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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

6月1日・日本の気象記念日

日本限定で6月1日は明治8(1875)年の明日6月1日に赤坂葵町の東京気象台が気象と地震の観測を開始して初の天気予報を発表したことを記念する「気象記念日」です。この時の予報は「全国一般風ノ向キハ定マリナシ、天気ハ変リ易シ、但シ雨天勝チ」と言う全国一律のものでしたが東京府内の派出所=交番の掲示板に貼り出され、明治17(1884)年6月1日以降は1日3回貼り替えられるようになりました。
野僧は航空自衛隊の一般空曹候補学生基礎課程に入隊して最初の教育班長が気象特技の2曹で、それ以降も曹候学生1期の気象幹部(ウガンダ人道派遣でケニアに赴任した)や小松基地の気象隊長だった2佐、後の気象群司令の1佐などと一緒に勤務して気象に関する雑学を仕入れ、春日基地では新米兵器管制幹部として各レーダーサイトに気象情報を周知することになったため個人的にオフを利用して基地の気象隊に通って個人授業を受けたので妙に詳しくなってしまいました。
日本でも古来、農業や漁業に直結する気象観測と天気予報はかなり高度な水準を保持していましたが(実際、全国各地の航空気象隊では地元の漁師や農家に地域で伝承されている天候急変の予兆を調査・研究しています)、温度計や湿度計、気圧計などの数値化する器材の発達が遅れていたため西洋文明を妄信する明治政府に否定されて他の自然科学と同様に初心者として外国人から習うことになりました。
先ず明治5(1872)年に北海道の函館の開拓使の官舎に気象測量所を開設したことが始まりで、明治6(1873)年には工部省測量司のスコットランド人技師が国費で観測機器を1セット購入させてスコットランド気象協会と技術提携を結びました。ところが明治7(1874)年に測量司が工部省から内務省に移管され、これに民部省土木部の一部が合流したため測量司は地理寮(現在の国土地理院)の下部組織に格下げ吸収されました。しかし、内務省が水産業の近代化を進めていたイギリス人の海洋学者に気象観測の重要性を強調されて一転、東京気象台の設置が実現したのです。その後は明治20(1887)年に東京気象台を中央気象台に改称し、敗戦後の占領下にアメリカ式の航空機や遠洋での情報を組み込んだ地球規模の気象観測を学習し、昭和31(1956)年に運輸省の外局の気象庁として官公庁の仲間入りを果たしています。
しかし、組織は巨大化して気象衛星を含む機材は最先端をいっている割には予報の的中率が少しも向上しないのは何故でしょう。航空自衛隊の気象隊=エア・ウェザー・サービスはAWSの略称から「当たらん、判らん、知りません」と揶揄されていますが、雷雨の予報を出して訓練を終えて基地に戻る戦闘機を隣りの基地に向かわせて燃料切れで墜落してパイロットが殉職する事故がおこった時、雷雨が発生しなかったことで予報官は誤報の責任を問われて重い懲戒処分を受けています。また突発的な横風で離陸中の練習機が滑走路を外れて擱座してパイロットが殉職した事故でも同様の懲戒処分を受けています。つまり航空気象隊の予報にはパイロットの生命が賭かっていて誤報には処罰が伴うのに対して気象庁やテレビの気象予報士はヘラヘラと笑って誤魔化せば済む程度の軽いお仕事なのでしょう。その割に次々に大規模自然災害で脅しをかけて観測のための国家予算を奪っていますが地震の発生予測が当たったことはありません。
  1. 2023/05/31(水) 14:45:41|
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続・振り向けばイエスタディ505

「オリビア、大丈夫か」オリビア・エルトンジョン記者を救出した百里救難隊のUH-60は日付が変わる前に航空総隊司令部も同居する在日アメリカ空軍の横田基地に着陸した。すると在日イギリス大使館駐在武官のスタイリー大佐が出迎えていた。イギリスの在日駐在武官は基本的に海軍なので今日も黒地に金ボタン・ダブルの両袖に金線4本が入った軍服を着ている。だからパイロット・スーツや迷彩服の航空自衛隊、アメリカ空軍の中では目立っていた。スタイリー大佐はメディックに腕を支えられて側面ドアから下りたエルトンジョン記者に歩み寄ると握手ではなく抱き締めた。イギリスは紳士の国と言う認識を共有している日米の空軍軍人たちは呆気に取られて見ていたがエルトンジョン記者は安堵したようにスタイリー大佐の胸に顔を埋めていた。
「こちらがマッキイトニー記者の遺骸です」エルトンジョン記者をスタイリー大佐に渡したメディックは出迎えた航空自衛隊の中では一番階級が低い2佐に声をかけた。マッキイトニー記者の遺骸を回収したことは機長が総隊司令部指揮所に通知しているので衛生隊のアンビランス=軍用救急車がエプロンに来ている。このままアメリカ空軍の病院に搬送してエルトンジョン記者は軍医の診察、マッキイトニー記者の遺骸は検屍を受けることになる。
「ウチの担架に寝かせましたが、持ち帰りますからそちらの担架に移して下さい」「出血しないから汚れません」「死後硬直が始まってます」メディックはマッキイトニー記者の遺骸を背負って機内に運び込んだが、死後かなりの時間が経過しているので傷口からの出血はなく、死後硬直が進んでいるため大の字になって倒れていた姿勢は変えられなかった。幸い救難ヘリコプターには担架が積んであるのでそれに寝かせたがエルトンジョン記者は服装を整えると床に座り、冷たく固まった手を握って小声で語りかけていた。
「散弾式の地雷が空中で爆発したようです」「やはりPOM3か・・・」スタイリー大佐は先ずマッキイトニー記者の遺骸の検屍に立ち会った。大の字になって固まった身体から衣類を脱がすことは不可能で若い男性の看護士がハサミで切ってはがした。看護士は軍医とスタイリー大佐に血で染まった服を広げて見せたが肩から背中には無数の穴が開いていた。
「死因は多数の破片による複数の内臓の損傷ですな」「即死ですか」「頭部と心臓には直撃していないので1分近くは意識があったはずです」「苦痛を感じてしまったんですね」軍医の判定にスタイリー大佐は顔を曇らせて重い口調で答えた。スタイリー大佐もイギリス海軍軍人として旧ユーゴスラビアの内戦やブレア政権が軽率に同調した2代目ブッシュ政権の対イスラム戦争に出征して多くの敵に死を与えてきたが、恐怖は無理でも苦痛を跳び越すことだけは願っていた。
「肩から背中に傷があって頭部にないのは軍用ヘルメットを着用していたんでしょう」「遺骸は被ってなかったようだから北朝鮮軍に奪われたのかもな」X線写真で体内に大量に残っている金属片を確認した軍医の推理にスタイリー大佐も納得した。日本でも戦国時代には合戦の後、山林などに逃げていた農民たちが集まって売り物にしようと死んだ侍の鎧兜や刀、槍を奪い合っていたと言う。一方、アメリカ軍は太平洋戦線やベトナム戦争で日本兵や北ベトナム・ゲリラの遺品を記念に持ち帰っていた。北朝鮮軍がどちらの感覚なのかは判らないが浅ましいのは間違いない。
「遺骸はイギリスへ送るように処置しますが火葬するですよね」「彼の宗教を確認しないと判らないがその可能性は高いだろう」メスで身体を切り開き、対人地雷の破片を摘出した軍医は看護士に縫合を命じるとスタイリー大佐に意外なことを確認してきた。イギリスでは日本ほど完璧ではないものの火葬率は90パーセントを超えている。仮に火葬であればこれから施す死化粧や死装束にも焼却することを前提にした配慮があるようだ。そう言えば日本でも過剰な環境問題が社会に蔓延して以降、火葬する時に棺に納める遺品や愛用品、好物などが厳しく制限されて下手すれば「写真や絵にしろ」と命令されることもある。
「かなり過酷な性的暴行を受けています」検屍の次はエルトンジョン記者を診察した軍医から所見を聞いた。エルトンジョン記者は診察を終えてシャワーを浴びた後、病院食を口にしてから鎮静剤を服用して今は病室で仮眠している。
「本人の証言では1日に満たない短時間に50人以上との関係を強要されたそうです。実際、女性器は裂傷を負っていて挿入すれば出血するため肛門と口を性交に使われたと言うことです。正常な意識を保っているのが不思議なくらいです」スタイリー大佐はヘリコプターを下りてきたエルトンジョン記者が砂の彫像のように崩れ落ちそうなオーラを発していたのを思い出した。
「そうですか・・・彼女は過去にも戦場で性的暴行を受けた経験がありますから精神的抵抗力が働いているのかも知れません」「逆に一度目よりも深く傷つく場合もありますから要注意です」スタイリー大佐の返事に軍医は深刻な顔をしてカルテに短文を書き込んだ。
「採取した体液はこちらで分析しても良いのですが、貴国で犯罪の証拠として司法鑑定すると言うのであれば渡します」スタイリー大佐は自国のジャーナリストが巻き込まれた戦争犯罪としてイギリス政府と協力を要請したNATO軍に報告しなければならず、今は仮眠しているエルトンジョン記者が目を覚ませば事情聴取しなければならない。
  1. 2023/05/31(水) 14:44:22|
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5月31日・理解できないが天才なのは判る。ガロアの命日

1832年の明日5月31日は数学を思考=理解する機能が脳から欠落している野僧には言っていることの意味や偉さが全く分かりませんが「天才」であることだけは判るエヴァリスト・ガロアくんの命日です。20歳でした。
野僧は数学が必修だった高校1年と2年の6学期は高校の数学教師の叔父に中間・期末試験の1週間前から集中教育を受けていながら全て赤点、そんな試験の結果を聞くと叔父は「教師としての自信をなくす」「お前の脳には数学を理解する機能が欠落している」と断定しました。それでも社会と国語は常に100点だったので親の手前勝手な都合と命令で地元の大学の法学部に進学しましたが、卒業する気は始めからなく「どうせ中退するなら」と単位は無視して法学関係の講義ばかり選択しました。それでも法学の講義がない時間の穴埋めに数学を採ることになり、そこで聴いたのが奇天烈なガロアさんの生涯でした。
講義の冒頭で教授が力説したのが「諸君たちの多くは18歳から20歳だと思うが、ガロアは20歳で死んでいる。つまりこれから語る偉大な業績は君たちの年齢までに成し遂げたんだ」と言う前置きでした。業績の説明は全く理解できませんでしたが天才故の行動も破滅的でした。
ガロアくんは1811年にパリ郊外のブール=ラ=レーヌで後に町長になる校長の姉と弟の間の長男として生まれました。母親も学者家系の出身だったため12歳までは母親の教育を受けましたが、1823年からパリの寄宿制名門中等学校に入学しました。すると1年目は極めて優等な成績を収めたものの2年目に入ると怠惰に流れて校長から留年を命じられ、空いた時間に必修ではなかった数学の若い数学教師の幾何学の授業を受けるようになりました。
すると数学の面白さに熱狂し、高度な数学書を入手すると次々に計算問題に解答して教師を超えてしまいました。しかし、この頃のガロアくんを周囲は「数学の熱狂に支配されている」「数学の才能を開花kさせたことで過度の自尊心が目覚めてしまった」と酷評しています。
それでも数学熱は冷めることなく1828年と1829年に当時の理数系教育の最高峰だった理工学校を受験して失敗しましたが、数学は跳び級になり新任の優秀な数学教師によって才能を開花させたのです。その教師の勧めで論文「代数方程式解法」を学界に発表することになりましたが、論文を預かった数学者は中等学校の生徒の論文を真面目に扱うことなく2度も紛失し、さらに町長になっていた父親がフランス革命前夜の市民の自由を求める運動を抑圧しなかったことを修道会に糾弾されて自死したため反宗教的倫理を標榜して革命運動に参加するようになり、破滅に向かって突き進み始めました。
2度の受験の失敗で理工学校を諦めたガロアくんは師範学校に進学しましたが、ここでは革命運動に熱中して生活は乱れ、やがて国王暗殺の疑いで逮捕・投獄されて健康を害し、出獄後に女性を巡るとされる決闘でパリ近郊のジャンティーユ地区グラシエールの沼の畔で負傷し、収容された病院で死亡しました。
天才の数学的業績はフランス革命による一連の混乱終結後に数学者たちによって遺された論文が解析され、驚嘆をもって学界に紹介されましたが、野僧には全く理解できません。
  1. 2023/05/30(火) 14:41:28|
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続・振り向けばイエスタディ504

セルゲイ道路=国道7号線の市境付近で北朝鮮軍が壊滅状態に陥っているのを確認するように三沢基地のFー2戦闘機が低高度で通過した。ついでにバルカン砲を掃射していけば第30普通科連隊遊撃隊の仕事は終わるのだが、陽動は長引かせる方が効果的な場合もある。
「あれが目標の小学校だな。灯りが見えるから残留している人間がいるらしい」「ラージャ、交戦を覚悟して着陸しよう」Fー2は百里基地を発進したUHー60救難ヘリコプターに現地の状況を伝達した。新潟のロシア軍の自走式地対空ミサイル・9K37は日本海でロシア軍の輸送艦や輸送機を攻撃する海上自衛隊と航空自衛隊にとっても脅威であり、富士普通科教導連隊と第30普通科連隊には戦車以上の優先度で攻撃・破壊が命じられていた。本来であればFー2やAHー1に殺らせれば手っ取り早いのだが、国内メーカーの空対地ミサイルの製造が進まず、アメリカからも届かない中、残弾数を気にしながらでは陸上自衛隊の携帯式対戦車ミサイルに期待するしかなかった。
「携SAMを射ってきた。フレアーを噴射する」「ラージャ」「ドンと出た花火が、綺麗だな」Fー2が低空を維持しながら新潟市内を一周すると各宿営地で銃の発砲焔が点滅しているのが見えた。陸上自衛隊には1度目の通過で退避するように連絡している。すると二周目でそのうちの一箇所から携帯式地対空ミサイルが発射されてオレンジ色の光の線を引き始めた。携帯式地対空ミサイルは初速が遅いため低空飛行で距離が近くても加速するまでの数秒間に対処できる。これも飛行目的だったF-2は入間基地の防空指令所に通知しながら用意していた射出式熱源のフレアをばら撒いて夜空に不思議な花火を咲かせた。パイロットの鼻歌も理解できる。
「携SAMは引っ掛かった」「ラージャ」「シューティング・ポイント(発射地点)特定。ブロー(射撃)する」「ラージャ、どうぞ」兵器指令官の返事を聞くまでもなくパイロットは日本海上空で反転して攻撃を受けた宿営地に戻り、フレアが消えた暗い空から黒い点を2個落とし、今度は地上で爆発の炎を光らせた。流石に陸上自衛隊の無事を確認することはできなかったが。
「あれが目標の小学校だ」「本当に田圃の真ん中なんですね」校庭に着陸するUHー60は側面ドアを開け放ち、機上整備員が銃架に設置した機関銃を構えていた。その奥で救出に向かうメディックの空曹3人が最終確認していた。
「1階で灯りが点いているのは職員室、その隣の面接室にオリビア記者は閉じ込められている」「中央玄関からだと保健室の前の廊下を通過しなければならない。だから窓から突入するんでしたね」「校舎の外壁には耐弾性がないそうだから援護射撃も面接室は外せ」「分かりました」百里救難隊には山形県地方協力本部が県内庄内地区に避難している小学校関係者から聞き出した校舎の間取りと構造が届いていて統合幕僚監部が入手したGPSの位置情報と照合した結果、オリビア・エルトンジョン記者が1階の面接室に監禁されていると特定していた。
「高度2メートル、停止」「了解、行くぞ」「レスキュー」機長が振り返って声をかけるとメディック3人は高度2メートルで停止している機体から飛び降りて校舎に向かってダッシュした。機上整備員は機関銃を向けながら装着している暗視眼鏡で校舎の窓を確認したが職員室の灯かりも消えて人影はなかった。しかし、住宅街が隣接しているので逃げ込まれれば厄介だ。
ガッシャーン、「ウンジキジマダ(朝鮮語の「動くな」)」3人は校舎への段差で拾ったブロックで窓を叩き割って統合幕僚監部から教えられた朝鮮語で声をかけた。メディックも日米協同演習の救難訓練では英語で「フリーズ」と声をかけることがあるが、考えてみれば相手は敵なのだからロシア語や中国語、朝鮮語でなければ実戦の役に立たない。
「ジャパン・ジエータイ・・・」メディックの暗視眼鏡に床で身を起こす全裸の女性が映った。暗視眼鏡では明るい部分は黄緑色、暗い部分は黒の2色画像になるため髪の色は判らないが、統合幕僚監部から届いた顔写真のオリビア・エルトンジョン記者のようだ。この様子では部隊が出動してからも残留した兵士に性行為を強要されていたらしい。それにしても狭い室内には尿と便の悪臭が充満している。この部屋でその気になる北朝鮮軍には呆れを通り越して感心してしまう。
「ケイム・トゥ・ヘルプ・ミー(助けに来てくれたのね)」「はい、イギリスに帰りましょう」エルトンジョン記者は意外にシッカリとした動作で立ち上がると窓際で短機関銃を構える1人と床に伏せて開けたドアから廊下を確認した1人を見てから下半身の下着を差し出しているメディックに呟いた。これから下着と衣類を順番に手渡して身に着けさせる。本来は懐中電灯を点けるべきだが煙草の火を狙って狙撃を受ける危険性は夜間行動で習う教訓の代表なのでここでも控えた。
「ポールも連れて帰って」「ポール・マッキイトニー記者ですか。どこに」「あそこに・・・」廊下と階段に人影がないことを確認して中央玄関から校庭に出ると上昇していたUHー60が今度は着陸した。銃架とは反対側の側面ドアから乗り込んだエルトンジョン記者は懇願するように声をかけた。
エルトンジョン記者が指差した外柵沿いの並木の下には倒れ伏せた男性の遺骸が見えた。
「捨てて行く訳にはいかないな。機長、もう少し待って下さい」「何時ものように頼むよ」「レスキュー」指揮官のメディックは機長の許可を得るとマッキイトニー記者の遺骸に駆け寄って若いメディックに背負わせて戻ってきた。救出作戦は成功した。
  1. 2023/05/30(火) 14:40:11|
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5月30日・コスモ・スポーツが発売された。

