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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

3月1日・大阪の禁野火薬庫が大爆発した。

昭和14(1939)年の明日3月1日に現在の大阪府枚方市の西部の禁野(きんや)本町にあった陸軍の禁野火薬庫が2度目の大爆発を起こしました。
大阪への火薬庫の設置は日本陸軍の設立構想を立案した村田蔵六さんが提言しましたが明治2(1869)年に本人が毛利藩士に斬殺された上、明治7(1874)年の佐賀の乱と遭難・漂着した沖縄の漁民の保護のための台湾出兵、明治9(1876)年の熊本の神風連の乱と福岡の秋月の乱、萩の乱が続発した後、明治10(1877)年には西南戦争が発生して巨額の予算を浪費したものの西日本の不平士族の危険性が消滅したため火薬庫の必要性も薄らいで放置されていました。
ところが明治27(1894)年に日清戦争が発生すると船舶で大陸に弾薬を運び出すための集積地として港湾都市の大阪に火薬庫を設置する必要性が復活して建設に着手しましたが、綿火薬庫や弾薬庫、庁舎、兵営などの20棟以上の施設が完成したのは終戦後の明治29(1896)年でした。おまけに日露戦争後の明治42(1909)年8月20日の午後2時にダイナマイトの自然発火による爆発事故が発生して10人が負傷し、家屋1495戸が全半壊したため、周囲には爆発時の被害極限と延焼防止のための土塁が巡らされました。そして満州事変が始まっていた昭和8(1933)年には敷地を43ヘクタールまで拡張して、昭和13(1938)年には隣接して陸軍造兵廠大阪工廠枚方製造所が開設されると保管だけでなく砲弾や火薬の生産拠点にもなりました。
そんな昭和14(1939)年3月1日の午後2時45分に火薬庫内の15番倉庫で砲弾の解体作業中に不時発火して火薬を装填していた砲弾に引火して大爆発が発生したのです。爆発音は大阪市内だけでなく京都などの近隣府県一帯にまで響き渡り、午後7時までに29回爆発が続き、火災は3月3日の正午になってようやく鎮火しました。
砲弾の破片は半径2キロの範囲に飛散して禁野や中宮などの周辺地域では大半の家屋が衝撃と爆風、延焼によって全半壊して、枚方、香里、御殿山、楠葉、橋本などの京阪沿線や淀川の対岸の現在の高槻市や交野市でも窓ガラスが割れ、屋根瓦が吹き飛ぶなどの被害が出ました。また枚方市内の殿山第1小学校では室戸台風で全壊して建て直して2年だった校舎が全焼しました。被害としては死亡94名、負傷602名、家屋の全半壊821戸に及び、枚方市は1989年からこの日を「枚方平和の日」にしています。
この2度の事故を受けて陸軍は東洋最大の弾薬庫・大阪兵器補給廠桃園支処(現在も陸上自衛隊が宇治駐屯地桃園分屯地の関西補給処桃園弾薬支処として使用している)を建設して機能の一部を移転させました。
桃園支処がある宇治地区は現在では京都や大阪の都市圏の住宅地になっていますが、名古屋の住宅地になっている高蔵寺には航空自衛隊第4補給処の弾薬庫があり、標高194メートルの高座山(たかくらやま)には半地下式の保管庫が多数設置されていて青森県の東北町に弾薬庫が新設されるまでは全部隊分の弾薬を保管していました。どちらも後から住宅地になってしまい運搬時の安全管理などでは色々と苦労が多いようです。
  1. 2024/02/29(木) 15:07:38|
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続・振り向けばイエスタディ750

「中国海軍がポセイドン(アメリカ海軍のPー8哨戒機の愛称)を撃墜したぞ」「漁船を監視しているPー1と誤認したようです。バンダリー(境界線)上空で待機しているPー8が報復するでしょう」台湾海峡の金門島の台湾軍の施設で中国軍の交信を傍受している本間郁子は事態の推移を注視していた。今朝、福州基地を出航した東海艦隊の駆逐艦は半日かけて東シナ海を北上すると沖永良部島付近で南下してきた漁船団と合流した。その時から駆逐艦が漁船団を監視している海上自衛隊のPー1哨戒機の位置を携帯電話で通知していたことは確認している。ところが漁船団が3つに分かれて奄美大島、徳之島、沖永良部島に向かったためPー1も3機になり、そこに駆逐艦を追跡してきたPー8が加わって練度が低いレーダー員は混乱してしまったようだ。実際、駆逐艦のレーダー員は漁船の甲板で携帯式SAMの発射準備を始めた乗組員たちに最も近い目標としてPー8を指示していた。その結果、5隻が連続発射して5発目が命中した。
「おい、これはPー1じゃあないか。海上自衛隊が中国艦を攻撃するのか」「その前にPー8の女性パイロットが『同盟軍なら攻撃しろ』と詰め寄っていましたから日本男児としての沽券に関わるって思ったのかも知れません」長貞治(チャン・チャンヂー)中佐が交信者の記録から攻撃態勢に入った哨戒機がアメリカ海軍のPー8ではなく海上自衛隊のPー1なのを知り驚愕したような声を出した。すると本間は冷静に答えた。しかし、本間の夫の杉本や同僚の岡倉に松本を見ていてもあの程度の挑発に乗って武力行使に踏み切るほど単純ではない。おそらく上級司令部の攻撃命令を受けたのだ。
「駆逐艦では対空火器は艦砲くらいしかないだろう。日本のASMの餌食だな」「蘭州級や南昌級なら駆逐艦でも艦隊空ミサイルを搭載していますがそれでも日本の17式には敵いません」長中佐の中国海軍に関する知識はあまり更新されていないようで中国海軍が2004年から配備した7000トンの蘭州級駆逐艦に始まり、2020年から建造と配備を進めている最新鋭の南昌級駆逐艦は1万トンを超える大型艦であり、艦橋にはイージス艦を思わせるフェーズドアレイ・レーダーを装備して艦対空と艦対艦を兼ねたミサイルと火器管制装置を搭載している。尤も中国海軍は海上自衛隊が全ての戦闘艦を分類せずに「護衛艦」で統一していることを「姑息な軍事情報の隠蔽」と主張しているのでそれを模倣しているのかも知れない。
「音声が入らなくなったな」「攻撃を開始したのでしょう。駆逐艦が漁船に退避を命じています」夜間に入って無線の雑音が減り、奄美群島でも南方の海域で発信されている通話も比較的鮮明に傍受できている。先ほどまで入っていた西部航空方面隊と南西航空方面隊のバンダリー上空のPー8と沖永良部島付近を飛行するPー1のパイロット同士の日本語の会話が途絶え、間もなく携帯電話の周波数の無線機から北京語の「タオパオ(逃げろ)」と言う叫び声が聞こえ始めた。さらに漁船の乗組員と思われる男たちの「タオパオ」「バンウワァ(助けてくれ)」と言う焦った絶叫が続いた。
「ナマンダブ、ナマンダブ、ナマンダブ・・・」空対艦ミサイルで駆逐艦を仕留めた後、漁船団も爆雷で全滅させたくらいの時間が経過すると航空無線の周波数の無線機から低い念佛が聞こえてきた。おそらくPー1のパイロットがたった今殺したばかりの中国軍の兵員たちを弔っているのだ。
昭和の時代の僧侶たちは従軍経験を持ち、銃弾が飛び交う戦場で加護を願って読経し、銃で狙って殺した敵兵を弔うために念佛を唱えた。そのような真摯な信仰心が敗戦後の混乱の中でも檀家や門徒たちを寺に引き寄せていた。本間もこのパイロットの念佛が幼い頃、家の法事で住職と一緒に唱えていた念佛に重なり、無意識に手を合わせて低く「南無阿弥陀佛」と呟き始めた。そんな様子を長中佐は感心したように見ていた。
「本日20時15分、海上自衛隊のPー1が沖永良部島の西方海上でアメリカ海軍機を撃墜した中国海軍の駆逐艦と漁船団を攻撃しました」「そうか・・・こちらでも航空自衛隊のレーダーで確認している」本間はバンダリーの北方空域で遭遇したPー8とPー1のパイロットのあまり親しいとは思えない会話が終わると市ヶ谷地区の統合幕僚監部に連絡した。これは単なる仕事上のホウレンソウ(報告・連絡・相談)だった。
  1. 2024/02/29(木) 15:06:19|
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2月29日・2・26事件が鎮圧された。

ベルリン・オリンピックが開催される閏年だった昭和11(1936)年の明日2月29日の午前5時10分に戒厳司令部に対して2月26日の2・26事件で蜂起した反乱部隊=青年将校への討伐命令が発令され、午前8時30分には攻撃命令が下達されました。
これを受けて戒厳司令部は攻撃対象となる地域に居住する市民を避難させるのと同時に愛宕山の日本放送協会に憲兵隊を派遣しました。そして午前8時55分からラジオで中村茂アナウンサーが読み上げる「兵に告ぐ、勅令が発せられたのである。既に天皇陛下のご命令が発せられたのである。お前たちは上官の命令を正しいものと信じて絶対服従をして誠心誠意活動してきたのであろうが、既に天皇陛下のご命令によってお前たちは皆原隊に復帰せよと仰せられたのである。この上お前たちがあくまでも抵抗したならば、それは勅命に反抗すことになり逆賊とならなければならない。正しいことをしていると信じていたのにそれが間違っていたと知ったらば、いたずらに今までの行きがかりや義理上からいつまでも反抗的態度をとって天皇陛下に背きたてまつり、逆賊としての汚名を永久に受けるようなことがあってはならない。今からでも決して遅くないから直ちに抵抗を止めて軍旗の下に復帰するようにせよ。そうしたら今までの罪も許されるのである(後略=野僧が持っている録音テープはここまで)」と言う「原隊復帰勧告=兵に告ぐ」を放送しました。さらに飛行機が蜂起部隊の占領地域の上空から同趣旨のビラを散布し、西新橋の田村町にあったビルディング=飛行館の屋上には「勅命下る。軍旗に手向かうな」と記された幟を付けたアドバルーンが掲げられました。
同時に師団長以下、連隊長、大隊長たちが占領している下士官・兵たちの前に歩み出て青年将校の蜂起に従った理由を問い、真情に耳を貸さなかった不明を詫び、涙ながらに原隊への復帰を説得したため徴兵で入営して直属上司の命令で蜂起に参加していても任期満了を迎えれば帰郷するつもりでいる兵士の間で急速に動揺が広がったのです。
一方、陸軍士官学校で真崎甚三郎(階級・肩書不要)の洗脳を受けた皇道派の過激分子の青年将校たちも天皇の周囲で国家の実情=民の窮状を隠蔽している貴族趣味の君側の奸を排除すれば神国としての夜明けが来ると信じて蜂起したはずが勅命において逆賊と断罪され、昭和維新を実現するための政権を託すつもりだった真崎も天皇の心証を慮って保身に懸命になっているのを目の当たりして自分たちの見通しの甘さを痛感しながら下士官・兵たちを原隊に帰して罪を免れさせようと考えるようになっていきました。
こうして昼食後から青年将校たちは自分の部隊に原隊復帰を命じ、下士官の小隊長の指揮で隊列を組んで着剣した銃を構えて占領地域を包囲している鎮圧部隊の前を行進して歩兵第1連隊と第3連隊は麻布、近衛歩兵第3連隊は赤坂に帰ったのです。
下士官・兵士たちを見送った後、歩兵第3連隊の安藤輝三大尉は拳銃で自決を図りましたが右脳を貫通して半身不随になったものの失敗、他の将校たちは陸軍大臣官邸に集められ、首謀者の1人である歩兵第3連隊の野中四郎大尉はここで自決し、生存者は午後5時に逮捕されて7月12日に15名、8月19日に4名が銃殺刑に処せられました。
  1. 2024/02/28(水) 15:34:53|
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続・振り向けばイエスタディ749

「これは所管から言えば国土交通大臣、若しくは海上保安庁長官から説明すべき事案ですが・・・」私が中央警務隊本部で今回の中国軍の漁船を使った侵攻への自衛隊の対処の違法性を検証していた時、同じ市ヶ谷地区の防衛省では大原防衛大臣の緊急記者会見が開かれていた。つまり私の立ち入り許可は招集した記者たちに紛れ込ませたのかも知れない。だとすればOBとは言え最高検察庁の末席の次席検事は随分軽く見られている。
「昨日の午前6時頃、黄海方面から中国所属と思われる漁船団、確認できている数では154隻が東シナ海を西に向かって航行しているのを海上自衛隊鹿屋航空基地の第1航空群所属のPー1哨戒機が発見しました。これを受けて海上自衛隊はこの海域を所管する第7管区海上保安本部に通報しました。そして第7管区海上保安本部は保有する巡視船艇を出動させました」「海上(における)警備行動が発令されたままになっているんですから海上自衛隊が対応すれば良いのではないですか」「質問は指名を受けてからにして下さい」「相手は漁船なので初動は海上保安庁に対処させるべきだと判断したようです」大原防衛大臣は司会進行の官僚が唐突な質問を制限すると大半の記者がスマートホンを見ている中で唯一反応した記者の質問に真摯に答えた。
「第7管区海上保安本部は『我が国のEEZ内での操業には許可が必要だ』と通告して停船と確認のための接舷を命じましたが無視して航行を続けたため先ほどの海上における警備行動に基づき第1航空群のPー1哨戒機が阻止行動を実施しました」「具体的には」「進行方向の安全な間隔を確保した位置に爆雷を投下しました。これは1999年3月23日の能登半島沖の不審船事案でも実施しています」この質問も同じ3K新聞の記者だった。結局、この緊急記者会見での公式発表を記事にする気があるのは3K新聞だけらしい。実際、テレビ各局は許可が下りれば臨時ニュースとして中継することが多い緊急記者会見を完全に無視している。
「そうして黄海への退路を佐世保地方隊が派遣したミサイル艇に遮断された漁船団は東シナ海の全面に分散して先ほど説明した五島列島、甑島群島だけでなくトカラ列島、奄美群島への上陸を企図したんです」大原防衛大臣の説明は甑島群島での双方が多大な死傷者を出した交戦と福江島の南方海域でのAHー64攻撃ヘリコプターによる漁船団への攻撃、さらに無人になっている離島への潜入と対馬警備隊の捜索・撃破を経てようやく重大な局面に至った。甑島群島の説明の時に読捨新聞の記者が「下甑島は1997年2月3日に中国人の不法侵入があった島ですね」と確認したが、どう言う訳か周囲の記者たちに憎々し気な視線を浴びせられてそれで終わった。
「そして昨夜の8時15分頃、10隻超の漁船が奄美群島の沖永良部島の沖で中国福建省の福州基地を出航して東シナ海を北上してきた海軍の駆逐艦と合流したのです」「それでは先ほど大臣が説明された『漁船だから海保に対処させる』と言う配慮は不要になりますね」「それどころじゃあなかったんだ」3K新聞との対面問答のような記者会見に飽きてきていた他社の記者たちもこの大原防衛大臣の答えに顔を向けた。
「中国漁船は駆逐艦を追跡していたアメリカ海軍の哨戒機を撃墜した」「げッ・・・」「しかも状況から見て駆逐艦が対空用レーダーで目標を捕捉して指揮していた公算が大きい」「つまり中国海軍がアメリカ海軍に対して戦闘を行ったと言うことですか」記者会見の時間中にスマートホンで編集部と対話しているだけに見えた他社の記者も大原防衛大臣の説明を聞いてはいたことを証明するように確認してきた。
「少なくともアメリカ海軍はそのように判断したようだ。別の哨戒機を攻撃に向かわせたが間に合いそうもなかったから同盟国である海上自衛隊の哨戒機が任務を代行した」大原防衛大臣の説明が自衛隊に戻ると記者たちは再びスマートホンを操作し始めた。自衛隊を徹底的に無視するように指示されているようだ。
「それでは指名を受けた順に社名と姓を名乗ってから質問をどうぞ」「M日新聞の脇田です。宮谷副大臣は加倍派からパーティー券収入のキックバックを受けていますか」「本日の記者会見の内容に関する質問にして下さい」「逃げるのか。防衛省は組織ぐるみで隠蔽するつもりなんだろう」結局、大原防衛大臣の長時間にわたる熱弁も無駄だった。
  1. 2024/02/28(水) 15:33:34|
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2月28日・アステカ王・クアウテモックが処刑された。

