1252年の明日8月1日は東欧にまで迫っていたモンゴル帝国に派遣されて現在の首都・ウランバートルの西230キロに位置する当時の首都・カラコルムに赴き、その内情を詳細に報告した隠密使・ヨハン・ネス・デ・プラノ・カルピニ修道士の命日です。71歳でした。
カルピニ修道士は1182年にイタリア半島中央部のペルージャに近いマジョーネのヴィラ・ピアン・デイ・カルピネで生まれたと言われ、聖職者としてはイタリアのフランシスコ会に所属しました。フランスコ会は粗衣粗食の清貧を貫き、教会はおろか住居も持たず、手仕事の収入以外は喜捨で生活していたため托鉢修道会、乞食修道会と呼ばれています。その苦難を法悦とする宗風を利用したヴァチカンの命令で十字軍に便乗してバルト海沿岸の土着民族の宗教を弾圧した神聖ローマ帝国や11世紀半ばまでイスラム教に支配されていたリヴェリア半島で布教したことで教団内の知名度を上げ、管区長に登用されるようになりました。
そんな中、中央アジアからロシアを制服したモンゴル帝国が1241年のワールシュタットの戦いでドイツ・ポーランドの連合軍を敗って神聖ローマ帝国内に足を踏み入れると皇帝とヴァチカンの教皇の関係が険悪になり、皇帝が軍を派遣してヴァチカンを包囲したことから1245年に第1リヨン会議が招集されてモンゴルに交渉使節(実際は情報収集が目的の隠密使)を派遣することが決定し、カルピニ修道士とボヘミアのフランシスコ会の修道士の2名(途中でポーランドのフライスコ会の1名が加わった)が任命されました。
3名は当初、カスピ海の北東のサライに駐留し、都を築いていた欧州派遣軍のパトウ司令官と面会しましたが、そこでモンゴル2代皇帝のグユク・ハンの元へ行くように命じられたためそのまま中央アジアを横断してカラコルムに赴きました。カラコルムでは折からグユク・ハンの即位式が行われ、カルピニ修道士たちはヴァチカンの教皇の名代としてイスラム圏の代表団と共に出席して、その後に国書を手渡して交渉を行いました。しかし、第1の要求だったカソリックへの帰依は敬虔なチベット佛教国のモンゴルが応じるはずがなく、第2の要求の和睦もグユク・ハンが全ヨーロッパの支配を明言したため断念して本来の任務である現地情報の収集に本腰を入れました。
その成果はパトウ司令官の面会後にヴァチカンに書簡で送った報告で人物像を「部下への思いやりにあふれる偉大なる賢君」と評価した一方で戦闘時の残虐性と交渉の対応から抜け目のない狡猾な面も見逃さず、さらに都の建設に動員している現地人の処遇を見分して「名君だが暴君でもある」と客観的に分析しているように帰国後のヴァチカンへの報告で詳細に記されています。
ところが教皇が要求の断念を「失敗」と考えたため使節団の長だったカルピニ修道士は冷遇されるようになりましたが、後年、刊行した著書「われらがタルタル人と呼びたるところのモンゴルの歴史」の記述を客観的に分析するとモンゴル側も使節団を正式な国交交渉の相手として礼節を尽くして処遇していて4代皇帝・モンケ・ハンの時代にフランスのフランシスコ会に派遣された修道士とは扱いが違ったようです。結局、ヴァチカンも圧倒的なモンゴルの軍事力を前に為す術がなかった立場を自覚したようで何の知識もなかったモンゴルに関する風習や国民性、軍事力や政治制度などの詳細な情報を獲得しただけでも十分な成果として大司教に任命しました。
要するに尊皇攘夷の狂気に浮かされて圧倒的な軍事力を背景に開国を迫る欧米の列強に万国公法に基づく国際法慣習に則った外交交渉で国家としての威信を保った徳川幕府の業績を逆に討幕の口実にした薩長土肥の明治政府と同じ過ちを犯しながらもこちらは訂正したようです。
- 2023/07/31(月) 14:32:40|
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「意外に破壊されてないんだね」「はい、25i(インファントリー・レジメント=第25普通科連隊)は千歳の航空自衛隊の防空態勢が再建されてからは補給物資が届かなくなったことを見越して包囲による兵糧攻めに徹していましたから潜入させた隊員の銃撃以外に戦闘は発生していません」遠軽駐屯地に宿泊した翌日は網走市内の現地確認になった。今回は昨日の状況説明で私に冷水を浴びせられた3科長の部下の運用訓練幕僚が案内役だった。ウクライナで「何か憎悪する理由があるのか」「占領した後、再利用するつもりはないのか」と思案してしまうほど徹底的なロシア軍の破壊の惨状を現地で見ている私としては無人の住宅地や中心街の建物が無傷で残っていることが信じられなかった。
「ロシア軍としては網走市には空自のレーダー部隊以外に敵はなく戦車を要点に配置して歩兵を展開すれば占領は容易だと考えていたようです。空自のレーダー部隊は事前に撤退する。残っていても戦車で攻撃すれば簡単に制圧できる。それでも駄目なら兵糧攻めにするつもりだったのでしょう」「その上陸部隊の大半を地対艦ミサイルで撃沈されてしまって作戦は頓挫、立場が逆転してしまったと言う訳だ」私の答えを聞いて運用訓練幕僚と警務隊長は苦笑と嘲笑を混ぜ合わせた顔でうなずいた。ところが隣で梢が難しい顔で思案し始めた。私が小声で理由を訊くと意外な答えが返ってきた。
「沖縄の学校の授業では郷土史の後に本土の歴史を教えるから猛スピードなの。だから兵糧攻めって聞いたことがなくって・・・意味は理解できるけどイメージが湧かないの」思いがけない沖縄の学校教育の欠陥を聞かされて3人で顔を見合わせてしまった。沖縄県でもトップ・クラスの進学校を卒業した梢がこれでは美恵子は知識の欠片も持っていなかったはずだ。ただし、美恵子には理容とファッション以外の学究意欲が欠落していたので疑問を抱くこともなかっただろう。それでも死者を鞭打つことは控えることにする。
「日本史で兵糧攻めと言えば羽柴秀吉だが三木城の干し殺し、鳥取城の餓え殺しは悲惨だったよ。秀吉の場合は竹中半兵衛、黒田官兵衛と言う名軍師がついていたから事前準備も完璧で城攻めを始める前に周囲の農民から高値で米を買い占めて兵糧米が手に入らないようにしていた。おまけに籠城が始まると周囲で宴会を催して城兵の不満を煽った。どちらの城でも軍馬を殺して食べ、戦死者の肉を食べ、雑草は勿論、城壁の土まで食べるようになって、やがては餓死すれば群がって肉を口にするようになったそうだ」この2つの兵糧攻めと備中・高松城の水攻めは秀吉側から見れば勝利の歴史だが毛利側からは残酷な悲劇以外の何物でもない。そのため防府時代には何度も資料を読む機会があった。中でも三木城には佳織と兵庫県の伊丹の実家に帰省した時に城址を見学に行っている。一方、梢とは沖縄で今帰仁城址や中城城址、浦添城址、玉城城址などの城址巡りをしているが教育委員会や観光協会が設置している説明の看板には攻城戦に関する史実は書いてなかった。
「この家では庭で鹿や熊を捌いた跡があり、浴室内に食肉加工したロシア兵の遺骸が2体残っていました」ロシア軍の上陸予定部隊は地対艦ミサイルが命中した大型フェリーが沈没する前に生き残った兵士たちは海岸に泳ぎ着いたが、積んでいた戦闘車両と大小の武器、燃料に弾薬だけでなく食料を始め被服や医薬品の大半は海に沈んでしまった。そのため食料を探して押し入った住宅でも居心地が良さそうな家に居座るようになっていた。第25普通科連隊の運用訓練幕僚はその中の一軒でおぞましい事実を説明した。水道が使えないため遺骸を収容した後の清掃が不十分なのか床のタイルの目地には血と思われる茶色い染みが残っている。排水溝の金具には茶色い髪の毛が引っ掛かっていた。
「警務の報告文書には自衛隊に射殺された遺骸を運び込んで解体したとあるがロシア軍が食べるために殺害した形跡はなかったのか」「死因が特定できていないので根拠はありませんがそれは考えたくありません」私の冷淡な質問に運用訓練幕僚は表情を凍りつかせて答えた。第25普通科連隊としては補給が遮断されて包囲されれば無駄な抵抗を止めて降伏すると考えていたようだが、皇帝に絶対的忠義を尽くす伝統を継承しているロシア軍は太平洋戦線の日本軍守備隊と同じく座して死を待つ選択をした。ただし、日本軍のように飢えて痩せさらばらえた身体で武器を持って戦う鬼気迫る士気までは発揮しなかったので多くは江団別の捕虜収容所で安穏な生活を送っているのを確認してきた。
- 2023/07/31(月) 14:31:26|
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現代の太陽暦では9月中旬(まれに8月中)に当たりますが月齢が新月(=真っ暗)になる太陰暦の7月の晦日(みそか)から8月の朔日(ついたち)の夜に有明海から八代海の沖の水平線上に炎のような光が並ぶ不知火(しらぬい)が現れます。
不知火は奈良時代に編纂された日本書紀にも日本武尊の父の12代・景行天皇が九州の熊襲(熊本県と鹿児島県の県境の球磨と曽於の地名の由来とする説もある)を攻撃した時、海上で漆黒の闇に包まれて位置と進路が判らなくなると突然、海面に並んだ光が現れ、それを頼りに船を進ませて無事に海岸に到着できたので地元民に「何の炎か」「誰が燃やしているのか」を尋ねると「知らない」と答えたため「不知火」と名づけたと言う説話があります。
不知火は前述の7月の晦日と8月の朔日の雨が降っていない深夜午前3時の前後2時間頃に新月の漆黒の闇の中に始めは「親火」と呼ばれる炎が1つか2つ燃え上がり、それが左右に分かれて燃え広がり、最終的には数千もの光が4キロから8キロに渡って並ぶのです。ただし、船や飛行機では近づくことはできずどこまで追っても逃げるように距離を保つそうですが、海面ではなく10メートルほど浮いた空中で燃えているようです。
大正時代になると怪奇現象を科学の論理で否定する現代の学者と同様に江戸時代までは信仰の対象だったこの超常現象を科学的に解明しようとする愚か者が現れ、先ず熊本高等工業学校の教授が「不知火の光源は漁火であり、太陰暦の8月の朔日頃には大潮で沖に干潟ができるため冷風と干潮の温風が入り混じって大気が不安定になり異常屈折現象を発生させるのと漁火が激しく揺らめくのを無学な迷信を信じる人々が妖火と思い込むのだ」と言う説を提唱しました。
次に熊本帝国大学の学者が「不知火は気温が異なる大小の複雑な空気魁の中を通り抜けてくる光が屈折を繰り返して発生する蜃気楼や陽炎などと同類の光学現象」として「光源は民家などの灯火や漁火」としました(当時は干拓されておらず対岸に街並みは存在しなかった)。
ところが昭和になって気象学者が著書の中で「不知火の原因は判っていない」とこれまでの学説を否定する一方で夜光虫を光源としながら観光客目当ての誇大宣伝を疑う推理を記述しました。
一方、素人ながら野僧が光源を漁火とする学説に疑問を感じるのは江戸時代まで有明海や八代海の漁民たちは不知火を千灯篭(せんとうろう)や竜火(りゅうとう)と呼んで神聖視していて出現する7月の晦日と8月の朔日は殺生を避けて漁には出なかったとされているので海上に漁火が存在するはずがないのです。これは有明海や八代海の不知火に限らず全国の漁村(愛知県蒲郡市を含む)では太陰暦の7月15日の盂蘭盆会の3日間は殺生を避けて禁漁にしていてこの掟を破った者は沖で舟幽霊に遭って海中に引き込まれて命を落とすとされていました。これは沖縄でも糸満や先島・八重山の海衆(ウミンチュウ=漁師)から聞いたことがあります。
明治以降に西洋的科学万能主義に染まった学者たちは「板子一枚下地獄」の危険と隣り合わせの海で働く人たちの素朴でも真摯な信仰心を理解することなく沖で異常屈折現象や光学現象によって不知火を発生させる光源を推理すれば即座に漁火と言う結論に至ったのでしょう。しかし、それは机上の論理で実際に現場で実態を調査したとは思えません。
残念ながら現在は対岸が干拓されて街並みが造成され、灯火が溢れているので新月でも漆黒の闇にはならず不知火の発生頻度はかなり落ちているようです。最近撮影された不知火の写真も対岸の夜景かも知れません(真夜中の撮影時間から言えばここまで灯火は点いていないとは思いますが)。

最近の不知火
- 2023/07/30(日) 13:59:28|
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「戦闘行動としては敵を殺傷するのは当然としても自衛隊はあくまでも治安出動の警察権の行使として武器を使用しているのですから不法入国と食料を奪った窃盗の罪で射殺するのは私が提訴された刑法199条の殺人罪とは言わないまでも刑法195条の特別公務員暴行凌辱罪が成立する可能性は十分にありますね」演習場での空襲による損害の確認を終えた私たちは遠軽駐屯地に向かって第25普通科連隊と第3地対艦ミサイル連隊の関係者から戦況と損害の説明を受けた。すると2日前に視察に訪れた陸上総隊幕僚長さま御一行に披露した戦果報告を流用したようで説明する第25普通科連隊の3科長はロシア軍に占領された網走市内に潜入した隊員が食料を求めてスーパーマーケットやコンビニエンスストアに押し入ったロシア兵を射殺したことを誇らしげに紹介した。その表情に昭和の軍人に通じる傲慢さを感じた私はあえて冷水を浴びせた。敗戦後から現代までの日本の戦争映画やドラマでは帝国陸軍の軍人を腹黒く功名心に逸って無謀な戦闘を繰り広げた極悪人として描いているが、そのような役者の演技でなくても本人の肖像写真を見ると好戦的で権謀術数にだけ長けた雰囲気の俗物が多い。それは帝国海軍も同様でこちらは紳士気取りの遊び人風だ。その癖、映画では海軍ばかりが英雄扱いなのは偏見だろう。
「そうなると終戦後にはウチの隊員、我々を含めて我が連隊の人間は戦犯として逮捕されるのかね」「戦争法違反の戦犯と言うよりも日本の刑法犯でしょう。それは帰国者の私よりも警務隊長の方が専門です」いきなり話を振られた警務隊長は出席者に視線を浴びせられて口を「へ」の字に曲げて押し黙った。
「それでは我々が大型フェリーを撃沈して乗っていた1000人を超えるロシア軍将兵を殺したのも犯罪になりますか」私の指摘に隣りの席の第3地対艦ミサイル連隊の3科長が重い口調で質問してきた。先ほども現地説明に来た3科の運用訓練幕僚も似たような不安を口にしたので、これは部隊で共有している加害者意識なのかも知れない。
「日清戦争中の明治27年7月25日に東郷平八郎少将は黄海の豊島沖で清国艦隊を発見して攻撃しましたが、降伏勧告を受けたイギリス船籍の貨物船の高陞が『乗っている清国兵の脅迫を受けて降伏できない』と回答したので撃沈したんです。その時、イギリス人の乗組員は救助しても清国兵1100名の大半は死亡しました。その時、イギリスの顔色を窺う日本政府とマスコミは東郷少将を解任して軍法会議にかけようとしましたが、イギリスの国際法の権威が東郷少将の措置の適法性を説明して極東の日本にも国際法が周知されていることが判って感激したと賞賛したんです。日本ではウォー・ロー(戦争法)を戦時国際法と呼んでいますが適用されるのは戦時だけではない。海上では国際法が優先されることが多いが日本国内では戦時規定を持たない国内法になる。そこが難しいところだ」折角、冷水を浴びせて反省させている第25普通科連隊の出席者の中途半端な助け舟にならないように後半の解説を付け加えた。
「私の経験上、マスコミの取材には要注意ですな。マスコミが犯罪者扱いして報道すれば現場での発生経緯は無視してそれが事実になってしまう。それを政治的に利用しようと虎視眈々と狙っている奴はどこにでも潜んでいるんだ」「モリヤ2佐の時は徳島水子でしたね」「今なら湧水元太かも知れないな」私の助言に黙っていた第25普通科連隊の出席者たちが同調した。確かに私を殺人犯として告発したのは人権派弁護士でもある社人党の徳島水子党首だった。しかし、立権民衆党の湧水代表は京都の名門大学の法学部卒でも弁護士の経験はないはずなので司法を政治利用するかは未知数だ。
「実は道(北海道庁)から在札幌のマスコミ各社の記者団の取材を受け入れて欲しいと言う要請が入っていて連隊としては応じるつもりなんですが」ここで第25普通科連隊の1科長の3佐が部外者である私に不可解な説明をしてきた。私としては責任ある回答はできないが北キボールPKOでの刑事訴訟、さらにイージス護衛艦と漁船の衝突事故の海難訴訟でマスコミと全面対決してきた経験で助言はできる。
