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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

4月3日・快川紹喜和尚が死去

1582(天正10)年の明日4月3日(太陰暦)に甲斐国の恵林寺で快川紹喜和尚以下、多くの僧侶が焼き殺されました。
恵林寺で僧侶たちを焼き殺す場面は織田信長公を主人公とする歴史ドラマで長篠の合戦から甲斐・武田滅亡への流れの中で取り上げられる程度ですが、実際には少し時間の経過が異なります。
歴史ドラマの描き方では武田の残党をかくまい、その受け渡しを拒否した見せしめのため僧侶たちを鐘楼門に閉じ込めて火を掛けたように思われますが、恵林寺がかくまったのは信長公が後の15代将軍・足利義昭を奉じて上洛した時に敵対した六角義賢の息子の義弼で、武田氏を滅亡させた後の処理を任されていた嫡男・信忠の引き渡し要求を「窮鳥懐に入らば猟師もこれを殺さず」と言って拒否した結果です。したがって信長公の残酷さを示すエピソードとしては適当ではありません。
信忠は津田、長谷川、関、赤座の4人の奉行を派遣して恵林寺の僧侶150名余りを上階が鐘楼になっている三門に閉じ込めた上で、回廊から門に薪や枝、草を積み上げて火を掛けたのです。
鐘楼門内では僧侶たちが悲鳴をあげて半狂乱になる中、快川和尚だけは端然と坐り、法衣に火が点いても身動きせずに死んで逝ったと言うのですが、全員が焼殺されたのですから誰が目撃したのでしょう?いくら大きな鐘楼門であっても150名余りの僧侶が入れば足の踏み場もなく、パニック状態になって右往左往していれば黙って坐っていられたとは思えません。
さらに「安禅は必ずしも山水を須(もち)いず 心頭滅却すれば火もまた涼し」を辞世として提唱したと伝えられていますが、これは快川和尚のオリジナルではなく碧眼録・四十三則にある禅語です。
この時、六角義弼は逃亡していますから、快川和尚以下の僧侶たちは殺され損でした。
快川紹喜和尚は美濃の国主・土岐氏の出身で妙心寺の43世管長を務めた後、武田信玄公の招きで恵林寺の山主(=住職)になったのです。信玄公に機山の道号を与え、葬儀の導師を勤めたのも快川和尚です。
恵林寺に入ってからは美濃の斎藤氏と武田氏の外交交渉の仲介を行うなどの活躍をしていますが、甲斐には六角のほかにも斎藤道三に追われた土岐頼芸や尾張統一で信長と争って敗れた織田一族も亡命しており、それらを束ねる役割も果たしていたのかも知れません。
ちなみに伊達政宗の師である虎哉宗乙和尚(大河ドラマ「独眼竜政宗」では大滝秀治さんが演じていた)は恵林寺での快川紹喜和尚の弟子です。
  1. 2014/04/02(水) 09:33:59|
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