1525年の明日2月28日に1428年頃から現在のメキシコ中央部で栄えたアステカの第11代・クアウテモック王が処刑されました。
日本人の多くはスペインによる征服の悲劇がドラマチックに伝わっているためアステカを南アメリカ大陸の太平洋側の山岳地帯を支配したインカや高度な文明を築いたマヤに匹敵する帝国だと思っていますが、実際は南北アメリカ大陸をつなぐように細長く伸びているメキシコ中央部の盆地一帯を領していた都市国家に過ぎませんでした。
アステカの成立は12世紀頃に北部にあったとされる伝説上の首都・アストラン(ドイツ人の博物学者で探検家のアレクサンダー・フォン・フンボルトさんが国名の由来にした)からメキシコ一帯を移住して回っていた部族が先住の部族が建設していた都市国家を参考にして現在は埋め立てられているテスココ湖の周囲に自分たちの都市・テノチティトランを建設して定住したことです。さらに湖の島に姉妹都市・トラテロルコを建設しました。
そうしてアステカではアカマピチトリさんが1375年に朝貢して庇護を受けていたメキシコ盆地最大の都市国家・アスカポツァルコの王の許可を受けた王に即位して長老会議の承認の下で王位を世襲することになりました。その後、アスカポツァルコを後ろ盾にして他の都市国家を支配下に置くとやがて軍事力において遜色がない強国になり、メキシコ盆地の覇権を巡るアスカポツァルコとテスココの全面対決に大きく貢献して、ついにはメキシコ中央部一帯の統一国家を樹立したのです。
ところが大航海時代に入ったヨーロッパはスペインやポルトガルを先陣として南北アメリカ大陸の征服を進め、1519年にスペイン人のエルナン・コステル(敬称・肩書不要)がメキシコに上陸したのです。ここで有名なアステカの神話「主神・テスカトリポカに追放された白い肌を持つケツァルコアトル神が一の葦の年(=偶然にも1519年)に戻ってきて再びアステカを支配する」と白い肌のスペイン人が結びついてしまう悲劇が起こりました(前兆として10年前の彗星の出現や神殿の焼失などが重なった)。
その結果、モクテスマ2世王はコステルをケツァコアトル神と信じて武装蜂起によって抵抗する住民たちを制止しようとして殺害され、後継のクイトラワク王はスペイン人が持ち込んだ天然痘で即位から80日後に病没したためトラテロルコの領主だったクワウテモック王が25歳で指名されたのです。この時、絶世の美女との誉れが高かったクイトラワク王の妃になっていたモクテスマ2世王の娘と結婚しています。
クワウテモック王は1521年にコステルの軍にテノチティトランを包囲されても頑強に抵抗しましたが、すでに火縄銃の原形を使用していたスペイン人に勝てるはずがなく脱出を図り捕獲されてしまいました。捕獲後は黄金の保管場所と金鉱山の所在地を探るために拷問にかけられ、他の地域への出征には反乱防止の人質として連行されましたが、在位が短い傍流の王では抑止効果は弱く、マヤへの侵攻中に処刑されました。
スペイン人は20世紀に入ってからもメキシコでネイティブ・アメリカンを残酷に大量虐殺していますからアステカが受けた悲劇は想像に難くありません。
  1. 2024/02/27(火) 15:58:16|
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続・振り向けばイエスタディ748

「モリヤ検事、今日はこちらに来られませんか」志緒大尉からの電話を終えて梢と遅れ気味になった朝餉を食べていると再びスマートホンが鳴った。今度の着信はラベルのボレロなので身内や友人ではない。最近、スマートホンに掛けてくる第3者は中央警務隊本部の鬼頭3佐が多いが案の定だった。
「立ち入り許可がもらえるなら今日から行くけど海自が中国艦を撃沈した事案は詳しく状況を教えてもらわないと見解を示せないな」「その情報もご存知なんですか」梢は相変わらず加倍派叩きの政治スキャンダル以外の話題を取り上げない日本のニュースは見ないでAFNにチャンネルを合わせている。鬼頭3佐にもスマートホンが拾った英語が聞こえているはずなので「情報源はAFNだ」と思ってもらえると有り難い。
「中国艦が漁船団と合流してアメリカ軍機を撃墜するのを指揮したのが原因だとしても今の外務大臣にそれを中国に認めさせることができるかな」「現状ではいくら外交官が頑張っても外務大臣は昔の外交貴族の感覚でご機嫌取りを始めるから台無しになってしまうようです」私がオランダに赴任したのは加倍政権が復活した直後だったので外交官の世代交代が始まってヨーロッパの主要国の大使に収まっていた外交貴族たちは実際の外交には影響を及ぼさない閑職の天下り先を斡旋されて次々に姿を消していった。そうして中曽根政権で種を蒔かれながら日陰に置かれていた戦略的外交の担い手たち舞台の中央に踊り上がった。その結果、ヨーロッパでも民政党政権の時には「もう終わった」と見限られていた日本の評価は反転急上昇して私の国際刑事裁判所の検察官としての仕事にも大いに力を与えてくれた。実際、日本では全く報道されていない紛争の現地調査で戦地に赴くと外交官と思われる日本人の姿を見ることがあった。
「それじゃあ何時もの時間に顔を出すから昨日の朝からの事態を時系列に沿って説明してくれ。日本の新聞とテレビは全く報じていないからな」「CNNもね。BBCは少し触れてるけど」私の返事を聞いて梢が声量を押さえて独り言を呟いた。梢はA日新聞の夕刊で加倍派叩きが始まった翌日から日本のニュースは天気予報とローカル・コーナー以外は見ていない。代わりに衛星放送の海外ニュースばかり点けているが、それでもアメリカのCNNはパレスチナ問題が中心だ。ロシア軍が北海道と新潟で敗北してからは日本での武力紛争を報道することは殆どなくなっているらしい。一方、BBCは新潟での戦闘が終結したイギリス人義勇隊員たちが西部方面隊への配置換えを志願している話題を紹介して九州でも取材した結果、中国の脅威の高まりを実感して追跡報道を怠っていない。中東のアルジャジーラがパレスチナ一辺倒なのは仕方ない。
「昨日の午後、下甑島の手打地区で42即機連隊(第42即応機動連隊)の1個中隊がトラックで移動中を待ち伏せされて全滅したのはお知らせしましたね」「続報はなかったが」「先遣隊が現場に引き返して襲撃部隊を壊滅させました。その後、8飛行隊が高遊原から空輸した42即機連隊の待機部隊が手打地区一帯を捜索して発見した残存部隊100名前後を各個撃破して下甑の事案は解決したと見ています」最高検察庁から市ヶ谷地区の中央警務隊本部に向かった私に鬼頭3佐は要望通りに昨日の朝から発生した中国軍の漁船団による事態を時系列に沿って説明した。つまり甑島群島では上甑島北部の東岸に於いて上陸を図った漁船団を壊滅させた一方で下甑島南部に上陸させた中国軍に待ち伏せされて1個中隊が全滅させられたことになる。その上陸した中国軍100名前後も各個撃破したのだから事態は解決したと見るのは常識的判断だろう。
「次に五島列島ですが福江島南方の玉之浦沖で再集結した中国漁船を目達原の陸自西部方面航空隊のAHー64が攻撃して全滅させました。ただし、別行動を取っている漁船が五島列島内の無人化した島に接岸していますが対馬警備隊が各個撃破しています」これは聞いていない。五島列島には航空自衛隊の福江分屯基地の第15警戒隊に新田原基地で待機している第1空挺団の普通科大隊と対岸の竹松駐屯地に移駐している対馬警備隊を派遣する作戦計画は聞いているがマスコミが加倍派叩きを始めてしまったので実戦が始まってっからの推移は承知していない。何にしても志緒大尉が関わった昨夜の戦闘に辿りつくまでには随分と紆余曲折があるらしい、
  1. 2024/02/27(火) 15:56:50|
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続・振り向けばイエスタディ747

「ダディ、朝早いけど好い」「おはよう。朝課(朝の勤経)を始めるところだ」翌朝、梢が朝食の準備にかかるのに合わせて起きる私が和室の布団を2つ折りに畳み、上に佛像たちが並べてあるクローゼットの前で灯明のローソクを点け、線香を焚いていると私のスマートホンが鳴った。志緒からの着信はアメリカ海軍のパイロットだけに「愛と青春の旅立ち」の主題歌にしているので懐かしい。ちなみに船乗りの淳之介は善通寺時代に教えた「金毘羅船々」だ。本当は定番の文部省唱歌「我は海の子」や加山雄三の「海・その愛」にしようか迷ったが今でも本人が唄っているそうなので採用した。
「どうした。また戦闘を経験したのか」志緒大尉が嘉手納基地に派遣されていることは昨日の電話で聞いている。そして昨日は中国の大漁船団が東シナ海を五島列島に向けて侵攻して海上保安庁に阻止されると五島列島から甑島群島、トカラ列島、奄美諸島に分散して行動したことは細切れな情報の張り合わせで推察していた。ただし、志緒大尉たちアメリカ海軍は海上自衛隊を漁船に専念させるために東シナ海で行動する中国海軍の艦艇に対処することが任務だと聞いたような気がする(実際は聞いていない)。
「私はバンダリー(境界線)上空で待機中だったけど交代するはずだった僚機が中国の漁船の携SAMに撃墜されたの」「その僚機の搭乗員は無事だったのか」普通の親であれば我が子が無事だったことに安堵した相槌を打つところだが私には元自衛隊士官としての分別が残っていた。志緒大尉も同業者なので理解してくれるはずだ。
「うん、放出するフレアが終わってしまって赤外線誘導で右翼のエンジンに命中したんだ。だけど何とか海面に不時着水させて脱出には成功したわ。ネーバル・ジエー隊の飛行艇に救助されたけど正副パイロットは重度の火傷を負ったの。搭載していた弾薬類が誘爆しなかったのが不幸中の幸いだった」志緒大尉の説明は4WⅠHがハッキリしないので事態の全体像が理解できないが、中国漁船がアメリカ海軍機を攻撃したのは判った。
志緒が哨戒機のパイロットになった頃、オランダにかけてくる電話で日常の体験を包み隠さず話すため私が秘密漏洩にならないかを心配して注意するとアメリカ軍では戦闘行動を業務と認識しているので自衛隊式に社会の受け止め方を懼れて口を噤むような過剰な秘密指定はしないと反論されてしまった。今の電話も志緒大尉が自分から話す内容を黙って聞いていれば軍事秘密の漏洩にはならないのだろう。
「それでネーバル・ジエー隊のPー1が携SAMの射撃を指令していた中国の駆逐艦を撃沈したんだけどそのパイロットが自分の手柄を自慢するように私に言うから無視してやったわ。USネービー(アメリカ海軍)でも空母の戦闘機パイロットには敵機を撃墜することを快感にしている人が多いの。でも哨戒機パイロットは敵艦を撃沈することで興奮したりしない。任務として攻撃して結果的に撃沈させているだけよ」前回のロシアの輸送艦の撃沈以来、志緒大尉は自分を責めるようなマイナス思考を繰り返しているようだ。あの時、私が説いた「人間ではなく敵を殺したと自分を納得させろ。お前が撃沈しなければ輸送艦が運んだ将兵と武器・弾薬で自衛隊はそれ以上の損害を被ったはずだ」と言う教訓は不十分だったらしい。
志緒がハワイで薫陶を受けた祖父のノザキ・ヤスト中佐はアメリカ空軍の輸送機パイロットであって世界各地の戦場に将兵や武器・弾薬を運搬し、戦死者の遺骸を収めた棺を連れ帰ったこともあったが直接戦闘に参加したのは1983年のグレナダ侵攻で空挺部隊を降下させたことくらいだ。そのためなのか息子のノザキマサト少尉は戦闘機パイロットを志望し、夢がかなって間もなく空軍からは原因不明と説明された事故で死亡した。
「多分、そのパイロットはお前に褒めてもらいたかったんだよ。海上自衛隊にとってお前は偉大な戦果を上げた英雄だ。その英雄に自分もやりましたって報告したんだ。男って奴はそんな可愛い生き物なんだよ」「ダディもそうなの」「ワシは・・・」思いがけない質問に私は困ってしまった。私は若い頃から梢には逃げ帰った惨めな負け犬として顔を胸に抱き締めて泣かせてもらっていた。以来、弱虫な自分を正直に晒している。
「ワシは虚勢を張ろうにも自慢できるようなことは何も持ってないからな」「馬鹿・・・」私の本音の自己評価に志緒大尉は娘として厳しい返事をした。
  1. 2024/02/26(月) 16:01:12|
  2. 夜の連続小説9
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2月26日・日本のハードボイルド小説の先駆者・大藪春彦の命日

