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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

8月1日・鳥居元忠の命日

慶長5(1600)年の明日8月1日(太陰暦)に忠誠無比を謳われていた三河武士の中でも別格の忠臣・鳥居元忠さまが討ち死にされました。
野僧が育った愛知県岡崎市矢矧の渡(わたり)町は鳥居家が代々治めた土地で、「鳥居家発祥の地」の石碑があり、幼い頃から子供たちは竹の棒を振り回して合戦ごっこで遊んでいましたが(女の子は守られるお姫さま役)、小学生でも家康公の家臣の名前を知っていて鳥居元忠さまと本多平八郎忠勝さまが2大スターでした。
元忠さまは11歳の時、織田家に奪われた人質から駿府の今川家の囲い者になった竹千代くん(後の東照神君・家康公)の近習として同行し、以来50年以上にわたり一心同体の奉公を続けました。
そんな鳥居家が治めていた渡の地が家康公にとって武田信玄に惨敗した三方ヶ原の合戦と共に生涯最大の危機とも言われる三河一向一揆の舞台になったのです。
一揆の発端は渡の寺に奉納されている米を兵糧として差し出すように命じたことでした。岡崎でも矢矧川の西岸は親鸞聖人の足跡が残る浄土真宗の聖地であるため、忠誠無比の三河武士たちも門徒として佛敵と断ぜられた家康公と戦わなければならなかったのです。しかし、実際には家康公が包囲されても「殿、こちらからどうぞ」と門徒が退路を案内し、混戦で家康公に斬りかかった門徒が「これは殿、失礼」などと言って別の家臣と斬り合いをやり直すような合戦だったそうです。したがって家康公も信長公などとは違い一揆が終った後、浄土真宗の禁教や門徒の弾圧は行っていません。
慶長5年、家康公は上洛を拒む会津の上杉景勝を討伐するため、間もなく起こる関ヶ原の合戦で東軍となる武将たちを引き連れて大坂(当時の地名)を出陣します。
その時、家康公は元忠さまに伏見城代の役を命ずるのですが、豊臣家内でも石田三成などの実務屋=五奉行と対立する武将たちが揃って上方を離れれば、留守を狙って挙兵することは明らかで、真っ先に狙われるのは家康公が譲られて拠点としていた伏見城であることは判っていました。つまり家康公は50年来の忠臣に「死」を命じ、元忠さまはそれを全て承知した上で拜命したのです。
別れの酒杯を重ねながら元忠さまは「これから殿が天下を取るには多くの家臣が必要です。全滅するこの城に家臣を残すのは無駄なので1人でも多く連れて行って下さい」と申し出ています。そして「思えば長い主従の縁(えにし)でございました。これにて今生の訣れとさせていただきます」と言って立ち去り、部屋に残った家康公は声を上げて号泣したと言われています。
家康公が出陣するとやはり石田三成は毛利輝元を総大将に祀り上げて反旗を翻し、4万の大軍を以って1800人が守る伏見城を包囲しました。それでも元忠さまは徳川家家臣・三河武士の誇りを賭けて戦い抜き、13日間の激闘の末に城内で敵方との一騎討ちで斃れたのです。
この時の伏見城内の畳は忠臣の血染めであることから江戸城の伏見櫓の最上階に敷かれて参勤・登城する諸大名の崇敬を集めていましたが、幕末の開城の折に祟りを恐れる西軍が元忠さまを祀る精忠神社(栃木県)に埋めて供養したそうです。
元忠さまは伏見城籠城に於いて1つだけ失策をおかしています。それは徳川方に加わろうと軍勢を率いて来た島津義弘公を追い返し、三成側に走らせてしまったことです。
  1. 2014/07/31(木) 08:31:50|
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