「最初に自衛官が犠牲になった現場を自衛官の案内で取材させることです。本当は航空自衛隊の高射群が全滅した根室から始めるのが効果的ですが」「北方は2師団からと言っているので・・・」所詮、専門外の部外者の助言は却下された。
- 2023/07/30(日) 13:57:29|
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1898年の7月30日にオーストリア帝国の一部に過ぎず、大陸国家であるが故に海軍力の増強と海洋進出に出遅れて海外植民地の争奪戦から除外された三流国家だったプロイセン王国をドイツ連邦(オーストリア帝国を除く北部のドイツ民族の国家連邦)の盟主の座につけ、19世紀のヨーロッパを影で牛耳ったオットー・エドゥアルト・レオポルト・フォン・ビスマルク=シェーンハウゼン宰相の命日です。83歳でした。
ビスマルク宰相は1815年にプロイセン王国東部のシェーンハウゼンで地主貴族(血統や武勲ではなく資産で身分を得た貴族)の息子として生まれました。地主貴族なので軍人よりも官僚を目指してゲッティンゲン大学やベルリン大学の法学部を卒業して官僚試験に合格しましたが役人暮らしに馴染めず間もなく退職して実家で地主貴族の仕事に従事しました。
1847年に身分制議会=貴族院の代議士になると強硬保守派の指導者として1848年にドイツ各地で頻発した自由主義とナショナリズムの革命運動を批判しましたが、1849年に設立された下院=衆議院の議員にも当選しています。それでも国王の信任を獲得して革命運動で成立した自由主義政権に対抗する王室内の影の内閣に参加しました。
1951年には旧ドイツ連邦のプロイセン全権公使に就任しましたが、ドイツ民族の盟主であるオーストリア帝国の旧態依然・骨董品化した実態を目の当たりにしたことで北部のドイツ民族の国家のみによる小ドイツ連邦の独立を模索するようになり、ナポレオン3世のフランスとの連携など反オーストリア的外交姿勢を公然化させました。これは次に駐ロシア公使として赴任した時、クリミア戦争で敵対したオーストリアを憎悪する宮廷内で大歓迎を受けることに役立ちました。
プロイセン国内では自由主義政権が権勢を強める一方で、そんな1861年に即位したヴィルヘルム1世が小ドイツ連邦内での支配権を獲得するために命じた軍備の強化予算を衆議院が否決するとビスマルクさんを首相に指名し、1862年9月30日に衆議院予算委員会で熱弁を奮ったのが代名詞「鉄血宰相」の由来になっている「ドイツ(連邦)が注目しているのはプロイセンの自由主義ではなく力である。(中略)現下の大問題の解決は演説や多数決ではなく鉄(=軍事力)と血(=戦争)によって為されるのだ」と言う演説です。しかし、議会の支持を得ることはできずビスマルク内閣は国家予算なしで軍制改革を断行し、1864年にドイツ連邦の加盟国2国がデンマークに併合されるのを阻止した戦争とこの2国の帰属を巡るオーストリア帝国との対立、それに続く1866年の短期戦で勝利したことでプロイセンを中核とする小ドイツ連邦の統一と独立を実現しました。
その後も1870年から1871年のフランスとの戦争にドイツ連合軍として勝利したことでヴィルヘルム1世を統一ドイツ皇帝に即位させる一方でヨーロッパ圏内の国家の対立と仲介を巧妙に画策することで存在感を増し、第1次世界大戦まで戦争が発生しない奇跡を起こしています。中でもアフリカの植民地を巡るイギリスとフランスの対立を巧妙に利用しながらドイツ自身の野心を見せることなく軍隊を派遣せずに自国民が入植したアフリカや南太平洋諸島を領土=植民地に加えています。
ビスマルク宰相は明治4(1871)年に欧米を訪問した岩倉使節団と面談した時、「ドイツも今の日本と同じ三流国家だった。それが今ではヨーロッパの列強に伍している。日本の将来に期待している」と述べて感銘を与え、絶大な崇敬を集めるようになりました。惜しむらくは皇帝の交代で信任を失ったことですが、色々調べてみても清濁併せ吞む度量と徹底的な合理=功利主義、手八丁口八丁に足も出る卓越した政治的手腕は「史上最高の政治家」と評価しても良いでしょう。
- 2023/07/29(土) 13:02:08|
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翌日は警務車両で隣村の鬼志別演習場に展開している航空自衛隊の第1移動警戒隊に寄った後、ロシア軍の攻撃ヘリコプターの空襲を受けた遠軽演習場の第3地対艦ミサイル連隊の展開地を現地確認してから遠軽駐屯地に向かい第25普通科連隊の関係者に戦況の説明を受けることになっている。入間基地から中部航空方面隊司令部支援飛行隊のUー4で一緒に来た陸上総隊幕僚長さま御一行は旭川駐屯地に移動して報告を受けた後、第2師団長と一緒に第2飛行隊のUHー1ヘリコプターで視察に向かったらしい。そう言えば警務隊で資料を読んでいた時、離陸するヘリコプターのエンジンを聞いた。やはり陸上総隊幕僚長ともなると業務多忙で陸路でドライブしている訳にはいないようだ。
「おはようございます」「今後も警備で頑張ってくれ」朝食を終えて稚内分屯基地のゲートを出ると昨夜の歩哨が見送った。警衛隊の交代は国旗掲揚後のはずなのであと少しの勤務だ。北海道では戦闘は終息しても道知事からの避難命令が解除されていないため隊員の家族は官舎に戻っておらず基地内待機が継続されている。そのため登庁・出勤はない。
「昨日、あの子が唄っていた警備の歌、知ってた」「ダンチョネ節か、あれは勝手な歌詞をつけて唄うから千差万別の歌があるんだよ」ゲートを過ぎて短い坂道を下り、生活臭が消えている海岸通りを右折すると梢が小声で訊いてきた。昨夜、ゲートを開けに来た歩哨は海鳴りを伴奏にするように低くダンチョネ節を口ずさんだ。
「俺が死んだら 三途の川で 鬼と一緒によ 警備するダンチョネ」ダンチョネ節は大正から昭和に流行した神奈川県三浦半島の民謡とされる歌で、ダンチョネは「断腸の想いでね」とする説がある。軍隊でも様々な替え歌が作られたがこちらは「師・旅団長さんもね」を意味すると改められた。私も那覇基地でパイロットから「沖の鴎と 戦闘機乗りは どこで果てるやら 判りゃあせぬダンチョネ」と習ったことがある。もしかすると森田定年2佐が考えて第3術学校の警備課程で教えたのかも知れない。
「ここのランチャーが破壊されたんだね」「はい、幸い本体は壕の中に収納していましたから誘爆は回避できました」遠軽演習場では第3地対艦ミサイル連隊3科の1尉の幕僚が案内してくれた。第3地対艦ミサイル連隊の実戦配備は遠軽駐屯地での待機に移行しているので詳しくは後で説明を受ける予定だ。昨日、森田予備2曹が第18警戒隊長に質問していたが同じ様に誘導ミサイルが爆発しても、壕に埋設していた陸上自衛隊では損害が局限されたのに対して航空自衛隊は車載していた予備弾まで次々に誘爆して展開地そのものが壊滅してしまった。その原因が警戒隊長が答えた高射部隊の体質だとすれば航空自衛隊の金看板である「実戦性の追求」は空を飛ぶ、飛ばすこと限定になる。
確かに航空部隊では戦闘以前に飛べばパイロットの生命に関わり、飛ばす業務は「安全」と言う一切の妥協が許されない実戦の追求だった。その点がアメリカでの年次射撃以外に実弾を発射する機会がない高射部隊とは違う。考えてみればナイキやペトリオットの地対空ミサイルはアメリカだけでなくヨーロッパでも陸軍が運用している。昭和62年12月9日にソビエト連邦軍のツボレフ16偵察機に沖縄本島上空を領土侵犯されて航空自衛隊の要撃機が警告射撃した時、真上を通過したため警戒管制レーダーが追尾できなくなっても勝連駐屯地の第6高射特科群のホーク用レーダーだけは捕捉していた。現用の地対空ミサイル・PAC2、PAC3も陸上自衛隊に使わせた方が実戦の役に立ちそうだ。
「それで戦死者はどこに埋葬したんだ」「幸いロシア軍の攻撃は一度だけでしたから可能な限り収容して部隊葬を実施した後、車両で富良野に送りました。今は遺族の元へ帰っているはずです」「撃墜したロシア軍ヘリの搭乗員は」「あれは25i(25インファントリー・レジメント=第25普通科連隊)が海上で撃墜したので機体と乗員は海の底です。回収できていません。それよりも・・・」私がロシア軍の戦死者の慰霊行事を実施したのかを確認する前に1尉の幕僚が険しい顔で1つ息を飲んで言葉を継いだ。
「実は空襲が終わった後、ロシア軍の大型フェリーが網走港に接岸したとの情報を得て、発射可能なミサイルを連射したんです。その結果、3隻撃沈したんですが、おそらく主力部隊の千数百名が水死しました。こちらの慰霊はどうすれば良いのでしょうか」やはり網走市付近では夜になると海鳴りの呻き声が響き、人魂が乱舞しているのだろう。
- 2023/07/29(土) 13:00:35|
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盧溝橋事件から3週間後の昭和12(1937)年の明日7月29日に21世紀に入ってからもチベットや新疆ウィグル自治区で共産党中国が続けている残虐な大量殺害を現在の北京市通州区にあった日本人居留地で行った通州事件が始まりました。
盧溝橋事件は同年7月7日に北京市郊外を流れる永常河に架かる盧溝橋付近で演習を実施していた日本陸軍に何者か(=日本軍と国民党軍の紛争を画策する共産党の工作員とする説が有力)が実弾を発砲したことを発端として始まった武力衝突ですが、現地軍とは別に両国政府は戦線不拡大で一致していたため早急に停戦が成立しました。
一方、関東軍は事件以前から画策していた華北分離工作(河北省、察哈爾省、綏遠省、山西省、山東省の華北五省を国民党支配から離脱させる)で日本人居留地がある通州に自治政府を設立して治安維持を名目とする保安隊の編成と教育訓練に着手していました。しかし、急ごしらえの保安隊は満州軍閥の東北軍が主体とされていても実態は共産党の反日工作員や武装盗賊の匪賊が多数紛れ込んでいて関東軍が目論んでいたような国民党軍に対抗する中国人による新たな軍隊にはなり得ませんでした。
実際、義和団事件以降は7月10日に将校斥候に擲弾筒が発射され、13日に軍用トラックが爆破されて4名が戦死、7月16日には日本軍と保安隊の反乱兵の間で銃・砲撃戦が発生し、それからは武力衝突が続発・激化したため関東軍は盧溝橋事件の時点で1個小隊45名と憲兵7名だった通州駐留部隊を増強することにしたのです。しかし、この増強部隊は別の地域の争乱に派遣されて通州には110名程度しか残っていませんでした。
ところが7月27日に保安隊の反乱兵を攻撃した日本軍機が保安隊の宿営地を誤爆したことを受けて国民党政府が扇動報道を流したため反乱兵が特定できていなかったにも関わらず通州駐留部隊の監督下に置くことが決定され、保安隊の全部隊が通州地区に入城すると城門は閉鎖されました。この時点で日本軍は保安隊を友軍と認識していたようです。
そうして深夜午前2時頃、保安隊の反乱兵(事実上は大多数)が行動を開始して日本軍駐留部隊の宿営地と特務機関を手始めに自治政府、日本領事館と警察を襲撃して手当たり次第に殺傷すると日本人と半島人385名が暮らす居住地区に乱入すると一軒一軒手分けして襲撃して略奪、強姦、殺害、暴行を繰り広げ、223名を死亡させました。この時、動哨などで難を逃れていた日本兵が執拗に抵抗したため加害者が約3000名と大規模だったにも関わらず150名余を生存させ、惨劇の実像を証言させることができました。
ただし、中国を取材していたアメリカ人ジャーナリストが「友人の警護者のフリをしていた支那兵による通州の日本人男女、子供等の虐殺は古代から現代までを見渡しても最悪の集団屠殺として歴史に記録されるだろう」と述べているほどの惨劇であり、犠牲者のうち約30名は遺骸の損傷が酷く身元どころか男女の性別も判定できませんでしたが、その一方でスターリン書記長の密命で日本軍と国民党軍の全面戦争を策謀していた朝日新聞が主導する新聞各紙は女性の凌辱や残酷な拷問を過度に強調した報道を展開して日本人の国民党に対する敵意を扇動するのに最大限利用しました。
- 2023/07/28(金) 13:47:14|
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「その服は航空自衛隊の昔の作業服だそうですね。名札の83空隊ってどこの部隊ですか」その夜は稚内駐屯地に宿泊したので梢と2人で分屯基地司令でもある第18警戒隊長が真顔で訴えた海からの人の呻き声と大量の人魂を確認するため警衛所に行ってみた。森田予備2曹は旭川からの連絡便の車両で捕虜収容所に帰ったので一緒に肝試しはできなかった。警衛所では2曹の警衛隊長と士長の歩哨が通常態勢で勤務していて私が用件を切り出す前に質問してきた。私が着ている作業服については同じ管理小隊の輸送班のドライバーから聞いたらしい。一方、那覇基地の戦闘機部隊が第9航空団になったのは2016年なのでこの士長はそれ以降の入隊のようだ。
「第83航空隊は今の第9航空団だよ」「と言うことは沖縄ですね。こことは真反対の前線だ」私が那覇基地で勤務していた頃は部隊歌の代わりとして戦時歌謡の「ラバウル海軍航空隊歌」を「銀翼連ねて南の前線 揺るがぬ守りの荒鷲たちが 肉弾砕く敵の主力 栄えある我ら83航空隊。航空精神燃え立つ闘魂・・・」と替え歌にして愛唱していたが今は「第9(きゅう)航空団」にして唄い継いでいるのだろうか。
「隊長から聞いたんだが海から人の呻き声が聞こえるんだって。それに大量の人魂が飛び交っているって言ってたけど本当かい」「マジっすよ。もう慣れましたけど」私の質問にも士長が答えた。2曹は梢が怯えないか顔を窺ったが私の新婚の古女房なので大丈夫だ。
「それは毎晩聞こえるのかね」「結構、しつこく呻いてましたけど最近は時々になりました。網走のロシア軍が降伏した頃でしたから幽霊も落ちついたのでしょう。人魂は雨が降ってない風が弱い夜の満潮の時間限定です」梢の落ちついた様子を確かめて安心したのか2曹が話に加わってきた。この説明も昼間の森田予備2曹と同様に簡潔明瞭で理路整然としている。この2人は淳之介と同世代だが粗製乱造の団塊の世代の理解を超えた「新人類」と呼ばれた我々昭和30年代生まれの親の子供なので優秀な遺伝子を受け継いでいるのかも知れない。淳之介の場合は母親の遺伝子が不安ではある。
「熊本の有明海では不知火(しらぬい)って言う怪奇現象が発生するんだが、あれは太陰暦7月の晦日(みそか)の新月の夜に起こるんだ。太陰暦だから今のカレンダーでは9月中旬だな」「芦屋に入校した時にテレビで見ました。水平線上に対岸の街の灯のような光が並ぶんですよね」「あれは引き潮の時に起こる。海面から10メートルくらい浮いているって聞きました」士長に続いて2曹が披露した知識は私よりも上だった。梢も初めて聞く話に興味深そうに聞き入っている。私も前川原で見たニュースで子供の頃に本で読んだ怪奇現象の発生に感心しただけでここまでは探求していなかった。
ただし、怪奇現象を否定する学者たちの「夏の日差しで海水温が上昇して大量に発生した水蒸気が干潮で冷却されて水滴状になって漁船の灯火を反射しているに過ぎない」とする説は不知火が起こる夜は殺生を避けるために漁を控えた漁民たちの風習とは矛盾する。
「今が満潮の時間帯ですから聞こえるかも知れません。ゲートのライトを消しますから外で不知火、元へ人魂も確かめて下さい」反れた話に区切りがついたところで2曹が提案した。ゲートから海までは100メートルもないから灯りを消してもらえば海岸に立っているような気分になれる。一緒に出てきた士長がゲートを開けて警衛所に戻ると間もなくスポット・ライトと室内の照明が消えて辺りは闇に包まれた。
ドーン、ドーン、ザザザー、ザザザー、「ウーン、ウーン」「・・・スイバコミ ストーク」「・・・イスプカニー」「・・・ホモギミン」「ウッウウウウ・・・」確かに海鳴りと砂を洗う波の音の中に人の呻き声が混じり、それが人間の言葉になっていった。それを聞いて梢が「苦しい」「怖い」「助けてくれ」と翻訳した。
私は昭和59年6月21日に発生したTー33Aが運輸省の管制官のミスで那覇基地の滑走路の端のテトラポットに突っ込んだ事故で深夜に機体の警備についたことがある。その時も海鳴りの中に女性がすすり泣く声を聞いた。航空自衛隊ではパイロットが殉職すると本人ではなく奥さんの生霊が慟哭する声を聞くことがあると言われているが、それを実際に体験したのだ。それが今回は本人たちだ。これは私の佛教式の代用ではなく函館や札幌のロシア正教会の聖職者を呼んで慰霊ミサを勤めてもらうべきだろう。