1996年の明日2月26日は暴力や反社会的な内容を批判ではなく題材にしたハードボイルド作品を日本で成立させた大藪春彦さんの命日です。61歳と4日でした。
大藪さんの経歴については当時の出版社は作家(漫画家も同様)の人物像を作品のイメージに合わせて脚色していたためどこまで事実なのかは不明ですが、ハードボイルドな人生を送ったことになっています。
昭和10(1935)年2月22日に日本統治下のソウルで派遣教員の家庭に生まれ、その年に山形県酒田市に転居しますが昭和16(1941)年に再び朝鮮半島北部の新義州に移住して国民学校に入学しました。ところが昭和20(1945)年に父親が出征した留守に敗戦を迎えると権力者たちは日本人移住者を残して本土に逃げ帰り(この経験が反権力の思想信条を生んだことになっている)、朝鮮人は取り残された日本人女性を凌辱し、金品を強奪してさらに進駐してきたソビエト連邦軍も同様に迫害しました。それでも大藪少年は盗みを働いて家族を支え、昭和21(1946)年に闇の渡航船に乗って祖母の家がある香川県善通寺市に帰国したのです。すると出征したまま連絡が付かなかった父親が先に帰国していて学校の教員に復職していました。
昭和27(1952)年に地元の新制高校に進学すると新聞部に入って革命を扇動する記事を書いたそうですが、天皇批判をとがめられて回収・焼却処分を受けたので文芸・演劇部に転部しました。この文芸部時代に「ドストエフスキー」「イエス・キリスト」と題する早熟な論評を書いたそうです。
昭和30(1955)年に東京外国語大学を受験しましたが失敗したため占領軍が善通寺市に創設した日本人をキリスト教徒化するための四国基督教大学に進学しましたが「イエス・キリスト」と言う論評を書いた大藪少年は大学で説かれているキリスト教に失望して中退しました。それでも英語教育に力を入れていた大学だけに図書館にはアメリカの幅広い書物が大量に揃っていてハードボイルド小説に出会うことができました。
翌年、早稲田大学教育学部英文科に進学すると射撃部に入ったそうですが、この時の経験が後年の大藪作品の銃器と射撃に関する詳細で具体的な描写につながっています。また神田の古書店でアメリカのミステリーを買い込んで乱読して翌年にはワセダミステリークラブに加入しました。
昭和33(1958)年に教育学部の同人誌に「野獣死すべし」を掲載するとこれを友人が日本のミステリーの先駆者・江戸川乱歩さんに見せたことで大手雑誌に転載されて「日本に出現した若手ハードボイルド作家」として一躍脚光を浴びました。
その後は全米ライフル射撃選手権極東予選での優勝や隠し持っていた拳銃による銃刀法違反の有罪判決、それを切っ掛けに転向した自動車レースに関する活躍が並び(それでも格闘技に関する逸話は伝わっていない)、どれも小説には結びつくものの本人の風貌や周囲が語る人間性はハードボイルドとは程多いので半信半疑です。また超人的肉体を持つ主人公が美しい女性を犯し、快楽に溺れさせる作品と違うのは有名な愛妻家だったことです。
  1. 2024/02/25(日) 14:13:50|
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続・振り向けばイエスタディ746

「サクラ、こちらトータス(陸亀・第1航空群の隼人の逆説的コールサイン=仮称)28、日本語で良いな」「大丈夫です。どうぞ」シーガルの呻き声を最後に交信が途絶え、志緒大尉が最近の口癖を呟くと接近していた海上自衛隊鹿屋基地のPー1哨戒機から連絡が入った。このパイロットもサクラ=志緒大尉が日本人なのは知っているようだ。
「そちらのPー8は漁船が発射した携SAMが右主翼に命中して海面に着水した。海面に火炎が確認できるから水没はしていないようだ。岩国の31空群に救助を依頼したからUSー2が来る」トータス28のPー1はシーガルのPー8が撃墜された空域にいるはずだが自分も攻撃を受ける危険性は考えていないようだ。確かにPー1は哨戒機専用の機体として設計されているため旅客機の転用のPー1のような肥満体ではなく運動性は格段に違うから回避行動にも自信があるのだろう。
「傍受していた中国漁船の交信ではシーガルが追っていた駆逐艦が指令を出して射撃させていたようだ。つまり駆逐艦の対空レーダーでの管制射撃だったんだ」「それでトータスは攻撃しないの。我がアメリカ海軍ならネーバル・ジエー隊が攻撃されれば同盟軍として反撃するわ」「・・・」志緒大尉の詰問にトータス28は答えなかった。志緒大尉はシーガルが攻撃を受け始めた時点で嘉手納基地の海軍派遣哨戒隊の指揮所から現在の空域での待機を命じられているが、トータス28は自分にも危険が迫る自衛・自救措置として中国艦と漁船団を攻撃できる位置にいる。
「実はASM(空対艦ミサイル)の発射準備は完了しているんだ。問題は至近距離に駆逐艦がいることだ。ここで軍用艦に命中させれば軍同士の本格的な戦闘になる」事情を説明するトータス28は苦虫を口に入り切れないほど詰め込んで無理に噛み締めているような口調だった。この様子では上層部の指示を待ってのかも知れない。
「ラージャ、実施します」数分の沈黙の後、志緒大尉との交信を切ったトータス28が誰かと会話した。この口ぶりから見て上級司令部からの指示を受けたらしい。実際、トータス28の機長は武装要員に既に17式空対艦誘導弾に入力してある駆逐艦の位置のデーターを再確認させた。これほどの決断を下せるのは中央指揮所の大原防衛大臣だけだ。
大原防衛大臣は自民党内でも有数の保守本流で対中強硬派だが派閥は加倍派ではなく、東京でマスコミが沸き立たせている加倍派壊滅報道の標的にはなっていない。ただし、宮谷防衛副大臣は加倍派所属だ。大原防衛大臣としては現在の石田内閣では数少ない防衛問題に関する理解者で国際常識に則った対応を強力に掩護してくれている立野官房長官と共に片腕と頼む宮谷防衛副大臣が凶風に晒されていることは赦し難い政治的謀略だが、今回は立野官房長官の調整機能が滞っていることを利用して独断で中国海軍の駆逐艦に対する攻撃を決断した。後始末は上山外務大臣に丸投げだ。
「サクラ、トータス28が離脱すればアメリカ海軍と名乗って編隊を組め。本来であればシーガルがやるべき仕事だったんだ。感謝を込めて護衛しろ」「ラージャ、シーガルは」「ネーバル・ジエー隊のUSー2が攻撃と同時に着水して救助を開始した。安心しろ」急降下して探知高度を切ったのかトータス28が対空レーダーから消えた。そこに嘉手納の海軍派遣哨戒隊指揮所から指示が入った。岩国基地から飛来した海上自衛隊のUSー2救難飛行艇はトータス28が駆逐艦を攻撃して脅威が消えるまで上空で待機していたようだ。どこまでも仕事には万全を期している。
「ジャパン・マリタイム・セルフ・ディフェンス・フォース(海上自衛隊)・トータス28、ディス・イズ・ユナイテッド・ステーツ・ネービー(アメリカ海軍)・パングボーン(1931年に三沢を離陸して太平洋無着陸横断に成功したミス・ビードル号の機長・三沢基地の哨戒飛行隊のコールサイン=仮称)06。貴方をエスコートするために接近する」「ラージャ、アイ・アム・コンプリート・アタック(攻撃完了)。キル・ザ・ターゲット(目標は撃沈した)」「ラージャ」トータス28の機長は誇らしげに戦果を説明したが志緒大尉は日本海でロシア艦隊を撃沈させたことがある。あの時は多くの人命を奪った罪の意識に苛(さいな)まれて僧侶である父に救いを求めた。この機長は武人として自分の戦果に歓喜しているのかも知れないが志緒大尉とは人種が違うようだ。
  1. 2024/02/25(日) 14:11:57|
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2月24日・「直木賞」になった小説家・直木三十五の命日

昭和9(1934年)の2月24日は現在も文豪・芥川龍之介さんを記念して純文学作品に贈られる「芥川賞」と共に大衆文学作品の箔付けとして存続している「直木賞」の由来になった小説家・直木三十五(さんじゅうご)さんの命日です。43歳でした。
先ずこの奇妙奇天烈な名前について説明すると直木さんの本名は植村姓なので「植」の漢字を分解して「直木」にして、31歳の時に直木三十一の名前で雑誌に寄稿して以来、年齢に合わせて三十二、三十三に改名していたのですが、34歳になって直木三十四で原稿を提出すると事情を知らない編集部員が三十三に訂正して出版したためその年は三十三を維持していました。ところが35歳になると「散々=33なことが起こった」と三十五に改名してこの名前を維持するようになったのだそうです。三十六にしなかったのは「三十六計逃げるが勝ちになるのが嫌だった」と説明しています。
直木さんは明治24(1891)年に現在の大阪市中央区安堂寺町で生まれました。幼い頃は「長くは生きない」と思われるほど病弱でしたが頻繁に通院していた薄恕一(すすきじょいち)医師の治療が適切だったようで旧制中学校を卒業すると医院でアルバイトをさせて学費を稼がせてもらいました。そして父親の反対を押し切って早稲田大学予科に入って高等師範部英語科に進学しますが学費未納で諭旨中退になりましたが、それからも通学して講義にも出て卒業写真の撮影にも参加しています。同じことを今東光大僧正も東京帝国大学でやっていますがこちらは学生寮の寮長を務め、講義で舌鋒鋭い質問を受けていた教授が学生だと信じて疑わなかったそうですから数段上のようです。
大正9(1920)年からは里見弴さんや久米正雄さんが創刊した文芸雑誌の編集に携わりますが、大正12(1923)年に関東大震災が発生すると大阪に移住して川口松太郎さんと娯楽雑誌の編集に当たり、次第に時代小説を書くようになりました。
33歳だった大正14(1925)年になると映画会社のマキノ・プロダクションを主催していたマキノ省三監督の私邸に居候するようになり、自分の作品を映画化させますがことごとく失敗して昭和2(1927)年に「映画などは子供の遊びだ」と言う許し難い捨て台詞を吐いて退居しています。その年にマキノ監督渾身の大作「忠魂義烈・実録忠臣蔵(直木さんが「原作を書く」と言いながら放棄した)」を編集中に私邸が全焼すると直木さんが現れ、小遣いをせびり取った挙句に「これでマキノは潰れる」と言い触らしたためマキノ・プロダクションは所属俳優・女優の大量退社に見舞われることになりました。
さらに昭和4(1929)年になると「由比根元大殺記」で大衆作家として認められ、映画の水戸黄門シリーズの原作になった「黄門廻国記」や島津藩のお由羅騒動を描いた「南国太平記」を発表しましたが後者は三田村鳶魚さんの発表済みの作品の盗作でした。
そんな直木さんについてマキノ監督の息子の雅弘さんは「直木賞ができた時、何やこれと首を傾げた。ついに彼の名作らしいものを全く知らなかった愚かな私は現在も続いている直木賞に一体どんな値打ちがのかと首を傾げずにはいられないのである」と切って捨てていますが出版社とマスコミとしては商業的な利用価値があるのでしょう。
  1. 2024/02/24(土) 15:34:27|
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続・振り向けばイエスタディ745

「サクラ(モリヤ志緒大尉のタックネーム)、ディス・イズ・シーガル(かもめ=同僚パイロットのタックネーム)、ハウ・ドゥー・ユー・リード・ミー・オーバー(感度はどうだ)「ディス・イズ・サクラ、ラウド・アンド・クリア。ハウ・ミー・オーバー(感度、明度共に良好、こちらはどう)」東シナ海上空では嘉手納基地を飛び立ったモリヤ志緒大尉が先に哨戒に当たっていた同僚・シーガルと交代していた。
「中国艦が北上しているのを追跡して奄美海域まで入ってしまった。岩国のオルカ(シャチの学術名=同前)とレイ(魚のエイ=同前)に引き継いでからそちらに戻るから夜間飛行を楽しんでいてくれ」アメリカ海軍が岩国基地にPー8哨戒機を派遣したのは韓国軍の脱走兵の漁船を使った侵攻に備える海上自衛隊からの要請に応えただけではなく独自の運用も考えていたようだ。日米ネービーの役割分担で中国海軍を担当する以上、北海艦隊の軍港が集中する黄海の沖にまで監視空域を確保する必要がある。
「奄美海域ではペガサス(海上自衛隊沖縄航空基地の第5航空群のコールサイン)が中国漁船を監視しているでしょう」「うん、鹿屋のPー1と那覇のオライオン(Pー3C)が仲良く飛行している。中国漁船が引き返すまで監視を継続するらしい」福生市ではサクラの父親が元航空自衛官、それ以上に元海軍少年とは思えない素人染みた見解を述べていたが、アメリカ海軍や海上自衛隊の哨戒機は高性能なレーダーとソナー(音響探知)で監視するので当然夜間も継続できる。中国漁船が離島への上陸を目的にしていることが判っていて引き返すはずがない。
「中国艦が漁船に接近するぞ」「どうしたの」「正確に言えば漁船の船団の行動海域に入ろうとしている」今夜は月齢が若いので上空から目視するには月明かりは十分ではない。つまりシーガルはTACCO=戦術航空士からの情報を請け売りしているのだ。
今朝、中国漁船の大船団が黄海から東シナ海に出てきた時にこの中国海軍の駆逐艦は福建省の福州基地から単独で姿を現して東シナ海を大陸沿いに北上してきた。福州基地であれば東海艦隊に所属していることになる。一方、漁船団が出航した黄海は北海艦隊なので護衛・掩護と言う任務は考えにくい。
航路から言えば尖閣諸島は通り道にあったが中国共産党は日本の海上保安庁に相当する海警を海軍に編入し、海軍の巡洋艦の兵装はそのままに塗装を白く塗り替えただけで警備船にして実態は海軍と同等に強化する狡猾な手法を弄しているので、警備船よりも小型でも軍用艦を接近させるような失策は犯さない。これまでも日本を挑発して対応を強化させることで海警の行動をエスカレートさせてきた。
「Pー1が来たぞ。このままではランデブーになるな。ネーバル・ジエー隊(海上自衛隊)としてはサクラの希望だろうがそこはクジ運が悪かったと諦めてもらおう」母親似で美人に分類される志緒大尉は厚木基地への飛行で海上自衛隊のパイロットたちにも人気者になり、自衛隊の情報共有でサクラのタックネームと共に陸将補の娘、アメリカ空軍の輸送機パイロットの孫であることまで知れ渡っている。その頃、私はオランダ在住だったのでアイドルの情報には加えられていない。
「おッ、漁船で照明が点いたぞ。高度を下げて目視で確認しよう」「ラージャ」シーガルは志緒大尉と通話状態のままコパイ=副操縦士に声をかけた。これでは実況中継を聞くことになるが第三者に事態を把握させるには適切な処置だ。
「わッ、フレアを放射しろ」「ラージャ」「ECM(電子戦装置)を作動」「ラージャ」「回避行動をとる。搭乗員は身体を確保しろ」唐突にシーガルの音声が緊迫した。状況から推察すれば中国漁船の乗員が海上自衛隊機と誤認して携帯式SAMを発射したようだ。シーガルのPー8哨戒機の高度は判らないが携帯式SAMは停止状態で発射されて上昇しながら加速するが重量は軽くても推進力が弱いため速度は比較的遅く到達までに時間的余裕がある。ただし、原型は旅客機のPー8哨戒機は急上昇、急降下、急旋回などの飛行性能が劣り、戦闘機のようにはいかない。
「初弾回避、フレアに引っ掛かりました」「2発目視認、フレア放射」「ECM作動」・・・「オー・マイ・ブッダ」この戦闘の実況中継は5発目で途絶えた。
  1. 2024/02/24(土) 15:33:10|
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2月24日・超人的脱獄王・白鳥由栄の命日

