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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

野草山岳録

「野草山岳麓(野僧参学録)」(笑える話のみ。深い話、難しい話は内緒です)

○エピソード1.
奈良・三松寺の皆川英真老師(平成7年5月29日遷化)。
野僧が奈良のお寺巡りをしている時、薬師寺へ行く道を尋ねたお婆さんから「禅宗なら近くに三松寺さんがあるよ」と教えられて訪ねると、いつもはご多忙な老師が偶然おられて相見することが出来、「うちの坐禅会へ来なさい」と誘われて参禅するようになりました。
老師の口癖は「坐禅はエエもんやでェ」で、戦争から戻って奈良市内で唯一の曹洞宗寺院として「坐禅堂が欲しい」と発心され、その資金を作ろうと奈良、大阪、京都を托鉢して歩かれたそうです。
しかし、戦後すぐの誰しもまだ生活に余裕のない時代であり、アメリカのモダンな文化が流入して古臭い「佛教」などは見向きもされず、なかなか思うように資金は貯まらなかったそうです。
ところが吉野で托鉢している時、たまたま新聞記者に出会って取材を受け、そこで「奈良市内の自分の寺に坐禅堂を作りたい」と語ったことが記事になったのだそうです。
すると次に托鉢に出ると「新聞、読んだでェ」と托鉢してくれる人が増え、喜捨の額も上がって何とか資金が出来た。そして、建設会社に工事を発注しようすると、今度は建設会社の社長さんが「新聞、読みましたァ」とほとんど慈善事業扱い、ほぼ実費で工事を請け負ってくれて、予定外の鉄筋コンクリート三階建ての立派な坐禅堂が出来たのだそうです。
そんな三松寺・老師の下での坐禅ですから、小難しい理屈や建前、美意識のようなものは一切抜き。坐りに来られる方も年齢、職業、性別、住所、目的も色々、「本当に座禅はエエもんや」と心の底から愉しめる様な坐禅でした。 

○エピソード2.
三松寺に泊まりこんで参禅し、作務などもするようになったある日、斎座(昼食)にカレーライスが出ました。
三松寺では基本的には精進料理だったので「お寺でカレーライスですか?」と訊いたところ、老師は「お釈迦さんは、どこの国の人かね」と答えて、ニヤーッと笑われました。確かにお釈迦様はインドの方、インドと言えばカレーですわ。

○エピソード3.
三松寺の坐禅堂の正面、老師の席の真向かいの壁には大きな達摩大師の画があるのですが、その顔立ちが皆川老師にそっくりなんです。
そこである日、「いつも達摩様と向き合って坐っておられると顔まで似てくるんですね」と申しましたところ、老師は「あれは参禅している画家さんがワシをモデルに描いたんじゃ、達摩さんの方がワシに似ているんだ」と言ってハッハッハと大きな口をあけて笑われました。
言われてみれば、丸くて大きな顔に太い眉毛と大きな目、立派な鼻に口、老師の顔は達摩さん顔、達摩大師と一緒に坐っているような安心感がありました。

○エピソード4.
三松寺の名物納所さんだったB師。世間を少し斜めから見たような話題を、とぼけた口調で語り、坐禅後の茶話会も楽しいものでした。
ある日、B師が財布を公衆電話に置き忘れ、すぐに気がついて戻ったがもうなかったとぼやいていました。
「泥棒に布施したみたいですね」とベテランの参禅者がからかうとB師は、「それを言うなら、施餓鬼じゃな」と決めてくれました。

○エピソード5.
比叡山へ一週間の研修へ行きました。
その時、指導に当たられていた居士林の所長老師が余りに口汚く各宗派の御祖師様方を「挫折者」「恩知らず」呼ばわりするので腹にすえかねて、ミーティング後の質疑応答の時、わざと「人間には本来佛性があるのになぜ修行をするのですか?(道元禅師はこの疑念への解答が得られず比叡山を下りた)」と訊いてみました。
すると所長老師は「君は道元と同じ事を訊くなァ」と言いながら「人間は鏡のようなものだ。常に塵や埃を払い、磨かなければいけないのだ」と答えられたのです。
そこで野僧が「元より明鏡無くば、何が塵や埃をひくのか」と再挙を求めたところ、いきなり「お前は生意気だ」と逆切れされました。
後から、野僧が得度を受けた僧侶だと告白して意気投合し、色々ご教示をいただきましたが、中でも「禅僧はやたらに彼岸の世界を語りたがる。しかし、人間は究極(=悟り)のことを知らなくても、右左、進む止まるを間違わなければ生きていけるものだ」との言葉は、野僧が済度衆生を考える上での指針になりました。

