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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

6月23日 沖縄慰霊の日=長勇参謀長の命日

1945(昭和20)年の明日6月23日、摩文仁の第32軍司令部壕内で牛島満司令官と長勇参謀長が自決したため指揮系統に基づく戦闘が終結し、この日が「慰霊の日」となりました(戦闘は8月15日に日本が降服した後も本島各地で継続していた)。
牛島司令官については戦史研究者の中でも毀誉半ばする評価であり、その否定的見解の論拠の大半は長参謀長の強硬意見に振り回されて無謀な反攻を裁可したため、不要に戦力を消耗し、八原高級参謀が綿密に立案していた「戦略持久」作戦を中途半端にしてしまったことです。つまり沖縄戦の悲惨な戦況の元凶は長参謀長と言うことになります。
長勇参謀長は1895(明治28)年1月19日に福岡県粕屋郡粕屋町で農家の長男として生まれましたが、幼い頃に母親から折檻を受けていて、沖縄戦の最中にも「母ちゃん、痛いよ!」「ごめん、許して」と寝言で叫ぶことがあったそうです。
旧制中学修猷館、熊本陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て28期生として陸軍士官学校に入り、1916(大正5)年12月には陸軍少尉に任官しています。
その後、歩兵連隊で勤務しながら1928(昭和3)年12月に40期生として陸軍大学校を卒業して第48歩兵連隊の中隊長になり、続いて陸軍参謀本部支那科で勤務しますが、橋本励五郎と共に過激派集団・桜会を結成し、閣議中の首相官邸を襲撃し、全閣僚を殺害すると言うクーデター計画=三月事件、十月事件によって検束されました。
ところが帝国陸軍は「過激派青年将校はかなりの数に上り、弾圧してはかえって収拾がつかなくなる」と言う弱腰で、長少佐も台湾の第1歩兵連隊に大隊長として赴任し、翌々年には中佐に昇任して参謀本部支那科勤務、然も陸軍大学校教官兼務になっています。つまりクーデター未遂はお咎めなしだったのです。
続く南京攻略戦では中支方面軍情報主任参謀として参加し、捕虜を「やっちまえ」と処刑するように命じたため松井石根軍司令官に叱責されています(その松井大将は南京虐殺の罪を問われA級戦犯として処刑されました)。それでも順調に昇進を続け、連隊長、師団参謀長、印度支那派遣軍参謀長、歩兵団長などのエリートコースを歴任して第32軍参謀長に就任したのです。
しかし、長勇参謀長に軍人として何か優れた資質があったのかと言えば、むしろ沖縄戦でも見せた先見性や大局的視野のないメンツとハッタリだけの無謀な作戦指導と強引な言動ばかりが目立ち、何を以て牛島司令官が「戦上手」と評していたのか理解に苦しみます。むしろ旅順要塞攻撃で局面でしか戦況を理解できず形式的な作戦指導で多大な犠牲を出した乃木・第3軍の伊地知幸介参謀長に似ているのはないでしょうか。
帝国陸軍では将校士官がエリートコースに乗るためには「1天、2表、3敬礼、4馬鹿、5理屈、6大声」と言う要素が必要だとされていましたが、長参謀長は陸軍大学校を出ているので1の天保銭(陸大修了者の徽章)には該当し、2の命令起案能力は参謀勤務が長いところを見ると劣ってはいなかったのでしょう。3の敬礼には首を傾げるものの人好きする性質だったことは間違いなく、5の理屈は脅迫に近く(沖縄戦では泣き落しだったが)、4の馬鹿と6の大声はその典型です。
結局、帝国陸軍は明治の創設時から派閥抗争が絶えず、特に軍の中核をなした毛利藩は幕末から尊皇佐幕の内部粛清を繰り返してきましたから、クーデターに対してそれ程の罪悪感がなかったのかも知れません。
その狂った組織の稚拙な人事が、この凶暴な人格破綻者を参謀長にまで引き上げてしまい、緻密な作戦計画を無謀な暴走に変質させたのですから、滅びるべくして滅びた国家、軍だったのでしょう。
  1. 2014/06/22(日) 08:44:34|
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