- 2023/07/28(金) 13:45:57|
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最初に断っておくと安倍晋三元首相が暗殺された時、立憲民主党と日本共産党やそれに類する反国家活動家たちは偉大な業績に対する国際社会からの高い評価を無視して死者を鞭打つような誹謗中傷を繰り広げました。野僧はそのような人の死を追悼する「情」を持たない輩と同類になりたくないので以来、鞭打たれても当然の人物(大江健三郎など)も死後1年が経過して歴史上の人物になるまで批判的論評は控えることにしました。そんな中、7月24日にそれに該当する作家の森村誠一さんが90歳で死にましたが、本人関する論評ではなくマスコミの訃報が発する政治的悪臭を分析したいと思います。
先ずNHKは代表作の紹介で「『人間の証明』や自衛隊を描いた『野性の証明』は映画にもなり」と説明しましたがこの2作は角川出版から映画化を前提に執筆を依頼した「証明」3部作で、「青春の証明」だけが映画化されませんでした。なお、昭和53(1978)年からTBS(当時は毎日放送)系列の森村誠一シリーズとしてドラマ化された時は「青春の証明」が第1作でした。
映画としては第1作の「人間の証明」が敗戦後と現代の人間関係の途絶や親子の情と地位を守ろうとする野心の狭間での葛藤を描いて大ヒットすると第2作の「野性の証明」では話題性を狙って自衛隊を登場させたのです。映画では高倉健さんが演じる陸上自衛隊特殊工作隊の味沢1曹が体内に宿していた野性が目覚めると言う単純明快な展開でしたが、昭和54(1979)年放送のテレビドラマでは林隆三さんが演じる会社員の味沢が恋人の浅茅陽子さんがピーターさんが演じる地域の名士の息子の暴走族に強制性交された上に殺され、名士に媚を売る警察に濡れ衣を着せられそうになったため野性動物のように復讐を始めると言う現実味を帯びた物語でした(映画でも中野良子さんが演じる恋人が強制性交されて殺されますがシミーズ姿の遺骸になって床に転がっているだけでした)。一方、「青春の証明」は濃霧の公園でデートしていた緒形拳さんと有馬稲子さんが演じるカップルが暴漢に襲われ、暴漢を追っていた刑事に救われました。しかし、刑事は暴漢に刺されて死亡し、緒方さんも刑事を助けることなく逃げ去りました。すると有馬さんは「卑怯者」と罵声を吐きかけて別れを告げたのです。その言葉を深く受け止めた緒方さんは刑事に転職して暴漢を追うと言うやや無理がある粗筋でした。
政治的に問題なのはマスコミ各社が「悪魔の飽食」を代表作として挙げ、「日本陸軍の731部隊が満州で細菌兵器の開発や人体実験を行っていたことを暴露した」と説明したことです。この作品は昭和56(1981)年から新聞赤旗にノンフィクションとして連載されて同時期に朝日新聞が不定期連載を始めた戦時売春婦=(いわゆる)従軍慰安婦報道と同様に外交問題化したのですが、元関係者の否定する見解が他のマスコミで紹介されるようになると森村さん自身が創作=フィクション=捏造であることを認めたのです。つまり「731部隊が細菌兵器を開発し、人体実験を行っていた」と言うのは韓国の戦時慰安婦と同じく共産党中国が新聞赤旗の連載記事を利用して主張している政治的虚構であってどちらも日本政府は公式に認めていない(否定もしていない)にも関わらずマスコミが事実として報道するための根拠の捏造なのです。
- 2023/07/27(木) 14:01:59|
- 常々臭ッ(つねづねくさッ)
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「ここで自分と春木3曹は携SAM(携帯式地対空誘導弾)でロシア軍のヘリを迎撃しました」ロシア軍将兵の埋葬地に続いて私たちは稚内市でも先端が緩く2つに分かれている宗谷岬のレーダー・サイトとは逆の岬にある牧場に移動した。森田予備3曹と今回は同行していない春木予備3曹がここに展開していた第3高射群の高射隊の警備に当たっていると対岸の第18警戒隊指揮所から「ロシア軍のヘリコプターの大編隊が襲来する」と言う警報が入ったのだ。
「牛舎の中に保管してあった携SAMを時間が赦す限りあそことここの壕まで運んでから自分たちは戦闘態勢に入りました」森田予備2曹は説明しながら壕の位置を指差したが、足元の壕はすでに埋まっていて浅い窪地に濁った水が溜まっていた。
「幾つ運べたんだね」「自分は近かったので8基でしたが春木3曹は遠い分、一往復足りなくて6基でした」警戒隊長の妙に実務的な質問に対する森田予備2曹の説明は体育馬鹿が多い陸曹には珍しく簡潔明瞭だが理路整然としていて父親の森田敬作曹候生を思わせた。森田曹候生も私と同様に弁が立つ上、基地警備の研究に着手していたので空曹候補者課程では同期たちが単なる苦行として耐えることに徹していた地上戦闘訓練を真剣に分析して疑問点を班長にぶつけ、手に負えないと区隊長=山中3尉に回され、「そげなこと判らん。判ったら教えちくれ」と言う答えをもらっていた。
「それで君が6発、春木3曹が5発を発射してカモフ57攻撃ヘリ5機とミル26輸送ヘリ6機を撃墜したから全弾命中だったんだ」「攻撃ヘリが地上を掃討するために先行して来ましたから2人で手分けして連射しました。それでも輸送ヘリが高度を下げてきたので左右から順番に墜としました」自分が射った誘導弾がヘリコプターに命中して機体が裂け、放り出された人間が海面に叩きつけられる光景は一般人には直視できない惨劇だが、私自身も北キボールPKOで射程距離が短いM9短機関銃で現地人の若者2人を射殺しただけでなく1人はナイフで刺殺しているので心理状態は想像以上の現実味がある。おそらく目に映る状況の展開に身体が反応してスコープで照準すれば基本動作通りに引き金を落としたのだ。それが戦争と言うものだ。
「1つ、航空の方に質問があるんですがよろしいですか」「おう、俺に判ることは訊いてくれ」森田予備2曹の体験談に海からの潮風の温度が急激に下がったような気がした時、これも陸曹には珍しく警戒隊長に質問を口にした。森田予備2曹の父親は定年2佐なので2佐の警戒隊長と同格であり、部内出身の人事管理で2佐で終わったとは言え航空自衛隊史に名を残す偉大な業績を残しているから陸上自衛隊式の過度の遠慮は必要ないかも知れない。考えてみれば相手は2等空佐だ。
「展開しているペトリ(ペトリオット地対空誘導弾)はバラキューダ(繊維式偽装網)を展張しているだけで周囲に土嚢も積んでなかったのですが、陸の高射特科は演習でも壕を掘って本体は埋設します。空襲された時、機銃掃射を受ければ誘爆して根室の高射隊のように全滅する危険がありました。それでも良いんですか」「それは俺の専門外だな。高射のことは高射屋に訊いてもらわないと間違った答えを教えてしまうよ。1つ言えることは高射屋とは航空方面隊司令部の防衛部の運用幕僚として一緒に仕事したが万事に机上の論理で押し通すところがあった。奴らは365日24時間待機していると言っても所詮は訓練名目だ。SOC(航空方面隊指揮所)やDC(防空指令所)も始めから当てにはしていない。それが戦時になっても抜けないんだろう。それに気づくだけ同じ訓練が本業でも陸上自衛隊は真剣みが違うようだな」警戒隊長の見解は陸上自衛官には侮辱だが、私は自分の自衛隊人生を振り返って陸上自衛隊には「航空教育隊よりは増しだった」以上の感慨は抱いておらず梢は「失敗だった」と断言している。警務隊長もAOCの代わりに警察大学校に入校していて日常的に地元の警察や海空警務隊との交流があるので陸上自衛隊の組織的体質の問題点については実感しているはずだ。中でも森田予備2曹は「上級者は間違いを犯さない」と上意下達する陸上自衛隊的不当人事の犠牲者であり、内心では父の影響から逃れるために陸上自衛隊に入った過去を後悔していた。
「ところで私からモリヤ2佐に伺いたいことがあるんです」「おう、ワシに判ることは訊いてくれ」「これはモリヤ2佐にしか判らないでしょう」今度は警戒隊長が私に質問してきた。この口ぶりでは私の専門の法律関係ではないようだ。国内法であれば警務隊長がいるので私にも陸上自衛隊的な遠慮がある。
「実は夜になると海から人の呻き声が聞こえて、大量の人魂が飛び交うことがあるんです」「海鳴りと月明かりに照らされた波頭だろう」やはり警務隊長は冷静だ。それでも私が那覇基地で勤務していた頃、1人で基地のビーチで夜釣りしていた航空警務隊長が「日本兵の幽霊に取り囲まれた」と警衛隊に電話してきたことがある。確かに海中には収容されていない遺骸が何体も沈んでいるはずなので迷って出ても不思議はない。これは盛大に本格的な慰霊法要を勤めなければならなくなった。
- 2023/07/27(木) 14:00:41|
- 夜の連続小説9
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沖縄本島では県知事以下が「琉球王国以来、沖縄は中国皇帝の領土だった」と共産党中国に併合されることの必然性を公言していているのに対して共産党中国の脅威を肌に感じている宮古島以南の八重山・先島地区では自治体の首長が政府に有事に備えた現実的な対応を要望しています。
本土のマスコミは与那国島分屯地の設置の可否をめぐる住民投票の時、県教職員組合や自治労の活動家が進める反対工作を過大評価して「絶対に否決される」と見越して多くの記者を送り込みましたが期待は大きく外れ、陸上自衛隊の分屯地が開設されただけでなく高知県の土佐清水分屯基地と同じように航空自衛隊の移動警戒隊を常駐させて防空監視体制も強化されました。その後、宮古島と石垣島にも分屯地が開設されて地対艦誘導弾と地対空誘導弾が配置されるとマスコミは数十人に過ぎない反対デモを参加人数を隠蔽した上で「島民が抗議する中」と過大に報道しています。しかし、八重山や先島の友人たちは「台湾有事ではない。防衛力が手薄な八重山や先島が先に攻撃を受けるのだ」と危惧していて、「反対デモに参加しているのは地元の人間ではなく沖縄本島から旅客機で来る本土の学校や役所を定年退職して移住した活動家たちだ」と説明しています。
そんな中、旧安倍派の松野博一官房長官が八重山・先島を訪問して各首長と面談しましたが、政府は昨年12月に決定した「国家安全保障戦略」などの安全保障関連3文書で実際は八重山・先島を指す南西諸島での避難施設=シェルターの建設と港湾・空港の整備を明記していて、その第1弾として2024年度予算に宮古島のシェルター建設に関する調査費を盛り込む方針であることを説明しました。
これを受けて石垣市長と与那国町長は政府が宮古島で予定している体育館の地下に防弾性を持った地下駐車場を建設して簡易ベッドや食糧を備蓄する計画の踏襲を要望し、竹富町長(石垣島との間に並ぶ竹富島から小浜島、黒島と西表島を統括する)は同様の施設を西表島に建設する一方で小島には一度に島民が避難できるだけの大型貨客船が接岸できる港の整備を提案しました。
そんな八重山と先島に何度も行っている野僧が危惧するのは八重山の小島は言うに及ばず宮古島や石垣島も都市部は海抜が低いので防弾性を確保できるだけの強度を持った地下駐車場が建設できるのかと言う立地条件です。航空自衛隊の航空方面隊指揮所と防空指令所は深さ25メートルの地下基地にあり、これが核攻撃に耐え得る強度を確保するのに必要とする深さであれば宮古島や石垣島では常に湧き出す海水を排水し続けなければならず、火力発電所が破壊されて停電する事態を考えれば無理です。
また竹富島や小浜島、黒島などの小島は周囲を珊瑚礁で囲まれているため現在の小型連絡船でも船底が擦らないように珊瑚の海底を掘開した水路を作っていて、その数倍の大きさの大型貨客船が接岸できるだけの港湾施設の建設は困難です。そうなると反戦平和=反米反日親中の売国奴だけでなく本土の都市部の環境保護団体の連中まで反対運動に参加して辺野古のジュゴンのように「八重山の海亀を守れ」「マンタを守れ」「星砂を守れ」などと「住民よりも環境を守れ」と金切り声で絶叫するのでしょう。
- 2023/07/26(水) 14:20:07|
- 時事阿呆談
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森田予備2曹が第3高射群の展開地を破壊するために侵入を図った工作員を射殺した現場の次は航空自衛隊の稚内分屯基地に向かった。私が航空教育隊で勤務していた時、警戒管制員になった教え子の曹候学生が稚内分屯基地に配属されたが真冬になると自宅に「班長、寒いっすよ。今零下30度っす。海は流氷で真っ白っす」と電話をかけてきた。その後、温かい防府の冬の空曹候補者課程を満喫して3曹になって帰っていったが、アイヌの女性と結婚したため職種を変更することになり、全く毛色が違う第3術科学校に入校した。そんな5歳年下の教え子も嫁さんの希望で北海道のレーダー・サイト巡りをして定年退官している。今は千歳在住のはずだ。
「何人が犠牲になったんですか」「準戦時体制を敷いていましたからオペレーションにいた監視小隊長とオペレーター2名、整備員1名の4名です。全員、ミサイルの爆発によって即死していました」「・・・それは良かった」稚内分屯基地では第18警戒隊長の2佐がロシア軍の弾道ミサイルによって破壊されたレーダー・オペレーション跡を案内してくれた。このオペーレーションは鉄筋コンクリートの建物が崩落したため中にいた隊員の安危確認と遺骸の収容には人手と時間を要し、さらにロシア軍が航空機による攻撃と輸送ヘリコプターの飛来、不審な漁船の接近と日本人の工作員の潜入を繰り返したので警備の強化を維持せざるを得ず、当時の隊長自ら遺族の承諾を受けて放置していた。遺骸の収容は北部航空方面隊の防空体制が整備されてロシア軍の航空攻撃が沙汰止みになってから着手して手作業で取り除いた瓦礫の下から4体を発見した。ところが常温で長期間放置していたため腐敗が進んでいて千歳基地から来た航空警務隊の検屍を受けた後、基地の訓練場に廃材を積み上げて荼毘に付したそうだ。骨壺は市内の葬儀屋の店に残っていた物を譲り受けたが木材の火力では燃焼温度が低く、遺骨が原形を留めてしまって納まり切らず子供用の小さな棺に入れて遺族の元へ送ったらしい。
「その服装は我が社の昔の作業服じゃあないですか。懐かしいな」「ワシは第7期一般空曹候補学生として入隊したからね。形見の品だよ」案の定、警戒隊長は私の作業服に気づいて話を振ってきた。警務隊のパジェロで入門した時には後席の中央に坐っていたので歩哨は手前の梢に気を取られて私の服装には気づかなかった。それでも本部隊舎の廊下で会ったベテラン隊員たちは揃って懐かしそうな視線を浴びせてきた。航空自衛隊の訓練は体育が中心のためジャージ姿になり、作業服は仕事着と言う感覚だった。陸上自衛隊のように乙武装での警衛勤務や基本教練の晴れ姿を目にする機会は少ないので特別な思い入れはないものの記憶には残っているようだ。
私は陸上自衛隊の昔のかえって目立つ迷彩服を定年退役後にオランダで着たことがある。すると海外の軍事常識ではかえって目立つ迷彩服はあり得ないので奇抜なファッションだと思われてしまった。考えてみればOD色の陸上自衛隊の戦闘服も持っているはずだが見たことはない。
「かなり人数が多いですね」「収容したのは332体でしたが医官の目視だけでは身元が特定できませんから手だけ足だけも1人として埋葬しました」火葬場で慰霊の読経を終え、分屯基地の食堂で久しぶりに航空自衛隊の食事を口にすると稚内市の郊外にあるロシア軍将兵の埋葬地に向かった。ここでも旭川市の埋葬地と同じく木の柱の墓標が1体ごとに立ててあるがヘルメットは被らせてない。ここの遺骸は海岸で収容したので重いヘルメットは海中で脱げてしまい供えることができなったのかも知れない。ヘルメットは停戦後に遺骸の身元を特定する上で重要な資料だが戦争法は海底を捜索してまで回収する責任は課していない。こちらには森田予備2曹も携帯式地対空ミサイルを発射した状況を現地で説明するために同行している。森田予備2曹は食堂で見つけた航空自衛隊の隊員たちに囲まれて談笑していて中々の人望があるようだった。ただし、理由は判らない。
