fc2ブログ

古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

10月28日・従軍カメラマン・沢田教一の命日

昭和45(1970)年の明日10月28日は日本を代表する戦場カメラマン・沢田教一さんが散った日です。
沢田さんの戦場での写真には銃を構えている兵士を前から撮影したモノがありますが、これでは兵士よりも敵に近い位置から銃弾が飛んでくる方向に背中を向けてカメラを構えていることになり、然も撮影対象からも銃撃を受けているはずです。
また1人の兵士を追った作品では、走って伏せて、匍匐して銃を構えての繰り返しを比較的高い位置から撮影していて(伏せている兵士の背中が写っている)、兵士が危険を感じて伏せるような状況でも姿勢を変えていないのです。
素人は銃弾の威力を知らないと思いますが、弾自体は直径7・62ミリ(ベトナム側のAKー47小銃)でも弾丸の周囲には熱い空気の塊が付随し、当に火の玉が飛んで来るような威力があります。その火の玉が何発も間近を通過していく中でシャッターチャンスを見つけ、当時は自動焦点補正ではありませんから冷静にピントを合わせて撮影していたのです。
沢田さんは1936年2月22日青森市の生まれで、県下の名門校・青森高校の出身ですが、歌人で劇作家の寺山修司さんと同級生だったそうです。早稲田大学を目指したものの2回受験に失敗して帰郷、三沢基地前にある小島写真店にアルバイトとして就職したことで運命が変わりました。
小島写真店は米軍の三沢基地内にも出店していて、店員として基地に出入りするようになり、店主の写真家・小島一郎さんの指導を受けながらカメラの腕を磨き、戦場写真家・ロバート・キャパやスナップ写真の大家・アンリ・カルティエ=ブレッソンに憧れるようになったようです。
20歳で写真店の先輩で11歳年上のサタさんと結婚しますが、25歳の時に単身上京し、UPIに職を得ました。ベトナム戦争が拡大した1965年2月1日から1か月間の長期休暇で現地に入り、自費で取材を開始するとUPIサイゴン支局は滞在延長を要請し、さらに1か月取材を継続しました。4月3日に帰国して成果を報告するとサイゴン支局からの要請もあり、7月13日には正式にカメラマンとしてサイゴン支局へ転勤したのです。
その後は前述のような活躍を重ね、銃弾を避けながら川を渡る母子を撮影した「安全への逃避」でハーグ世界報道写真大賞とニュース部門第1位、アメリカ海外記者クラブ賞第1位を授与されました。以降も米軍の装甲車がゲリラの遺体を引きずっている「泥まみれの死」やアメリカ兵2人が両側から負傷した女性ゲリラを連行している「敵を連れて」などの作品を発表し、日本人としては2人目のピューリッツァー賞報道写真部門を受賞しました。
1968年9月になってUPI香港支局の写真部長になりますが、やはり戦場から遠く離れた場所での勤務に馴染めず、1970年1月15日にサイゴン支局に戻って今度はカンボジアのクメール・ルージュの取材に入り、この日、プノンペンの国道2号線で頭部に銃弾を受け死亡しました。愛用のカメラ=ライカは何者かに持ち去られたそうです。
沢田さんはニコンでは戦場の過酷な環境に耐えられず、故障でシャッターチャンスを逃したことがあったため三沢で購入して以来、一貫してライカを愛用していたそうです。
  1. 2014/10/27(月) 09:12:45|
  2. 日記(暦)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<第25回月刊「宗教」講座・沢庵宗彭・前編 | ホーム | 10月26日・明石元次郎大将の命日>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://1pen1kyusho3.blog.fc2.com/tb.php/1962-b8733b7a
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)