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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

第14回月刊「宗教」講座・一休さん特集

11月21日は臨済宗大徳寺48世・一休宗純禅師の命日でした。
一休禅師は室町時代の始めの頃、京都で生まれましたが、父は南北朝統一後の最初の天皇である後小松帝、母は南北朝が争っていた時、南朝方だった公家の娘だったそうです。南北朝の和睦が成ったと言うものの実際には足利幕府の武力を後ろ盾にした北朝の軍門に南朝が下ったのであり、敗者側にあった者の娘が勝利者のトップに仕え、その寵愛を受けることは許される訳がありませんでした。
そのため懐妊した母は御所を離れて京都の西・嵯峨野の民家に身を隠し、そこで一休を生み、人知れず育てました。そして六歳の時、安国寺で出家したのです。
その時の僧名は「周建」で、一休と言うのは25歳の時に受けた道号であり、テレビなどで人気を博している可愛らしい子供の「一休さん」は存在しません。
子供の頃の一休さん、元へ周建さんと言えば頓知咄ですが、有名なところでは「屏風の虎の咄」「このはしわたるべからずの咄」「息が臭い咄」「水飴の毒の咄」などがありますが、これらの頓知咄は禅の教えを子供時代の一休さんに託し、判り易く説いたものとされています。
たとえば「屏風の虎の咄」ですが、ある日、少年一休(便宜上の呼称)は三代将軍・足利義満に呼ばれ、「屏風の虎が逃げ出さないように縛ってくれ」と言われました。
すると一休は鉢巻きに襷掛け、荒縄を手に持って身構えながら「さァ、縛るから虎を追い出して下さい」と言い放ちました。
これは「臨機」=機に臨むと言う禅の精神を表しています。現在、大変人気がある宗教家・ひろさちやさんは「これは虎が屏風から逃げ出してから縛ればいいのだから、屏風の虎を縛るなんて言う無駄なことは必要ないことを教えている」と解説していますが、これでは曹洞宗の黙照禅であって臨済宗の「悟る」禅とは気風が違います。
「虎を縛ろう」と真剣味をもって屏風の虎に立ち向かった少年一休が発した「虎を追い出してくれ」の一言で、義満以下の大人たちは自分たちが脇役、端役に過ぎない
いことを思い知らされたのです。禅語に曰く「随所作主 立処皆真」。いかなる舞台でも主人公とは最も真剣な演じ手のことです。
次に「このはしわたるべからずの咄」です。ある日、意地悪な施主家に呼ばれた住職と少年一休は、施主の屋敷の前を流れる小川に架かっている橋の手前の立て看板に困惑します。そこには「このはしわたるべからず」と書いてありました。
ところが一休は意に介さぬように堂々と橋を渡り、屋敷の前で見ていた施主は「看板が見えぬか」と文句を言いました。それに一休は「端は渡っていない。真ん中を通った」と答えました。これは「不立文字(ふりゅうもんじ)」です。
言葉即ち知識とは本来、人間がより良く生きるための道具に過ぎません。しかし、現代人は逆に知識に縛り付けられて、知識を通してしか物事を理解しようとしません。
人の心やこの世の大きさが知識などで語り尽くせるほど小さなものではないことを忘れ、自分が持つちっぽけな知識の中に無理やりはめ込もうとする。
「このはしわたるべからず」と言われれば、もう目の前の橋に歩み出せない。そして、橋と端が、どちらも「はし」であることに気づかされた時、我々は「言葉・知識」と言う道具の無力さを痛感しなければならないのです。
続いて「息が臭い咄」」です。ある夜、少年一休が灯明を口で吹き消したのを見咎めた和尚が「人の息は生臭いので佛さまが嫌がられる」と注意しました。
翌朝のお勤めの時、一休は後ろを向いてお経を詠んでいるのに気づいた和尚が、すかさず「佛さまに尻を向けるとは何事か」と叱ると、一休は平然と「生臭い息を吹きかけては佛さまが嫌がられます」と答えました。
我々が「当然」と思い込んでいる物事で、単なる形式に堕していることがどれ程多いことか。かつてアメリカの文化人類学者・ルース・ベネディクトは著書「菊と刀」の中で日本人の行動様式を「恥の文化」と定義付けましたが、我々が物事を決定する最大の価値基準は「周囲との調和」であり、他人と同じであることが日本人にとって非常に重要であり、何よりも安心なのです。
和尚にとって灯明を息で吹き消すことの是非は過去の経験と周囲との比較以外の根拠を持っていた訳でなく、この形式的な思考は本来「透脱自在(とうだつじざい)」を志向すべき禅僧としては怠慢、不徹底であり、一休の尻は佛さまでなく、実は和尚に向けた警策の一打だったのです。
最後に「水飴の毒の咄」です。和尚が小僧たちに隠れて舐めている水飴。それが甘い水飴だと知っている小僧たちは舐めたくて仕方ありませんでした。
すると和尚は「これは大人が舐めれば薬だが、子供が舐めると死んでしまう毒になる」と説明して壺を隠しました。ところが和尚が出掛けた留守に、甘いものに飢えていた小僧たちは壺を見つけると夢中で舐めました。気がつくと壺は空っぽになっていて、我に返り途方に暮れる小僧たちに一休は案じた一計を示しました。
