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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

3月13日・上杉謙信の命日

1578年(天正7)年の明日3月13日(太陰暦)は上杉謙信公の命日です。
謙信公と言えばNHK大河ドラマ「天と地と」ですが野僧は小学校2年でした。大河ドラマはその前年の「源義経」から見ていましたが、いつもは8時就寝だったので45分間の夜更しになり、月曜日の朝は起きるが辛かったことを覚えています。
主人公・長尾景虎(謙信)役の石坂浩二さんは今でも「何でも鑑定団」などで顔を見ると白頭巾の武者姿を思い出してしまいます。
野僧は現役の自衛官でありながら出家得度を受けていたこともあり、上杉謙信公を始め北条早雲公、武田信玄公、斎藤道三公、島津日新公、黒田如水公など坊主の武将に憧れ(佛敵・大友宗麟は除く)、兵法書や合戦史、業績や伝記などを研究しましたが、やはり常人を超えた才覚の持ち主が多かったようです。
謙信公は北方守護・毘沙門天の化身を自称しておられ、真言宗のイメージが強いですが、幼い頃には兄が家督を継いだことにより曹洞宗の林泉寺に預けられています。そこでは経典の勉強には関心を示さず兵法書や兵棋演習ばかりやっていて、「坊主には向かん」と判定されたそうです。その後は2度の上洛を果たし、臨済宗の大徳寺で「宗心」と言う法号を与えられますが最終的には真言宗で、高野山金剛峯寺から伝法潅頂を受け、阿闍梨大僧都の位を贈られています。ちなみに「不識庵謙信」と言う僧名は1570(元亀元)年に40歳で北条氏康の7男を養子に迎えた時、自分の最初の名前・景虎を与えてから名乗っています。
上杉謙信公と武田信玄公は綺羅星の如き戦国武将の中でも傑出していますが、この2人が天下を取れなかった理由は、やはり地の利が悪かったことでしょう。
それは京都からの距離の問題もありますが、むしろ甲斐・武田、越後・長尾(上杉)、相模・北条の三つ巴の争いを繰り返している間に互いが消耗し、宿敵が消えた時には自分の死が近づいていたと言うことです。北条氏は天下など狙わず関東だけを見ていましたが、かえって天下の形勢を見誤り秀吉に滅ぼされる結果になりました。
信玄公の上洛では出口の駿河に今川氏、途上に徳川氏、織田氏が行く手を阻んでいましたが、謙信公の場合は越中、加賀、越前の一向宗・門徒でした。
一向宗・門徒との抗争と言うと織田信長公の伊勢長島や石山本願寺との血みどろの戦いが有名ですが、徳川家康公も三河一向一揆で命を落としかけています。
中でも加賀は実質的に門徒の自治領になっていて、北上する織田方と同様に大いなる障害でした。越前・朝倉氏が機敏に動けなかったのも、当主の優柔不断よりも門徒の動向に振り回されたことが原因と言われています。
もう1つ、大きな障害になっていたのは越後から越中に抜けるには避けることができない「親不知子不知(おやしらずこしらず)」の難所で、飛騨山脈が日本海に突きだす断崖絶壁の下の細い海岸を波の合間に通過するため、大規模な軍勢の移動は不可能だったのです。
謙信公の最期は厠(トイレ)で用便中だったと言われ、長年、梅干しや味噌を肴に飲む酒を好んできたため高血圧による脳溢血ではないかと推察されています。享年49歳でした。
  1. 2014/03/12(水) 09:33:54|
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