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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

7月29日・キスカ島撤退作戦

昭和18(1943)年の明日7月29日にキスカ島撤退作戦が成功しました。
キスカ島はアラスカからカムチャッカ半島にかけて並ぶアリューシャン列島の島ですが、アメリカ本土の一部であり、アメリカの本土が外国軍に占領されたのは建国以来、現在に至るまで唯一のことなのです。
この最果ての地・キスカ島とアッツ島を日本陸海軍が占領したのはミッドウェイ作戦の一環で、アメリカ太平洋艦隊を撃滅した上でミッドウェイ島を占領し、さらに本土まで奪取すれば、流石のルーズベルトも国民の支持を失い、和平交渉に応じざるを得ないだろうと言う遠望・楽観に基づく作戦だったようです。
ところがミッドウェイ作戦は大失敗に終わったため、反抗を開始したアメリカ軍は補給線が伸び切っていた太平洋諸島を確固に撃破し始めて、昭和18年1月のニューギニア島ブナに続き5月にはアッツ島の守備隊が全滅しました。
当時、北太平洋地区を担当していた海軍第5艦隊司令長官・河瀬四郎中将はアッツ島の惨状を見て守備隊全員の撤退作戦を計画します。
しかし、キスカ島には陸海軍の5183名の将兵がおり、艦隊を投錨させての一括撤退以外に方法はありませんでした。そこで白羽の矢が立ったのが生粋の駆逐艦乗りで操艦の神様と呼ばれていた木村昌福少将だったのです。
アリューシャン列島を奪還したアメリカ軍はキスカ島の周辺海域に多数の艦艇を配置し、隣りのアムチカ島には航空基地も作っていたため制海・制空権はアメリカ側にあり、日本海軍はこの時期に発生する北太平洋の濃霧だけを頼りにするしかありませんでした(「霧隠れの術」と自嘲していた)。
昭和18年6月29日に木村少将が指揮する第1水雷戦隊は北千島の幌筵を出撃しますが突入地点に至ったところで霧が晴れてしまい、艦橋内の幕僚や各艦長が揃って突入を促す中、木村少将は「戻る。戻ればまた来ることができる」との決断を下しました。
燃料も乏しい中の作戦断念は第1水雷戦隊内、第5艦隊だけでなく連合艦隊、軍令部からも非難轟々でしたが木村少将は意に介せず、九州帝国大学からの学徒出身士官・橋本恭一少尉が出す天気予報を信じて機会を待ちました。
そして濃霧の予報を受けて7月25日に再出撃、この日の13時40分にキスカ島の東側の湾に投錨し、わずか55分間で115名の遺骨を含めた全員を乗艦させ、7月31日から翌8月1日にかけ幌筵に無事に帰還したのです。
この作戦の成功をアメリカ軍は全く知らず(レーダーのエコーを日本艦隊と誤解して砲撃を加え、前日に弾薬の補給のため全艦を撤退させていた)、8月15日に苛烈な砲爆撃の後、3万4千名の大兵力をもって上陸作戦を敢行しましたが、姿を見せない日本軍への恐怖から同士射ちが頻発し、約100名の戦死者と数十名の負傷者を出した上、日本軍の医官が悪戯で残していった「ペスト患者収容所」の看板を通訳が説明すると大パニックになったそうです。
更に日本陸軍も北方軍司令官・樋口季一郎中将がアリューシャンの放棄を決定しながら撤退作戦に消極的だった大本営への不信から一切報告せず、撤退が完了してから知った陸軍上層部が海軍に抗議した実話もあります。
野僧は現役時代からこの作戦を詳細に研究してきましたが、成功の理由は1回目の突入断念と2回目の海図がなく経験者もいないキスカ島の西側を迂回して接近した木村少将の判断に尽きます。これを可能にした木村昌福少将個人については2月13日の命日に語らせていただきましょう(筆者が生きていれば)。
  1. 2014/07/28(月) 09:34:08|
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