昭和42(1967)年の明日5月30日に東洋工業=マツダがロータリー・エンジン車・コスモスポーツが発売しました。この頃の日本ではトヨタが昭和40(1965)年にスポーツ800、昭和42(1967)年に2000GT、日産も昭和44(1969)年にフェアレディZとイギリスのジャガーEタイプを思わせる流線形の車体のツーシーター・スポーツカーを市場に投入していてマツダはそこにロータリー・エンジンを搭載したコスモスポーツを投入したのです。
 初代コスモスポーツはトヨタのスポーツ800と2000GT、日産のフェアレディの前部にはあった空気取り入れ口をバンパーの下部に配する飛行機と言うよりも宇宙船を思わせるデザインで、1971年から放送された「帰ってきたウルトラマン」では車体の中央から左寄りに赤いストライプを入れただけでMAT(モンスター・アタック・チーム)の地上活動用車両(MATの日本本部は東京湾の海底にあった)・マットビハイクルとして使用されています。その前作のウルトラセブンでは地球防衛軍・ウルトラ警備隊の同様の車両は重装備のポインター(原型はクライスラー・エンペリアム・カスタムの中古車)だったのに比べても116.5センチの車高やロータリーエンジン特有の唸るようなエンジン音と共に近未来を感じさせる車体でした。ウルトラマンの科学特捜隊は銀塗りのシボレー・コルベアでしたが。
ロータリーエンジンはそれまでの4サイクル・エンジンがピストンの上下運動で行う吸気・圧縮・燃焼・排気の4工程を三角形のローターをダルマ型の筒の中で回転させてで切れ間なく実施するため小型・軽量のエンジンで高出力・高速度を得ることができる。特に「低振動なので戦車に最適」と世界各国が早い段階から開発を進めていました。1957年に西ドイツのNSUとWankelが共同開発に成功してNSUが初のロータリー・エンジン搭載車・ヴァンケル・スパイダーを発売しましたが、円筒内部の金属摩耗の問題が解決できておらず2375台を売ったものの1回だけの限定車種になってしまいました。続いてNSUから特許権を譲り受けて開発に着手したのがマツダで金属摩耗の防止策の研究に全力を傾注した結果、エンジン主要部の鋳造法の改良と鋳造後の焼き入れ、さらに高強度のカーボン材にアルミを染み込ましたシールを貼り、摩耗しても容易に交換できる改良によってコスモスポーツの発売を実現しました。
しかし、コスモスポーツはロータリー・エンジンが絶え間なく吸気・圧縮・燃焼・排気を繰り返すが故に燃費が極めて悪く、その悪評が広まったため初期型の価格は大卒者の初任給が2万6千円だった時代に148万円でトヨタ2000GTの238万円の半額でもスポーツ800の59万円の3倍弱、フェアレディZの84万円の2倍弱で、販売台数は1176台とトヨタ2000GTの337台には勝ったもののトヨタ800の3131台、フェアレディZの8万台(アメリカでは55万台)には遠く及びませんでした。それでも同型のロータリー・エンジンを搭載したサバンナRX3は日本のツーリング・レースでのスカイラインGTRの50連勝を阻止しています。
結局、1970年のオイルショックが追い打ちをかけてロータリーエンジンの開発に社運を賭けていたマツダは経営危機に陥ってフォードに身売りすることになりました。2018年に販売を終了したRX8が最後の動力用ロータリー・エンジン搭載車になりました。
  1. 2023/05/29(月) 15:10:49|
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続・振り向けばイエスタディ503

「新潟市内に潜伏させている隊員にやらせましょう。それにしてもヘリボーンで救出するのも空挺レンジャーにやらした方が良いんじゃあないですか」「メディックも空挺レンジャーなんだそうだ」統合幕僚長からの命令は東部方面隊、第12旅団の指揮所を経由して新発田市内の崩れ残った建物の地下にある第30普通科連隊指揮所に届いた。すると先ほどまで各級指揮所の間で交わされてきたのと同じ意見が3科運用訓練幹部から返ってきた。やはり陸上自衛隊では航空救難隊は人命救助を専門とする消防や海上保安庁と同類の組織であって人間が殺しあう戦闘とは縁遠い存在と言う先入観があるようだ。それは統合幕僚監部でも同様だったが航空自衛隊の幕僚から説明を受けて考えを改めたばかりだった。
「何よりも戦闘機がロシア軍の地対空ミサイルを引きつける援護に当たるそうだから陸よりも連携は取り慣れてるってことだ」「なるほど・・・」ロシア軍の携帯式地対空ミサイル・9K32はアメリカのレッドアイと同時期の1950年代末に開発に着手したパッシブ赤外線ホーミング方式でアメリカではスティンガーの開発に移行していた1960年代後半になって配備が始まった。その後、改良型に更新しているがレッドアイとステインガーほどの能力向上はなく戦闘機にとってはそれ程の脅威ではない。むしろ柏原市で陸揚げした自走式地対空誘導ミサイル・9K37の方が気になるが富士普通科連隊が柏原市内、第30普通科連隊が新潟市内で破壊したはずだ。
「新発田から新潟は約25キロありますから装甲車で威力偵察させてロシア軍が動き出したところに新潟市内で遊撃戦を加えると言うのはどうでしょう」「確かに北朝鮮軍は危険な場所に優先的に動員されているようだから宿営地も空になるだろう」これまでの戦果報告でも攻撃が予測される肝要地には北朝鮮兵が配置されていた。第2次世界大戦のヨーロッパ戦線で日系2世の第442戦闘旅団は常に先陣と窮地に陥ったアメリカ人部隊の救援を命じられて多大の犠牲を払った。北朝鮮軍も非公式に動員されているロシア軍の戦闘で同様の処遇を受けているようだ。それにしても運用訓練幹部は3科長や連隊長の承認を受けずに作戦を提案した。陸上自衛隊ではこのような独断専行は許されないので事前に準備していた作戦を流用しただけなのかも知れない。
「威力偵察が目標まで到達すれば航空さんの出番はなくなりますが」「それならそれで結構だが無理に突入させることは禁止する」運用訓練幹部が余計な確認をしたのはやはりこの陽動作戦が本来、新潟市の制圧を目的にした大規模な戦闘の摘まみ喰いだからかではないか。第12旅団指揮所3部の運用幕僚は一抹の不安を感じて釘を刺した。
「日軍がセルゲイ道路を装甲車で接近してる」「戦車じゃあないんだな」その日の日没後、新潟市内の学校の北朝鮮軍の宿営地ではロシア軍占領部隊司令部からの連絡を受けて兵士に非常呼集がかかった。セルゲイ道路とはロシア軍が命名した国道7号線の別称だがミシュスチン内閣の国防大臣と外務大臣はどちらもセルゲイなのでどちらに由来するのか判らない。
「非常呼集」美味くはないが北朝鮮軍とは違って空腹を満たすことはできるロシア軍の配給食を食べ終えて教室の寝床でくつろいでいた兵士たちは手早く靴を履くと生徒用の棚に置いているロシア軍の弾帯を取って腰にはめ、ヘルメットをかぶって廊下のフックに吊ってある小銃を持って校庭に向かって駆け出した。階段では下士官が2人、道を開けて見送っていたが慰安婦を使う順番を決めるクジで1位と2位を当てた幸運な人間のはずだ。この様子では途中だったらしい。
「携帯式対戦車ミサイルで撃破する。射手と助手各10名」「はい、1組」「はい、2組・・・」「はい、9組、10組は欠です」指揮官の上尉(大尉の下・中尉の上)の指示に下士官で編成された携帯式対戦車ミサイル要員は準備の完了を申告したが2人足りなかった。ロシア軍の携帯式対戦車ミサイル・9K113は北朝鮮軍では採用されていないため兵士たちの憧れの装備なのだが、幸運な2人は徹底的に不運に堕ちていっている。どう考えても2人にとって慰安婦=性玩具にしたオリビア・エルトンジョンは不幸を呼ぶ女=下げマンだ。
「よし、1号車に携帯式対戦車ミサイルと要員、2号車に士(特務上士から下士=下士官)、3号車と4号車に兵士が乗れ。乗車」不運な2人が上尉の憤怒の形相と兵士たちの嘲笑に迎えられて列に加わると上尉は冷静な態度に戻って乗車命令を下した。北朝鮮軍にとってはトラックでの移動も平壌市近傍の部隊以外ではあまり経験できない。そのためこれから戦闘に向かうと分かっていても顔にははしゃいだような笑みが浮かんでいた。
ズーン、バババ、バババ、「敵襲」「助けてくれ」「オンマァ(お母さん)」「痛いよォ」セルゲイ道路=国道7号線を新発田市方面に向かっていた北朝鮮軍のドラックが道路脇に仕掛けられていた指向性散弾地雷・クレイモアによって破壊され、同時に停車した後続のドラックに周囲の住宅から銃撃が加えられた。北朝鮮軍ではトラックでの移動に慣れていないので指揮官が階級ごとに乗車区分を指定したため兵士のトラックでは指揮官がおらず完全にパニックに陥っていた。
その頃、新潟市内のロシア軍の宿営地では自衛隊が同時多発の攻撃を加えたため宿営地内を駆け回った兵士たちが自分たちの対人地雷で多数の死傷者を出した。微弱な振動で作動するPOM3が威力を発揮した形だ。
  1. 2023/05/29(月) 15:09:21|
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5月29日・アッツ島守備隊が全滅した。

昭和18(1943)年の明日5月29日にアリューシャン列島アッツ島(日本名・熱田島)の山崎保代大佐以下の日本陸軍守備隊が万歳突撃して全滅しました。
この敗戦を大本営は唐の李百薬さんの歴史書「北斉書」の「大丈夫は寧ろ玉砕すべきも瓦全すること能わず」から引用した「玉砕」の美辞で発表したため、攻撃したアメリカ陸軍のアイケルバーガー中将に「世界第一の猛闘」と言わしめた昭和18(1943)年1月2日のニューギニア・ブナの安田義達大佐の日本海軍陸戦隊と陸軍工兵隊の連合守備隊の50日間にわたる戦闘の末の全滅は無視してこちらを「初の玉砕」とする戦史の誤りが横行しています。
実際、航空自衛隊幹部学校のSOC課程に入校中、元陸軍参謀本部の瀬島龍三中佐の講話があり、野僧が「ブナの守備隊の全滅の方が半年早かったのにアッツ島を初めての玉砕としているのは何故か」と質問すると瀬島中佐は「ブナですか。ブナねェ・・・」と考え込み、幹部学校の教官たちまで「ここで教えている戦史が間違っていると言うのか」といきり立ちました。
アリューシャン列島のアッツ島とキスカ島(日本名・鳴神島)の攻略の目的は戦時中から「北部太平洋の制海権確保」や「アメリカの領土を占領する心理的圧迫」などと明確ではなく、これが戦略なき占領として無責任な方針変更を生み、陸軍のアッツ島は見捨てて海軍のキスカ島は撤退させると言う高級参謀間の裏取り引きを成立させ、キスカ島は2ヶ月後の昭和18(1943)年7月29日に無血撤退に成功しています。
アッツ島にはミッドウェイ作戦の敗戦翌日の昭和17(1942)年6月6日に穂積松年少佐が指揮する北海支隊1150名が上陸しましたが、島民は気象情報を送信する無線技士の夫婦と土着のイヌイット系アリュート族45名だけで無線技士が抵抗したため殺害した以外は戦闘もなく占領を完了しました(無線技士の妻は関東地方の収容所に収監された)。
占領後の日本軍は水上機の飛行場と陣地構築を進めましたが、1812年の米英戦争以来、初めて自国の領土を占領されたアメリカは意気消沈するどころかミッドウェイ海戦の勝利で火が点いた敵愾心を燃え上がらせて連日のように爆撃機が空襲を加え、艦隊を派遣して海上補給を妨害したため大本営はアッツ島を捨ててキスカ島に戦力を集中させることを決定し、北海支隊は構築した陣地を破壊して移動しました(現地民も北海道小樽に移送した)。
ところがアメリカ軍がキスカ島に近いアムチトカ島を占領したことから大本営はこの方面への攻撃を日本への侵攻の拠点確保と見解を転換して昭和17(1942)年10月18日に再占領を決定して10月20日に約2900人の部隊が戻りました。しかし、アメリカ軍に利用されることを防ぐため徹底的に破壊した陣地の再構築は困難を極め、すでに極寒の季節に入り凍土と化した地面を掘る土木作業は一向に進まず、昭和18(1943)年2月11日に山崎大佐が着任した1ヶ月後の3月26日にはアッツ島沖で海戦が発生して海上封鎖が完了したため空腹に耐え、凍えながら死を待つことになりました。
そうして5月12日に15000人のアメリカ軍が上陸して戦闘が始まると17日間で10分の1まで消耗していた300人の日本軍は万歳突撃で全滅して「初の玉砕」になったのです。
  1. 2023/05/28(日) 14:51:28|
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続・振り向けばイエスタディ502

「新潟市内で拘束されたイギリス人ジャーナリストを救出する」翌日、首相官邸では早朝から立野官房長官に呼び出された双木外務大臣と鎌田防衛大臣が登庁して内閣官房の応接室で2024年に東京に開設されたNATO軍事務局から届いた要請について協議していた。
「マイ・ジャーナリスト、ワン・ダイ、ワン・アブダクション(私の記者が1名死亡、1名拉致)」今朝のブリティッシュ・ライフ紙は1面に大きな見出しの下に2人の記者の顔写真を掲載していた。今回はエルトンジョン記者が廊下に立つ見張りの兵士に気づかれないように送った短文だけで記事を作っているので大半は2人の取材歴だった。それでも入社以来、ブレア政権がアメリカの2代目ブッシュ政権に同調して介入したアフガニスタンとイラクでの対イスラム戦争からシリア内戦、ヨーロッパ各地のテロ、そしてウクライナ侵攻などを取材してきた経歴は「英雄」と称賛されるのに十分だった。勿論、エルトンジョン記者が性的暴行を受け、慰安婦=性玩具として扱われている可能性については一言も触れていないが、あえてロシア軍がウクライナで常習化させていた女性に対する犯罪行為を紹介することで読者に考えさせる効果は確保している。
「イギリス政府には軍の派遣を要求する電話とメールが殺到しているそうだ」「だからNATO軍司令部に相談したんだね」双木外務大臣の説明に立野官房長官がイギリス大使館ではなくNATO軍事務局から要請が届いた謎明かしを補足した。
「イギリス軍からはオーストラリアに駐留している初動対処部隊を日本に派遣して救出に当たりたいと言う打診が届いているが、本格介入するには政治的議論が不十分なんだそうだ」「知らない間にオーストラリアに地上部隊を駐留させていたんだな」「防衛大臣がそれでは困るよ」「中央指揮所に閉じ籠りっぱなしだからな」イギリスはアメリカ、日本、オーストラリア、インドの戦略対話=QUADには加盟していないが、マーガレット・サッチャーが鄧小平の恫喝に屈して返還した香港での人権弾圧にヨーロッパで袋叩きに遭い、中国の海外進出の阻止に国家の威信を賭けている。香港返還は本来、大陸の対岸側だけが契約の対象だったがサッチャーは香港島まで奪われて、かつての「アイアン・レディ=鉄の女」も錆びていることを露呈した。そのため旧植民地のシンガポールと旧保護国のブルネイに常駐基地を建設するための交渉を開始したが、どちらも華僑や中国人移住者が社会の中枢を占めているため実現には至っていない。そんな中でイギリス軍はオーストラリアに協同訓練の名目で地上部隊を派遣してそのまま常駐させていたようだ。
「この2人のレポートで海外でも自衛隊の勇戦が周知されて感謝しているよ」「A日新聞がアメリカやヨーロッパで自衛隊は連戦連敗、日本が無条件降伏するのは時間の問題と宣伝しているのが虚偽だと言うことを証明してくれた」「日本でもようやく自衛隊の活躍が国民に認知された」3人は腹の中で決めている方針をどちらかに言わそうと誘導したが互いに乗らなかった。そこで釜田防衛大臣が深く息を吸ってから口を開いた。
「自衛隊が救出しよう。それで多大の犠牲が出ても仕方ない。この女性にはそれだけの恩がある」「その口ぶりでは既に作戦準備を始めていますね」「まだ指揮所を出る時に統幕長(統合幕僚長)に指示しただけだが、彼のことだから作戦計画を完成させているかも知れない」立野官房長官の指摘に釜田防衛大臣が答えた時、胸の内ポケットの中でスマートホンがメールの着信を知らせた。
「来たな・・・なるほど陸空共同作戦か」釜田防衛大臣がスマートホンの画面を見ながら思わせ振りな独り言を呟くと2人はわざとソファーの背もたれに身体を預けて説明を待った。
「メールの発信地点とGPSの位置情報で所在地が確認できました。新潟市内の小学校です。ここには北朝鮮軍の派遣部隊約100名が駐屯していると確認しています」「北朝鮮の参戦は閣議で報告したかな」「私はオンライン参加なので忘れたかも知れません」「私が報告しましたが総理は興味を示しませんでしたね」釜田防衛大臣の前置きに立野官房長官が突っ込みを入れると双木外務大臣があまり好ましくないオチをつけた。最近の石田首相は疲労感が深刻で妻からも辞任を勧められているが、生前の加倍首相から「難病による健康上の理由で退陣したことは政治家として無責任だった」との後悔の弁を聞いていたので応じる気配はない。
「今夜、新発田の30普連に襲撃させて駐屯部隊を宿営地から引き離し、そこに戦闘機に援護させた航空救難隊のヘリで救助すると言う作戦です」「メッディックに戦闘救難させるんだね」釜田防衛大臣が作戦の概要を続けると元防衛大臣の双木外務大臣が補足した。航空救難員=メディックは陸上自衛隊の空挺とレンジャー、海上自衛隊の潜水の全課程を修了した超人だが、本来は脱出して戦場に落下傘降下したパイロットを救出することを任務としていて落下傘を見て捕獲に来る敵地上部隊との戦闘にも熟練している。それにしても航空救難隊のUHー60ヘリコプターには機関銃用の銃架はついているのだろうか。内局が予算化していない可能性は否定できない。
「総理の承認を得て実施することにしよう」「NATO軍の連絡事務所には・・・やはり官房長官からお願いします。私はイギリス政府に伝えます」「私は作戦準備を進めます。中央指揮所に戻っても良いでしょうか」話が決まって縮小版安全保障会議は解散になった。ところで電話一本で抜けてこられる釜田防衛大臣が閣議をオンライン参加にしていて良いのだろうか。
  1. 2023/05/28(日) 14:50:18|
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続・振り向けばイエスタディ501