「ワシも1971年7月30日の雫石、1985年8月12日の御巣鷹山の非公開の写真資料を見たことがあるが、警務隊で確認した現場画像では遺骸が人体の形状を保っていたようだね」「はい、撃墜されたのが低空だった上、ミサイルの命中で機体が空中分解に近い状態になって乗員たちは空中に投げ出されたようです。遺骸の損壊は爆発ではなく海中でトドや鯱(しゃち)、鮫に喰い千切られたものと推察しています」「実際、海岸で遺骸を回収していた隊員がトドや鯱に襲われそうになったことがあります」埋葬地での慰霊供養が終わると質疑応答になった。私の質問には警務隊長と警戒隊長が答えた。森田予備2曹にとっては後で担当する自分の殺害行為の具体的な説明になるが進んで口にする気分ではないはずだ。
「埋葬方法は土葬だね」「はい」「太平洋戦線のアメリカ軍はブルドーザーで幅広の溝を掘って日本兵の遺骸を並べてからブルドーザーで土を掛けたそうだが」「ウチは一体に一つ穴を掘りました」「認識票は口に咥えさせたね」「はい、首がある遺骸と認識票が回収できた遺骸に限りますが・・・左腕だけの遺骸も腕時計をしていればそのまま埋葬しました」「それは良い」私の賛辞に警戒隊長は安堵したようにうなずいた。アメリカには2つしかない戦没者墓苑ではバージニア州のアーリントン墓苑に30万と1基、ハワイのパンチボール墓苑は4万基以上の墓碑がある。この332基の戦没者墓苑の遺骸を母国・ロシアへ送り返す日まで警戒隊長は墓守を兼務することになる。
- 2023/07/26(水) 14:14:29|
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昭和19(1944)年の明日7月29日に潜水艦・伊29が日露戦争における帝政ロシア・バルチック艦隊と同じく喜望峰を迂回しての航路でナチス・ドイツの軍港になっていたフランスのロリアン港に到着し、帰路には多くの最新兵器を積んでいながら日本に到着することなくフィリピン近海のバリンタン海峡で撃沈されました。
伊29は巡洋潜水艦と呼ばれた伊15級の20隻でも10番艦で兄弟艦にはソロモン海域でアメリカ海軍の航空母艦・ワスプを撃沈し、戦艦・ノースカロライナを大破させた伊19(この時の艦長は伊29と運命を共にした木梨鷹一中佐)やアメリカ本土の石油施設に砲撃を加えた伊17、艦載水上機で空襲した伊25、さらにドイツに派遣された5隻の潜水艦のうち第2次の伊8と第5次の伊56を除く伊30、伊34、伊29の3隻は伊15級でした。
伊29は昭和17(1942)年2月に配属されてからは5月31日の特殊潜航艇・甲標的によるシドニー港への奇襲攻撃では艦載水上機で事前偵察を行って港内に停泊している艦船を確認し、それ以降は太平洋からインド洋にかけての通商破壊では米英に限らずヨーロッパ各国の艦船7隻を撃沈して多大な損害を与えました。
伊29はドイツに派遣される以前にもインド洋上でUボートと接触していて昭和18(1943)年4月5日に海軍中佐2名と89式酸素魚雷1本、魚雷艇用の2式魚雷2本、在ベルリン日本大使館の工作資金として金の延べ棒2トン、航空母艦・赤城と特殊潜航艇の設計図などを積んでインド洋での活動の母港にしていたマレー半島のインド洋側の島・ペナンを出航して27日にマダガスカル島の沖でU180と接触して海軍士官2名と積み荷を渡して代わりにインド独立運動の指導者・チャンドラ・ボースさんと秘書、吸着地雷(磁力で敵戦車に吸着させて装甲を破壊する地雷)1発やボールト(ソナー欺瞞用デコイ)432個、砲身、弾薬にマラリヤの特効薬のキニーネ2トンを受け取ってインドネシアのサバンに到着しました。伊29の名はこの一件で有名になりました。
そしてドイツに向かったのは木梨中佐が10月10日に艦長に着任したばかりの昭和18(1943)年11月5日で他の潜水艦と同じく呉基地から出航しました。そして14日にシンガポールに到着して生ゴム80トンやタングステン30トン、錫50トン、亜鉛2トンからコーヒーまでを満載した上に駐ドイツ武官として赴任する海軍少将と留学する技術者16人を乗艦させて出航し、翌年2月11日にロレアン軍港に入港しました。
帰路は日本ではロケット機・秋水になるメッサーシュミット163とジェット機・橘花になるメッサーシュミット262の設計図とエンジンの実物ほかの大量の積み荷と18名を乗艦させて4月16日に出港し、6月11日に大西洋で撃沈される伊56とすれ違いながら7月14日にシンガポールに到着、人間と設計図を下ろしました。この時、技術士官が設計図を持って空路で日本に帰ったので橘花と秋水が制作されたのです。
しかし、伊56と同じく交信はイギリス、アメリカ軍に傍受・解読されていて(積み荷の中にはエニグマ暗号機もあったが1939年にイギリスに解読されていた)、シンガポールを出航した時点でアメリカ海軍の潜水艦の待ち伏せが始まり、現地時間午後4時45分に浮上航行中に発見されて魚雷4発を発射されて3発が命中、積載していた最新機材と共に海底に沈みました。この時、甲板にいた3名のうち1名が島に泳ぎ着いて生き残りました。
- 2023/07/25(火) 15:26:49|
- 日記(暦)
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3日目からは稚内、遠軽、網走と戦場巡りになる。私の場合、検事としての現地調査と並行して戦死者の慰霊も目的にしているので巡礼の旅になるかも知れない。ところが服装は梢が用意した航空自衛隊の旧式の作業服に変わった。Ⅰ型糖尿病を患っているおかげで否応なしにカロリー制限と運動が課せられている私は20歳で一般空曹候補学生に入隊した時の体型を維持している。この作業服は防府南基地に赴任して新入隊員たちに制服や作業服を貸与した時、一緒に更新してもらったものだ。2年後に陸上自衛隊の幹部候補生学校に入校した時に返納しようとすると補給係が「古着はいらないから記念にとっておけ」と断ったため手元に残っている。作業服の更新は20カ月以降なので期限を過ぎた古着ではあった。
「両襟に秋霜烈日を付けてると曹候バッチみたいだな」「そう思って付けたんだよ」私が旭川駐屯地の宿舎で着替えて食堂に向かう途中の廊下の鏡で自分の姿を眺めながらぼやくと梢が自慢そうに答えた。秋霜烈日とは赤い円から上下左右に3筋の白線、その間に少し短い3筋の金線が伸びている検察官徽章の別称で、人間の罪を問う検察官の職務は晩秋の霜が降った朝のように冷厳で事実の究明には真夏の日差しのように熱くなければならないと言う精神性を表現しているとされているが、実際は日の丸から菊の花弁と葉が開いている形を採用したらしい。一方、両襟に付けていた曹候バッジは銀色の桜だったので遠目で見れば梢が大好きだった「モリヤ曹候生」を思い出してしまう。実は曹候バッジは金属製のためジェット・エンジンが吸入すると爆発を起こす恐れがあり航空機整備員には装着させなかった。先輩たちも「曹候苛めから逃れられる」と応じていたが私は止め金具をコンパウンド(固定剤)で固めてまで装着を続け、その分、苛めの集中攻撃に遭った。
結局、第2師団管区内の現地確認は警務隊長が立ち会うことになり、移動手段は運転手付きの警務車両になった。今回は江団別の捕虜収容所で森田予備2曹を拾ったので助手席を譲った警務隊長が後席になり、私が真ん中に坐った。パジェロとは言え3人掛けにはやや狭い。
「それは航空の作業服ですね。昔、親父が着ていました」森田予備2曹は校舎の正面玄関の前で私を見た時から妙に嬉しそうな顔をしていた。航空自衛隊が何時から変な迷彩服に変わったのかは知らないが、森田予備2曹が陸上自衛隊に入隊した頃にはまだ灰色の作業服だったのかも知れない。
「懐かしいだろう。ワシも着るのは30年ぶりだよ」私の返事を聞いて梢が嬉しそうにうなずいた。若い頃、梢は旅行社が年中無休だったため土曜と日曜日のどちらかが休みだった。土曜日が休みの場合、洗濯をすませてからアパートに行くと会っている時間が短くなるからと汚れ物を持って来させて一緒に洗うようになった。そうして旅行社の制服と航空自衛隊の作業服がベランダに並んで干されるようになり、デートから帰ると私に習ってアイロンがけまで頑張るようになった(自衛隊の作業服のアイロンがけは信じがたいほど重労働だ)。私たちはそんな懐かしい日々を思い出して後席で手を握った。
旭川から国道40号線を北上して約240キロ走ると稚内市内に入る。普通であれば自衛隊の車両以外に通行はなく、市民に目撃されることもない交通事情であれば多少の速度超過は常識だが、警務官の運転手は頑なに道路交通法を履行していたため所要時間は制限速度で計算した通りに4時間弱だった。
「ここが第1現場です」稚内市内でも国道40号線よりも東側を原野のような土地を南北に抜ける道路で運転手は警務務車両を止めた。やはり森田予備2曹は座席で背もたれから身を起こして凍りついたように前を注視している。私も頭の中で窓から見える風景を市ヶ谷や旭川で見た現場写真と重ねる作業を始めた。
「この位置は森田予備2曹が工作員の車両を停止させようとした場所です」「つまり緊急避難を行使した場所ではないんだな」ここでは運転手が前を向いたまま説明した。この口ぶりでは現場検証を担当したのだろう。私としてはここまでの会話で森田予備2曹が任務として敵である工作員を殺害したことは割り切られても死霊を家族の下に連れ帰ることを恐れていることを知った。これは意外な話だが帰還した兵士が殺した相手に復讐される悪夢にうなされ、その強迫観念から逃れるため戦場パニックの対処剤として軍が使用していた薬物を常用するようになって中毒に陥ったPTSD(心的外傷後ストレス障害)の症例は洋の東西を問わない。日本では帝国陸軍は精神主義で兵士を戦闘に駆り立てていたと思われているが実際は覚醒剤を投与していて、その常習性と在庫の流出が重なって敗戦後のヒロポンの蔓延を発生させた。それはベトナム戦争後のアメリカが苦しんだLSD中毒も同様だ。だから私はあえて罪の意識を与える「殺害」と言う言葉を使うことは避けた。
「それでは車両が停車した位置に移動します。森田予備2曹も徒歩で追跡して内部の様子を窺いました」「それで後席の人間が運転手と話してる堀井2曹にライフルを構えたのを目撃したんです。だから引き金を引きました」「立派だ。躊躇していては間に合わなかっただろう」私は森田予備2曹の行為に検事と坊主の両方の立場で賛辞を与えた。そして車を下りると死ぬべくして死んだ工作員の魂魄に読経してから因果応報の引導を渡した。
- 2023/07/25(火) 15:25:34|
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野僧は変声期後も3オクターブの声域を持っていて沖縄時代には地元の有名歌手がカラオケで「昴」を唄っているのを聞いて興味を示して指導を受けるようになり、一度はレコード会社のプロデューサーを紹介されたのですが、万が一売れた時には副収入が発生するため上司に禁止されて断念したことがあります。それでも高校時代は自衛隊志望だったことから「アイツは軍歌しか唄わん」と勝手に決めつけられてフォーク・バンドに誘われたことはありませんでした(バンドをやっている連中は自分がボーカルになりたかったので誘うはずがない)。
坊主になってからも小浜の僧堂の托鉢では門つけの芸人のようにお経を唄うと喜捨を持ってきた小母さんは玄関を開けたまま目を閉じて聞いていました。そのため修行僧の中で常に最高金額を集め、「お前は托鉢で喰っていける」と言われ、実際、役に立ったのですが神経障害を病んで徒歩が不自由になってしまい現在は朝夕の鐘打ちの念佛と佛間での勤経、そして作務をしながらの鼻歌が数少ない楽しみになっています。
そんな中、2020年に隣りの長門市でNHKのど自慢が公開収録が行われることになり、丁度、連続ドラマが昭和の大作曲家・古関裕而さんをモデルにした「エール」だったこともあり、野僧は古関さん作曲の海上自衛隊歌「海をゆく」で応募しました。ところが予選で「カーン」の鐘1つなら兎も角、それすらない葉書選考での落選でした。
野僧は今回と同様に応募した時点でブログで発表していたため落選の記事を読まなかった人が「古志山人の面(つら)を見てやろう」と日頃は見ないNHKのど自慢を見たらしく放送後に待ちぼうけを喰らわされた読者から苦情のメールが殺到しました。そこで野僧は「応募者が300人を超えたので予選の時間短縮のため出場者を絞った」と言うNHKの返信葉書(応募は往復葉書だった)にあった理由を説明したのですが納得せず、背後にある理由を推理するメールが始まってしまいました。
その中で一番多かったのが「NHKは古山(連続ドラマの役名)に戦時中に軍国歌謡を作曲したことを後悔させて反戦平和主義者になったと言う筋書きを考えているから海上自衛隊歌を作曲したことが明らかになると都合が悪いんだ」と言う政治的理由で、この他には「オリンピックが1年延期になってNHKはドラマを持て余している。だから支持者は歓迎されない」「のど自慢で軍歌は禁止だ。NHKにとっては軍歌と隊歌に違いはない」「自衛隊歌と言っても組織内の歌だ。NHKは企業の社歌は放送できないだろう」など諸説紛々でしたが、「テレビを見たのに出なかった」と苦情の電話をかけてきた熊本市田原坂在住の元上司が言った「オイが好きな八代亜紀の歌にせんからいかんたい」が結論になりました。
ところが今回の下関市での公開収録のゲストは八代亜紀さんと加西かおりさんなので迷わず野僧も好きな「舟唄」で応募しました。ただし、最後のダンチョネ節は航空自衛隊のパイロットが唄っていた「沖の鴎と 戦闘機乗りは どこで果てるやら 分かりゃせぬダンチョネ」にしたいものです。勿論、今度こそ予選に出場できればの話ですが。本当は「・・・唄いだすのさ舟唄を。海上自衛隊歌『海をゆく』用意。男と生まれ海を征く・・・おお選ばれた自衛隊、海を守る我ら」なら最高ですが、この企みがバレるとまた葉書選考で落選するかも知れません。
- 2023/07/24(月) 14:45:22|
- 常々臭ッ(つねづねくさッ)
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「ドアノフ大尉、君が網走への上陸部隊の生存者では最上位の士官だね」「ダー(はい)」一般空曹候補学生の同期の息子・森田予備2曹との面談は本人と再会したような気分になって検事としての公務で来ていることを忘れてしまった。それでも明日の稚内への現地調査に当事者として同行させることを第2中隊長が認めたので移動する車内で質疑応答すればよい。そこでロシア軍の捕虜からの事情聴取に移った。
「指揮官はエロモスキー大佐だったと聞いているが誰に殺害されたのか心当たりはないか」森田予備2曹との談笑とは違い捕虜への尋問は単刀直入になった。私も日常会話程度のロシア語は理解するので梢の通訳を介さない分、使う単語が初歩になることも理由だ。
「ニエート(いいえ)、我々は日本の憲兵隊には『大佐は自決した』と証言しています。我がロシア軍では帝政の時代から降伏は国家に対する反逆と見做されますから大佐も死を選ばざるを得なかったのでしょう」「それは私も戦史で知っている。日露戦争の時、陸軍のクロパトキン大将は日本陸軍をはるかに凌駕する戦力を有しながら消極的な指揮で退却を繰り返して地上戦での勝利を獲得できなかったが、奉天会戦での敗戦責任だけを問われて降格されている。海軍のバルチック艦隊を率いて大遠洋航海を達成したロジェストベンスキー中将も日本海海戦の敗戦責任を問われて少将に降格された。ところが旅順要塞で散々に乃木愚将を苦しめたステッセリ中将は降伏した罪で死刑判決を受けた。同じくロジェストベンスキー中将から指揮権を移譲されたネボガトフ少将も降伏した罪で死刑だ。勿論、2人ともすぐに減刑されているが、旅順要塞はペストが蔓延していてバルチック艦隊も壊滅状態、どちらも降伏以外の選択はなかったが死刑判決を下している。ロシア軍は戦前の日本軍以上の過酷な軍規を課せられているんだね」流石にここまで難しいロシア語は手に負えないので梢が通訳した。すると梢より20歳は若いドアノフ大尉は妙に嬉しそうな顔で聞き入っていた。それを見て私の胸にロシア軍の捕虜収容所で兵士たちに凌辱されて死んでしまったキャビンアテンダントの小森希恵と人妻の麻野望美の顔がよぎった。ロシア軍の野獣のような性欲は我が愛妻も対象にするのではないか。