それは和尚が大切にしている硯を叩き割り、小僧たちと一緒に横になって待つと言うものでした。帰山して驚く和尚に一休は「大切な硯をわってしまったお詫びに毒を舐めて死のうとしましたが死ねません」と答えたのです。
水飴も舐めて死ねば毒であり、病を癒せば薬です。事実を事実として受け留めるのに釈尊以来の戒律も邪魔になることがある。
ある時、青年一休は水浴びする女人の秘部を拜みました。それを訝る村人に一休はこの道歌を詠んで答えました。
「女をば 法の御蔵(みくら)と 言うべかり 釋迦も達磨も ホイホイと生む」
佛教の戒律では女性は修行を妨げる毒とされています。しかし、その毒から佛教を開いた釋尊も、禅宗を始めた達磨も生まれてきたのです。
つまり毒にするのも薬にするのも、まさに飲む者、舐める者次第なのです。
反体制の思想を持つ現代の文化人、評論家などは一休禅師の破戒を「戒律に縛られることへの反発、戒律の否定だ」と評しますが、野僧は一休禅師の精神が、そのような否定の上に立つとは思っていません。
京都・真珠庵には一休禅師の「諸悪莫作(もろもろの悪をなす莫れ)」「衆善奉行(ことごとく善を奉行せよ)」の書が遺っていますが、その迫力に満ちた筆跡からは一休禅師の「善」なるものへの強烈な志向が伝わってきます。
先ほどの橋と端の言葉遊びではありませんが、一休禅師にとって禅とは善であり、善なる心で為すことは全て許されることを、その実践で証し得たのです。
ある日、一休禅師の熱烈な信者の妻が庵の掃除に来たのですが、その埃に汚れながら甲斐甲斐しく働いている姿を見て、「そなたは美しい。抱きたい」と言いました。
するとその妻は「このスケベ坊主、エロ爺々」と言ったかどうかは知りませんが、兎に角、怒って家に帰り夫にそのことを訴えました。すると夫は「一休さまに抱いていただけばこれ程の果報はない。すぐに戻って抱いてもらえ」と言いました。
妻はすっかりその気になって、綺麗な着物に着替え、念入りに化粧をして庵にもろりましたが、一休禅師は妻の艶やかな姿を見て「そんなあんたにゃ興味はない。帰っておくれ」と追い出したそうです。妻は「今度は恥をかかせた」と前回以上に怒って帰ったそうですが、夫は「流石は一休さま、抱くも抱かぬも自由自在」と敬服し、益々信心を深めたそうです。
この時、誇りに汚れながら甲斐甲斐しく働く妻を「美しい」と愛でた心は善、「抱いてくれ」と求める女を抱けば欲、一休禅師の破戒の根底には常にこの人間を慈しむ優しさがあります。
ある日、一休禅師が親友の蓮如聖人に頼まれて親鸞聖人の頂相(ちんそう=肖像画)
にこんな讃を入れました。
「襟巻きが 暖かそうな 黒坊主 こいつが法は 天下一なり」
確かに親鸞聖人の頂相は色黒に描かれ、黒の法衣に黒の袈裟で白い襟巻をしていることが多いのですが、一休禅師が「天下一」と称えた親鸞聖人こそ、自らの愚と悪を直視し、心は常に阿弥陀如来に向け、純粋に念佛に生きたいと願いながら立ち切れぬ煩悩の赴くままに公然と妻をめとり、肉食をした方です。
禅僧の偽善に絶望した一休禅師の目には、親鸞聖人の生き様(いきよう)にこそ善に生きた偉大な先達の姿を見いだしたのでしょう。
一休禅師は人間が好きで好きでたまらず、善に生きたいと願いながら善に生きられず、悪に堕してしまう衆生の弱さを哀れみ、愚かさを愛でました。また欲に生きながらそれを善と偽る権力者、聖職者に怒り、糾弾しました。
そして自ら風狂に遊び、破戒を冒して「心が善であれば知識に縛られることも、形式にとらわれる必要はない」と衆生に安心を与え続けました。
最後に一休禅師が生と死について詠まれた道歌を紹介します。
先ず死の広さについて。
「生まれては 死ぬるなりけり おしなべて 釋迦も達磨も 猫も杓子も」
死とは決して特別なことではなく、生きとし生けるもの全てに平等に訪れる事実です。
次は長さについて。
「門松は 冥土の旅の 一里塚 馬籠もなく 泊まり家もなし」
我々が過ごす1日1月1年は立ち止まることなく死へ至る旅の道程に外なりません。
最後に深さについて。
「人の世は 喰うて稼いで 寝て起きて さてその後は 死ぬるばかりぞ」
人の一生は単純な事実の積み重ねであり、それらを1つ1つ積み上げたあと、「さて」と全てを捨てて死んで逝く。「さて」の一言だけ遺して逝けたなら、素晴らしいではないですか。
これで終われば説法としてはまずまずなんですが、追伸として一休禅師の遷化(逝去)の様子について申し添えます。
晩年、一休禅師は森(しん)侍者と呼ばれる盲目の美女と暮らしていました。
そして死の床で森侍者の手を握り、涙ながらにこう言ったそうです。
「死にとうない。死ぬのが勿体ない」やはり勝てませんね。
南無阿弥陀佛

一休宗純禅師頂相
一休宗純禅師
晩年の一休禅師
老・一休宗純禅師
一休・諸悪莫作衆善奉行
  1. 2013/12/01(日) 00:20:23|
  2. 月刊「宗教」講座
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