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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

2月1日・明治の国際派弁護士・岡村輝彦の命日

大正5(1916)年の明日2月1日は明治初期にイギリスの司法弁護士の資格を取得して日本政府とイギリスの海運会社が争った明治25(1892)年の千島艦事件の裁判で勝訴を勝ち取った岡村輝彦弁護士の命日です。60歳から61歳でした。
岡村弁護士は安政元(1855)年若しくは安政2(1856)年の7月又は12月(藩の移封による混乱で生年月日の記録が4つ存在する)に浜松藩の大坂蔵屋敷で生まれました。7歳の時、蘭学・洋学に精通していた祖父と父を関西で吹き荒れた尊皇攘夷の凶風から保護すべく国元に帰されたため藩校・克明館に入校したものの講義の中心だった儒学や漢学古典には関心を示さず「高田屋嘉兵衛魯西亜物語」や「三航蝦夷日誌」「環海異聞」などを熟読して海外事情を学びました。
戊辰戦争後の明治元(1868)年に譜代大名の浜松藩は鶴舞(現在の千葉県市原市)に移封になり岡倉家も転居しました。すると鶴舞は東京に近いこともあり父と共に上京して蘭学・洋学を学び始めるとその学才を藩に認められて新たに設立された教育機関に入学して明治7(1874)年には開成学校英吉利(イギリス)法律科に進学しました。
さらに明治9(1876)年には第2回文部省留学生としてイギリスに渡り、ロンドンに4つある法曹院(弁護士の養成機関)の1つミドル・テンプルで基礎を学ぶと1ヵ月後にロンドン大学の加盟校のキングス・カレッジ・ロンドンに合格して正式にミドル・テンプルに入学しました。ミドル・テンプルでは神経衰弱を発症するほど試験勉強に励み、明治13(1880)年1月に法曹試験に合格して法廷弁護士になり、2月には高等法院上級裁判所の代議員になりました。続いて奉仕活動に近い巡回裁判所にも参加して海事裁判所を経験したことで海事法も習得しました。
明治14(1881)年に帰国すると司法制度が確立されておらず司法省、東京控訴院をたらい回しにされますが明治16(1883)年に大審院(現在の最高裁判所)の刑事局に配属され、明治18(1885)年に横浜始審裁判所(現在の地方裁判所)の所長になりましたが、結局、日本には岡倉さんが実力を発揮する場はなく明治24(1891)年に裁判所を辞職して代言人(現在の弁護士)事務所を設立しました。
そんな明治25(1892)年11月30日にフランスで建造されて日本人の手で回航してきた水雷砲艦・千島が愛媛県沖の瀬戸内海でイギリスの海運会社所有の貨物船と衝突して沈没する事故が発生して当時の日英和親条約の治外法権によって横浜の領事裁判所で公判が開かれることになり岡倉弁護士が代理人として参加したのです。
裁判では日本側が85万ドル、海運会社側が10万ドルを要求しましたが日本側の勝訴になったため海運会社が上海の高等領事裁判所に控訴すると中国の非文明的な風土でアジア人を蔑視していた領事によって今度は逆転敗訴になり(この時点で日本政府は代理人の交代を検討した)、最終審としてロンドンの枢密院に上告しました。舞台がイギリスに移れば岡倉弁護士のホーム・グランドなので存分に実力と人脈を発揮して1895年7月3日に上海の判決を破棄して横浜領事裁判所に差し戻す判決を下し、勝訴を勝ち取りました。
  1. 2024/01/31(水) 12:58:02|
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続・振り向けばイエスタディ722

パジェロに搭載しているM2重機関銃の銃主部にも弾痕があり、機能上の安全が確認できないため手打の砂浜に乗り上げている中国の漁船の破壊は陸上自衛隊に任せることになった。しかし、高機動車にはM2重機関銃は搭載しておらず、01式軽対戦車誘導弾は置いてきたので1隻に1個ずつ手榴弾を投げ込むことにした。
その間に中山1尉と植月2曹は瀬戸上医師の診療所の裏口を抉じ開けて中に入ると上川本3曹の遺骸を包む清潔な毛布や枕を探した。今の毛布は作業用なので機械油で汚れている。でき得れば顔にかける白い布=打ち覆い(面布、顔掛けとも言う)も欲しい。
バーン、バーン。「始まりましたね」外で爆発音が響き始めると植月2曹は医師の席の背後の窓から砂浜を見下ろしながら呟いた。陸上自衛隊は高機動車で通り過ぎながら助手席の窓から手榴弾を投げ込んでいる。4秒後に爆発する頃には数隻分の距離を取っていると言う手筈だ。漁船は獲った魚を入れる船倉に武器を隠していたらしく蓋が取ってある。上手くそこに入れば甲板が吹き飛び、船底に穴が開くはずだ。
「それにしても奴等はどうして瀬々野浦に上陸しなかったのかな」「確かに瀬々野浦からなら分屯基地につながっていますからね。ここから瀬々野浦までの山道はかなり険しくて遠いですよ」中山1尉の疑問に植月2曹も同意した。下甑島は九州本土に面した東側の道路を整備して逆の西側は山道を舗装しただけで放置している。それだけでなく長浜から上甑島までの連絡船の停留港も東側にしかない。
「ヒョッとしたらナポレオン岩を見てビビッてしまったのかも知れないぞ」「まさかァ、中国軍がビビるなら熊のプーさんでしょう」中山1尉の推理に植月2曹が意外な時事の知識を披露した。警備職は警衛勤務で深夜放送の報道番組を見るので重い軽いの区別なく時事問題に詳しくなるのは当然だった。
中国では国家主席が「ディズニーのアニメ『熊のプーさん』に似ている」とインターネットで評判になると「権威を汚す」と映像の放送や画像の添付から玩具のヌイグルミやイラストの販売まで禁止された。一方、日本の加倍首相は同じ「熊のプーさん」に出ている「ロバのイーヨに似ている」と言われていたが照れ笑いしていた。ちなみに韓国の前大統領は日本のアニメ「ドラえもん」ののび太、アメリカの前大統領はジャイアンだ。
「流石に顔に被せる布は見つかりませんね。白いタオルがありますから代用しましょう」「毛布は交換できるから上川本には我慢してもらおう」空き巣同然の家探しを終えると中山1尉と植月2曹は裏口からパジェロに戻った。後部座席の床の溝には血が溜まっている。84式自動歩槍の5.56ミリNATO弾では至近距離からでも防弾チョッキの前後を貫通するのが精一杯だったので量は少な目だ。
「漁船は全て爆破したぞ。集落内に潜伏している中国兵はこれで逃走手段を失ったことを自覚するだろう」「つまり窮鼠になったと言うことだね」指揮官の中隊長は中山1尉の皮肉な比喩に苦笑いした。観音三滝経由の山道と新設の自動車道の合流地点から集落に入るまで中国軍の将兵には遭遇しておらず上陸した約100名はこの集落内に潜伏していることになる。平家の落人が漂着した歴史を持つ手打の集落には空き家を含めて家屋は300軒以上あるから潜伏は可能だ。一方、陸上自衛隊の先遣隊はこれから高機動車1両で西側に点在する集落に向かって中国兵が侵攻していないかを確認する予定だ。
「出発するなら警衛用のランクル(ランドクルーザー)を分屯基地から山道でナポレオン岩へ下らせて挟み撃ちにしたらどうだろう」「それは良い手だ。是非、お願いしよう」中山1尉としては3尉の後続車に上川本3曹の仇を討ってもらった恩義もあり、全面協力するつもりだった。ただし、航空自衛隊が導入しているランドクルーザーは市販用の車両をOD色に塗装しただけなので警備用戦闘車両としては視界が効かず、防音性も過剰だ。今回は窓を全開にして徐行で走ってもらうしかない。
「それでは長友3尉は中山1尉の指示を受けてこの集落を封鎖しろ。敵の移動は徒歩だから車道だけを監視しても意味はない。発見すれば誰何するまでもなく発砲を許可する」「はい、長友3尉」実は3尉は先ほどの草むらに潜伏していた中国兵との戦闘でも誰何その他の手順は無視して機銃掃射した上、手榴弾を投擲した。すでに意識は戦争なのだ。
下甑島ナポレオン岩下甑島・ナポレオン岩
  1. 2024/01/31(水) 12:56:49|
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1月28日・「百人斬り」の虚報で向井少佐と野田少佐が銃殺された。

昭和23(1948)年の1月28日に東京日日新聞(後の毎日新聞)が南京占領を報じた記事で「どちらが先に100人斬るか競い合っている」と言う虚偽の武勇譚が紹介されたことで敗戦後に南京軍事裁判所で死刑判決を受けた向井敏明少佐と野田毅少佐が南京市の中華門外の雨花台の刑場で銃殺されました。
事件の発端は昭和12(1937)年8月13日に発生した第2次上海事件で、日本軍がそれまでの不拡大方針を一転させて大規模な部隊を送り込んで国民党軍を敗走させるとその余勢を買って南京も占領しました。すると当時は文民の服装で日本軍を攻撃しながら略奪や殺害などの犯罪も行う便衣兵が横行していたため戦争犯罪として取り締まりましたが、戦時下の興奮状態と便衣兵の凶悪な実態から殺害に及ぶ例も少なくありませんでした。
向井少尉(当時)と野田少尉は上海派遣軍第16師団歩兵第9連隊第3大隊副官と同大隊砲兵小隊長として赴いた南京で11月29日に東京日日新聞(後の毎日新聞)の記者の取材を受けて「向井少尉と野田少尉でどちらが先に敵を100人斬るか競争している。現在65対25」と豪語したと言う記事が翌朝に掲載されました。
この記事は武勇譚として読者の賞賛を浴びたため12月4日には「記録更新86対65、向井少尉が一番乗りを敢行」、12月6日は「両少尉が最前線に立って奮戦、89対78」、12月13日は「106対105になったので引き分けとして新たに150人を目指して競争を再開」と続報を続けました。それでも都市部では飽きられたようで鹿児島県肝属郡田代村出身の野田少尉の地元地方版の毎日新聞が翌年3月20日に帰還した記事で「愛刀の関の孫六で374人斬った」と紹介したくらいで次第に先細りになりました。
その後の野田少尉は歩兵科から航空科に転換しましたが、対米英戦争が始まると東南アジアでもミャンマーの工作機関・南機関に配属されましたがアウン・サンの裏切りに遭って帰国すると少佐として浜松の航空隊で敗戦を迎えました。
一方の向井少尉は日本国内に留まっていましたが東京日日新聞に「戦死した」と誤報が流されるほど影が薄く、敗戦後は出身地の山口県玖珂郡神代村で暮らしていたようです。それでも昭和21(1946)年に新聞報道を知った極東軍事裁判所の検事の取り調べ受けましたが報道が虚偽であることを認められて釈放され、旅費を受け取って帰宅しています。
ところが昭和22(1947)年の夏になって突如、2人は新聞報道を事実とする文民と捕虜虐殺の戦争犯罪者として逮捕されると巣鴨拘置所に移送された後、南京の軍事裁判所に告発されることになりました。それでもこの裁判も多くのB、C級戦犯の裁判と同じく始めから結論ありきの復讐のための手続きに過ぎず、弁護側が要求する当時の関係者などの証人の出廷や犯罪事由の証拠を検証されることもなく同年12月18日に軍人としての栄誉を保つ銃殺による死刑判決が出たのです。
しかし、日本教職員組合は共産党中国が南京において日本軍が犯した大虐殺と主張するこの「百人斬り」を事実として小中学高校の平和教育の特別授業で児童と生徒に教えることを決議しているので現在も洗脳が継続されているのかも知れません。
  1. 2024/01/30(火) 15:45:40|
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続・振り向けばイエスタディ721