それからエルトンジョン記者は嬌声を聞いて校舎から出てきた兵士たちに代わる代わる犯され、全身が精液塗れになったまま鍵がかかる1階の小部屋に拉致された。それでも脱がした衣類とセカンドバッグは中身も確認せずに投げ込んでいったのでスマートホンは手元に残った。どうやら溜まりに溜まっていた性欲が解消されて軍人としての警戒心まで緩んだようだ。どちらにしても懐中電灯も持っていない北朝鮮軍の兵士ではスマートホンを見ても使い道が判らなかったはずだ。それでも貴重品として奪われる可能性はある。北朝鮮は海外向けの報道番組では国民が最先端の電化製品を愛用している様子を紹介しているが、それは平壌市内に住むことが許される上流階級の人間とその家族に限られた話で、徴兵による兵士の供給源である農村では懐中電灯やライターも普及していないのだ。
「好かったぜ、白人女なんて我が共和国にいてはやる機会がないからな」「それでもウクライナへ征った連中は占領地で手あたり次第にやりまくったって言っていたぞ」「その分、ほとんど死んじまったじゃないか」エルトンジョン記者を閉じ込めた小部屋の扉の鍵を閉めた兵士たちは廊下で下卑た話で盛り上がっていた。ただし、エルトンジョン記者は朝鮮語が理解できないのでこの全ての女性の人格を否定する会話に憤ることはなかった。
ロシア=ソビエト連邦軍と北朝鮮+韓国=朝鮮半島軍は戦場における性犯罪においては戦史で双璧を為す凶暴な性獣の群れだ。ソビエト連邦軍はロシア革命後の内戦で皇帝側の貴族や大地主の所領を占領すると妻や娘は言うまでもなく召使や領民の女性までも毒牙にかけた。第2次世界大戦末期にベルリンに侵攻した時にも経路になったポーランドやルーマニアに始まり、ドイツ国内でも手当たり次第だった。それは満州や樺太でも踏襲されたが、幸いなことに日本国内にソビエト連邦軍は駐留しなかったので頻度は圧倒的に少ないアメリカ兵の性犯罪だけが戦後史に刻まれている。戦後も東欧の駐留ソビエト連邦軍による性犯罪は厳格な報道統制で表沙汰にならなかっただけで日常化していた。ロシアになってからもチェチェンや南オセチア、そしてウクライナでは伝統を継承していた。一方、朝鮮半島軍は応永11年と弘安4年の元寇と150年後の応永26年の対馬侵攻では沿岸の集落を襲って住民を皆殺しにしたが、女性は軍船に乗せて沖で散々に凌辱した後、海中に投げ込んで殺している。近代に入ってからも日本が敗戦すると帰国を待つ日本人の家族を襲い、朝鮮戦争では侵攻した北朝鮮軍と反攻した韓国軍が互いの占領地で性的暴行を常態化していた。それだけでなく韓国軍は自国内での共産主義者狩りで疑いを抱いた集落の住民を虐殺したが女性は凌辱した後だった。それを派遣されたベトナムでも繰り返した。2000年代のアフガニスタンとイラクでも噂はある。
「あの女、身体を洗わせた方が好くないですか、誰のか分からない精液で汚れた身体じゃあ触る気になりませんよ」「そう言いながらお前は何発やったんだ」「2発です。順番待ちでしたから。中級兵士(1等兵)は」「俺は3発だ。もう1発やりたかったんだが女が壊れる。これから慰安婦として使うって下士(3等軍曹)が止めたんだ」小部屋の前での見張りを命じられた兵士2名は猥褻な会話を楽しみながら興奮したようでロシア軍の迷彩服のズボンの股間を膨らませた。この迷彩服はウクライナ派遣でロシア軍から提供された物だ。
「そうだな・・・俺たちが洗ってやろう」「バケツで水を汲んできます」話が決まって初級兵士(2等兵)は好色そうな笑顔を浮かべながら廊下の手洗い場に向かい、流しの下に置いてあるバケツを持って玄関に設置されている貯水タンクへ歩いていった。自衛隊であれば派遣地域の電気や水道、ガス、電話などの機能回復は最優先して実施するはずだが、ロシア軍は補給以上の発想は持たず川で汲み上げた水を消毒して各宿営地に設置した貯水タンクに給水するだけだ。その給水も北朝鮮軍は後回しにされている。
「スマホの充電が終わる前に・・・取り上げられる前に連絡しなくちゃ」電気が点かない小部屋に閉じ込められているエルトンジョン記者は窓から朝の日が差し込むようになるとスマートホンを操作し始めた。窓からは校庭の隅に植えられている並木の下に放置されているマッキイトニー記者の遺骸が見える。空中で炸裂した対人地雷に吹き飛ばされた時、爆風の中にマッキイトニー記者が自分を呼ぶ声を聴いた。その声は直後に始まった数え切れないほどの凌辱とは別の引出しに記憶されている。
昨夜は水が入ったバケツを持ってきた兵士2人に全身を洗われ、そのまま性行為を強要された。女性器は擦り切れた状態になっていて前戯に反応しなかったため肛門と口を使われた。それでもバケツを置いていったので便器は確保することができた。
「私たちはロシア軍の姿を撮影しようと試みて失敗しました。マッキイトニーは北朝鮮軍が宿営している学校で対人地雷によって死亡しました。私は北朝鮮軍に拘束されて女性としての尊厳を踏み躙られています。助けて下さい」何とか送信スイッチを押すことができた。場所は不明でもスマートホンの発信位置で推定できるはずだ。
  1. 2023/05/27(土) 14:00:04|
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5月27日・人違いバラバラ殺人事件の犯人の死刑が執行された。

昭和34(1959)年の明日5月27日に仙台拘置所で普通の人には理解不能な凶悪事件=埼玉・人違いバラバラ殺人事件の古屋栄雄死刑囚の吊首刑が執行されました。34歳でした。
事件は昭和25(1950)年頃、古屋死刑囚が地元の山梨県塩山市内のダンスホールで当時19歳の女性と知り合ったことから始まりました。育ちの好い女性としては年長の男性に失礼な態度は取れず丁寧に応対しただけでしたが、古屋死刑囚はそれを「自分への好意」と思い込み、女性の家を訪れて結婚を前提にした交際を申し入れたのです。しかし、古屋死刑囚が窃盗で逮捕されて少年院に収監され、出所後も定職につかずに転職を繰り返している悪評は市内で知れ渡っていたため両親は「定職に就かなければ許す訳にはいかない」と遠回しに断りましたが、逆に「定職に就けば許してもらえる」と受け取り、上京して仕事を始めました。
それでも女性への想いだけでは性分が改まることはなく転職を繰り返すようになりまが、1年後の昭和28(1953)年に再び両親に結婚を申し入れたのです。当然、両親は断り、危険を察して女性を埼玉県在住の姉に預けましたが、古屋死刑囚は驚くべき執念で姉の住所を探り出して家へ押しかけました。姉は妹との面会を拒否する一方で交換条件として「改心したことを確かめる」と映画館での住み込みの仕事を斡旋して古屋死刑囚も就職して真面目に働き始めました。
それでも休日には女性の姿を求めて埼玉県内を徘徊するようになり、それに疲れた女性は埼玉県内だけでなく首都圏から静岡県内まで逃げ回り、やがて古屋死刑囚は「自分を待っている女性を探す旅に出る」と言い残して映画館を飛び出してしまいました。
そして4日後の昭和29(1954)年9月5日に埼玉県入間郡高階村=現在の川越市の暗い路上で出会った青年団の会合帰りの白いブラウスに黒のスカートをはいた19歳の被害者を体形が似ていると言うだけで襲い、手拭いで絞殺して遺骸を隠しました。古屋死刑囚は翌日の朝刊で人違いだったことを知りましたが、溜め込んでいた女性への鬱憤を晴らそうと女としての価値をなくすために両乳房と女性器を切り取り、自由を奪うため両足を切断し、全身をバラバラにした上で道端や畑、水田、肥え瓶に捨てて回ったのです。
これだけであれば執着気質の犯人の凶行として報じられることがありますが、古屋死刑囚は法廷においても犯行を重ねました。女性は浦和地方裁判所の一審に証人として出廷して古屋死刑囚との関係を全面的に否定しましたが判決は無期懲役でした。検察側が量刑不当と控訴した東京高等裁判所での2審の昭和31(1956)年8月20日の最終尋問で証言を終えた女性に被告人席から駆け寄り、胸を蝿叩きの柄を折って削った竹べらで刺して全治2週間の重傷を負わせたのです。この法廷内の傷害事件を受けて東京高等裁判所は死刑判決を下し、最高裁判所も昭和32(1957)年7月19日に上告を棄却して死刑が確定しました。
刑の執行を待つ仙台拘置所でも古屋死刑囚は被害者を弔い。反省の弁を口にすることはなく看守相手に女性の自慢話を延々と続けて辟易させていたそうです。
  1. 2023/05/26(金) 15:09:38|
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続・振り向けばイエスタディ500

「もうすぐ新潟ね」「意外に遠かったな。燃料が心配だ」「でも風景が綺麗だったから戦場取材なのを忘れて楽しんじゃったわ」富士普通科教導連隊による波状攻撃で柏崎市のロシア軍が甚大な損害を出しているとのレポートをイギリスのブリティッシュ・ライフ紙の編集部に送ったマッキイトニー記者とエルトンジョン記者はロシア軍の別動部隊が旧式揚陸艦で着岸・上陸した上越市と主力部隊が柏崎市から北上し、同時に新潟空港に輸送機で兵員と装備を空輸している新潟市のどちらを取材するかを話し合った結果、侵攻直前に弾道ミサイルを射ち込まれている新潟市を選択した。しかし、山形県との県境から富山県まで330キロある新潟県の中央に位置する柏崎市からではどちらも100キロ近い道程になる。それでも海岸沿いの道路からの本海と佐渡島の眺望は素晴らしく日本人であれば「荒海や 佐渡に横たふ 天の河」と芭蕉を気取るところだが2人は予習不足だった。したがって途中にある戊辰戦争で家老・河井継之助の揮の下、毛利藩の奇兵隊を壊滅させた長岡市を素通りしたが、薩長土肥軍をロシア軍、長岡藩軍を陸上自衛隊になぞらえた格調高い記事を書き損なってしまった。
「あれは墜落した輸送機じゃあないか」「この位置だと新潟空港に着陸するところだったのね」「離陸したのかも知れないぞ」前方に新潟市の中心部のビル群が遠望できるようになった緩やかな丘陵の住宅地に大きな尾翼が直立し、爆発で吹き飛ばされたのか周囲の家がなくなっているのが見えた。新潟空港の滑走路は海岸線に沿って東西に延びているのでこの位置で墜落したのは西風に向かって着陸していたのか、東風に向かって離陸したのかは判らない。
「これもジエータイが撃墜したようだな。回避行動を取ったから地上に落ちたんだ」住宅地の一角は家屋がなぎ倒され、大規模な火災が発生したようで広範囲が消失して、その中央に黒焦げになった中型輸送機が残骸を晒していた。軍用輸送機は後部ドアを開放するため水平尾翼=エレベーターは垂直尾翼=ラダーの上部に設置されるので墜落後に尾翼が立っていることは珍しいが機体の後部が折れて地面にめり込んでいた。
「住民は避難しているから無事だったんだろうけど焼失した家屋は50軒を超えてるわ」「新潟で戦ってるジエータイは・・・歩兵30連隊だったな」ロシア軍も墜落した現場の片づけは実施したようで機体の残骸と廃墟となった住宅の廃材以外は残っていないことを確認するとエルトンジョン記者はマッキイトニー記者が手渡したカメラの画像を見ながら記事を打ち始めた。
イギリスでは2人の記事を掲載したブリティッシュ・ライフ紙は評判を呼び、駅や街角の売店では完売が続出しているそうだ。また国民の間では「アメリカが日米安全保障条約を発動しないのであれば代わってイギリスが軍を派遣するべきだ」と言う参戦論が起き始めているらしい。確かにエルトンジョン記者は今回の軍事侵攻を「第2次日露戦争」と表現しているので開戦前夜にイギリスが「名誉ある孤立」を捨てて締結した日英同盟の再現を考える国民がいても不思議はない。イギリスがアジアの小国・日本と対等同盟を結んだのは義和団事変で日本軍派遣隊の勇戦と規律を目の当たりにしたからだが今回はPKOがそれに当たる。
日没を待って新潟市内に潜入した2人はロシア軍の姿を撮影しようと建物の灯かりを目印にして歩き回っていた。。市民不在で送電も止まっている市内で照明を使っているのはロシア軍しかいない。ようやく見つけた宿営地にしている学校でマッキイトニー記者は望遠レンズで窓越しに室内のロシア兵を撮影したが、軍用自家発電機の電力では照明が暗く人影にしかならなかった。そこでマッキイトニー記者は校庭に入って校舎に接近した。エルトンジョン記者は距離を置いて後に続いたが、突然、空中でオレンジ色の閃光が起こり、爆発音が響いた。
「オリビアァ」エルトンジョン記者には吹き飛ばされるマッキイトニー記者が名を呼ぶ絶叫が聞えた。これは対人地雷が作動したのだ。ロシア軍はウクライナでも対人地雷・POM3を使用したが、踏まなくても振動に反応して爆発物が空中に射出されて16メートル内にいる人間を殺傷する威力がある。ロシアは1997年12月3日にオタワで調0印された「対人地雷の使用、貯蔵、生産及び移譲の禁止並びに廃棄に関する条約」には署名していないが、イギリスは国王の死んだ前妻が廃棄運動に熱心だったこともあり加盟している。
「誰だ、死んだのは」「日軍(=自衛隊)か、馬鹿な奴だ」そこに10数人の人影が建物から出てきた。誰も懐中電灯は使っていない。その言葉はロシア語ではなくアジアの言語だった。
「どうやら8番みたいだ」「あった、ここに転がってるぞ」人影の兵士は倒れているマッキイトニー記者を見つけると頭を足で蹴って生死を確かめた。エルトンジョン記者は対人地雷が仕掛けられている以上、逃げることもできずに暗い影に身を潜めていた。
「もう1人いるぞ」「ウオーッ、女だ」それも徒労だった。兵士は体臭を探るように鼻を鳴らしながら近づき、エルトンジョン記者に気がつくとマッチを擦った光で確認した。
そこから先は毎度恒例の凌辱が始まったが、兵士たちは「日本へ行けば女は姦り放題、美味い物は喰い放題だって言ったのにこれだけかよ」「でも日本女じゃあなくて金髪だぞ」と朝鮮語で言い合っていた。その夜からオリビア・エルトンジョン記者は従軍慰安婦になってしまった。
  1. 2023/05/26(金) 15:08:20|
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続・振り向けばイエスタディ499

