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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

第20回月刊「宗教」講座・弘法大師空海

最近、身の程知らずにも鎌倉佛教のお祖師様方を語ってきてしまったので、ここはやはり我が国佛教界のスーパースター・弘法大師・空海さまに登場していただきましょう。ただし、文中の呼び名は日本人の信仰を表している「お大師様」とさせていただきます。
野僧は以前、お大師様の生誕地である香川県(讃岐国)善通寺市に長期間滞在したことがあるのですが、東に讃岐富士、西に五岳山がそびえる(ただし海抜は低い)静かな美しい土地に名刹・善通寺が鎮座する素敵な街でした。
そこで感動したのは地元の方たちが弘法大師と言う大師号や空海と言う僧名、さらに一般的なお大師様でもなく、幼名の「真魚(まお)さん」と呼んでいたことです。
五岳山の崖を指差して、「あそこから真魚さんが飛び降りたら天女に救われて、自分に果たすべき役割があるって覚らはったんや」と説明してくれたのを聞いて、「やはり生まれ故郷だなァ」とシミジミ温もりを噛み締めたものです。
お大師様は唐に渡る前、都で学究に打ち込み、四国の山中では激しい修行に明け暮れていたそうですが、こうした地元の人々に接すると、時にはこの故郷に立ち寄り、疲れを癒し、精気を養ってまた修行に向かったのではないかと感じました。
一方、「臨済録」には唐代の禅匠・南嶽壊譲が馬祖道一に与えた「莫帰郷(帰郷するなかれ)」の言葉が記されています。
「勧君莫帰郷 帰郷道不行 並舎老婆子 説汝旧時名(君に帰郷しないことを勧める
帰郷すれば道は行われず となりの家の老婆は 君の幼い頃の名前を呼ぶだろう)」
これは道元も正法眼蔵に引用して弟子たちに説いていますが、肉親の情などにとらわれていては、佛道を極めることは出来ないと言う教えでしょうけど、お大師様にはそれとは逆のエピソードが遺されています。
紀州の高野山の麓には九度山と言う関ヶ原の合戦の後、真田昌幸、幸村父子が流されたことでも有名な土地がありますが、地名の由来はお大師様と母上様の物語です。
お大師様が高野山に金剛峯寺を開いた後、老いた実母が息子を頼って来たものの高野山は女人禁制のため立ち入ることが出来ず、この地に住んだのです。
そして、お大師様は月に9度、山を下りて母親を訪ね、孝養を尽したと言うのです。
これなどは母の看病のため修行に入ることをためらっていた若者に「母親に佛道を妨げる大罪を犯させてはならぬ」と言い放った道元に聞かせてやりたいような人情話ですが、その辺りがお大師様と道元の生い立ち、器の違いのでしょう。
ところでお大師様と道元の肉親の情の違いには個人的資質の問題もありますが、それ以上に日本の佛教の伝来に関する順番違いと言う大きな背景があるのです。
日本では最初に法相宗(興福寺・薬師寺)、華厳宗(東大寺)などの哲学的な佛教が伝来し、後に鑑真和上によって律宗がもたらされて奈良を学究都市化しましたが、その現世の救いとはかけ離れた机上論に対する不満に応えて、伝教大師やお大師様が唐に渡り、天台宗と真言宗を持ち帰り平安佛教が成立しました。
そして伝教大師の天台宗・比叡山から禅宗や念佛宗、法華宗の鎌倉佛教が派生したのですが、その出どころである中国では順序が大きく違います。
中国では先ず禅宗がありましたが、その出家者の求道のみが根源的救済への道とする思想と悟りに至る困難さに対する疑問があり、その回答として易行(軽易な修行)の念佛が生まれ、さらに死後の救済(極楽往生)だけでは満足しない中国人への現世利益の教えとして妙法蓮華経の天台宗が流行したのです。
ですから前出の南嶽懐譲、馬祖道一や六祖慧能、百丈懐海などの中国禅の巨匠たちは奈良佛教の行基や鑑真和上と同世代になります。
そして、祈りによる現世利益だけでは納得しない現実主義者の要求に応えて当時、最先端の天文・気象学、医学、建築学、鉱物学、食品学などを網羅した総合的な教えとして密教が東西交流もあり高度な文明国であったインドから伝来しました。