○エピソード6.奈良・薬師寺は野僧が参禅していた三松寺に近く、よく遊びに行きました(作務衣に絡子をかけて行くと入場無料で済む)。
ある日、薬師寺で高田好胤管長猊下の法話の会があり、法話終了後に参加者を案内して境内を歩かれる管長猊下に会いました。
直立不動で合掌している野僧に気がついた猊下も合掌を返して下さいました。猊下からは温和で誠実のオーラが出ていました。
参加者を山門まで送られた後、猊下はスタスタと野僧に歩み寄られ、にこやかに微笑みながら「三松寺様からですか?方丈様には佛教会でお世話になっています」と声をかけてこられました(野僧如きに、極めて丁寧な言葉遣いでした)。
野僧は丁度その頃、猊下の著書を読んでいたので、いつもの調子で「管長様は、以前は般若心経、観音経の本を書かれて、最近では父母恩重経の御本を書かれておられますが・・・」と質問をしました。
すると「皆さんに解り易いお経は何かなと思って書いているんですが、心経も観音経もまだ難しいようで父母恩重経(「ぶもおんちょうけい」と発音された)に行き着きましたのや」と答えて下さいました。
そこでさらに「管長様が信仰されている御薬師様とは、ご本尊様(=佛像)ですか、それとも存在としての佛様ですか?」と不躾な質問をすると、猊下は嫌な顔もせず穏やかな笑顔で、「難しいことを訊きなはるな。わしには生れた時から御薬師様は御本尊様のことやったし、うちの御本尊様は千年もここに居られるんやからナ」野僧はその時、「歴史」「伝統」の持つ力、重みと言うものを覚りました。
若い学僧は、「猊下の住まいは箪笥一棹に卓袱台一つぐらいしか家具はなく、余りにも質素な清貧生活に耐えられなくて奥さんが出て行ってしまい、娘さんが身の回りの世話をしておられる」と心からの尊敬を込めて言っていました。(高田好胤猊下 平成十年六月二十二日遷化)
高田好胤猊下
○エピソード7.薬師寺の境内での役寮さんとの立ち話。
「薬師寺・法相宗が説かれる唯識論とはどんなものですか」と初老のお坊さんに問うたところ、お坊さんは「禅僧さん、地球が太陽を回っているのか、太陽が地球を回っているのか、どっちだね」と逆に訊いてこられました。
野僧が「天文学的には地動説、地球が太陽を回っていると言っていますね」と答えると、「わしゃ、地面が動いてお天道さんを回っているところを見たことがないよ」と一句。佛教の天動説、これ如何に。

○エピソード8.奈良の尼寺・興福院での尼僧様との立ち話。
尼僧様が山内を案内して下さいました。山内は清掃がよく行き届いているだけでなく、処々に生花が飾られていて尼寺らしい気配りもされていました。
2人で庭に下りると草も綺麗に摘まれていましたが、花や蕾がついた草だけが残してあることに気がつきました。そんな野僧の視線、表情に気がつかれた尼僧様は「いらぬ分別、恥ずかしゅうございます」とはにかんで微笑まれました。
草を摘むのも行であれば、花の有無で区別することは花を愛でる「我」を持ち込むことになる。尼僧様は、その不徹底を「恥ずかしい」と言われたのでしょう。
野僧は、柄にもなく胸をときめかせました。

○エピソード9.奈良の東大寺では滅多にお坊さんのお姿は見かけませんでしたが、ある日、法衣に網代笠姿で拝観に行くと偶然、大佛殿へ続く回廊で、年配のお坊様に会えました。野僧はここぞとばかりに幾つかの質問をしました。
野僧「華厳経とはどんな御経なんですか?」
御坊「貴方とワシは別々の人間で、今の今まで全く違う道を歩んで来た。そして、今ここで出会って話をして、影響し合った。これから別れてまた違う道を歩んで行くんだが、それは出会う前の貴方とワシではない。こんな話じゃな」
野僧は後年、西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」と言う解説を知り、この例え話が実に言い得て妙なのが、よく判りました。さらに質問は続きました。
野僧「東大寺の戒壇院と比叡山の戒壇院ではどう違うのですか?」
御坊「うち(東大寺)のは釋尊から脈々と継承された正統な佛戒だが、比叡山のは『大乗菩薩戒』と言う日本独自のもので、法脈としては佛戒とは言えない」
野僧「私らは正式な佛弟子ではないと言うことになりますね」
御坊「うちか大宰府(の戒壇院)で受戒をすれば大丈夫だがな」
このことは後年、スリランカを旅した時に、現地のお坊さんから、「日本人のお坊さんは佛弟子ではないから合掌で礼拝はしない(野僧は個人的に合掌で挨拶してもらっていましたが)」と言われ、この問題を再認識、実感しました。

○エピソード10.覚王山日泰寺の前川睦生老師。曹洞宗における聲明の第一人者で、初対面から何故か馬が合い、色々な雑談の中で多くを学び、深めさせていただきました。それもその筈で師僧と前川老師の父上は大親友だったのだそうです。
ある時、前川老師がいつものように前置きなしでこう言いました。
「貴僧、聖徳太子をどう思う?」「はあ、日本の佛教には大恩人でしょうね」こんな時、前川老師は「本当にそうかい?」と野僧の顔を覗き込みます。
「彼は、あの頃、日本の皇太子だったんだ、今の皇太子が海外ではキリスト教の方がトレンドだからって言って洗礼を受けちまったらどう思うね?」「それは許せませんな」言われてみればそうだと、納得しながら相槌を打つ野僧。
「昔、お札が聖徳太子だった時、よく神道が反対しなかったなァと不思議だったよ」「神道の人には皇室のことに文句は言えないでしょう、あちらには皇室が御本尊ですから」「佛教は悟らにゃ佛じゃあないが、あちらは皇室に生まれれば神様なんだな」「そりゃ、そうですね」万事この調子でした。

