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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

7月8日・秀吉により刀狩り令が発せられた。

天正16(1588)年の明日7月8日に刀狩り令と、同時に海賊禁止令が発令されました。これは織田信長が目指した「天下布武」を実現する仕上げだったのです。
織田信長が行った数多くの兵制改革の中で最も画期的だったのが兵農分離でしょう。それまでの戦国武将たちは農民を動員して軍を整えていましたが、織田信長は農家の分家にもならない3男4男を兵として雇い、農民には農耕に専念させる代わりに税を納める義務を付与したのです。これにより専業武士の常備戦力化を図り、それまで農閑期に限られていた合戦を常時実行することが可能になったため、旧来の合戦の仕方しか知らない相手は戦力を整える暇がないままに敗北することになっていったのです。
さらに漁民が副業に励んでいた海賊を禁ずることによって農民と同様に今で言う1次産業の従事者は生産だけにいそしみ、反逆の芽を摘むことで富国強兵を実現していきました。ただし、ここで禁止した海賊は瀬戸内海などで活躍した水軍ではなく倭寇を指していたと言う説もあります。
愛知県で使っていた教科書では刀狩りによって集めた刀を鍬や鋤、鎌に打ち替えて農業生産を増加させる施策であったと肯定的にとらえていましたが、共産党系の教職員が多い県ですから、農民が武士の都合で戦に駆り出されるよりも農業生産に専念できて良かったと言う反戦平和・労働賛美の意識があったのでしょう。しかし、この時、所持を禁じられたのは刀だけで、弓や鉄砲、槍は狩りの道具として認められています。
これ以降、日本人は武器と言うものから遠ざかり、一揆を起こすのにも鎌や鍬と竹槍になりました。さらに江戸時代には武士も弱体化が図られていて、刀は戦場刀ではない細身の二本差(大刀と脇差)になり、剣術は乱戦を目的とした自由に振り回す討ち物稽古から1対1の果たし合いのための両手構えに変化しました。服装も機能性よりも様式美が重視され、武士の進退作法まで実戦とは程遠いものになっていきました。
とどめに明治政府の排刀令により、いよいよ刀はこの国から姿を消し、徴兵により国民皆兵が進められても依然として「武器は恐ろしい物だ」と言う意識は根強く、戦前は大陸での護身のため個人が拳銃などを所持することは比較的自由であったにも関わらず、アメリカのように「武器を持つ権利=個人が自衛する権利」と言う意識は芽生えませんでした。
野僧が子供の頃には元軍人だった家主が記念に隠し持っていた拳銃や軍刀が蔵から出てくることがありましたが(将校士官の拳銃・軍刀は私物品だった)、それを見つけた家族は「恐ろしい物が出てきた」と慄き、自分で警察に届けることもできず、パトカーを呼んで持っていってもらう間、遠巻きに眺めている状態でした。
結局、この刀狩りによって日本人は武器と一緒に猛々しい野性味も奪われ、去勢されたのでしょう。
  1. 2014/07/07(月) 09:47:47|
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