「イギリスの新聞が新潟での戦況を詳しく報じました。この新聞、ブリティッシュ・ライフはイギリスでもあまり発行数が多くないマイナーな存在ですが、今回の特集記事が噂で広まるとコンビニや街角の売店で購入する人が急増して完売になったそうです。イギリス人が日本の戦況を注視していることが分かりました」イギリスの話題を現地支局が8時間の時差がある日本に送り、編集部の採用・無視の審査を経てニュースになるまでは普通丸1日かかる。イギリスの夕方は日本の深夜であり、朝刊、朝のニュースには間に合わないのだ。ところが国営放送は朝のニュースで取り上げて記事の内容まで流した。やはり視聴者からの要求と苦情が殺到している事態に対する解答として異例に迅速に対応したようだ。
「最初にお断りしておきますと国営放送ではブリティッシュ・ライフ社に紙面を放送で使用する許可を得ています」この説明はいかにも国営放送らしいが、事細かに著作権に厳格なヨーロッパが絡むので必要な手順なのだろう。
「この記事によれば陸上自衛隊は新潟県柏崎市の海岸に上陸して占領したロシア軍に攻撃を加えて現地で取材している記者が実際に確認しただけでも戦車25両、自走榴弾砲8両、人員輸送用装甲車24両を破壊したようです。その破壊された車両の写真も掲載されています」画面の半分に表示した紙面の写真を示しながら説明する女性アナウンサーは英語が堪能らしく、記事の文章に意識が引っ掛かって言葉が途切れていた。
「また記者は戦死したアジア人の兵士の遺体を見つけたそうです。国籍については不明とのことなので遺体の写真を含めて紹介を控えます」戦場の報道でも視聴者がPTSD=心的外傷後ストレス症候群を発症することに配慮するようで画面の紙面も全体に隠蔽措置が入った。
「記者はロシア軍が破壊したと発表している刈羽原原発の現在の様子も確認しています。建屋は砲撃で破壊されていても露出した原子炉などは無傷で、ガイガー・カウンターでも異常な数値は検知しなかったようです」「刈羽原原発は中越地震でも建物や原子炉に被害を受けませんでしたから砲撃にも耐えたのでしょう。何よりも若狭湾の原発群が北朝鮮は人工衛星の発射失敗と説明しているロケットの落下で破壊された時、日本海側の原発を機能停止にしていますから核燃料は注入されていなかったようです」「これは安心できますね」戦況ではなく原子炉の破壊による放射能漏れの話題になって解説者が加わってきた。女性アナウンサーも安堵の笑顔を演じながら同調したが、日本の領土を占領しているロシア軍に自衛隊が一矢報いていることよりも東京に波及する可能性が低い放射能漏れの方が重大事らしい。そう言えば国営放送に限らず最近の新聞やテレビではロシア軍の上陸によって日本最大の穀倉地帯である新潟の米の収穫量が半減したため首都圏の米価が高騰していることと馬鈴薯と玉蜀黍(トウモロコシ)の産地の北海道東部の住民が強制避難したので秋の味覚が楽しめないと言う市民の不満を大々的に報じている。東北地区太平洋沖地震では他の話題を放送することが不謹慎であるかのように海外のニュースまで遮断していたマスコミが今では国民の関心を国土防衛の戦闘から逸らさせることに躍起になっている。日本国においては平和憲法が禁じている戦争が起こるはずがなく、現在の事態はあくまでも不法侵入者の武器使用の犯罪行為であって警察と海上保安庁、治安出動・海上における警備行動・対領空侵犯措置行動で対応している自衛隊の仕事であって国民には関係ないと言うのが最近の論調だ。
「このイギリス人の記者は政府が雇ったんじゃあないですか」「いいえ、正規の手続きを踏んで業務目的で入国していますが政府は関与していません」国営放送のニュースは日本でも大反響を起こし、一切報じなかった民間放送に抗議の電話とメールが殺到して対応に苦慮していた。このため最近は白けた空気が充満している立野官房長官の定例記者会見でもテレビ局の記者が今にも飛び掛かりそうな態度で追及していた。民間放送の海外支局の多くは系列新聞社が兼務していて大手ではないブリティッシュ・ライフ紙の朝刊は確認していなかった。その点、国営放送は在イギリス日本大使館から情報提供を受け、朝刊を購入して記事を通読した段階から日本の放送センター=本部の報道部に連絡を取り、ニュースで取り上げる準備を進めていたのだ。イギリス市民の反応は後づけの情報だった。
「この記事の信憑性は・・・政府は内容を認めるんですね」「戦況に関しては防衛秘密に該当しますからこれまで通り回答は控えますが、この写真は背景から新潟県内で撮影されたのは間違いなく、破壊されているの・はロシア軍の軍用装甲車両であり、台数も記事にある通り57両分の写真が掲載されています」「・・・江藤と安野の奴ら、下手を打ちやがったな」立野官房長官の回答が事実上の肯定になると記者席の新聞記者が苦々しげに独り言を呟いた。戦場化している新潟県内に自社の記者を派遣できない新聞社は世界各地の紛争地帯に潜入して惨状を撮影してくるフリー・ジャーナリストの江藤健三と安野俊平を高額の報酬で雇っていた。2人がメールで送ってくる写真と現地レポートで記事を作ってきたが今回、それが致命的な誤報であることが明らかになった。その2人は帰京予定日になっても姿を見せず連絡もつかない。
  1. 2023/05/25(木) 15:14:44|
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5月25日・日露地上戦の2回戦・金州南山の戦いが始まった。

明治37(1904)年の明日5月25日から26日に日露戦争の地上戦の2回戦として遼東半島に上陸した第2軍による金州の南山陣地の攻城戦が行われました。
奥保鞏大将が率いる第2軍は4月30日から5月1日の渡河戦で朝鮮と満州の国境・鴨緑江を突破して北上する黒木為楨大将の第1軍と満州南部のロシア軍を挟撃するため5月5日に遼東半島の西側に上陸して準備を整えると5月15日にロシア軍が構築していた旅順要塞を素通りして遼東半島の幅が狭くなっている付け根の金州に向かい、5月25日にロシア軍が立て籠もる金州城と南山陣地の攻撃を開始しました。
南山陣地は大量のコンクリートで固めた構造物やトンネルによる連絡路などヨーロッパの最新の土木建築技術を結集した旅順要塞ほどではなかったものの1914年に始まる第1次世界大戦で展開された塹壕戦の萌芽とも言うべき近代的陣地で山の稜線に沿って壕を掘り、その前には鉄条網を張り巡らせて歩兵の突入を阻止し、さらに一部は鴨緑江の会戦で使用された機関銃を本格的に配置して日本軍を待ち構えていました。一方、日本陸軍は歴戦の名将といえども奥大将はヨーロッパに留学しておらず、海外経験は明治27(1894)年の2月から9月のヨーロッパ視察と明治35(1902)年の9月から翌年3月までイギリス領インドに出張したたけなので塹壕や機関銃を用いた最新の戦術に関する十分な知識は有しておらず、塹壕の構築に当たった中国人工夫から陣地の構造を聞き出して海軍に艦砲による援護射撃を要請するに留まりました。
そうして始まった南山攻城戦では日の出を待って沖の艦隊が艦砲射撃を加え、それを援護として攻撃を開始しましたが、艦砲では鉄条網が破壊し切れず何よりも壕の中に入れて守っていた機関銃が火を噴くと日本兵は次々に倒れ、ロシア軍35755人に対して日本軍約2万人の戦力差がありながら甚大な損害を出し、翌日の早朝に金州城の城門を爆破して占領しても南山陣地の抵抗は続き、9時に総攻撃を開始してから10時間後にロシア軍が旅順要塞に向けて撤退したため19時30分になってようやく占領したのです。
この幅5キロの陣地を攻略するのに日本軍は4387人の死傷者を出しました。この戦死者の中には乃木希典愚将の長男・勝典中尉も含まれますが、腹部に大穴が開いた即死状態でも野戦病院で手術を受けたそうなので第2軍軍医部長だった森林太郎(=鷗外)軍医監の執刀だったのかも知れません。ちなみに乃木愚将は漢詩の才以外は完全な劣等生で勝典中尉もその遺伝子を濃厚に受け継いでいた上、病弱だったので父親と同様に山口県陸軍閥の人脈がなければ陸軍士官学校には入れなかったと言われています。次男の保典少尉は6か月後に203高地で戦死しています。息子2人を戦死させたことで乃木愚将は悲劇の名将になってしまいました。
満州軍はこの想定外の大損害に近代陣地戦の危うさを痛感してシベリア鉄道で大量に運び込まれた土木資材で堅牢なことは承知している旅順要塞については遼東半島の補給路を遮断する兵糧攻めを採用しましたが、旅順軍港に逃げ込んだロシア軍太平洋艦隊が動かないため海軍に砲撃による撃沈を頼まれて乃木愚将を第3軍司令官に登板させて旅順要塞を攻撃させる羽目になり、日露戦争の全戦死者(戦傷死も含む)55655人の3分の1に当たる15400人を失いました。
  1. 2023/05/24(水) 14:37:33|
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続・振り向けばイエスタディ498

2人は日没を待って月明りだけを頼りに山側の道路で市街地を迂回して海岸沿いにある刈羽原原子力発電所が見える集落に潜入した。ここまで通過してきた集落にはロシア軍が配置されていてエンジン音を聞かれない距離を取って迂回したが、この集落は放射能を警戒したのか主要幹線の入り口に戦車が駐車している以外は灯りが点いた建物は見当たらない。勿論、マッキイトニー記者はガイガー・カウンターで放射線量を測定しているが健康を害するような異常な数値は検知していない。
「この家も略奪を受けてるな」「家電製品や調度品は何も残ってないわ。壁に掛けてあった絵も奪われてる」2人は集落でも奥まった場所にある目立たない民家でイギリスから持ってきた放射線を遮断する防護衣を着て仮眠することにした。この防護衣は保温性が高いのでこの季節の日本の気温であれば寝袋や毛布の代用になる。それでも集落の家屋は全て窓を破られ、室内は物色と略奪を受けて床には金にならない雑貨が散らばっていた。この民家の居間の壁に額の大きさの変色があるのは絵画も持ち去ったと言うことだ。その割に眠ることにした座敷の床の間の由緒がありそうな掛け軸は放置してある。どう考えても居間に掛けてある模造画よりも骨董価値は高そうだがロシアや北朝鮮には「何でも鑑定団」はないようだ。
「あの原発を砲撃したのね」「ウクライナのザポロジエであれだけ批判を受けたのに全く懲りてないな」「多分、ジエータイが反撃してくれば原子炉を破壊するって脅すつもりなのよ」翌朝、割れた窓越しの朝の日差しと冷気で目を覚ました2人は家屋の横に隠しておいた原付バイクを手で押して集落の海岸側に出てみた。エンジンをかけるのは集落が無人なのを確認してからだ。戦車のエンジン音とキャタピラの軋みは聞いていないので集落の両端に駐車したままらしい。歩哨を戦車で配置しているのは兵士の放射線による健康被害を避けるためとも考えられるがロシア軍がそのような人道的配慮をするとは思われず単に自衛隊の攻撃を警戒しているのだろう。ウクライナよりもアフガニスタンの戦訓の方が深刻なのだ。
「原発の写真を撮ったら第1報を編集部に送ろう」「それじゃあ記事を書くわ」エルトンジョン記者としてはウクライナの取材で見てきた廃炉になったチェルノブイリやロシア軍に占領されていたザポロジエ原子発電所と刈羽原原子発電所の破壊を見比べたいところだが、これ以上の接近は放射能だけでなく重点監視しているロシア軍に発見される危険性が高くなるのは判っている。しかし、胸の中では原子力発電所を核兵器に替わる放射能兵器とするロシアの人類に対する罪を世界に周知するため一歩でも近づいてより詳細な実情を確認したいと言うジャーナリストとしての使命感と呼ぶような綺麗ごとではなく好奇心=本能が沸き立っていた。
「私たちは日本の自衛隊の協力で戦場となっている新潟県でも主力部隊が上陸した柏崎市に潜入しています」エルトンジョン記者はマッキイトニー記者のデジタル・カメラの画像を見ながらスマートホンに文章を打ち込んだ。最初は大清水トンネル内のストロボで照らされた範囲の前後とも丸い天井と線路しか見えない殺風景な画像からだった。それでも22キロ以上歩くほかにやることがなかったので同じ写真が数枚ある。その後は出口付近に設置してあった指向式散弾地雷・クレイモアを撮影していた。マッキイトニー記者は「スイス軍が戦時にはトンネルや谷に架かる橋を破壊するための爆薬を設置しているのに比べて甘い」と冷笑していたが、自衛隊の勇戦の跡を目の当たりにして考えが変わったはずだ。
「柏崎市周辺では自衛隊によって破壊されたロシア軍の装甲戦闘車両が私たちが確認しただけでも50両以上ありました。写真番号18から82と90から132」バイクで走って行って最初に戦車を見つけた時にはヨーロッパで日本のマスコミが流布している自衛隊の劣勢・敗走と言う報道を否定するスクープだと思ってマッキイトニー記者も張り切って写真を撮ったが、柏崎市に近づくにつれて何両も目にするようになり、次第に車種が判るように全体と対戦車ミサイルが命中した弾孔、そして上部ハッチから見た内部の3枚だけになり、最後には充電とメモリー・カードを節約するために全体の1枚だけになってしまった。
「この遺骸は明らかにアジア人です。それまでロシア兵の遺骸は見ませんでしたが、この遺骸だけは放置されていることからウクライナと同様に北朝鮮軍ではないかと思われます。写真番号83から89」マッキイトニー記者は遺骸を引き上げて顔を撮影しようとしたのだが、そこにドローンのエンジン音が聞えたため退避を優先した。
「民家では略奪が横行しています。写真番号140から160」「ロシア軍は柏崎市内にある刈羽原原子力発電所を砲撃で破壊したと発表しましたが、私たちが望遠レンズで確認したところでは建屋は破壊されているものの露出している原子炉は無事でガイガー・カウンターでも健康被害を受けるような数値は検知されていません。現時点の数値は・・・」日本とイギリスの時差は8時間なのでロンドンでは午後11時になる。編集部の宿直の記者が頑張れば朝刊に間に合うはずだ。日本のマスコミにも届けたいが自国よりも中国やロシアの詭弁・虚言の代弁者になっている報道姿勢が信用できなくなった。
  1. 2023/05/24(水) 14:36:05|
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続・振り向けばイエスタディ497

「あそこにも破壊された戦車があるわ」「これで32両目だな。やはりジエータイはかなり戦果を上げてるぞ」原付バイクで南魚沼市から魚沼市を抜けて柏崎市に向かったブリティッシュ・ライフ紙のマッキイトニー記者とエルトンジョン記者は沿道や宿営地だったと思われる施設の駐車場で擱座しているロシア軍の戦車や自走榴弾砲、装甲車などを撮影しながら前進を続けた。富士普通科教導連隊で住民が残していった原付バイクをもらった時、連絡用として使うために確保している混合燃料を分けてもらったので走行距離に不安はない。
それにしてもÅ日新聞を中心とする日本のマスコミが海外に発信している戦況によれば陸上自衛隊が装備で勝る北海道では一進一退の攻防戦が続いているものの新潟では頑強な装甲車両に打つ手がなく縦横無尽に蹂躙されているはずだった。ところが実際は携帯式対戦車ミサイルで破壊された装甲車両が各地に無残な骸(むくろ)を晒し、兵士の姿を見ることはなく占領が進んでいないのは明らかだった。
「ウクライナでも戦車の墓場と呼ばれる道路があったがジエータイの命中精度はあれ以上だな。外れたミサイルで破壊された痕跡が見当たらない」「私は地獄への回廊って聞いたわ・・・ジエータイは全員が教育用ビデオの出演者みたいに動作するってPKOで一緒になった陸軍の士官に聞いたことがあるから教科書通りに狙って射って命中させるんでしょう」マッキイトニー記者の見解にエルトンジョン記者は先ず自分の知識を投げ返し、続いて回答を渡した。
日米協同訓練でアメリカ軍は自衛隊の火砲の進入から設置、発射準備、そして発射までの一連の動作が全て教育用ビデオや教範の写真通りであることに感心して兵士の前での展示を要請することがよくあるが、それはPKOなどで一緒になった外国軍も同様で「自衛隊の宿営地の個人テントの紐は横からは1本に見える」「自衛隊の駐車場ではバンパーが一直線になっている」「電話は必ず左手で取って右手はペンを持ってメモの準備をする」「酒席は全員の乾杯で始まり、乾杯で終わる」などの目撃談が教訓として広まっている。
「この遺体はアジア人ね。ジエータイかしら」「迷彩服が違うぞ・・・ロシア軍だ」2人が前後に十分な距離を取りながら広大な水田の中の農道を走っていくと水路に兵士のうつ伏せの遺骸が浮かんでいた。先に見つけたマッキイトニー記者が写真を撮っていると追いついたエルトンジョン記者がバイクを止めて覗き込んだ。遺骸は至近距離での銃撃戦で戦死したようで背中には銃弾が貫通した穴が複数開いている。それでも水に漬かっているため血痕は流れ落ちていた。後頭部の髪は黒く、細身の体型から見てアジア人だ。
「ロシアはウクライナでもシベリア鉄道で北朝鮮の兵士を動員したから今回も補充に使ったんだろう」「北朝鮮からラジオストックは近いから移動は簡単ね。今のロシア軍に日本に侵攻する兵力が残っているはずがないって言うのがNATO軍内の疑問だけど北朝鮮が供給源だったのね」ここまで見てきた破壊された戦車や自走榴弾砲、装甲車にロシア兵の遺骸は残されていなかった。結局、ロシア軍はウクライナでも粗食に耐えて戦闘を遂行し、人とは思えない残忍な手段で多くの将兵と市民を殺害した北朝鮮の兵士を同盟軍とは見ていないようだ。
「エンジン音がする。ドローンじゃあないか」「隠れないと・・・バイクをどうしよう」その時、この時期には珍しく綺麗に晴れ上がった空から軽いエンジン音が聞こえてきた。この時間帯は夜襲を専らにする陸上自衛隊の活動時間ではないが、この場所で飛んでいる無人機はロシア軍の監視用と見るのが常識だ。2人が周囲を見回すと遠い空に黒い点がユックリと飛んでいるのが目に入った。この距離ならまだ監視カメラの視界は届かない。地上に目をやると幅が広い畔に農家が何に使うか分からない竹竿を入れている長い倉庫が見えた。
「あそこだ」「うん」マッキイトニー記者が声をかけるとエルトンジョン記者が先にバイクを発進させた。エンジンを止めていなかったので走り出せば早い。数十秒で倉庫に着くとバイクを竹竿の上に倒して引き入れ、低いトタン屋根の下に身を隠した。マッキイトニー記者はエルトンジョン記者の上に覆い被さり、発見されても1人であるかのように偽装した。
「危ないところだったな」「うん・・・」トタン1枚の屋根と壁越しにエンジン音が聞こえなくなると2人は安堵の溜息をついた。今までもアフガニスタンやイラク、シリア、ヨーロッパ各地のテロ、そしてウクライナ、スーダンへの戦場取材に同行してお互いにジャーナリストとして敬意を抱き、職務上の戦友だと思っている。勿論、戦場を離れて緊張感から解放された時には生命を保持している至福が快楽を求め、激しく抱き合って肉欲に溺れることもある。しかし、ここ新潟は今まで経験してきた「死」に覆い尽くされた戦場とは全く違う。広大な平野が定規を当てて線を引いたような水田で区切られ、刈り入れを終えた稲の根元の蕪(かぶ)から伸びた茎で緑色に染まった長閑な風景に静かな風が吹き抜けていく。ここまで来るまでも幾つかの破壊された建物や戦車の無限軌道(キャタピラ)に踏み荒らされた水田を見てきたが、それは風景画の描き損じに過ぎなかった。そう言えば先ほど会ったこの激戦を遂行しているはずの陸上自衛隊の隊員たちにも殺気を感じなかった。不思議な軍隊で戦場だ。
  1. 2023/05/23(火) 15:35:59|
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5月23日・海軍軍人の言語・民俗学者・松岡静雄大佐の命日