昭和54(1979)年の明日2月24日は刑務所が「脱獄経験者を留置するから」と施設を補強し、監視を強化している中で4度も脱獄を繰り返した超人的脱獄王の白鳥由栄さんの命日です。71歳でした。
白鳥さんは明治40(1907)年に青森県で生まれました。幼い頃に父親が病死すると母親は乳飲み子だった弟を連れて再婚し、姉と白鳥さんは豆腐屋に嫁いでいた父親の妹の養子として引き取られました。成長すると素行が悪くなり、昭和8(1933)年に仲間と強盗殺人事件を起こして青森刑務所に投獄されました。
投獄された昭和初期の東北は冷害による大凶作と昭和8(1933)年3月3日の三陸地震による津波で甚大な被害を受け、さらに大陸では関東軍の暴走が止まらず食料と物資は社会全体で不足していて刑務所の囚人に回す余裕はありませんでした。それでも白鳥さんは劣悪な待遇に抗議して逆に懲罰房に入れられたため最初の脱獄を決意したのです。桶の金属製のタガを外すと手作業で合鍵を作り、錠を開けて脱獄に成功しました。それでも劣悪な環境と苛めた看守への抗議が目的だったので翌日に出頭しました。
すると強盗殺人に逃走の罪が加算されて無期懲役になり、宮城刑務所を経て東京の小菅刑務所に移監されました。小菅刑務所では普通の囚人と同等の待遇を受けたので大人しく服役していましたが、昭和16(1941)年10月に戦時罪因移送令(罪によって刑務所を区分する)が発令されて秋田刑務所に移監されると脱獄経験者として高さ3メートルに天窓があるだけの特別房に入れられました。小菅の気候に慣れていた身体には秋田の寒さは耐え切れず防寒衣を要求すると拒否されたため2度目の脱獄を決意したのです。先ず部屋の隅を使って壁を登る技を練習し、天窓から外した釘とブリキ片を使って鋸を作り、看守の交代時間の10分間で鉄格子の周囲を切り始めました。そして暴風の夜、鉄格子を外して脱獄に成功したのです。3ヵ月後、小菅刑務所に出頭しました。
こうなると無期懲役は延長できないので環境に懲罰を加えたようで網走刑務所に移監されると凶悪犯専用の特別房に入れられました。ここでは冬に夏用、夏に防寒用の衣類を着せられる迫害を受け、手錠の鎖を力まかせに引き千切ってしまうため後ろ手に掛け放しされて擦り傷から蛆がわくようになったため3度目の脱獄を決意したのです。今回は味噌汁を視察窓の釘に吹きかける作業を1年間続けて錆びさせるとこれを取り去って肩の関節を外してすり抜けて脱走したのです。この時の褌一丁で天井の鉄線を渡っている人形=像は博物館網走監獄に展示してあります。
今回は敗戦まで潜伏しましたが畑泥棒と間違えて袋叩きにした農家を逆に殺して逮捕されると死刑判決が出たため4度目の脱獄を決意したのです。当然、札幌刑務所は厳戒態勢を敷いていましたが、白鳥さんは手製の鋸で床板を切り、床下にもぐって食器で穴を掘ってここから脱走しました。
そして敗戦後の裁判では刑務所での劣悪な処遇も脱獄の動機として認められ、懲役20年に減刑されて府中刑務所に服役し、昭和36(1961)年に仮出所してからは建設作業員として働きながら普通に生活していました。
  1. 2024/02/23(金) 14:27:26|
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続・振り向けばイエスタディ744

洗面所での夫婦の営みを終えると梢は服装を整えて台所に歩いて行った。私はその背中を見送った後、ウガイをしてからリビングに向かった。私たちの肉体関係は若い頃の幸せの再現になるので安心感が一番強い。そのためなのか梢の尻はパワーが充填されたような気がする。散歩の後のシャワーで確認することにした。
「3K新聞は夕刊がないからな・・・」「日本のテレビのニュースは政治資金の問題しか取り上げてなかったよ。AFNのニュースも続報はなかったわ」テーブルで駅の売店で買ってきた夕刊を読み返していると料理を運んできた梢が覗き込んだ。
3K新聞は唯一、朝刊で中国の侵攻の危険性が高まっていることと九州地域の陸海空自衛隊の防衛体制強化の記事を掲載していたが残念ながら夕刊は発行していない。それ以外の新聞は朝刊で報じた自民党のパーティー券の収益を政治家個人に還流していた問題の続報一色で今度は自民党ではなく加倍派と問題の所在を明確にしていた。A日新聞とM日新聞は加倍派が最大派閥になったのはこの潤沢な政治資金を議員個人に分配していたことが背景にあると加倍派の議員が蜜に群がる蟻であるかのように解説していた。保守系と言われる読捨新聞もパレスチナやウクライナの紛争の記事で紙面を埋めてはいたが大半は自民党の政治資金で、引き気味ではあっても同調しているのは間違いない。
「石田首相は前回の内閣改造で加倍派を主要閣僚に起用したでしょう。それが裏目にでたみたいね」「最初の石田内閣では加倍派を外したみたいな組閣だったけどな。やっぱり加倍派は人数が多い分、人材も豊富なんだ」最後に用意してあったレバーをレアに焼いたステーキを運んできた梢は向かいの席に座って手を合わせるとあまり食欲が沸きそうもない話題を持ち出した。しかし、帰宅前に事務室の女性事務官が言っていたように今日のニュースはこの話題しか報道していなかったので仕方ない。
「テレビのニュースでも立野官房長官に石村経産大臣、築木総務大臣に宮北農水大臣が加倍派だって、まるで加倍派所属なのが罪みたいな言い方だったわ」「リクルート事件で中曽根派を潰した時と同じ手法だな。A日新聞にとって日本は永久に中国や朝鮮に対する戦争犯罪国として卑屈に謝罪を続けなければ許せないんだ。だから外交政策を大転換して国際社会で活躍した中曽根首相の再登板を阻止して後継者も抹殺しなければならなかった。中国や韓国としてはマスコミの喧伝に乗って政権交代させた日本人の愚かさにもう復活はないと見ていたんだが、政権を奪還した加倍首相が反転攻勢に出て国際評価を過去にないところまで一気に上昇させた。加倍首相は中国が暗殺したが、その政治信条を学んだ後継者も抹殺するはずだ」ナイフとフォークでステーキを切りながらの解説は難しいが熱弁を奮ってしまった。我が家では肉料理をあまり食べないが貧血防止に造血作用があると言われるレバーは出ることがある。それもレバーの固まりの表面に焦げ目を入れた程度のレアに焼いたステーキだ。レバーは軟らかいので簡単切れる。
「でも政治家は利権がらみの仕事だから清廉潔白じゃあ務まらないでしょう。やっぱり清濁併せ呑むくらいの度量がないと」「大体、野党の連中だって実態は嫌になるほど汚いんだよ。マスコミが取り上げないだけだ」私は陸上幕僚監部法務官室で勤務していた頃、業務上の必要があって日本の野党やマスコミを含む反体制派の組織を監視・調査している某部署に関わったことがあった。そこで調べた野党の実態はマスコミの監視を受けている自民党以上に汚れ切っていた。政治活動に巨額の資金が必要なのは与野党を問わず常識だが、労働組合を支持基盤している複数の野党(政権交代した元与党を含む)は加入者から組合費として徴収しているだけでなく海外から政治工作資金の供与を受けているのだ。それも実際は北朝鮮系の「パチンコ業界からの寄付」などと偽装しているのでマスコミには「パチンコが好きな庶民派」などと好意的に紹介されている。
「日没になったから東シナ海の追跡は中止されるだろう。それでも中国漁船にレーダーが付いていれば夜間でも離島に辿り着くことはできるはずだ。そんな危機的状況が起きているのに日本人は何も知らないで低級な政治スキャンダルを見せられているんだ」夕食を終えて夜の散歩に出ると横田基地では夜間にも関わらずアメリカ軍のCー17大型輸送機が着陸してきた。横田基地は厚木基地ほどではないが夜間の離発着を制限されているのでこれは緊急便だろう。やはり事態は動いているのだ。
  1. 2024/02/23(金) 14:26:17|
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2月23日・名誉革命でオランダ君主と妻がイギリス国王に即位した。

1689年の明日2月23日に実際は議会がオランダに軍事進攻を要請したクーデターだった名誉革命でイギリス国王・ジェームズ2世が亡命した後、オランダの君主(まだネーデルランド州の統治者に過ぎなかった)・ウィレム3世とジェームズ2世の長女から嫁したメアリーさんが同時に即位しました。
この革命はジェームズ2世がイギリス国教会の信徒によるピューリタン革命でフランスに亡命してカソリックに入信したため反国教会だったのに対して議会は有権者の信仰を反映して国教会の信徒が多数派だったため対立し、国政の主導権を握ろうとする議会と絶対君主の復活を標榜するジェームズ2世の間で事態は先鋭化していったのです。
それでも議会はジェームズ2世には王太子となる男子がいないため国教会の信徒の母親に育てられ(ただし、死の前年にカソリックに改宗している)、プロテスタントのオランダ君主に嫁いだ長女が王位を継承すると期待していたのですが、1688年に男子が生まれるとカソリックによる支配の継続を公言したため革命を決意し、議会の代表が秘かにオランダを訪問して君主と長女にイギリスへの進攻を要請したのです。一方、オランダの君主側もルイ14世の登場で強国化したフランスの脅威が高まっていたためイギリスとの関係を強化する必要がありましたが、ジェームズ2世は長女を嫁がせておきながらプロテスタント国のオランダには冷淡だったので議会の要請はドーバー海峡の「渡りに船」でした。
こうして1688年6月にプロテスタントの7人の貴族連名の正式な招請状が届いたためオランダの君主も応じる意向を回答しましたが、貴族=騎士の多くがプロテスタントに改宗していることに危機感を抱いたジェームズ2世が常備軍を創設していたため軍備の強化を図る必要がありました。そうしてフランスの侵攻に対するプロシア諸侯の援軍派遣の約束を取りつけると同年9月にイギリス遠征計画を発表し、オランダとイギリスの議会も賛成したのです。一方、ジェームズ2世はカソリック偏重政策を撤回して国民に「オランダの侵略が迫っている」と訴えましたが後の祭りでした。
10月30日に2万人の部隊を乗せて出航しましたが嵐のため引き返し、11月11日の再出航で11月15日にグレートブリテン島西部のデヴォン海岸に上陸するとイギリス軍ではプロテスタントの兵士のカソリックの士官に対する不服従が横行し、プロテスタントの高級士官の寝返りが相次いだため戦線は崩壊してジェームズ2世は12月20日に王妃と王子をフランスに亡命させた翌日にケント州で捕らえられ、議会での助命決議を受けてウィレム3世の承諾の下、生涯2度目の亡命を経験することになりました。
ところが議会はジェームズ2世の長女であるメアリーさんを女王に即位させるつもりだったのですが、まだ国王ではなかったウィレム3世(イギリス国王の外孫ではあった)も王位を要求したため2人の王の共同統治として同時に即位することになったのです。この時、ウィレム3世はイギリスでのみ英語読みのジェイムズ3世に改名しています。
学校では「国王を処刑しなかったから名誉革命だ」と習いましたがイギリスでは立憲君主制が始まり、イギリス国教会が国教と定まったことを「名誉」としているようです。
  1. 2024/02/22(木) 17:05:50|
  2. 日記(暦)
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続・振り向けばイエスタディ743

自動販売機で缶コーヒーを買って部屋に戻った私は帰宅準備を始めた。普段は市ヶ谷地区から戻ると大した仕事はないがそれでも配布されている書類には目を通して必要な処理をして帰るので少しは残業になっている。本当は梢が待つ自宅に一刻も早く帰りたいのだがこの職場に籍を置いている以上、責任は果たさなければならない。それが今日は定時に帰宅できるのだ。金庫に仕舞う前に茶封筒を整理していても鼻歌が出てしまう。
「ただいま」「おかえりなさい」今日の帰宅が早いことは今も梢の精神と結ばれている赤い通信回線で伝わっていた。最近の帰宅の挨拶は額にキッスか、頬と頬をくっつけるスキンシップになっているが今日は何故か強く抱き締めて濃厚なディープ・キスになった。梢も私の胸の中で燃え上がっている炎に熱せられたように舌をからめてきた。
「あッ、起った」「ウン(何)・・・ウウウウウ(どうしたの)」私は突然、20数年間で1回だけ発生した股間の変化に困惑した言葉を梢の口の中で呟いた。当然、梢の返事は言葉にならない。それでも手を股間に持っていくと理解した。
「ベッドまで行くと萎んでしまうだろう。ここでやるぞ」「風呂、洗面台・・・」「その前に鍵を閉めよう」私の指示に梢は玄関の脇の洗面所を見回した。どうやらその気になったようだ。若い頃、私は梢のアパートに泊まって帰る通い同棲をしていたので清く正しく美しい関係ではない。おまけに梢とはオランダで寝ている時に唐突に男性自身が臨戦態勢になってそのまま性交渉を持ったことがある。あれで梢が生涯最後の女性になったと思っていたが思いがけず期日を更新できそうだ。
幸いなことに今日も作務衣を着ている。これが洋服であればベルトとホックを外し、チャックを下げて膝まで下ろしている間に儚い奇跡は終わってしまうかも知れない。その点、作務衣であれば下ろすだけだ。しかもズボンと違って圧迫感がない。
「鏡に顔がうつるから恥ずかしい」「俺はお前が感じてる顔を見ると興奮するぞ」結局、移動距離を最短にするため洗面台に梢の手をつかせて背後から挿入した。その瞬間、梢は高く顎を上げ、背筋を仰け反らせた。
考えてみると善通寺駐屯地の第15普通科連隊で勤務していた頃、富士演習の帰りに守山駐屯地に宿泊して佳織と入ったカーホテル(他に入ったことがない)もベッドの周りの壁はガラス張りになっていたがあれも男性の興奮を誘うためなのだろう。
「これは夫婦としての・・・ウンッ・・・アン」確かに梢が言う通りこれは夫婦になって最初の性交渉、夫婦の営みだ。それにしても梢の女性器も性交渉はオランダ以来なので刺激に敏感になっているようだ。若い頃にはアメリカ海兵隊のジュディ軍曹を相手に22回連続の肉体関係を達成して風景が白黒になる煩悩が完全に尽きた体験をした私だが今回の男性自身は固くなっただけで勃起と言えるような状態ではない。
ジュディ軍曹と言えば那覇基地の隊員クラブ・ブルーコラルで催された普天間基地との日米協同訓練の打ち上げで知り合った後、基地内を案内していて体育館に行くと妙に怪しい雰囲気になって2人とも性的に燃え上がり、体育館の裏のスカッシュ・コートの建物陰で一戦交えたことがある。あの時はジュディ軍曹の方が足が長かったので後背位は厳しかった。その点、梢の身体は私に丁度良いようにできている。
「あーあッ、萎んじまった」私の臨戦態勢は何も発射することなく時間と共に停戦になってしまった。梢は洗面台を覗き込むように下を向いたまま深く溜息をついた。それでも梢が言う通り2人とも諦めていた夫婦の営みを経験することができた。
私たちは事実婚まで至っていながら愛知の親族の凶気によって引き裂かれた。だから結婚願望は誰よりも強く切実だった。オランダに梢が同行して事実婚が再開したが正妻の座は佳織が保持していた。梢がその正妻に勝ったのはオランダでの夫婦の営みで生涯最後の女の座を奪ったことだった。そして正式に夫婦となった今、再び奇跡が起こった。
「貴方の身体って優しいのよね。時々奇跡を起こして私を幸せにしてくれる」「そうなんだよ。今回も原因が判らないから『また次に』と言う訳にはいかないんだ」本当は衛生学校の中村昌代准尉が勧めたバイアグラと言う非常手段もあるらしいが副作用が怖い。それでも用意してあった夕食のオカズは何故かレバーのスタミナ料理だった。
  1. 2024/02/22(木) 17:04:52|
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2月22日・日本で最初に撃墜した生田乃木次ポツダム少佐の命日