パパパパパ・・・。「グッ・・・」観音三滝の上を通って絶壁に近い斜面に沿った山道を抜ければ平坦で草むらが広がる台地に入る。運転席で植月2曹が「ホッ」と溜息をついた時、パジェロは道路脇の草むらから銃弾の連射を受けた。
後部座席に設置してあるM2重機関銃を立った姿勢で構えていた上川本3曹は銃口を射ってくる位置に向けようとしたが応戦する暇もなく呻き声を漏らして崩れ落ちた。パジェロは防弾ガラスではない上、幌を外しているので上川本3曹は全身を露出していた。勿論、ヘルメットと防弾チョッキは着用していたが至近距離から銃撃されたので胸部を貫通したようだ。中山1尉が振り返ると銃架にすがるように倒れた上川本3曹は背中を痙攣させていた。それを見た植月2曹がアクセルを踏み込むと中山1尉は後続する高機動車の3尉に警報を与え、続いて分屯基地の指揮所に通報した。
パパパパパ・・・、バーン、バーン、パパパパパ・・・。「コシキ2、コシキ2、こちらキタクマ2(北熊本駐屯地の第42即応機動連隊のコールサイン=仮称)、こちらキタクマ2、送れ」「こちらコシキ2、送れ」中山1尉が指揮所への通報を終えるのを待っていたように高機動車の若い3尉から連絡が入った。その前に銃声と手榴弾の爆発音が聞こえてきたから用件は言われなくても想像がつく。
高機動車の車体は防弾になのでパジェロが退避したのを確認して敵が銃撃してきた草むらを機銃掃射したようだ。おまけに手榴弾も投擲したらしい。実は中山1尉もある程度の距離を確保できた時点で助手席から64式小銃を発砲するつもりだったが台地に入っても道路は直線ではなく射界を確保できなかった。その点、高機動車は車体が掩体(えんたい=防護壁)になるので射界清掃として銃弾をバラ撒くには打って付けだ。手榴弾は高機動車側が念を入れたのか、中国軍が投げ損なったのかは後で訊くことにする。
「こちらキタクマ2、そちらの車両を銃撃した敵は掃討しました。これから遺骸を確認しますが逃走する様子がありませんから全滅させた公算が大です」「こちらは1名が死亡した。仇を討ってくれたことになるが待ち伏せするなら全ての経路に配置するはずだ。指揮官の車両も遭遇している可能性が高い。急ごう」「分かりました。捜索は帰りにします」3尉は古参隊員たちが素人扱いする航空自衛隊の中山1尉の意見にも素直に従った。実は一般幹部候補生(部外)課程出身のこの3尉は英語力を買われて健軍駐屯地での台湾人とフィリピン人の義勇隊員の基本教育に当り、先ほど下甑分屯基地で教え子たちと再会を果たしたばかりだった。そこで戦闘員として成長している姿を見て教育に当たった中山1尉にも敬意を抱いているのだ。
「よし、追いついたな。出発」中山1尉と植月2曹が上川本3曹の遺骸を床に横たわらせて毛布をかけている間に高機動車が到着した。甑島群島には大型の野生動物がいないため獣道はできず、人間が分け入った隘路(あいろ=狭い不整地の通路)を踏み固め、さらに馬や牛が引く荷車が轍(わだち=車輪の跡)を付けた道路を舗装しただけで高機動車では車幅ギリギリなのだ。一方、指揮官の車両が通ってくるのは新設された自動車道なのですでに待ち合わせ場所に来ている可能性が高い。それでも銃声や爆発音は聞いていないので無事に到着したのかも知れない
「早速、戦死者1名か・・・」待ち合わせ場所に到着するとやはり指揮官の高機動車は待っていた。中山1尉と後続車の3尉や分屯基地の指揮所との交信を傍受していたようで道路上に隊員を整列させて出迎えた。そして後部座席の床に寝かされている上川本3曹に礼式に則って立て銃からの捧げ銃を実施してくれた。ただし、周囲に存在を露呈する追悼ラッパ「国の鎮め」の吹奏はない。日露戦争でもロシア兵が日本軍の突撃ラッパを覚えて曲が聞こえると機関銃を用意するようになったため吹奏は禁止された。
「分屯地(正しくは分屯基地)にカーゴが戻ったからただちに本隊が来るそうだ。集落の捜索は到着後になる。我々は周囲を固めて移動を阻止するがその前に片野浦に車両斥候を出す」「我々は先ず漁船を破壊しなければならない。それから灯台の監視所を確認したい」「砂浜にはウチの高機動車でいけ。狙撃されれば全滅だぞ」「ジュル・・・」中隊長の温情溢れる提案に中山1尉は胸に迫るものを感じて鼻をすすってしまった。
  1. 2024/01/30(火) 15:44:19|
  2. 夜の連続小説9
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1月13日・ウクライナ生まれのスパイ・ヴィーケリッチが獄中死した。

1945年の1月13日にソビエト連邦が日本に送り込んだスパイの頭目・リヒャルト・ゾルゲさんの片腕として暗躍したウクライナ生まれのブランコ・ド・ヴィーケリッチさん(日本名・武藤利一)が網走刑務所で獄中死しました。ただし、本人は幼い頃から大学生になるまで暮らしたユーゴスラビアへの愛国心が強かったようです。
ヴィーケリッチさんは1904年にオーストリア・ハンガリー帝国の領内だった現在のクロアチアのオシエクで陸軍将校とユダヤ系資産家の娘夫婦の長男として生まれました。
その後、父の転属に伴って帝国領内を転々と移住しますが1918年に父が新たに発足したユーゴスラビア王国陸軍の将校になって首都・ザグレブに定住することになりました。この父は同じく軍人でありながら詩人だった祖父の文才を受け継いで小説家としても有名でこの血統が後にジャーナリストとして活動する上で力を発揮しました。また語学にも優れ母国語のクロアチア語だけでなく周囲の7ヶ国語に精通し、ロシア語やスペイン語も理解し、来日後には日本語も会話に不自由しない程度に上達しています(拘置所に収監後は日本語で手紙を書く必要から記述も習得して当初は片仮名書きだったものの間もなく漢字を用いるようになり、やがて短歌を詠むようになりました)。
1917年にロシア革命が勃発すると周辺各国では革命の熱気に触発された若者たちがマルクス主義の熱に浮かされ、ヴィーケリッチくんもザグレブの中等教育学校に入校中に感化を受けて1923年に卒業すると進学した美術アカデミーの共産主義学生部会に参加しました。翌年、チェコのブルノ工科大学に留学しましたがこれは弾圧を受けていたユーゴスラビアのマルクス主義組織との連絡要員だったと言われています。
1926年に中退して帰国すると母と弟妹を連れてパリ大学法学部に留学してここでマルクス主義者たちと交流を深めるのと同時に数少ないインテリ派として頭角を現し、1932年に国際マルクス主義組織=コミンテルンに提出した論文が高く評価されてスターリン書記長の世界共産主義革命戦略の標的になっていた日本に派遣されることが決定しました。
日本ではフランスとユーゴスラビアの雑誌の特派員と言う肩書でしたが、日本語が秀逸なだけでなく感情を読み取る洞察力に優れ、取材では相手の主張を存分に語らせて日本の雑誌や新聞にはその趣旨に反しない記事を寄稿し、察知した事実は外国で発表しながら核心部分はゾルゲさんを通じてモスクワに送っていたようです。
ヴィーケリッチさんは日独伊三国同盟の一員である日本でナチス・ドイツの動向に関する情報を調査していましたが、1941年6月のロシア侵攻については独ソ不可侵条約を信じ切っていたスターリン書記長が無視したため甚大な被害を受けることになりました。
1941年10月18日にヴィーケリッチさんはゾルゲさんや朝日新聞の記者で近衛文麿内閣の外交顧問だった尾崎秀実さんと共にスパイ容疑で逮捕されましたが、仕事上の交流を持った日本のマスコミ関係者が「ソビエト連邦を利するような情報は与えていない」と口を揃えて証言したため1944年4月に無期懲役の判決が確定し、網走刑務所で発症した慢性消化不良で体力が衰えてこの日に急性肺炎で死亡したのです。40歳でした。
  1. 2024/01/29(月) 15:35:47|
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続・振り向けばイエスタディ720

「青瀬を過ぎると滝のところで車道は二手に分かれます。どっちに行きましょうか」官舎や小中学校がある長浜の集落を抜けて小高い丘の森の中の車道を速度超過で進むと狭い海岸沿いの集落に入った。ここで運転手の植月2曹が助手席の中山1尉に声をかけた。下甑島に着任して以来、中山1尉は上甑島から中島、中甑島、下甑島までの全ての集落と道路を見て回り、集落内の路地や狭い山道も歩いて土地勘を養ってきた。
確かに青瀬から手打の集落へは観音三滝の川沿いに登る山道と集落を抜けて断崖に建設した立体道路で台地に続く2つの経路がある。CHー47が上空から中国漁船14隻が手打の砂浜に着岸して100名以上の兵員が上陸したと通報してきて30分が経過している。その後、CHー47は上陸部隊が携帯式地対空誘導ミサイルを発射してきて推定する射程外まで回避行動を採ったので手打が視界から外れてしまった。そのための手打の集落での上陸部隊の行動は不明になっている。
「ちょっと止めろ」ここで中山1尉はパジェロを停車させた。植月2曹は高速度で走っていたので何度もブレーキ・ランプを点灯させて後続してくる高機動車に注意喚起した後、車道に停車した。すると中山1尉は下車して20メートルの車間距離を置いて停車した前の高機動車に歩いていった。高機動車の助手席からも中隊長が下りて2人は中間地点で議論を始めた。パジェロと高機動車はエンジンを停止していないので声は聞こえない。
「ここで我々は三滝側を登って山道から手打に向かう。高機動車1両が随伴する。指揮官車は新道を行く。合流地点は手打集落の手前になるが中国軍が斥候を出していることは十分に考えられるから上川本3曹は発見すれば別令なく射撃しろ」「はい、上川本3曹」戻ってきた中山1尉の指示で警備職の空曹たちには2人が交わしていた議題が推察できた。手打に上陸してからの30分間に中国軍は集落を占領するための捜索を実施していたと見るべきか、山道をレーダーサイトを攻撃するのに適当な場所へ徒歩で移動していると見るべきか、さらに車両の到着を待ってこれを奪おうと待ち構えていると見るべきか。走行中、中山1尉が独り言のように呟いていた3つの可能性について陸上自衛隊の同じ階級の指揮官の意見を求めたのだろう。おそらく指揮官の回答は可能性を取捨選択するのではなく全てに備えながら先を急ぐと言うものだったらしい。
「出発」「出発します」出発する前に中山1尉はM9短機関銃の安全装置を確認してから足元に置くと後部座席の上川本3曹から64式小銃と弾倉を受け取った。山道で中国軍と遭遇すればこれで銃撃戦を実施するつもりなのだ。
「中国軍って足腰は強いんですかね。最近は肥満体の若造が増えていてアメリカ軍の体重制限を真似してるってテレビでやってましたけど」助手席の中山1尉が緊張した顔で周囲を警戒しているのを横目で見て植月2曹が肩の力を抜くような雑談を吹きかけた。
かつての中国人民解放軍は軽武装で一撃離脱のゲリラ戦術を常用していたので逃げ足を含めて足腰は強かったはずだが、近年は農村の若者が都会に出て肉体労働をしないで美食を口にしているので実家がある田舎で徴兵しても身体は脂肪タップリの肥満体で兵隊として使い物にならないと言う話題がテレビやインターネットで紹介されている。そこには中国の軍事的脅威を受けている日本人に「大したことはない」と危機感をやわらげる一方でコンピュータの技術者や外国語に堪能な若者を大量に徴兵してインターネットやメール、海外からの郵便物などを検閲させている事実を隠蔽する目的もありそうだ。
「ここまで漁船で来たくらいだから特殊部隊なんだろう。油断はできんぞ。上川本3曹も狙われる前に発見して銃弾を浴びせろ」「はい、上川本3曹」かなり危険な指導に返事をした上川本3曹は出発する時、警衛所の前に整列して見送っていた台湾人義勇隊員たちの心底悔しそうな激励の声を思い出した。分隊長の警備職の空曹以外は台湾人義勇隊員で編成していた上陸阻止隊は陸上自衛隊の到着で活動停止になり、一般隊員の分屯基地の警備に編入される。約100名の中国軍がほぼ同数の陸上自衛隊を相手にどのような戦闘を展開するのかは予想もできないが、手打に到着すれば真っ先に海岸に乗り上げている中国の漁船をM2重機関銃で銃撃して破壊することを命じられている。逃走手段を奪われた人民を救うための弾道ミサイルだけは御免こうむりたい。
  1. 2024/01/29(月) 15:34:49|
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1月9日・ロシア革命の発端・血の日曜日事件が起きた。

満州では1月2日に旅順要塞が降伏・開城して1週間後の1月9日(ロシアの旧暦では1月22日)の日曜日に当時の首都・サンクトペテルブルグで1917年のロシア革命の発端とされる血の日曜日事件が発生しました。
日本では日露戦争の勝因としてロシア駐在武官だった明石元次郎大佐がレーニンなどのマルクス主義者たちに活動資金を渡してロシア国内に反帝政の革命の気運を発生させたことを指摘する歴史研究者がいますが、この時点ではマルクス主義は支持を集めておらず指導者もマルクス主義者の革命組織とは別に労働者の集会を主催していたロシア正教会のゲオルギー・アポロノヴィチ・ガボン司祭で最下層の人々の窮状を皇帝に訴え、救済を求めることが目的でした。勿論、日露戦争の戦費は帝政ロシアの財政を圧迫し、庶民に重税を課していたので「早期停戦を主張した」と言う記録はあります。
この日、ガボン司祭の呼びかけに応じて労働者の集会がサンクトペテルブルグに住む労働者18万人の内、10万5千人が参加するストライキを実施した後でサンクトペテルブルグの大通りを宮殿に向かって練り歩く請願行進を始めました。この時の請願は「憲法制定会議の招集」「労働者の基本的な権利の保障」「敗戦が続く日露戦争の中止」「各種自由権の確立」などの当時の西ヨーロッパでは常識になっていた内容でしたが、各地の領主であり銀行や企業を経営する上流階層は労働者を中世の農奴と同じ存在として搾取する前時代的な支配者意識から脱することができておらず、ガボン司祭の集会以外の庶民たちも行進に加わって6万人が参加する大規模な労働運動になりました。
このため皇帝の側近は軍隊と警察で行進を阻止するつもりでしたが簡単に押し切られてしまい多くの労働者たちは宮殿前に到着しました。しかし、最下層の庶民たちもロシア正教会の守護者でもある皇帝に対して絶対的な忠誠心を抱いていて「直訴すれば必ず救済してもらえる」と信じて道路を埋め尽くしていても騒ぎは起こさず代表者の請願書を受け取りに皇帝が遣わした側近が出てくるのを固唾を呑んで見守っていました。
ところが皇室の権力者から見れば6万人の大群に宮殿が包囲されるのは暴動に他ならず、1789年5月5日のフランス革命の悪夢が目の前で再現されているような危機感を抱いても不思議はありませんでした。このため誰が命令したのかは不明でも衛兵たちは武器を持たず暴れてもいない市民に弾を込めた銃を向け、引き金を引いたのです。この事件をロシア革命の正当化に利用したソビエト共産党は死者数4000人以上と公式発表していました(現在のロシアでは1000人程度としている)。
さらにこの発砲が宮殿を守る衛兵だけでなくサンクトペテルブルグ市内の各地でも同時多発的に始まったことから「皇帝の命令」とする噂が革命勢力によって広められるとロシア国民の忠誠心は急速に冷めて搾取者である上流階層の代表として憎悪の対象になり、ロシア国内で暴動が頻発するようになるとレーニン一派はそれを革命の火種として油を注いでいったのです。それでも現在、皇帝・ニコライ2世は暴力革命の犠牲者としてロシア正教会では聖人に列せられています。
  1. 2024/01/28(日) 13:54:23|
  2. 日記(暦)
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続・振り向けばイエスタディ719

