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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

第18回月刊「宗教」・道元

野僧は書類上の僧籍は曹洞宗に置いてありますが、後世の人間が作った宗派と言う組織制度には全く興味がなく、曹洞チェーンの宗教法人経営者のような道元への個人崇拜などは全く持っていませんから、タブーについても遠慮なく発言します。
また、野僧が小浜の僧堂に上山した時、25年以上も小浜にいる古参から「道元未悟(道元は悟っていない)」と言う公案を与えられました。
これは小浜の僧堂伝統の公案ですが、悟りが現実のものとして眼前に存在している小浜では、道元や達磨大師、釋尊もまた悟るための通過点、目標に過ぎず、だから新到(新入門)が過度の個人崇拝により宗派と言う枠にはまり込み、「自分が佛になるのだ」と言う菩提心を忘れ、修行が停滞することを戒めるべく、この公案を掛けるのです。
しかし、数十年前、当時の堂長・原田祖岳老師が永平寺で提唱した際、大衆に向かってこの公案を示したため、永平寺側は「小浜の僧堂は道元禅師の悟りを否定し、冒涜している」と非難し、これにより永平寺と小浜の僧堂との関係は断たれました。
つまり曹洞宗の坊さんの道元に対する個人崇拝は、それほどに強いのです。
道元は鎌倉時代の初めに京都の公家の名門・久我源家に生まれ、父は久我通親、母は藤原基房の娘と伝わっています。
父の久我通親は鎌倉時代随一の悪徳公家と言われていて、源頼朝から「征夷大将軍の官位を得たい」と斡旋の依頼を受け、多額の工作資金を受け取りながら何もせず、その大半を着服したのですから、現在の政治屋が斡旋の依頼を受け取って裏工作をして逮捕される「斡旋利得罪」の上をいく、「斡旋不履行横領罪」の重大犯でしょう。その父は道元が3歳の時に亡くなっています。
母は名門・藤原家の娘で、大変な美女だったそうですが、源義仲が京都に入り平家を追った際、その美貌に目をつけられて略奪されたのです。
源義仲には巴御前と言う武勇に優れた美貌の愛妾がおり(本妻は木曽に残してきた)、その立場は始めから慰み者以外になく、父の基房も新興勢力の義仲に近づくため進んで娘を提供したとも言われています。しかし、間もなく義仲は源義経らの鎌倉勢に敗れ、京都から逃れる途中で討ち死にします。このため敗者の慰み者だった娘は父の下に戻り、ひっそりと暮らしていたのですが、この薄幸の女性の美貌と藤原氏との姻戚関係、何よりも「傷者になった娘をめとること」で恩を売る利用価値に目をつけたのが久我通親だったのです。この母も道元が8歳の時、亡くなっています。
おそらく道元=幼名・文殊丸は幼い頃から男の身勝手に翻弄された女の悲劇、権力者の横暴と醜さ、そして世の無常と言った話を母や周囲から聞かされて育ったのでしょう。母を亡くした後は思慕の想いと共に植えつけられていた男女、権力への嫌悪感が自己暗示のように増幅され、そんな子供が極端に権力を憎み、男女の交わりを嫌う偏狭な人格に育つことは自然なことと言わざるを得ません。
道元が母を亡くした時、香の煙が立ち上るのを見て無常を感じたと言う逸話が、道元の宗教者として早熟さを示す物語として伝えられていますが、8歳でこれ程に白けた子供ができるには、母親から心が湧き立つような楽しい話などは、あまり聞かずに育ったと見るべきでしょう。
また後に「親の病が重いため、最期を看取るまで出家できない」と言う若者に、「親に修行を妨げる罪を犯させるべきでない」と病身の親を捨てて出家するように勧めています。これを曹洞宗では道元の求道心の強さ、厳しさを示していると言っていますが、自分がそうするのなら兎も角、他人にそれを求めるのは肉親の情を理解していないと言う批判を免れられないでしょう。
さらに永平寺(当時は大佛寺)に入った後、鎌倉幕府に招かれた際、同行させた玄明首座が土地の寄進を受けて戻ったことに激怒し、永平寺から追放しただけでは飽き足らず、玄明が寝起きしていた単(寝起きし、坐禅を組む生活空間)の板を剥がして焼き、その下の土まで掘り起こし捨てさせました。しかし、玄明は永平寺の経営を考えて土地の寄進を受けたのであり、玄明から要求したのでも、直服した訳でもないのですから、この道元の処置は常軌を逸していると断ぜざるを得ません。