○エピソード11.「阪神大震災」が起きて前川老師も宗教ボランティアとして現地へ行き炊き出しをされてきました。しかし、その感想は意外なものでした。
「私はツクヅク嫌になったよ、宗教者も一般の人もやっていることに何の変りも無く、材料を刻み、煮炊きして、配膳をする。食べる人も美味しい不味い、これが好き嫌いと言う反応しかないんだ」野僧は、何が問題なのかが判らず、それを問いました。
「やはり禅僧が作る料理なら清らかに作り、美しく配膳をし、有り難く食べてもらいたいじゃあないか。肉や魚を調理するにしても命への感謝を込めて、調理前に材料に手を合わせるぐらいのことがあっても好いじゃあないか」野僧は納得しました。
「単なる人数合わせであんなことをやりに行くくらいなら、私は僧堂で坐禅を組んでいるよ。雑用を任せられるほど暇じゃあないんだ」最後は前川老師らしくオチをつけて下さいました。

○エピソード12.「オウム事件」が起きた後、野僧は前川老師と雑談をしました。
野僧「オウムヘ行った連中も道を求めてあのような集団へ迷い込んでしまったのだから、伝統宗教側も彼らのような人たちを引き寄せる方法を考えるべきではないですか?」
前川老師「門は開けておくが、こちらからオイデオイデと出ていって招き入れるようなことはしたくないね。修行は菩提心がなければやり遂げられないだろう」
野僧「でも、彼等は世の中にこれほどお寺があっても伝統宗教ではなく、オウムなんて怪しげなモノを選んだ。伝統宗教側にも何かが足りないんじゃあないですか?」
前川老師「それはあくまでも縁の問題だよ」
野僧「情報過多の現代には、悪質な情報に負けないくらい強く良質な情報を投げ与えないと、混迷は深まるばかりですよ」
前川老師「(暫く黙って考えられ)確かに時代が違う、良い研究テーマをもらった」
後年、野僧は元オウム信者と知り合ったのですが、「何故、伝統宗教の門を叩かなかったのか?」と問いました。すると彼は「お寺もお坊さんも、僕には風景に過ぎませんでした」と答えました。それにしても一緒に坐った彼の坐禅は見事でした。

○エピソード13.「最近の若い者」談義から、前川老師がいきなり「日本にも徴兵制を復活させて、身心を鍛えないといけない」と危ない発言をされました。
それに野僧が「タイでは徴兵か、出家修行のどちらかを選択するそうですよ。自分の宗派の本山で修行させるように義務付けたらどうですか?」と反論すると、前川老師は「うーん、悪くはないけどなァ・・・」と珍しく答えを濁していました。

○エピソード14.ある冬、前川老師が当時、青森県は津軽半島の日本海側の寒村に住んでいた野僧の家に訪ねて来られました。
当時(現在も)、我が家では暖房器具は使用しておらず、家の中で佛前の水が凍り、坐禅を組んでいると鼻息で襟や胸に霜が降りるような状態でしたが、野僧は、いつも僧堂に居られる老師だけに「寒さは平気だろう」と勝手に思い込んで何の暖房の準備もしていませんでした。
ところが空港へ迎えに行った車の中で前川老師は「流石に青森は寒いね、僕は寒さには弱いんだ」と一言。しかし、すでに手遅れで、結局、我が家に滞在された三日間、家の中でダウンジャケットに手袋、毛糸の帽子を着用されて、唯一使えた暖房器具である炬燵に入りっぱなしでした。
この時、前川老師は大本山総持寺の維那に本山安居未経験者としては異例の就任をされることが決まっていました。以前から野僧に「僕は、本山には近づかない」と言っていた事を取り消しに、筋を通しに来られたのでした。これ以上は内緒です。
前川睦生老師
○エピソード15.野僧が、發心寺へ安居している時、前川老師が本山から聲明の講師として来山されました。朝、野僧が一人で山門前を掃除していると前川老師が朝の空気を吸いに出てこられて、久しぶりに言葉を交わしました。
「貴方には一番似合わない所に居たんでビックリしましたよ」。これは、まさに野僧が悩んでいたことを見抜いた言葉でした。