「離陸したCHー47からの情報によると中国漁船は手打に上陸するようだ」「やはり」グランドに着陸して後部ドアから人員と資材を下ろし終えた2機のCHー47が次々に南に向かって舞い上がると中山1尉のトランシーバーに運用班長から連絡が入った。
手打は下甑島の最南端にある比較的大きな集落でドラマや映画になった劇画「Drコトー診療所」のモデルとされる瀬戸上健二郎医師の診療所がある。下甑分屯基地からは下甑島の玄関に当たる長浜港に山道を下り、海岸線沿いを南に向かって断崖から川の水が落下している瀬尾観音三滝を過ぎたところで台地の上に登り、畑の中を突っ切ったところにある。道路での距離は約17・5キロで所要時間は30分程度だ。
「手打の入り江には釣掛埼灯台に監視所を配置しているが通報がなかったと言うことは・・・」「手段は判らんが殺られた可能性が高いな」「手打の集落は無人になっているから銃声や爆発音を聞いても連絡は入らないんだ」運用班長からの連絡を先遣隊の指揮官の中隊長に説明すると感情を交えずに最悪の事態を口にした。中山1尉が上甑島の田之尻監視所で「前方を通過する中国漁船からの銃撃で岩元士長が戦死した」と言う連絡を受けてまだ30分は経過していない。この中隊長の見解を聞いて中山1尉の脳裏に釣掛埼灯台に配置した3名の監視要員の顔が浮かんだ。
「そう言えばアイツらは『灯台の照明台の方が視界が良いから双眼鏡をくれ』と言ってきたんだ」「3人揃って上にいるところを狙撃された可能性が一番高いな」この中隊長は中山1尉が考えたくない部下の死因を淡々と代弁してくれる。
ロシア軍は第2次世界大戦のナチス・ドイツとの祖国防衛戦で狙撃手が腕を競い合い、多くの指揮官が標的になって戦死したことは史実として語り継がれている。一方の中国は蒋介石の国民党軍は第1次世界大戦後に敗れたドイツ軍の将校を雇って軍事指導を受け、対日戦争ではアメリカ軍の軍事顧問の指導によって近代的な軍の体裁は整えていたが毛沢東の共産党軍は寄せ集めた農民にソビエト連邦から供与された武器を持たせただけの素人集団で極めて高度な技術と知識、冷静沈着な判断力を必要とする狙撃手を育成して戦力化したと言う記録は読んだことがない。それでも陸軍の兵隊であれば航空自衛隊以上に射撃訓練に励んでいるはずなので1人や2人くらい狙撃手が紛れ込んでいても不思議はない。そうなると命中率が低い84式自動歩槍=中国製AKー74(弾丸は5.56ミリNATO弾)ではない初公開の専用の狙撃銃を持っている可能性がある。
「それではウチが高機動車で現地に向かうことにしよう」「道案内が必要だろう。ランクルで同行する」離陸したCHー47のうち1機は下甑島の南海上で携帯式地対空ミサイルを警戒しながら監視を続けている。その情報によると漁船14隻は手打の砂浜に着岸して1隻あたり8名の兵士が上陸したと言う。つまり112名1個中隊だ。
「上甑島に向かったカーゴ(軍用トラック)が戻ってこないと折角、到着した本隊が出動できないな」「途中ですれ違ったがかなり急いでいたぞ」中隊長は試作品ドローンの実用試験がなくなって落胆している若い3尉に先遣隊の出動準備を命じると中山1尉のボヤキにもつき合った。確かにカーゴはCHー47が下ろした隊員を乗せて中国漁船が着岸した場所に急行するように命じられていたので下甑島、中甑島、中島を全速力で突っ切ったはずだ。勿論、その前を先遣隊の高機動車2両が暴走していった。
「先遣隊、指揮官以下各車両に10名ずつ、各人小銃と弾薬を携行、MINIMI(5.56ミリ軽機関銃)2丁と弾薬箱10個、携帯用食料3食分、予備の水タンク4個を積載、出発準備完了」若い3尉が01式軽対戦車誘導弾などを下ろしてCHー47が運んできた弾薬箱や携帯用食を積んでいる間に中隊長は本隊の指揮官の3佐と打ち合わせをしていた。そうして準備が完了し、隊員たちが高機動車の前に整列すると報告を受けた。
「これより第9警戒群警備隊上陸阻止隊は陸上自衛隊第42即応機動連隊甑群島派遣隊先遣隊を中国軍が不法上陸したことが確認された手打地区に先導する。ドライバーは植月2曹、射手は上川本3曹、指揮官兼車長は中山1尉だ」先遣隊が乗車を始めた横で警備隊も命令を下達した。車両は陸上自衛隊からもらったM2・12.7ミリ重機関銃を搭載しているパジェロ、運転手と射手は警備職の空曹を選んだ。
  1. 2024/01/28(日) 13:53:16|
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続・振り向けばイエスタディ718

「貴方が中山元3佐のご子息ですか、お噂はかねがね父上から伺っています」「父がご迷惑をかけています」上甑島で現地に急行した先遣隊が軽MAT=01式軽対戦車誘導弾で中国の漁船団14隻を全滅させた頃、鹿島港に派遣された半数の高機動車は下甑島分屯基地に到着して警備隊長の中山1尉の出迎えを受けた。先遣隊の指揮官は第42即応機動連隊の1尉の中隊長で2尉の小隊長2名を上甑島に向かわせていた。
「軽MATを持ってきたんですね」「地対艦ミサイルは九州本土と五島列島に配備してしまいましたから代用品です」中隊長は相手が隊友会の役員として部隊の行事に毎回参加している中山元3佐の息子と判ると航空自衛隊の素人が01式軽対戦車誘導弾を知っていることにも特別な反応は示さず冗談めかして経緯を説明した。
「湯布院の8連隊(第8対艦ミサイル連隊)が長崎、健軍の5連隊(第5対艦ミサイル連隊)は天草に配置されると聞いていましたが」「8連隊の1個中隊を水機連(水上機動連隊)で福江島に移動させました」中山1尉は下甑島の警備隊長に着任して以降、福江島の副島1尉と陸上自衛隊西部方面隊や海上自衛隊佐世保地方総監部の動向を注視してきた。中でも中山1尉は隊友会の役員を務めている父親が熊本県内に留まらず九州全域の陸海空自衛隊OBに強固な人脈を構築しているだけでなく最近は中山家に限らず自衛隊も世襲化しているので現場レベルの情報にも精通している。
「他にも秘密兵器があるんでしょう」「そうきましたか。実は今回は完成したばかりの試作品の実用試験をやらせてもらいます。ドローンの偵察機です」中隊長は後ろに立っている若い3尉を振り返ると陸曹たちが運んできた金属製の箱の蓋を開けさせた。中山1尉が台湾人義勇隊員の上陸阻止部隊の指揮官である警備職の空曹と覗くとテレビなどで紹介されている農業用の無人ヘリコプター=ドローンよりも数倍の大きさで高精度のカメラが装着されているドローンが収められていた。その時、中山1尉が手で持っている連絡用トランシーバーが呼び出した。
「間もなくCHー47が2機、グランドに着陸すると先遣隊に伝えてくれ」「了解」中山1尉が中隊長に今の話を伝えようとすると東側の空に見えていた4つの黒い点が具体的なヘリコプターの姿になり、エンジン音と2つの回転翼が空気を引き裂く爆音が会話を邪魔するほどになった。これで本隊が到着したが第9警戒隊長=下甑分屯基地司令から上甑島に着陸するように指示された2機もこちらに来ている。上甑島に向かっていた中国の漁船を東側の海岸に到着した先遣隊が全滅させた戦果を上空で確認したらしい。
「CHー47が4機到着しました。2機ずつ交代で着陸するようです」「ラージャ、ウチのグランドの広さでは仕方ない。それから八尻と松島の監視所から現時点で漁船は確認できないと連絡があった」中山1尉がCHー47の到着を指揮所に連絡すると運用班長はついでのように警備情報を伝達した。
「どうやら早速、秘密兵器の実用試験を始めてもらうことになりそうだ。下甑島でも西側北部の2つの監視所が現時点で漁船を視認できないと報告してきた。上甑に到達した時間から考えるとそろそろ姿を見せなければおかしいが・・・」「下甑は全周に漁港が点在しているから選択自由なんだろう。それならドローンで上空から探すのが手っとり早いな」現場指揮官同士で話は決まった。鹿屋基地の海上自衛隊も後続のPー1哨戒機を発進させて捜索に協力していたが、残った中国漁船が想定以上に広範囲に分散して奄美群島まで狙う兆候が見えたためこちらの追跡に任務を切り替えられた。一方、航空自衛隊の無人偵察機・グローバルホークは新潟方面で全機がロシア軍に撃墜された。
「電波が届く範囲に居てくれることを願うよ」「一般のドローンは操縦者が目視できる範囲内に制限されていますが、これは防衛用なので20キロ程度まで飛行可能です」「それでも島の南端まで移動する必要があるな」トランシーバーでドローンの使用許可を取った中山1尉は3尉と陸曹たちのドローンの発進準備を見学しながら中隊長と運用方法を話し合った。3尉が補足説明した一般のドローンの使用範囲は2キロ未満、百メートル単位だが、防衛用の20キロでも領海12海里は22.224キロなので領海をカバーできない。所詮は試作品なので過剰な期待は禁物だ。

  1. 2024/01/27(土) 13:57:32|
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1月4日・日本的女性美を具現化した篠山紀信さんの逝去を悼む。

野僧の意識が戻ったのは1月2日の深夜でしたが済生会豊浦病院は休日の面会には担当医の許可が必要なため同居人は4日まで来ることはなく6日になって持ってき5日の新聞に篠山紀信さんの訃報が載っていました。83歳でした。
野僧の世代は就職するとカメラを買う奴が多く外出にも首からカメラを提げて歩き回っていましたが、野僧は高校写真部の後輩(卒業式の後、制服の第2ボタンを渡した)から「人物写真には100ミリくらいの望遠レンズを使った方が良い」と技術的な指導を受けていたので女の子を撮りまくりっていて、沖縄に赴任すると職場や内務班にはカメラ小僧が揃っていて壁に自信作を並べた部屋で技術談義と器材の自慢に花が咲いていたのです。そこで野僧は彼女=亡き妻がハーフと言うこともあってプロのモデルを雇っているような作品が撮影できましたが、同時に技術を研究する必要を感じて有名カメラマンの写真集を買って作品を見比べるようになり、そんな中で野僧は高校時代に研究材料として「篠山紀信の135人の女ともだち」を購入していたものの水沢アキさんのファンの先輩に貸しっ放しになったため篠山さんが「激写」シリーズを連載し始めた「GORO」や「写楽(しゃがく)」を定期購読し、文庫本サイズの「激写」シリーズを買い揃えるようになりました。すると周囲の女性専門のカメラ小僧たちは「篠山紀信の作品は太陽光を用いているので誰にでも撮れる」とあまり評価していないでソフトフォーカスを用いた幻想的な背景の中で無表情な女性の目に語らせるようなでデイヴィット・ハミルトンさんやモデルの醜い表情を女の本性としてあえて晒しているような立木義浩さんなどに好みは分かれていました。それでも野僧は日本画の高塚省吾画伯の女性美に通じる自然体を捉えた篠山作品が好きでした。
篠山さんは昭和15(1940)年に東京の新宿区の真言宗豊山派の寺の住職の次男として生まれましたが昭和19(1944)年に父は戦死しました。敗戦後は浄土宗の芝学園の中学校・高校に進み、大学受験で失敗したため特に写真に興味はなかったにも関わらず衝動的に日本大学芸術学部写真学科に願書を提出して合格したのです。すると坊主の息子らしく因縁に身を任せるようにプロの写真家を志すようになり、大学の他に写真専門学校にも通って知識と技術を高めると新進の写真家として知られるようになりました。
この頃の作品は女性だけでなく歌舞伎の坂東玉三郎さんや風景に溶け込む廃墟や古い街並みを撮影した家シリーズなど多岐にわたりましたが、昭和54(1979)年に発売した前述の「135人の女ともだち」の爆発的ヒットで女性のヌードの依頼が殺到するようになり、1991年に人気絶頂だった宮沢りえさんのヌード写真集「Santa Fe」を発売したことでヌード写真家としての地位が確定してしまったようです。
しかし、野僧の世代にとって清純派アイドル歌手の代表である南沙織さんを私物化したことで夏目雅子さんと篠ひろ子さんを嫁にした伊集院静さんと並ぶ許し難い人物になり、カラオケで唄いながら「山下達郎と竹内まりや夫婦とどちらが不釣り合いか」と妙な議論をしたものでした。真言宗なので「南無大師遍照金剛」を唱えて冥福を祈りました。
園みどり「激写」園みどり(刑事物語・りんごの詩のヒロイン)
  1. 2024/01/26(金) 14:17:41|
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続・振り向けばイエスタディ717