「私はモリヤ検事、モリヤ中佐の名前を聞いたことがあります」梢の説明を聞いたドアノフ大尉は敵意を感じさせる目で私を見ながら話し始めた。ロシア軍の士官が私を知っているとすれば搭乗していたKLMオランダ航空機が基地名は特定できていない極東軍管区零下の空軍基地に強制着陸させられて捕虜として拘束されていた許し難い経験しか浮かばない。それは先ほど胸で発火した怒りに油を注ぐようなものだ。25
「モリヤ中佐はウクライナでの戦争犯罪裁判で特任検事を務めていたでしょう。ロシア軍の住民虐殺を第2次世界大戦末期にソビエト連邦軍がベルリンや満州、樺太で犯した戦争犯罪の再犯だって断罪して検事弁論としては採用されなくても公判の流れをかなり不利な方向に陥らせた。ロシア軍内ではモリヤ中佐はICC(国際刑事裁判所)の検察官でありながら東京裁判を否定しているって非難する声が上がっていました」私の予想は外れていた。確かに同じ極東軍管区でも樺太の地上部隊の現場指揮官だったドアノフ大尉が防空軍が実施した謀略を知らなくても不思議はない。むしろ同じ地上部隊としてウクライナ侵攻に伴って一般裁判所で開廷されたロシア軍の戦争犯罪を裁く公判を日本人の飛び入り検察官が掻き回している話題の方が軍内の公用電話で広大なロシア領土の東西を飛び交いそうだ。
「よく知ってるね。私はロシア軍が上陸すれば北海道や新潟でも同じような戦争犯罪が繰り返されることを危惧していたが、どちらも住民の避難が完了していたから助かった。その分、ロシア軍は地獄を見たようだが」「気候温暖なヨーロッパの住人が世界中に押しつけている人道主義を守っていてはシベリアの冬を生き抜くことはできません。家畜や獲物が手に入らなくなれば食べられる物は迷わず口にするしかない。日本軍がそんな悲惨な状況に我々を追い込んだんです」ドアノフ大尉は私の糾弾に反論するように言い訳を始めた。私自身も現在の戦争法を含む国際法がヨーロッパのキリスト教文明圏を前提に制定されていて世界各地で多くの齟齬を生じていることは自覚している。とは言え常任理事国として戦争法や国際条約の制定に協力して調印・批准していたソビエト連邦時代とは違い現在のロシアが現在は気にらなければあからさまに背を向け、多くの戦争法と国際条約に加盟せずに効力を喪失させている現状には歯噛みする思いだ。
「ロシア軍がロシア兵を食べようが戦争法では処罰対象ではない。日本の国内法では刑法第190条の死体損壊等に該当するが、ロシアでは生命を維持するために必要なら許されると言う論理が成立するようだ」ドアノフ大尉はそのような事態に追い込んだ自衛隊を断罪したいようだが私が乗らなかった。自衛隊が早い段階から降伏を呼びかけていたことは記録に残っており、応じなかったのはロシア側の特殊事情だ。ソビエト連邦軍=ロシア軍は第2次世界大戦における対ナチス・ドイツ戦でも開戦当初に包囲された地区はどれほどの窮状に追い込まれても降伏しなかった。その意味で日露両軍は将兵の人命を軽視している残虐性において双璧なのかも知れない。それでも流石のソビエト連邦軍も特別攻撃隊は出撃させていない。
- 2023/07/24(月) 14:43:48|
- 夜の連続小説9
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皇居宮殿の奥に天皇の即位や皇族の結婚の時などに中継映像が報道される賢所(かしこどころ)と呼ばれる神殿があり、天皇は早朝にここで日本の神々(祖先?)に「災厄は我が身に」と祈願しているそうです。
国民(この場合は臣民か?)がその祈願を聞き遂げた神々の加護で平穏無事に生活しているのだとすれば誠に有り難いことですが、平成の31年間は逆に祈願が届かず、むしろ機嫌を損なったように明治・大正の60年間に発生した濃尾地震、関東大震災に比肩する大地震や火山の噴火、室戸台風や伊勢湾台風に匹敵する超大型台風の襲来などの天変地異に加えて悪夢の政権交代(村山富市の社民党政権を含む)が3度も発生した人災が続発しています。これをアメリカ式統計学で評価すれば原因は天皇になります。平成の天皇が阪神淡路大震災に始まり、東北地区太平洋沖地震、熊本地震などの被災地で深々と頭を下げたのは慰霊ではなく自分の祈願の力が及ばなかったことに対する謝罪だったのでしょう。
ところが現在の天皇の嫌われようは先代以上らしく2019年5月1日に始まって5年にならない○○(零輪=れいわ)では元年=2019年の6月18日に山形県と新潟県の県境付近の沖の日本海を震源地とする震度6強の地震が発生して皇后の出自である新潟県新発田市も被害を受けました。そして9月に台風15号が直撃した千葉県では強風で電柱がなぎ倒されて全県で停電が発生しました。ところがそれで終わらないところが今の天皇の嫌われ方で千葉県の復興が本格化していた10月には台風19号が伊豆から東北にかけて通過すると今度は豪雨で各地の河川の氾濫が続発して陸上自衛隊は災害派遣の人員が足らなくなり、即応予備自衛官を招集しました。
さらに2020年になって間もない春節には共産党中国が細菌兵器の保菌者を無制限で海外渡航させて日本にも伝染しました。平成の天皇は退位に当たり「(父帝の)昭和のように戦争はなかった」と誇示しましたが細菌兵器の伝染は武力攻撃であり、今の天皇は先代と同様の虚言を弄することはできません。
そして2020年の7月には過去に例がない豪雨が1ヶ月間も熊本県を襲い、2016年4月に発生した大地震に追い討ちをかけました。さらに2021年には2月13日に福島県沖を震源地とする震度7強の地震が発生し、7月3日に伊豆でも台風19号の水害とは反対側の熱海市で大規模な土石流災害、8月には九州北部から広島県と長野県・岐阜県にかけて大雨が降りました。それでも天皇は荒ぶる神々を鎮めることはできず2022年3月16日にまたもや福島県沖を震源地とする震度7強の地震が発生し、7月8日には共産党中国の指令によって安倍晋三元首相が暗殺され、2023年も7月に入って熊本が異常な豪雨に晒されています。
野僧も毎週月曜日と金曜日の朝には災害除け、毎日朝夕には有縁者の健康と長命、毎週日曜日の朝には有縁者の子供の学業精励と志望成就を祈願していますが、災害や大事故が発生すると法力の限界を噛み締め、訃報や不合格の連絡(過去に1人だけ)を受けると責任を痛感してしまいます。一方、平成の天皇と同様に異教徒を皇后にした今の天皇にとっては神道の儀式などは「形だけ」なのかも知れません。
- 2023/07/23(日) 15:08:06|
- 時事阿呆談
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「おう、親父にそっくりだな」「よく言われます」初対面の挨拶は航空自衛隊式だった。陸上自衛隊では陰口では散々に貶(けな)している相手でも顔を見れば姿勢を正してご高説を拝聴し、返事も知っている限り最高の敬語を使うのが常識なので元とは言え2佐の私と予備2曹の森田が握手を挨拶に代えて談笑しているのは異例だった。
「モリヤ2佐は父と曹学(一般空曹候補学生)の基礎(最初の基礎課程)と空候(最後の空曹候補者課程)で一緒だったんですよね」「どちらも同じ班じゃあなかったが、アイツは目立っていたからよく知ってるよ」「それはお互いさまでしょう。モリヤ2佐は同期の有名人だったって聞いてますよ」2人の掛け合いを聞いて警務隊長と第2中隊は「確かに」と声を揃えて相槌を打った。私は大学の法学部を中退して入隊したので20歳だった。2年間自衛隊で勤務してきた現職入隊の士長と同じ年齢でも高校を卒業してそのまま入った18歳の新人と同じ2士だった。それでも中退した大学はそれなりの知名度だったので受験勉強していた新人組からは妙に尊敬された。特に課程開始早々の防衛法規の授業で区隊長が日本国憲法第9条を当たり障りなく解説した時、大学の憲法学の講義で教授が熱弁を奮った学説を朗々と語り、区隊長たちからも一目を置かれてしまった=敬遠された。
一方、森田曹候生は頭脳明晰な上にスポーツ万能で連休明けの学生体育大会で大活躍してヒーローになったのは良いが、外出すると抜群の風貌で防府市内の同世代の女性たちから声をかけられると団体行動している同期に分配して、それを目当てにした同行希望者が殺到した。それは小牧基地の第5術科学校でも同様で田舎の山奥のレーダーサイトに配属されると名古屋から訪ねてくる女性が複数いたらしい。その癖、3曹になって間もなく幼馴染みと結婚したので「許し難い女たらし」と言う悪評も広まっていた。私は陸上自衛隊に転換したので森田が一選抜で幹部になって航空自衛隊の基地警備の改革に取り組み、多大な成果を上げたことはよく知らないが、今回の旭川訪問で同期の誇りとするべき人間だったことが判った。
「森田が正解だったのは航空教育隊に期待しなかったことだな。ワシも空曹時代、基地警備を研究して在沖縄米軍からも資料を収集していた。それで予測される基地警備戦闘の様相と改革するべき要点を防大出の小隊長に提出したんだ。すると小隊長は隊長と相談してワシを航空教育隊に転属させることを決定した。尤もそれは建前で何時まで経っても航空機整備員としてモノにならないワシを送り込む先が見つかったと言うのが本音だな。それで航空教育隊に転属すると改革は御法度で疑問を持つことさえ許されなかった。それで地上戦闘のプロになろうと陸上の部外を受けたんだ」「父も空幕輸送室からは航空教育隊への転属の調整が入ったそうですが断固拒否したそうです」「ワシも幹部になってからならそうしただそうが若手空曹には航空教育隊の実態は見えなかったんだ。それを考えるとあの人事は単なる厄介払いだったんだな」私が自分で出した結論に何故か梢がうなずいた。
「それで森田は今、何をしてるんだ」「防府北基地の業務主任で定年退官して愛媛の蜜柑農協に就職しました。本当は自衛隊OBだけの警備保障会社を創設しようとしたんですが色々ややこしいことがあって諦めたようです。今は新しい嫁を見つけて幸せにやっています」「離婚したのか・・・」息子の口から森田定年2佐が離婚したことを聞いて2度離婚、3度結婚した私は複雑な気持ちになってしまった。沖縄勤務だった私も同期の情報網で森田が高校時代に夜這いを掛けた幼馴染みの親に「傷物にした」と怒鳴りこまれて結婚する羽目になったと聞いている。ただし、小牧基地でも一緒だった警戒管制員の同期によると「恋愛感情はない」と言っていたそうだ。どちらにしても親に強要された結婚はロクな結果にならない。私も始めから梢と結婚できていれば離婚はなかっただろう。
「そう言えばモリヤ2佐に訊きたいことがあるんです」「君の国際法の知識なら合格点を進呈するぞ」私の賛辞に森田予備2曹は首を振った。どうやら質問する内容を知っているらしい第2中隊長は真顔を向け、想像が外れた警務隊長は怪訝そうな表情で4人を見回した。
「モリヤ2佐はアフリカのPKOで現地人を3人殺したでしょう。その後、恐ろしくなりませんでしたか」「そうか、森田2曹は稚内で高射部隊の展開地を破壊しようと潜入した工作員を阻止したんだったね」「ロシア軍の輸送ヘリも6機撃墜して200人以上殺しています」森田予備2曹の目が罪を告白するカソリック信者のようになった。
ロシア軍がソビエト連邦時代から使っているミル26大型輸送ヘリコプターはペイロード20トン、歩兵90名が搭乗できるとされているので満員状態で撃墜したとすれば6機で240人になる。航空自衛隊に基地警備の神さま・森田定年2佐の息子でも戦争で殺した人数を誇示するようには育っていないはずだ。
「父は戦争で殺すのは敵であって人間ではない、割り切れっと言っていますが一緒に戦闘に参加した同僚たちが眠ってうなされるのを聞いて稚内の海岸に漂着したロシア兵の遺骸を思い出してしまいました。みんな私と同世代の若者でした」「それを言ったら日本の都市を空襲して原爆を落としたアメリカ軍のBー29のパイロットはどうなる。親父が言う通り、キッパリ割り切った上で機会を見つけて供養を勤めることだ。寺や石佛があれば手を合わせなさい。南無阿弥陀佛」これは検事や元2佐ではなく坊主としての助言だった。
- 2023/07/23(日) 15:06:45|
- 夜の連続小説9
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7月1日に野僧が子供の頃に視聴した昭和のテレビアニメでも戦史アニメンタリー「決断」や「マッハGoGoGo」「紅三四郎」「科学忍者隊ガッチャマン」などの他のプロダクションの作品にはない鮮やかな色彩とダイナミックな画面が鮮烈に記憶に残っているタツノコプロの創業者・吉田3兄弟の末弟で大半の作品の演出と総監督を務めた九里一平(くりいっぺい)さんが亡くなったそうです。83歳でした。
野僧が子供の頃のテレビのアニメは主に東映動画などの戦前からアニメ映画を製作していた映画会社傘下の会社と東京ムービーなどのテレビ局が創設した新会社の作品でしたが、やがて手塚治虫先生の作品に始まり、「わんぱく探偵団(昭和43年から44年)」「アニマル1(昭和43年=メキシコオリンピックの開催年)」「ムーミン(昭和44年から47年)」「あしたのジョー(昭和45年から46年)」「国松さまのお通りだい(昭和46年から47年)」「小さなバイキングビッケ」などを製作した手塚プロダクション=通称・虫プロの作品が目立つようになり、そこに衝撃的に登場したのがタツノコプロでした。
九里さんは昭和15(1940)年の元旦に京都市で生まれで5歳で敗戦を迎え、占領軍の姿を見ながら育ったため「日本人を止めてアメリカ人になりたい」と願うようになり、幼い頃から占領軍放出のアメリカの漫画を絵本代わりに読んでいたため挿絵画家と漫画家として活躍していた長兄の下に次兄と一緒に上京して昭和37(1962)年に兄たちと一緒にタツノコプロを創設してアニメ制作に携わるようになってからも日本人の感覚から外れた色彩や衝撃的な画面を大胆に使うようになったそうです。
タツノコプロと言えば「宇宙エース(昭和40年)」に始まり、大ブームになった「マッハGoGoGo(昭和42年から43年)」と「おらぁグズラだど(同前)」「ドカチン(昭和43年)」「紅三四郎(昭和44年)」「ハクション大魔王(昭和44年から45年)」「みなしごハッチ(昭和45年から46年)」「いなかっぺ大将(昭和45年から47年)」「決断(昭和46年)」「科学忍者隊ガッチャマン(昭和47年から49年)」など全て主題歌が唄える作品が並びますが「マッハGoGoGo」のオープニングのタイトルバックではレース中にマッハ号と接触した並走車がコース外に弾き飛ばされて爆発する場面が描かれていて交通事故が多発していた時代の子供としては「ドライバーが死んじゃった=主人公の三船豪は人殺しだ」と怒っていました。
また「決断」では写真資料が残っている艦艇や航空機、将官などの描写は極めて性格でしたが、それ以外は意外にいい加減で(特に軍服や階級章、軍刀などの組み合わせ)帝国陸海軍に関する基礎知識が乏しかったことを推察しました。やはり占領下で育った世代だったのでしょう。
その一方で「ガッチャマン」のアクションシーンでは白鳥のジュンがギャラクターを蹴り上げるとミニスカートから太腿と一緒に下着が見えるため中学生になっていた後半では身を乗り出してしまいました。このような演出もアニメと言うよりもハイウッド映画的でした。タツノコプロの作品の主題歌を唄いながら冥福を祈りますがドカチンの「テーテッテポッポテーテッテポッポ・ブニャーブニャー」は55年ぶりです。瞑黙
- 2023/07/22(土) 14:34:05|
- 追悼・告別・永訣文
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この捕虜収容所では給食は校舎の裏手にある体育館で食べるようで作業を終えて手を洗った捕虜たちは給食用のお盆に食器を載せて配膳係のテーブルの前に列を作っていた。ロシアでは冬季は水が凍結するため小まめに手を洗う習慣がなかったがこの収容所では衛生上の観点から指導したらしい。生活習慣の相違を強要すると終戦後に虐待として告発されることも珍しくないが衛生上の有効性は認められるはずだ。