曹洞宗の坊さんは道元を気高く、清廉高潔な人格者であるかのように言いますが、その頑なさは、むしろ生い立ちに起因する人格の歪みと見ることもできるでしょう。
近年、曹洞宗に限らず佛教の各宗派は急激に変転する時代の中で、新たな教義の展開を見い出せない言い訳に、自宗派の高僧の個人崇拝を以て檀信徒を引きつけようと躍起になっていますが、少なくとも野僧は曹洞宗の高祖・道元の人格を崇敬の対象にすることはできません。
では道元が説いた「救い」とはどのようなものなのでしょうか。
曹洞宗では「修証義」なる文章を檀家に勧め、法要などでも勤めていますが、仮に道元が「正法眼蔵」で述べていることを強烈な蒸留酒の原液だとすれば、「修証義」はそれを炭酸水で割った上、シロップを垂らして果実を添えたような代物です。
口当たりはよくても人工的で、不自然な甘味はあっても大人だけに判る原液の深い味わいは失われてしまっています。
道元は比叡山での修行中(と言っても上流貴族の子息であるエリートのそれは主に
経典の勉強ですが)に「生き物には本来、佛になる資質があると経典に説かれているのに、何故、修行をする必要があるのか」と言う疑念を抱いたそうです。
同様に中流貴族・日野氏の出身であらされる親鸞聖人も若き日に「性の悩みを断つことができない。こんな罪深い人間が救われるのだろうか」と言う疑念を抱かれたそうですが、お公家さんの御子息ともなると庶民とは些か思考回路が違うようで、我々が「当たり前」で済ませられるような瑣末事も人生の命題になってしまうようです。
ただ、親鸞聖人が問われた人間の本性の罪や愚の問題は、イエス・キリストの人間が負う原罪の問題に比肩する重大事であるのに対して道元のそれは如何でしょう。
社長の馬鹿息子でも社会の厳しさに直面すれば、「自分には社長になる資格があるのに、何故、下積みをしなければならないのか」などと言う疑問は抱かないでしょう。
兎に角、道元はこの疑問を解決するため比叡山を下り、建仁寺の栄西(ようさい)に参じ、宋の国(現在の中国)に渡航したのです。
道元の悟りは「身心脱落」の境地だったと言われています。
天童山での坐禅中、隣りの単の修行僧が居眠りしていたのを如淨禅師が一喝し(草履で殴ったらしい)、その瞬間に悟ったと言うのです。
ただ如淨禅師は「心塵脱落」と証されたのに対して、後に道元は自ら「身心脱落」の文字を当てたと言われています。
「心の塵が抜け落ちた」として認められた悟りを、自分で「身も心も抜け落ちた」とより大きなものに置き換えたのです。
しかし、普通車に乗ることを許可されたからと言って、「自分は大型車にも乗れる」と勝手に免許を書き換えることは、やはり違反です。
こうして道元は留学期間の半ばで「眼は横、鼻は直であることを悟った」、つまり「本来の自分を会得した」と言って帰国しました。
かつて自らが抱いていた疑念には、「自ら修行する資質こそが佛となる資質である」と言う解答を出したようです。
曹洞宗の教義は「只管打坐(しかんたざ)」「出家得道(しゅっけとくどう)」「威儀即佛法」「作法是宗旨」と表現されています。
「只管打坐」とは臨済宗のように悟りを求めると言う目的を立てることなく、坐禅することを安楽の法門として坐る。道元は「坐禅こそが釈尊が悟られた姿である。その姿を習い、なり切れば佛陀になれる」と言っています。
これは浄土真宗の念佛が極楽浄土への往生を願うためではなく、「人間を救いたい」と言う阿弥陀如来の本願によって救われることが決まっていること(往生決定)に報謝し、任せ切る念佛であるのと同じで、坐禅すれば、それだけで釋尊が悟られた時間、行為を共有できると言う身体でする無言の念佛と言えるのかも知れません。
「出家得道」とは佛道のために家族の情を含めたあらゆる束縛や善悪損得好嫌と言った価値観を捨て切ること。道元は出家得道について「修行しない出家者と修行をする在家者では前者の方がいい」とまで言っています。
これは安心とは自己の行為によって得るものではなく、安心できる環境によって受けるものだと言う道元独自の宗教観に基づく見解(けんげ)でしょう。
また永平寺の修行僧に対して「お前たちは飯を食べるためここにいるのか」「出家者には佛道以外に求めるものはないはずだ」と問い、「これからは食事を生命をつなぐギリギリまで減らすことにする。それでも修行する菩提心がある者だけが残れ」と宣言しています。しかし、寺院内で書物を読み、静かに修行をしている御歴々はいいですが、あの時代にもやはり堂宇を維持管理するための肉体労働に励む修行僧はいたはずで、これはあまりにも上から目線の道元ならではの独善に思われます。
