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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

10月23日・アイヌの英雄・シャクシャインが謀殺された。

寛文9(1669)年の10月23日(太陰暦)にアイヌの大蜂起を指導した英雄・シャクシャインが松前藩によって謀殺されました。  
松前藩主は鎌倉時代から東北地方北部を治めていた南部氏と同族の武田源氏で、津軽地方を治めていた安東氏を征討するように命を受けて赴いたものの逆に手を結び、一緒に津軽海峡を渡って蝦夷地へ逃れたのです。その後、安東氏は津軽に戻り滅ぼされますが、武田氏は蝦夷地で勢力を拡大していきます。しかし、それはアメリカ大陸でヨーロッパ人がネーティブ・アメリカンに行ったのと同様の迫害と搾取の歴史でした。
当時、アイヌには鉄器を作る技術がなく、狩猟用の武器は原始的な石器のレベルで、さらに広大な土地で平和に暮らしていたため組織戦闘の経験も無きに等しく、戦いに慣れたシャモ(和人)にかかっては為すすべもなく服従させられていくしかありませんでした。
その圧政に耐えかねて応仁の乱の10年前には函館付近の大酋長・コシャマインが蜂起しますが、圧倒的な数と地の利、そして狩猟用に入手していた鉄器を使い、勝利を掴みながらも「敵を滅ぼす」と言う発想を持たないアイヌは武田氏の策略にはまり、クシャマインは謀殺されたのです(松前藩の記録では当主・信広と一騎討ちの末、斬られたことになっている)。
それからも松前藩の圧政は続きますが、米の味や漆器、鉄器などの便利さを覚えてしまったアイヌたちは松前藩が独占する内地との交易に特産品を供給する役割を担うことになって行きました。
そんな中、米は取れないが1万石並みと言う特例の大名になっていた松前藩は悪化していた財政の立て直しのため搾取を強め、アイヌも交易のために生きる上での必要量以上の収穫が必要になったことから部族間の狩猟権・漁業権を巡る争いが頻発していたのです。
松前藩はこれに直接介入することは避けていましたが抗争の激化を懸念し、反松前藩の惣大将(酋長)を誅殺して沈静化を図りましたが、かえってアイヌのシャモへの敵愾心に火を点け、日高地方の惣大将であったシャクシャインを旗頭に蝦夷地内の各所で武装蜂起が起こったのです。
この事態に松前藩は幕府に援軍を要請し、津軽藩、南部藩、久保田藩が出兵を命ぜられますが、圧倒的な数を誇るアイヌも弓矢と鉄砲では次第に劣勢へと追い込まれ、松前藩も幕軍の圧倒的な武力を背景に各部族の切り崩しを進め、戦闘の長期化を嫌う松前藩からの呼びかけでシャクシャインとの間に和睦が成立しました。ところがヒポク(新冠町)の松前藩陣所での宴席に招かれて、そこで騙し討ちに遭ったのです。
これ以降、松前藩は交易相手の商人にアイヌに対する生殺与奪権を譲ったため、迫害、搾取は苛烈の度を極め、この悲劇は田沼時代に幕府が蝦夷地開拓に乗り出し、現地調査を行うまで放置されました。蝦夷地を北海道と命名した探検家・松浦武四郎の「知床日誌」には「女性は16、7歳になると国後へ送られ、内地からの漁民などの性交渉の相手をさせられ、男性は奴隷のように酷使されている」と記されています(あくまでも吉田雄兎=清治の「私の戦争犯罪」ではありません)。
  1. 2014/10/23(木) 09:46:12|
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