fc2ブログ

古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

4月9日・アメリカ南北戦争が終戦した。

1865年の明日4月9日にアメリカ南北戦争が終戦しました。
日本人は単純にリンカーン大統領は奴隷を解放した偉人として尊敬し、この戦争も奴隷解放に反対する南部を制圧した正義の戦いと理解(誤解?)していますが、アメリカ人から聞いた大統領の人物像や戦争の評価はかなり違いました。
南北戦争が起った背景には奴隷解放政策の賛否以前に経済構造とそれに伴う外交・貿易に対する考え方の違いにより、同一国家であることに無理が生じていたのです。
北部は約50年前の対英戦争の結果、機械の輸入が途絶えたため工業化が進んでいて、製品を自国内で使用させるためには貿易を制限する方が好ましく、逆に南部は綿花を中心にしたプランテーション農業が盛んなため、これを欧州に輸出する必要がありました。
さらにフランスからルイジアナを購入、メキシコから独立したテキサスとカリフォルニア、さらにニューメキシコ、ユタを併合したため州が増加し、各州から2名選出される上院議員の数が増え、議会内の勢力分布が不安定になっていたのです。
確かに1860年の大統領選では奴隷制が争点の1つでしたが、当選したリンカーンさんも私有財産である奴隷の解放には踏み切れませんでした。しかし、南部各州ではプランテーションを維持するために必要不可欠な労働力=黒人奴隷を失う不安が広がり、ついにはサウスカロライナから始まり、ミシシッピ、フロリダ、アラバマ、ジョージア、ルジアナ、テキサス州が合衆国からの脱退を宣言し、アメリカ連合国(Confederate States of America=CSA)を結成したのです。ちなみにフランスはこれを独立国として承認しました。
1861年3月4日にリンカーン大統領が就任すると4月12日に開戦しますが、するとバージニア、アーカンソー、テネシー、ノースカロライナ州も連合国に合流しました。
当時のアメリカの常備戦力は陸軍が1万6千名程度、海軍は北部側にしか軍港がなく、人口も北部が2200万人、南部は900万人程度で圧倒的に北部が有利だったのですが、今も人気があるロバート・E・リー将軍など多くの有能な指揮官が南部へ走ったため戦闘が長引くことになりました。
北軍は海軍を使って南東部に上陸して州都・リッチモンドに迫りましたが、リー将軍の軍によって退却させられ、その後も南部各地で敗退しましたが、太平洋側ではこちらも人気があるユリシーズ・グラント将軍によって北軍が勝利を収めていました。
戦局の打開を図るためリンカーン大統領が行ったのが奴隷解放宣言で、これを戦争の大義名分にすることにより奴隷制を前近代的であると批判していたヨーロッパの世論を獲得し、南部・アメリカ連合国は支持を失うことになりました。
1864年にグラント将軍が北軍の総司令官に就任すると一時期はワシントンD・Cにまで迫っていた南軍は敗退を重ね、圧倒的な陸海軍戦力によって追い詰めた結果、1865年4月3日に首都・リッチモンドが陥落し、9日にリー将軍が降伏したことにより戦争が終結したのです。
英語で内戦は「Civil War」と言いますが、アメリカでは南北戦争を「The Civil War」と定冠詞をつけています(ただし、外国では「American Civil Wa」です)。
動員された兵力は北軍・156万人、南軍・90万人ですが戦死・戦病死者も北軍・47万人、南軍・32万1千人で、これはアメリカの戦史上、最大の死者数です。
この終戦は日本の大政奉還の2年前で、その結果、余った中古武器が大量に薩長土肥へ渡り、フランスから新品を買っていた幕府を圧倒することになりました。
今でもアメリカ人はリー将軍やグラント将軍のことを日本人の戦国武将のように語っていますが、敗軍の名将・リー将軍は誰になりますか?
(4月14日「日記(暦)」が続編になります)
  1. 2014/04/08(火) 09:35:38|
  2. 日記(暦)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<4月14日・リンカーン大統領が狙撃された。 | ホーム | 4月8日・灌佛会、花祭り、釋尊の降誕会>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://1pen1kyusho3.blog.fc2.com/tb.php/1501-8537f6d5
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)