「ウッ・・・」中国漁船からの銃撃を受けて2人が航空教育隊で習った通りの顔を地面に押しつける「その場に伏せ」の姿勢を取ると背中の上を銃弾が空気を引き裂く甲高い音と熱い空気の固まりが頭上を通過していった。それは確実に2人を狙っていて漁船に乗り組んでいる兵員の練度の高さを物語っている。すると2人は銃弾の通過音の中で望遠鏡を見ている岩元士長の呻き声を耳にした。
「岩元ッ」分哨長は一段高い望遠鏡の台に声をかけたが反応はない。分哨長は射撃準備に熱中していて監視要員の岩元士長に反撃を受けた時の回避行動を指導することを忘れていた。そのため岩元士長に身体を露出した姿勢で監視を続けさせてしまった。
「中国船が通過します。岩元の仇を取りましょう」気がつくと中国漁船からの銃撃は止んでいた。エンジン音が右手から聞こえてくる。それで位置を察した空士は2脚を立てた小銃を置いたままにじり寄るように柵まで移動して海上を見渡した。
「その前にCPに連絡だ。無線機は岩元が持っていたんだな」分哨長は一段高い望遠鏡の台に第4匍匐で移動していたが空士の報告を聞くと立ち上がって歩み寄った。すると案の定、岩元士長は蜂の巣状態で仰向けに倒れ、一面が血の海になっていた。肩に吊っていた無線機にも数発が命中していて電源が入っていない。
「仕方ない。長目の浜まで退避して連絡しよう」「しかし、足は長友3曹の私有車でしょう。漁船よりも先に着けますかね。かなり早いですよ」空士は今回の戦闘で長友3曹の指揮能力の欠如を実感したようで「分哨長」とは呼ばなくなった。
分哨長としては銃撃を受けた岩元士長と漁船の確認のどちらを優先するべきかも指揮能力の範疇だった。さらに無線機が使用不能になったとしても携帯電話と言う選択肢があり、指揮所から退避を許された弾薬の消耗数には至っていない。一方、空士は発砲を始めた時点で中国漁船からの反撃は覚悟していたが、本業は基地業務小隊でも事務職の長友3曹は完全に怯えてしまい、銃撃戦を続けることができなかった。そのため長目の浜への移動も下手すれば漁船の侵攻方向の里港ではなく峠を越えて上甑島の瀬上や中甑浜に逃亡する口実なのかも知れない。
第9警戒隊が保有する官用車の台数を考えれば甑群島内の展望所と灯台に配置する監視要員を私有車で移動させたことは窮余の策ではあったが、第3術科学校警備課程で安川3佐や後任の警務幹部の3佐の教育を受けた航空陸戦隊の空曹ではなく航空教育隊の初任空曹課程の形式的な地上戦闘を習ったに過ぎない長友3曹では台湾人義勇隊員と一緒に中山1尉の急速練成教育を受けた空士の目には全く物足りなかった、
「岩元の遺骸をトランクに乗せる」「急がないと中国漁船の通過に間に合いませんよ」「置き去りにすることはできないろう」空士は長友3曹の優しさは理解したが、現在が戦闘中である認識が欠落していることを再確認した。結局、長友3曹は生真面目な平時型自衛官なのだ。この調子では先ほどの銃声を聞いて警戒していた長目の浜監視所が中国漁船と開始している戦闘に遅れて到着する「増援」にはなるかも知れない。
「ヘリだ」「指揮所が言っていたCHー47ですね。1機は里港に着陸します」血塗れの岩元3曹の遺骸を長友3曹が上半身、空士が下半身を抱えて私有車のトランクに載せた時、東側の海上から数機の大型ヘリコプターのエンジン音が聞こえてきた。空士が腕時計を見ると先ほど長友3曹が指揮所と交信していた時間から20分ほど経過している。
「銃声だ。長目の浜が発砲を始めたんだ」「携SAMの照準を妨害するつもりなんでしょう」長友3曹がトランクの中にあった洗車用のタイルで手に着いた血を拭うと前方から銃声が聞こえた。同時に海上の青い空には4機の大型ヘリコプターの機影が4つの点になって現れ、かすかにエンジン音が聞こえ始めた。
「長目の浜の方向でミサイルを発射しました。あれは対戦車ミサイルです」「先遣隊が到着したんだ。これで中国漁船は全滅だ」2人が乗って走り始めると前方の海面で白煙を引いた弾痕が漁船に伸び、次々に爆発したのが戦争映画の大画面の映像のように見え始めた。指揮所には通知がなかったが第42即応機動連隊の派遣命令には「先遣隊の高機動車に01式軽対戦車誘導弾各20基を搭載させる」と記載されていた。
  1. 2024/01/26(金) 14:10:25|
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12月30日・歌謡界の女王・八代亜紀さんの逝去を悼む。

野僧が意識を失って入院していた2023年の12月30日に美空ひばりさん亡き後に「歌謡界の女王」の重責を担っていた八代亜紀さんが亡くなっていました。73歳でした。
野僧は2023年10月8日収録のNHKのど自慢の出場資格を得ながら市民会館に朝7時半と言う集合時間が無理なため断念しましたがゲストは八代亜紀さんと伍代夏子さんでした。そのため八代さんの代表曲の1つ「舟唄」で応募したのですが、突如「体調不良でゲストを辞退する」と発表とされてそのまま今回の訃報になったのです。それにしても同じ時期に野僧も危険な病状に陥っていたのですから一緒に逝っていれば三途の河原に鬼と亡者を集めてのコンサートの前座として「舟唄」を聴いてもらえたかも知れません。
八代さんは昭和25(1950)年に現在の熊本県八代市で生まれました。両親は父が20歳、母が19歳の時に駆け落ち同然で結婚して始めは会社勤めしていましたがやがて運送会社を立ち上げたものの上手くいかず、八代さんが生まれた頃には生活は困窮していたようです(ただし、演歌歌手の半生記は不幸な生い立ちが定型になっています)。そのため絵と歌が得意だった父は金がかからない娯楽としてスケッチブックとギターを持って幼い八代さんを連れて出かけると写生しながら遊ばせ、遊び疲れるとギターを弾きながら浪花節や演歌を聞かせ、やがて娘に唄わせてギターで伴奏するようになりました。
こうして幼い八代さんは唄うことの喜びを覚えたのですが小学校に入ると音楽の授業で教員から地声のハスキー・ボイスが「合唱を乱す」と声を出すことを禁じられて自信を失いましたが小学校5年生の時、父が聞いていたジュリー・ロンドンのレコードでハスキー・ボイスの魅力を強く認識・自覚して演歌などの大人の歌を唄うようになりました。
八代さんは幼い頃から両親の生活苦を目の当たりにしていたため「一日でも早くお金を稼いで家計を助けたい」と思っていたそうですが同時に「その手段が歌であれば」と願うようになり、「(確実に稼げるステージ歌手)」と言う夢を思い描くようになったようです。
こうして中学校を卒業すると唄える仕事としてバス・ガイドになりましたが数カ月で辞めて年齢を偽ってナイト・クラブで唄うようになりました。ところが両親に知られたため家出同然で上京して親族の家に居候しながら音楽学校に通って基礎を学び、学費を稼ぐために唄っていたナイト・クラブで五木ひろしさんと知り合って芸能プロダクションを紹介されて出身地から「八代(地名は「やつしろ」だが語感の良い「やしろ」にした)、「亜細亜で何世紀も活躍する歌手になるように」と「亜紀」と命名されました。
こうして五木さんに続いてオーディション番組「歌謡選手権」に出場して10週勝ち抜いたことで知名度が上がり、次第にレコードも売れるようになって晩年には演歌は勿論のことジャズやポップスも唄う大歌手への道を歩み始めたのです。
八代さんと言えば嘉門達夫さんの替え歌から「厚化粧」の風説がありますが、浜松の輸送小隊に同じ熊本県八代市出身で棟方志功さんの美人画のような濃い顔立ちのWAFがいたので野僧はスッピンでも変わらないと思っていました。「舟唄」を聴いてもらうのは極楽浄土の蓮の池の畔にします。谷村新司さんも「昴」をどうぞ。カーン(鍾1つ)
  1. 2024/01/25(木) 14:13:39|
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続・振り向けばイエスタディ716

「9警(第9警戒隊)CP、こちら上甑・縄瀬鼻監視所、中国漁船の船団が島の北を通過して東側海域に向かっています」「了解、終わり」間もなく上甑島の最北端にある縄瀬鼻灯台の展望所から情報が入り、中山1尉が応答した。これが本業は兵器管制幹部の運用班長が出れば「ラージャ」と英語で答えるところだが教育幹部は陸上自衛隊式だ。
「東側に回ったとなると里港に上陸するつもりでしょうか」「その可能性が高いな」「漁船が全力航行すれば陸路の先遣隊と後続のCHー47は間に合いません」先ほどの第9警戒隊長の指示は甑島群島に向けて飛行中のCHー47だけでなく北熊本駐屯地で傍受している第8師団司令部も了承したが間に合わなければ元も子もない。
「中国漁船はウチには全島に配置するだけの隊員がいないことが判っているのでしょう。陸自がヘリで増援に来ることも見越して先に着上陸できる上甑でも東側を選んだ。陸自のCHー47が近づけば携SAMで射ち落とすつもりです」中山1尉の推理に警戒隊長と運用班長は重苦しい顔を見合わせた。
「上甑の田之尻と長目の浜、射手崎灯台の監視所に命令、各監視所は監視を継続しながら待機要員は小銃で通過する漁船に射撃せよ。射撃方法は連射で可(よし)。航行を阻止しろ」「了解」警戒隊長は運用班長と無言で打ち合わせると中山1尉が持っている警備用回線の無線機を受け取ると呼び出しを省略して命令を与えた。こちらも兵器管制幹部が本業だけに咄嗟に陸上自衛隊式日本語の通話手順が思い出せなかったのかも知れない。すると最初に通過することになる田之尻監視所から返信が入った。
「こちら田之尻監視所、弾薬は弾倉12本と木箱の残り分しかありませんが」「射ち尽くしたら撤退しろ。その時の護身用に各人2本分は残しておけ」返信には無線機を奪い返すようにして中山1尉が答えた。警備隊長である中山1尉に撤退を許可する権限があるのかは微妙な問題だが警戒隊長は無表情に通話を聞いていた。
「そう言えば派遣されてくる陸自は89式小銃だから5・56ミリ弾だぞ。ウチの64式の7・62ミリとは互換性がないじゃあないか」「うん・・・」運用班長の思いがけない指摘に警戒隊長以下の幹部たちは絶句してしまった。
開戦以降、防衛省・陸海空自衛隊は国内の防衛産業に各種装備品の急速な増産と備蓄を発注しているが財務省の予算の示達が後回しになっているので増産分の原材料の外国での調達契約が成立しないため遅々として進んでいない。下甑島でも警備要員の射撃訓練さえも弾薬を節約しなければならず各監視所に弾薬箱1個を配るので精一杯だった。さらに航空自衛隊は大量に消耗する戦闘機用の20ミリバルカン砲の弾薬を優先しなければならず、弾薬メーカーが陸上自衛隊と在日アメリカ軍から発注を受けている5・56ミリ弾の生産に製造能力を傾注するのは当然の成り行きだ。
「分哨長、ここで発砲すれば存在がバレて逆に攻撃されませんかね」「確かに・・・こっちは素人だがあっちは陸軍の兵隊が乗ってるらしいからな」上甑島の北端を挟んで東側に位置する田之尻展望所の監視所では立ち上がって大型望遠鏡を覗いている1名以外の2人は展望所の通路の上に64式小銃の2脚を立てて伏せると雑談を始めた。田之尻観望所からは古代の入り江を海流が運んだ石や砂が塞いだ海鼠(なまこ)池が観光名所だ。中でも池の南にある巨大な人間が頭を挟んで両腕を伸ばして倒れ伏せているような形の岬は奇景で、自然が作った防波堤を歩いてきて観望所から遠望するらしい。
「漁船が来た。10、11、12、13、14隻だ」「それじゃあ射つぞ」「はい・・・でも号令がかからないとタイミングが判りません」「仕方ないな、射撃用意「射撃用意」「射て」バーン。分哨長の空曹は空士の要望に応えて射撃号令をかけた。しかし、分屯基地内での射撃予習から空砲を使った予行演習、そして国分駐屯地の射撃場での本番でも射撃号令は幹部の訓練指揮官がかけるので聞きかじりだった。そのため「単連射3発(連射で3発ごとに引き金を放す)」と言い忘れて2人とも訓練通りに単射で甲板の人間を狙って射ってしまった。然もそれは揃って外れた。
パパパパパ・・・。すると漁船の甲板では乗っている人間たちが慣れた様子で射撃姿勢を取ると正確に連射してきた。おそらく銃口の発射焔を見逃さなかったのだ。
上甑島・海鼠池上甑島の海鼠池
  1. 2024/01/25(木) 14:12:23|
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1月6日・「日赤の母」・大給恒の命日

