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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

7月17日・山中鹿介の命日

天正6(1578)年の明日7月17日(太陰暦)は昔懐かしい講談本のヒーロー・山中鹿介さんの命日です。と言っても今年は大河ドラマ「軍師官兵衛」で大きく取り上げられていたので後追い記事になってしまいました。
講談本では「山中鹿之介」と言う名前でしたが、実際は「山中鹿介」と書いて「しかのすけ」と読んだようです。
鹿介さんは山陰・月山富田城(現在の鳥取県安来市)を拠点に中国地方の東を治めていた尼子氏の家臣ですが、鹿介さんが死んだ直後から忠臣・英雄として持て囃されたため、「我が家の血縁」と名乗り出る者が続出して確実な出自・系図は不明です。実際、墓所や首塚・供養塔は西日本各地にあり、遺骸をバラバラに切り刻んだのかと思ってしまいます。
伝承によれば幼い頃に尼子氏の家老であった父を亡くしたため側室であった生母に育てられ、元服前から仕えて合戦にも出陣し、8歳で敵を討ち取り、その後も武芸や軍学に励み、13歳の時には兜首を上げ、16歳で敵将を一騎討ちで斃しました。
こうして勇名を馳せたことで尼子氏の家老・亀井氏の養子になったものの間もなく山中家に戻り、ひ弱な異母兄に代わって家督を継ぎました。
尼子氏は中国地方の覇者の座を巡り、西の大内氏と雌雄を決する戦いを続けていましたが、大内氏の先兵として出陣していた安芸国(広島県)の毛利氏と度々衝突していたのです。
その後、大内氏が陶氏の謀反によって滅びると、陶氏を討った毛利元就さんが後継者に名乗りを上げ、尼子氏との戦いを再開しました。
元就さんは「策謀の毛利」の名に相応しいアクドイ手法で、次第に尼子氏を追い詰めていきますが、鹿介さんは武勇を以て孤軍奮闘、元就さんの息子で毛利両川と謳われた吉川元春さんと小早川隆景さんを度々返り討ちにして苦杯を舐めさせています。
奮戦むなしく月山富田城が落城して当主や重臣が毛利の策謀で殺されても、鹿介さんは生き延びて尼子氏再興を目指し、八面六臂の活躍を始めます。
先ず尼子義久さんの出家していた遺児を還俗させて後継者・勝久くんとして担ぎ上げました。こうして城を奪っては敗れることを繰り返し、大河ドラマで取り上げられていた上月城の落城で勝久くんを失い、毛利の軍門に下って吉川、小早川に近づき刺し違えることを狙いましたが、この日、備中国の合(あい・阿井とも書く・現在の岡山県高樑市)の渡しで騙し討ちに遭い死去しました。
講談本などではその勇姿を三日月の前立てに鹿の角を差した兜と表現していることもありますが、山口県岩国市の吉川史料館所蔵の遺品の兜には三日月の前立てだけです。
同じく講談本では三日月に向かって「願わくは我に七難八苦を与えたまえ」と祈った名場面がありますがワザワザ願わなくても十分に苦難を引き受けていましたから、「百難千苦では多過ぎる。七難八苦くらいにしておいてくれ」と言う祈りだったのかも知れません。
  1. 2014/07/16(水) 09:11:29|
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