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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

7月12日・源頼朝が征夷大将軍になった。

建久3(1192)年の明日7月12日(太陰暦)に源頼朝さんが征夷大将軍になりました。
本来、征夷大将軍とは朝廷に仇なす東の敵・夷(えびす)を倒すために派遣された征討軍の指揮官のことで、北へ向かう場合は征狄(せいじゅう)大将軍です。ところで「東夷(とうい)」と言うのは中国が日本人を蔑んだ呼称なので、朝廷が国内で用いるのには「お前こそ東夷の親玉だろう」と皮肉を投げ掛けたくなります。ちなみに「北狄」も「南蛮」「西戎」と同様に四方を見下した中華思想の言葉です。
歴史の教科書で習った知識では源頼朝さんの前の征夷大将軍は坂上田村麻呂さんくらいしか思い浮かびませんが、記紀(古事記+日本書紀)の時代から東で朝廷に従わない敵を征討する者が任命されていたようで、万葉歌人として有名な大伴家持(「海ゆかば」の作詞者)さんも征東(=夷)大将軍として東北に赴いており、宮城県の多賀城で没したとの説があります。
また頼朝さんよりも先に入京し、平家を追討した源義仲さんは「旭将軍」と言われていますが、後白河法皇の命により上洛(この「洛」も中国の都・洛陽から取っている)する鎌倉勢を迎え討つに当たり征東大将軍の任命を受けており、このあたりは後白河法皇の腹黒さが際立ちます。
源頼朝さんはこれに先立って奥州藤原氏を滅ぼしており、その武功を以て征夷大将軍の任命を受けようとしたのですが、平家で懲りていた後白河法皇は武家に力を与えることを許さず、朝廷内の工作を依頼されていた久我通親(道元の父)は受け取った資金を全て着服して何もしなかったので一向に実現しなかったのです。それでもこの年の3月に後白河法皇が薨去すると半年を経ずして征夷大将軍に任官されました。
征夷大将軍は幕府を開くことができますが、これは軍の司令部機構のようなもので、あくまでも武力集団を統括する権限しかなく、徴税も兵糧に限られていたのです。
ところが頼朝さんは治安維持、情報収集などの名目をつけて守護、地頭などを全国に派遣しました。当時の地方行政は朝廷が任命する国司・郡司などと公家や寺院が個人として持つ荘園によりましたが、ここに割り込む形で守護が赴任したのです。それまで国司や郡司が押領司を兼務して治安維持などの任務を負っていたのに代わって、実際の武力を伴っている守護が実権を握るようになり、次第に幕府が統治機構としての地位を確立していったのです。
ただし、頼朝さんの血統は孫の代で途絶えてしまい、征夷(東)大将軍も空位になりましたが、それが復活したのは同じく源氏の足利尊氏さんでした。以降、前例踏襲主義の朝廷では征夷大将軍は源氏の役職と言う不文律ができてしまったため、東照権現・徳川家康さまも源氏の家系を買い取り、遊行僧だった松平家の始祖を新田源氏の出自と言うことにして江戸幕府を実現したのです。
久しぶりに記紀や吾妻鏡を熟読したのでくたびれました。
  1. 2014/07/11(金) 09:48:46|
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