明治43(1910)年のさかのぼる1月6日は外向きに積極性を発揮して「日赤の父」と呼ばれる佐野常民さんに対して内向きに組織を育成して「日赤の母」と呼ばれている大給恒(おぎゅうゆずる)さまの命日です(クラシック音楽でもハイドンさんは父、バッハさんは母と呼ばれていますから実際の性別は関係ないようです)。72歳でした。
大給さまは天保10(1839)年に徳川家の枝胤である松平家でも現在の岡崎市の山間部に陣屋(城ではなく屋敷)を構え、隣接する額田郡や加茂郡大給、信濃国の佐久郡田野口に領地を有していた奥殿藩・1万6千石の大名の嫡男として生まれました。大給さまは幼い頃から抜群の学才が評判になっていて世継ぎとしての帝王学や必修科目だった漢文古典、儒学だけでなく蘭学も学んで西洋事情に精通していたと言われています。
嘉永5(1852)年に父が隠居して家督と竹橋御門番を受け継ぐと翌年にはアメリカのペリー艦隊が浦賀に来航して世情が騒がしくなりましたが水戸藩一派の現実を無視した狂信的尊皇攘夷には与せず、西洋文明の導入と軍備の拡充が急務と自分の領地で農民兵を招集して歩人隊=歩兵部隊を編成しました。また幕府内の人材登用によって大番頭、若年寄に昇進する一方で陣屋を父祖の地である奥殿から飛び領地ながら最も石高が大きい信濃国佐久郡に移転して、ここに西洋式の星形の龍岡城を築きました。
しかし、幕政では薩長土の過激暴徒たちと結託した公家たちが偽勅(虚偽の勅命)を用いて強要する実現不可能な再鎖国を巡って政事総裁職だった武蔵国川越藩主の松平直克さんによって若年寄を解任されましたが、慶応元(1865)年には陸軍奉行に返り咲いて若年寄に復職すると翌年には老中、陸軍総裁にまで昇任しました。
ところが慶応4(1868)年に戊辰戦争が勃発すると欧米列強の軍事介入を招く国内戦に反対して陸軍総裁と老中を辞職すると徳川家との訣別を表明するために大給姓に改姓して佐久郡の領地に帰ったのです。明治新政府にはいち早く恭順の意を表しましたが幕閣でも重要な役職にあったことから自領内での謹慎を命ぜられ、新政府軍が近代兵器を揃えた長岡藩に苦戦すると命令されて参戦した軍功で謹慎を解かれました。しかし、小藩に戦費は負担が大き過ぎて間もなく龍岡藩は財政破綻し、廃藩置県が布告される1ヶ月前に自ら藩知事(藩籍奉還で封建的な藩主の呼称を役職に変更した)の職を辞しています。
それでも数少ない西洋事情に精通している旧藩主として明治新政府内で活躍の場を得ましたが、明治10(1877)年に西南戦争が始まると明治7(1874)年の佐賀の乱で繰り広げられた悲惨で残酷な非近代的な戦闘様相が再現されることを懼れた旧佐賀藩医の佐野さんが若い頃のフランス留学で感銘を受けた赤十字の人道・博愛精神を実践すべく敵味方分け隔てなく治療・介護する診療所の設置を嘆願しました。この嘆願は西南戦争の帰趨を藩閥の駆け引きの具にしていた明治新政府は却下したものの現地司令官の有栖川宮熾仁親王が承認して博愛社が創立されました。
そうして誕生した博愛社を明治19(1886)年にジュネーブ条約に調印して翌年に日本赤十字社に発展させる上で大給さまが残した功績は佐野さんと優劣がつけられません。
  1. 2024/01/24(水) 15:23:29|
  2. 日記(暦)
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続・振り向けばイエスタディ715

「UHー1が4機、鹿島港の桟橋と道路に着陸、人員と弾薬を下ろしました」「先遣隊の到着だぞ」監視小隊と熊本空港と同居している高遊原分屯地から発進した第8飛行隊のUHー1多用途ヘリコプターとの交信をモニターしている運用班長の説明に警戒隊長は「予定通り」と言う口調で答えた。
「続いてCHー47が4機、入れ替わりに鹿島港の桟橋と道路に高機動車を4両下ろすようです」「要するに中甑、上甑に上陸してもすぐに駆け付けられる位置を選んだと言うことだな」この説明にも警戒隊長は自分を納得させるように答えた。
鹿島港は下甑島でも北の端にある連絡船の停留港で中甑島へ渡る甑大橋にも近く、島の中央を縦断する道路を抜けて鹿の子橋を渡れば中島、甑大明神橋を通って上甑島だ。
「UHー47が離陸しました。これから部隊主力を空輸して来ます」「4機なら重武装した隊員を1個中隊と言うところだな」「8師団は奄美群島も担当していますから戦力の一括投入は不可能なんでしょう。小出しにして各個撃破されるのは愚の骨頂ですが、陸自が考えている甑島群島の優先順位はそれほど高くないと言うことです」警戒隊長の口調に不満を感じ取った中山1尉が弁護するように戦術論を解説した。勿論、警戒隊長も戦力の集中発揮の原則は承知しているが、守備隊長と呼ばれるべき下甑島分屯基地司令としては以前から陸上自衛隊に陣地構築のための施設部隊の派遣と普通科部隊の常駐を要請したが黙殺された。その代わりのように訓練を終えて即応自衛官に指定された台湾人の義勇隊員を譲られた。確かに台湾人の義勇隊員は徴兵経験がある即戦力で、中国の軍事的恫喝と脅威を日常的に実感しているため極めて士気が高く大いに役に立っているが20名では少な過ぎる。その20名は上陸阻止要員として中国漁船の行先が特定でき次第、現場に急行して戦闘を実施させることになっている。
出入国を統括する法務省としては法的根拠がない外国人義勇隊員を認めるつもりはなく入国自体を拒否することを決めていた。しかし、オーストラリアからイギリス人義勇隊員を乗せて飛び立った輸送機が燃料補給の名目でフィリピンと台湾に立ち寄った際に現地の志願者を同乗させて在日アメリカ軍の厚木基地に着陸して各国の大使館と代表事務所に引き渡されてしまった、そうして当時の双木外務大臣が発案した「即応予備自衛官に指定する」と言う裏技を釜田防衛大臣が後押しして義勇隊員が採用された。
そのため本来は東部方面隊に配属されて新潟での戦闘に参加したイギリス人義勇隊員のように非戦闘的任務に限定するべきなのだが、不俱戴天の仇である中国が相手ではどちらの義勇隊員も納得しないのは明らかだった。
「中国船14隻確認、7隻ずつに分かれて上甑と下甑に向かっています」「こちらの人数が少ないことを見越しているな。それを分散させれば人数では互角と言うことになる」「部隊を乗せたCHー47はまだ到着しないか」「只今、高遊原を離陸したところです。所要時間は30分を予定。漁船の着岸には間に合いません」警戒隊長の質問を運用班長が監視小隊に取り次ぐと若手兵器管制幹部の3尉が回答した。
「先遣隊に連絡は」「警備隊が地上無線で交信しているので私から逐次情報は送っています。陸自としては部隊主力が到着して編成を執らなければ行動できないと言っています」「あんぽんたん・・・」中山1尉の情けなさそうな説明に誰からともなく九州では肥前の佐賀と肥後の熊本で用いる蔑称が聞こえた。
「下甑分屯基地司令として指示、鹿島港の先遣隊の高機動車2両は上甑島の中甑浜に急行せよ。現地で展望所からの情報で上陸地点を推定して対処せよ。残り2両は当分屯基地に向かえ。4機のCHー47のうち2機は当分屯基地に着陸せよ。残りの2機は1機が上甑島中甑浜、もう1機は里港の集落内に着陸せよ。当部隊から2箇所に車両各1両を派遣する」警戒隊長は掲示板の甑島群島の地図を見ながらこれまで頭の中で考えていたらしい戦術的指示を滞ることなく口にした。
「確かに42即機連隊の派遣命令には『細部は航空自衛隊下甑分屯基地司令の指示を受けよ』とありますから隊長の指示は適切です」ここで聞き役に徹していた総務人事班長が防衛用秘匿メールで届いた北熊本駐屯地の第42即応機動連隊の派遣命令を解説した。
  1. 2024/01/24(水) 15:22:19|
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1月3日・陸軍の特種揚陸船・神州丸が撃沈された。

昭和20(1945)年のさかのぼる1月3日に現在のアメリカ海軍が海兵隊の上陸作戦で使用している強襲艦の先駆けと言うべき日本陸軍の特種揚陸船・神州丸がアメリカ海軍の艦載機の攻撃を受けて航行不能になり、生存者が退船・放棄して漂流していた台湾・高雄の南西約90キロの海域でアメリカ海軍の潜水艦に撃沈されました。
神州丸は大陸戦線の拡大によって中国の大河を渡河する必要に迫られた陸軍が開発したエンジン動力の渡河用舟艇の大発が極めて優秀だったためこれを機動的に運用し、離島の上陸作戦でも使用する運搬船として昭和9(1934)年に舞鶴海軍工廠で竣工しました。
神州丸の最大の特徴は船内に大発を収納するドッグを持っていたことで上陸部隊は船内で大発に乗り込み、目標地点近海でドッグのレールを滑らせて開いた後部扉から発進するのです。それまでの輸送船ではクレーンで海面に吊り下ろした上陸用舟艇に部隊は舷側に垂らした縄梯子などで下りて乗り組む必要がありましたが、これが省略されたことで大幅に時間を短縮できました。
神州丸は全長144メートル、排水量8108トンでも吃水(水面から船底までの高さ)は4・2メートルなので中国の大河であればかなり上流まで航行可能であり、陸軍は大陸戦線に投入して多大な戦果を上げて自信を深め、フランス領インドシナ=ベトナムの占領では海岸への上陸にも使用して経験を積んでいました。
こうして迎えた昭和16(1941)年12月8日のマレー半島上陸作戦でも神州丸はタイ領シンゴラへの山下奉文中将の第25軍司令部要員の上陸を担当しました。この時の軍参謀長は後に陸軍船舶部隊=暁部隊の司令官になる鈴木宗作中将でした。
ところが続くジャワ島=インドネシア上陸作戦では昭和17(1942)年3月1日の深夜に護衛の日本海軍の艦艇が発射した魚雷が目標だったイギリス艦の下を通り過ぎて神州丸と病院船、通常の輸送船、掃海艇に命中して上陸準備をしていた今村均中将以下の第16軍司令部要員は油が浮いた海面で泳ぐ羽目になりました。
それでも遠浅の海に着底しただけだったため陸軍は上陸作戦に欠かすことができない神州丸の復活に執念を燃やし、加害責任を自覚している(公的にはイギリス艦の魚雷としていた)海軍も全面協力して日本から多くのサルベージ会社の技術者を派遣すると約2ヶ月かけて浮上させ、シンガポールでの応急修理を経て日本に回航して建造した舞鶴海軍工廠で新品同様に修理されたのです。
復活後は主にフィリピンやベトナムなどの南方戦線の部隊増強に八面六臂の活躍をしましたが、マックアーサー元帥の反転攻勢を受けているフィリピンからの脱出者を台湾に運ぶ任務を命じられて無事に台湾・高雄まで送り届けるとアメリカ海軍の空襲が始まったため搭載している対空火砲で果敢に迎撃する一方で沖に退避しました。そして特異な外観の神州丸に興味を示したアメリカ海軍が集中攻撃を加えると防ぎ切れずに船橋と煙突付近に数発の命中弾を受けて誘爆が始まったため船長と対空火砲の指揮官が退船命令を下して生存者が脱出したのです。アメリカ軍の潜水艦に雷撃されたのは12時間後でした。
陸軍・神州丸
後部扉から大発を運用中の神州丸
  1. 2024/01/23(火) 12:08:26|
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続・振り向けばイエスタディ714

「ディス・イズ・ソリタリー(孤島・第9警戒隊のコールサイン=仮称)・CP(指揮所)、カムイン(どうぞ)」東シナ海のEEZ付近で中国の大漁船団と海上保安庁が接触したとの通報を受けて 中山1尉は警備職の空曹の指揮官と台湾人の義勇隊員による上陸阻止部隊に出動準備を整えさせながら指揮所で情報の収集に当たっていた。すると鹿屋基地を飛び立った海上自衛隊のPー1哨戒機が福江島の第15警戒隊と下甑島の第9警戒隊の指揮所を呼び出した。
「イエス、イエス・・・ラージャ」兵器管制幹部の運用班長が指揮所にも設置してある警戒管制無線のヘッドセットをはめて応答しているのを分屯基地司令の第9警戒隊長と総務人事班長の横で中山1尉も聴いているが次第に表情が険しくなってきたように見える。やがて運用班長は振り返ると3人に交信内容の説明を始めた。
「中国漁船が10数隻こちらに向かっているようです。先行していた船団は携SAMを取り出した時点でPー1にエスコート(随伴=護衛)していたギャオス(第8航空団のコールサイン=仮称)が攻撃しましたが、後続の船団が分散して回避しながら1部がこちらに向かっているようです。こちらはまだ敵対行動を採っていないのでギャオスは攻撃できないそうです」「それでは各展望所に監視の強化を指示しなければなりませんね」そうだな」中山1尉の応答に警戒隊長も同意した。第9警戒隊警備隊=下甑島守備隊は当初、上甑島の縄瀬鼻、田之尻、長目の浜、中甑島の鹿の子大橋、帽子山、木の口、下甑島の鳥の巣山、八尻、松島にある各観光用展望所の大型望遠鏡を下甑島の東シナ海側に移設していたが、それほど高くない場所では視界が確保できないことが判明したため元に戻して監視要員を配置することにした。これで甑島群島の全周に監視の目が届くようになった。やはり観光用でも視界が効くから展望所になっているのだ。
「しかし、ウチの上陸阻止部隊22名では10隻の漁船が数カ所に分散して着岸すれば対処できません。少なくとも1隻に5名以上は乗っているでしょう」「陸自にもらったランクルにはキャリバー50(M2・127ミリ重機関銃)が載せてあるだろう。あれで着岸前に銃撃するんだ」「それでは警察権の行使から逸脱します」「これは戦争だ」中山1尉と運用班長の問答に警戒隊長が結論を与えた。警戒隊長は春日基地の西部航空方面隊防衛部長から「総隊司令部には航空幕僚長から『今度は戦争だ』と言う指示が届いている」との電話を受けていた。戦争として攻撃を加える以上、先手必殺が常識になる。
「陸自の増援部隊がヘリで来ることになっているはずですが」「陸自としては高遊原のCHー47で先に高機動車を運んでから人員の輸送に当たる予定らしい。万が一、上甑島に上陸されれば8飛のUHー1で空輸した先遣隊が急行することができると言うところだ」「馬鹿な、飛行場がある呂論島や福江島と違って甑島群島で上陸する価値があるのは空自がある下甑だけでしょう」「その裏を掻いてくるのが中国じゃあないか」中山1尉の反論に運用班長が痛烈な再反論を返した。しかし、考えてみれば甑島群島には犠牲を払ってまで上陸する戦略・戦術的価値があるとは思えない。強いて言えば九州本土への侵攻の中継拠点にするくらいだが兵員を待機させ、物資を集積する用地が確保できない。それでも1997年2月3日に発生した下甑島への中国人の不法上陸が事前偵察だとすれば中国側は何らかの価値を見い出しているのかも知れない。
「やはり陸自は五島列島を主戦場だと考えているようだな。2番目に大きい中通島には山猫軍団(対馬警備隊)が派遣されている。ニュータ(=新田原基地)の第1空挺団も間もなく福江空港に移動する。さらにAHー64で接近する漁船を阻止するつもりだが相手が漁船では迂闊に発砲できないそうだ」「ウチもヘリボーンで兵隊を運ぶよりも8飛(第8飛行隊)のUHー1のドアガンで機銃掃射してもらいたいと思っていましたが、戦争は侵略されてからゴングなんですね」警戒隊長の説明に中山1尉が秘していた腹案を披露すると運用班長と総務人事班長が顔を見合わせた。中山1尉はこの日の数時間前に反日漁民から提供された漁船で山口県萩市の見島に向かっている韓国海兵隊の脱走兵を防府飛行場から発進した13飛のUHー1が機銃掃射していることは知らない。偶然にも発想が数日前の陸上幕僚長と一致しただけだ。
  1. 2024/01/23(火) 12:05:37|
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1月1日・豊田市が「世界のトヨタ」の社名をもらった。