対米英中戦争でも日本軍の捕虜収容所に収監された欧米人の捕虜は箸が使えないため「手掴みで食べさせた」と告発し、筋肉疲労を訴える捕虜に厚意で灸を据えた日本兵は火傷を負わせる拷問として死刑になっている。仮に手を洗う行為を拷問にするのならどのような罪状が該当するのかを考えてみたが「手を拭く布が必要になるため余計な労力を付加された」と言うコジツケくらいしか浮かばない。しかし、極東軍事裁判所=東京裁判をはじめとする対米英中戦争後の戦争犯罪裁判における罪状の多くは後進のアジア人に敗れた恥辱を晴らすために処罰することを目的にしたコジツケにもならない低レベルで悪質な一方的断罪だった。
全校生徒・児童よりも多い92名の捕虜に使わせる大人用の机と椅子が確保できなかったようで体育館には士官10人と自衛官の人数分だけ中学生の教室から運んできた机と椅子が用意してあり、下士官と兵士は床に車座を作って座っていた。アメリカ軍(最近は自衛隊でも導入している)では下士官と兵士を統括する先任曹長は各級部隊の長の次級者の副司令官、副隊長と同格とされているがロシア軍の制度は判らないのであえて配慮はしなかったようだ。確かに捕虜の待遇に関する1948年8月12日のジュネーブ条約では士官の地位の尊重は規定されているが先任曹長に関しては触れていない。
すると捕虜の1人が立ち上がって聞き覚えがある歌を詠唱し始めた。同時に席に座っている10人の士官と床に座っている下士官と兵士たちも厳粛な面持ちで頭(こうべ)を垂れた。横を見ると第2中隊長以下の自衛官たちも真顔で唄っている捕虜を見つめている。それを警務隊長と警務官の陸曹が困惑した顔で傍観していた。
「これはロシア正教の讃美歌だな。昔、モスクワ放送のクリスマス特集で聴いたことがあるよ」「ヨーロッパのカソリックとは曲調が違うのね。こちらの方が艶やかな感じ」厳粛な雰囲気を乱さないように私と梢は机の下で手を握るとほぼ無言で会話した。私がモスクワ放送を聴いていた頃はソビエト連邦だったので番組は帝政ロシア時代の史実と宗教色は抜きだったが、ロシアの芸術の優位性を誇示するコーナーだけはチャイコフスキーやムソルグスキーの作品を流すことがあった(普段はショスタコーヴィチが多かった)。たまたまその年の放送日が1月7日のロシア正教のクリスマスに重なったのかも知れない。
配膳が終わり、係も席についたのを確認した捕虜は詠唱を止めて日本の佛教の焼香のように右手の親指、人差し指、中指を揃えて額に触れた。続いて胸、さらに右肩、左肩に触れて十字を切ってから「アミン(ギリシャ語のアーメン)」と唱え、全員が声を揃えて唱和した。私と梢はオランダや旅行の先々でカソリックの人々が十字を切るのを見てきたが肩の左右が逆だったような気がする。それにカソリックでも敬虔な信者は指で身体に触れる時、「父と」「子と」「聖霊の」「御名によって」と三位一体の信仰告白を呟いていた。
「そうだッ、モリヤ検事に佛教式の食前の作法を展示してもらいましょう。前から日本人は手を合わせて『イタダキマス』と言うだけで良いのかって追及されているんです」捕虜たちの「アミン」に合わせて「イタダキマス」を唱えて先割れスプーンを取ると第2中隊長が唐突に妙な依頼をしてきた。私は坊主とは言え本山や僧堂での修行の経験はなく、佛教の作法と言われても祖父の寺での小坊主生活で教えられた程度で素人に近い。今は浄土宗の坊主らしく「南無阿弥陀佛」と同じ6文字の「いただきます」で十分だと思っている。しかし、これは文化交流による相互理解の一助になりそうなので断ることができず梢と一緒に立ち上がった。
「折角、美しいロシア正教の食前の祈りを見せてもらったので、これから日本の佛教の食前の作法を披露します。小道具がないので言葉だけですが意味は分からなくても聞いていて下さい」隣で梢がロシア語で通訳すると同席している航空自衛隊の語学要員は浮かした腰を即座に下ろした。禅宗の食事の作法は食器の取り扱いを伴うので2人も椅子に坐った。私は作務衣を着ているとので坊主であることの説明は不要だろう。
「1つには功の多少を計り、彼の来処を量る。2つには己れが徳行の全缺を忖って供に応ず。3つには・・・」この五観の偈は戒尺を打ちながら唱えると緊張感を演出できるのだが今回は言葉だけなので飯用の食器を捧げ持つ動作を展示した。修行僧が用いる応量器も粥の時は匙なので先割れスプーンはたすかる。
「上分三宝 中分四恩 下及六道 皆同供養 一口為断一切悪 二口為修一切善 三口為度諸衆生 皆共成佛道・・・南無阿弥陀佛」この偈文は小坊主として寺に預けられて1週間ほど唱えたが憶えたところで省略された。それでも寺で食事をいただく時には必ず唱えていたので記憶は完璧だった。こうして食事を終えて中隊長室に戻ると森田謙作予備2曹が待っていた。父親も女たらしの色男だったが勝るとも劣らないイケメンだ。
- 2023/07/22(土) 14:32:47|
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NHKの連続ドラマ「らんまん」の植物学者の牧野富太郎さんをモデルにした主人公の槙野万太郎くんは明治になる前から学問所・名教館で大学者の池田蘭光先生の英才教育を受けていたため極めて高度な知識と興味を持ったことは徹底的に探究する資質が備わっていて明治新政府が設置した尋常小学校の低レベルの授業を受ける苦痛に耐え切れず中退してしまいました。その後、周囲を巻き込みながら驀地(まっしぐら)に植物の道を突き進んでいく姿を描いていますが、最近は槙野くんの評価が高まったことで起きる周囲の人々の苦悩や葛藤が副次的な主題になってきたようです。
実は野僧も似たような経験の連続で、通っていた矢作南小学校では文部省のドルトン式教育=アメリカ式自主学習の研究指定校になったため授業は児童の予習の成果の発表と質疑応答で進められ、探求心は極めて強固になった反面、教員の言うことを素直に理解するだけの日本式授業は身につきませんでした。
そんな野僧は航空自衛隊でも探求心を発揮し続けましたが頭脳から思考機能が欠落している数学的要素が入る本業の航空機整備は何ともならず、増加警備勤務について航空基地の危うさを確信したことを切っ掛けに基地警備の研究を開始しました。ところが航空自衛隊には地上戦闘として基地警備を考えている人物は立場・階級を問わず皆無で前例としての戦史に始まり、合法的戦闘方法としての戦争法、基地警備戦術で陸上自衛隊や警察の機動隊に人脈を作って探求を続けるとやがて在沖縄アメリカ軍からの資料収集に発展しました。
同時進行で自衛官としての死生観を確立するために宗教の修行を始め、赴任する先々で高名な宗教者を訪ねて教えを受けるようになりましたが、その頃は従軍経験を有する人物が大半で自分の戦争体験を含めて宗教の本質を説き聞かせてくれました(何故か各宗派のトップに会う法縁が連続しました)。
野僧は航空自衛隊士官になりましたが、空将の司令官を擁する上級司令部と同居する基地の部隊では野僧の特異なキャラクターを活かそうとする上司に巡り合えるのに対して低レベルな部隊では目障りな出る杭として叩き潰すような取り扱いを受けました。仕事で出入りしていた陸上自衛隊の師団司令部で1佐の部長は基地警備に関する高度な質問に自分の部下の幕僚が答えに窮しているのを見て「自衛隊では部外や部内出身者が防大出身者を超える能力を発揮してはいかんのだ。分相応の仕事をしないと潰されるぞ」と助言してくれました。
それは退役後の坊主の世界でも同様で「寺を手伝ってくれ」と頼まれて通い始めても最初は重宝がっていた住職が毛嫌いするようになり、やがて口実を捏造して辞めさせられることが続きました。そんな住職の1人が別れ際に本音を語ってくれました。「アンタは人に劣等感を与える人だ。宗門の大学卒じゃなくて本山に修行に行ってないのに知識は大学で講義できるレベルだ。それを鼻にかけてくれればこっちも『修行もしてない癖に』と馬鹿にできるのに人一倍謙虚だ。今もワシのような俗物に遜(へりくだ)ってくれる。アンタは坊主としてやらなければならないと判っていても誰もやらないことを当たり前な顔でやってしまう。ワシは何時まで続くかと思いながらつき合ってきたが最近は自分を恥じるばかりだった」槙野くんもこんな感じなのでしょう。
- 2023/07/21(金) 14:34:06|
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「息子の方は森田謙作予備2曹ですが、父親は確か敬作・・・定年2佐だったと思います」私の想定外の反応に警務隊長は「陸上幕僚監部法務官室時代に弁護を担当したのか」と推理したらしく何かを探るような目でこちらを見たがそれは外れている。すると第2中隊長は上司として把握している範囲で回答した。
「実は森田敬作定年2佐とは空自の曹学(一般曹候補学生)の同期でして航空自衛隊の第3術科学校で警備課程を開始するに当たって大いに活躍したことは各方面から聞いていたんです。今回の戦争で航空自衛隊が基地への攻撃を阻止できているのは森田元2佐の功績が大きいでしょう」各方面と言っても実際は第7期一般空曹候補学生の卒業前の課程の区隊長だった山中3佐=定年2佐から聞いた話が主だが、私が那覇基地で増加警衛勤務について要点配置されている歩哨では潜入する工作員を発見・阻止することは不可能だと痛感したことで基地警備戦闘の研究を始めたように森田は警戒管制員として配置されたレーダー・サイトの総合演習の基地警備訓練で仮想敵の陸上自衛隊のゲリラに好き勝手に攻撃されて全ての施設に赤字で「破壊」と書いた紙を貼られたのを見て同様の危機感を抱いたらしい。その後は入間基地の第2移動警戒隊に転属して増加警衛勤務につく一方で展開地の警備を担当するようになってプロ化したとのことだった。山中元3佐は奈良基地の幹部候補生学校でも会ったようだが中隊が違ったので詳しくは知らないと言っていたが、卒業前の信太山演習と呼ばれる基地警備訓練では前代未聞の警備計画を作成して区隊長を困惑させたそうだ。
航空自衛隊の常識では歩哨壕は高台の陣地を取り囲むように構築するが森田候補生は夜間の攻撃を想定して斜面の下に構築してゲリラの草地への潜伏を不可能にした。さらに予想接近経路に外哨を配置して敵が接近すれば後方から攻撃させることにしていた。結局、区隊長は森田候補生には指揮官を割り当てず事実上の不採用にしたが山中区隊長は「俺だったら『面白い、やれッ』とハッパをかけて思う存分やらせるがな」と笑っていた。
「森田親父は戦争法にも詳しかったんですね」「国内法では基地警備戦闘はできないから戦時国際法を根拠に戦うしかないと言っているそうです。ところが戦時国際法は陸軍の部隊同士の交戦を想定しているから基地警備戦闘には適応できない点が多いとかなり本格的に研究したようです」「それは鋭い指摘だな。例えば市街地にある基地では文民を戦闘から隔離することには限界がある。最大射程数キロの小銃を外に向けて発砲すればその範囲内にある住宅が被害を受けるのは当然だ。住民を避難させていれば問題ないが現行法では自衛隊の権限ではない」私の解説に警務隊長と第2中隊長は真顔で聞き入っていた。それにしても素人が戦時国際法と呼ぶ戦争法の基本原則の問題に気づくことができた森田定年2佐の研究はかなり高度だったことが分かった。
「ウチにとって幸いだったのは森田2佐が戦時に強制着陸させた外国軍機のパイロットは捕虜として基地内に拘束しなければならないと捕虜に関する戦時国際法も研究していてその成果を森田2曹に教育しておいてくれたことです。ウチはそのおかげでモリヤ2佐、元へ検事にお墨付きをいただけるような対応ができています」「なるほど・・・森田は航空自衛隊だったから能力を存分に発揮できたんだな。陸上では部内出身が防大、部外を超えるような能力を発揮することは組織が許さない。出る杭にされて土の中まで叩き込まれるか根元から切られて葬られてしまうよ」私の陸上自衛隊批判に現職の陸上自衛官2人は顔を強張られせて視線を外した。私はバブル期の募集難のため大学中退者にも拡大された応募資格で一般(部外)幹部候補生に合格したが、前々妻の美恵子の軽率な行動が服務事故扱いされて成績が急降下した。その結果、配属される部隊では「所詮は特例」「まぐれで合格した」と決めつけられて部外であっても部内同様の扱いを受けた。だからこの部内出身の2人の歯噛みするような思いも理解できるつもりだ。警務隊長は警務職種の定年が60歳なので2佐になっているが、3佐と同格の職務についている。私も司法試験合格者の特別昇任で2佐になったが万年1尉からの跳び昇任だった。
「森田の息子には会えますか」「現在は農場での作業の監視に行ってますが、昼飯時には戻ります」「捕虜の作業も見学したいが気を逸らして脱走を許しても困るからな」私の答えに第2中隊長は何故か安堵したようにうなずいた。私は久居駐屯地の第116教育大隊の第328共通教育中隊長だった頃には航空教育隊の感覚で気軽に訓練を見に行ったが、すると区隊長は訓練を中止して「気をつけ」を掛けた後、私の正面まで駆けてきて「科目・基本教練、細目・行進間の動作、実施中」などと仰々しく報告した。見学に出る時、中隊先任陸曹の作野曹長が遠回しに静止したが形式主義が蔓延っている陸上自衛隊では気軽な現場進出が業務を阻害することがあるのだ。
「農場には樋熊は出ないんですか。出れば発砲する必要があるでしょう」「今のところ出ていません」「待てよ。捕虜に脱走させて隊員が発砲すれば『実弾で射たれるぞ』って警告になるな」第2中隊長の安堵した顔が妙に癪に障った私は毎度の冗談で水を差した。梢はこれが冗談であることは熟知していて警務隊長も昨日からのつき合いで多少は慣れているが、免疫を持たない第2中隊長は一転して困惑した顔になった。しかし、検察官が視察に訪れれば作業を見学させるのは常識であり、そこに陸上自衛隊の感覚を持ち込むのはOBの私に対する甘えだ。
- 2023/07/21(金) 14:32:34|
- 夜の連続小説9
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福島第1原子力発電所の原子炉を冷却した処理水の貯蔵タンクを並べている区画を廃炉のために使用しなければならなくなり、この夏に区画が一杯になるのを受けて処理水を真水で希釈した上で太平洋沖に海中投棄することを日本政府が決定しました。これを受けて国際原子力委員会=IAEAから希釈後の放射線濃度は安全基準を下回っていて「問題なし」との認定を受けました。
ところが風評被害による水産物の需要の落ち込みを懸念する漁協などは断固反対を表明してマスコミも後押しを始めましたが、福島第1原子力発電所の廃炉は避けて通れない事故後の処理であり、海洋投棄以外に対案がないため毎度の扇動報道ほどは力が入っていないようです。
そもそもIAEAは原子力問題に関しては世界最高権威の国際機関であってここの認定を受ければ誰も異論を唱えることはできないはずですが、同様の存在のはずの世界保健機関=WHOが細菌兵器の蔓延で発生源である共産党中国の意のままに操られる体たらくを曝け出してしまったのでやや説得力が低下してしまったようです。
そのためなのか共産党中国はIAEAの認定を覆すように反論を公式発表し、対案も示さず海洋投棄の中止を要求してきました。同様に韓国の現政権は日本政府の説明を受けたものの国内では反対運動が始まっていて低支持率が変わらない現政権がこれを無視することができるのかは不明です。
日本のマスコミも共産党中国と韓国の反対を紹介するのであれば単なる海外ニュースになるので異常に大きく紙面を割いて被害者扱いしていますが、この両国の反対が「盗人猛々しい」妄言であることが発覚しました。
それは日本政府が海洋投棄する予定の処理水の希釈前のトリチウムの放射線量は22兆ベクレル(希釈後は10分の1になる)なのに対して共産党中国の浙江省の秦山第3原子力発電所は143兆ベクレル、福建省の寧徳原子力発電所は102兆ベクレル、遼寧省の紅没河原子力発電所は90兆ベクレルの放射線量を帯びた処理水を希釈することなく河川や海に排水していて、韓国も釜山から北東約67キロにある月城原子力発電所は31兆ベクレルの処理水を対馬海峡から日本海に流入させているのです。
