペインがイギリス軍の爆撃機の領空通過までも拒否しました。このためイギリス軍の爆撃隊は空中給油しながら大西洋を2000キロ以上も迂回してジブラルタル海峡から地中海に入り、アメリカの空母戦闘群の3隻の空母から発艦した艦載機とイタリアなどから発進したアメリカ空軍のFー111戦闘爆撃機と共同でトリポリのアル=カッザーフィー大佐の居宅や空軍基地、ベンガジ湾のレーダーサイトなどの防空施設にレーザー誘導式を含む爆弾300発を投下し、ミサイル46発を発射しました。この結果、リビア側はアル=カッザーフィー大佐の1歳3カ月の養女を含む文民16名が死亡した(養女はアル=カッザーフィー政権崩壊後、生存が確認された)と発表して盛大な追悼式典を挙行し、アメリカ側はFー111が3機撃墜されて、シドラ湾上空での1機のパイロット2名が行方不明になったと発表しています。
これに対して殺害を逃れたアル=カッザーフィー大佐は報復を開始して対岸のイタリアにあるアメリカ沿岸警備隊の基地に弾道ミサイル・スカッドを射ち込みましたが命中せず、1988年12月21日に西ドイツのフランクフルト空港発、ロンドンのヒースロー空港経由でアメリカのデトロイトに向かっていたパン・アメリカン航空のボーイング747がスコットランド上空の高度9400メートルで前部貨物室が爆発して空中分解して墜落、乗客243名、乗員16名と事故に巻き込まれた地域住民11名の計281名が死亡する事件を起こしました。するとリビア空爆直後にはレーガン政権のガンマン気取りの一方的な懲罰的軍事行動を危険視していた国際世論が急速に変質して「世界の警察官」としての行動を期待するようになり、それは軍産複合体に扇動された2代目ブッシュ政権による十字軍の再現=第3次世界大戦まで続きました。
- 2023/04/14(金) 20:29:36|
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