2002年の明日2月22日に第1次上海事変において日本の陸海軍で最初に敵機を撃墜した戦闘機パイロットの生田乃木次ポツダム少佐(敗戦時の階級)がそれからピッタリ70年後に亡くなりました。97歳でした。
生田ポツダム少佐は日露戦争中の明治38(1905)年2月に生まれたため1月2日に旅順要塞が降伏した興奮が冷めていなかった父親に「乃木次=乃木に続け」なる珍妙な名前を付けられました。しかし、旅順要塞攻城戦では金沢の第9師団も動員されて全滅に近い犠牲を被っているので福井県内に住んでいた生田家の地元でも出征して戦死・負傷した人がいたはずですからこの由来が周囲に好意的に受け容れられたかは疑問です。
実際、乃木次として成長すると陸軍士官学校ではなく海軍兵学校に52期生として入営しました。同期には昭和の陛下の実弟・高松宮宜仁親王や真珠湾空襲で「トラトラトラ=我、奇襲に成功せり」を打電した淵田美津雄大佐だけでなく爆装した零式艦上戦闘機による肉弾攻撃=神風(しんぷう)特別攻撃隊を立案・実行・推進した源田実、猪口力平、玉井浅一(敬称・階級・肩書不要)の死神3人組もいました。生田ポツダム少佐も飛行学生=操縦要員に指定されて5年間の教育を昭和4(1929)年に修了したのです。
昭和6(1931)年に航空母艦・加賀に戦闘機隊分隊長として配属されると翌年1月28日に第1次上海事変(日本人租界を国民党軍が攻撃したため警備に当たっていた海軍陸戦隊が応戦した)が勃発したため加賀も派遣されました。とは言え艦載機は加賀から地上の公大基地に展開して生田中尉の戦闘機隊の3式艦上戦闘機(イギリスのグロスター・ゲームコックを中島飛行機が改造した複葉機)は空襲する艦上爆撃機を護衛していました。そして昭和7(1932)年2月22日に攻撃してきた義勇軍として国民党軍に参戦していたアメリカの退役軍人のロバート・ショートさんのボーイング4Bと空中戦になって撃墜したのです。これは陸海軍を通じて初の戦果でした。
当然、日本国内ではマスコミが大々的に喧伝して生田ポツダム少佐は国民的英雄になりましたが出る杭は打たれる日本的精神風土は当時も変わらず、芸者上がりの女性との結婚を申請すると却下されるなど人事的に冷遇を受けるようになり(当時は山本権兵衛海軍大臣を始め芸者上がりの女性と結婚した海軍士官は珍しくなかった)、さらに腰を痛めたことも重なって昭和7(1932)年12月15日付で予備役に編入されました。それでも逓信省の航空官の職を斡旋されて航空機に携わり、昭和17(1942)年に再招集=現役復帰を命じられた時も籍だけを海軍に戻して航空官としての業務を継続して敗戦時にポツダム少佐になっています。
敗戦後は千葉県船橋市で「あけぼの福祉会」と言う保育園を開設して園長に就任すると「すべては愛」を園風として幼児を慈しみ(幼稚園ではないので幼児教育ではない)、園児や保護者から「お父さん先生」と呼ばれて慕われたそうです。
この転身は牧師になった淵田大佐以上に安堵させますが、昭和28(1953)年の参議院選挙に立候補して落選したのは余計でした。
  1. 2024/02/21(水) 15:07:24|
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続・振り向けばイエスタディ742

「モリヤ次席検事、お仕事ははかどりましたか」「いいや、溜め込み過ぎていたから下手に触ると雪崩を起こしそうだ」トイレに行ったついでに事務室に寄った私に中年の女性事務官が妙に親し気に声をかけてきた。毎日、出勤はしても市ヶ谷地区へ直行して夕方も帰宅前に寄るだけの私とは雑談する機会もなく人物評は人事書類の経歴と風の噂だけで定まっているはずだ。そうなると元自衛官、元国際刑事裁判所の次席検察官の堅物ならまだ良いが、3名殺害の元刑事被告人まで知られると無罪になっても危険人物だ。せめて本職の坊主と言う肩書までにしてもらいたい。
この女性事務官の愛想が好い態度が危険人物の機嫌を損ねないための予防線だとすれば困ってしまう。それでなくてもオランダに行っている間に日本では「ハラスメント」なる概念が横行・蔓延していて相手に不快感を与えることが凶悪犯罪のように扱われるようになっていた。しかし、不快感などは個人の勝手な好嫌の心理であって一方的に指弾されても責任は負えない。何にしても愛想には愛嬌で応えるしかない。
「今日は加倍派の裏金問題のニュースばかりでしたよ。国営放送も立野官房長官も加倍派の幹部だから関わっているんじゃあないかって言ってました」「国営放送は別のニュースはやってなかったのかい」「後はパレスチナ問題を少し・・・何か気になるニュースがありましたか」結局、視聴者窓口への電話は無駄だったようだ。
国営放送を含めてマスコミ各社が加倍派に向けて並べた砲列から一斉射撃を加え続ける一方で日本の領土が侵攻を受けている非常事態を隠蔽しているのは中国共産党の手先・A日新聞が主導するマスコミ戦略だろう。唯一、戦時売春婦=(いわゆる)従軍慰安婦問題でA日新聞に喧嘩を売った3K新聞系列のクジテレビが報道機関としての機能を破壊されたのも中国共産党の指令を受けた在日中国人たちの犯行だった。それも今回の加倍派潰しを徹底するための事前準備だったとすれば流石は中国と感心するしかない。
「貴女は知らないだろうけど今、九州と中国地方の日本海側に中国軍と韓国軍が侵攻しているんだ。すでに自衛隊と戦闘になって自衛官が100名以上殺されたらしい」「えーッ、嘘でしょう。そんな大ニュースをテレビが取り上げないはずないじゃあないですか」「だから怪しいんだ」陸上幕僚監部法務官室の二村由美事務官であれば一粒の水滴を落とせば波紋どころか水面を波立てて手当たり次第に噂を広めてくれるはずだが、この女性事務官もバブル入省の世代だが法務省と防衛庁(当時)では試験の難易度や身上調査、採用後の躾教育が違うので二村事務官のような軽薄さはない。
「中国漁船が奄美諸島の呂論島に上陸して島民を殺害した事件は知ってるね」「はい、あのニュースも自衛隊が占領していて現場撮影を認めないからってあまり詳しくは放送しませんでした」「興味があれば公判資料を見せて上げるけど非常に残酷な殺し方をしているから自衛隊が非公開にしなくてもテレビでは放送できないね」私の説明に女性事務官は表情を凍りつかせた。呂論島に上陸した中国軍は漁港から町役場に向かう道中で出会った島民を無差別に、然も小銃を連射して蜂の巣のように殺害した上、役場では庁舎の裏手に逃げた職員と島民を皆殺しにした遺骸に手榴弾のブービートラップを仕掛けて自衛官を道連れにしている。この女性事務官も裁判員に指定されれば同様の証拠写真を見ることになるが殺傷されている人数が違うはずだ。
「要するに今のマスコミの金銭スキャンダル報道は中曽根内閣が退陣した直後に今回と同じA日新聞がスクープしたリクルート事件と全く同じ手法だってことを知った上で見ないと政治的意図にはめられてしまうよ」「石田内閣も終わりですかね」「A日新聞としては広島を選挙区にして左に偏った地元マスコミの論調に過剰反応する石田政権は維持したいはずだ。A日新聞は同じ広島選出だった宮沢首相も国内外で失策を続けても必死に擁護していたから上手くやるはずだ。結局、今回のスキャンダルも加倍派を金まみれの利権集団に墜として加倍首相の政治能力に心酔して集まった所属議員たちに金銭目的の卑しい人間と言う落款、焼印を押すんだろう」私の時事阿呆談=解説に女性事務官は難しい顔をしたが声が聞こえていた男性職員たちは小声で何かを囁き合っていた。法務省の公務員労組もかなり偏っているのは敗戦後の法廷史が物語っている。
  1. 2024/02/21(水) 15:06:11|
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2月21日・奈良小1女児殺人事件・小林薫の死刑が執行された。

2004年11月17日に奈良市内で誘拐した小学1年生の女児を生駒郡三郷町内の自宅マンションで強姦未遂の上、殺害した小林薫死刑囚の吊首刑が2013年の明日2月21日に執行されました。事件当時は35歳でしたが44歳になっていました。
小林死刑囚は昭和43(1968)年に大阪市住吉区でプロパンガスなどの販売を営む家庭の3人兄弟の長男として生まれました。父親は躾に厳しく幼少期から体罰を加えることも珍しくありませんでしたが母親は優しく庇っていたようです。
そのためなのか幼稚園や小学校に入ると苛めの対象になって教室で1人過ごすようになり、小学校2、3年頃からは万引きを繰り返すようになりました。小学校4年の時に母親が下の弟を出産して亡くなって中学校に入ると原付バイクを盗んで乗り回すようになりました。その一方で家計を助けるために新聞配達のアルバイトを始めています。
ところが高校2年の頃、友人から「兄と幼い妹の性交渉」を描いたアダルトビデオを借りたことで女児を肉体関係・猥褻行為の対象とする変質的な指向に目覚めて小学生に抱きついて胸を揉み、スカートをまくり上げて性器に指を入れる猥褻行為を繰り返しました。
昭和62(1987)年に高校を卒業すると大阪市内の居酒屋チェーンと箕面市内の新聞配達店で働きましたが、1989年に箕面市内で当時5歳の女児の性器を弄んだことで強制猥褻罪と窃盗罪で逮捕されて懲役2年・執行猶予4年(保護観察付)の判決を受けました。その後はトラック運転手として働きながら成人女性と交際し始めましたが女児への執着を断つことができず、1991年に住吉区の公団住宅前で5歳の幼稚園児を抱きかかえて連れ去ろうとすると泣かれたためその場に押し倒して首を両手で絞めて殺人未遂犯として逮捕されました。そして強制猥褻致傷罪で懲役3年の実刑判決を受けた上に執行猶予も取り消されたため4年8ヶ月間の刑期になり、1995年の仮出所まで服役しました。
出所後は読売新聞・朝日新聞・産経新聞の販売店を転々としますが、飲酒による遅刻・無断欠勤、集金した新聞代の横領、顧客に無断の架空契約などの問題を起こして解雇されるようになりました。それでも成人女性とつき合って肉体関係を持つようになりましたが思うままに弄べる女児の魅力には勝てず強姦できる獲物を物色するようになりました。
そうして2004年11月17日水曜日の昼過ぎ頃、奈良市西部の富雄地区で好みのポッチャリ体形で単独行動の女児を見つけ、「車で送ってあげる」と声をかけて同乗させると自宅マンションに連れ込みました。自宅マンションで女児が算数の宿題を次々に解いていくのを見て「優等生だ。家に帰すと正確に証言される」と考えて殺害を決意し、その前に目的を遂げようと浴室に連れ込むと大声を出されたため浴槽に沈めて溺死させたのです。殺害後、屍姦と口腔性交を試みましたが死後硬直が始まっていて果たせず、夜になるのを待って遺骸を運び出すと生駒郡平群町内の道路の側溝内に遺棄したのです。
小林死刑囚は判決が確定した後のアンケートに「薬物注射による執行と3日目の告知を希望する」と回答したそうです。刑の執行を告知された時、小林死刑囚は「ふ、風呂とちゃうんか」と困惑したそうなので覚悟はできていなかったようです。
  1. 2024/02/20(火) 14:44:49|
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続・振り向けばイエスタディ741

鹿児島地方検察庁の呂論島に続いて札幌地方検察庁の北海道の公判記録を熟読すると流石に頭が疲れてしまった。本来は軍隊や自衛隊にとっては正当行為=公務である「戦闘」を1つ1つ刑法の違法性阻却事由(刑法上の犯罪から除外される事実)に該当するかを類別した上で警察官の武器使用の手順に則っているかを精査して違法と判断すれば改めて捜査に着手して収集した証拠を鑑識に回して起訴しているのだから担当者に同情するからこちらも慰労してもらいたいものだ。
「新潟地検はまだ調査に着手したばかりだな」大量の分厚い茶封筒の束の下には新潟地方検察庁と印刷されている薄い茶封筒が圧縮されていた。中の書類に目を通すと新潟県内での戦闘が終結した後に派遣された中央警務隊と東部方面隊管内の地区警務隊による捜査の対象になっている事案の説明が一括り、破壊された建築物の所有者=主に県と市、区が損害賠償を請求した民事訴訟の一覧表の2本立てだった。今後、マスコミと反戦弁護団が現地に入ると北海道と同様に自衛隊を犯罪者とする告発が追加されるのは間違いない。民事訴訟にも企業が参戦するはずだが石田政権の対応次第でこちらは回避できる。とは言え万事が対処療法的で後手後手に回っている現状では全く期待できない。
「長岡への弾道ミサイルもロシア軍を提訴するつもりらしいぞ。しかし、ミサイルの着弾を刑事告発しても殺人罪と傷害罪、航空法違反、爆発物取締罰則違反、現住構造物損壊罪、器物破損罪を適用するしかないだろう。どうせなら国際刑事裁判所にしてもらいたいがロシアは加盟していないからな」警務隊が新潟地方検察庁に提出した捜査対象の末尾に長岡市内への弾道ミサイルの着弾と爆発が列挙されているのを見つけて古巣を思い出してしまった。ロシアは1998年7月17日の国際連合全権外交使節会議での国際刑事裁判所の設置に関する採択文書に署名しながら批准しないことを公言している。それは資格もないのに私を検察官に押し込んでくれたアメリカも同様だ。
その国際刑事裁判所の検事部は私とリミッド次席検察官の退任でハリム・カサド・カマド・ハーン首席検察官の新体制に移行したが、私の後任のベルジティーン・アマル大佐はモンゴル陸軍の憲兵と言うこともあって砂漠地帯での行動に熟練していて中東の紛争では抜群の手腕を発揮しているようだ。さらに反中国の立場も隠すことなく国際紛争の裏で暗躍する現地中国系移民や企業の従業員にも厳しい監視の目を注いでいるらしい。
「長岡でやるんだったら敦賀の原発銀座の方こそ告発しなきゃあ片手落ちだ」そう思ったところで机の上のスマートホンがラベルのボレロを演奏し始めた。
私は若い頃、梢と一緒に国際通りの映画館の地下にあるリバイバル専門の劇場で見た「愛と哀しみのボレロ」にはまってしまい、レンタルビデオを借りると冒頭と最後で描かれている天才バレエダンサー・ジョルジュ・ドンの舞踊をダビングして完璧にマスターした。だからこうして聞いていると全身がリズムを取ってしまう。
「はい、モリヤですが」「鬼頭です。実は先ほどとは別の漁船団が下甑島の南端の手打集落に上陸しまして・・・陸上と航空の警備要員が現地に向かったようです」新潟方面を含めて私のところにある記録は過去の戦闘だがこの電話は現在進行形だ。これが市ヶ谷地区で事態を見聞していれば地図で場所を特定し、解説を受けて具体的に理解できるのだがここではかつて勤務した航空自衛隊の教育隊で一緒になった下甑島で勤務している同期が「絶海の孤島に住んでいる」とこぼした愚痴を知識とするしかない。
「随分と広範囲に分散していますね」「海保(海上保安庁)としては我が国のEEZ(排他的経済水域)内でなければ職務権限が及ばないと言うことで差し掛かるのを待って対処しようとしたのですが、先頭を押さえられれば後尾が回避するのは当残で、東シナ海上をチリチリバラバラに航行し始めて鹿屋の哨戒機も追尾に苦労している状況です」中国漁船の航続距離は知らないが黄海から出航すれば奄美諸島くらいは漁場に入るだろう。これに沖縄航空基地=那覇基地の第5航空群も対処しているのなら志織たち嘉手納基地のアメリカ海軍が中国海軍に備えていることになる。
「あッ、続報です。下甑の手打地区で陸自の派遣中隊が全滅しました」「中隊ってことは100人超だな」「は・・・」私の見解に鬼頭3佐は返事をしながら押し黙った。
  1. 2024/02/20(火) 14:43:42|
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2月19日・フェアレディZの育ての親・片山豊の命日