○エピソード16.博多の明光寺僧堂の水島博道堂長老師(平成七年四月十七日遷化)。旧陸軍の戦闘機・隼のパイロットにして特攻隊の生き残り。
ある日、私を相手に駒澤大学在学中に学徒動員で陸軍航空隊へ入り、大陸で活躍し
た思い出話を写真なども見せながら一刻されました。
そこで野僧が「人生の最も美しい時に、国のために命を捧げられた特攻隊員は幸せで
すね」と申したところ、堂長老師は野僧の顔をジッと見つめ、「お前にもそれがわかる
か・・・」とうなづかれました。
「老師は戦場で死生観を見極められたのですか?」との野僧の問いに、「飛行機なんてものは一度飛んだら後は降りるか落ちるかだ。飛行機任せ風任せ、死生観なんて大それたものなんかはない」と答えてニヤリと笑われました。あとは内緒です。

○エピソード17.明光寺僧堂は、福岡空港、博多港、JR博多駅、福岡都市高速、国道3号線に囲まれていて、夜に坐禅堂で坐禅を組んでいても、飛行機に船、新幹線にトラックから暴走族の音まで響いてきます。
そこで堂長老師に「道元禅師は(普勧坐禅儀で)坐禅には静室がよいと仰っておられますが」と申した所、「うちの僧堂ではな、世間に背を向けて黙って坐っているような坊主は造っておらんのだ」との答えをいただきました。
実際、明光寺僧堂では、通常の作務のほかに、進退作法、読経、鳴らしモノの教育と練習から檀務、戒名のつけ方、お寺の経理、茶道や華道まで住職になるのに必要なことが身につくようにカリキュラム化されていました(まさに住職養成学校)。
水島博道老師
○エピソード18.東郁雄老師。発心寺の原田雪渓老師とともに見性(悟り)を得た方とされています。野僧が大本山総持寺へ参禅して相見しました。
ある日、総持寺の参禅者寮で東老師と一緒にいたところ、若い女性の参禅者から「どの色の御袈裟(絡子)の人が偉いのですか?」と訊かれました。
すると東老師は「修行に励んでいる黒い袈裟の坊さんが偉い」と答えられました。
それからは一緒にいても参禅者は、東老師を飛び越して野僧に合掌してくるようになってしまったのです。
それでも東老師は何も言わないで、野僧に挨拶に応えさせていましたが。

○エピソード19.総持寺でウイーンの大学で「禅」を教えているという臨済宗系の先生の講話がありました。
先生は公案の理屈での解釈を散々並べ立てた後、「本当に禅は難しい。皆さんも探求を」と話を締め括ったのですが、そこで野僧が「禅なんて、腹が空いたら飯を食い、飯を食ったら器を洗うだけのこと。この何が難しいのですか?」と質問すると、先生は絶句、隣りで東老師は「我が意を得たり」と満面の笑みでうなづいていました。
それから東老師に独参をさせていただくようになりました。

○エピソード20、東老師の坐禅をしている姿は、坐っているのか眠っているのか(それも熟睡)判らないほど、気持ちよさそうでした。
野僧は遠目にその寝顔(?)を眺めながら、東老師の「悟りの恍惚」とは「夢見心地のことなのかなァ」と思っていましたが、巡行(点検係)の古参雲水が参禅者に警策を入れると、チャンと目を開けて確認をしていましたから眠ってはいませんでした。
この東老師のどこか惚けた風情には、いつもホッとさせられました。
南択然老師
東老師をモデルにした「ファンシィダンス」の南択然老師

○エピソード21.ある冬、広島の少林窟坐禅道場に参禅した時、井上希道老師にここぞとばかりに色々質問攻めにしたところ、「お前のような大理屈を弄する奴は、黙って坐っておけ」と言われました。
粥座(朝食)、朝課(お経)の後、隙間風の冷たい坐禅堂に坐ったのですが、希道老師はどこかに出かけてしまって、野僧は独りほったらかしにされてずっと坐っていました。
夕方、戻って来られた希道老師が「飯は食べたか?」と問われたので、野僧が「いいえ」と答えたところいきなりポカっと頭に拳骨。そしてニヤッと笑って「お前のような古典的な坐禅をやる奴は・・・」と呆れた後、「まったく畑で、思いがけず掘り当てた骨董品みたいな奴だな」と評して下さいました。ここから先は内緒ですな。

○エピソード22.洞門では山口県きっての名刹にして守護大名・大内氏の菩提寺でもある禅昌寺の町田宗夫老師(平成二十一年十一月十五日遷化)。
町田老師は、宗務総長を務められておられた時に出席した世界宗教者会議での「日本にはもう差別は存在しない」発言が、部落問題を宗門に持ち込むきっかけになってしまい、功罪半ばする評価を受けておられました。当然、詳しいことは内緒です。
ある時、老師の御子息=後嗣さんが急な病で亡くなりました。遺されたのはまだ中学生だったお孫さん一人。法類、末寺のお坊さんたちは、「我こそは」と陰で騒ぎ出したそうです。野僧は、部外者なので素直に、心からのお悔やみを申し上げたところ、もう齢八十を過ぎておられた老師は、「また死ねなくなったワイ、まさに憎まれっ子世に憚るじゃノウ」と言って遠くを見るような目をされました。