それを修めてきたからお大師様は故郷・讃岐での満濃池の建設を始め(アーチ式ダムで堅固な排水溝つきです)、全国各地で鉱山や温泉を掘り当て、薬草の知識を広め、病人を治療し、天体気象を操った伝説を数多く全国各地に遺せたのです。
これは高野聖(こうやひじり)と呼ばれる旅の僧侶に引き継がれ、全国各地の津々浦々にまで「お大師様伝説」を広げていくことになりますが、惜しむらくは日本人の宗教観、教養が未成熟であったため、この特産開発、殖産興業、技術指導とも言うべき業績は現実離れをした超能力による奇跡の伝説にされてしまいました。
真言密教の根本経典「大楽金剛不空真実三摩耶経(いわゆる般若理趣経)」も本来は欲を悪しきものとして捨てるのではなく、人間が持つ根源的な生命力として正しく燃え上がらせれば、世界を淨化し、力を湧き立たせることが出来ると言う現代人にも納得できる教えなのですが、単なる加持祈祷のアイテムになってしまい、今では護摩を燃やしながらの読経が真言密教のイメージになっています。
この「大楽金剛不空真実三摩耶経」の貸し借りを巡る確執が、我が国佛教史上、最大の悲劇とも言うべき伝教大師・最澄様とお大師様の断絶になりました。
比叡山では「全てを教えては不利になるから最後のネタを隠した」「最澄さまの明晰な頭脳をおそれて近づくのを止めた」などと批判していますが、「最も澄んだ」と言う名前を受けられた伝教大師と「空と海」と言う大自然の無限の広がりを名にされたお大師様では、同じ経典を学ばれても理解は異なり、大自然を修行の場とされてきたお大師様だからこそ生命の躍動的な営みも理解できるのであって、学究肌の伝教大師が机上論に陥ることを心配されたのかも知れません。
確かに、この「欲を燃え立たせる」と言う教えを「性欲」にこじつけて、女性を迷わす密教の悪僧の物話は昔からあり、近年では大奥モノの定番になっています。
伝教大師はそれまで奈良の東大寺、大宰府の観世音寺、下野の薬師寺の戒壇院に独占されていた佛戒を三聚淨戒と大乗菩薩戒と言う日本独自のものに変更して、比叡山に戒壇院を設けしましたが、その三聚淨戒「摂律儀戒」「摂善法戒」「摂衆生戒」や十重
禁戒「不殺生戒」「不偸盗戒」「不邪淫戒」「不妄語戒」「不酤酒戒」「不説過戒」「不自讃毀他戒」「不慳法財戒」「不瞋恚戒」「不謗三宝戒」とは別に、真言宗では在家向けとは言え「不殺生」「不偸盗」「不邪淫」「不妄語」「不綺語」「不悪口」「不両舌」「不慳貪」「不瞋恚」「不邪見」の十善戒を与えています。
ここで特徴的なのは「不酤酒戒」がないことで、御遺告二十五条では「酒はこれ治病の珍、風除の宝なり」とまで言われいますから、やはり深山幽谷に分け入る山岳修行では酒が身体を温め、疲労回復、滋養強壮の効果を持つことを認めておられたのでしょう。ただし「酒は百薬の長」の出典は「漢書・食貨志」です。
ところで、お大師様は唐に渡られる前に、その天才的な頭脳での学究と山中での激しい修行により、すでに佛教の境地に到達されておられたのではないでしょうか。
それを百花繚乱の中国佛教界の中で体系づけ、証を受けるため渡海された。だからこそ恵果阿闍梨は初対面から半年で大悲胎蔵の学法灌頂、翌月には金剛界の灌頂、さらに翌月には伝法阿闍梨の灌頂を許し、「遍照金剛」の灌頂名を与えたのでしょう。
野僧は日本人の殊更に純化だけを尊ぶ得意な国民性の背景には、「悟り」と言う目的を否定して坐禅を安楽の法門=ストレスを解消するリラックスの方法にしてしまった道元の曹洞宗と法然坊源空上人が極楽往生を願う行(ぎょう)として選択された「南無阿弥陀佛」の念佛を決定事項である阿弥陀佛の救済への感謝とした親鸞聖人の浄土真宗が全佛教徒の半数を占めていることも大きいと考えています。
道元と親鸞聖人はどちらも公家出身であり、汗を流し、泥に塗れ、戒律上の罪を犯しながら生活の糧を得る庶民の苦しみを味わうこともなく育ち、だから他のお祖師さま方のように日常生活に根ざした救済ではなく、傍観者としての独善的な立場から究極の見解(けんげ)を説いたのでしょう。
かつて野僧は比叡山の居士林で、指導に当たっていた所長老師が余りに口汚く各宗派の御祖師方を「挫折者」「恩知らず」呼ばわりするのを腹に据えかねて、ミーティング後の質疑応答の時、わざと「人間には本来佛性があるのになぜ修行をするのですか?(道元はこの疑念への解答が得られず比叡山を下りた)」と訊いてみました。
