1894(明治27)年の明日11月27日に松下電器産業社長の松下幸之助さんが誕生しました。
松下さんは現在の和歌山市禰宜の小地主の3男だったのですが、5歳の時に父が米相場で失敗したため和歌山市内に出て下駄屋を始めます。しかし、元々が小地主の坊ちゃん育ちであったため商才に欠け、尋常小学校4年の時には店を畳んで松下さんも学校を中退することになりました。そして9歳で火鉢店に丁稚奉公し、その後、自転車店に移ったのですが、そこで次第に商才を発揮し始めました。
例えば客に煙草を買いに使い走りさせられることを逆手にとり、まとめ買いをして単価を下げ、差額でもうけるようになったのですが、そのことで丁稚仲間の妬みを買い、周囲にも利益を分配する必要性など人間を用いる手法も学んだそうです。
ある日、大阪で路面電車を見て感動し、電気関係の仕事をしたいと志すようになり、16歳で大阪電燈(関西電力)に入社して7年間勤務しますが、在職中にそれまで素人では交換が困難だった電灯をソケット式に改良するアイディアなどを発案していたようです。
18歳で関西商工学校夜間部予科に入学し、22歳の時には大阪電燈を退職して大阪市内の自宅に妻や義弟、友人2名と共に電灯のソケットを製造販売する工場を立ち上げました。しかし、売れ行きは思わしくなく友人2名は去りますが、電気会社から扇風機の部品の大量受注で窮地を脱したそうです。ちなみにこの時の義弟・井植歳男さんは三洋電器の創業者です。
その後、アタッチメントプラグや2灯用差し込みプラグを開発して、経営が軌道にのった・・・と言うのは小学生の時に読んだ伝記からの知識ですが、松下さんがある日、街を歩いていると家の中から電気プラグの差し込む順番争いをする姉弟の声が聞こえ、2股ソケットを考案したエピソードで「アイディアの切っ掛けはどこにでもあるが気付くのは才能だ」と言う教訓でまとめていました。
中学・高校・大学に入って本格的な経営者の伝記を読むようになると、ナショナルと言う商標登録は戦前の1925年に行っていたことや大阪府門真市に本社・工場を移転する計画に対して「大阪市内から鬼門に当たる」と反対する意見が多かったのに対して、日本地図を広げ「大阪から見れば日本列島の東半分は鬼門だ」と言って計画を決定したエピソードなどが紹介されていました。
敗戦後、軍事産業へ参入(何と飛行機を制作した)したことの責任を問われ公職追放処分を受けますが、この頃、同じく丁稚奉公から身を起こした石田梅岩に倣って人間形成に取り組むようになりphp研究所を創設します。一方、敗戦後の経営危機にも社内留保の資金を取り崩してまで人員整理を避けたことに感動した労働組合の嘆願もあり、1947年には社長に復帰しています。
しかし、現在のパナソニックはナショナルの登録商標を廃止し、大幅な人員整理を繰り広げ、さらに来日した鄧小平が大阪まで松下さんを訪ねて要望した中国の工場も反日デモで破壊の限りを尽くされ、昔日の面影は失われました。何よりも松下政経塾出身の民主党の政治屋たちの体たらくには松下さんも草葉の陰で嘆いておられることでしょう。
松下さんは大阪万博の時、松下館を竹林で囲んだ純和風の外観にし、館内には表・裏・武者小路の千家三家の茶道を楽しめる茶室を設け、さらに未来への伝言として巨大なタイムカプセルを製作・展示しました。目先の利益確保に走るパナソニックの経営陣にはこの高邁な精神をもう一度噛み締めてもらいたいものです。
- 2013/11/26(火) 10:00:31|
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