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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

10月18日・本多平八郎忠勝さまの命日

慶長15(1610)年の明日10月18日(太陰暦)は東照神君・家康公を天下人に押し上げた三河武士の中でも最強を謳われた本多平八郎忠勝さまの命日です。
三河武士の気風が脈々と受け継がれている愛知県岡崎市で育った野僧は、「平八郎」と言われると「東郷」ではなく「本多忠勝」と思ってしまいますが、子供のチャンバラごっこでも希望者が多く、やはり1番強い子がやっていたのは名前が持つパワーかも知れません。
愛知県豊川市(旧宝飯郡小坂井町)が本多家の発祥の地とされており、徳川家の家紋とされている「丸に三つ葉葵」は元来、本多家の「丸に立ち葵」を借りたものですが、水面に葵の葉が映っているのを見て家紋を考案したと言われる池も現存します。
忠勝さまは生まれて間もなく父の平八郎忠高さまが討ち死にしたため、叔父・忠真さまの下で育ちますが、幼い頃から松平元康さま(後の家康公)に仕え、12歳で元服して、そのまま桶狭間の合戦の前哨戦であった大高城への兵糧入れで初陣を飾っています。
桶狭間で今川義元が討たれると元康さまは織田信長と同盟を結び、三河の平定、さらに東進を図って今川氏真との戦いに移行しますが、15歳の時の合戦で育ての親の叔父・忠真さまが討った敵の兜首を譲って手柄にしようとすると「人の力を借りなくても自分でやれる」と断り、敵陣に突入して初首を上げたので周囲は感嘆したと言います。
25歳の時の三河一向一揆では門徒から浄土宗に宗旨替えして家康公側で戦いました。
姉川の合戦では優勢な朝倉義景・浅井長政軍を前にこう着状態に入っていた中、単騎で突入を敢行し、それに続いた三河衆の活躍により織田軍が勝利をおさめ、家康公と三河武士の名を世に知ら示すことができました。
その後は武田との血みどろの戦いに明け暮れますが、その中で敗走する徳川軍の殿(しんがり)を務め、その武勇を武田信玄の重臣から「家康に過ぎたるものが2つあり、唐のかしら(=輸入品風の兜)に本多平八」と称賛されています。
逆に長篠の合戦で武田軍を打ち破った後、沈んだ顔をしていたため理由を問われると、「武田家の惜しい勇将たちを数多く亡くした。今後、戦いで血が騒ぐようなことはもうないであろう」と答えたそうです。
小牧・長久手の戦いでは8万の秀吉軍本隊に5百騎で対峙しながら退かず、関ヶ原でも抜群の武功を上げましたが、生涯57度に及んだ合戦でも身体に傷1つ負わなかったそうです。岡崎城内にある龍城神社の祭神の一柱になっておられますが、「事故防止・業務安全」の功徳があるとすれば忠勝さまでしょう。その忠勝さまは小刀で持ち物に名前を彫っていて指を切り、「本多平八も傷を負ったらお仕舞いだな」と言われ、その言葉通りこの日に亡くなったのです。62歳でした。
ただ関ヶ原以降、天下太平の世となると戦陣でこそ力を発揮する真の武将は活躍の場を失い、忠勝さまも不遇であったと言われています。
それでも辞世は「死にともな ああ死にともな 死にともな 深きご恩の 君を思えば」ですから、やはり三河武士は処遇などに関わりなく忠義を尽し抜くものなのです。
それが通じない毛利藩領の防府南基地に勤務したのが野僧の不運でした。 
本多平八郎忠勝「信長協奏曲(コンチェルト)」の本多平八郎忠勝さま
  1. 2014/10/17(金) 09:02:43|
  2. 日記(暦)
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