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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

第17回月刊「宗教」講座・一遍智真上人

今回は我が国の浄土教のもう1つの流れである時宗の開祖・一遍智真上人です。
前回、法然上人は武家、親鸞聖人は公家の御出身だと申しましたが、一遍智真上人は伊予国松山(愛媛県)の河野水軍・河野通広の嫡子で、時代としては親鸞聖人よりも66年遅い1239年生まれですが、聖人よりも短命だったので27年後の1289年に亡くなっており、聖人と上人の生涯は23年間重なっていました。
上人は10歳の頃、母の死をきっかけに出家して福岡県の浄土宗西山派の祖・証空に師事しましたが、河野家相続のため還俗しました。
しかし、領地の相続争いに巻き込まれて再度出家し、信濃の善光寺に参籠するも帰国、その後、妾の超一と娘の超二を連れて遊行の旅に出ました。
その意味では妻を娶ったことを煩悩が捨てられない自分の罪、業、愚として苦悩し続けた親鸞聖人よりも数段上をいっています。
ただ上人は街中や村落で衆生と共にあることを道とした他の念佛者と異なり、断崖絶壁の山の上などで念佛を行じて境地を深めていき、やがて大阪の四天王寺、紀州の高野山などに詣でて託宣を得たとされていますが、熊野権現では「御坊の勧めによりて一切衆生はじめて往生すべきにあらず、阿弥陀佛の十劫正覚に一切衆生の往生は南無阿弥陀佛と決定するところなり。信不信を選ばず、浄不浄を嫌わず、その札を配るべし=御坊の勧めによって全ての衆生は始めて往生するのではない、阿弥陀佛の長い修行・思索によって全ての衆生が南無阿弥陀佛によって往生することが決定しているのだ。信仰心の有無を選ばず、浄不浄を嫌わずに、その札を配りなさい」と言う神勅を受けて往生札を配るようになったそうです。
ところがある日、上人がいつものように往生札を配っていると、旅の僧侶が「宗旨が違う」と受け取りを拒みました。すると上人は「阿弥陀の衆生済度の誓願はこちらが求める拒むに関わりなく普く及んでいる」と押しつけるように手渡したそうです。
つまり法然上人が開かれた念佛によって救われると言う浄土教は、一遍上人により「往生必定」を保証するに至ったのです(その頃、親鸞聖人は「私のような者が本当に救われるのだろうか」とまだ悩んでいましたが)。
また紀州では由良・宝満寺の法燈国師に参禅し、無門関「念起即覚」の提唱を受けて、「となふれば 佛もわれも なかりけり 南無阿弥陀佛の 声ばかりして」の1首を呈するも国師は「不徹底」と拒絶し、そこで上人は「となふれば 佛もわれも なかりけり なむあみだぶつ なむあみだぶつ」の1首を再呈してゆるされたと伝えられています。つまり「南無阿弥陀佛の声ばかりして」では「佛もわれもなかりけり」と言いながら南無阿弥陀佛を聞いている自己があり、両者の間に隔たりがあると言うのです。そして「なむあみだぶつ」だけになり切ったのです。
そんな遊行の旅は出身地の四国はもとより、北は祖父・河野通信の墓があった陸奥の江差(岩手県)から南は九州の大隅(鹿児島県)まで全国各地に及びました。
上人と言えば往生札と共に有名なのが踊り念佛ですが、これは善光寺に参詣した時(前回とは別)、在家宅の庭先で踊ったのが始まりで、瞬く間に全国に広がり、現在行われている盆踊りの原型と言われています。
青森県の八戸辺りではお盆に墓で踊る風習がありますが、これが本来の趣旨に近いのかも知れません。
ただ時宗の踊り念佛は打ち鳴らす鐘に合わせて念佛を唱えながら飛び跳ねる躍動感あふれるもので、上人は踊り念佛を「自然遊躍」と言っておられますから、沸き起こる往生の悦びに任せて体が躍り上がる陶酔=トランス状態の踊りのようです。
これは同じ青森で行われるネプタ(ネブタ)の「ラッセラーッ」と叫んで飛び跳ねる「ハネト」に近いものでしょう。
また時宗の念佛は天台宗の聲明のような独特の節回しがあり、簡単には覚えられません(以前住んでいた地域には在家念佛として不完全ながら伝わっていました)。
ちなみに浄土真宗では法名に「釋」姓をつけますが、時宗では名の末尾に「阿弥」をつけます。世阿弥、観阿弥、黙阿弥も時衆(時宗の信者)なのかも知れません。
本阿弥光悦が日蓮宗徒であることは有名ですが。
上人の旅には次第に同行者が増え、一度に280名以上が出家したこともあったとも言われ、その中には「早く往生したい」と海に入水自死する者までありました。
その点も親鸞聖人が高弟の唯円と「往生できると言われても待ち遠しいとは思えない」と言い交わしていたことが、「歎異抄」に記されているのとは対照的です。
つまりこの時点では、念佛者としての境地、宗教家としての教導力は共に上人の方がはるかに上をいっていたことが判ります。
学問の家柄の御出身である聖人は、あくまでも学術的に阿弥陀如来の念佛による救済を論証しようとされましたが、上人は官能的に神勅と言う形で教えを確立していきました。文字すら読めなかった当時の衆生には、「××経にはこう説かれている」などと論理的に説明されるよりも、「絶対に救われるんだ」と断言され、周囲の者の熱狂に身を任せる方が信仰心を植えつけられたのでしょう。
ただ、聖人が心血を注いだ学術的論証は後世になって信仰を継続、深化させる基礎になり、さらに宗教哲学として再生する便(よすが)にもなりました。
一方、一遍上人の時宗は、やがて念佛の一大勢力になり本流であるはずの法然上人からの法脈をも圧倒していきました。
上人が示寂する時、紫雲がたなびき弟子たちがそれを告げると「紫雲にまかせておけ=放っておけ」と言われ、目を閉じたそうです。
上人は生前、「飢えて死に逝く者を見ても放置するような世なら、生きていても仕方ない」と語られていましたが、死因は栄養失調ではないかと推測されています。
上人には大佛寺(永平寺)から参じて後継者と目されていた如一と言う弟子がいましたが先に遷化し、さらに示寂に当たって一切の著述物を焼却させたと言われますから、教義が正しく継承されず、没後、鎌倉幕府は保護すると共に全国各地の守護、地頭、豪族を探る隠密として利用したため、アッと言う間に衰退しました(時代劇に出てくる隠密は虚無僧が定番ですが、あちらは明暗宗と言う禅宗の一派です)。
やはり神秘体験は本人だけのものであり、伝聞では力を持ち得ないのです。
 
一遍智真上人の辞世「一代の聖教みな尽きて 南無阿弥陀佛になりはてぬ」

神奈川県藤沢市にあって箱根駅伝で選手が山門前を通過する時宗の本山・清浄光寺(遊行寺)はこの時代の創建です。この寺には本尊の佛像はなく、六字名号の掛け軸が本堂の中心に掛けられているだけだそうです。
  南無阿弥陀佛
一遍智真上人
一遍上人像(重文・宝蔵寺・2013年8月10日・火災で焼失)
往生札往生札
  1. 2014/03/01(土) 00:11:54|
  2. 月刊「宗教」講座
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