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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

12月29日・作曲家・山田耕筰の命日

1965(昭和40)年の明日12月29日に作曲家の山田耕筰さんが亡くなりました。
山田さんは「耕作」と書かれていることがありますが、本来は「耕筰」で(戸籍上の変更は戦後になってから)、40歳代の頃に頭が禿げて、「カツラをかぶれ」と馬鹿にされたことに反発し、「作」に「ケ(毛)・ケ」が付いた「筰」へ変更したと言われています。本当は同姓同名の人が多く(野僧の親戚にもいる)、著作権などの手続き上の混乱を避けることが理由だったようです。
山田さんは1886(明治19)年に東京都文京区本郷でキリスト教伝道師の息子として生まれました。フォークの神様・岡林信康さんも牧師の息子ですが、「賛美歌を聞いて育ったことが音楽性の基礎になった」と言っていますから、山田さんも同様なのかも知れません。
山田さんが10歳の時、父が死去し、遺命によって日本基督教巣鴨教会に入れられ、13歳まで寄宿生活をおくります。その後、外国人宣教師と結婚していた姉を頼って岡山の養忠学校に入り、ここで正式に西洋音楽を学んだようです。
14歳の時に関西学院(同じように「関西」と書いてもキリスト教系の学校は「かんぜい」と読みます)、の中学部に入学しますが1904年に本科を中退して東京音楽学校予科に入学し、1908年に同校の声楽科を卒業します。
1910年から3年間、三菱財閥の総帥・岩崎小弥太(弥太郎の息子)の援助でベルリン音楽学校の作曲科へ留学し、帰国後は岩崎が組織していた日本フィルハーモニー会の管弦楽部の主席指揮者になったものの、結婚したはずの山田さんが別の女性に手を出したことを知った岩崎が激怒して出資を取り止めたため、この会は解散することになります。
その後も楽団を組織しながら本人の不行跡で失うことを繰り返していきますが、やはり並はずれた才能は必要とされ続けたようです。
山田さんと言えば日本語のイントネーションを活かした曲調の歌曲が有名で、特に北原白秋さんと共作の「からたちの花」「この道」「赤とんぼ」「ペチカ」「待ちぼうけ」「あわて床屋」などに親しんできた者は唱歌・童謡の作曲家と思っていますが、実際には日本人初の交響曲「かちどきと平和」を始めとする多くの交響曲やオペラ、舞踊曲などを作曲した和製クラシックの第1人者だったのです。
ちなみに北原白秋の時に紹介した野僧の故郷・愛知県岡崎市の市歌も作曲しています。
活躍した時節柄、軍歌も数多く手掛け、中でも「燃ゆる大空」は軽快ながら威風もあり、航空教育隊の隊歌(軍歌)係だった野僧は必ず教えるレパートリーにしていました。
こうなると敗戦後、他の文化人同様に戦争協力者として批判を受けることになりましたが、所詮は専門馬鹿に過ぎない芸術家に国家が邁進している戦争に抵抗することを求めるのは、いささか無理があるのではないでしょうか。
軍楽隊長を務めていたアメリカのグレン・ミラーは勝った側だったから戦死した後も英雄と称えられ、ドイツの女優・マレーネ・デートリヒは亡命して反ナチスの宣伝に協力したから英雄になったのですが、その影でドイツなどの素晴らしい芸術的才能が刈り取られてしまいましたから手放しで賛同はできません。
そもそも批判の繰り広げたマスコミこそ世論を煽った責任を負うべきです。
山田さんは昭和23年に脳溢血で倒れ、身体が不自由になりますが、それでも25年には指揮者協会の会長に就任し、昭和25年には文化勲章を受章しています。
しかし、戦後のエピソードは間隔が開いていて、昭和40年に亡くなるまでは燃え尽きかけた残り火・余生のような過ごし方だったのかも知れません。
  1. 2013/12/28(土) 09:59:30|
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