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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

7月2日・金閣寺が炎上した。

昭和25(1950)年の明日7月25日に臨済宗相国寺派の別格地である鹿苑寺の舎利殿(いわゆる金閣)が放火により炎上しました。
鹿苑寺=金閣寺の舎利殿と言えば金ピカのイメージですが、焼失する前は金箔が完全に剥がれ落ち、屋根や壁の傷みが進んで、かなり身そぼらしい姿だったのですが、敗戦5年後では寺、宗門、市、府、国には修復する余裕もなく放置されていたのです。しかし、この消失によって国や府が支援に乗り出し、地元財界からも多額の寄付が集まり、5年後には現在の金閣に再建されました。幸いなことに明治期に大修理が行われていたため詳細な図面が残っていたため、元の建物に忠実な再建が可能になったのです。
ただ消失前の最上階の天井板は1枚の巨木から切り出した板だったそうで、それだけの巨木を伐採することは自然保護の観点からできず完全とはいかなかったと言われています。また明治期の大修理では確認できなかった金箔の痕跡が、焼け残った建材で検出され、再建では焼失前の状態に戻すのではなく創建時の姿を再現することになり、現在の文字通りの金閣寺になりました。
ちなみに金色の建物と言えば奥州平泉の中尊寺の金色堂(別名・ひかり堂)も有名ですが、金箔はこちらの方が3倍の厚さだそうで、自然光とスポットライトの違いはあっても、確かに金色堂の金金ピカピカの輝きに比べると金閣寺は金ピカにとどまります。
放火犯は現在では舞鶴市になっている日本海に突き出た岬の漁村出身の修行僧見習いで、父は寺院の子ではなかったものの病弱だったため26歳で地元の空き寺の住職になり、その息子であった犯人は優等生ではあったものの吃音があったため、学校での友達つき合いが上手くできず、孤独の中で過ごすようになったそうです。
やがて父の病状が重篤になり、成績は優秀でも孤立癖の息子の将来を心配し、寺が学費を出して修行僧を通学させている鹿苑寺の噂を聞き、住職に後事を依頼したのです。こうして犯人は鹿苑寺に修行僧見習いとして上山したのですが、宗門の花園中学、禅門学院に入学した後、浄土真宗系の大谷大学中国語科へ進学しています。
しかし、元来の孤立癖は寺での団体生活に馴染めず、古参の僧侶から受ける叱責も「自分は嫌われている」と被害者意識で受け止め、次第に寺が疎ましく、特に優美な姿を見せて観光客を集めている舎利殿に憎悪を抱くようになり、ついには放火して、その劫火の中で死のうとしたのですが(=心中?)、果たせず裏山で沈静睡眠薬を飲んで手首を切って倒れているところを発見されて逮捕されたのです。
この事件は三島由紀夫氏の「金閣寺」や水上勉氏の「金閣寺炎上」などの小説や実録記になっています。三島氏の小説では鹿苑寺の住職を犯人が寺に絶望して放火に追い込んだ腹黒い俗物として描いていますが、実際には面識のない寺の息子を預かって大学にまで進学させた人格者であり、放火による服役中も面倒を見ていたそうです。このためか「炎上」と言う題名で映画化された時には寺の名前を驟閣寺=シュウカクジにしています。
この事件の特異さはそれを建てた人物を憎悪するのではなく、建物そのものに嫉妬し、憎悪すると言う心理状態で、山や海などの大自然、絵画や彫刻の美に惚れた者の話は聞いたことがあっても、それで放火し、心中しようと言うところまで追い込まれるのはやはり心が病んでいたようです。放火犯は刑期を終えて間もなく1956年3月7日に肺結核で死亡しています。27歳でした。
  1. 2014/07/01(火) 09:27:59|
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