昭和11(1936)年の明日5月23日は海軍軍人としての経験で実兄の日本民俗学の父・柳田国男先生とは同じで違う民俗学を探究した松岡静雄大佐の命日です。58歳でした。
松岡大佐は明治11(1878)年に兵庫県神東郡田原村=現在の神崎郡神崎町の儒者の家の7男として生まれました(柳田先生は6男です)。母親は出産間際、軍旗や軍艦旗のように夕日の周りに光線が伸びる夢を見たため「この子は軍人になりそうだ」と予言したそうですが松岡大佐の人生と学究を見ると海軍に在籍した11年間は必要な遠回りだったようです。
幼い頃から頭脳明晰で4歳の頃には百人一首を暗記して、尋常小学校に入学すると「習うことがない」と登校拒否、旧制・中学校も2か月中退して家で独学で漢文を勉強していましたが日清戦争が始まると海軍軍人を志すようになり、数学と物理学の本を買って受験勉強を始めて当時は東京帝国大学、陸軍士官学校と並ぶ難関校だった海軍兵学校25期に合格しました。同期には昭和の陛下の信頼が最も厚かった側近の山梨勝之進大将や真珠湾攻撃の50分後に最後通牒を手渡す最悪の役柄を演じることになった野村吉三郎大将、最後まで親英派を貫いた鳥巣玉樹中将などがいました。そんな海軍兵学校でも退屈だったようで座学では常に居眠りしていて、寝返りを打って机ごと倒れることもあったそうですが首席で卒業しています。
日清戦争後はドイツに発注・建造させた装甲巡洋艦・出雲の回航要員として出張するなど航海科士官として乗務して日露戦争・日本海海戦では3等巡洋艦・千代田の航海長として集中弾を浴びていた艦を卓越した操舵で救いました。少佐に昇任した明治40(1907)年には海軍兵学校の教官に着任しましたが、温厚なことで有名な校長の島村速雄少将(日露戦争初期の連合艦隊参謀長)に「頭が良いことを鼻にかけるな」と一喝されたそう。
明治42(1909)年からは同期の中では最初にオーストリア=ハンガリーの駐在武官として赴任し、大正3年8月15日に日本が第1次世界大戦に参戦すると中国の青島軍港から逃亡したドイツ艦隊を捕獲するため南太平洋諸島の植民地に派遣され、ここで陸戦隊を指揮して上陸し、守備隊長として占領したことで兄・柳田先生と同じ民俗学の探究心が芽生えたのです。
続いて臨時南洋群島防備隊参謀として残留することを命ぜられましたが体調不良で帰国することになり、海軍省文庫主管として第1次世界大戦史の編纂に当たりながら研究に着手すると
大正4(1915)年に「椰子栽培法」と「送仮字法」、大正6(1917)年に「南溟の秘密」、大正7(1918)年に「和蘭語文典(オランダの植民地だったニューギニアの言語も網羅していた)」を出版しながら大佐で予備役編入を希望し、「蘭和辞典(同前)」を出版した大正10(1921)年に41歳で退役しました。
退役後は現在の神奈川県藤沢市鵠沼に転居して「神楽舎(ささるのや)」を結び、立て続けに「太平洋民族誌」「日本言語学」「チョモロゴ語の研究」「日本古俗史」「播磨風土記物語」「ミクロネシア民族誌」「民俗学から見た東歌と防人歌」「常陸風土記物語」などの言語学と民俗学の学術書を出版する一方でニューギニアの近代化を進めるためにオランダとの共同事業に着手しましたが力尽きてしまいました。
  1. 2023/05/22(月) 15:38:03|
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続・振り向けばイエスタディ496

「本当に長かった。ドーバー海峡トンネルに入ったのかと思ったよ」「あのトンネルは何キロあるんですか」安川1尉は新幹線側の県境監視所にジープを向かわせてトンネルの出口で拘束したイギリス人のプレス(マスコミ関係者)と名乗る2人を湯沢町の宿営地に連れてきた。
先ずパスポートと身分証明書を再確認すると身分証明書は多くの紛争地帯で使われたことを物語るようにビニール・コーテイングに折れ目が入り、汚れが染み込んでいた。続いて質疑応答に移ると2人は今は終点になっている高崎駅まで上越新幹線、そこから上越線の終点の水上駅まで来て人目につかない山間部で新幹線の線路に登ったと言う。したがって世界13位、日本4位の長さを持つ大清水トンネルを歩いて抜けて出口の監視所で見つかったようだ。
「大清水トンネルは22.2キロのはずだよ。それでも第1と第2の湯原トンネルと月夜野トンネルとシェルターでつながってるから31キロになるかな」「ドーバー海峡トンネルは全長50.5キロ、海底部は37.9キロだから勝ってるな」「それでも日本の青函トンネルは53.9キロだから負けてるわ」流石にマスコミ関係者の雑学の知識は自衛官とは比べ物にならない。対抗できるとすれば久居駐屯地の教育隊の精神教育で古今東西の軍事知識を習ったモリヤ中隊長くらいだ。
「その青函トンネルも2016年にスイスのコッタルド・ベース・トンネルの57キロに抜かれただろう」「その前にスイスのシンプロントン・トンネルの19.8キロは抜いたのにね」やはりこの2人もヨーロッパ至上主義に毒されているらしい。安川1尉としてはどこからか潜入して虚偽の報道を続ける日本人のフリー・ジャーナリストに対抗して真実の戦況を伝えることを期待して2人の越境を許可し、可能な範囲の支援を約束したのだが、あまり期待はできない。
「こちらはイギリスのブリティッシュ・ライフ紙のポール・マッキイトニー記者とオリビア・エルトンジョン記者です」「副連隊長の加藤2佐です。ようこそ新潟県へ、危険を冒して現地取材に臨む使命感に心から敬意を表します」安川1尉は簡単な質疑応答の後、南魚沼市の富士普通科教導連隊指揮所に連れて行って連隊首脳に引き合わせた。流石に普通科教導連隊にはアメリカ留学を経験している隊員が多く、キャンプ富士のアメリカ海兵隊と日常的に交流しているため本格的な発音には感心してしまうが相手はイギリス英語=クイーンズ・イングリッシュだ。流暢な分、かえって品格が落ちるかも知れない。
「それで君たちの取材目的は何だね」「日本が軍事侵略を受けているニュースはヨーロッパでもロシアが参戦したことで関心が高まっていますが、日本のマスコミがジエータイの劣勢ばかりを報じているので真実を取材したいと考えました」「ヨーロッパの主要国の軍はPKOなどでジエータイと一緒に働いた経験があって実力は熟知しています。仮にジエータイが日本のマスコミが言うとおりに失敗と敗北を続けているのなら原因を知りたいと思います」2人と連隊首脳の対話を1歩後ろで聞いている安川1尉は安堵して溜息をついた。
県境に配置されているクレージー13は食料や必要品の補給を受けつけているのでトラックの運転手が気を利かせて新聞を手渡してくれる。すると記事の大半は自衛隊の作戦の失敗と敗北の説明ばかりで見覚えがある東北地区太平洋沖地震の津波で破壊された市街地の写真が甚大な損害として流用されていた。最近は潜入したフリー・ジャーナリストの現地取材の記事も載るようになっているが文章は完全に虚偽で、ここまで圧勝しているロシア軍が本格進攻を開始しないのが不思議になる。日本人よりも軍事知識を有するヨーロッパ人であれば尚更だろう。
「分かりました。通過を許可します。ただし、貴方たちは覚悟の上でしょうが念のために補足すれば当方は安全を保障できません」「オフ・コース(勿論)」副連隊長の言葉に2人は声を揃えて返事した。そのエルトンジョン記者の毅然とした横顔を隊員たちは黙って見惚れていた。
「護身のために拳銃を1丁ずつ渡しましょう。これは自衛隊の物ではなく移動中に銃撃してきた在日中国人を射殺した時に押収した員数外です」「いいえ、結構です。プレス(報道関係者)は例え護身用でも武器を携帯することはできないのです。逆に戦場で武器ではなくカメラを持ち歩いていることがプレスのIDカードになります」連隊1科長の厚意の申し出をマッキイトニー記者は拒否した。戦場では望遠レンズを装着したカメラを火砲と誤認されて銃撃を受けて生命を落とすマスコミ関係者が少なくないが、彼らにとってはカメラこそが戦争の真実を暴く武器であって兵士が銃口を向けてくるのは応戦に過ぎない。
「それでは防弾チョッキとヘルメットを貸与しましょう。帰る時に検問所で歩哨に渡してもらえば結構です」「携帯食も持てるだけどうぞ」「住民が置いていったバイクや自転車も良いんじゃないですか」拒否されて無意識に後退さりした1科長の隣から別の科長たちが厚意の押し売りを始めた。戦場に派遣されて以来、生身の女性を見るのは久しぶりで、それが金髪の知性派美女となれば少年のように胸が高鳴っても仕方ない。しかし、それは新潟県内で待つロシア兵たちも同じで、むしろ世界各地の戦場で性野獣と化して多くの女性たちを凌辱してきた前科を思えば本人が「覚悟の上だ」と言っても男性として引き留めるべきだ。それでも2人は迷彩の防弾チョッキとヘルメットを着用してカゴに携帯食を詰め込んだ原付バイクで出発した。
  1. 2023/05/22(月) 15:36:40|
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5月22日・日本で初めてビルの爆破解体が行われた。

1992年の明日5月22日に滋賀県大津市木の岡(このおか)町にあった木の岡レイクサイドビルが鉄筋コンクリート製の高層建築物=いわゆるビルディングとしては日本で初めて爆破によって解体されました。
古くから鉄筋コンクリート製の高層ビルディングを建築してきた欧米では老朽化したビルディングを機械と人力で解体するよりも安価で迅速な爆破解体が採用されていました。当初は大量の爆薬をビルディング全体にしかけて文字通り木っ端微塵に吹き飛ばす荒技が用いられていましたが大音響と地響き、巨大な建物が砕け散る迫力が人気を呼んで多くの観客が周囲に集まるようになると破片の飛散距離が予測できないため死傷者を出す事故が続発してその補償金が経費に加算される悪循環が発生しました。そこで解体を請け負う業者が研究と実験を重ねた結果、事前に壁の一部を崩して鉄筋を切断し、各階の強度を担っている床材と柱を部分的に破壊して建物の自重で内側に崩れ込む破壊方法を開発したのです。
すると建物が閃光と爆風を上げて砕け散った後には千切れなかった鉄筋が人間の骨格のように残るこれまでの方式と違い、立ち上る土煙の中でビルディングが背丈を縮めて沈んでいくような光景が妙にユーモラスで、安全性が高まったこともあってかえって見学者が増加してアメリカでは旅行社がツアーを組むほど人気のイベントになりました。当然、日本でも海外の面白映像として紹介されると怪獣映画や特撮ドラマでは定番のビルディングの破壊の実写版として評判になり、やがて三田工業やスバル・レオーネのCMに採用されると「日本でも本物を見たい」と言う声が広まっていったのです(当時はインターネットがないので口コミ)。しかし、日本では火薬の取り扱いが厳格な上、地震が多発するため建物の強度が海外とは比べ物にならず、おまけに市街地ではビルディングが密集していて爆破解体は困難でした。
そんな中、日本でも1985年のつくば科学博の国際連合平和館のワイヤーで補強した巨大なコンクリート製ドームを1986年3月に爆破解体しましたが、博覧会跡地に一般市民は立ち入ることができずニュースでも取り上げられないまま終わりました。
ところが大阪万国博覧会による集客を狙った観光・ホテルとして1968年に着工しながら資金難によって中断したまま放置されて廃墟となっていた前述の木の岡レイクサイドビルの敷地を京都の業者が買い取り、建物を解体・撤去してリゾート施設を建設する計画を発表し、解体方法として爆破解体を提案したのです。このニュースに日本での爆破解体を待ちに待っていたマニアは歓喜しましたが、県や市に解体を要求していた地元住民は毎度のごとく反対しました。さらに解体を請け負った会社には火薬類取扱保安責任者の資格を持つ従業員がおらず、社長以下が勉強会を開いて受験すると女子の事務員と男性社員の2人だけが合格して実施に漕ぎ着けたのです。その後も地元住民をオーストラリアでの爆破解体を見学させるなどの企業努力に努めましたが日本では使用できる火薬の量が崩壊させるには不十分なため下部を爆破して転倒させる方式になりました。それでも全国から押し寄せていた4万人超の見学者は本物の迫力に歓声を上げていました。
  1. 2023/05/21(日) 15:10:26|
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続・振り向けばイエスタディ495

「隊長、イギリスのプレスって名乗る外人の男女2人が新幹線の線路を歩い来ているんですが。プレスって何の会社ですかね」安川1尉以下の第13普通科連隊山岳レンジャー部隊=クレージー13は国道17号線が群馬県と新潟県の県境を形成する三国山脈=谷川連峰の最高峰で標高026メートルの仙ノ倉山と主峰で1977メートルの谷川岳の間を超えた湯沢町に潜伏しているが、ロシア軍が新潟に上陸して滝ヶ原駐屯地の富士普通科教導連隊が前方の魚沼市と南魚沼市に展開してからは関所の番人のような仕事になっていた。
谷川岳は関東地方屈指の岩登りの名所で昭和の頃には首都圏から多くの登山愛好者が押しかけて遭難事故も絶えなかった。中でも昭和35年9月23日にはそれまで登攀成功者が1人しかいなかった一ノ倉沢衝立岩で宙吊りになって死亡している2人が見つかって相馬原駐屯地の第12偵察隊の狙撃手が銃撃でザイルを切って落下させた遺骸を収容した事故が起きている。戦時下の今は流石に命知らずの登山家たちでも岩登りを楽しむ非常識な人間はいないが、東北地区太平洋沖地震の津波によって破壊された福島第1原子力発電所の放射能漏れで住民が揃って避難した地域で留守宅に残っている家電品などを略奪した被災地荒らしの模倣犯は少なくない。しかし、今回は毛色が違うようで関所の番人の長の陸曹は困っている顔が目に浮かぶような口調で報告してきた。
「プレスと言うのは報道関係者、要するにマスコミだ。パスポートと身分証明書、元へIDカードを確認しろ」安川1尉は名寄駐屯地の第3普通科連隊の第1次イラク派遣に参加した時、ジャーナリストへの対応については驚くほど詳細で具体的な教育を受けたが、そこで彼らが「プレス=印刷=新聞屋」と自称することを学んだ。そして実際に現地で接する外国人ジャーナリストたちの危険を恐れず真実を探し求める態度には感銘を受け、ところ構わず自衛隊の粗探しに励むだけの日本人のマスコミ関係者との違いを実感した。
「パスポートと身分証明書は英語ですから読めません。言葉も通じません」この陸曹も屈強の山岳レンジャーだが無線機の声は困り果ててきた。最近の日本の学校の英語教育では昔の読解一辺倒から実用性を重視して会話にも力を入れているが、外国人と接触する機会がない者にとっては発音や聴取を忘れてしまえば何も残らない。その点、読解力は不思議に頭に深く刻まれているようで横文字を見れば意味は判らなくても読むことぐらいはできる。
「写メで送れ」「はい」安川1尉の指示に陸曹は「助かった」と言う声で返事した。数分後、安川1尉の胸ポケットでスマートホンの着信音が鳴り、取り出して確認するとパスポートと身分証明書に2人の顔写真が届いていた。安川1尉も英語が得意な訳ではないが妻の聡美が英語教師の娘で母親から英才教育を受けて育ち、結婚後は名寄市内の観光ホテルのレストランで通訳を兼ねたウェイトレスとして働いていたので日常会話でも英語を使う機会が多く、今では子供たちに英語を教えているのを見ているから普通の隊員よりもレベルは高い。
「イギリス人で間違いなさそうだな。ブリティッシュ・ライフ社か・・・聞いたことがない新聞だがカードが古びてるから本物だろう」スマートホンの画面でパスポートと身分証明書の英文を確認し、添付してある顔写真と本人の画像を見比べて安川1尉は本物のジャーナリストと確信した。
「女性の方とスマホを代わってくれ」「女性の方ですか」「そうだ」安川1尉が指示すると陸曹は困惑したように念を押した。自衛隊に限らず用談するのは立場の序列が不明な時は男性を相手に選ぶのが一般的だ。年齢的にも男性の方が上のようなのでこちらの方が適任だろう。しかも傍受される危険性があるスマートホンを選んだ理由が判らない。
「ハロー、アイ・アム・ジャパン・アーミー・キャプテン(私は日本陸軍大尉だ)、ディス・ロード・ゲート・ガード・コマンダー(この道路警備の指揮官だ)」安川1尉はイラク派遣の時、現地のイギリス英語と学校で習ったアメリカ英語の違いを学習していたので無意識に道路を「ウェイ」ではなく「ロード」と表現していた。
「貴方たちはジャーナリストと言うことなので我々も可能な限りの協力を惜しみませんが、新潟県内では現在、侵略者ロシアと日本軍の戦闘が繰り広げられていて極めて危険な状態にあります。特に女性は・・・」「私もジャーナリストとしてスーダンやウクライナを取材していますから戦場では女性が生命だけでなく人間としての名誉を奪われる危険性が常態化していることは理解しています。それでもジャパン・ジエータイの祖国防衛の戦いの実像を世界に発信する使命のためには私個人の犠牲などは比較に値しません」女性は早口な英語で熱弁を奮ったため安川1尉の英語力を超えてしまった。スマートホンを使用したのは後で聡美に送って翻訳させるためだった。それでも趣旨は察することができた。女性記者は戦場で横行している性的凌辱も覚悟しているらしい。スマートホンの画像を見ると毅然とした表情をしていた。
「それでは権限を持つ上官の許可を求めますからそのまま待って下さい」本当は県境通過の許可権限は安川1尉に与えられているのだがあえて富士普通科教導連隊に通報した。これは自衛隊側限定の通行手形だった。残念ながら護符=お守りにはならない。
NathalieDelon.jpgイメージ画像
  1. 2023/05/21(日) 15:09:09|
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続・振り向けばイエスタディ494

