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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

9月22日・「大空のサムライ」坂井三郎の命日

平成12(2000)年の明日9月22日は「大空のサムライ」の著者でゼロ戦の撃墜王・坂井三郎さんの命日です。84歳の長命でした。
野僧は小学校の図書室にあった「大空のサムライ」を同級生たちと回し読みして、幼い頃に見た「ゼロ戦はやと」の記憶と重ねながら競い合って研究したことで、戦史研究をライフワークにする素地が作られたのです(吉田満さんの「戦艦大和の最期」も同様です)。
その後、航空自衛隊に入隊し、航空機整備員として第83航空隊に配属されると坂井さんを尊敬しているパイロット(愛機のFー104Jをゼロ戦塗装にした)がいて、野僧も「大空のサムライ」の読者だと知ると更に体験談を加えた知識を与えてくれました。
坂井さんは大正5(1916)年8月26日に現在の佐賀市西与賀町の農家の三男の次男として生まれ、父親が小学校6年の時に病没したため東京在住の伯父に引き取られますが、成績劣等、素行不良のため青山学院中等部を退学し、実家で農業を手伝うようになりました。
その頃から早い乗り物が好きで、「競馬の騎手になろう」と思ったものの本家に反対されてしまいました。ある日、地元出身の海軍パイロットの展示飛行を畑で見上げ、「海軍飛行少年兵」を志願しましたが試験に失敗し、「海軍に入っていればヒョッとして飛行機に触ることができるかも知れない」と佐世保海兵団に入営して水兵になります。
戦艦・榛名に配属されていた時、艦載水上機を射出するのを見てパイロットへの夢が甦り、猛勉強の末、年齢制限ギリギリで操縦練習生に合格します。
しかし、霞ヶ浦航空隊に入隊したものの操縦が下手で、単独飛行を許されたのは卒業直前、射撃も駄目でしたが学科だけは優秀だったので、希望通り艦上戦闘機要員になれたのです。
昭和13(1938)年10月5日に大陸で初陣を飾り、96式艦上戦闘機で蒋介石軍のポリカルポフI―16戦闘機(ソ連製)を撃墜し、撃墜王へ踏み出します。
昭和15年に内地へ帰還し、制式化されたばかりの零式艦上戦闘機に乗り換え、大陸戦線や陸軍の北部仏印進出の支援、さらにソ連から援蒋ルートの遮断など各地で空中戦を繰り広げ、撃墜記録を積み上げて勇名を馳せるようになっていきました。
そしてラボール(ラバウル)へ赴き、アメリカ海軍機との死闘に明け暮れますが、昭和17(1942)年8月7日に戦闘機の編隊と誤認して接近したSBDドーントレス艦上爆撃機の後部銃座から機銃弾を右側頭部に受け、脳神経の傷害で左腕が麻痺、大量出血で意識を失いかけながらも何とか帰還して内地に戻り、横須賀軍病院に入院します。結局、右目をほぼ失明し、左目も視力が低下したため戦闘機パイロットには復帰できず、教官として後輩の育成に当たりました。やがて米軍がサイパン島に上陸すると硫黄島に配属され、戦闘機パイロットに復帰しました。来襲する米艦隊の艦載機相手の空中戦では多勢に無勢で苦戦を強いられたようですが、坂井さんは孤軍奮闘だったと強弁しています。
著書「大空のサムライ」は坂井さんがゴーストライターに語った自慢話を編集サイドが手を加えた武勇伝仕立てになっており、辻褄が合わず戦術上あり得ない虚構、史実にない盲言、さらに個人の好みの依怙贔屓も多く、読み物としては面白いものの戦史の資料としては歴戦パイロットの体験談程度の認識に留めておいた方が良いでしょう。
特に「自分こそが海軍航空隊を代表する撃墜王だ」と言う自画自賛については「蒋介石軍や米軍がまだ弱体だった戦争初期の戦果で、本当に意味の激戦は体験していない」との批判は海軍航空隊関係者に根強く、坂井さんは持ち前の偏屈で自己顕示欲旺盛な気性から身内である海軍への批判も始めたため完全に孤立して、人生を踏み誤り続けてしまいました。
F-104J.jpg
手前がゼロ戦塗装のFー104J
  1. 2014/09/21(日) 08:33:12|
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