と言うことはその海域で漁をしている当地の水産物は放射能に汚染されていることになり、風評被害が発生すれば大打撃を被ります。東北地方の漁協がIAEAの安全認定を受けた福島第1原子力発電所の海洋投棄に反対するのなら中国地方の漁協は野放しの垂れ流しを続ける韓国に牙を剥かなければなりません。しかし、韓国の現政権にぞっこんの岸田首相が許さないのでしょう。
ソビエト連邦時代には海軍の廃艦になった原子力潜水艦の原子炉を鉛入りコンクリートで固めた状態で日本海中央の深海に投棄したことを海上自衛隊が確認しましたが、原子力発電所の建設に躍起になっていた日本政府が国民の核アレルギーを刺激するのを避けて公式発表を控え、第3インターナショナルの盟主・ソビエト連邦を非難する報道は避けたいマスコミと利害が一致して隠蔽されました。しかし、今回の共産党中国に肩入れした報道はマスコミが自分の本性を自白したようなものです。
- 2023/07/20(木) 13:55:05|
- 時事阿呆談
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「しかし、その程度の威嚇でロシア軍が素直に服従するとは思えませんな」正面玄関から中隊長室に使っているらしい面接用の狭い部屋へ移動しながら質疑応答は続いた。監視に当たる兵士が実弾を込めた銃を持っていて怪しい動きを見れば発砲するのは海外では常識であり、それにロシア兵が脅えて絶対服従しているとは思えない。
「モリヤ検事はロシア軍の捕虜になった経験がありますからね」「そうでしたね。あの時はまだ現役でしたか」「いいえ、退役した後の文民でした」私は異常に捕虜を恥じる日本人的な精神性は持ち合わせていないが、日本人の乗客の中でただ1人解放されてオランダに帰りながらロシア軍の戦争犯罪を告発することができなかった無力さは国際刑事裁判所の検察官としての自己を侮蔑している。警務隊長としては第2中隊長に私の経歴を再確認させるつもりだったのかも知れないが不用意な発言だったの間違いない。
「これは明け渡す時の清掃が大変だ」私が重苦しい顔になったのを見て隣りを歩く梢が呟いた。学校では生徒や児童は玄関で上履きに履き替えるため校舎の中は綺麗だったはずだが、自衛隊やロシア軍の捕虜は靴を履いたまま歩き回るので廊下に靴の跡が無数について中央が黒く変色している。この発言で第2中隊長が校舎を管理する上での苦労話を始め、軽い気分で校舎内を見て回ることができた。校長室は旭川駐屯地司令の第2師団幕僚長が兼務している捕虜収容所長専用にしているそうだ。その捕虜収容所長は滅多に視察に来ないようだが戦時にも自衛隊式の気配りは変わらないらしい。
本来は面接用の中隊長室にはソファーの応接セットはなく、高学年用の机と椅子を向かい合わせに並べて4人掛けの小会議室にしてあった。そこに陸曹が第2中隊長が「札幌から配給されている」と説明した缶コーヒーを持ってきてそれぞれの机に配っていった。職員室で待機している運転手の警務官も飲んでいるはずだ。
「これは私の勝手な推理なんですけど、この収容所の待遇がロシア軍が失いたくないって思うほど素晴らしいんじゃあないですか」男3人が栓を開けてコーヒーを飲んだ後、ティッシュで口紅を落としてから飲んだ梢が珍しく自分の見解を口にした。この缶コーヒーは警務隊でも出されたので特に感動するような味ではないが、先ほど見てきた2階の教室は10人で使用していて床に段ボールを敷き、毛布5枚と東北方面隊以北で使用している掛け布団にシーツ2枚が配られていたが広さに快適さが感じられた。それは「捕虜の作業として清掃させている」と言うトイレやシャワー室、給食室、体育館などの付属施設も同様で、頭の中では映画「ビルマの竪琴」「戦場にかける橋」「戦場のメリークリスマス」「大脱走」などで描かれていた捕虜収容所と比べていた。
「網走に上陸したロシア軍は空海からの補給路を遮断されて戦死者の人肉まで食べる飢餓状態に陥っていました」「それも警務隊の報告書で見たよ。帝国陸海軍も太平洋の離島守備隊は同様の地獄絵図を描いたんだ。旭川の一木支隊は餓島と呼ばれたガダルカナル島に派遣されたが上陸して3日後に全滅しているから飢餓に陥る暇はなかっただろうけど」唐突に始まった私の戦史講座に第2中隊長は姿勢を正して聞き入ったが、警務隊長は昨日1日で人間性を理解したらしく耳だけを傾けて缶コーヒーを口にしていた。
今朝、慰霊碑に参ってきた一木支隊はガダルカナル島に上陸したアメリカ軍を過小評価していた大本営が占領された飛行場を奪還し、撃滅させるために派遣した。しかし、アメリカ軍の戦力は想像以上でミッドウェイ作戦の大敗から1ヶ月半後の昭和17年8月18日に上陸して後続部隊の到着を待ったが、20日にアメリカ艦隊の空襲を受けた日本海軍は反転して輸送を断念してしまった。ところが一木支隊の実力を過信した大本営は飛行場の奪還を強要したため進撃する途中の8月21日にイル川の渡河で一木清直大佐が戦死して全滅した。
「そんな惨状から快適な衣食住が提供される生活が与えられれば脱走は考えないかも知れないわ」「いや、外国軍にとって脱走は捕虜になった兵士に課せられた戦闘義務の1つだ。簡単に放棄することはできない。新潟での反転攻勢が始まるのを待って集団脱走や暴動を起こす計画を練っている可能性はある」梢は昨日、警務隊で網走市内で撮影された解体加工された人間の遺骸の写真を見ているので捕虜収容所を救済施設のように考えたのかも知れないが私は別の見解を示した。網走市内に潜入した第25普通科連隊の隊員が目撃した猟奇的に解体された女性兵士の遺骸は撮影されておらず、事案自体が立件されていないため私は警務隊本部ではなく統合幕僚監部の戦闘報告で読んだのだ。したがって梢は知らない。
「それにしてもこの捕虜収容所はジュネーブ条約が定める捕虜の待遇を完璧に近く実現していますね。ジュネーブ委員会の中立国視察を受ければ賞賛されるはずです」説明しながら私はロシア軍の極東の基地の捕虜収容所を思い出した。あそこは待遇ではなく女性の収監者2人を集団で凌辱した兵士たちの犯罪行為が問題だった。
「よほど戦争法に詳しい勉強家がいるんでしょう。会って話をしたいものです」「それが航空の警備課程を作った元教官の息子の2曹で、帰省するたびに英才教育を受けてきたらしいんです」「それって森田敬作だね」私の声が大きくなって警務隊長と第2中隊長はのけ反ったが梢は聞いたことがある名前に黙ってうなずいた。
- 2023/07/20(木) 13:52:58|
- 夜の連続小説9
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1984年の明日7月20日に「激しい運動は身体を強健にする」と主張する著書が爆発的に売れ、全米で盛り上がったジョギング・ブームを牽引していたジム・フィックスさんがヴァーモンド州ハードウィックの州道15号線でジョギングしていて倒れ、搬送された病院で死亡が確認されました。52歳でした。
フィックスさんは1932年にニューヨークでタイム誌の編集者の息子として生まれました。1957年にオハイオ州の名門・オーバリン大学を卒業すると幾つかの雑誌社で編集者として働く一方で高度な頭脳の持ち主の交流を目的とする非営利団体のメンサに加入しました。
1972年に最初の著書「完全なランニングの本」を出版しましたが裏表紙には「ボストン・マラソンに向けたトレーニングで自宅近くの道路や小道を走っている」と「ジョギングの開始宣言」のような記述がありました。と言うのも当時のフィックスさんは体重97キロの肥満体で、1日に煙草2箱は吸う愛煙家だったので読者に健康法を勧められるような立場ではなかったのです。
それでも1978年に「奇跡のランニング・その効用と方法の完全報告」、1981年には「奇跡のランニング・誰にでもできる心と身体の健康法」と「再び奇跡のランニング・スポーツ科学が立証した走る健康法」と立て続けに著書を発表し、同時に27キロの減量と禁煙に成功したことで当時から肥満に悩む人が多かったアメリカで100万冊以上を売り上げるベストセラーになり、フィックスさんが筋肉質になった身体で軽快に走る姿がテレビや雑誌で取り上げられ、「走れば健康になれる」と言う教えは宗教のように浸透してアメリカ中にジョギング愛好者が大量に増殖したのです。
確かに長距離走を習慣にすると苦痛から脱却して恍惚の感覚に囚われることがあり、これをランナーズ・ハイと言いますが、脳内で快楽を与える脳波・α波とホルモン・βエンドルフィンが大量に分泌されることで発生する現象なのだそうです。この快感には麻薬と同様の習慣性があるため身体的負荷を追い求めて距離を伸ばし、速度を上げてやがてフルマラソン(最近は100キロマラソンもある)に出場するようになるようです。
しかし、2足歩行の人間の足腰は舗装した路面で長時間走る衝撃に耐えられるほどの強度はなく、心肺機能も同様で自衛隊でも持久走中に心不全で倒れる隊員は珍しくありません。実際、フィックスさんはコレステロールやカルシウムなどが血管に詰まるアテローム性動脈硬化症を患っていて検査を受けていればドクター・ストップがかかっていても不思議はない状態でした。
フィックスさんの死後、過剰な負荷をかけることなく会話しながら走ることができる速度が指導されましたが、ランナーズ・ハイに罹患している人は無視していました。一方、創設当初の自衛隊では運動器具を買う予算がなかったため最も安価な体力練成方法として長距離走=持久走が推奨され、現在も隊員たちは時間があれば駐屯地・基地の外周道路を走っていますが、これはあくまでも業務としての訓練なので負荷をかけるのも限界まで追求することになり、昔から自衛官の殉職理由では「持久走中の心不全」が上位を占めています。
- 2023/07/19(水) 15:07:22|
- 日記(暦)
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「すまんが、ここで停めてくれ」「車両の通行がないですから良いですけど何事ですか」翌日も警務隊長が同行して警務車両で第2師団が捕虜収容所にしている江団別小中学校に向かった。私は旭川駐屯地の南門を出て右折したスタルヒン球場を過ぎたところで運転手に声をかけた。市民が避難しているため道路を走っているのは自衛隊の車両だけなので路側帯に寄せる必要もない状態だ。それでも運転手の陸曹はウインカーを出して左の歩道際に寄せた運転手はハザード・ランプを点灯させた。やはり警務官は常に道路法規を厳守するようだ。
「ここから慰霊碑に供養のお経を勤めようと思ってね・・・国家神道の施設に立ち入ることは避けるよ」助手席から振り返っている警務隊長に説明しながら私は後席から下りて歩道を北海道護国神社との境界線まで進んだ。後に続いた梢も隣りに立った。そこで線香に火を点けると歩道の街路樹の土に立てた。
ジャラジャラジャラジャラ、チーン、チーン。「我建超世願 必至無上道 斯願不満足 誓不成正覚・・・」数珠を揉み、手鐘(しゅけい)を打って勤めたのは浄土宗では四誓偈、浄土真宗では重誓偈(ちょうせいげ)と呼んでいる佛説無量寿経=大経の一節だ。220文字の四誓偈は262文字の般若心経と同様に丸暗記が容易で、濃縮された内容が長過ぎず短くもなく重宝する。毎朝聞いている梢も暗唱していた。
「大日本帝国陸軍歩兵第28連隊一木支隊、歩兵第89連隊の英霊各位追善供養のため・・・」チーン、「願以此功徳 平等施一切 同発菩提心 往生安楽国」四誓偈に続いて浄土宗式に念佛を10回唱えると回向した。護国神社の境内にも屯田兵の慰霊碑はないようだが、北海道でも徴兵制度が始まって第7師団が設置されると志願制の屯田兵も編入されたので北鎮記念館裏の慰霊碑で大丈夫だろう。
「雪の進軍氷を踏んで どこが川やら道さえ知れず 馬は倒れる捨ててもおけず ここは何処ぞみな敵の国 ままよ大胆一服やれば 頼み少なや煙草が2本」「大悲円満無礙神呪、なむからたんのうとらやや・・・」続いて軍馬の供養になる。先ずは御詠歌の代わりに「雪の進軍」からだった。本当は「愛馬進軍歌」と言う軍国歌謡曲があるのだが旭川産の馬の霊にはこちらの方が響くと考えた。
「大悲円満無礙神呪」は馬頭観音に唱えた。実は阿弥陀如来の救済の対象は名を呼んだ者、救いを願った者とされているので動物は該当しない。そこで手を差し伸べてくれるのが馬頭観音だ。この経では観世音菩薩を「獅子王の如き勇者なり」と讃えているので馬頭観音への祈願には最適だろう。
「おん・あみりとう・どばんば・うんばった」最後は馬頭観音の真言を10回唱えた。ペットを飼ったことがない我が家では動物供養は勤めないので梢は聞いたことがない。私は家で飼っていた犬が死ぬと祖父の寺の裏庭に埋葬して念佛の代わりにこの真言を教えられた。
「どうしても護国神社の神域に立ち入らないんですね」「村の鎮守になら参らないことはないんだが、靖国と護国は国家神道の宗教支配を徹底するための施設だから立ち入れば社殿を放火したくなる。これはあくまでも感情の吐露であって犯行予告じゃあないよ」助手席の窓を開けて勤経を聞いていた警務隊長は私と梢が後席に座って発進させると呆れたように確認してきた。最後の念押しは警務隊長が相手では必要な処置だ。
「ここが2師団の捕虜収容所にしている江団別小中学校です」江団別町の集落は旭川市の市街地を迂回するように外れ、深い森に覆われた山に分け入った場所だった。小中学校は江団別町の中央で市役所の支所や郵便局、農協、NTTなどの公共施設だけがある集落の端にあり、鉄筋コンクリート2階建てだった。
「捕虜収容所の割に外柵が低くて簡単に脱走できそうだ。まさか対人地雷が設置されているんじゃあないだろうね」私の指摘に警務隊長は苦笑して首を振った。私も帰国後、新潟市内に潜入取材していたイギリス人記者がロシア軍に動員されている北朝鮮軍の宿営地で校庭に設置されていた対人地雷を作動させて死亡した事件は知っている。その一方で日本が1997年12月3日に「対人地雷の使用、貯蔵、生産及び移譲の禁止並びに破棄に関する条約」に調印して1999年3月1日に発効させたのは前の仕事の常識だった。
それにしても脱走を正当な権利とする外国軍捕虜の収容施設の外柵が大人の腰までの高さしかない子供が怪我をしないように配慮した安全な構造では阻止の役に立たないのは明らかだ。航空自衛隊の基地警備で遠隔誘導の指向式散弾地雷・クレイモアが威力を発揮しているようなのであれを横向きに設置して異常発見時に作動させれば延長線上の不審者を死傷させられるはずだ。
「モリヤ検事、こちらが第52普通科連隊第2中隊長の藤井3佐です」「藤井3佐、モリヤ検事は捕虜の脱走防止にどのような対策を講じているかを知りたいそうだ」校門に立っている歩哨が無線で連絡したのか正面玄関では第2中隊長が待っていた。すると警務隊長は挨拶も抜きに私の疑問に対する回答を促した。
「捕虜たちに脱走を発見すれば発砲すると警告した上で夜間は狙撃手を屋上に配置して監視に当たらせています。今のところ脱走者は出ていません」これは戦争法上、合法で国際常識な対応だ。
- 2023/07/19(水) 15:06:09|
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小庵は本州の最西端にあるため2011年3月11日の東北地区太平洋沖地震の後、西方浄土に向かう死者の魂魄の団体が集合して「ここは寺か」と話し合っているようなので試しに訳を尋ねると「家族が全員死んでしまって喪主がいない」「寺は津波や崖崩れで崩壊してしまって住職は避難した」と言う説明して「供養してもらわなければ成佛できない」と声を揃えて訴えました。以来、野僧は「命が尽きれば道案内を務めよう」と不眠不休で読経と念佛を続けましたが、知らない間に意識を失って倒れ、数日間眠り放しで死に損なってしまいました。
ところが西方浄土への道案内の法要が評判になったのかその年の盂蘭盆会には西方浄土から帰省した魂魄の団体がやって来て「帰っても誰も生き残っていない」「墓も倒壊したまま放置されている」「寺もまだ再建されていない」と訴えて小庵に逗留して随分賑やかな盂蘭盆会になりました。魂魄がいると空気が冷えるので盆の間は涼しく快適に過ごすことができて助かりました。