陸上自衛隊は新潟県を包囲するように展開している。県内の高田両駐屯地の第2普通科連隊は上越市に上陸したロシア軍に対処し、弾道ミサイルで損害を受けた新発田駐屯地の第30普通科連隊は柏崎市に上陸した主力部隊の一部が北上し、同時に新潟空港に輸送機で空輸されてきた部隊と戦闘中だ。そして柏崎市から関東に向かう国道17号線が通る魚沼市と南魚沼市には富士普通科教導連隊が配置されてゲリラ戦を展開して、その後方の湯沢町には松本駐屯地の第13普通科連隊の山岳レンジャー=クレージー13が控えている。さらに山形県境には神町駐屯地から第20普通科連隊、富山県境には久居駐屯地から第33普通科連隊、長野県境には松本駐屯地から第13普通科連隊、福島県境には福島駐屯地から第44普通科連隊が派遣されて固唾を吞んで待ち構えていた。
「今回は国内だから助かるな」「東北の震災の時みたいにバイクで好き勝手に走り回れる・・・ことにしておこう」「お互い本当はロシアの命令で動いてるなんて言えないよな」そんな新潟県から2台のオフロード・バイクが大声で話しながら並走してきた。新潟県は県知事の事実上の避難命令が下達されてからは在日半島人を含めて自衛隊以外の日本人の立ち入りは禁じされているので間違いなく不法侵入者だ。この道路も魚沼市から会津駒ケ岳の麓を迂回して檜枝岐村に向かう山道の国道352号線で自衛隊の監視を避けているのは明らかだ。会話の内容からみて新潟で戦場取材しているフリー・ジャーナリストのようだ。
「加倍が首相になってからは法務省と外務省が妙に団結しやがって紛争地帯に行くのを邪魔しやがる。あれが一番、金になるんだぞ」「民政党政権の頃は事業仕分けで袋叩きにされてショボくれてたよな。連亡(れんぼう)に『女王様とお呼び』って尻を鞭でピシッとやられて・・・痛快だったぜ」話を妄想に落として2人はのけ反って笑った。確かに刈り上げ頭で中国人的な鋭い目つきの連亡が血のような赤い口紅を塗り、先が尖った黒のハイヒールに網タイツをはいて黒い皮の超ハイレグのレオタード姿で鞭を振れば元クラリオン・ガールだけに日活ロマンポルノの初代SMの女王・谷ナオミよりも欲情をそそりそうだ。
「今回の自衛隊の捕虜たちは結局、全員死んじまったよな」「傷口が化膿して熱を出しても放置されれば死ぬしかないだろう」「それを黙って耐えていたよな。若いのにマゾだったのかも知れないぞ」今回も話を卑俗に落としたが笑いは起きなかった。しかし、それは良心の呵責ではなく吐き気を催すような記憶が頭の中で再生されたに過ぎない。2人はロシア軍が保護した自衛隊の負傷者を取材したことになっているが、実際は宿営地にしている学校の資材倉庫に遺骸と一緒に放置している隊員の中で、意識がある数人の上半身の写真を撮っただけだった。したがってA日新聞の編集部にメールで送ったインタビュー記事は全文が創作=捏造だ。しかし、便所がない資材倉庫で便と尿をそのままにしている上、腐敗が始まった遺骸の死臭が充満している密閉された空間に長居する気には到底ならなかった。
「あれは自衛隊の車じゃあないか」「馬鹿な、A日新聞はこの道なら自衛隊はいないって言っていたんだろう」2人が会津駒ケ岳の山腹の現在の自動車道としては隘路(あいろ=狭い道)に差し掛かると車道を塞ぐようにOD色のジープが止まっていた。2人は取材に出るに当たり記事を買うA日新聞から情報提供を受けているが「福島県境は国道49号線の西会津町に第44普通科連隊が配置されているだけだ」と聞いていた。そのため国道352号線までは三条市から山間の国道289号線を通って富士普通科教導連隊が駐屯している魚沼市を迂回した。
「拙い、どう考えても俺たちを待っていたんだろう」「それは考えすぎだよ。フリー・ジャーナリストが戦場取材に行った帰りだと言えばかえって食料を分けてくれるかも知れん。自衛隊はお人好しの上、マスコミに弱いんだ」速度を落とした2人は声量を落として対応を話し合った。フリー・ジャーナリストの多くは元新聞記者なので自衛隊が悪意を持った報道で住民感情や世論を不利な方向に誘導されることを恐れて憐れなほど低姿勢で従属的なことを知っていた。昭和59年2月27日に山口駐屯地で発生した小銃乱射事件では新聞記者が勝手に隊舎内を歩き回って昼礼で隊員不在になった中隊本部事務室に立ち入ると先任陸曹の机の上に置いてあった営内班長の生活指導簿を無断で持ち去って「情緒不安定な隊員を実弾射撃に参加させた」とスクープ記事にしたが、窃盗ではなく公品横領で告発されたものの「正当な取材活動」と言う主張が認められて無罪に等しい軽微な処罰を受けている。
「江藤健三と安野俊平だな」「違う」「違う」「これはお前だろう」2人がジープの手前でバイクを止めると車体の後ろから3人の迷彩服を着た男が歩いてきた。3人は1人ずつ2人の前に立ち止まり、中央の3佐の階級章の1人が声をかけた。2人は咄嗟に嘘をついたがコピーした顔写真を突き付けられて言葉に詰まった。すると目の前の男たちは2人に組み付くと腕を首に回して肩に後頭部を載せる体勢になり、足で路面を踏み切ってバイクと一緒に引き倒した。2人が地面に叩きつけられた瞬間、首がボキッと乾いた音を立てた。
「遺骸が発見されれば2人一緒に道路から転落して頭部を強打、脛骨骨折で即死だな」中央の1人の言葉に両側の2人は1度うなずいた。田島3佐たち自衛隊版隠密同心の仕事だった。
  1. 2023/05/20(土) 15:41:36|
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5月21日・海軍切っての親英派・鳥巣玉樹中将の命日

昭和24(1949)年の明日5月21日は明治期にイギリス海軍を規範・手本として創設された帝国海軍が、やがて敵対関係に陥っていく中で知英派として英国協調を公言したため孤立した鳥巣(とす)玉樹中将の命日です。71歳でした。
鳥巣中将は偉才・江藤新平さんを擁護する旧藩士たちが起こした佐賀の乱から3年後の明治10(1877)年に旧佐賀城下=佐賀市で生まれました。旧制・佐賀中学校から九州北部の神童・優等生が集まる福岡県立尋常中学校・修猷館に転校・編入した後、日清戦争中に第25期生として海軍兵学校に入営しました。入校時の成績は36人中4番でした。同期には敗戦後、昭和の陛下から戦前の側近の政治家・軍人・官僚の中で最も信頼できた人物と評された山梨勝之進大将がいて終生の親友として鳥巣中将の没後には葬儀委員長を務めています。また日清戦争の特別課程のため2ヶ月早いだけの卒業になった1期上の24期には第1次世界大戦後の海軍軍縮条約を巡る海軍内の対立のガス抜きのため条約推進派の逸材(山梨大将も犠牲者)を予備役に編入する人事を犯した愛知県出身の大角峯生海軍大臣がいました。
明治30(1897)年に32人中3番の成績で卒業すると砲艦の初代・金剛の乗り組みになり、明治31(1898)年にイギリス領オーストラリアなどの南太平洋へ約5カ月間の遠洋航海に行っています。帰国後は戦艦・八島に転属し、明治33(1900)年にはイギリスで建造した戦艦・朝日の回航要員として初めてイギリスに出張しました。
この頃のイギリスはロシアのバルチック艦隊による北大西洋、黒海艦隊による地中海、さらに極東・太平洋艦隊による西太平洋の制海権の奪取を現実の脅威と考えていて、明治33(1900)年の義和団事件において北京の外国領事館を60日間守り抜いた柴五郎中佐以下の日本陸軍派遣守備隊の勇戦と厳正な規律が周知されたことで国是の「名誉ある孤立」を捨てて日本との同盟締結を模索していた時期なので極めて友好的な歓待を受けたはずです。
そうして明治35(1902)年に日英同盟が締結され、明治37(1904)年に日露戦争が始まると鳥巣中尉は特務艦・春日丸の航海長と分隊長として出征し、明治38(1905)年には連合艦隊の中核をなす第1艦隊の参謀として日本海海戦に参戦した後、屯田兵による樺太侵攻を支援するために編成された第4艦隊の参謀を務めました。
その後は長い平和な時代に入りますが、日本は日露戦争でロシア海軍の太平洋・バルチックの両艦隊に完全勝利したことで慢心する一方でアジア、太平洋に植民地を有する欧米列強からは警戒されるようになりました。
そんな時代の流れの中、鳥巣少佐は明治42(1909)年に海軍大学校を12人中2番の成績で終了してからはイギリスで建造した巡用戦艦の2代・金剛の回航要員、イギリスの新型巡洋戦艦に乗り込んでの交歓武官、在イギリス大使館の駐在武官などイギリスに偏った人事を受けたため海軍軍縮条約を巡って米英との対立が尖鋭化すると海軍内で孤立して予備役に編入されました。退役後は反米英主戦派の頭目でありながらイギリスかぶれだった伏見宮博恭元帥家の別当に採用されましたが本人には苦痛だったようです。
  1. 2023/05/19(金) 17:01:21|
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続・振り向けばイエスタディ493

「モリヤ2佐はどこの新聞を取っていますか」「3Kですが」「やっぱり・・・」数日後、戦況を確認するために統合幕僚監部運用部1課に顔を出すと会議から戻った課長が声をかけてきた。今日は陸海空の運用幕僚たちから説明を受ける予定なので不在でも問題なかったが先方に用件があったようだ。課長はドアの横の新聞架から一番手前のアルミ製ホルダーを取ると応接セットに座っている私に手渡した。それはA日新聞だった。
「その写真を見て下さい」「これは負傷者のようですが何の事故ですか・・・」A日新聞の1面には頭部に厚いガーゼを当て、露出している皮膚には生々しい火傷の跡が残っている日本人と思われ若者の写真が載っていた。視線を写真の上の黒地に白抜きした見出しに移すと「新潟で捕虜になった自衛官に取材」とある。今朝の3K新聞には全く載っていなかったのでA日新聞がフリージャーナリストから買った記事らしい。
「それは富士普通科教導連隊所属の3曹です。4日前に柏崎市内のロシア軍の宿営地に夜襲をかけて退避する時、至近距離に砲弾を受けて負傷したようです。蘇生措置も効果がなく意識不明のままで敵が迫ったので置き去りにせざるを得なかったと報告を受けています」記事の本文を読み始めた私に陸の運用幕僚が説明を始めた。どうやら記事を見た関係者が情報を寄せてきたようだ。当然、家族も目にする可能性がある。
「新聞には見殺しにされたのでロシア軍に投降した。おかげで治療を受けることができて助かった。本当に感謝していると書いていますが、これはロシア軍とフリー記者、A日新聞編集部の誰が嘘をついているんだろうか」「どいつもこいつも大嘘つきですからね」私の感想には空の運用幕僚が答えた。この運用幕僚は兵器管制幹部で戦闘機の墜落事故の一部始終をレーダー上で注視し、断末魔を無線で聞いてきたが、操縦不能に陥ったパイロットが最期の瞬間まで地上・海面の安全を確認していたことを説明してもマスコミは頭ごなしに操縦ミスと断定して殊更に危険性を論う(あげつらう)のを無念の歯噛みで耐えてきたそうだ。
「治療を受けてるって言ってもこれは病室ではないだろう。病室用ベッドには寝かされていない。この薄暗い照明から見て多分、倉庫だな」「ガーゼも自衛隊の応急手当て用だ。この汚れ方を見ると一度も交換されていない。つまり放置されていることになる」「ウクライナでもロシア軍は捕虜の負傷j者を放置していたから前例踏襲だよ」私の補足説明に課長以下は顔を強張らせて押し黙った。ロシア軍は1853年から1856年のオスマン・トルコ軍とのクリミア戦争で負傷者と遺骸の放置、環境劣悪な衛生施設、捕虜の虐待、文民の無差別殺傷などの人道上の問題を生起させてジュネーブ条約を制定させる動機を作っている。
「それが捕虜になって良かったと証言しているのは何故ですかね」「大戦中の日本軍は生きて虜囚の辱めを受けずの教育を受けていたから捕虜になると自暴自棄になって言われるままにベラベラと情報を漏らして反日宣伝の台詞も喋りまくったらしいですよ」「日本軍の死を恐れぬ戦闘に苦しめられていたアメリカ軍は拷問も受けないのに国を売る変節に首をひねっていたそうだ」私が記事の続きを読み始めると陸海空の運用幕僚たちは勝手に議論を始めた。私はオランダでは茶山元3佐が送ってくれる1ヶ月分の新聞と持っていった書籍以外に日本文を読む機会がなく英文に目が馴染んでいるのでかつての速読は影を潜めてしまった。
「やはり自衛隊でも捕虜になることを禁じていたんですか」「いいえ、逆にウチのトップ(=統合幕僚長)は陸幕長(りくばくちょう=陸上幕僚長)時代に生存権の行使として捕虜になることを認めました。それを受けて部隊では全隊員を対象にしたジュネーブ条約の教育を始めて捕虜の権利と義務、捕虜としての戦術を周知徹底しています」「それはウチの幕長(=航空幕僚長)が撃墜されたパイロットに敵に収容される許可を与えた方が先です」私の質問に陸と空の運用幕僚が唾を飛ばして答えた。航空自衛隊では昭和44年2月8日に小松基地のFー104J栄光が金沢市内に墜落して市民3人が死亡し、昭和46年7月30日に岩手県雫石上空で松島基地のFー86F旭光が全日空のボーイング727に追突されて乗客乗員162名が死亡した事故で脱出した自衛隊のパイロットが生き残ったことを批判されて以来、飛行不能に陥っても緊急脱出は事実上封印されていた。その呪縛を解いた石塚勲航空幕僚長の英断を思い出させる。
「つまり偽情報を流して敵を混乱させたり、怠業で手を焼かせたり、脱走で警備兵を疲労させる捕虜の責務を知っているんですね。それは心強い」「そんな隊員がこんな証言をするとは思えない。要するに・・・」「記者の作文と言うことか」「確かにテレビやネットじゃあないから本人が喋っていることを確認する手立てがない」私のジュネーブ条約の解説に近い感想に陸海空の運用幕僚が共通した推理を並べて文章にした。
「流石に上官に手榴弾を渡されたとは書いてないな。このフリー記者は平成生まれなのかも知れないぞ」「その日本軍ネタは戦後でも昭和50年までですよ」私が敗戦後のインパール作戦などの戦記物で置き去りにされる傷病兵に指揮官が自決用の手榴弾を渡す定番シーンがないことを指摘すると唯一昭和生まれの課長が反応した。
  1. 2023/05/19(金) 17:00:17|
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続・振り向けばイエスタディ492

