今から100年前の大正3(1914)年の明日10月7日に拳聖・ピストン堀口さんが生まれました。
昭和36年生まれの野僧は当然、堀口さんの雄姿を見たことはないのですが、劇画「空手バカ一代」で若き日の大山倍達さんとの関わりが描かれていたため名前と活躍、そして昭和25(1950)年10月24日の悲劇的な死が強く記憶に刻まれました。特に長年にわたり顔面を殴打され続けたことによるパンチドランカーにより、真っ直ぐ歩くことも不可能になっており、迫ってくる列車のライトも揺れる陽炎のように見えていたのではないかと言う解説には当時、やっていた剣道の「面」が心配になってしまいました(実際には飲酒による酩酊と言う説が有力)。ボクサーがはめるグラブは拳を保護し、殴られる側へのクッションと思われがちですが、グラブ自体の重みでパンチの威力が増す一面もあるのです。
後年、自衛隊体育学校に入校してボクシングの練習生たちと歓談した時に堀口さんについて訊いてみるとやはり熱気を帯びた議論になりました(全員が同じ劇画を読んでいた)。
技術的な評価ではカシアス・クレイ(=モハメッド・アリ)に代表される「蝶のように舞い、蜂のように刺す」軽快なフットワークがなく、むしろ足を踏ん張り、防御を捨てて突進する時代遅れなファイティングスタイルとのことでした。
そこでパンチドランカーについて訊くと「あの闘い方であの試合数をこなせばなる可能性は高い」と口を揃えていましたが、ただ驚異的な試合数178と圧倒的な勝利数138、さらにノックダウン勝利数82KOは人間業ではなく、「目標にすらできない」と言うのが共通した認識だったようです。
ピストン堀口さんは警察署長の長男として栃木県真岡市で生まれ、(旧制)真岡中学校では柔道の選手として活躍していたのですが、中学校の先輩である日本ボクシングの父・渡辺勇次郎さんが地元で開いた試合に飛び入り参加して、プロボクサーを相手に2ラウンドを闘い、渡辺さんから度胸と才能を見いだされ、本人もボクシングに魅了されたため18歳で上京して入門しました。そして半月後には初試合でKO勝ちを収めます。翌昭和8(1933)年にはプロデビューを飾り、その年に開催された日仏親善対抗戦で前世界チャンピオン・エミール・プラドネル相手に8回引き分けを果たし、昭和9年には第1回全日本選手権で優勝し、フェザー級の初代日本チャンピオンになっています。この頃の47連勝と言う大記録は勝利数、KO勝利数と同様に現在も破られていません。
その後、昭和11(1936)年にハワイでフィリピン人王者・B・D・グスマンを破り、東洋チャンピオンになりますが、当時、日本にはコミッショナーがなかったため世界タイトルへの挑戦はできませんでした。
ピストンと言う愛称は正式のリング名ではなく、パンチを繰り出しながら突進する姿が蒸気機関車が前進するように見えたことからついた仇名ですが、本名でリングネームの堀口恒男よりもこちらが定着してしまい、東洋チャンピオンの記念トロフィーにもこの名前が刻まれています。
ところで読売巨人軍のV9戦士の堀内恒夫投手の名前とは関係ないのでしょうか?
- 2014/10/06(月) 09:18:41|
- 日記(暦)
-
| トラックバック:1
-
| コメント:1
大山倍達が朝鮮人で、あの「空手バカ一代」に描かれた大山の半生記は、ほぼすべて梶原一騎の創作だったことが判明しておりますね。(小島一志著「大山倍達正伝」に詳しい)
また、大山の著作のほとんどが、真樹日佐夫(梶原の実弟)がゴーストライターだったことを真樹本人が生前に話してます。
いずれにせよ、少年マガジンを読んでいた当時の子供たちは知るよしもなかったわけですが、、、
- 2014/10/06(月) 21:02:36 |
- URL |
- ST生 #-
- [ 編集 ]
真岡市エージェント:貴殿の記事ダイジェストをGoogle Earth(TM)とGoogle Map(TM)のエージェントに掲載いたしました。訪問をお待ちしています。
- 2014/10/07(火) 08:52:27 |
- ケノーベル エージェント