昭和34(1959)年の明日5月12日に堀悌吉海軍中将が亡くなりました。76歳でした。
堀中将は明治16(1883)年8月16日に大分県杵築市の農家の次男として生まれましたが10歳で士族である堀家の養子になり、地元の杵築中学校(旧制)を卒業後、32期生として海軍兵学校に入りました。この32期には連合艦隊司令長官・山本五十六大将がいて肝胆相照らす盟友となったそうです。堀中将は入学時が192人中3番、卒業時はトップだっただけでなく、同期たちから「海軍兵学校創立以来、未だ見ざる秀才」「上様の傑作の1つは堀の頭脳」と称賛されるほどの卓越した人材だったのです。ちなみに山本大将は入学時2番、卒業時13番であり、同期からは塩沢幸一(養命酒の社長の息子で入学時トップ、卒業時次席)、嶋田源太郎、吉田善吾の4人が大将になりました。
32期の卒業は日露戦争真っただ中の明治37年であったため恒例の遠洋航海は行われず、堀少尉候補生は「三笠」乗員として日本海海戦に参加しました。この時、双眼鏡で見た集中砲火を浴びて沈没寸前のロシア艦が掲げていた信号旗が「降伏だったのではないか」との疑問を抱いたことから「戦争そのものは悪であり、凶であり、醜であり災いである。然るにこれを善とし、吉とし、美とし、福とするのは、戦争の結果や戦時の副産物などから見て、戦争の実体以外の諸要素を過当に評価し、戦争の実体と混同するからにほかならない」「軍備は平和の保証である」「海軍はどこまでも防御的なものであるべき」との思想を抱くことになったのです。堀中将は兵学校の生徒の頃から自然の中の散策や佛閣神社への巡拜、日本舞踊などの伝統文化を愛する閑雅風流な人物だったそうなので、思いがけない大勝利に舞い上がる単純な軍人たちとは感性が違ったのでしょう。
主力艦の保有数を制限するワシントン条約会議に随員として参加すると加藤友三郎大将の片腕となって、この思想を実現するべく努力します。続く補助艦のロンドン条約には盟友・山本五十六少将が参加しました。この会議では補助艦の総排水トン数でワシントン条約と同じ対米比7割を主張する日本と6割で譲らないアメリカの間で激論が交わされたのですが、日本側はアメリカばかりではなく国内で軍縮そのものに反対する艦隊派こそが難敵だったのです。日本側は7割を切ることでアメリカ側の妥協を引き出し、巡洋艦1隻分にあたる6割9分5厘で締結にこぎつけたのですが、それでも艦隊派は7割を下回ったことを徹底的に批判しました。これに山本少将は「アメリカは太平洋と大西洋の二正面作戦だから半分でも戦える」とイギリス海軍の存在を無視した名言=詭弁を弄しています。一方、艦隊派はそろそろ認知症が始まっていた軍神・東郷平八郎元帥を担ぎ出して批判させようとしたのですが、「訓練に制限はあるまい」との金言を吐くだけでした。
そのうっ憤晴らしのように行われたのが愛知県稲沢市出身の大馬鹿野郎・大角岑生による条約派潰しの「大角人事」で、堀中将も予備役へ編入され、この比類なき人材は戦争に向かう国難から遠ざけられてしまいました。
堀悌吉中将は海上自衛隊の生みの親でもあり、陸が警察予備隊と言う奇胎から保安隊を経て自衛隊に変質していったのに対し、海上自衛隊は始めから海軍として組織作りを行い、驚くほど帝国海軍の伝統を継承できているのも、堀中将の巧みな外交交渉と豊富な人脈の賜物と言われています。
- 2014/05/11(日) 09:59:27|
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- 2014/05/12(月) 09:06:17 |
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