「今の戦争は局地戦の様相を呈しますから日本でも戦場とそうではない地域の格差は著しいですね」生活の再開は梢に任せて最高検察庁に出勤した私は市ヶ谷地区の警務隊本部へ出かける前に事務局に顔を出して雑談を始めた。最高検察庁は官公庁が一般的に用いる「中央」ではなく「最高」と断っているように法曹界で選び抜かれたエリート中のエリートが集まっていて建物内の空気まで緊張感が充満している。その点、一般の事務職員が勤務している事務局は大学中退のまぐれ当たりで司法試験に合格した私にはホッとで一息つける空間だった。
「東京でも一時期は銃撃事件が多発して街を脅えながら歩くようになりましたが、自衛隊が治安出動して銃器の一斉摘発を進めたおかげで元の生活に戻れました。ウチとしては銃の不法所持で立件して中国と韓国に強制送還するのに大忙しでしたけど。そうそう北朝鮮は国交がないから中国に押しつけたんですよ。そこは外務省が上手くやってくれたみたい」事務局の机が並ぶ広い部屋の中央の応接セットに腰を下ろすとお茶を出してくれた中年の女性事務職員は私の感想に体験した実情を説明してくれた。今は以前と変わらぬ生活ができているが開戦当初にはやはり内戦に近い状況が生起していたようだ。
「そうなると首都圏の自衛隊が新潟に派遣されると治安の維持が難しくなるでしょう」「そこは何万丁単位の拳銃と弾丸を摘発して同じ数の持ち主を国外退去させたんだから警察で大丈夫です。それに・・・」女性事務職員は何かを言いかけて口ごもった。不自然に壁時計を見たのは「戻って仕事を再開しなければならない」と言い訳するつもりなのかも知れない。そこで私は機先の制して昨日の推理を質問として投げかけた。この検察庁の内部事情に精通している女性事務職員なら何かを知っているはずだ。
「それでも日本国内に行き渡っていた拳銃と弾丸が中国製なら組織的に持ち込まれたんじゃあないですか。手引する工作員が残っていれば同じような銃撃事件が再開されます」「それは大丈夫です。でもこれ以上は言えません。知らない方がモリヤ検事のためですよ」自衛隊でも「異動や昇任の人事情報を知りたければ人事部の女性事務官か出入りの保険屋の小母さんに訊け」と言われていたが、人事部の女性事務官は常に幹部の会話に聞き耳を立てて出入りする隊員の表情を観察して長年の経験で培った推理を働かすので驚くほど正確に人事を予測していた。保険屋の小母さんは各職場での雑談で噂を拾い集め、時には本人の愚痴や自慢を聞くのでこちらも的中率は高かった。昔は基地の正門前の飲み屋のママさんも入っていたが、最近は仕事帰りに一杯飲む習慣がなくなったのでそれ程でもない。
「やはり100人以上遺骸で発見されている在日中国人や半島人は密輸や銃撃事件の首謀者なんですね」「流石は情報が早い。勿論、秘密区分に該当しない最高度の秘密です」市ヶ谷地区の警務隊本部へ行って陸海空の担当者たちと新聞記事に関する雑談を交わす中で私は繁華街の路地で発見された在日中国人の話題から推理を披露した。頭の中では朝山元3佐を実行者として推定していたが「知り過ぎている者」にならないように控えた。
「私はヨーロッパでISのテロと治安部隊の戦闘を見てきましたからこの程度の処置は常識の範疇だと思っていますが、日本の場合はその常識が非合法なのが問題ですね」「加倍政権の頃は管(くだ)官房長官に直接報告すれば関係する部署に手配して処置してくれたんですが、石田首相は旧加倍派の立野官房長官の執務を監視しているから危ない橋になっています。それでも関係部署は日本の国内法の欠陥が非合法にしているとの認識で隠蔽措置を継続してくれているので何とかなってます」先ほど「最高度の秘密」と釘を刺した当人が具体的に内部告発し始めた。これは私が戦争犯罪の公判に着手した時、中国が内乱を画策していた事実が必ず役に立つと言う考えがあるのだろう。
「もう1つ、新聞の戦況の誤報を禁止することはできないんですか。コンビニで買って読み比べても先日、統幕(統合幕僚監部)で聞いた話と違いすぎて呆れてしまいました」「自衛隊がゲリラ戦術として打撃を与えて撤退すると敗走と断定するから困ります」「自衛隊としては戦況を公表できないから誤報を訂正することはできない」「ネットで誤りを指摘してるんですがマスコミは自衛隊が記者発表しないのは劣勢に陥ってるからだと反論して水かけ論争になっています」余程、大量の苦虫を噛み潰したのか説明する陸海空の担当者の表情は嘔吐のようになった。
私自身もカンボジアPKOではマスコミが派遣した記者たちが現地人への取材で反日感情を煽る質問を繰り返すのに対処し、阪神淡路大震災でも悪意に基づく粗探しに悩まされ、北キボールPKOの現地人との闘争を殺人として刑事告発された時にはマスコミが有罪判決を下していた。あの時は愛知県の両親に取材して「罪を認めて償え」「こんな人間になったのは自衛隊のせいだ」と言わせていたことを拘置所で牧野弁護士から聞いた。おまけに外務省の人妻の事務官を泥酔させて犯し、沖縄返還の密約を持ち出させた西山太吉事件を模倣したように二村由美事務官と不倫関係になって私の個人情報を探った珍騒動もあった。これらの経験がイージス護衛艦・あまごと漁船の衝突事故の逆転勝訴につながったのだが、やはり不倶戴天の敵だ。
  1. 2023/05/18(木) 15:07:18|
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続・振り向けばイエスタディ491

衣類や食器、書籍類を送ったオランダからの船便は1ヶ月かかるが日本のマンションには家具が付いていないので生活を再開するには自衛隊時代の転属以上に手間と金がかかる。オランダに赴任する時、内局の担当者から「家具は不要」と説明を受けたため家具は元々が美恵子と暮らし始めた時に買った安物だったので大半は捨ててしまった。今回は最愛する梢との新生活だから気合を入れたいところだが数年後には沖縄へ移住する予定なので大荷物になるのは困る。そんな訳で毎度の合板製の安物になってしまった。佳織がハワイに移住する時に単身赴任用に揃えていた家具を貸倉庫に預けておいてもらえばかなり節約になったが私の帰国が早まるとは思っていなかったので手遅れだった。佳織が1佐の給料で買った家具は3曹だった私が沖縄の量販店やスーパーで探した安物とは比較にならなかった。
「何だ、この事件は」「ヨーロッパのテロでも有り得ないわね」それでも新聞はこちらから販売店に電話して保守系の3K新聞を購読することにした。オランダでは英字新聞だったので帰宅後に再読する時は通訳の梢が隣で一緒に読んでいた。それが習い性になっているから日本でも炬燵に並んで座って話し合いながら読んでいる。それにしても新潟や北海道の戦況が一面ではなく、都内で発生している凶悪事件は最終面になっていることに唖然としてしまった。結局、日本のマスコミは戦地に自社の記者を派遣しないで警察や自衛隊の制止を無視して潜入したフリー・ジャーナリストの取材記事を買っているようだ。3K新聞はウガンダでの自衛隊の人道派遣の取材に向かっていた系列テレビ局の特派員が1994年12月6日に飛行機の墜落事故で殉職しているため社員の危険回避には敏感であっても仕方ない。
「相変わらず独断と偏見で記事を書いてるな」3面に載っている戦況の記事はロシア軍側の大本営発表のように自衛隊の劣勢・敗走の記事ばかりだった。私は北キボールで現地人の不良青年たちに拉致された日本人フリー・ジャーナリストの男女を捜索中に交戦に巻き込まれて殺害することなったが、あの2人も地元の住民を騙して反対デモを起こさせ、銃と弾薬を渡して宿営地を銃撃させるなど自衛隊のPKO活動を妨害するための工作活動を繰り返していた。東北地区太平洋沖地震でも収容した遺骸に自衛隊員が合掌している画像に「自衛隊による宗教活動」と表題を付けて投稿するなどの粗探しに励んでいた。保守系の3K新聞だから3面に載せているがA日新聞なら1面で大々的に報じているのかも知れない。
「こっちの事件も日常化してるのね。こんなに記事が小さいもの」「確かに昔なら大事件だよな」記事によれば都内では放火が頻発しているだけでなく消火にあたっている消防隊員が射殺される事件が続発していて現在ではヘルメットを自衛隊と同じ防弾構造に改造して消防衣の下には防弾チョッキを着用しているらしい。そのため昨日都内で発生した火災では消防隊員は銃撃を受けても軽傷ですんで現場で救急隊員の措置を受けたようだ。しかし、梢は「ヨーロッパのテロでも有り得ない」と言ったが第2次世界大戦のドイツの都市空襲で連合軍は爆弾で屋根を破壊してから焼夷弾を撒き散らして火災を発生させ、消防を開始するのを待って飛来した戦闘機が機銃掃射して殺傷した。それも陸戦や海戦では許されない違法な戦術だが空戦規則がないため不法行為であって戦争犯罪にはならない。
「今度は『また』って書いてるけど・・・」梢は消防隊員への銃撃の記事の下に「また在日中国人の射殺遺体」と言う見出しで始まる半行の記事を指差した。記事によると都内の繁華街が裏路地で頭部を撃たれた男性の遺骸を警邏していた派出所の警察官が発見して検屍の結果、40歳代の在日中国人の会社員と判明したとある。気になるのは記事の後半に「韓国との武力衝突が発生して以降、都内で在日中国人と南北朝鮮人の遺体が発見されたのは100回を超える」「以前は変死だったが最近は拳銃による射殺になっている」と解説してあることだ。
「あれッ、この現場は火災が起きた場所の近くじゃあないの。住所が同じよ」やはり梢の秘書としての能力は抜群だ。私が読み飛ばしていた数文字の文章に気がついて疑問を提示してくれた。どちらの記事にも番地まで載っているが百桁の数字が違うので通りが違うようだ。
「本当だ、火災現場の近くなら警察官が見つけなくても野次馬が気がつきそうなものだがな」これで検察官・元警務官としての推理力が稼働する。仮にこの遺骸で発見された在日中国人が放火と消防隊員への銃撃に関係していれば殺害は日本人の報復、法的には有り得ないが日本の公的機関による処罰である可能性が発生する。つまり放火、若しくは銃撃した時点で特定されていて逃亡するのを尾行されて人目につかない場所で射殺されたことになる。犯人も拳銃を持っていたことを考えるとプロの仕事だ。その時、私の脳裏に「必殺仕事人」のトランペットの音色が響いてナバオ・デス・スクワットで麻薬組織の撲滅に参加していた朝山元3佐=蓮床の姿がよぎった。まさか「変死」と言うのは三味線の弦で首を吊り、研ぎ澄ました簪(かんざし)や鋭く折った花の枝で急所を突き、手で肋骨を突き破って心臓を鷲掴みにするのではないだろう。祖父の寺に遊びに行って夜更かしが黙認されると「隠密同心・大江戸捜査網」や「必殺」シリーズを喰い入るように見ただけに記憶に深く刻まれている。
  1. 2023/05/17(水) 15:42:21|
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5月17日・混乱期のフランスの名外交官・タレーラン=ペリコールの命日

1838年の明日5月17日は名門貴族でありながらフランス革命からナポレオン失脚後までの外交を一手に執り仕切り、ヨーロッパの大半を敵に回して敗北した国家存亡の窮地にありながら領土を失わずに講和を成立させた名外交官・シャルル・モーリス・ド・タレーラン=ペリゴールさんの命日です。ただし、これだけ政治形態が激変しても国家を代表する立場を維持したことでフランスでは「変節漢」の代名詞にされている一方で国家の窮地を救った優れた外交手腕の比喩にもなっています。
ターラン=ペリコロールさんは1754年にブルボン王家を越える名門・タレーラン侯爵家の次男の伯爵家の長男としてパリ市内6区のガランシエル通りで生まれました。しかし、内反足の障害を持っていたため父の職務の連隊長を継ぐことができず、聖職者としての立身出世を命ぜられてパリの神学校とソルボンヌ大学で神学を学び、1775年に21歳でフランス北部のランス県の修道院長に就任して1779年には司祭になりました。しかし、聖職者は軍人になれない代わりの脇道に過ぎず「世俗では教皇よりも国王に実権を与えるべきだ」とする異端思想・ガリカ二スムの急先鋒として名を売りますが、それでも1788年には国王・ルイ16世によってブルゴーニュの司教に任命されました。
ところが1789年に「テニスコートの誓い」によって革命を主導することになる三身分会の第1身分のカソリック聖職者の代表に選ばれると(第2は貴族、第3はそれ以外の全階層の国民)教会の資産の国有化を提唱して反バチカンの姿勢を鮮明にしました。ちなみに世界共通の単位としてメートル法を採用させたのもターラン=ペリコロール司教だとされています。こうしてバスティーユ監獄の占領に始まったフランス革命が全土に広がると1790年に国民議会議長に選出されて司教を辞任しましたが、それを逆手に取って教皇から「反カソリック的言動」を糾弾されて破門されました。
ロベスピエールさんが率いるジャコバン派が権力を握った革命政権が「反革命」と断定した人々を大量に粛清し始めると1792年に外交特使としてイギリスに渡り、そのまま亡命してアメリカへ再渡航しました。そしてジャコバン派が失脚した1796年に帰国すると新政府の外務大臣に就任しますが1799年に辞任してナポレオン・ボナパルトさんの権力奪取の策謀に参加するとナポレオン政権でも外務大臣に再任されたのです。
こうして革命の波及を阻止すべく敵対していたオーストリアとイギリスとの講和に成功し、ナポレオンさんが皇帝に即位すると侍従長も兼務しますが、ヨーロッパ列強と共存・融和を指向するターラン=ペリコロ―ルさんとヨーロッパ全土の武力制覇を策謀するナポレオン皇帝では共同歩調は維持できず1807年に外務大臣を辞任しましたが1814年のロシア遠征の失敗によってナポレオン帝政が崩壊すると連合国側の要請でフランス代表としてウィーン会議に出席しました。この会議ではルイ18世の即位による王制復活を提案して革命後の復活王家の安定のための協力を要請することで賠償金や領土の割譲を封印して国家としての地位を保ちました。その後も最晩年まで目まぐるしく変わる国家体制の中で首相、イギリス大使などの要職を歴任しました。
  1. 2023/05/16(火) 21:44:47|
  2. 日記(暦)
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続・振り向けばイエスタディ490

「ニンジンさんがシベリアに幽閉されていたことはニュースで見て心配していましたが・・・」「テレビや新聞は日本人を見捨てて1人だけ脱出したって言っていたけどニンジンさんのことを知っている人たちは何か考えがあるに違いないって信じてましたよ」住職とはオランダに赴任してからは年賀状と暑中見舞いで時候の挨拶程度しか交していなかったので日本で名前を報じられたこのニュースを話題にせざるを得なかった。妻の遠慮のない補足説明については佳織や淳之介から聞いているが、安堵するはずの愛知県からは何も言ってこなかったのでやはり私を非難する声が世間に広まっていたようだ。
「私としてはロシア軍の戦争犯罪を国際刑事裁判所で提訴しようと決意していたんですが、証言以外の物的証拠が入手できないので立件できず断念せざるを得ませんでした」「やはりロシア軍は戦争犯罪を犯していましたか」「はい、正当な理由もなく民間旅客機を強制着陸させて文民である乗客を拘束したこと自体が戦争犯罪ですが、それに加えて奥さんの前では言えないような性犯罪を繰り返していました。それで日本人の客室乗務員が自死してしまったんです」「それって小森希恵って言う人じゃないの。一時期、ネットで情報が拡散していたわ」私の説明に住職の妻が答えた。相変わらず妻はインターネットに励んでいるらしい。住職の妻は檀家に限らず訪ねてくる多くの人たちとの世間話も仕事なので幅広い情報収集が必要なのだ。
「小森さんの恋人はオランダ航空の整備員で貨物として連れ帰った棺の遺骸と対面して号泣するのを見たのは辛かったです」ここでは綺麗事を口にしたが実際の私は検察官として数少ない物的証拠である小森希恵の遺骸を最大限に活用することこそが供養と考えていて腹の中では検屍で複数のロシア兵の体液が採取されて輪姦が成立するのを期待していた。
「それでも残った日本人たちはロシア軍の飛行機に乗せられて全員死んでしまったんです」「私たちは蓮床さんに自衛隊が落とさなければ日本の都市が爆弾で破壊されて兵隊に占領されたって聞いて本質を理解しましたが、マスコミは自衛隊が日本人を殺したって大々的に宣伝していましたよ」その宣伝の記事の冒頭に「国際刑事裁判所の元自衛官の検察官が見捨てた」と断り書きしていたことも佳織と淳之介から聞いているが、佳織は新聞社に抗議したらしい。
「それはオランダでも報じられていましたが流石にロシアの文民を人質にする非人道的行為を批判するだけで自衛隊の防空措置は常識として日本の批判報道に疑問を呈していました」「ウチでも蓮床さんが元自衛隊って知っている檀家さんが『人殺しのお経は有り難くない』って法事を断ってきたから(法然)上人は9歳の時に父の漆間時国が襲撃されて弓を取って戦った。その殺生の大罪を直視して阿弥陀如来の念佛によるお救いにすがる境地に至られたんだと説明して蓮床さんに行かせたんだよ」「大体、蓮床と言う僧名は熊谷次郎直実さんからもらったんでしょう。実に良い僧名だ」「あれは自分で選んだんだ。どうしてもって言い張るから許したけど知らない人には西方浄土の池の蓮の上に眠ると説明しているみたいだね」話は有り難い方向に反れたが梢は私から聞いているので黙って聞いていた。熊谷次郎直実は平家物語の一ノ谷の合戦で平敦盛を討った段で有名だが実際に京都へ戻った時、法然上人を訪ねて教えを受けている。ただし、出家したのは壇ノ浦の戦いから8年後だった。梢に語ってきた出家後の逸話としては法然上人の墓所が比叡山や南都の僧兵に破壊されると遺骸を運び出して火葬したことや美作国の生誕地、京都の初法転輪(初めての説法)の地などの足跡に寺院を建立したこと、高野山に建立された法然上人の墓所を守るように分骨が埋葬されていることなど数多いが、私が好きなのは坂東に帰る時、西方浄土におられる阿弥陀如来に尻を向けることはできないと馬に後ろ向きに乗った言う如何にも坂東武者らしい逸話だ。
「今、新潟にロシア軍が上陸しているでしょう。次は東京に攻めて来るのかしら」「そうなると東京が空襲されて戦時中みたいな焼け野原になるんじゃないかね」住職夫婦は私と同世代で昭和の教育を受けているだけに空襲と言うと東京大空襲や敗戦時の風景写真を思い浮かべるようだ。しかし、アメリカ軍の都市空襲はヨーロッパ各国が第1次世界大戦で多大な戦功を上げた航空部隊を空軍に独立させたのに対して主に地上部隊を参戦させたアメリカでは陸軍航空軍団に留められたため第2次世界大戦で海軍や海兵隊、陸軍地上部隊以上の戦果としてより多くの日本人を殺害する必要があった。そこで戦争法に空軍規則がないことを利用して徹底的な殺戮を繰り広げたのだ。ベトナム戦争でも北爆と呼ばれる都市空襲を行ったが現代戦では精密誘導のミサイル攻撃が中心なので無差別爆撃のイメージは的外れだ。
「ないとは言えませんがロシア軍はウクライナで消耗し切っていますからどの程度の戦力を海を越えて投入できるかでしょう」「確かに蓮床さんも日本海で阻止できるって言ってますね」住職の安堵した顔には「戦時下」と言う現実味は感じなかった。
  1. 2023/05/16(火) 21:40:58|
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NHK「できるかな」の高見のっぽさんの訃報に思う。

