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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

6月13日・沖縄戦で大田実海軍根拠地隊司令官が自決した。

昭和20(1945)年の明日6月13日に海軍沖縄根拠地隊司令官・大田実少将(戦死後に中将へ特別昇任)が司令部壕内で自決されました。
野僧の前世は沖縄で戦死した海軍中尉でしたから大田司令官に直接お仕えした上、現役時代には警備幹部として航空陸戦隊を育成するため、その先達である海軍陸戦隊についてかなり研究していました。
大田司令官は千葉県長生郡長柄町出身で海軍兵学校の41期ですが、同期にはキスカ島撤退作戦の指揮官・木村昌福中将、駆逐艦によるガダルカナルへの隠密輸送を待ち構えていた米海軍の巡洋艦隊を返り討ちにしたルンガ沖夜戦の指揮官・田中頼三中将などの世界的な名将や一刀正伝無刀流の4世宗家ではあるものの第1航空艦隊参謀長としての作戦指導にまでその発想を持ち込んで失敗した草鹿龍之介中将などがいます。
大田司令官は日露戦争以降、陣容を整えていった海軍陸戦隊の中心人物で、大河内伝七中将が指揮した第1次上海事変や2・26事件の鎮圧部隊などに参加し、さらにミッドウェイ作戦では航空攻撃の後に計画されていた上陸・占領部隊の指揮官でした。
沖縄では約1万人の兵力を指揮し、豊見城村の司令部壕を根拠地にして現在の那覇空港がある小禄地区を担任していました。
アメリカ軍は本島中部に上陸して南進しましたが、島を完全に包囲していたのですから別の地点から上陸することは思いのままで、断崖絶壁が多い本島南部の地形から言って小禄地区が最適地だったのです。
実際、嘉数高地で攻撃が停滞すると米軍は小禄地区からも部隊を上陸させて首里を挟み撃ちにしようとしましたが、海軍陸戦隊の猛烈な反撃に遭い作戦は頓挫しました。
その後も小禄地区を固く守備していたのですが、5月末になって事前の調整もないまま陸軍は本島最南部の摩文仁に司令部を移し、それだけを知らされた海軍は一緒に撤退するものと判断し、陣地や重火器を破壊した上で南部への移動を開始しますが、そこへ陸軍から「第32軍司令部の撤退を支援せよ」との命令が届き、豊見城村の司令部壕に戻り、破壊した陣地の修復をしながら米軍を迎え撃ったのです。
しかし、火砲は既になく、応急修理しただけの陣地では抵抗にも限界があり、トンネル状の司令部壕内で銃撃戦が続く中、拳銃で頭を撃ち自決されました。
この時、海軍次官に宛てた訣別文を打電していますが、沖縄県民が老若男女を問わず積極的に軍を支援し、多くが自ら戦闘に参加していたことを詳細に述べた後、「沖縄県民斯く戦へり、県民に対し後世特別の御高配を賜らんことを」の1文で締め括っています。
普通の訣別文は「天皇陛下万歳」で終わるものですが、大田司令官は陸軍とは違い県民を戦闘に巻き込むことを極力避け、それでも押し掛ける者には武力紛争関係法(戦時国際法)の趣旨を説いて逃がそうとするような方でしたから、最後にこれだけは言わずにおれなかったのでしょう。
大田司令官は司令部壕内でも髭を剃り、身嗜みに心掛けておられましたから美しい死に様だっただろうと想像しています。野僧はこの1週間前に斥候に出ていた豊見城村の集落で逃げ遅れた母子をかばい、囮になって戦死しました(詳細は「戦士の戦史」でどうぞ)。
  1. 2014/06/12(木) 09:30:26|
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