2015年の2月19日はアメリカでの市場開拓の成功によって初代アメリカ日産社長に就任して数少ない日本車の本格的スポーツカーとして絶対的な人気を獲得・維持しているフェアレディZの代名詞になっている片山豊さんの命日です。105歳でした。
片山さんは明治42(1909)年に静岡県周智郡喜多村、現在の浜松市北区春野町で生まれました。それにしても遠州と言う土地は本田技研の本田宗一郎社長やスズキ自動車の鈴木道雄さん、トヨタの前身の豊田自動織機の創業者・豊田佐吉さんなど自動車の申し子が生まれる特殊な風土があるのかも知れません。
慶応大学理財科(現在の経済学部)を卒業すると創業者が親戚だった日産自動車に入社しますが本人は設計部門を希望していたものの宣伝に配属され、国内に続き満州国に赴任しましたが敗戦で帰国しています。ところが帰国後は日本式のセールスマンの戸別訪問による売り込みではなく多くの大衆を呼び集める海外式の宣伝としてモーターショーの開催を提唱して昭和29(1954)年に全日本自動車シヨウ=現在の東京モーターショーを実現しました。ちなみに現在も使用されている東京モーターショーの古代ギリシャの青年が車輪を脇で引いているシンボル―マークはこの時、片山さんが考案しました。
その一方で軽自動車の原形と言われる350cc、2人乗りのフライング・フェザーを日産自動車の車体などを製造していた住江工業に製作させたことで個人的な趣味を子会社に命令した=公私混同と叱責されて一時期は退職を考えたそうです。
その影響なのか昭和35(1960)年にアメリカの市場開拓を命じられて赴任しましたが、日産本社の上層部の最大の都市で経済の中心・流行の発信地であるニューヨークを拠点とする方針に離反して西海岸のロサンゼルスで営業を開始したのです。しかし、この判断は大正解で当時はアメリカでの日本車の評価は必ずしも高くはなくニューヨークではアメリカの4大メーカーや先行するヨーロッパ企業の販売網が完成していたので新規参入は困難であり、逆に西海岸にはアジア系移民が多く体格的に巨大なアメリカ車よりも小振りな日本車を好んでいたので開拓するには最高の市場でした。
こうして片山さんは日本式のセールスマンになって自動車販売業者を戸別訪問して売り込み、その業績に面子を潰された日産本社の上層部はニューヨークへの進出を強行しようとしましたが失敗に終わり、片山さんが初代アメリカ日産社長に就任しました。
社員だけでなく多くの信奉者から「ミスターK」と呼ばれた片山さんの経営方針は「ディーラーがハッピーになって初めてメーカーがハッピーになれる」と言うもので日本式お客さま本位のきめ細かいサービスとアメリカ車に対抗するのではなく個性を売り込む営業で成果を上げ、特にフェアレディZ(アメリカでの通称はZーCar=ズィー・カー)は絶大な人気を集めて「ズィー・カーの父」と賞賛されてエンジニア以外では初めてアメリカのデトロイトにある自動車の殿堂に顕彰されました。
帰国後は2005年5月22日に故郷の春野町内で「K‘s ミーティング・イン・ハルノ」を開催して歴代フェアレディZを700台、観衆5000人を集めました。
  1. 2024/02/19(月) 15:36:20|
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続・振り向けばイエスタディ740

「森田の息子の審査は終わっていないようだな」別枠で届いていた森田謙作予備2曹の検察審査会への申し立ての書類の日付を見るとまだ半月前だ。検察審査会としては書類審査を終えて受理すれば所管地域の有権者から検察審査員11名を選んで通知した頃だ。検察審査員は申立人の事情説明と検察官が告訴しない理由を検討して決議するだけなので開廷中は拘束され、殺人罪や傷害致死罪、強盗致死傷罪、現住建造物等放火罪、身代金目的誘拐罪、児童虐待などの凶悪事件の悲惨な現場や解剖の写真なども見なければならない裁判員に比べれば負担は軽く、拒否されることは少ないと聞いている。
「確かに森田の息子の事案は警察官拳銃使用及び取扱い規範の手順を当てはめられると苦しいな」森田予備2曹の捜査資料と事情聴取の調書については旭川駐屯地の第119地区警務隊で熟読させてもらった後、江団別小中学校の捕虜収容所で面談した本人からも雑談的に話を聞くことができた。
即応予備自衛官として招集された森田予備2曹は市民が避難した稚内市内に配置されて侵入者を取り締まっていた。そこに「ロシア軍が参戦する」と言う情報が入ったため市内に展開している航空自衛隊の第3高射群の陣地の周囲に配備されて警備を強化した。この時点で森田予備3曹を含める即応予備自衛官たちの意識は「戦闘」に移行していた。さらに根室に展開していた第6高射群のミサイルが突如として爆発して全滅する非常事態が発生し、それが「武装工作員による破壊である可能性が高い」との警備情報が周知されたため上級部隊からの命令の下達を待つことなく実戦に出征した。そうでなければ任務は遂行できない。そしてそこに根室よりも少し遅れて武装工作員がやってきた。本来であれば時刻を合わせて2カ所同時に破壊したかったのだろうが根室半島の先端に続く一本道の途中にある学校の校庭や市営グランドに展開していた第6高射群と違い第3高射群は稚内市内に点在する学校を使っていたので「場所が特定できなかったのではないか」と言うのは第119地区警務隊の推理だ。しかし、第119地区警務隊はこの事案を戦闘と認識している中で捜査と事情聴取を実施しているのでこのまま検察審査会が起訴を決議すれば申立人の主張を認めて立件しなければならなくなる可能性がある。
「誰が考えても運転手と立ち話している同僚を後部座席から猟銃で発砲しようとしたのを見れば即座に銃撃するだろう。銃撃の前に制止しなかった、警告しなかった、威嚇射撃しなかった、足を狙わなかったと言うのは自衛官の犯罪を仕立て上げたい人間の妄言だ。それでも法治国家としては誠実に対応しなければならん」私は独り言で怒りをぶちまけながら自分の北キボールでの現地人3人の殺害を殺人事件として告発された裁判を思い出してしまった。その後、あの裁判と司法試験でお世話になった牧野弁護士には教え子の安川1尉が鈴鹿山脈を越える高圧電線の鉄塔に防護用の指向式地雷・クレイモアを設置しているのを鈴鹿スカイラインから銃撃して逃走した車両を路上で警戒していた隊員が射殺した事案を名古屋市の反戦弁護団が刑事告訴した裁判でも勝訴を勝ち取ってもらった。ただし、反戦弁護団は被告になった安川3曹を任務に参加させないことも目的なので当然のように控訴して2審の名古屋高等裁判所でも時間の浪費のような審理が続いている。新幹線で東京から名古屋まで通ってくれている拘束時間と身体的負担を思うとオランダで安川1尉から相談を受けて紹介したことに少し後悔が残る。
それにしても今回の武力衝突について自衛隊は部隊名や行動については原則として停戦まで秘匿しているはずだが反戦弁護士たちはどのような手段で戦闘の一場面単位の行為を分析して犯罪性を検証しているのだろうか。
戦闘報告については指揮系統を通じて統合幕僚監部に上がってくるが、その時には機密、極秘、秘の秘密区分が付けられて取り扱いは常軌を逸するほど厳格になる。問題はそれが配布区分として内局にもわたることだ。防衛秘密の保護を定める法令は自衛隊を対象にしていて内局は別枠になっている。そのため自社さ連立政権では対領空侵犯措置などの内部規則、悪夢の政権交代では内局の官僚が業務資料として保管していた国産の(アメリカ製は日米相互防衛援助協定等に伴う秘密保護法が内局にも適用される)レーダーや艦艇・戦闘機などの性能諸元が中国に流出した。疑わしきは・・・ノーコメント。
  1. 2024/02/19(月) 15:34:52|
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2月19日・「人生劇場」の作者・尾崎士郎の命日

昭和39(1964)年の明日2月19日は出身地の矢作川の下流の幡豆郡を舞台にした長編小説「人生劇場」を執筆した尾崎士郎さんの命日です。66歳でした。
野僧は嘉手納基地内在住のアラスカ人の彼女が珍しく那覇市まで出てきたので丁度上映していた映画「人生劇場」を見に行ったのですが、「故郷を舞台にした文学作品」と説明したにも関わらず中井貴恵さんが松方弘樹さんや風間杜夫さんに抱かれる性交シーンの連続で「これはポルノなの」と怒り心頭に達してしまい、仕方ないので「あの女性は娼婦で客を取っている場面をリアルに描いているんだ」と補足すると「貴方の故郷には売春街があるの」と怒りが心頭を突き抜けて天井まで達してしまいました。
確かに早逝した人気2枚目俳優のお嬢さんで清純派のイメージがあった中井さんが娼婦役でヌードを公開して濃厚な性交シーンを演じることは雑誌でも取り上げられていましたが正・続・続々編の原作の濡れ場はそれ程の頻度と長さではないので油断していました。それでも吉良で上演される忠臣蔵が名君だった吉良上野介義央さまが殺されるのではなく赤穂浪士が返り討ちにされる粗筋になっていることなどの地域の特色は紹介されていました。
そんな尾崎さんは明治31(1898)年に江戸時代から吉田藩(現在の豊橋市)と名古屋を海沿いに結ぶ街道沿いに商家が店を連ねる幡豆郡横須賀村でも煙草の製造や木綿の卸しなどで財を成した富豪の家に生まれました。尾崎さんが生まれた明治31(1898)年には地域の信用を集める名士が委託された郵便局を開業しましたが、公金を横領していたため尾崎さんが大学生だった時期に後を継いだ長兄が拳銃自死しています(映画でも三船敏郎さんが演じていた)。
旧制・愛知第2中学校(現在の岡崎高校)に在学中に「いかにして選挙権を拡張すべき乎」と言う政治論文を雑誌に投稿すると評者だった早稲田大学の教授の目に留まり勧誘されました。実際、早稲田大学政治学部に進学しましたが社会主義運動に関わって中退することになり、その後は共産党系の出版社に入って皇族に危害を加える刑法の大逆事件の真相究明に取り組みますが、やがて異流で右翼の国家社会主義に転向しました。
大正10(1921)年に雑誌の懸賞小説で大逆事件を題材にした「獄中より」が第2席で入選したことで本格的に作家になりました。そして昭和8(1933)年から都(みやこ)新聞に「人生劇場」の連載を始めると大ベストセラーになり、数多くの番外編を含めて昭和34(1959)年まで続きました。
国家社会主義に傾倒したため作家には珍しく右翼で戦前戦中は愛国心を強調し、戦意を煽るような小説や評論を連作しましたが敗戦後は戦争協力者として公職追放になったこともあり、歴史に主題を変更して「石田三成」「真田幸村」「塙団右衛門」などの武将や相撲好きだけに「雷電」の伝記小説を発表しています。中でも昭和27(1952)年の「吉良の仁吉」は清水の次郎長さんの兄弟分=盟友として映画にもなり、地元では「観光の目玉」として売り出した時期もありましたが(国道沿いに「仁吉の里」と言う看板が出ていた)最近は消えてしまったようです。
中井貴恵1983年公開「人生劇場」より(中井貴恵さん)
  1. 2024/02/18(日) 15:36:33|
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続・振り向けばイエスタディ739

