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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

6月10日・沖縄戦で賀谷支隊が全滅した。

昭和20(1945)年の明日6月10日に沖縄戦に於いて勇名を馳せた独立歩兵第12大隊=賀谷(かや)支隊が最後の突撃を敢行して全滅しました。
賀谷支隊は賀谷興吉中佐が指揮し、4月1日に米軍2個師団が沖縄本島中部に上陸して以降、日本軍が主力を嘉数高地に配備する中、4日間ほぼ単独で戦闘を行い、侵攻を遅滞させると共に巧みな退却により日本軍が待ち構える陣地に誘導して行ったのです。
この支隊の兵員の多くは3年から5年の軍歴を有する古参兵で、昭和19年に沖縄に配置されるまで中国戦線に於いて匪賊との非正規戦闘なども経験しており、団結が極めて固く、指揮官・賀谷中佐との間には強固な信頼関係があったようです。さらに沖縄に配置後は一貫してこの地域を担当していたため陣地構築や警備任務を通じて地形地物を熟知していたことも勇戦につながりました。
現代戦では遅滞戦闘を「あらかじめ配置した部隊が侵攻してくる敵に砲火力を加え、優越した機動力による打撃により逐次行動を妨害する」と定義していますが、賀谷支隊には米軍に打撃を加えるだけの砲火力はなく、移動は徒歩なので機動力も戦車や車両を縦横に駆使する米軍には敵いませんでした。
それでも賀谷支隊は米軍の移動に先回りして、予め選定していた高台、難路などから攻撃を加え、自分たちが大陸で苦しめられた非正規戦のような神出鬼没の戦闘を展開したのです。
この4日間の戦闘で賀谷支隊は戦死した将校11名、下士官兵231名、負傷者不明(大半が負傷していたため)の損害を出しましたが、米軍はこの指揮官を「(間もなく敗れる)日本軍でなければ世界的名将になる人材だ」と高く評価し、「殺すには惜しい。できれば生け捕りにせよ」と指示し、賞金が掛っていたと言う伝説もあるのです。
その後も賀谷支隊は転戦を続け、嘉数高地での激闘、首里司令部陣地への攻撃、さらに南部への戦闘拡大を後方撹乱と言う形で米軍を苦しめ続けましたが、兵員が10名に足らない状況に至り、最後の突撃を決意したようです。
この時の賀谷支隊の模様には多くの伝説があり、その1つでは米軍の通訳になっていた沖縄県民の若者が賀谷中佐と面談し、壕の中にいた文民(非戦闘員)を引き渡した後、兵たちに投降を許してから決意を確かめ、自らの水筒の水を末期の杯代わりに回し飲みして突撃を敢行したと言うのです。また賀谷支隊であることを知った米軍は「ルテナンカーネル(中佐)・カーヤ、貴方は十分に戦った。もはや勝敗が決した以上、投降して下さい」と呼びかけたのに対して賀谷中佐は「お言葉に感謝するが、これが日本軍の作法なのだ」と英語で答えた後、突撃したと言うものもあります。真偽は判りませんが、そんな伝説が生まれるほど活躍し、米軍にも敬意を抱かれていたのでしょう。
賀谷中佐は山口県防府市牟礼の出身で子供の頃から「神童」と呼ばれるほど頭がいい子だったそうです。墓所は寺ではない同地区の集合墓地にありますが、戦死後の特別昇任で陸軍少将になっていながら目立たない小さな墓石です。
1つ苦言を呈すると、防府市には航空自衛隊の新入隊員、新任空曹を養成する航空教育隊がありますが、教官要員の誰1人として賀谷中佐が地元出身であることを知らず(名前すら知らなかった)、課程教育にはノータッチだった野僧が唯一、研究していたのです。
  1. 2014/06/09(月) 08:15:56|
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