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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

2月25日・斎藤茂吉の命日

1953(昭和28)年の明日2月25日に歌人で精神科医、斉藤茂太・北杜夫兄弟の父である斉藤茂吉(「しげよし」と読ませていた時期もあるが「もきち」です)先生が亡くなりました。 
茂吉先生は山形県南村山郡金瓶(現在の上山市金瓶)の守谷右衛門熊次郎の3男として生まれましたが、実家に就学させる資力がなかっため、東京の浅草で医院を経営していた同郷の医師・斉藤紀一の娘と結婚させて跡取りにする婿養子候補者として面倒を見てもらうことになりました。
15歳の時、父と兄に連れられて上京しますが、途中の仙台で初めて最中を食べて「こんな美味いものがあるのか」と驚嘆し、夜に東京に着くと「こんなに明るい夜があるものだろうか」と唖然としたそうです。山形県上山市と言えば昭和26年に無着成恭先生(曹洞宗の僧侶)が「山びこ学校」を出版した時、田舎の窮乏を宣伝したと地元で非難されましたが、昔からあまり豊かな土地ではなかったようです(ただし、「敗戦直後にも食糧難の東京に比べ腹一杯の飯と牛肉まで食べられて極楽だった」と北杜夫先生は書いています)。
それからは斉藤医院から通学して医師の資格を取り、31歳で次女・輝子の婿養子になったのですが、この輝子は都会のお嬢さま育ちの自由奔放、我まま放題な性格だったため、冒頓で律儀な茂吉先生とは価値観が合わず喧嘩が絶えなかったようです。
ドイツへの留学には帯同したものの帰国後にはダンス教師との不倫問題を起こし、青山病院の本院と別院などで約10年間も別居することになりました。
茂吉先生の人間性については二男の北杜夫先生の「どくとるマンボウ青春記」に詳しく書かれていますが、かなりの食いしん坊で鰻に目がなくて2人前食べていたことや大変な癇癪持ちで、(精神科医の)息子が見ても医師よりも患者に近かったと述べられています。
その中で野僧が強く印象に残っているのは疎開先で作歌する時、ムシロを持って出かけると神社の境内にそれを敷いて座り、頭を抱えて苦悶を始め、昆虫が好きな北先生が観察などをして時間をつぶして戻っても同じ姿勢で苦悶しており、「茂吉と言う歌人が自分の全てを絞り出して歌を作っているように感じた」と言う逸話です。
野僧の祖母も地方歌人ですが、やはり思いついた歌をノートにメモすると、その一節、一字を他の言葉、文字に置き換え、並び替える作業を延々と繰り返していました。
そんな茂吉先生の歌と言えば処女歌集「赤光」にある「みちのくの 母のいのちを 一目見ん 一目みんとぞ ただにいそげる」「死に近き 母に添寝の しんしんと 遠田のかはづ(蛙) 天に聞ゆる」「のど赤き 玄鳥(つばくらめ)ふたつ 屋梁(はり)にゐて 足乳根(たらちね)の母は 死にたまふなり」でしょう。ちなみに「赤光」とは時宗の信者だった茂吉先生が「佛説阿弥陀経」から採りました。
北杜夫先生の「どくとるマンボウ青春記」は父・茂吉先生の死で幕を閉じています。
「インターンが終わりに近づき、医師国家試験を前にして相変わらず恥多き怠惰な日をおくっていたとき、とうに老衰していた父の死の報知を受けた。しかもひどい宿酔いのなかで電報を受けとった。東京に電話したとき、すでに父はこときれていた。最後まで、私は親不孝者であった。(中略)東京に戻る夜汽車の中で、私は大学にはいってから手にとることのなかった父の処女歌集「赤光」をあてもなく開いて過ごした。(中略)こういう歌をつくった茂吉という男は、もうこの世にいないのだな。もうどこにもいないのだな、と幾遍も繰り返し考えた。(後略)」
  1. 2014/02/24(月) 09:21:54|
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