1566(永禄9)年の明日11月19日に月山富田城が落ちて尼子氏が軍門に下り、毛利氏は中国の覇者になりました。
月山富田城跡は島根県安来市にあって航空自衛隊美保基地から近く、足立美術館へ行ったついでに何度か見たことがありますが、海抜197メートルの小高い円錐形の山の天辺が平らで「天空の城」と呼ばれたのもうなづけました(ラピュタならぬトミタですが)。
この城は古くから山陰地方の要衝であり、特に尼子経久が大規模な改修を加えてからは中国地方の制覇を目指す大内氏に立ちはだかる難攻不落の砦となりました。
実際、大内義隆は1541(天文10)年11月13日に尼子経久が死んだことで動揺した出雲、安芸、備後、岩見の国衆の求めに応じて毛利氏など配下の豪族を従えて大規模な攻撃を仕掛けましたが苦戦を強いられ、かえって国衆の寝返りによって命からがら周防へ逃げ帰っています。
その後、大内義隆公を裏切った陶氏を討って領域を受け継いだ毛利元就公が石見銀山を巡る対立から1556(弘治2)年に月山富田城を攻めますが、忍原崩れと呼ばれる惨敗を喫しています。しかし、ここからが粘り腰の元就公で1559(永禄2)年に再度、攻撃を敢行したものの降露坂の戦いで敗退します。ところが1561(永禄3)年に尼子晴久が死んで若い義久が跡を継ぐと3人の息子たちを引き連れて再々度の攻撃を仕掛けます。
この戦いは長期戦になり、尼子十旗と呼ばれる支城を落としながら城に立て籠る尼子氏を追い詰めますが、この途中、九州北部の領地に大友宗麟が侵入したとの知らせを受けて嫡男・隆元を派遣し、足利将軍の仲介で和睦させたものの、1564(永禄6)年に隆元は急死し、元就公は「弔い合戦」として士気を鼓舞しました。
その後、城を完全に攻囲して籠城戦に持ち込みますが、石見銀山の炭鉱夫たちに坑道を掘らせて井戸の水を遮断させたり、自腹を切って食料を調達した重臣・宇山久兼を「毛利に内通している裏切り者」と言う噂を城内に流して殺させるなど「謀略の毛利」の名に恥じぬ知謀を駆使しています。
こうして月山富田城は落城し、元就公は二男の吉川元春に与え、さらに羽柴秀吉の天下になった1600(慶長5)年からは堀尾吉晴が入城しますが、1611(慶長16)年に松江城に移ったことで月山富田城の役割は終わりました。
尼子氏と言えば主君よりも有名な家臣がいます。それは月山富田城の攻防戦でも活躍した山中鹿之助ですが、落城後も毛利氏をつけ狙い、そんな旅の途中、峠から夜空に上がった満月に向かって「我に七難八苦を与えたまえ」と祈った故事などは講壇や歴史文庫に悲劇のヒーローとして描かれていました。
- 2013/11/18(月) 10:11:09|
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