「威儀即佛法」「作法是宗旨」とは理に適った姿勢・動作です。
道元は「普勧坐禅儀」「典座教訓」「赴粥飯法」など坐禅の仕方は勿論、食事の作り方、食べ方から洗面、入浴、用便、睡眠に至るまで、極めて詳細な「清規(しんぎ)」と呼ばれる規則を作っています。
それは「悟った目で見れば作法はこうなる」と言う論理で貫かれています。
ただ、それは京都の公家の邸で生まれ育ち、比叡山、天童山で修行して、興聖寺・永平寺で暮らした道元の感性の域を出ないことを、野僧は極寒の地・津軽で体験しています。真冬に暖房のない部屋で坐禅を組んでいると、鼻息で胸に霜が降りました。
そもそも「寝る時には右脇を下にして右腕を枕にして寝ろ。仰向けになるな。手を股間に持っていくな」などと言われても眠った後のことは知りません。
何にしろこれらの教えを判り易くまとめるとすれば、「既成の価値観を捨て、自己を佛道に投げ入れてそこに安住すれば、安心を得ることができる。佛道に徹すれば自ずから形は整う」と言ったところでしょうか。
つまり曹洞宗の檀信徒は結果がどうであれ、世間の評価が何であれ、そこに至るまでの精進努力そのものに満足しなければなりません。また、川の魚が死ぬまで尾を振り続けるように、死に至るまで精進を続けなければなりません。
ただし、その精進は今できる最善であればよく、粉骨砕身、刻苦奮励などは求められていません。無目的に安楽のため坐るのが只管打坐なのですから。
最後に一つ、曹洞宗の歴史で付け加えておかなければならないことがあります。
道元亡き後、カリスマを失った永平寺は百年を待たずして廃寺と化しました。それを復興したのは曹洞宗が太祖と称し、道元と対等の両祖と奉る瑩山です。瑩山は山奥の永平寺に対して能登半島の先端の平野に總持寺を開きました。
そして「お経を詠むな。念佛など唱えるな。そんな暇があったら坐禅を組め」と言った道元とは異なり、真言宗の祈祷や民間信仰を取り入れ、孤高の求道から庶民への布教に宗風を変質させました(と言いながら道元は健康を害してからは妙法蓮華経に心酔し、療養のため京都の信者邸で過ごした室を「妙法蓮華経庵」と名づけました)。
これが真言宗の寺院を吸収しながら曹洞宗が全国に拡大していく下地になりましたが、そこには現在も解決されていない重大な矛盾が存在します。
法華宗は日蓮聖人の生前から天台宗の復興、妙法蓮華経の普及、さらに御題目の勤行へと主張を変質させましたが、宗門も祈祷を取り入れていくため修行に本格的な修験を導入し、現在では法華修験と呼ばれる独自の修験道に発展しました。ちなみに現在も祈祷で多くの人々を集めている身延山、成田山は法華宗です。
また同じ禅宗でも臨済宗は、悟りの境地を「佛が佛に祈る」と言う論理に展開させ、坐禅を修験に替わる修行として祈祷と整合させました。祈祷で有名な浜松の奥山半僧坊は方広寺派の本山 一畑薬師は妙心寺派です。
これに対して曹洞宗の教義と言えば祈祷はおろか念佛や祖先供養すら認めない元気な頃の道元のままであり、修行は悟りを求めない只管打坐、ところが箱根の最乗寺、袋井市の可睡斎、豊川稲荷など真言宗張りの祈祷寺が大はやり、一般寺院でも檀信徒を集めるのは正月の大般若や彼岸・盆の祈祷法要だけで、「坐禅会で檀信徒を集めてこそ曹洞宗」などと言う心意気は小浜の僧堂出身の原理主義者くらいでしょう。
このため心ある曹洞宗の坊さんたちは祈祷の法要のたびに高祖・道元への背信行為に悩み抱いているのです。ならば曹洞宗は最早、高祖・道元ではなく、大祖・瑩山の宗派であると認めることです。
そして正直に道元の看板を片づけ、「私たちは瑩山の宗派です」と宣言して、「曹洞宗の祈祷はこれだ」と「作法是宗旨」を唱えながら堂々と祈祷坊主をやれば良いのです。
それは内容変更ではなく、実態追認であることは言うまでもありません。顧客(檀家)のニーズに応えるのは宗教法人を経営する上の基本ですから(野僧は「住職に」と誘われた寺で、跡取りでもないのに出家したことで「坐禅会でも始めるのではないか」と警戒され、話が流れたことが少なからずありました)。
南無妙法蓮華経
  1. 2014/04/01(火) 09:51:23|
  2. 月刊「宗教」講座
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