昭和34(1959)年の遡る1月1日に岡崎市と共に愛知県の中央部で今では名古屋市に匹敵する存在感を発揮している豊田市が現在の市名に改称しました。
この改称は町村合併などではなく市が独自の判断で長い歴史と格式(地名の由来は垂仁天皇の子孫・諸呂母別=コロモノワケさんが移り住んだことによる)を有する地名の「拳母(ころも)」を刈谷市に本社を置く自動織機メーカーの分社だった私企業の社名と静岡県敷地郡山口村(現在の湖西市)出身の経営者一族の姓に変更したのです。
ちなみに改称したのが昭和34(1959)年と野僧が生まれる2年前だったため隣りの岡崎市に住むようになった頃にはまだ5年も経っておらず地元の人たちの間では江戸時代の城の呼名や城下町の地名として呼び慣れてきた「拳母(ころも)」が定着していて大人の会話でも「豊田?拳母のことか」と言う確認が交わされていました。また師僧=祖父の母親が再嫁した寺は拳母市内にあったため親族は「拳母のお寺」と呼んでいて子供心に「どこの寺の坊さんも『法衣(ころも)』を着ているのにどうしてコロモのお寺って呼ぶんだろう」と首を傾げていました。
この他に類を見ない改称は昭和33(1958)年に商工会議所が提唱したのですが、その理由としては昭和30(1955)年に高級車・クラウンを発売するなど自動車産業として発展を続け、関連企業や工場の進出が本格化しているトヨタ自動車と一体化することが地方自治体として将来を展望する上で必要だとする建前と「拳母」と言う地名は難解でトヨタ自動車を含む市内の企業の多くは漢字ではなく「愛知県コロモ市」と片仮名で表記している上、「コロモ」では長野県の小諸(こもろ)市と混同されることが多いと言う本音を説明して市議会での審議と市民への周知が図られました。
当然、賛否両論が沸き起こり、結果は予測不能の様相を呈しましたがすでに市民の多くはトヨタ自動車と関連工場の従業員であり、商店も社員と家族を顧客としているため賛成票を投じ、昭和34(1959)年の1月に変更が決定したのです。このため愛知県民の中には「トヨダ市」と濁音で呼ぶ人もいますが、正しくはトヨタ自動車と同じく「トヨタ市」です(他県民は自動車の企業名で呼ぶので濁音にはしない)。
この改称は大正解でその後のトヨタ自動車の世界的発展に豊田市も一体化して平成の大合併の結果、面積では愛知県で一番広く、人口でも名古屋市に次いで2位になっただけでなく地元企業を大切にするトヨタ自動車の社風で県内からの人の往来と部品の調達が拡大して公共交通機関が極めて整備されたため昼夜間人口では夜間の方が110.5パーセントとホームタウンとしても発展しています。さらに2005年の愛知万博では展示会場になり、トヨタ・スタジアムでは2019年サッカー・ワールドカップが行われました(合併しても行政の無能で衰退の一途を辿っている山口県下関市とは大違い)。
ちなみに愛知県には「豊」が着く市は「豊田」の他にも「豊橋」「豊川」「豊明」がありますが、「豊橋」は廃藩置県の時に旧藩主のクジ引きで決まり、「豊川」は豊川稲荷、「豊明」は老舗の酒蔵・豊倉と明治から採っているので大差ありません。
  1. 2024/01/22(月) 12:54:42|
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続・振り向けばイエスタディ713

「Pー1の護衛として航空自衛隊の戦闘機を上空待機させます。漁船に発射の兆候が見られれば直ちに降下して攻撃を加えます。根拠は警察官職務執行法5条の緊急避難です」「ほとんど戦争ですね」「確かに、韓国海軍の艦艇も攻撃の素(そ)振りを見せた時点で撃沈します。手段については防衛秘密に属しますので勘弁願います」海上保安監の指摘に答えた海上幕僚長はここでも一線は踏み越えなかった。潜水艦の行動はあくまでも秘密であり、それは乗員の保護のためでもあるのだ。
「次に日本海側の韓国軍ですが、こちらは日本人が要監視対象になっているため情報が乏しく具体的な隻数や武装は推定できていません。それでも現政権が日本への敵対行為を禁じている以上、参加者はあくまでも脱走兵であり、武器も強奪可能な個人に供与されている小銃程度と見ています」「それでも第7管区は主力を東シナ海に集中させなければなりません。そうなると日本海側は仙崎海上保安部が単独で対処せざるを得ない。巡視船2隻に沿海用巡視艇1隻です」「アメリカ海軍には岩国基地にPー8哨戒機を派遣して待機させるように要請していますが相手が韓国の漁船なので武力行使はできないようです」「それは佐世保地方隊が艦艇を出動させられないのと同じ理由ですね」海上保安監の理解に海上幕僚長は申し訳なさそうな顔でうなずいた。
「そこで奥の手として第7管区からの派遣要請で防府飛行場のUHー1を発進させて機銃掃射を加えると言うのはどうだろう」ようやく出番が来た陸上幕僚長が自信満々に提案すると意表を突かれた海上保安監は即座には返事をしなかった。
「しかし、陸自(陸上自衛隊)のヘリは海上における警備行動の対象外であり、対領空侵犯措置にも該当しない。参加させる法的根拠はどうするんですか」こちらも聞き役になっていた警視総監が如何にも警察官らしい疑問を呈した。
「あくまでも派遣要請に基づく緊急措置での緊急避難としか言いようがないですね」「そこは戦争で割り切ろう」「判りました。現場には耳打ちしておきましょう」「防府の13飛(第13飛行隊)には準備万端整えさせておきます」制服組たちの議論に大原防衛大臣が政治決断を下すと警視総監と海上保安監は羨望の目を向けた。
「問題は海上自衛隊の哨戒機と航空自衛隊の戦闘機で航行を阻止しても広大な海原で分散して回避行動を取られれば完全に遮断することは不可能でしょう」「そのために第1空挺団にCー130を2機つけて新田原基地に待機させている。対岸の竹松駐屯地から山猫軍団もヘリで派遣する。甑群島については第8師団の普通科連隊を西方の大型輸送ヘリと8飛(第8飛行隊)の多用途ヘリで展開させる手筈になっています」ここからの説明は大原防衛大臣も初耳なので自衛隊がここまで具体的な作戦計画を立てることになった情報の入手経緯を確認したくなった。この作戦計画では中国軍の行動と規模をかなり正確に把握していてそれは閣議で上山外務大臣が誇らしげに報告している公式な中国情報とは乖離している。外務省に出向している防衛駐在官たちは外交官たちが危険を冒して探知した中国軍の動向について報告しても対話による事態の解決を優先する上山外務大臣が握り潰していると言っているが事実のようだ。
「それならばどの島も自衛隊以外にいませんから完膚なきまで叩きのめせるでしょう」「今回はそれで大いに助かっているな」警視総監の見解には宮谷防衛副大臣が同意した。
「そこまでやるのならば大臣は最終的に何を以って事態の解決とされるおつもりですか」再び警視総監が質問するとこれには海上保安監だけでなく統合幕僚長以下の陸海空幕僚長も硬直した表情の真顔を向けた。今回の武力攻撃は韓国の前政権が口火を切り、中国が安全保障理事会常任理事国の懲罰権の行使として介入し、同じくロシアも巻き込んだ。つまり主導権は攻撃する側にある。そのため防衛組織である自衛隊としては「敵が攻撃を止めるまで」以外に事態の収束は設定できないのだ。
「対馬奪還」大原防衛大臣は向かって右側の席の宮谷防衛副大臣と警視総監、海上保安監、左側の席の統合幕僚長と陸海空幕僚長の顔をユックリ見回してから一言で答えた。
「確かにそれで我が国の原状回復は完了します」「この機会に北方領土奪還は考えませんか」統合幕僚長の後の陸上幕僚長の余計な一言で苦笑が起きて場の空気が軽くなった。
  1. 2024/01/22(月) 12:53:32|
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大河ドラマ「どうする!家康」を総括する。

昨年の大河ドラマ「どうする!家康」は平均視聴率では11.4パーセントと2020年の東京国際運動会を盛り上げるために否応もなしに製作した「いだてん」に次ぐ過去2位の低い数字でしたが、その一方で静岡県浜松市では共産党中国の細菌兵器による行動制限が解除されて復活させた行事への人手が不安視されていた中、主演の元ジャニーズの松本潤くんが参加したこともあって過去にない規模になるなど(「おんな城主直虎」を超えていた)数字以上の注目を集めていたようです。
一般的な視聴者の評価では「途中で築山が死んで松潤がまともな髷になってようやくこれまでのファンが視聴するに足りる正常な大河ドラマになった」と言われていますが、確かに野僧も前半の史実や伝承を無視した甘ったるいアイドル同士のラブスト-リーには怒り心頭に達して視聴を止めようと思ったのですが、主人公が他ならぬ東照神君なので三河武士の末裔としてドラマを監視することを忠義の道としました。ちなみに山口県では毛利家所蔵の徳川将軍家から贈られた女性の豪華な装束が県立美術館で初公開されても観覧者は他の企画展に比べて数字の桁が数段低く、放送中もNHK山口局は「県内の視聴者の反発を招くから」と1度も触れることはなく完全に無視していました。
本来であれば関ヶ原の合戦で晒した毛利輝元さんの無能ぶりや醜悪な毛利一門の内紛、何よりも毛利家が中国地方の覇者から現在の山口県知事並みに転落したのが自業自得であり、むしろ敗軍の将として自刃しなかった不覚悟と藩として存続させてもらえたのは家康公の過分の温情だったことを学ばせなければなりませんでした。
ドラマの方は敗戦後の日本映画のように反戦平和に名を借りた反保守の政治的洗脳を公然化していて史実では城主の正室の役割を放棄して城外に屋敷を作らせて気ままな独居生活を送り、今川家の血脈を誇示して桶狭間の合戦で義元さんを討った織田信長公を憎悪して武田家への内通の噂が絶えず、最期には浜松城下への立ち入りを許さずに佐鳴湖畔で本人が自害を拒否したため使者に首を打たせた築山殿を家康公の理想の愛妻のように描き、「反戦平和」を主張して家康公だけでなくかつての愛人・今川氏真さんや北条氏政さん、武田家重臣にまで信奉者を得ていたと言うのは歴史の捏造にしても悪質でした。しかもそれを強調するように設楽原の合戦で武田騎馬隊が織田信長公の3000丁の鉄砲隊に壊滅させられるのを見て勇将の誉れが高い長男の信康さんが怯えて戦意を喪失し、大坂冬の陣ではイギリス伝来の大筒で娘の千姫がいる大坂城の天守閣が破壊されるのを見て秀忠さまが制止すると「味方の損害を最小限にするにはこれしかない」とアメリカの大統領が原爆投下の正当化する時の常套句を流用していました。
何にしても前半のくだらないアイドル学芸会に時間を取り過ぎて後半は家康公が天下を掴み、固める過程が完全に抜粋になって必要な登場人物も粗方省略されてしまい合戦以外での末期の場面を描いた三河武士団は酒井忠次さんだけでした。中でも家康公が最晩年に「鷹どの=鷹狩り、佐渡どの=本多正信さん、お六どの」と周囲がやっかむほど熱愛したお六の方が登場しなかったのは残念です(「葵・徳川三代」では菊池麻衣子さん)。
  1. 2024/01/21(日) 10:00:57|
  2. 常々臭ッ(つねづねくさッ)
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続・振り向けばイエスタディ712

