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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

2月26日・2・26事件

1936(昭和11)年の明日2月26日に2・26事件が勃発しました。
隣町の山口県長門市油谷河原は2・26事件の首謀者の1人・磯部浅一の出身地で、墓なら兎も角、記念館があって現在も慰霊祭が行われています。
歴史の教科書では5・15、2・26事件のクーデターによって政党政治が終焉し、日本は軍国主義に突き進んでいったと教えられますが、背景には陸軍と海軍の対立と陸軍内の皇道派と統制派の権力争いがありました。
事件の5年前の1931(昭和6)年、陸軍内では皇道派の首魁・荒木貞夫大将が犬養内閣の陸軍大臣に就任し、その職権を利用して子分の真崎甚三郎を参謀次長に据えたのを皮切りに主要ポストが皇道派で独占されました。これで爆発寸前だった陸軍内の不満も沈静化するかと思われたのですが、1934(昭和9)年に荒木大将が病気を理由に辞職すると事態は急変したのです。荒木の後任には林銑十郎大将が就任し、統制派の大物・永田鉄山少将が軍務局長になると、後に続くように統制派が軍中枢に進出し始めたのです。
先ず皇道派の秦真次第2師団長と柳川平助第1師団長が予備役に編入されて、代わりに建川美次・小礒国昭中将、東條英機少将などが送り込まれました。これに教育総監になっていた真崎が反対すると林陸相は皇族の閑院宮参謀総長の同意を得て真崎も更迭しました。この事態を受けて1934(昭和9)年11月にクーデター計画への参加容疑で検挙され、停職処分を受けていた村中孝次大尉と磯部が動き始めたのです。
村中と磯部は「君側の奸を討ち、昭和維新を断行すべし」と記した「粛軍に関する意見書」なる過激な文書を配布し、陸軍内にクーデターへの気運を扇動しました。
この頃の若手将校たちは実務的で冷淡な統制派よりも熱血・激情型の皇道派に共鳴する者が多く、軍事参議官の閑職にあった真崎は表では鎮静と軍規の厳守を説きながら裏では自分の処遇の不満を交えた統制派への敵意を煽り立てていたのです。
こうして2・26事件は勃発しましたが、標的になったのは岡田啓介首相、斉藤実内大臣、鈴木貫太郎侍従長などの海軍大将や文官の高橋是清蔵相と真崎の後任の陸軍教育総監の渡辺錠太郎大将で、閣僚ではない渡辺大将が入っていることでも真崎の私怨による事件であることは明らかです。特に(温和な知性派として人望があった)渡辺教育総監は寝室で家族といるところを襲われ、至近距離から機関銃弾を浴びせられた上、トドメとして首も討たれていますから尋常ではありません。この惨劇の現場にいた2女の和子さんは現在、ノートルダム修道院のシスターになっておられ時折、テレビなどにも登場しています。
また3人の海軍大将が襲われたのには海軍士官の英国式の態度を「舶来の貴族趣味」と国粋主義の皇道派が嫌っていたことが背景にあり、このため海軍は鎮圧に向けて戦艦を東京湾に入れて主砲を国会議事堂に向け、陸戦隊を待機させたのです。
結局、この事件は純粋=単純馬鹿な青年将校たちが真崎たち上級者の煽動を鵜呑みにして暴発したものですが、問題は自分の部隊・兵士を使用して私的な政治主張を実現しようとしたことで、この暴動を描いた映画などでは青年将校を権力闘争に利用された犠牲者に美化していますが、「重臣殺害は部下のため」などと言う狂気の論理は、元決起将校(未遂)の野僧にも容認できません。
今年も磯部浅一の命日(1937年8月19日)には慰霊祭が行われるのでしょうけど、地獄に堕ちた霊を救っていただけるように念佛法要にした方が好いですよ。しかし、敗戦後の1956(昭和31)年8月31日まで生きて、畳の上で死んだ真崎甚三郎は絶対に許せません。こいつこそ超A級戦犯なのですから。
  1. 2014/02/25(火) 09:36:25|
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