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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

10月4日・今村均大将の命日

1968(昭和43)年の明日10月4日に今村均大将が亡くなりました。82歳でした。
今村大将は軍人としての武勲もさることながら占領地での軍政に抜群の人徳と手腕を発揮し、軍政下に在った地域は現在も親日的な国になっています。
今村大将は明治19(1886)年6月28日に仙台で生まれました。祖父は戊辰戦争の折、奥羽越列藩同盟軍の伊達藩参謀を勤めた重臣でしたが進駐してきた薩長土肥軍に恭順しようとしたため裏切り者扱いされ、財産の全てを家臣に分け与えて隠遁生活をしていたそうです。
今村大将は陸軍幼年学校から陸軍士官学校に進んだのではなく、判事だった父の赴任先に転校しながら高校(旧制)・大学への進学を目指していたものの19歳で父が亡くなったため陸軍将校の娘だった母に陸軍士官学校を勧められたのです。
今村大将は9歳になるまで寝小便をしていたため夜中に何度も用便に行く癖があり、士官学校でも寝不足で講義中に居眠りしてしまうことがあったそうです。そのため眠くなると小刀で身体を刺したり、農家でもらった唐辛子をかじって目を覚ましていたのですが、それを知った教官たちは叱責することを止め、黙認するようになったようです。
それでも成績は優秀で、中尉で陸軍大学校に入校しますが、士官学校から申し送りがあった教官黙認の居眠りをしながら首席で卒業しています。
太平洋戦争では第16軍司令官としてオランダ領だったインドネシアを攻略しますが、この時、乗っていた輸送船に日本海軍が敵艦に放った魚雷が命中し、温かい南の海で泳ぐ羽目になったそうです。戦闘では現地の独立運動活動家を使い、日本軍の兵力や戦果を過大に広めて圧迫し、決戦になる前に軍使を送って降服を勧告し、無用な犠牲を出すことなく9日間で占領に成功しています。
軍政においても厳正な軍規の保持を徹底させると同時に、現地人に対しては自由を享受させながら生活面の支援に手を惜しまず、オランダの軍人に対しても俘虜収容所の待遇を可能な限り改善し、民間人には住宅に住むことを許し、外出も自由にさせたことで(国際法上は保護施設に抑留しても合法)、「インドネシアの軍政が甘い」と言う不満を抱いた東條内閣の高官が叱責と指導のため訪れても、かえって「現地人は全く日本人に親しみをよせ、オランダ人は敵対を断念している」と称賛するほどの成果を上げていたのです。
昭和17年11月20日に第8方面軍司令官としてラボール(ラバウル)があるニューブリテン島に着任しますが、現地では長期戦に備えた自給自足体制の実現に励み、田畑を開墾し、薬草となる植物の研究を進め、火山島の硫黄で火薬を生成し、壕を掘って湧き出した温泉で浴場まで作っていたのです。このため現地では紫色のナスや緑色のカボチャなど日本の野菜が収穫されています。
敗戦後、オーストラリア軍の軍法会議で死刑を求刑されますが、現地住民からの嘆願が湧き起こり暴動に発展しそうになったため懲役10年に減刑されました。
今村大将は将官として東京の巣鴨拘置所に収監されたのですが、「元部下たちと一緒に服役したい」と嘆願して、大量の野菜の種を持って収容所があるマヌス島へ向かい、刑期を終えています。帰国後は自宅の庭の一角に建てた謹慎小屋に自分を幽閉し、執筆した「回顧録」の印税で戦死者や刑死者の遺族、元部下たちの生活を支援していたそうです。
それを聞きつけて元部下を騙って金を無心する者にも判っていながら金を渡したそうですから、正に祖父の生き様に倣ったのでしょう。
  1. 2014/10/03(金) 10:29:06|
  2. 日記(暦)
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