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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

3月16日・高杉晋作が出家(?)した。

1863年(文久3)年の明日3月15日(太陰暦)に幕末の毛利藩士人気ナンバーワンの高杉晋作くんが出家しました。と言っても頭を丸めただけで僧侶について正式な得度を受けた訳ではなく、世捨て人になるための形を整えただけのようです。
晋作くんは1862年5月に藩命で幕府使節に随行して欧米の実質的な植民地になっていた上海へ渡航する機会を得て、中国人の惨めな姿を見聞して帰った後、12月12日には伊藤俊輔(=博文)らと品川に建設中だったイギリス公使館を焼き打ちしています。
その後、尊皇攘夷派と佐幕派が血みどろの内部抗争を繰り返している毛利藩の実情に危機感を抱き、藩の重役であり松陰先生とその門下生のよき理解者であった周布政之助さんに「尊皇攘夷などはやめて倒幕に動くべきだ」と進言したのです。
すると周布さんは「時期尚早」と嗜めたので、晋作くんが「その時期とは何時だ?」と問い返すと「10年後だ」と答えたので、藩に10年間の暇を乞い、藩も多事多難な折、暴れ者を大人しくさせようとこれを許可したため、即座に頭を丸め、敬愛する西行法師に倣い「東行」と名乗って萩の松本村付近で隠遁生活を始めました。
ところがこの年の5月10日に毛利藩は関門海峡を航行する外国船に向かって砲撃を加え、馬関戦争が始まると、6月には下関で身分を問わない志願者による奇兵隊を結成します。
翌年の8月にイギリス、フランス、アメリカ、オランダの4カ国艦隊によって馬関の砲台が破壊、占領されると藩を代表して和議の交渉を行い、「砲撃は幕府の『異国船打ち払い令』に従った結果であり、責任は幕府にある」と言う形で成立させています。
この時、下関の彦島を租借することを条件として提示されたのですが断固拒否しています。上海で見た中国人の姿が郷土で再現されることだけは絶対に許せなかったのでしょう。
現在、晋作くんの写真は髷を結わず今風の髪型にしていますが、剃髪が伸びただけの状態でいたのでしょう。
確かに髷は意外に重く、強く引っ張って結うため一度落としてしまうとその快適さは捨て難かったのかも知れません。一度、頭を剃ると顔や背中のついでに頭を洗え、何よりも髪の毛と言う断熱材なしの冷却効果は病みつきになります。
それとも外国人を見て髷を結った日本人の姿が奇異に感じたとすれば中々のファッションセンスです。確かに幕末になると月代(さかやき)を剃らなかった人物が目立つようになっていますから(思いつくだけでも佐久間象山、勝海舟、西郷吉之助、桂小五郎、坂本竜馬、近藤勇、土方歳三など)、あながち当てずっぽうとも言えません。
こんな天衣無縫で自由奔放な夫を支え、留守がちの家を守り、義父母に仕え、子まで儲け、育て上げた正妻の雅さんこそ大河ドラマの主人公にするべきですが、現代女性の好む生き方とは相容れないのでしょうか?
高杉晋作
こんな写真もあります(当時、写真は非常に高価だったのですが何の記念だったのか?)
  1. 2014/03/15(土) 09:27:36|
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