○エピソード23.青森県きっての古刹である深浦町の真言宗醍醐寺派の圓覚寺。
野僧は「理趣経」と「陀羅尼」について学びに行ったのですが、詳しいことは内緒です。
ある時、方丈様から「醍醐寺派の修行が一番厳しく、高野山がその次、東寺は楽だ」と話されたので野僧が「私も山形出身の坊主らしく、死んだら即身佛(ミイラ)になりたいから、真言宗でも修行してみたいですな」と冗談を申し上げたところ、方丈様は真顔で「時々、永平寺から来たと言う者も居るが山中での修行について来られない様だ。何より今では真言宗の寺の出の者しか受け入れておらんよ」と言われました。
その理由を問うと「最近では、チョッと高野山などに来ては、『真言宗で修行をした』と語る新興宗教が多くてな、真言宗は偽者を作るくらいなら滅びた方がいいと決めたんだよ」と答えられました。

○エピソード24.福井県小浜の發心寺僧堂の原田雪渓堂長老師。禅、坐禅に関する著書多数。東郁雄老師と同じく見性(悟り)の人として、信奉者からは当に「生き佛」のように崇拝されているようです。
ある摂心(一週間の坐禅修行)の時、野僧が独参して、「山の中や海岸で坐禅を組んでいると佛様の御姿を現して下さいます」と申したところ、堂長老師は「そんなのは幻だ、有り得ない」と即座に否定されました。
それに対して野僧が「坐禅を組んで、『そんなものはない』と言う常識みたいなものを削り取ると精神が剥き出しになって、霊的なものを感知出来るようになるのでは」と申したところ、「必然性がない」とさらに否定され、「それを信じるのなら發心寺の坐禅とは違う、ご祈祷をやる寺へでも行った方が良い」と言われました。
単純かつ馬鹿正直な野僧は、これを適性判断、進路指導だと思い、「曹洞宗で祈祷をやる大雄山最乗寺僧堂(箱根)か可睡斎僧堂(袋井)へ行った方がいいのですか?」と訊いた所、堂長老師は「そんな中途半端なところではなく比叡山か高野山へ行け」と言って呆れ顔をされました。
しかし、野僧はやはり、自分の中の「(修験、即身佛の本場である)山形人」の血が、御佛の姿を見せてくれていると、確信しております。

○エピソード25.ある摂心の時、野僧の隣の単(席)の雲水が居眠りをしていました。それも前に倒れこみ、頭を畳につけて、鼾までかいていました。すると、たまたま点検に周って来られた堂長老師は、彼の背中に警策を入れ、起きたところで肩にも二つ入れました。
彼の坐相(姿勢)を直されると堂長老師は、「一人だけに警策を入れたのでは可哀想だ」と思ったのか、いきなり野僧にも一つ。アリガタイコトデシタ。

○エピソード26.野僧は、長年茶道をやっていて、發心寺の雲水の中では唯一正式なお点前が出来たおかげで、作務の空き時間などにお茶が好きな堂長老師に呼ばれて、「茶飲み友達」をすることもありました。
堂長老師は「うちの雲水さんには、お茶がわかる人が居らんからなァ」と言いながら、嬉しそうにお茶を点て、野僧も独参や提唱などでは聞けない雑談を楽しむことが出来ました。
ところが新到(新人)の野僧が、一人で堂長老師に呼ばれることに焼き餅を焼いた古参たちは「茶人が禅僧に憧れるのは解るが、禅僧が茶人に憧れるものではありません」と皮肉な言葉を投げかけてきました(そうかなァ?)。

○エピソード27.野僧が、方丈でいつものようにお茶をいただいていると、その日は戦争中の思い出話になりました。
堂長老師は戦争中に海軍軍属としてトラック島におられたそうです。ある時、米軍の攻撃に同僚とともに壕の中に伏せている時、機銃掃射を受けられたそうです。
機銃弾が通り過ぎた後、両隣の同僚に声をかけたが返事はなく、老師だけを飛び越して戦死していた。
「なぜ、自分だけが生き残ったのか」その自問自答の中で、「菩提心」と言う生涯の命題を心に抱えたのだと仰っておられました。

○エピソード28.「道元未悟」。これは当時の堂長・原田祖岳老師が、永平寺で提唱された公案で、これを文字面通りに受け止めた宗門で「高祖様を否定、冒涜している」と非難が沸き起こり、發心寺が「異端」扱いされるきっかけになりました。
「自分が悟っていないから悟りを受けられない」「生涯未完のことだ」などの理屈から「道元には佛の三十二相(佛の身体的特徴)が備わっていない」との神懸りな答えまで。野僧も上山してすぐに古参からこの公案をかけられました。
野僧の答えは内緒ですが古参は、「公案慣れしてるな、臨済くずれか?」と要注意人物にされてしまいました。
無名&貫君さん
左から野僧、ドイツ人、中国人修行僧