5月10日に親子2代にわたってNHKの子供向け工作番組「できるかな」でお世話になったのっぽさん=高見映さんが2022年9月10日に亡くなっていたことが公表されました(本人の遺志で半年以上は伏せていたそうです)。88歳でした。
のっぽさんは昭和9(1934)年に京都太泰の役者長屋で当時はマキノ・プロダクションの俳優だった父親の6人兄弟の4番目として生まれ、4歳で現在の東京都墨田区向島に引っ越してここで育ちました。ところが戦争が始まって東京への空襲が繰り返され、食糧事情が悪化したため小学校の4年生で岐阜県羽島郡笠松町へ疎開して高校2年まで生活しました。高校2年で東京都下の高校に転校しますが、工場長を務めたほかはコメディアン、物真似、奇術師、俳優などで生計を立てていた父親の影響で芸人を志すようになり、尊敬するミュージカル・スターのフレッド・アステアの後を追い、当時としては日本人離れした181センチの長身を活かしてダンサーとして芸能活動を始め、キャバレーなどで出演する間に日劇ミュージックホールの舞台を踏むまでになりました。
ところがそこから失業状態が4年間続いて自死を考えるほど追い詰められましたが25歳でNHKの番組「不思議なパック」にバックダンサーとして出演したことでプロデューサーに気に入られ、新番組「音楽特急列車」の司会に抜擢されました。
その後も番組の構成や振り付け、さらに着ぐるみの人形劇「ブーフーウー」のオオカミ役などの仕事で呼ばれるようになり、32歳の昭和41(1966)年4月からの教育テレビ「なにしてあそぼう」にのっぽさんとして主演することになったのです。野僧も「なにしてあそうぼう」は保育園や3時からの再放送で見ましたが、のっぽさんはオーバーオールと帽子はハンチングで相棒はムウくんと言う小熊でした。
「なにしてあそぼう」は昭和45(1970)年3月で終わってしまって若い男女5人組が明るく工作する番組に替わりましたが、のっぽさんの独特の雰囲気を見慣れていた子供や母親には違和感があったようで昭和46(1971)年4月からはチューリップハットののっぽが復活したようですが、流石に小学4年の野僧は見ませんでした。
後にのっぽさんは「自分は役者としては器用でも手先は不器用で工作は苦手だった」と告白していましたが、不器用だったからこそ子供の稚拙な手作業に合った手本を見せられたのでしょう。その点が若い男女5人組には無理な仕事でした
実は野僧はのっぽさんが出演している映画を見たことがあります。それは昭和60(1985)年公開の伊丹十三作品「タンポポ」で子供と一緒にホテルに忍び込み、オムライスを作る浮浪者役でした。この時も台詞はありませんでしたが警備員が迫る中、美味しそうなオムライスを作って子供と逃げるリズミカルでコミカルな演技は絶妙した。結局、のっぽさんの声を聞いたのは愚息2が録画して見ていた1990年3月の最終回の「あーあ、喋っちゃった」で無言の封印を解いた挨拶でした。
のっぽさんは放送作家として「ひらけポンキッキ」の製作にも主導的立場で関わっていたそうなのでこちらでもお世話になっています。感謝を込めて心から冥福を祈ります。
高見のっぽ=ジミー・ペイジのっぽさんではなくジミー・ペイジさん(イギリスのロック歌手)
  1. 2023/05/15(月) 15:17:24|
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続・振り向けばイエスタディ489

「あらッ、ニンジンさん」蓮床と呼ばれた朝山元3佐と一緒に庫裏の玄関に歩いて行くと住職の妻は私の顔を見て驚いたように声をかけた。梢と交際していた頃は中学時代に祖父の寺に下宿して小坊主生活は経験していたが得度は受けていなかったので僧名のニンジンとは名乗らなかった。それでも再会を果たし、オランダで一緒に暮らしている間はモリヤニンジンで通してきたので今では梢の耳にも馴染んでいるようだ。
「どうもお久しぶりです」「こちらは奥さんね」「はい、梢と申します」朝山元3佐はそのまま庫裏の裏手にある勝手口に向かったが私たちは玄関から入り、出迎えた住職の妻と対面した。住職の妻が畳に正座して三つ指を付いたのを見て日本に帰ったことを実感した。私がこの寺に通い始めた頃には佳織との別居生活が始まっていたから連れてきたことはない。その点、朝山元3佐はオランダやフィリピンで面識があるようなので説明が必要だ。
「帰国しましたのでご挨拶に伺いました。また福生市内のマンションに住むことになりました」「御免なさい、今、檀家さんが亡くなったって連絡が入って蓮床さんを呼んだのよ。枕経は蓮床さんに頼むと思うけど話が決まるまで待って下さい。どうぞ」住職の妻は私の口上は無視して一方的に内部事情を説明した。私は浄土宗の坊主の修行としてこの寺に通っていて住職もそのつもりで接していたが妻と檀家は納所(なっしょ=雇われ坊主)扱いだった。それにしても朝山元3佐は法事も担当する本当の納所として務めているらしい。そうなると読経や所作は素人坊主の私よりも上手いのかも知れない。そう言えば先ほど会った時も殺気=血の臭いを全く感じなかったのでプロの坊主になり切っていた。
「ご本尊にお参りさせて下さい」「はい、その後は座敷に来て下さい」住職の妻は私たちが履物を脱いで上がると奥の座敷に案内しようとしたので私は坊主の作法を申し出た。坊主に限らず寺に参った時には本堂に上がらなくても正面で合掌するのが佛教徒としての作法だ。それは他人の家を訪ねた時も同様で先ず佛檀に参らなければならない。土産は佛前に供えるものだ。
「それではいつものようにお願いします」「はい、了解しました」座敷に敷いてあった座布団に座り、住職の妻が出した茶菓子を頬張りながら熱い緑茶を飲んで待っているとかすかに住職と朝山元3佐の会話が聞こえてきた。現職自衛官だった私は自衛隊法第55条から第60条の6大義務と第61条から第64条の4大制限のうち第60条の「職務に専念する義務」と第63条の「他の職、又は事業の関与制限」で副業=副収入を得ることは許されず、寺院も宗教法人である以上、第62条の「私企業からの隔離」で正式に雇用されることもできなかった。そのため檀家での勤経は盂蘭盆会だけで布施は全て寺に納めて素麺や和菓子などの供物をもらっていた。一方、春と秋の彼岸は私自身が「本来は神道の行事だ」と認めていないこともあり年度末と演習準備の業務多忙を理由に関わらなかった。
「これはニンジンさん、おかえりなさい」朝山元3佐が出かけると襖を開けて住職が入ってきた。この寺は都下の割には堂宇(どうう=寺院の建物)が大きく私も清掃作務に励んでいた。住職の執務室の方丈(ほうじょう)から奥の座敷までは3つ部屋を通らなければならず和室だけに全て襖で仕切られているのだ。
「奥さんは初めてでしたね。はじめまして。大寿寺です」「モリヤ梢です。よろしくお願います」床の間の前に敷いてある座布団に正座した住職は私の左側に座っている梢に挨拶した。私と同世代の住職には「妻も幹部自衛官で遠隔地に赴任していて滅多に会えない」と説明しているが、梢が元幹部自衛官に見えるかは難しいところだ。ここは不妄語戒(嘘を禁ずる戒律)を犯す前に事実を申告することにした。
「実は前の妻は自衛隊を退役したのを機に私とは離婚してアメリカ国籍を取得して生まれ故郷のハワイに帰りました。今の妻は若い頃に交際していて私のオランダ赴任に秘書兼通訳として同行してくれたんです。オランダで籍を入れました」「そうですか。それはおめでとうございました。それもご縁、御佛のお導きでしょう。南無阿弥陀佛」住職が手をわせて念佛を呟くと梢も自然に合掌して念佛を唱えた。やはり私との生活で信仰心が身体に染まっているようだ。
「蓮床さんがこちらでお世話になっているとは知りませんでした」「蓮床さんはニンジンさんがウチで修行していたことを知って訪ねてきたんですよ。それで『出家したい』って言うからニンジンさんみたいな坊さんになればってウチで得度しました。増上寺で修行して今では正式な坊さんですよ」そこに妻が住職と私たちのお代わりの緑茶を運んで来て3人に配った。
「それにしてもニンジンさんは何かに憑かれたように働き通しでしたけど蓮床さんも暇にしてるのが罪みたいに仕事を探しています。それって自衛官の習い性なんですか」「自衛隊って命懸けの修行なんですよね」すると盆を抱えて退室しようとした住職の妻が代わって答えた。
  1. 2023/05/15(月) 15:15:18|
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5月15日・アメリカ海軍の戦史部長・モリソン少将=博士の命日

1976年の明日5月15日は第2次世界大戦中のアメリカ海軍戦史部長として終戦後にイギリスの著名な戦史研究家から「第2次世界大戦の最高の文献」と絶賛された名著を発表したサミュエル・エリオット・モリソン少将=博士の命日です。88歳でした。
モリソン少将は1887年にボストンで1660年にイングランドから移住して多くの傑出した知識人を輩出してきたエリオット家出身の母親の息子として生まれました。
モリソン少年はニューイングランド内の名門私立学校に通ってハーバード大学に進学しました。ハーバード大学ではエリート学生の学内結社に参加して1908年に歴史学士の学位を取得すると1年間フランスに留学した後にハーバード大学に復学して1912年に博士号を取得してカリフォルニア大学バークレー校の歴史学講師になりました。カリフォルニア大学では博士論文を元に独立当時の実業家で政治家のハリソン・グレイ・オーディスさんの伝記を刊行して1915年にはハーバード大学に専任講師として迎えられますが、アメリカが第1次世界大戦に参戦すると陸軍で出征して1919年の講和会議では小委員会のアメリカ代表を務めています。
終戦後は1922年から1925年までイギリスのオックスフォード大学でアメリカ史の記念教授を務め、1925年にハーバード大学に戻ると教授になりました。この頃から生涯の研究主題になるニューイングランドの歴史に着目して1921年に「マサチューセッツの海洋史・1783-1860」を刊行し、1930年代にはニューイングランドとハーバード大学に関する著作を次々に発刊しました。そして1942年にコロンブスさんの伝記を発表して1943年にビューリッツァー賞を受賞しました。
こうして歴史研究者としての地位を固めていたモリソン教授は1942年に友人でもあったフランクリン・ルーズベルト大統領と面会した時、「海軍内からの視点で第2次世界大戦におけるアメリカ海軍戦史」の執筆と自らの従軍を提案したのです。1942年5月5日に予備役の海軍少佐に任命されるのと同時に召集を受けるとアメリカ海軍の活動を綿密に調査して膨大な資料を蓄積して終戦後の1947年から1962年にかけてアメリカ海軍の戦略と戦術から科学技術と人事までを網羅した「第2次世界大戦におけるアメリカ海軍作戦全史」全15巻を刊行したのです。中でも3巻の「昇る太陽」で1949年にコロンビア大学の学術賞・バンクロフト賞を贈られたのを花道として1951年8月1日に少将に昇任して退役しました。そして1959年のアメリカ独立戦争の英雄・ジョン・ポール・ジョーンズ提督(イギリスのネルソン提督、日本の東郷平八郎元帥と共に世界3名提督と称されている)の伝記で2度目のピューリッツアー賞を受賞しています。
モリソン少将の著作物は内容だけでなく文章の巧みさも高く評価されていますが、「アメリカの歴史家たちは事実をつたえようと熱望する一方でこれまでの仕事の文学性には無神経だった」と苦言を呈しています。野僧もアメリカ海兵隊の友人から借りて翻訳しましたが確かにモリソン少将の文章は論点の提起と根拠・解説の後の結論の流れが明解で理解が容易でした。それでも流石に文体・用語の優劣までは評価できませんでした。
  1. 2023/05/14(日) 15:45:42|
  2. 日記(暦)
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続・振り向けばイエスタディ488

「基地を眺めてると嘉手納を思い出しちゃうわ」福生市のマンションは自衛隊の官舎よりも横田基地に近い上、6階なのでベランダからは格納庫や第5空軍の建物から外れた滑走路が見える。中でも夜のランウェイ・ライトは那覇基地を思い出してベランダで梢と並んで缶ビールを飲みながら眺めていても飽きることはない。あの頃、自家用車を持たなかった私は嘉手納基地へはバスで行くしか足がなく、展望名所になっていたモンテカルロの丘には嘉手納町役場の前で下りて1キロ以上歩かなければならなかった。それでも帰りは軍用機の写真撮影が趣味で毎週通っている先輩が車に乗せてくれたが、そのような趣味の男性に彼女がいるはずがなく助手席に梢を座らせると妙にハシャイでいた。
「普天間は愛国知祖之塔からは正面に見えたけど・・・」「今は摩文仁に移動させられたんだよな。あれは大田昌秀の勝手な策謀で愛知県の部隊が全滅した史実は無視しているんだよ」沖縄戦における愛知県の戦没者慰霊碑の愛国知祖之塔は私が勤務していた頃には沖縄戦で愛知県の多くの将兵が戦死した激戦地の前田高地=浦添城址にあった。ところが琉球大学教授として沖縄のエリート層を反日反米親中に洗脳して知事に当選した大田昌秀が日本陸軍第32軍司令部が全滅した摩文仁を反戦平和の名を借りた反日反米の拠点施設化するため1996年に沖縄本島内の所縁の地に点在していた慰霊碑を集めたのだ。摩文仁には国籍を問わず戦没者の氏名を記した「平和の礎」と言う慰霊碑があるが、戦前には存在していない中華人民共和国や朝鮮民主主義人民共和国、大韓民国に分類している。昔の愛国知祖之塔の跡地は普天間基地の滑走路の真正面にあり、現在では着陸するアメリカ軍機を墜落させるための鉄片を貼りつけた風船の放出やパイロットへのレーザー・ビームの照射などの妨害活動の現場になっている。
「その点、山形の塔はまだ糸満の真栄田高地にあるんだぞ。山形の塔は歩兵第32連隊が昭和20年の8月29日まで籠っていた地下洞窟壕の跡地に建立されているから先に全滅した第32軍に擦り寄ることを潔しとはしなかったんだろう。山形県人だから大田の卑劣な政治的策謀を見抜いたのかも知れないな・・・今度、山形に先祖の墓参りに行こう」話が随分と反れて平和な気分の旅行計画になってしまった。私の岡崎市と蒲郡市を除く愛知県に対する嫌悪感は相変わらずで愛国知祖之塔と山形の塔の対応の違いで火が点いたようだ。父方の祖父の出身地の山形県最上郡戸沢村には佳織を連れて墓参に行っている。あの時、お世話になった祖父の弟の永(ながし)さんは私が陸上幕僚監部で勤務していた時に亡くなったが、まだ墓参していない。是非とも梢を紹介する代わりに墓参させたいのだ。
「そう言えば私が好きなさだまさしの歌・・・君は今、スポット浴びたスターのように 滑走路と言うステージに 呑み込まれていく」「君を乗せた鳥が今、翼はためかせて 赤や緑のランプを 飛び越えていく・・・最終案内だな」今回は歌を合わせるデュットではなく会話のように引き継いでみた。あの頃、梢はかぐや姫と南高節のファンだったが旅行社で勤務していただけにこの「最終案内」やサーカスの「アメリカン・フィーリング」、かぐや姫の「海岸通り」などの飛行機や船を主題にした歌が好きだった。その点、沖縄には鉄道がないのでイルカの「なごり雪」やさだまさしの「駅舎」などの列車ものは今一つピンときていなかった。
「あれッ、君は・・・」日曜日、梢と福生市内で買い物に出たついでに官舎に住んでいた頃、修行の真似事をさせてもらっていた浄土宗の寺に挨拶に行くと見覚えがある坊主が境内の掃除をしていた。坊主は合掌すると背中を伸ばしたまま節度をつけて10度の敬礼をした。私は浄土宗の坊主の知り合いはこの寺の法要で一緒になった地域の住職くらいしかいないが数人のことなので顔は寺名に結びつけて憶えている。その中に該当者はいない。
「モリヤ2佐、お帰りになったんですか」「確かアサヤマくんだったね。君も坊主になったのか」モリヤ2佐と呼ばれたことで「自衛隊の知人」と言うヒントを与えられて日本の部分の記憶力が作動した。朝山は陸上幕僚監部で唐突に慰霊法要を命じられた時の回向の対象者で、国際刑事裁判所からフィリピンのナバオ・デス・スクワットの調査に赴いた際には現地で見せられた活動の記録画像に麻薬組織を射殺した場面が写っていた。仮に岡倉たちと同様に自衛隊の秘密組織で非合法な任務を遂行していたとすれば退役後には慰霊の信仰生活に身心を委ねなければ平穏な生活が維持できないことは北キボールで3人の若者を殺している私には実感として理解できる。私の場合は元々が坊主だったが。
「日本が戦争状態になって戦争法が適用されるようになったから検事をやれって帰国を命ぜられたんだ」「成程、それは心強いですね」私の説明にアサヤマ坊主は納得したように会釈した。
「レンショウさん」その時、庫裏の窓からこちらも見覚えがある住職の妻が顔を出して声をかけた。僧名は蓮床と言うらしい。法然上人の直弟子になった熊谷次郎直実の蓮生と音は同じだ。
み・純名里沙イメージ画像
  1. 2023/05/14(日) 15:43:43|
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