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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

4月21日・レッド・バロン=リヒトホーフェン男爵が戦死した。

1918年の明日4月21日、第1次世界大戦で敵味方双方からレッド・バロンと称賛された撃墜王・マンフレード・アルブレヒト・リヒトホーフェン男爵が空中戦でオーストリア軍の対空射撃を受けて戦死しました。騎兵大尉・25歳でした。
野僧は現役時代、リヒトホーフェン男爵を崇敬していたパイロット(2尉)から暗記するほど詳細な伝記を聞きました。そのパイロットは「大空のサムライ」坂井三郎を尊敬する同僚がFー104J戦闘機をゼロ戦色に塗装したのに倣い、「自分の愛機を赤にしたい」と言っていましたが、「それでは迷彩にならない」と却下されていました。
彼は「リヒトホーフェン男爵は第1次世界大戦に於いて撃墜80機、非公認2機と言う前人未到の偉業を達成した」と熱弁を奮っていましたが、第1次世界大戦が空中戦の始まりですから、どんな記録でも前人未到でしょう(と言って怒られました)。
リヒトホーフェン男爵は1892年5月2日に現在のポーランであるシェレジエン地方を領していたプロイセン貴族の長男として生まれると男爵家の継承者として厳格に育てられたのです。11歳で士官候補生になると19歳で任官し、槍騎兵となりました。
1914年に第1次世界大戦が勃発すると東部戦線に赴き、騎兵として偵察任務などに当たっていたのですが、ロシア領内で敵兵に包囲され、危うく脱出したものの自宅には戦死の公告が届き、帰還すると葬儀の準備が始まっていたそうです。その後、西部戦線に転戦しますが互いに陣地に籠って対峙する膠着状態で騎兵の活躍の場がなく、心機一転、飛行訓練所への入校を希望しパイロットへの道を歩み始めたのです。当時、飛行機の主な任務は偵察と砲撃の弾着観測で、リヒトホーフェン男爵も1915年にロシア戦線での偵察任務に就きましたが初の撃墜を経験しています。
戦争が科学技術発展の原動力であることに変わりはなく、飛行機も急速に発達して大型の飛行機から爆弾を投げる爆撃などの戦闘行為が始まり、やがて上空でパイロットが拳銃やライフルを射ち合う空中戦も頻発するようになって、単座式で高速度、機関銃を装備した戦闘機が開発されたのです。リヒトホーフェン男爵も空中戦に参加しましたが、当初は戦果が上がらずエース・パイロットであったベルケに教えを乞うています。その時、「近くに寄って射て」と言われたそうですが前述のパイロットも「ミサイルの時代になったと言っても最後は空中戦だ」と座右の銘にしていました。
そんなある日、飛行訓練中にバランスを崩して墜落し、それで「突然に飛ぶコツを覚えた」そうです。後は主にイギリス軍機を相手に撃墜記録を重ねていきますが、その度に空中戦の日付と敵機の機種を刻んだ銀杯を作らせ、これは戦争の長期化により銀の入手が困難になるまで続けられたとのことです。
そして、前日に80機目の撃墜を記録したリヒトホーフェン男爵は3枚翼のフォッカーDr・I425/17に搭乗し、フランスのヴォー・シュル・ソンム近郊の上空でイギリス軍と遭遇し、空中戦で逃げる敵機を追う間に敵の領域に入り、地上のオーストリア軍の機関銃の銃撃を胸と腹に受けて戦死したのです。遺体が身に着けていた財布には非常に美しい女性の写真が入っていたそうですが、それが誰であったのかは不明です。
リヒトホーフェン男爵の遺体はフランスのベルタングル墓地にプロペラを改造した十字架を立てて埋葬されましたが、終戦後の1920年に母親の熱望で故郷へ改葬するため発掘されたものの途中のドイツで国葬と共にベルリンに埋葬されました。この墓石には第2次大戦のベルリン陥落の戦闘での弾痕が残っているそうです。また撃墜記録の銀杯を含む遺品はソ連兵によって持ち去られ、行方不明になっているとのことです。
  1. 2014/04/20(日) 00:12:07|
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