○エピソード29.浜松市・臨済宗方広寺派本山での某老師との茶飲み話。
「箱根の大雄山、袋井の可睡斎、豊川稲荷に方広寺(奥山半僧坊)様と、東海道沿いには天狗さんを祀ってご祈祷をもっぱらにする禅寺が多いですね」と野僧が訊くと、「本当ですな。この辺は天狗が多いのかね」と笑って同意されました。
「方広寺様では、禅宗の修行とご祈祷をどう結び付けておられるのですか?」野僧の問いに一言、「佛が佛に祈るって言うことじゃな。佛になる修行をしている者は、それだけ身近って言うことだよ」と明快な答えに發心寺以来の疑念に得心が出来ました。

○エピソード30.茶飲み話の続き。
「臨済宗には、沢山の派が有りますが、どんな違いがあるんですか?」
「確かにうち(臨済宗)は、おたく(曹洞宗)と違って二十一派なんて言われるほどバラバラに分かれているけど、結局は白隠禅師の宗派なんだよ」
「白隠禅師は、妙心寺派でしたよね」
「白隠禅師は修行者には公案、衆生には和讃を残されて、臨済宗を再生と言うより完成して下さったんだね」。昔は兎も角、今では完成度はうち(臨済宗)の方が上といいたそうでしたが、ここから先は内緒です。

○エピソード31.ある3月。野僧は当時中学生だった愚息を連れて京都へ日帰り旅行へ行きました。
妙心寺から北野天満宮、金閣寺、大徳寺、下賀茂神社、知恩院、清水寺、三十三間堂、東・西意本願寺、東寺までを徒歩で回った超ハードスケジュールだったのですが、大徳寺の某塔頭でのこと。たまたま方丈様が受付に居られました。
「あんたのお寺はどこやねん」「寺には住んでいません、借家に御本尊さんを祀って修行道場にしています」。「ほなら、どうやって食ってるのや?」「托鉢ですわ」。
すると方丈様は「エエナ、そんなやり方もあったんか」と本当に羨ましいそうな声で「エエナ、エエナ」を連発されました。
「あんた、わしと代わらんか」と今度は真顔で訊いてこられたので、「こんなややっこしいもん要りません」と答えると、「そんなら、あんたのボウをくれ」といきなり、愚息の手をつかみました。
すると愚息は一言、「僕は(岐阜県美濃加茂市)伊深の正眼寺へ行きたいです」。
それを聞いて方丈様は感心しながら「あそこ、うち(臨済宗)では一番厳しいんやで、うちの小僧になって(臨済宗立の)花園高校へ行きなさい」。
後に、この話は実現しかかったのですが・・・。

○エピソード32.そのまま方丈様自らの案内で塔頭内を回りましたが、方丈様の描かれた書画を展示した部屋で「わしの作品はエエやろ、買えば高いんやで」と自慢そうに言われたので「この画、エエですな讃を入れさせてもらいましょうか」と答えましたら、「あんた、解ってるな」と言われ、顔を見合わせて二人で大笑いしました。
方丈様には、自分の(拙い?)書画を高い金を出して買う「世間」が滑稽なのであり、それに野僧が讃を入れて「完成品」にすれば台無しになる。
結局、世間が買うのは書画の良し悪しではなく、大徳寺でも有数の(沢庵禅師ゆかりの)塔頭の住職である自分の名前であると言う虚構を突いた野僧に「我が意を得たり」と快哉に笑われたのです。
尾関宗園老師と
○エピソード33.三重県名張市徳連院の井村正信老師(平成十九年二月二日遷化)
野僧は一時期、縁あってこの寺の春秋彼岸とお盆の檀経を手伝いました。
若い納所さんたちは、この明治生まれの老師の厳しさ、口やかましさを嫌って、逃げ回ってばかりいました。しかし、明治生まれの老師に仕えてきた野僧には、老師の御指導はシミジミ懐かしく、お会いするのが嬉しくて彼岸やお盆を心待ちにしていました。
お盆の寺法要の後、納所さんが導師(住職)が撒いた御洗米を箒で掃き集めて、塵取りで取ろうした時、老師が「そのまま外に掃き出せ」と言われました。
日頃、何事にもキチンとすることを躾けられる老師からの意外な言葉に唖然としている皆に向って老師は「掃き出せば餓鬼が喰う」とつけ加えられました。

○エピソード34.ある年の春彼岸の帰り、野僧は津市一身田にある浄土真宗高田派の本山・専修寺を訪ねました。
目的は、高田派だけに伝わっている訓読の正信念佛偈を聴いてみたかったことと、高田派の傑僧・村田静照和上について伺いたかったことでした。
専修寺は、京都の東西本願寺と比べても遜色がないほど境内は広大、伽藍も豪壮でしたが、どこか気どってスマシタ雰囲気がある東西本願寺に比べると、参拝者や掃除している奉仕の信者さんたちはワイワイと賑やかで活気がありました。
訓読の正信偈について、老齢の役寮老師に伺ってみましたが、「三重県の山奥で口伝されているだけで、本山でも聞いたことがない」と言うことでした。
役寮老師はそう言いながら、「最近は、高田派の僧侶も京都の本願寺の学校へ入るから、宗派としての特色はなくなった」と嘆いていました。
また村田静照和上については、御自房を教えていただき訪ねてみましたが(徒歩では遠かった)、想像していたよりも小さなお寺で、残念ながら住職はお留守でした。