「やっぱり札幌地裁の自衛隊の裁判は強制起訴が大半だな」石田首相の職務放棄を行政訴訟すると言う馬鹿な思案にも疲れてきたので公判記録の確認を再開した。すると前半の被告人は自衛隊の警務隊によって刑事告発されたロシア軍の生存者だったが後半は指定弁護士が検事を務める強制起訴ばかりになり、捜査も新聞社の事件記者が下調べした上で警察に通報して確認を受けていた。当初、自衛隊は隊員の所属部隊と階級・氏名は防衛秘密に当たるとしてマスコミからの照会に対する回答を拒否していたが、捕虜の待遇に関する1949年8月12日のジュネーブ条約=第3条約の17条で捕虜には氏名、階級、生年月日、上級軍の番号、連隊の番号、個人番号=認識番号を答える義務を課していることを指摘されたため個人が知られて刑事告発の手続きが始まった。
「要するに自衛隊の武器使用が刑法の違法性阻却事由の正当防衛と緊急避難に該当するかと警察官と同様の手順を踏んでいるかで告発してるんだな」札幌地方検察庁の「戦争法ではなく刑事犯罪として起訴する」と言う決定を受けて第119地区警務隊も立件に向けた捜査と鑑識を開始したようでロシア軍が射ち込んだ弾道ミサイルによって死傷した稚内分屯地のレーダー・オペレーターや軍用機の空襲による第3地対艦ミサイル連隊の隊員たちについても殺人や傷害事件として証拠を集めている。どうやら第2師団管内の駐屯地医務室=衛生隊だけでなく自衛隊札幌病院の医官も動員・派遣して検屍と負傷の診断を実施させたらしい。それは第121地区警務隊も同様だった。さらにオペレーターについては倒壊した建物と落下してきたレーダーの部品による圧死が多いが撤去する時に写真と動画を撮影しているので死因も特定できている。
「警務隊の力作に比べて新聞社の方は現場写真ばかりで証拠物件としては片手落ちだな」刑事訴訟法では事情聴取の書類も証拠物件に含まれるので写真でも問題はないが、自衛官がロシア兵を射殺した戦闘行動を殺人事件としている以上、致命傷を特定して加害した弾丸と発射した銃器も提示しなければならない。その点、網走市内で射殺されたロシア兵の遺骸はしばらく放置されていたが樋熊や狐、野犬、猛禽類などが喰い荒らすようになったため郊外に投棄するようになったらしい。そのため第2師団は奪還後にロシア兵捕虜に遺骸を収容させたが名札や階級章が付いた迷彩服は着替えているので首に掛けている識別票だけで身元を特定したようだ。それでも第119地区警務隊は血液型やDNA鑑定で何とかしたそうなので流石はプロの仕事だ。
「森田謙作予備3曹の殺人事案に関する審査申し立て・・・森田って森田の息子だろう」実際の戦場を見慣れているはずの私も壮絶な戦闘現場と自衛官とロシア兵の悲惨な遺骸の写真を大量に見て気分が悪くなってきたところで公判記録とは別の表題を記した茶封筒を見つけた。これは検察審査会に起訴を要求する審査申し立てだ。
「森田謙作予備3曹は・・・当時だな。今は予備2曹になったはずだ」書類を読み始めると本文の冒頭から腹が立った。森田予備2曹が稚内で第3高射群の展開地に侵入しようとした武装工作員を射殺した当時は予備3曹だった。当然、第119地区警務隊の事情聴取の記録もその階級で記載されたはずだ。申し立てた人間は自衛官の犯罪と強調したいだけなので誤りの有無を確認するような手間はかけなかったのだろう。
検察審査会は検察が公訴権を乱用して起訴すべき事案を不起訴とした時にこれを抑制する権能を有する組織だ。ただし、マスコミは「民意を反映できる」と持て囃して自分が批判報道している政治権力者への審査申し立てを扇動しているが、審査に当たるのは裁判員と同様に該当地区内に居住する有権者から無作為に選ばれた11名だ。裁判員制度が導入された時、マスコミはアメリカの陪審員制度のように一般国民も司法に参加できると喧伝したが、アメリカは行政の大統領と立法の連邦議会の議員を投票で選ぶように司法にも陪審員として参加することで3権分立の全てに直接関与する権利を確保しているのだ。その点、日本の司法は専門的で高度な法律の解釈が裁判の主眼なので素人の関与は混乱を招く弊害の方が大きいような気がする。特に検察審査会は裁判員制度のプロ3名と素人6名による合議制とは異なり弁護士の法律的助言を受けながら素人11人で決定するので弁護士の誘導やマスコミの報道に左右される危険性は否定できない。
  1. 2024/02/18(日) 15:35:28|
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2月19日・東亜同文書院の初代・3代院長・根津一の命日

昭和2(1927)年の2月19日は愛知大学の前身で「大アジア主義」を掲げた五摂家筆頭の近衛篤麿さんが上海に創設した東亜同文書院の初代と3代(2代の杉浦重剛さんが急逝してから20年間務めた)の所長を務めた根津一先生の命日です。66歳でした。余談ながら俳優の根津甚八さんは曾姪孫(そうてっそん=兄弟姉妹の曾孫)に当たります。
根津先生は万延元(1860)年に現在の山梨県山梨市で富豪の次男として生まれました。幼い頃から武術に励む一方で学問、特に四書五経などの漢籍古典を好んで読み耽っていたそうです。明治10(1877)年に西南戦争が勃発すると軍備の拡充を急ぐ明治政府が創設した兵からの昇任以外に下士官を養成する陸軍教導団に参加しました。ただし、西南戦争が9ヶ月間で終わったため出征はしませんでしたが首席で卒業しています。
続いて旧制度の陸軍士官学校砲兵科に入ると私的に勉強会を開いて時事問題などを議論し(1日3升飲む酒豪でもあった)、卒業後に広島鎮台に配属されると部下たちに「砲兵駆け足少尉」と仇名されるほど訓練に励み、頭脳と肉体が優れた指揮官になりました。
それが認められて陸軍大学校に入校しましたが、プロシア軍から派遣されたメッケル教官の「ドイツ至上主義」の言動を「日本蔑視」と受け取って講義中も衝突したため論旨退学になって少佐で予備役に編入されました。その反発から欧州を規範とする合理主義・技術偏重に陥って精神教育を怠っている陸軍の現状を批判する論文を発表し、それを採用するように東京と仙台の砲兵連隊での部隊教育と陸軍幼年学校や陸軍士官学校で四書五経などの漢籍を講義するアジア式精神教育に当たりました。
しかし、根津少佐は陸軍士官学校砲兵科の勉強会で意気投合した荒尾精大尉の中国潜入に同行することを希望して上海に創設した日清貿易研究所に予備役として参加しました。日清貿易研究所では調査活動と資金調達のため不在が多かった荒尾大尉に代わって実務を指揮する一方で清国の現状を解説した辞書「清国通商綜覧」を編纂・刊行しました。当時の中国に関する辞典は歴史と地理に限定されていたのでベストセラーになったようです。ちなみに後身の愛知大学も中国専門の辞典として中日大辞典を編纂・刊行しています。
その後、日清戦争によって日清貿易研究所が閉鎖されて帰国すると京都で隠遁生活を始めましたが間もなく陸軍の強い要請を受けて情報分析や作戦指導などで活躍しました。しかし、現役への復帰は固辞して京都での隠遁生活を再開したところに科学技術=軍事力では欧米の後れを取っても精神文化では比肩し得るとする「大アジア主義」を普及するための教育機関として東亜同文書院を創設した近衛さんが所長就任を要請したのです。
こうして初代所長に就任した根津先生は東亜同文書院を大学のように単に学問だけを教えるのではなく現在で言うビジネス・スクールのような「実用(学科としては政治、法律、商務、農工、文学などがあった)の知識を吸収する場である」と位置づけ、その根本を東洋的な道徳に置き、根津先生自身が講義を担当して「志を中国にもて」と説きました。
そんな東亜同文書院も敗戦後に教職員が上海で抑留されて中国共産党の洗脳教育を受けたことで後身の愛知大学の学風は正反対に向いてしまったようです
  1. 2024/02/17(土) 15:49:19|
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続・振り向けばイエスタディ738

鹿児島地方検察庁に電話をして私がコートジボワール内戦の裁判に敗訴した体験談を語った後、中国軍の弁護団が同じ法廷戦術を採ることを想定して証拠固めを進めるように助言した。すると電話に出ている若い次席検察官は想定外の楽屋ネタを説明した。
「大丈夫です。呂論島では警察官も殺害されているので鹿児島県警は組織ぐるみで立件と勝訴に向けて全力を投入しています」確かに公判記録に添付してあるリストには大量多数の証拠物件が羅列してあり、普通の犯罪捜査以上に気合いを入れて探索し、鑑定したことが判った。しかし、そんな鹿児島県警を以てしても双方が銃を無制限に乱射し合ったコートジボワールでは立件するだけの証拠固めは無理だろう。
「札幌でも裁判が進んでいるんだよな」鹿児島地方検察庁が自信満々なのを確認した私は次の茶封筒の束を机の上に広げた。今度は北海道に2方向から上陸したロシア軍との交戦を裁いている札幌地方検察庁だった。北海道では主に第2師団と第5旅団が任務を遂行したが、司法警察としての業務は第2師団が旭川駐屯地の第119地区警務隊、第5旅団は帯広駐屯地の第121地区警務隊が担当している。以前、梢を連れて北海道へ現地調査に赴いた時、両警務隊長の司法警察としての方針を聞いたが第119地区警務隊の隊長は「現在の武力行使が戦闘であることに疑いの余地はなく、戦闘であれば戦争法を適用しなければ国際社会に説明がつかない」と言って第2師団には降伏したロシア兵を捕虜として処遇させていた。一方、第121地区警務隊長の隊長は「防衛出動が発令されていない以上あくまでも平時であり、平時であれば刑事犯罪として処理するのが法理だ」と述べて第5旅団には捕獲したロシア兵を不法入国、武器と弾薬の違法携帯、爆発物取締罰則違反に始まり、住居への無断侵入、器物破損、窃盗から野生動物の狩猟による鳥獣保護管理法違反まで適用して第2師団の俘虜収容所と同様の施設を臨時拘置所に指定させて刑事被告人として収容させている。
「結局、121の隊長の意見の方が通ってしまったけど常識的に考えれば今やってるのは戦争だよな・・・」札幌地方検察庁の公判記録は告訴している違法行為が多岐にわたる上、同一人物の事案でも時間と場所がバラバラなので読んでいて判らなくなる。おまけに事情聴取には通訳が介在しているため日本語として少なからず変なところがある。何にしてもこれを読破・理解して論戦を展開している検事、弁護人とそれを聞いて正否を判定する判事の文書の理解力は「流石」と感嘆するしかない。
「防衛出動を命令しないことを石田首相の職務放棄として行政訴訟を起こせないかな」札幌地方検察庁の公判記録を半分読んだところで嫌になってきた私は頭をほぐすために毎度の馬鹿な考えを始めた。我が国の平和と独立を守るための公共の組織である自衛隊が実際の戦争を治安出動による警察権の行使で対処させられているのは石田首相が防衛出動を発令する職務を放棄していることが原因だ。その前に日本国憲法第9条2項が国の交戦権を認めていないことも大きいが憲法の規定の可否は裁判所の審理ではなく国会の改憲手続きの議論の中で明らかにされることだ。
「しかし、自衛隊法76条では総理大臣は『出動を命じることができる』と規定してるから『嫌だよ』と言う奴に強要することはできないな」これが「出動を命じなければならない」なら話は早いのだが自衛隊法が成立したのは敗戦から9年目だったので国民は東條英機内閣の閣議決定でアメリカ、イギリス、ついでに中国の国民党政権に宣戦布告した歴史を忘れておらず政治家に開戦する権限を与えることを許さなかったのだ。
「憲法73条の内閣の事務は使えないかな・・・1項の『法律を誠実に執行し、国務を総理すること』、2項の『外交関係を処理すること』、4項『法律の定める基準に従ひ(条文は『い』ではない)、官吏に関する事務を掌理すること』・・・2項は使えそうだ」私も一応は司法試験にマグレ当たりしているので日本国憲法は前文から全て丸暗記している。こうしてオランダで勤務している間に仕舞い忘れてしまった法律を引っ張り出しても石田首相に防衛出動の発令を強要する行政訴訟はできそうもない。戦時中に独裁者・東條英機首相が退陣したのは絶対防衛権と公言していたサイパン島の陥落で昭和天皇に不信感を突きつけられたからだ。今の天皇では無理だ。
  1. 2024/02/17(土) 15:47:20|
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2月17日・アパッチのジェロニモの命日

1909年の明日2月17日はかつてのアメリカン・インディアン(アメリカのインド人)、現在のネイティブ・アメリカ人(アメリカの原住民)の象徴的存在とされていたアパッチ(地域の各部族の総称)のジェロニモさんの命日です。79歳でした。
ただし、アパッチの酋長は他の部族との交渉に際しての代表であって支配権は有しておらず、ジェロニモさん本人は酋長だった祖父が他の部族の女性と結婚したため継承権を失っていました。またジェロニモと言う名前はメキシコ軍に付けられた仇名でスペイン語の「ヘルニモ(守護聖人・エウセビウス・ソポロニウス・ヒエロニムスの通称)」が英語に訛ったものでした。一方、アパッチでは日本の武士の諱(いみな)のように正式な名前は家族以外には秘する習慣があり、ジェロニモさんの正式な名前も不明です。
余談ながらスポーツ根性物語ではない野球漫画には四国の山奥を舞台にした「アパッチ野球軍」があり、ウルトラマンには怪獣酋長・ジェロニモンが登場しますが頭から背中と尾の先に生えた毒の羽を武器にしています。これが西部劇などで酋長にされたジェロニモさんのイメージだったのでしょう。
ジェロニモさんは1829年に現在のメキシコとの国境付近の山岳地帯に居住する部族に生まれ、長期間の不眠不休や山岳踏破、弓矢や槍の投擲などの戦闘員としての訓練で鍛えられながら成長するとメキシコに遠征して掠奪などの部族の生業に励みました。1848年に17歳で結婚しましたが、3人の子供を得ていた1858年にメキシコの州知事が「年に4回、軍の駐屯地で毛布、布地、トウモロコシの粉、蒸留酒を支給する」と言う和平を申し入れてきて酋長が応じたためジェロニモさんは家族総出で運搬作業に参加しました。ところがメキシコ人はアパッチの頭の皮に男性なら100ペソ、女性は50ペソ、子供は25ペソの賞金を掛けていてこの申し出も皆殺しにするための策略でした。そして歓待によって油断させて3日後に軍隊が野営地を包囲して実行に移したのです。
生き残ったジェロニモさんは死んでしまった妻子の遺品を野辺の送りにして弔うと復讐の鬼と化しました。各部族を率いてメキシコ人を襲撃すると銃弾雨飛の中、刃物を振りかざして戦い、その姿に畏怖の念を抱いたメキシコ兵が守護を願って「ヘルニモ」と叫んだことが名前の由来になったのです。
その後も山岳戦闘に長けたアパッチはメキシコ軍、アメリカ軍の征討を退け、西部の平原の騎馬戦で抵抗したスー族と共に白人社会に恐怖と憎悪を与えました。この時、都市部のマスコミは死者数を10倍、100倍にして報じて白人の敵意を扇動しています。
そんなジェロニモさんも1886年に南北戦争で武器と戦術が急速に発展したアメリカ軍の軍門に下ると陸軍の捕虜になり、民俗学者の研究材料にされる一方で20世紀になっていた1904年のセントルイス万国博覧会では「人間動物園」として見世物にされました。
晩年のジェロニモさんは生まれ故郷のメキシコ国境付近の山岳地帯に帰り、そこで死ぬことを願っていましたがアメリカ軍はあくまでも捕虜としてオクラホマ州の駐屯地内で死なせるとアメリカ軍式の装飾を施した墓を建てました。
  1. 2024/02/16(金) 15:13:19|
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続・振り向けばイエスタディ737