そんな小庵は檀家・門徒を持たないため法要に関しては2月15日の涅槃会、4月8日の降誕会、太陰暦の4月8日から15日のウェサック満月、12月1日から8日の臘八接心後の成道会と大晦日の除夜の鐘の後の年頭法要、そして8月15日の盂蘭盆会の佛忌。他には日清日露戦争と対米英中戦争の各開戦と敗戦の日(対米英中戦争は降伏文書に調印した9月2日)、そして沖縄戦の慰霊の日、広島と長崎の原爆の戦没者と阪神淡路大震災や東北地区太平洋沖地震、熊本地震などの大災害の犠牲者の慰霊を勤めていますが、春と秋の彼岸については本来は宮中の先祖供養の祭儀が神道に広まり、それを佛教も模倣したに過ぎず(江戸時代までは村の鎮守の祭礼を住職が執行することも多かった)、日本以外の佛教国では勤めていないため小庵では無視していますが、それでも西方浄土からの団体の魂魄が苦情を言うことはありませんでした。
ところが2020年の春節に共産党中国の細菌兵器が世界各国に拡散して日本でも伝染が確認されると仕事までも在宅勤務が推奨されるような行動制限が始まり、さらに感染者だった有名・大物芸能人が死んでも葬儀が行われなかったことで一般市民もそれを当然視するようになって小庵には関東圏を中心とする地域で亡くなった魂魄が立ち寄って「葬儀をやってもらっていない」と訴えるようになりました。
その頃の野僧は東北地区太平洋沖地震の時のような体力や覇気はなかったので「朝と夕のお経の前には鐘を打つから聞こえたら集まりなさい」と説明して供養を勤めていました。すると関東の人間は死んでも東北人のような遠慮は身につかないようで太陽暦の7月15日の関東圏と加賀・金沢地区限定の盂蘭盆会に帰省してきて「ウチでは新型コロナを名目にして法事はパスだ」と勤経を要求し、ここ数年は春と秋の彼岸にまで気配を現わして拒否する野僧と無言の問答になりました。
しかし、行動制限が解除された今年の7月15日はとても静かで、魂魄がいないせいか室温が高くてエアコンがない生活が堪えています。これも遺族と菩提寺が供養を再開したのなら幸いですが、ここまで天罰が続くようだと手遅れでないことを祈ります(一度だけ姿を現した髪が長い白いワンピースの若い女性の幽霊は誰だろうか?)。
- 2023/07/18(火) 13:49:34|
- 常々臭ッ(つねづねくさッ)
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「やっぱり自衛隊ね。埋葬地も整然としていて公共墓苑みたいだった」「墓碑をロシア正教の十字架にはしてなかったが横棒が3本のはずだからあの人数分を揃えるのは大変だったんだろう」旭川駐屯地の隊員食堂で夕食を摂り、前線に向かう部隊の宿泊に使っている隊舎の当直室に案内されるとお湯が出るシャワー室を使ってから部屋に戻ってソファーで話し合った。今日は警務隊で市ヶ谷の警務隊本部で熟読している報告文書と証拠画像を再確認した後、警務隊長が同乗した警務車両で旭川空港に強行着陸する直前に撃墜された2カ所の現場に向かった。2人とも上空で地対空誘導弾が命中して空中爆発した機体から吹き飛ばされて地上に落下したロシア兵の無残な遺骸と飛散して炎上しながら墜落した輸送機の残骸の写真を見ていたが現場には惨劇を感じさせる物は何も残っておらず野草が生えて一面の草原になっていた。ただし、これから秋が深まり野草が枯れてしまうと雪が積もるまで大きく抉れ、焼け焦げた地面が露出するのかも知れない。そんな2カ所の現場の中央にはそれぞれヘルメットを被らせた丸太の墓標が並ぶ埋葬地があった。
アメリカ軍の戦没者墓苑でも首都・ワシントンからポトマック川を渡った対岸のバージニア州にあるアーリントン墓地の整然と立ち並ぶ石板の墓碑には戦没者の宗教の印が刻まれている。私はカンザス州のアメリカ陸軍の指揮幕僚大学院に留学していた佳織と志緒と一緒に参拜した時に佛教徒を探したが、ナチスのハーケンクロイツを思わせる「卍」ではなく法輪で、それに気づくのに時間がかかった。以前にもハワイのパンチボールに参拜していたが、それが法輪とは思わず日本の墓石式の「家紋だろう」と誤解していた。
戦争法では戦死者の埋葬に当たっては停戦後に所属する軍の手で掘り起こして遺骸を収容し、母国に送り返せるように明確な記録と共に目印を設置することを紛争当事国の軍双方に義務付けている。また可能な範囲での宗教儀礼の実施も求めているが自衛隊には宗教職種が存在せず、地域のキリスト教聖職者や寺の坊主、神社の神職まで避難しているので努力義務は果たせていなかった。記録映像によると作業に当たった予備自衛官が小銃を持って整列して指揮官の号令で「捧げ銃」をしてラッパ手が慰霊の曲「国の鎮め」を吹奏したらしい。今日、作務衣に威儀細を掛けた私が持ってきた線香を焚いて読経のついでに暗記している聖書の一説を唱えたことで満了としたい。当然、警務隊長は運転手の陸曹に動画を撮影させていた。
私は市ヶ谷で報告文書を読んでいて1機目は日本海側に展開していた第4高射特科群の改良ホークの射程距離内だったが、それを逃れた2機目は着陸態勢に入っていて空港周辺に潜伏していた隊員が発射した携帯式地対空誘導弾で撃墜したのではないかとの疑念を抱いている。おそらく戦況が悪化してロシア軍に占領される事態に陥った時、隊員を潜伏させた文民の協力者に害が及ぶことを避けて秘匿したのだろう。つまり第119地区警務隊は虚偽の訴状を提出したことになる。
「貴方が靖国を認めていない理由は知ってるけど慰霊碑まで無視して良かったの」「そこが問題なんだ。北鎮記念館にある慰霊碑は第7師団と断ってるから屯田兵は含まれない。第7師団は日露戦争でも愚将乃木の旅順作戦に出征して多大な損害を受けているが、屯田兵も長岡外史の策略でロシアが停戦交渉に応じることを表明してから樺太に派遣されている。追悼しないのは申し訳ないな」旭川市には道庁所在地ではないにも関わらす北海道護国神社が駐屯地の向かいに鎮座している。参拝を勧める警務隊長によれば境内にはミッドウェー島占領を企図して旭川にあった歩兵第28連隊を中核として編成されて、ガダルカナル島で全滅した一木支隊や連隊の1個大隊を分割してサイパン島に派遣され、主力は沖縄戦でそれぞれに全滅した歩兵第89連隊、さらに敗戦時まで高級将校の乗用や貨物輸送に酷使された軍馬の慰霊碑があるらしい。中でも歩兵第89連隊の沖縄派遣隊は沖縄本島西原村の運玉森陣地=コニカルヒルで太平洋側を南下するアメリカ陸軍を迎え討ち、弾薬を射ち尽くすと夜間に疲れ果てて眠っているアメリカ兵を銃剣で刺し殺して多大の損害を与えた。西原富士と呼ばれている独立峰の運玉森には梢と登って勤経したことがあるので、ここで素通りしては戦没者に申し訳が立たないのは確かだ。
「靖国はいまだに戊辰戦争の戦没者を差別しているんだ。武士として幕府への忠義に殉じた幕臣や譜代大名、奥羽越列藩同盟の戦没者を賊軍と呼んで蔑んでいる。ワシは薩長土肥の反乱軍が駿河湾で難破した咸臨丸の丸腰の乗り組み員を斬殺して遺骸を海に投げ捨てて漁民に埋葬を禁止したことや長岡や会津、函館でも死んでいる父親や兄弟、友人の遺骸が野犬に喰われ、腐っていくのを放置させたのを知っている。それが正義の軍か。北海道の第7師団は山口県人の乃木愚将に無駄死にさせられて屯田兵を樺太に征かせた長岡外史も山口県人だ。その癖、靖国は朝鮮戦争に派遣されて戦死した周防大島出身の海上警備i隊の中谷坂太郎隊員の合祀を拒否している。おまけに山口県護国神社はクリスチャンの妻が拒否した殉職自衛官の合祀を強行した。慰霊碑を神域の中に建立すると霊魂が封印されてしまって家族のところへは帰れないし、妻が死んでも再会できない」「その中でも貴方が許せないのは中谷隊員の問題ね」やはり梢は全てお見通しだった。
- 2023/07/18(火) 13:48:22|
- 夜の連続小説9
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日本人が大阪万国博覧会で「こんにちわ、こんにちわ、世界の国から」と浮かれていた昭和45(1970)年の明日7月18日に東京都杉並区でも環状7号線に近い立正中学・高校で43名の生徒がグランドでの体育の授業中に倒れ、日本では初となる光化学スモッグによる健康被害が認定されました。
光化学スモッグはオゾンやアルデヒドなどの気体成分と硝酸塩と硫酸塩などの固体物質の微粒子が混合した大気が発生させる人工的な環境上の現象です。原因としては工場や自動車の排出ガスに含まれる窒素酸化物や炭化水素が上空で太陽光線の紫外線によって光化学反応を起こしてオゾンなどを発生させることで、このため太陽光線が強くなる夏の昼間に多発するようです。
光化学スモッグが最初に発生したのは1940年代のアメリカ西海岸のカリフォルニア州ロサンゼルスとされていて地形が盆地状のため空気の滞留が起こりやすく、人口が1920年代から3倍増して移住者が持ち込んだ自動車と労働力を獲得して次々に建設された工場からの排出ガスが市街地の上空を覆い、1943年9月8日には昼間でも空が暗くなるほど濃いスモッグが立ち込めて呼吸器障害や目の疾患などの健康被害が大量発生しました。
1944年になると農作物など植物への被害も報告されるようになりましたが、スモッグにはロンドンなどで見られる冬場に暖房として焚く石炭を原因とする黒いスモッグとロサンゼルスで発生するようになった自動車の排出ガスを原因とする白いスモッグの2種類があって、このうち白いスモッグの原因物質が太陽光の影響で光化学反応することが確認されて「フォトケミカル(=光化学)・スモッグ」と言う呼称が付与されました。
日本でも昭和40(1965)年頃から近畿地方や四国で、昭和45(1970)年には関東でも農作物=葉野菜に白い斑点ができる異常現象が報告されていましたが人間への健康被害が出なかったため放置されていました。ところがこの事態と原因が報道されると全国各地で同様の健康被害が報告されるようになり、各自治体も観測体制を整備して「光化学スモッグ注意報」を発令するようになると昭和48(1973)年には発令日数が300日を超えました。しかし、それからは工場や自動車の排出ガス規制やガソリンなどの燃料からの有害物質の除去技術の進歩の効果が表れ始め、昭和59(1984)年には100日を切りました。この時期は工場排水による水質汚濁=ヘドロの海も社会問題になっていましたが、昭和の日本が本気になれば同時進行で解消したようです。
ところが近年では共産党中国や韓国の沿岸部の工業化の進展を受けて海を越えて飛来するPM31などの有害物質の増加が著しく日本海側や季節風が吹き抜ける地域で光化学スモッグが観測されるようになって、特に千葉県では環境問題を得票につなげてきた社民党選出の女性知事だった2002年に県としては28年ぶりに光化学スモッグ注意報を発令しました。
ところが日本政府がこちらも同時進行で深刻化する海洋汚染と合わせて被害国として共産党中国に環境技術の供与を申し入れても「生産性が落ちる」と拒否し、「過去に環境を破壊していた日本に被害を訴える権利はない」とうそぶきながら「新手の環境ビジネスだろう」と揶揄しています。
- 2023/07/17(月) 14:49:12|
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「日本人の工作員を使った破壊工作から始まったんですね」「ご存知ありませんでしたか」「オランダでは報道されませんでした」茶封筒の表には発生年月日と住所、それに当事者の所属、階級、氏名が記してあった。一番上の最も日付が古い茶封筒の階級がある3人の中でも「予備3曹・森田謙作」の横には丸印が付されている。オランダでも我が家が購読していたイギリス発行の英字新聞ではロシアの工作員とは報じていなかったものの第一報は掲載していた。ところが在ヨーロッパの日本の新聞社が「抗議に訪れた反戦平和運動の活動家を自衛隊が殺害した」と喧伝し始めたため在ヨーロッパの日本大使館の説明は搔き消されてしまった。
「この事案は根室半島に展開していた空自の6高群の全滅と同時進行でした。つまり自衛隊の防空体制を破壊して即座にヘリコプターが急襲する作戦だったようです」私は茶封筒の中の報告文書は警務隊本部で熟読しているので梢に回し、現場写真に目を通していると警務隊長が補足説明した。
確かに北海道の地理条件から考えれば稚内と根室の防空体制を破壊した直後にヘリコプターで地上部隊を送り込んで占領すれば橋頭保は確保できる。しかし、それは稚内から旭川を通って札幌に至る経路が主要幹線であって北方領土から根室に上陸するのは迂回路=脇道だった。この作戦では主要幹線の方が失敗したためロシア軍は本格侵攻の見直しを迫られ、今回の失敗につながったようだ。
「森田謙作予備3曹かァ・・・聞いたことがあるな」ワゴン車の後部の窓ガラスの弾痕に続き後部座席で狩猟用ライフル銃を構えた姿勢で前席の背もたれに寄り掛かって死んでいる初老の男性の写真を見ながら私は茶封筒のおそらく実施者であろう丸印が付いた隊員の氏名を思い出した。それでも必死に思い出そうとしても記憶が絞り込めない相手らしく中々特定できない。私の独り言を聞いた前の席の警務隊長と隣りの梢が注視してくるので焦りも加わった。推理しようにも陸上幕僚監部法務官室時代を含めて第52普通科連隊第2中隊と言う所属部隊に接触はなく、即応予備自衛官の知り合いはいなかった。予備3曹では年齢的にも私が部隊勤務で関わった人物ではない。ところがこの糸口から回答に辿り着いた。
「そうかッ、安川が相談してきた曹候補士だな」私の2度目の独り言に梢も思い出したようで深くうなずいた。森田予備3曹は名寄時代の安川1尉が親しくしていた曹候補士でバイアスロンの実力では一目も二目も置く存在だった。当然、部隊でも将来を嘱望されて3曹に昇任すれば冬季戦技教育隊に入校させて冬季オリンピックの代表候補として強化合宿に入れる予定だった。ところが当時の北部方面総監が陸士よりも陸曹が多い階級構成を問題視して曹候補士の一律切り捨てを強行したのだ。安川3曹(当時)は不当人事への対抗措置を質問してきたが、どのように回答したのかは記憶にない。今考えても陸曹への昇任の決裁権は方面総監にあり、その印鑑を握っている人物が強権を奮えば所属隊員が対抗することは不可能だ。下手すれば反自衛隊のマスコミや野党への内部告発をそそのかしたのかも知れないが、その後、安川は幹部候補生に合格して今では1尉であり、森田謙作も即応予備自衛官とは言え陸曹になっているので事を荒立てることはしなかったようだ。
「モリヤ検察官は北方の凶事をご存知でしたか。あれは完全な緘口令が敷かれていて該当者は携帯電話を取り上げられ、駐屯地のポストに投函した書簡も郵便局員の収集時に差出人を確認して曹候補士の物は押収して本人に開封させたんです」「戦時中でもそこまでしなかったはずだがな。その方面総監は東條英機の孫じゃあないのか。3男の東條1佐は襟裳の群司令だったから縁はあるぞ」私の航空自衛隊時代に仕入れた情報に警務隊長は呆気に取られた後、曖昧に笑いながら首を振った。
超A級戦犯の東條英機首相は腹心の安藤紀一郎中将を治安を担当する内務大臣に抜擢すると特別高等警察を使って思想弾圧を厳格化した。それまでは共産主義暴力革命を標榜する活動家を対象にしていた治安維持法を戦争に反対する平和主義者にまで拡大し、やがて電話の盗聴や書簡の検閲まで始めて庶民の生活にまで監視の目を行き渡らせた。実は私が体育学校に入校した時、駐屯地の食堂で食中毒が発生したのだが駐屯地司令が同様の処置を命じた。営内者は通学者を含めて全面外出禁止、公衆電話は使用禁止、ポストに投函した書簡まで開封された。これは帝国陸軍も及ばない陸上自衛隊の情報隠蔽の秘技なのではないか。
「そう言えば森田予備2曹は江団別の捕虜収容所にいますから明日会えますよ」「そうですか。と言っても初対面ですがね」私が人物を特定したのを見て警務隊長が思い出したように補足した。私と梢はこれから警務隊の車両でロシア軍の輸送機2機が陸上自衛隊の第4高射特科群に撃墜された現場に行って調査し、夜は旭川市内のホテルは営業していないので平時には当直室として使っている部屋に泊まることになっている。梢は自衛隊の基地や駐屯地の中で眠るのは初体験だ。その前に屯田兵の資料を展示している北鎮記念館を見学したいものだが、観光客が来ない状況では開館していないだろう。それでも北鎮記念館の裏手にある「北鎮第7師団跡の碑」には勤経した。警務隊長は道路の向こうの護国神社への参拝も勧めたが私が断った。
- 2023/07/17(月) 14:47:53|
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