すると所長老師は「君は道元と同じ事を訊くなァ」と言いながら「人間は鏡のようなものだ。常に塵や埃を払い、磨かなければいけないのだ」と答えたのです。
そこで野僧が六祖・慧能と神秀の問答を引きながら「元より明鏡無くば、何が塵や埃をひくのか?=始めから鏡がなければ、何に塵や埃が着くのか?」と再挙(再回答)を求めたところ、いきなり「お前は生意気だ」と逆切れしました。
後から野僧が得度を受けた僧侶だと告白して意気投合し、色々ご教示をいただきましたが、中でも「禅僧はやたらに彼岸の世界を語りたがる。しかし、人間は究極(=悟り)のことを知らなくても、右左、進む止まるを間違わなければ生きていけるものだ」との言葉は、野僧が済度衆生を考える上での指針になりました。
日本の佛教が中国同様の成熟過程を踏んでいれば、鎌倉佛教が成立する意味合いも異なり、比叡山は多様な学説を発信し続け、高野山はそれを吸収・包含しながら実践する純化よりも多様性を根差し、育てる力となっていったことでしょう。
そのためには最澄と空海の両巨頭の唐への留学と法然坊源空上人が学問を究めた比叡山の成立などを菅原道真による平安時代の鎖国や平清盛の日宋貿易の再開と整合させる必要がありますから日本史そのものを御破算から積み直すしかありません。
承和二(八三五)年三月二十一日(太陰暦)に入寂(逝去)されたお大師様は、高野山の洞窟の廟の中で修行をされておられていると伝えられ、数年後、開けてみたところ髪と髭が伸びた姿で坐っておられたそうです。
つまり亡くなったのではなく姿を隠されたと言うべきかも知れません。
南無大師遍照金剛

大楽金剛不空真実三摩耶経=般若理趣経(現代語訳・抜粋)
この世の世界は常住不変のものと人は見る。しかし心静かに省みれば、世界の万物は時の流れにしたがって、いつかは姿を変えていることに気づかれよう。何故ならばすべてのものは空であって、その本性は実体がないからだ。この真理に気づいたならば、確信に満ちた自己の考えも、せまい視野に閉ざされた一つの観方に過ぎないことが分るのだ。眼にうつる万象は、あらゆる知識の縁ではあるが、静かに思いをめぐらせば、それは無相の大海に生じた一つの波に過ぎなくて、移り、過ぎ去り、変わりゆく姿であることに気づかれよう。何故なら眼にうつるすべてのものは、仮の世界の現れであるからだ。この真理に気づいたならば、かたくなな自己の知識にこだわることは、自ら真実の世界に窓を閉ざしていることが分るのだ。
宇宙のすべてのいとなみは、永遠の摂理のもとに動かされていく。何故ならば天地自然の偉大な働きは、私利私欲を超えた無願性の中にあるからだ。この真理に気がつけば、自己の願いのせまさが分り、純粋創造の大願への新たな行動は生じよう。
現実の世界も、眼にうつる世界もそこより生ずるすべてのいとなみも、清らかな心をもって、あるがままに観ていけば、自己をとりまくすべてのものは光り輝く報土となろう。何故ならば世界は本来清浄で、浄穢と観るのは我が分別であるからなのだ。この真理に目覚めた人は真実智恵、般若波羅密に生きる人なのだ。
わが世界は人それぞれに自己の立場を主張する故、愛憎の渦に巻き込まれはするが、人若し般若の教えを体したならば、この現実の世界を離れて理想の彼岸はなく、すべては浄穢を離れた平等一如であることが体得されよう。それ故般若の働きはせまい自我の殻を打ち破り、正邪善悪の分別を超え不滅金剛の意志を湧き出させ、確信に満ちた人生を歩ませるのだ。
わが人生は苦悩に満ち溢れてはいるが、人若し般若の教えを体したならば、この苦悩の世界の真っただ中に無上の宝庫が見出されよう。それ故般若の働きはすべての世界の中に神秘の宝を見出させ、深い心を育んで光り輝く報土を建設させるのだ。
わが見る世界は幻の如く、また陽炎のように消え去るものではあるが、人若し般若の教えを体するならば、この世界を離れて真実を得ることは出来ないのだ。それ故般若の働きは清浄な原初の心に立ち帰し、幻の中に在りながらも、物の観方を大きく変えて真理の世界に目を開かせるのだ。
弘法大師堂小庵隣りのお大師様
  1. 2014/06/02(月) 10:11:13|
  2. 月刊「宗教」講座
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