○エピソード35.托鉢で弁当を食べるのに寄った岡崎市内の浄土宗のお寺で、本尊様をお参りさせていただいての住職老師との話。
野僧「お釈迦様は法界定印を結ばれますが、阿弥陀様は阿弥陀定印なんですよね」
住職「これはねェ、救う相手で親指と人差し指の組み合わせが違うんだよ」
野僧「どう違うんですか?」
住職「清く正しく生きてきた人は親指と人差し指、並みなら親指と中指、修行が足
りん者には親指と薬指かな」
野僧「その指でつまんで極楽へ引き上げて下さるんですね」
住職「いや、西方浄土は遠いから、その指でピンッと弾き飛ばすんだよ、ハハハ・・・」
野僧「極楽浄土まで、三途の川も、閻魔大王も飛び越えてヒューですね」
住職「そう言うことだね。阿弥陀様にとっては人間を救うなんて簡単なことなんだよ。そうでなくては戦争や災害で大勢が死んだら間に合わん」
野僧は素人と言うことで一応は納得しておきましたが、しかし、浄土三部経の観無量寿経では、人間を生き方によって九段階に分けて、死後の迎え方について詳細、具体的に説かれていますので、住職さんの話は何処まで本当、本気なのか判りません。
(一般信者向けの法話のネタだったのかも知れません)

○エピソード36.時宗の教化部長老師。時宗の「念佛」について問うたのですが、独特の節回しがあり、とても難しいです(未だにマスター出来ない).
「聖(一遍上人)には如一と言う永平寺から来られた御弟子さんが居られましてね、後継者と言われていたのですけど、残念なことに先に亡くなられてしまって。あそこ(道元禅師)までいくと、相通じる境地があるんですかね」。野僧は同感しました。

○エピソード37.静岡県内の某日蓮宗大寺院の住職老師との茶飲み話。
「御聖人様は、はじめは『比叡山の天台宗を守る』と頑張っておられて、山内で批判されると今度は『比叡山はなってない』と激しく批判される。
『南無阿弥陀佛の念佛などは佛教ではない』と批判しておきながら、『南無妙法蓮華経』とお題目を始められる。
密教のご祈祷を否定しておきながら、今では法華修験なんてことをやっておられる、日蓮宗さんは私の理解を越えていますワ」
こんな野僧の失礼な言葉に老師は、ガッハッハッハと豪快に笑いながら、「はじめに『衆生を救う』と言う願があるんだよ。衆生が救われるのなら何でもありじゃ。
今風に言えばお客さんのニーズ第一だな。細かいことは気にしない」そう言うとまたガッハッハッハと大口を空けて笑われました。

○エピソード38.野僧は、もう20年以上、福岡県春日市のバプテスト教会のペック牧師について聖書を学んでいます。
ある時、ペック夫妻が山口県の野僧の家に遊びに来ました。家に入り、お祀りしてある御本尊様を見て第一声。「何故、佛像を飾りますか?貴方は佛に会うと言う。本物に会えるのなら偶像を飾る必要はないでしょう」ペック師は、常にカミに会い、対話していると言っているだけに鋭い指摘です。
「それはメモリアル(紀念)ですワ。御釈迦様が悟りを得られた姿を紀念しているんですよ」「そんな『物』が必要なのか?」「恋人がいても彼女との思い出の写真を飾るようなものですよ」「フ―ン」ペック師は、不満そうな顔をしながら黙りました。
ちなみにペック師の教会には、十字架も祭壇もなく、信者の集会や聖書勉強会などは、ピアノを置いた広めのリビングでやっています。
翌朝、朝課(朝のお経)を了えた私に一言。「何故、祈りますか?佛に会えるなら普通に話せば良い」これも朝から厳しい追及でした。
「カソリックも儀式(だけ)の宗教だが、それと同じですか?」「挨拶にもマナーがあるでしょう、そんなものですワ」「フ―ン」とペック師はまた不満そうな顔をしていました。

○エピソード39.ペック師を友人の神職に合わせましたが、野僧はキリスト教界が佛教以上に神道を敵視していることをまだ知りませんでした。
ペック師は初対面の友人にいきなり法論を吹っかけました。
ペック「貴方も神に仕えるなら、正しい神を信じた方がいい」
友人「確かに八百万の神々の中には色々な神がおられますが、私たちは神を善悪、好悪で区別はしません」
友人にはキリスト教の神も八百万の神々の御一人と言うことでした。
ペック「人間が正しい神を信じなければ罰が与えられます」
友人「本当に荒振る神の仕業は、怖ろしいですなァ」
最後まで話は噛み合わなかったですが、それでよかったようです。
ペック師夫妻
○エピソード40. ペック師は突然野僧に「牧師になりなさい」と言って来ました。
「貴方の話を聞いていると、貴方が出会っているのはカミです。貴方は勇気を持ってそれをカミだと認め、イエスキリストだけを信じると告白するべきです」。
ペック師は日頃から、日本人の牧師は聖書の勉強はしているが、霊的な体験がなく、信仰心が浅いと嘆いていました。ならば「異教徒でも信仰心に迷いのない野僧の方が」と言う所でしょうか。
しかし、これは「悟り無き禅僧」「御佛の実在を確信していない御祈祷坊主」「来世を信じ切っていない念佛僧」など、他人事ではないですな。