「実は誠に勝手ながら警視総監と海上保安監にも声をかけていまして間もなくこちらに来ることになっております。大臣が閣議をモニター参加にされなければ副大臣室か私の公室で対応を協議するつもりでしたが・・・」「中央指揮所は駄目か」「警察と海保(海上保安庁)の制服組のトップとは言え部外者ですから手続き上の問題がありまして」「構わん、本当は治安出動と(海上における)警備行動でも参加してもらうべきだったんだ。それに中央指揮所ならモニター参加する準備もできている」大原大臣は閣議で竹村国家公安委員長や連立与党の西藤黒土交通大臣の発言を聞いていて「戦時」と言う認識が希薄な印象を抱いていた。中でも西藤黒土交通大臣は航空局が中国の大型旅客機の多数同時の異常なフライトプラン=飛行計画を受けつけ、関西国際空港で武装した部隊が搭乗していたことが明らかになったことで公安当局の内部調査が入って以降、海上保安庁には厳格な対応を指示しているらしいが石田首相や上山外務大臣が主導する外交交渉による事態収束・関係修復と言う政権としての大方針に異論を唱えることはない。
「失礼します。統合幕僚長に用件で警視総監と海上保安監が続いて正門を通過されたようです」「我々は中央指揮所に移動する。閣議はモニター参加だ。それは私から官房長官に連絡した」「はい」「2人とも正面ロビーで待たせろ。中央指揮所に案内する」「中央指揮所への部外者の立ち入りには手続きと審査が・・・」「許可権者は私だ」ノックの後、ドアを開けて正門の門衛所からの連絡を伝えた秘書官に大原防衛大臣が指示を与えると官僚的に難色を示した。これは先ほどの陸上幕僚長の二番煎じになったので大原防衛大臣はあからさまに苛立った表情になり、叱責するように反論した。
「本日はご多用中のところ急にお呼び立てして申し訳ありませんでした」「いいえ、以前から入ってみたかった中央指揮所にお招きいただいて興奮気味です」結局、内局が入っている本館の正面ロビーで招待者の統合幕僚長が2人を出迎えて中央指揮所に案内すると統合幕僚長と陸海空幕僚長とは対面の内局の席に座らせて協議が始まった。今回は中央指揮所で勤務している陸曹のWACがコーヒーを運んできた。
「台湾軍の大陸の交信を傍受している組織と韓国軍の比較的信頼がおける情報によれば期日は不明ながら近日中に中国が100隻前後の漁船に武装した兵員を乗船させて黄海から東シナ海を東に進み、長崎県の五島列島と鹿児島県の甑群島、状況によっては九州本土を攻撃する計画のようです」統合幕僚長の説明に合わせて中央指揮所のモニター画面が東シナ海の北部と五島列島、甑群島の詳細な航空写真を表示すると警視総監と海上保安監は感嘆したように身を乗り出して見入った。
「同時に韓国軍でも海兵隊の脱走兵が反日的漁民から提供を受けた漁船で日本海を南下、山口県の見島、山口県から島根県の沿岸を攻撃し、中国の漁船団の到着に呼応して済州島の海軍の脱走した乗員が艦艇を奪って出航して海上保安庁の巡視船を攻撃する計画もあるようです」今度は見島と済州島付近の地図のアップも加わった。
「漁船に武装と言いますと」「流石に船体を改造する暇はないでしょうから乗船している兵員が携帯する地上戦用の武器・弾薬だけでしょう。それでも中国製の携帯式地対空ミサイルを搭載するようです」「携SAMですか・・・」海上保安監は2001年12月22日の九州南西沖の北朝鮮工作船の追跡で発射された携帯式地対空ミサイルを思い出したのか重い口調で返事した。
「それでも広大な海域で100隻もの漁船となると海上保安庁の巡視船では対応し切れないでしょう。ましてや韓国海軍の艦艇が攻撃してくる危険性が高い以上、躊躇なく回避行動を採っていただきたい。尖閣海域での犠牲を繰り返してはいけません」「それでも漁船を放置すれば我が国の領土に上陸させることになる」「鹿屋基地のPー1を(海上における)警備行動に基づいて派遣します。爆雷で停船させることは可能でしょう」海上保安監は海上幕僚長の説明に自衛隊では今回の事態への対応を事前に検討していたように感じた。つまり外務省の公式ルート以外に独自の情報を入手していたことになる。
「それでも100隻の漁船に積んでいる携SAMを一斉射撃されればPー1が防御策を講じても回避し切れないのでは」「その時は」今度は何故か航空幕僚長が口を開いた。
  1. 2024/01/21(日) 09:58:59|
  2. 夜の連続小説9
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1月20日・飯田線で列車転落事故が発生した。

昭和30(1955)年の1月20日の午後9時5分頃に愛知県の豊橋駅から長野県の飯田駅、辰野駅を通り過ぎて上諏訪駅までを結ぶ飯田線でも長野県下伊那郡泰早村の田本駅と門島駅の間で落石に乗り上げた列車が天竜川の支流・明島川に転落して乗客と乗務員33人中8人が死亡する事故が発生しました。
この区間は中央構造線の活断層の断崖絶壁沿いに走っているため台風や豪雨などでなくても大小の落石が絶えず当時の国鉄としても点検を欠かしませんでしたが、この時期の山間部は日没が早くその後に発生した落石を発見することは通過する列車の目撃によるしかなく極めて困難でした。
実際、2004年10月2日の午後10時50分頃にも長野県上伊那郡辰野町の羽場駅と伊那新町駅の間で飯田駅発、辰野駅行きの119系型2両編成の列車が台風23号の影響で流出した土砂に乗り上げて脱線・転覆したまま3メートル下へ落下して乗客と乗務員5名が負傷する事故が起きています。
この時は人間1人では抱えられないほどの大きな落石が線路上に転がり込んでいて運転手が前照灯で発見して急ブレーキをかけましたが間に合わず、乗り上げて脱線・転覆すると敷石の上を約50メートル逸走して大表沢鉄橋から10数メートル下の明島川の河原に落下したのです。
この列車は豊橋駅発、飯田駅行きの最終便で前がモハ14033型、後がクハ18003型の2両編成でしたが、連結部が千切れて前の車両は鉄橋の真下に落下して横転・大破し、後の車両は斜面を転がって排水溝に仰向けになって大破しました。
飯田線は国鉄・JR東海では地方路線=ローカル線に分類されていますが、東海道線・東海道新幹線の豊橋駅と長野県南部を結ぶ事実上の主要幹線として重要視されてきました(その点、JR西日本は主要幹線である山陰本線を2023年7月1日の台風豪雨の水害で当地の鉄橋が流され、崖からの風倒木と落石によって線路が被害を受けたのを放置して当該区間を運行停止にしている)。そのため線路は東海道線や山陽本線などの主要幹線用と同じ規格で他のローカル線では走らせられない老朽化した花形列車の引退前の晴れ舞台として鉄道マニアの聖地になっています。
しかし、飯田線の敷設は国鉄としての国家事業ではなく国策によって国鉄に吸収される前の地方私鉄と地元有志によって進められ、それを昭和30(1955)年からの佐久間ダムに代表される天竜川や河川の豊川(とよがわ)上流などに相次いで建設されたダムの工事資材と労働者の運搬が後押ししたのです。
特に当初は下地駅(豊橋駅からは河川の豊川の対岸=下地駅を始発駅にしたのは鉄橋の建設費用を節約するため)、明治30(1897)年からは吉田駅(現在の豊橋駅)と大海駅(現在の長篠駅)までは豊川鉄道が建設・運行していました。一方、大海駅から三河川合駅までは鳳来寺鉄道、三河川合駅から天竜峡駅までは三信鉄道、天竜峡駅から辰野駅までは伊那電気鉄道でしたが戦時下の昭和18(1943)年に国鉄に吸収されました。
  1. 2024/01/20(土) 09:53:08|
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続・振り向けばイエスタディ711

「閣下は今朝の面談の予約は入っていませんが」「国家の緊急事態だ。君と問答している暇(いとま)はない」「しかし、次官が今日の閣議の報告内容の説明中でして・・・」数日前、台湾海峡の金門島で大陸の無線交信を傍受している本間郁子からの警告を受け取った統合幕僚長は即座に大原防衛大臣と宮谷副大臣に報告しようとした。すると官僚の秘書官は「閣議の準備をしている」と拒否しようとしたが統合幕僚長は日頃の知的で温和な雰囲気を一変させて強引に大臣室のドアを開けて中に押し入った。
「大臣、人払いを願います」「何だね、案内(あない)も請わずに押し入っておいて無礼にも・・・」「貴様は出ていけ。一刻を争うんだ」小泉政権以降は統合幕僚長と防衛事務次官は国家公務員として同格とされているが警察予備隊の創設時、占領軍によって解体された内務省の警察官僚たちが後に防衛庁内局となる組織を作り、さらに制服組のトップに内務官僚出身の林敬三を抜擢して帝国陸海軍の軍人たちが公職追放されている間に旧内務省=警察官僚による自衛隊の支配体制を固めた。それを指揮したのは稀代の悪徳官僚の海原治であり、官僚の間ではいまでに信望者が棲息している。
「そうか・・・それ程の事態であれば副大臣も呼んだ方が良いな」「お願いします。実は陸海空幕僚長も大臣室の前に待たせています」事務次官は統合幕僚長の常軌を逸した態度に事態の重大性を察した大原防衛大臣が理解を示したのを見て陸海空幕僚長たちと入れ替わりに退室したが立ち寄った秘書官室で怒りをぶちまけた。
「中国は呂論島での作戦を大規模に拡充して再度実施するつもりのようです」「流石のしぶとさだな」大原防衛大臣は宮谷副大臣をインターホンで呼ぶと待つ間に内閣官房長官に電話をして閣議にはモニター参加することを伝えた。そして全員が揃うとソファーを勧めて統合幕僚長に説明を始めさせた。それでも女性秘書官がコーヒーを持って来ないところを見ると粘着質な事務次官の苦情が長引いているらしい。
「この情報源は台湾軍の金門島の施設で対岸の交信を傍受していますが中国軍の軍用回線よりも現場の部隊や兵員が軽易に利用しているスマートホン・携帯電話に周波数を合わせているようです。日本以上にスマートホンや携帯電話が普及している中国では肉声が届かない相手との会話は電波に乗せているので盗み聞きは公的な軍用回線よりも得る物が多いのです。実際、加倍政権は自衛隊の無線調査部隊が傍受した情報を交換・共有する濃密な協力関係を推進していましたが中国との関係修復を標榜する石田政権の登場で滞りました。同様の内容は奄美諸島の傍受施設でも傍受していますが距離的に出力が弱いスマートホンの電波は捕捉できないのでここまで詳細な情報は探知できていません」統合幕僚長はまだ大原防衛大臣や宮谷副大臣にはニューヨークの海外情報機関の存在は明かしていない。そのため中央指揮所でもニューヨークからの情報は在日アメリカ軍から入手したことにしている。今回は台湾軍発だ。
「しかも今回は韓国軍の脱走者も攻撃に加わると言う噂レベルの情報があります。まさしく『第2次元寇』の様相を呈します」この韓国軍の情報は間宮リンゾーが若い精力と最新式性的興奮剤=媚薬を閉経になっている熟女・高仁智少佐の肉体に注ぎ込んで性の快楽に溺れさせて訊き出したものだが駐屯地の医務室の副長では噂レベルの伝聞情報しか持っておらず組織の保全のために処分することを考えている。それでも韓国軍内では日本海沿岸の部隊の海兵隊員が反日的漁民から提供を受けた漁船で山口県萩市沖の見島を攻撃し、中国の大漁船団の襲来に合わせて済州島の海軍が艦艇を奪って海上保安庁の巡視船艇を攻撃する計画が公然と語られているようだ。
「今回の侵攻は中国としては最終決戦になるだろう。すでに損害は軍に限らずクルーズ船や民間旅客機にまで及んでいる。これ以上の隠蔽は中国共産党の力を以ってしても無理だ」「今回は新潟と同じく戦争をやらせてもらいます。北海道では治安出動の枠内で行動したためロシア軍は自滅しただけで凝りもせず新潟に手を出してきました。そこで戦争的な破壊を加えたらその後は参戦を中止しています」「現在は通常の偵察飛行を含めてロシア軍は我が国に対する軍事行動を停止しています」「国内の在日半島人の組織的違法行動も皆無です」空と陸の幕僚長の補足説明に大原大臣は大きくうなずいた。
  1. 2024/01/20(土) 09:51:36|
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1月16日・日清戦争の連合艦隊司令長官・伊東祐亨元帥の命日

大正3(1914)年の1月16日はある意味では地球1周に等しい大航海を終えて艦と乗員が疲労していた帝政ロシアのバルチック艦隊を大差がない戦力で迎え討って圧勝した日露戦争の連合艦隊司令長官の東郷平八郎元帥よりも圧倒的に不利な戦力差があった清国艦隊を完膚なきまで叩きのめす偉大な軍功を上げた日清戦争の連合艦隊初代司令長官・伊東佑亨(すけゆき)元帥の命日です。
「薩摩の海軍」と言われているように伊東元帥も鹿児島県出身ですが、日向国飫肥藩主の伊東家に連なる名門なので西郷南洲翁や大久保利通内務卿、東郷平八郎元帥、大山巌元帥、山本権兵衛海軍大臣などを輩出した下級武士の集落だった加治屋町ではなく天保14(1843)年に武家屋敷が並ぶ城下の清水馬場町で生まれました。
成長すると下級武士のような郷中教育ではなく正式な師について学び、文久3(1863)年に設立された開成所(東京大学の前身とされることもある)に入門して蘭・英・仏・独・露の語学や天文・地理・窮理(=自然科学)・数学・物産・化学・器械・画学・活字などの当時、最先端の西洋学の英才教育を受け、この頃から海軍に興味を持つようになったようです。さらに江川太郎左衛門英竜さんが伊豆・韮山の私邸で開いていた高島流砲術の塾に入門し(江川さんは世界に先駆けて炸裂弾を発明してそれまで発射した鉄球で城壁を破壊するだけだった火砲を殺傷兵器に進化させた)、幕府が1864年に神戸で開設した海軍操練所に入所して近代海軍の砲術士官と航海士官としての素養を修得しました。ただし、東郷元帥のようにイギリス留学はしていません。
戊辰戦争では榎本武揚さんが率いる幕府海軍との海戦で活躍して明治新政府で海軍に入ると明治4(1871)年に海軍大尉、明治10(1877)年にはオランダ製の3本マストの蒸気艦「日進」の艦長になり、明治15(1882)年に海軍大佐に昇任してイギリス製の3本マストのコルベット(フリゲートよりも小型の戦闘艦)「龍驤」、同3本マストのフリゲート「扶桑」、同3本マストのコルベット「比叡」の艦長を歴任して明治18にはイギリスで竣工した鉄製巡洋艦「浪速」の回航指揮官に任じられて艦長になりました。
明治19(1886)年に海軍少将、明治25(1892)年に海軍中将に昇任すると明治26(1893)年に常備艦隊司令長官に指名されて明治27(1894)年に日清戦争が始まると各鎮守府の艦艇を指揮下に加えた連合艦隊の司令長官として海軍の主力を指揮することになりました。しかし、当時の日本海軍は旗艦の「松島」さえ4217トンの巡洋艦で巡洋艦8隻とコルベット6隻に過ぎず、一方の清国海軍は「定遠」「鎮遠」は7220トンの戦艦2隻と巡洋艦10隻、砲艦12隻と圧倒的戦力差でした。
これに対して伊東中将は艦隊を縦列での運用と艦砲の射撃を十分に訓練し、足が遅い清国の大型艦の側面をすれ違う形で主砲と舷側の艦砲で集中砲火を浴びせて、日本側も巡洋艦2隻が大破し、298名の死傷者を出したものの清国に巡洋艦5隻を撃沈、戦艦にも集中弾を浴びせて(頑強な装甲で撃沈・大破は免れた)850名の死傷者を与えました。
日露戦争では軍令部長を務め、終戦後の明治38(1905)年に元帥に列せられました。
  1. 2024/01/19(金) 13:03:00|
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続・振り向けばイエスタディ710