「やっぱり国営放送は受信料の未払いでの差し押さえを認める判例が出たから視聴者の反発を買うような番組を作ることに躊躇しなくなったんだな」私は国営放送ならA日新聞とテレビA日が主導する自民党加倍派を壊滅させるための世論誘導に対しても客観中立の立場を維持していると期待していたが大間違いだったのを思い知らされた。
実はオランダから帰国すると不在にしていた数年間で国営放送のニュースや報道番組だけでなく歴史解説やドラマまで極端に偏向しているのに愕然として経緯を調べたことがある。すると2010年に受診料を未払いにしている5名に対して東京地方裁判所が財産の差し押さえを認めたことが判った。これは国営放送に政治的未払い者への恫喝の道具を与えたに等しい。一方、国営放送は放送法で政治的に公正中立な報道を義務づけられているがドラマであれば敗戦後の日本映画のような政治的洗脳を意図する台詞を横行させてもフィクションと言い逃れできる。しばらく受信料の支払い拒否と視聴者窓口への電話以外の国営放送に対抗する手段を考えたが元々見ていないので何も浮かばなかった。
ようやく仕事を始めることにした私は執務室の公文書を保管するための小型金庫を開けて溜まっているA4版の茶封筒の束を取り出した。差し出しは今回の武力衝突に関する公判を担当している札幌と新潟、鹿児島の地方検察庁からだ。新潟市の中心街はロシア軍、実態は北朝鮮軍との市街戦で壊滅状態になったが新潟地方検察庁は信濃川を挟んだ別の地区にあるため被害を受けなかった。先日、梢を連れて現地調査に赴いた時にも顔を出したが建物は無事でも検察官を含む職員の大半は避難先から戻っていなかった。
「この手はコートジボワールの弁護団も使っていたな」公判記録は法廷の速記から転記しているため弁護側の発言も記載されている。その中でも呂論島の島民虐殺の殺人罪で訴追されている中国軍脱走兵の弁護団の法廷戦術は私には鮮明で強烈な記憶がある。
私が国際刑事裁判所に赴任して最初の海外出張になったコートジボワール内戦では旧宗主国のフランスによって失脚させられたローラン・クードゥー・バグボ大統領が反対派を大量虐殺した人道上の罪で告発されたが、弁護団は「内戦ではなく過激な政治闘争に過ぎない」と戦争犯罪の適用を拒否して一般の刑事事件として公判を進めた。その結果、我々検察側は銃撃によって殺害された被害者に致命傷を与えた銃弾を採取し、それを発射した銃器を特定しなければならなくなった。当然、そのようなことは不可能なので2019年1月15日に出た証拠不十分による無罪判決は法廷戦術の敗北だった。
しかし、現職自衛官だった私はこの武力衝突はフランスが主張するような権力者側の一方的な反対派の虐殺ではなく双方が武器を使って相手を殺傷した過剰な政治闘争であることを見抜きベンソーダ首席検察官に告訴を取り下げるか、告訴事由を変更するように意見具申した。結局、国際刑事裁判所の上層部が常任理事国で旧宗主国のフランスの強硬要求に抗し切れずに告発を決定した内部事情=実態を教えられた。
「問題はこの事案を刑事裁判にしたのが検察側だと言うことだ。弁護側はその土俵に上がったついでに決まり手を使わせてもらったことになる。さぞやほくそ笑んいるだろうな」この裁判の弁護団は佐世保基地へのアメリカ海軍の原子力艦の入港を拒否する訴訟や被爆者への補償の拡充を手掛けている人権派反戦弁護士が中心のようだ。
「検察側としては一般の刑事裁判並みに検屍を実施して死因を特定するのと同時に警察と自衛隊に弾丸を探させて線条痕(ライフマーク)を鑑定しなければ公判が維持できないよ。尤もコートジボワールとは銃の発射弾数の桁が数段違うからやってやれないことはないな」私は鹿児島地方検査庁の公判記録を読み終えると後で電話をかけて助言することにした。そうは言っても地方検察庁で勤務している検察官たちはマグレ当たりで紛れ込んだ私と違って実力で司法試験に合格して高い志を持って検察官に任官した正統派の優等生たちだ。助言するにも身の程を弁えなければならい。その時、机の隅に置いてあるスマートホンが鳴った。ラベルのボレロの呼び出しは第3者からだ。
「甑島群島で自衛隊が中国漁船を撃沈しました」電話の相手は鬼頭3佐だった。戦況を速報してくれることになったらしい。ただし、私はレーダーサイトがある下甑島なら知っているが甑島群島と言われても判らない。
  1. 2024/02/16(金) 15:11:25|
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陸上自衛隊の宗教ネタの政治問題化に異論で同調する。

年頭1月9日に年次休暇の時間休を取得して背広を着用した陸上幕僚副長の小林弘樹陸将が十数人の取り巻き=腰巾着を連れて靖国に参拝したことを浄土真宗の坊主やキリスト教徒を中心とする宗教平和団体が政治問題化しています。
普通、この手の団体が靖国参拝で問題視するのは戦前に固門徒(かたもんと=浄土真宗の教条主義者)やキリスト教徒が国家神道によって靖国や護国神社への参拝を強要された宗教上の被害者意識(参拝を軍国主義への加担とする罪の意識もあるらしい)や昭和53(1978)年10月17日に松平永芳宮司が強行したA級戦犯14名(神とは認めていないので「柱」は用いない)の合祀ですが、今回はさらに古い昭和49(1974)年に内務省・警察官僚出身の島田豊事務次官が出した「神祠、佛堂、その他宗教上の礼拝所に対して部隊参拝することは厳に戒むべきである」と言う通達に違反していると批判しました。確かに指揮官によって指揮される2名以上の隊員の集団を「部隊」と呼びますから陸上幕僚副長を指揮官とすれば十数名の部隊による参拝になりそうですが誰の入れ知恵なのか年次休暇を取得して背広を着用しているのでこの批判は的を外しているようです。
一方、この参拝の翌10日には2023年4月6日のヘリコプター墜落事故で隊長を失っている宮古警備隊も現任の隊長以下20名がこちらは制服着用の官用車移動で島内にある宮古神社に参拝したことが追加で問題化されました。とは言え部隊では年頭に隊長以下が近傍の神社や寺院に出かけて安全祈願するのは「当たり前田のクラッカー」になっています。それでも官用車を運行する名目は「車両操縦訓練」にしています。
何にしてもこのような時代錯誤で現実無視の批判を主張しても自衛官はおろか一般国民も冷めて白け切った気分になるだけで逆にこの硬直した偏狭さが「救い」を求める宗教本来の意義を損なわせる恐れがあります。しかし、野僧は自衛隊OBの宗教者として陸上幕僚副長の靖国と宮古警備隊の宮古神社の参拝は断じて許せません。靖国は現在でも戊辰戦争の幕府軍側の戦没者を賊徒と蔑んで合祀を拒否しており、小倉藩や奥羽越列藩同盟の末裔の隊員たちの上官である陸上幕僚副長が参拝するのは適切ではありません。また靖国は昭和25(1950)年10月17日に朝鮮戦争で戦死した海上警備隊の中谷城太郎隊員の合祀を拒否しただけでなく現在も「自衛官が海外派遣で戦死しても合祀しない」と公言していて最高指揮官の内閣総理大臣を含む防衛省・自衛隊に関与する政治屋や自衛官が参拝すればその偏向した宗教的態度を容認することになります。
また宮古島では琉球王国が成立する以前から御嶽(うたき)と呼ばれる石積みの祠が信仰を集めていて土着の神々はこちらに祀られています。若し宮古警備隊が守護者としてこの島に根を下ろす覚悟があるのなら明治以降の土着の信仰を否定する国家神道による同化政策(縄文人の青森県津軽地区には伊勢の末社の神明宮が乱立した)で設置された建造物に過ぎない宮古神社ではなく御嶽でノロやユタ(奄美・沖縄の巫女)による宗教儀礼で島の守護を祈願しなければなりません。あの墜落事故は犠牲者の地位や人数が尋常ではなく昨年も同様に宮古神社に参拝したのなら土着の神々のお怒りを畏れ慄くべきです。
  1. 2024/02/15(木) 16:10:18|
  2. 常々臭ッ(つねづねくさッ)
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続・振り向けばイエスタディ736

「いよいよ始まったんだね」「お耳に入りましたか。エラク早いですね」私は最高検察庁の自分の執務室に出勤すると鬼頭3佐の私物のスマートホンに電話した。情報源は我が愛娘をまもるために秘匿するがアメリカ海軍としてはPー8哨戒機を岩国基地に派遣している以上、時期は別として公式に報告するはずだ。
「AFNでは在日米軍のニュースとして流しているよ。そうなればCNNも取り上げるんじゃあないかな」これは出勤する列車の中で梢から届いたメールの情報だ。どうやらAFNでは東シナ海の九州沖への中国漁船団の侵攻ではなく三沢基地のPー8哨戒機を2機、岩国基地に派遣した事実だけを報じたようだ。
梢は横田基地の至近距離で生活している地の利を活かして家にいる間は在外アメリカ軍人と家族を対象にしているAFNを点けっ放しにしている。梢は若い頃にも私の影響で当時は極東限定だったFENを見ていたので懐かしさも味わっているのかも知れない。
「そうなるとモリヤ検事の立ち入りを制限する必要もなくなりますね」「ワシとしては中国に対する自衛隊の行動の合法性を確認したいから早急に解除してもらいたいな」「判りました。自分からの要望を含めて関係者に手配しましょう。よろしくお願いします」戦時態勢に入っている市ヶ谷地区の住人に私的な長電話をかけるのは控えてスマートホンを切った。鬼頭3佐としては呂論島に上陸した脱走兵と称する中国軍の軍人を刑事告訴した公判で反戦弁護士の団体が「犯罪の不成立」を画策する法廷戦術に出ているため今回は逆の立場になる自衛隊の合法性を確認させることは大歓迎なはずだ。
それにしても何回使っても板のようなスマートホンで会話するのには慣れることができない。やはり電話をするなら適度な曲線を帯びた受話器、電話をかけるなら「ジーコ、ジーコ」とダイヤル、呼び出しは「リーン、リーン」とベルでなければ違和感がつきまとう。以前、首里に帰った梢が私と暮らしていたアパートで使っていたダイヤル式の電話機を見つけて持ち帰ったのだが全ての利用者窓口が「プッシュボタンの何番を押せ」と言う案内に従わなければ受け付けなくなっているので使用を断念せざるを得なかった。
「はい、国営放送視聴者窓口、イグチです」続いて時計を確認すると国営放送の視聴者窓口に電話をかけた。この窓口はつながった直後に利用に必要とする電話料金を通告するが、その後も会話を録音していることの事細かな説明が続き、受付嬢が出る前に幾らかの電話料金が成立している。その料金が国営放送に入る訳ではないので抗議はしない。
「ニュースの報道内容に関する疑問ですが」「それはどの時間帯のニュースですか」「6時と7時です」本当は最近の国営放送を見ていると中学校での暗黒の3年間を思い出させるような頭ごなしの指導と逃げ場のない閉塞感が充満しているため時計代わりに点けているだけだった。それでもニュースの項目くらいは判る。
「今朝のニュースでは昨日のA日新聞の夕刊とテレビA日の夜の報道バラエティーがスクープした自民党加倍派の金銭スキャンダルの後追いに終始していましたが・・・」「それが国民にとって最大の関心事でしょう。ですから限られた時間内で少しでも多くの事実をお知らせしようと番組を編成しているんです」普段の受付嬢は相手が言い分を語り終わってから慎重に言葉を選んで回答するものだが今日は途中で遮るように反論した。これはこれまでに視聴者からの抗議や指摘が殺到している時に見られる態度だが今回は別のマスコミ式の政治的意図を感じ取った。
「それでは現在、東シナ海で中国の100隻を超える大漁船団が五島列島や九州西岸に向かって侵攻している非常事態よりも加倍派を叩き潰すことの方が重大だと言うんですね」「・・・それは本当なんですか」「在日アメリカ軍放送のニュースでは一部の部隊の行動が流れているよ」「少しお待ちいただいてもよろしいですか」受付嬢は私が返事をする前にマイクのスイッチを切り、どこかに確認したようだ。多分、他局の放送を視聴・確認しているモニター・ルームだろう。
「在日アメリカ軍のニュースでは海軍の哨戒機が岩国基地に派遣されたことだけだったようですが」「それは韓国軍に対処するんだ」「貴方は自衛隊の方ですか」「いいえ、違う国家公務員です」話が拙い方向に走り出したのでこちらから会話を切り上げた。
  1. 2024/02/15(木) 16:09:05|
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2月15日・真偽・虚実不明の殉教者・レステレポ司祭が戦死した。

1965年の明日2月15日にコロンビアでマルクス主義とカソリックを一体化させた民族解放闘争を提唱したカミロ・トーレス・レステレポ司祭が戦死しました。37歳でした。
レステレポ司祭は1929年にコロンビアの首都・ボゴタで医者の父とブルジョア階層出身の母の間に生まれましたが1937年に両親が離婚したため弟と一緒に母の下で暮らすことになりました。やがてボゴタの聖母学院に入学しましたが教員たちの授業の誤りを公然と批判したことで退学させられてリセオ・デ・セルバンテスの中等課程に転入して1946年に修了するとコロンビア国立大学の法学部に進学しました。ところがこの大学は1学期のみで中退してコンシアール神学校に編入して7年間学びました。
一般的にカソリックの神学校や修道院では俗社会から隔絶した環境で宗教儀礼の習熟と敬虔な信仰による神秘体験を尊重しますが、レステレポ学生は逆に神学校から「ラ・ビオレンシア=暴力の時代」と呼ばれる抗争に明け暮れるコロンビア社会を注視していました。
コロンビアでは1948年に保守政権によって自由党の大統領候補が暗殺されたことで発生した内戦の結果、1950年代に入って成立した超保守政権が国民の大半が信仰しているカソリックを取り込んで後ろ盾にすると全土でキューバ革命の影響を受けた共産主義ゲリラの徹底的な掃討作戦を開始しました。
レステレポ学生はそんな暗黒のコロンビア社会でカソリックに何ができて、何をするべきかを熟慮し続けてその真摯な思索を周囲には宗教的探求と理解されて1954年に25歳の若さで司祭に叙階されるとベルギーのルーヴェン・カトリック大学に留学して学究と思索を継続することになりました。
平和なベルギーでの学究生活を終えてコロンビアに帰ると1953年に起きたクーデターによって成立した軍事政権が農民を虐待した地主を恩赦にしたことで暴動が発生し、大統領に敬意を払わなかったと言う理由で多くの市民が迫害されるなど国家の混乱は末期状態に陥っていました。
それに対してレステレポ司祭はコロンビア国立大学で教壇に立つと「カソリックが迫害対象になっている共産主義ゲリラと一体化して軍事政権を打倒するべきだ」と学生たちを扇動したのです。このレステレポ司祭の主張はコロンビア政府とカソリック教会からは強烈な批判を浴び、逆に労働者階層や貧しい農民たちからは多大な支持を集めましたが、大学での妨害が公然化したため辞職して地下のゲリラ活動に身を投じました。
ここまで紹介するとレステレポ司祭が軍事独裁政権による市民迫害に抵抗した英雄であり、ゲリラ戦で戦死した殉教者のようですが、軍事政権が起こしたクーデターは内戦を引き起こした超保守政権を打倒するべく上流階級と下層民の双方からの要請を受けた救国行動であり、実際に社会の安定を回復して経済の立て直しに成功していたのです。しかし、キューバ革命の成功を中南米に拡大しようと画策したソビエト共産党によって大量に武器を供与された共産主義ゲリラが暗躍したためコロンビアは2016年の和平まで半世紀以上に渡る混乱の歴史を刻むことになりました。その意味では亡国の徒です。
  1. 2024/02/14(水) 15:06:29|
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