○エピソード41.スペイン人神父の「国際常識」と言うテーマの講話に参加しました。
在日数十年、日本文化の研究をライフワークにしていると言うだけに、話は宗教から風俗、芸術まで多岐にわたり、その博識と分析の鋭さに聴講者は彼の過激な「キリスト教絶対主義」「西高東低文化論」にも誰一人、質問も反論も出来ませんでした。
やがて彼はこう言い放ちました。「ヨーロッパの芸術は宇宙を描いているが、日本では自然しか描いてはいない。それは日本人の理解が目に見える世界に限られているからだ」。それには野僧も聞き捨てならず、思わず手を挙げました。
「私が、宇宙を描いて上げましょう」「貴方が?。ここで?」彼は呆気にとられた顔で訊き返してきました。
私は、壇上に上がるとチョークで黒板に大きく「○(円相)」を描きました。
それを見て彼は即座に一言、「確かに、これは宇宙だ」。しかし、それを見た日本人の方が意味が解らず、「あれは何なんだ?」と後で訊いて来ました(説明しても駄目でした)。

○エピソード42.青森は津軽地方の五所川原神明宮の宮司さんとの茶飲み話。
野僧が「津軽には神明宮が多いですが、これは縄文人の(アラハバキ神などの)土着の神々をアマテラス(伊勢・神宮)が支配するためですか」と申しますと、宮司さんは急に真顔になられて、「その話は、皇室がわが国を統治され賜うことへの否定にもつながるから危険です」と答えられました。
その後は、戦後の日本人の社会観、家族観、労働観にキリスト教が与えている影響について、キリスト教と日本人の伝統的な考え方を比較しながら、熱っぽく語り合いました(キリスト教では自然は人間が神から与えられたもの、日本では人間も自然界の一部。キリスト教では労働は失楽園の結果の苦役、日本では神につながる神事など)。
「キリスト教の神様も、八百万の神様のお一人になって、十一月(神無月)には出雲へお来しいただけるようになればいいんですがね」との野僧のジョークに「(室町時代に)宣教師にそう言った神主が居たそうだが、実際そうなってますよ」と答えました。
確かに、クリスマスも初詣も葬式も結婚式もお宮参りも日本の宗教行事であります。

○エピソード42、話しは古事記へ。
「始まりの国生みから木花之佐久夜毘売や日本武尊の話しにしても、日本の神様ってエッチですよね」と野僧が申しますと、宮司さんも困ったような顔で「生命賛美、自然体と言って欲しですな」と答えられました。
野僧が「巫女さんの舞を見ていると、あれは神様に追われて逃げ惑う乙女の姿のようで、巫女さんも捧げ物ですかね?」と申しましたら、「あれは神憑りのなごりといわれていますが、それは新説ですな」と愉快そうに笑われました。

○エピソード43.浜松市でお寺の管理人をしていた頃、隣に黒住教の教会があり、宮司さんと茶飲み友達になって、よく行き来していました。
宮司さんの日課は、朝日を浴びながら二時間のウォ―キング、戻ると境内で日光浴をしながら、既に七十歳は過ぎていたにも関わらず縄跳びを三十分間+日向ぼっこ。
「あと倍(百五十歳まで)は生きる」が口癖でしたが、黒住教とは本来そんな(=太陽崇拝の)宗教なんだそうです。

○エピソード44.三重県名張市のお寺の盆、彼岸をを手伝っていた時、なぜか大峯山の修験者の先達さんのお宅へもお勤めに伺っていました。
「あんたのお経は、本当にあの世へ通じそうやナ」お勤めを了えた野僧に、お茶をすすめながら、先達さんは感心したような顔で褒めてくれました。
「佛が佛に祈ってますからな」私の答えに、大きくうなづかれながら一言。
「わしは山で死んでくるんや。それであの世と通じるようになる。座ってるだけでそれが出来るなんて流石やな」。「山で、神さんや佛さんに会いますか?」野僧の問いに、先達さんは「ウン、会う」と大きくうなづかれました。

○エピソード45、青森県津軽に住んだ時に、出会ったイタコさん。
イタコは七月の恐山の大祭以外は普段、東北の町々、村々に住んでいて、村人の「これを知っているのは死んだ祖母さんだけだ」、「息子が悪くて困る、祖父さんに叱ってもらうべェ」などと言う相談に乗りながら口寄せをして、当たれば「流石は祖父さんだァ」、外れても「やっぱり祖母さんも知らないのか」と言うことになるのだそうです。
これは沖縄のユタ、奄美のノロと同様、霊魂と共存する土着信仰であって、決してオカルトや迷信の類ではありません。
  1. 2012/05/01(火) 10:27:05|
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