中国の漁船は上空を飛行している海上自衛隊のPー1哨戒機に携定式地対空ミサイルを一斉に発射する準備を始めた。一方、これに同調していた韓国海軍の10隻の艦艇も海上保安庁の巡視船がバルカン砲を中国漁船に向けると本性を表した。
「76ミリ砲一斉射撃、目標ヘリ搭載式大型警備船」「照準・・・少し待って下さい」「何をもたついている。日海警(日本の海洋警察=海上保安庁)が同志に発砲してしまうぞ」先頭艦の艦橋で艦長の席に座っているリーダーの下士官は主砲を操作している砲雷科の水兵に罵声を浴びせた。しかし、所詮は反乱を起こした下士官と水兵だけで停泊中の艦艇を強奪しての強行出航なので必要な乗員も揃っておらず、参加者は操舵手と主砲の操作員、機関科の必要最小限の配置だけだった。この砲雷科の水兵も日頃は主砲内で砲弾の装填と排出が仕事なので艦橋の機械を操作するのは砲雷科の学校での教育実習以来だ。しかもレーダー員が不在で航海科の見張り員が口頭で伝える方位を慣れない機械に手動で入力するのは水兵には荷が重過ぎる。
「照準完了、発射用意よし」「取り敢えず射て、連続発射・・・」ズーン。「何だ」ドーン。リーダーの下士官が艦長以上の艦隊司令官の気分で待ちかねた発射命令を口に仕掛けた時、強烈な衝撃が艦体を大きく揺らして艦長席から叩き落とされた。続いて床から突き上げるように爆発が発生した。幸か不幸か艦橋は原形を保って乗員は生存していたが艦体は2つに裂けて後部は急速に海中に水没した。その時、反乱者が艦尾に掲揚していた中国海軍の軍艦旗が最後に沈んでいった。
「ドワジョー(助けてくれ)」「エオムマ(お母さん)」「死にたくない」続いて艦体に流れ込んだ海水の重みで艦首を海面から突き上げて艦橋も後を追うように水没を始めた。艦橋では艦長を務めているリーダーの退艦命令を待つことなく乗員たちが出口に殺到したが、床が直立した上にドアを海水が遮り、絶叫と悲鳴を遺して海の藻屑になった。
「目標1番艦、艦中央に命中」「同2番艦、艦中央に命中」・・・「全て命中、1番2番4番5番7番8番9番10番艦は艦体が2つに分離、急速に沈没しています。3番と6番艦は横転しました」「10隻も戦闘艦がいて1隻も気づかなかったとわな」「回避行動すら取りませんでしたから全て狙い射ちでした」潜水艦・どうりゅうの艦内では潜望鏡で戦果を確認しながらソナー員とレーダー員の報告を聞いていた艦長が砲雷長と副長を兼ねている航海長と戦果を分析し始めた。
「韓国の艦艇はおそらく反乱を起こした下士官以下が停泊中の艦艇を奪って出航したのでしょう。そのためソナー員が確保できなかった可能性があります」「確かに主砲を向けてから発射までヤケに時間が掛かっていた。そうなるとレーダー員もいなかったのかも知れません」戦争ドラマ「コンバット」でもサンダース軍曹が小隊長のヘンリー少尉を差し置いて実質的な指揮を執っていたように「実戦に熟練している下士官がいれば戦闘を実施できる」「余計な指図をする士官将校は足手まといだ」と思われがちだが、実際は客観的な状況判断の上で指揮を執る士官の存在は不可欠なのだ。
「艦長、半分に裂けて急速に沈没した8隻は別として横転した目標3番艦と6番艦は生存者がいる可能性があります。救助はどうしますか」艦長に潜望鏡を譲られた副長の航海長は海面に横倒しになった2隻の艦体が浮いているのを視認して質問してきた。他の8隻は海面に飛散した浮遊物と流出した燃料に火が点いているものの艦体は見当たらず生存者はいそうもない。それでも海上自衛隊の潜水艦乗りには1988年7月22日に潜水艦・なだしおが遊漁船・第1富士丸と衝突して沈没させた事故の記憶が強く深く刻まれている。あの事故ではなだしおが救助のためにゴムボートを取り出すのに手間取ったことをマスコミに「救助よりも艦体の点検を優先した結果」と断定されて国民の批判を扇動された。おまけに瓦力(かわらつとむ)防衛庁長官は記者会見で「原因は明らかになっていない」と謝罪を拒否していた東山収一郎海上幕僚長を制服姿で見舞いに同行させてマスコミに「謝罪した=責任を認めた」と報道された。
「それは海保に任せておけ。仕事が終われば回避行動に移るのが基本だ。急速潜航」「急速潜航」やはり戦時には戦時の行動原則がある。
  1. 2024/01/19(金) 13:01:08|
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続・振り向けばイエスタディ709

五島列島西方のEEZ=経済的排他水域の境界線付近で第7管区海上保安本部は25隻の巡視船を100隻の大船団に割って入らせて分割していたが漁船は小回りが利きことを活かして脇をすり抜けると全く違う方向に進行して五島列島に向かい始めていた。こうなると海上保安庁としては停船命令を発しながらの警告射撃になるが隻数が多い上に蜘蛛の子を散らすように分散しているので効果は無いに等しい。
「海自哨戒機、高度を下げます・・・」その時、鹿屋基地から飛来したPー1哨戒機がユックリと高度を下げて大漁船団と五島列島の間に割って入ってきた。そして最も五島列島に近い船団の船首の先に破片が掠めるのを計算した位置に爆雷を投下した。この場面は1999年3月24日に初めて海上自衛隊に「海上における警備行動」が発令された能登半島沖での北朝鮮不審船事件の再放送のようだ。
あの時、北朝鮮は先ず海上自衛隊に「海上における警備行動」が発令されると想定しておらず実際、小渕内閣の野中官房長官は発令の前例を作ることと「兵器=自衛隊の戦闘用の武器」の使用に強行に反対したとされているが人が良さそうな見かけ以上に強固な愛国者の小渕首相の決断は揺るがせられなかった。そして何よりも海上自衛隊のPー3C哨戒機が投下した爆雷が高速度で航行する工作船の船首に致命傷を与えることなく衝撃は十分でその命中精度の高さには驚嘆した。この経験から北朝鮮は工作船にロシアから導入した高性能の携帯式地対空ミサイルを搭載するようになり、それが2001年12月22日の九州東南海沖工作船事件で海上自衛隊に出番を与えることなく本音では「独力での対処は可能」と誇示したかった海上保安庁の巡視船に向かって発射されて実力と言うよりも役割の違いを痛感させられた。
「中国船、1、2、3・・・半数が停船」「流石だな」4機のPー1哨戒機が海面に柵を構築するよう白い水柱が林立させて飛び去ると100隻の中国の漁船の過半数は停船していた。しかし、破損して僚船に救助を求めている船は見当たらない。つまり海上自衛隊の投下精度は前回以上に効果的で、それが「月月火水木金金」の弛まぬ錬磨だった。
「中国船、携帯ミサイルを持ち出しました」中国の大漁船団はPー1哨戒機が引き返してくると一斉に乗組員が甲板上の青いシートを剥がしてOD色のケースを取り出し始めた。大きさから見て北朝鮮の工作船が使用したロシア製の携帯式地対艦ミサイルを国産化した模造品のようだ。しかも今回の目標は開戦初頭に奄美諸島への侵攻を企図して東シナ海を東進していた輸送艦隊を壊滅させた憎むべき海上自衛隊の哨戒機だ(あの時はPー3C)。中国製の携帯式地対空ミサイルとしての性能はロシア製に比べれば格段に落ちるが「下手な鉄砲数射ちゃ当たる」は毛沢東語録ではなかっただろうか。
「やはりな、哨戒機に通報しろ」船長は双眼鏡で海面に点在する漁船の乗組員の1名が肩に細長い管状の機材を担ぎ、もう1人が発射準備するのを確認すると指示を発した。
「哨戒機は既に回避行動を取ってフレアーを多数放出しています。同時に妨害電波の発信を開始しました」「すでにお見通しと言うことか我々海洋警察は状況確認が第1だが、海軍は戦闘だから反撃準備も整えているのかも知れないな」「しかし、いくら最新鋭の防御システムを保有していても100隻から一斉に発射されれば一溜りもないでしょう。ここは『緊急避難』として各巡視船艇の20ミリ・バルカン砲と13ミリ機銃を乱射して発射を阻止するしかありません」「韓国艦、艦隊空砲を哨戒機に向けています」船長が航海長の意見具申を採用しようとした時、船橋のブリッジで随伴している韓国海軍のコルベート=小型戦闘艦を監視している航海士が報告してきた。つまり中国には掟破りの奥の手も出してきたらしい。
「韓国艦10隻が連続して爆発、炎上を始めました」「全てか」「はい、全て船体の中央付近で爆発を起こして8隻は船尾が吹き飛び、2隻は横転して炎上しています」海上保安庁は海洋警察なので使用しているのは巡視船艇、相手も軍用艦艇ではない。
「九州方面から航空機の編隊が飛来、航空無線が入りました」「船橋に流せ」「こちら築城基地の航空自衛隊第8航空団。第7管区海上保安本部からの中国漁船の携SAMの発射の警告をモニター(傍受)した。『緊急避難』として処置する」これで終わった。
  1. 2024/01/18(木) 10:09:21|
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謹賀新年・扶桑佛暦2568年

新年は意識がないまま病院で迎えました。
今冬は前例がない異常な高温と過酷な寒波の繰り返しですが収入を稼いでいる同居人が暖房を嫌うため居候としてはストーブと燃料はあっても必要最小限しか使う訳にはいかず室温5度以下の方丈の炬燵で暖を取る生活が続きました。
そのため12月20日過ぎの異常な寒波で体調を崩して20日に立ち眩みで意識を失って仰向けに転倒、左後背部をテーブルの木製椅子の背もたれに強打して左背中の露骨を折りました。すると行動が大きく制約を受けたところへ以前、自転車による日本一周旅行で宿泊させた友人の大学教授の教え子が愛知県豊橋市在住の「両親と訪問したい」と連絡してきたため安静にしていることができなくなりました。
しかも当日は山口県内でも大雪の最盛期だったので宿泊した山口市から美祢市を通って下関市に抜ける道路は封鎖されていて連絡を受けていた予定よりも3時間遅れで到着したのです(愛車のBMWはノーマル・タイヤだった)。その父親の説明では「10月下旬の左足小指の骨折の発生状況を聞くとかなり危ないのではないかと思いせめて息子を導いてくれた方に会って一言お礼が言いたかった」とのことでしたが、本人は数年前にも唐突に年末に押しかけてきて年末の作務で扱き使った仕上げに除夜の鐘も打たせたものの「多忙な年末は訪問を避ける」と言う常識は家族として持ち合わせていないことが判明しました。
すると父親の説明が予言になったように12月26日からは絶え間ない嘔吐と下痢が始まり、脱水症状で意識が朦朧として12月27日に主治医に通院すると28日から近くはない済生会病院に入院して意識がハッキリしないまま年を越すことになりました。おかげで9回目の除夜の鐘は打てませんでした。
ところが担当医は「激しい嘔吐で食欲がない」と判断したまま休暇に入ってしまい通算10日以上も絶食する羽目になり、1月2日の深夜に吐き気が止まって意識が回復してからは250ccの缶入り栄養剤を1日1本だけで過ごし、おまけにこの済生会病院は休業中(通常の土曜・日曜日と旗日を含む)の事前に許可を受けていない家族の面会は原則禁止、院内売店も休みなので栄養剤が唯一の飲み物=食べ物でした。とどめに1月4日には大腸検査が入っていたため絶食が続いた上、大量の下剤と水を飲まされました。
快哉だったのは10日間の絶食中にも持病である膵臓の機能障害(浜松の主治医=静岡医科大学の博士が「Ⅰ型糖尿病では誤解される」と付けた診断名)が頻発して血糖値が危険水準にまで何度も跳ね上がったため看護師たちも経験したことがない事態に「糖尿病患者=栄養価の過剰摂取」と言う先入観を捨てざるを得なくなり(青森でも冬場に暖房を使えず入院しましたが今回は快適な病室でした)、仕事始めも2日目になって顔を出した担当医は血糖値の乱高下に加えて検査結果も全く異状がなかったので場当たり的な処置が始まりました。尤も野僧の後発性Ⅰ型糖尿病を医学界に報告論文を提出した静岡医科大学の博士は「原因は大学病院に1ヶ月入院しても探求できるとは言えない」と説明していました。
結局、10日間の絶食による消化器系の機能を回復させるリハビリのための入院になっていました。確かに暖房が効いた病室で自炊しないで過ごせたのだけは助かりました。何よりも久しぶりに生きた人間と会話し、身体に触れてもらえました。
  1. 2024/01/18(木) 10:07:20|
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